2018年5月17日木曜日

皇軍神社と新しい神道——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その11)

廃仏毀釈の嵐が最後に残った名刹をも吹き飛ばそうとしていた明治3年11月、鹿児島の城下に奇妙な神社が創建された。その名も「皇軍神社」、訓じて「すめらみくさのかみのやしろ」という。

皇軍神社は、御軍神社という神社を母体にして創られたもので、翌月には軍務局の隣に遷座された。祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、楠木正成、そして島津歴代の名将7人、すなわち忠久、忠良、貴久、義久、義弘、斉興、斉彬、の計10座であった。

まず、この祭神が奇妙だった。武甕槌神と経津主神という神話に登場する神と、楠木正成と、それから島津歴代の名将が祭神として同列に並んでいるのは、いかにも不思議なとりあわせだ。

皇軍神社が、軍務局の隣に遷されたのも特殊だった。この神社は、その設立から普通の神社とは全く異なっていた。

そもそも、「皇軍」神社という名前も破格なものだ。鹿児島に厳密な意味での「皇軍」はなかったのだから。この奇妙な神社は一体何だったのか。

皇軍神社のご神体は楠木正成の木像であったが、これは幕末の志士有馬新七が伊集院の石谷に建立した「楠公社」に祀ったものを遷したものである。皇軍神社の奇妙な祭神群の中核を為すものは、楠木正成だった。

ここで少し、楠木正成崇拝(楠公崇拝)について説明する必要があるだろう。

楠木正成は後醍醐天皇の命を受けて鎌倉幕府を倒し、「建武の新政」(後醍醐天皇の統治)を実現させた。幕末の「尊皇の競争」の中で、天皇への忠誠を貫いた楠木正成への崇拝は全国的に急激な盛り上がりを見せる。特に水戸学においては、楠公崇拝だけでなく天皇に忠勤を尽くしたものも神として祀ることまで主張された。さらに後には楠木正成の鎌倉倒幕は、徳川幕府の倒幕へと暗になぞらえられた。楠木正成は倒幕を現実化した忠臣として、反幕勢力にとっての理想像となっていった。

薩摩藩でも、既に元治元年(1864年)、島津久光が楠木正成が果てた地である湊川(兵庫県)に神社を建立するよう願い出ている。久光は尊皇の志を表そうとしたのだろう。この提案は裁可されたものの幕末のゴタゴタのためうやむやとなったが、同種の提案は慶応3年に尾張藩主徳川慶勝からもあり、これに刺激された薩摩藩は、明治元年に岩下方平らが東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)へ改めて神社建設を建白。一方水戸藩もこの建設の一任を願い出た。朝廷からも千両の寄附があり、薩摩と尾張、水戸が競うような形で楠公崇拝の神社が計画され、これは明治5年に「湊川神社」として実現した。

ある意味では、皇軍神社はこの湊川神社の先蹤となるものであった。殉国者を神として崇め、忠君愛国を宗教的な教えにまで昇華させようとしたのだ。その上、宗教と軍事を結びつけた。

軍務局の隣(一説には練兵所の中であったともいう)にあったことから、やがて私学校が創建されると皇軍神社はその守護神とされた。さらに皇軍神社は、県内各地にも分祀されたらしい。垂水に分祀された皇軍神社が早くも明治4年に建立されているところを見ると、県庁は皇軍神社を各地で崇拝させ、宗教的軍事思想を広めようという明確な意向があったのだろう。

思えば島津久光が維新後に鹿児島でやった主立ったことと言えば、廃仏毀釈と、藩政を軍事組織へと組み替えることの二つなのだ。軍功があったわけでもない久光の父斉興が皇軍神社に祀られたことを考えると、この神社の設立にも久光の強い意向があったのではなかろうか。皇軍神社は久光が行った宗教と軍事の二つの改革を象徴する神社だったように思われる。

そして皇軍神社は、宗教と軍事の露骨な結託という意味で、昭和になってからの靖国神社の存在の先駆となるものでもあった。既に鹿児島には、後の「国家神道」の萌芽があったのである。

この奇妙な神社が創建されたのは、一体いかなる神道理論に基づくものであったか。

というのは、薩摩藩を席巻した平田派の国学では、「復古神道」すなわち古えの神道の姿を取り戻すことが大原理だった。「王政復古の大号令」でも、「神武創業の始めに基づき」とされている。このような新参の神社を創建することは、「復古」の名に悖るのではないか。

事実、明治4年に神社の序列を定める社格制度が出来た時も、『延喜式』の神名帳に掲載された神社が正統とされている。しっかりと古代に倣っているのである。「復古」を旗印にする限り、新しい神社の創建など問題にならないはずだった。しかし実際には、「復古」の名の下に、神道は新しく作りかえられていくのである。

「王政復古の大号令」において「神武創業の始めに基づき」と謳われた背景には、岩倉具視のブレーンとなった平田系国学者の玉松操の存在があった。岩倉が新国家の構想を考えていた頃、彼は失脚し京を追われて京都郊外の村で逃亡生活を送っていた。岩倉が新国家樹立のコンセプトとして「復古」を思い描いたとき、新制度を具体化していく上で古代社会の知識を持ったものが必要になり、そこにちょうど現れたのが玉松だった。

玉松ら国学者は、岩倉に「建武の新政では十分ではない、神武創業にまで復るのだ」と教唆したと言われる。楠木正成が実現した「建武の新政」は、実際には短い間で瓦解したという事情もあったためであろう、明治維新の理想は神話的古代に置かれ、歴史的事実が全く明らかでない神武創業の始めにまで復ることが必要とされた。

しかし、この荒唐無稽な「復古」は、逆説的に明治政府を開明的にする余地を残していた。いや、おそらく岩倉は気づいていたのだろう。歴史的に明確な「建武の新政」を理想にしては、彼が構想していた新国家の青写真を現実化できないことに。私は「神武創業の始めに基づき」という旗印は、岩倉によって周到に用意されたものであったと思う。歴史的には霧の中にある「神武創業」を理想にしたことで、「復古」の名の下に維新政府は事実上フリーハンドで制度を設計することができた。「復古」は、歴史的なある時点に戻るという文字通りの意味ではなく、今をただ勇ましい神話的古代になぞらえることでしかなかった。

だから、「復古神道」が意味するところは、実際には古代の神道に戻るというものではなかった。「神武創業」まで復ることが定められたとき、神道は国家にとって必要な宗教として作りかえられていく宿命だったのかもしれない。そもそもこれを構想した平田篤胤自身、『古事記』や『日本書紀』に基づきながら、それらのどこにも書いていない古代の有様や魂の行方を考えていたのだ。

「皇軍神社」が拠っていたのは、新しい時代の「神道」だった。それは、古くからの神道とは全く違う、忠君愛国を教え込むための新しい教えだった。そして、楠木正成を忠臣として崇拝するのみならず、島津歴代の名将をも神としたことは、国家に対し功績を上げた人間は神となるという思想も表していた。戦死した人間が神として祀られる、靖国神社の仕組みを先取りしていた。

国家に尽くして死ねば神になるという観念は、古くからの日本人の死生観にないものだ。あったのは、現世に強い怨念を残して死んだものは篤く祀らなければならないという、御霊信仰の方だった。古代の人々は怨霊を恐れた。菅原道真を祀った北野天満宮はその代表的な例だ。国家に功績のある人間を祀るようになるのは、せいぜい織田信長以降である。

しかしこの殉国者を神として祀る思想は幕末から急速に広まっていくのである。元治元年(1864年)に鹿児島に創建された島津斉彬を祀る「照國神社」もその一つだ。各地で、このような神社が創建された。「皇軍神社」は、その極端な例だった。

一方で、このようにして祀られた神社は、当然『延喜式』に基づくものではなかったから、社格制度の枠組みには入らなかった。そこで天皇に忠勤を励んだ臣下などを祭神として祀る神社のために「別格官幣社」という制度が新たに設けられ、その第1号としてあの湊川神社が列格された。追って、靖国神社が別格官幣社の中でもさらに特殊な神社として特立していく。

「復古」で始まったはずの明治維新は、いつしか「復古」の名の下にあらゆるものをつくりかえる力を持った。田中頼庸たちが廃仏毀釈運動の中で鹿児島を塗りつぶそうとしていた「神道」は、「復古」というよりも、全体主義国家の「国教」として新たに創出されたものだった。あたかも、神武天皇陵が幕末になって新たに築造されたようにだ。

廃仏毀釈、というと、仏教への弾圧のイメージが強い。しかし仏教への圧力と同じくらい、実は神道へも強力な介入と弾圧があった。

元々、市来四郎らが実施した前期廃仏毀釈においても、寺院だけでなく神社も統合整理の対象となっていた。民衆が自然発生的に信仰してきた神社は、新しい国家にとって不要だった。元来の神道は、仏教と共に引き裂かれていった。

まず行われたのは神仏分離だった。廃仏毀釈以前、鹿児島に存在していた4470の神社のうち、ご神体が仏像でなかったのは、ただ一社しかなかった。一社の例外を除き全ての神社のご神体は仏像であったのだ。神道と仏教は分かちがたく共生しあっていた。しかしこれが「神仏混淆」と批判され、廃仏毀釈運動では、これら仏体のご神体を強制的に取り除き、新たに神鏡などをつくって祀らせた。さらに、民衆が自然発生的に祀っていたものなどは、「由緒が明らかでない」として近くの神社に合祀させた。八幡宮や諏訪社などは一郡の中に何十箇所もあったため、一村に一つあるいは二つと定めて他を強制的に合併させるなどした。寺社のリストラは、人々の信仰とは無関係に、神社を整理統合していった。

後期廃仏毀釈になると、より積極的に信仰が改変されていく。「復古神道」の実現を名目として、『古事記』『日本書紀』『延喜式』等に書かれていない神を異端扱いし、祭神のすげ替えまでが実施されるのである。

例えば、鹿児島の宇宿に今も残る「天之御中主神社」は、元は「妙見神社」であった。しかし「妙見さま」は『古事記』等には出てこない土着の信仰だ。復古神道では、そのような神は存在してはならなかった。「妙見さま」は北極星の信仰であったため、天の中心ということで『古事記』に登場する天之御中主と同一視することになり、祭神を「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」にすげ替えることによってこの神社は存続した。こうして「天之御中主神社」が生まれた。それまでの信仰は否定され、新しい神が鎮座した。明治5年頃のことである。

島津氏の尊崇も篤かった妙見神社でさえこれだから、民衆の信仰が「淫祠邪教」とされて蹂躙されるのは時間の問題だった。本来の神社への信仰は破壊され、首だけがすげ替えられた新しい神社が勃興した。 ただ「山の神」として崇められていた祠は「大山祇神社」、「祇園天王」は「八坂神社」となるなど、社名と祭神が暴力的に画一化されていった。

こうしたことは全国的に起こっている。ただし神社の改称を徹底的に行ったのは一部の地域に限られるようだ。あまり熱心に行わなかった地域では、政府の指導に表向きには従ったが、網羅的な改変まではやらなかった。もちろん鹿児島は、最も激しく、徹底的に行った地域の一つである。

神社の改変は、当然ながら信仰の改変をも伴った。元来の神道には教義らしい教義がない。神道は倫理的な教えではなかったし、自己を陶冶していく教えでもなかった。そこにあったのは、潔斎の勧めと死穢を避ける儀式、豊穣を祈り収穫に感謝する儀礼といった、自然のサイクルにまつわる信仰であった。しかしそういったものは、新しい神道には形式的にしか引き継がれなかった。

新しい神道は、民衆の信仰を「祖先崇拝」と「皇祖崇拝」に一元化し、忠君愛国のために身を捨てるように勧めるものであった。後には、天皇・国家のために殉死することが最高の幸せであるとまでされたのである。新しい神道は、「国民」を天皇中心国家の一兵卒として教化するためのものであった。

鹿児島の廃仏毀釈においては、後に「惟神の道(かんながらのみち)」、そして「国家神道」と言われるようになるこうした新しい神道はまだはっきりとその姿を現しているわけではなかったが、『神習草』の配布などを考えると、間違いなくその先鞭をつけていた。

このように、鹿児島の廃仏毀釈は寺院を徹底的に消し去ったのみならず、神社をも大規模に整理統合し、その信仰を強制的に改変してしまった。確かに仏教が蒙った被害も甚大であった。しかし仏教はそれを乗り越えて、再興することができた。しかし元来の神道が有していた信仰は、明確な教義に基づくものでなかったために、一度破壊されると元の姿が分からなくなった。民衆の自然発生的な信仰はどこにも記録されていなかったから、一度失われるともはや再興は不可能だった。

鹿児島の廃仏毀釈、そして政府の神仏分離政策は、表面的にはあからさまな神道優遇、仏教排斥の政策であったが、その内実を見てみると神道が蒙った被害は取り返しがつかないもので、その意味では仏教に対してよりも大きな打撃が加えられたのである。

鹿児島の後期廃仏毀釈を主導した田中頼庸が、こうした神道の改変にどの程度携わっていたのかは、史料が残っておらずわからない。しかし状況証拠を付き合わせてみれば、このような強力な宗教改革運動を成し遂げられるのは頼庸以外いない。

明治4年の廃藩置県を迎えても、田中頼庸は所属を藩庁に変えてしばらく同種の仕事をしていたらしい。というのは、鹿児島県令として赴任してきた大山綱良が彼の叔父であったため、その縁から藩庁に勤めていたようである。

ところが同年、中央政府に教部省が設置されたことに伴い、田中は職を辞して同省に教部大録として出仕した。今で言えば中堅官僚、課長クラスである。鹿児島で宗教改革に邁進した田中頼庸が、今度は中央政府に取り立てられたのである。栄転と言わなければならない。

彼の建白に基づいて明治天皇が鹿児島で神代三陵を遙拝するのが、約1年後のことであった。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島県史 第3巻』1941年、鹿児島県 編
『薩藩勤王思想発達史』1924年、坂田長愛(講演記録)
神道指令の超克』1972年、久保田 収
靖国神社』1984年、大江 志乃夫
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
『垂水市史 上巻』1974年、垂水市史編集委員会 編

2018年5月8日火曜日

日新公没後450年と、草の根の「日新公いろは歌フォトブック」

2018年は、日新公没後450年である。

日新公とは、島津日新斎忠良(じっしんさい・ただよし)。島津中興の祖と言われる、加世田ゆかりの戦国時代の名君である。

日新公の生きた時代は戦乱の世であった。鹿児島でも、敵と味方が入り交じり、各勢力がモザイクのように絡み合っていた時である。日新公は伊作島津家に生まれたが、幼い頃、父・伊作善久(よしひさ)が弑逆(しぎゃく:臣下に殺されること)され、また祖父・久逸(ひさはや)も戦で討ち死にして厳しい境遇に置かれた。

しかしやがて相州島津家の島津運久(よきひさ)が日新公の母・常磐を妻として迎え入れる。こうして若い日新公は伊作島津家と相州島津家という2つの島津分家の双方の当主となり、田布施(金峰町)の亀ヶ城を居城とした。

この頃は島津家同士が争い合っていた。いわば親類同士での殺し合いである。日新公の相州島津家、薩州島津家、そして島津本家の三つ巴の争いであった。当初は薩州島津家の島津実久(さねひさ)が優勢であったが次第に日新公が勝利を重ね、遂に天文7年(1538年)、薩摩半島南部の実久の拠点だった加世田を夜襲により攻略。時を同じくして日新公の子・貴久も鹿児島方面で実久勢を斥け、日新公・貴久親子は相争っていた島津家を統一した。

こうして日新公が島津家を統一したことにより、島津家は強力な勢力として成長していく。子の貴久は日新公の死後薩摩国を平定。また孫にあたる「戦国薩摩四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)」の時代には、薩摩・大隅・日向の南九州3カ国を統一し、薩摩藩の基礎となった。

日新公は、このように優れた武将であったが、彼が尊崇を受けたのはそればかりが理由ではなかった。例えば領地では産業の振興に努め、仁政を施したので領民が喜んだというし、さらに日新公は文化を保護し、学問を振興した。彼自身も幼い頃、真言宗の海蔵院というお寺に預けられて厳しい教育を受けており、さらに長じてからも桂庵玄樹の学統を継ぐ学僧から禅や儒学を学んだ。

そうした学問が基盤となっていたのだろう。日新公は家督争いの最中にも、激戦地となった各地で敵味方問わず戦没者を供養する仏事を挙行し、六地蔵塔を建てた。血を分けた親類同士が殺し合うのだから勝利しても後味は悪く、寂寞とした思いがあったのではないかと思う。だから戦が終われば敵味方を区別せず供養を行った。加世田に残る六地蔵塔はその一つである。

また、日新公は加世田の攻略後しばらくして、幼少期から学んだ儒学や仏教の哲理をいろは47文字で始まる和歌集にまとめた。これは「いにしへの道を聞いても唱えても わが行いにせずばかいなし」から始まる心を鍛える教えであり、後に薩摩藩士の子弟教育の根幹として用いられた。

すなわち日新公は、相争っていた島津家を統一するとともに薩摩国平定の道筋をつけたという軍事的・政治的な業績と、教育・文化を保護し「日新公いろは歌」という薩摩藩士の道徳の基礎となる教えを編んだという2面において、後の薩摩藩の基礎をつくった人物なのである。

そんな日新公が亡くなってから、2018年で450年になる。

日新公が晩年隠居したのが加世田で、また死後には現在の竹田神社のところにあった日新寺(当時は保泉寺という)に葬られていることから、日新公と加世田との縁は深く、今年はいくつかの記念事業が計画されているようである。特に7月21日~23日は「日新公ウィーク」とされ、仙巌園では7月21日に「三州親善かるた取り大会」があるそうだ。この「かるた」はもちろん「日新公いろは歌」を使う。

そういった行政が計画しているものとは別に、市民からの自然発生的な取り組みもある。その一つが、冒頭写真に掲げた「日新公いろは歌フォトブック」。

南さつま市各所の風景写真とともに「日新公いろは歌」が解説つきで掲載されている。「いろは歌」の解説チラシは行政なども作っているが、こうして風景とともに眺めるとまた違った雰囲気になると思う。

実は私自身も、以前「日新公いろは歌」に興味をもってまとめたことがある。

【参考記事】郷中教育の聖典、日新公いろは歌

しかし内容について考えるだけで、こういう風に端正にまとめて若い人にも受け入れられる形にするということは思いもよらなかった。 行政が作っている解説チラシはあまり読む気がおきないものだが、これなら興味がない人でも手に取りやすいと思う。

また、内容には「いろは歌」だけでなく、日新公やゆかりの史跡について簡単にまとめてあり、観光の記念・おみやげにちょうどよい。こういう資料があると、あとで思い出そうという時に役立つ。

ちなみにこのフォトブック、「砂の祭典」で1冊500円で販売していたので私はそこで買ってきた。今後は物産館などでの販売を計画しているということである。

このフォトブックを作っているのは、「ミナミナマップ」という地域情報発信プロジェクト。今風に言えば「WEBメディア」。WEBでの発信だけでなく、本体活動である南さつま市のマップづくりや、お土産づくりといった様々な活動を展開中である。

最近、自分の研究(鹿児島にはなぜ神代三陵が全てあるのか等)に時間を取られて、このブログの更新があまり出来ていないので、南さつま市の情報を欲している方はこちらのブログやFacebook等のSNSをフォローすることをオススメしますよ。

【ミナミナマップ】
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※この他紙のマップがありますがそれについては気が向いたら後日書きます。