2013年2月27日水曜日

芋焼酎は柑橘の香り

私はあまりお酒が飲めないので焼酎を飲まないが、先日面白い話題を見つけたので紹介する。

本格焼酎というと、水以外の成分はほとんどエタノールで、それ以外の成分は約0.2%しか含まれていない。 そして蒸留酒なので当たり前だが、全ての成分が揮発性のものであり、厳密な意味での(エタノール以外の)味覚成分は含まれていない

では焼酎の味は何かというと、その0.2%の中の香り成分にある。つまり、焼酎の味というのは、科学的には(舌で感じる)味ではなく香りのことなのである。これは蒸留酒一般に言えることであるが、アルコールのテイスティングを生業とする方が、実際に飲むことなく香りだけで判断することがあるのは、理に適ったことなのだ。

さて、その0.2%の成分とは具体的には何かというと、高級アルコール類、脂肪酸エステル類、有機酸、ミネラルなどだが、ここに香りを形作る微量香気成分が含まれる。焼酎の銘柄は数多いが、この0.2%の中の非常に微妙な成分の違いが銘柄の違いになるわけだ。

というわけで、焼酎の「味」を作る微量香気成分だが、例えばネロール、リナロール、α-テルピネオール、シトロネオールといったモノテルペンアルコール類、そしてβ-ダマセノンといった物質らしい。とはいっても、私自身門外漢なのでこれらの物質それぞれについて特性を知っているわけではない。

だが、ネロール等のモノテルペンアルコール類というのは、実は柑橘や花に含まれている物質なのである。柑橘特有の爽やかな香気の成分はこれらなのだが、焼酎の香りのかなりの部分がこれらの香りなのだ。少し大げさに言えば、芋焼酎は柑橘的なお酒であると言えるだろう。ちなみに焼酎の甘さを作っているのはβ-ダマセノンである(これは柑橘系ではない)。

しかしこれらの柑橘的な香気成分、どこから来たのだろうか? サツマ芋は柑橘的な香りがしないし、事実芋にはこれらの香りは含まれていない。これが面白いところだが、実はサツマ芋の中では、モノテルペンアルコール類が配糖体(つまりグルコシドと結合している)の形で存在していて不揮発性なため香りにならないのである。

これらモノテルペン配糖体が醸造の過程で分解され、揮発性のアルコール成分となることによって焼酎の香りが形作られる(※)。ということは、焼酎の香りを「芋の香り」と形容することがあるが、芋そのものの香りが焼酎の香りになるわけではなく、芋に内在していた香りの元が麹菌によって顕在化させられて焼酎の香りになるということだ。

ついでに言うとこれら香気成分はアロマテラピーなどでも使用されるものらしくリラックス効果があると言われる。鹿児島では伝統的に焼酎はお湯割りにするが、香気成分をより揮発させて味を鮮明にし、リラックスするためにそうするのかも知れない。

柑橘類はジンライムに代表されるように蒸留酒との相性がよく、焼酎も(本格焼酎ではなく甲類の方)酎ハイで柑橘系とよくアレンジされるが、元々芋焼酎の香りが柑橘系であったことは驚きである。ただ、芋焼酎で柑橘系のカクテルを作ったら合うのかと思ったら、それぞれの香りがケンカしてなかなかうまく作れないのだそうだ。

※ このことは1990年に太田剛雄によって解明された。割と最近まで焼酎の香りがどこから来るのかわかっていなかったということだ。

【参考】
「芋焼酎原料サツマイモ品種と焼酎の香気成分との関係」2013年、高峯 和則

2013年2月26日火曜日

ミカン科の進化の最終形態、キンカン

鹿児島では(なぜか)おせちにキンカンの甘煮を食べるのだが、今年は庭のキンカンが全てヒヨドリに食べられてしまったので食べることが出来なかった。

ところで、全国的にはキンカンはかなりマイナーな果物で生産量は年4000トン弱しかない。以前ビワのことを「全国的には希少」と書いたが、キンカンはビワよりもさらに生産量が少ないのである。多分、関東以北の人はキンカンを食べたことがないという人も多いのではないかと思う。

このキンカン、進化的に面白い存在で、どうしてこんな植物が産まれたのか気になる。

まず系統的な位置づけとして、キンカンはカンキツだと思っている人が多いが、実はカンキツ属ではなく、カンキツ属から進化した別のグループ(キンカン属)である。ミカン科において最も後発に進化してできたのがキンカン属であり、多種多様な種を擁するミカン科において、その進化の最終形態がキンカンと言える。

カンキツとの一番の違いは果肉ではなく果皮が甘いことで、これがとても不思議である。というのも、昔のキンカンは果肉が酸っぱかったり苦かったりしたが、そうなると鳥などに果肉を食べてもらえず、種子を遠くに運んでもらえないような気がする。どういう訳で皮が甘くなる進化が起こったのだろう。

だがこれは人間にとっては有り難い。というのも、ミカン類は皮にも栄養が豊富で、むしろ香り成分や食物繊維は皮の方に含まれているからだ。ミカンの皮を乾燥させたものは陳皮(ちんぴ)という漢方薬になるし、マーマレードに皮を入れるのも食物繊維(ペクチン)を補給するためだ。

そして当然のことだが、果物は丸ごと食べる方が栄養バランスがよく、キンカンのように皮ごと食べるのが栄養学的には最適だ。キンカンが風邪の予防になるとか咳を和らげるとかいうのも、ここが大きく影響しているに違いない。

もう一つ不思議なのは、キンカンはカンキツ属からむしろ単純化する方向で進化していることである。カンキツとキンカンは基本的な構造は似ているが、仕組みがシンプルになっている。例えば、カンキツは新梢ではなく出て2年目の枝に実がなるが、キンカンでは新梢に実がなる(だが逆に、新梢が伸びるたびに花が咲くので管理は面倒)。そしてもちろん樹自体もコンパクトである。

それから果皮も軟弱になっており、カンキツは一般的に皮が丈夫で保存性がいいのだが、キンカンの場合は傷つきやすく、また傷みやすい。こうした進化は遺伝子的にシンプルになったのか、それとも遺伝子レベルでは複雑化しているのかわからないが、カンキツの歩んだ道とは全く違う方向を指向したことは明らかであり、キンカンは「逆カンキツ」であるといってもよいと思う。

ちなみに、キンカンは皮ごと食べるためか小さいながらも食べ応えがあり、カンキツとはまた違った甘味があって美味しい。「南薩の田舎暮らし」では大浦で一番美味しいというキンカンを入荷したので是非ご賞味ありたい。

2013年2月23日土曜日

『武備志』における坊津

『武備志』による九州図(北が左)
南さつま市に坊津(ぼうのつ)という港町がある。

この坊津、「かつての日本三津の一つ」というのが枕詞となっているが、こんな片田舎に古代から中世における日本屈指の港町があったとは少し信じ難い。

ではこの「日本三津」なるものの出典は何かというと、明代の軍事書『武備志』である。これは1621年に兵学者である茅元儀という人が編纂・出版したもので、基本的には軍事研究書なのだが、よほどこの人は博物学的なものに関心があったと見え、軍事の枠を遙かに越え、当時の中華世界を外観する百科全書とも言える浩瀚な体裁を持つ。

そこには中華を取り巻く四夷(四方の蛮族)の記述もあり、その一つとして「日本考」の項目が設けられている(第230-231巻)。「日本考」は日本の歴史・地理・近況を外観し、その後日本語の語彙(辞典風)や嗜好(綿の着物が好きだとか)に触れた後、最後に船舶・武器・戦法について述べるという構成になっている。「日本三津」は地理の記述の中に触れられる。 こういう内容である。
  • 日本には三津がある。坊津、花旭塔(ハカタ)津、洞津(現・津市)である。
  • 三津は坊津を総路とする。客船は往復に必ずここを経由する。
  • 花旭塔津は中津で、土地が広く人も多い。中国海商はみなここに集まる。広い松林があってハコサキ(箱崎)という。大唐街と名付けられた所もあり、かつて唐人の居留地であったと伝えられるものの今では日本人ばかりが住んでいる。
  • 洞津は末津で、山城と近い。貨物はあるときもあればないときもある。
これを見て気づくことは、坊津は「三津の総路」とされていながらその地勢的な記述が全くないことである。さらに不思議なことに、坊津は古来密貿易で栄えた港なのにも関わらず「客船が必ず経由する」となっていて、貿易というより人の往来のハブだともされている。この書き方だと、単に補給基地として栄えた港のように見えるが実態はどうだったのだろう?

ちなみに、『武備志』第223巻には日本地図もあって、そこでは九州の5分の1が薩摩になっている。港も小松原、片浦、秋目、泊、坊津が書き込まれており、近畿を含むその他の地域が(縮尺が無視されて)ほとんど外観だけの記載に留められているのを見ると、この南薩地域は中国にとって重要性がかなり高かったことは事実のようだ。

ところで、「日本三津」の出典は私の調べた限りこの『武備志』にしかなく、日本の中世の資料などには出てこない。室町時代に制定された日本最古の海洋法規集である『廻船式目』には三津七湊というのが出てくるが、これに坊津は含まれていない。

少し厳しい言い方をしてしまえば、坊津は、中国の一つの軍事書に記載されているというだけの理由で「かつての日本三津の一つ」を言い張っているわけである。我が国の同時代資料に「日本三津」が登場しないとすれば、根拠としては残念ながら弱い。坊津が中国からも注目される重要な港町であったことは事実でも、「日本三津」として国内で認識されていたかどうかは、また別の話である。

では、この「坊津=日本三津の一つ」を『武備志』から初めて見つけた人は誰なのだろうか。これもはっきりとしたことは分からないが、私の調べた限りで初出の資料は1795年に著された『麑藩名勝考』である。この本は鹿児島の神話伝説のタネ本というべき重要な資料であるが、随所に『武備志』への言及がある。思い込みや言い伝えといったあやふやなものを出来るだけ遠ざけて、資料によって名勝の考証を行った著者の白尾国柱らしい参照の仕方だと思う。

このように見てみると、白尾国柱が『麑藩名勝考』で「坊津=日本三津の一つ」説を紹介しなかったら、もしかしたらそういう説の存在自体、広まらなかったのかもしれない。『武備志』は日本でも出版されて研究されたとは言え、決して一般の人が見るような本ではなかったので(今でも邦訳はない)、坊津の関係者の目に止まる可能性は低かった。白尾国柱は今ではあまり顧みられることのない学者であるが、資料の海からこういう記述をめざとく見つけてくるあたり、ただ者ではなかったのだと思う。

 【参考】
坊津—さつま海道—」2005年、橋口亘 編 

2013年2月16日土曜日

ぽんかんすドレッシングが販売中

前にもこのブログで触れた「ぽんかんすドレッシング 薫」が発売され、南さつまの物産館で買えるようになった。さらに東京の「かごしま遊楽館」でも販売しており、2月23日(土)には販売イベント(試食)も行われる。

販売イベントでは、(たぶん)唐揚げにこのドレッシングをかけたものが振る舞われるが、唐揚げとこいつの相性は抜群なのでぜひご賞味ありたい。

ちなみに、改めてこの商品の特徴をまとめると、
荒廃するポンカン園を有効活用
荒れたポンカン園を有効活用して生産された加工用ポンカンを使用
環境に配慮した栽培
加工用のみを生産する園地に特化したことで、環境に配慮した農薬不使用の栽培が可能に。
加工専用の青採りポンカン
生食用の余り物や規格外品ではなく、加工専用のポンカンとして、爽やかな酸味と香りが強い「青採りポンカン」を特別に使用。
果汁40%の新感覚ドレッシング
果汁40%というまるでジュースのような新感覚ドレッシング。レモン汁を絞るように爽やかな酸味をプラスします。
というところで、要は「過疎の農村で、環境に配慮して作られた青採りポンカンを使った、果汁たっぷりのドレッシング」である。とはいえドレッシングというにはややあっさりしていて、どちらかというと調味料の領域と思うが、これでカルパッチョなどを作ったら本当に美味しいので是非試して欲しい。

ところで、日比谷にある「かごしま遊楽館」だが、ぱっとしない(?)外見とは裏腹に、全国のアンテナショップの中で3位の売り上げを誇るらしい。各県が予算をけちってやや奥まったところに店舗を設ける中、日比谷、有楽町の駅前という立地が効いているに違いない。

ついでに書いておくと、同じ2月23日(土)には天文館のベルク広場で、「南薩の食&農フェア」というのが開催されるらしい。とはいえ鹿児島県のWEBサイトにも「南薩地域の農林水産物や加工食品の展示即売会を開催します」とだけあってそれ以上の情報がないため行く価値があるのかどうか不明だ。せっかく開催するのだから、もう少しちゃんとお知らせをしたらいいと思う。

2013年2月14日木曜日

イケダパンの地元愛に感謝! OUTLET BREAD

イケダパン、といえば南九州では有名なパンメーカーである。多角経営に失敗し、1986年に経営破綻して山崎製パンのグループになったが、地元でのブランド力があったためか、その屋号を残して今もイケダパンとして製造を続けている。

このイケダパンは、南さつま市の加世田に発祥した企業で、今でも登記上の本店は加世田にある。ところが工場や本店機能は2002年に加世田から撤退しており、約60km離れた姶良市(重富)に移転している。南さつま市は高速道路も鉄道もなく、流通上不利なための経営判断と思われる。姶良市には高速道路も鉄道もあり、空港にも近い。

このイケダパンの工場直売所である「OUTLET BREAD」という店が、2012年4月に加世田に出来た。この店、製造過程で生じる少々見た目が悪い品などを重富工場から直送し破格で提供する店で、文字通りパンのアウトレットショップである。

菓子パンなども安いが(私自身はあまり菓子パンは食べないこともあり)食パンやパンの耳が安くてしかも美味しい。もちろん、元の商品名はわからないのだが、按ずるに、少し高級な食パンの規格外品が使われているのだと思う。特にパンの耳は量が多く、お買い得だ。

同様の店は重富工場にも附設されており、そこでは製造に伴って生じる規格外品が逐次補給される。しかしこの店の場合、工場からは遠く朝にしか入荷がないため、売り切れればおしまいになる。こうした店は製造地にあって手間がかからないからこそ経営的な意味があり、わざわざ遠方に運んで破格の商品を提供しては割に合わないように見える。

事実、9枚入りの角食(食パン)を100円で売っていては、とても利益は出ていないだろう。私が経営者なら、とても作れない店だ。こんな店をなぜ南さつまに作ったのか、その経緯は知らないが、きっと加世田への地元愛のなせる業ではないだろうか。

登記上の本社は加世田にあるとはいえ、工場の撤退以後は事実上加世田との繋がりはなくなっていた。だが元は地域密着の企業であり、地域のお祭りなどにも積極的に参加していたと聞く。そういうことを考えると、イケダパンを育ててくれた加世田への恩返しをするために、敢えて損をするような店を作ったとしか思えないのである。

イケダパンはもはや加世田の企業とは言えないが、もし上に書いた推測が正しいならば、南さつま市の人は少しはイケダパンを贔屓してもいいだろう。末永く続いて欲しい。

【情報】
OUTLET BREAD イケダパン工場直売所 加世田店
南さつま市武田15417-3

【2013年12月30日追記】
本店、今冬に閉店していた。経営的に無理がある店だとは思っていたが、閉店したのは大変残念である。最初から利益を度外視するのであれば、もう少し公共的な意味合い(例えば、小学校の給食に提供するとか)を持たせた事業を行って、CSR(この言葉はキライだが)の一環としてやった方が株主への説明もできてよかったと思う。

2013年2月13日水曜日

丁子屋:廻船問屋が醤油屋になったわけ

南さつま市加世田のはずれ、万世(ばんせい)という町に、鹿児島では有名な醤油屋さんである丁子屋がある。この前「白だし」を買ってみたら、評判通りの美味しさだった。

丁子屋の創業は享保20(1735)年。300年弱の歴史があり、県内では3番目の長寿企業らしい。しかし、藩政時代から醤油屋さんであったわけではない。

では何をしていたかというと、藩政時代を通じて丁子屋は廻船問屋だった。廻船問屋というのは、今風に言えば総合商社のようなもので、舟で日本全国を巡りながら安いところで商品を仕入れ高いところで売る、という商売である。

丁子屋という屋号はもちろん香辛料の丁子=クローブ に由来し、南方産の丁子油を扱ったことによる。江戸時代、丁子油と椿油を混ぜたものが刀の錆止めに使われていたのだそうだ。このほか、丁子屋は当地で干しトビウオや鰹節(※)を仕入れて大坂で売り、塩や素麺を買い入れる貿易をしていたという。

万世は万之瀬川の河口に位置したため、中世以来天然の良港として栄えた。蛇足だが、船が常に海にあると海洋付着生物がびっしりと船底に固着して使い物にならなくなるため、船底塗料の登場前はわざわざ河を遡って真水に船を繋留する必要があった。このため古来より港というものは多くが河口近くに位置したのである。

丁子屋はこの地の利を活かし、藩からの特認の下で(幕府からは禁じられていた)琉球との交易も行い、相当に稼いだという。最終的には3隻の千石船を所有したらしい。

ところが、創業して70年ほど経った1802年、この地に激変が訪れる。万之瀬川が氾濫によってその流れを変え、河口が北にずれて突如として万世から港がなくなったのだった。もちろん丁子屋は新たな河口に対応して拠点を設けたが、新しい河口は川底が浅く、大きな舟が出入りできなかった。そのため商売が小口にならざるを得なかったと思われる。

そんな中、幕末に至って醤油醸造が始まる。これは推測だが、港から遠くなって使い勝手が悪くなった万世の倉庫を有効利用するための事業だったのかも知れない。丁子屋は元々、肥後から小麦と大豆を仕入れて琉球に売るという商売をしていたらしいが、この商材と万之瀬川の清流を利用して出来る醤油という商品を思いついたのだろう。

こうして、河の流れが変わっても、万世と丁子屋は海運と先進的な商品の取り扱いで繁栄を続けたが、明治後半から大正初期が隆盛の掉尾だった。交通が鉄道の時代になり、大正3年に加世田から枕崎に抜ける南薩鉄道が開通すると、鉄道網からはずれた万世は凋落を始めたのである。遅れて加世田から万世にも支線が延びたが、海運の利を失った万世に流通上の価値はもはやなかった。

丁子屋が廻船問屋から醤油屋へと変遷した理由としては、万之瀬川の流れの変化と海運の時代の終わりという二つが挙げられる。どんなに堅牢な商売をやっていても、それを存立させている基盤が崩れれば商売の形は変わらざるを得ない。だが、その変化を捉えて先を読んできた経営があったからこそ、丁子屋は300年弱も続いている。幕末、明治維新、日清・日露戦争、太平洋戦争という激動の時代を生き抜いてきたことを思うと、歴代の店主に非常な商才があったのは間違いない。オオイタビに覆われた大正時代の石蔵は、未だ活躍の機会を虎視眈々と窺っているようにも見えた。

※ 鰹節というと枕崎が有名だが、枕崎で燻製したものを万世に運び、丁子屋で鰹カビをまぶして本枯れの鰹節にしたのだそうだ。このカビを扱った経験が、後の醤油醸造に活きているのだと思う。

【参考文献】
万世歴史散策』2012年、窪田 巧

【補足】2014/02/04 アップデート
「丁子屋」を「丁字屋」と書く致命的な誤字をしていたので改めました。

2013年2月10日日曜日

かぼちゃの原産地は冷涼で日照量の多いところ

例によって先輩農家Kさんの全面協力・指導を得て、春かぼちゃの栽培をしている。なんと、ビニールハウスまで貸してもらった。昨年の秋かぼちゃが惨憺たる有様だったので、今回に期待である。

ところで、かぼちゃというと「栽培に手のかからない野菜」というイメージがあり、事実何もしなくても収穫できるが、高級野菜である加世田のかぼちゃの場合は違う。

かぼちゃは蔓が無制限に出てくる植物なのだが、その蔓を(今回の場合)2本に留めるため定期的に芽を取り除き、かつ各々の蔓に適正な枚数・大きさの葉がついた状態で雌花を咲かせ、さらに不要な雌花は摘み取らなくてはならない。そしてもちろん、毎日の温度管理(ビニールを剥いだりかぶせたり、通気したり)もある。このための管理作業はとてもやっかいで、手間がかからないどころか、つきっきりの作業が必要になる野菜である。

そして、驚いたのだが、ビニールハウス栽培の場合「低温処理」といって一時期寒さに晒す作業まである。ポカポカ暖かいだけだと花芽分化が進まず雌花が咲かないので、敢えて低温な環境にすることにより、生殖生長を促すのだそうだ。

「西洋かぼちゃ」の原産地は南米で、ペルーや北部アルゼンチンの高原地帯だという。このため寒さには意外と強いが、赤道付近の環境であるため太陽光への要求は大きい。かぼちゃというと夏のイメージがあるが、西洋かぼちゃは実は暑さには弱く、日本の盛夏には耐えられない。つまり日照量は多いが冷涼な環境を好む植物である。そしてこのため、「低温処理」が必要で、ポカポカ暖かいだけだとダメなのだ。

話は逸れるが、江戸時代から栽培されている「日本かぼちゃ」の場合はどうかというと、こちらは逆に暑いのが好きである。ちなみに原産地はインドから東南アジアという(厳密には特定されていないらしい)。

このように、かぼちゃの2大系統である西洋かぼちゃと日本かぼちゃでは栽培適地がかなり違う。このため、冷涼な気候を好む西洋かぼちゃは関東以北(特に東北と北海道)で、温潤な気候を好む日本かぼちゃは西日本で作られてきた。しかし北海道でのかぼちゃの大規模栽培が確立したことや、甘味の強い西洋かぼちゃの方が手軽な家庭料理に合うことなどから、現在、一般的な流通では西洋かぼちゃが主流である。

本来冷涼な気候を好む西洋かぼちゃを鹿児島で栽培するのは一見奇異だが、原産地は赤道に近い地域なので、気温の低い冬から初夏までの間に南国で栽培するのは合理的である。また国内生産量の半分以上を占める北海道産が登場する前に旬を迎えるので、流通的にも競争力がある。そんなことから、あまり認識されていないが鹿児島はかぼちゃの生産量が全国2位(シェアは約7%)なのである。

産地が北海道と鹿児島、という組み合わせの野菜は、他にはないのではないかと思う(ジャガイモが似た傾向を示すが、こちらの場合は長崎が2位であることと、北海道が圧倒的過ぎることで「北海道とそれ以外」の形になっている点が違う)。産地というのはいろいろな事情から形成されるが、南米の赤道付近の高原地帯が原産である、ということが北海道と鹿児島を産地たらしめる主因だとすれば興味深い。

【参考文献】
Cucurbitaceae」2008年、 Austin Deyo and Brendan O‘Malley(多分学生のレポートだと思うが、無難にまとまっていた)

2013年2月5日火曜日

「神社のリストラ」の産物かもしれない大山祇神社

大浦に大木場(おおこば)という集落があって、そこに大山祇(おおやまつみ)神社がある。巨大な草履を奉納することで知られた神社である。

そこは小さいながらも幽玄な場所なのだが、私にはひとつ気になることがある。それは、まさにその「大山祇神社」という社名である。

というのも、始めに種明かしをすると、これは大山祇神社なんかではない、かもしれないのだ。

では何かというと、古い記録ではこの社は「大木場山神」と呼ばれていて、それが正式な名称である。創建は意外に古く、1382年に遷宮の記録があることから、おそらく700年以上の歴史がある

大山祇神社に改称したのは明治から大正のころで、当時の近代社格制度によるものと思われる。近代社格制度について簡潔に述べるのは難しいが、おおざっぱに言うと、神社の世界を合理化・序列化する制度と言える。

明治に至って国の思想的根本に神道を据えることとした政府は、神仏分離、続いて廃仏毀釈を行って仏教の弾圧を行ったが、実は神道側も相当の痛手を被っている。それまで天神地祇への礼拝は自然発生的に行われていたわけだが、明治という大いなる統合の時代にあって、それでは都合が悪かった。それぞれが礼拝する神が、神々のヒエラルキーの中に位置づけられ、その頂点に天皇がくる、ということでなければならなかった。

その上、日本にはこの狭い国土に多数の神社が犇めいていたので、新道を通したり、新たに土地を切り拓いたりするにあたって、有象無象の神社が邪魔だったという実務的な理由もあった。

そこで、明治政府は神社の合理化・階層化、つまり神社のリストラに乗り出す。行政区画ごとに(正式な)神社は一つと決め、村社 < 郷社 < 県社 < 官社… などと神社を序列化した。さらには、祀られている神が天皇家とは何の縁もない神だと思想的に無意味になるため、祭神および社名も多数変更させられた。つまり都合が悪い場合は、実質的に全く別の神社に作り替えられたのであった。

これにより、水神さま、山神さまなどと呼ばれていた自然発生的な社は、廃止させられるか、合理化によって「由緒ある」祭神に改めることになった。全国の無名の「山神」は、(記紀により山の神の総元締めとなっている)大山祇神へと変更させられたのである。

大山祇神自体は南薩に縁の深い神であって、この地に大山祇神社があることは自然ではあるのだが、もともとの民間信仰では山の神というのは醜い女性であるとされ、一方の大山祇神は男性の神なので性格がかなり異なる。同じ山の神とはいえ似て非なるものだ。

この大山祇神社がそのようにして変容させられた神社であるのか確証はないので、「平安風の貴人の像」というご神体なども実見して確かめなければならないが、おそらく間違いはないだろう。

明治政府の強引な国家統合は、様々な面で日本文化に大きな傷を残したが、神道の受けたそれは、神道自身が国家の道具となり戦争へ荷担した経緯もあってあまり顧みられることはない。しかし、そのあたりを見つめ直さなければ、かつての人々の素朴な信仰は忘却の彼方へと消えてしまう。700年以上もの歴史のある神社を、一時の気の迷いで変容したままにしておいては申し訳ない。大山祇神社は、もうそろそろ「大木場山神」へ戻してはどうか。