2017年8月25日金曜日

神話は現実化していった——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その3)

可愛山陵
天皇家が葬られているところ——山陵は、幕府にとってどのような存在だったのだろうか。そして、山陵と尊皇は、どのように結びついていたのだろうか。

山陵にいち早く注目した為政者は、徳川光圀である。光圀は、元禄7年(1694年)に神武天皇陵の修補を幕府に提案している。その意図するところは、神武天皇からの歴代天皇の陵墓を敬うことで、孝道を示すことであった。

言うまでもなく光圀は、『大日本史』の編纂によって後に「水戸学」と呼ばれることになる政治思想学を確立した人物であり、水戸学は幕末の尊皇攘夷の理論的支柱として明治維新の原動力の一つとなった。その光圀が、神武天皇陵に着目したのは象徴的なことである。ただし、光圀の提案は幕府により却下された。

光圀の提案とほぼ時を同じくして、元禄9年(1696年)、江戸時代の陵墓研究において最も注目される本が執筆された。松下見林の『前王廟陵記』である。『前王廟陵記』は歴代天皇陵について網羅的にその所在を考証した本だ。

これは一部の権力者のためだけにまとめられたものではなく、広く一般へ販売された。元禄時代のことであるから、出版といっても日本全国の人が読んだというと大げさになるが、江戸、大坂(大阪)、京都の版元による共同販売であり決してその読者は少なくなかったと思われる。そもそも、このテーマで商業的に出版ができるというだけでも、山陵への関心の高まりが窺い知れよう(※)。

光圀の提案や『前王廟陵記』による刺激を受けたのか、この頃幕府側でも山陵の調査が活発になったようで、地元の伝承を中心とした古墳の研究や修補(標札の設置など)が行われている。

元禄以降は、陵墓に対する関心は一層強くなり、例えば並河永『大和志』(1736年)、竹口英斉『陵墓志』(1794年)といった、陵墓に関する調査・記録が次々まとめられた。その中でも最も影響力が大きかったのが蒲生君平の『山陵志』(1808年)で、『山陵志』に刺激されて著された陵墓研究本は数多く、一々それを挙げるのが煩わしいほどである。

このように、元禄時代から幕末にかけて山陵の研究がどんどん盛んになっていったのは、ある研究での考証が別の研究で批判されて…という議論の応酬の結果という側面ももちろあっただろうが、それよりも重要な背景は、やはり尊皇攘夷の高まりである。

「尊皇」については、それこそ蒲生君平の『山陵志』がこのような言葉で始まっている。
 「古の帝王、其の祖宗の祀を奉りて、仁孝の誠を致すなり(原文漢文)」
歴代天皇の墓を敬い、祭祀を行うことは、「仁孝の誠」だというのである。この頃に山陵研究が盛り上がったのは、考古学的な関心などではなく、これまで忘れられていた歴代天皇の墓所を再興することで禁裏(天皇家)への忠誠を形にするという意図によるものだった。

そして、今から考えると意外な感じがするが、山陵は「攘夷」とも分かちがたく結びついていた。「文久の修陵」で創出された神武天皇陵では、それこそこの山陵の「築造」の僅か1ヶ月後、熱心な攘夷論者であった孝明天皇の勅使が派遣されて「攘夷祈願祭」が行われている。山陵は、攘夷を祈願される存在だったのである。

実は、神武天皇陵はそれまでの陵墓研究での考証を半ば無視したような形で強引に築造されたという経緯がある。その理由は、未だ神武天皇陵の位置が明らかにならない段階で神武天皇陵での「攘夷祈願祭」実施が決定されてしまい、築造を急がなければならなかったという事情があったことから、造成しやすい土地を指定したからではないか、と推測されている。神武天皇陵が本当にどこにあったのか、という考証よりも、政治的な日程が優先されたのだ。

なぜ神武天皇陵が政治的に利用されたのかというと、自ら東征して橿原で即位したという神武天皇の「武」のイメージが山陵に重ねられたからだ。この「攘夷祈願祭」によって、神武天皇陵はその後「攘夷」の精神的支柱としての役割をも担うことになった。

ところが、江戸幕府の権威低下が行き着くところまでいって、大政奉還、王政復古となると、この山陵の政治的役割もまた変わって行かざるを得なかった。

明治新政府が、攘夷ではなく開国を志向したからである。

しかし、山陵は「尊皇攘夷」のシンボルでなくなっても、より重大な政治的役割が付与されるようになった。というのは、明治政府の正統性は、天皇家が遙か古代から続く正統な日本の統治者であるという「歴史的事実」に支えられていたからだ。この「歴史的事実」を証明するものが、歴代天皇陵であった。

明治維新は、理念の上では決してクーデターではなかった。革命ですらなかった。元来あるべき正統な君主の元に実権が返っただけのことであった。では、天皇家が「正統な君主」であるという根拠は何だったのかというと、それは神の子孫である神武天皇の「建国の大業」であり、神武天皇から続く「万世一系」の無窮なる皇統なのだ。

とはいっても、神武天皇なる人物が本当にいたのだろうか? 現代の研究では、そのモデルがいたとしても、神武天皇そのものが存在したとは考えられていない。遙かな古代の話であり、当時としても伝説の域を出なかったであろう。そもそも、明治政府の方針として、迷信の打破といったようなことが声高に叫ばれていた。その明治政府は、歴史的に全く証拠がない神武天皇を正統性の源泉としていたのである。

そこで重要になってきたのが、神武天皇の実在性を証する神武天皇陵であった。そして、神武天皇から連綿と続く、歴代天皇の山陵であった。こうした「物証」がある以上、「万世一系」の皇統は現実であるとされたのだ。

こうして、神話は現実化していった。

そして、現実化の装置として、山陵が機能するようになった。

もちろん、現実化の装置は、山陵だけではなかった。まず挙げなければならないのは伊勢神宮だろう。伊勢神宮は皇室の崇敬する神社として、歴史的にも特別扱いを受けていたが、今のように皇室との緊密な関係が築かれ、国家の宗廟にされたのは明治政府による。

伊勢神宮がこのような変貌を遂げた原因はいろいろあるが、その一つに、伊勢神宮には三種の神器の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)」が祀られているということがある。これこそ、天皇が神話の時代から続いているという事実を証するものの一つだった。

それ以外にも、神話を現実化する装置がたくさん考案された。それは、ある意味では「聖地の誘致合戦」とも言うべきものだった。

例えば、伊勢神宮に次ぐものとしての待遇を求めてある程度成功した熱田神宮。ここも三種の神器の一つである「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」がご神体となっている。それから、神武天皇の即位宮である橿原神宮も新たに創建された。橿原神宮は神武天皇の宮跡を奉斎するもので、国家によって大急ぎで創られ、神社の中でも破格の扱いを受けた。神武天皇の実在性を人々に信じ込ませるために必要なものだったからだろう。

そんな中で、山陵の「神話を現実化」する装置としての特殊性は、歴代天皇のものが全て揃いうるという「万世一系」の証明になる点であった。神武天皇を初めとして、それに続く天皇の山陵が各地が散らばっていること、それ自体が、皇室が遙か古代から日本を統治してきたという動かぬ証拠であった。

ところが明治の始めにおいて、未だ治定されていない天皇陵もあった。明治政府は、皇室の陵墓を全てコンプリートすることで、万世一系の神話の完全なる現実化を図り、皇室の祭祀体系を完成させようとした。

こうして、幕末には武家から公家への贈り物、尊皇の志を形にするという意味だった修陵事業が、明治時代になって全く別の意味を持つようになった。それは、山陵を全国に配置して皇室のモニュメント(記念碑)とするということだ。皇室のモニュメントというより、明治政府のモニュメントと言った方がいいかもしれない。政府は、全国に散らばる山陵を介して、人々と皇室との関係を新たに樹立しようとしたのである。

早くも明治4年(1871年)には、全国の府・藩・県に対して后妃・皇子・皇女らの陵墓があるか回答を求める太政官布告が出された。だがこれにはかばかしい回答が得られなかったため、明治8年(1875年)には、当時陵墓に関する事務を司っていた教部省が、陵墓の調査のために職員を全国に出張させるようになった。国家は遂に、日本全国に「万世一系」の皇室のモニュメントを配置するという事業に乗り出した。

鹿児島の3ヶ所が、可愛(えの)山陵、吾平(あいら)山上陵、高屋(たかや)山上陵であると指定されたのが明治7年(1874年)。明治7年は、こういう動向の時代だったのである。

(つづく)

※『前王廟陵記』の出版年代については、早稲田大学の蔵書によると奥付に「元禄十一年戊寅歳三月彫成、安永七戊戌歳五月補正」とあります。これは元禄11年(1698年)に初版が出て、安永7年(1778年)に改版が出たということだと思いますが、和書に詳しくないのでもしかしたら間違っているかもしれません。


【参考文献】
天皇の近代史』2000年、外池 昇
天皇陵とは何か』1997年、茂木 雅博
神都物語:伊勢神宮の近現代史』2015年、ジョン・ブリーン

2017年8月21日月曜日

「文久の修陵」と「尊皇の競争」——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その2)

明治政府は明治7年に、鹿児島の3ヶ所を、それぞれ可愛(えの)山陵吾平(あいら)山上陵高屋(たかや)山上陵であると指定した。明治政府は、鹿児島に神々の墓があると決定したのである。

どうして、このような決定がなされたのか、それを考えるには、少し遠回りするようだが、そもそも「明治政府にとって、天皇陵とは何だったのか」を振り返る必要がある。

これまた一見簡単そうでいで、なかなかに難しいテーマである。一般の人には、かなり馴染みがない問題提起だろう。そもそも「天皇陵」とは何か。

素朴に表現すれば、「天皇陵」とは「天皇の墓とされる古墳」のことだ。

例えば、「世界三大墳墓」の一つとされることもある「仁徳天皇陵」、すなわち大山古墳が天皇陵の一つだ。大山古墳は、大阪府堺市にある威風堂々とした巨大な古墳であり、いかにも古代の権力者の墓という感じがする。

また、奈良県の橿原市にある神武天皇陵。こちらは周囲100mほどで巨大ではないが、こんもりとした林になっており、小さいながら聖域の風格がある。

でも、こうした「天皇陵」は、昔からこのような場所だったのだろうか? 築造当初から?

何となく、学校教育で習ってきた「古墳」のイメージからすると、これらは考古学的な存在として、悠久の時を超えてきた印象がある。

だが、それは間違いだ。実際には、これらの「天皇陵」が今の形に整えられたのは、せいぜい幕末くらいの時からなのだ。

また、今「仁徳天皇陵」とされている古墳は、学術的にはおそらく仁徳天皇の墓ではないだろうと考えられている。そもそも、どの天皇がどこに葬られたのか、というのは、『日本書紀』や『延喜式』に記載があるものの、古墳そのものに被葬者が分かる史料が出土したことは一度もない。大山古墳は仁徳天皇陵だ、と宮内庁が決めたからそうなっているだけで、その根拠は実はあやふやである。

神武天皇陵に至っては、幕末に伝承地を造成して指定したものであり、その指定の過程について考古学的に問題があるのは当然として、非常に政治的なプロセスにより決定されたものであるから、ほとんど「創出」といってもよいと思われる。

こうした、「天皇陵」の創出の契機となったのが、いわゆる「文久の修陵」と呼ばれる事業である。

「文久の修陵」とは、宇都宮藩の建白によって文久2年から行われた、大規模な山陵の修繕事業である。修繕とはいえ、この時点ではどの古墳がどの天皇に対応する墓なのか、ということも決まっていなかったところが多く、まずはそうした治定から行う必要があった。この「文久の修陵」によって、それまでただのこんもりとした山でしかなかったところが、いきなり「兆域(聖域)」として区画され、柵が設けられて立ち入り禁止になり、鳥居が立てられて祭祀の対象となっていくのである。

なにしろそれまでは、天皇陵かもしれない、と伝承されていたところですら、草刈り場になったり、柴取り山になったりして農民に利用されていたし、それどころか年貢地に指定されて耕作されていたところも多いのである。「文久の修陵」では、そうした「生産の場」としての機能を停止させ、あくまで畏れ多い、みだりに立ち入ることができない「聖地」に変えていった。

特に「文久の修陵」で創出された天皇陵の最たるものといえば、神武天皇陵であろう。予算的にも、神武天皇陵の造成は破格の扱いを受けた。というよりも、「文久の修陵」の要は、神武天皇陵の創出にあったといっても過言ではない。

「文久の修陵」を企画し、また実施したのは、宇都宮藩の筆頭家老だった戸田忠至(ただゆき)なのであるが、戸田は何を考えてこのような事業を行ったのであろうか。数々の天皇陵を治定して聖域に変え、神武天皇陵を創出した理由は、なんだったのだろうか。

その理由を探るには、またしても少し遠回りをする必要がある。というのは、当時の時代背景を見てみなくてはならないからだ。

文久年間は、1861〜1864年。「文久の修陵」が行われた文久2年(1862年)といえば、我々鹿児島の人間にとっては「生麦事件」の年であり、非常に攘夷の熱が高まった時代でもある。そして、同じ年には、皇女和宮と第14代将軍徳川家茂の婚礼も行われている。これは「公武合体」の象徴として行われたもので、天皇家と将軍家が姻戚関係を持つという空前絶後の政策であった。そして翌年には、将軍家茂は初めて上洛して天皇に拝謁している。

つまりこの時代は、「尊皇攘夷」が具体化した頃なのである。特に、家茂の上洛は、それまでも形式的には天皇は将軍の上にあったが、実際の上で、将軍の権威が天皇のそれよりも低下したことを示すエポックメイキングなイベントであった。これを境に、政治の中心は江戸ではなく京都になり、列藩たちは京都を舞台に活躍していくことになるのである。

「尊皇」とは、別の面から言えば江戸幕府の権威低下であった。

口では「異国船打払令」などといいながら、実際には外国からの圧力に対して何ら有効な施策を打ち出すことができない江戸幕府は、その財政的な行き詰まりもあって、急速に権威が低下していった。替わってにわかに権威が高まっていったのが天皇(禁裏)である。

その理由を簡単に述べるのは難しいが、それまでも形式的には将軍家の上にあったということで、儒教倫理において至上権を付託されているのが天皇であると考えられたことと、より重要なこととして、天皇家が遙か古代から続く正統な日本の統治者であるという「歴史的事実」があった。

いずれにしても、天皇は、何かをやったことによって権威を高めたのではなかった。その権威の源泉は、「行動」よりも「血統」だった。この頃の禁裏は、まだ何もしていないのにも関わらず、自然と権威が高まっていったのだ。それは、幕府の威信低下によって生じた政治的空白を、何かで埋め合わせようとする列藩の思惑もあっただろうが、それよりもこの権威上昇を演出したのは、他ならぬ幕府自身であった。

というのは、幕府自身の権威が不可避的に低下する中で、失われていく求心力を保つためには、禁裏の権威を借りるしかなかったのである。いわば、幕府は禁裏の権威に寄生して命脈を保とうとした。それを象徴しているのが、文久2年の皇女和宮と徳川家茂の婚礼だ。皇女を嫁に迎えることで、将軍家の権威を維持しようとしたのである。それが、「公武合体」の意味するところであった。

しかし、幕府が禁裏の権威を借りようとしたように、次期政権を窺っていた雄藩たちも、同様に禁裏の権威を借りようとした。権威だけは将軍家を凌駕していながら、禁裏自身は次期政権を担う仕組みはなかったため(まだ何もしていないのだから当然だ)、禁裏をその手中に収めるものが、徳川幕府に替わる政体を形づくれるという「倒幕のルール」が出来上がっていった。

こうして、「尊皇の競争」というべきものが生まれたのである。

この状況を理解するには、ちょっと卑近な例すぎる嫌いはあるが、企業の社長交代劇などに置き換えて考えてみればよい。

業績が悪化して、求心力が低下してしまった社長がいたとしよう。既に大幹部たちの人心も離れており、もはや自らの能力で挽回することは難しい。そこで、社長は創業者一族の権威に頼ることを考える。例えば、創業者の子孫を重役に迎えるといったようなことで求心力を保とうとする。

しかしこの策は、次期社長の椅子を狙う重役たちにも使える手なのである。創業者の子孫を担ぎ出して、現社長を追い出すことだって可能なのだ。そのため両者ともに重要となるのが、創業者一族との良好な関係を形成するということだ。担ぎ出すにしても、自分らのいうことを聞いてくださいというワケにはいかないから、心からあなたが必要なんですという姿勢を見せる必要があるだろう。

そのためにはあなたなら何をするだろうか。創業者一族へ贈り物をする、というような露骨なやり方はうまくいかない。それは、ある程度は必要かもしれないが、お金ですむものはお金で覆ってしまうのが常識だからである。だから有効なのは、例えば「創業者のやった偉大な仕事を振り返る」「創業者への恩を思い出す」というようなことを形にすることなのだ。要するに、創業者一族への「忠誠心」を目に見えるようにするということが、最も求められるのである。

もうおわかりの通り、このたとえ話における「社長」を「将軍(幕府)」に、「創業者一族」を「天皇(禁裏)」に置き換えれば、この幕末の状況をある程度理解できると思う。全国の雄藩のみならず、幕府においても、禁裏への「忠誠心」がホンモノであるという主張合戦が行われた。これが、「尊皇の競争」である。「私の方が本当の”尊皇”なんですよ。だから私の味方になって下さい」というわけだ。そしてこのために、より一層禁裏の権威が高まっていくという権威のインフレーションが起きた。

そして、この「尊皇の競争」こそ、「文久の修陵」が行われた背景なのである。

「文久の修陵」を企画した宇都宮藩は、「譜代」でありながら坂下門外の変によって幕府から睨まれ、不利な立場にあった。「修陵」は、幕府への忠誠を示しながら、「尊王」を形にするものとして、藩の立場を逆転させるものとして企画されたのだ。宇都宮藩は、古墳群が存在する畿内からは遠いところにあるので、企画の段階では山陵がどういうものであるか実見したこともなく、 まさにこの事業は机上の空論、政治的計算から生まれたものだった。

とはいえ、「修陵」が「尊皇」を形にするもの、といっても、ちょっとすぐには納得できないかもしれない。 なぜ「修陵」が藩の命運を逆転させる策として浮上したのか。そのためには、そもそも「山陵」とはいかなる存在であるかを理解する必要がある。

(つづく)

【参考文献】
天皇の近代史』2000年、外池 昇
日本政治思想史―十七~十九世紀』2010年、渡辺 浩

2017年8月20日日曜日

レヴィ=ストロースが鹿児島に来て——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その1)

高屋山上陵
鹿児島空港から車で15分くらい行ったところに、「高屋山上陵」という史跡がある。鬱蒼とした杉山の、長い長い階段を登ったところにそれはある。

これは、ホオリのミコト(火遠理命)、いわゆる山幸彦の墓とされるものだ。山幸彦は、初代天皇である神武天皇の父親に当たる。そういう、神話的古代に遡る墓が、ここ鹿児島にあるのである。

1986年に、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは鹿児島を訪れ、天孫降臨からの神話を辿る旅をした(今、資料で確認できないが、鹿児島の民俗学者下野敏見氏が案内されていたように記憶する)。

そしてレヴィ=ストロースは「九州ではそのようなことはなくて、まったく神話的な雰囲気の中に浸ってしまいます。(中略)われわれ西洋人にとって、神話と歴史との間は深い淵で隔てられています。それに対し、もっとも心を打つ日本の魅力の一つは、神話も歴史もごく身近なものだという感じがすることなのです」と述べた(※)。

これは、我々鹿児島の人間にとって鼻が高くなるようなコメントだ。世界的な人類学者が、鹿児島の地を、神話と現代が交錯するような土地だ、と彼流の詩的表現をしたのだから。

実際、鹿児島にはたくさんの神話が残っている。私はかつて「南薩と神話」という続きものの記事を書いたことがある。

【参考】
このように、鹿児島には南薩だけに限っても神話に因んだところがたくさんあるくらいで、レヴィ=ストロースが「神話的な雰囲気に浸ってしまう」と感じたのも無理はない。

特に、天孫降臨から神武天皇に至るまでの神代三代(じんだいさんだい)、すなわち、アマテラスの孫のニニギ、ニニギの子のホオリ、そしてその子のウガヤフキアエズ、という三代は、みな鹿児島で活躍したことになっていて、実際、国によって認められたこの三代の墓(陵=みささぎ、という)は、みな鹿児島にあるのである。

具体的には、第1にニニギの陵である薩摩川内市の可愛(えの)山陵、一般的には新田神社があるところとして知られる小高い山だ。第2に、ウガヤフキアエズの陵である鹿屋市にある吾平(あいら)山上陵。そして第3に、最初に例を出した霧島市の高屋(たかや)山上陵。(ちなみに、「山上陵」は正式には「やまのえのみささぎ」と読むが、「さんじょうりょう」と読んでもよい。)

これら三山陵は、宮内庁書陵部が管轄していて、実際に可愛山陵には宮内庁の小さな事務所がある。

そして、このように宮内庁が公認する「神」の墓があるのは、鹿児島だけなのである。他の県にも、歴代天皇の山陵というものはたくさん存在しているが、ただ鹿児島だけが神々の山陵を有している。

私は、これは一体どうしてなのだろうと何年も疑問に思っていた。

神々の墓がある、と主張するのは、鹿児島だけではない。特に宮崎県は、西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)を有し、ここにはニニギの墓とされる巨大古墳がある。実際、その古墳は宮内庁によっても陵墓参考地(被葬者の確定はできないが皇族の墓と指定されているところ)とされている。それだけでなく、鹿児島県が有している三山陵全てについて、実はそれらは宮崎県にある別のところにあたるのでは? という異説が存在する。

こうした異説が存在しながらも、なぜ宮内庁は鹿児島の山陵のみを公認したのだろうか。昔から、この公認の背景には、明治時代の薩摩閥の政治力がある、と言われてきたが、実際にはどのようなプロセスで決定されたのだろうか。

このようなことは、歴史の悪戯として片付けられる類のことではある。非常に些末なことと人はいうかもしれない。しかし私にとっては、この謎は明治の宗教行政史の核心に迫るテーマの一つなのだ。

これについて、少し考えてみたい。

(つづく)

クロード・レヴィ=ストロース「世界の中の日本文化」、『世界の中の日本 Ⅰ:日本研究のパラダイム―日本学と日本研究―』所収、国際日本文化研究センター, 1989.2.10.