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2014年12月11日木曜日

経済が発展する原動力(その2)

(前回から引き続き『発展する地域 衰退する地域』について)

地域の経済発展の大きな原動力が「輸入置換」にある、というのは認めるにしても、多くの地方都市で行われている「工場誘致」もその原動力にならないのだろうか。

日本では(というより世界の多くの都市で)企業の工場を誘致することは重要な経済政策とされている。農村的な地域に工場が一つできるというのは地域経済にとっては随分大きなことで、数百人(または数千人)の雇用が生まれ、それによって人口が増える。また、工場が払う税金(地方法人税や固定資産税)は地方の財政を豊かにする。

特に工場が払う税金は地方政府にとって大きな魅力である。農村的な地域においては住民の住民税というのは微々たるものなので、独自財源の殆どが工場からの納税、というような地域もけっこう多いのではないかと思う。

だから、地方政府(県、市町村)は工場誘致に力を入れることが多い。広い道路に面した安い土地を用意して工業団地を作り、豊富な水や電気、そして教育された労働者(工業高校がありますとか)を売りにして企業を呼び込もうとするのである。そういう努力は、経済発展の原動力にはならないのだろうか?

だが著者は、工場誘致(著者の用語では「移植工場」という)には否定的である。いっときはよいかもしれないが、長い目で見ると経済発展には寄与しないという。

その理由は主に2つある。第1に他地域の資本によって運営される工場は、材料調達などを他地域に負っていることが多いため(要するに地域内に下請けを出さない)、地域内の生産物の多様化に寄与しないということ。第2に、好条件に惹かれて移入してきた工場は、よりよい条件のところが見つかればさっさと出て行ってしまうということ、の2つである。

重要なのはもちろん第1の方で、経済が発展するには地域内で多様な生産活動が行われなくてはならないのに、工場はそれにさほど寄与しない。例えばもしその工場が、系列内で完結した部品調達の仕組みを持っているとすれば、地域の人びとが行うのは組み立て作業に過ぎず、要するにその地域は単純労働者のベッドタウンになってしまう。

とすれば、地域内の人びとがインプロヴィゼーション(あり合わせのもので行う創意工夫)を行う余地はないわけだ。だから経済発展に寄与しないというのである。

しかしこれは、あまりに単純すぎるストーリーではなかろうか。仮にその地域が単純労働者のベッドタウンになるにしても、ある程度の人口が維持されるならそこにはそれなりにビジネスチャンスが生まれるであろう。焼き鳥屋ができたり、クリーニング店ができたりする。そういうものは、小さいながら「輸入置換」の一環であるし、地域住民の才覚を発揮する場にもなるのである。

だから、第1の理由は私にとってはあまり説得力がない。しかしながら、工場誘致は次善の策であるということもまた事実である。工場誘致のアピールポイントである、安い土地、豊富な水や電気、それに教育された労働者、そういうものが本当に地域にあるのなら、他の地域の誰かにそれを使ってもらうのではなく、他ならぬ自分たち自身で使う方がよいのである。

著者が何度も強調して述べているのは、経済発展のためには、「他地域のためだけでなく、自分たち自身のために豊かに多様に生産」することが必要だ、ということである。地域が発展していくということは、地域の人びとが自分たち自身のために生産し、消費し、投資していくという循環的プロセスがなくてはならない。どこかの活気ある都市に供給するだけの経済には限界がある。要するに、持てる力は自分たちのために使うべきなのである。

ついでに、第2の点にも反論したいことがある。著者は、好条件に惹かれてやってきた工場はすぐに移転してしまうというが、それは地域発祥の企業でも同じことではないだろうか。

いきなり話が地元の具体例になるが、加世田にかつてイケダパンというパン屋の工場があった。鹿児島の人はよく知っている企業だと思う。イケダパンは、加世田時代には随分郷土愛があって、地元の祭りやスポーツ大会に出場するなど、地域の活動にかなり貢献していたようである。しかし商売が大きくなるにつれ、僻地にあるデメリットが大きくなり、重富の方へ移転していった。こちらには高速道路も鉄道もあり、空港も近い。高速道路も鉄道なく空港からも遠い加世田は、大きな商売をするには適していないから、出て行ったのは当然だ。

商売が適地を求めて移動していくのは自然の摂理であって、地域の人のために生産する企業だったら移動していかない、というのは幻想に過ぎないと思う。

ただ、他所から好条件を求めてやってきた工場は、地元発祥の企業に比べて移動していきやすい、ということは言えるだろう。著者がこのことを問題にするのは、冒頭に述べたように工場誘致は農村経済にとって大きな影響があるため、それがどこかへ移っていってしまったあとの経済的空白もまた大きいからである。

そして一度都市的になった地域は、かりに都市的生産が衰退しても、元の農村的地域に戻ることはない。なぜなら、農村とはただ人家がまばらで自然が豊かな場所だということではなく、農村の文化がある場所だからである。一度失われた文化を再興するのは非常に困難なことで、百年単位の時間がかかる大仕事なのだ。そして衰退した都市的地域は、最悪の場合スラム化する。

であるから、工場誘致はリスキーだというわけである。

にしても、ケインズがいうように「長期的にみたら我々は全て死んでいる」のであり、衰退した後のことまで考えて経済発展を躊躇するのは深謀遠慮が過ぎる。せいぜい、工場による景気は一時的なものだから、経済が盛んなうちに地域の自生的な産業を育成しましょう、という教訓として受け取るのがよいと思う。

というわけで、著者は工場誘致に対して否定的で、地域の経済発展の原動力になりえないという立場を取るが、私はそれには懐疑的である。

ただ、工場誘致が次善の策であることも事実だし、それ以上に重要なことは、決して、望み通りのおあつらえ向きな工場が、都合よく来てくれるわけがないという非情なる現実である。いつまでも工場が移入してこないことを不満に思うくらいなら、持てる力を自分たちで使うべきだ。

日本各地に、入居者待ちの「工業団地」がある。定員一杯というのは稀だろう。広い区画が丸々空いていることも多い。そういう土地をいつまでも遊ばせておくより、それを地域の人びとで使うべきだ。資本がない、人材がいない、販路がない、ノウハウがない。商売を始めない理由なら山ほどある。しかし地域を発展させる根源的な力は、地域の人びとの中にしかない。工場誘致はそれが表出するきっかけを作るだけなのだ。

2014年12月9日火曜日

経済が発展する原動力(その1)

「地方創生」が話題になっている。

地方経済の発展というのは、もう何十年も前から「喫緊の課題」とされていて、それこそ「国土の均衡ある発展」(by田中角栄)とか、これまでも様々な面で唱導されてきた、ある意味で使い古された政策課題である。しかし落日の途(みち)にある日本にとっては、改めて重要な課題であることも間違いない。

私は、地方経済を発展させるには国家レベルではどうしたらよいか、ということに関してはある明解な考えを持っているが、それについては後日述べるとして、地方のレベルでどうしたらよいかについて最近読んだ本を紹介しつつ考えてみたいと思う。

それは、『発展する地域 衰退する地域』(ジェイン・ジェイコブス著)という本である。本書は、経済発展と衰退のダイナミズムを都市を単位として物語るもので、その内容については読書メモ(別ブログ)の方にも書いておいた(本稿と重なる部分もある。読書メモは自分のために書いているので)。

さて、いきなり本題に入るが、経済が発展する原動力はなんだろうか? もう少しイメージが湧くように述べれば、田んぼと僅かな人家しかなかったような村に、工場が建ち、商店が並び、鉄道が通るようになる、その根底にはどのような力が働いているのだろうか?

その原動力を、著者は「輸入置換」という現象に見る。輸入置換とは、これまで他の都市から輸入されていた財を、自ら生産するようになること、つまり「輸入品を地場品で置換すること」である。

先ほど例で言えば、その村は文明的な生活を送るために必要な財を、都市部からの購入に頼っているのは確実だ。そのうちのただ一つ——例えば玄関マットやヤカンのような単純な品——だけでも、村で作るようになれば、それまでその購入に充てていた費用を節約して、他のモノの購入に振り向けることができるし、なにより玄関マットやヤカン製造のための雇用も生まれるというわけである。こうした自給できる物品が次々に増えていけば、そこは次第に都市的な地域へと変貌していくであろう。

しかし、「輸入置換」を成長の原動力と見るこの考えを、額面通りに受け取るわけにはいかない。なぜなら、マクロ経済学の基本的な考えの一つに「比較優位」というものがあって、要するに、相対的に容易に生産できるものに労働力を集中した方が経済は効率的になるからである。

先ほどの村に立ち返ると、玄関マットやヤカンといった、これまで全くノウハウも設備もないものの製造に手を出すより、村の特産品(例えばお米)の生産と販売に精を出す方が全体として儲かるというわけである。玄関マットやヤカンは都市から購入するにしても安価でよいものが手に入るのに、わざわざ村で自給しようとすれば逆に高くついてしまうことは容易に想像できる。

この考えは実際に農村の地域振興においてもよく見られる。特産品の生産に力を入れることで、集荷場や販売の体系が確立しその生産・販売活動も効率的になり、村の経済も全体として効率的になるのである。

しかし、この点に関して著者は強く異議申し立てするのである。もし、この特産品に注力する経済が効率的であるとすれば、第三世界の農村地域にあるモノカルチャー経済が最も効率的だということになる。ひたすらカカオ豆の生産だけをするような、コートジボアールの村が世界で一番効率的な経済体であるということになってしまわないか。

そういう経済がよしんば「効率的」だとしても、発展の展望はほとんどないのは明らかだ。要するにそういう経済は、短期的・近視眼的に「効率的」であるに過ぎない。

著者は力強く、「住民のそれぞれの技術、関心、創造力に応えるような様々の適切な場がないような経済は、効率的でない」と断定する。確かにそうだと思う。特産品の生産がいくら儲かる仕事だったとしても、ひたすら同じことを繰り返すだけの経済には、個人の才覚を活かす場がなく、そこには発展の余地がない。発展の余地を残すためには、生産物を多様化することが是非とも必要だ。

だから、発展を目指すためには、少々無様で非効率的であっても、玄関マットやヤカンを生産するという段階に入らなくてはならないのである。しかしそれは簡単ではない。先進都市には普通にあるような環境(下請け工場など)は村にはないし、設備や材料も手に入らないことがある。だから、あり合わせのもので工夫して製造していく必要がある。そういう即興的な工夫を、著者は「インプロヴィゼーション」と呼ぶ。

玄関マットやヤカンを物財の乏しい村で生産するとなれば、都市で作られるようなおしゃれで機能的な商品ではなく、村に豊富にあるような材料を使うなどして、普通のそれとは違う特徴を持った商品になるに違いない。あり合わせのものでなんとかする工夫が新しい商品を生む。つまり、不利な中で生産することそのものが、事業家の創造力を惹起する

主流派経済学においても、経済成長の原動力は広い意味での「技術革新」にあるとされている。 「広い意味での」というのは、これまで縦に置いていたものを横に置く、というような工夫も含めて「技術革新」としているからである。経済学では経済の生産性のうち、資本と労働の生産性に帰すことが出来ない部分をひっくるめて「全要素生産性(TFP)」と呼んでいて、経済成長のためには(資本と労働の生産性はほとんど前提条件的で、かつ相補的な動きをするため)この全要素生産性を高めることが要諦なのだ。

換言すれば、経済成長というのは、大小様々な「技術革新」の積み重ねによって達成できるのである。しかし問題が一つある。どうやったら技術革新が次々生まれるように出来るのか、その処方箋の全体像は解明されていないのだ。

その処方箋の一つは教育だと考えられている。高度な教育を受けた人材が多い経済は、そうでないところに比べ技術革新が起きやすいであろう。規制緩和も処方箋の一つである。

著者のいう「輸入置換」も、そういう処方箋の一つに位置づけられるのかもしれない。不利な中で財を自給することそのものが、「インプロヴィゼーション」すなわち創意工夫を呼び起こすからである。

もちろん、このことも額面通りには受け取れない。地方的都市で自給する商品は、都市で生産されているそれに比べ、性能が劣ったり、価格が高かったり、見た目がよくなかったりする。生産過程でいくらインプロヴィゼーションがあったとしても、結果として都市の作る製品に比べ、競争力が劣っていることがままある。ということで、いくら頑張って作っても、売れなかったら事業は続かない。流通が不完全だった50年前だったらどうかわからないが、クリック一つで大概のものが買える現代においては、ここが大問題である。

この点に関して、著者は何も述べていない。試行錯誤がなければ成功はないのだから、ともかく試行錯誤が大事なのだ、ということなのかもしれない。しかし生産物を多様化するという目的を考えてみると、経済の自給率を高めるという「輸入置換」だけが発展の原動力でもなかろうと思う。

むしろ、最近の流行りで言えば、最初から販売ターゲットを都市にして、「都市住民に受ける商品」を開発する方が得になるのではなかろうか? ある種の農村にとっては、都市から安価で購入できるものを苦労して自給するより、都市に作れない、農村的な(しかもセンスがいい)ものを作る方が儲かるのは明らかだ。

これについても著者は何も述べていない。しかし、著者の論じる「地域」というのは、日本で言うと「鹿児島県」くらいのスコープを持つものである。確かに南さつま市くらいの狭い地域を考えると経済の自給率を高めるよりも、都会で売れる商品を作る方が経済発展に重要だ。だが鹿児島県全体で見た時、都会で売れるものだけを作っていては経済は発展しないだろう。

なぜなら、そういうやり方だけで発展が維持できるほど、鹿児島県は小さくないからである。そしてもっと重要なことに、巨大な需要を持った活気ある都市はほんの僅かしかないが、そこにものを売りたいという供給地域はものすごく多い。活気ある都市(たぶん日本では東京だろう)は、たくさんある供給地域からそれぞれ最良の商品だけを選ぶわけで、経済発展のフィールドがそれしかないとすれば、とんでもない競争になってしまい、そこに勝ち残るのはどの地域にとっても困難なことである。

だから、鹿児島県くらいのレベルで考えると、「輸入置換」は必要なのだ。つまり、(再三の説明にはなるが)経済が自給できるものを増やし、生産品を多様化させ、それによって人びとの創意工夫を呼び起こすことが重要なのである。そしてこの中で最も重要なことは、経済発展の根本には、「創意工夫」があるということである。ある意味ではその前段部分は「創意工夫」のためのお膳立てをしているに過ぎない。

翻って我々が考えなくてはならないのは、地方自治体や経済団体はその発展のために、どのような施策を行っているのだろうかということだ。人びとから創意工夫を引き出す取組をどれくらい行っているだろうか?

いや、地方に生きる我々一人ひとりが、「創造的な環境」を創り出す努力をしているだろうか? ということも考えなくてはならないのかもしれない。

(つづく)

2013年9月3日火曜日

日本の農書の黎明と停滞

以前「西欧近代農学小史」というブログ記事を書いた時に、「俄然興味が出てくるのが江戸時代の日本の農書である。[…]何かいい参考資料を探したい」としていたのだが、実はこの分野には「これを知らなければモグリ」という決定的な研究書があった。それが、古島敏雄の『日本農学史 第1巻』である。

本書は、上代の農業から説き起こし、元禄期に農書が出現するに至るまでの歴史を扱う。あまり一般の方が興味を抱く内容ではないが、大変面白い本であり、また自身百姓としていろいろ考えさせられたことも多かった。そこで、例によって備忘も兼ねて、本書に即して農書の黎明を繙いてみたいと思う。

まず、農書云々以前の我が国の農業の特色として、主要作物である水稲に関しては、非常に早い時期に栽培技術が完成していたということがある。既に平安時代には苗作りから収穫に至るまで、基本的に現代と同じ耕作が行われていたらしい。集約的な管理という面で、日本は大陸や朝鮮半島の先を行っていたようであるが、どうして栽培技術が急速に完成されたのかというのは謎の一つである。

一方、もちろん大陸の方では、古代より『斉民要術』といった農書が著され、農業技術が早くから体系化されていた。これを我が国でも早くから輸入しており、ここに現れる植物が我が国のどの植物に当たるのかを明らかにして内容を理解できるよう、平安時代の辞書である『和名類聚抄』には植物の項も詳細に設けられている。

このように、我が国は進んだ農業技術を持ち、また大陸の農書を輸入しそれに目を通してもいたのだが、なぜか『斉民要術』の導入より約千年間、独自の農書を生むということがなかったのである。『日本農学史 第1巻』の前半は、この事実をどう捉えたらよいか、という問題提起であるといって差し支えないと思う。本書にはそれに対する明快な回答は準備されていないが、農書を成立させる様々な要件が整わなかったから、ということは言えるだろう。

我が国の最初の農書とされる、戦国末期〜江戸初期成立の『清良記 第7巻』の登場の背景を見て、その要件の一端を見てみよう。『清良記』は、封建領主の統治マニュアルとも呼べるもので、第7巻は農業経営の要諦を領主が老農に諮問するという形式を持って書かれている。どうしてこのような書が成立したのかというと、その背景には中世的な農業社会が解体して、近世のそれへと変遷していく社会の変化がある。

つまり、乱暴にまとめれば、荘園経営のような企業的な農業が終焉を迎え、封建領主による個々の百姓の管理という零細的な農業形態へと変遷していったことが挙げられよう。領主にとって租税の源泉たる農業の振興は重要な問題であり、「無知なる農民」「怠惰な農民」を厳しく指導し、農業の生産性を向上させる必要が大きかった。『清良記 第7巻』の要諦は、いかにして貢租を確たるものにするかという点にあり、純粋な農業技術書というより、農政の指導書と言うべきものである。

この『清良記 第7巻』によって千年の沈黙が打ち破られ、約40年後の元禄期に至って雨後の筍のように農書の出現が続く。その理由は定かではないが、基本的には社会の変化の早さに求められるのではないかと思う。そもそも農業技術というものは、親から子へ、子から孫へと世代間で伝えられるか、あるいはせいぜい近隣のやっている事を見たり聞いたりして学ぶもので、現代においてすら、書物から学ぶようなものではない。ましてや近代以前の社会ではそうである。

農業技術を書物を通して学ぶ必要があるとしたら、世代間や近隣から学ぶスピードよりももっと早い速度で社会が変化し、それに対応していかなければならない状況があったからだろう。農業技術を書物にまとめようとする動機には、口伝えによる技術の伝播ではもどかしいとする焦燥感があることは間違いない。

さて、『清良記』を含め、この時代に出現した凡百の農書はいずれも出版されたものではなく、地方的かつ散発的なもので、大きな影響力を持つことなく忘れられていったものなのであるが、元禄10年(1697年)に宮崎安貞により『農業全書』が我が国の農書としては初めて刊行されることになる。

これは、それまでの農書が多かれ少なかれ持っていた「領主から百姓への農業指導」という側面を廃し、「農民のための農書」即ち「耕作者のための農書」を自認して著されたものである。そして、体系的であると同時に体裁的にも完備し、出版以後、なんと明治期に至るまで絶大な影響力を持つことになる。一言で言えば、近代以前における我が国第一の農書であると言えよう。

その内容はと言えば、実はその頃(明代)大陸で著された徐光啓の『農政全書』に多くを負っており、少なくともその総論はほとんどこの翻訳といってもよい観がある。作物別の各論においても『農政全書』の影響は明らかで、気候風土も農業を成り立たせる基盤も違う明代の農書から多くを引き写してくるあたり、日本人の大陸信仰の悲しい現実を嘆かざるを得ないのであるが、もちろん独自の内容もある。

その最も著しいものは肥料論である。江戸時代の肥料といえば、人糞や厩肥を思い浮かべる人が多いと思うが、京阪を中心とした地域では、既に干鰯や油粕といった自給的でない金肥の使用が進んでおり、施肥が高度化していた。元来日本では精密な施肥というものが早くから意識されていて、元肥と追肥の使い分けといったものもおそらく世界で最も早く認識されていたように思われる。

そこに、元禄期に至って自給的でない購入資材による施肥が始まるのである。その遠因は城下町の成立と石高制(米本位制)にある。江戸幕府は一国一城制を定めて支配階級たる武士を城下町に居住させたが、それにより急速に都市が発達した。一方で、租税収入たる米は、もはや食料というよりもお金であり、一度大坂(大阪)に集められた米を売却して現金化し生活必需の品と交換する必要があった。このため商人が取引を仲立ちし、商人経済が活発化していくことになるのである。商業には極めて冷淡で、農本主義的な政策を実行した江戸幕府であったが、結果的には商人たちが活躍する時代が到来したのである。

財力を蓄えた商人たちは、食においても嗜好品を求めた。野菜や果物を食するのにも、各地のものを比較した上で最良のものを消費したのである。これにより、産地間の競争が促され、やがて競争に勝った産地がブランド化を成し遂げていく。例えば、「丹波の栗」のように地名を冠した食材が一般的になっていくのがこの頃である。農産物の商品化・ブランド化が進んだことで、ブランドカタログたる『本朝食鑑』が刊行されたことでも当時の事情が窺える。

こうして名産地が確立され、財力のある商人が高値で農産物を買うようになると、人糞、厩肥、刈草などといった身の回りにある自給的肥料だけでなく、干鰯、油粕といった高価な購入肥料を使うことができるようになる。もちろんそれには、各地を結ぶ海運の完備が前提となっている。全国各地から大坂に海運で米が集められることの当然の帰結として、京阪地域は海運が充実していた。そして商人経済の中心地である大坂へ農産物を卸せる立地的有利性もあって京阪地域の農業は自給的な段階を脱し、商業的なものへと進んでいった。高価な肥料を使うことから、おそらく当時としては世界最高水準の肥料論が確立されたのである。そして園芸作物の管理においてもその精密なことは著しいものがあり、ほとんど現在の水準と変わらない管理手法が採られている。

しかし『農業全書』の精華はそれ以上に発展させられることなく、多くが翻訳であることも認識されないまま、農書の王様の地位に鎮座し続けた。そしてついに西洋農学が輸入されるまで、我が国独自の科学的農学が生み出されることはなかったのである。その点について、古島敏雄は『学者の農書と百姓の農書』という悲痛な短編で述べている。

結局の所、我が国の農書には、現実を観察し、過去の権威に逆らってでもそれを理論化しようとする意志が欠けていたのである。 百姓と共にあったはずの二宮尊徳ですら、農業指導において「詩に曰く、易に曰く」と儒者らしく前置きを述べるように、世界の真理は古代の聖典が既に明らかにしており、それを理解することこそが「学者」であるとする世界観から脱することができなかった。むしろ儒学を知らない百姓こそが、精確な現実の観察に基づき、科学の萌芽とも呼べる農業実験を行い、新知識を体系化するということもないではなかったが、そういう場合においても、明の『農政全書』を始めとした権威的書物と異なった結論、あるいは書いていない事柄であるというだけで、間違っていると決めつけられ、ささやかなる新知識を発展させていく芽を摘まれてきたのであった。

農学の歴史というと、農学の徒にも、歴史学の徒にも興味を惹かれないようなニッチな分野であるが、そこにも日本の学界が抱える問題が先鋭的に現れているように思える。古代より先進的農業技術を持ちながら、また大陸の農書という先蹤もありながら、千年間の長きにわたり一冊の農書もものされず、やっと『農業全書』という体系的な農書ができたと思ってみれば多くが大陸の農書の翻訳であり、それが絶対の権威を確立してしまうというのはどうしてだろうか。『農業全書』で世界的レベルに達したはずの肥料論も、商人経済の停滞と共に以後発展することもなかったようだ。

そして、『学者の農書と百姓の農書』は戦後すぐに書かれたものだが、このような問題は現在でも全く色褪せていないように思われる。いやむしろ、絶対の権威を措定し、そこで思考停止するというパターンは、社会の停滞と共に強化されているのではないかとすら思える。最後に、同短編から古島の叫びを引用したい。
かつて見られた百姓の経験主義・実験的態度は、近代科学の同様な態度によって鼓舞されることなく消失し、改良を拒む伝統主義非能率を誇りとする勤労主義として、最も惨めな面のみを残して、近代科学研究者としての農学研究者を農業研究・現実研究から引き離していく契機となってしまった。
「百姓」を自認している私である。「絶対の権威」を気にすることなく、現実を直視していきたいと思う。

【参考文献】
『古島敏雄著作集 第5巻』1975年、古島敏雄

2012年11月24日土曜日

果樹の有機栽培を(理屈はともかく)実践的に述べた本

来期から果樹生産を有機栽培に切り替えたいなあ、と思って『有機栽培の果樹・茶つくり』(小祝 政明 著)でお勉強。

著者の主張は単純で、農薬を使わずに病害虫を防除するためには植物体自体を充実させなくてはダメで、そのためにはミネラルと有機のチッソが重要だ、という。

ミネラルは植物の生育に必須なものであるにも関わらず、意識して投与しないと不足がちになるのでわかるが、「有機のチッソ」というのはなんだかよくわからない。要はアミノ酸のことらしいが、著者曰く「有機のチッソはそのまま細胞づくりに使えるので、光合成でつくられた炭水化物の消費が少なく、糖度を高めることができる」(p.31)とのこと。

植物は無機物の窒素(硝酸とか、アンモニウムとか)だけを吸収すると思われているが、実は有機物の窒素(アミノ酸の一部として存在する窒素)も少量ながら吸収するようだ、と最近言われ始めた。じゃあどのくらい有機物の窒素を吸収するのか、というのは手元に資料がないが、多分無機物の窒素吸収率とオーダー(桁)が一つ違うと思う。

つまり、植物がアミノ酸を吸収できないとは言わないが、アミノ酸では直接は肥料にならないのではなかろうか。そのあたりの疑問に対しては本書は何も答えない。実際にそれでうまくいっているのだから理屈にはこだわらない、ということだと思う。

ところで、有機栽培の本にしては珍しく、本書にはほとんど土壌微生物の話が出てこない。有機栽培の要諦は土作りだと思うが、そのための土壌微生物の活発化・安定化が触れられないというのは奇異である。というか、有機の窒素=アミノ酸肥料を投与すると、これを直接的に栄養にするのは土壌微生物なわけだから、著者が「そのまま細胞づくりに使える」という「有機のチッソ」こそ土壌微生物の活発化の話なのではないか

しかも、本書では「施肥は早めにやった方がいい。春肥は降雪前に」と述べるのだが、これは、アミノ酸を土壌微生物が分解して窒素を無機態にするために時間がかかるからだと解釈できる。 本書では早めの施肥の理由を「肥料分が土壌に浸透するのに時間がかかるから」と解説しているが、微生物の働きを考えた方が合理的だ。

ちなみに、著者は農家や学者ではなくてジャパンバイオファームという農業資材屋さんであり、本書には自社資材の普及の意図もあるのかもしれないが、そういう広告めいた記載は全くなく、基本的には信頼できる。その理屈の部分では疑問符がつくようなところもあるが、果樹の有機栽培について実践的に述べた本は少ないので、貴重な本ではある。ぜひ来期のポンカン栽培に生かしたい。本書でも「中晩柑類の有機栽培はこれから非常に面白い局面を迎えるのではないか」(p.190)とあって勇気づけられた。

2012年9月15日土曜日

西欧近代農学小史

化学肥料も農薬も、トラクターもなかった頃の農業はどんなだっただろう? そして、現代農学の原型となっている西欧近代農学の成立はどんなだったのだろう? という興味から、『西欧古典農学の研究』(岩片 磯雄 著)という本を読んだ(※1)。

その内容はかなりマニアックだが、他では得られない情報をたくさん含んでいたので、備忘も兼ねて、ポイントをまとめてみたい。

さて、本書の対象となるのは18世紀初めから19世紀半ばのイギリスとドイツの農学であるが、その頃の農業先進国はなんといってもオランダであった。オランダでは既に低地の干拓を大規模に行っており、当時の新作物であったクローバーを導入した集約的な農業が行われていた。しかし海運の商業的成功による富のおかげで穀物は輸入に頼っており、農業がより集約性の高い畜産(チーズ作りなど)にシフトしていく趨勢もあった。そうした中で新興の農業国として勇躍するのがイギリスである。

イギリスの農民的地主であったジェスロ・タル(Jethro Tull)は、病気の治療のため訪れたヨーロッパ大陸において先進的農業を見、その経験に基づいて一連の農機を発明するとともに、イギリスで農業の新体系を構築した。タルの新農法の普及によってイギリスは農業生産性の飛躍的向上、つまり「農業革命」を成し遂げ、それによる人口増は産業革命の一因となったともいう。タルはしばしば「農業の発展に最も大きな影響を与えた人物」「近代農業の父」と言われる。

タルの新農法のポイントは、作付体系から休閑をなくしたことと、条播中耕、そしてそのための機械化である。

その頃のヨーロッパでは中世以来の三圃制が行われていた。三圃制とは、圃場を3つに分け冬穀物−夏穀物−休閑のローテーションで耕作を行う体系であるが、これだと耕地の1/3は耕作をしないということで効率が悪い。そこで、この休閑をなくせないか? というのが西欧農学の発展の一つの軸になっていく。

では休閑をなぜ行うのだろうか? 歴史の教科書などには、「休耕地に放牧することで家畜の糞尿が肥料となり土地の力を回復させる」などと書いているが、これは正確ではない。元々の休閑とは、地力の回復ももちろんだが、同時に除草のためのものであった。当然除草剤などない時代なので、雑草は凄いことになっていたと思われる。しかも、当時は条播ではなく、散播(つまり畑に種をばらまく)であったため、人力による除草もしていなかったらしい。

となると、数年耕作すると雑草だらけになってしまいほとんど何も収穫できなくなってしまう。これを防ぐのが休閑の重要な目的なのだった。では休閑によってどのように除草するかというと、まず畑を放っておく。すると土中にある雑草の種が発芽し、やがて雑草が繁茂する。そこで乾燥した日などに草を刈ったり、棃耕(馬に棃を引かせて耕す)したりすると、雑草が枯れる。だが土中にはまだ発芽していない雑草の種があるので、また畑を放置し、雑草を敢えて生やしてから絶やし、棃耕する。これを何度か繰り返すとだんだん土中に含まれる雑草の種は減っていくわけだ。少なくとも4回、理想的には7回ほどこうしたことを繰り返すことで、雑草の種が含まれない清浄な畑になるらしいが、こうして穀作に備えたのが本来の休閑である。

つまり、本来の休閑とは何もしないのではなく、数次にわたる棃耕が必要な重労働なのだった。これをなんとかなくせないかと考えるのは当然だ。しかも、やがて人口増等によって家畜飼料等が足りなくなり、休閑地への放牧等が始まっていく。そうなると、当然棃耕も十分に行われなくなり、雑草の種が完全に排除されなくなる。この変容した休閑では本来の目的が達成できないので、その意味でも三圃制の変革が求められていたのだった。

これへのタルの解決策は、条播と中耕である。条播とは、線状に一定間隔で種を播くことで、中耕とは種を播いてからその周りを耕すことである。中世以来の散播を辞め、条播にしたことで播種後も圃場に入れるようにして中耕することで除草し、また(タルの理屈では)土を耕すことで地力を回復させた。またタルは休閑をなくすだけでなく、カブなどの根菜類やクローバーなどを導入し、冬穀物−カブ−夏穀物−クローバーというような休閑のない輪栽農法を確立させた。さらにこの農法のための畜力条播機中耕機を発明し、農業全体を新しいものにつくりあげた。

またこの際、タルは植物の生理、栄養、土壌などの理論を反省して、いろいろな実験や観察を行い、総合的理論の上にこの農法を確立したのだが、それは「近代農学の父」と呼ぶにふさわしい。何より、数百年間無批判に行われてきた在来農法である三圃制を打ち破ったことは、タルの不朽の功績と言える。

タルはこれらを『新農法論』としてまとめ公刊するが、所詮は農民である彼の発案はそのままでは世の中に広まらなかった。その流布のきっかけとなったのがアーサー・ヤング(Arthur Young)による紹介である。ヤングはいわゆるジャーナリストだったが、農園を買って農業もやっていた。だが彼自身は農業では成功せず、3度も農園を変えて破産状態だったという。しかし農業に関する著作が売れたことで農学史に名を残すことになる。

彼はタルの農法を無批判に紹介したわけではなく、例えば条播や中耕の意義は認めなかったし、さらに一連の機械化に関しても批判的だった。ヤングとしては、昔ながらの散播なら種まき後は農民は何もやることがなく暇なのに、条播・中耕作業は大変だということ、さらに複雑な機械である条播機、中耕機の維持管理は無学な農民には不可能だ、というような考えだったようだ。にもかかわらず、ヤングは大規模経営の優越を説いているなど矛盾した部分があり、彼の言説は個人的にはあまり賛同できない部分が多いが、タルを始めとしたイギリス農民の叡智を体系化し、ヨーロッパ大陸に紹介・導入の契機となった功績は大きい。

そのヤングの著作を通して学び、近代的農業を確立したのがドイツのアルブレヒト・テーア(Albrecht Thaer)だ。医者だったテーアはイギリスの新農法に学び、それを科学的観点から批判検証し、単なる農法のみならず、いかにして農業経営において最高の収益を生み出せるかを考察した。その結果まとめられたのが大著『合理的農業の原理』(全4巻(※2))だ。

特にテーアの業績として重要なのが地力の源泉を土中の有機物に求めたことで、実はこれがタルとの決定的違いになる。タルは地力は耕すことによって増すと考え、休閑・放牧によって家畜糞尿を投入しなくても中耕によって地力は維持しうると考えたのだが、テーアは畑に有機物を投入することが重要であると説いた。これは、後にリービッヒにより窒素・リン酸・カリの肥料の3要素説で一応否定されることになるが、むしろ現代に至って有機物の重要性が再認識されており、ここに近代的な土壌学が開始されたと言える。

これ以外にも、テーアは近代農業を成立させるための様々な前提について考察した。例えば、土地の私有権、賦役労働の禁止、生産物販売の流通、農業経営のための固定資本と流動資本、農業経営への簿記の導入などだ。テーアの考察は非常に現代的であり、約200年前の著作であるにもかかわらず、現代においてもその意義は色褪せていない。「農業と工業の間には本質的に区別されるべきなんらの相違もない」といった彼の言葉は色褪せないどころか、現代においても十分に過激である。またテーアはプロシアの農政改革に参与し、ドイツの農業を封建的農業から資本主義的農業への転換を成し遂げた立役者でもある。

なお、これまで触れていなかったが、タルから続く西欧の農業の革命の背景には、地主−小作人という封建的関係の解消と近代資本主義の成立がある。ちょうどタルの頃、封建領主による閉鎖的かつ分散的な農業社会が解体し、囲い込みなどによって農地が集約化され、共同地が解消されて私有地に分割されるといった社会の激変があった。また、次第に土地所有と経営の分離が起こり、農業の目的が地代収入ではなく、収益の最大化へと変化していく。それに伴って、かつての農書は地主が小作人管理のために読むものだったが、次第に耕作者本人が読むものへと変化していく。地主に隷属した小作人から、独立した農業経営者が出現、同時に封建的地主からは資本家が出現するのである。それが、タルから続く農学の発展の原動力ともなっている。

最後に、テーアに対する論理的批判者として現れるのがヨハン・ハインリヒ・チューネン(Johann Heinrich von Thünen)である。彼は経済学者・地理学者であったが、自ら農園を経営し、詳細な経営記録をつけた結果、テーアの理論と相違が出てくる部分があったのでそれを理論化するとともに経済学的分析を行い、『孤立国』という本にまとめて公刊した。その批判点や主張はあまりに学問的なのでここでは触れないが、これにより農業が経済学に組み込まれて分析されることになった功績は大きい。

化学肥料・農薬の登場前夜であるこの時代の農学史を通して思うのは、これらの農業改革において病害虫の被害への対応の観点がほぼ全くと言っていいほどないことだ。アイルランドのジャガイモ飢饉は1845年からで彼らの活躍した時代より少しだけ後になるが、それまでも作物の大規模な病害虫被害はあったのだと思う。ただ、それに対処する方法がなかったから彼らは考察のしようがなかったのかもしれない。

20世紀に入って、化学肥料と農薬の開発、そしてトラクター等の燃料機械の開発で農業は抜本的に変わっていく。それまでは病害虫の忌避は基本的に輪作体系によって行われていたらしいが、土壌燻蒸剤の開発によって連作が可能になり、肥料の大量投入と除草剤の使用によって休閑も必要なくなった。しかし、農学の基礎は19世紀に確立しており、それを学ぶことは現代的な意義もある。別に取り立てて化学肥料や農薬を敵視するわけではないが、それ以前の農業の基本がこの時代の農学にはあるように思う。

こうなってくると俄然興味が出てくるのが江戸時代の日本の農書である。だが一書一書を読むような好事家ではないので、何かいい参考資料を探したいと思っている。


※1 Amazonで検索すると古本で1万円以上する高価な本。近所の図書館の廃棄処分に出ていたのをタダでもらってきた。
※2 日本語版だと3冊になっているが、原著は4巻本。

2012年7月21日土曜日

苔庭を目指して、コケ植物を知る

勝手に生えてきた庭の苔
「京都の寺みたいに、庭がコケで覆われたらかっこいいなあ…」と思って、まずコケ植物について勉強することにし、『苔の話―小さな植物の知られざる生態』(秋山弘之著)という本を読んだのだが、コケ植物はなかなか面白い。

まず、コケ植物の著しい特徴は、普通に私たちが見るコケというのは配偶体であるということだ。シダ植物も裸子植物も被子植物も、いわゆる植物体は胞子体である。配偶体というのは精子と卵子(配偶子)を作るため(だけ)の世代をいい、染色体を1セット(n)しか持っていない(胞子体は染色体を2セット(2n)持っている)。コケ植物の場合、これらが受精して作られる胞子体は配偶体に寄生して一時期しか存在しないのだが、普通の植物ではこれが逆で、配偶体こそ胞子体に寄生しているのである。つまり、コケ植物の生活環は、普通の植物と完全に逆転しているのである。

これを読んだ時、私は大きな衝撃を受けた。これまで、(藻類→)コケ植物→シダ植物という具合に直線的かつ連続的な植物の進化を考えていたのだが、コケ植物とシダ植物には非常な断絶があったということになる。コケ植物が維管束と根を獲得してシダ植物になったのではなくて、シダ植物はそれまでと全く違う仕組みで植物体を構築したということになり、俄然シダ植物の起源にも興味が湧いてくるところだ。ちなみに、最初に陸上に進出したのがコケ植物の祖先なのかシダ植物の祖先なのかはまだわかっていないそうである。

さらに、コケ植物は苔類蘚類ツノゴケ類の3系統(綱)で構成され、これらは高い確率で独立系統なのだという。つまり、コケ植物というまとまったグループがあるわけではなくて、3つの植物グループの便宜的な総称が「コケ植物」ということらしい。こうなってくると、「そもそもコケ植物とは何なのか?」ということも曖昧になってくる。

このほかにもびっくりするような事実がたくさんあり、例えば
  • 極寒の極地から熱帯雨林まで広く適応しているだけでなく、実は乾燥にも強く、乾燥した場所に生えているコケの方が多い
  • コケ植物には一般に抗菌性があり、黴が生えることはほとんどない。
  • 地球上の陸地面積の少なくとも1%がミズゴケの湿原で占められているらしい。
といったところだ。

しかし一番びっくりしたのは、「コケ植物の専門家は日本にほんのわずかしかいません。アマチュアの詳しい人を含めても、せいぜい30人程度でしょう」という記載だ。日本には苔庭や苔玉など苔を楽しむ文化もあり、温暖湿潤な気候もあって苔は非常に身近なものなのに、こんなに狭い業界だったなんて…。海外ではどうなんだろう?

ところで、元々の目的だった庭を苔庭にする方法だが、一言でいうと「自然に生えてくるまで1、2年間は毎日水を撒くこと」らしい。苔を植えるなどはよくなく、自然に生えてきた苔を大切にするほうが合理的だということだ。このため、苔が生えやすい環境を整えるのは大事で、常緑樹を植えて日陰を作るとか、肥料を与えず排水をよくするといったことが必要になる。

しかし、1、2年間も毎日水を撒くのは一苦労だし、そもそもその間生えてくる雑草をどうするのかという気になる。苔は生えるところには勝手にどんどん生えてくるのに、生やしたいところに生やすのは結構大変だということがわかった。

2012年6月12日火曜日

『果樹栽培の基礎』

本日も雨なので農業の勉強。ということで『果樹栽培の基礎 (農学基礎セミナー)』(杉浦 明 編著)を読む。

先日読んだ『農業の基礎』と同じく、基本的な考え方を学ぶ本であり、もとは高校の果樹の教科書として執筆されたものということで実践的ではなく、具体の栽培技術については概念的に書かれている程度である。

その内容は、まずは果樹生産の歴史や世界的状況を外観し(第1章)、果樹の生長や果実肥大の仕組みについて解説してから(第2章)、果樹管理の基礎的な技術(剪定、施肥、灌水、施設栽培、加工など)を述べる(第3章)。そして後半は、落葉果樹の栽培・利用法(第4章)、常緑果樹の栽培・利用法(第5章)について概説する、というもの。落葉果樹としては、リンゴ、ナシ、ブドウ、カキ、モモ、スモモ、オウトウ、ウメ、クリ、キウイフルーツ、ブルーベリー、イチジクが取り上げられており、常緑果樹ではカンキツとビワである。

『農業の基礎』と比べて気づくことは、果樹では施肥などの管理にあまり厳密さを求めていないことで、施肥量については『農業の基礎』では複雑な計算式を使って求めていたのに、本書では「果樹のような永年作物では、この算出はきわめて困難である。(中略)標準施肥量を与えてみて、そのときの木の栄養状態をみてかげんする」(p.53)という一見おおざっぱなやり方になっている。

これは、計算式による施肥量の算出が難しいことも一因ではあるが、一回限りの収穫となる一年草の野菜と違い、果樹のような永年作物では、樹勢・樹齢・目的とする樹形などに応じて経年的に管理していく必要があるからだと思う。つまり、計算式に基づいた管理より、樹勢や収量を見ながらの状況に応じた管理が重要になるわけだ。

ちなみに、いろいろな果樹の管理法をざっと眺めていて取り組んでみたいと思ったのは、クリの栽培だ。その理由は、所用労働時間が極端に短いことによる。主要な果樹は年200〜300時間(10aあたり)の労働を要するが、クリでは年100時間を切る。ということで、アクセスのよくない山林に植えるのはぴったりな気がする。放置林になっているうちの山(どこにあるかもよく分からない)をクリ林として活用出来たら面白い。

2012年6月5日火曜日

「科学的な農業」の基本的考え方を学ぶ本

6月4日に南九州は梅雨入りし、雨模様の天気である。というわけで『新版 農業の基礎 (農学基礎セミナー)』で農業の基本についてお勉強。

本来は、もっと早くに(就農前に)こういう本を読んでいるべきなのだが、とりあえず動いてから考えるという性分なので今になってしまった。

内容は、まず栽培・飼育技術の基礎となる環境や管理法の総論から始め(第1章)、主要植物の栽培法を概説し(第2章)、家畜の飼育の総説を述べ、イヌ、ニワトリ、マウスの飼育法を概説する(第3章)。最後に「農業・農村と私たちの暮らし」と題し農業を巡る趨勢や農業に期待されている役割を述べて終わる(第4章)。

書名に「基礎」と銘打っているだけあって、具体的な栽培技術などはあまり書かれておらず、第2章の栽培法の概説も、農業の考え方を説明するために具体例を引いているという位置づけに思える。つまり本書は栽培技術の基盤となる基本的考え方を学ぶ本なのだが、その大きなメッセージは「科学的な農業を行うためにはどうすればよいか」ということに尽きる。

それを要約すれば、「栽培植物の特性をよく理解して環境を整え、収量の目標を定めて適切な施肥を行い、生育をつぶさに観察して記録し、収穫時には栽培の結果をまとめて評価と反省を行い、次年度の課題を設定する」ということになるだろう。それ自体は、ずっと昔から行われてきたこととは思うが、例えば生育の観察を厳密に行うには科学実験のような記録が必要なように、なんでも厳密に実践しようと思えば科学的にならざるを得ない。

本書では、特に「科学的な農業」という言葉は出てこないが、最小の労力で最大の効果を挙げようとすれば、自然に科学的になっていくのだということが、行間に読み取れる。例えば、限られた紙幅の中であえて一般的でない「マウス」の飼育法を説明しているあたりに著者の科学性へのこだわりを感じることが出来るだろう。

よく「これからの農業は知識集約産業」というようなことが言われるが、本書で当然のように説明されているこのような農業は、農家全員ができるものではないような気がする。というか、私自身、ここまで厳密な管理に基づく農業をする自信が持てないのであった。

2012年5月14日月曜日

副業的自伐林業のススメ

生活に身近な山を活かす一つの方策として、「自伐林業」がある。

今の林業では、山主は森林組合などに委託して伐採、集材などを行うのが普通だが、以前は自分の山は自分で管理するというのが基本だった。林業は儲からないといわれるが、山主自身は何もせず、全ての作業を組合に委託して山林から利益を出すのが困難なのは自明である。逆に、山主自身が造林、伐採、集材を行えば、今でも林業は決して儲からない産業ではない

しかし一方で、林業には危険が伴うとともに心理的・制度的な参入障壁も高く、いわゆる「素人山主」は山林管理に手を出せない状況が続いていた。本書『バイオマス材収入から始める副業的自伐林業』は、「自伐林業こそ日本の山を救う!」としてその普及を推進している中嶋健造氏が土佐の森での自らの取組を紹介しつつ、自伐林業参入のためのヒントを与える本である。

その主張は次のように要約されるだろう。
  1. 機械化・大規模化の林業は、その維持に高収益が必要なため、儲かる山しか施業されない。そのため放置山林など適切な管理がされていなかった地域の山がさらに放置される。
  2. しかし小規模山主や地域の人々が、高性能機械を使わないシンプルな方法で林業をすれば儲かるのであり、事実、自伐林家の収入は総じて高い。さらに地域の山も整備できて一石二鳥である。
  3. 自伐林業には、地域ぐるみでバイオマス材(薪やペレットにする)の出荷から始めると運搬や伐木の面で新規参入しやすい。チェーンソーと軽トラがあれば誰でも林業はできる
  4. バイオマス材で林業に親しみを持った人のうち、いくらかは本格的・専門的な林業へと進む人も出るし、工夫次第で地域の活性化にも繋がるのである。
私自身、地域の放置山林から利益を生みたいと考えているので、このような主張には大いに頷くところなのだが、問題は主張3である。確かに、シンプルな方法で林業をすれば損益分岐点が大幅に引き下げられることは事実だが、バイオマス材の出荷のみで利益を生むのは至難と思う。

事実、紹介されている土佐の森の取組でも、市場価格3000円/t のC材(バイオマス材になる粗悪な木材)をNPO法人が6000円/t で買うという工夫(差額は寄附などで負担される)が成功の大きな要因だったように思われる。

よって、副業として自伐林業に個人で取り組みたいと思った時、やはり「バイオマス材から始める」のは無理があるような気がする(地域ぐるみで取り組むなら可能だろうが)。軽トラで3000円/tの木材を市場まで運ぶのは、どう考えても割に合わないからだ。やはりある程度の市場価値がある材を出荷する方が、個人でやるなら合理的だと思う。

ちなみに、狭いながらもスギが90本ほど育っているうちの山を伐採すれば、原木市場では単純計算で20万円程度の価値がある。この施業を森林組合に委託すれば経費の方が高くつくが、自伐林業すれば10万円弱の利益が出るかもしれない。

いずれにせよ、儲けが出るかどうかは細かいやり方次第なので、森林組合にもよく話を聞いて施業方法を考えたいと思う。そして、自分の山で利益が出せれば、地域の他の山でも応用できないか考えてみたい。本書に紹介された取組を見ていても、結局「いろいろ工夫してみんなで協力すれば、どんな事業でも儲かるんだ」という当たり前のことを教えている気がするのである。

【参考】
木の駅プロジェクト
土佐の森での取組を全国で応用可能なものにしていく社会実験。鹿児島でも「木の駅」が早く作られるといいと思う。