2012年5月31日木曜日

ハスクバーナのチェンソーが実は安い

ヤフオクでハスクバーナのチェンソーを購入した。

といっても、チェンソーになじみがない人にとってはよく分からないだろう。ハスクバーナは、スウェーデンに本社を持つ世界的チェンソーメーカーで、いわば、チェンソーの世界での「憧れのメーカー」である。

要は、素人の私が持つのはおこがましいような一流メーカー品なのだが、予算とスペックを考慮して比較検討した結果、この「Husqvarna 445」に行き着いた。

本当は、整備のしやすさなどを考えて新ダイワゼノアあたりのプロ機を買いたかったのだが、中古でも結構な値段がして必要な排気量の機種だと予算オーバーだった。

一方これは、ハスクバーナ社のセミプロ機の位置づけなのだが、日本メーカーのプロ機並みの排気量と馬力がある。体格のよい欧米人向けだからなのだろうか…? また、メーカーによるリファビッシュ品で、中古ではあるがほぼ新品状態なので、中古品に心配されるような機械の疲労はない(と思う)。

3万2000円ということで凄く安いわけでもないが、命に関わる機械なのでジャンク品を買うより確かなものを買った方がいいし、元値の約8万円を考えるとお得であることは間違いない。それに、
  • 欧米のセミプロ機はパワーの割に安い。
  • 直輸入品なので、円高効果で安くなっている(はず…というかこれが大きい)。
  • 直輸入品なので、日本でのサポートが受けられず、取扱説明書も英語しかない。
  • ゼノアなどでは標準装備のイージースタート(エンジンをかけるのが楽)でない。
ということで、おそらく日本メーカーの同等品よりも割安であると思う。

これまでも家には父が買ったチェンソーがあったが、パワー不足で伐木の最中にエンストすることもあり、本格的な山の整備にはパワーのあるチェンソーが必須だった。専業で使うわけではないので安価なものを探していたが、比較検討の結果、ハスクバーナに行き着いたのは自分でも意外だ。他にも、円高のうちに高い外国製品を買っておいた方がいいかもしれない。BOSCHの工具とか。


【参考】Hasqvarna 445
排気量:45.7cc
出力 :2.1kw(2.8馬力)
ガイドバーサイズ:45cm(18インチ)/72コマ
チェーン:21BP・21VP
チェンピッチ:0.325”
重量 :5.1kg

2012年5月30日水曜日

洋画家・佳月 優さんに会う。

ギャラリー併設のサロンスペース
母校(東工大)の同窓会活動で知り合ったAさんから、日置市吹上町で自身のアトリエと「Gallery 野月舎(やがっしゃ)」を営んでいる洋画家の佳月 優さんをご紹介いただいた。

Gallery 野月舎(とアトリエ)は昭和60年に廃校になった野首小学校の校舎が利用されており、まるで時間が止まったような古い木造校舎が郷愁を誘う。ちなみにこの校舎、保存状態が元々よかったのではない。ギャラリーになる前は電子部品の会社がここを工場として利用していたためいろいろな手が入っていた上、廃屋同然になっていたという。それを、佳月さんが様々な人の協力を借りながら元来の姿に近づけ、魅力を引き出したのである。画家が廃校をギャラリーとして甦らせるというこの稀有な取組は、鹿児島県で唯一、文部科学省による「廃校リニューアル50選」に選ばれている。ともかく、ここは一見しただけで心臓を射貫かれるような素敵な場所だ。

佳月さんは、私とは初対面であるにもかかわらず、率直に、温和に、さまざまなことを語ってくれた。地域のこと、この校舎のこと、人との出会いのこと…。まるで、人の世の有様を静かに描いてくれるかのように。その話は非常に勉強になったのだけど、その話の内容をここに書くのは辞めておこうと思う。また、佳月さんについての下手な紹介もしないでおきたい。ちょっとWEBを検索すれば、こんな田舎で一人静かに絵を描いているのが不思議なほどの画才の人だということが分かるだろう。

そして、直接詳しくは伺わなかったのだけれど、2006年に日展会員・審査員等の要職を辞し、無位無冠で活動されていると聞き、不遜ながら、官僚を辞めて南薩に移住してきた自分と重ね合わせた次第である。もちろん、キャリア官僚を辞める人間は多いが、日展の会員を辞める人間などほとんどいない。重ね合わせるのはおこがましいだろう。

しかし、当たり前のことを当たり前にやるという単純なことが、組織の枠の中で生きていると難しくなることがある。私の知る若手官僚の多くは、日本を変えたいという夢を持ち、能力もやる気もある素晴らしい人達だ。だが、組織の中で生きるうち、組織の限界を知り、人間関係に絡め取られ、個人の頑張りでは解決不能な問題に直面する。そして、自分の力ではどうしようもないのさ、とすら思わなくなり、組織の歯車になってゆくのが悲しい現実である。

さすがに、画家の世界にはこんなことはないだろうが、組織に依って生きるということに関しては、画家も官僚も似たような悩みを抱えているのかもしれない、と勝手に想像した次第である。もしかしたら、全然違うかもしれないが…。

それはさておき、吹上町の野首という辺鄙なところに、世にも素敵なギャラリーがあるということは、地域の人間としてもっと誇ってもよいと思う。「それより、コンビニやスーパーが欲しいなあ」というのは田舎に住んでいる人間としては切実な願いではあるが、世界的に見れば、こんなギャラリーが身近にある方が、よほど贅沢なのである

2012年5月27日日曜日

天国的に美味い青菜炒めの正体

ボランティアスタッフとして参加している「畑の学校〜ゆうき教室〜」の第2回目が開催された。

今回の作業は、
○ 個人用の畑にエンサイツルムラサキを植える。
○ 共同の畑に長寿草(一般には長命草と言われているもの)、里芋サツマイモ黄金千貫)、エンサイを植える。
というもの。

さて、今回植えたエンサイとツルムラサキというのは私はよく知らない野菜で、どんな収穫物があるのかわからないため、なんだか設計図のないプラモデルを作っているような変な気分になった。

そこで帰宅してからこれらの野菜について調べてみると、ツルムラサキについては、やはり見たことも食べたこともない野菜であるらしく、少しがっかり。しかし、エンサイについて調べてみると、思ってもみなかったことが判明した。

私はカタコトの中国人が経営する寂れた中華料理屋がなぜか大好きなのだが、昔から、そういう店で出てくる天国的に美味い青菜炒めの素材がなんなのか、いつも疑問に思っていた。ニンニク風味で塩味のシンプルな青菜炒めなのだが、これがめちゃくちゃに美味いのである。家でも作ってみたいが、その「青菜」というのが何なのか分からない。小松菜ではないし、ほうれん草でもないし、この茎の感じが他の野菜と違う…と。

それがこのエンサイだったのである。エンサイ(蓊菜)は、ヨウサイ(蕹菜)、空心菜、トンツァイなどとも呼ばれ、名称すら一定していない新参者の野菜なので、何度も店で食べながら、その素材を正確に認識していなかったのだろう。また、そもそも私が好きな寂れた中華料理屋では、素材などメニューに書いているはずもなく、それはただ「清炒青菜」みたいに(中国語で)表示されているだけなので、長い間わからなかったのである。

それにしても、都会から田舎に移住してきて不便なことは山ほどあるが、気軽に「カタコトの中国人が経営する寂れた中華料理屋」に行けなくなってしまったのは相当に残念だ。東京には、そういう店がどこの駅前にもあったので、特にありがたいとも思わなかったが、いざこうして行けなくなるととても淋しい。

その代わり、今度は自分でエンサイを栽培して、天国的にとはいかなくても美味しい青菜炒めを作ってみたいと思う。もちろん、鹿児島にも探せばそういう寂れた中華料理屋はあるのかもしれないけれど、そういう店はわざわざ行ったら面白くないのだ。そういう店には、連れ合いと「何を食べようか」という話がまとまらなくて、辺りに良さそうな店もなくて、最後の手段として、妥協の産物として、しょうがなく入る感じがサイコーにいいのである。

※ 冒頭の画像は検索したら出てきた「台湾料理 味仙」さんのサイトからの転載だが、まさに私が好きな青菜炒めのイメージぴったりなので使わせてもらった。著作権的に問題があったらゴメンナサイ。

2012年5月23日水曜日

秋目のアコウ——集落の永遠のモニュメント

鑑真上陸の地、南さつま市坊津町秋目に、「絞め殺しの木」として知られるアコウの巨樹がある。

目通り幹囲9.3m、樹高11m。容貌魁偉で堂々としたアコウである。樹齢は500年とも1000年とも言われる。その横には墓石など江戸時代の石造物も多数佇立しており、夜にこれを見たら、相当に怖ろしい姿であると思われる。

このアコウは、大きさが飛び抜けているわけではないが、際だった特徴が2つある。

1つ目は、(写真には写っていないが)藤と共生していることである。季節になると美しい藤と面妖なアコウの競演を楽しむことができるという。残念ながら今年は藤の季節は終わっていたので、来年リベンジしたい。このように藤と共生するアコウは、非常に珍しい

2つ目は、写真左下にあるように支柱根が門状に形成されており、その下に道が通っているということである。この道は、アコウの門をくぐって階段を上り、今では廃校となった秋目小学校跡地へと続く。在りし日は、小学生たちが毎日このアコウをくぐって登下校をしていたわけだ。子供たちは、この奇妙なアコウの門をどんな気持ちで通ったのだろう。怖かっただろうか、それともよき遊び友達として、木登りやかくれんぼを楽しんだのだろうか。

ちなみに、秋目小学校は昭和46年に大浦小学校に委託統合され消滅した。秋目集落は、その地形の急峻さ、交通の不便さから人口の減少が続き、空き屋が目立つとても寂しいところになりつつある。そんな人の営みをよそに、このアコウは魁偉な姿で旺盛に葉を茂らせ、未だ樹勢が衰える気配はない。この巨樹は、寂しくなりゆくこの集落の、永遠のモニュメントであるような気がした。

2012年5月21日月曜日

人配、海外移民、大都市への移住:南薩の人口流出

ここ南さつま市大浦町は、いわゆる「限界集落」を擁する寒村である。合併で南さつま市になる前の平成17年の国勢調査では、65歳以上の人口割合=高齢化率は、2400以上(当時)ある市区町村の中で、なんと35位の46.4%。

そんなところに家族3人で移住してきたので、歓迎されるかと内心期待していたら、実際はそうでもなかった。もちろん、喜んでくれる人もたくさんいたけれど、それよりも「なんでこんな所に来たんだ?」「都会にいた方がいいのに…」「馬鹿なことをしたな」というネガティブな反応が非常に多かった。

その理由は、「農業は大変で儲からない」とか「仕事がない」とかいうことなのだが、事実この地域から都会に出て働く人間は非常に多い。お年寄りにお子さんはどうしてますかと聞くと、「大阪にいる」「全員東京だ」といった大都市圏へ出ているケースがほとんどだ。

残念なことだが、田舎の生産性は多くの人を養うほど高くなく、農業はゼロサムゲーム(限られた資源の奪い合い)の側面があるために、余剰人口は他地域に出て行くほかないのである。

これは藩政時代でも同じだった。南薩は山がちで平野が少なく、台風被害も大きいことで土地の生産性が低い。また地形的にどん詰まりにあり逃散(逃亡)もできなかったため、食い扶持にありつけない困窮者で溢れていた。そのため時の政権(島津家)は、新田の開発や困窮者救済の名目で、余剰人口の強制移住政策を実施する。

この強制移住を「人配(にんぱい)」「人配り」「人移し」などという。17世紀中頃から始まり、明治直前まで続いた。移住先は、逃散の多発で荒蕪地化した北薩、薩摩半島に比べ人が少なかった大隅、新田開発の必要性があった宮崎県南部だった。 どのくらいの人が強制移住させられたのか定かではないが、これらの地域には南薩由来の地名や集落が残っているところを見ると、数千人規模の人口移動があったのではないかと思われる。

そして明治維新を迎えても、余剰人口問題は解決しなかった。そもそも地域産業の根幹が農業である以上、土地を相続できない農家の次男三男は他地域に出て行くほかない。こうして国内の産業が未熟な中、働き口がたくさんあった海外への移住が始まるのである。

まず、明治から昭和初期にかけてはハワイを経由した米国への出稼ぎ。そして、昭和初期から戦前まではブラジル、そして戦後はカリフォルニアを中心とした米国へと移民の目的地は変わっていく。ブラジルやカリフォルニアへは出稼ぎというよりは永住目的が中心で、これらの地域では鹿児島県人の存在感は際立っていた。鹿児島から7000人以上が移民したブラジルでは最初の県人会を設立しているし、戦後米国への移民の3分の1が鹿児島県出身だったのである。帰る場所のない鹿児島の農家の次男三男は、新天地での農業に賭けたのだった。

そして、その移民の多くが南薩出身だった。鹿児島ブラジル移民の約40%が川辺郡(枕崎、坊津、加世田、知覧)と揖宿郡(頴娃)からだったし、 鹿児島カリフォルニア移民の出身は頴娃と知覧に集中している。こうした移民は政府や県によって奨励され、半ば騙されるような形で移民させられた人も多いと聞く。人配は戦後まで続いたのである。

高度経済成長期には国内産業が成熟し海外移住はほとんどなくなり、国内の大都市圏への移住や出稼ぎがメインになる。人配はなくなったが、南薩から人が流出していく構造は藩政時代から変わらない。もちろん現代において都会へ出て行く若者は、かつての人配のような悲壮感もなく、移民のような辛苦を味わうこともないだろう。閉鎖的な田舎を厭って出て行く人も多いと思われる。しかし、生まれ育った土地を離れざるを得ない地域というのは寂しいものである。

それを考えると、よそ者がこうして移住してくることにあまり好意的でないのは当然だ。とはいえ、人口が流出してばかりでは地域の活力が失われるし、よそ者の目を通して見ることによる地域の価値や魅力の再発見もあるのではないかと思う。改めて田舎の価値が見直されている現代、都市から田舎への流れが各地で出来つつある。微力ながら、そういう流れの一筋になるべく、地域の方に認められるように、そして地域発展にも役立てるように頑張りたい。


【参考文献】
移民研究と史料 ─ 鹿児島県の場合 ─』2010年、原口邦紘
鹿児島県南薩地域からの海外出稼ぎ者と海外移民: 米国カリフォルニアへの渡航者を中心に』1985年、川崎澄雄
平成17年国勢調査 都道府県・市区町村別統計表』2005年、総務省

2012年5月19日土曜日

鹿児島ではありふれているが、全国的には希少な果物:ビワ

庭にあるビワがたわわに実っている。しかし、剪定をあまりしてこなかったために高木化しており、上の方の果実は収穫不可能。

下の方にある実だけ採ったが、果実の8割は収穫できない高所にあるので恨めしい。8月になったら剪定し、来年はより多くの実が収穫できるようにしたい。

鹿児島ではビワは非常によく見る庭木で、初夏の果物としてありふれているが、全国的には希少価値がある。というのも、ビワはとても傷みやすいので市場流通がしにくく、大都市近郊の限られた産地でしか大規模生産が行われておらず生産量が少ない。埼玉生まれの家内も食べたことがなかったそうだ。ビワを食べてみた第一印象は、「ナシの味に似てる…」とのこと。

 これは鋭い感想で、ビワはバラ科ナシ亜科に属し、ナシとは近縁なのだそうだ。

ところで、ビワは我が国でかなり古くから栽培されてきた植物で、少なくとも奈良時代からの1000年以上の栽培の歴史がある。もっとも、江戸時代以前のビワは小さくあまり甘くなかったようで、実を食べていたと言うより、薬用樹として葉や根を採っていたようだ。今でも、ビワは葉で皮膚病(ニキビとかイボとか)を治したり、ビワ茶として飲んだり、民間療法でよく使われている。

ちなみに、これに関し
仏典『大般涅槃経』の中でビワは大薬王樹と呼ばれ、優れた薬効があると伝えられる。
例えば、「大薬王樹、枝、葉、根、茎ともに大薬あり、病者は香をかぎ、手に触れ、舌で舐めて、ことごとく諸苦を治す」と記されている。
という情報がネットにはまことしやかに書かれているが、これは本当だろうか。

気になって『大般涅槃経』を調べてみたが、そういう記載はない。確かに薬になる樹として「薬王」というのが出てくるが、これがビワであるとは一言も書いておらず、また「枝、葉、根、茎ともに大薬あり…」云々という記載もない。どうも、誰かがうろ覚えで書いたことが広まってしまったように見受けられる。

なお、鑑真が中国から枇杷療法を伝えたという伝説もあるらしい。しかし、こちらの伝説も信憑性は怪しい。もしかしたら、枇杷療法に権威付けをしたい人がお経や鑑真を利用し、故事来歴を捏造したということなのかもしれない。1000年以上続く民間療法なのだから、今さらそんな権威付けなど必要ないような気がするのだが。

【補足】
『大般涅槃経』の英訳はあるが、日本語訳は部分的にしかチェックしていないので、もしかしたら私が見ていない部分にビワ=大薬王樹の記載があるのかもしれない。が、英訳で省かれるようなものではないし、同経の話の筋からして、多分ないと思う。「薬王」の記載も、「仏の教えは薬王と同じくらいありがたいものだ」という譬えの中で出てくる。

【補足2】2012/6/20アップデート
大乗仏典の現代語訳をされている加藤康成先生にtwitterでご教示願ったところ、やはり『大般涅槃経』にはビワの記載はないということだった。これはネットにはびこる誤情報の一つということが分かってすっきりした。加藤先生にはこの場を借りて改めて御礼申し上げたい。

2012年5月18日金曜日

重曹でうどん粉病の防除ができるらしい

かぼちゃがうどん粉病に冒されている。

うどん粉病というのは、文字通りうどん粉を葉にまぶしたような症状が特徴的な、よくある野菜の病気である。

このかぼちゃは出荷用ではなく、勉強の一貫として作っているのであまり農薬は使いたくないなあと思っていたところ、先輩農家のKさんから「硫黄粉剤っていう、"農薬にして農薬にあらず”の薬剤があるよ」と教えてもらい、初期症状のうちは何度かコイツを振りかけてみた。

硫黄粉剤とはまさに硫黄の粉末で、使用回数にも使用時期にも規制がないという、極めて安全な農薬なのだが、安全なだけに効果は緩やかで、病気の進行を若干遅らせることはできるが、止めることはできない(そもそも、予防薬なので当然だが…)。

そんなこんなでどんどん病気が進行する中、普通に農薬を使っては面白くないので、どうしようかと案じていたら、家内から「重曹もうどん粉病の防除に使えるらしい」との情報が。こういう意外な情報を見つけてくるのが家内の面白いところである。

調べてみると、安全性が確認され規制の必要のない農薬を「特定農薬(特定防除資材)」といい、生物以外では食酢と重曹がこれに指定されている。効果のほどは確かではないが、勉強のために育てているかぼちゃなので、試行錯誤をするのはその趣旨に適う。そこで早速重曹の100倍希釈液で病気に冒された葉を洗ってみた(適正な希釈倍数は不明)。

かなり病気が進行している葉もあるので、これで病気が完全に防除できるとは思えないが、どれくらい効果があるのか確かめてみたい(もしかしたら全然ないかもしれないが…)。

【結果】2012/6/21 アップデート
結局、効果があるのかないのかよくわからなかったというのが結論。うどん粉病は進行すると普通の薬剤でも効果があまりない場合も多いということだし、まあ、効いていたとしても僅かだと思う。なんとなく、菌の飛散は若干抑えられたのではないかという気がしたけれど…。

興味深いが無用で無敵の雑草、ダンチク

開墾中の荒蕪地は小川沿いにあるのだが、そこにたくさんのダンチク(暖竹)が生えていて、駆除に苦労している。

ダンチクは、一見竹のように見えるがイネ科の多年草。放っておくと株立ちで4mほどにも生長し、非常に邪魔なので昨年来駆除を続けているが、なかなか勢力が弱まらない。

写真は、ダンチクを根元まで全て切った上に根元を炭化するほど焼いたにも関わらず、平然と新芽を出してきた様子…。全然応えていないようだ。

このダンチクという植物、Wikipediaで見てみると、とても興味深いものだったのでちょっと紹介したい。
  • 花は毎年咲くが不妊性で、有性生殖せずに栄養生殖(地下茎が伸びる)のみで増える。
  • 遺伝的多様性が極端に低く、ほとんどの個体が同じ遺伝子を持つクローンである。 おそらく突然変異で出来た一個体がクローンで世界中に広まったのだろう。
  • 砂地から泥まであらゆる土壌に適応し、特にヒ素、カドミウム、鉛の豊富な土地でよく育つ。これらの有害金属を植物体内で濃縮するため、土壌の浄化に使える可能性がある。
  • 極めて生長が旺盛で、C3植物なのにC4植物と遜色ない光合成能力を持つ(※)。そのため、炭素固定やバイオマス、バイオ燃料として有望な植物として研究されている。
  • カリフォルニアでは河川の護岸植物として1820年代にダンチクが導入されたが、ダンチクは動物の餌にも巣にもならず、毒が含まれており昆虫も食べない上、生長が非常に早いこともあり、生態系の多様性を損なうという打撃を与えた。
  • ダンチクは火にも非常に強く、焼き払っても根から新芽が出てくる。いくらかの農薬も登録されているが 川岸にあるダンチクの駆除は困難である。
  • ダンチクは古くはエジプトでその葉が死体を包むのに使われた他、木管楽器のリード、笛やバグパイプの材料としても使われた。また、紙の原料にもなる。
…とまあこんな調子だが、要は、ダンチクは向かうところ敵なしの植物なのである。しかも病気にも罹らないらしい。そもそも、地下茎のみで増えるという極めて限定的な増殖方法であるにも関わらず、東アジアから中東という広い領域に分布しているということ自体が、ダンチクの無敵ぶりの証左である。

また、よく「自然のサイクルに無駄はない」ということが言われるのだが、ダンチクは昆虫・動物の食糧にならず、また巣にもならないということになると、生態系の中で果たしている役割が不明で、実は自然界でも無用な存在なのではないかと思う(菌界のことはよくわからないが…)。突然変異で生まれた最強のやっかいものがダンチクなのかもしれない。

なお、Wikipediaにはリードとか笛として使われたと書いているが、これは眉唾だ。ダンチクは確かに繊維質で難いが、意外に脆く、楽器として経年使用に耐える強度があるとは思えない。紙の原料となったのも、イタリアが全体主義体制になって紙の原料が輸入できなくなった時の苦肉の策だったらしい。要は、工芸材としてもダンチクは2級品、3級品だったはずだ。

もし、このダンチクがバイオ燃料として活躍する日がきたら、それはダンチクが世界に対して初めて役に立つ時なのかもしれない。

それはさておき、この強靱な植物の駆除はまだまだ先が見えない。 駆除が困難というこの川岸のダンチクは、ラウンドアップの原液を株に流し込んだら多少はダメージを受けてくれるのだろうか…?

(※)C3とかC4というのは、光合成の方式の違いである。C3植物は普通の植物で、C4植物はより乾燥や低二酸化炭素に耐えることができ、光合成の効率がいい植物。


【謝辞】
この植物がダンチクであることが数ヶ月わからなかったのだが、竹の権威である内村悦三先生にメールで問い合わせたところ、先生にご教授いただき判明した次第である。この場を借りて、内村先生には改めて御礼申し上げたい。

2012年5月16日水曜日

正しい下草刈りの仕方とは?

背の低い雑草はあえて残す下草刈り
5月だが、南薩の気候はすでに夏めいており、雑草の元気がよい。

というわけで、ポンカン園の下草刈りをしているのだが、よくわからないのは「正しい下草刈りの仕方」である。

周りの方が家の周囲や田んぼの畦を刈っているやり方を見ると、地際まできれいに刈り揃えていることが多く、これはこれで工芸的美しさがあってよいが、果樹園の林床の場合はこのようなやり方が適切なのかどうか。

というのも、果樹園の理想の林床は、全く雑草がない状態ではなくて、背の低い雑草で覆われている状態だからだ。林床に下草が全くないと土壌が流出しやすく、また土中の水分が蒸発しやすくなってしまう(平地で灌水設備があるなら関係ないが)。さらに、雑草が生えていた方が土壌中の微生物も多く、土が肥沃になるという。

とすれば、背の高い雑草は除去すべきだが、背の低い雑草はむしろ大切な存在なので、実は刈るべきではないのではないか、という気がするのである。

そんなわけで、背の低い雑草で覆われた部分はあまり刈らないようにしているのだが、このような下草払いを続けていれば、理論的には、背の低い雑草で林床の多くが覆われ、背の高い雑草があまり生えてこないという状態になる。そうなれば、下草払いの手間も減るので一石二鳥となるはずだが、本当にそんなにうまくいくかどうか…。

なお、このように果樹園の林床にあえて草を生やす農法のことを「草生栽培」という。最近では、あえて素性のよい雑草の種を播くということも広まっており、例えばミカン園ではナギナタガヤという植物の草生栽培が愛媛などで行われている。

そういう植物の栽培も含め、どうしたら下草払いの手間が省けて、さらにポンカンにもよいのか、私なりにいろいろ試してみたい。

2012年5月14日月曜日

副業的自伐林業のススメ

生活に身近な山を活かす一つの方策として、「自伐林業」がある。

今の林業では、山主は森林組合などに委託して伐採、集材などを行うのが普通だが、以前は自分の山は自分で管理するというのが基本だった。林業は儲からないといわれるが、山主自身は何もせず、全ての作業を組合に委託して山林から利益を出すのが困難なのは自明である。逆に、山主自身が造林、伐採、集材を行えば、今でも林業は決して儲からない産業ではない

しかし一方で、林業には危険が伴うとともに心理的・制度的な参入障壁も高く、いわゆる「素人山主」は山林管理に手を出せない状況が続いていた。本書『バイオマス材収入から始める副業的自伐林業』は、「自伐林業こそ日本の山を救う!」としてその普及を推進している中嶋健造氏が土佐の森での自らの取組を紹介しつつ、自伐林業参入のためのヒントを与える本である。

その主張は次のように要約されるだろう。
  1. 機械化・大規模化の林業は、その維持に高収益が必要なため、儲かる山しか施業されない。そのため放置山林など適切な管理がされていなかった地域の山がさらに放置される。
  2. しかし小規模山主や地域の人々が、高性能機械を使わないシンプルな方法で林業をすれば儲かるのであり、事実、自伐林家の収入は総じて高い。さらに地域の山も整備できて一石二鳥である。
  3. 自伐林業には、地域ぐるみでバイオマス材(薪やペレットにする)の出荷から始めると運搬や伐木の面で新規参入しやすい。チェーンソーと軽トラがあれば誰でも林業はできる
  4. バイオマス材で林業に親しみを持った人のうち、いくらかは本格的・専門的な林業へと進む人も出るし、工夫次第で地域の活性化にも繋がるのである。
私自身、地域の放置山林から利益を生みたいと考えているので、このような主張には大いに頷くところなのだが、問題は主張3である。確かに、シンプルな方法で林業をすれば損益分岐点が大幅に引き下げられることは事実だが、バイオマス材の出荷のみで利益を生むのは至難と思う。

事実、紹介されている土佐の森の取組でも、市場価格3000円/t のC材(バイオマス材になる粗悪な木材)をNPO法人が6000円/t で買うという工夫(差額は寄附などで負担される)が成功の大きな要因だったように思われる。

よって、副業として自伐林業に個人で取り組みたいと思った時、やはり「バイオマス材から始める」のは無理があるような気がする(地域ぐるみで取り組むなら可能だろうが)。軽トラで3000円/tの木材を市場まで運ぶのは、どう考えても割に合わないからだ。やはりある程度の市場価値がある材を出荷する方が、個人でやるなら合理的だと思う。

ちなみに、狭いながらもスギが90本ほど育っているうちの山を伐採すれば、原木市場では単純計算で20万円程度の価値がある。この施業を森林組合に委託すれば経費の方が高くつくが、自伐林業すれば10万円弱の利益が出るかもしれない。

いずれにせよ、儲けが出るかどうかは細かいやり方次第なので、森林組合にもよく話を聞いて施業方法を考えたいと思う。そして、自分の山で利益が出せれば、地域の他の山でも応用できないか考えてみたい。本書に紹介された取組を見ていても、結局「いろいろ工夫してみんなで協力すれば、どんな事業でも儲かるんだ」という当たり前のことを教えている気がするのである。

【参考】
木の駅プロジェクト
土佐の森での取組を全国で応用可能なものにしていく社会実験。鹿児島でも「木の駅」が早く作られるといいと思う。

2012年5月13日日曜日

「畑の学校〜ゆうき教室〜」始まる

南さつま市が有機農業の普及のために行う農業体験講座「畑の学校〜ゆうき教室〜」が始まった。私はこれに、ボランティアスタッフとして関わっている。

ことの発端は、ひょんなことから鹿児島県有機農業協会の大和田専務理事と知り合いになったことである。南さつま市はこの講座の実施を同協会に委託しており、大和田さんとの縁でボランティアをやることになったのだ。といっても私自身が素人なので、ボランティア活動を通じて有機農業について学んでいきたいと思う。

ちなみに、本日の活動は、参加者毎に区切られた畑において
  1. 苦土石灰と鶏糞由来の有機肥料を施用
  2. 2本の畝を作り、ピーマン、ナス、ミニトマトを植え付け
  3. 別の畝にかぼちゃ(ぼっちゃんかぼちゃ)を植え付け
というものだった。その第一印象は、「意外に普通の農法と変わらないな」というものだ。有機農業というと、まず種苗の選択から慣行農法(農薬や化学肥料を使う普通の農法)とは違うという印象があったので、いささか拍子抜けした次第である。ただ、今回の講座は準備期間がなかったことで、開始時点では慣行農法との差を付けられなかったということはあると思う。

ともあれ、種苗の選択にセンシティブにならなくてよいということは、野菜を健全に生育させることに自信があるということでもあるだろう。有機農業というと、まず病害虫に強い作物を育てるという先入観があったが、病害虫駆除の技術があれば、意外と脆弱な野菜でも育てられるのかも知れない。今後の授業内容に期待である。

【補足】(5/16アップデート)
植え付けられた作物の品種は以下の通り。
ピーマン:京波
ナス:黒陽、白長ナス
ミニトマト:千果

2012年5月9日水曜日

Yesterday Today and Tomorrow という花

庭のバンマツリが満開である。

このあたりの庭には、よくバンマツリが植えられている。温暖な気候でよく育つこの花木は、丈夫で生長が旺盛、そして香りがよいことから、明治期に南米から導入されて以来、人々に愛されてきた。

バンマツリとは「蕃茉莉」で、外国のジャスミンの謂いであり、実際、ジャスミンの花以上にジャスミンっぽい匂いがするが、両種は全くの無関係である。

ところで、バンマツリの花はスミレ色で咲き、しばらくすると藤色となり、最後には白い花となる。この色合いの変化が楽しめるのもバンマツリの魅力である。この色が移ろっていく性質から、英語名は「Yesterday Today and Tomorrow」という。

昨日と今日と明日で花の色が違う、そういうことでこのような詩的な名前がついたのだろうが、ネーミングセンスとしては、生硬な感じが否めない。一部には、もっと親しみやすい名前にした方がいいという議論もあるようだ。

ちなみに、バンマツリには毒(サポニン、アルカロイド等)があり、服用すれば幻覚を催すという。この性質を利用し、バンマツリの仲間は南米ではシャーマンにより古くから薬として使われてきた。そして現代でも樹皮をパウダー状にしたものが煎じ薬として売られている。これはリューマチに効くということだが、幻覚性があるのなら、これをよからぬ目的に使う人もいるような気がする(当然ながら、日本では薬品として認められていないので服用しないように…)。

2012年5月8日火曜日

墓石の変転から伝統と革新を考える

私事ながら、5月8日は祖父の命日ということで、墓(石)について思うところを書いてみたい。

写真は祖父の墓だが、これはよくある「○○家の墓」ではなくて、個人の墓となっている。このあたりの集落の共同墓地では、家毎の納骨が普通であるを考えると、これは少しだけ異例である。祖父は町長在任中に急死したので、このように個人の墓が作られたのであろう。

しかし、「○○家の墓」(祖先墓)というのが伝統的な墓のあり方と思ってはいけない。明治維新までは、あくまで墓(墓石)は個人に向けたものだった。しかも、名前を刻むのではなく、戒名または法名を刻み、俗名は側面に控えめに刻まれているものだった。つまり昔の墓石には、「○○院○○居士」などと刻まれていたのである。

祖先墓という形式が広まったのは、明治政府により、祭祀財産が家督相続の特権とされたことの影響である。これは、単純化して言えば、墓は家制度の中でしか相続できなくなったということだ。

元々、武士や公家には家督という概念があったが、農民や商人では家を継ぐという意識は希薄だったし、先祖を祀るということもあまり行われていなかったようだ。明治政府が祭祀権を家督に含めたのは、邪推すれば、国家神道の完成のため、平民にまで祖先祭祀を徹底させようという目的だったように思われる。

しかし、明治31(1898)年に家制度が制定されてからすぐに、祖先墓が出来たわけではない。明治から大正にかけては、それまで伝統的だった墓石・墓碑の形式に捕らわれない、自由な発想に基づく墓が大量に作られた。事実、日本最初の公営墓地である青山霊園の大正時代の墓を見れば、「○○家の墓」などという墓石は少数派で、個性豊かな個人の墓石がたくさんあることに気づくだろう。

こうした墓は個人の霊を弔うものという伝統的な通念は、終戦まで続いたように思われる。特に戦死した故人へは、特別に墓を作って弔ったことは想像に難くない。「○○家の墓」の形式が多数派になっていくのは、実はようやく戦後になってからである。

すでに明治時代初期から墓のあり方は変わり続けていたが、それは限られた上流層(例えば軍人や上級官吏)や都市部でだけの話だった。その変化が全国の一般庶民にまで及び、決定的になったのが戦後だった。その変化を概説すれば、次のようになるだろう。

第1に、寺や自治体が運営する墓地が普及した。それまでは庶民は村の共同墓地に葬られるのが一般的だったが、人口動態が流動的になった結果、 地縁共同体(ムラ)とは別個の墓地管理の必要が生じたのである。

第2に、その結果として墓石ごとの管理責任を明確にせざるをえなくなった。村の共同墓地は集落全体で管理されるため、墓石の一々について管理を明確にする必要はなかったが、寺や自治体の管理する墓地では管理料を納める必要があるため、墓を遺族の誰が管理する(費用を払う)のかが重要になった。

第3に、さらにその結果として、墓は長子相続するものという(公家や武家でのかつての)慣習が明確化される格好で「○○家の墓」という形態の墓(祖先墓)が普及したのである。そして人口増による墓地不足も、この潮流を加速させた。皮肉なのは、既に家制度は昭和22(1947)年の民法大改正で消滅していたということだ。祭祀財産の家督相続は、その法規が失効してから具現化されてしまったのである。

第4に、祖先墓という形式になったことの当然の帰結として、墓石が大型化した。個人の墓の場合は、土地と予算の問題から大きな墓を作ることは難しいが、家毎ならばある程度の土地を確保することは容易だ。また、「家の墓」となったことで「見栄」の要素も大きくなったことも否定できない。

第5に、高度経済成長に伴う墓石の大型化と大衆化の結果、墓石の意匠は簡略化され、シンプルな形状(直方体3つを重ねる)の墓が中心となった。個人の小さな墓の場合は、墓石を置く石にも彫刻が施され、また形状にも細かな配慮があったが、大型化した墓では、ほとんど大きさと材質のみに「見栄」は集中し、意匠は簡素なものばかりになった。

こうして、今ではすっかり一般的となった「○○家の墓」という大きな墓が生まれたのである。しかし、明らかなように、その墓の形式はとても伝統的とは言えないものだ。近年、個人墓と呼ばれる一人だけのお墓を作ったり、墓石に名前を刻むのではなく「愛」とか「いたわり」といった自由な言葉を刻んだりといったことが流行っており、一部にはそういった墓を伝統的でないとして反発するむきもあるが、墓石の変転の歴史を鑑みても、何が伝統的で何が革新なのか、ということは非常に曖昧である。

墓の建立や相続は、あまり短い期間で起こるものではないために、その変化はゆっくりとしている。明治政府が祭祀財産を家督相続の特権としても、直ちに祖先墓が広まらなかったのもそのためだ。しかし、ひとたび墓を作るとなれば、それはほとんど人生で一度きりのことであるために、世間の風潮・流行に流されやすく、一代で大きな変化をもたらす。

人は、自分の知る昔のやり方が「伝統的なもの」だと安直に考えてしまうが、人間の営みは移ろいやすいものである。むしろ、基本に立ち返って革新を求めた方がかえって真の伝統に合致している場合も多い。そして、伝統を守るといっても、例えば現代に「○○院○○居士」と刻んだ小さな個人墓を作ることの意味はあまりないだろう。重要なのは、伝統の根源にある普遍的な営為である。時代も人も移ろっていく。私も、形式的な伝統にとらわれずに、新しい挑戦をしながら、本当の伝統を次世代に遺せたらと思う。

【参考】
お墓の歴史」(金光泰観墓相研究所)
お墓の歴史を縄文時代から概説している。

2012年5月3日木曜日

驚異的に幼児に優しい店、「ドライブイン大浦」

アラ炊定食
南さつま市大浦町にある「ドライブイン大浦」は、当地の数少ない飲食店の一つである。

骨まで柔らかく煮込まれた甘辛い「アラ炊」で有名で、近隣の漁港(片浦漁港)で獲れた新鮮な魚料理が堪能できる、庶民派だが本場感溢れるところだ。ちなみに、私事ながら店主は父の同級生である。

さて、この店、こういう田舎の食堂にはめずらしく、驚異的に幼児に優しい。なんと、ベビーランチというメニューが、3歳未満限定でタダなのである(なお、ランチ限定ではなく、夕食時でもオーダーできる)。

このベビーランチ、タダではあるが、かなり充実している。ふりかけご飯、エビ天、白身魚の天ぷら、野菜天、タコさんウィンナー、サラダ、ミカン(オレンジ?)半分、ゼリー、そしてうまい棒…少なくとも350円くらいはする内容で、事実これが350円でも躊躇なく注文すると思う。

最初に行ったとき、タダでこんなメニューが出てきたのでとてもびっくりしてしまった。いつも子供(2歳)の食事のことで困っているのでこういうサービスはとても有り難い。なお、この店は子供全般に優しいということではなくて、(都会にあるような)おむつ替えシートがあるとか、絵本が置いてあるとかそういうことはない。それどころか、お子様ランチもない(ただ、「お子様海鮮丼」! はあるようだ。注文したことはないが…)。それなのに、3歳児未満へのこの奉仕精神は一体なんなのだろう。

どうしてこのようなサービスを始めたのか、いつか店主に伺ってみたいと思う。

新鮮な魚介料理、特に名物のアラ炊を堪能するにはもちろん、3歳未満の子供と一緒なら、なおさら行って損はない店である。なお、店の名前は「ドライブイン」だが、普通の飲食店なので(車に乗ったまま利用できる施設ではないので)ご注意を。

2012年5月2日水曜日

鹿児島はクズの生産量日本一ですが、南薩ではどうなんでしょう?

数十年ほったらかしになっていた自家林を、何かに生かしたいと考えているが、蔓植物の勢いが凄く、随所に絡まっているので木の伐倒が大変だ。

特にクズ(葛)は凄い。この写真のクズは樹齢20年以上(※)だと思うが、絡まるというより、飛翔するといった方がいいくらいで、自由闊達に樹冠へと伸びている。

西日本では、荒蕪地にはすぐにクズがはびこり、雑草としては最もやっかいな部類に属するが、これはかつて救荒植物(飢饉の際に食料となる植物)だった。クズのつるを切ってしばらくすると半透明のデンプン質がじわっと浮いてくるのがわかるが、クズの中(根)には大量の良質なデンプンが蓄えられているのである。クズから採れるデンプン(葛粉)は、各種デンプンの中でも最高級といわれており、葛粉の原料としてクズは今でも重要な植物である。特に鹿児島ではそうだといえよう。

というのも、あまり認識されることはないが、実は鹿児島は日本一のクズの産地なのである。葛粉というと奈良の吉野葛が有名だが、その原料はほとんどが鹿児島産のクズだ。吉野葛というのは、クズを吉野の水で晒して作られた葛粉のことをいうらしい。

なお、くず餅とか葛切りとか葛粉を使った食べ物は多いが、100%クズを原料とした純粋な葛粉が使われているものはほとんどない(サツマイモ由来のデンプンやコーンスターチを混ぜるのが普通)。かつて飢饉の際に食べられたというクズ(葛粉)は、今や立派な高級食材である。

クズは葛根湯など漢方に使われるだけあって健康食品で、消化がいいだけでなく、食感が繊細・滑らかで透明感があり、純粋な葛粉で作ったくず餅を食べたら二度と忘れられなくなるほど美味らしい。もちろん、そのような葛粉を作るためには非常な手間がかかる。

まず、そういった高級品となるクズは限られていて、30年以上のもので、よく光合成し、根に大量のデンプンを溜めていなくてはならない。30年もののクズの根ともなると、人間の太腿くらいの太さはあるわけで、それを掘り出すだけでも大変な労力だ。また、クズのアクを抜いてデンプン質だけを取り出す作業(水で晒し、沈殿させることを繰り返す)も単純なだけに効率化できないし、その上最上級の葛粉を作るためには2ヶ月〜1年も乾燥させなければならないらしい。葛粉が高級食材になるのも頷ける。

ところで、鹿児島は日本一のクズの産地ではあるが、実は生産は大隅地方に偏っていて、この南薩ではクズ掘りについての話は聞かない。大隅ではクズの掘り子の高齢化などの問題にも直面していると聞くが、「葛スイーツ」の開発など新しい展開も見られる。また近年の健康志向の高まりで、クズに対する再評価の気運もある。葛粉は高級食材であるだけに大きな需要増は見込めないが、今後も安定した取引が予測される。

となれば、この自家林にある葛もなんとか生かせないか、と考えるのが人情だろう。木の伐倒をする上では邪魔者だが、それ自体は高級食材(の原料)なのでただ切り払ってしまうのはもったいない。問題は、鹿児島では大隅地方が生産拠点のため、出荷するためにはフェリーに乗って大隅側まで出向かなければならないということである。それを考えるとおそらく利益が出ない気がして少し萎えるが、なんとか生かす道筋を考えてみたい。何しろ、私もくず餅など葛粉で作ったお菓子が大好きなのである。


※ クズはマメ科の多年草で、木ではないので「樹齢」という言い方は厳密に言えば間違いである。見た目は木のようで、実際やや木質化しているが、切ってみると木とは違うことが分かる。それにしても、50年も生きる草というのはそれだけで凄い。

【蛇足】
個人的には、クズは山伏が全国に広めたものという伝説も気になるところである。最初から全国に自生していたようにも思うが…。また、どうして鹿児島での生産が盛んになったのかいずれ調べてみたい。