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2017年1月1日日曜日

お得じゃない「ふるさと納税」はいかが

先日、南さつま市への2017年のふるさと納税が10億円を突破したというニュースがあった。とてもめでたく、頼もしいことである。

ふるさと納税をすると、南さつま市の場合は返礼率が4割なので、市内で製造された返礼品が4億円分消費されたということになり、こういう小さい自治体としてはそれだけでも大きな経済効果になっている(正確には、返礼品をみんながすぐに注文するわけではないが計算上の話)。

実は、私が無農薬・無化学肥料で栽培しているポンカンも、今年からふるさと納税の返礼品のラインナップに加えてもらっていた。上記のような状況であるから、担当の方も「すぐに完売すると思いますよ!」との強気の姿勢であったが、いざ蓋を開けてみると、うーん、それほどの引き合いはなかった模様。やっぱりポンカンだけ9kgもはいらないということだろうか……。

私が出品しているこのポンカン、ちょっと他とは違う特色があるので、このあたりでちょっと宣伝しておきたいと思う。「ふるさと納税の宣伝なら年内にしないと意味ないでしょ!」というツッコミもあるだろうが、以下をお読みいただければ分かる通り、これはお得な情報というより、むしろその逆をいっている宣伝なのでそこは何の問題もない。

さて、私はポンカンを「樹上完熟の"自然派"ポンカン」という名称で出品していて、これは40ポイントで注文が可能である。この「ポイント」というのは、ふるさと納税を行った時に獲得できるもので、南さつま市の場合は1万円の寄附で40ポイントがもらえる。このポイントは、お金で換算すると1ポイント=100円に設定されているから、40ポイントというと4000円相当ということになる。

要するに、1万円ふるさと納税をすれば4000円分の品が注文できる仕組みになっており、私のポンカンも1箱4000円の返礼品になっているのである。

が、実はこのポンカンの注文があっても、私の口座には3500円しか入ってこないことになっている(なお送料は市が負担する)。では、差額の500円はどこへ行ってしまうのか?これは、もちろん市のフトコロに入るわけである。つまり、ふるさと納税で1万円寄附すると、普通は4000円分の返礼品が貰えるので、実質的には差し引き6000円の寄附ということになるが、私のポンカンを返礼品にした場合は、それより500円多く6500円分の寄附ができるのである!

これは、ほとんどの場合ウリにならない特色である。私のポンカンは他の返礼品より500円割高だ、と言っているのと同じなのだから。ふるさと納税の最近の過熱ぶりを見ると、返礼率を高めて、より得になるような仕組みが喧伝されているし、実際、返礼品については「地域の特産物」とかよりも、単純に「お得な」返礼品が人気だという。多くの人は「ふるさと納税」に「お得」を求めている。そもそも節税対策の意味合いが大きいのだし。

でも本来の趣旨から言えば、あくまでも返礼品はお礼の品であって、購入する「商品」ではない。そして南さつま市の発展を願ってふるさと納税してくださっている人からすれば、返礼品を充実させるよりも、自分が納税したお金が、ちゃんと有効に使われるということの方が重要な筈である。極論を言えば、返礼率は低い方がいいとすらいえるかもしれない。

というわけで、そういう気持ちを持った人は、私のポンカンを返礼品に選べば、たった500円だが余計に市に寄附できるわけだ。

美味しいお肉や新鮮なお魚、宝石みたいにキレイな果物なんかと比べると、私のポンカンは随分地味なものであるが、こういう特色もあるので、その方面に関心のある方は、どうぞお引き立てよろしくお願いします。

【南さつま市ふるさと納税特設サイト】樹上完熟の“自然派”ポンカン

2016年12月29日木曜日

鹿児島でのポンカン栽培のはじまり

鹿児島の人は「ポンカン」というとなじみ深い果物だと思うが、全国的にみたらどうだろう。「知らないわけじゃないが、あまりイメージはない」くらいではないかと思う。

今は甘みの強い柑橘が品種改良によってたくさん生みだされているので、ポンカンの肩身が狭くなるのも当然であるが、実はこのポンカンという果実、かつては「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたくらい、美味しい柑橘として名を馳せたらしい。

ポンカンが日本に紹介されたのは明治29年(1896年)のことである。鹿児島出身の軍人で台湾の初代総督、樺山資紀(かばやま・すけのり)が赴任先の台湾から郷里鹿児島にポンカンの苗木を送ったのを嚆矢とする。ポンカンはインド原産とされるが、日本には台湾を通じてまず鹿児島に入ってきた。これには、台湾併合という国際関係と、初代台湾総督が鹿児島出身だったという偶然が絡んでいるわけだ。

しかしながら、樺山が送った苗木からポンカン栽培が広がったかというと、そうでもなさそうである。当時の鹿児島は「勧業知事」と後に讃えられる加納久宣(かのう・ひさよし)が知事を務めていた時代。現在の鹿児島の柑橘産業の原型をつくったのが加納その人であった。ところが加納の事績を調べてみても、樺山が送ったポンカンの苗木についての言及は全くなく、少なくともこの苗木が大々的に増殖されたり頒布されたりということはなかったようだ。

では、このころ鹿児島の柑橘産業はどういう状態にあったかというと、和歌山などの主要産地から大きく後れを取っていて、まだまだ自家消費的な段階に留まっていた。加納はこれを産業的なものにしていこうと、私財をなげうって苗木の頒布や模範果樹園の創設などに取り組んで栽培を拡大していこうとしていたが、加納が奨励していた品種は「薩摩ミカン」「クネンボ」「金柑」「夏ダイダイ」であり、後に「温州ミカン」がこれらに置き換わっていく。要するにこの段階ではポンカンは眼中になかった。他産地に追いつくことを主眼としていたこの時代、新品種で未知数な部分があったポンカンを組織的に推進していくのはリスクが大きいと判断されたのかもしれない。

しかしながら、「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたほどの果物である。その評判はいつのまにか広がっていった。台湾を植民地にしていた時代であり、台湾との人の行き来がかなりあったことも影響しているのだろう、大正中期から昭和初期にかけて、鹿児島各地の多くの篤農家が直接台湾から苗木を取り寄せている。だが組織的に苗木を導入したわけではないため、この頃台湾からやってきた苗木は十分に吟味されずにいろいろなものが混ざっていた。

果樹の苗木には「系統」というものがあって、同じポンカンといっても樹ごとに様々な個性がある。新品種の導入にあたっては、収量が多く、病害虫に強く、美味しい実をつける樹を選んで、それを接ぎ木で増殖させることがポイントだ。この頃来た苗木は、おそらく農家がツテを頼って台湾から送ってもらったものであるから、系統も不明なものが多く玉石混淆の状態であった。

こういう状態が整理されたのが昭和9年(1934年)、鹿児島県農業試験場 垂水柑橘分場長の池田基と県議会副議長の奥亀一が、系統のはっきりした優良な苗木を導入してからのことで、これで栽培が徐々に広がっていくことになる。このころ、ポンカンは温州ミカンの4〜5倍の値段がしたというから、よほど珍重されたものだと思う。

ところが、それでも栽培は一気には広がっていかなかったようである。各地のポンカン栽培の歴史を概観してみると、導入が散発的であることが見て取れる。考えてみると、この頃は戦争が近づいていたこともあり美味しさよりも食糧増産が叫ばれる時代であったし、結果が不透明な新参者の果樹にあえて取り組んでみようという普通の農家は少なく、あくまでも篤農家の試みに留まっていたのだろう。

というわけで、鹿児島でポンカンが広く普及するのは戦後になってからである。

我が大浦町にポンカンが導入されたのも戦後のことで、太平洋戦争で台湾に派兵されていた人たちが、「台湾にすごく美味しいミカンがあった」といって引き上げてからポンカンの栽培に取り組んだと言う。隣の坊津町では、昭和4年に台湾から苗木を取り寄せて栽培が始まり、昭和10年には中野三太郎という篤農家が優良系統のポンカン苗木を取り寄せて品質向上にまで取り組んでいたというのに、坊津からの情報ではなく台湾での見聞がきっかけになっているあたり、意外な感じがするがリアリティがある話である。

当時、大浦で町長をしていたのが、実は私の祖父である窪 精造。祖父はポンカン栽培の振興を企図し、町民に苗木を頒布するため自分の田んぼをつぶしてたくさんのポンカン苗木を育成したたという話である。これが昭和30年代の後半だ。この頃の苗木は、少なくとも大浦では系統が不明で一括して「在来」と呼ばれている。

ちなみに昭和34年〜35年に鹿児島県も大々的なポンカン栽培振興を行ったが、この時に頒布した苗木はなぜか福岡などから導入していて、しかも系統が優良なものばかりでなかった。そのために産地間の収量や品質の差が甚だしかったという。坊津町の「中野」(この頃は、系統をその園主の名で呼んでいた)などは優良な系統で、後に皇室に献上されることになる「大里ポンカン」もこの「中野」から生まれている。どうしてそういう優良品種を選定しなかったのか謎である。

ともかく、鹿児島県のポンカン栽培のはじまりにおいては、昭和も中頃まで品種・系統がはっきりしない苗木が多くそのために混乱があったようだ。しかし品種・系統がはっきりしない苗木が多かったということは、多くの人がわざわざ台湾から苗木を取り寄せて自然発生的にポンカン栽培に取り組んだことの証左でもある。それくらい、ポンカンという果物には魅力があったのだ。

こうして、かつての篤農家が熱望したポンカンという果物は、鹿児島での栽培開始から100年以上経ち、もはや台湾からやってきた果物であるというイメージすらなくなるほど、鹿児島に根を下ろしている。その人気はかつてほどはないが、ポンカンには柑橘の品種改良がなされる以前の野性的な美味しさがあり、爽やかな香りは柑橘類の中でも独特である。決して時代遅れの果物ではないと思う。

で、ここからは宣伝であるが、私はこちらに移住してきてから、昭和30年代に植えられたであろう「在来」の野性味溢れる樹の園を引き継いで、ポンカン栽培をスタートした。2014年からは無農薬・無化学肥料の管理に切り替えて、最初はうまく出来なかったが、最近では虫害も病害もほとんど出ないようになり、今年は栽培開始以来の豊作が見込まれている。

これはいいことではあるものの、私のように個人販売しているものにとっては、通常よりもたくさんの収穫があるということは、通常より多くのお客さんを見つけなければならないということだから、これはこれで大変である。営業の苦手な私にとってはなおさらだ。

というわけで、インターネットショップ「南薩の田舎暮らし」では私がつくった「無農薬・無化学肥料のポンカン」を販売中なので、ぜひお買い求めいただけますようお願いします!

なお、業者の方への卸販売もいたしておりますので、ご要望があれば「南薩の田舎暮らし」問い合わせページにてご連絡ください。

↓ご購入はこちらから。
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のポンカン
9kg@3500円/4.5kg@1750円/3kg@1350円
送料別(400円〜)、クレジットカード利用可

【参考文献】
「鹿児島県主産地におけるポンカンの導入経路調査と優良系統の探索について」1985年、岩堀 修一・桑波田 竜沢・大畑 徳輔

2016年3月26日土曜日

「薩摩文旦」サワーポメロの定植

以前、サワーポメロには将来性があるのではないかという記事を書いた。

その時は、自分では「これから増やしていこうという気もないが…」と書いていたものの、いろいろ考えてみて、理屈の上ではやっぱりサワーポメロは将来有望だと確信するに至ったので、今年約30本サワーポメロを植えてみた。

時々農作業を手伝ってくれる父も「今時サワーポメロが売れるはずがない」と言っているし、周りにもサワーポメロに力を入れている農家はいないので、ある意味リスクのある選択だが、理詰めで考えてこうだとなったら、それを実行に移してしまうのが私のサガである。

ところで、このサワーポメロというもの、調べてみると実体がはっきりしない。

「サワーポメロ」という柑橘には鹿児島県以外の人は馴染みがないと思うが、それもそのはずで実は「サワーポメロ」という柑橘は存在しない。これはブンタンの一品種「大橘(オオタチバナ)」というものの鹿児島県での通称・愛称であり、柑橘の分類としては単なるブンタンなのである。

昭和の終わり頃、鹿児島県が「大橘」を将来有望なブンタンであるとして生産奨励を行い増産を図ったことがある。この時、「ブンタン(大橘)」では社会へのアピールが足りないということだったのだと思うが、鹿児島県と鹿児島県経済連でこの品種の通称を公募したのである。それで、昭和60年に「サワーポメロ」という通称が定まり今に至っている。年寄りに聞くと「昔はサワーポメロなんかなかった」と言われるが、おそらく、この通称決定以前はこの果物は単に「ブンタン」と呼ばれていたのだろう。

しかし、この名称が定まった時には、時代は既に軽薄短小で食べやすい果物へとシフトしてきていた。ブンタンのように、大きくて皮が剝きにくく、包丁を使って処理しなければならない柑橘は人気が出なかった。結局、「大橘」は増産されたものの、期待されたほどの利益が生まれず、今では県内で40haくらいしか生産されていない。実はまだ生産奨励品目から外れていないらしいが、実際にこれを増やしていこうという農家は少数だと思われる。

さらに、このような経緯で「サワーポメロ」という名称が定まったためもあるのだと思うが、この果物は名称が混乱している。同様のブンタンが熊本県では「パール柑(カン)」という名称で販売されているが、この「パール柑」と「サワーポメロ」が同じものなのか、違うものなのかもあやふやである。

「パール柑」は、鹿児島の垂水の果樹試験場にあったブンタンを原木にして熊本県で育成されたものであるが、これが昭和20年代のことであったために、同じ果物が鹿児島と熊本で違う名称で呼ばれることになった、と言われている。

とまとめたら簡単なのだが、実はそうはいかない。

「パール柑」と「サワーポメロ」は別物だ、という説が存在するのである。曰く、「パール柑」は「サワーポメロ」ではなく、「土佐文旦」だというのである。実際、苗木屋のカタログを見ると「土佐文旦(パールカン)」と書いてある。そして、「土佐文旦(パールカン)がサワーポメロとして販売されていることがあるので注意」などと但し書きがあったりする。どちらが本当なのか。

しかし、今度は「土佐文旦」を調べてみると、これは「サワーポメロ」と同一品種だという情報もあるのだ! 「土佐文旦」は「土佐」とついているが、実はこれも鹿児島の加治木にあったブンタンから増殖させたもので、実際は鹿児島のブンタンであり、その原木がどうやら今で言うサワーポメロかその近縁種だったらしい。これを元に高知県で原木が確立したのが昭和4年の話である。

となると、結局「大橘」=「サワーポメロ」=「パール柑」=「土佐文旦」、ということになるが、苗木屋のカタログでも「サワーポメロ」と「土佐文旦」は別の苗木として販売されており、それどころか収穫時期や果重、果実の特性(ジューシーさなど)も違うと書いてある。うーん、真実はなんなのか。

実は、「大橘」は鹿児島在来のブンタンであり、来歴は不明ながら、いわば自然発生的な品種のようである。つまり誰かが品種改良して作ったものではなく、ブンタンを育てているうちに交配を繰り返していつからか生まれた品種ということになる。なので、現代でいう「品種」にぴったりこないところがあるのだろう。そのため、同じ「大橘」でも様々な変種や亜種が存在して、同一品種が違うものとして認識されたのかもしれない。

そもそも、鹿児島はブンタン類の本場である。中国からブンタンの原種が渡ってきたのが鹿児島の阿久根だという。大橘だけでなく、鹿児島ではかつてたくさんのブンタンが自然発生的に栽培されていたようだ。ブンタンの大きな果実はどことなく南国を彷彿とさせ、鹿児島の南国ムードを演出するのにも一役買っていた。「ボンタンアメ」(鹿児島では、ブンタンは「ボンタン」と発音されることが多い)とか「ざぼんラーメン」はいかにも鹿児島な感じがする(ざぼん=朱欒はブンタンのこと。ざぼんラーメンは鹿児島のラーメンの老舗で、別にラーメンにブンタンが入っているわけではない)。

今から考えると、大橘の「サワーポメロ」という通称があまりよくなかったかもしれない。「サワー」と言いながら酸っぱさが際立っているわけでもないし、どことなく外来の品種のような感じがして地に足がついていない名称である。むしろ鹿児島在来のブンタンであることを誇り、シンプルに「薩摩文旦」で良かったのではないか。そっちの方がずっとわかりやすくて認知が進んだような気がする。

「土佐文旦」で文旦の栽培振興を行った高知県は、今では鹿児島を遙かに凌ぐブンタンの産地となっている。「土佐文旦」から生まれた「水晶文旦」は、非常なる高級品を産み、一玉2000円もする極上品が販売されてもいる。ブンタン栽培の中心地はすっかり高知県になってしまった。


もちろん、鹿児島を改めてブンタンの産地にしていこうというのは、ちょっと無理があるだろう。だが、「大橘」は戦前のブンタン類の中では最高の品種とされていたそうである。高知みたいに上手く栽培・販売はできないにしても、在来の「大橘」はまだ活かす道があるのではないか。改めてその可能性を信じて、「薩摩文旦」を作ってみるのも一興だろう。

【参考】
広報いちき串木野 2015.2 VOL.112 「知っておきたいサワーポメロの話」(p.11)

2016年2月23日火曜日

「たんかんのオランジェット」と規格外品の有効利用の問題

今日、タンカンの発送作業を行った。

有り難いことに既にたくさんの注文をいただいており、出だしは順調。今年のタンカンは割と味はよいと思うので、ぜひご賞味ください。

【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のタンカン

ところで、この写真がうちのタンカンだが、タンカンをご注文くださった方は「届いたのはこんなにキレイなやつじゃないぞ!」と思うかもしれない(すいません…)。それもそのはずで、これは収穫した中でもとりわけ大きくて外観のキレイな最上級品だけを選りすぐったものなのである。

市場に出回っているものの中には、それこそ宝石のように美しいタンカンがあるので、この程度で最上級品なんて……と思うかもしれない。というか特に同業者の方はそう思うはずである。でも今の自分の栽培技術の中では、無農薬でこの水準ができたら最高だと思うものを選んだつもりだ。

で、どうして最上級品だけを選りすぐったのかというと、これはそのものを販売するためでなくて、実は「たんかんのオランジェット」という今一番売り出し中のお菓子を作るための材料なのだ。

たんかんのオランジェット
【参考】オランジェットって何? という方は「南薩の田舎暮らし」のこちら↓の記事をどうぞ。
2月5日のレトロフト金曜市で「たんかんのオランジェット」を販売します

先日、この商品を引っ提げて、商工会がやっている品評会(?)みたいな会に出たら、「規格外品のタンカンを使ってみてはどうか?」という意見が出た。でも皮まで丸ごと使うというこのお菓子の性質上、やはり皮もキレイなものでないと食感も見た目も悪いし、大きさが揃っていないと商品にならないので、やはり大玉で外観秀麗なものを使う以外ないと思う。

最近の農産加工の話題では、「今まで捨てていた規格外品を使って作った」的なものがよく流布されていて、農産加工といえば「青果で流通しにくいB級品の有効利用」という側面ばかりが強調されているように感じる。

しかし、実際に農産加工に取り組んでみればすぐに分かるように、規格外品のように大きさや品質が揃っていない素材を使って加工品を作るのは大変手間がかかる。例えば、ニンジンを作っていると一定割合で又根のニンジンができるものだが、又根のニンジンは洗浄にも皮むきにも手間が余計にかかるし、ニンジンスティックのようなものを作ろうとすれば歩留まりも悪い。加工品づくりの経費がほぼ人件費であるとすれば、そういう扱いにくい素材を無理して使うより、同じ大きさで規格化されたニンジンを使って効率よく製造する方がよほど利益が大きい。

それに、加工品は素材の味次第なところがあり、品質の揃っていない素材を使うのは味の面でも不安が残る。見た目が悪くても美味しい果物や野菜というのがあるのは事実だが、実は美味しい果物や野菜は外観もよいことが多い、というのも事実である。間違いなく美味しい立派な素材を使う方が、品質の高い加工品が楽に作れると思う。

そもそも、今は「農産加工品戦国時代」とでも呼びたくなるような時代である。各地で、オシャレ・今風の農産加工品が次々に開発されている。そんな時に「今まで捨てていたものを有効活用できないか」というような消極的な理由で農産加工をしては成功はおぼつかないような気がする。やはり、「とびきり美味しいものを食べて欲しい」という積極的な理由で開発に入るべきだと思う。

もちろん、それが結果的に規格外品の有効利用になったらなお素晴らしいことである。開発の段階で「廃棄をなくそう」ということを目的の一つにするのもよいことだ。しかし、栽培管理によって収穫物の規格をなるだけ揃える(=規格外品を減らす)という方が農家の本道なのに、規格外品で作った加工品が成功したとすると、むしろ積極的に規格外品を作って材料を確保しなければならないという矛盾が生じる。加工品を作るなら、加工品用の規格を作り、その規格に沿って栽培管理していくという方が結局は効率的であり、規格外品のような量的にも質的にも頼りない存在はアテにするのはリスクである。

規格外品の有効利用は個人の農家レベルで考えてもダメで、やはり経済連(県単位のJA)のような規模で考えなければならない問題だろう。

ちなみに、鹿児島大学の学生がエコスイーツというプロジェクトをやっていて、これは生ゴミからつくった堆肥を使って育てた野菜を使ったスイーツの製造・販売なのだが、これも最初は「捨てられている野菜を救う」ということを考えていたようだ。しかし調査してみると、規格外の野菜などはちゃんと物産館などで売られていて、本当に捨てられているのは思ったほど多くないということがわかった。

こうして、当初は規格外のカボチャの有効利用がメインだったものの、今はむしろスイーツづくりのためにサツマイモを育てるということがメインになっており、やはり「加工品用の規格に沿った栽培管理」の方に重点が移っている。サツマイモ栽培に取り組んだ理由もWEBサイトでの説明によれば「「より高品質な素材を供給したい」という思いを実現するため」とされていて、やはり規格外で品質の安定しない素材を相手にするよりも、高品質な素材を使った方が間違いない、ということを学んだ結果ではないかと思った。

というわけで、農産加工というと「規格外品の有効利用」ということをすぐ思い描きがちであるが、実際にはそういう虫のよい話はそうそうないのである。

話が随分逸れてしまったが、この、私なりに「どこへ出しても恥ずかしくない最高級のタンカン」をつかって作った「たんかんのオランジェット」とクッキーとコンフィチュールのセットが今ネットショップで限定販売中なので、こちらの方もよろしくお願いします!

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2016年1月5日火曜日

農産物の価格を自分で決められるのがよい、のかどうか

「南薩の田舎暮らし」では、今年も無事「無農薬・無化学肥料のポンカン」の販売を開始した。価格は、去年と同じで9kg入りで3000円。つまり1キロあたり約300円。

今年は、ポンカンだけでなく柑橘全般がとても不作で、年末はポンカンも異常な高値だった。市場価格でA品L玉500円をつけていたこともあるようだし、小売価格でもだいたい1キロ500円くらいが相場だった。

もちろん年を越すと急に値段が下がるのがポンカンという商品の悲しいところなので、この価格と私の販売価格を単純に比べるわけにはいかないが、それでも「個人販売で高く売ろう」みたいなことが言われている最近の農業界隈を考えると、安売りしている自分は少し馬鹿みたいな感じがする。

でも高値で売るためにはそれなりの営業努力が必要だし、高値にしたらそれなりに責任も生じる。何よりまだまだ栽培がよくわかっていないので、今年までは「シロウト価格」としてこの価格を維持することにした。来年もちゃんと狙った通りに作れたら、その時は価格を改訂することも考えたい。何しろ、今の価格はほとんど最安値付近なので、「無農薬・無化学肥料」関係なく安さで勝負している感じである。もうちょっと付加価値で勝負しないと個人販売する意味がない。

ところでそれに関して一つ思うことがある。最近、農家の個人販売や独自ブランド構築といったことがよくメディアに取り上げられ、その際に「価格を自分で決められるのがよい」といったようなことを農家が発言するが、これは本当にいいことなんだろうか。

やり手の農家の場合はそれが歓迎すべきことなのは当然として、私みたいな商売がヘタクソな農家の場合は、本当に価格をいくらにしたらいいのか全然わからない。

例えば、今の時期、私は(無農薬・無化学肥料で育てた)大根を物産館に半定期的に出荷しているが、1本100円で販売している。これ、大きさや品質を考えると他の人よりかなり安い感じで、他の人に申し訳ない感じがする。でも私は物産館に頻繁に行って在庫を確認する方ではないし、売れ残るのがイヤなので結局安値販売してしまう。正直言って、物産館の人が「この大根だったら○○円ですね」といって値付けしてくれる方がずっと気が楽だ。

まあこれは程度の低い問題なので、もう少し真面目な話をすると、農家の方で価格交渉しなくてはならなくなると、実際は農家が企業に負ける場合が多いような気がしている。

少し話が大きくなるが、今先進国では食料品市場において小売りの統合が進んできて、米国だったらウォルマートみたいな大きいチェーン店が非常に大きな力を持ってきている。米国の食料品小売市場はウォルマート、クローガー、アルバートソンズ、セイフウェイ、コストコ、アーホルドの6社で市場の半分を占めるという(※)。青果に限ればこの割合はかなり減ると思われるが、米国においてこうした巨大企業が仕入れる食料品の量は莫大で、農産物にももの凄い価格交渉力がある。

日本では、例えばイオンに野菜を個人(または法人)で卸すというとなんとなく先進的な農家、という感じがするし、農協を通すのと違って価格交渉ができるのが魅力だろう。でも米国のように小売りの力が大きくなると、それはほとんど巨大企業の言うなりの価格になっていき、農家の方にはほとんど価格決定権がなくなってしまう。

これはヨーロッパの方でも事情が似ていて、EUの小売りはたった15のグループに牛耳られていて、食品に関して言えばほとんどが110の小売業者の買付窓口を通じて購入されていると推定されている。生産者(団体)の方は何千何万といるのに、小売りの方はたった100程度しかいないのである。これでは生産者の価格交渉力はほとんど存在せず、小売りの言いなりになるしかない。

こうしたことから、EUでは農協の巨大化によって生産者グループも小売りに匹敵する交渉力をつけようとする趨勢があり、日本で言えば県レベルの経済連的な活動が活発になってきている。日本では農協は遅れたものと見なされて、農家の個人販売が持てはやされている時に、ヨーロッパの方では農協が見直されているというのがとても面白い対比である。

ともかく、一見価格交渉の余地が大きく見える農産物の個人販売だが、生産者に比べると小売りの方がどうしても巨大であるために、実際には生産者にはそれほど自由度はないようだ。今の日本の流通システムでは、高品質なものを安定生産している農家、つまり優秀な農家にとっては、農協を通すよりも独自に販路を開拓して自分で価格を決める方が利益が大きいのは間違いないとしても、ごく普通の農家にとっては、単に需給に応じて決まる価格の方が好ましいと言える。

そもそも、価格は「自分で決める」ものというよりは、究極的には需給で決まるものであるから、農産物のようなコモディティ商品の場合、市場が効率的に働いて、需給で決まる価格が信頼できるものとなるようにしていくことが大切なことだと思う。

つまり、「価格を自分で決められるのがよい」と発言している農家の場合、その生産物が過小評価されているという思いがあるわけだから、品質をしっかりと評価できる市場を作っていくことが重要なことではないだろうか。これは優秀な農家だけでなく、普通の農家にとっても恩恵のあることだ。

でも全ての農産物に対して、それに適切な市場が用意できるかというとそんなのは無理な話である。私が作るほんの少しの大根やポンカンのためには市場はできていない。こういう零細な商売の場合、やっぱり、自分で何らかの価格を決めて販売していくしかないのである。商才のない私には本当に難しいことだ。

というわけで、話がだいぶ逸れてしまったが、「無農薬・無化学肥料のポンカン」、安値にて販売中なのでよろしくお願いします!

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【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のポンカン

※参考文献『食の終焉』2012年、ポール・ロバーツ著、神保哲生 訳

2015年12月26日土曜日

「天成り果」と窒素過多

一昨年から、柑橘の肥料をものすごく減らした。

販売する時に「無農薬・無化学肥料」を謳っている通り、化学肥料はもちろん使っていないし、それどころか実は有機肥料も入れていない。ということで今のところほぼ無肥料である。

「ほぼ」と言っているのは、堆肥の中に肥料成分が含まれているからだが、栽培基準に比べると10分の1以下の肥料だと思う。

それで、ほぼ無肥料にして気づいたことがある。無肥料にすると、「天成り果」が出来ない。

「天成り果」というのは、樹冠付近の上向き枝の先端に、上向きにつく果実のこと。これは肌がゴツゴツしていて大きく、ジューシーさがなくパサパサしていて甘みも弱く美味しくない。こういう天成り果は商品価値が低いため、通常は摘果(収穫しないで早く取って捨ててしまうこと)してしまうのだ。

だが、無肥料にすると樹冠付近の上向き枝の先端に果実がついても、「天成り果」にならない!

写真のように、だんだん枝がしなってきて、下向き果実になるのである。ちなみに、柑橘の場合、こういう葉裏(葉に隠れる)の下向き果実というのが一番味がのっていて美味しい果実といわれている。肥料をやっていたら摘果しなくてはならなかった果実が、無肥料にすることで一番美味しいタイプの果実になるのである。

ちなみに、「天成り果」はなぜ品質がよくないのか、というと、植物のホルモンの働きによると思われる。植物の成長ホルモンは上へ上へと流れていく性質があり、上向きの枝の先端には成長ホルモンが集まっている。すると、そこになった果実には過剰に成長ホルモンが与えられ、ホルモンバランスが崩れて変な果実になるというわけである。

だから「天成り果」は避けられない自然現象だと思っていたのだが、無肥料にするとこの現象が見られないことを考えると、どうやらそれは窒素過剰を表す植物からのサインだったようだ。

農業において、窒素は非常に重要な成分であるが、やりすぎると弊害が起こることが多い。窒素が多すぎると病虫害に弱くなり、そのおかげで農薬を多用しなくてはならない羽目になる。私が柑橘に農薬をかけなくてもさほど虫害が起こっていないのは、たぶん無肥料にしている効果が半分くらいあると思う。野菜なども肥料をごく少なくすれば、無農薬でもひどく虫に食われるというような悲惨なことは自然と避けられる(もちろん種類による)。

ただ、残念なことに窒素分が少ないと収量は確実に減る。

ポンカンの場合、基準通りに肥料をやるのと比べて収量はたぶん7割以下になると思う。そう考えると、生産原価において肥料の値段などたいしたことはないから、窒素肥料を多用して収量を増加させるのは、通常の農業経営において当然の判断だと思う。

しかしその判断が全世界的にやられているので、世界的な窒素過多はとんでもないことになっている。およそ100年前にハーバー=ボッシュ法が開発されてから、 地球上に供給される窒素はうなぎ登りに上がった。特に1960年代からの上昇はすごい。

ハーバー=ボッシュ法以前、農業生産の限界のひとつを定めていたのは窒素肥料であった。しかしこの革命的な方法により、窒素が人為的に供給できるようになり窒素肥料を多用するようになると、反収(単位当たり収穫量)の方もうなぎ登りに上がった。お陰で、農地をしゃかりきに増やさなくても、今のところ食糧危機が起こらずに済んでいる。

こうして窒素の大量生産が進められた結果、全発電量の1%以上がハーバー=ボッシュ法での窒素生産に費やされているといわれるほどで、現在、地球上の窒素固定量の半分が人為起源であるとの推計もある。微生物などによって自然に窒素固定はなされるが、そうやって自然が固定する窒素化合物と同量のそれを人間がつくりだしているというわけで、窒素の過剰放出は自然の物質循環に深刻な影響を及ぼしている。

しかも先述の通り、窒素肥料には功罪両面があり、使いすぎると「罪」の方の性格が強くなっていく。といっても肥料を減らすと収量も減ってしまうので、ただでさえ厳しい農業経営において肥料を減らす選択肢はなかなか取りづらい。

それに、私個人の農業経営としては、無肥料にする選択はさほど悩ましいものではないとしても、それを世界規模でしようとすると深刻な食糧危機を将来する可能性がある。タダでさえ人口が増え、新興国の生活水準がどんどん上がっていく局面であり、近い将来、穀物の不足が懸念されてもいる。そんな中で、窒素を減らすという決断は、非人道的なものですらあるかもしれない。

しかし、無肥料にすると天成り果ができないというメリットがあるように、窒素を減らすことには意外な効用もあるように思う。反収が減るのは確かだとしても、それを補う利点もあるかもしれない。科学もこの100年でずいぶん進んだのだから、そろそろ「減窒素の農学」が出来てもいい頃だ。

【参考文献】
地球環境に附加される自然起源と人為起源の窒素化合物」2010年、佐竹 研一

2015年8月7日金曜日

クモ、カマキリ、ムカデと圃場生態系

私の柑橘園にはクモが多い。今ちょうど夏剪定をしているが、その最中によく顔にクモの巣をひっつけてしまう。

クモの多さは多分、無農薬栽培をしていることと関係がある。普通の柑橘園にはこんなにクモはいない(ような気がする)。私も無農薬栽培を初めて最初に感じた変化は、「なんかクモが多いなー」ということだった。

クモに比べれば目立った変化でないような気もするが、カマキリも他と比べて多いと思う。ただ、大型のカマキリはあまり目にすることがなく、小さいカマキリが中心なのはなんでなんだろうか。

それから、最近はムカデも多くなって、よく幹にムカデが這っているのでとても怖い。しかもこんな巨大なムカデ見たことない! というような立派なのが這っている。この前はあんまり怖いもんだからムカデを殺してしまった。でもクモもカマキリもムカデも、他の昆虫を食べてくれる存在だから農業的には有り難い虫である。

クモやムカデのような虫は他の虫を食べ、その虫はまたより小さな虫を食べているわけで、クモたちが存在していること自体が、圃場内に餌となる虫がたくさんいる証左だ。だいたいの虫は益虫でも害虫でもないし、クモやムカデがことさら害虫ばかりを食べてくれるというワケでもないのだが、こうして圃場内に(たぶん)安定した生態系ができているということは喜ぶべきことだ。

クモ、カマキリ、ムカデは圃場生態系においてほとんど最上位に位置していて、圃場生態系のありさまを決める重要な存在だ。生態系における少数の捕食者は、生態系のバランスを決める決定的な要因となっていることが多く、それは生物学の用語ではキーストーン種という。

キーストーン種がいなくなると生態系は重大な影響を受ける。無農薬栽培を始めてみて思ったのは、こうして圃場に生態系が出来てくると、農薬を使うとそれを壊してしまうことになるからおいそれとまた農薬は使えないな、ということである。生態系の攪乱によってどのような影響が出るのか不安になるからだ。

例えば日本でイノシシやシカが増えすぎて問題になっていることの原因の一つに、日本の山野におけるキーストーン種であったニホンオオカミの絶滅がある。イノシシやシカが人里まで下りてくるようになったのは山野が杉林ばかりになって食べ物が少なくなったからとか、人家が山近くまで作られるようになったからとかではなく、捕食動物が減ったことが要因として大きいと思われる(そもそも戦前の山ははげ山が多かった)。

ちなみにキーストーン種は生態系のバランスを決めるが、生態系の全生物量(バイオマス)を決めているのは、水とか太陽エネルギーのような外界からの影響を除くと、たぶん土壌微生物だと思う。土壌微生物の生物相が安定することによって、生態系のバランスがより強固になるのではなかろうか。

土壌微生物についてはクモとかムカデみたいに直接観察することは難しいので、ちょっと勉強してみたいと思う。

2015年2月18日水曜日

露地栽培のしらぬいはなぜかもの凄く痛みやすい

「しらぬい(デコポンの登録商標で知られている柑橘)」に不思議なことがある。施設栽培だと数ヶ月保管できるのに、露地栽培だと3週間くらいで傷んでしまう! どうしてなんだろうか?

ちょっと調べてみても、その本質的な原因が分からない。一方、対策というのはそれなりに研究されていて、小さなキズにも弱いからキズ付けないように収穫しましょうとか、そういう細かいことも含めていろんなアドバイスがある。でも肝心の原因が茫洋としていて、露地栽培と施設栽培で決定的に違うことがなんなのかがよくわからない。果実表面の微生物の様相に問題があるんだろうが…。

それに、痛み方も少し変わっている。普通のミカン類は、表面のキズや何かから青カビが侵入してやがて腐っていくことが多いが、しらぬいの場合、青カビももちろんつくが皮の部分からボヨンボヨンになって弱っていく痛み方の方が多いような気がする。あと、樹上で腐ってしまう割合も多いと思う。これも原因がよくわからない。

ちなみに、皮の部分がボヨンボヨンになっても、果肉の方はまだ無事で意外にイケることも多い。でもそうなるともう数日でダメになってしまう。だから売り物にはならない。

しらぬいは皮がゴツくて頑丈な印象があるのに、実際はもの凄く痛みやすいのである。それが施設栽培になると、逆にかなり長持ちするようになるのが一層不思議なのである。こういう果物、ほかにあるんだろうか?

そして、もの凄く痛みやすいということは、なかなか売りにくいということでもある。在庫を抱えているとどんどん不良品が増えていくわけで、時限爆弾的な商品だ。だから、一度にドカッと売りたくなる。でもそうすると、新しいお客さんとの出会いは少ない。「南薩の田舎暮らし」でも、予約を取って販売した上、例によってA-Zかわなべにも卸したので、もはや在庫は10セットくらいしかない状況である。

販売期間はあと1週間もないかもしれない。この短い期間に、新しいお客さんと出会えたらいいなと思っている。

↓ご購入はこちらから
「無農薬・無化学肥料のしらぬい」

2015年2月6日金曜日

サワーポメロの不思議

この時期、近所の物産館では「サワーポメロ」がものすごく安売りされている。3個くらい入って150円とか、そういう激安値である。これはブンタンの仲間だから大きいのが3個入っていれば2キロ近くあるが、それが150円だから全然利益は出ない商売だ。

しかしサワーポメロ、といってもピンと来ない人が多いに違いない。サワーポメロは通称で、品種名は大橘(おおたちばな)という。熊本では「パール柑」と呼ばれている。といっても、やはりピンと来ない人が多いであろう。サワーポメロは、鹿児島・熊本のご当地柑橘ともいうべきものだ。

これが激安で売られているのはいろいろ理由があるが、基本的には市場性があまりないからだと思う。つまり、あまり市場では取り扱われていない。市場で流通しないから売りにくい。売りにくいから安くなる。ではどうして取り扱われていないのか、というと、多分生産量が少ないからだ。

ところが面白いことに、このあたりで柑橘類を生産している人の畑には、隅っこの方に必ずといってよいほどこのサワーポメロが1、2本植えられている。自家用で育てているのである。自家用だから元より出荷のことは考えていない。だがたった2本でも収穫は結構な量になるから、余った分を物産館に出しているのである。余ったものの処分だから150円くらいの激安に設定されているのだと思う。

しかしここに一つ不思議がある。ミカン農家自身が自家用に植えるくらいだから美味しい柑橘のはずなのに、なぜ生産量が少なく市場性があまりないのだろうか?

実際、「柑橘類の中でサワーポメロが一番好き!」とか「柑橘類はサワーポメロ以外は食べない」という人もいるくらいなのだ。ちょっと好き嫌いは分かれる果物で(というのは皮が剝きにくいのが一番嫌われる点)、みんなに好かれるというものではないが、はまる人にははまる味だ。

どんな味かというと、ブンタンのぷちぷち感はそのままにすごくジューシーにして甘酸っぱくした感じである(サワー(酸っぱい)が冠されているがそれほど酸味は強くない)。それから香りがすごく爽やかなのも特徴である。剝きにくい皮のことを考えなければ、もっと市場で取引されてもおかしくない。

しかも、生産量の少なさは栽培が難しいのが理由ではない。というか、柑橘類の中では栽培はどちらかというと容易な方ではないかと思う。ではなぜ生産量が少なく市場性があまりないのか?

私の推測だが、それはこのあたりの人びとが「サワーポメロは自家用の果物」「サワーポメロは高く売れるはずがない」と思い込んでいるせいではないかと思う。つまりサワーポメロに将来性を感じていない。柑橘のように「一度植えたら簡単に植え替えはできない」というような作物の場合、定植の際は最も有望そうな品種を選ぶのが当然である。その結果、生産量が少なくなって市場にあまり流通しないため、さらに有望に見えなくなる。そういう負のフィードバックの結果、サワーポメロは自家用に1、2本植える程度のご当地柑橘に甘んじているのではないだろうか。

だとすれば、サワーポメロの価値は過小評価されているということになる。もしかしたら、これを真面目に売ろうとすればそれなりに結果がでるのではないか?といっても、私自身はサワーポメロはやはり2本しか栽培していないし、これから増やしていこうという気もないが…(あ、やはり将来性を自分も感じていなかったのかもしれません(笑))。

2015年1月14日水曜日

サビダニの不思議な被害

既に書いたように、うちは今年、柑橘類が豊作である。しかも、無農薬としてはかなりキレイな果実が多い。

去年はリュウキュウミカンサビダニという害虫の被害を受けて8割以上の果実を廃棄するという散々な有様だったのが、今年は何の対策もしていないのにほとんどサビダニが出なかった。

これはうちだけでなくて、他の生産者でも同じような状況らしい(ただしハウス栽培については知らない)。多分、ほどよく雨が降ったので、ダニの密度が減ったということが一番の原因だと思う。

ところで、被害がないといっても全くないわけではない。ところどころ、やはりサビダニの魔の手に冒されているところがある。この様子がちょっと不思議な感じがしたので、備忘のために書いておこうと思う。

というのも、写真にあるように、極めてスポット的に被害が生じたのだ。隣の果実にはなんの被害もないのに、孤立して、全体を酷く食害された実が存在しているのである。どうしてこんな風になったのだろう?

サビダニたちは元は葉っぱに住んでいて、徐々に果実に移動してくるようだからこのように孤立的に被害が発生するということはないように思うが、実際は今回発生した被害のパターンは全部こんな感じだった。不思議だ。

サビダニ被害が少なかった原因が雨だけなら、こんな風にはならないと思う。雨はダニの密度を満遍なく全体的に下げるからだ。降雨がその大きな要因であるのは間違いないにしても、このような被害の状況を見ると他の要因もあったのではないかと推測される。

でもそれが何なのかは分からない。生態系がバランスし、天敵が増えて被害が収まるということもあるだろうが、それにしてもスポット的な被害の理由が分からないし…。うーん、よくわからない。

ちなみに、このリュウキュウミカンサビダニという害虫は、柑橘の害虫としては新参者の部類である。発見されたのは1978年(於エジプト)、日本での初見は1991年(於沖縄)である。そしてだんだんと被害は拡大している。

サビダニの仲間は昔からいて、昔からのミカンサビダニは防除方法もある程度確立しているようであるが、このリュウキュウミカンサビダニという新参者は割合に農薬に強く、なかなか根絶が難しいらしい。農薬を使っての防除はうまくやらないと効果が出ないようだ。今ちょうどいろいろ研究されているところのようなので、このスポット的な被害の本当の原因もこれから分かるかもしれない。

というか、現時点でも分かる方がいらっしゃれば、御高教を賜りますようお願いいたします。

2014年12月28日日曜日

無農薬のカンキツが豊作

自分でもビックリなことに、我が農園のカンキツが豊作である。

今年の南薩のカンキツ(ポンカン、タンカン等)はなぜか着果量が少なくおしなべて不作であり、農協に聞いたら「ポンカンは出荷量が例年の3割ほどしかない」と嘆いていた。

ところが、どうしてか我が農園では豊作なのだ。

しかも、もっと意外なことがある。一昨年から私は無農薬・無化学肥料での栽培を開始したので、昨年はもの凄い虫害(リュウキュウミカンサビダニの被害)を受けた。昨年は、なんと果実の8割くらいを廃棄するという悲惨な有様だったのである。そして、このサビダニというやつは、一度発生すると農薬で根絶しないかぎりいなくならず被害を出し続ける、と言われていたので、今年も戦々恐々としていたのだ。

が、蓋を開けてみれば、心配された虫害はさほどでもなく、無農薬としては信じられないくらいキレイな果実が多い。おそらくは天候に恵まれたためと思うが(雨が多いとサビダニの密度が減ると言われている)、農薬の防除を何もしなかったためサビダニの天敵も増えて、圃場生態系のバランスが勝手に適正化したのかもしれない。

というわけで、周りが不作の年にうちは豊作なので大儲けできそうだ…と踏んでいたら、そうは問屋が卸さないようである。何しろ、「無農薬にしたら5年間はマトモに収穫できないことを覚悟しておけ」と有機農業の先輩に脅されて(?)いたので、販路開拓の努力を何もしていなかった! なので、卸先がない。 ポンカンがもう収穫時期を迎えているのに…!

じゃあ農協に出せばいいじゃないか、と言われるかもしれないが、私は農協の基準に沿って栽培していないのでそれは不誠実というものだ。それに実際の問題として、私は収穫前に防腐剤をかけないので、当農園の果実は腐りが早いということがある。防腐剤をかけると2ヶ月くらいは保存ができるはずだが、防腐剤をかけないと1ヶ月くらいしか持たない。だから私が農協に出荷したら、農協の倉庫で腐る可能性があり、そうなると(集荷した果実は他の方のものと混ざるので)他の方の迷惑になる。

それで卸先の算段を今になってつけているところだが、いくら不作の年といっても個人で販路を開拓していくのはなかなか思うようにいかない。農作物の卸を経営している、頼みにしていた友人も「柑橘類は今の時期たくさん出ているし、無農薬といっても普通の人にはさほどアピールしないから無理そう」とか言っていた…。そんなもんなのか。

というわけで、今年はインターネットでの個人販売が頼りかもしれない。既に他の人はバンバン売っているところ、私は1月出荷を行うので今さらだが「予約販売」を開始することにした。みなさん、ご検討をよろしくお願いいたします。

>>【予約販売】無農薬・無化学肥料のポンカン

もちろん、大口顧客は大歓迎である。ぽんかん1キロ300円が当農園の基準価格なので、もしその条件で取り扱ってもよいという業者さんがいたらドシドシご連絡ください。

【参考リンク】ポンカンの本当の旬

2014年11月18日火曜日

Citrus meets Sugar——柑橘の世界史(8)

エジプトのサトウキビ畑
イスラームが中東で産声を上げた頃、紀元7世紀のササン朝ペルシアに、柑橘類よりももっともっと重要な、世界史的に超弩級に重要な作物が西方から伝えられてきた。

それは、サトウキビである。

サトウキビの栽培には豊富な水を必要とする。だから、半乾燥地帯である中東ではその栽培適地は限られた。最初は水の豊富なイランの低地、そしてシリアの海岸地帯、次いでエジプトのデルタ地帯と、栽培適地を求めるようにサトウキビの栽培は伝播していった。10〜11世紀にはキプロス島、クレタ島、シチリア島へ伝播し、12世紀頃には北アフリカ、マグリブ、イベリア半島へと広がっていった。

しかも、サトウキビ栽培には集約的な労働を必要とする。水管理だけでなく、かなりの肥料も要するし、それになにより砂糖の精製は工業的といえるほどの資本や労力がいる。そういうわけで、サトウキビ栽培は農民が自然発生的に取り組んだと言うより、貿易で財をなした富裕者や私領地(ダイア)を経営する政府高官が、高収益を見越した「事業」として組織的に取り組み、広まっていったのである。

それによって、イスラーム世界は世界史上で初めて、砂糖が豊富に存在する社会となった。もちろん砂糖はかなり高価な品であった。スルタン(君主)はラマダーン(断食月)になると臣下に砂糖を下賜したそうだし、宮廷では砂糖で作られた菓子(干菓子のようなもの)が見せびらかしのために作られた。しかし、それはほんの少ししか自然界に存在しない、ダイヤモンドのような貴重品ではなくて、お金さえ出せばいくらでも手に入る貴重品だったともいえる。

一方、庶民がどれくらい砂糖を手にできたかは地域によっても時代によっても違うようだ。だが12世紀以降になると、地中海南岸では庶民にとってもちょっとした贅沢をすれば手に入るものになっていたように思われる。

この、豊富に存在する砂糖が柑橘の世界史を動かした。酸っぱいレモンと、甘い砂糖、この組み合わせが、最強のレシピになったのである。

サトウキビ以前の社会では、甘いことは掛け値なしに最高の価値があった。甘い食べ物はそれだけで贅沢品で、滅多に食べられるものではなかった。だがひとたびサトウキビによる砂糖が登場すると、甘くしたいなら、砂糖を振りかけさえすれば実現できるようになった。

もちろんサトウキビ以前にもそれなりに甘味料はあった。伝統的な甘味料といえばまず蜂蜜、それから果物の果汁からつくる糖蜜(ジュラーブ)など。でもこれらは良くも悪くも甘みだけでない味わいがあるし、大量に穫れるものではなく、いつでもあるものでもなかった。しかし砂糖ならば、甘みだけをいつでも自由に足すことができた。

そうして、甘みそのものというよりも、甘みを引き立たせる苦さや酸っぱさに注目が移っていったのではないかと思う。そこにあったのが、苦いシトロンであり、酸っぱいレモンだった。

こうしてアラブ人は、レモンでジャムを作ることを考え出した(※インドから伝来した可能性もある)。

ジャムの歴史を繙くと、紀元前には既にジャムらしきものがあったらしい。しかしそれは例外的な存在で、砂糖と共に果実を煮てドロドロにするという、今のようなジャム(ムラーバmurrabaと呼ばれる)が普及したのは、まさにこのイスラーム時代なのだ。

ただし当時のジャムは、今のジャムのような長期保存食品ではなかった。そもそも密閉できる容器も僅かだったから、脱気(容器内から酸素を抜くこと)もできなかったと思う。どうやら当時のジャムの「賞味期限」は2〜3週間であったようだ。レモンなどはただ置いていても1ヶ月くらいは持つわけだから、長期保存したくてジャムにしたのではなく、ジャムにするのが美味しい食べ方だったからそうしていたに違いない。

当時の農業生産と人びとの暮らしを伝える『コルドバ歳時記』(または『コルドバ暦』)という10世紀の本がある。これは一種の農書と占いと年中行事のマニュアルであり、要するに各月に何をなすべきかということが書かれた本であるが、その1月の項目にも、レモンのジャムを作ることと、シトロンのシロップを作ることが厳選されたリストに挙げられている。

それだけでなく、季節季節の果実のジャムやシロップを作ることがこの本では奨励されていて、このころのイベリア半島では砂糖を単なる珍奇な贅沢品として扱うのではなく、果実の味をどう砂糖でアレンジするかという段階に入っていたことが窺える。

ところで現代のジャムも、糖度が50%くらいはあって、水分と砂糖だけで成分の90%くらいになる。つまりその他の成分はほんの数%しかなく、酸っぱさ成分などはさらにその一部でしかない。ということは、どの果実のジャムを食べてもその内実はほとんど砂糖水を固めたものであり、成分的な違いは5%とかそれくらいしかない。しかしこれを逆に考えると、ジャムの味はその数%、いや小数点以下%が支配しているのであり、いかに元の素材の味が重要かが分かる。

そう考えると、レモンはジャムの素材としてはなかなかに優秀だ。強い酸味があってジャムにすると甘酸っぱく、(おそらく果皮も入れていたと思うので)ジャムを作るのに不可欠なペクチンも豊富である。また、柑橘の爽やかな芳香はジャムに最適だ。

思えば、柑橘の先進国であった中国では、早い段階でスイートオレンジが発現したこともあって甘みの強い柑橘を求める品種改良がなされたが、イスラーム世界では甘みを求めた品種改良が柑橘に施されることはなかったようだ。それは、おそらく柑橘が常に砂糖とセットで扱われ、柑橘自体に甘みを求める必要がなかったからに違いない。

甘いオレンジを生みだした中国と、酸っぱいレモンを育てたイスラーム世界が、ここで面白い対照を見せるのである。

※冒頭画像はこちらのブログからお借りしました。

【参考文献】
『イスラームの生活と技術』1999年、佐藤次高
『イスラムの蔭に(生活の世界歴史7)』1975年、前嶋信次
"Food and Foodways of Medieval Cairenes: Aspects of Life in an Islamic Metropolis of the Eastern Mediterranean" 2011, Paulina Lewicka

2014年10月17日金曜日

アラブの農業革命——柑橘の世界史(7)

ヒシャーム宮殿のモザイク「生命の樹」
7世紀、中東と地中海世界は、突如としてアラブ人の時代に入った。イスラームの興隆が始まったのである。

アラビア半島の片隅で生まれたイスラームの共同体は、もの凄い勢いで周囲を飲み込んでいった。既にササン朝ペルシアやビザンツ帝国は老いた国となり往時の面影はなく、中東では、新たな秩序が求められていたといってもよいかもしれない。そこにうまい具合に現れたのが、イスラームという清冽で簡素な教えだった。

イスラーム勢力が、どのように地中海世界の覇者となっていったかを詳しく述べるのはやめにする。ひとたび広大な版図を支配したイスラーム帝国が分裂し、地方王朝が乱立していく経緯も、柑橘の世界史の観点からはさほど重要ではない。ここでは、西アジアから北アフリカ、スペインに至るまでの領域がイスラーム文明によって共通の基盤を与えられ、一つに繋がったということが重要である。8世紀から15世紀ごろまで、地中海の南側はイスラーム世界だった。

そしてこのイスラーム世界において、アラブ人たちが愛した果物がレモンである。 といっても、付け加えなければならないのは、アラブ人たちがその血として肉として愛した果樹というのは、なんといってもオリーブとナツメヤシだ。アラブ人たちは、オリーブとナツメヤシの育たない地域には、ついに国家を作ることがなかった。つまり、いわばこれらの果物が主食として愛された果物であるとするなら、レモンは嗜好品として愛された果物だった。

どうしてアラブ人たちはレモンを気に入ったのだろうか? その理由はよくわからない。というより、別にアラブ人たちはことさらにレモンだけに執心していたわけでもなさそうだ。なにしろアラブ人たちは果物に目がなくて、レモンだけでなくザクロ、ブドウ、バナナ、イチジク、メロン、サワーオレンジ、マルメロ、ナシ、リンゴなどたくさんの果物を楽しんでいた。とはいってもイスラーム世界において、レモンの栽培が広範囲に伝播し、その利用も様々に工夫されたこともまた事実である。なにしろ、レモンは『クルアーン(コーラン)』に出てくる「楽園」にある樹木と見なされることさえあった。

もちろん、栽培や利用の技術が発達・伝播したのもレモンだけではない。8世紀から11世紀は、イスラーム世界で農業技術が長足の進歩をなし、また様々な栽培植物が各地に伝播していった。この時代の農業生産性の向上を「アラブの農業革命」と呼ぶ人もいる。

例えばアラブ人たちが地中海世界に伝えた重要な作物だけを挙げても、稲、硬質小麦(強力粉を作るコムギ)、サトウキビ、棉、ソルガム、バナナ、ココナッツ、メロン、マンゴー、ほうれん草、タロイモ、アーティチョーク、ナスといったものがある。インドやアジアにあった作物を、貪欲に取り入れて各地に伝播していったことはイスラーム文明の大きな功績である。

これはもちろん、地中海南岸から中東、西アジアという広大な領域がイスラームという共通の文明に支配され、人や物の流通が盛んになったことによる。その上ムスリム(イスラームの信徒)には、一生に一度はメッカに巡礼することが推奨されており、まさにこのために人の行き来が盛んになった。以前も書いたように、作物の伝播にはただ種や苗が運ばれていくだけでなく、人の移動が不可欠である。巡礼をきっかけにした旅が新たな作物の伝播に寄与していたのではないかと思う。

また、農業技術や理論の面の進歩も著しかった。土壌論、土壌の改良、水利・水質論、肥料論、病害虫の防除といった現代の農学と同様の体系が構築された。栽培技術においては、特に商品作物となる園芸野菜と果樹について集約的な管理方法が開発された。こと果樹に関しては、植え付け、接ぎ木・挿し木、剪定、灌漑など現代の果樹管理と変わらない技術が既に用いられており、10世紀においておそらく世界最高峰の水準に達した。

イスラーム世界の中心である中東や北アフリカは半乾燥地域が多かったために、灌漑技術はことさら優れていた。古代イラン文化から引き継いだカナート(灌漑用のトンネル)やメソポタミアの水利技術を踏まえ、運河・隧道を開削し灌漑システムを作り、植物栽培における水管理を徹底した。これはまさに、年間を通して適切な降雨を必要とする柑橘類の栽培にはうってつけのものであった。

ところで、こうしためざましい成果を上げた園芸農業・果樹産業と違い、小麦や大麦など穀物の生産性はそれほどでもなかった。広大な農地に灌漑を行うことは無理であり、イスラーム世界の穀物栽培は天水(雨)に依存するものであった。地中海では冬にある程度の雨が降るが、穀物はその降雨に頼った栽培であったので、たまたま雨の少なかった年には収穫が激減する時があったようだ。であるからこそ余計に、都市近郊の集約的な園芸農業・果樹産業に力が入ったに違いない。博打的な穀物生産と、集約的で安定した園芸・果樹の2本立てがイスラーム世界の農業だった。

このイスラーム世界で、レモンを中心とした柑橘類はそれまでと違った歴史を歩むことになる。地中海世界では、それまで珍奇な香料や薬品でしかなかった柑橘が、食生活の中心に躍り出たのである。

【参考文献】
『イスラーム世界の興隆(世界の歴史6)』2008年、佐藤次高著
『イスラーム農書の世界』2007年、清水宏祐著
"Lemon: A Global History" 2012, Toby Sonneman

2014年10月1日水曜日

ユダヤ人のディアスポラとレモンの誕生——柑橘の世界史(6)

ササン朝ペルシアの最大版図(西暦621年)
時は紀元1世紀。草創期にあったローマ帝国での話である。

ユダヤ人はローマで他の人たちと様々な軋轢を抱えていた。その頃は皇帝崇拝が確立していく時期にあったが、自分たちの神以外の聖性を絶対に認めなかったユダヤ人たちは共同体から孤立しつつあり、反ユダヤ的な風説(例えばユダヤ人はロバを崇めているという嘘)が流布されていた。

また帝国には、借金を抱えて政治的不満を抱き、その不満をどこかにぶつけて憂さ晴らししたい人びとがたくさんいたようだ。「反ユダヤ」は、そういう輩にとって手っ取り早い「政治的主張」になっていたに違いない。

そういう状態の中、ある街でユダヤ人とギリシア人の偶発的衝突が起こった。ならず者のギリシア人がユダヤ人街で暴動を起こしたらしい。それに対してローマの軍隊は何もしなかったばかりかその機に乗じて自らもユダヤ人街で略奪行為を行った。これに刺激され他の都市でもユダヤ人居住区の焼き討ちが横行し、怒りに燃えたユダヤ人たちがエルサレムに集結してきた。そして自然発生的に戦闘へと突入し、西暦66年、「第1次ユダヤ戦争」が始まったのである。

だがユダヤ人たちはローマの軍隊に敗北し、この内戦は70年にエルサレムが陥落して終わった。そして壮麗なエルサレムの神殿は破壊され、街は廃墟になった。タキトゥスによればこの戦争で、(かなりの誇張があるにしても)119万7000人のユダヤ人が殺されたという。

この敗戦は、ユダヤ人たちの立場を一層弱いものにした。無益な反乱が起こったことで、反ユダヤ主義が正当化されたからだ。ユダヤ人への弾圧はローマ帝国によって組織的に行われるようになった。そんな中、エルサレム陥落から約50年後、ハドリアヌス帝はエルサレムの廃墟を取り壊し、新たなポリスを建てる計画を立案した。ハドリアヌス帝はユダヤ人に同情的だったと言われるが、かつての神殿の跡地にユピテル神を祀るローマの神殿が建てられることはユダヤ人には耐え難かった。これがきっかけとなって、再びユダヤ人たちが集結し、今度は偶発的ではなく計画的に、ローマ帝国対ユダヤ人の全面戦争が起こった。西暦132年のことであった(バル・コクバの乱/第2次ユダヤ戦争)。

この戦争でもユダヤ人は敗北した(135年)。そして古代ユダヤ国家の歴史はここに幕を閉じることになる。そしてエルサレムという本拠地を失ったユダヤ人の、長い長い流浪の旅(ディアスポラが始まった。最初は家を失ったユダヤ人の臨時的な移住から始まったのだろう。ユダヤ人はローマ帝国内にちりぢりになり、またローマ帝国に絶望した者たちは、帝国を離れて亡命していった。

有望な亡命先は、ローマと敵対関係にあったパルティアバビロニアだった。パルティアはユダヤ人に対して融和的で、かなりの自治を認めていたようだ。そのためバビロニアには大勢のユダヤ人が集まった。

3世紀になるとパルティアが滅びササン朝ペルシアが興る。ササン朝は古代イラン文化の集大成とも言うべき国家である。ササン朝は後にゾロアスター教を国教化して宗教的に寛容でなくなるが、少なくとも初期はパルティアと同様にユダヤ人に融和的だった。

パルティアからササン朝に至る間、バビロニアではアーモーラーイームと呼ばれるユダヤ人の律法伝達者が次々に現れ、口伝律法を整理し、次第に精緻で巨大な宗教規則の体系(タルムード)を築き上げた。バビロニア時代は、イスラエルを失ったユダヤ人の、新たなアイデンティティの確立の時期にあたっていたように思われる。

そうこうしている間も、ユダヤ人は毎年の「仮庵の祭り」のためのシトロンを栽培し続けていた。どんな場所に流浪しようとも、律法に定められた毎年のシトロンは欠かさなかったはずだ。それどころかまさにこの頃、祭儀用のシトロンが満たすべきこまごまとした定めが作られたのだと思う。ユダヤ人のディアスポラは次第にその範囲を広げ、スペイン、北アフリカ、小アジア(トルコ)、エーゲ海の島々、ギリシア、イタリアなどに移住していったが、これらは全て柑橘類の生育適地だった。もしかしたらユダヤ人の移住地の選択は、シトロンが栽培可能であることが制約条件になっていたのかもしれない。

ユダヤ人はこうして、その長い流浪の旅で、各地へ柑橘栽培の技術と文化を伝えていった

ところで、おそらくは西暦1世紀から2世紀にかけて、中東へ新しい柑橘が渡ってきた。ちょうどシルクロードや海上の交易が盛んになる時代で、多分交易によってそれは東方から運ばれてきた。その柑橘はオレンジである。といっても、この頃のオレンジは甘くなく、日本で言えばダイダイのような酸っぱいオレンジ(サワーオレンジ)だ。

ササン朝ペルシア時代には、当時の人がオレンジを食べていたという話がある。この食べても美味しくない柑橘の原産地は、おそらく柑橘の故郷である北インドで、そこから伝播していくのに随分時間がかかったが、確かにゆっくりと広まっていった。これは推測だが、オレンジは肉の味付けに使われていたのではないかと思う。ササン朝ペルシアが国教としたゾロアスター教は食に対するタブーがなく、現世の享楽を是としていたので豊かな食文化が花開いた。肉を美味しく食べるための工夫が酸っぱいオレンジでの味付けだったのではないだろうか。

そしてこの頃、サワーオレンジと、ユダヤ人たちが携えていたシトロン、この2つの柑橘が自然交雑し、(正確な場所はわからないながら)この中東で重要な新品種が生まれた。レモンの誕生である。3世紀後頃、ちょうどユダヤ人がバビロニアでタルムードの編纂に邁進している頃のことだった。後に世界中で栽培されることになるこの柑橘は、古代ペルシア文化とユダヤ人が交差したその時に生まれたものなのだ。柑橘の世界史における、新しい時代の始まりだった。

【参考文献】
『ユダヤ人の歴史(上巻)』1999年、ポール・ジョンソン、石田 友雄 (監修)
『ゾロアスター教』2008年、青木 健
The Origin of Cultivated Citrus as Inferred from Internal Transcribed Spacer and Chloroplast DNA Sequence and Amplified Fragment Length Polymorphism Fingerprints" JASHS July 2010 vol. 135 no. 4 341-350, Xiaomeng Li et al.

冒頭画像:"Sassanian Empire 621 A.D" by Keeby101 - I used Photoshop, cropped the image, drew the borders, coloered the map and labeled all of the cities.. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons.

2014年9月19日金曜日

シトロンとユダヤ人——柑橘の世界史(5)

エトログ・ボックス
旧約聖書に『レビ記』という、様々な律法について語る一篇がある。

『レビ記』の第23章では、他の様々な祭日とともに「仮庵の祭り」の説明がなされる。「仮庵(かりいお)の祭り」とは、ユダヤ教の重要な祭日で一種の収穫祭的な性格を持ち、ユダヤ人の祖先が奴隷状態にあったエジプトを脱出したことを記念して行われるものである。祭りはこのように始まる。
初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。 —(レビ記第23章40節)
この簡単な一文が、意外なことに柑橘の世界史へ甚大な影響を及ぼした。古代ユダヤ人たちが、ここに記述された「美しい木の実」をシトロンであると解釈したからである。

彼らはこの「美しい木の実」をエトログetrog)と呼んだ。元々、それがシトロンを意味した言葉かどうか定かでない。しかし、いつしかこれはシトロンであるということになった。その理由はよく分からないし、いつからそうなったのかも不明である。ともかく、紀元前の世界において既にエトログはシトロンとみなされていた。

律法というものを厳格に考えるユダヤ人たちは、「仮庵の祭り」のその日のために、毎年欠かすことなくシトロンを用意した。その用意が一日でも遅れることはあってはならなかったので、毎年確実にこの実が手に入れられるよう気をもんだ。

後代のことであるが、彼らは前もって手に入れたシトロンを箱に入れて大事に保管し、祭りの最中もその箱に入れていた。その箱はエトログ・ボックスといって、入念な細工が施された高級な宝石箱のようなものだった。ユダヤ人たちは、祭りの際はシトロンをまるで宝石のように大切に扱ったのである。

特に東欧に移住したユダヤ人たちにとって、シトロンは実際に宝石並の高級品でもあったようだ。南方の植物であるシトロンは東欧では育てることができなかったためである。空輸のような流通がなかった前近代において、毎年決まった日までにシトロンを確実に手に入れることは、かなりの苦労が伴ったと思われる。

それは古代でも同じだった。ユダヤ人たちが住んでいた中東は半乾燥地帯であったので、シトロンは自然にまかせて収穫できるものではなかったからだ。ユダヤ人たちは「仮庵の祭り」のためのシトロンを自ら栽培しなくてはならなかった。もちろん全てのユダヤ人がシトロン栽培者だったわけではないが、広域の流通が簡単ではなかった古代においては、ユダヤ人のいる街には少なからずシトロンが育てられていただろう。

そしてさらには、シトロンの栽培は難しかった。野生に近く、食べられないこの柑橘は、元々はさぞ強壮で育てやすい樹ではなかったかと思われる。しかし、祭りに使えるシトロンが満たすべき条件は後にこまごまと追加されて、それが新たな律法となり、ユダヤ人たちは厳しい条件の中でシトロンを育てなくてはならなかった。

例えば、祭り用のシトロンは接ぎ木では作ってはいけないとされた。耐病害虫、耐寒性などが優れた接ぎ木ではなく、実生(種から育てる)であることは生育適地を限定し、生産コストを高めた。また、ほんのちょっとのキズでもついていてはならないため、樹になった実のほとんどが使い物にならないこともあった。

ユダヤ人たちはこうした非常に厳しい条件の中で、毎年必ず決まった量の、決まった規格のシトロンを収穫し、定められた日までに、全てのユダヤ人コミュニティへと配送するという、古代社会としてはべらぼうに高度な生産・流通の仕組みを構築したのである。

少し話は脱線するが、ユダヤ人が祭りのためにシトロン栽培者にならざるをえなかったように、祭儀は農業の発展に意外と深く関わっている。例えば、牛の家畜化の起源には諸説あるが、祭儀での犠牲のためという説がある。牛を犠牲に献げる祭儀があり、その祭儀の日が予め決まっている場合、どうしても野生の牛を前もって捕らえ、祭儀の日まで飼育しなくてはならない。その短期間の飼育が、家畜化の第一歩だというのである。

考えてみれば、荒っぽい性格の野生の牛を傷つけずに捕らえ、逃げないよう柵で囲った場所を作り、餌をやり、糞尿の処理をするという大仕事を、ただ美味しい肉が食べたいということのためにやるのは道理が立たない。それならば、ただ野生の牛を仕留めて食べればいいだけの話で飼育する必要がない。飼育するというのは、特定の日に屠る、というなんらかの制約があったためなのだ。

他にも、ニワトリの家畜化も同様な祭儀と関係しているとする説がある(※)。畜産というのは現代でも大きな労力と資本を要するわけで、ただの畜産よりも遙かに困難な野生動物の馴化という偉業をなしとげるインセンティブは、祭儀くらいしか考えられない。農業というのは、ただ植物や動物を育てることではなく、植物や動物を人間の都合のいいように作りかえていくというプロセスが必要である。生き物を作りかえていくという巨大なエネルギーは、美味しいものをお腹いっぱい食べたいという欲望ではなくて、神へ捧げなくてはならないという畏怖の気持ちであろう。

ユダヤ人たちも、神へ献げる特別なシトロンを栽培しなくてはならなかったお陰で、非常に高い柑橘生産の技術を獲得したのである。『レビ記』のそっけない一文が、ユダヤ人たちを優秀な柑橘生産者にしたわけだ。そしてその技術は、後にユダヤ人たちのディアスポラ(離散)によって地中海世界全体へと伝播していくことになる。

※ それどころか、小麦の栽培も神に捧げるビール造りを行うために開始されたとか、多くの植物・動物の馴化に祭儀が関わっているとする説がある。

【参考文献】
レビ記』1955年、日本聖書協会
"The Saga of the Citron" Toby Sonneman

2014年9月10日水曜日

西方へもたらされた唯一の柑橘——柑橘の世界史(4)

シトロン
シトロン
中国で楚の屈原が柑橘を誉め称える詩を作ってから暫く後、ギリシアではテオプラストスという哲学者が重要な本を執筆した。それは『植物誌』といって、西洋ではなんとルネサンスに至るまで1500年以上もの間、植物学の最重要文献であったという驚異的な本である。紀元前3世紀のことであった。

その『植物誌』に、柑橘の一種である「シトロン」が記載されている。

シトロンは日本では馴染みのない果物だが、レモンに似た柑橘で、大きさが文旦くらいで表面はゴツゴツしており、果肉・果汁が極端に少なく白い皮の部分がめちゃくちゃ厚い。シトロンの果肉はパサパサしていて食べられないが、白い皮の部分は現代ではマーマレードにしたり砂糖漬けにしたりもする。

漢名は枸櫞(くえん)といい、なじみ深い「クエン酸」は実はこの果実の名前から名付けられたものだ。

このシトロンは、古代ギリシアでは「メディアの林檎」とか「ペルシアの林檎」とか呼ばれていた。原産地は遠くインドであったが、テオプラストスはそれをまだ知らず、ペルシア(そこはかつてメディアという国があったところでもある)原産の果物だと思っていたようだ。テオプラストスによると、
この「林檎」は食べられないが、実も葉もとても香りがよい。そしてこの「林檎」を服に入れておけば、虫がつくのを防ぐこともできる。また毒薬を飲んだときにも有効だ。ワインにいれて飲めば胃を逆流させて、毒を吐き出させる。…
ということである。不思議なことだが、インドには様々な柑橘類が産していたにも関わらず、古代において西方の地中海世界に伝えられた柑橘は、ただ一つこのシトロンだけだった。どうしてこの食べられない果物だけが伝わっていったのかはよく分からない。香り付けによいということだったにしても、他にも香りのよい柑橘はあったはずで、なぜシトロンだけが特に選ばれたのかは謎である。

紀元前4000年に、既にメソポタミアではシトロンが伝えられていたというから、この果実の西方世界への伝播は非常に早かった。柑橘は年間を通じて適度な降雨を必要とするから、半乾燥地帯である中東に自然に(人の手を介さず)広まっていったということは考えられず、人為的に持ち込まれ、栽培されていたのは間違いない。もしかしたらシトロンは、その解毒作用を期待されて広まったのかもしれない。毒薬を飲むという状況が、そんなに頻繁にあったのかどうかは分からないが、 特別な薬としての需要はあっただろう。

中東では古くから栽培されていたこのシトロンが、中東からさほど離れていないギリシアへと伝わったのは割合に遅く、伝説ではアレクサンドロス大王の東征の際(紀元前4世紀)にもたらされたと言われている。

アレクサンドロス大王はその短い生涯でマケドニア(北方ギリシア)から東インドに至る空前の世界帝国をつくり上げ、それによってこの広大な地域の文化が相互に交流した。教科書などでは東方にギリシア風の文化が広がり、ヘレニズム(ギリシア風)文化が興ったと説明されがちだが、アレクサンドロスはむしろペルシアの進んだ文化を積極的に取り入れており、ついにはマケドニアの服装も捨て、ペルシア風の装束に身を包んだほどである。一方方向にギリシア文化が伝わったわけではなく、この時代は、最初の東西文化交流の時代であった。

すなわち、アレクサンドロスの時代、ギリシアのものが東方に伝播していっただけでなく、中東からインドにかけての様々な文物が、大量にギリシアに入ってきたのである。『アレクサンドロス大王東征記』などにはシトロンの記載はないが、ギリシアから東インドの政治的統合が、シトロン伝播の遠因となったというのはありそうなことだ。

蓋し、栽培植物の伝播というのは、意外と政治的なものに支配されている。一国の国土というものは、だいたい似たような気候風土で纏まっていることが多いし、隣国との境は険しい山脈や大河で隔てられていることも多いから、単純に政治的な国境が栽培植物の伝播を妨げているとはいえない。しかし、全く別の文明が支配する領域にはある種の栽培植物がなかなか広がっていかないことも事実である。植物の栽培というものは、種や苗の移動だけでなくて、それを育てて利用する技術と文化をもった人間が移動していかなくてはならないからだ。

逆に言えば、人間の移動によって、栽培植物はその生来適応した環境を超えて広範囲に伝播しうる。このシトロンこそは、人の移動によって最初にヨーロッパへともたらされた柑橘なのであるが、それは次回に詳しく述べることとしよう。

【参考文献】
"Enquiry into plants and minor works on odours and weather signs, with an English translation by Sir Arthur Hort, bart" 引用は拙訳によった。

※冒頭画像は、こちらのサイトからお借りしました。

2014年8月29日金曜日

「柑」の誕生——柑橘の世界史(3)

既にたびたび書いてきたように、柑橘類というものは元々は甘くなかった。アッサム地方に発祥し、中国大陸へと渡ってきた柑橘類は、酸っぱいオレンジ(サワーオレンジ)たちであり、食用ではなく薬用または香り付けのためのものだった。

今あるような、甘いミカンやオレンジ(スウィートオレンジ)がいつどうやって誕生したのかはよくわかっていない。おそらく、酸っぱいミカン(ダイダイのようなもの)と文旦類の自然交雑か突然変異によって生まれたと考えられており、少なくともそれは紀元前450年より前のことだった。というのも、これも既に書いたが湖南省にある紀元前450年と推定されるお墓から、スウィートオレンジのものとみられる種が発見されているのである。

しかし、この甘くて美味しい新品種は、意外なことになかなか中国大陸に広まっていかなかった。その理由を理解するには、少しだけ柑橘類の性質について理解する必要がある。

柑橘類というのは遺伝的に非常に多様であって、形質が安定していない。例えば、ミカンを食べた時にその種を取っておいて、それを庭に植えたら同じようなミカンが穫れるかというと、普通は穫れない。元のミカンよりも酸っぱかったり、小さかったり、あるいは全然別のミカンになってしまうこともある。どうしてこうなるかというと、現在我々が利用している柑橘類は、様々な系統の柑橘を交雑し、交雑に交雑を重ねて作られたものだからである。

形質が安定していないことは、変化が大きいということだから、新品種を生みだす可能性もまた大きい。近年になって柑橘類は訳が分からなくなるほど新品種が開発・導入されているが、これは柑橘の巨大な多様性のお陰なのである。

それは古代中国においてもさほど変わらなかった。できたばかりのスウィートオレンジは遺伝的に安定せず、増やそうと思っても種からは増やせなかった。たくさんの種を取って、その中の一つから育てた木で甘い柑橘が穫れる、というような具合だっただろう。そのため、スウィートオレンジが長江流域に広がっていくには数世紀の時間を要した。

しかしその数世紀の間に、この新品種は膨大な数の交雑を経験したに違いない。そして生まれたたくさんのスウィートオレンジたちが、より美味しいものを求める人びとの手によって選抜されていった。それは意図せざる品種改良の数世紀だったのである。

ところで、そのような変異が大きい柑橘の木を元の形質を保ったまま増やしていくために、現代では「接ぎ木」という技術が使われる。接ぎ木というのは、別の植物の根っこ(台木)に、増やしたい植物の枝をくっつけて、一種のキメラ植物を作る技術である。植物には動物のような免疫機構がないので、別の植物にくっつけるという生体移植が容易に行えるのである。ちなみに、柑橘の台木にはカラタチ(枳)が使われることが多く、ほとんどの柑橘はカラタチの根を持っていることになる。

私たちが食べている普通の柑橘というのは、全てがこの接ぎ木によって増やされたものである。接ぎ木というのは一種のクローンだから、ある品種のミカンの木は全て、ある一本の木からコピーされたクローンというわけだ。

この「接ぎ木」、どうやら中国でもかなり古くから知られていたらしい。といってもいつから接ぎ木がなされていたのかは不明である。6世紀の記録に既に接ぎ木があるというから、少なくとも6世紀にはこの技術は一般化していたようだ。さらに推測すれば、中国古典において「橘」と「枳」が対応するものとして述べられていることを思い出すと、おそらくカラタチ台木を使った接ぎ木の技術は紀元前を遡るかもしれない。中国は、世界で最も古く接ぎ木の技術が発見された地域であろう。

この接ぎ木の技術が一般化することで、美味しい柑橘をならす木を効率的に増やすことができるようになった。それで、品種改良のスピードもアップし、生産量も拡大したに違いない。

さらにもう一つ、柑橘生産に役立つ栽培技術が紀元前後の中国で開発されている。それはいわゆるシトラス・アント(柑橘蟻)の利用である。私も小規模ながら柑橘を無農薬栽培しているが、柑橘の木というのは害虫にとても弱い。特に苗木の時は、農薬なしで育てるのは非常に難しいと思う。古代の柑橘はこれほど弱くなくても、農薬などない時代、やはり他の植物よりも育てるのが難しかったろう。

そのため、中国人はシトラス・アントという特殊な蟻を利用することを考えついた。これはツムギアリであると考えられているが、この蟻をあえて柑橘の木に棲みつかせることで、他の害虫を予防したのである。西暦304年に著された『南方草木状』には既にこの蟻が袋に詰められて柑橘栽培者へ向けて販売されていることが述べられており、これは世界で最も古い生物的防除の技術かもしれない。この技術は、それから1700年以上もの間、中国大陸において柑橘の害虫防除のために使われている。

こうした技術のお陰で、偶然によって生まれたスウィートオレンジは様々に品種改良され、また安定的に生産できるようになっていった。紀元後の数世紀で、中国大陸に世界最古の柑橘産業(citriculture)が成立するのである。そして、この新参者の甘いオレンジの一群を総称するものとして、中国人は「柑(かん)」——甘い木——という字を作り、与えたのであった。

【参考文献】
『Odessy of the Orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper
『ダニによるダニ退治: カナダからアメリカへ』2001年、森樊須

2014年8月11日月曜日

中国古典に見る柑橘——柑橘の世界史(2)

屈原(横山大観作)
中国大陸では古くから柑橘が利用されていたようだが、どのように扱われていたのだろうか。中国古典における柑橘の記述を探ってそれを確認してみたい。

その嚆矢は『書経』である。『書経』は伝説的古代を語る中国で最初の歴史書であり、成立年代ははっきりしていないが、紀元前7世紀あたりから徐々にまとめられ、紀元前4世紀ほどには成立したと見られている。柑橘の記載があるのは、中国の初代王朝である「夏」の歴史を述べる部分で、「禹貢」という章である。

「禹(う)」は夏の聖王であり、黄河と長江に挟まれた広い領域の土木事業・治水事業を行い、後世の模範となる善政を敷いたとされている。「禹貢」は、禹が各地を平定し、それぞれの地域ごとに貢ぎ物(税金のように定例的に上納するもの)を定めるという構成の章である。

柑橘が述べられるのはこの章の「揚州」の項。揚州とは、長江流域の地域を指し、ここからの貢ぎ物として「金、銀、銅、瑤(よう)、象牙、孟宗竹、木材」などなどを禹は指定している。そしてその貢ぎ物に付随するものとして「橘と柚(ゆず)」を挙げている(※)。ここでいう「橘」は柑橘の総称であり、「柚」はユズのことと解されている。

「禹貢」全体を通じてみても、貢ぎ物は各地の特産品、それも特に貴重なものが指定されているから、古代中国において「橘と柚」はかなり貴重・珍重なものだったことがわかる。ではそれはどのように利用されていたのだろうか。今の我々と同じように、古代中国の人びともミカンを食べていたのだろうか?

実は、歴史の黎明の頃、まだ橘や柚は食べるものではなかったようだ。それを示唆するのが『楚辞』の記述である。『楚辞』は文字通り「楚の言葉」の意で、紀元前3世紀ごろにまとめられた楚の詩集。「楚」は長江流域にあった国家の名で、地図的には先ほどの「揚州」と重なる。

『楚辞』の主要作品の作者である屈原は「橘頌(きっしょう)」という詩を詠んでいて、「九章」という連作詩の一編をなしている。これはまず間違いなく柑橘をテーマにした最古の詩であろう。 「橘頌」はこういう風に始まる。
后皇の嘉樹、
橘徠(きた)り服す。
命を受けて遷らず、
南国に生ず。
深固にして徙(うつ)し難く、
更に志を壱にす。…

皇天后土の生んだよい樹、
橘はここに来て風土に適応し、
天の命を受けて他国に遷らず、
南国楚に生ずる。
根は深くて移植しがたく、
その上その志は一途で二心がない。…(星川 清孝訳)
こういう調子で、「橘頌」は橘の美点(見た目が美しいとか)を次々と挙げ、自分もそのように清廉潔白で志が高くありたいと理想的人格を投影している。

少し話が脱線するようだが、この機会に屈原について語っておこう。屈原は楚の王家に生まれ、博覧強記で政治能力が高く王の寵愛を受けながら、そのために妬まれ讒言を受けて左遷され、自分の諫言が受け入れられないことを嘆いて楚の将来を悲観し、ついには入水自殺した人物である。「九章」は、王から遠ざけられて悲憤慷慨し、また憂愁の情を抱きながら、それでも自分は清廉に生きていこうとする内容の連作詩であり、極めて叙情的であるとともに神話伝説などをも織り込み、天上世界にまで到達するというロマン的な筋書きを持っていて、ダンテの『神曲』を彷彿とさせる

この一遍として「橘頌」はある。ただ橘が美しいので自分もそうありたい、というだけのことではなく、讒言を受けても左遷されても結局楚を離れなかった屈原の、決して他国に移植することのできない橘のように自分も楚で生きていくのだ、という強い決意を表明したものなのであろう。

そして問題なのは、屈原が掲げる数々の橘の美点である。緑の葉に白い花がまじって可愛らしいとかいろいろ橘を褒めるのだが、一言も「美味しい」とは褒めないのである。橘が食べるものであったとしたら、これは甚だ不自然なことであり、おそらく屈原は橘を食べたことがなかった。柑橘をテーマにした世界初の詩を編むくらいであるから橘を愛でることにかけては激しかったはずの屈原すら美味しいとは褒めないわけで、ここに詠われている橘が食用でなかったことは確実である。

おそらく、古代中国において、橘は主に観賞用や香料、そしておそらくは薬として使われていた。このころの橘は、概して酸っぱいものであり、 食用に適したものではなかったようである。しかし不思議なのは、湖南省の、紀元前450年のものと推定されているお墓からスイートオレンジの種が見つかっていることである。つまり、古代中国においても既に甘い柑橘は存在していた。だがその栽培が難しかったのか、あるいは増やすのが難しかったのか、この甘い柑橘が広まっていくには暫く時間を要した。

また、「橘頌」でも「橘はここに来て風土に適応し」と述べられているように、古代中国においてはまだ橘は外来のものと認識されていたようだ。私は柑橘の伝来は稲作と同じくらい古いのではないかと想像するものだが、少なくとも屈原の愛した橘は、古代において「かつてはそこになかったもの」であった。その時代に品種改良された新しい「橘」だったのだろうか?

最後に『晏子春秋』の記載も紹介しよう。これは戦国時代の斉において宰相を務めた晏子の言行録であるが、そこに「南橘北枳」のエピソードが出てくる(内篇雑下第六第十章)。晏子の言として「橘は淮南で生ずれば橘となり、淮北で生ずれば枳になる」という。これは、淮南(淮河の南)と淮北で気候風土が異なることを述べる言葉なのだが、既にこの頃カラタチ(枳)が知られ、橘に対応するものであると考えられていたのが面白い。

そして、『晏子春秋』には、楚王が晏子を饗応するのに橘を勧める場面も出てくる。やはり食べられる橘の品種もあったことはあったらしい(楚王はことある毎に晏子に嫌がらせをするので、嫌がらせの一環だった可能性もあるがこの場面では違うと思う)。王様が勧めるくらいだから、相当に珍重なものだったのは確かだろう。

これらの中国古典から考えると、古くから長江流域(古くは揚州、後に楚国となった地域)には橘や柚が産したが、それらは当時としては外来のもので、また甘い品種は極めて限定的で多くの品種は食用ではなかったようである(というか、橘が甘いという記載は古典には見当たらない)。しかし、アッサムから長江へと渡ってきた柑橘は、中国大陸で徐々に美味しい果物へと変化していく。おそらく、屈原や晏子が生きた戦国時代が、柑橘が甘いものとなっていくターニングポイントだったのではないだろうか。

【参考資料】
『中国古典文学大系 書経・易経(抄)』1972年、赤塚 忠
『楚辞』1980年、星川 清孝
『Odessy of the Orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper

※ 原文「厥包橘柚、錫貢」。「錫貢」の意味は完全に確定していないが、「王命を受けてから持参する」の意とされている。貢ぎ物のように定期的に上納するのではなくて、特に指示があった時に納めるもののようである。

※冒頭画像はこちらのサイトからお借りしました。

2014年8月10日日曜日

インドからの東漸——柑橘の世界史(1)

アッサム州の位置
柑橘類というのは、大変にバラエティに富んでいる。ミカン、オレンジ、レモン、文旦、グレープフルーツ、スダチ、ダイダイ…。おそらく世界には数千種類の品種があると思われる。これらのほとんどは人為的な品種改良によって生みだされたものだが、その元となった野生種はどこから来たのだろうか。

オレンジやレモンのイメージがアメリカの柑橘産業と結びついていることもあって、柑橘の原産地は西欧のどこかだと思われがちだ。しかし柑橘の世界史はインドから始まる。インドと言っても、ヒマラヤの麓、ブータンの近くのアッサムあたりである。東へ少しいけばミャンマーがあり、北へ行けば中国に至る、そんな場所である。

このアッサムの山地に柑橘の原種はあった。といっても、柑橘類全ての母となる特定の植物がアッサムで見つかったわけではない。このあたりには驚くほど多様性に富んだ野生の柑橘が産していて、世界中のどんな柑橘でも、ここで似た野生種を探すことができる。そのため、おそらくこのあたりが柑橘のふるさとであったのだろうと推測されているのである。

であるから、インド文明は相当に古くから柑橘を知っていたはずである。しかしながら、古代インド人たちは、柑橘を積極的に利用しなかったようだ。紀元前800年ほどに成立したヴェーダ(バラモン教の聖典)の一種Vajasineyi Samhitaに柑橘の記載があるというが、多くの文献で出てくるわけでもないし、柑橘が宗教儀礼にも用いられた形跡がない。

さらに時代を下って仏典を見てみる。仏典では、様々な植物が言及されているが、ここでも柑橘の記載はほとんどない。唯一、ナガエミカン(wood apple)が知られているだけである(※1)。時代が更に下って仏教が東漸してゆくと、それに伴ってシトロンの一種である仏手柑が寺院に植えられるようになるようだが、これは古くからの風習が伝播していったというより、仏教が形骸化・形式化していく中で、仏手柑の象徴性が珍重されたものと思われる。

つまり、インドの人びとは古くから柑橘を知りながら、これをさほど重視しなかった。ではどのような果物を重んじたかというと、バナナやマンゴーといった甘味の強い熱帯性のものであった。そもそも、インド亜大陸の熱帯の気候と柑橘の相性はよくない。柑橘は、年間を通して適切な降雨が必要であり、雨季と乾季が明確に分かれているような気候の下では栽培が難しい。おそらく、古代インド人が柑橘を重んじなかったのは、インドの多くの地域で栽培が困難であり、またこれよりも美味しい熱帯の果物に恵まれていたからに違いない。

だが、アッサムで細々と利用されるに過ぎなかった柑橘も、ずっとそこへ留まっていなかった。稲作が東漸してやがて日本へも伝わったように、東南アジアへ、そして中国へとかなり早い段階から広まっていくのである。憶測に過ぎないが、おそらくこの伝播は稲作と同じくらい歴史が古い

柑橘をアッサムから東南アジアへ、そして中国へと伝えた人びとは、後に彝族(イ族)、と呼ばれる民族であると考えられている。現在では南東チベット、雲南省、四川省などに居住している中国の少数民族である。とはいえ、歴史以前のことであるため、彝族が柑橘栽培の伝道者だったのかどうかは正確には分からない。しかしアッサム地域が、山地に大きな川が流れる温暖湿潤な稲作地域であることを考えると、彝族のような稲作農耕民が稲作と共に柑橘の栽培も各地へ伝えていったことは確かなことと思う(※)。

今でこそ北海道でも稲作ができるようになったが、それはごく最近の現象であり、稲作は南方の農業であった。特に、亜熱帯の長粒種による稲作はそうである。柑橘も霜を嫌い、温暖湿潤な気候を好む植物であるから、栽培に好適な地域は稲作地域とほとんど重なっていたはずだ。逆に、乾燥地・寒冷地の農業の中心は麦作になるが、インドの南の方や中国大陸の北の方など、麦作地域には柑橘栽培は伝播していかなかった。

これは柑橘や稲作だけでなく農耕全てに通じる伝播の一般則だが、農耕というものは南北には伝わらず、気候が似た東西に伝わっていくものである。インドのアッサムに始まった柑橘はまずは東へ進み、東南アジアを通って中国の南部、雲南省や四川省へと広がっていくのである。

【参考文献】
『栽培植物と農耕の起源』1966年、中尾佐助
『Odessy of the orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper
『仏典の中の樹木—その性質と意義(2)』1973年、満久崇麿
『ヒマラヤ地帯と柑橘の発現』1959年、田中長三郎
The Exotic History of Citrus』2012年、Patrick Hunt

※1 参考資料『仏典の中の樹木』では、ナガエミカンの他にベルノキ(アップル・マンゴー)もミカン科とされているが、これは近縁種だけれども正確にはミカン科でないから除外。
※2 稲作の起源は中国南部とされているが、イネ自体はインドが原産であると考えられている。イネも古くからインドに産しながら積極的利用がされず、東漸して中国に至って栽培が確立したのである。

2014年8月6日水曜日

柑橘の世界史序説

私は「一応」農業を営んでいるのだが、それ以外にもいろいろと(お金にはならない)アレコレをやっているので、時々「何を作っているの?」と農家なのかどうか訝しがられる時がある。

私がメインにしたいと思っているのは果樹、それも柑橘類で、今現在、ぽんかん、たんかん、しらぬい、ブラッドオレンジ(苗木)、ベルガモット(苗木)、ライム(苗木)、グレープフルーツ(苗木)などなどあわせて約60〜70aを栽培中である。

そんなわけで、柑橘類の来し方行く末にはひとかたならぬ興味がある。特に心が惹かれるのは歴史の方だ。 今では世界中で生産され、果物としてはおそらく世界最大の生産量を誇る柑橘類が、いかにして伝播し、品種改良され、消費され、人類の歴史と文化に影響を及ぼしてきたかということを、直接には農業と関係なくとも、深く知りたいと思う。柑橘類の濫觴からこうしたことを説き起こせば、きっと「柑橘の世界史」が出来るに違いない。

それに関して、今年に入って最近刊行された2冊の本を読んだ。まずはピエール・ラスロー著『柑橘の文化誌』。そしてトビー・ゾネマン著『Lemon: A Global History』。『柑橘の文化誌』の方は副題が「歴史と人とのかかわり」とあり、それなりに歴史の話も出てくるが、体系的な叙述というより著者の興味関心の赴くままに述べたという風で四方山話的である。『Lemon』はレモンを中心とする柑橘の歴史が端正にまとめられている良書だが、「世界史(Global History)」と銘打ちながら結局はヨーロッパとアメリカの話しか出てこないのが問題である。

だがそもそも柑橘の原産地はインドや中国なのだから、話は東洋から始まるはずである。2冊とも、話がヨーロッパとアメリカの近代史以外の部分が簡単に過ぎる。それに、これらの本を書いているのは柑橘の専門家というわけでもないし(ラスローさんは科学者で、ゾネマンさんはジャーナリスト)、柑橘類の栽培技術という点について等閑に付しているきらいがある。

そこで、浅学菲才の身ではあるが、東洋の話を織り込むことと、柑橘栽培の技術発達についても触れることにして、私なりの「柑橘の世界史」を書いてみたい。とはいっても、この2冊に書かれていることは大いに参考にさせてもらうし、特に16世紀以降についてはほとんど独自の知見を付け加えることはできないかもしれない。そして、このブログ上で簡潔にまとめるだけだから、柑橘の世界史の大まかなアウトラインをなぞるに過ぎない。それでも、こういうテーマで体系立った記述をすることは自分の勉強にもなるし、今後の柑橘産業を考える材料にもなるだろう。

これから徐々に書いていこうと思うので、気長におつきあい頂ければ幸いである。

【参考】これまでに書いた柑橘の歴史に関する記事
世界史から見るタンカンの来歴
なぜホテルの朝食にはオレンジジュースが出てくるのか?