2018年4月4日水曜日

神道国家薩摩——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その10)

島津忠義夫人照子(暐姫)の墓(川田達也氏撮影)
鹿児島の後期廃仏毀釈は、苛烈であった。

藩内にあった1066ヶ寺が全て廃され、2964人の僧侶は全員が還俗させられた。仏教的なるものは悉く毀(こぼ)たれ、鹿児島から一掃された。日本国中を見ても、これほど徹底的な仏教の破壊が行われたのは稀である。

この後期廃仏毀釈は、明治政府の「神仏分離令」(慶応4年3月)を発端として始まったが、当初は前期廃仏毀釈の延長線上の運動であったらしい。それが、藩内に一寺も残さない、怖ろしいまでに徹底的な運動となっていったきっかけは、田中頼庸の建言だったという。

後に鹿児島県令となった渡辺千秋が、田中頼庸の著書『鹿児島紀行』に寄せた序文でこう述べている。

「(頼庸は)平素敬神愛国の道を講じ、尊内卑外の説を持つ。深く仏教の蠧害(とがい)を嫉み、排斥余力を遺さず。此を以て自ら任じ、遂に慨然として廃仏の議を島津久光に進む。物論之を為すに洶洶(きょうきょう:どよめき騒ぐ)たり、蓋し仏教の浸淫積弊は払うべからず。而して久光は断じて其の議を納れ、廃仏令を封内に布く」(原文旧字・漢文)

これによると、頼庸は仏教を排斥する事業に携わったが、廃仏——すなわち仏教の全廃を島津久光に建言し、それが世論に動揺を与えたものの、久光は敢然それを受け入れ「廃仏令」を布いたという。

事実、明治元年、頼庸は「神社奉行」にも任命され、廃仏毀釈の主担当者となっていた。そしてこの建言は、市来四郎らのそれと比べれば分かるように、もはや財政上の理由などおくびにも出さず、はっきりと「仏教の蠧害」が問題であるとしている。仏教が国を蝕んでいる害毒であるというのである。頼庸の建言によって廃仏毀釈は「寺社のリストラ」を超え、宗教的な破壊行為へとエスカレートしていった。

これを受けて久光が布いた「廃仏令」とは、明治元年9月に桂久武の名で出されたもので、藩内の寺院を大規模に統合整理し、神社における仏教的要素を取り除いて神道一筋にするという命令である。これによって藩内の寺院は強制的に統廃合させられ、明治2年秋に藩内に残っていたのは、歴代藩主の菩提寺や祈願所といった島津氏ゆかりの名刹28ヶ寺のみになった。この時点で97%の寺院が廃寺処分になったことになる。

しかし、これすらも廃仏毀釈運動の一面に過ぎなかった。というのは、仏教を破壊するだけが頼庸らの目的ではなかったからだ。彼らの真の目的は、神道を国教化することにあった。廃仏毀釈は、生活のあらゆる面から仏教的色彩を取り除き、そこに神道という新しい信仰を植え付けるための宗教的空白を生みだすために行われたのである。

「神道国教化」の一つの転機となったのが、若くして亡くなった藩主島津忠義夫人の照子の葬儀を「神葬祭」によって行ったことであった。明治2年3月のことである。この「神葬祭」は、島津一族が神道へ公式に転宗したことを意味した。もはや仏教は、島津一族にとっても異教となった。

それまで、歴代藩主はもちろん、庶民に至るまで葬式といえば悉く仏式であった。歴代藩主の墓所も、寺院に存在していた。それが、寺院を保護する最後の箍(たが)でもあった。しかし島津一族が神道に転宗したことにより、もはや寺院を保護する理由はどこにも存在しなくなった。

城内の護摩所や看経所(かんきんじょ)は4月か5月には廃止された。仏教的な祈祷の否定である。さらに6月には代々の藩主霊祭を神式で行うこととした。こうしてまずは藩主自らが仏教を棄て神道に帰依し、それは追って民間へも強制された。

葬祭は全て神式によるものとされ、盂蘭盆会は仏教的だからと禁止された。

こうした神道国教化政策の行き着くところ、最後まで残された名刹28ヶ寺をも破壊せずにはおかなかった。

こうして島津家の菩提寺であった「福昌寺」までもが廃寺となり、代わりに歴代藩主の霊を祀る「鶴嶺(つるがね)神社」が「南泉院」跡に創建された。他、島津忠良(日新斎)の墓所「日新寺」は「竹田神社」となり、島津貴久の「南林寺」は「松原神社」、 島津義弘の「妙円寺」は「徳重神社」とするなど、歴代の藩主までも遡って神道に改宗させた。

この帰結として、例えば島津斉彬はその死後、戒名(順聖院殿英徳良雄大居士)から「順聖院(じゅんしょういん)さま」と呼ばれていたが、この仏教による戒名も廃され、斉彬は「明彦神勲照国命」となった。このように、歴代藩主の戒名が撤廃されて墓標から削り取られ、神名が新たにつけられてそこに刻まれた。仏教に帰依してきた歴史、仏教によって菩提を弔ってきた歴史すらも否定して、つくりかえてしまったのであった。

そして明治3年の末までに、鹿児島から寺院はおろか仏教的なるもの全てが消し去られた。

しかし、仏教を一掃したからといって、人々が神道に帰依するかというとそんなことはない。神道という新たな信仰を建設しないことには、神道国教化は成し遂げられないのである。実は、その領民教化の役割を担ったのが、頼庸が在籍した「国学局」だったのである。頼庸は、一方では「神社奉行」として廃仏毀釈を断行し、一方では「国学局」の都講として神道の理論を現実化することに務めた。

国学局の第一の仕事は、神道解説書である『敬神説略』の刊行であった(明治3年2月(一般への販売は10月))。著者は、後醍院真柱の門人で国学局学頭助の関盛長。本書は「神国の人の限りは神の御恵の中に胎れて(中略)よしなき外国の妖々しき蕃神等が世話になるべき事ならぬ」「今や皇政御復古、神武天皇御創業の始に復せらるとの勅命により、神仏混淆の御社をはじめ何事も清浄なる皇国風の神髄なる道に復させたまひ(中略)往年より無用の寺院は廃棄合院の命令を下し給ひて、御祖神をも殊更に神と崇め祭らせ給へば…」と述べ、廃仏毀釈を正当化し、それに替えて「神国」としての敬神観念を植え付けようとするものであった。

さらに翌月には、『敬神説略』のダイジェスト版とも言うべき『神習草』(白男川済之丞、白男川民次郎著)を刊行。本書ではまず神話の大略を述べた後、「貴賤上下となく何れも神代の神孫亦御代御代の天皇の御枝葉の裔孫」であるからひたすらに敬神に務めよと述べ、さらに神道の具体的実践の方法として、毎朝神拝をすることを勧めるとともに、伊勢神宮と祖先を拝する祝詞を掲載している。そして、藩ではこれを全戸に一部ずつ配布して、朝夕拝読させようとした。

実際に、藩庁が『神習草』を全戸配布したかはよく分からない。また全戸と言っても、おそらく百姓などは文盲も多かったため除外されており、城下の限られた範囲であると思われる。しかし、この神道実践の勧めとも言うべき小著を広く配布したのは事実であろう。さらに藩庁では、毎月3日を「国書講義の日」と定めて国学の講義を定期的に行うこととし、五等官以上の聴講を命じた。この講義が国学局によって行われたことは言うまでもない。

こうして、(1)島津一族の神道への転宗、(2)全寺院の廃仏、(3)葬儀の神道式への転換、(4)神道書の刊行と一般への配布、(5)神道儀礼の強い勧奨、といったことが明治2年から矢継ぎ早に実行された。後期廃仏毀釈は、鹿児島から仏教を一掃するだけでなく、神道を国教化するという構想が推し進められ、それは「宗教改革」と呼んでよいものであった。この宗教改革によって「神道国家薩摩」が一応の完成を見たのが、明治3年の末のことである。

この政策は島津久光の強力なリーダーシップによって実現されたものであることは疑いない。そして神道の祭式を新たに定めたり、廃仏の理論を提供する上で大きく働いたのが田中頼庸だった。かつて社会から距離を置き、勉学だけに生きた頼庸は、いつのまにか社会そのものを根底から変える仕事に手を染めていた。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島紀行』1888年、田中頼庸
神道指令の超克』1972年、久保田 収
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
鹿児島藩の廃仏毀釈』2011年、名越 護
『島津忠義公史料第7巻』1980年、鹿児島県維新史料編さん所編
『神習草』白男川済之丞、白男川民次郎