2019年5月20日月曜日

「制度の趣旨を逸脱」をめぐる総務省と自治体の「ふるさと納税」合戦

「ふるさと納税」の新基準に合致しない、ということで、鹿児島県では鹿児島市と南さつま市の税制優遇が9月で切られる、との新聞報道があった(全国では43自治体)。

総務省によれば「不適切な寄附集めをしていた」というのだ。南さつま市が不適切とされたのは、返礼率(総務省の用語では「還元率」)は3割以下でないといけないのに、業者に「奨励費」の形でキックバックし、実質返礼率をそれより上乗せしていたから、とされた。

この報道を見て、「ルールを逸脱して寄附をたくさん集めた南さつま市、けしからん!」と思った人もいるかもしれない。

しかし、ちょっと待って欲しい。私も「ふるさと納税」の返礼品を提供している事業者の一員である。内部から見た姿と報道された姿では大きな違いがある。行政からは反論しづらいところだと思うので、微力であるがちょっと思うところを述べてみたいと思う。

そもそも「ふるさと納税」が始まった2008年、今から約10年前には、これは地味な制度だった。寄附額も低調で、さほど注目もされていなかった。だが自治体が返礼品を充実させることにより次第にマーケットが巨大化していく。

「ふるさと納税」は、あくまでも自治体への寄附により税額が控除される制度であって、返礼品はオマケである。

でも、実質的には税学控除分でオマケを購入できることと意味は同じだから、「ふるさと納税」はEC市場(ネットショッピング市場)では、自治体が運営するディスカウントストアというような意味合いになってしまった。

こうして自治体には「ふるさと納税」のディスカウント合戦が湧き起こった。ある自治体などは、「返礼率は100%でもいい! 全部寄付者に還元するんだ!」というような極端なディスカウントをやるところも出てきた。

「寄附額を全額返礼品にまわしたら、自治体の手元にはお金が残らないわけだから、事務の手間がかかる分、損では?」と思う人もいるだろう。しかし自治体が集めたいのはお金ではなかった。「ふるさと納税」をきっかけにしてその地域のことを知ってもらい、ファンになってもらい、そして商品の愛用者になってもらうことが真の目的だったのである。

例えば南さつま市の地元企業は、全国に販路を持っているところは僅かであり、地方的な、地味な商売をしているところが多い。ところが「ふるさと納税」の波に乗れば、別段「ふるさと」を意識していなくても、美味しい肉や魚を安くで手に入れたい人がどんどん注目してくれるわけで、事業者はお金を掛けずにインターネットで全国に広報できるわけだ。そして返礼品を受け取った人の何割かは、今度は「ふるさと納税」と関係なく、その商品を買ってくれるお客さんになってくれるのである。

実際、私もポンカンを「ふるさと納税」の返礼品として出品したが、返礼品を受け取った方が次に普通の注文をくれたということが何件かある。

「ふるさと納税」なんていう制度が長続きするものではない、ということは明らかだから、存続している何年かの間に、地元企業のいくつかが全国にファンをつくり、販路を開き、拡大していくチャンスにできるなら、自治体の手元にさほどお金が残らなくったって、長期的に見れば十分おつりがくるのである。

2015年、2016年にふるさと納税日本一になった都城市は、まさにそういう考えから高い返礼率を設定するとともに、「日本一の肉と焼酎」に特化してアピールを行い、全国的にほぼ無名だった都城を一躍全国が注目する地域へ変えた。例えば2018年度の都城市は95億円もの「ふるさと納税」を集めているが、都城市の返礼率は55%程度と言われているから、地元企業の商品が52億円分売れた、というのと同じことなのだ。地方都市にとって、これはたいした経済効果と言わなければならない。

そしてより重要なことは、仮に「ふるさと納税」の制度が明日終了したとしても、都城市のお肉や焼酎を味わってくれた大勢の人たちは消えてしまうことはない、ということだ。きっとその何割かは、ディスカウント期間が終わったとしてもその商品の愛用者になってくれる。

「ふるさと納税」は、政策立案者が考えてもみなかったこうした効果の方がずっと大きかった。何億円寄付を集めた、ということよりも、オマケだったはずの返礼品によってお金以上の「繋がり」を構築できるかの方が重要になってきた。

ところがこれは表面上、「加熱する返礼品競争」と捉えられた。ディスカウント合戦だとみなされたのである。もちろん、寄附を集めたいがためにそういうエグい競争をした自治体はあった。でも多くの真面目な自治体は、「ふるさと納税」のプラットフォームを使って地元企業をEC市場に参入させ、全国に売り込んでいくためにこの機会を利用したのである。

しかし2017年4月、総務省は「本来の趣旨を逸脱している」として返礼率を3割以下にするよう自治体に通知。これを受けて南さつま市は、2017年9月、正直に返礼率を3割に見直した。

一方で、この通知を無視した自治体も多かった。というのは、通知があっただけで違反の罰則がなく、法的な拘束力がなかったのである。そもそも返礼率3割がなぜ適正かという論理的な根拠もなかった。なぜ返礼率が高いというだけで問題なのか、「競争が過熱している」というが、競争することがなぜ悪いのか、そういう観点は総務省通知には全くなかった。

確かに、「ふるさと納税」は金持ち優遇政策の一つである。金持ちほど得をする制度は、公共の仕組みとしてはあまり褒められたものではない。だがそれをいうなら、太陽光発電の補助金や売電価格保証だってそうだし、エコカー減税だって住宅ローン減税だってそうだ。貧乏人には縁のない、金持ち優遇政策である。なぜ「ふるさと納税」だけが狙い撃ちされなければならないのか、そこは謎だった。

だから多くの自治体が総務省通知を無視して高い返礼率を維持した。そこで馬鹿正直に返礼率を3割に低下させた南さつま市は、大幅な寄附減額に見舞われた。文字通り、正直者が馬鹿を見たのである。

これを受けて、南さつま市では2018年9月、返礼率は3割に維持したままで、「サービス向上費」として業者に15%キックバックする制度を始めた。総務省通知では、あくまでも寄付者への返礼率だけが問題で、自治体が事業者に補助することは何も言っていなかったからである。このようにして南さつま市は、返礼率は3割のままで、実質は寄付者に45%還元する仕組みにした。またこれに合わせて、ふるさとの納税事業者(返礼品を提供する事業者)によって組合(ふるさと納税振興協議会)を作り、より積極的に広報やキャンペーンなどに取り組んでいけるようにした。

ところがこの組合が設立された数日後、総務省は通知が十分な効力を持たなかったのを見て、都城市を名指しで批判し、高額な返礼品を送る自治体を制度から除外する方針を打ち出した。

あわせて10月、返礼率の全国調査が行われた。南さつま市では、別に悪いことはしていないということで、実質45%還元していることを回答。しかし全国で3割を越えたと回答したのはたったの25自治体に留まった。しかし返礼品競争が過熱していたのは事実だ(だから総務省は調査を行った)。多くの自治体では、はっきり言えばチョロマカシによって3割以内だと回答したのである。ここで、堂々と真実を報告した南さつま市を私は誇りに思う。

一方総務省は、多くの自治体が返礼率をチョロマカし、制度の趣旨に逸脱する競争が行われていると見て、2019年6月をもって、ふるさと納税の対象自治体を指定する新制度に移行することとした。南さつま市は上述の通り馬鹿正直に真実を報告していたため、暫定的に2019年9月まではこの指定を受けたが、他の自治体に比べ1年短い指定であった。要するに、6月〜9月の3ヶ月は暫定的に指定してやるから、その3ヶ月の間に返礼率を見直しなさい、というのである。なお、南さつま市は2019年3月に制度を見直し、返礼率を既に3割に低下させているから、おそらく来る9月には再指定を受けることができると思う。

さて、これまでの経過を見てみて、「ふるさと納税」をめぐる総務省の対応は極めてマズかったと言わざるを得ない。

「ふるさと納税」の自治体間競争が過熱したのの、どこに問題があったのか、そこを深く考えず、競争を抑制しようとしたのがいけなかった。そもそも「ふるさと納税」に限らず、政府は自治体間に競争の原理を持ち込もうとしてきたのが最近の流れだった。にも関わらず、実際に自治体間の競争が起きると、「競争が過熱」「制度の趣旨を逸脱している」などといい始めたのである。

そして「制度の趣旨を逸脱している」というのは、そもそもの制度設計が悪いことを自ら露呈しているようなものである。趣旨を逸脱して使える制度、というものがそもそも悪い。総務省は、制度設計が甘かったことを棚に上げて、自分の思うとおり動かない自治体にやきもきしているように見えた。だが10年前、制度の趣旨の通りに運用されていた「ふるさと納税」は寄附額も小さく、地味な目立たない制度だった。それがここまで盛り上がったのは、まさに「制度の趣旨を逸脱」したからであって、逸脱がなければ「ふるさと納税」などほとんどの人が顧みない失敗政策だっただろう。

だいたい、元来は地方の活性化政策だったはずの「ふるさと納税」なのに、実際に自治体が活性化に役立て、総務省の思惑を越えて意義深く活用したら、「制度の趣旨を逸脱している」としてそれに掣肘を加えるというのは、誰のためにやっている政策なのかわからない。「よくぞ我々の思惑を越えて、地方の活性化に役立ててくれました」と褒めてもいいくらいではないのか。総務省は「制度の趣旨」を守らせること自体が目的化しているように見える。

先日、南さつま市役所からふるさと納税事業者向けにお知らせがあった。そこには「再指定に向けても堂々と取組んで参る所存であります、皆様のご協力どうぞよろしくお願い致します」とあった。「堂々と」とわざわざ書いたのが奮っている!

無様なチョロマカシをせず、堂々と「ふるさと納税」に取り組んだ南さつま市は立派だったし、これからも堂々と取り組んで欲しいと思う。

でもチョロマカシをした自治体よりももっと無様だったのは、総務省の方だと思えてならない。

2019年5月4日土曜日

神武天皇聖蹟を巡る鹿児島と宮崎の争い——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(追補)

2017年の8月から、2019年の1月まで約1年半かけて、このブログで「なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?」という連載記事を20回に渡って掲載した。

だが、執筆構想にありながら敢えて書いていなかったことがある。「皇紀2600年事業」のことについてだ。これはこれで1つの独立したテーマなので、機会を改めて別にまとめようと思っていたのだ。

しかし、改めて20回のブログ記事を見直してみて、神代三陵の扱いが最高潮となったこの事業のことに触れないのは、いかにも画竜点睛を欠くというか、収まりが悪い気がしてきた。そこで、この連載記事はあまり人気がなかったことは十分自覚しているが、追補として「皇紀2600年事業」について書いてみたい。

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昭和15年(1940年)は、皇紀2600年に当たっていた。

皇紀、というのは、神武天皇の即位した年(西暦紀元前660年)を基準とする紀年法である。これは『日本書記』の記載に基づくものだったが、既に述べたようにこの年代はかつて国学者たちによってさえ疑問視されており、歴史的事実に基づいて定められたものではない。そういう疑問が国民にあったからなのかどうかはわからないが、皇紀は、明治政府が太陽暦を導入した明治5年(1872年)に導入されていたものの、日常の暦は元号のみで済ませ、皇紀は特別な場合にしか使われていなかった。それが昭和に入ると次第に多用されるようになっていく。日本を特別な国と見なす国家主義的な考えが瀰漫していくと同時にだ。

その極点とも言えるのが、「紀元二千六百年記念行事」であった。

紀元二千六百年記念行事は、式典や様々なイベントと記念事業で構成される国家的な祝祭行事である。これは長期化していた日中戦争による停滞感を一時でも吹き飛ばし、国威を発揚することによって戦争への国家総動員体制を構築する画期となった。この記念行事の幕開けとなったのが昭和15年2月11日の紀元節(神武天皇が即位したと言われる日を祝日として定めたもの)の祭典で、昭和天皇はその日次の詔書を渙発した。

「(前略)今や非常の世局に際し斯の紀元の佳節に当たる。爾(なんじ)臣民宜しく思を神武天皇の創業に騁(は)せ、皇国の宏遠にして皇謨の雄深なるを念ひ、和衷戮力益々国体の精華を発揮し、以て時艱の克服を致し、以て国威の昂揚に勗(つと)め、祖宗の神霊に対へんことを期すべし」(原文カタカナ、適宜句読点を補った)

つまり、日中戦争の遂行のため今は「非常の世局」になっているが、日本を建国した神武天皇に思いを馳せ、力を合わせて難局を乗り越えて祖宗の神霊によい報告が出来るように、というのである。明治維新にあたっても「王政復古の大号令」において「神武創業の始めに基づき」として神武天皇が理想として持ち出されたが、日中戦争においても神武天皇の武のイメージが喚起されたのであった。「紀元二千六百年記念行事」は、遂行中の戦争を神武天皇の勇ましい建国の事績——東征——になぞらえる役割も果たした。

記紀の神話では、日向にいた神武天皇は東によい土地を求め都を作ろうとし、筑紫、安芸、吉備の国などを通り河内へ辿り着いた。そして土地の神と戦になり一旦紀国へ退避。そして戦を交えつつ八咫烏(やたがらす)の案内で宇陀(うだ)(奈良)に赴き、八十梟帥(やそたける)や土蜘蛛などと呼ばれた土地の蛮族を破り進撃した。こうして6年間に及ぶ戦いを制し、神武天皇が「都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)にせむこと、亦可(よ)からずや」と述べて都を置いたのが橿原だった 。この肇国の戦いを「神武東征」という。日中戦争はこの古代の東征と重ね合わせられ、「聖戦」と位置づけられたのである。

紀元二千六百年の記念式典は11月10日に皇居外苑で開催され、参加者は重臣や海外からの賓客、各界の代表及び各府県・市町村からの代表5万5千人。さらにこれにあわせて、海軍の観艦式、陸軍の観兵式、美術展覧会、競技大会など各種の催しが前後して行われ、またこの年は全国の神社でも紀元節が大祭として挙行された。さらに実際には戦況の悪化により中止になったものの、計画段階では万博の開催及びオリンピックの招致までが行われていたのである。まさにこれは、国家神道始まって以来、最大の国家的祭典であった。

そして「紀元二千六百年記念行事」の一環として、全国を巻き込んだ国家神道的な記念事業(正確には「紀元二千六百年奉祝記念事業」という)もまた遂行された。

記念事業の中心は、(1)橿原神宮の拡張並びに神武天皇陵の参道整備、(2)宮崎神宮の拡張整備、(3)神武天皇聖蹟の調査保存と顕彰、(4)歴代天皇陵の参拝道路整備である。 橿原神宮は、神武天皇が大和で初めて宮を置いたとされる場所に明治23年(1890年)に創建された神社で、宮崎神宮は東征以前に神武天皇の宮があったとされる場所に古くからあった神社である。もちろん両方とも主祭神は神武天皇。そして「神武天皇聖蹟」とは、神武天皇の事績に関係がある地に顕彰碑を建設する事業である。この記念事業は、神武天皇を顕彰するとともに関係神社の整備拡張を行い、あわせて歴代天皇陵の整備を進めるものだったといえる。

この事業の一環で、昭和天皇は6月に関西に行幸し、伊勢神宮に参拝した後、神武天皇陵及び橿原神宮、仁孝天皇陵、孝明天皇陵、英照皇太后(明治天皇の嫡母)陵、明治天皇陵、昭憲皇太后陵に親拝、東京に還幸後、大正天皇陵にも親拝した。幕末明治の頃に重要視された歴代天皇陵は、大正時代にはどちらかというと考古学の対象となっていたが、戦争のさなかにあって再び政治的に注目されてきたのである。

記念事業は、(1)と(2)は神武天皇の顕彰において当然の事業であったし(4)も単純な整備であったからスムーズに遂行されたものの、問題を孕んでいたのは(3)の「神武天皇聖蹟」であった。この調査研究を担当したのは文部省であったが、全国に伝承がある神武天皇縁の地のうち、どこを聖蹟として決定するか難しい判断を迫られたのである。

特に話がもめたのが候補地「高千穂宮(たかちほのみや)」であった。高千穂宮はヒコホホデミから神武天皇までの3代の宮居であったとされ、この伝承地を巡って鹿児島県と宮崎県が激しく争ったのである。

そもそも、鹿児島には神武天皇ゆかりの地は多くない。鹿児島は神代三代の神話のフィールドではあったが、その次の神武天皇となるとさほど伝説はなかった。文部省が「神武天皇聖蹟」の予備的調査として昭和11年(1936年)に関係府県に資料提出を求めたときも、鹿児島県はその対象になっていなかった(宮崎、大分、福岡、広島、岡山、大阪、奈良、和歌山、三重に照会)。文部省は『日本書紀』や『古事記』に基づいて調査研究を行うとしていたが、記紀における神武天皇の事績は日向が出発点で薩摩・大隅は全く出てこないのだからこれは当然だった。

ところがこれに鹿児島県は反発。鹿児島県は昭和14年(1939年)に改めて自らにも照会するように文部省に求めたらしい。鹿児島は神代三代の神話の舞台であり、特に調査対象に挙がっていた「高千穂宮」の真の伝承地は霧島の高千穂峰付近(鹿児島神宮近く)であると主張した。文部省は元々「高千穂宮」を宮崎県北部にある高千穂町付近として考えていたのであるが、鹿児島県はこれに真っ向から反対したのだ。

しかしこれには宮崎県も譲れないわけがあった。宮崎県は神代三陵を鹿児島に政治力によって奪われたことを忘れていなかった。これまでも述べたように、神代三代の舞台は宮崎であるという主張があったにも関わらず、明治7年の神代三陵の治定において宮崎説は一顧だにされていない。しかも当時の宮崎県は県境の変転など相次いでいたためそれどころではなく反論もできなかった。その恨みが尾を引いていたのだ。

既に明治25年(1892年)、宮崎県は「古墳古物取締規則」を制定し、古墳の保護や開発の制限、発掘調査と出土品の届出などを定めている。宮崎県は、県内にある古代の遺物を積極的に保護することによって、自らが神話の源流であることの物証を保全しようとした。これは日本で最初の地方政府による古墳や埋蔵物に関する法令で、埋蔵物保存行政において画期的なものであった。

さらに大正元年(1912年)、宮崎中部の西都原古墳群の学術発掘調査が有吉忠一知事によって発案され実行された。真の神話の地が宮崎であったという主張を学術的な調査によって確固たるものにするのが目的だった。その有吉知事は「古墳保存ニ関スル訓令」において、「我が日向国は皇祖発祥の地にして霊蹤遺蹟到る処に存在するを以て、苟も原史時代に遡り建国創業の丕績(ひせき)を討(たず)ねて之を顕彰せんとせば其考証に資すべきもの」は宮崎県以外にないと宣言した。 政治力によって鹿児島が神代三陵を手に入れたのなら、宮崎県は学術研究の力でそれを取り戻そうというのである。有吉知事は大正4年(1915年)で退任したものの、宮崎県を建国の聖地として位置づける調査研究はその後も続いた。紀元二千六百年記念事業は、かつてのルサンチマンを晴らすための絶好の機会だった。

一方の鹿児島県は、そもそも明治7年の神代三陵の治定の段階においては主体的にそれを求めていたわけではなかったが、治定から約50年が経過し、鹿児島こそが建国の聖地であるということが既成事実化していた。今さら建国の聖地としての位置づけを奪われることはあってはならなかった。

鹿児島県は「紀元二千六百年記念行事」を行うための大規模な官民協働組織「紀元二千六百年鹿児島県奉祝会」を立ち上げ、鹿児島こそが建国の聖地であるという考証を「神代並神武天皇聖蹟顕彰資料」(第1輯〜第6輯)としてまとめ、昭和14年に矢継ぎ早に刊行した。その第6輯『肇國の聖地鹿兒島縣』では、神代三代及び神武天皇の活動舞台が鹿児島県であることについて「記紀以下の神典に照して甚だ顕著であつて、一点の疑義を挿(はさ)むべきでないと思ふ」と強く結論づけている。

そういう事情があったから、発案段階では宮崎県に内定していたはずの「高千穂宮」の議論はもめにもめたらしい。「神武天皇聖蹟」の調査は当然畿内が中心だったが、委員の調査出張が最後まで行われたのは鹿児島・宮崎だった。特に昭和15年4月以降、他の候補地全てが決定を見た後も最後まで「高千穂宮」を鹿児島と宮崎のどちらに指定するか、両方指定するかの結論は出ず、続けて3回も調査委員が鹿児島・宮崎に出張した。結局、どう指定しても禍根が残るということだったのか、委員会は「徴証が十分でない為、聖蹟の決定をなし難い」として決定自体を見送った。

結果、奈良県7ヶ所、大阪府4ヶ所、和歌山県4ヶ所、岡山、広島、福岡、大分各1ヶ所の計19ヶ所が「神武天皇聖蹟」として昭和15年8月までに順次指定され、追って立派な顕彰碑が建てられたのだった。鹿児島と宮崎は、こうして選考からあぶれたためいわば痛み分けではあったものの、元来記念事業に宮崎神宮の整備拡張が掲げられていた宮崎県は、鹿児島県が「建国の聖地」として決定されるのを阻止した形になり一矢報いる形となった。

そして文部省の決定を不服とした両県は、それぞれ独自に古代の顕彰事業を行うのである。

鹿児島県では、同奉祝会が昭和15年の11月、次の通り「神代聖蹟」として「高千穂宮」を含む10ヶ所、「神武天皇聖蹟」として5ヶ所の計15ヶ所を指定し、翌昭和16年までにそれぞれ顕彰のための石碑等を設置した(括弧内は当時の所在町村)。

【神代聖蹟】
  • 神代聖蹟笠狭之碕瓊瓊杵尊御上陸駐蹕之地(笠沙町) ※3ヶ所
  • 神代聖蹟竹島(笠沙町)
  • 神代聖蹟長屋(加世田町、万世町、笠沙町)
  • 神代聖蹟瓊瓊杵尊宮居址[前ノ笠沙宮](加世田町)
  • 神代聖蹟竹屋(加世田町)
  • 神代聖蹟瓊瓊杵尊宮居址[後ノ笠沙宮](万世町)
  • 神代聖蹟大山祇神遺址(阿多村)
  • 神代聖蹟瓊瓊杵尊宮居址[可愛宮](高城村)
  • 神代聖蹟高千穂美宮(隼人町)
  • 神代聖蹟西洲宮(高山町)
【神武天皇聖蹟】
  • 神武天皇御降誕伝説地水神棚(高山町)
  • 神武天皇御駐蹕伝説地若尊鼻(敷根村)
  • 神武天皇御駐蹕伝説地宮浦(福山町)
  • 神武天皇御駐蹕伝説地篠田(清水村)
  • 神武天皇御発航伝説地肝属川河口(東串良町、高山町)
この他「鹿児島県奉祝会」では、 神話ゆかりの地として霧島神宮や鹿児島神宮の顕彰や整備を行うとともに、神代三陵の顕彰を行い、また可愛三陵と高屋山上陵については参拝道路改良工事を行った(ただし道路改良工事については国からの委嘱に基づいたもの)。現在の両山稜の参拝階段などは、この時に整備されたものである。

一方、宮崎県も負けてはいなかった。宮崎でも鹿児島と同様に設立されていた「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」が、神武天皇にゆかりある神社などを「紀元二千六百年記念祭顕彰聖蹟」として指定し石碑を建立(ただし指定場所の全体像は未詳)。また古代の宮崎についてさらに研究を深めていくため、「上代日向研究所」を設置した。

さらに「八紘一宇」の文字を掲げた巨大な塔「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」を宮崎市に建設。「八紘一宇」とは、この頃には「日本が世界を征服して一つにする」という理想として使われた言葉であり、この塔は建国の聖地としての宮崎の正統性を主張し、国家神道の一大モニュメントとして構想されたものであった。なおこの塔は下北方古墳群や生目古墳群、大淀古墳群など多数の古墳に囲まれた立地となっているが、それはおそらく偶然ではないのだろう。

このように鹿児島・宮崎の両県は、建国の聖地としての立場を奪い合い、ライバル意識がエスカレートして大仰な記念事業を実行したのである。それは結果的に戦争遂行に向けた国威発揚と国家神道意識の高揚をもたらし、国家総動員体制へ自主的に向かって行ったと見ることも出来る。紀元二千六百年式典が挙行される一ヶ月前の10月12日、大政翼賛会が発足し、日本は一国一党の挙国一致体制へ歩みを進めていた。「紀元二千六百年記念行事」の祝祭気分の裏で、後戻りできない領域へ進んでいたのである。

ただし勘違いしてはならないのは、「紀元二千六百年記念行事」は全国的に見れば、戦争中のガス抜きともいうべきお祭り騒ぎではあったものの、鹿児島や宮崎、そして事業の中心であった奈良のように神がかり的な神武天皇の顕彰に取り組んだ地方は他にないということだ。紀元千二百年奉祝会が組織されたのも、鹿児島、宮崎、奈良の三県のみであった。

国策を受けて多くの各府県でも記念事業が実行されたが、それは図書館や体育館の設置など戦中に予算が付きづらかった施設の建設を記念行事の大義名分を利用して実施した場合が多く、それすらもやらなかった県では「記念造林」や「開墾」でお茶を濁した。戦争の遂行のため予算も限られており、神武天皇の顕彰などに取り組んでいる余裕はなかったのだ。

多くの府県が冷ややかに紀元二千六百年記念事業を見つめる中、鹿児島と宮崎のこの事業に対するヒートアップぶりは奇異な感じがしないでもない。『日本書紀』にも『古事記』にも、はっきりと日向と神武天皇の結びつきが書いてある宮崎はまだしも、記紀の記述では神武天皇との関連が弱い鹿児島が、ここまで血道を上げたその遠因は、明治7年の神代三陵の治定にあったのだろう。

かつて押しつけられたはずの「建国の聖地」は、いつしか鹿児島のアイデンティティになっていたのかもしれない。

【参考文献】
『週報 第213号』1940年、内閣情報部
「制度としての古墳保存行政の成立」尾谷 雅比古(『桃山学院大学総合研究所紀要』第33巻第3号  2008年)
『神武天皇聖蹟調査報告』1942年、文部省
『陵墓と文化財の近代』2010年、高木 博志
『鹿児島県史 別巻』1943年、鹿児島県