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2022年7月10日日曜日

山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」を巡って

拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が発売されて約1ヶ月。

売れ行きを出版社に聞いてみたところ、「小社ではなかなかの実績」とのことだった。それなりに売れているようである。

そして、読んだ方からはポツポツとご感想も寄せられている。「知らないことばかりでビックリ」「これまで神代三陵がなぜか閑却されてきたことに気付かされた」など肯定的に評価していただいた。

そんな中で、意外と多いのが「表紙の絵がかっこいい」という感想。

実はこの表紙の絵、私から出版社に「表紙はこの絵にしてほしい」とお願いしたものだ。意外とすんなりその要望を聞いてくれて、バッチリ表紙にあしらってくれた。なので表紙の絵が好評なのは私としても喜ばしい。

この絵は、山内多門という人が描いた「中国西国巡幸鹿児島著御(之図)」という作品。明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されているものだ。

聖徳記念絵画館には、この作品も含め、日本画40枚・洋画40枚の明治天皇・皇后の歴史にまつわる絵画が展示されている。これらは、明治天皇崩御をきっかけに、その顕彰のための壁画として(といっても壁に直接描くのでなく、和紙・キャンバス製で)製作されたもので、全ての絵画が奉納されたのは25年後の昭和11年。そしてその画題も、明治天皇の個人的な事績というよりは、国家の歴史と密接に関わったものが選ばれ、国使編纂事業(←これは拙著でも触れています)とも関連して制作された、まさに国家的大事業としての壁画制作であった。

大げさに言えば、これらの一連の壁画は「建国の神話」を表現したものであったといえる。

当然、この制作に関わった画家は、当時最高の技倆を持っていた人ばかりである。「中国西国巡幸鹿児島著御」を描いた山内多門もその一人だ。

山内多門(たもん)は、木村探元から続く南九州の狩野派の掉尾を飾る人物である。

山内多門は明治11年、宮崎県都城市に生まれ、少年の頃に郷里の狩野派絵師・中原南渓に入門。21歳までは小学校教師などをしていたが一念発起し周囲の反対を押し切り上京、川合玉堂に入門した。また玉堂の紹介で橋本雅邦(狩野派の絵師で川合玉堂の師でもある)に師事。そして発足間もない日本美術院に参加し、日本美術院の公募展に第2〜10回と連続で出品して華々しい成績を収めた。また帝展では2〜10回の審査委員をつとめるなど当時の日本画壇の中核的存在だった。

「中国西国巡幸鹿児島著御」は、そんな山内多門が絶頂期に制作した大作である。

島津氏の居城だった鶴丸城(今の黎明館があるところ)に天皇の一行が到着した、明治5年6月22日の様子を描いている。ちなみに明治天皇は、騎馬している人物の前から3番目である。

どうして明治天皇がわざわざ鹿児島まで来たのかというと、西国・九州の各地を回って人心を収攬するための一環だったが、特に鹿児島については当時政府と敵対していた島津久光の慰撫が念頭にあったとするのが通説である。

この鹿児島行幸の際、明治天皇は行在所(あんざいしょ)で神代三陵を遙拝(遠くから拝む)し、これが神代三陵の治定にあたって決定的な役割を果たすことになった。まさに、神代三陵の治定において象徴的な場面が描かれているのが、この作品なのだ。だからこそ私はこの絵を表紙にしたかったのである。

ところで、明治11年生まれの山内多門がどうやって明治5年の出来事を絵に描いたか?

この絵には、鶴丸城の城門である御楼門(ごろうもん)が描かれているが、実は御楼門は巡幸の一年後の明治6年に火災で焼失している。なので山内多門が絵画を制作していた時は影も形もなかったし、当然見た事もなかった。設計図なども残っているわけもない。そもそも、鶴丸城自体が、明治10年の西南戦争で焼失しているのである。

そこでこの絵の重要な参考資料となったのが、明治5年の西国・九州巡幸の際に撮影された写真である。この巡幸には、長崎出身の写真師・内田九一(くいち)が同行していた(なお内田九一は最初の明治天皇の肖像写真を撮影した人物)。彼は各地で名所旧跡の写真を撮っており、そのうちの55点が確認されている。

そして幸いなことに、そこに鹿児島の御楼門の写真も入っていた。

この写真をよく見れば、山内多門の絵に描かれた石垣にせり出す松が、事実に基づいているものであることがわかる。

もちろん、この写真がなかったら御楼門の構造も詳細な点は不明だっただろう。

内田九一の写真のおかげで山内多門は「中国西国巡幸鹿児島著御」を史実に基づいて完成させることができたのである。

余談だが、鶴丸城の前が「城下」のイメージとは違うだだっ広い平野になっているのも興味深い。さらに、城郭の中もほとんど森のようである。鶴丸城には元々天守閣がなかったが、私たちがイメージする城郭とはかなり隔たった姿だったわけである。

さらに余談になるが、令和2年(2020)、御楼門は明治維新150年事業の一環で官民協力のもとに復元された。

その復元にあたって重要な資料となったのが内田九一の写真であったことはいうまでもない。出土品や江戸時代の補修時の史料などは残っていたが、全体的なフォルムについてはこの写真がなければ正確に復元するのは到底不可能であった。

だから、貴重な記録写真をもたらしたという意味でも、西国・九州巡幸には大きな意味があったと言えるだろう。明治維新では廃仏毀釈という破壊運動が起こり、多くの貴重な文化遺産が失われるという負の側面があったが、写真によって当時の社会が記録され、それが後の文化財の再建に繋がるという面もあったわけだ。

ところで、この大作「中国西国巡幸鹿児島著御」を完成させた後、山内多門は病気がちとなり、2年後には54歳で死去してしまった。弟子には宮之原譲、山下巌、野添草郷らがいるが多門が早死にしたこともあって、その後は大きな流れとはなっていない。

ちなみに、明治5年に御楼門の写真を撮った内田九一も、その3年後には31歳という若さで肺結核により死亡している。もし巡幸のタイミングがずれていたら御楼門の写真は残らなかっただろうし、また内田九一も生きていなかったということだ。同じことは山内多門にも言える。文化財というものは、様々な偶然や幸運に恵まれて生まれ、残されたものだということをつくづく感じる。

さらに蛇足だが、山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」の模写が黎明館に所蔵されている。元々山内多門の絵は、鹿児島市が依頼して製作したものだが、これを神宮外苑に奉納するにあたり、その模写を制作していたもののようだ。模写したのは石原紫山。入来町出身の画家である。これは時々展示されるようなので、機会があれば是非見ていただきたい(私自身も未見)。

御楼門が描かれた絵画を表紙にあしらったにのはもう一つ理由がある。元々、この本が自分の中での「明治維新150年事業」だったからでもある。

鹿児島県では2010年代後半、明治維新150年(2018年)に向けて大河ドラマ「西郷(せご)どん」や御楼門再建といった記念事業に官民挙げて取り組んでいた。もちろん明治維新の主役である西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀といった人たちの顕彰はやるべきことだ。しかし明治維新には廃仏毀釈という負の面もある。私は、主流の人たちがやりづらい、負の面の明治維新150年事業を自分一人でやってみたかった。薩摩藩出身者たちが明治政府に残した、負の遺産を見直してみたかったのである。

その結果が、『明治維新と神代三陵』である。

明治維新には、その後の日本が破滅に進むことになった兆しが内包されていた。その一つが「神代三陵の治定」であると思う。これは一見、重箱の隅をつつくようなマニアックなテーマだが、これを通じて明治以降の150年を自分なりに見直すことができたと自負している。

というわけで、拙著のご高覧、よろしくお願いいたします。

【参考文献】
金子 隆一「内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置
※内田九一の写真は、同論文から転載しました。東京都写真美術館の収蔵品です。同作品は同美術館のデジタルアーカイブでは公開されていませんが、著作権は既に消滅しています。
都城市立図書館「山内多門 生誕130年展」パンフレット
みやこのじ南日本新聞社編『郷土人系』
※現在の御楼門の写真は県のWEBサイトより借用しました。

【2022.7.12追記】
御楼門復元にあたっては、別の「正面から撮った写真」があり、そちらの方も参考にしている…という情報をいただきました。ということで、内田九一の写真がなかったら御楼門も復元できなかったのでは、というのは私の早合点だったようです。こちらの写真も明治初期に撮影されたものらしいですが、誰の撮影なのかがわかりません。これも内田九一なのでしょうか…?


2022年5月29日日曜日

鹿児島の郷土作家、名越 護さん

拙著『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が遂に手元に届いた。

公式の発売日は6月10日だが、直接には販売を開始している他、またネットショップ「南薩の田舎暮らし」でも取り扱いを始めた。「待ってました」という方も多いので、既に50冊くらい売れている。

【南薩の田舎暮らし】『明治維新と神代三陵:廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(1870円(定価販売)、送料無料)

そしてこの度、拙著に名越 護(なごし・まもる)さんから推薦コメントをいただいた。

本書をすすめる

なぜ神代三陵が鹿児島県内に比定されたのか、天皇を中心とする明治政府は、国家神道をめざして廃仏毀釈を蛮行したが、なぜ鹿児島だけが率先して決定的な「寺こわし」を徹底したか。そして彼らが目指した「国家神道」で、なぜ各地の人々の身近にあった多くの産土神を、すべて記紀に記された神々と合祀していったか——。政治が宗教までも抹殺して庶民の心まで奪い、一方的に天皇制を強化していった姿を、史料類を詳細に調べて明治維新の“負の部分”を明らかにした好書である。
           名越 護(鹿児島民俗学会員)  

名越護さんは、鹿児島の徹底的な廃仏毀釈についてまとめた『鹿児島藩の廃仏毀釈』の著者で、存命中では、質・量ともに一番の郷土作家。鹿児島ではファンの多い名越さんに推薦コメントをいただけたことはとても心強い。

しかし名越さんは、あまり人前に出ていくタイプではないし、新聞やテレビでコメントするようなことも少ないので、鹿児島でも知らない人は多いかも知れない。まだ誰も「名越護」についてまとめた人がいないようなので、僭越ながら少し名越さんについて語ってみる。

名越さんは、昭和17年(1942)奄美大島宇検村生まれ。立命館大学法学部を卒業後、南日本新聞社に入社して記者になった。記者になって10年ほどたった昭和50年(1975)頃、鹿児島の民俗学者・小野重朗さんの『かごしま民俗散歩』を読んで民俗学に興味を持ち、民俗学を学んだ。

そのため、祭りや伝統行事を伝える新聞記事も、名越さんの手にかかると一種の民俗学のフィールドワークの面持ちがあり、今の新聞記事にはない深みがあった。

名越さんは、南日本新聞社加世田支局(現南さつま支局)に昭和50年代後半に赴任。そこで「ふるさと流域紀行 万之瀬川」というとんでもない連載記事を書いた。これは万之瀬川の流域(主に今の南さつま市、南九州市)の自然や文化、神話や伝説、産業や人々の暮らしについて地域の特色を描いたもので、昭和57年(1982)3月から7月までに60回に渡り連載された。1回の記事は1500字程度。綿密な取材を行った上で、地域の様々な事柄について自分なりに考察した部分も多く、民俗学的視点が発揮されている。

この連載記事は、内容もすごいがそれ以上に驚かされるのは、たった3ヶ月半程度の間に60回もの記事が発表されている、ということだ。記事は毎日あるいは1日おきくらいで掲載された。この濃密な連載をとんでもないスピードで書いていたことは驚愕以外の何物でもない。しかも、もちろんこの他に通常の記者としての記事も書いているのである。

この連載記事は、郷土を知るための恰好の地域誌となっており、今は失われた祭りや民俗の記録ともなっていて資料的価値も非常に高いため、南さつま市観光協会が2019年にまとめて翻刻している(非売品だが協会に行けばもらえる)。

この大仕事を終えて後、名越さんは南日本新聞社文化部に在籍。ここでは鹿児島県全域が取材対象となる。そこで連載「かごしま母と子の四季」を自ら企画し、昭和60年(1985)、週一回一年間連載した(53回)。これは県内各地を巡って、祭りや伝統行事を女性や子どもに注目して取材しまとめた「民俗ルポルタージュ」。祭りというと、どうしても男性がやる派手な所作などに注目が集まるが、この連載では団子を作る女性や、時として神の代わりとなる子どもたちを取り上げたことが新鮮だ。取材においては、小野重朗さんもいろいろと指導をしたらしい。

さらに翌61年(1986)には、週二回の年間連載「かごしま民俗ごよみ」を95回連載した。これは祭りや伝統行事だけでなく、民俗信仰まで含めて県内各地を取材し改めてまとめたもの。2年連続で手間のかかる企画連載記事を手がけたことは、この時期の名越さんの気力体力がいかに充実していたかを物語る。

そして、これらの記事を見ると、民俗学の視点や伝説や言い伝えの考察といった名越さんならではの深みは当然のことながら、取材の丁寧さや文字の多さだけ見ても今の新聞記事とは隔世の感がある。今の新聞の悪口を言ってもしょうがないが、昨今は写真ばかりが大きくなり(しかも記者本人が撮っているためおざなりなものが多い。当時の写真はカメラマンが同行し、ちゃんと現像した写真だ。写真にかける力が違う)、文章は必要以上に削られて、ほとんど紋切り型の説明しかできなくなっている。

だからきっと、今の南日本新聞にこれだけの力量がある記者がいたとしても、宝の持ち腐れになるだろう。昔の力作記事を見ると、どうしても今の新聞の凋落を感じてしまう。

それはともかく、名越さんは南日本新聞で精力的に記事を書いた。日々の取材の記事だけでなく、民俗学の視点から主体的に鹿児島を切り取っていった。そして2003年で定年退職し、執筆活動に入る。主要な作品を書き出してみると、こんな感じだ。

  • 『南島雑話の世界 : 名越左源太の見た幕末の奄美』(2002年、南日本新聞開発センター)
  • 『薩摩漂流奇譚』(2004年、南方新社)
  • 『奄美の債務奴隷ヤンチュ』(2006年、南方新社)
  • 『鹿児島藩の廃仏毀釈』(2011年、南方新社)
  • 『自由人西行』(2014年、南方新社)
  • 『田代安定 : 南島植物学、民俗学の泰斗』(2017年、南方新社)
    ※南日本出版文化賞受賞
  • 『クルーソーを超えた男たち』(2019年、南方新社) 
  • 『ふるさと流域紀行 万之瀬川』(2019年、(一社)南さつま市観光協会)
    ※私事ながら、本書の刊行には私自身も関わった。
  • 『鹿児島 野の民族誌——母と子の四季』(2020年、南方新社)
    南日本新聞社編となっているが、名越さんの原稿をまとめたもの。先述の連載「かごしま母と子の四季」
  • 『鹿児島民俗ごよみ』(2021年、南方新社)
    南日本新聞社編となっているが、名越さんの原稿をまとめたもの。先述の連載「かごしま民俗ごよみ」

さらにこうした作品を執筆する傍ら、鹿児島民俗学会会員として、学会誌『鹿児島民俗』に数々の論文も発表してきた。私自身はこれらのうち一部しか目を通していないが、書名だけを並べても、名越さんでなければ書けない、しかも誰かは書かなくてはならなかった重要なテーマにずっと取り組んできたことが明白である。

特に『奄美の債務奴隷ヤンチュ』は薩摩藩の植民地だった奄美において、黒糖製造業の犠牲となった債務奴隷ヤンチュの実態を明らかにした名著であり価値が高い。

そして徹底的に行われた鹿児島の廃仏毀釈を、各市町村郷土史をベースに現地取材して描いた『鹿児島藩の廃仏毀釈』は、「南方新社史上、最も売れた本」と言われている名作である。もちろん、拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』の執筆においても大いに参考にさせてもらった。

そんな名越さんは、2022年5月、自身「最後の著作」と位置づける『新南島雑話の世界』を南方新社から上梓された。 15冊目の本だそうである。これは、幕末に奄美に島流しにされながらも、奄美の文化や自然について克明な記録を残した名越左源太(なごや・さげんた)の「南島雑話」を読み解くものである。旧作『南島雑話の世界 : 名越左源太の見た幕末の奄美』が祭事を中心としていたのに対し、本書は、生業、民俗、動植物を中心に現在の奄美の情報も付け加えたもの。奄美生まれの名越さんの「奄美愛」が詰め込まれているように思う。

このように名越さんは、新聞記者時代には生きた鹿児島の民俗を記録し、退職後は独自の視点で郷土史研究を行い、これまたとんでもないペースで本を書いてきた。名越さんが第一級の郷土作家であることが、これでおわかりいただけたと思う。

そして私事ながら、名越さんには著作の上で多くの示唆を受けただけでなく、直接にもいろいろとお世話になっている。すごい人なのに、いつも控えめでにこやかに微笑んで下さる方である。この度拙著への推薦コメントも、お願いしたら快く引き受けて下さり、数日後にはコメントを手紙で受け取った。

名越さん、いつもありがとうございます!!


2022年4月26日火曜日

初の著書『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』

初めての本が、この6月に出版の運びとなった。

『明治維新と神代三陵——廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』というタイトルだ。

管見の限り、「神代三陵」をテーマにした本は史上初ではないかと思う。神代三陵を知っている人自体が少なく、「何それ?」という状態なのを考えると、これまで神代三陵についての本がなかったのも当然かもしれない。

しかし、神代三陵という存在は、なかなかに面白い。

神代三陵とは、日本の神話に登場する天皇家の祖先、天孫ニニギノミコト、その子のホホデミノミコト、その子ウガヤフキアエズノミコトの陵墓である。ちなみにウガヤフキアエズの子どもが神武天皇だ。

この3柱の神々の陵墓は
可愛(えの)山陵」=薩摩川内市
高屋(たかや)山上陵」=霧島市
吾平(あいら)山上陵」=鹿屋市
と全てが鹿児島県に確定されており、宮内庁が管理している。

もちろん、「神」の墓、などというものを額面通りに受け取るわけにはいかない。そもそも神自体がいたかどうかもわからない。というより、神々が実在したとは、科学的に考えてありえないのである。しかし実在しないものの墓があるわけがないのだから、日本政府の公式見解としては、ニニギノミコト以下の神々は確かに存在したのだ、ということになる。

ではなぜ、四角四面で頭の堅い日本政府が、神々を現実のものとして扱っているのだろうか。それは、明治維新からの国家運営において、国家が神話を現実化しようと試みたからなのだ。日本は世界に冠たる「神の国」であるとしつらえるために必要だったことの一つが、神代三陵だったのである。

戦後にはそうした狂気じみた政策は是正されたが、神代三陵は引き続き宮内庁が管理しており、未だに国家公認の「神」の墓としての性格を失っていない。これは、宮内庁が積極的に残したというよりも、おそらくはさしたる議論もなく戦前からの管理が続いてきただけなのだろう。しかし、科学的な世界観が浸透した現代において、明治時代の置き土産である神代三陵が変わらず鹿児島にあり続けていることに、興味を覚えるのは私だけではないだろう。

そして、ニニギノミコトの天孫降臨を中心とする神話を「日向(ひむか)神話」というが、これの舞台は日向国、今の宮崎県であるから、神代三陵が全て鹿児島にあることには奇異な感じがする。宮崎県には西都原古墳群など立派な古墳がたくさんあり、逆に鹿児島にはあまり大規模な古墳はない。にも関わらず、なぜ明治政府は神代三陵を全て鹿児島に宛てたのであろうか。

これまで、「神代三陵が全て鹿児島に確定されたのは、薩摩閥の政治力のためだ」といわれてきた。誰しもそう思うに違いない。私が神代三陵について調べ始めたのも、薩摩閥の影響が具体的にどのようなものだったのかを検証しようとしたことが発端だ。結論を言えば、確かに薩摩閥の影響は大きかった。しかし不思議なことに、鹿児島の側から神代三陵を求めた形跡は一切ない。明治政府の宗教政策全体にわたって薩摩閥の影響は大きく、神道の国教化を進めたのは薩摩閥であるといっても過言ではない。それでも神代三陵については、鹿児島からの要望ではなく、むしろ国家の都合によって決定したものなのだ。

これまでも、歴代天皇陵の創出については多くの研究の蓄積がある。幕末明治の政権において天皇陵がどのような役割を負わされてきたか、そしてそれがどのように改変されてきたを辿れば、それが”国家”の創出に一役買ってきたことが理解できる。

幕末に至るまで、歴代の天皇陵は崇敬されることもなく、あるいは耕作され、あるいは山となり、日常の風景に溶け込んできた。それを讃仰すべき存在に替えたのは、「文久の修陵」と呼ばれる宇都宮藩の建白によって始まった事業だ。この事業では田んぼの中のたった2尺の塚だったところが神武天皇の陵墓に造成された。以来、多くの天皇陵が矢継ぎ早に確定され、整備されてきたのである。日本を急ごしらえの”近代国家”にするために。

言うまでもなく、神代三陵の創出も、こうした天皇陵の造成事業の一環である。だがそれが特殊なのは、歴代天皇陵については、一応、歴史的な存在と見なせたのに、神代三陵については、確定するのが神話の世界を現実化するもの以外ではありえなかった点だ。どうしてそんな無茶が可能になったのだろうか。そこには確かに薩摩閥の動向が大きく関わっていたのである。

本書はこうした観点から神代三陵という存在を考察し、神代三陵を明治維新史に位置づけたものである。

なお、本書は本ブログで「なぜ鹿児島に神代三陵が全てあるのか」と題して連載した記事を元にしており、それに2割くらい加筆修正した感じである。ブログ記事を書いている頃は、出版するとまでは思っていなかったので、今から考えると書き方に甘い点(特に先行研究への言及)も見受けられるが、今の自分の力量だと思ってそのままにした。

版元は、京都の法藏館。仏教書専門の出版社であり、創業400年を超える日本最古の出版社である。仏教書だけでなく、『黒田俊雄著作集』など歴史と宗教の研究書を数々出版してきた老舗だ。ただし、本書は専門書でも論文でもなく、一般向けの読み物である。

【参考】法藏館
https://pub.hozokan.co.jp/

どうしてこんな立派な出版社から、私のような無名・在野・しかも農家(!)、という売れそうな要素が一つもない著者の本が出るのか。当然こちらから持ち込んだからだが、コネもなく、私自身断られるとばかり思っていた。ところが法藏館さんは、著者の属性は度外視し、あくまでも内容を見て出版することを決定してくださったのである。変な言い方だが「さすが老舗は違う」と感心してしまった。

また、帯に掲載する文については、松岡正剛さんからいただいた。読書界では知らぬ人のない知の巨人であり、 私自身、学生時代からずっと尊敬し憧れてきた人である。これももちろん、ダメもとで法藏館さんにお願いしてもらったものだ。断られて当然と思っていたものの、ご快諾いただいて「で、我々は、神々をどうしたいのか。」というコピーをいただいた。歴史を俯瞰した、核心を突くコピーを書いてくださったことに感謝である。このコピーに惹かれて手にとってくれる方も多いに違いない。

(なお、法藏館さんが松岡正剛事務所に依頼したので、どうして松岡正剛さんが快諾して下さったのか詳しくはわからない。内容を評価してくださったのは間違いないと思うが…。)

出版までの作業は多くの方とのご縁があり、ダメもとだったはずの本の出版が、これ以上ない形で実現したことに自分自身ビックリである。

だが、ある意味では本を出すだけなら誰でも出来る(お金さえ出せば(笑))。大事なことは、それがちゃんと売れて読者に届き、あわよくば次の展開へと繋がっていくことである。著者割り当てもかなりの部数あるので、それを売らなければならないという現実的問題もあるが、ここだけの話、今回は初版の印税は著者に入らないので、自分の利益のために売りたいわけではない。

神代三陵を多くの人に知ってもらい、明治政府の宗教行政史を再考する機会となることが本書の目的である。そして今、右傾化しつつある日本において、神話を現実化するという、明治政府の間違いが再び繰り返されないように釘を刺すことができれば、望外の喜びである。

どうぞよろしくお願いします。 

【プロフィール】窪 壮一朗

1982年鹿児島生まれ。東京工業大学理学部数学科卒。2004年文部科学省入省、2008年退職。鹿児島県南さつま市大浦町に移住し、「南薩の田舎暮らし」の屋号で柑橘栽培を中心とする農業・食品加工業・ブックカフェ営業を手がける傍ら、郷土史や幕末以降の宗教行政史を研究。著作に『鹿児島西本願寺の草創期—なぜ鹿児島には浄土真宗が多いのか—』(私家版)がある。ブログ「南薩日乗」運営。

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2022年3月30日水曜日

はじめに——もうひとつの廃仏毀釈(その1)

明治初年に、全国各地で廃仏毀釈が起こった。

寺院や神社から仏像が撤去されて無造作に打ち捨てられ、あるいは打ち砕かれた。寺院は取り壊されたり、その建物が別の目的に転用された。僧侶たちは還俗させられ、盂蘭盆会のような行事までもが仏教的だからと取りやめさせられた。追って、葬儀も仏式で行ってはいけないとされ神式の葬儀(神葬祭)を行うよう指導された。千年以上にわたって日本文化に根付いてきた仏教が急に否定されたのである。

しかし、これは明治政府の政策ではなかった。明治政府の目的は廃仏毀釈ではなく「神仏分離」であった。それまで神道と仏教は分かちがたく結びついており、例えば神社のご神体が仏像であったり、神社への祈願にお経を奉納することもあった。逆に仏教でも神々が仏法を守護するという考えで神社への信仰が位置づけられ、いわば仏教と神道は地続きのものであった。神社の境内には寺が建てられ(神宮寺)、寺院の中に鎮守が置かれることも多かった。そういった、神道と仏教が混じり合っている状態を「神仏習合」という。

明治政府が問題視したのはこの状況だ。

明治政府は「復古」を旗印にして出発した。明治政府は江戸幕府を打倒して政権を樹立することの正統性を神話的な古代に求め、将軍ではなく天皇が日本を治める状態があるべき姿なのだとした。明治政府の実質的な出発点となった「王政復古の大号令」では、「諸事 神武創業之始ニ原(もとづ)キ」と宣言し、神武天皇の治世を今の世に再現することを高らかに謳った。それが「復古」だった。

この「復古」という考えに沿えば、仏教は元来の日本にはなかったものであるから、仏教を取り除いた状態に戻さなくてはならないということになる。また神道も仏教と入り交じった状態になっているから、仏教が伝来する前の状態へと純化しなくてはならない。国学者たちはそういう純化した神道を「復古神道」——古代にそうであったはずの神道——として構想した。彼らの構想はそのまま実現したわけではないし、実際にはそう単純に仏教を排除しようとしたのでもないが、少なくとも神社や神道から仏教的な要素を取り除く、という神仏分離政策は実行に移された。慶応4年(1868)、明治政府の出発直後のことである。

後に「神仏分離令」と呼ばれることになる一連の布告は、全国で様々に解釈された。ある場所では寺院の全面的な破壊を意味するものと曲解され、別の場所ではそれほどの破壊は起こらなかった。また破壊が起こった場所でも、地方政府の主導によって粛々と寺院の整理が実行された場所もあれば、路傍の石仏までたたき壊されるなど民衆的な暴動へと発展したところもある。そうした仏教・寺院の破壊運動を「廃仏毀釈」と呼んでいる。

しかし明治政府の意図は、あくまでも神社から仏教的な要素を取り除くということにあり、廃仏毀釈は意図するところではなかった。明治政府は総じて、そうした破壊活動をたしなめ、強引な廃仏を行わないように指導した。とはいえ、明治政府があからさまに神道を優遇し、仏教を冷遇する傾向を有していたのは否定し得ない。 政権の中枢には国学者たちが入り込み、首脳陣にも国学的な素養を有していたものが多かった。政権の基本コンセプト「復古」は、神道を国教化することを求めていた。神話の時代の日本を再現するのが「復古」だったからである。

当然、こうした明治政府の動きには仏教界は反発した。彼らは最初のうちは政府に従ったが、徐々に政府のやり方に釘を刺すようになっていく。そして政府の方としても、仏教界を敵に回すよりは、彼らの協力を得て政権を運営する方がずっと効果的だと考えるようになった。また国学者たちの構想した神道国教化政策は、実際にはあまりうまくいかなかった。仏教は日本社会の基層をなすほど人々の生活に浸透していたし、仏教の代わりとなるはずの新しい神道の教えは急ごしらえ過ぎた。

そうしたことから、神道国教化政策は明治5年3月に終わりを告げる。政府は神道を国教化することを諦め、神道と仏教が共同して国民強化に邁進する体制(教部省・大教院体制)へと移行したのである。政府はもはや仏教を一方的に排斥することはなくなった。全国的には、明治5年以降にも廃仏毀釈が続いた地域はある。しかしそれはあくまでも地方政府や神官、あるいは住民の暴走であったといえる。大まかに言えば、廃仏毀釈は明治5年3月までで終了したのである。

ところが、明治5年に前後して、それまでとは全く異質の廃仏毀釈が動き出していた。 それまでの廃仏毀釈は、政府の「神仏分離令」に触発されてはいたものの、政府の政策そのものとは見なせない。ところがこの廃仏毀釈は、厳然たる政府の政策として行われたものだったのである。

具体的には、明治4年10月に「六十六部廻国聖」と「普化宗」を明治政府は禁止した。また明治5年9月には「修験宗」を廃止する。その他、僧侶の身分を解体するような諸政策が矢継ぎ早に打たれるのである。一般には「六十六部廻国聖」や「普化宗」はあまり馴染みのないものであろうし、当時であってもこれらは比較的小集団であり社会的な影響は大きくなかった。しかしながら、実はこうした宗派の禁止は日本の仏教が受けた被害のほんの一部で、その裏では仏教の在り方を変えてしまうような変革があったのである。

従来、これらの遅れて行われた廃仏毀釈はさほど注目されず、研究書において語られる場合も神仏分離政策の延長線上として理解され、その余波とされることが多かった。しかし2000年代に入ってから、この「もうひとつの廃仏毀釈」は必ずしも神仏分離政策の結果ではなく、それとは異なる原理によって行われたものであることを明らかにする研究が発表されるようになった。

そうした研究結果は、未だ広く知られているとは言えない。それどころか、この「もうひとつの廃仏毀釈」自体がほとんど認識されておらず、それを統一的に記述した本もまだ出版されていないのが現状である。

そこで私なりに、この「もうひとつの廃仏毀釈」を語ってみたいと思う。

(つづく)

2022年2月24日木曜日

幽閉寺としての宝福寺——宝福寺の歴史と茶栽培(その4)

(「元寺と今寺、宝福寺の拡大」の続き)

近世末期に編纂された『本藩人物誌』という史料がある。戦国時代を中心に、15世紀半より17世紀までの約二世紀にわたって活躍した島津氏の一門・家中の諸士のいろは順による略伝集であるが、この史料にいくつか宝福寺が登場する記事があるので管見の限りで抜粋してみよう。

【史料五】『本藩人物誌』({}内は原文では割注)
(一)「新納二右衛門久親{初宮内少輔}(中略)正保三年島津大和守久章川辺宝福寺ヘ寺領ニテ遠島被仰付候得共元来無道人之故御家老衆下知ニ可被致背違モ難計トテ久親并市来備後家尚ヲ宝福寺ヘ差越久章無異議御下知ニ可被相附旨得ト申合候処初ハ承引無之候得共漸ニ屈シ納得ニテ伊東仁右衛門祐昌高崎宗右衛門能延御使ニテ遠島被仰付候旨被仰渡候ニ付久章出寺清泉寺江被差越一宿ニテ候然処久章家来ニ三次ト申者宝福寺ニ罷在候ニ付久親三次ヲ召列清泉寺ヘ差越候於途中三次ヨリ久親ヘ切付候顧帰リ三次ヲ打果シ早速致帰宅候トモ同廿四日右之疵相破レ死ス于時四十四歳也(後略)」(巻之二)
(二)「大野駿河守忠宗{三郎次郎治部大輔}(中略)竜伯公初テ御上洛ノ御供天正十九年四月廿七日於川辺堂尾被誅{川辺宝福寺門前市之瀬トイフ処ニ観音堂アリ忠宗被誅シ地ナリ被誅訳追テ可糺ナリ}」(巻之四)
(三)「荒尾嘉兵衛 但馬カ叔父也但馬ニ与党シテ川辺市ノ瀬ニテ誅セラル」(巻之十三)
(四)「比志島宮内少輔国隆(中略)寛永四年国隆罪科ノ条々被仰出御家老職御免ニテ河辺保福寺ヘ寺領被仰付所領家財没収被仰付同六年種子島へ配流其後切腹被仰付候」(後略)(巻之十三)
【史料五】(一)では、正保3年(1646)に島津久章(新城島津家の当主で島津家久の娘婿)が宝福寺に幽閉されている。なおここでいう「寺領」とは、寺の領地のことではなく寺に幽閉する刑罰の名前らしい。幽閉中の久章は遠島(島流し)を申しつけられたが納得せず、その説得にあたった新納久親らは久章をなんとか清泉寺(谷山にあった宝福寺の末寺)に護送したが、そこで宝福寺にいた久章の家来三次が切り付けてきて、その傷が元で久親は死亡している。

【史料五】(二)では、天正19年(1591)に大野忠宗が川辺の「堂尾」という場所で誅殺されており、割注でそこは宝福寺門前の市之瀬の観音堂がある場所だとしている。なお大野忠宗は川辺の山田2297石を知行する家臣であった。この記事では、大野忠宗は宝福寺に幽閉されていたとか、護送中であったとは書いていないので、宝福寺と大野忠宗の関係は不明であり、また誅殺された理由についても「追って糺(ただ)すべきなり」(=今はわからない)とのことである。

【史料五】(三)に登場する荒尾嘉兵衛は、田尻荒兵衛(但馬)の叔父である。田尻荒兵衛は元百姓であったが武勇に秀でて取り立てられた人物。文禄元年(1592)、梅北国兼が起こした一揆(梅北一揆)に参加して誅殺された。その叔父もこの一揆に参加しており、川辺の市之瀬で誅殺されたのである。本記事でも宝福寺と荒尾嘉兵衛の関係は不明であるが、市之瀬というのはかなり山深いところであり、誅殺の際に偶然にいる場所ではない。【史料五】(二)(三)は、やはり宝福寺と何らかの関係があるものと思われる。

【史料五】(四)では、寛永4年(1627)薩摩藩の家老であった比志島国隆が何らかの罪によって、家老の罷免、「河辺保福寺」(おそらく「川辺宝福寺」の誤記)に「寺領」(幽閉)、家財没収の処分を受けている。さらに2年後には種子島へ配流され切腹を申しつけられている。この記事に依れば、少なくとも1627年には宝福寺は「寺領」を申しつける拘置所・刑務所のような機能を果たしていた。とすれば、その36年前にあたる大野忠宗の誅殺とその一年後の梅北一揆参加者の誅殺も、宝福寺へ幽閉するまでの護送中に行われたと考えるのが自然ではないだろうか。とすると、16世紀末には、宝福寺は「罪人を拘置し、幽閉する寺」とされていたということになる。

宝福寺は二つの点でこうした機能を果たすに適した場所であった。まず、宝福寺は急峻な山中にあり脱走が困難であったということ。そしてより重要なことに、宝福寺は特定の家との関係がないフリーな立場の寺だったということである。この時代の大寺院というものは、広大な領地を持つか、特定の家の菩提寺であるか、その両方であることが多かった。島津本宗家およびその分家、上級家臣などはそれぞれ菩提寺を持って先祖の法要を行い、その見返りとして土地を中心として様々なものを菩提寺に寄進しており、それが寺院の経済を支えていた。そうでない場合も、何らかの経済基盤を持たなければ大寺院を維持していくことができなかったのは言うまでもない。例えば坊津の一乗院は特定の家の菩提寺ではなかったが、島津氏の庇護を受け貿易の後援を行っていたと見られる。しかも広大な寺領を持ち、『三国名勝図会』によれば最盛期には1500石、減じても350石を給与されていたという。一方宝福寺は、『川邊名勝誌』によればわずか59石である。そんな宝福寺が、かつては「薩州三ヶ寺」として知られた大寺院だったというのは奇異な感じがする(他の二つは勝目の「善積寺」、鹿屋市吾平町の「含粒寺」)。

そこで考えたいのは、「罪人を拘置し、幽閉する寺」=幽閉寺にされたことは宝福寺にとってどのようなことだったか、ということである。素直に考えれば、罪人の幽閉場所となることは宝福寺にとっては負担が大きかったと思われる。罪人を監視し面倒を見なくてはならないし、場合によっては門前で切り捨てられることもあったとすれば大迷惑である。であるから、政権側からはそのための相応の見返りをもらっていたに違いない。それが宝福寺の寺院経済を支えていたのであろう。ここではそれが何なのか明らかにすることは出来ないが、もしかしたら茶の栽培も見返りの一つだったのかもしれない。

先にも少し触れたように、藩政時代には茶には高額の税金が課せられていた。伏見の宝福寺が開基される五年前にあたる文禄3年(1594)に、石田三成から薩州奉行にあてた検地書に「茶えん之事、年貢もり申間敷候」とある。これは「茶園への年貢を漏らさないように」との注意であり、既に茶には年貢が課されていたことが知られる。しかも国家権力によって茶への課税は義務づけられていたわけである。この頃の茶への税率がいかばかりであったかは不明だが、慶長年間(1596〜1614)には茶一斤につき籾2升5合の割合で年貢が設定されていたようだ。近代以前の茶産業では、今のような整然とした茶園の仕立てではなく現在の数分の一の生産性しかなかったと考えられている。茶一斤(250匁=約1kg。おそらく荒茶の重さ)の生産にどのくらいの労力がかかったのか分からないが、これにかかる年貢が米2升5合(約4.5kg)ということは、茶も米も今よりもずっと価値が高かったことを考えると大きな負担であったことは間違いない。寛永年間(1624〜43)になるとさらに年貢の割合が上がり、茶一斤につき米3升5合になっている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

こうしたことを考えると、宝福寺は幽閉寺になったことの引き換えとして、茶の栽培を無税で行うことが認められていたのかも知れない。『川邊名勝誌』によれば、宝福寺には寺領高59石余りの他に「寺地御免地」が4反9畦9歩、「門前屋敷御免地」が1町7段2畝10歩ある。「御免地」とは免税の土地のことであり、この中で茶の栽培が行われていたとは考えられないだろうか。

しかも織豊政権下においては、茶は単なる嗜好品ではなく非常に重要な役割を負わされていた。茶の湯が外交の舞台となり、また茶器の贈答が政治的な性質を帯びるようになったからである。最高級の茶器は一国の命運を左右するほどの価値を持っていた。茶そのものは消費財であることもあり、それほどの重要性はなかったが、この頃に茶の需要が増したことも確かである。それでは、川辺の宝福寺は、伏見の宝福寺を通じて宇治から茶の種や苗を仕入れて茶栽培を開始したのだろうか。先述のとおり伏見の宝福寺は現存しているため、思い切って薩摩藩や茶栽培との関係を問い合わせてみたところ、ご住職と思われる方から次の回答をいただいた。
「元は真言宗の寺でしたが、本寺宝福寺の住職?が開山となり曹洞宗寺院となったようです。豊臣秀吉の祈願寺として、当時の住職が伏見城内金毘羅堂で祈祷したようです。付近には薩摩藩屋敷跡もありますが、関わる資料は皆無です。当寺は、一代補住ばかりですので資料保存もほとんどありません。」「「茶」に関しては、資料は皆無です。」

このように、推測を裏付ける回答はなかったものの、同時に「現在の本寺跡の写真を見て、一度は拝登したいものだと思っております。」とのコメントをいただき、本末関係が途絶して約150年経過しているにも関わらず川辺の宝福寺に関心を寄せて下さっていることに感激した次第である。なお「豊臣秀吉の祈願寺として」云々については、伏見の宝福寺の開基は秀吉死後であるため、真言宗時代のことと思われる。

以上の通り、伏見の宝福寺から川辺に茶がもたらされたとする仮説は、それを裏付ける史料や遺物が存在せず、空想の域を出ないと言わざるを得ない。しかしながら、宝福寺での茶栽培は江戸時代の初期(17世紀前半)には始まっていたと考えられ、既に考察したように16世紀前半までに始まっていた可能性は低いので、伏見の宝福寺が茶栽培において何らかの役割を果たした可能性はあると考えられる。

<おわりに>

本稿では、宝福寺での茶生産がどのように始まったのかを推測することが目的であったが、その時期についてはある程度絞り込めたものの、それ以外についてはやはり不明であるということが結論である。

とはいえ、茶の伝来については、DNA分析を行えば明らかにすることができるかもしれない。冒頭に述べたように、宝福寺のチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われるが、その遺伝子がどの地方のどのチャノキに由来するのかが分析できれば、少なくともどこから伝来したのかは解き明かすことが出来るはずだ。

宝福寺の茶栽培は、現在南九州市で行われている大規模な茶業の直接の祖ではないが、この地域で古くから茶が栽培され、しかもそれが薩摩藩内における最高級品として扱われていたことは注目すべき歴史的事実である。宝福寺の茶栽培の起源を明らかにすることは「知覧茶」の推進にも役立つかも知れない。今後は、文献史学からだけではなく、科学的手法による研究の進展も期待したい。

また本稿を作成するにあたり、『川邊名勝誌』や「覚卍伝」、『本藩人物誌』を読みなおしてみて、字堂覚卍という傑出した僧侶の人生に改めて興味が湧くとともに、宝福寺には茶栽培以外にもまだまだ解くべき謎が残っているということをつくづく感じた。特に伏見の宝福寺の存在は大きな謎である。なぜ豊臣秀吉の死後、政治的に不安定になっていた時期に島津義弘の屋敷の目と鼻の先に宝福寺が開基されたのか、深い理由がありそうである。

2022年、宝福寺は開基600年を迎えたことになる。これを機に多くの人が宝福寺に関心を抱き、宝福寺研究がさらに進展することを期待したい。本稿がその一助となれば望外の喜びである。

最後に、本稿をまとめるにあたり南九州市役所文化財課の新地浩一郎学芸員(役職要確認)に多大なる協力をいただいた。また問合せに快く回答してくださった伏見の宝福寺のご住職にもこの場を借りて改めて感謝の意を表したい。

【参考文献】
足立東平「島津藩政時代の茶の歴史 (I)(II)(III)」
鹿児島県茶業振興連絡協議会編『鹿児島県茶業史』

2021年12月31日金曜日

元寺と今寺、宝福寺の拡大——宝福寺の歴史と茶栽培(その3)


前回からのつづき)

覚卍が無一物の暮らしを貫いていたとすれば、宝福寺での衣食住はどうまかなわれていたのだろうか。覚卍自身は「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏を食べる」という自然と一体化した生活が出来たとしても、その頃の宝福寺には覚卍を慕ってきた人々が三渓を為すほど多く、しかも彼らは覚卍と同様の頭陀行に徹していた。

しかし覚卍的な自然からの採集生活ができるのは深山幽谷にあってもせいぜい十人程度のものであろう。普通、「頭陀行」と言えば普通は托鉢を示すが、険阻な山奥にある宝福寺から街へ托鉢に出るのは毎日できることではなかったように思われるし、毎日街へ托鉢に行くとすれば山奥で修行する意味も薄い。そう考えると、覚卍の魅力に引かれ多くの人が宝福寺を訪れたことは事実だろうが、覚卍が健在な時にはその滞在は一時的なものであったのだろう。おそらく当時の宝福寺には立派な伽藍もなく、山岳寺院本来の自然と一体化した暮らしが行われていたのではないかと思われる。

だが覚卍という偉大なカリスマの死後、宝福寺はこのような在り方で存続していくことはできなかった。宝福寺は、覚卍の理想とは違う、立派な七堂伽藍を備えた大寺院として発展していくのである。

それを象徴するのが、寺院の移転である。宝福寺には覚卍が開いた「元寺」跡と、移転後の「今寺」跡という二箇所の遺構が残されている。「元寺」にも立派な石積みなどが残されているが、急峻な山に囲まれているところで、大規模な寺院建築には適さず、あまり多くの人が暮らせそうな場所はない。一方「今寺」の方は、同じく山中にあるものの割と平坦な土地が広がっていて、寺院の建設にはずっと適している。宝福寺の経営規模が拡大したため、よりその経営に適した土地に移転したというのが「今寺」の建設であったと考えられる。

とはいえ、それは覚卍の理想を忘れて堕落した結果だということはできない。というのは、宝福寺には覚卍の遺徳を慕って多くの人が訪れていたに違いない。そうした人々全員が覚卍風の頭陀行を行うことは現実的でない以上、覚卍を嗣いだ住持にとっては、集まってくる人々を養っていく手立てを講じる必要があっただろうからだ。覚卍たった一人ならば無一物の暮らしは理想的であったのだろうが、多くの人がその教えを学ぼうとする以上、宝福寺は組織的な経営を行わざるをえなかったのである。

「本寺」から「今寺」への移転は、『川邊名勝誌』や『三国名勝図会』には詳細な記載がないが、『川辺町郷土誌』によれば六代雲岳和尚(天文16年(1547)示寂)の時とされており、経営方針転換後の宝福寺はその規模をさらに拡大させたようである。今の企業と同様に、規模が拡大することでさらに強固な経営基盤が必要となっていくからだ。

こうしてこの時代、宝福寺には急に寄進が続いている。特に七代南室和尚は、日新公(島津忠良)により重んじられたらしく、加世田村小湊の田(10石5合2勺1分)と「中之塩屋一間」、「御分国勧進」(の権利)が寄進されている。特に注目されるのは加世田小湊の塩田「中之塩屋一間」が寄進されていることだ(だだし「一間」がどのくらいの広さ・単位を表すのか不明)。

赤穂の塩田が東大寺の庄園だったように、製塩業と寺院とは古代から深いつながりがある。『川邊名勝誌』に掲載された伝説では、宝福寺が山深い場所にあって塩の入手に苦労しているため日新公は塩田を寄進した、となっているが、そもそも宝福寺と小湊ではかなり距離がある。ほかの寺領が清水にあって宝福寺の近くにあるのに、なぜ宝福寺に小湊の土地を寄進したか。それは宝福寺の経営が拡大し、すでに多くの場所に拠点があったからであろう。そして塩の販売による現金収入が必要だったからではないかと思われる。そしてこうした経営の拡大に伴って宝福寺は各地に末寺を増やしていったのだろう。小湊の「中之塩屋」が寄進されたのが天文21年(1552)。どうやら宝福寺の拡大時期は1500年代半ばからということのようである。

そうして増えていった末寺の一つに、京都伏見の宝福寺がある。これは宝福寺と茶の繋がりを考える上で看過できないことである。伝説的な部分が多いとはいえ、藩政時代における鹿児島の茶産地は全て宇治から茶栽培が伝わったとされているからである。宇治と伏見は目と鼻の先にある。宝福寺には、伏見にあった末寺を通じて茶の栽培が導入されたのではないだろうか。

『川邊名勝誌』によれば、「伏見 宝福寺」は末寺の筆頭に掲げられ、「右開山覚卍禅師開基之寺ニ而御座候」とされている。同誌にはそれ以外の情報はなく、どういった経緯で宝福寺が同名の末寺を伏見に持つに至ったのか不明というほかない。しかしながら、その情報にしても、覚卍が伏見に宝福寺を開くことはまずあり得ない。確かに覚卍は南禅寺時代には京都にいた。しかし転宗して薩摩に帰郷してからは京都に出向いたという記録はなく、また覚卍のライフスタイルから推して考えても京都に出張していくことはないだろう。

実はこの宝福寺は現在でも「久祥山寶福寺(曹洞宗)」として京都市伏見区西大文字町に存続している。この「伏見の宝福寺」に伝わる開基の由来はこうなっている。

【史料四】久祥山寶福寺の「歴史や由緒」(抜粋)
「当寺は、元「瑞応院」と号し、「伏見九郷森村」にあったが、応仁の乱(1467~77)によって兵火に遭い、末寺に寺号を移した。永禄2年(正親町天皇御宇=1559)に、出雲国野﨑浦城主・野﨑従五位備前守(久祥院殿太雄覺山大居士)が国を譲り、当地に閑居して開基となり、「久祥院」と改名し真言宗・冨明法印を開創開山とした。その後、豊臣秀吉公が「伏見九郷」を開拓して文禄3年(1594)に伏見城を築城し、慶長4年(1599)に薩摩国川邉郷曹洞宗寶福寺11代目住職・日孝芳旭大和尚を特請し、曹洞宗開山となり「久祥山寶福禅寺」と改名し、大本山永平寺(福井県・道元禅師開山)と大本山總持寺(神奈川県・瑩山禅師開山)の両本山とする曹洞宗の法脈・法燈を現在も継承している。」

(※久祥山寶福寺WEBサイトより、2021年10月取得 
https://sotozen-navi.com/detail/article_260049_1.html#art1

これによれば、伏見の宝福寺は、元来は瑞応院という真言宗の寺院だったが、慶長4年(1599)に川辺の宝福寺の11代日孝芳旭大和尚により曹洞宗開山となり宝福寺と改称した、ということである。この1599年という年代は、先ほど考察したように川辺の宝福寺の拡大期とも合致している。

ところが川辺に伝わる伝承と食い違うのは、第一に伏見の宝福寺を開基したのが覚卍ではなく「 11代日孝芳旭」という人物になっていること(すなわち開基の年代が大きく異なる)、第二に川辺での伝承では11代は「海雲(または「海雲呑」)という人物であるということだ。これはどのように考えればいいのか。なお11代だけでなくその前後にも「日孝芳旭」という住持は川辺側の記録には存在していないようだ(『川邊名勝誌』および『川辺町郷土誌』に引用された「万延元年寺院由来書上帳」による)。

しかしながら、伏見の宝福寺は現在まで存続しており伝承が連続していると考えられること、開山の人物を間違える可能性は小さいということから、ここでは伏見の宝福寺の伝承の方が正しそうだとしておきたい。日孝芳旭は伏見の宝福寺に移籍したため、川辺の宝福寺の法統から除外されたのかも知れない。

それでは、伏見の宝福寺が曹洞宗として開山した1599年とはどのような時期だったのか、再び茶からは逸れる部分もあるが概観してみることとする。

文禄2年(1593)、天下人・豊臣秀吉は本拠地である大阪城を秀次に譲り、自身は築城中の伏見城(指月伏見城)へ隠居した。しかし同時期、秀吉にとっても思わぬことであったが実子秀頼が誕生したため、伏見城はやがて隠居所の性格が薄れていくこととなる。秀吉は一度は隠居したものの、権力を秀頼に継承させるべく引き続き政務の実権を保持し続けることになったからである。文禄4年(1595)には関白秀次が失脚し一族もろとも処刑され、権力は再び秀吉の一極集中となっていく。

文禄5年(1596)には指月伏見城が同年の慶長大地震で倒壊してしまい、伏見城は北東に1㎞ほど離れた木場山へ全国の大名を動員して再建された。慶長2年(1597)に天主が完成し秀吉が移徙(いし=引っ越し)。この間、伏見には全国の大名屋敷が建築され政治的中心となった。「西尾市岩瀬文庫」収蔵の「伏見図」(慶長年間に製作されたと思われる)によると、伏見城を取り囲むように諸大名の屋敷が配置されているが、このような都市がたった数年という短い期間に造成されたことに驚きを禁じ得ない。秀次失脚の以前は、大名屋敷は秀次の居館である聚楽城の周辺に造営されていたのであるが、秀次失脚の後に聚楽城は派却されてその一部が伏見に移転された。おそらくそれと同時期に大名屋敷も伏見に建築されたのだろう。このようにして、一時期ではあったが伏見は日本の政治的中心になったのである。

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死亡すると伏見城は五大老の筆頭であった徳川家康に引き継がれる。しばらくは豊臣政権は存続の構えを見せたものの、絶対権力者であった秀吉が死亡したことは全国の大名に動揺を与え、島津家でも新たな権力闘争の動きに入っていくことになる。事実、翌1599年には島津家の家老伊集院忠棟が島津忠恒(後の第19代当主島津家久)によって伏見において誅殺されている。伊集院忠棟は島津家の家臣であるとともに、秀吉から直接知行を安堵された「御朱印衆」(つまり秀吉の家臣)でもあり、島津家領国における太閤検地を石田三成とともに推進した人物である。伊集院忠棟を誅殺したことは、島津家として豊臣政権から距離を置こうとしていることの表れといえよう。やや長くなったが伏見の宝福寺が曹洞宗開基となった1599年はこのような時期であった。

先述の「伏見図」では、島津関係として「嶋津但馬守」「嶋津右馬守」「嶋津右馬頭」「嶋津兵庫」の四つの屋敷が掲載されており、宝福寺も「嶋津兵庫(島津義弘)」の屋敷のそばに「禅 寶福寺」としてしっかり書かれている。

この図を見てすぐに理解できることは、秀吉の意向によって急ごしらえで作られた政治都市伏見において寺院の新設が自然発生的に行われるはずもなく、宝福寺の末寺開基にも政策的必要性があったに違いないということだ。ではどのような必要性だったのかということについては残念ながら史料からは明らかでない。

ところで以前から、宝福寺は琉球とのパイプを持っていたらしき形跡がある。「覚卍伝」において宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」の三渓があったとされているが、琉球から多くの人が訪れていたのである。また琉球禅林の祖であり首里円覚寺の開山である芥隠承琥(かいいん・じょうこ)は、琉球渡海前に宝福寺に滞在し覚卍に師事したとされている。16世紀末、文禄・慶長の役後の明との国交回復のために琉球国との外交が非常に重要になっており、そのために伏見の宝福寺が開基されたのかもしれない。しかも、宝福寺はそれ以前からも島津氏によって政治的に利用されていたフシがある。

宝福寺は罪人が幽閉される寺だったようなのである。

(つづく) 

※画像(伏見図)は西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースより。注釈は著者が挿入。原図では東が上になっているが、北が上になるよう改変している。

【参考文献】
『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著

2021年11月30日火曜日

字堂覚卍は茶をもたらしたか——宝福寺の歴史と茶栽培(その2)

前回からの続き)

宝福寺ではいつ頃、どのようにして茶の栽培が始まったのだろうか。

それを示す直接的な史料は今のところ見出すことができないため、いくつかあり得そうな道筋を考察してみたい。まずは、宝福寺の開基である字堂覚卍(じどう・かくまん)について考えてみる。

字堂覚卍については、『三国名勝図会』(巻之十一)の樋脇の「永禎山玄豊寺」の項に詳細な伝記(以下「覚卍伝」という)が掲載されている。『川邊名勝誌』、『本朝高僧伝』、『延宝伝灯録』にも覚卍の伝記が掲載されているが、これらは全て「覚卍伝」に基づいているようだ。

以下、「覚卍伝」に従って字堂覚卍の生涯を簡単に紹介する(なお「覚卍伝」は、貞享三年(1686)に玄豊寺に建立された石碑に刻まれているもので、覚卍死後約250年を経たものであるから伝説的な要素を割り引いて考える必要がある)。

字堂覚卍は鹿児島に生まれ、幼い頃から大変な俊英だったらしく、京都の南禅寺(臨済宗)で椿庭海寿(ちんてい・かいじゅ)に二十余年学び、応永9年(1402)帰郷した。覚卍は「日置郡藤氏」の家系らしいがその父母の名は明らかでない。家格的な後ろ盾がないにもかかわらず臨済宗における最高の寺である南禅寺(五山十刹制度における「五山之上」。足利義満以前は「五山第一」)に入ったということは、覚卍その人の力量が抜きんでたものだったのだろう。

ところが、帰郷した覚卍はエリートコースを捨てる。臨済宗の教えは覚卍を満足させることはできなかった。覚卍は「破鞋(はあい)庵」—破れわらじ—という庵を結んで世捨て人同然の暮らしをした。その時の偈にはこうある。「人有り、若し意の何如んと問えば、推し出す秦時の轆轢鑽(たくらくさん)。」これは、「どうしてあなたほどの人がそんなところにいるんですか? と問う人がいたら、無用の長物が押し出されただけだよと答えよう」というような意味である(秦時の轆轢鑽=役に立たない品を意味する禅語)。「破鞋庵」の楣(まぐさ)(出入り口の上部に取り付けた横木)にも、「秦鑽」(「秦時の轆轢鑽」を約めた言葉)と書いていた。南禅寺で二十余年修行して禅を究めたはずの覚卍は、自分を役立たずだと言っていたのである。この偈を不審に思った竹居正猷(ちくご・しょうゆう)(妙円寺・福昌寺第二世)がその意を尋ねたところ、覚卍は「私は道を理解せず、禅を理解せず、いたずらに“馬の角と亀の毛”(=存在しないものの譬え)を論じるだけの人間になってしまった」と答えたという。この頃の覚卍は生きる道を見失い、自嘲気味になっていたようである。

その後、覚卍は樋脇に移り玄豊寺を開く。なぜ世捨て人となった覚卍が寺を開基したのかは詳らかでない。その後、覚卍の人生は再び動き出す。加賀(石川県)の瑞川寺(曹洞宗)に行き竹窓智厳(ちくそう・ちごん)に学んだのである。南禅寺で臨済禅を学び、かえって道を見失った覚卍は、今度は曹洞禅を学んだ。同じ禅宗でも臨済宗は体制派的であり、曹洞宗は在野的である。この転宗によって覚卍は何かを摑んだように見える。そして応永21年(1414)、竹窓智厳の法を嗣いで帰郷した。覚卍は58歳になっていた。

帰郷した覚卍は烏帽子岳に住んでまたしても世捨て人的な生活をし、毎夜漁り火が見えるのを嫌って、より山奥の川辺の熊ヶ嶽に移ってきた、熊ヶ嶽でも「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏(から)(木の実と草の実)を食べる」という生活をしたが、通りがかった猟人藤田氏が覚卍の行いに感銘を受け、覚卍のために庵を建てたのが宝福寺の始まりとなった。『川邊名勝誌』では応永29年(1422)が開基の年ということになっている。

その後、覚卍の声望はつとに高まり、非常に多くの人が覚卍を慕ってやってきた。宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」と名付けられた谷(三渓)があって、そこにはそれぞれの出身者がまとまって住んでいたということである。福昌寺第三世住持の仲翁守邦(ちゅうおう・しゅほう)もその徳を聞いて話を聞きにやってきた。先ほどの竹居正猷もそうだが、仲翁守邦も当時の薩摩における曹洞宗の最高権威である。わざわざ覚卍の話を聞きに熊ヶ嶽までやってくるというのは、覚卍の声望が非常に高かったことを物語る。それに対し、覚卍は次の偈を以て応えた。

玉龍は奮迅として烟霞に出ず、下りて訪う南山の瞥(ママ)鼻蛇。
碧漢は霈然(はいぜん)として法雨を傾け、寒林枯木、盡(ことごと)く花開く

この偈は当時の覚卍の心境を伝える数少ないものであるから、少し意味を繙いてみたい。現代語に翻訳すれば次のようになる。「玉龍が勢いよく、もうもうとした霞の中から出てきて、天から下り“南山の鼈鼻蛇(べっびだ)”を訪ねてきました。天(碧漢)はざあざあと法の雨を降らし、冬枯れの寒林枯木が悉く花開いております。」

「玉龍」とは言うまでもなく玉龍山福昌寺の仲翁守邦のこと。「南山の鼈鼻蛇」とは、『碧巌録』第二十二則に出てくる言葉で、スッポンのように鼻がつぶれた毒蛇(コブラ?)のことらしい。「鼈鼻蛇」が何の比喩なのかはいろいろな考えがあるが、要するに自らの中にいる怪物、迷いに覆われた「真実の自己」、といったようなものであると考えられている。覚卍は自分を「南山の鼈鼻蛇」に譬えた。「この迷妄の怪物のところへ、よく訪ねてきてくださいました」というところか。かつて自分を「秦時の轆轢鑽」に譬えた覚卍は、今度は自分を「毒蛇」と言っているのである。そして次の行の「寒林枯木」も覚卍が自身を重ねた言葉かもしれない。「大自然の中で仏の慈悲に包まれ、“寒林枯木”にも花が咲きました」という。同じ無一物の世捨て人的な暮らしであっても、破鞋庵時代とはちょっと雰囲気が違う。かつての自嘲気味な態度は消えてなくなり、自分が「鼈鼻蛇」「寒林枯木」であることを楽しんでいる様子すら感じられる。

こうして覚卍は永享9年(1437)に81歳で死亡した。そこから逆算すると、覚卍の生没年は1358〜1437年ということになる。

なお、瑞川寺が開かれたのは応永20年(1413)であるが、覚卍が法を嗣いだ58歳の時は1414年頃だから、創建間もない瑞川寺に行って一年しか修行せず法を嗣いだということになる。南禅寺で二十数年修行したのに比べると随分短い修行期間のような気がする。

ちなみに、瑞川寺を開いたのは竹窓智厳の師匠にあたる了堂真覚(りょうどう・しんがく)であるが、『三国名勝図会』によれば、了堂真覚は市来氏に招かれ永和3年(1377)に市来の大里に萬年山金鐘寺(曹洞宗)を開基している。この金鐘寺は能登の総持寺の直末であったという。そして金鐘寺の二世となったのが竹窓智厳であり、加賀の瑞川寺はこの金鐘寺の末寺だったということである。なお宝福寺ははじめ瑞川寺の末寺であり、瑞川寺が破壊された後は金鐘寺の末寺となったという。

これらの事実関係は『三国名勝図会』以外の資料で跡づけることができないが、それを信頼するとすれば、覚卍は市来の金鐘寺で竹窓智厳や了堂真覚と出会い、臨済宗から曹洞宗に転宗して、瑞川寺の創建に伴って竹窓智厳と共に加賀へゆき、法を嗣いで帰郷したと考えるのが自然である。そうすれば瑞川寺での異常に短い修行期間も説明がつく。

また、了堂真覚と字堂覚卍という名前の類似を考えると、覚卍が禅への不信を乗り越え、再び禅の道に入ったきっかけはむしろ了堂真覚にあったように想像したくなる。「字堂」という法号は(ひょっとすると覚卍という諱も)了堂真覚によって与えられたものではないだろうか。覚卍は南禅寺時代と名前が変わっている可能性がある。

話がやや脇道に逸れたが、ともかく川辺の宝福寺を開基した字堂覚卍は、室町時代初期を生きた人物で、臨済宗から曹洞宗に転宗した僧侶、ということである。

覚卍が生きた時代、京都の寺院では闘茶といって茶の銘柄を当てる賭け事が流行していた。そしてこの頃、茶の栽培はほとんど寺院か寺院領の庄園で行われていたと考えられている。このことを踏まえると、覚卍は南禅寺時代に喫茶および茶栽培を知り、それを川辺の宝福寺にもたらしたと考えることはできないだろうか。

しかしそのようには考えられない理由がいくつかある。

第一に、その行状を見る限り、覚卍は賭け事の闘茶にうつつを抜かすような人物には思えないということである。南禅寺での修行を終えて破鞋庵を結んだ時も、川辺に来てからも、無一物を貫く清貧な暮らしをしており、むしろ闘茶のような遊興を嫌っていたと考えるのが自然だろう。

第二に、覚卍は徹底して「頭陀(ずだ)行(=托鉢行)」を実践しており、茶であれほかの農産物であれ、自ら生産などを行うことは考えられないということだ。「覚卍伝」によれば、八代当主島津久豊とその子忠国は覚卍に帰依し、宝福寺に「腴田(ひでん)(肥沃な田)を寄進したい」と申し出たものの、覚卍はこれを固辞し、「仏勅に遵い、頭陀を行う、以て其の身を終えん」と答えたそうである。そしてそれは覚卍のみならず、宝福寺の寺衆は皆それに倣っているということだ。中世においては、寺は寺地や庄園を持って生産活動を行い、一般よりも進んだ経済を営んでいたのであるが、宝福寺ではそのような生産活動は一切否定され、無一物を理想とする仏道修行が行われていた。それを考えると、嗜好品である茶の栽培を手がけるということは覚卍にはありえそうもないことだ。

そして第三に、もし覚卍が茶栽培をもたらしたとすれば、「覚卍伝」にそのことが書いていないのは不自然だということである。「覚卍伝」には多分に伝説的な事項を含めその生涯が述べられている。仮に覚卍が茶の栽培をもたらしていないとしても、そうした伝説を覚卍に付託してもおかしくないほどである。そう考えると、宝福寺での茶栽培は「覚卍伝」の撰述(=1686)の近過去に始まったことと認識されていて、とても覚卍まで遡らせることはできなかったのではないだろうか。

以上をまとめると、覚卍が宝福寺に茶栽培をもたらした可能性はほとんどないと結論づけることができる。

(つづく)

【参考文献】
伊吹敦『禅の歴史』
※冒頭の法統系図は『禅の歴史』所収の系図より抜粋し、覚卍関係を著者が追記して作成しました。

2021年11月26日金曜日

宝福寺での茶栽培の記録——宝福寺の歴史と茶栽培(その1)

南九州市川辺町清水には、かつて忠徳山宝福寺(曹洞宗)という寺があった。

宝福寺は「山ん寺」として知られた大きな寺院で、往時はお茶が栽培されていたという。その廃寺跡(今寺跡)には、その頃の名残と見られるチャノキが今でも自生しており、このチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われている。しかしながら、宝福寺での茶の生産は記録が残っていないためよくわからないことが多い。そこで、既出の情報を整理し、宝福寺の歴史を振り返ってその茶生産がどのように始まったのかを推測してみたい。

まず、藩政時代(またはそれ以前)に宝福寺で茶栽培がされていたことを示す一次史料を見つけることはできなかった。編纂ものとしても、例えば江戸時代後期に編纂された『三国名勝図会』には宝福寺の項目があるが、茶が栽培されていたとは一言も書いていない。その記載の出典である『川邊名勝誌』も同様である。宝福寺跡にチャノキが自生している以上、かつての宝福寺で茶が栽培されていたことは確実と思われるが、名勝誌等になぜ記載がないのかは謎である。

次の二つの史料は、近現代の編纂ものだが宝福寺(または川辺)での茶の生産・流通について触れている。なお文章番号は便宜的につけた(以後同じ)。

【史料一】『川邊村郷土誌』
(一)「延享年間(二四〇四※)煎茶蒸茶各々少し宛(ずつ)江戸御用として買入度に付風味茶として差出べき様寶福寺に申付けらる」
(二)「寛政九年(二四五七)二月十五日茶園仕立方被仰渡候に付苗木二千三百八十株を新に植附其旨届出たり」
(三)「文久三年(二五二二)正月町名子源右衛門の子與八へ茶、卵一手買ひ纏め方差許され錢四十二貫文宛上納することを許可せらる」
(※原文ママ。皇紀による換算。以下同様。西暦換算では、延享年間=1744〜47年、寛政九年=1797年、文久三年=1863年。)
【史料二】『川辺町郷土誌』
(一)「熊ヶ岳の宝福寺では茶を毎年藩に上納して銭一貫文ずつを賜ったという」

これらの記載は、郷土誌編纂の際に何かの史料から抜き出したものと考えられるが、その原典を探し出すことが出来なかった。『旧記雑録』ではないかと考え、該当の年代を一ページずつめくりながら確認してみたがこれらの記事は存在していないようだ。原典史料をご存じの方は御高教いただけると有り難い。

原典史料が不明であるため、本来はこれらの記述はいくらか留保して考えなければならない。正確に原典を転記していないかもしれないし、原典史料の信頼性が低いかもしれない。しかし郷土誌編纂時には多くの人がチェックしたはずであり、ある程度確かなものとみなせると思う。

またこの他、【史料二】には、直接宝福寺に言及したものではないが次の記述がある。

【史料二】『川辺町郷土誌』
(二)「万治元年(一六五八)の検地では、田部田村に茶一斤二百三十匁が記録され、享保九年(一七二四)の内検では両添村に茶九十匁を生産したことになっている」
これらの記述から宝福寺での茶栽培について読み取れることを少し考えてみたい。

まず【史料一】(一)では、延享年間(1744〜47)に「煎茶蒸茶」を「江戸御用」として買い上げたいので「風味茶」を宝福寺に差し出すよう申しつけている。「江戸御用」が、江戸の藩邸における藩主の「御用茶」なのか、将軍に献上する「将軍家御用茶」なのか判然としないが、いずれにしても最高級品の茶が求められることは間違いない。当時の宝福寺では、薩摩藩内において最高級品の茶が生産されていたということになる。ちなみに、鹿児島県内で同じく茶が栽培されていた寺院として吉松の般若寺(真言宗)が知られている。『三国名勝図会』の「吉松」の項(巻之四十一)には次の記載がある。

【史料三】『三国名勝図会』(巻之四十一)
(一)[物産]「茶 當郷諸村の内に多く産す、名品種々あり、本藩の内、茶の名品は吉松、都城、阿久根を以て、上品とす、其の内にても吉松の産は、往古より特に久しく名品を出す、凡そ當郷の地は、茶性に相愜(かな)ひ、茶種を蒔ざれども、山林の間、天然に生じ易し、その名産ある推て知るべし」
(二)[般若寺]「茶園 當寺の境内に多し、名品にして、世に是を賞美す、名を朝日の森と呼へり」

『三国名勝図会』編纂の時点(天保期(1831〜45))では、既に宝福寺の茶は名品ではなくなっていたということなのか、または地域の特産品と呼べるものではなかったからなのか、宝福寺の茶についてはこの記事では触れていない。

なお【史料一】(一)の「煎茶」と「蒸茶」の違いはよくわからないが、少なくともこの頃の宝福寺のお茶は抹茶ではなかったようである(全国的な趨勢としても江戸時代には煎茶が一般的になっていた)。

次に【史料一】(二)を見ると、寛政九年(1797)に茶園の仕立て方について藩から申し渡しがあり、苗木2380株を新に植え付けた旨を届け出ている。これは宝福寺の茶栽培が実質的には藩の支配下にあることを示している。実際、それから数年後の文化期(1804〜18)には、薩摩藩は茶を藩の専売事業に位置づけ、この頃から藩の強力な奨励がなされている。しかしながらこれは逆にいえば自由な取引を禁じることでもあったので、あまりうまくいかなかったと言われている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

また茶の苗木を2380株植え付けたということについては、当時は今のような密植が行われることはなかったと考えられるし、現代の茶園の標準的な植え付け本数が反当たり1500〜2000株であることを踏まえると、2反(20a)ほども増産したように見受けられる。機械化が進んだ現代ではこの程度の増産は容易だが、当時は全てが手作業であるためかなり力を入れた新植だったと思われる。

次に【史料一】(三)では、文久三年(1863)に町人と見られる与八が茶・卵の「一手買い」、つまり独占的な買い占めの権利を得て、その許可料が年銭42貫文だったとしている。これは宝福寺の茶とは書いていないので、ここで与八が「一手買い」を許された茶がどこで生産されたものだったのかは明確ではない。しかしながら、薩摩藩では茶を専売品にする以前から、茶には高額な税金がかけられていたので、民間の換金作物としてはあまり生産されていなかったと考えられる。また薩摩藩では、この記事の三年前である万延元年(1860)に茶の専売制度を解いて自由販売品にしている(『鹿児島県茶業史』)。そうした状況証拠からすれば、この記事は町人の与八が宝福寺の茶の卸売りの権利を得たというように読めると思う。

ところで【史料二】(一)では、年代不明ながら宝福寺では毎年藩に茶を上納し「銭一貫文」を賜ったというが、銭一貫文とは銭貨1000文のことで、現代の貨幣価値にするとだいたい1万円強になる。江戸時代のどのあたりを換算の基準にするかにより上下するるにしても、たいした金額ではない。文久三年(1863)に与八が茶の一手買いの権利を年額42貫文で手に入れたのを見ても、藩から下賜される金額としてはいかにも小さい。これは史料の誤記ではないかと考えられる。

最後に【史料二】(二)では、これらの資料中で最も古い年代である万治元年(1658)に、田部田村では茶が一斤230匁=約1.5kgが生産されていたと述べている。田部田村の検地結果であり宝福寺の茶生産ではないが、近世以前において茶の栽培が寺院を中心に行われていたことを考えると、宝福寺での茶栽培はこれに先駆けることは間違いないように思われる。

これまでの史料をまとめると次のように言うことができる。即ち「宝福寺の茶は少なくとも江戸時代の初期には栽培されており、江戸時代半ばには藩内における最高級品であった。しかしやがて『三国名勝図会』等でも特筆されるものではなくなっていき、十八世紀末には藩の強い統制を受けて増産するものの、やがて販売自由化された」ということになろう。そして明治初期の廃仏毀釈によって宝福寺が廃寺になることによって茶栽培も終了したのである。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島県茶業史』1986年、鹿児島県茶業振興連絡協議会編

 ※冒頭写真は宝福寺跡に今も自生するチャノキ

2021年1月10日日曜日

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4)

(「秋目からルソンへ」からの続き)

薩摩藩から独立した立場を築いていたらしき貿易港、秋目を私領地としていた持明夫人こと島津亀寿(かめじゅ)とは何者だったのだろうか(以後、表記を「亀寿」で統一する)。

島津亀寿は、元亀2年(1571)島津氏第16代当主・島津義久の三女として誕生した。亀寿が生まれた頃の島津家は、島津義久・義弘の兄弟が中心となって九州最強の勢力を誇っていた時代である。しかし亀寿が17歳の時には、島津はへ豊臣秀吉の九州征伐に敗北。島津家としては難しいかじ取りが求められるようになる。

亀寿は三女とは言っても正室の娘としては長女であり、義久には男子が誕生しなかったため、亀寿は島津本家を受け継ぐ存在となった。彼女の夫となるものは、島津家の当主となるべき人だったのである。

それであるだけに亀寿の生涯は不遇であったといえる。亀寿はいとこ(義弘の子)の島津久保(ひさやす)と結婚する。久保は次期島津家当主になるべく亀寿と結婚したが、これは政略結婚とはいえ、二人は仲むつまじい関係だったようだ。ところが秀吉の朝鮮の役のため久保は朝鮮に渡り客死。結婚生活は5年未満と見られる。

その後、亀寿は秀吉の命によって島津忠恒(ただつね)と強制的に再婚させられた。忠恒は久保の弟である。この婚姻は島津家当主にすら相談なく決められたものらしい。

亀寿は久保と夫婦の時も、忠恒と再婚してからも、秀吉への人質として京都に送られた。亀寿はこうして20代のほとんどを人質として過ごさなくてはならなかった。この人質に対する褒賞として、亀寿は1万石の領地が無公役(無税)で贈られるのである。史料上は不明確だが、この中に秋目も入っていたのだと思われる。

ところで、亀寿と忠恒との夫婦仲は非常に悪かった。島津氏の歴史で、最悪といってもいい。忠恒は亀寿に対してひとかけらの愛情もなかったようである。亀寿は醜女(しこめ)であったと伝えられるが、それが事実だとしても、世継ぎを産むのが女性の重要な役目であったこの時代において、忠恒は正室である亀寿と子作りをしようとしなかったらしいことは異常である。

関ヶ原の戦いが勃発すると亀寿は京都を脱出し鹿児島に帰還。それから10年間は、父義久の後見もあって、忠恒との対立は続きながらも亀寿は島津本家の家督相続決定権者として重きをなしたように見える。

彼女は島津家当主が引き継ぐべき歴代宝物を所有し、それを決して夫忠恒には渡さなかった。島津家にとってのレガリア(それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物)の家宝だったからだ。亀寿は、忠恒を正当な島津家当主とは認めたくなかったのだ。

しかし慶長16年(1611)、義久が死去すると、忠恒(家康から「家」の字(遍諱)を受けて「家久」に改名。以後「家久」と表記)は亀寿を鹿児島から追い出し、義弘の居城だった国分の国分城へ追いやった。そしてそれまで亀寿とは子どもをもうけていなかったのに、家久は当てつけのように8人の側室を置いて、33人もの子どもをもうけた。

さて、秋目からルソンへ貿易船が出航した時期は、亀寿が父義久の後見の下でそれなりに地位が安定していた10年間に含まれる。

こう考えてゆくと、秋目は、亀寿が家久に対抗していくために私的に保護した貿易港であったように思われてならない。秋目を拠点に貿易を行なっていた商人たちは、誰の後援もなく幕府から「朱印状」を取得するのは難しかっただろうからだ。亀寿は公式ルートとは別の筋で(おそらくは公家ルートで)幕府との交流や要人との連携があったのではないだろうか。

史料上で裏付けされない、こういう空想を人は妄想として退けるかもしれない。まあ「歴史ロマン」の類である。ところが、先日「しいまんづ雑記旧録」というブログを見ていたら、この空想を傍証してくれるような「『中山世譜』の島津亀寿」という記事を見つけた。

【参考】しいまんづ雑記旧録
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/

この記事によれば、琉球の歴史書『中山世譜』に、まだ亀寿が亡くなっていない1620年、亀寿が亡くなったことになっていて、その葬いのために琉球王からの使者が鹿児島を訪れた、という記録があるのである。

どうして亀寿は死んだことにされたのだろうか。この記事に続く「『中山世譜』の島津亀寿 続」でそれが考察され、亀寿を庇っていたらしい島津義弘が前年1619年に死亡したことを受け、「家久(忠恒)にとっては亀寿を徹底的に排除できるチャンスが訪れたと言うことになる。そこで家久(忠恒)が最初に行ったことこそが上記に書いた「琉球など対外的に亀寿を死んだことにする」事ではなかったのではないだろうか」と推測されている。

それでは、なぜ家久はこと琉球に対して亀寿を死んだことにしたかったのだろうか。もし亀寿が秋目を私的な貿易港として保護していたなら、その理由は明白である。亀寿は、島津本家とは別に、琉球交易に対して何らかの権益を持っていたのである。

もし1620年の段階で、亀寿が無力な女城主として国分に寂しく暮らしていただけであれば、島津本家はわざわざ琉球に亀寿死亡の嘘情報を流すわけがない。この時期にも、亀寿は家久に対抗しうる力を持っていた。だからこそ家久はこのような奸計を以って亀寿を排除しようとしたのである。

事実、このころまだ亀寿は島津家の歴代家宝を所有している。依然として、正統な島津家の継承者(少なくても継承者の決定権者)は島津亀寿のままである。

だが、亀寿の命脈が風前の灯火であったのもまた事実だった。「隠さなければならない繁栄」でも既に述べた通り、家久は、慶長14年(1609)、琉球へ侵攻を行って琉球を属国にしていた。そして琉球を通じて明との貿易を行うという、藩営の密貿易体制を構築していたのである。仮に亀寿が海外貿易に何らかの権益を有していたにしても、このような国際関係の前では従前のように秋目を通じた海外交易はできないだろう。ひょっとすると、琉球侵攻という暴挙は、亀寿に対抗する意味合いも含まれていたのかもしれない。

しかも徳川幕府は元和2年(1616年)に明船以外の入港を長崎・平戸に限定するという鎖国体制の一歩を進めていた。もはや日本にとっての大航海時代は、終わりを迎えていた。

貿易を私的に保護することで家久に対抗するという、島津亀寿の戦いはこうして終わりを告げた。死んだことにされた年の二年後、元和8年(1622)、亀寿は家久の次男・虎寿丸を養子にし、私領1万石と島津家歴代宝物を相続することに決定した。後の島津光久である。ここで、亀寿は宝物を家久に渡すのではなく、その息子を自分の養子にして相続させたということは、重要な意味を持っているだろう。亀寿は、義久から引き継いだレガリアを、自分を通じて養子の光久へ受け渡した。彼女にとって、家久は遂に正統な島津家当主になることはなかった。

寛永7年(1630)、島津亀寿は国分で死去した。法名は「持明彭窓庵主興国寺殿」。ここから「持明様」=「ジメサア」と呼ばれるようになる。ちなみに家久は亀寿の墓を建立することもなかった(のちに光久が慌てて建立)。つくづく酷い夫である。

私は、島津家久と亀寿は、単に夫婦仲が悪いというだけでなく、貿易に関して何らかの権益を争った競争者であったと思う。家久には認められなかったルソン交易が、なぜか秋目出港の船に認められていたという事実がそれを示唆する。

だが、女性一人がたった一万石の私領で向こうを張るには、島津家久は強大で、冷酷すぎた。それでも、そのわずかな所領の中、秋目という僻遠の地に独自の貿易港を築いて、対外関係に不思議な存在感を示したことは、彼女の戦いが決して一方的な負け戦ではなかったことを示している。

秋目に残る「持明夫人公館跡」は、そういう島津亀寿の戦いの跡であると思う。ここで島津亀寿は遥かなルソンを臨み、その貿易を基盤として家久とは違う「正統」を保っていこうとした。本当の島津家を継承していくために。

(つづく)

【参考文献】
戦国島津女系図」の「島津亀寿のページ」
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/shi/shimadzu-kameju.htm

※本文中にあげた「しいまんづ雑記旧録」の本体WEBサイトで、亀寿の生涯についての情報はほとんどこのページを参照させてもらいました。

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)

(「隠さなければならない繁栄」からの続き)

前回、秋目は「貧乏で疲れた郷」を自称しながら、少なくとも享保年間以降のしばらくの間はかなり豊かだった、と述べた。

では、その前はどうだったのだろう。陸の孤島である秋目は、今と同じ、寂しい港町だったのだろうか。

そのことを考えるにあたって、面白い史跡が秋目に残っている。「持明夫人行館跡」である。場所は、今「がんじん荘」がある所の道向かい。昔は史跡の説明板があったが(看板の写真は過去のもの)、今は何もないので知らない人はわからない。冒頭の写真の場所である。

鹿児島の人は、持明夫人こと「ジメサア」のことを一度は聞いたことがあると思う。鹿児島市立美術館の敷地内にあるおしろいをした石像が「ジメサア」と呼ばれて女性の守り神みたいに扱われ、化粧の塗り直しをするのが報道される。

「ジメサア」とは「持明様」が訛った呼び方で(一部に「持明院様」とする説があるが「院」をつけるのは誤解だと思う)、持明様こと持明夫人は島津家久(忠恒)の室(正妻)、島津亀寿(かめじゅ:1571-1630)のことである。

秋目には、この持明夫人が逗留した屋敷(行館)があったというのである。なぜこんな辺鄙なところに持明夫人は来たのだろうか。どういう意味があったのだろう。

通説では、持明夫人がここに来たのは、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするためだったという。秋目には持明夫人がそこで納涼したという「持明夫人納涼石」なるものも残っている。確かに今の秋目の辺鄙な様子を考えると、ここは夫と離れて気晴らしするにはよいところだ。まるで別の国に逃げてきたような気分になるかもしれない。だが当時からそうだったのだろうか。ここはただの寂しい港町だったのか…?

そんな、当時の秋目を考える上で興味深い記事が『旧記雑録』という資料にある。

「慶長9年(1604)、秋目から呂宋(ルソン)へ小田平右衛門という人の船が出航し、慶長11年(1606)に片浦に帰航した」というのがそれだ。 

ルソンとは、言うまでもなくフィリピンにある最大の島である。秋目から、はるばるルソンまで貿易に行っていたというのだ。この記事だけを見れば、この頃の秋目は寂しい港町どころではなく、国際貿易港だった、ということになるだろう。

ただ、話はそれほど単純ではない。実は、ルソンへの渡航というのは特殊な意味合いがある。この記事をさらに理解するために、ちょっと長くなるが、当時の対外関係や国際貿易についておさらいしてみよう。

話は時代を200年ほど遡って、日明貿易から始めなくてはならない。足利義満は「日本国王」として日明間に国交を開き、公式には長く途絶えていた大陸との関係を再建した。日本は明の冊封体制に組み込まれ、定期的に朝貢を行うことになる。

朝貢は、もちろんいろいろな贈り物を献上する。だが明からはその返礼として日本にとってはそれ以上に価値ある品が下賜されるため、これは実質的に官営貿易と同じ意味があった。こうして日本は日明貿易の時代を迎えた。何しろ明と日本は互いに貿易の必要性が大きかったのである。

日明貿易の主役となったのは、大坂の堺の商人と結んだ細川氏と、筑前博多商人と結んだ大内氏であったが、やがて両者は対立するようになって、細川氏の貿易船は北九州を経由しないルートを取るようになった。それが、南九州をぐるっと経由して東シナ海を渡るルートであったため、島津氏はその警護を担当するようになり、また次第に貿易の仲介を行うようになった。

大内氏と細川氏の対立は明の寧波にまで持ち込まれ、1523年、「寧波の乱」という騒動を起こしてしまう。これによって明との関係が冷え込み、日明貿易は途絶する。そこで日明間の国交回復のためにキーマンになったのが島津氏である。というのは、島津氏は琉球と国交がある。そして琉球は明と国交がある(冊封体制に入っている)、ということは、島津氏→琉球→明という形で国書をやりとりすることができるのである。島津氏はこのハブ的な立場を利用して、貿易立国として発展していった。

そして、この時代、さらに大きな商機が訪れていた。南蛮との交易である。スペインのフラシスコ・ザビエルが鹿児島に来るのが1549年。16世紀には、たくさんの南蛮人、すなわちスペイン・ポルトガルの商人が日本に訪れ、物珍しいものをもたらした。彼らが携えていた最新の道具や科学技術はそれはそれで日本に大きな影響を与えていくが、貿易において重要なのは、東南アジアを拠点にした貿易体制が出来上がったことだった。

つまり、スペインやポルトガルは東南アジアをハブにして中国や日本と貿易を行ったのである。ということは日本から見ると、東南アジアを通じて中国の商品を手に入れられるということになる。日明貿易が再開されなくても、南蛮貿易が中国へのパイプになるのだ。しかもややこしい朝貢の手続きなどなしに。

こうして、日本は「朱印船貿易」の時代を迎える。幕府(や権力者)から与えられる貿易の許可状が「朱印状」(御朱印)である。「日明貿易」の場合は、実質的には大内氏や細川氏の私貿易の性格があったが、形の上ではあくまでも国家による通商であった。ところが「朱印船貿易」は、圧倒的に私貿易の性格が強い。国家は貿易の許可(朱印状)を与えるだけで、あとは商人や大名の自己責任に任されていた。

こうなると、貿易がもたらす莫大な利益のために大勝負を打つ者が出てくる。ちょうどスパイスを求めてアメリカ大陸を発見したコロンブス、地球を一周したマゼランのように。そんな冒険人的な商人の代表が、伝説的な堺の豪商、呂宋助左右衛門こと納屋(なや)助左右衛門である。

正確な事績は不明ながら、彼は安土桃山時代にルソンに渡海して貿易商となり、巨万の富を得、秀吉の保護を得て活躍したらしい。ともかくこの時代、一財産築くことを夢見て南の海に漕ぎ出していった者は多いのである。

そしてこのために、日本の造船技術は長足の進歩を遂げる。日本は四方を海に囲まれているにもかかわらず古来から造船技術が未熟で、操舵が不完全で難破も多く、しかも大船を作ることができなかった。それがこの時代、ヨーロッパ人たちの船やその航海技術を学ぶことで、乗員数200〜300人程度の大船を製造することが可能になったのである。

こうして、日本にとっての「大航海時代」が訪れた。 多くの日本人がアジア各地の交易都市へ赴き、アモイ(中国・福建省)、バンデン王国(インドネシア)、アユタヤ(タイ)、ホイアン(ベトナム)などには日本人街も生まれるのである。そんな中でも、ルソン島マニラ(スペイン領)の日本人街は最大規模のもので、16世紀から17世紀にかけては3000人もの日本人が居住していたという。

呂宋助左右衛門も、ルソンでの貿易で財をなしたというし、1604年に秋目から出航したのもルソン往きの船であった。この頃のルソンと交易するというのはどういうことだったのだろうか。

実は、ルソンには莫大な利益を生む商品があった。それが「ルソン壺」(「真壺」ともいう)である。 「ルソン壺」とは陶製の耳付きの壺で、「ルソン」と名がついているが実は南中国からルソンに輸出された実用品の廉価な壺だった。この別に高級品ではない地味な壺が侘び寂びを旨とした茶人たちに評価され、日本に持ってこられると茶器としてとんでもなく高価な宝物に化けたのである。

現地では極めて安く手に入り、超高価で売れる「ルソン壺」はまさに一攫千金の夢が詰まった壺だった。こういうものがルソン島にあるとなると、まさに「蟻が群がる」(ペドロ・バウティスタ第4号文書)ように日本人がルソン島に押し寄せたのも無理はない。

そして薩摩は、当然ながらこの南蛮貿易に地の利があった。中継点としての琉球との国交もあるし、何より日本国土の南端で南蛮世界には一番近いのである。さらに、薩摩人たちは「倭寇」として非合法の貿易で東シナ海を縦横に駆け回っているものも多くあった。薩摩人たちにとって、東南アジアはいつでも行ける土地と認識されていたに違いない。マニラの日本人街には、多くの薩摩人がいただろう。

ところが、ルソン壺交易はやがて大きな転換点を迎える。豊臣秀吉が、ルソン壺を独占する姿勢を見せたのである。先述の通り、ルソン壺は南中国からルソンに輸出された品だったのであるが、実はこの時代には既にその輸出は停止しており、南中国のどこからやってきたのか不明になっていた。現地の人はこれを生活雑器として使っていたが、日本人がルソン壺を高く買い上げるので手近にある品は根こそぎ日本人に売った。こうなると供給はもうないのだから、ルソン壺は消滅する運命にあった。

しかも茶人たちは、ルソン壺だったらなんでもよいというのではなく、その美意識から傑作と駄作を峻別していたから、ルソン壺の名品は超貴重品だった。こういうものを、権力者が独占しようとするのも無理はない。秀吉はルソン壺の輸入を統制下に置き、ルソン壺を買い占めたものは厳罰に処するという非常に強烈な意志を持って独占を図るのである。

そして、秀吉の没後を引き継いだ徳川家康もこの姿勢を踏襲。ルソン壺の交易は並みの大名には決して許されない、非常にデリケートな交易品となっていく。

具体的には、徳川幕府はルソンへの渡航の「朱印状」を大名には与えていない(唯一の例外は平戸藩の松浦鎮信)。カンボジアやアユタヤ(タイ)、安南(ベトナム)といった東南アジアの他の国には大名へも「朱印状」を与えているのに、ルソンだけは特別なのだ。ルソン渡航が許可されたのは、大名の配下にない独立の有力商人たちにだった。

もちろん島津氏にもルソン渡航の「朱印状」は発給されていない。当時の藩主、島津家久にとってルソンへの「朱印状」は喉から手が出るほど欲しいもので、家康に対してたびたび公布願いを出し、さらには神仏への祈願すら行っている。それでも遂に、島津家久にはルソン渡航が認められることはなかった。

さて、ここでようやく秋目の話に戻ってくる。家久がルソン渡航の「朱印状」をもらっていないというのに、なぜ秋目からルソン往きの船が出航できたのだろうか。

そもそも、薩摩藩が南蛮貿易の拠点港としたのは山川港である。持明夫人の父、島津義久(家久の伯父)が頴娃氏から領主権を剥奪して山川港を我がものとしたのが天正11年(1583)。藩営の貿易船であれば、秋目ではなく山川から出発するのが自然なのだ。

答えはただ一つ。秋目から出航したこの船は、藩営の貿易船ではなくて、私船だったのである。

改めて『旧記雑録』の該当箇所の原文を引用しよう(用字を現代のものに改めた)。

去々年秋目呂宋へ罷渡候小田平右衛門尉舟、頃片浦へ帰朝仕候、勿論、御朱印船ニて候間、此方よりハかもいなく候
(慶長11年(1606)6月5日付 島津家久宛、島津義弘書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、215号(鹿児島県資料)

義弘から家久への書状で、「一昨年、秋目から呂宋へ渡った小田平右衛門の舟が、この頃片浦に帰朝した。もちろん御朱印船なので、こちらからはどうすることもできない」という内容である(※「かもいなく」は「かいもなく」の誤り?)。

書状中に明確なように、藩とは全く別個に「朱印状」を得て、秋目から呂宋へ渡っていた商人がいるのである。しかも、その存在を苦々しく思いながらも、島津義弘も家久も、それをどうすることもできない。

なお、この船と同船かどうか不明だが、同様の事案が家久から義弘への書状でも触れられている。該当箇所を引用する。

次従秋目致出船候渡唐船帰朝候哉、直ニ被下御朱印たる舟之由候間、其段山駿州迄申置候
(慶長11年(1606)6月24日付 島津義弘宛、島津家久書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、232号(鹿児島県資料)

これは「次に、秋目から中国に渡った船については帰朝しました。朱印状を直接発給された船であるため、山口駿河守直友(幕臣)に申し伝えて置きました」という内容である。

ここで「朱印状を直接発給された(直に御朱印下されたる)」といっているのは、これが島津氏(=薩摩藩)を素通りして、江戸幕府から直接もらったものであるためで、だからこそ島津氏はこの船と無関係であるにもかかわらず、幕臣に報告する義務があるのである。

というわけで、この時期の秋目港は、どういうわけか島津氏の支配の及ばない場所で、しかもなぜか独自に江戸幕府から「朱印状」をもらう力がある商人がいる場所であった。さらには、島津氏の直轄港である山川港はどうしてもルソン交易に参画できないのに、秋目からはルソン往きの船が出ていた。秋目とは、一体全体、どういう港だったというのか。

そしてこの時期、秋目を私領地として領有していたのが、持明夫人こと島津亀寿だったのである。「持明夫人行館」が、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするための場所であったとはありそうもないことだ。ではここで何が行われていたのか?

(つづく)

【参考文献】
「初期徳川政権の貿易統制と島津氏の動向」2006年、上原兼善
「ルソン壺交易と日比通交」2016年、伊川健二
海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
火縄銃から黒船まで—江戸時代技術史』1970年、奥村正二
『大ザビエル展 図録』1999年
「歴史講座「戦国島津」第8回「16世紀前半の南九州海域と対外関係」」2020年、新名一仁(ビデオ及びレジュメ)

2021年1月7日木曜日

「柿本地蔵」と「柿本寺」の謎

加世田の郷土資料館に、「木造地蔵菩薩立像」(将軍地蔵像)が展示されている。

地元では、俗に「柿本地蔵」と呼ばれているものだ。江戸時代の作と見られ、なかなか繊細優美で、鹿児島に残る仏像の中では優品に属する。

この地蔵像は、どういうものだろうか。どういう故事来歴で郷土資料館に展示されているのだろう。なにしろ、鹿児島は幕末・明治初期に徹底的に廃仏毀釈を行っている。

だから、この像が廃仏の影響を全く受けていないのは、何か理由があるはずだ。疑問に思って、以前、加世田郷土資料館の方に聞いてみたことがある。そうしたら、「この像は、設立当初からの収蔵品で、受け入れ時の記録が残っていないので分からない」とのことだった。

そんなわけで、その理由については今も分からないままなのだが、この像が何者なのかを調べてみて面白かったので、ちょっとまとめてみよう。

まず、この地蔵像に関する地元の伝説をザックリとまとめると「これは井尻神力坊(いじり・じんりきぼう)が廻国の過程で手に入れて持ち帰ったもので、加世田の柿本寺に安置されていたものだ。だから柿本地蔵と呼ぶ」となる。

井尻神力坊とは、戦国時代の島津氏中興の祖・島津忠良(日新公(じっしんこう))の家臣である。彼は日新公の命を受けて、諸国を巡って法華経を奉納する修行を行った。所謂「六十六部聖(ろくじゅうろくぶひじり)」である。彼はスパイ的な仕事もしていたらしく、諸国の情報を日新公に伝えていたという。ところが廻国修行を終えて加世田に帰ってみれば、日新公は既に亡くなっていた。そこで木から身を投げて殉死したと伝えられる。ちなみに、元鹿児島件知事の伊藤祐一郎氏も井尻神力坊の末裔である。

さて、井尻神力坊が生きたのは戦国時代であるから、どう見ても江戸時代の作のこの「柿本地蔵」は、神力坊が持ち帰った地蔵そのものだとは思えない。

では、この像は一体何なのだろう。そして柿本地蔵とは何なのだろう。

それを考えるには、いくつかの史料を繙いてみなくてはならない。ちょっと地味な作業だがお付き合い願おう。

まずは『加世田再撰帳』という史料がある。これは19世紀半ば、つまり江戸時代の後期にまとめられたと考えられているもので、加世田郷の地理や産業、名物や名所旧跡を絵入りで紹介したものである。この史料に、「柿本寺」に関する事項が数ヶ所出てくる。

そして鹿児島の名勝旧跡について調べる時の基本資料、『三国名勝図会』である。これも同時期にまとめられたもので、薩隅日の三国(島津領地)の情報を絵入りでまとめ、考察を加えたものである。これには、加世田の「柿本寺」の項目はないが、鹿児島市内にある「柿本寺」の項目の中で加世田の方も触れられる。

以下、以上2つの史料の該当箇所を抜粋引用する。読むのが面倒という方は、史料の後に青字で付したポイントだけ読んで頂いたら大丈夫である。

【史料1】「加世田再撰帳 三ノ二」
一、地蔵堂 一宇    格護 日新寺
 従日新寺子方道程二町五十六間
 一、将軍地蔵    一体 長ヶ二尺四寸木立像蓮台金磨
 一、脇士 性善童子、性悪童子    二体 長ヶ各一尺三寸木立像蓮台彩色
 一、鰐口    一口 差渡六寸無銘
 右将軍地蔵ハ井尻神力坊日本国中廻国ノ節負下リタル地蔵ニテ安置ナリ然処 光久公 御代御城内ヱ召移レシニ変事有之彩色等御取繕ニテ亦々如本召返サレ安置スト云
【ポイント】日新寺(今の竹田神社)の管理下にある「地蔵堂」には、井尻神力坊が持ち帰った将軍地蔵が祀られている。島津光久の時代にこれを城内に移したことがあるが、変事があったので彩色などを繕って元の場所に安置しなおした。
【史料2】「加世田再撰帳 三ノ二」
一、石塔 一基(日新寺界内将軍地蔵堂左側)
  天正三年十二月二十七日
  権大僧都神力宗憲法印
 右井尻神力坊墓ニテ柿本地蔵堂左側ニアリ
 日新公ヨリ神力坊ヱ 御国家繁栄長久ノ為ニ一ヶ国ニ於テ六十六部ノ法華経ヲ御奉納ノ 御誓願ノ由ニテ回国被仰付二十二年ニ至テ四千三百五十六部ノ妙経ヲ奉納成就シ 日新公御逝去ノ後帰国ス天正三年十二月二十七日殉死スト云
【ポイント】「将軍地蔵堂」=「柿本地蔵堂」の左側に、井尻神力坊の墓塔がある。
【史料3】「加世田再撰帳 二」
(麓 柿本)
一、山王権現 一社 格護 今泉寺
 従地頭仮屋未申方道程四町十間
 祭神 大已貴命 大山咋命
  木立像 八体 大破
  猿木座像 二体 大破
 祭日 十一月初申
 右山王宮大永四甲申歳十二月十六日薩摩守忠興御建立其后 日新公 御再興ニテ候上代者柿本寺別当寺ニテ候ヘドモ廃壊ノ后今泉寺格護二相成候
【ポイント】加世田の山王権現は、昔は「柿本寺」が別当寺だったが、「柿本寺」が壊れた後は今泉寺の管理となった。
【史料4】「三国名勝図会 巻之四」(※[]内割注)
能満山、所願院、柿本寺[府城の西]
 西田村にあり、本府大乗院の末にて真言宗なり、本尊虚空蔵菩薩[日秀上人一刀三礼の木座像]、開山典雄法印[元和四年遷化]、当寺の伝へに曰、典雄法印は、加世田日吉山王宮の別当寺、柿本寺[加世田柿本寺は、村原村にあり、今廃して寺地存ず]の住持なりしに、 慈眼公御帰依あり、本府当村窪田に一宇を営て、典雄を移住せしめ給ひ、屢祈祷を命ぜらる、其後当寺を今の地に御建立ありて国家安鎮の為とし、典雄を開基とす、因て寺号は加世田柿本寺の名を用ひしとぞ(後略)
【ポイント】鹿児島の西田村の「柿本寺」は、加世田の村原村にあった「柿本寺」の住持であった典雄法印を島津家久(慈眼公)が鹿児島に連れてきて、同名の寺を建立したものである。
【史料5】「三国名勝図会 巻之二十九」
龍護山日新寺[地頭館より未方三町余]
 (中略)
○梅岳君御石塔
(中略)又井尻神力坊といへる修験(中略)其石塔は、日新寺境内、柿本地蔵堂の側にあり、神力が霊とて、今に奇異あり、諸人是を畏る。(後略)
【ポイント】井尻神力坊の墓塔は、日新寺境内の「柿本地蔵堂」の側にある。

史料中には、相互に用語が一致しなかったり、場所の説明が食い違っている部分があるが、細かいことは気にせずに、この史料に基づいて地蔵像と柿本寺のことをまとめると以下の通りである。

●地蔵像
○日新公の家臣、井尻神力坊は、将軍地蔵像を加世田に持ち帰った。【史料1】
○その将軍地蔵は、「将軍地蔵堂」=「柿本地蔵堂」に安置された。【史料1、2】
○神力坊は日新公に殉死して、その墓は「柿本地蔵堂」の側に建てられた。【史料2、5】
○島津光久の時代に、この地蔵像を城内(鹿児島)に移したことがあるが、変事が起こったので彩色し直して元に返した。【史料2】
○『再選帳』『三国名勝図会』編纂の時点(江戸時代後期)、地蔵像と地蔵堂は現存していた。【史料1、2、5】

●柿本寺
○加世田麓の柿本には、山王権現(日吉山王宮)があり、その別当寺(神社の管理をするお寺)が柿本寺であった。【史料3】
○この柿本寺の住持典雄法印は、島津家久に気に入られて鹿児島に移住させられ、典雄を開基として鹿児島にも柿本寺が建立された。【史料4】
○『再選帳』『三国名勝図会』編纂の時点(江戸時代後期)で、加世田の柿本寺は壊れてなくなっていた。【史料3、4】

さて、2つの史料から読み取った情報では「柿本地蔵堂」と「柿本寺」は全く別のものなのであるが、実は地元では「柿本地蔵堂」=「柿本寺」と考えられている。

竹田神社(元の日新寺)の北側に、「柿本地蔵堂跡」・「柿本寺跡」と見られる竹やぶがあって、そこには井尻神力坊の墓があった標柱も立っている(墓は竹田神社に改葬されている)。

少なくとも、ここが「柿本地蔵堂」であったことは、史料からも、遺物からも確かなことである。ではここは、以前は柿本寺でもあったのだろうか?

【史料4】(『三国名勝図会』)によれば、加世田の柿本寺は「村原村」にあったという。日新寺と村原は2kmくらい離れているので、この情報が正しいならここは柿本寺ではない。

だが『三国名勝図会』が編纂された段階で、柿本寺が廃寺になって100年以上経過している可能性があり、であればこれはさほど信憑性のある情報とも思えない。それに、『三国名勝図会』は「村原村には柿本寺の寺地が今でも存在している」と書いてあるが、それらしき土地もない。

それから、もうひとつ気になるのは、現存の「将軍地蔵」がどうも将軍地蔵っぽくないことである。将軍地蔵は、勝軍地蔵とも書き、甲冑に身を包んだお地蔵様である。愛宕(あたご)修験で重んじられ、軍神として信仰された。また江戸時代は火伏せ(火事除け)の神としても信仰された。

一方、現存の「将軍地蔵」は、どう見ても普通の地蔵である。普通の地蔵が「将軍地蔵」として祀られていることも少なくはないから、全くおかしいとは言い切れないものの、ちょっと違和感がある点である。

また、前述の通り将軍地蔵といえば愛宕修験なのであるが、竹田神社の南側は「愛宕上(かみ)」「愛宕下(しも)」という小字が残っている。とすれば、このあたりに愛宕修験の関係者が住んでいたのかもしれない。村原の方にはそういう形跡はないのである。

というわけで、以上の情報から推測される「柿本寺」と「柿本地蔵堂」について時系列で整理すると、以下のような感じになるだろう。

  • 戦国時代、井尻神力坊は廻国修行から将軍地蔵を持ち帰った。
  • 山王権現の別当寺の「柿本寺」は、元々あったか、将軍地蔵をきっかけに創建され、将軍地蔵は「柿本寺」に安置された。
  • 井尻神力坊は、死後「柿本寺」に埋葬され墓塔が建立された。
  • 戦国時代末期か江戸時代初期、島津家久は、「柿本寺」の住持典雄法印を気に入り、鹿児島に連れて行って西田に柿本寺を建てた(余談ながら今でも「柿本寺通り」の名前で残っている)。
  • これによって、加世田の「柿本寺」は廃寺となった。
  • 柿本寺跡には地蔵堂が建てられ、「柿本寺」の将軍地蔵が安置されて「柿本地蔵堂」と呼ばれた。
  • この地蔵堂の管理を行ったのは、今の「愛宕上、下」のあたりに住んでいた修験者だったかもしれない。
  • 島津光久(家久の息子)の時代、おそらくは鹿児島の柿本寺に安置する目的で、将軍地蔵を鹿児島に持ち去った。しかし何らかの問題が起こったので、彩色しなおしたという名目で別の仏像を加世田に送り元のように「柿本地蔵堂」に安置した。(=地蔵像はここで入れ替わった)
  • 明治初期、「柿本地蔵堂」は廃仏毀釈で取り壊された。この時、修験者たちが地蔵像を隠して破壊を免れたのだろう。

要するに、「柿本寺」が家久によって取りつぶしになった跡に建てられたのが「柿本地蔵堂」ではないかということだ。そして、今の将軍地蔵は、井尻神力坊が持ち帰ったものではなくて、光久の時代に交換されたものと考えられる。

先日、「薩摩旧跡巡礼」の川田さんと一緒に柿本寺跡に行ってみたら、古くて立派な五輪塔の残欠が埋まっているのを見つけた。ここは、少なくともお地蔵さんを安置するだけの「地蔵堂」ではなかったことは確実だと思う。ぜひ柿本寺跡を発掘して、実際にどんな場所であったのかを明らかにしてもらいたい。

ところで、「柿本地蔵」にはもう一つ謎がある。冒頭に述べたとおり、鹿児島は徹底的な廃仏毀釈を行っているので古い仏像があまり残っていない。そんな中で、「柿本地蔵」はつくりもよく、しっかりと保存されてきた優れた仏像である。それなのに、なぜか県指定文化財はおろか、市指定文化財にもなっていないのである。私にとってはそれが一番の謎だ。

そんなわけで、これを市指定文化財にして、故事来歴について研究してもらいたい、というのが私の願いである。

※冒頭の地蔵の写真は、2017年に行われた黎明館企画展「かごしまの仏たち〜守り伝える祈りの造形」の図録から引用しました。

2020年6月17日水曜日

「鹿児島磨崖仏巡礼」もやっています

6月13日(土)、鹿児島市のレトロフトで「鹿児島磨崖仏巡礼vol.1」というイベントを開催した。畏友の川田達也さんとのコラボイベントである。

【参考】薩摩旧跡巡礼 ← 川田さんがやっているブログ
http://nicool0813.blog.fc2.com/

「鹿児島磨崖仏巡礼」というのは、私から川田さんに提案したプロジェクトで(そういえばこのブログではお知らせしていなかった)、鹿児島の磨崖仏を全部網羅したハンドブックを作ることを目標にしつつ、鹿児島の磨崖仏について二人で楽しむというもの。

具体的に何をしているのか? というと、実は磨崖仏を巡っているのは川田さんだけで、私は川田さんから送られてくる写真や情報を元に、与太話をするだけ(笑)

その与太話については、こちらのブログで公開している。

【参考】鹿児島の磨崖仏ノート
http://nansatz.wp.xdomain.jp/

そういうわけで、コラボプロジェクトといっても、二人が共同で何かをするという要素があまりないのが「鹿児島摩崖仏巡礼」。でも時には二人揃って何かやった方がよいし、どうせならもっと多くの人に楽しんでもらおうということで、半年に一度程度「中間報告会」を開いて、磨崖仏の面白さを訴えることにした。

それが、今回第1回目となった冒頭のイベントである(ちなみに全4回の予定)。

その内容は、最初の30分程度、磨崖仏の概論的なものを私が話して、次に今回オススメの磨崖仏3つを二人で解説した後、川田さんがいろいろな磨崖仏を写真で紹介する、というものだった。

また、今回はコロナのため人が集まりすぎるとよくないということで事前申込制とし、定員を25人にした(でも会場キャパの都合から次回以降も申込制にするかも)。当日急に来られなかった人もいたが、ほぼ満席となり、磨崖仏への関心の高さが窺えた。

が、ここで反省しておくと、どうもイベントの前半は、盛り上がりに欠けた(客席の反応が薄かった)ような気がする。ちょっと前置きが長かったのかもしれないし、説明が小難しすぎたのかもしれない。あるいは説明がちょっと大雑把すぎたという可能性も…。うーん、よくわからない。

途中休憩の時に、川田さんと「客席との距離を感じますね…」と焦って相談し、「磨崖仏の解説を理解してほしいのではなく、磨崖仏を楽しんでもらいたい、という方向性をもっと強く出そう」とちょっと方向転換して後半に臨んだところ、前半よりはよくなった(と思う)。

結果的には、参加されたほとんどの方が「鹿児島の磨崖仏って面白そうだな!」と思ってくれたのではないかと思う(完全に推測の自己評価です)。

ちなみに当日強調したのは、鹿児島の磨崖仏は音楽で譬えれば「インディーズバンド」みたいなものだということ。

全米大ヒット、とか、オリコン1位とか、あるいは国民的歌姫、そういう存在は、確かに多くの人に響くものだろうし、みんなが「すごい!」と認める。でも鹿児島の磨崖仏には、そういうすごいものはあまりない。そういう誰もが認めるすごい磨崖仏を見たかったら、臼杵磨崖仏、中国の龍門石窟、インドのアジャンター石窟なんかに行ったらいい。そっちの方が鹿児島の磨崖仏より遙かにすごい。

じゃあ、鹿児島の磨崖仏を見るのは、そういうすごい磨崖仏は遠くてなかなか見ることができないから、とりあえず地元の小さなもので我慢しておく、というような、手近な代替品なんだろうか?

もちろんそういう側面はある。私もアジャンター石窟とか行ってみたい。でも鹿児島の磨崖仏は、小規模なだけに個性がすごい。まるでキラリと光るインディーズバンドみたいなのだ。確かに大資本の力はないし、技術も高くはない。でも作った人の思想やデザイン力や、何だか分からない情念がダイレクトに表現されているのが鹿児島の小規模な磨崖仏なのである。

それは、決して万人受けするものではないかもしれない。でも友達から「○○ってバンドが面白いんだよね!」って勧められたら、5人に1人くらいはファンになっちゃうような、クラスの中だけで小さな流行が起こるような、そういう認められ方はする存在だと思う。

私はこのプロジェクトについては、社会に対して何を訴えるとかそういう大それた気持ちは全くないが、無名のインディーズバンドを友達に勧める程度の役割は果たしたいと思っている。

第2回の中間報告会は、たぶん2020年12月。よかったらお越し下さい。

2020年5月8日金曜日

隠さなければならない繁栄——秋目の謎(その2)

坂本家正面玄関
(「豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1)」からの続き)

秋目は、かつては貿易で栄えた港町だった、と地元の人は誇る。

いくら史料の中で「秋目は貧乏で疲れた郷だ」と言われていても、秋目に残る遺物を見れば、それを額面通り受け取っていけないことが分かる。かつての貿易の跡がそこかしこに残っているからだ。

例えば、秋目には漢方医をしていた坂本家の屋敷がある。

この屋敷は、秋目の集落を見下ろす位置にあり、本宅、土蔵、そして庭園の跡が残る。本宅の怖ろしく立派な正面玄関だけでもかつての威風を窺うのに十分だが、大きな土蔵と巨大で手の込んだ石灯籠(中国製のように見える)が残る庭園跡は、有り余っていた富を感じさせる。

坂本家の石灯籠
藩政時代は、坊津の諸港(坊、泊、久志、秋目)のそれぞれに漢方医がいたらしいが、今しっかり残っているのはこの坂本家だけだ。この屋敷は既に無人となり、本宅も土蔵も荒れ、庭園は藪になってしまった。非常に貴重な文化財なので、なんとか保存してもらいたいものである。

それはさておき、このような立派な邸宅がある以上、秋目が貧乏な土地だったとは言えないのは明らかだ。確かに秋目には石高の大きな武士はいなかった。というよりも、水田が耕作可能な土地がほとんどなかったので、秋目全体の石高がとても少なかった。「石高制」の下では、少なくとも帳面上、秋目は石高の低い、貧乏な土地にならざるをえなかった。

だがそれを補って余りあったのが、貿易の利益であった。

薩摩藩は、鎖国体制下にあっても琉球を通じて中国と貿易を行っていた。その拠点が、山川港であり坊津港であった(「坊津」は、史料上では坊津諸港(坊、泊、久志、秋目)の総称として使われていることが多い)。

坊津諸港
この貿易は、鎖国体制を敷いて諸藩の外国貿易を制限していた幕府に対してはもちろん秘密であったし、貿易の相手である中国に対してすら秘密であった。というのは、薩摩国と中国(明→清)の間には正式な国交などあるわけがなかったからである。国交のない国とどうやって貿易をしたか。そこには大がかりなマヤカシがあった。

琉球は、元々は独立国であり、中国の冊封国であった。冊封国というのは、中国王朝を宗主国として奉ずる臣下の国ということである。例えば冊封国は、中国の暦(元号)を使う。また臣下として、定期的に中国に産物を進貢しなくてはならない。しかしこの進貢に対する返礼として、中国は貢納品以上の価値があるものを下賜してくれる。すると、この進貢は実質的には中国との官営貿易であるということになる。薩摩藩が目をつけたのはここである。

薩摩藩は琉球侵攻(1609年)によって琉球国を実質的には属国(植民地)としつつ、中国に対しては琉球を独立国にしつらえて中国の冊封体制に留まらせた。こうすることで琉球の進貢貿易を裏であやつって秘密裡に中国の産物を手に入れ、それを闇ルートで売りさばいて莫大な利益を得たのである。

この貿易は、秘密であっただけに史料上は明らかでないことが多いが、流通には藩営のものと私的な(民間の貿易商人による)ものがあったらしい。琉球〜中国間の貿易(進貢貿易)は国家間のものであったし、薩摩藩が厳密に管理していたはずだが、それ以外にも唐船(中国船)との私的な交易が散発的に行われたようだし、琉球〜薩摩、薩摩〜全国の流通は必ずしも藩営に限らなかった模様である。今であっても、公営の営利事業はほとんど決まって非効率で鈍重であり、思ったように利益が得られない。多分藩政時代でも似たようなものだったのだろう。その空隙を縫って貿易商品はいつの間にか民間に流出し(「抜け荷」)、全国に流通していった。

もちろん、藩としては貿易の利益を独占したかったので、民間の密貿易は好ましくなかっただろう。それに、琉球に薩摩からの民間の商船が自由に行き交っていれば、薩摩が琉球を植民地化したことが中国にばれてしまう危険がある。実際、明代には琉球と薩摩の関係は明に強く疑われていた。そのため、琉球に就航する薩摩船については、「あれはトカラの船で、薩摩の船ではありません」という苦しい言い訳をしていたのである。 もちろんトカラも薩摩の領土だったのであるが、トカラ(七島、宝島などと呼んでいた薩南諸島)も独立国であると薩摩藩は説明していたのだった。

しかしこのような無茶な言い訳がいつまでも通用するわけもない。トカラには独立国としての体裁がなく、虚構の国だったのだから当然だ。また琉球には薩摩藩から在番奉行などの役人も赴任しており、中国には薩摩藩の虚偽の説明は看破されていた。そこで薩摩藩は、琉球から薩摩藩の存在を完全に隠蔽する方策へと段階的に移っていった。

その隠蔽体制が完成するのが、享保3年(1718)頃である。そして翌年享保4年、密貿易の一大拠点だった坊津に「享保の唐物崩れ」と呼ばれる大事件が起こった。これは密貿易の大規模摘発事件である。これまでは民間の密貿易は黙認の状態にあったと見られる。しかしこの大規模摘発によって坊津で行われていた民間の密貿易は潰滅させられ、伝説では坊津は一夜にして寒村と化し、残ったのは婦女ばかりだったという。

この大規模摘発は、直接には幕府の密貿易対策に応える形で行われた。時の幕府では新井白石が「海舶互市新例」(正徳5年(1715))を定めて貿易制限を打ち出し、密貿易を徹底的に摘発する姿勢を見せていた。こうなると薩摩藩としても民間の密貿易を野放しにすることはできない。しかも先述の通り薩摩藩は中国に対しても琉球から薩摩船の存在を消し去らねばならないという事情があり、結果的に坊津の密貿易を潰滅させるという決断に至ったものと思われる。こうして、薩摩藩の海外貿易は、山川港における藩直轄の官営密貿易に一本化されることとなった。

なお「享保の唐物崩れ」は史料上には直接の証拠がないが、「坊村ノ内本坊下浜商漁姓氏録」という史料を見ると、享保を境として坊には海商の名が見えなくなるので、少なくとも坊の浦の民間貿易が大きな規制を受けたのは事実と考えられる。

ところが、である。

不思議なことに、秋目の墓地に残された墓石をつぶさに見てみると、古い墓石はあまりなく、享保あたりから急に高級で手の込んだ墓石が建立されているのである。明らかに、秋目は享保の頃から活況を迎えている。これはどういうことか。

答えは一つしかない。坊の港の密貿易が潰滅させられて、密貿易は「秋目」に移ったのである。

密貿易の一番の中心だったと思われる坊の浦には、坊津街道(薩摩街道)も通っており、表立って違法な貿易を行うにはあまりにも目立ちすぎた。一方秋目は、文字通り「陸の孤島」である。秋目からは隣の「久志」にすら明治時代まで道は通っていなかった。同じ「久志秋目郷」なのにもかかわらず。孤立した立地は、幕府の目、藩の目を避けるにはぴったりなのだ。

この、秋目に移ってからの密貿易は、それまでの密貿易とは性格が違った。それまでの密貿易は、確かに幕府には秘密だった。一方薩摩藩はこれを厳しく取り締まっていたわけではなかったので、藩に対してはあまり気を遣う必要はなかったと思われる。だが「享保の唐物崩れ」以降の民間の密貿易は、幕府と薩摩藩の両方に対して秘密にしなくてはならなかった。この二重の秘密貿易をここでは仮に「闇貿易」と呼ぼう。

この「闇貿易」こそが、おそらく秋目が「貧乏で疲れた郷」を装っていた理由なのである。石高の低い秋目にたくさんの富があれば、貿易で儲かっていることがバレてしまうからだ。そのため秋目の人たちは表立って富を誇示することはなく、少なくとも帳面上は貧乏であるように見せかけ続けた。

だが、今も残る豪華な墓石から判断すれば、享保以降の100年程度の間、秋目は空前の繁栄を享受した。ひょっとすると、瞬間的にはかつての坊の浦以上の繁栄だったのかもしれない。しかし坊の一乗院が度外れた貴重品を集積したようには、秋目には富の痕跡がない。墓石から判断する限り非常に裕福だったにもかかわらず、それを窺えるものは秋目にはそれほど多く残っていない。それが、闇貿易による隠さなければならない繁栄だったからだろう。それでも坂本家が坊津諸港の中で唯一残った漢方医屋敷だというのは偶然ではなく、秋目が「享保の唐物崩れ」以降にも貿易で賑わっていたことの傍証のように思える。

そもそも漢方医の存在自体が、貿易の存在を前提とする。漢方薬の原料は日本では採れないからだ。おそらく、秋目は闇貿易によって漢方薬を安く大量に入手し、それを富山の薬売りたち(「薩摩組」という富山の薬商が藩許を得て出入りしていた)へ売りさばいていたに違いない。

享保以降の闇貿易のことは、私の推測であって、これまでの研究では言われていないことである。秋目の墓石をもっと詳細に調査すれば、ちゃんと裏付けが取れるかも知れない。秋目の墓地は度重なる墓地整備(特に国道226号の拡幅工事の際の整理と鑑真記念館の建設)によって本来の墓域の数分の一に縮小されているので、 実は享保以前の墓石もたくさんあったのにそれが失われたという可能性もある。公的機関による詳細な調査が望まれる。

とはいえ、少なくとも秋目が貿易によって享保以降に活況を迎えたことは揺るがしがたい事実である。にもかかわらず、「秋目は貧乏で疲れた郷」だと自称していたというのは、その貿易が公にできないものだったから、以外には考えづらいのである。

(つづく)

【参考】正法寺|薩摩旧跡巡礼
http://nicool0813.blog.fc2.com/blog-entry-340.html
秋目の豪華な墓塔についてレポートしています。

【参考文献】
『海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
「坊津一乗院の成立について」2005年、栗林文夫
『鹿児島県の歴史』1973年、原口虎雄

2020年1月23日木曜日

共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)

(「いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか」からの続き)

大浦のメインストリートを、木連口(きれんくち)通りという。

南北に延びる、700mほどの通りである。今でも、役場、銀行、役場、郵便局、スーパー、農協、ガソリンスタンドなどが並びメインストリートとしての名目は保っているが、まあ有り体に言ってシャッター通りになってしまっている。

しかしこの通りが最も賑やかだった昭和20年代は、たくさんのお店や家がこの通りを埋め尽くしていた。年末の歳の市になると、すれ違うこともできないほどの人でごった返したという。大浦干拓が完成した昭和40年代にも多くの店が軒を連ねており、この700mに電器店だけで4店もあった。理容・美容室に至ってはなんと11店も(!)あったのである。美容室が犇めく東京・南青山でもそれほどの美容室の密度はないかもしれない。

かつての大浦の絶望的な貧しさを考えると、理容・美容室がとんでもない密度で存在していたことが不思議なくらいである。既に述べたように、昭和60年代になっても大浦町民の平均所得は全国平均の半分、鹿児島県の平均の70%しかなく、全国でも有数の貧乏地帯だったのだから。にも関わらず、木連口通りが活気に溢れていたことも同様に事実だった。

東南アジアや南米などを旅してきた人は、この貧しさと活気の両立を別段不思議とも思わないかもしれない。統計で見れば極貧の地域で最低の生活を余儀なくされているボロ屋街の人々が、実にアッケラカンとしてせせこましくなく、通りは活気があって人々は元気だということがたくさんあるのだから。いや、そういう地域の貧乏な人たちの方が、立派な企業に勤める高級住宅街の人達よりもずっと生き生きして人生を謳歌しているように見えることもしばしばだ。

だから過去の大浦が、全国有数の貧乏な町であったことと、木連口通りに活気があったことは矛盾しない。ポケットにはお金はなかったが、みんな若く無鉄砲で、将来の心配などせずその日暮らしをしていた。事業計画書などなしに新しい商売を筵(むしろ)一枚で始め、うまくいかなければさっさと辞めた。通りには入れ替わり立ち替わり新しい商売が生まれ、消えていった。大浦だけでなく、日本中がそういう時代だった。

——どうして、この活気が失われてしまったのだろう。

ここに掲載したのは、1955〜1995年の大浦町の人口・世帯数・高齢化率のグラフである。

1955年(昭和30年)には7500人以上いた人口が、30年後の1985年には約半数の3700人あまりに減ってしまった。この人口減少は、若者が町を去ったために起こったので、高齢化率は逆に10%未満から30%以上へと急上昇した。通りから活気が失われた直接の原因は、この高齢化である。

これは日本の農村に共通した傾向ではあった。産業の中心が農業を中心とした第一次産業から製造業など第二次産業へとシフトし、農村の若者たちは「金の卵」と言われて集団就職で上京していった。だが大浦のように変化が急激だったのも珍しい。だからこそ大浦町は鹿児島県で第1位の高齢化自治体になったのである。

なぜ大浦の人口減少はかくまでに急激だったか。

干拓事業やそれに続く基盤整備事業、そして農業の大規模化・機械化といった意欲的な動きがあったにも関わらず、同じ時期に人口が急減しているのは傍目には不可解だ。しかし実はこれらの動きは連動していたのである。

というのは、農業の大規模化・機械化が急速に進んだ原因は、人々の意欲だけではなかった。むしろ人口減少への対応という側面もかなり存在したのである。例えば、昔の田植えというのは、一族総出で行われなくてはならない一大行事だった。ところが若手がどんどん都会へ出て行ってしまうと、十分な人手が集まらなくなる。そうなると機械で田植えをしなければしょうがない。ある意味では、人々はやむにやまれず機械化に進んだのである。

そして、農地の規模拡大はより人口減少と関わっていた。既に述べたように、干拓以前の大浦の農家の平均的な規模は30aほどだったが干拓地では3haと10倍になり、その他の地域でも徐々に規模が拡大していった。ということは、農地の総面積はそれほど変わらない以上、農地の規模が10倍に増えることは、農家数は10分の1に減ることを意味する。

これは、零細農家が競争に負けて廃業していった、ということではない。後継者のいない農家が自主的に廃業していった結果であり、農業の近代化がそれについていけない零細農家を淘汰したわけではなかった。むしろ、この時期の大浦の農業に機械化・大規模化のトレンドがあったことは、そうした廃業農家の耕作地がスムーズに集積され、荒廃せずに済んだというプラスの面が大きかった。

しかし農業の大規模化・機械化が進めば進むほど、人口減少が加速していったこともまた疑い得ない。今まで5人必要だった作業が、機械の力を借りて2人でできるようになる。今まで10人の人手で耕した田んぼが、トラクターでは1人で耕せる。このように省力化が進んでいくと、同じ農業を続けて行こうにも、自然と人間があぶれて行ってしまう。

若者は、ぼーっとしているように見えても、こういう趨勢に極めて敏感である。「自分はいずれ、ここにいなくてもよい人間になる」、うすうすでもそう感じれば、自然と外に目が向くのが若者だ。逆に言えば、この時期に農業の大規模化や機械化のトレンドがなく、相変わらず人手に頼った農業をしていれば、ある程度の若者はイヤイヤながらでも大浦に踏みとどまったかも知れない。「自分がいなければこの家はやっていけない」と思えば責任感から人生を選択する人はけっこう多い。

しかし実際には、大浦の農業は急速に近代化しつつあり、人手に頼らなくてもすむ形へと変わっていった。人口減少の流れがある以上、そういう形に変えて行かざるを得なかったからだ。農業の大規模化・機械化は人口減少の原因ではなかったが、それを助長する要因ではあった。

農地の大規模化・機械化・人口減少は「共鳴」し合いながら加速していったのである。この共鳴する加速関係があったことが、大浦が鹿児島県で第1位の高齢化自治体になるほど急激な人口減少がおこった理由であった。

このように書くと、町の発展のために行われた干拓事業や基盤整備事業、そして個々の農家の大規模化の努力が裏目に出たかのように感じる人がいるかもしれない。仮にそうした動きがなく、人々が狭い耕地で人手に頼った昔ながらの農業をしていれば、急激な人口減少は避けられたのかもしれない。事実、大浦よりももっと僻地の山村で意外と人口が維持されたケースはあった。でもそれは長期的に見れば、静かに廃村へ歩んでいくことにほかならなかった。基盤整備をしない狭い田んぼばかりの土地は、いずれ耕作が不可能になることは明らかだからだ。牛や馬で耕す人は今や誰もいない。

だから大浦が早い時期に農業の近代化に取り組んだことは、急激な人口減少という痛みはあったものの、長期的に見れば町の発展に寄与したのである。今でも大浦は耕作率が高く、主要な水田にはほとんど耕作放棄地がない。それに町にとっては人口減少は痛みだったかもしれないが、出ていった若者を見てみれば、大浦で農業をするよりもずっと実入りのいい仕事に就いた人が多かった。やりたいことができずに農業をやらされるより、都会に出て行くことができたのはよい面もあった。

もちろん、本当なら生まれ故郷を離れたくなかった、という若者もたくさんいただろう。そうした若者に町内でよい就職口を準備できなかったのは残念なことだ。だが当時の人達に何ができただろう。農業の生産性を上げる、というのが純農村地帯であった大浦にとって唯一にして最大の経済政策だったことは間違いない。 結果的に激しい人口減少を招いたのはわずかばかりの皮肉だったとしても、大浦の農業を持続可能なものに変革した功績は計り知れない。

大浦は、時代に取り残された遅れた地域だったから人口減少したのではない。

逆だ。時代を先取りし、他の地域に先立って農業の大規模化・機械化が進んだために、人口減少や高齢化をも先取りしてしまったということなのだ。それが、同時期に過疎が進んだ他の農山村との際だった違いだったと私は思う。

でもそれにしても、いや、そうであればこそ、近代的な農村に生まれ変わった大浦のメインストリートが、やはりシャッター通りになっていったことの意味を問わなければならない。大浦が遅れた地域だったのであれば、木連口通りが衰退した理由は簡単だ。しかし大浦は農業の近代化によって「稼げる地域」になっていったはずなのだ。人口減少があるにしても、もはや昔のような極貧の地域ではなくなっていた。それなのに商店街が寂れていったのはどういうわけだったのか。

(つづく)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎 

2020年1月17日金曜日

いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか——大浦町の人口減少(その3)

大浦からよその地域の農業を見てみると、機械化の遅れに驚くことがある。

例えば、鹿児島市内の近郊でも、未だに結構お米の天日干しがされている。そして田んぼの形は山の地形に沿ってぐにゃりと曲がっていたりする。そういうところの農業は傍目にはのどかで美しいが、実際にやるのは大変で、ほとんどボランティア活動みたいな気持ちでないとできない。

一方、大浦ではお米の天日干しはほとんどない。収穫はほぼ100%コンバイン。コンバインでの稲刈りと乾燥機での乾燥は、バインダー収穫と天日干しに比べ数分の1の労力だ。一度コンバイン収穫に慣れてしまえば、天日干しにはもう戻れない。

私は大浦で就農した時、大浦は農業の機械化が進んでいるとは特に思っていなかった。しかし研修などで他の地域を訪れて農業の実態に触れてみると、「大浦って、小規模な農家も割と機械化が進んでいるよな」と思うようになった。

大浦では、干拓は別格としても、町内の主要な農地も整形された四角い田んぼが中心になっていて、大きな農業機械で合理的に耕作されている場所が多い。ちいさな耕耘機でえっちらおっちら田んぼを耕すようなやり方は、僻地の農山村だとそんなに珍しくないものだが、大浦ではそういうのは趣味的な農業を除いてほとんど存在しない。同程度の農山村と比べれば、大浦は明らかに農業の機械化先進地である。

——この機械化をもたらしたのは、大浦干拓の影響だろう。

広大な干拓地を耕作するためには機械化は必然だったが、それは干拓地以外の農業にも波及した。干拓で活躍する効率的な機械仕事を見せつけられ、山間部で農業をやっている人もこれからの農業は機械を使わなければできないことを痛感したのだ。

農家というのはだいたい保守的である。というより、耕作大系というのはいろいろな要素が絡み合っていて一部だけを変えることは難しいから、自然と前年踏襲的になるのである。だから、仮に便利な農業機械が開発されたとしても、それを積極的に導入する人は限られる。ところが、農家は隣の農家がやっていることはよく見ている。隣の農家が新しい機械によってうまい具合に作業を合理化したと見るや、それを導入するのにはあまり躊躇がない。右へ倣え主義というよりも、実証されたことはすぐ取り入れるのもまた農家である。

であるから、干拓地での機械導入は大浦全体の農家に高い機械化意欲をもたらした。第一線の大規模農家が巨大なトラクターを持っているのは当然としても、大浦の場合はそれに次ぐ規模の農家もけっこう大きなトラクターを導入していることが多い。これは、まず機械を高機能化させてから経営規模を拡大していく、というやり方が大浦でセオリー化したためではないかと思う。

そして機械化にはもう一つ大事な要素がある。圃場の基盤整備事業である。

「基盤整備事業」とは、ここでは「農地の区画整理」を指す。昔の田んぼは牛や馬で耕していたから、そこまでには牛馬が通るだけのあぜ道があればよく、また真四角である必要もなかった。ところがトラクターで耕耘するようになると、トラクターが田んぼまで行くための道が必要である。さらに、トラクターでは狭く不整形な田んぼは耕耘しづらいため、田んぼは広く真四角であることが望ましい。

だから、昔ながらの棚田のような田んぼを壊して、新たに真四角の規格化された広い田んぼに生まれ変わらせるのが基盤整備事業である。要するに農地の再造成だ。これをしないと機械化は思うように進められない。

ところが、この事業はなかなか進めるのが難しい。市街地の区画整理が遅々として進まないのと同じ理由である。新たに道を通すには、みんなが土地を供出しなければならないし、費用負担もある。広い農地を持つ人にとっては土地の生産性を向上させるが、狭い農地しかない人や機械化に関心がない人にとってはあまり旨味がない。しかも区画整理と一緒で、区域の全員が事業に賛成しないと実行出来ない。だから基盤整備事業は時代の要請であったにもかかわらず、多くの地域でそれほどスムーズには進まなかった。

だが大浦の場合、基盤整備事業が概ね順調に進んだ。それは、干拓地の大規模農業を目の当たりにし、機械化の意欲が高まっていたからだろう。機械化を進めるためには基盤整備事業が必要で、基盤整備が行われるとさらなる機械化が可能になる。機械化と基盤整備事業は、撚り合わされた糸のように進行していった。

その背景には、基盤整備事業に対する町役場の熱意があったのももちろんだ。近隣の自治体が観光施設とかレクリエーション施設といったハコモノを次々と建てていったときも、大浦町は地味な基盤整備事業に注力し続けた。

それから、基盤整備事業が積極的に実行されたことは、思わぬ(もしかしたら狙っていた面もあったのかもしれない)形で大浦干拓事業の帳尻を合わすことにもなった。 というのは、干拓地に入植した人たちには、干拓地の土地の購入や高額な機械の導入などによって、1000万円単位の借金を抱えた人も少なくなかったのである。最初、干拓地はただの砂浜だったから農地としては最も劣等であり、生産性も低かった。巨大な借金を返していく現金収入はすぐには得られなかった。

そこでそうした人達は、昼間は基盤整備事業の土方で働き、夕方から農業に従事するというダブルワークで借金を返済したのであった。こういう事情もあったからか、大浦では基盤整備事業は積極的に進められ、一時期は町の経済のかなりの部分が基盤整備事業という公共事業で支えられていたくらいである。

それはともかく、農家の機械化への意欲、役場の積極的な事業推進などによって、平成に入ってからの基盤整備事業は着々と進み、大浦の主要農地は全て事業を完了し、整形された広い四角い圃場が並ぶことになったのである。こういう地域は鹿児島では珍しいと思う。

その上、そうした大規模事業の対象は水田だけに留まらなかった。茶園や大規模養鶏団地の造成といったことが、県や国の補助を活用して矢継ぎ早に推進された。大浦は、干拓をきっかけとして構造改善事業(農業の基盤を造成していく事業)に非常に前向きな地域となり、こうした事業が華やかに行われていた時は連日のように県の役人が大浦を訪れ、遊浜館(大浦の旅館)が賑わっていたのである。

こうして、戦前から平成にかけて、大浦の農業はすっかり近代的な形へと生まれ変わった。干拓地だけでなく、大浦町の全域で圃場は効率的な形に整備され、人々は最新式の機械を導入していた。

このように書くと、かつての大浦町が意欲的で活気のある場所だったと思うかも知れない。だが、その動きの裏で、急激な人口減少とそれに伴う高齢化は非情にも続いていた。まるで大浦の農業を発展させようとする努力など存在していないかのように。

(つづく)

【参考文献】
「大浦干拓事業と笠沙町・大浦町の農業経済」2002年、西村 富明
「過疎化,高齢化の構図:再考〜笠沙町,大浦町の現状から」2002年、高嶺 欽一
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎

2019年12月6日金曜日

大浦干拓という大事業——大浦町の人口減少(その2)

(「大浦町とコルビュジェの理想の農村 」からのつづき)

大浦町は、干拓の町である。

国道226号線を加世田から走ってくると、越路浜を過ぎて田園の中を突っ切る真っ直ぐな道路になり、そこの何もない交差点を南に曲がるとこれまた1.6kmもの一直線の道になる。両側は真っ平らの田んぼ。これが大浦町に入る道である。

私にとって大浦町の第一印象は、この、どこまでもまっすぐな、滑走路のような道だった。

大浦にはかつて、勾配1000分の1とも1500分の1ともいう遠浅の干潟「大浦潟」が広がっていた。1メートル下がるのに、1.5kmも進まないといけないという低勾配である。大浦の山間部にはそれほど広い耕地はないから、ここを干拓して広い畑や田んぼに変えれば、非常に生産力をアップすることができる。

そんなことから、藩政時代から大浦潟は干拓事業の対象となり、小さな入り江を利用した10町歩(10ha)程度の干拓事業が散発的に行われていた。そして昭和15年、日中戦争による食糧難の中、遂にこの広大な湾内の潟を全て田んぼに変えてしまおうという大事業が立案される。

当時、国は食糧増産のため「農地開発営団」を設置して農地の開拓を進めようとしていた。大浦干拓の事業はこの機運に乗り、農林省に直談判して国の事業として認められる。そして昭和18年、農地開発営団の事業として大浦潟の干拓が起工された。

「国の事業」といっても、太平洋戦争がたけなわになった頃であり、国の予算も潤沢ではなかった。大規模な干拓事業にはたくさんのガソリンが必要になるので農林省としては難色を示し、計画が承認された直後に早くも頓挫しかけたほどだ。しかし当時の唐仁原町長は「私の処はガソリンは要りません。荷車で現場まで運びます」と主張し応諾させたのだった。

ところが戦時中は地元の若い人間は戦争に徴発されて不在が多かったため、結局、青壮年団、青年学校、婦人会、果ては小学生までが奉仕作業に動員されることとなった。

終戦後、農地開発営団は廃止されたが、大浦干拓は農林省直営事業に移管されて続けられた。とはいうものの終戦後のモノも金もない時代、かなりの苦労があった模様である。物資と燃料の不足に悩まされ、作りかけの潮留め(堤防)はたびたび台風で破壊された。モッコを担いで土を運んだ、というような話を私自身も聞いた事がある。集落ごとに「特別労務班」が編成されて仕事にあたったという。

こうして昭和22年、大浦干拓第一工区の潮留めが完成。これが冒頭に触れた滑走路のような直線道路があるところ、概ね国道226号線の南側の地区である(正確には現在「恋島コンクリート」があるところより南側の区域)。潮留めが完成してからは、砂浜だったところを畑にしていく困難が待っていた。最初のうちは作物がうまく育たず、干拓地ができてからも苦労は続いたのである。

さらに昭和25年からは、その北側にあたる大浦干拓第二工区が起工し、昭和34年に完成。こうして第一工区174.5ha、第二工区161.8ha、合計336haもの大干拓が完成したのである(その後干拓地内の田畑の造成工事が行われ、完工したのは昭和40年)。

鹿児島県内で干拓というと出水干拓が有名で、昭和22年から40年という大浦干拓とほぼ同時期に同じく農林省直轄事業として造成されているが、西工区(90ha)、東工区(230ha)合わせて約320haであり、大浦干拓の規模には僅かに及ばない。出水干拓は江戸時代から行われた干拓地の集成であるため全体では1500haにもなるが、一事業としては大浦干拓の336haは鹿児島県では最大の干拓事業だった。

この大干拓の完成によって、大浦は「乳と蜜の流れる地」になるはずだった。戦前戦後の厳しい時代、奉仕作業でモッコを担いで土を運んだ人達も、「子どもたちには美味しいお米をお腹いっぱい食べさせたい」という一念だったという。そういう作業の合間に歌われたのに「大浦干拓の唄」(関 信義作詞)がある。その4番の歌詞はこういうものだ。

広い砂浜 大浦潟の
 工事 竣功(おわり)の暁にゃ
黄金(こがね)花咲く 五穀が稔る
 大浦干拓 平和の源泉(もと)よ

戦前までの大浦は、「走り新茶」という特産品はあったものの耕地が狭いため農業の規模が小さく、また人口が多かったので貧困に苦しんでいた。人々は、大浦の将来の発展を干拓に託したのだった。

それは、成功したように見えた。広大な干拓地には、次々と地元の人間が入植した。それまでは3反(30a)あれば平均的な農家だったのに、干拓地ではその規模が10倍にもなった。大浦の山間部では田んぼ1枚は5aもないところが多かったが、干拓では田んぼ1枚が1ha(=100a)あった。

アメリカやヨーロッパのような、大規模農業が大浦で取り組まれた。こうした広い面積を相手にするには、どうしても機械化が必要である。牛で耕しているわけにはいかない。人々は耕耘機を使うようになった。今では1haもある田んぼを(トラクターではなく)耕耘機で耕すのは気が遠くなるが、当時としては画期的だった。

まさに今、農水省が進めている「大規模化・省力化」の農業が、50年も前にこの大浦町で先進的に行われるようになったのである。

近隣の町の農家は、広大な大浦干拓を羨ましく見ていた。山間の狭小な田んぼを牛で耕すのとは効率が全く違ったからだ。一直線の道と整然と区画された田んぼは、コルビュジェが考えていたような合理的な町と村、そして新しい時代の理想の農業を象徴していた。

だが大浦干拓が完成したその時、既に大浦の人口減少は始まっており、その後も歯止めはきかなかった。もちろんその後の人口減少には高度経済成長という背景もあった。農業よりも製造業が花形産業になっていったからだ。でもそれは県内の他の農村でも同じだった。

だから理想の農村となったはずの大浦町が、鹿児島県内1位の高齢化自治体になっていったのは奇異とせざるを得ない。

発展が約束された土地を、なぜ人々は離れていったのか。

(つづく)

【参考文献】
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2019年8月10日土曜日

大浦町とコルビュジェの理想の農村——大浦町の人口減少(その1)

ここに、農村の地域計画の理想図がある。巨匠ル・コルビュジェが構想したものだ。

この農村のどこが理想的なのかというと、図の左端「1 国道または県道」が農村の中心部から遠く隔たっている、ということだ。

コルビュジェは、建築家としてのキャリアをスタートさせた当初から交通の問題を重視していたらしい。効率的な経済活動のためにはスムーズな交通が必要なのに、街の中心部には人家が密集するため交通が麻痺しがちだという矛盾をどう解消するか、また自動車が増えてくるにつれ、人々が安全かつ気持ちよく散歩することはできなくなる、というような問題意識から、コルビュジェは道路を役割ごとに分ける構想を抱いた。

といっても話は簡単で、高速交通を担う幹線道路、生活道路、歩道などを別々の道として通し、特に街の中心部を幹線道路が突っ切らないようにする、という都市計画を提案したのである。

日本だけでなくヨーロッパでも、街や村は街道沿いに栄えるものである。街道は街の中心であり、購買や人々の交流が盛んに行われていた。しかし自動車時代になると、古くからの街道は国道や県道としてたくさんの自動車が行き交うようになった。こうなると、街は中心を突っ切る幹線道路によって分断され、最も中心となるべき場所の活気が失われてしまう。

…とコルビュジェは考えたが、日本の現状からするとその考えはそっくり鵜呑みにするわけにはいかない。地方都市に行くと、ショッピングセンターやレストランや文化ホールがあるのはやはり国道沿いであって、そこはやはり活気の中心だからだ。

しかし同時に、自動車移動が中心の地方都市においては、その最も活気があるはずの区画に、ほとんど人が歩いていないということは、コルビュジェの危惧が全くの杞憂ではなかったことを示しているのである。

ところで、初めてこのコルビュジェの理想図を見た時、驚いた。というのは、この理想図が、私の住む大浦町の様子とソックリだったからなのだ。

Googleマップで見てみてもわかりづらいから、ちょっと簡単な図を書いてみたが、大浦町の様子はこのようになっている。

北の方に国道226号線が通っていて、街の中心はそこから奥まったところにあるのがポイントだ。これがまさにコルビュジェの理想図の通りなのである。

さらにそれだけでなく、農協や農産物の集荷施設、郵便局や学校の位置関係なども、あの理想図にかなり似通っている。まあこれらの施設の配置はどこの街も似たようなものだから措くとしても、かなりの程度、大浦町がコルビュジェの理想図を現実化した街だということは言えるだろう。

コルビュジェは、あの理想図を実際の街を観察した結果として描いたのではなくて、理論的に導き出した。ところが大浦町は図らずしてその理想を現実化していた。大浦町は、コルビュジェの構想の妥当性を検証する材料のひとつだと言える。

では大浦町は理想の農村と言えるのか? 答えはノーだろう。ここは昭和30年代から既に過疎化が進行し、全国で最も早く高齢化が進んだ地域のひとつである。例えば昭和60年の国勢調査では、鹿児島県の高齢化率(老年人口比率)が14.2%で全国3位であったが、その中でも大浦町は28.8%と鹿児島県全体の2倍もの比率(!)であり、県内第1位の高齢化自治体だったのである。

この頃は少子化ということは関係なかった時代で、この高齢化率の高さは人口流出のもたらしたものだ。この背景には大浦町の貧しさがあった。当時(昭和62年)の町民所得は全国平均のほぼ50%に過ぎない年収100万円ほどで、全国有数の貧乏自治体だった。それであるからどんどん若者は都市部へ出て行き、昭和30年に約7500人いた人口が昭和60年には約半分の約3800人に減少した。貧乏で、人がどんどん去っていった地域、それが大浦町だった。それが理想の農村とは、とても呼べないだろう。

コルビュジェの理想を現実化していた街は、コルビュジェが考えていた通りには発展せず、むしろ衰退していった。だが正確を期するなら、ここでひとつ付け加えなければならないことがある。実は元来、大浦町の国道は現在のように街の中心部から離れて通っていなかった。昔は普通の街と同じように、幹線道路が街の中心部を通っていたのである。

後に国道となる幹線道路が遠ざかっていったのは、戦前戦後を通じて推し進められた干拓事業によってであった。図では斜線で示したのが干拓地で、当然ここは元々は海だった。元来の幹線道路は海沿いを走る道で、その道沿いに大浦町の中心部もあった。ところが干拓事業によって海岸線が遠ざかり、それに応じる形で幹線道路も海沿いを走るように路線変更された。こうしてコルビュジェの理想図の通りの街が出来上がったのである。大体昭和40年代の頃と思われる。

大浦町は、コルビュジェの理想の農村となったにも関わらず、その後もどんどん衰退していった。東京や大阪に住む人からしてみれば、こんな日本の端っこの交通の便の悪いところが衰退するのはごく自然なことと思うだろう。でも実際は、大浦町はさほど山深い村ではなく、むしろ地形的には開けた方だし、近場の地方都市(加世田)への距離もそれほど遠くない。むしろ利便性のよい農村なのである。

先日南大隅町(大隅半島の南の端っこ)に行ったのだが、ここは非常に山深く、地形も険しいところで、さらに市街地からの距離もかなり遠い。正直「よくこんなところに人が住んでいるなあ!」と思ったくらいだった。でも昭和60年の時点では、大浦町はここよりもさらに高齢化した地域だったのである。

コルビュジェの理想の農村を具現化した街であり、さらに利便性もよい開けた場所であったにもかかわらず、なぜ大浦町は全国に先駆けて高齢化していったのか。

少し考えてみたい。

(つづく)

【参考文献】
『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/08/f.html
ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書
過疎化と高齢者の生活—老年人口比率33.1%の鹿児島県大浦町—」1990年、染谷俶子