2014年12月28日日曜日

無農薬のカンキツが豊作

自分でもビックリなことに、我が農園のカンキツが豊作である。

今年の南薩のカンキツ(ポンカン、タンカン等)はなぜか着果量が少なくおしなべて不作であり、農協に聞いたら「ポンカンは出荷量が例年の3割ほどしかない」と嘆いていた。

ところが、どうしてか我が農園では豊作なのだ。

しかも、もっと意外なことがある。一昨年から私は無農薬・無化学肥料での栽培を開始したので、昨年はもの凄い虫害(リュウキュウミカンサビダニの被害)を受けた。昨年は、なんと果実の8割くらいを廃棄するという悲惨な有様だったのである。そして、このサビダニというやつは、一度発生すると農薬で根絶しないかぎりいなくならず被害を出し続ける、と言われていたので、今年も戦々恐々としていたのだ。

が、蓋を開けてみれば、心配された虫害はさほどでもなく、無農薬としては信じられないくらいキレイな果実が多い。おそらくは天候に恵まれたためと思うが(雨が多いとサビダニの密度が減ると言われている)、農薬の防除を何もしなかったためサビダニの天敵も増えて、圃場生態系のバランスが勝手に適正化したのかもしれない。

というわけで、周りが不作の年にうちは豊作なので大儲けできそうだ…と踏んでいたら、そうは問屋が卸さないようである。何しろ、「無農薬にしたら5年間はマトモに収穫できないことを覚悟しておけ」と有機農業の先輩に脅されて(?)いたので、販路開拓の努力を何もしていなかった! なので、卸先がない。 ポンカンがもう収穫時期を迎えているのに…!

じゃあ農協に出せばいいじゃないか、と言われるかもしれないが、私は農協の基準に沿って栽培していないのでそれは不誠実というものだ。それに実際の問題として、私は収穫前に防腐剤をかけないので、当農園の果実は腐りが早いということがある。防腐剤をかけると2ヶ月くらいは保存ができるはずだが、防腐剤をかけないと1ヶ月くらいしか持たない。だから私が農協に出荷したら、農協の倉庫で腐る可能性があり、そうなると(集荷した果実は他の方のものと混ざるので)他の方の迷惑になる。

それで卸先の算段を今になってつけているところだが、いくら不作の年といっても個人で販路を開拓していくのはなかなか思うようにいかない。農作物の卸を経営している、頼みにしていた友人も「柑橘類は今の時期たくさん出ているし、無農薬といっても普通の人にはさほどアピールしないから無理そう」とか言っていた…。そんなもんなのか。

というわけで、今年はインターネットでの個人販売が頼りかもしれない。既に他の人はバンバン売っているところ、私は1月出荷を行うので今さらだが「予約販売」を開始することにした。みなさん、ご検討をよろしくお願いいたします。

>>【予約販売】無農薬・無化学肥料のポンカン

もちろん、大口顧客は大歓迎である。ぽんかん1キロ300円が当農園の基準価格なので、もしその条件で取り扱ってもよいという業者さんがいたらドシドシご連絡ください。

【参考リンク】ポンカンの本当の旬

2014年12月13日土曜日

「地方創生」にほんとうに必要なこと

先日の記事で、「私は、地方経済を発展させるには国家レベルではどうしたらよいか、ということに関してはある明解な考えを持っている」と書いた。

今回は、それについて少し述べてみたい。

最近「地方創生」が話題になっていて、現在明らかになっている所でいうと「やる気のある地方自治体には交付金をプラスしましょう」という方向性かと思われる(たぶんバブル期の「ふるさと創生事業」で交付金をバラマキした反省だろう)。それは短期的にはさほどの意味はないと思う。しかし長期的には「奮わない自治体の交付金は減額すべし」ということになるかもしれず、それは手痛いことではあるが意味がある。

しかし全体として、巷間言われている議論を見ていると、「地方創生」に本当に必要なことが意識されていない政策であると疑っている。

なぜなら私は、「地方創生」つまり地方経済の発展に必要なことは、逆説的であるが、東京などの大都市の発展しかない、と思っているのである。


おそらく多くの人は、何をバカな! というだろう。それこそ「国土の均衡ある発展」とかいわれていたように、随分前から東京への一極集中をどうやって緩和するか、というのが日本の大きな政策課題だった。「地方創生」が話題になってきたのも、アベノミクスなどで大都市圏の景気が上向きになる中、地方経済が置き去りになっていることが改めて浮かび上がってきたからであろう。

ともかく、「日本の社会・経済はあまりに東京へ一極集中しすぎているので、いつまでも地方経済が浮揚しないのだ」というのがもう数十年来いわれてきたことなのである。

しかし、私は今、それは壮大な誤解であったと言いたい。

なぜか。それは、「地方経済」などというと地方に独立した経済圏が存在しているように思いがちであるが、実際には地方経済というのは大都市の経済に従属しており、ある意味ではその副産物に過ぎないからである。

もちろん「地方経済」と一言で言っても、福岡のような百万都市から、南さつま市のような僻地の小さな街までいろいろある。福岡を大都市の副産物というのも少し過激だろうから(福岡自体が大都市だろう)、もっと穏当に言えば、「農村的地域は大都市に従属した存在である」ということになるだろう。

これは個人的には、農村経済学の基本定理、としたいほど重要な事実である。

農村的地域、つまり田舎(鹿児島県もそれにあたる)で商売をやっている人は、このことは肌で分かっていると思う。文明的な商売を行うためのほとんどの物品や設備は、都会で製造されているからである。そして仕入れ品の価格は、田舎の経済状態(需給バランス)ではなく、それが消費されている都会のそれに応じて決まっているのである。

よって、農村的経済を発展させるには、大都市が豊かになり、その恩恵が受けられるようになることが第一なのだ。

これにはたくさんの反論があるだろう。物事を単純化しすぎだし、脇が甘い議論であることは承知の上だ。

だが考えてみて欲しい。今の田舎がどうして豊かになったのか。私は、「昔はこのあたりはとても貧しくて云々」という話をよく聞かされるのだが、なぜその悲惨な最底辺の生活からそれなりに豊かな生活を送れるようになったのか。

私は「経済発展の根本には「創意工夫」がある」と書いた。 では、昔の人は「創意工夫」がなかったから長い間最底辺の生活に甘んじなければならなかったのだろうか?

だが、伝えられているところによれば、昔の人の方が体は丈夫で、ものすごく勤勉で、しかもかなり前向きに仕事(農業)に取り組んでいたようなのである。今でこそ惰性的組織の代表のように言われる農協だけれども、50年前は農協というのも随分熱い職場で、これからの農業を変えるんだという気概に満ちていたらしい。そういう我々の先祖がどうして貧しかったのだろうか。

答えは簡単である。その頃の日本の都市は、多くの農村を支えられるほど豊かではなかった。都市自体が、貧しかった。もっと素っ気ない言い方をすれば、GDPが低かった。よって、農産物の価格は低かった。現代の社会において、日本の農家よりも遙かにたくさん生産する発展途上国の農家の所得が低いのは、単にその国の購買力(≒GPD)が低いからなのと同じことである。

日本の農業生産高は世界5位くらいの金額があるが、それは農業生産が盛んだ(生産量が多い)ということでなくて、日本が世界で3位の経済大国であるため、農産物が高く買われているからである。

つまり、日本の農村的地域がこの50年で格段に豊かになったのは、日本が技術立国として成長し、貨幣価値が高まり、世界の中での購買力が大きくなって、農林水産物が高い価格で購入されるようになったからなのだ。

もちろん、農林水産物をただ売るだけでなく、それで得た富を投資して地域経済の自給率を高め、生産物を多様化していったことは地方経済にとって重要であった。もしそういうことがなければ、今でもその地域はただ農産物を生産するだけの場所であり続けているだろう。

しかし本質的には、今でも農村的地域の経済は都市に多くを負っている。それは、巨大な購買力は都市にしか存在しないからであり、地域の主要生産物が工業製品へと遷移したとしても、重要な顧客はやはり大都市に違いないからである。地方的都市には、需要が絶対的に不足しているのだ。

商売がうまくいくコツの一つは、いかに優良な顧客を摑むか、である。日本の農村にとって、大都市という優良な顧客が存在したからこそ、農村は地方都市へと発展していったのである。

だから今、「地方が疲弊」しているとしたらそれに東京への一極集中はほとんど関係がない。その原因は単に、この20年続く不況のせいである。優良だったはずの顧客の購買力が落ちているからである。すなわち、大都市の経済が停滞しているからである。

そういう観点でいうと、今ものすごく不安な現象がある。最近、若者が大都会から田舎に移住することが多いということだ。それも夢破れて故郷に帰るわけではなく、才覚と意欲を兼ね備えた有能な若者が、フロンティアを目指して田舎に移り住むのである。というか、私もその中の一人かもしれない。

田舎に住む身としては、どんどん面白い人に移り住んできてもらって、地方を活性化してもらいたいと思う。しかし逆から見ると、今の時代、大都会(ほぼ東京だ)の魅力が、そういう目端の利く聡い若者にとって魅力がなくなっているということになる。これは大変ゆゆしき事態である。

最も創意工夫に溢れ、経済発展の原動力となるべき若者が田舎へ行ってしまい、 大都会には二流の人材しか残らなかったらどうなるのだろう。そんな極端なことは起こりえないだろうが、都会から田舎への人材の流出は一つの象徴でもある。東京はもはや有能な人に見捨てられる都市だということだからだ。

そうなると、若者の移住で短期的には田舎が活性化しても、それは早晩行き詰まることになる。なぜなら、巨大な需要を抱えた購買力ある大都市が存在しない限り、田舎の経済は決して発展しないからである。仮に東京が経済的に沈没すれば、田舎も道連れになることは確実だ。生産資材は手に入らず、高度な機器(PCとか)は高価になり、燃料光熱費は高騰する。そういう中で、田舎においてこれまで通りの生産を行うというのは難しいし、もっと言えば文明的生活を送るということ自体がかなり難しくなるだろう。

繰り返すが、地方経済を発展させるただ一つの方法は、大都市の生産性の向上、これに尽きる。地方がいくら生産性を向上させても、その生産物を買う顧客がいない限り、生産性の向上は無駄になる。悪くすれば、生産性が向上した分だけ人の首を切る羽目になる。経済成長のためには生産性の向上は必須であるが、それはマクロ(大局的)に見た話でしかない。

例えば、鹿児島県でトマトの画期的栽培方法が開発されて、今までの3倍収穫できて品質もよいトマトが生産できるようになったとする。すると、鹿児島県は熊本県との競争に勝って熊本のトマト産業を潰滅させることができるだろう。それにより、鹿児島県はこれまで熊本がまかなってきたトマト需要を奪うことができる。

だがそれが「地方創生」なんだろうか? 今までの3倍収穫できるトマトは、熊本県との競争に勝った後、きっと価格が1/3になるに違いない。経済学はそう予言する(価格は限界費用に等しくなるため)。それで勝ったのは誰なのだろう? トマトの価格が1/3になった消費者なんだろうか? 熊本でトマトを生産していた人は失業し、トマトの価格は1/3になってしまい、地方には誰も勝者がいないように見える。

限られたパイの奪い合いにしのぎを削ることは、消費者の利益にはなるが地方を発展させる原動力にはならない。いくら生産性を向上させても、それに応じて大きくなる需要がないかぎり、その努力は無駄になるからだ。だから、パイそのものを大きくしなくてはならない。そのためには、大都市が繁栄することしか道はないのである。地方のパイは、そもそも小さすぎる。

だから、私は、「地方創生」のために是非とも東京の活性化をしてもらいたいのである。 「東京への一極集中」というが、政策的な投資という観点でみたらそれほどでもない。地方への再配分政策が長く続けられてきたので、むしろ東京への投資はこれまで足りなかったくらいである。東京のインフラは世界の活気ある都市と比べて見劣りする。渋滞は日常茶飯事だし、下水道も時代遅れだ。今こそ東京を魅力ある都市に再生すべきである。オリンピックも控えている。東京が生まれ変わる絶好のタイミングではないか。

そして、「地方創生」に使われるような政策こそ、東京へ向けて使うべきだ。例えば、各種の特区制度は東京でこそ実行してほしい。

そして日本経済の最大の足かせになっている、旧態依然とした経営陣を入れ替える新陳代謝を促す施策が重要だ。私の僅かな経験でいうと、東証1部上場クラスの大企業でも、役員のレベルはあきれるほどである。一方で、50代以下の人にはまともな人が多く、30代以下でいうと人間的にも穏やかで気が利き、真面目で責任感のある人が多い。なにより、インターネットと英語圏への理解が桁違いである。

日本の将来を考えると暗鬱なことばかりであるが、若い人に有能な人が多いというのが唯一の希望である。早いところ上の世代に引退してもらい、若い人が主導権を取れるようになれば東京はもっともっと面白い都市になるはずだ。 そして都合のよいことに東京には大企業の本社がたくさんある。東京で何かちょっとした規制をすれば、ひょっとしてそういうことも可能なのではないか?

文化面でもそれを後押しできるかもしれない。早期退職することが、本当に有能な経営者の証しであるというトレンドができたら面白い。老いてなお現役はいいとしても、引退するまで経営に携わることがみっともないことだという風潮ができないものだろうか。そして人生の後半には、細川護煕のように田舎に隠遁して陶芸をしたり菜園をしたりするのが最高の贅沢だという風にならないだろうか。老人こそ田舎に敬して遠ざけ、都会では若者にチャンスを与えるべきだ。

今、田舎が、有能な若者にとって挑戦しがいのあるフロンティアなのは間違いない。しかし長期的には、大都市が栄えない限り田舎の発展もない。本当に有能な若者には大都会を手中に収める夢を描いて欲しいものである。東京を世界で最も魅力ある都市にすることが、地方の発展にも繋がるのである。

2014年12月11日木曜日

経済が発展する原動力(その2)

(前回から引き続き『発展する地域 衰退する地域』について)

地域の経済発展の大きな原動力が「輸入置換」にある、というのは認めるにしても、多くの地方都市で行われている「工場誘致」もその原動力にならないのだろうか。

日本では(というより世界の多くの都市で)企業の工場を誘致することは重要な経済政策とされている。農村的な地域に工場が一つできるというのは地域経済にとっては随分大きなことで、数百人(または数千人)の雇用が生まれ、それによって人口が増える。また、工場が払う税金(地方法人税や固定資産税)は地方の財政を豊かにする。

特に工場が払う税金は地方政府にとって大きな魅力である。農村的な地域においては住民の住民税というのは微々たるものなので、独自財源の殆どが工場からの納税、というような地域もけっこう多いのではないかと思う。

だから、地方政府(県、市町村)は工場誘致に力を入れることが多い。広い道路に面した安い土地を用意して工業団地を作り、豊富な水や電気、そして教育された労働者(工業高校がありますとか)を売りにして企業を呼び込もうとするのである。そういう努力は、経済発展の原動力にはならないのだろうか?

だが著者は、工場誘致(著者の用語では「移植工場」という)には否定的である。いっときはよいかもしれないが、長い目で見ると経済発展には寄与しないという。

その理由は主に2つある。第1に他地域の資本によって運営される工場は、材料調達などを他地域に負っていることが多いため(要するに地域内に下請けを出さない)、地域内の生産物の多様化に寄与しないということ。第2に、好条件に惹かれて移入してきた工場は、よりよい条件のところが見つかればさっさと出て行ってしまうということ、の2つである。

重要なのはもちろん第1の方で、経済が発展するには地域内で多様な生産活動が行われなくてはならないのに、工場はそれにさほど寄与しない。例えばもしその工場が、系列内で完結した部品調達の仕組みを持っているとすれば、地域の人びとが行うのは組み立て作業に過ぎず、要するにその地域は単純労働者のベッドタウンになってしまう。

とすれば、地域内の人びとがインプロヴィゼーション(あり合わせのもので行う創意工夫)を行う余地はないわけだ。だから経済発展に寄与しないというのである。

しかしこれは、あまりに単純すぎるストーリーではなかろうか。仮にその地域が単純労働者のベッドタウンになるにしても、ある程度の人口が維持されるならそこにはそれなりにビジネスチャンスが生まれるであろう。焼き鳥屋ができたり、クリーニング店ができたりする。そういうものは、小さいながら「輸入置換」の一環であるし、地域住民の才覚を発揮する場にもなるのである。

だから、第1の理由は私にとってはあまり説得力がない。しかしながら、工場誘致は次善の策であるということもまた事実である。工場誘致のアピールポイントである、安い土地、豊富な水や電気、それに教育された労働者、そういうものが本当に地域にあるのなら、他の地域の誰かにそれを使ってもらうのではなく、他ならぬ自分たち自身で使う方がよいのである。

著者が何度も強調して述べているのは、経済発展のためには、「他地域のためだけでなく、自分たち自身のために豊かに多様に生産」することが必要だ、ということである。地域が発展していくということは、地域の人びとが自分たち自身のために生産し、消費し、投資していくという循環的プロセスがなくてはならない。どこかの活気ある都市に供給するだけの経済には限界がある。要するに、持てる力は自分たちのために使うべきなのである。

ついでに、第2の点にも反論したいことがある。著者は、好条件に惹かれてやってきた工場はすぐに移転してしまうというが、それは地域発祥の企業でも同じことではないだろうか。

いきなり話が地元の具体例になるが、加世田にかつてイケダパンというパン屋の工場があった。鹿児島の人はよく知っている企業だと思う。イケダパンは、加世田時代には随分郷土愛があって、地元の祭りやスポーツ大会に出場するなど、地域の活動にかなり貢献していたようである。しかし商売が大きくなるにつれ、僻地にあるデメリットが大きくなり、重富の方へ移転していった。こちらには高速道路も鉄道もあり、空港も近い。高速道路も鉄道なく空港からも遠い加世田は、大きな商売をするには適していないから、出て行ったのは当然だ。

商売が適地を求めて移動していくのは自然の摂理であって、地域の人のために生産する企業だったら移動していかない、というのは幻想に過ぎないと思う。

ただ、他所から好条件を求めてやってきた工場は、地元発祥の企業に比べて移動していきやすい、ということは言えるだろう。著者がこのことを問題にするのは、冒頭に述べたように工場誘致は農村経済にとって大きな影響があるため、それがどこかへ移っていってしまったあとの経済的空白もまた大きいからである。

そして一度都市的になった地域は、かりに都市的生産が衰退しても、元の農村的地域に戻ることはない。なぜなら、農村とはただ人家がまばらで自然が豊かな場所だということではなく、農村の文化がある場所だからである。一度失われた文化を再興するのは非常に困難なことで、百年単位の時間がかかる大仕事なのだ。そして衰退した都市的地域は、最悪の場合スラム化する。

であるから、工場誘致はリスキーだというわけである。

にしても、ケインズがいうように「長期的にみたら我々は全て死んでいる」のであり、衰退した後のことまで考えて経済発展を躊躇するのは深謀遠慮が過ぎる。せいぜい、工場による景気は一時的なものだから、経済が盛んなうちに地域の自生的な産業を育成しましょう、という教訓として受け取るのがよいと思う。

というわけで、著者は工場誘致に対して否定的で、地域の経済発展の原動力になりえないという立場を取るが、私はそれには懐疑的である。

ただ、工場誘致が次善の策であることも事実だし、それ以上に重要なことは、決して、望み通りのおあつらえ向きな工場が、都合よく来てくれるわけがないという非情なる現実である。いつまでも工場が移入してこないことを不満に思うくらいなら、持てる力を自分たちで使うべきだ。

日本各地に、入居者待ちの「工業団地」がある。定員一杯というのは稀だろう。広い区画が丸々空いていることも多い。そういう土地をいつまでも遊ばせておくより、それを地域の人びとで使うべきだ。資本がない、人材がいない、販路がない、ノウハウがない。商売を始めない理由なら山ほどある。しかし地域を発展させる根源的な力は、地域の人びとの中にしかない。工場誘致はそれが表出するきっかけを作るだけなのだ。

2014年12月9日火曜日

経済が発展する原動力(その1)

「地方創生」が話題になっている。

地方経済の発展というのは、もう何十年も前から「喫緊の課題」とされていて、それこそ「国土の均衡ある発展」(by田中角栄)とか、これまでも様々な面で唱導されてきた、ある意味で使い古された政策課題である。しかし落日の途(みち)にある日本にとっては、改めて重要な課題であることも間違いない。

私は、地方経済を発展させるには国家レベルではどうしたらよいか、ということに関してはある明解な考えを持っているが、それについては後日述べるとして、地方のレベルでどうしたらよいかについて最近読んだ本を紹介しつつ考えてみたいと思う。

それは、『発展する地域 衰退する地域』(ジェイン・ジェイコブス著)という本である。本書は、経済発展と衰退のダイナミズムを都市を単位として物語るもので、その内容については読書メモ(別ブログ)の方にも書いておいた(本稿と重なる部分もある。読書メモは自分のために書いているので)。

さて、いきなり本題に入るが、経済が発展する原動力はなんだろうか? もう少しイメージが湧くように述べれば、田んぼと僅かな人家しかなかったような村に、工場が建ち、商店が並び、鉄道が通るようになる、その根底にはどのような力が働いているのだろうか?

その原動力を、著者は「輸入置換」という現象に見る。輸入置換とは、これまで他の都市から輸入されていた財を、自ら生産するようになること、つまり「輸入品を地場品で置換すること」である。

先ほど例で言えば、その村は文明的な生活を送るために必要な財を、都市部からの購入に頼っているのは確実だ。そのうちのただ一つ——例えば玄関マットやヤカンのような単純な品——だけでも、村で作るようになれば、それまでその購入に充てていた費用を節約して、他のモノの購入に振り向けることができるし、なにより玄関マットやヤカン製造のための雇用も生まれるというわけである。こうした自給できる物品が次々に増えていけば、そこは次第に都市的な地域へと変貌していくであろう。

しかし、「輸入置換」を成長の原動力と見るこの考えを、額面通りに受け取るわけにはいかない。なぜなら、マクロ経済学の基本的な考えの一つに「比較優位」というものがあって、要するに、相対的に容易に生産できるものに労働力を集中した方が経済は効率的になるからである。

先ほどの村に立ち返ると、玄関マットやヤカンといった、これまで全くノウハウも設備もないものの製造に手を出すより、村の特産品(例えばお米)の生産と販売に精を出す方が全体として儲かるというわけである。玄関マットやヤカンは都市から購入するにしても安価でよいものが手に入るのに、わざわざ村で自給しようとすれば逆に高くついてしまうことは容易に想像できる。

この考えは実際に農村の地域振興においてもよく見られる。特産品の生産に力を入れることで、集荷場や販売の体系が確立しその生産・販売活動も効率的になり、村の経済も全体として効率的になるのである。

しかし、この点に関して著者は強く異議申し立てするのである。もし、この特産品に注力する経済が効率的であるとすれば、第三世界の農村地域にあるモノカルチャー経済が最も効率的だということになる。ひたすらカカオ豆の生産だけをするような、コートジボアールの村が世界で一番効率的な経済体であるということになってしまわないか。

そういう経済がよしんば「効率的」だとしても、発展の展望はほとんどないのは明らかだ。要するにそういう経済は、短期的・近視眼的に「効率的」であるに過ぎない。

著者は力強く、「住民のそれぞれの技術、関心、創造力に応えるような様々の適切な場がないような経済は、効率的でない」と断定する。確かにそうだと思う。特産品の生産がいくら儲かる仕事だったとしても、ひたすら同じことを繰り返すだけの経済には、個人の才覚を活かす場がなく、そこには発展の余地がない。発展の余地を残すためには、生産物を多様化することが是非とも必要だ。

だから、発展を目指すためには、少々無様で非効率的であっても、玄関マットやヤカンを生産するという段階に入らなくてはならないのである。しかしそれは簡単ではない。先進都市には普通にあるような環境(下請け工場など)は村にはないし、設備や材料も手に入らないことがある。だから、あり合わせのもので工夫して製造していく必要がある。そういう即興的な工夫を、著者は「インプロヴィゼーション」と呼ぶ。

玄関マットやヤカンを物財の乏しい村で生産するとなれば、都市で作られるようなおしゃれで機能的な商品ではなく、村に豊富にあるような材料を使うなどして、普通のそれとは違う特徴を持った商品になるに違いない。あり合わせのものでなんとかする工夫が新しい商品を生む。つまり、不利な中で生産することそのものが、事業家の創造力を惹起する

主流派経済学においても、経済成長の原動力は広い意味での「技術革新」にあるとされている。 「広い意味での」というのは、これまで縦に置いていたものを横に置く、というような工夫も含めて「技術革新」としているからである。経済学では経済の生産性のうち、資本と労働の生産性に帰すことが出来ない部分をひっくるめて「全要素生産性(TFP)」と呼んでいて、経済成長のためには(資本と労働の生産性はほとんど前提条件的で、かつ相補的な動きをするため)この全要素生産性を高めることが要諦なのだ。

換言すれば、経済成長というのは、大小様々な「技術革新」の積み重ねによって達成できるのである。しかし問題が一つある。どうやったら技術革新が次々生まれるように出来るのか、その処方箋の全体像は解明されていないのだ。

その処方箋の一つは教育だと考えられている。高度な教育を受けた人材が多い経済は、そうでないところに比べ技術革新が起きやすいであろう。規制緩和も処方箋の一つである。

著者のいう「輸入置換」も、そういう処方箋の一つに位置づけられるのかもしれない。不利な中で財を自給することそのものが、「インプロヴィゼーション」すなわち創意工夫を呼び起こすからである。

もちろん、このことも額面通りには受け取れない。地方的都市で自給する商品は、都市で生産されているそれに比べ、性能が劣ったり、価格が高かったり、見た目がよくなかったりする。生産過程でいくらインプロヴィゼーションがあったとしても、結果として都市の作る製品に比べ、競争力が劣っていることがままある。ということで、いくら頑張って作っても、売れなかったら事業は続かない。流通が不完全だった50年前だったらどうかわからないが、クリック一つで大概のものが買える現代においては、ここが大問題である。

この点に関して、著者は何も述べていない。試行錯誤がなければ成功はないのだから、ともかく試行錯誤が大事なのだ、ということなのかもしれない。しかし生産物を多様化するという目的を考えてみると、経済の自給率を高めるという「輸入置換」だけが発展の原動力でもなかろうと思う。

むしろ、最近の流行りで言えば、最初から販売ターゲットを都市にして、「都市住民に受ける商品」を開発する方が得になるのではなかろうか? ある種の農村にとっては、都市から安価で購入できるものを苦労して自給するより、都市に作れない、農村的な(しかもセンスがいい)ものを作る方が儲かるのは明らかだ。

これについても著者は何も述べていない。しかし、著者の論じる「地域」というのは、日本で言うと「鹿児島県」くらいのスコープを持つものである。確かに南さつま市くらいの狭い地域を考えると経済の自給率を高めるよりも、都会で売れる商品を作る方が経済発展に重要だ。だが鹿児島県全体で見た時、都会で売れるものだけを作っていては経済は発展しないだろう。

なぜなら、そういうやり方だけで発展が維持できるほど、鹿児島県は小さくないからである。そしてもっと重要なことに、巨大な需要を持った活気ある都市はほんの僅かしかないが、そこにものを売りたいという供給地域はものすごく多い。活気ある都市(たぶん日本では東京だろう)は、たくさんある供給地域からそれぞれ最良の商品だけを選ぶわけで、経済発展のフィールドがそれしかないとすれば、とんでもない競争になってしまい、そこに勝ち残るのはどの地域にとっても困難なことである。

だから、鹿児島県くらいのレベルで考えると、「輸入置換」は必要なのだ。つまり、(再三の説明にはなるが)経済が自給できるものを増やし、生産品を多様化させ、それによって人びとの創意工夫を呼び起こすことが重要なのである。そしてこの中で最も重要なことは、経済発展の根本には、「創意工夫」があるということである。ある意味ではその前段部分は「創意工夫」のためのお膳立てをしているに過ぎない。

翻って我々が考えなくてはならないのは、地方自治体や経済団体はその発展のために、どのような施策を行っているのだろうかということだ。人びとから創意工夫を引き出す取組をどれくらい行っているだろうか?

いや、地方に生きる我々一人ひとりが、「創造的な環境」を創り出す努力をしているだろうか? ということも考えなくてはならないのかもしれない。

(つづく)

2014年12月1日月曜日

大正時代の本棚がうちに来ました

先日、大叔母の身辺整理を手伝った。身辺整理というか、「もう家財道具のほとんどはいらない、何か欲しいものがあったら持っていって」というので、ただもらいに行ったという方が正しい。

それで、なかなか味のある本棚をもらってきた!

話を聞いてみると、これは元々私の曾祖父が持っていたもので、それを大叔父が引き継ぎ、それをさらに大叔母がもらったものらしい。話が随分ややこしいが、要は私の曾祖父の遺品の一つである。

(もう随分前に死んだ人だから名前を出してもいいと思うが)この本棚の持ち主であった私の曾祖父は丹下 栄之丞(えいのじょう)という人で、名門に生まれながら生来の冒険心の赴くままに生きて随分家族に苦労させたそうである。

例えば、錫鉱山の開発をしようと錫山を購入したものの、結局錫が出なくて大損したとか(ちゃんと調査せずに買ったんだろうか?)。他にも新規事業に手を出して無一文になったこともあるらしい。無一文になった曾祖父は、ツテから口永良部島の島守(しまもり)の職について家族で島へ移住したそうだ。「島守」というのが具体的になんなのか分からないが、大叔母によれば町長の次席にあたるもので、他の親戚によると竹林造成に関係する職だったともいう。

そんなわけで私の祖母は、口永良部島(屋久島の少し西にある島です)で少女時代を過ごし、一日三食とも魚を食べて育ったそうである。

ところで丹下家というのがどういう家柄なのかイマイチよく分からないのだが、丹下栄之丞は第11代目にあたり、初代は文久2年(1862年)に死んだ丹下 仙左衛門という人。丹下家の分家には女性で初めて帝国大学を卒業した丹下 梅子もいる。それなりの家格がある武家だったようである。

私は、そういう家系図的なことはさほど関心がないけれども、昔話は好きである。その栄之丞という人が、好き勝手して身代を取りつぶした話なんかは面白い。冒険心はあったがお人好しですぐに騙されるような人だったらしく、事業家には全然向いていなかったそうだ。ついでに言うと、その奥さん(つまり私の曾祖母)の方が立派な人だったということで、大叔母などが生きているうちにもっと話を聞いておきたいと思う。

ともかく、この本棚はそういういわれでもらってきたものである。ざっと考えて、丹下栄之丞は今から90年くらい前の人になるから、この本棚は約100年前の大正時代のものと考えて差し支えないだろう。蔵書も込みでもらってきたが(というのは、蔵書も不要なため処分してほしいとのことで)明治20年代の万葉集の注解書があったので、これはもしかしたら栄之丞の蔵書だったのではないかと夢想した次第である。

約100年前の(一般的な感覚からは)ぼろい書棚といっても、作りが非常にしっかりしていてガタピシ感もないし、何より古民家の我が家にぴったりだ。ステキな本棚が手に入ったので、これから本が入っていくのが楽しみである。

2014年11月30日日曜日

農産物直売所の視察へ行って

先日、農産物直売所(物産館)の視察研修に行った。

地元の物産館「大浦ふるさとくじら館」を盛り上げるために、その出荷登録者会の研修として見聞を広めに行ったわけだ。

巡ったのは、鹿児島市吉野の「ごしょらん」、吉田の「輝楽里(きらり)よしだ館」、郡山の「八重の里」である。それぞれがどんなところだったかということはさておいて、これらを見た上で物産館の運営について思ったことを備忘のためにまとめておきたい。

その1:出荷者と店とのコミュニケーションは重要。物産館と普通の八百屋さんとの一番の違いは何かというと、仕入れるものを店側が選べない、ということである。物産館は委託販売なので、基本的に出荷者が持ってくるものがそのまま並んでいる。それだけでは足りなくて、店側が仕入れ品を置くこともあるが、それはあくまで例外的な対応である。

フリーマーケットなども含め少しでも小売の経験がある人は、何をどれくらい仕入れるかがいかに売り上げを左右するかを知っていると思う。だが物産館というのは、小売業では非常に大切な「仕入れ」の部分に自由がきかない。特に農産物の場合、収穫時は地域で大体一緒なのでモノがある時期は大量に存在し、ない時期は全然ない、ということが起こりうる。

ではそれをどうやって克服するかというと、出荷者と店とのコミュニケーションしかない。出荷時期をそれぞれの生産者でずらしてもらう、という対応が理想だがそうでないとしても、作付面積の把握をしてそれを一覧表にするだけで各生産者がいろいろと考えるだろうし、ただ「春のキャベツが毎年不足気味なんですよ〜」とか言ってもらうだけで生産者のモチベーションが変わってくると思う。

その2:店としての統一感は重要。物産館というのは多様性がある場所である。いろんな出荷者がめいめいに農産物を持ってくるわけだから、大根一つとってもいろんなものが存在しうる。それが八百屋さんと違うところであり、いいところでもある。だが一方で、それは陳列された商品に散漫さをももたらす。その「散漫さ」を排除してしまったら物産館のいいところが減ってしまうので、散漫なのは仕方がない。

でもやはり、店として統一感はあった方がいい。それは「うちはこんな店でありたい」という基本路線の表明だと思う。例えば、「かぼちゃ」とか「大根」とかのプレートの文字(フォント)一つとってもその表明の一部だ。POPなんかを生産者が自由に置いてよいというのはいいと思うが、ただでさえ物産館はバラバラの生産者が自由に商品を置いているわけだから、なんでもござれではなくて店としての雰囲気作りが重要だと思った。

その3:運営に十分なスペースを確保するのが必要。各地の物産館を見てみても、建物に不具合があることが多いように感じる。不必要に立派な吹き抜けとか、モニュメンタルな(記憶に残るような)正面の構えとか、そういうことに予算が使われていて、あまり運営のことを考えずに設計されたような建物が散見される。小売業のことをあまり知らない人が企画・設計しているのかもしれない。

特に、裏方となる管理スペースが狭すぎることが多い。私の感覚だと、売り場面積の1/3くらいの広さの管理スペース(事務所、倉庫、作業場など)は必須だと思うが、なかなかそういうスペースが準備されていない。このために、お客さんからすると少しみっともない部分までが表に出てきてしまっている状況があるのではないか。

我が「大浦ふるさとくじら館」も、店舗の動線が悪いとか、出荷者が農産物を持ち込んだりバーコードを張るスペースがないとか、いろいろ設計上の問題を抱えている。どこの物産館も似たようなものだ、と達観することなく、運営に必要なスペースを確保したり、設備の問題を解決したりする努力は続けて行かなければならないと感じた。

その4:「大浦ふるさとくじら館」にもいいところがある。これまでも「くじら館」について取り上げたことがあるが、あまりいいことを書いていなかった気がする。だが、他の物産館を見てみると「くじら館」の可能性も捨てたものではないと思う。一番可能性を感じるのは周辺に気持ちのよい芝生スペースがあることで、ここを利用して小規模なイベントをしたら随分面白いことができそうだ。普段の出荷者の枠を超えたフリーマーケットとかやってみたらどうか。

また、裏手に観光農園(あまり利用されていない)があるのも面白い。正直この立地で観光農園は厳しいし、土質があまりよくないと言われているが、しっかりとした管理者がいたら物産館と相乗効果を生む企画ができそうだ。

あと、そもそも「南さつま海道八景(景色がすばらしい国道226号線のエリア)」の入り口に立地しているというのも重要だ。今「くじら館」には観光案内所的な機能はほとんどないが、この立地を活かして観光と絡めた企画ができれば、(収益は別にして)観光客に喜ばれることになるだろう。例えば、「ふるさとくじら館」のFacebookページを立ち上げて観光客からの投稿写真を募り、写真をその場で投稿してくれた人にはオマケをあげるとかできたら面白い。そこまでしなくても、せめて観光パンフ類をきれいに陳列しておけばそれなりに利用されると思う。

ただ、ここで述べたこと全てについて言えることだが、積極的な企画を打っていくためにはそれなりのリーダーが必要である。今の「ふるさとくじら館」には店長が不在であり、何をするにしてもその点がネックになる。でも店長がいないから何もできない、と諦めていたら何も進まない。

私も、これまで物産館にはあまり農産物を出していなかったが、来年からは物産館用として少し野菜を作ってみたい。もちろん「南薩の田舎暮らし」の加工品ももう少し出荷を増やしていく(はず)。出荷者の立場から、何らかの貢献ができたらと思っている。

2014年11月26日水曜日

1杯20円でコーヒーが飲める"Ura Cafe"が大浦にオープンしています

ひっそりと、我が大浦町にカフェがオープンしているのをご存じだろうか。

それは、役場(南さつま市役所大浦支所)の1階トイレの隣にある、給湯室の一角にある。その名も"Ura Cafe"。「おおうら」にあるからウラカフェ。ロゴもなかなかおしゃれ。

一見、これは役場の福利厚生の一部で職員のためのコーヒーサーバーみたいに見えるのだが、実は誰でもたったの20円払えばコーヒーを飲むことができる歴(レッキ)としたカフェなのだ!

実は、ここの役場がネスカフェアンバサダーになっていてこの機械が置いてあるのである。ネスカフェアンバサダーというのは、簡単に言うとこの機械(バリスタという)をタダで設置させてもらい、職場などにコーヒーを提供する仕組みのことである。

で、全国には何千とこの機械が置いてある職場があるのだと思うが、ネスカフェでは「ネスカフェアンバサダー投稿コミュニティ」というのを運営していて、まあ要は「アンバサダーになるとこんなステキなコーヒーライフが待ってます!」というアピールをしている。そしてなんとその「担当者がえらんだナイス投稿」のトップに、このUra Cafeが絶賛掲載中である!(2014年11月26日現在:スクリーンショットはこちら

この、トイレの隣にひっそりと存在していて、大浦町民にもほとんど知られていないであろうUra Cafeが、ネスカフェのWEBサイトに堂々と表示されているのはなんだか不思議な気分である。こういうことがあるからインターネットの発信というのは面白い。

というわけで、南さつま市役所大浦支所に用事があった時は、このUra Cafeでコーヒーを飲むのがオススメである。何しろ、繰り返すがたったの一杯20円!近くにある自販機の設置者から苦情が来るレベルである。かくいう私も役場に行くときはなんだかバタバタしている時が多く、実はまだUra Cafeを利用したことがないのだが(…)役場に行く楽しみが増えた。

2014年11月25日火曜日

「海の見える美術館で珈琲を飲む会」みなさんありがとうございました!

11月23日、無事「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を盛会の裡に終了することができました!

当日は、午後は少し雲も出てきて夕日が見られなかったのが憾みではあるものの、割合に天気にも恵まれた。正確にカウントしていないが、多分120人くらいの来館者があったと思う。子どもも入れると140人くらいになるだろうか。

この場を借りて、来館した方、開催に当たってご協力いただいた方、告知にご協力いただいた方など関わりがあった全ての方にお礼を申し上げます。ありがとうございました!

また、会を通じてご縁をいただいた方もたくさんいて本当に嬉しかった。Twitterだけでの知り合いに実際に会えたり(しかも2人も!)、地元にいながらお互いに知らなかった人と知り合えたりもした。特に、地元の全く知らない若い女性3人組が来てくれたのは心に残った。地元の暮らしを楽しくしたいという思いがあってやっていることなので、地元の人が喜んでくれるのはとてもありがたい。

もちろん、鹿児島市内からわざわざ来てくれたお客さんはもっとありがたい。初めて笠沙の景観に触れた人もけっこういたのではないかと思うが、いかがだっただろうか? これを機に、南薩の素晴らしい景色のファンになってくれたら望外の喜びである。

それから、当日はカンパ制ということでカンパボックスを設置させてもらったが(なにしろ参加費200円だけだと少し赤字になるので)、たくさんのカンパをいただき、写真展を担当してくれた海来館さんにも少しだが経費を渡すことができた(でも海来館さんはだいぶ赤字になってしまったのではないかと心配)。カンパをいただいた皆さん、本当にありがとうございました!

でも次回(次回もやりますよ!)もカンパ制というわけにもいかないので、カンパをいただかなくてもペイするように工夫がいると思う。イベント事というのは赤字だと続けることが難しい。タダみたいな費用で参加できるという基本は踏襲しつつ、どこか別の点で収益を生むような形を考えたい(コーヒーを1杯500円にするとかはあまりやりたくない。そもそもコーヒー屋ではないので)。やっぱり特産品の販売なんだろうか? 参加された方の意見を聞きたいものである。

ところで、少し反省点もある。それは、わざわざ来てくれたお客さんに、ちゃんと応対ができなかったことである。遠方から来て下さった方も多いので、反省と言うより後悔が近い。本当にもうしわけありませんでした…。

それというのも、自分がひたすらコーヒーを淹れ続けなければならない、という事態に陥ったためである。見込みでは来場者数は70人となっていて、来館者との会話を楽しむことができるはずだった。だがその約2倍の来館者があったので、私にとっては本当にコーヒーを淹れるだけの日になってしまった。嬉しい誤算ではあるのだが…。

そのために、ほとんど写真を撮ることもできなかった! 特に午前中は天候がよく、海もべた凪で絶好の写真日和でもあったのに、風景写真はおろか会場の様子の写真すら一枚もないという有様…。お客さんが途切れた16時頃にようやく写真を撮ったが時既に遅しという感じであった。

こういうイベントをするときは、主催者はやることがなくてヒマ、というくらいでなくてはならないと思う。次回やるときは何らかの手はずを整えて、お客さんとゆっくり話ができるようにするのでよろしくお願いします。

2014年11月18日火曜日

Citrus meets Sugar——柑橘の世界史(8)

エジプトのサトウキビ畑
イスラームが中東で産声を上げた頃、紀元7世紀のササン朝ペルシアに、柑橘類よりももっともっと重要な、世界史的に超弩級に重要な作物が西方から伝えられてきた。

それは、サトウキビである。

サトウキビの栽培には豊富な水を必要とする。だから、半乾燥地帯である中東ではその栽培適地は限られた。最初は水の豊富なイランの低地、そしてシリアの海岸地帯、次いでエジプトのデルタ地帯と、栽培適地を求めるようにサトウキビの栽培は伝播していった。10〜11世紀にはキプロス島、クレタ島、シチリア島へ伝播し、12世紀頃には北アフリカ、マグリブ、イベリア半島へと広がっていった。

しかも、サトウキビ栽培には集約的な労働を必要とする。水管理だけでなく、かなりの肥料も要するし、それになにより砂糖の精製は工業的といえるほどの資本や労力がいる。そういうわけで、サトウキビ栽培は農民が自然発生的に取り組んだと言うより、貿易で財をなした富裕者や私領地(ダイア)を経営する政府高官が、高収益を見越した「事業」として組織的に取り組み、広まっていったのである。

それによって、イスラーム世界は世界史上で初めて、砂糖が豊富に存在する社会となった。もちろん砂糖はかなり高価な品であった。スルタン(君主)はラマダーン(断食月)になると臣下に砂糖を下賜したそうだし、宮廷では砂糖で作られた菓子(干菓子のようなもの)が見せびらかしのために作られた。しかし、それはほんの少ししか自然界に存在しない、ダイヤモンドのような貴重品ではなくて、お金さえ出せばいくらでも手に入る貴重品だったともいえる。

一方、庶民がどれくらい砂糖を手にできたかは地域によっても時代によっても違うようだ。だが12世紀以降になると、地中海南岸では庶民にとってもちょっとした贅沢をすれば手に入るものになっていたように思われる。

この、豊富に存在する砂糖が柑橘の世界史を動かした。酸っぱいレモンと、甘い砂糖、この組み合わせが、最強のレシピになったのである。

サトウキビ以前の社会では、甘いことは掛け値なしに最高の価値があった。甘い食べ物はそれだけで贅沢品で、滅多に食べられるものではなかった。だがひとたびサトウキビによる砂糖が登場すると、甘くしたいなら、砂糖を振りかけさえすれば実現できるようになった。

もちろんサトウキビ以前にもそれなりに甘味料はあった。伝統的な甘味料といえばまず蜂蜜、それから果物の果汁からつくる糖蜜(ジュラーブ)など。でもこれらは良くも悪くも甘みだけでない味わいがあるし、大量に穫れるものではなく、いつでもあるものでもなかった。しかし砂糖ならば、甘みだけをいつでも自由に足すことができた。

そうして、甘みそのものというよりも、甘みを引き立たせる苦さや酸っぱさに注目が移っていったのではないかと思う。そこにあったのが、苦いシトロンであり、酸っぱいレモンだった。

こうしてアラブ人は、レモンでジャムを作ることを考え出した(※インドから伝来した可能性もある)。

ジャムの歴史を繙くと、紀元前には既にジャムらしきものがあったらしい。しかしそれは例外的な存在で、砂糖と共に果実を煮てドロドロにするという、今のようなジャム(ムラーバmurrabaと呼ばれる)が普及したのは、まさにこのイスラーム時代なのだ。

ただし当時のジャムは、今のジャムのような長期保存食品ではなかった。そもそも密閉できる容器も僅かだったから、脱気(容器内から酸素を抜くこと)もできなかったと思う。どうやら当時のジャムの「賞味期限」は2〜3週間であったようだ。レモンなどはただ置いていても1ヶ月くらいは持つわけだから、長期保存したくてジャムにしたのではなく、ジャムにするのが美味しい食べ方だったからそうしていたに違いない。

当時の農業生産と人びとの暮らしを伝える『コルドバ歳時記』(または『コルドバ暦』)という10世紀の本がある。これは一種の農書と占いと年中行事のマニュアルであり、要するに各月に何をなすべきかということが書かれた本であるが、その1月の項目にも、レモンのジャムを作ることと、シトロンのシロップを作ることが厳選されたリストに挙げられている。

それだけでなく、季節季節の果実のジャムやシロップを作ることがこの本では奨励されていて、このころのイベリア半島では砂糖を単なる珍奇な贅沢品として扱うのではなく、果実の味をどう砂糖でアレンジするかという段階に入っていたことが窺える。

ところで現代のジャムも、糖度が50%くらいはあって、水分と砂糖だけで成分の90%くらいになる。つまりその他の成分はほんの数%しかなく、酸っぱさ成分などはさらにその一部でしかない。ということは、どの果実のジャムを食べてもその内実はほとんど砂糖水を固めたものであり、成分的な違いは5%とかそれくらいしかない。しかしこれを逆に考えると、ジャムの味はその数%、いや小数点以下%が支配しているのであり、いかに元の素材の味が重要かが分かる。

そう考えると、レモンはジャムの素材としてはなかなかに優秀だ。強い酸味があってジャムにすると甘酸っぱく、(おそらく果皮も入れていたと思うので)ジャムを作るのに不可欠なペクチンも豊富である。また、柑橘の爽やかな芳香はジャムに最適だ。

思えば、柑橘の先進国であった中国では、早い段階でスイートオレンジが発現したこともあって甘みの強い柑橘を求める品種改良がなされたが、イスラーム世界では甘みを求めた品種改良が柑橘に施されることはなかったようだ。それは、おそらく柑橘が常に砂糖とセットで扱われ、柑橘自体に甘みを求める必要がなかったからに違いない。

甘いオレンジを生みだした中国と、酸っぱいレモンを育てたイスラーム世界が、ここで面白い対照を見せるのである。

※冒頭画像はこちらのブログからお借りしました。

【参考文献】
『イスラームの生活と技術』1999年、佐藤次高
『イスラムの蔭に(生活の世界歴史7)』1975年、前嶋信次
"Food and Foodways of Medieval Cairenes: Aspects of Life in an Islamic Metropolis of the Eastern Mediterranean" 2011, Paulina Lewicka

2014年11月15日土曜日

バターはなぜ不足するのか

11月23日に「海の見える美術館で珈琲を飲む会」というイベントを行う。その時に、「南薩の田舎暮らし」のスコーンとかクッキー、そしてジャム類も少し販売する。というわけで、これから製造に入ろうというところである。

が、なんとここへきてバター不足! 業務用バターすらお一人様一つずつという購入制限が設けられているではないか。これは個人でやってるケーキ屋さんとか大変な状況である。今回、しょうがないので一部はバターの代替品で済ますことになったが、なぜバターは不足するのかご存じだろうか。

これについては時々新聞などでも解説されるが改めて問題を考えてみたい。

まず、バターが不足する最大にしてほぼ唯一の原因は、バターの輸入が国家管理されていて、自由に貿易できないからである(報道では天候不順で生乳量が不足し…とか言われるがそれは些末な問題。それならチーズも不足するはず)。

バターの輸入を独占しているのは独立行政法人 農畜産業振興機構、という機関。

民間業者がバターを輸入するためには、高い関税(1キログラムあたり約30%+179円)を払った上で農畜産業振興機構にバターを輸入してもらい、それを改めて買い入れる(しかも1キロあたり800円あまりのマージンも取られる!)必要がある。つまり、1キロ500円のバターを輸入したら、何もしなくても原価が1600円以上に跳ね上がる。これでは民間業者がバターを輸入することはほとんど無謀である。

であるから、結果として輸入バターは、機構が独占的に輸入したものを民間業者が入札して市場へ仲介する、という形で流通している。これは、名目的には国内畜産業者の保護のために行われている政策である。

バターが自由に輸入できるようになってしまうとバターの価格が下がり、タダでさえ厳しい酪農業者の経営が厳しくなってしまうということで、ウルグアイ・ラウンド(国際貿易の協定)で合意した数量のみに限り輸入するためにこのようなシステムになっているのである。

しかしながら、酪農業者の主要製品は生乳であり、バターなどの加工乳製品は補完的なものであるから、バターに厚い輸入障壁を設ける意味がよく分からない。畜産の保護は重要だとしても、経営的に中心でないバターに煩瑣な輸入障壁を設けるより、生乳の生産への補助金を上乗せした方が適正な市場が形成され、消費者・生産者ともに利益になるのではないだろうか。

例えば、同じ乳製品でもチーズの場合は市場の様子が全く違う。こちらも高い関税はかかっているが、輸入は自由化しているから、いろいろなチーズが店頭に並んでいるし、国産のチーズも様々なものがある。北海道に行けばチーズ工場が見学でき、お土産にチーズがたくさん買われている。いくら天候不順で生乳が不足気味になっても、チーズが店頭から切れることはない。要するに、チーズには豊かな国内市場があり、酪農業者の創意工夫の余地がある。もちろんビジネスとしての非情な競争もあるが、それは公正な競争だ。

一方バターはどうか。無定見に国内業者が保護された結果、バターを楽しむという文化は全く育っていない。外国に行くとチーズと同様いろんなバターがあって楽しいが、日本にあるのはホンの限られたものだけだ。輸入品が貧弱(なにしろ国家が一律に輸入しているので)な上に高価であるため、本来は廉価なバターが高級品となり、その代替品としてファストスプレッドが非常に普及してしまった(店頭にあるマーガリンみたいな商品はほとんどファストスプレッドです)。

ファストスプレッドとはマーガリンの一種で、本来は液体である植物油脂に水素を添加して固体化しているものである。最近、これら人工的な油脂が有害なトランス脂肪酸を多く含んでいるということで敬遠されつつあるが(世界的にも規制される方向にある)、私はそれよりも、バターに比べ風味が格段に落ち、味がよくないというのが最大の問題だと思う。

このファストスプレッドが普及している原因は、結局はバターの輸入が国家管理されているからなのだから、この一事のみ考えてみても、この輸入規制は酪農家を利しているのか甚だ疑問である。このヘンテコな輸入規制がなく、チーズと同様にバターを楽しむ文化と豊かな市場が形成されていれば、多くの人はファストスプレッドの代わりにバターを食べていたに違いないのである。

さらにバターの輸入が国家管理されているせいで、需給予測が外れてよくバターは不足したり逆に余ったりする。今回のバター不足も、予測では不足はないはずだった(当たり前)。このことだけ見ても、計画経済というのはうまくいきっこないと思う。バターの需要量はほぼ予測できるから問題は供給量だけであり、供給量も急に増えたり減ったりするものではないので、需給予測は簡単に見える。しかし実際には市場は動的であって、必要十分な量を予測するのは、ただバター単体のみでも難しいのである。

かつての社会主義経済の行き詰まりの原因はそれこそ星の数ほどあるが、仮に労働者が勤勉で経営が果断であっても、計画的に決められた量の生産を行うというスタイルであるかぎり、経済がうまく回るわけはなかったのである。

このように、バター不足の原因は、酪農家への歪んだ保護にあるのである。この制度はおそらく酪農家にも裨益する部分が少なく、存在理由がよくわからない。巷では、農水省OBの天下り先である農畜産業振興機構の収入確保のため(輸入独占しているので莫大な利益がある)と言われているが、本当にそれだけのことなのかも不明である。

農業は、全体的に補助金産業にならざるをえない。それは、完全に補助金なしで農産物が生産されてしまうと、(特に主食となる穀物類は)低所得者にとって高価になりすぎる可能性があるからである。要するに、誰にでも手に入りやすい価格で食物が生産されるためには、農業に補助を行わなくてはならない。それを逆から言えば、農業への補助は国民全体(特に低所得者)へのフードスタンプ(食費補助)みたいなものだとも見なせる。

しかし、時として産業への国家の補助・介入は、その産業が立脚する市場自体を歪ませる。 殊に煩瑣な輸入障壁はそうである。その介入がなければ花開いていたかもしれない市場を萎縮させ、社会主義的なつまらないものにしてしまう。例えば、小麦粉もバターとはまた違った仕組みで国家が輸入をほぼ独占しているが、店頭に並ぶ小麦粉の多様性のなさは制度の失敗を示唆している。本来は、小麦粉もお米のように、さまざまな品種とグレードがあるものだ。

農業への補助制度がどうなっているか、一般の人からの関心は薄い。だがその補助が、私たちの食生活を根底で規定しているというのは気持ちが悪い。畜産農家の保護という名目のために、バターは不足し、ファストスプレッドが氾濫する現状は何かおかしいと思う。この制度の廃止を訴える国会議員がいたら、すぐに支持するのだが、誰かいないものだろうか。

【参考文献】
『日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食糧自給率』2010年、浅川芳裕

2014年11月10日月曜日

「都会と田舎の接点」としての葬式

我が町大浦の市街地(といえるほどの市街地はないのだが)を通ると、よく葬式の案内が出ている。

大浦は時代に取り残された高齢者が住んでいるような町だから、それはそれは頻繁にお葬式がある。もちろん単純に数で比較したら都市部の方が圧倒的にお葬式は多いが、こちらでは人口密度あたりの葬式数がすごい。

というように書き出すと、暗い話題のようだけれど、最近、これはこれで価値があることのように思えてきた。

なにしろ、お葬式には遠方から人が集まる。都会へ出て行った人たちがほんの僅かな期間でも地元に帰ってくる。この地にほとんど足を踏み入れたことがない親類もやってくる。南さつま市全体で考えてみても、年間に遠方からやってくる葬式の参列者は、ひょっとしたら観光客数よりも多いのではないだろうか

ということは、葬式は都会と田舎の重要な接点でもあるような気がする。ここで私は、この都会からの参列者を観光客に見立てて地元の物産でも売りつけたらいいのでは、という提案をしたいわけではない。その人たちは、買い物や観光のために来ているのではないし、遠方から来る人は忙しい仕事の合間を縫って来るわけで、葬式を済ませたらすぐに帰らなくてはならない。

でも、せっかく遠い所からやってきて、葬式だけ済ませて帰って行くのも何か物寂しいものがある。私も経験があるが、お線香一本のためにここまで来たのかなあ、という気持ちを抱くときもあるだろう。もちろん、「お線香一本」の価値を軽んずるわけではない。でもせっかく交通費を出して来るのだから、何か前向きなこともあったらなおよい。

じゃあ葬式とどんなものが組み合わさっていたら、葬式という場が「都会と田舎の接点」としてもっと意義深いものになるだろうか。参列者の立場から言えば、「葬式のためとはいえ南薩に来てよかったなあ」と思えるのはどんなプラスアルファがある時だろうか。そこのところは私にも今アイデアがない。ものの売り買いでもなような気がするので、どちらかというと情報発信の一つの場みたいに捉えたらいいのかもしれない。

思えば、「南薩の田舎暮らし」で製作したポストカード「Nansatz Blue」も、一番コンスタントに捌けているのは、西福寺(近所のお寺です)に置かせてもらっている分である。

とすると、お寺が田舎の情報発信に取り組めばよいのだろうか。でもことはそう簡単ではない。何しろ、お寺はたくさんあるお葬式で忙しい。というか、葬式とか法事とかが不定期にあるので、なかなか落ちついて「これからのお寺は、どうしたら地域の発展に寄与できるか」とか考えるヒマもないと思う。今後、団塊の世代がドンドン鬼籍に入っていくのでお寺はさらに忙しくなる。多分、既に僧侶不足が顕在化しているのではないだろうか。

以前も書いたように、私はお寺は田舎の重要なインフラだと思っている。インフラということは、お寺はただ住職の経営物ということではなくて、地域社会(というのが大げさなら少なくとも檀家)が作っていくものだ。お寺のことをお寺任せにしていてはよくない。葬式の段取りを行うのは最近では葬儀社が普通なので、お寺がどうこうという問題でもないかもしれないが、葬式は宗教儀式である以上お寺(僧侶)を省くことはできない。

というわけで、私は別に信心深い方ではなく、むしろ不熱心なほうだが、「都会と田舎の接点」としての葬式(に伴う南薩への来訪)がより意義深くなるような工夫を考えてみたい。読者のみなさんもお葬式にはいろいろ思うことがあると思うので、グッドアイデアをお寄せいただければ幸甚である(でもお寺に直接言ったらなおよいと思う)。

2014年10月23日木曜日

ORECのウイングモアー

先日、満を持して「ウイングモアー(畦草払い機)」の新品を購入した。

これは下で2枚の刃がぐるぐる回り草を刈っていくという、いわば農業用の芝刈り機なのだが、本当にとんでもなく便利で、 一度これを使い始めるともはやコレ無しの草払いには戻れない、という麻薬みたいな機械である。

何しろ、南九州は雑草の伸びが激烈である。おそらく、山陰山陽あたりと比べても相当差があるのではないかと思われるが、関東以北の人からすれば異次元の雑草の伸びだろう。日当たりのよいところであれば、「きれいにしていますね」と言われるくらいに雑草を抑制しようと思えば夏期は3週間に1回くらいの草払いが必要だ。別に他の人にどう思われようと知ったこっちゃない場所でも、1月半に1回は草を刈らなければ雑草が高くなって大変なことになる。

だから果樹栽培をやっていると、夏期は草払いばかりしなくてはならないのだが、クソ暑い中刈草払い機でブイーンブイーン雑草を刈るのは結構な重労働だ。ところが、この機械を使えば、その手間が1/3くらいになるのである! 「楽」とまではいかないが、少なくとも時間はかなり短縮する。要するに、労働生産性がかなりアップする!

ところで、この機械を作っている農機具メーカーのOREC(オーレック)社の方と知遇を得て、昨年研修旅行(?)に同席する機会を得たり、いろいろと目をかけていただいたりしている。そんな恩を蒙りながら、これまでOREC社の新品の機械を持っていなかったので疚しく思っていたところ、ようやく新品ウイングモアーを購入することが出来てちょっとホッとした気持ちもある。

その研修旅行の際に感じたのは、このORECという会社の人たちが和気藹々として楽しそうだということだ。メンバーは開発部中心だったかと思うので(営業とかのストレスがないから)雰囲気がよかったのかもしれないが、農機具メーカーであるということも大きいのかもしれないと思う。

なにしろ、農機具の開発というのは面白そうである。いや、別に自動車とか家電の開発がつまらないというつもりはないし、農機具の開発が楽だということもないと思う。でも自動車のエンジンの燃費を1%でも向上させるのは難題だし、それに仮に5%向上させてもユーザーが大喜びするわけではない。そもそも自動車は機械というより、この頃は精密機器・電子機器の部分が多く機械的な開発は中心でない。そして自動走行など新しい技術も出てきているが、基本的に車や白物家電は既にコモディティ化(どこにでもあるもの化)していて、要は形態が完成してしまっている。

一方、農機具の世界にはまだまだ開発の沃野が広がっている。今後の日本の農業は高齢の零細・兼業農家がバンバン引退するのが既定路線だが、ということは(新規零細農家がたくさん生まれるのでなければ)経営の大型化になって行かざるを得ない。そのためにはこれまであまり機械化されていなかったところまで機械化・合理化していく必要があるし、これまでの機械の効率ももっと上げていかなくてはならない。

しかもうまいことに、農業機械はまだまだ完成していないものが多い。極端に言えば、ギアボックスの位置一つとってみても、ちょっとずらすだけで生産性が上がる場合がある。いうなれば、まだ農業機械は高専ロボコンみたいな部分があって、アイデア次第で機能性が格段に上がる可能性を秘めている。しかも、機能性が上がることはそのまま農家の生産性のアップにつながるわけなので、ユーザーの幸せにも繋がるわけだ。

その上、農業機械はグローバル化しつつある。ヤンマーがマンチェスター・ユナイテッドのグローバルパートナーになったのが2013年(3年契約)。その思惑は詳しくは知らないが、要は世界的な知名度を上げて、販路を広げていこうということなのだろう。何しろ東アジアの稲作地帯には、まだまだ機械化されていない米作りの地域が多い。日本メーカーお得意の米作専用機械をドンドン売っていける可能性がある。もしかしたら、この畦草払い機もインドネシアとかフィリピンとかの高地稲作地帯(要は平野じゃなくて棚田のように高低差のある地形で米作りしているところ)で需要があるかもしれない。

そんなわけで、今、農業機械メーカーは躍進の時代だと、勝手に思っている。ロボコンに熱中するような学生さんには最適の職場ではないか。でも、自動車メーカーだって面白いでしょ、というかもしれない。それはそうだと思う。なにしろ革新的な自動車を開発できれば社会そのものを変えるようなイノベーションになる。一方農機具メーカーは、どんなにスゴい農機具を開発しても多分社会までは変わらない(少なくともすぐには)。でも一人の農家の経営が変わる。そういう、生産の現場とダイレクトに繋がる楽しさが農機具メーカーにはありそうな気がする。

2014年10月17日金曜日

アラブの農業革命——柑橘の世界史(7)

ヒシャーム宮殿のモザイク「生命の樹」
7世紀、中東と地中海世界は、突如としてアラブ人の時代に入った。イスラームの興隆が始まったのである。

アラビア半島の片隅で生まれたイスラームの共同体は、もの凄い勢いで周囲を飲み込んでいった。既にササン朝ペルシアやビザンツ帝国は老いた国となり往時の面影はなく、中東では、新たな秩序が求められていたといってもよいかもしれない。そこにうまい具合に現れたのが、イスラームという清冽で簡素な教えだった。

イスラーム勢力が、どのように地中海世界の覇者となっていったかを詳しく述べるのはやめにする。ひとたび広大な版図を支配したイスラーム帝国が分裂し、地方王朝が乱立していく経緯も、柑橘の世界史の観点からはさほど重要ではない。ここでは、西アジアから北アフリカ、スペインに至るまでの領域がイスラーム文明によって共通の基盤を与えられ、一つに繋がったということが重要である。8世紀から15世紀ごろまで、地中海の南側はイスラーム世界だった。

そしてこのイスラーム世界において、アラブ人たちが愛した果物がレモンである。 といっても、付け加えなければならないのは、アラブ人たちがその血として肉として愛した果樹というのは、なんといってもオリーブとナツメヤシだ。アラブ人たちは、オリーブとナツメヤシの育たない地域には、ついに国家を作ることがなかった。つまり、いわばこれらの果物が主食として愛された果物であるとするなら、レモンは嗜好品として愛された果物だった。

どうしてアラブ人たちはレモンを気に入ったのだろうか? その理由はよくわからない。というより、別にアラブ人たちはことさらにレモンだけに執心していたわけでもなさそうだ。なにしろアラブ人たちは果物に目がなくて、レモンだけでなくザクロ、ブドウ、バナナ、イチジク、メロン、サワーオレンジ、マルメロ、ナシ、リンゴなどたくさんの果物を楽しんでいた。とはいってもイスラーム世界において、レモンの栽培が広範囲に伝播し、その利用も様々に工夫されたこともまた事実である。なにしろ、レモンは『クルアーン(コーラン)』に出てくる「楽園」にある樹木と見なされることさえあった。

もちろん、栽培や利用の技術が発達・伝播したのもレモンだけではない。8世紀から11世紀は、イスラーム世界で農業技術が長足の進歩をなし、また様々な栽培植物が各地に伝播していった。この時代の農業生産性の向上を「アラブの農業革命」と呼ぶ人もいる。

例えばアラブ人たちが地中海世界に伝えた重要な作物だけを挙げても、稲、硬質小麦(強力粉を作るコムギ)、サトウキビ、棉、ソルガム、バナナ、ココナッツ、メロン、マンゴー、ほうれん草、タロイモ、アーティチョーク、ナスといったものがある。インドやアジアにあった作物を、貪欲に取り入れて各地に伝播していったことはイスラーム文明の大きな功績である。

これはもちろん、地中海南岸から中東、西アジアという広大な領域がイスラームという共通の文明に支配され、人や物の流通が盛んになったことによる。その上ムスリム(イスラームの信徒)には、一生に一度はメッカに巡礼することが推奨されており、まさにこのために人の行き来が盛んになった。以前も書いたように、作物の伝播にはただ種や苗が運ばれていくだけでなく、人の移動が不可欠である。巡礼をきっかけにした旅が新たな作物の伝播に寄与していたのではないかと思う。

また、農業技術や理論の面の進歩も著しかった。土壌論、土壌の改良、水利・水質論、肥料論、病害虫の防除といった現代の農学と同様の体系が構築された。栽培技術においては、特に商品作物となる園芸野菜と果樹について集約的な管理方法が開発された。こと果樹に関しては、植え付け、接ぎ木・挿し木、剪定、灌漑など現代の果樹管理と変わらない技術が既に用いられており、10世紀においておそらく世界最高峰の水準に達した。

イスラーム世界の中心である中東や北アフリカは半乾燥地域が多かったために、灌漑技術はことさら優れていた。古代イラン文化から引き継いだカナート(灌漑用のトンネル)やメソポタミアの水利技術を踏まえ、運河・隧道を開削し灌漑システムを作り、植物栽培における水管理を徹底した。これはまさに、年間を通して適切な降雨を必要とする柑橘類の栽培にはうってつけのものであった。

ところで、こうしためざましい成果を上げた園芸農業・果樹産業と違い、小麦や大麦など穀物の生産性はそれほどでもなかった。広大な農地に灌漑を行うことは無理であり、イスラーム世界の穀物栽培は天水(雨)に依存するものであった。地中海では冬にある程度の雨が降るが、穀物はその降雨に頼った栽培であったので、たまたま雨の少なかった年には収穫が激減する時があったようだ。であるからこそ余計に、都市近郊の集約的な園芸農業・果樹産業に力が入ったに違いない。博打的な穀物生産と、集約的で安定した園芸・果樹の2本立てがイスラーム世界の農業だった。

このイスラーム世界で、レモンを中心とした柑橘類はそれまでと違った歴史を歩むことになる。地中海世界では、それまで珍奇な香料や薬品でしかなかった柑橘が、食生活の中心に躍り出たのである。

【参考文献】
『イスラーム世界の興隆(世界の歴史6)』2008年、佐藤次高著
『イスラーム農書の世界』2007年、清水宏祐著
"Lemon: A Global History" 2012, Toby Sonneman

2014年10月12日日曜日

「海の見える美術館で珈琲を飲む会」チラシできました!

先日お知らせした「コーヒーを飲む会」の続報。

イベントのチラシを作成したのでここで発表します!
http://nansatz.html.xdomain.jp//archive/museum-cafe-kasasa.pdf
(内容は下の画像と同じもの)

決定事項としては、
  • イベント名称を「海の見える美術館で珈琲を飲む会」に決定(長いですが)。
  • 入館料を200円徴収することに(なにしろコーヒーが無料なので)。
  • 「ダイビングステーション 海来館」さんの協力を得た写真展「生命あふれる 南さつまの海!」を同時開催。
というところ。

ちなみに、本日(10月12日)MBCラジオでやっている「じゃっど! すっど! きばっど! 南さつま!」(”!”マークが多い…)という番組に出演させてもらい、元々の目的である大浦まつり(10月19日)の広報のついでに本イベントもお知らせしたのだが、なんと日程を「12月23日」と間違って告知してしまった模様…。正しくは11月23日(勤労感謝の日)です。

Facebookでも「海の見える美術館で珈琲を飲む会」イベントページを作成しているので、Facebookを利用される方は「参加」ボタンを押していただければ幸甚です。



2014年10月8日水曜日

人と人との新しいつながりを増やす、素朴なアイデア

以前、かなり否定的な紹介をした「百寿委員会」の続報である。

細かいことはともかく、今どんな検討をしているのかというと、WG毎にいくつかやることを決めて、それの具体的な計画を作っているところである。例えば、ラジオ体操をもっと広めようとか、人材バンクを作ろうとか(活躍の場を増やす)、マップづくりをしよう(交流のきっかけにする)といったことを検討している。

私の所属するWGは、健康づくりのための活動というよりは、その前段階となる、人と人とのつながりに関わる活動がメインターゲットである。

人と人とのつながりというと、交流の機会を設けることが必要となるが、既に自治会単位、校区単位で老人会的なサロンのようなものは行われているわけで、そういったものを活かしていこう、というのが基本的な方向性になる。

本委員会の性格を考えると、それは妥当な方向性だと思う。でも私は、自治会単位とか校区単位でない交流の方が自由で好きだし、それに趣味の集まりのような交流と同じくらい、経済活動の一環としての交流も重要だと思っている。つまり、ものを売ったり買ったりすることも交流の一種なのだから、「非営利的な交流」だけを考える必要もないと思う。

それで、私自身、今「笠沙美術館でコーヒーを飲む会」というイベントを計画していて我田引水ではあるのだが、「イベントの中身は問わないで、○○人以上の人が集まるようなイベントには一律5000円くらいの補助金を出すのはどうだろう?」と提案してみた。この提案は「それもいいかもね」程度で流れてしまったのだけど(そもそも役所の予算を審議する委員会ではないし)、改めて考えてみてグッドアイデアな気がするので備忘のために書き留めておく。

言い添えておくと、南さつま市には「市民活動応援事業」というものがあって、イベントの開催などに補助が出る。NPO等が使える30万円までの事業(補助率1/2)と、5人以上の団体が使える10万円(全額補助)の2種類のメニューがあり、それなりにいい事業だと思う。

でもこの「市民活動応援事業」は年度初めに申請しなくてはならないので、年度の途中で企画されたイベントには使えない。それに、小規模のイベントを行う場合にはちょっと敷居が高い。そこで、年度途中でもいつでも申請できる代わり補助金額は5000円で一律にしたメニューを作ってはどうかというわけだ。

「イベントの中身は問わないで」といっても、スーパーの特売がイベントに当たるかというとそれはないと思うし、営利的な交流がOKといってもやはり普段の販売と違う要素がないとだめだとは思う。でも逆に、普段の販売と違う要素さえあれば、お店で行うイベントだって対象にしてかまわない。経済活動が盛んになり、交流も盛んになれば一石二鳥だ。

ちなみに「コーヒーを飲む会」は今のところ収支はトントンか赤字の見込み(!)であるが、赤字ではイベントは続けられない。やはり僅かでも収益があってこそ継続性が見込めるわけで、そこに5000円でも補助があったらものすごく嬉しいというのが実感である。こういうことを言うと、随分小さな金額の話でしみったれてるなあと思うかもしれない。でもそういう草の根の小さな交流の機会がたくさん増えたら、新しい活動のきっかけも増えるし、新しい友人も増える。ひいては街の活性化に繋がる。5000円の補助を100件のイベントが受けてもたったの50万円。

街の予算を50万円使うだけで、人と人が出会う機会が100回も増えたら、ステキなことではないか? もちろん、こういう制度があったらそれを悪用(?)する人もいるだろう。不特定多数が来るのではない、内輪の集まり(何かの定例会とか)をそれらしく見せて申請したりする人もいるかもしれない。でもそういう事例がいくつか出てきたら、事後の監査をしっかりとして制度を改善していけばいいだけの話である。

「百寿委員会」ではこのアイデアはあえなくボツになったようだが、また機会あるときに役所の人に提案してみたい。

2014年10月2日木曜日

【告知】「笠沙美術館でコーヒーを飲む会(仮)」を開催します!

重要な告知(!)。

来る2014年11月23日(日)、勤労感謝の日に「笠沙美術館でコーヒーを飲む会(仮)」を開催します!

この笠沙美術館は沖秋目島(ビロウ島)を望む絶景の地にあり、そこにある景色自体が一つの芸術品のような美術館である。

コーヒー党の私としては、以前から、ここでコーヒーを飲めたら最高だなあ! と思っていた。先般この施設の指定管理者の公募があって、うまくいけばミュージアムカフェのようになる可能性もあったのだが、条件の折り合いがつかなかったのか応募者がなかったそうである。

というわけで、どうも待っていても笠沙美術館でコーヒーを飲みたいという夢が叶わなそうなので、だったら自分でコーヒーを淹れてしまおうということになった。さらに、せっかくならコーヒー党(?)のみなさんにも呼びかけて「コーヒーを飲む会」にしようというわけである。

さらに、その日は一日美術館全体を借り切って、様々な企画も合わせて開催する予定である。例えば、場所がせっかく美術館なので写真の展示も行う(その内容はまだ秘密。お楽しみに)。それから、ミニマルシェも設ける予定である。「南薩の田舎暮らし」はもちろん出店するし、その他出店者を検討中である(このブログ記事を読んで、是非出店したいという方がいらっしゃったらお気軽にご連絡ください。コメント欄にでも)。

もちろん、コーヒー豆もそれなりにいろいろ準備する予定。ただ、一日だけのイベントでも販売には保健所から営業許可を取得する必要があって、その認可費用がかかるので、今回は販売ではなくコーヒー自体は無料(!)にしてカンパ制にしようと思っている。なのでコーヒー豆の持ち込みも歓迎である。いやこの際、サイフォンだってなんだってマイコーヒー器具を持ってきていただいてかまわない(はず)。ちなみにこちらで準備するのはごく標準的なペーパードリップの器具のみである。

こういうイベントを開催するのは、もちろん自分がコーヒーを飲みたいということも第一だし、それと同じくらい、笠沙美術館に秘められたポテンシャルを発揮させたいという気持ちもある。南さつま市の持つ素晴らしい財産が、今はなんだか死蔵されているような感があってもったいない。そのポテンシャルを活かして、笠沙美術館を若い人たちが面白い企画を実現できる場にしていけないだろうか?

まあそれは大げさでも、この機会にたくさんの人にここに来ていただき、素晴らしい景色を見ながらコーヒーを飲んでいただけたら幸甚である。

詳細はまた後日お知らせします。

2014年10月1日水曜日

ユダヤ人のディアスポラとレモンの誕生——柑橘の世界史(6)

ササン朝ペルシアの最大版図(西暦621年)
時は紀元1世紀。草創期にあったローマ帝国での話である。

ユダヤ人はローマで他の人たちと様々な軋轢を抱えていた。その頃は皇帝崇拝が確立していく時期にあったが、自分たちの神以外の聖性を絶対に認めなかったユダヤ人たちは共同体から孤立しつつあり、反ユダヤ的な風説(例えばユダヤ人はロバを崇めているという嘘)が流布されていた。

また帝国には、借金を抱えて政治的不満を抱き、その不満をどこかにぶつけて憂さ晴らししたい人びとがたくさんいたようだ。「反ユダヤ」は、そういう輩にとって手っ取り早い「政治的主張」になっていたに違いない。

そういう状態の中、ある街でユダヤ人とギリシア人の偶発的衝突が起こった。ならず者のギリシア人がユダヤ人街で暴動を起こしたらしい。それに対してローマの軍隊は何もしなかったばかりかその機に乗じて自らもユダヤ人街で略奪行為を行った。これに刺激され他の都市でもユダヤ人居住区の焼き討ちが横行し、怒りに燃えたユダヤ人たちがエルサレムに集結してきた。そして自然発生的に戦闘へと突入し、西暦66年、「第1次ユダヤ戦争」が始まったのである。

だがユダヤ人たちはローマの軍隊に敗北し、この内戦は70年にエルサレムが陥落して終わった。そして壮麗なエルサレムの神殿は破壊され、街は廃墟になった。タキトゥスによればこの戦争で、(かなりの誇張があるにしても)119万7000人のユダヤ人が殺されたという。

この敗戦は、ユダヤ人たちの立場を一層弱いものにした。無益な反乱が起こったことで、反ユダヤ主義が正当化されたからだ。ユダヤ人への弾圧はローマ帝国によって組織的に行われるようになった。そんな中、エルサレム陥落から約50年後、ハドリアヌス帝はエルサレムの廃墟を取り壊し、新たなポリスを建てる計画を立案した。ハドリアヌス帝はユダヤ人に同情的だったと言われるが、かつての神殿の跡地にユピテル神を祀るローマの神殿が建てられることはユダヤ人には耐え難かった。これがきっかけとなって、再びユダヤ人たちが集結し、今度は偶発的ではなく計画的に、ローマ帝国対ユダヤ人の全面戦争が起こった。西暦132年のことであった(バル・コクバの乱/第2次ユダヤ戦争)。

この戦争でもユダヤ人は敗北した(135年)。そして古代ユダヤ国家の歴史はここに幕を閉じることになる。そしてエルサレムという本拠地を失ったユダヤ人の、長い長い流浪の旅(ディアスポラが始まった。最初は家を失ったユダヤ人の臨時的な移住から始まったのだろう。ユダヤ人はローマ帝国内にちりぢりになり、またローマ帝国に絶望した者たちは、帝国を離れて亡命していった。

有望な亡命先は、ローマと敵対関係にあったパルティアバビロニアだった。パルティアはユダヤ人に対して融和的で、かなりの自治を認めていたようだ。そのためバビロニアには大勢のユダヤ人が集まった。

3世紀になるとパルティアが滅びササン朝ペルシアが興る。ササン朝は古代イラン文化の集大成とも言うべき国家である。ササン朝は後にゾロアスター教を国教化して宗教的に寛容でなくなるが、少なくとも初期はパルティアと同様にユダヤ人に融和的だった。

パルティアからササン朝に至る間、バビロニアではアーモーラーイームと呼ばれるユダヤ人の律法伝達者が次々に現れ、口伝律法を整理し、次第に精緻で巨大な宗教規則の体系(タルムード)を築き上げた。バビロニア時代は、イスラエルを失ったユダヤ人の、新たなアイデンティティの確立の時期にあたっていたように思われる。

そうこうしている間も、ユダヤ人は毎年の「仮庵の祭り」のためのシトロンを栽培し続けていた。どんな場所に流浪しようとも、律法に定められた毎年のシトロンは欠かさなかったはずだ。それどころかまさにこの頃、祭儀用のシトロンが満たすべきこまごまとした定めが作られたのだと思う。ユダヤ人のディアスポラは次第にその範囲を広げ、スペイン、北アフリカ、小アジア(トルコ)、エーゲ海の島々、ギリシア、イタリアなどに移住していったが、これらは全て柑橘類の生育適地だった。もしかしたらユダヤ人の移住地の選択は、シトロンが栽培可能であることが制約条件になっていたのかもしれない。

ユダヤ人はこうして、その長い流浪の旅で、各地へ柑橘栽培の技術と文化を伝えていった

ところで、おそらくは西暦1世紀から2世紀にかけて、中東へ新しい柑橘が渡ってきた。ちょうどシルクロードや海上の交易が盛んになる時代で、多分交易によってそれは東方から運ばれてきた。その柑橘はオレンジである。といっても、この頃のオレンジは甘くなく、日本で言えばダイダイのような酸っぱいオレンジ(サワーオレンジ)だ。

ササン朝ペルシア時代には、当時の人がオレンジを食べていたという話がある。この食べても美味しくない柑橘の原産地は、おそらく柑橘の故郷である北インドで、そこから伝播していくのに随分時間がかかったが、確かにゆっくりと広まっていった。これは推測だが、オレンジは肉の味付けに使われていたのではないかと思う。ササン朝ペルシアが国教としたゾロアスター教は食に対するタブーがなく、現世の享楽を是としていたので豊かな食文化が花開いた。肉を美味しく食べるための工夫が酸っぱいオレンジでの味付けだったのではないだろうか。

そしてこの頃、サワーオレンジと、ユダヤ人たちが携えていたシトロン、この2つの柑橘が自然交雑し、(正確な場所はわからないながら)この中東で重要な新品種が生まれた。レモンの誕生である。3世紀後頃、ちょうどユダヤ人がバビロニアでタルムードの編纂に邁進している頃のことだった。後に世界中で栽培されることになるこの柑橘は、古代ペルシア文化とユダヤ人が交差したその時に生まれたものなのだ。柑橘の世界史における、新しい時代の始まりだった。

【参考文献】
『ユダヤ人の歴史(上巻)』1999年、ポール・ジョンソン、石田 友雄 (監修)
『ゾロアスター教』2008年、青木 健
The Origin of Cultivated Citrus as Inferred from Internal Transcribed Spacer and Chloroplast DNA Sequence and Amplified Fragment Length Polymorphism Fingerprints" JASHS July 2010 vol. 135 no. 4 341-350, Xiaomeng Li et al.

冒頭画像:"Sassanian Empire 621 A.D" by Keeby101 - I used Photoshop, cropped the image, drew the borders, coloered the map and labeled all of the cities.. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons.

2014年9月26日金曜日

「ぬいぐるみツアー」、やってみたら意外と大変でした

知ってる人は知っている「ぬいぐるみツアー」こと「ぬいぐるみで行く 南薩 民泊ぷちツアー」。先ほど、お店のブログの方にレポートの最終回をアップして、全ての作業が終了し、ホッとしているところである。

この「ぬいぐるみツアー」、ぬいぐるみをいろんなところに連れて行って写真を撮るのがメインの作業だから、最初はさほど大変ではないと思っていた。人間の観光と違ってトイレは気になくていいし、予定のズレもさほど問題にならない、はずだった。ところがそういう見込みは大間違いで、実際はなかなかハードな仕事だった…。

というのも、人間と違って「そのあたりに並んでくださーい、記念写真を撮りますから」と言って並んでくれるわけではない。いちいち自分で並べて撮らないといけないし、1匹ずつ撮る場合はなおさら手間がかかる。特に位置の微調整は面倒だ。

さらには(これは事前にわかっていたことだが)ピントを合わすのが難しい! 人の記念写真の場合、カメラから人までの距離が5mくらいあって、1kmくらい先に風景があるという感じだと、人と背景の距離の差は200倍で随分あるようだが、これはカメラの方で十分対応できるらしい。これが、ぬいぐるみのようにカメラからの距離50cmくらいのものを風景と一緒に写そうとすると、風景かぬいぐるみのどちらかにしかピントが合わない!(あくまでも私の安物のカメラの場合ですが)

なので、望遠レンズを使って、カメラからぬいぐるみまでの距離を2mくらいまで延ばして撮ってみたが、それでもやはり風景とぬいぐるみの両方にばっちりピントが合うということはなかった…。F値やらシャッタースピードやらを調整すればピントが合ったのかもしれないが、結局そのあたりを追求する余裕もなかった。なにしろ、ぬいぐるみツアーの最中は、運転手 兼 添乗員 兼 カメラマン 兼 雑用係だったので…。

そしてそれ以上に苦労したのは、天候に恵まれなかったことである。人間のツアーだと日程が決まっているわけで天候が悪かったらしょうがないね、で済んだことだが、ぬいぐるみの場合そうはいかない。できれば天気のよいときの写真を撮ってあげたいという気持ちもあったし、そもそもぬいぐるみが雨で濡れてはいけないので雨天の撮影ができない。

そういうわけで、ツアー自体も苦労したし、こちらは想定内とはいえ終わってからの写真の整理もかなり手間がかかった(全部一緒ではなくぬいぐるみ別にアルバムを作ったので)。そして、お土産を贅沢につけすぎたことやプリンタインクを思った以上に消費したために正直言うとほぼ利益もなかった

でも元々利益を目的に企画したものではなかったし、前向きに考えると損もしなかったのでよしとしなくてはならない。 じゃあ目的はなんだったのか? 目的は、究極的には「南薩のファンを増やす」ことだ(ったはずです、たぶん…)。終了後のアンケートによれば、ぬいぐるみのご家族のみなさんにはかなりご満足いただき、南薩に自分でも行ってみたい、と思った人が多かったようなので、この点は素直によかったと思う。

この手間のかかる「ぬいぐるみツアー」をまたやるかどうかは未定である。でもあと2回(冬に1回、夏に1回)くらいはやってみて、さらに可能性があるのか試してみたいとは思っている。でもその際は、ちょっとでも利益が出るようにしないと後が続かないので、また内容をブラッシュアップさせていきたい。

最後に、参加された皆様、そしてご協力いただいた皆様(特に秋目で船に乗せてくれた上塘さん!)、ありがとうございました。大変でしたが結構楽しかったです。

2014年9月19日金曜日

シトロンとユダヤ人——柑橘の世界史(5)

エトログ・ボックス
旧約聖書に『レビ記』という、様々な律法について語る一篇がある。

『レビ記』の第23章では、他の様々な祭日とともに「仮庵の祭り」の説明がなされる。「仮庵(かりいお)の祭り」とは、ユダヤ教の重要な祭日で一種の収穫祭的な性格を持ち、ユダヤ人の祖先が奴隷状態にあったエジプトを脱出したことを記念して行われるものである。祭りはこのように始まる。
初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。 —(レビ記第23章40節)
この簡単な一文が、意外なことに柑橘の世界史へ甚大な影響を及ぼした。古代ユダヤ人たちが、ここに記述された「美しい木の実」をシトロンであると解釈したからである。

彼らはこの「美しい木の実」をエトログetrog)と呼んだ。元々、それがシトロンを意味した言葉かどうか定かでない。しかし、いつしかこれはシトロンであるということになった。その理由はよく分からないし、いつからそうなったのかも不明である。ともかく、紀元前の世界において既にエトログはシトロンとみなされていた。

律法というものを厳格に考えるユダヤ人たちは、「仮庵の祭り」のその日のために、毎年欠かすことなくシトロンを用意した。その用意が一日でも遅れることはあってはならなかったので、毎年確実にこの実が手に入れられるよう気をもんだ。

後代のことであるが、彼らは前もって手に入れたシトロンを箱に入れて大事に保管し、祭りの最中もその箱に入れていた。その箱はエトログ・ボックスといって、入念な細工が施された高級な宝石箱のようなものだった。ユダヤ人たちは、祭りの際はシトロンをまるで宝石のように大切に扱ったのである。

特に東欧に移住したユダヤ人たちにとって、シトロンは実際に宝石並の高級品でもあったようだ。南方の植物であるシトロンは東欧では育てることができなかったためである。空輸のような流通がなかった前近代において、毎年決まった日までにシトロンを確実に手に入れることは、かなりの苦労が伴ったと思われる。

それは古代でも同じだった。ユダヤ人たちが住んでいた中東は半乾燥地帯であったので、シトロンは自然にまかせて収穫できるものではなかったからだ。ユダヤ人たちは「仮庵の祭り」のためのシトロンを自ら栽培しなくてはならなかった。もちろん全てのユダヤ人がシトロン栽培者だったわけではないが、広域の流通が簡単ではなかった古代においては、ユダヤ人のいる街には少なからずシトロンが育てられていただろう。

そしてさらには、シトロンの栽培は難しかった。野生に近く、食べられないこの柑橘は、元々はさぞ強壮で育てやすい樹ではなかったかと思われる。しかし、祭りに使えるシトロンが満たすべき条件は後にこまごまと追加されて、それが新たな律法となり、ユダヤ人たちは厳しい条件の中でシトロンを育てなくてはならなかった。

例えば、祭り用のシトロンは接ぎ木では作ってはいけないとされた。耐病害虫、耐寒性などが優れた接ぎ木ではなく、実生(種から育てる)であることは生育適地を限定し、生産コストを高めた。また、ほんのちょっとのキズでもついていてはならないため、樹になった実のほとんどが使い物にならないこともあった。

ユダヤ人たちはこうした非常に厳しい条件の中で、毎年必ず決まった量の、決まった規格のシトロンを収穫し、定められた日までに、全てのユダヤ人コミュニティへと配送するという、古代社会としてはべらぼうに高度な生産・流通の仕組みを構築したのである。

少し話は脱線するが、ユダヤ人が祭りのためにシトロン栽培者にならざるをえなかったように、祭儀は農業の発展に意外と深く関わっている。例えば、牛の家畜化の起源には諸説あるが、祭儀での犠牲のためという説がある。牛を犠牲に献げる祭儀があり、その祭儀の日が予め決まっている場合、どうしても野生の牛を前もって捕らえ、祭儀の日まで飼育しなくてはならない。その短期間の飼育が、家畜化の第一歩だというのである。

考えてみれば、荒っぽい性格の野生の牛を傷つけずに捕らえ、逃げないよう柵で囲った場所を作り、餌をやり、糞尿の処理をするという大仕事を、ただ美味しい肉が食べたいということのためにやるのは道理が立たない。それならば、ただ野生の牛を仕留めて食べればいいだけの話で飼育する必要がない。飼育するというのは、特定の日に屠る、というなんらかの制約があったためなのだ。

他にも、ニワトリの家畜化も同様な祭儀と関係しているとする説がある(※)。畜産というのは現代でも大きな労力と資本を要するわけで、ただの畜産よりも遙かに困難な野生動物の馴化という偉業をなしとげるインセンティブは、祭儀くらいしか考えられない。農業というのは、ただ植物や動物を育てることではなく、植物や動物を人間の都合のいいように作りかえていくというプロセスが必要である。生き物を作りかえていくという巨大なエネルギーは、美味しいものをお腹いっぱい食べたいという欲望ではなくて、神へ捧げなくてはならないという畏怖の気持ちであろう。

ユダヤ人たちも、神へ献げる特別なシトロンを栽培しなくてはならなかったお陰で、非常に高い柑橘生産の技術を獲得したのである。『レビ記』のそっけない一文が、ユダヤ人たちを優秀な柑橘生産者にしたわけだ。そしてその技術は、後にユダヤ人たちのディアスポラ(離散)によって地中海世界全体へと伝播していくことになる。

※ それどころか、小麦の栽培も神に捧げるビール造りを行うために開始されたとか、多くの植物・動物の馴化に祭儀が関わっているとする説がある。

【参考文献】
レビ記』1955年、日本聖書協会
"The Saga of the Citron" Toby Sonneman

2014年9月17日水曜日

「みんなの南薩案内。」で南薩の写真や地域情報を待っています。


以前ブログ記事で予告していた、「南薩の写真をシェアするサイト」を晴れて立ち上げた。名前は「みんなの南薩案内。」。

このタイトルは、随分前に紹介した岡本 仁さんの『ぼくの鹿児島案内。』にあやかっている。南薩の、普段何気なく見ている景色や場所が、視点を変えるとまた違った魅力が見つかる場になったらいいなあ、というわけで勝手にあやからせてもらった。

以前の記事中で書いた通り、これは南薩の素晴らしい風景写真をシェアするためのものでもあり、また、イベントやお祭りなどの地域情報をシェアするためのものでもある。

ところが少し問題があって、 実は利用しているサービスの「つなぐらふ」は、どうしたわけかURL(リンク)のシェア機能がない。写真の投稿時にはコメント欄があるのだが、ここにURLつきの文章を投稿しても、URLが勝手に削除されて投稿されてしまうのである。

「つなぐらふ」は、観光マップづくりを売りにしているわけだから、URLのシェア機能は大変重要だと思うのだが、どうしてこのような仕様になっているのか不可思議だ。今後、<a>タグを使ったURLは表示するような変更をする予定とのことであるが、普通の人はタグを使うことはできないので、プレーンテキストでよいのでURLをシェアする改良が待たれる。

そういうわけで、イベントやお祭りなどの地域情報のシェアをするには正直少し不便である。それに、全体的なユーザーインターフェイス(要は使い勝手)もベストではない。でもこういうのは、とりあえず作ってみて、いろいろな人の意見や知恵をもらってまた別の形で作ってもよいのだから、オープンしてみることにした。

南薩にお住まいの方、南薩に来られた方など、素晴らしい写真や情報をお持ちの方は是非投稿してくだされば幸いです。投稿してみての感想なども本ブログのコメント欄にてお伝えいただければ更にありがたいです。ここがささやかな南薩の情報サイトにもなったらいいなと思っていますのでよろしくお願いいたします。

2014年9月13日土曜日

連作を恐るるなかれ

先日、自然農法セミナー「連作のすすめ」という研修に参加した。なかなか面白い内容だったので備忘のためにまとめておこう。

講師は伝統農法文化研究所 代表の木嶋利男さん。元は栃木県の農業試験場にいらっしゃった方。木嶋さんの主張は次のようにまとめられる。
  • 植物は、連作した方が生産性があがる。
  • 連作すると連作障害が出ることも確かだが、1年(か2年)我慢すれば連絡障害は出なくなり、病害虫も発現しなくなる(発病衰退現象)。
  • とはいえ、それは経営的に厳しいので、2、3年はコンパニオンプランツなどを使って、土壌消毒せずに頑張ってみるとよい。
後段のことはともかく、連作した方が植物の生育がよいというのは私も薄々感じていたことである。

農業の基礎的教科書には「連作によって土壌の生物相が偏り、病害虫が出やすくなる」「連作を避けて、効率的な輪作を行うのがよい」なとど書いているのが普通である。

しかし、例えばジャガイモを育ててみると、収穫後、土がいかにも「ジャガイモっぽい土」に変わっていることに気づく。どこがどのようにジャガイモっぽいかはうまく説明できないが、「いかにもジャガイモが育ってそうな土」に変わっているのである。植物は動けないために、土壌自体を自らに好適なものに徐々に変化させていく力がある。

だから、そこにまたジャガイモを植えたらよさそうだ、というのは誰でも思うだろう。ただここからがポイントで、木嶋さんがいう「連作」は、「続けて同じ作物を作り続けること」ではない。「同じ時期(季節)に、同じ場所で、同じ作物をつくる」のが連作で、そうでなければ輪作になる。要は、続けてジャガイモを植え付けても連作にはならない(まあ、春作と秋作では品種も自ずから異なるが)。季節が違えば土壌の条件が異なるからだそうだ。

ジャガイモの連作というと、次の年の同じ時期にジャガイモを植えることなのである。そして、その間、後作に何をつくっても連作は連作になる。同じ作物をひたすら作り続けるのが連作ではないのである。つまり連作というのは、同じ条件の下に作物を作り続けていくことだ。そういう意味では、「連作のすすめ」といっても、普通非常に重要とされている作物のローテーションを否定しているわけではない

そのように連作を続けていても、当然ながら連作障害が出る。連作障害というのは、連作によって土壌の生物相が偏り、病害虫などが頻発する状態をいう。これはかなり昔から「いや地」などと呼ばれて忌まれていたから、化学肥料や農薬のせいではない。この連作障害があるから、普通は連作は避けるべきとされているのである。

私がつくっているかぼちゃも、同じ場所でつくっているとネコブセンチュウとかネグサレセンチュウとかいう害を及ぼす連中が増えて、うまく生育しないかぼちゃが多くなる。そのため、真面目にやる農家(?)は、土壌消毒をするのだが、木嶋さんによると土壌消毒こそがよくないという。

土壌消毒をすると直後はいいが、結局はまたセンチュウ類が増えてきて、また土壌消毒が必要になる。だが、連作障害を耐えて(というのは、収量が激減するのに経営的に耐えて、という意味)その次の年も何の対策もせずにまたかぼちゃを植えれば、次の年には連作障害は全く出なくなるという。一度土壌の生物相が偏って閾値を超えると、今度は土壌の多様性を回復させる方に力が働き、健全な土壌に戻るのだという。簡単に言うと、センチュウの天敵となる糸状菌(カビ)などが増えるからセンチュウ被害は出なくなる、ということだ。

だが、こうした天敵はセンチュウがある程度いないと増えないので、一度センチュウが出たらセンチュウを増やすくらいの気持ちでやらないといけないらしい。連作障害を恐れて土壌消毒したり、センチュウを減らす緑肥を植えたりするのは逆効果だ、と断言していた。正直いうと、私自身、今年は春かぼちゃの後作に、センチュウを減らす効果があるとされているクロラタリアという緑肥を育てていたので、ガッカリしたところである。

また、病気の対策も似たようなもので、普通、植物に病気が出たらそれ以上広がらないように罹患した植物を取り除き、圃場から持ち出すこととされているが、木嶋さんによるとそれも逆効果だそうだ。罹患したら、その植物を切り刻み、圃場に埋めるのがよいという。そうすると、病原菌が土壌で増えて、同時にそれに対抗するものも増えるから、次の年には病気がでなくなるということだ。

話が少し逸れるが、農業というのは勉強しているとこういうのがすごく多い。Aと言われているけど実はBだ、とか、Aがよいといわれているけど実はAはダメだ、とか、正反対のことがよく言われる。それだけ未熟な産業で、本当は何がいいのかよくわかっていないということなのだが、少なく見積もっても5000年くらい歴史があるのに、こんなにあやふやなことが多いことというのも他にないと思う。

ともかく、連作を続けると生産性が上がる現象は木嶋さんが言っているだけでなくていろいろな人が観察・研究しており、それ自体は信頼できそうである。問題は、一度は連作障害で壊滅的な被害を受けないと次のステージに進めない、というスパルタな展開である。これを軽減するため、木嶋さんはコンパニオン・プランツ(共栄作物)などの伝統的な知恵を使って乗り切るべしとしているが、これの効果は植物によって様々だし、決定的な組み合わせが全ての作物にあるわけではない。

たとえば、ウリ科にはネギの混植がよいとされているが、かぼちゃは葉っぱが大きすぎてネギの受ける光をかなり減らしてしまい、あまり効果がないという。とすると、連作方式でかぼちゃをつくる場合はどうしても潰滅に耐える必要があるということなのか…? そのあたりが「連作のすすめ」の弱点ではあるが、連作の重要性を認識させてもらったので、今後活かしていきたい。

2014年9月10日水曜日

西方へもたらされた唯一の柑橘——柑橘の世界史(4)

シトロン
シトロン
中国で楚の屈原が柑橘を誉め称える詩を作ってから暫く後、ギリシアではテオプラストスという哲学者が重要な本を執筆した。それは『植物誌』といって、西洋ではなんとルネサンスに至るまで1500年以上もの間、植物学の最重要文献であったという驚異的な本である。紀元前3世紀のことであった。

その『植物誌』に、柑橘の一種である「シトロン」が記載されている。

シトロンは日本では馴染みのない果物だが、レモンに似た柑橘で、大きさが文旦くらいで表面はゴツゴツしており、果肉・果汁が極端に少なく白い皮の部分がめちゃくちゃ厚い。シトロンの果肉はパサパサしていて食べられないが、白い皮の部分は現代ではマーマレードにしたり砂糖漬けにしたりもする。

漢名は枸櫞(くえん)といい、なじみ深い「クエン酸」は実はこの果実の名前から名付けられたものだ。

このシトロンは、古代ギリシアでは「メディアの林檎」とか「ペルシアの林檎」とか呼ばれていた。原産地は遠くインドであったが、テオプラストスはそれをまだ知らず、ペルシア(そこはかつてメディアという国があったところでもある)原産の果物だと思っていたようだ。テオプラストスによると、
この「林檎」は食べられないが、実も葉もとても香りがよい。そしてこの「林檎」を服に入れておけば、虫がつくのを防ぐこともできる。また毒薬を飲んだときにも有効だ。ワインにいれて飲めば胃を逆流させて、毒を吐き出させる。…
ということである。不思議なことだが、インドには様々な柑橘類が産していたにも関わらず、古代において西方の地中海世界に伝えられた柑橘は、ただ一つこのシトロンだけだった。どうしてこの食べられない果物だけが伝わっていったのかはよく分からない。香り付けによいということだったにしても、他にも香りのよい柑橘はあったはずで、なぜシトロンだけが特に選ばれたのかは謎である。

紀元前4000年に、既にメソポタミアではシトロンが伝えられていたというから、この果実の西方世界への伝播は非常に早かった。柑橘は年間を通じて適度な降雨を必要とするから、半乾燥地帯である中東に自然に(人の手を介さず)広まっていったということは考えられず、人為的に持ち込まれ、栽培されていたのは間違いない。もしかしたらシトロンは、その解毒作用を期待されて広まったのかもしれない。毒薬を飲むという状況が、そんなに頻繁にあったのかどうかは分からないが、 特別な薬としての需要はあっただろう。

中東では古くから栽培されていたこのシトロンが、中東からさほど離れていないギリシアへと伝わったのは割合に遅く、伝説ではアレクサンドロス大王の東征の際(紀元前4世紀)にもたらされたと言われている。

アレクサンドロス大王はその短い生涯でマケドニア(北方ギリシア)から東インドに至る空前の世界帝国をつくり上げ、それによってこの広大な地域の文化が相互に交流した。教科書などでは東方にギリシア風の文化が広がり、ヘレニズム(ギリシア風)文化が興ったと説明されがちだが、アレクサンドロスはむしろペルシアの進んだ文化を積極的に取り入れており、ついにはマケドニアの服装も捨て、ペルシア風の装束に身を包んだほどである。一方方向にギリシア文化が伝わったわけではなく、この時代は、最初の東西文化交流の時代であった。

すなわち、アレクサンドロスの時代、ギリシアのものが東方に伝播していっただけでなく、中東からインドにかけての様々な文物が、大量にギリシアに入ってきたのである。『アレクサンドロス大王東征記』などにはシトロンの記載はないが、ギリシアから東インドの政治的統合が、シトロン伝播の遠因となったというのはありそうなことだ。

蓋し、栽培植物の伝播というのは、意外と政治的なものに支配されている。一国の国土というものは、だいたい似たような気候風土で纏まっていることが多いし、隣国との境は険しい山脈や大河で隔てられていることも多いから、単純に政治的な国境が栽培植物の伝播を妨げているとはいえない。しかし、全く別の文明が支配する領域にはある種の栽培植物がなかなか広がっていかないことも事実である。植物の栽培というものは、種や苗の移動だけでなくて、それを育てて利用する技術と文化をもった人間が移動していかなくてはならないからだ。

逆に言えば、人間の移動によって、栽培植物はその生来適応した環境を超えて広範囲に伝播しうる。このシトロンこそは、人の移動によって最初にヨーロッパへともたらされた柑橘なのであるが、それは次回に詳しく述べることとしよう。

【参考文献】
"Enquiry into plants and minor works on odours and weather signs, with an English translation by Sir Arthur Hort, bart" 引用は拙訳によった。

※冒頭画像は、こちらのサイトからお借りしました。

2014年9月7日日曜日

書体としてのPOP文字について

先日、POP(店先に掲げる宣伝カード)の描き方の研修会に参加した。

研修会の内容のことはともかく、とても気になったのはPOP文字そのものである。

POP一筋31年というとんでもない講師の指導によれば、POP文字というのは、「①四角の中いっぱいに、②タテ線、ヨコ線はまっすぐに、③線で囲まれるところは強調(「ほ」の右下の丸の部分を大きく書く、など)、④書き始めから終わりまで同じペースで終わりはハネない、⑤できるだけ簡略してもよい」というように書くものらしい。

これを素直に守ると画像のような文字になるが、私からするとちょっと品がない字のように見えてしまう。この文字が書いてあるとすぐにPOPだと分かるとはいえ、どうしてこんな文字を書かなくてはならないのだろうか。ぱっと見では、普通に書いた方が断然にきれいな文字ではなかろうか。

POP文字の場合、普段の字のきれいきたないに関わらずほとんどの人が同じような文字を書けるようになる利点があるらしいので、そこは認めるにしても、あえて品のない文字の書き方を指導されているようで腑に落ちない。

ところで話が随分飛ぶようだが、文字の書体というものは幾度となく変転してきた。甲骨文、金文、篆書、隷書、草書、行書、楷書、明朝体、ゴシック体、などなど。こうした書体はどうして変転していったかいうと、主に筆記用具と書く目的が変化していったことによる。例えば篆書から隷書、草書へと変化していくのは、筆の普及が大きく関係している。

これは現代においても変わらない。石川九楊という書家が考察しているが、女の子が書く丸文字が生まれたわけも筆記具の変化によるらしい。元々漢字もひらがなも、縦方向に繋がっていく性質がある。ところが、大学ノートなどは横書きなので、筆記の際に縦に繋がろうとする力に抵抗しなくてはならない。そこで、一文字一文字を分断させて完結させ、まとまりよく見せようとすると自然に丸っこい文字になるという。さらには、ボールペンまたはシャープペンシルという細字に適した筆記具と、行内に文字を小さく書く必要があることからこの傾向が加速され、丸文字が生まれたらしい。

POP文字が生まれたのも同じ視点から考えられる。これは、太いペンを使って遠くからの視認性をよくし、横書きで収まりよく書こうとした結果として生まれた文字なのだろう。考えてみると同様の目的をもった映画の字幕文字と字形が非常に似ている

そういうわけで、あまり上品とは言えないPOP文字にも、ある程度の合理性はありそうである。ただ、写植の普及で字幕文字がかなり減ったところを見ると(※)、この文字が素晴らしいから使われているというよりも、手軽な次善の策として普及しているのかもしれない。

一方で、講師の先生によると、この文字をちゃんと使ってPOPを作るだけで売り上げが違ってくるというから、POP文字には視認性だけでなく、購買意欲に繋がる秘密もあるのかもしれない。なによりPOP一筋31年というキャリアを積んできた講師の存在自体がPOP文字の必要性を物語っている。

とはいうものの私自身の好みとして、習ったPOP文字はそのままでは使わないような気がする。ただ、買ってくれる人の立場に立って文字を書くというその精神は尊重しつつ、POPを書く必要がある時は自分なりに納得できる文字を使ってゆきたい。

※字幕文字には古くからの愛好者がいて、また長年いろいろな人が工夫してきたことから一種の文化がある。字幕を手書きすることはなくなったが、敢えて手書き風の字幕書体を使っている映画もある(ハリー・ポッターとか)。だからPOP文字もこの先何十年すると洗練された文化となっていくのかもしれない。字幕の手書き文字が減ったのはもちろん予算の都合も大きい。

【補足】2014年9月19日アップデート
一面的すぎる表現の部分があったので修正しました。

2014年8月29日金曜日

「柑」の誕生——柑橘の世界史(3)

既にたびたび書いてきたように、柑橘類というものは元々は甘くなかった。アッサム地方に発祥し、中国大陸へと渡ってきた柑橘類は、酸っぱいオレンジ(サワーオレンジ)たちであり、食用ではなく薬用または香り付けのためのものだった。

今あるような、甘いミカンやオレンジ(スウィートオレンジ)がいつどうやって誕生したのかはよくわかっていない。おそらく、酸っぱいミカン(ダイダイのようなもの)と文旦類の自然交雑か突然変異によって生まれたと考えられており、少なくともそれは紀元前450年より前のことだった。というのも、これも既に書いたが湖南省にある紀元前450年と推定されるお墓から、スウィートオレンジのものとみられる種が発見されているのである。

しかし、この甘くて美味しい新品種は、意外なことになかなか中国大陸に広まっていかなかった。その理由を理解するには、少しだけ柑橘類の性質について理解する必要がある。

柑橘類というのは遺伝的に非常に多様であって、形質が安定していない。例えば、ミカンを食べた時にその種を取っておいて、それを庭に植えたら同じようなミカンが穫れるかというと、普通は穫れない。元のミカンよりも酸っぱかったり、小さかったり、あるいは全然別のミカンになってしまうこともある。どうしてこうなるかというと、現在我々が利用している柑橘類は、様々な系統の柑橘を交雑し、交雑に交雑を重ねて作られたものだからである。

形質が安定していないことは、変化が大きいということだから、新品種を生みだす可能性もまた大きい。近年になって柑橘類は訳が分からなくなるほど新品種が開発・導入されているが、これは柑橘の巨大な多様性のお陰なのである。

それは古代中国においてもさほど変わらなかった。できたばかりのスウィートオレンジは遺伝的に安定せず、増やそうと思っても種からは増やせなかった。たくさんの種を取って、その中の一つから育てた木で甘い柑橘が穫れる、というような具合だっただろう。そのため、スウィートオレンジが長江流域に広がっていくには数世紀の時間を要した。

しかしその数世紀の間に、この新品種は膨大な数の交雑を経験したに違いない。そして生まれたたくさんのスウィートオレンジたちが、より美味しいものを求める人びとの手によって選抜されていった。それは意図せざる品種改良の数世紀だったのである。

ところで、そのような変異が大きい柑橘の木を元の形質を保ったまま増やしていくために、現代では「接ぎ木」という技術が使われる。接ぎ木というのは、別の植物の根っこ(台木)に、増やしたい植物の枝をくっつけて、一種のキメラ植物を作る技術である。植物には動物のような免疫機構がないので、別の植物にくっつけるという生体移植が容易に行えるのである。ちなみに、柑橘の台木にはカラタチ(枳)が使われることが多く、ほとんどの柑橘はカラタチの根を持っていることになる。

私たちが食べている普通の柑橘というのは、全てがこの接ぎ木によって増やされたものである。接ぎ木というのは一種のクローンだから、ある品種のミカンの木は全て、ある一本の木からコピーされたクローンというわけだ。

この「接ぎ木」、どうやら中国でもかなり古くから知られていたらしい。といってもいつから接ぎ木がなされていたのかは不明である。6世紀の記録に既に接ぎ木があるというから、少なくとも6世紀にはこの技術は一般化していたようだ。さらに推測すれば、中国古典において「橘」と「枳」が対応するものとして述べられていることを思い出すと、おそらくカラタチ台木を使った接ぎ木の技術は紀元前を遡るかもしれない。中国は、世界で最も古く接ぎ木の技術が発見された地域であろう。

この接ぎ木の技術が一般化することで、美味しい柑橘をならす木を効率的に増やすことができるようになった。それで、品種改良のスピードもアップし、生産量も拡大したに違いない。

さらにもう一つ、柑橘生産に役立つ栽培技術が紀元前後の中国で開発されている。それはいわゆるシトラス・アント(柑橘蟻)の利用である。私も小規模ながら柑橘を無農薬栽培しているが、柑橘の木というのは害虫にとても弱い。特に苗木の時は、農薬なしで育てるのは非常に難しいと思う。古代の柑橘はこれほど弱くなくても、農薬などない時代、やはり他の植物よりも育てるのが難しかったろう。

そのため、中国人はシトラス・アントという特殊な蟻を利用することを考えついた。これはツムギアリであると考えられているが、この蟻をあえて柑橘の木に棲みつかせることで、他の害虫を予防したのである。西暦304年に著された『南方草木状』には既にこの蟻が袋に詰められて柑橘栽培者へ向けて販売されていることが述べられており、これは世界で最も古い生物的防除の技術かもしれない。この技術は、それから1700年以上もの間、中国大陸において柑橘の害虫防除のために使われている。

こうした技術のお陰で、偶然によって生まれたスウィートオレンジは様々に品種改良され、また安定的に生産できるようになっていった。紀元後の数世紀で、中国大陸に世界最古の柑橘産業(citriculture)が成立するのである。そして、この新参者の甘いオレンジの一群を総称するものとして、中国人は「柑(かん)」——甘い木——という字を作り、与えたのであった。

【参考文献】
『Odessy of the Orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper
『ダニによるダニ退治: カナダからアメリカへ』2001年、森樊須

2014年8月28日木曜日

米作りにバーチャルでも参画してもらえる妙案はありませんか?

こちらに来てから3回目の米作りが終わって、なんだか、稲という植物がどういう風に生長していくかがなんとなく分かってきた。

作ったお米はどうしていたかというと、自家消費と余った分を農協に出荷する以外はごく限られた人にしか販売していなかった(そもそも売り先もない)。米作りはあくまで「田舎モノの嗜み」としてやっているだけで商売にするつもりはなかったし、水田を広げていくつもりは今でもない。

でも同じ手間をかけるなら、ただ嗜みとして作るだけでなく、もう少し楽しく作りたい気持ちがある。それに自家消費としての米作りは赤字で、どこかから買った方が安上がりだ。せっかく無農薬・無化学肥料で作っているのでJAに出荷するのももったいない。

そこで少し考えたのだが、来年は田んぼオーナー制みたいなのをやってみたいと思う。といっても、いわゆる田んぼオーナー制は、一区画のオーナーとなり、農作業に従事し、収穫は全てもらい受ける(オーナーだから当たり前)というものだが、この南薩の僻地に田植えや収穫に来ていただくのは大変だし、こちらの対応も難しいので、それはできない。

できそうなのは、日々の作業を事細かに記録して、ニューズレター風に報告することくらいだろう。でもそういうのが、実はこれまでの田んぼオーナー制では十分でなかった部分だと思う。「順調に育っています!」とか「稲穂が色づいてきました」とかいう情報発信はあっても、畦草払いをどれくらいしているのかとか、植え付け前の田起こしや代掻きの様子から情報発信するというのはなかなかないのではないか。

というか、こういう地味な作業を行う時にいちいち写真を撮って報告するというのはものすごく手間だから、やろうと思っても難しいのが実際だ。でもだからこそ、そういう情報をマメに提供するのは意味があるかもしれない。

だが、日々の具体的な作業がわかっても、別にお米の味が変わるわけではないので、ただ栽培記録が届くだけだとものたりない感じがする。それは定植前に予約受付を行うお米の予約販売にすぎないような気もする。オーナーではないにしても、どこかで「自分のためのお米」が育てられている感じがないと、栽培記録はただの水稲栽培のお勉強になってしまう。つまり、人と田んぼの接点が情報以外で何もないなら、それは単にものすごく詳細な栽培記録つきのお米を販売することと変わらない。

だからこそ田んぼオーナー制では、ただ田んぼを所有するだけでなく、田植えや収穫作業を手伝うというのが基本形になっているのだろう。でも私の場合は、そうした対応をするのは難しいし、そもそも田んぼを本格的にやっているわけでもないので仮に対応できたとしても違和感がある。

私が田んぼでやれたらいいなあと思うのは、「田舎から届くお米」みたいなものを田舎を持たない人に提供する活動である。それを単純化すると、個人向け契約栽培米ということになるが、契約栽培ということより、もう少しコミュニケーション(双方向性)が欲しい。うーん。

と、くだくだしく書いてきたが、要は私の米づくりに、バーチャルでいいから誰か参画してもらえたら楽しい(あと売り先もできる)ということなのである。それを実現する妙案が思い浮かばないので、もしグッドアイデアをお持ちの方はコッソリ教えていただければ幸いです。

2014年8月13日水曜日

大浦まつりが開催されます

2014年10月19日、大浦まつりが開催される。

大浦まつりは、各地区で行われていたお祭りを糾合して町内全体のお祭りとして始まったもので、今年で第6回目になる。一応、自称(?)「大浦地域最大のイベント」である。

内容は結構盛りだくさんで、ステージもあるし、屋台的なものもあるし、イベント的なものもある。会場は違うがスポーツ大会も行われ、体育館では展示もある。そしてなんと、今回は特別展示として、先日開催されて大きな話題を呼んだ「南薩鉄道100年企画展」の展示が大浦まつりに巡回することにもなった(はず)。

私も今年は実行委員の末席を汚していて、なんだかよくわからないまま実行委員会に出ているのだが、ちょっと驚いたことがある。それは、このお祭りの予算のほぼ1/3が市役所からの補助金で成り立っていることだ。ほか農協や商工会、観光協会の補助金と合わせて、こういう(半)公共機関からの補助金が予算の半分を占める。事務局を役場が担っているのは、まあ田舎ではよくあることと思うが、予算の半分が補助金というのは、継続性が心配である。

お祭りというのは蕩尽の機会であるからもとより赤字なのは当たり前だが、だからこそ、寄附によって地域の人達が支えなければ成立しない。だいたいこういう地域のお祭りでは、金参万円○○、金壱万円○○、と長々しい寄付者リストが掲示されているものだ。一方で、大浦のひどい過疎化を考えると、商工会の努力も厳しくなってくるだろうし、一戸あたりいくら…という形で集めている現在の寄附募集の方法だと限界があるのも明らかである(寄附の集め方は集落によって違うようだが)。
 
私は、南薩地域の大きな強みは都会に出て行った人の割合が非常に大きい、ということだと思うので、こういう時こそ、大浦をふるさととする多くの方々の助力が願えないかと思う。昨年も、関東・関西在住の町出身者から合わせて10万円の寄附があったそうである。少し他力本願な気もするが、ここの割合を増やしていくことはできないものか。

もちろん、ただ「お金を出してください」というのではつまらないから、例えば大浦まつりに合わせて同窓会を開催することに協力するとか(例えば、会場に近い遊浜館の協力を得て同窓会の会場を斡旋)して、同日の同窓会開催を応援してはどうか。日程的に近い大浦小学校の運動会で還暦同窓会が行われる手はずになっているということだから少し重複感はあるが、せっかく同窓会で集まるなら、町内のいろんな人が顔を出す機会に開催したいという需要はあるように思う。同日で同窓会が行われれば、「○○年卒一同」で寄附が期待できるだろう。

それはともかくとして、このたび大浦まつりへの支援・協力をお願いする「趣意書」が配布されたのでここにお知らせする次第である。でもこの趣意書は寄付依頼そのものではないので、寄附の振込先などは書いていない。万が一大浦まつりを支援したい! という方がいらっしゃれば、南さつま市役所大浦支所(0993-62-2111)へご連絡をよろしくお願いします。

2014年8月11日月曜日

中国古典に見る柑橘——柑橘の世界史(2)

屈原(横山大観作)
中国大陸では古くから柑橘が利用されていたようだが、どのように扱われていたのだろうか。中国古典における柑橘の記述を探ってそれを確認してみたい。

その嚆矢は『書経』である。『書経』は伝説的古代を語る中国で最初の歴史書であり、成立年代ははっきりしていないが、紀元前7世紀あたりから徐々にまとめられ、紀元前4世紀ほどには成立したと見られている。柑橘の記載があるのは、中国の初代王朝である「夏」の歴史を述べる部分で、「禹貢」という章である。

「禹(う)」は夏の聖王であり、黄河と長江に挟まれた広い領域の土木事業・治水事業を行い、後世の模範となる善政を敷いたとされている。「禹貢」は、禹が各地を平定し、それぞれの地域ごとに貢ぎ物(税金のように定例的に上納するもの)を定めるという構成の章である。

柑橘が述べられるのはこの章の「揚州」の項。揚州とは、長江流域の地域を指し、ここからの貢ぎ物として「金、銀、銅、瑤(よう)、象牙、孟宗竹、木材」などなどを禹は指定している。そしてその貢ぎ物に付随するものとして「橘と柚(ゆず)」を挙げている(※)。ここでいう「橘」は柑橘の総称であり、「柚」はユズのことと解されている。

「禹貢」全体を通じてみても、貢ぎ物は各地の特産品、それも特に貴重なものが指定されているから、古代中国において「橘と柚」はかなり貴重・珍重なものだったことがわかる。ではそれはどのように利用されていたのだろうか。今の我々と同じように、古代中国の人びともミカンを食べていたのだろうか?

実は、歴史の黎明の頃、まだ橘や柚は食べるものではなかったようだ。それを示唆するのが『楚辞』の記述である。『楚辞』は文字通り「楚の言葉」の意で、紀元前3世紀ごろにまとめられた楚の詩集。「楚」は長江流域にあった国家の名で、地図的には先ほどの「揚州」と重なる。

『楚辞』の主要作品の作者である屈原は「橘頌(きっしょう)」という詩を詠んでいて、「九章」という連作詩の一編をなしている。これはまず間違いなく柑橘をテーマにした最古の詩であろう。 「橘頌」はこういう風に始まる。
后皇の嘉樹、
橘徠(きた)り服す。
命を受けて遷らず、
南国に生ず。
深固にして徙(うつ)し難く、
更に志を壱にす。…

皇天后土の生んだよい樹、
橘はここに来て風土に適応し、
天の命を受けて他国に遷らず、
南国楚に生ずる。
根は深くて移植しがたく、
その上その志は一途で二心がない。…(星川 清孝訳)
こういう調子で、「橘頌」は橘の美点(見た目が美しいとか)を次々と挙げ、自分もそのように清廉潔白で志が高くありたいと理想的人格を投影している。

少し話が脱線するようだが、この機会に屈原について語っておこう。屈原は楚の王家に生まれ、博覧強記で政治能力が高く王の寵愛を受けながら、そのために妬まれ讒言を受けて左遷され、自分の諫言が受け入れられないことを嘆いて楚の将来を悲観し、ついには入水自殺した人物である。「九章」は、王から遠ざけられて悲憤慷慨し、また憂愁の情を抱きながら、それでも自分は清廉に生きていこうとする内容の連作詩であり、極めて叙情的であるとともに神話伝説などをも織り込み、天上世界にまで到達するというロマン的な筋書きを持っていて、ダンテの『神曲』を彷彿とさせる

この一遍として「橘頌」はある。ただ橘が美しいので自分もそうありたい、というだけのことではなく、讒言を受けても左遷されても結局楚を離れなかった屈原の、決して他国に移植することのできない橘のように自分も楚で生きていくのだ、という強い決意を表明したものなのであろう。

そして問題なのは、屈原が掲げる数々の橘の美点である。緑の葉に白い花がまじって可愛らしいとかいろいろ橘を褒めるのだが、一言も「美味しい」とは褒めないのである。橘が食べるものであったとしたら、これは甚だ不自然なことであり、おそらく屈原は橘を食べたことがなかった。柑橘をテーマにした世界初の詩を編むくらいであるから橘を愛でることにかけては激しかったはずの屈原すら美味しいとは褒めないわけで、ここに詠われている橘が食用でなかったことは確実である。

おそらく、古代中国において、橘は主に観賞用や香料、そしておそらくは薬として使われていた。このころの橘は、概して酸っぱいものであり、 食用に適したものではなかったようである。しかし不思議なのは、湖南省の、紀元前450年のものと推定されているお墓からスイートオレンジの種が見つかっていることである。つまり、古代中国においても既に甘い柑橘は存在していた。だがその栽培が難しかったのか、あるいは増やすのが難しかったのか、この甘い柑橘が広まっていくには暫く時間を要した。

また、「橘頌」でも「橘はここに来て風土に適応し」と述べられているように、古代中国においてはまだ橘は外来のものと認識されていたようだ。私は柑橘の伝来は稲作と同じくらい古いのではないかと想像するものだが、少なくとも屈原の愛した橘は、古代において「かつてはそこになかったもの」であった。その時代に品種改良された新しい「橘」だったのだろうか?

最後に『晏子春秋』の記載も紹介しよう。これは戦国時代の斉において宰相を務めた晏子の言行録であるが、そこに「南橘北枳」のエピソードが出てくる(内篇雑下第六第十章)。晏子の言として「橘は淮南で生ずれば橘となり、淮北で生ずれば枳になる」という。これは、淮南(淮河の南)と淮北で気候風土が異なることを述べる言葉なのだが、既にこの頃カラタチ(枳)が知られ、橘に対応するものであると考えられていたのが面白い。

そして、『晏子春秋』には、楚王が晏子を饗応するのに橘を勧める場面も出てくる。やはり食べられる橘の品種もあったことはあったらしい(楚王はことある毎に晏子に嫌がらせをするので、嫌がらせの一環だった可能性もあるがこの場面では違うと思う)。王様が勧めるくらいだから、相当に珍重なものだったのは確かだろう。

これらの中国古典から考えると、古くから長江流域(古くは揚州、後に楚国となった地域)には橘や柚が産したが、それらは当時としては外来のもので、また甘い品種は極めて限定的で多くの品種は食用ではなかったようである(というか、橘が甘いという記載は古典には見当たらない)。しかし、アッサムから長江へと渡ってきた柑橘は、中国大陸で徐々に美味しい果物へと変化していく。おそらく、屈原や晏子が生きた戦国時代が、柑橘が甘いものとなっていくターニングポイントだったのではないだろうか。

【参考資料】
『中国古典文学大系 書経・易経(抄)』1972年、赤塚 忠
『楚辞』1980年、星川 清孝
『Odessy of the Orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper

※ 原文「厥包橘柚、錫貢」。「錫貢」の意味は完全に確定していないが、「王命を受けてから持参する」の意とされている。貢ぎ物のように定期的に上納するのではなくて、特に指示があった時に納めるもののようである。

※冒頭画像はこちらのサイトからお借りしました。

2014年8月10日日曜日

インドからの東漸——柑橘の世界史(1)

アッサム州の位置
柑橘類というのは、大変にバラエティに富んでいる。ミカン、オレンジ、レモン、文旦、グレープフルーツ、スダチ、ダイダイ…。おそらく世界には数千種類の品種があると思われる。これらのほとんどは人為的な品種改良によって生みだされたものだが、その元となった野生種はどこから来たのだろうか。

オレンジやレモンのイメージがアメリカの柑橘産業と結びついていることもあって、柑橘の原産地は西欧のどこかだと思われがちだ。しかし柑橘の世界史はインドから始まる。インドと言っても、ヒマラヤの麓、ブータンの近くのアッサムあたりである。東へ少しいけばミャンマーがあり、北へ行けば中国に至る、そんな場所である。

このアッサムの山地に柑橘の原種はあった。といっても、柑橘類全ての母となる特定の植物がアッサムで見つかったわけではない。このあたりには驚くほど多様性に富んだ野生の柑橘が産していて、世界中のどんな柑橘でも、ここで似た野生種を探すことができる。そのため、おそらくこのあたりが柑橘のふるさとであったのだろうと推測されているのである。

であるから、インド文明は相当に古くから柑橘を知っていたはずである。しかしながら、古代インド人たちは、柑橘を積極的に利用しなかったようだ。紀元前800年ほどに成立したヴェーダ(バラモン教の聖典)の一種Vajasineyi Samhitaに柑橘の記載があるというが、多くの文献で出てくるわけでもないし、柑橘が宗教儀礼にも用いられた形跡がない。

さらに時代を下って仏典を見てみる。仏典では、様々な植物が言及されているが、ここでも柑橘の記載はほとんどない。唯一、ナガエミカン(wood apple)が知られているだけである(※1)。時代が更に下って仏教が東漸してゆくと、それに伴ってシトロンの一種である仏手柑が寺院に植えられるようになるようだが、これは古くからの風習が伝播していったというより、仏教が形骸化・形式化していく中で、仏手柑の象徴性が珍重されたものと思われる。

つまり、インドの人びとは古くから柑橘を知りながら、これをさほど重視しなかった。ではどのような果物を重んじたかというと、バナナやマンゴーといった甘味の強い熱帯性のものであった。そもそも、インド亜大陸の熱帯の気候と柑橘の相性はよくない。柑橘は、年間を通して適切な降雨が必要であり、雨季と乾季が明確に分かれているような気候の下では栽培が難しい。おそらく、古代インド人が柑橘を重んじなかったのは、インドの多くの地域で栽培が困難であり、またこれよりも美味しい熱帯の果物に恵まれていたからに違いない。

だが、アッサムで細々と利用されるに過ぎなかった柑橘も、ずっとそこへ留まっていなかった。稲作が東漸してやがて日本へも伝わったように、東南アジアへ、そして中国へとかなり早い段階から広まっていくのである。憶測に過ぎないが、おそらくこの伝播は稲作と同じくらい歴史が古い

柑橘をアッサムから東南アジアへ、そして中国へと伝えた人びとは、後に彝族(イ族)、と呼ばれる民族であると考えられている。現在では南東チベット、雲南省、四川省などに居住している中国の少数民族である。とはいえ、歴史以前のことであるため、彝族が柑橘栽培の伝道者だったのかどうかは正確には分からない。しかしアッサム地域が、山地に大きな川が流れる温暖湿潤な稲作地域であることを考えると、彝族のような稲作農耕民が稲作と共に柑橘の栽培も各地へ伝えていったことは確かなことと思う(※)。

今でこそ北海道でも稲作ができるようになったが、それはごく最近の現象であり、稲作は南方の農業であった。特に、亜熱帯の長粒種による稲作はそうである。柑橘も霜を嫌い、温暖湿潤な気候を好む植物であるから、栽培に好適な地域は稲作地域とほとんど重なっていたはずだ。逆に、乾燥地・寒冷地の農業の中心は麦作になるが、インドの南の方や中国大陸の北の方など、麦作地域には柑橘栽培は伝播していかなかった。

これは柑橘や稲作だけでなく農耕全てに通じる伝播の一般則だが、農耕というものは南北には伝わらず、気候が似た東西に伝わっていくものである。インドのアッサムに始まった柑橘はまずは東へ進み、東南アジアを通って中国の南部、雲南省や四川省へと広がっていくのである。

【参考文献】
『栽培植物と農耕の起源』1966年、中尾佐助
『Odessy of the orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper
『仏典の中の樹木—その性質と意義(2)』1973年、満久崇麿
『ヒマラヤ地帯と柑橘の発現』1959年、田中長三郎
The Exotic History of Citrus』2012年、Patrick Hunt

※1 参考資料『仏典の中の樹木』では、ナガエミカンの他にベルノキ(アップル・マンゴー)もミカン科とされているが、これは近縁種だけれども正確にはミカン科でないから除外。
※2 稲作の起源は中国南部とされているが、イネ自体はインドが原産であると考えられている。イネも古くからインドに産しながら積極的利用がされず、東漸して中国に至って栽培が確立したのである。

2014年8月6日水曜日

柑橘の世界史序説

私は「一応」農業を営んでいるのだが、それ以外にもいろいろと(お金にはならない)アレコレをやっているので、時々「何を作っているの?」と農家なのかどうか訝しがられる時がある。

私がメインにしたいと思っているのは果樹、それも柑橘類で、今現在、ぽんかん、たんかん、しらぬい、ブラッドオレンジ(苗木)、ベルガモット(苗木)、ライム(苗木)、グレープフルーツ(苗木)などなどあわせて約60〜70aを栽培中である。

そんなわけで、柑橘類の来し方行く末にはひとかたならぬ興味がある。特に心が惹かれるのは歴史の方だ。 今では世界中で生産され、果物としてはおそらく世界最大の生産量を誇る柑橘類が、いかにして伝播し、品種改良され、消費され、人類の歴史と文化に影響を及ぼしてきたかということを、直接には農業と関係なくとも、深く知りたいと思う。柑橘類の濫觴からこうしたことを説き起こせば、きっと「柑橘の世界史」が出来るに違いない。

それに関して、今年に入って最近刊行された2冊の本を読んだ。まずはピエール・ラスロー著『柑橘の文化誌』。そしてトビー・ゾネマン著『Lemon: A Global History』。『柑橘の文化誌』の方は副題が「歴史と人とのかかわり」とあり、それなりに歴史の話も出てくるが、体系的な叙述というより著者の興味関心の赴くままに述べたという風で四方山話的である。『Lemon』はレモンを中心とする柑橘の歴史が端正にまとめられている良書だが、「世界史(Global History)」と銘打ちながら結局はヨーロッパとアメリカの話しか出てこないのが問題である。

だがそもそも柑橘の原産地はインドや中国なのだから、話は東洋から始まるはずである。2冊とも、話がヨーロッパとアメリカの近代史以外の部分が簡単に過ぎる。それに、これらの本を書いているのは柑橘の専門家というわけでもないし(ラスローさんは科学者で、ゾネマンさんはジャーナリスト)、柑橘類の栽培技術という点について等閑に付しているきらいがある。

そこで、浅学菲才の身ではあるが、東洋の話を織り込むことと、柑橘栽培の技術発達についても触れることにして、私なりの「柑橘の世界史」を書いてみたい。とはいっても、この2冊に書かれていることは大いに参考にさせてもらうし、特に16世紀以降についてはほとんど独自の知見を付け加えることはできないかもしれない。そして、このブログ上で簡潔にまとめるだけだから、柑橘の世界史の大まかなアウトラインをなぞるに過ぎない。それでも、こういうテーマで体系立った記述をすることは自分の勉強にもなるし、今後の柑橘産業を考える材料にもなるだろう。

これから徐々に書いていこうと思うので、気長におつきあい頂ければ幸いである。

【参考】これまでに書いた柑橘の歴史に関する記事
世界史から見るタンカンの来歴
なぜホテルの朝食にはオレンジジュースが出てくるのか?

2014年8月5日火曜日

狩集農園の「おうちで食べているお米」は手間かかってます

7月は、梅雨が明けてから雨が全く降らず憎らしいほどの晴天が続いていたのに、8月に入ってからは気の早い台風がきて、梅雨が舞い戻ったみたいな天気になった。

このあたりは早期水稲の産地なので、稲刈りは7月終わりから8月に行う。ちょうどこれから稲刈り、という時期にこの天候で、米農家は弱っているだろう。それに、大型で強い台風11号が不気味に北上してきつつある。稲穂が垂れた今、強い台風が来てしまうと稲が軒並み倒伏して、商品価値がガタ落ちするのは必定。天候の悪い中、急いで稲刈りをするわけにもいかず、出来ることは祈祷くらいしかない。

「南薩の田舎暮らし」で予約受付中の「狩集農園の「おうちで食べているお米」」も収穫前である。手間をかけて作られたお米だから、半ば他人事ながら心配しているところである。

なにしろ、狩集さんが作っている水田は、写真のように山間部にあって一枚あたりの面積が狭い。ということは、作業の効率も悪いし、何より畦(あぜ)が多い。畦が多いと畦の草払いをする時間と労力が大きい。南九州では、本州以北では考えられないほど雑草の勢いがもの凄いので、草払いはかなりコストを食う仕事である。単純に比べて、1枚の田んぼが1haもあるような平地と、こういう山間部での米作りでは、3倍くらい労力の差があると思う。

でも農協に出荷したら山間部だろうが平地と当然同じ条件で取引されるわけだから、これは勝ち目のない勝負である。というわけで、狩集さんは直販に力を入れていて、無農薬のお米を作っている。

無農薬、と一言でいうと、ただ薬を使わないだけ、という単純なことのようだが、意外に細かいところで手間がかかる。 例えば、苗を作る時には種子も消毒するし培土(苗箱に入れる土)も消毒する。これを消毒しないと、苗床に雑菌が入って苗が病気になってしまうことがあって省略することはできないらしい。

ではどうするかというと、まず種は薬剤を使わず温湯消毒を行う。これは、60℃くらいの大きなお風呂みたいなものに種を数分間漬ける方法である。簡単に言うと熱殺菌だ。だが漬けすぎると種自体がゆだってしまうので、タイミングを計るのが大事になるし、そもそも大きなお風呂みたいな設備を準備するのが大変だ。場所もとるしもちろんお金もかかる。薬剤で消毒するならタンクに薬剤を混ぜればすむが、大量の水の温度を一定の温度に保つにはそれなりの設備を要する。

次に培土の消毒だが、これも熱殺菌した土を使う。これは個人ではできないので、わざわざ熱殺菌した土を購入するわけだ。たかが箱苗の土ということで、1箱あたりの量は僅かだが、狩集さんの場合それを1000箱以上作るわけで、トン単位の土を購入している。さらに、箱苗に稲の種子(つまり籾です)を播く時には、有機栽培でも使える微生物農薬を用いている。無害な細菌を人為的に増殖させることで、雑菌の繁殖を抑えるのである。

早期水稲の場合、定植後の病気などはさほど心配しなくてもいいらしいが、問題なのは雑草の管理である。狩集さんは今年、ある機械によって除草を行うことで、直販分の水稲は完全に無農薬で作ったということだが、機械でやると言っても、除草剤を使うよりも手間も時間もかかる作業である。

こうして大変な手間を掛けて米作りをしているのは、広大な平地で効率的に作られている米と勝負しようと思ったら味で差別化する必要があるからだ。山間部の方の有利な点といえば清流しかないとも言えるわけで、これを活かして美味い米を作るために敢えて手間のかかる無農薬の米作りをしているのである。

水がきれいということは米作りにはすごく重要で、水の取り込み口付近の稲は常に元気がある、ということだけとってみても、きれいな水が豊富に供給されるということが健全な稲の育成に不可欠なのは明白だ。狩集農園の「おうちで食べているお米」は、磯間山麓の清流を使って作られた米である。

「南薩の田舎暮らし」ではこの新米5kgを2500円(+送料一律500円)で予約受付しているが、インターネットで調べるかぎり、無農薬のお米としてはかなり安い。ちなみに、狩集さんは郵便局の窓口を通じてもこのお米を販売していて、そちらでは送料込み2980円なので、1袋だけ買うなら郵便局の方がさらに少し安い。

この価格で販売しているのでうちの利益はほとんどない(どころか1袋だけの購入の場合にはちょっとだけ赤字になる)が、いつもお世話になっている狩集さんのブランド力を挙げていく勝手連的お手伝いをする意味もあって取り組んでいる。ともかく、美味しいのもお得なのも間違いないのでぜひよろしくお願いします。予約は8月10日まで。あと1週間ないのでお見逃しのなきよう(収穫時期の関係で延長する場合もあります)。

お申し込みはこちらから。

【参考】
しかも精米もすごく手間がかかっている。→ 狩集農園のこだわり精米機

2014年7月31日木曜日

鹿児島の甘口醤油再考

先日、醤油の記事を書いた。そこで、鹿児島の甘い醤油の甘さは人工甘味料に由来するものだという説明をした。

自分では人工甘味料をさほど悪く思っていないので書いた時は気づかなかったが、記事を読んで「鹿児島の甘い醤油ってあまりよいものではなかったの?」と思った人もいたかもしれない。食に関しては、「人工」とつくとそれだけでマイナスのイメージがついてまわるものである。

また、鹿児島の醤油についてはもう少し調べてみたいこともある。そんなわけで、鹿児島の甘口醤油の人工甘味料について改めて考えてみることにしよう。

さて、唐突に話題が変わるようだが、皆さんは普段どんなキムチを食べるだろうか? スーパーで売っているのはほとんど「甘辛キムチ」だし、人気のある「牛角キムチ」(写真は牛角のサイトから借用しました)とか「ご飯がススム」なんかも甘辛なので、たぶんほとんどの人は甘辛キムチを食べていると思う。

でも、キムチは元々甘くないものだ。味の主体は唐辛子の辛さと塩分であって、発酵に由来する甘み・旨味の成分はわずかなアクセントであるにすぎない。しかし日本人には本場のキムチは辛いだけで箸が進まないため、日本ではキムチを甘口にするという工夫がなされた。というわけで、本来はかなり辛い・鹹い(しおからい)キムチを甘口にしようとすると、当然ながら大量の砂糖が必要になる。漬け汁の主成分は砂糖になってしまい、砂糖まみれの漬物という、本来のキムチとはかなりかけ離れたものになる(でもそういうものも売っています)。

では、「牛角キムチ」とか「ご飯がススム」はどうしているかというと、砂糖は入っておらず、人工甘味料が使われているのである。確か、これらはアセスルファムカリウムが使われていたと思う。これは砂糖の200倍の甘さがあり、カロリーはない。キムチにごく微量添加するだけで甘口キムチができ、カロリーも増やさないのである。

人工甘味料それ自体が健康的かどうかはさておき、砂糖を節約できるという点では間違いなく健康的である。そもそも、現代人は甘みに慣れすぎていて、甘みに対して相当鈍感になっている。食品を甘口にする場合、相当な砂糖を入れないと、十分に甘いと感じないのである。だから、必然的に砂糖摂りすぎの危険性ある。人工甘味料の存在意義は、そこにある。

人工甘味料は、元々は高価な砂糖を代用するために開発されたが、砂糖がコモディティ化して以降は、高機能な(カロリーがないとか)ものが期待されて発展してきた。

その結果、現在では人工甘味料は健康的と認められているものも多く、食べても虫歯にならないキシリトール(※)、カロリーゼロのアセスルファムカリウムなどは有名だろう。弱い発癌性があるとして規制された悪名高い(?)サッカリンも、2010年には米国で全く毒性がないものとされて規制リストから外れ(日本ではまだ規制されている)、むしろ砂糖を節約する健康的なものと考えられはじめている

コーラなんかにはものすごい量の砂糖が入っているから、この甘みの半分でもサッカリンが代用すれば、いくばくか体への負担も軽減されるわけだ。そしてサッカリンにもカロリーはない。

鹿児島の甘い砂糖に使われているのは、このサッカリンなのだが、実は単に砂糖の節約という面ではなくて、味の都合もあるらしい。先日の記事を書いた後で南薩の醤油屋さんである丁子屋の方に教えてもらったのだが、丁子屋ではサッカリンを抜こうと何度か試みたものの、抜くことが難しかったそうだ。

というのも、サッカリンの甘味を砂糖で代用してみると、ヌメっとした甘さになり、甘ったるくなって使い物にならなくなったらしい。他の代用品でもダメだったそうだ。サッカリンは舌にピリッとしたものを感じる独特のコクがあるため、これが鹿児島の醤油の甘味になくてはならないものだと再認識したそうである。

そうしたさまざまな事情を考えてみると、鹿児島の甘口醤油はナショナルブランドの擡頭で現在苦境に立っていると思うが、活路もありそうな気がする。元々鹿児島で甘口醤油が普及したのは、各家庭での砂糖の消費量を節約できたからという私の仮説が正しければ、これは現在の社会でも価値のあることである。甘口の醤油を使うことで料理の際の砂糖は少しであっても減らせるわけだから、ほんの少し健康的なレシピになる。

例えば、「鹿児島の甘口醤油を使って料理の砂糖をスプーン1杯減らしましょう」というようなキャンペーンをしたら、鹿児島の甘口醤油の元々の価値が生きるのではないか。元々は甘みを求める県民の需要に応じて作られた甘口醤油が、今度は健康志向に合致するとしたら面白い。いつかも書いたが、鹿児島は「周回遅れのトップランナー」である。トクホとかカロリーゼロが持てはやされている昨今、既に合成甘味料による「お袋の味」が確立している鹿児島だからこそ、「料理から砂糖を減らす甘口醤油」なんてのを全国に発信するのはどうだろうか。

※キシリトールは天然に存在する物質なので正確には人工甘味料ではないが、微生物による工業的な合成も行われている。