2021年12月31日金曜日

元寺と今寺、宝福寺の拡大——宝福寺の歴史と茶栽培(その3)


前回からのつづき)

覚卍が無一物の暮らしを貫いていたとすれば、宝福寺での衣食住はどうまかなわれていたのだろうか。覚卍自身は「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏を食べる」という自然と一体化した生活が出来たとしても、その頃の宝福寺には覚卍を慕ってきた人々が三渓を為すほど多く、しかも彼らは覚卍と同様の頭陀行に徹していた。

しかし覚卍的な自然からの採集生活ができるのは深山幽谷にあってもせいぜい十人程度のものであろう。普通、「頭陀行」と言えば普通は托鉢を示すが、険阻な山奥にある宝福寺から街へ托鉢に出るのは毎日できることではなかったように思われるし、毎日街へ托鉢に行くとすれば山奥で修行する意味も薄い。そう考えると、覚卍の魅力に引かれ多くの人が宝福寺を訪れたことは事実だろうが、覚卍が健在な時にはその滞在は一時的なものであったのだろう。おそらく当時の宝福寺には立派な伽藍もなく、山岳寺院本来の自然と一体化した暮らしが行われていたのではないかと思われる。

だが覚卍という偉大なカリスマの死後、宝福寺はこのような在り方で存続していくことはできなかった。宝福寺は、覚卍の理想とは違う、立派な七堂伽藍を備えた大寺院として発展していくのである。

それを象徴するのが、寺院の移転である。宝福寺には覚卍が開いた「元寺」跡と、移転後の「今寺」跡という二箇所の遺構が残されている。「元寺」にも立派な石積みなどが残されているが、急峻な山に囲まれているところで、大規模な寺院建築には適さず、あまり多くの人が暮らせそうな場所はない。一方「今寺」の方は、同じく山中にあるものの割と平坦な土地が広がっていて、寺院の建設にはずっと適している。宝福寺の経営規模が拡大したため、よりその経営に適した土地に移転したというのが「今寺」の建設であったと考えられる。

とはいえ、それは覚卍の理想を忘れて堕落した結果だということはできない。というのは、宝福寺には覚卍の遺徳を慕って多くの人が訪れていたに違いない。そうした人々全員が覚卍風の頭陀行を行うことは現実的でない以上、覚卍を嗣いだ住持にとっては、集まってくる人々を養っていく手立てを講じる必要があっただろうからだ。覚卍たった一人ならば無一物の暮らしは理想的であったのだろうが、多くの人がその教えを学ぼうとする以上、宝福寺は組織的な経営を行わざるをえなかったのである。

「本寺」から「今寺」への移転は、『川邊名勝誌』や『三国名勝図会』には詳細な記載がないが、『川辺町郷土誌』によれば六代雲岳和尚(天文16年(1547)示寂)の時とされており、経営方針転換後の宝福寺はその規模をさらに拡大させたようである。今の企業と同様に、規模が拡大することでさらに強固な経営基盤が必要となっていくからだ。

こうしてこの時代、宝福寺には急に寄進が続いている。特に七代南室和尚は、日新公(島津忠良)により重んじられたらしく、加世田村小湊の田(10石5合2勺1分)と「中之塩屋一間」、「御分国勧進」(の権利)が寄進されている。特に注目されるのは加世田小湊の塩田「中之塩屋一間」が寄進されていることだ(だだし「一間」がどのくらいの広さ・単位を表すのか不明)。

赤穂の塩田が東大寺の庄園だったように、製塩業と寺院とは古代から深いつながりがある。『川邊名勝誌』に掲載された伝説では、宝福寺が山深い場所にあって塩の入手に苦労しているため日新公は塩田を寄進した、となっているが、そもそも宝福寺と小湊ではかなり距離がある。ほかの寺領が清水にあって宝福寺の近くにあるのに、なぜ宝福寺に小湊の土地を寄進したか。それは宝福寺の経営が拡大し、すでに多くの場所に拠点があったからであろう。そして塩の販売による現金収入が必要だったからではないかと思われる。そしてこうした経営の拡大に伴って宝福寺は各地に末寺を増やしていったのだろう。小湊の「中之塩屋」が寄進されたのが天文21年(1552)。どうやら宝福寺の拡大時期は1500年代半ばからということのようである。

そうして増えていった末寺の一つに、京都伏見の宝福寺がある。これは宝福寺と茶の繋がりを考える上で看過できないことである。伝説的な部分が多いとはいえ、藩政時代における鹿児島の茶産地は全て宇治から茶栽培が伝わったとされているからである。宇治と伏見は目と鼻の先にある。宝福寺には、伏見にあった末寺を通じて茶の栽培が導入されたのではないだろうか。

『川邊名勝誌』によれば、「伏見 宝福寺」は末寺の筆頭に掲げられ、「右開山覚卍禅師開基之寺ニ而御座候」とされている。同誌にはそれ以外の情報はなく、どういった経緯で宝福寺が同名の末寺を伏見に持つに至ったのか不明というほかない。しかしながら、その情報にしても、覚卍が伏見に宝福寺を開くことはまずあり得ない。確かに覚卍は南禅寺時代には京都にいた。しかし転宗して薩摩に帰郷してからは京都に出向いたという記録はなく、また覚卍のライフスタイルから推して考えても京都に出張していくことはないだろう。

実はこの宝福寺は現在でも「久祥山寶福寺(曹洞宗)」として京都市伏見区西大文字町に存続している。この「伏見の宝福寺」に伝わる開基の由来はこうなっている。

【史料四】久祥山寶福寺の「歴史や由緒」(抜粋)
「当寺は、元「瑞応院」と号し、「伏見九郷森村」にあったが、応仁の乱(1467~77)によって兵火に遭い、末寺に寺号を移した。永禄2年(正親町天皇御宇=1559)に、出雲国野﨑浦城主・野﨑従五位備前守(久祥院殿太雄覺山大居士)が国を譲り、当地に閑居して開基となり、「久祥院」と改名し真言宗・冨明法印を開創開山とした。その後、豊臣秀吉公が「伏見九郷」を開拓して文禄3年(1594)に伏見城を築城し、慶長4年(1599)に薩摩国川邉郷曹洞宗寶福寺11代目住職・日孝芳旭大和尚を特請し、曹洞宗開山となり「久祥山寶福禅寺」と改名し、大本山永平寺(福井県・道元禅師開山)と大本山總持寺(神奈川県・瑩山禅師開山)の両本山とする曹洞宗の法脈・法燈を現在も継承している。」

(※久祥山寶福寺WEBサイトより、2021年10月取得 
https://sotozen-navi.com/detail/article_260049_1.html#art1

これによれば、伏見の宝福寺は、元来は瑞応院という真言宗の寺院だったが、慶長4年(1599)に川辺の宝福寺の11代日孝芳旭大和尚により曹洞宗開山となり宝福寺と改称した、ということである。この1599年という年代は、先ほど考察したように川辺の宝福寺の拡大期とも合致している。

ところが川辺に伝わる伝承と食い違うのは、第一に伏見の宝福寺を開基したのが覚卍ではなく「 11代日孝芳旭」という人物になっていること(すなわち開基の年代が大きく異なる)、第二に川辺での伝承では11代は「海雲(または「海雲呑」)という人物であるということだ。これはどのように考えればいいのか。なお11代だけでなくその前後にも「日孝芳旭」という住持は川辺側の記録には存在していないようだ(『川邊名勝誌』および『川辺町郷土誌』に引用された「万延元年寺院由来書上帳」による)。

しかしながら、伏見の宝福寺は現在まで存続しており伝承が連続していると考えられること、開山の人物を間違える可能性は小さいということから、ここでは伏見の宝福寺の伝承の方が正しそうだとしておきたい。日孝芳旭は伏見の宝福寺に移籍したため、川辺の宝福寺の法統から除外されたのかも知れない。

それでは、伏見の宝福寺が曹洞宗として開山した1599年とはどのような時期だったのか、再び茶からは逸れる部分もあるが概観してみることとする。

文禄2年(1593)、天下人・豊臣秀吉は本拠地である大阪城を秀次に譲り、自身は築城中の伏見城(指月伏見城)へ隠居した。しかし同時期、秀吉にとっても思わぬことであったが実子秀頼が誕生したため、伏見城はやがて隠居所の性格が薄れていくこととなる。秀吉は一度は隠居したものの、権力を秀頼に継承させるべく引き続き政務の実権を保持し続けることになったからである。文禄4年(1595)には関白秀次が失脚し一族もろとも処刑され、権力は再び秀吉の一極集中となっていく。

文禄5年(1596)には指月伏見城が同年の慶長大地震で倒壊してしまい、伏見城は北東に1㎞ほど離れた木場山へ全国の大名を動員して再建された。慶長2年(1597)に天主が完成し秀吉が移徙(いし=引っ越し)。この間、伏見には全国の大名屋敷が建築され政治的中心となった。「西尾市岩瀬文庫」収蔵の「伏見図」(慶長年間に製作されたと思われる)によると、伏見城を取り囲むように諸大名の屋敷が配置されているが、このような都市がたった数年という短い期間に造成されたことに驚きを禁じ得ない。秀次失脚の以前は、大名屋敷は秀次の居館である聚楽城の周辺に造営されていたのであるが、秀次失脚の後に聚楽城は派却されてその一部が伏見に移転された。おそらくそれと同時期に大名屋敷も伏見に建築されたのだろう。このようにして、一時期ではあったが伏見は日本の政治的中心になったのである。

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死亡すると伏見城は五大老の筆頭であった徳川家康に引き継がれる。しばらくは豊臣政権は存続の構えを見せたものの、絶対権力者であった秀吉が死亡したことは全国の大名に動揺を与え、島津家でも新たな権力闘争の動きに入っていくことになる。事実、翌1599年には島津家の家老伊集院忠棟が島津忠恒(後の第19代当主島津家久)によって伏見において誅殺されている。伊集院忠棟は島津家の家臣であるとともに、秀吉から直接知行を安堵された「御朱印衆」(つまり秀吉の家臣)でもあり、島津家領国における太閤検地を石田三成とともに推進した人物である。伊集院忠棟を誅殺したことは、島津家として豊臣政権から距離を置こうとしていることの表れといえよう。やや長くなったが伏見の宝福寺が曹洞宗開基となった1599年はこのような時期であった。

先述の「伏見図」では、島津関係として「嶋津但馬守」「嶋津右馬守」「嶋津右馬頭」「嶋津兵庫」の四つの屋敷が掲載されており、宝福寺も「嶋津兵庫(島津義弘)」の屋敷のそばに「禅 寶福寺」としてしっかり書かれている。

この図を見てすぐに理解できることは、秀吉の意向によって急ごしらえで作られた政治都市伏見において寺院の新設が自然発生的に行われるはずもなく、宝福寺の末寺開基にも政策的必要性があったに違いないということだ。ではどのような必要性だったのかということについては残念ながら史料からは明らかでない。

ところで以前から、宝福寺は琉球とのパイプを持っていたらしき形跡がある。「覚卍伝」において宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」の三渓があったとされているが、琉球から多くの人が訪れていたのである。また琉球禅林の祖であり首里円覚寺の開山である芥隠承琥(かいいん・じょうこ)は、琉球渡海前に宝福寺に滞在し覚卍に師事したとされている。16世紀末、文禄・慶長の役後の明との国交回復のために琉球国との外交が非常に重要になっており、そのために伏見の宝福寺が開基されたのかもしれない。しかも、宝福寺はそれ以前からも島津氏によって政治的に利用されていたフシがある。

宝福寺は罪人が幽閉される寺だったようなのである。

(つづく) 

※画像(伏見図)は西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベースより。注釈は著者が挿入。原図では東が上になっているが、北が上になるよう改変している。

【参考文献】
『「不屈の両殿」島津義久・義弘—関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇』新名 一仁 著

2021年12月27日月曜日

パチンコ屋が潰れて、跡地にまたパチンコ屋ができる街

今年のうちに、今年一番のガッカリ、について書いておきたい。

以前、「イケダパン跡地の有効利用」という記事を書いたことがある。加世田の街の中心部に、イケダパン跡地が廃墟化した区画が残っているからそれを有効利用した方がいい、という内容だ。

【参考】
イケダパン跡地の有効利用
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2016/01/blog-post_22.html

その跡地は、どういう経緯か知らないが「株式会社正一電気」というところが再開発することとなり、「いろはタウンかせだ」という複合施設が2018年に誕生した。 今ではヤマダ電機を中心にコメダ珈琲、シャトレーゼなどが入った、駐車場350台を擁する施設になっている。

これによってさらに加世田中心部は再開発的機運が高まってきたように見受けられた。

そんな中、「いろはタウン」に隣接するパチンコ屋「T-MAX」が廃業し取り壊された。 実はこの「T-MAX」は、元々はイケダパンが経営していたパチンコ屋を、市丸グループ(鹿児島の企業)が買収したものだ。1985年に買収したそうだから、建物がだいぶ老朽化して廃業したのだろう。この由来を考えれば、「T-MAX」の取り壊しはイケダパン跡地有効利用の一環であるように思われた。

「T-MAX」の取り壊しに続いて、新たに店舗が建設される工事が始まった。

私は、どんなお店ができるのだろうと楽しみにしていた。「けっこうお店は大きい。駐車場らしき建物も大きそうだ。いろはタウンと同じような複合施設だろうか…」と建設工事を見るたびに期待を膨らませたものである。

ところが!!

なんとオープンしたのは、またパチンコ屋「イエスランド」だったのである…!! パチンコ屋が潰れて、またパチンコ屋ができた。そんなことってアリかよ。

いや、何も私はパチンコをひどく毛嫌いしているわけではない。もちろんあまり誉められた娯楽ではないと思うし、私自身は全くやらないが、節度を持って楽しむならば無害な遊興なのかもしれない。

だが、加世田には既にパチンコ屋が林立しているのである。街の中心部にあり、もはやランドマーク的な存在感がある「モリナガ」、ニシムタの裏手にある「ダイナム」、本町の「京極」とモリナガの近くにある「ライト京極」といったパチンコ屋が犇めいているのだ。

その上、パチンコ 559台/スロット 232台で地域最大の規模の「イエスランド」が参戦したわけだ。連日駐車場もいっぱいで繁盛しているように見える。すっかり飽和しているのかと思っていた加世田のパチンコ界が、意外な需要を抱えていたことを気づかされると共に、いろんな意味でガッカリしたのが正直なところだ。

ちなみに「イエスランド」を含め、加世田にあるパチンコ・スロットの数を合計すると、

パチンコ  1646台/スロット 722台 合計2368台

にも上る(私調べ)。南さつま市の人口は32,946人(2021年11月末時点)。このうち、未成年がだいたい5000人くらいいるので、成人人口に対してほぼ10%の数のパチンコ・スロット台があるということになる。これはさすがに多すぎではないか。

もちろんこれは、パチンコ屋のせいではないのである。これだけのパチンコ屋に行く人がいる、という事実がパチンコ屋を呼び寄せているのだ。

私は、人生には無駄が必要である、と常々思っている。パチンコやスロットに費やす金は無駄だとは思うが、アウトドアやスポーツなどのもっと健全なレクリエーションだって無駄だし、極論を言えば読書だって無駄だと思う。しかしこのパチンコ・スロットの数を考えると、街ぐるみで随分な無駄遣いをしているということになりはしないか。

「お金は賢く使いましょう!」なんてつまらないが、それにしても、うーん、「もうちょっと前向きなことにお金を使った方がよくありませんか…」と思っちゃうのである。

日本は今、急速に貧しくなりつつある。この25年ほど、ほぼ全く経済成長していないのだから、世界の国々に置いて行かれるのは当然だ。とはいえ同時に、社会に全くお金がないというわけでもない。現に南さつま市も、高齢化と人口減少に喘ぐ典型的な崖っぷちの街ではあるが、まだまだ2368台のパチンコ・スロット台を支えていける経済的余力は持っていることになる。

問題は、その「余力」をどう使うか、ということだ。これは日本全体にも言える。貧しくなりつつある中だからこそ、未来を創ることにお金を使いたい。

いや、「未来を創る」なんて大げさでなくて、もっと正直に言えば、今でも十分多いパチンコ屋より、街にないものが欲しかった。発想がつまらねーと思うかもしれないが「スターバックス」 「無印良品」「ケンタッキーフライドチキン」「餃子の王将」…そういう店だった方がまだずっと嬉しかった。

都会にいる人は、こういうフランチャイズの店が地方都市を画一化して、さらに衰退を早めることになる、と思うだろう。それはおそらく正しい。でも、そういう店が進出してくる街の方が、パチンコ屋が潰れて、跡地にまたパチンコ屋ができる街よりは、まだ未来がある。

何にお金を使うのか、みんなの選択が街をつくる。

2021年11月30日火曜日

字堂覚卍は茶をもたらしたか——宝福寺の歴史と茶栽培(その2)

前回からの続き)

宝福寺ではいつ頃、どのようにして茶の栽培が始まったのだろうか。

それを示す直接的な史料は今のところ見出すことができないため、いくつかあり得そうな道筋を考察してみたい。まずは、宝福寺の開基である字堂覚卍(じどう・かくまん)について考えてみる。

字堂覚卍については、『三国名勝図会』(巻之十一)の樋脇の「永禎山玄豊寺」の項に詳細な伝記(以下「覚卍伝」という)が掲載されている。『川邊名勝誌』、『本朝高僧伝』、『延宝伝灯録』にも覚卍の伝記が掲載されているが、これらは全て「覚卍伝」に基づいているようだ。

以下、「覚卍伝」に従って字堂覚卍の生涯を簡単に紹介する(なお「覚卍伝」は、貞享三年(1686)に玄豊寺に建立された石碑に刻まれているもので、覚卍死後約250年を経たものであるから伝説的な要素を割り引いて考える必要がある)。

字堂覚卍は鹿児島に生まれ、幼い頃から大変な俊英だったらしく、京都の南禅寺(臨済宗)で椿庭海寿(ちんてい・かいじゅ)に二十余年学び、応永9年(1402)帰郷した。覚卍は「日置郡藤氏」の家系らしいがその父母の名は明らかでない。家格的な後ろ盾がないにもかかわらず臨済宗における最高の寺である南禅寺(五山十刹制度における「五山之上」。足利義満以前は「五山第一」)に入ったということは、覚卍その人の力量が抜きんでたものだったのだろう。

ところが、帰郷した覚卍はエリートコースを捨てる。臨済宗の教えは覚卍を満足させることはできなかった。覚卍は「破鞋(はあい)庵」—破れわらじ—という庵を結んで世捨て人同然の暮らしをした。その時の偈にはこうある。「人有り、若し意の何如んと問えば、推し出す秦時の轆轢鑽(たくらくさん)。」これは、「どうしてあなたほどの人がそんなところにいるんですか? と問う人がいたら、無用の長物が押し出されただけだよと答えよう」というような意味である(秦時の轆轢鑽=役に立たない品を意味する禅語)。「破鞋庵」の楣(まぐさ)(出入り口の上部に取り付けた横木)にも、「秦鑽」(「秦時の轆轢鑽」を約めた言葉)と書いていた。南禅寺で二十余年修行して禅を究めたはずの覚卍は、自分を役立たずだと言っていたのである。この偈を不審に思った竹居正猷(ちくご・しょうゆう)(妙円寺・福昌寺第二世)がその意を尋ねたところ、覚卍は「私は道を理解せず、禅を理解せず、いたずらに“馬の角と亀の毛”(=存在しないものの譬え)を論じるだけの人間になってしまった」と答えたという。この頃の覚卍は生きる道を見失い、自嘲気味になっていたようである。

その後、覚卍は樋脇に移り玄豊寺を開く。なぜ世捨て人となった覚卍が寺を開基したのかは詳らかでない。その後、覚卍の人生は再び動き出す。加賀(石川県)の瑞川寺(曹洞宗)に行き竹窓智厳(ちくそう・ちごん)に学んだのである。南禅寺で臨済禅を学び、かえって道を見失った覚卍は、今度は曹洞禅を学んだ。同じ禅宗でも臨済宗は体制派的であり、曹洞宗は在野的である。この転宗によって覚卍は何かを摑んだように見える。そして応永21年(1414)、竹窓智厳の法を嗣いで帰郷した。覚卍は58歳になっていた。

帰郷した覚卍は烏帽子岳に住んでまたしても世捨て人的な生活をし、毎夜漁り火が見えるのを嫌って、より山奥の川辺の熊ヶ嶽に移ってきた、熊ヶ嶽でも「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏(から)(木の実と草の実)を食べる」という生活をしたが、通りがかった猟人藤田氏が覚卍の行いに感銘を受け、覚卍のために庵を建てたのが宝福寺の始まりとなった。『川邊名勝誌』では応永29年(1422)が開基の年ということになっている。

その後、覚卍の声望はつとに高まり、非常に多くの人が覚卍を慕ってやってきた。宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」と名付けられた谷(三渓)があって、そこにはそれぞれの出身者がまとまって住んでいたということである。福昌寺第三世住持の仲翁守邦(ちゅうおう・しゅほう)もその徳を聞いて話を聞きにやってきた。先ほどの竹居正猷もそうだが、仲翁守邦も当時の薩摩における曹洞宗の最高権威である。わざわざ覚卍の話を聞きに熊ヶ嶽までやってくるというのは、覚卍の声望が非常に高かったことを物語る。それに対し、覚卍は次の偈を以て応えた。

玉龍は奮迅として烟霞に出ず、下りて訪う南山の瞥(ママ)鼻蛇。
碧漢は霈然(はいぜん)として法雨を傾け、寒林枯木、盡(ことごと)く花開く

この偈は当時の覚卍の心境を伝える数少ないものであるから、少し意味を繙いてみたい。現代語に翻訳すれば次のようになる。「玉龍が勢いよく、もうもうとした霞の中から出てきて、天から下り“南山の鼈鼻蛇(べっびだ)”を訪ねてきました。天(碧漢)はざあざあと法の雨を降らし、冬枯れの寒林枯木が悉く花開いております。」

「玉龍」とは言うまでもなく玉龍山福昌寺の仲翁守邦のこと。「南山の鼈鼻蛇」とは、『碧巌録』第二十二則に出てくる言葉で、スッポンのように鼻がつぶれた毒蛇(コブラ?)のことらしい。「鼈鼻蛇」が何の比喩なのかはいろいろな考えがあるが、要するに自らの中にいる怪物、迷いに覆われた「真実の自己」、といったようなものであると考えられている。覚卍は自分を「南山の鼈鼻蛇」に譬えた。「この迷妄の怪物のところへ、よく訪ねてきてくださいました」というところか。かつて自分を「秦時の轆轢鑽」に譬えた覚卍は、今度は自分を「毒蛇」と言っているのである。そして次の行の「寒林枯木」も覚卍が自身を重ねた言葉かもしれない。「大自然の中で仏の慈悲に包まれ、“寒林枯木”にも花が咲きました」という。同じ無一物の世捨て人的な暮らしであっても、破鞋庵時代とはちょっと雰囲気が違う。かつての自嘲気味な態度は消えてなくなり、自分が「鼈鼻蛇」「寒林枯木」であることを楽しんでいる様子すら感じられる。

こうして覚卍は永享9年(1437)に81歳で死亡した。そこから逆算すると、覚卍の生没年は1358〜1437年ということになる。

なお、瑞川寺が開かれたのは応永20年(1413)であるが、覚卍が法を嗣いだ58歳の時は1414年頃だから、創建間もない瑞川寺に行って一年しか修行せず法を嗣いだということになる。南禅寺で二十数年修行したのに比べると随分短い修行期間のような気がする。

ちなみに、瑞川寺を開いたのは竹窓智厳の師匠にあたる了堂真覚(りょうどう・しんがく)であるが、『三国名勝図会』によれば、了堂真覚は市来氏に招かれ永和3年(1377)に市来の大里に萬年山金鐘寺(曹洞宗)を開基している。この金鐘寺は能登の総持寺の直末であったという。そして金鐘寺の二世となったのが竹窓智厳であり、加賀の瑞川寺はこの金鐘寺の末寺だったということである。なお宝福寺ははじめ瑞川寺の末寺であり、瑞川寺が破壊された後は金鐘寺の末寺となったという。

これらの事実関係は『三国名勝図会』以外の資料で跡づけることができないが、それを信頼するとすれば、覚卍は市来の金鐘寺で竹窓智厳や了堂真覚と出会い、臨済宗から曹洞宗に転宗して、瑞川寺の創建に伴って竹窓智厳と共に加賀へゆき、法を嗣いで帰郷したと考えるのが自然である。そうすれば瑞川寺での異常に短い修行期間も説明がつく。

また、了堂真覚と字堂覚卍という名前の類似を考えると、覚卍が禅への不信を乗り越え、再び禅の道に入ったきっかけはむしろ了堂真覚にあったように想像したくなる。「字堂」という法号は(ひょっとすると覚卍という諱も)了堂真覚によって与えられたものではないだろうか。覚卍は南禅寺時代と名前が変わっている可能性がある。

話がやや脇道に逸れたが、ともかく川辺の宝福寺を開基した字堂覚卍は、室町時代初期を生きた人物で、臨済宗から曹洞宗に転宗した僧侶、ということである。

覚卍が生きた時代、京都の寺院では闘茶といって茶の銘柄を当てる賭け事が流行していた。そしてこの頃、茶の栽培はほとんど寺院か寺院領の庄園で行われていたと考えられている。このことを踏まえると、覚卍は南禅寺時代に喫茶および茶栽培を知り、それを川辺の宝福寺にもたらしたと考えることはできないだろうか。

しかしそのようには考えられない理由がいくつかある。

第一に、その行状を見る限り、覚卍は賭け事の闘茶にうつつを抜かすような人物には思えないということである。南禅寺での修行を終えて破鞋庵を結んだ時も、川辺に来てからも、無一物を貫く清貧な暮らしをしており、むしろ闘茶のような遊興を嫌っていたと考えるのが自然だろう。

第二に、覚卍は徹底して「頭陀(ずだ)行(=托鉢行)」を実践しており、茶であれほかの農産物であれ、自ら生産などを行うことは考えられないということだ。「覚卍伝」によれば、八代当主島津久豊とその子忠国は覚卍に帰依し、宝福寺に「腴田(ひでん)(肥沃な田)を寄進したい」と申し出たものの、覚卍はこれを固辞し、「仏勅に遵い、頭陀を行う、以て其の身を終えん」と答えたそうである。そしてそれは覚卍のみならず、宝福寺の寺衆は皆それに倣っているということだ。中世においては、寺は寺地や庄園を持って生産活動を行い、一般よりも進んだ経済を営んでいたのであるが、宝福寺ではそのような生産活動は一切否定され、無一物を理想とする仏道修行が行われていた。それを考えると、嗜好品である茶の栽培を手がけるということは覚卍にはありえそうもないことだ。

そして第三に、もし覚卍が茶栽培をもたらしたとすれば、「覚卍伝」にそのことが書いていないのは不自然だということである。「覚卍伝」には多分に伝説的な事項を含めその生涯が述べられている。仮に覚卍が茶の栽培をもたらしていないとしても、そうした伝説を覚卍に付託してもおかしくないほどである。そう考えると、宝福寺での茶栽培は「覚卍伝」の撰述(=1686)の近過去に始まったことと認識されていて、とても覚卍まで遡らせることはできなかったのではないだろうか。

以上をまとめると、覚卍が宝福寺に茶栽培をもたらした可能性はほとんどないと結論づけることができる。

(つづく)

【参考文献】
伊吹敦『禅の歴史』
※冒頭の法統系図は『禅の歴史』所収の系図より抜粋し、覚卍関係を著者が追記して作成しました。

2021年11月26日金曜日

宝福寺での茶栽培の記録——宝福寺の歴史と茶栽培(その1)

南九州市川辺町清水には、かつて忠徳山宝福寺(曹洞宗)という寺があった。

宝福寺は「山ん寺」として知られた大きな寺院で、往時はお茶が栽培されていたという。その廃寺跡(今寺跡)には、その頃の名残と見られるチャノキが今でも自生しており、このチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われている。しかしながら、宝福寺での茶の生産は記録が残っていないためよくわからないことが多い。そこで、既出の情報を整理し、宝福寺の歴史を振り返ってその茶生産がどのように始まったのかを推測してみたい。

まず、藩政時代(またはそれ以前)に宝福寺で茶栽培がされていたことを示す一次史料を見つけることはできなかった。編纂ものとしても、例えば江戸時代後期に編纂された『三国名勝図会』には宝福寺の項目があるが、茶が栽培されていたとは一言も書いていない。その記載の出典である『川邊名勝誌』も同様である。宝福寺跡にチャノキが自生している以上、かつての宝福寺で茶が栽培されていたことは確実と思われるが、名勝誌等になぜ記載がないのかは謎である。

次の二つの史料は、近現代の編纂ものだが宝福寺(または川辺)での茶の生産・流通について触れている。なお文章番号は便宜的につけた(以後同じ)。

【史料一】『川邊村郷土誌』
(一)「延享年間(二四〇四※)煎茶蒸茶各々少し宛(ずつ)江戸御用として買入度に付風味茶として差出べき様寶福寺に申付けらる」
(二)「寛政九年(二四五七)二月十五日茶園仕立方被仰渡候に付苗木二千三百八十株を新に植附其旨届出たり」
(三)「文久三年(二五二二)正月町名子源右衛門の子與八へ茶、卵一手買ひ纏め方差許され錢四十二貫文宛上納することを許可せらる」
(※原文ママ。皇紀による換算。以下同様。西暦換算では、延享年間=1744〜47年、寛政九年=1797年、文久三年=1863年。)
【史料二】『川辺町郷土誌』
(一)「熊ヶ岳の宝福寺では茶を毎年藩に上納して銭一貫文ずつを賜ったという」

これらの記載は、郷土誌編纂の際に何かの史料から抜き出したものと考えられるが、その原典を探し出すことが出来なかった。『旧記雑録』ではないかと考え、該当の年代を一ページずつめくりながら確認してみたがこれらの記事は存在していないようだ。原典史料をご存じの方は御高教いただけると有り難い。

原典史料が不明であるため、本来はこれらの記述はいくらか留保して考えなければならない。正確に原典を転記していないかもしれないし、原典史料の信頼性が低いかもしれない。しかし郷土誌編纂時には多くの人がチェックしたはずであり、ある程度確かなものとみなせると思う。

またこの他、【史料二】には、直接宝福寺に言及したものではないが次の記述がある。

【史料二】『川辺町郷土誌』
(二)「万治元年(一六五八)の検地では、田部田村に茶一斤二百三十匁が記録され、享保九年(一七二四)の内検では両添村に茶九十匁を生産したことになっている」
これらの記述から宝福寺での茶栽培について読み取れることを少し考えてみたい。

まず【史料一】(一)では、延享年間(1744〜47)に「煎茶蒸茶」を「江戸御用」として買い上げたいので「風味茶」を宝福寺に差し出すよう申しつけている。「江戸御用」が、江戸の藩邸における藩主の「御用茶」なのか、将軍に献上する「将軍家御用茶」なのか判然としないが、いずれにしても最高級品の茶が求められることは間違いない。当時の宝福寺では、薩摩藩内において最高級品の茶が生産されていたということになる。ちなみに、鹿児島県内で同じく茶が栽培されていた寺院として吉松の般若寺(真言宗)が知られている。『三国名勝図会』の「吉松」の項(巻之四十一)には次の記載がある。

【史料三】『三国名勝図会』(巻之四十一)
(一)[物産]「茶 當郷諸村の内に多く産す、名品種々あり、本藩の内、茶の名品は吉松、都城、阿久根を以て、上品とす、其の内にても吉松の産は、往古より特に久しく名品を出す、凡そ當郷の地は、茶性に相愜(かな)ひ、茶種を蒔ざれども、山林の間、天然に生じ易し、その名産ある推て知るべし」
(二)[般若寺]「茶園 當寺の境内に多し、名品にして、世に是を賞美す、名を朝日の森と呼へり」

『三国名勝図会』編纂の時点(天保期(1831〜45))では、既に宝福寺の茶は名品ではなくなっていたということなのか、または地域の特産品と呼べるものではなかったからなのか、宝福寺の茶についてはこの記事では触れていない。

なお【史料一】(一)の「煎茶」と「蒸茶」の違いはよくわからないが、少なくともこの頃の宝福寺のお茶は抹茶ではなかったようである(全国的な趨勢としても江戸時代には煎茶が一般的になっていた)。

次に【史料一】(二)を見ると、寛政九年(1797)に茶園の仕立て方について藩から申し渡しがあり、苗木2380株を新に植え付けた旨を届け出ている。これは宝福寺の茶栽培が実質的には藩の支配下にあることを示している。実際、それから数年後の文化期(1804〜18)には、薩摩藩は茶を藩の専売事業に位置づけ、この頃から藩の強力な奨励がなされている。しかしながらこれは逆にいえば自由な取引を禁じることでもあったので、あまりうまくいかなかったと言われている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

また茶の苗木を2380株植え付けたということについては、当時は今のような密植が行われることはなかったと考えられるし、現代の茶園の標準的な植え付け本数が反当たり1500〜2000株であることを踏まえると、2反(20a)ほども増産したように見受けられる。機械化が進んだ現代ではこの程度の増産は容易だが、当時は全てが手作業であるためかなり力を入れた新植だったと思われる。

次に【史料一】(三)では、文久三年(1863)に町人と見られる与八が茶・卵の「一手買い」、つまり独占的な買い占めの権利を得て、その許可料が年銭42貫文だったとしている。これは宝福寺の茶とは書いていないので、ここで与八が「一手買い」を許された茶がどこで生産されたものだったのかは明確ではない。しかしながら、薩摩藩では茶を専売品にする以前から、茶には高額な税金がかけられていたので、民間の換金作物としてはあまり生産されていなかったと考えられる。また薩摩藩では、この記事の三年前である万延元年(1860)に茶の専売制度を解いて自由販売品にしている(『鹿児島県茶業史』)。そうした状況証拠からすれば、この記事は町人の与八が宝福寺の茶の卸売りの権利を得たというように読めると思う。

ところで【史料二】(一)では、年代不明ながら宝福寺では毎年藩に茶を上納し「銭一貫文」を賜ったというが、銭一貫文とは銭貨1000文のことで、現代の貨幣価値にするとだいたい1万円強になる。江戸時代のどのあたりを換算の基準にするかにより上下するるにしても、たいした金額ではない。文久三年(1863)に与八が茶の一手買いの権利を年額42貫文で手に入れたのを見ても、藩から下賜される金額としてはいかにも小さい。これは史料の誤記ではないかと考えられる。

最後に【史料二】(二)では、これらの資料中で最も古い年代である万治元年(1658)に、田部田村では茶が一斤230匁=約1.5kgが生産されていたと述べている。田部田村の検地結果であり宝福寺の茶生産ではないが、近世以前において茶の栽培が寺院を中心に行われていたことを考えると、宝福寺での茶栽培はこれに先駆けることは間違いないように思われる。

これまでの史料をまとめると次のように言うことができる。即ち「宝福寺の茶は少なくとも江戸時代の初期には栽培されており、江戸時代半ばには藩内における最高級品であった。しかしやがて『三国名勝図会』等でも特筆されるものではなくなっていき、十八世紀末には藩の強い統制を受けて増産するものの、やがて販売自由化された」ということになろう。そして明治初期の廃仏毀釈によって宝福寺が廃寺になることによって茶栽培も終了したのである。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島県茶業史』1986年、鹿児島県茶業振興連絡協議会編

 ※冒頭写真は宝福寺跡に今も自生するチャノキ

2021年11月11日木曜日

南さつま市議選。政策を「選挙公報」から見る

南さつま市議会議員選挙が行われる。この過疎地大浦町でも、(意外にも)連日街宣車が走り回っている。

前回、前々回の市議選では、私は議会の一般質問の数から議員の働きぶりを見てみる、という記事を書いた。

【参考】
「立候補しなかった人」の責任 (2017年)
「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る (2013年)

しかし今回は有り難いことに約半数が新人の立候補である。これまでの議員の働きぶりを見るのにも意味はあるが、今回のように新人が多い場合には選挙への向き合い方としては偏っているので、今回は一般質問の数の分析は辞めることにする。

ところで、先日ある立候補者の方が、「市議選ももっと政策論をしなきゃならないのに、そういう話が全然無いのはよくないですよね〜」とぼやいていた。ところが、この人自身が街宣車での呼びかけばかりで、全然政策論を言わないので「そう思うならまず自分がしてくださいよ」と言ってしまった(笑)

でも、ここのような田舎町の市議選だと、実際ほとんど政策論など出てこない。まず市長の力が強大なので市議の力で実現できる政策があまりないということがあるし、選挙活動のメインが電話での投票依頼だから、ということもある。

そういうやり方がそれなりに働いていた時代はあったにしろ、「地方創生」が叫ばれている現在、市民→市議→市政というボトムアップ型のまちづくりが重要になってくると思う。となると、やはり市議の持っている政策的方向性はしっかり見た上で投票したい。

ところが先述のとおり選挙運動といえば「皆様お疲れさまです。○○をぜひよろしくお願いします。南さつま市のために頑張ります」みたいな街宣しかないので、どうも政策が分からない…と思っていたところ、「選挙公報があるじゃないか」ということに気づいた。

選挙公報には街宣車では言わない(正確には公選法の規定で「言えない」)いろんなことが書いてある。投票に当たってかなり参考になりそうだ。というわけで選挙公報から各候補の掲げる政策を全部抜き出そうとしたが、そうするとあまりに長くなるし、候補毎に記述のスタイルが違いすぎるので、思い切って次の方針でまとめてみることにした。

【方針1】選挙公報で最初に掲げている政策(以下「第一政策」という)を取り上げる
【方針2】スローガン的なもの(住みよい南さつま市へ! とか)や政治家としての理念は政策とみなさない
【方針3】図で表示されていてどれが第一政策なのか不明な場合、左上のものを便宜的にそれとみなす
【方針4】独断と偏見でコメントを付け加える

この方針の下でまとめたのが次の一覧である(届出順)。せっかくまとめたので、皆さんの投票行動に参考になれば幸いである。

坂本 あきひと

【第一政策】魅力ある街づくり
【コメント】そもそもこれが政策なのか迷った。ちなみに次は「スポーツを通した交流活動」だった。

山下 みたけ

【第一政策】ムダを徹底的に省き、行政改革を!
【コメント】これの具体策の一つとして「イベントなどの費用対効果の吟味を徹底」とある。砂の祭典について言っているのかもしれない。

松元 正明

【第一政策】(基本理念のみのため記載無し)
【コメント】基本理念の一番が「変えられないものは変えられないとして受け入れる心!」とあり、これが非常に独特。保守ということが言いたいのだろうか。しかし保守なら普通は「変えてはいけないものは変えない」となりそうなのにちょっと不思議だ。

きじま 修

【第一政策】交通弱者対策
【コメント】紙面では実際には理念の方がずっと大きく表示されていて、理念の1番は「変革する勇気」。松元氏と好対照。

清水 はるお

【第一政策】県内で一番高い介護保険料の引き下げを!
【コメント】これはずっと清水氏が主張してきたことである。ちなみに他の項目も非常に具体的な提案が多い(例:特老「和楽園」、坊津病院は公営で存続を)。個人的には「超大型洋上風力発電計画は中止」が好印象。

神浦 由美子

【第一政策】より子育てしやすいまちに!
【コメント】具体策の筆頭(と判断できる位置)に「男女共同参画の推進」とあるのがいい(全候補者中唯一)。なお政策ではないが、神浦氏は街宣車を使わずゴミ拾いしながら歩いて選挙活動をしているのがグッド。

竹内 ゆたか

【第一政策】高齢者や子供たちが住みやすい町にする
【コメント】具体策をみてみると、実際には高齢者向けが中心。ちなみに具体策の筆頭は「見守り活動」と「ゴミ収集支援」。

田中 ひろみ

【第一政策】安全で安心して暮らせます(仕事・防災・救急・福祉・教育)
【コメント】カッコ内筆頭に「仕事」とあるが、これは安全・安心とどう繋がっているのかよくわからない。ちなみにこの方は阿多自主防災組織会長・阿多消防協力会長らしく、防災には力を入れているようだ。

小園 ふじお

【第一政策】なにより、健全財政
【コメント】健全財政を強く訴えているのは小園氏のみ。そのうえ「なにより」とつけているのが特徴的。こういう方も議会には一人はいないといけないという感じがする。

おつじ さちお

【第一政策】子どもの見守り
【コメント】これに続いて「児童虐待、ネグレクト、いじめから子どもを守る環境を作っていきます」とあり、普通は「子育てしやすい環境づくり」とかなのに、厳しい境遇にある子どもを守ろうということを第一に掲げているのが目を引く。個人的な経験からきたものなのかもしれない。

すわ 昌一

【第一政策】(基本理念のみのため記載無し)
【コメント】「密を避けるためマイク要員をお願いしていません」等、コロナ禍対応の選挙活動をすると書いているのが特徴。

ひらがみ 純子

【第一政策】市民の感覚を忘れません
【コメント】これは「私の約束」とされておりこれが政策なのか微妙だが、2番目が「女性や弱者、少数派の意見を届けます」なので政策と判断した。「私の令和2年度の議員報酬は4,809,217円です。大切な市民の税金です。4年間の活動を審査してください」と書かれていたのがちゃんと「市民の感覚」を体現している。

神野 たかし

【第一政策】自然災害への防災予算を確保し、「事前防災対策」を
【コメント】2番目には「吹上浜沖洋上風力発電事業計画中止」が掲げられている。この方は当該事業への反対署名を集めた団体の事務局長を務めている。

石原 てつろう

【第一政策】第一次産業の育成を図ります
【コメント】ちなみにその具体策の一つは「特産物の販売促進に力を入れます」。全体的に非常にすっきりと重点政策がまとまっている見本のような選挙公報。

上野 あきら

【第一政策】農業を基本とした地域づくり
【コメント】候補者の本業は茶農家のようだ。「農業を基本とした地域づくり」が何を示しているのかいまいちわからないが、農家が中心になって地域おこしをしようということのように思われる。 

上村 研一

【第一政策】「コロナ災禍」分散型社会への転換時期
【コメント】全候補者中、おそらく最も文字数が多く、いろいろな分野のことが非常に短い言葉で書いてある。

大原 としひろ

【第一政策】子育て支援
【コメント】ただし政策列挙の前の文では「コロナ禍を乗り越えることが喫緊のテーマ」としており、何が第一政策なのか判断に迷った。

小薗 いくや

【第一政策】健康で安心できる暮らしの明日を考える
【コメント】「ふるさとの明日を考え、提案します」ということなので、政策というよりはこれからジックリ考えていきたいということなのかもしれない。

かとう あきら

【第一政策】より子育て世代にやさしい市へ
【コメント】全候補者中、唯一ちゃんとしたWEBサイトを開設していて、総花的であるが政策がしっかり掲載されている。職業が「冒険家」でぶっとんでいるのに内容は王道(笑)

くろせ 家盛

【第一政策】一次産業(農林水産業)の振興
【コメント】全候補者中、唯一の漁協関連の人。政策とは関係ないが、名前の「家盛」を何と読むのかわからない。名字じゃなくて名前の方をひらがなにすればよかったのにと思った。


以上、候補者20名の選挙公報を熟読した結果である。これまで選挙公報は「みんな似たようなことが書いてある」と思っていたが(いや、実際大同小異なのだが)、熟読してみると意外と個性が出ていて面白いと思った。みなさんにも選挙公報を熟読するのを勧めたいと思う。

なお、上記の一覧について、私が恣意的にまとめている部分があるんじゃないかと思った人もいるかもしれない。というわけで、検証のために選挙公報のコピーを掲載する(※順不同)。ただし公選法において、選挙公報をネットにアップすることの可否がよくわからなかった(そもそも想定されていないような感じ)。もしダメならご指摘いただければ幸いである。

 












2021年8月11日水曜日

小学校のPTA会長になりました

実は今年度、小学校のPTA会長になってしまった。

もちろん、人望があって選ばれた…とかではない。うちの娘たちが通う大浦小学校は全校の児童が約50人しかいない。保護者の数は30組くらいだったと思う。

PTA会長は6年生保護者から選ばれるとは決まっていない…のだが慣例的に6年生保護者が多い。うちの娘も、はや小学6年生。というわけで、いわば「順番」で回ってきたというのが実態である。

小さな小学校の場合、PTA役員をやらされる(確率が高い)というので敬遠する人がいると聞くが、小さな小学校のPTAの場合、PTAの役員も結構ラクである。メンバーには気心が知れた人が多いし、メンバーが少ないから連絡の手間もあんまりない(まあ最近はLINEとかでの連絡が多いが)。

ところが、PTA会長になるとやたらと会議があってこれが大変なのに、なってから気づいた。しかもその会議が、「こんな会議いるの??」というのが多い。

先日は、「第1回 南さつま市校外生活指導連絡会」という会議に出た。この会議は何かというと、校外生活指導……いわゆる「補導」の共通化を図るためのものである。

なぜ「補導」の共通化が必要かというと、例えばある地域では「午後7時以降は子どもだけで外出してはいけない」といった決まりがあるとする。7時半にコンビニの駐車場でたむろしている中学生に対して「こら、こんな時間にダメじゃないか」と「補導」した際、その子どもたちが隣の学区から遊びに来ている子どもたちで、「うちの地域だと8時まではOKとなってるんですけど?」と反論される場合がある。…だから共通化が必要、ということらしい。

特に夏は、夏祭りなどで遅い外出が多くなるので、それに先だって今の時期にこういう会議が行われるとのこと。

しかしながら地域の実態を考えると、こういう会議は不要である。なぜなら、大浦のような南薩の過疎地域には、「補導」の主な舞台であるゲームセンター、ボーリング場、カラオケボックスなどない。それどころかコンビニもなければ夏祭りもない(←コロナ禍だからないのではなくて元からない)。いわゆる「不良」がたむろするような場所がない…というか、不良少年少女がいない。というか子ども自体がいない。「補導」なんかいらないのだ。

南さつま市全体で言っても、「補導」が必要に思えるのは加世田中心部のみで、それにしても鹿児島市内の事情とはずいぶん違う。

そもそも、少年少女の「非行」を防がなければならないとして、もはやそれの主戦場はSNSなどバーチャルな世界に移行している。もちろん「補導」が必要な地域は未だにあるだろうが、特に田舎の場合はバーチャルの比重が大きいのだから、 こういう会議は全く不要だと思う。

じゃあ、なんでこんな会議が行われているのか? もちろん前時代からの名残ではあるのかもしれない。でもそれにしても、大浦なんか昭和40年代から過疎化しているところなので、「補導」が必要だった時代があるのか疑わしい。

実はこの会議にはもっと実務的な背景がある。それは、学校の先生にとって「補導」は職務ではない、ということだ。公立学校の教職員に超過勤務を命じることができる4原則というのがある。それは、

・実習
・学校行事
・職員会議
・非常災害などに必要な業務

である。「補導」はこのどれにも当たらない。だから学校長は先生に対して「夏祭りがあるから○月○日、××先生は補導をお願いします」とか命じることができない。もちろん、個々の先生が善意で補導活動を行うことはできるがそれは職務に位置づけられないボランティア活動である。

しかし現実に「補導」が必要な場所がある。夜遅くにゲームセンターで遊んでいる子どもは、家庭や友だち関係になんらかの問題を抱えていることが多く、ある意味では「補導」はそうした子どもに適切な支援を繋げていく機会となっている。

そこで鹿児島県では(というか多くの都道府県で同じだと思うが)、「補導活動」に対する予算を組んで、「補導」を行う先生に謝金を払う仕組みを作った。校長から命じられる通常の職務ではなく、県からの委託事業として「補導」を位置づけたのである。

ところが県が個々の先生と委託契約をするのは面倒だしあまり意味もない。そこで、各地に「校外指導連絡連絡会」みたいなのを作って、そこに補助金として予算を流すことにした。そして個々の先生には「連絡会」の方から謝金が支出されるのである。この会は、そのために存在しているといっても過言ではない団体なのである!

そして、各学校のPTA会長が、「こんな会議いるのかな〜?」と思いながらもその会議に出ている、ということになる。

この会だけではなく、そういうのが昔ながらの会議には多い。いや、最近出来た会議にもそういうのが多い。

現実的な課題解決に繋がるものだったら、大抵の保護者は喜んで参加する。しかし形式ばかりで、中身のない会議をやるからPTA活動が面倒なものに思うのである。

しかも現実の課題解決には繋がらない、というかむしろ現実を見てもいないのに、こういう会議はやたら大仰で立派な大義名分を掲げている。なんだかその態度にしらけてしまう。

そんなわけで、PTA会長になってみて一番思ったのは、「無駄な会議多すぎ、現実見てなさ過ぎ」ということなのだ。

「校外生活指導連絡会」みたいな会議には正直あんまり出たくないが、不登校や学級崩壊やDV被害や困窮家庭問題など、具体的な問題を解決していくための活動なら、PTA会長として微力ながら尽力していく所存です。

2021年2月26日金曜日

もうひとつの世界

娘から「お父さんは本なら何でも買ってくれるよね」と言われる。

自慢じゃないが(って本当に自慢じゃないが)、うちは貧乏である。世帯年収が150万円くらいしかない。田舎じゃなかったらとてもじゃないが生活できないレベルである。でも、子どもの本は割と気軽に買う。

勉強が出来るようになって欲しいとか、国語力がつくようにとか、物知りになって欲しいと思ってやっているわけではない。まあ、ちょっとは「文学に親しんで欲しい」という気持ちもあるが、ラノベみたいな本だって買ってあげるのにやぶさかではない。

なぜって、本は、我々が必要な「もうひとつの世界」をくれるものだからだ。

実は、娘には小さい頃、「もうひとつの世界」があった。所謂「イマジナリーフレンド(見えない友だち)」である。こちらに移住してきてから1年くらいの間、3歳だった娘は保育園でも特定の先生以外とは誰ともしゃべらず、もっぱら一人の世界に没入していた。ところが彼女の中ではそれは一人ではなく、見えない友だちがいたのである。

彼女は本当にその友だちが実在していると考えていて、一度親を連れ回して友だちの家に遊びに行こうとしたことがある(当然、家はみつからなかった)。

「今日は○○はこんなこと(←大抵は失敗)をした。○○はとてもナントカが好きなんだ。○○はいうことを聞かない」——娘からは、毎日、見えない友だちについての事細かな話を聞かされた。それは彼女にとって紛れもなく現実に見聞きした話だった。

もしかしたら、こういう話は少し異常に聞こえるかもしれない。でも実は、イマジナリーフレンドの存在は小さい子どもにはよくあることで、正常な発達過程に起こることである。ただ、その時には、彼女にとって移住後に激変した暮らしが、少しばかり受け入れがたいものだったのかもしれない、というのも事実である。

いや、仮に現実が受け入れがたいものでなくても、それどころか毎日が充実していたとしても、子どもでも、大人でも、我々は「もうひとつの世界」へ気軽に赴いて、少し羽を休めてみるということが、断然、必要だと私は思う。

もちろん「もうひとつの世界」は、人それぞれ違う。コスプレがそうだという人もいる。マンガを描いたり、ギターを弾いたり、温泉に入ることの場合もある。それは、ただ「趣味の時間も大事だ」ということではない。そうではなくて、この冴えない現実とは違った論理で作られた世界に身を置くことが、人間にはぜひとも必要なのである。

私にとって、それは本の世界だった。

どんなに忙しい時でも、寝る前のたった5分だけでも、私は本を開く。そうすると、嫌なことがあった日も、逆に浮かれて興奮していた日も、なにか憑き物が落ちたかのように心が静まり、安心して眠りに落ちることができるのである。

私の毎日はもちろん冴えないものだが(じゃなかったら年収150万円のわけがない)、かといって失敗の連続とか、ストレスが絶えないなんてこともなく、地味に穏やかに過ぎていくもので、それなりに満足している。ところがやっぱり、私から読書の時間を奪ったら、たぶん窒息してしまうだろう。この現実世界だけが、私の生きる世界なのであれば。

例えば、今読んでいる本はこんなところだ。

まずは最近出版されたジェームズ・フィッツロイ『ガメ・オベールの日本語練習帳』。これはTwitterでの友人が上梓した本。日本語が素晴らしく、しかも内容が深遠であり、もはや日本語の歴史にとって「事件」とも呼べるような本である。でも大切な本なので一度にあまりたくさん読まないようにしている。落ちついた時ではなく、ちょっとした空き時間に開く本である(そうしないとたくさん読んでしまうし)。

寝る前に読むのは、山本七平『現人神の創作者たち』。この本は江戸時代の儒者の正統に関する思想を読み解く本で、引用文の割合がものすごく大きい一方で解説は少ししかないので、けっこう難しい。この本は毎日3ページくらいずつ読んできた。もうすぐ読み終わる。

峰岸純夫編『家族と女性(中世を考える)』は、歴史上、女性の宗教活動はどのように行われてきたのだろうという興味から手にとったもの(本書のテーマは宗教ではないが)。論文集なのでこれもちょっとした空き時間に読んでいる。読書というよりは勉強的な本である。

それから、コーヒーを飲みながら読んでいるのは、『諸子百家』(筑摩 世界古典文学全集の一冊)。古典はコーヒーをお供に読むに限る。これも一度にたくさん読むことはなく、1節毎を味わいながら読む。「墨子」「荀子」「管子」と来て、つい昨日「韓非子」に入ったところである。

最後に、この頃は途中で止まってそのままになっているが、スタンダールの『パルムの僧院』(生島遼一訳)。これは面白くなくて止まっているのではなくて、あんまりにも面白いので、簡単に読み終わりたくなくて止めている(笑)この本は落ちついた時に開きたい。でもその「落ちついた時間」がなかなかないので読めずにいる、という面もある本である。

こういう紹介の仕方をすれば分かるとおり、本の中に「もうひとつの世界」があるのではない。私が言っている「もうひとつの世界」は、本の中に描かれるファンタジー的な世界ということではなくて、本を読むことそのもので展開されていく、現実の日常生活とは違うレイヤーに存在する世界のことである。リアルとは違う「別の人生」と言い換えても良い。

そして、こういう本たちは、私の日常生活の一切に、ほとんど何の関わりももたない。時には仕事上の必要から本を読むこともあるが、基本的に私は「役に立たない」本ばかりを読んでいる。どうやら私の「もうひとつの世界」には、役に立つものはあまり存在していないらしい。いや、たぶん、ほとんどの人の「もうひとつの世界」は、現実には無用なものばかりが楽しく溢れかえっているのが普通だ。

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このたびクラウドファンディングで、近所の空き家を「古民家ブックカフェ」にするための資金集めを始めた。

これは、田舎に徹底的に不足している「もうひとつの世界」の一部を具現化する試みでもある。田んぼと畑と山、学校と家、それからスーパーとガソリンスタンドだけがあるような田舎に育つのは、それはそれで悪くはないが、それだけだったらやっぱり窒息するんじゃなかろうか?

大げさな話かもしれないが、この「古民家ブックカフェ」が、誰かにとっての「もうひとつの世界」の入り口になれたら、と夢想する。森のような木々に囲まれ、古い記憶にあるおばあちゃんちのにおいがする、本がたくさん並べられた空間。冴えない日常から離れて、ほんの少しだけ身が軽くなるような、そんな場所ができたらいい。

「見えない友だち」と会えるような場所に。

 

 ↓クラウドファンディングへのご支援はこちらからお願いします。

2021年2月18日木曜日

日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできるように

「趣味はなんですか?」と聞かれたら、「調べもの」と答えている。

私の趣味は読書だと思われることもあるが、実はそんなにたくさん本を読むわけではない(年間にせいぜい40冊くらい)。そして、面白い本を読みたいという気持ちはほとんどなく、「あれってどうなってるんだろう?」と思って情報を求めて本を開くことがほとんどだ。

だから、自分で本も買うが(というより買える本は買って読む主義)、図書館も意外と使う。意外とどころか、何か本気で調べようと思ったら、すぐ買えるような本には載っていないことが大概だ。どうしても図書館の本に頼らなければならない。

資料のあたりがついていれば、国会図書館の遠隔複写サービスを使う。郷土資料だと、鹿児島県立図書館の遠隔複写も時々使う(でも、県図書の場合は料金を切手(か定額小為替)で送るという非効率的な支払い方法なのであまり使いたくない)。でも複写箇所がわからない場合が多数なので、やはりリアル図書館に行って調べないといけないことも多い。

だが、ここで問題がある。南さつま市の図書館が、貧弱すぎるのだ。もちろん、相互貸借(図書館が別の図書館から本を借りること)によって取り寄せることもできる。しかしその費用を負担しないといけない場合があるなど、気軽には使えない。やっぱり、手近に蔵書が豊富な図書館が必要だ。

そもそも都市と地方には、インターネットなどでは埋めようもない絶望的なまでの情報格差がある。それは、世界の多様性に関する認識の差を形成している。この情報格差を埋めるためにも、図書館の充実は大事である。図書館は、一人ひとりの多様な関心に応え、知らない世界への扉を開き、知りたいことを深めていく場所である。

ところで、もうこちらに移住してきてから約10年になるが、移住前に住んでいたのが神奈川県川崎市の高津区というところ。家から歩いて10分に高津図書館があって、時々足を運んだ。

実は、この高津図書館、住宅街の中にある図書館なのであるが、開架資料だけでいえば、鹿児島県立図書館並みの規模がある。もちろん高津図書館が特別なのではなくて、関東地方ではそのくらいが平凡な規模だ。そして蔵書数もさることながら、特に視聴覚資料(CDとか)は鹿児島の図書館とは全く比べることができないくらい充実している。図書館でCDが借りられるのでツタヤはいらないっていうくらいである。

こういう図書館に気軽にアクセスできるのは、それだけでアドバンテージだと私は思う。ただでさえ地方の子どもは不利な立場に置かれているのに、教育・文化の面で格差が再生産されるのはいただけない。

「どうせ鹿児島は文化のない野蛮な土地柄だから」と人はいうかもしれない。しかし、実はそうでもない。

試みに、高津区と南さつま市の図書館事情を比べてみるとそれが明白になる。公表された統計資料(平成30年度〜令和2年度のデータで構成)をもとにグラフを作ってみた。

 

川崎市高津区と南さつま市の図書館事情比較

蔵書数は、高津区の方が約29万冊で南さつま市より10万冊以上多い。なおグラフにはないが、図書館ごとで比べると、南さつま市で一番大きな加世田図書館の蔵書数が7万5000冊ほど。一方、高津図書館は約25万冊あるので、3倍以上の規模の開きがある。

もちろん、人口が全然違うのでこれは当然だ。高津区の人口は23万人以上あり、南さつま市と比べると20万人多い。ついでにいえば、南さつま市は高津区に比べ面積が17倍もあって、図書館が分立しているから、ただでさえ少ない蔵書がさらに分散している。

では、一人当たりの蔵書数で比べるとどうか。これが調べてみると面白いことで、実は南さつま市の一人当たりの蔵書数は3.80冊で、高津区の約3倍あるのである。

とすると、南さつま市は田舎で文化のない土地だから図書館が貧弱だ、とはいえない。それどころか、高津区に比べ一人当たり3倍も図書館にお金を使っているともいえる(本当は図書の予算決算で比べる必要があるが、その情報が手元にないのでだいたいの話) 。

要するに、南さつま市の図書館が貧弱なのは人口が少ないからであって、図書館にかける行政の熱意(予算)が少ないためではない、ということだ。

でも、図書館の価値は住民一人当たりの本の冊数で計れはしない。それどころか、人口100万人の都市でも、人口1000人の村でも、そこの図書館にあるべき本の冊数・多様性は同じだと私は思う。それは、図書館が住民の「知的な自由」を保障する場であるからで、田舎だからといって知的に不自由するのは仕方ないと諦めてはならない。

では、「知的な自由」を保障できる冊数はどれくらいかというと、日本語だとだいたい20万冊くらいだと思う。別に根拠はないが、いろんな図書館に行ってみての実感だ。これよりも少なくなると、世界の多様性を十分に蔵書で表現出来なくなり、知的世界へのアクセスに不自由をきたす。特に10万冊以下だとそれは非常に限られたものになる。

だから、「日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできること」が図書館行政の目標であるべきとだ、と私は思う。

でも南さつま市で20万冊の蔵書を揃えたら、一人当たり蔵書数はほぼ6冊。こんな予算はとても組めるものではない。

じゃあ、どうするか。答えは一つしかない。図書館を広域行政化するのである。

例えば南さつま市、南九州市、枕崎市が共同で図書館を運営すれば、蔵書数は30万冊を超えると思う。もちろん単純に蔵書数を足し挙げるだけでは、すぐに蔵書の多様性が増えるわけではないが、各市が独立するよりもずっと事態は改善される。さらに各館ごとに揃えていた資料が1つで済む場合も多いので、予算も節約することができる。

こういう広域行政化は、既にいろんな分野で行われている。例えば、ゴミ焼却場、屎尿処理場といったものである。市町村が組合を作って共同運営するのである。もちろん図書館でも、市町村連合によって他市町村の図書を相互に借りられる仕組みはすでに各地である(例:福岡都市圏(17市町で構成される連合))。

ただ、ただの市町村連合の場合は、選書などは各市町村でやるため、必ずしも規模の経済がきくわけではない。やはり市町村組合のようなもので共同運営することがよいと思う。

ちなみに、組合立図書館のススメは、1963年(昭和38年)に『中小都市における公共図書館の運営』というレポートで述べられ、ごく少数ではあるが設置されたことがある。ただその頃はどんどん経済成長していく局面だったので組合立にしなければならない予算面の事情がなくなっていったことと、図書館業界でも賛否が分かれたらしく普及しなかった。

だが今は、指定管理者制度の普及、図書館司書の非正規雇用化、予算の減少などで図書館業界が非常に苦しい局面になっているので、組合立図書館のメリットは大きくなっていると思う。

ところで、これから、南さつま市には南薩地区衛生管理組合のゴミ処理場が出来る(南薩地区新クリーンセンター(仮称))。この組合は、枕崎市、日置市の一部、南さつま市、南九州市で構成されるものである。今のゴミ焼却場は、大量のゴミを処分でき、むしろ燃やすゴミが少ないと非効率になるため広域連携が普通になってきた。こういう連携が広がることはいいことだ。

ゴミ処理に広域連携ができて、図書館にそれができないわけがない。南薩各市の行政のみなさんに、ぜひご検討いただきたい。

2021年2月16日火曜日

大浦小学校で学びませんか? 大浦町への移住のススメ

来年度から、大浦小学校の3・4年生が複式学級になる。

「複式学級」とは、2学年の合計が17名に満たない時に、学年を合併して設置されるものである。要するに、3・4年生が一つの教室で、一人の先生から学ぶ。片一方に問題を解かせている間にもう片方に教える、という感じの授業をやるということだ。

大浦小学校の来年度の3・4年生は合わせて15名。あと2人足りない。実はうちの次女が来年の3年生。このままだと、次女は複式学級で学ぶことになる。

といっても、複式学級は、悪いことばかりではない。

一番いいのは、子どもたち同士の教え合いがあることで、これは普通学級よりも優れた点であるとさえいえる。それに、鹿児島のような過疎地では既にかなり多くの複式学級が設けられているので、先生方の指導の経験も豊富である。複式学級は何が何でも避けるべきものではない。

とはいえ、できれば普通学級の方がいい。というのは、担任の先生の負担が大きいからである。2学年教えても給料が2倍になるわけでもない。子供にとっては悪いことばかりではないが、先生にとっては負担増でしかないのが「複式学級」である。だから出来れば避けたい。

それに、規定の人数に7人も8人も足りないのならすぐに諦めるが、足りないのは2人。2人の転入があれば普通学級になる。

そんなわけで、ダメもとは承知で「大浦小で学びませんか? 大浦町に移住しませんか?」とブログで訴えてみることにした。

【参考】大浦小学校
http://www.minamisatsuma.ed.jp/jr/oourasyo/02burogu.html

大浦小学校の児童数は大体50名強くらい(来年度の人数はまだわかりません)で、1学年は大体10人くらいである。教室も広々使えるし、校庭や体育館もゆとりがある。当然、ソーシャルディスタンスはバッチリである。

コロナ対策関係なく、施設を広々使えることは子どもたちの心にいい影響があると思う。また、校庭は全面芝生なのが先進的で、すごく気持ちがいい。

施設面は、広々使えるだけでなく内容も充実していて、昨年度には全教室にエアコンが配備された。トイレも改修されてとってもキレイである(当然洋式)。個人的には、もうちょっと図書室の蔵書が充実するといいなと思っているが、児童数との比率で考えると新刊本は多く、図書室も充実している方ではないかと思う。

そして、大浦小学校のよい所は、児童全員が名前で呼び合うところで、和気藹々(あいあい)とした雰囲気だ。どうして名前で呼び合うのかというと、大浦の地元民には限られた姓しかないので、例えば一学年10人しかいないのに徳留さんが2人いたりする。だから自然と名前で呼び合う文化が、何十年も前からできていた(多分創立時からだと思う)。 

もちろん、名前で呼び合うからといって仲良しばかりとは言い切れないが、大浦の子どもはのびのびしていて、あまりギスギスしていないことは事実だ。自然豊かで広々とした環境は子ども(だけでなく大人も)の精神を落ちつけると言われているがそれは本当だ。

では大浦小のよくない点は何かというと、私が思うに英語教育が本当にダメである。小学校の英語教育は始まったばかりなので、他の小学校と比べてどうなのか評価できないが、都市部の小学校と比べればかなり見劣りがするのは否定できない。

あと、少人数であるためのデメリットはもちろんある。例えばクラブ活動の種類が限られたり、チームスポーツがルール通りに出来なかったりすることである(1学年10人くらいだとサッカーの試合なんかはできない) 。でも少数の天才を除いて小学校の頃からスポーツ漬けになる必要はないので、それほど大きなデメリットではないと思う。

そしてこれは大人側の事情だが、保護者の人数が少ないのでPTAの役員がすぐに回ってくるのもよくない点である。しかし、大浦の場合はほとんど全て地の人で構成されているので、PTAとかにはみんな協力的で運営はスムーズである。ベルマークの集計みたいな徒労的作業もない。

どうせ田舎の遅れた学校でしょ? と思うかも知れないが、実はそれほど遅れた考えはなく(例えば運動中に水を飲むなとか、かけ算の順序がどうこうといった類)、何より先生たちの雰囲気がユルい。なお大浦小は、先生たちにとっては人気の場所であるらしく、楽しく授業ができる学校のようである(問題児・問題親が少ないのが理由らしい)。

総合的に言えば、大浦小学校はかなりよい学校だと私は思っている。まあ、いい学校だと思っていなかったら、ここで「大浦小で学びませんか?」なんていうわけがないのだが…(笑)

では、大浦に移住するとなれば、大浦がどんな町かということが気になるだろう。というわけで、私の目から見た大浦町のポイントをまとめてみる。

大浦町は、南さつま市の一部(大字)であり、今の人口は1800人くらい。このブログでもたびたび書いてきたように高齢化率の高さは県内でも有数だ。

でも、意外と若い人も元気なのが大浦のよいところで、田舎にありがちな長老主義(○○さんの言うことは絶対、みたいな)は大浦には希薄である。 

というのは、大浦は集落ごとの独立性が高く、よくも悪くも集落が全ての単位となっているので町全体を支配するような権力が生まれづらい土地である。逆に言えば「町一丸となって」みたいなのはあんまりないのが大浦だ。これは当然、現代的な態度に結実していて、割とみんな他人のことに無関心で、自分のことに没頭しているのが大浦町民だと私は思っている。住民同士の相互監視みたいな息が詰まる雰囲気は大浦にはない。こういうのは都会の人がイメージする田舎とは違うところだと思う。

だから、小学校の児童が少ないことは、子供同士の人間関係が濃密であることを意味し、かえって煩わしい部分があるように思うかも知れないが、大浦の場合は「みんな”仲間”でないとダメ」みたいな空気はあまり感じない。うちの子も、みんなで遊ぶより一人で本を読んでいる方が好きな所があるが、それで浮いちゃったりすることはない(ようだ)。大人数での集団生活になじめない子どもにはいい環境だ。

そして大浦のよいところは、町の中心にスーパーや農協、郵便局、銀行、役場の支所、ガソリンスタンドなどが揃っていて、町を出なくても生活ができるところである(そんなの当たり前じゃないか、と都会の人は思うだろうが、これが出来る町は優秀)。

さらに、加世田(とりあえず生活必需品は何でも揃う地方都市)まで車で30分、鹿児島市までも車で1時間半程度でいけるので、それほどの僻遠の地ではない。うちから最寄りのコンビニまでは車で25分、最寄りの(?)イオンまでは車で1時間20分。「遠いよ!」と思うか、「意外と近い」と思うかはあなた次第である(笑)

ところで私はこちらに移住してくる時、別に深くは考えていなかったが、いろんな地域を見ていると、立地面で「この町に移住してたら後悔したかも」と思うような場所もあることがわかった。例えば、最寄りのスーパーまで車で20分かかるとか、地方都市まで車で1時間近くかかるとなると、生活の質が違ってくると思う。大浦は、鹿児島の本土の端っこの方にあるのは事実だが、生活圏という意味ではそれほど端っこではないのがいいところなのだ。

ただ、大浦には仕事があるのかというと、残念ながら農業と福祉(老人ホーム)以外にはあまり仕事はない。でも加世田あたりに通勤すると考えれば、都会にあるようなオフィス仕事は少ないとしても、それなりに仕事はあると思う。そもそも田舎は慢性的な人手不足なので、職種を選ばなければ生きていくことは出来るだろう。

なお、大浦は僻地なのにもかかわらず光回線は通っているので、インターネットを使った仕事の人も大丈夫である。

しかし、大浦には致命的な短所がある。町内に不動産屋がないので、仮に移住したいと思っても物件を探すことがほとんど不可能なのである。空き家の数は膨大だが、地元の人でもどこの空き家が活用可能な物件なのかよくわからず、さらに家財道具が置きっぱなしになっているなどですぐには使えない空き家も多い。実際、大浦に移住する最大のハードルはここだと思う。

でも諦めるのはちょっと待って欲しい。大浦小学校は、2021年4月から「小規模校入学特別認可制度」の指定校(=特認校)となる。南さつま市の特認校制度は、簡単にいうと「加世田小学校の学区に住んでいる人は、希望すれば特認校に通学できる」というものだ。

【参考】特認校制度(南さつま市小規模校入学特別認可制度)
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/kyoiku-bunka-sports/gakko/tokunin/e020124.html

なので、加世田小学校区(加世田の中心部及び津貫地区)に住所があれば大浦小学校に通うことができる。

だから、本当に地域外から大浦に移住しようと思ったら、まずは加世田のアパートなどを借り、1年くらいかけて大浦に家探しをするのがいい(PTAの時とかに「家を探してるんです」と言えばどこかで話が繋がるのでは)。多分、家賃はタダみたいな家が見つかると思う。ただし加世田在住の間は、スクールバスはもちろん通学に使える路線バスもないので、送り迎えは親がする必要はある。

というわけで、万が一、この記事を読んで「移住して子どもを大浦小に通わせようかな?」と思った方がいたら、コメント欄で連絡くだされば、私の出来る範囲のお手伝いはします。もちろん子どもが小学3・4年生でなくても歓迎です。

※冒頭写真は、昨年の大浦小学校運動会の様子。

2021年1月18日月曜日

「農地利用最適化推進委員」になりました

今年から「農地利用最適化推進委員」になった(任期は3年)。

「農地利用最適化推進委員」(それにしてもけったいな名前…)とは何かというと、ものすごく簡単にいうと「議決権のない農業委員」である。

では「農業委員」とは何かというと、「農業委員会」の構成員である…というような話をしていくと大変にややこしい上に、あまり意味もない(笑)ので、その話はやめにして、ザックリ言うと「今年から農業委員会の仕事の一部をやることになった」ということである。

「農地」というのは、宅地のようには自由に取引できないようになっている。取引だけでなく農地を他の用途に使うこと(「農地転用」という)や、貸し借りについても規制されていて、農業委員会の議決を経るようになっている。

また、農業委員会には貸し借りの仲介、つまり不動産屋的な機能もある。最近では、荒れそうな農地を誰か適当な人に耕作してもらう、というような仲介が期待されている。

じゃあ、私はこれからそういう農地の不動産屋の仕事をするのかというと、実はそうではなくて、主な仕事はハンコをもらうことである。

どういうことかというと、うちの地域では(たぶん多くの地域で)土地は所有して耕作するよりも、借りて耕作するのが一般的なので、大量の農地の貸し借りが生じている。となると土地の一筆毎に「貸し借りの証文」を作ることになる(「利用権設定」という)。そして、その証文を作るところまでは事務局で作ることができるが、実際に地主にハンコをもらうという作業を誰がやるかという話になる。

というのは、農地を借りたい人(農家)は自分が申請してくるのだから簡単として、問題は地主の方である。大浦町のような高齢化・過疎が進んだところの場合、地主というのは大抵が高齢者であって、それどころか既に死んだ人であることも多いからである(←土地の相続登記がされていないということ)。

まあ実際には、権利関係がひどく錯綜していたり(登記上の名義人と現に所有している人が無関係であるとか)、そもそも誰の土地なのか分からなかったりする場合は、公式の「利用権設定」自体を諦めることが普通なので(こういう、農業委員会を通さないで土地を借りるのを「闇小作」という)、それほど大変なケースは少ないが、それでも地主さんの家を探し出して、ハンコをもらうのは結構大変である。

というわけで、私がやるのは、地主さんの家を探して農地の「貸し借りの証文」にハンコを押してもらにいく、という泥臭い仕事なのである。

実は、この仕事をやることになったのは、自発的な理由もある。ハンコをお願いしにいくのは当然やりたい仕事ではないが、農業委員会の仕事は勉強になるんじゃないかと思ったからだ。農地を巡る法律や規制、国の政策も学べるし、やはり農地の動きは地域の実態の一側面を写していると思う。この仕事を通して、そういうのを知ることができるのは楽しみである。

でも、そういう理由がなかったにしても、大浦町のように過疎が進んだところでは、何にせよなり手がいないので、順番にみんながやっていくような仕事なのである。そういう順番が、私にも回ってきたわけだ。

ところで、農業委員・農地利用最適化推進委員は、「特別職の地方公務員」である。例えば消防団員も「特別職の地方公務員」だし、嘱託員もそうだったと思う。要するに「役場の仕事を公的な身分をもって手伝う人」である。

それで、てっきり「雇用契約」みたいなのがあるのかと思っていたら、全くなくてちょっとビックリした。辞令一枚である。そういえば消防団員になった時もそういうのはなかった。これは「特別職の地方公務員」だからなのかと思っていたが、思い返してみると、自分がかつて国家公務員になった時も辞令一枚だったような気がする。雇用契約書の一枚もなかった。

日本の役所には、そもそも被用者と雇用者が対等な形で契約するという概念がなく、上意下達的に辞令一枚で「任用」する。要するに公務員の雇用は「○○市役所で働きなさい」といった命令の形式なのである。これは誰しも思うように時代錯誤だ。ちゃんと雇用の条件を明示して、双方が同意するという形で任用するべきだ。正式な公務員の場合は「地方公務員法」の規定でもしかしたらやりづらいのかもしれないが、「特別職の地方公務員」の場合は「地方公務員法」が適用されないので、やろうと思えば出来ることだと思う。

といわけで、私は「農地利用最適化推進委員」としてこれからハンコをもらう仕事をするが、自分がそういう仕事をするのを了承したという契約書にハンコを押すということはなかったのである。

こんなユルい体制でいいんだろうか(笑)

2021年1月10日日曜日

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4)

(「秋目からルソンへ」からの続き)

薩摩藩から独立した立場を築いていたらしき貿易港、秋目を私領地としていた持明夫人こと島津亀寿(かめじゅ)とは何者だったのだろうか(以後、表記を「亀寿」で統一する)。

島津亀寿は、元亀2年(1571)島津氏第16代当主・島津義久の三女として誕生した。亀寿が生まれた頃の島津家は、島津義久・義弘の兄弟が中心となって九州最強の勢力を誇っていた時代である。しかし亀寿が17歳の時には、島津はへ豊臣秀吉の九州征伐に敗北。島津家としては難しいかじ取りが求められるようになる。

亀寿は三女とは言っても正室の娘としては長女であり、義久には男子が誕生しなかったため、亀寿は島津本家を受け継ぐ存在となった。彼女の夫となるものは、島津家の当主となるべき人だったのである。

それであるだけに亀寿の生涯は不遇であったといえる。亀寿はいとこ(義弘の子)の島津久保(ひさやす)と結婚する。久保は次期島津家当主になるべく亀寿と結婚したが、これは政略結婚とはいえ、二人は仲むつまじい関係だったようだ。ところが秀吉の朝鮮の役のため久保は朝鮮に渡り客死。結婚生活は5年未満と見られる。

その後、亀寿は秀吉の命によって島津忠恒(ただつね)と強制的に再婚させられた。忠恒は久保の弟である。この婚姻は島津家当主にすら相談なく決められたものらしい。

亀寿は久保と夫婦の時も、忠恒と再婚してからも、秀吉への人質として京都に送られた。亀寿はこうして20代のほとんどを人質として過ごさなくてはならなかった。この人質に対する褒賞として、亀寿は1万石の領地が無公役(無税)で贈られるのである。史料上は不明確だが、この中に秋目も入っていたのだと思われる。

ところで、亀寿と忠恒との夫婦仲は非常に悪かった。島津氏の歴史で、最悪といってもいい。忠恒は亀寿に対してひとかけらの愛情もなかったようである。亀寿は醜女(しこめ)であったと伝えられるが、それが事実だとしても、世継ぎを産むのが女性の重要な役目であったこの時代において、忠恒は正室である亀寿と子作りをしようとしなかったらしいことは異常である。

関ヶ原の戦いが勃発すると亀寿は京都を脱出し鹿児島に帰還。それから10年間は、父義久の後見もあって、忠恒との対立は続きながらも亀寿は島津本家の家督相続決定権者として重きをなしたように見える。

彼女は島津家当主が引き継ぐべき歴代宝物を所有し、それを決して夫忠恒には渡さなかった。島津家にとってのレガリア(それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物)の家宝だったからだ。亀寿は、忠恒を正当な島津家当主とは認めたくなかったのだ。

しかし慶長16年(1611)、義久が死去すると、忠恒(家康から「家」の字(遍諱)を受けて「家久」に改名。以後「家久」と表記)は亀寿を鹿児島から追い出し、義弘の居城だった国分の国分城へ追いやった。そしてそれまで亀寿とは子どもをもうけていなかったのに、家久は当てつけのように8人の側室を置いて、33人もの子どもをもうけた。

さて、秋目からルソンへ貿易船が出航した時期は、亀寿が父義久の後見の下でそれなりに地位が安定していた10年間に含まれる。

こう考えてゆくと、秋目は、亀寿が家久に対抗していくために私的に保護した貿易港であったように思われてならない。秋目を拠点に貿易を行なっていた商人たちは、誰の後援もなく幕府から「朱印状」を取得するのは難しかっただろうからだ。亀寿は公式ルートとは別の筋で(おそらくは公家ルートで)幕府との交流や要人との連携があったのではないだろうか。

史料上で裏付けされない、こういう空想を人は妄想として退けるかもしれない。まあ「歴史ロマン」の類である。ところが、先日「しいまんづ雑記旧録」というブログを見ていたら、この空想を傍証してくれるような「『中山世譜』の島津亀寿」という記事を見つけた。

【参考】しいまんづ雑記旧録
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/

この記事によれば、琉球の歴史書『中山世譜』に、まだ亀寿が亡くなっていない1620年、亀寿が亡くなったことになっていて、その葬いのために琉球王からの使者が鹿児島を訪れた、という記録があるのである。

どうして亀寿は死んだことにされたのだろうか。この記事に続く「『中山世譜』の島津亀寿 続」でそれが考察され、亀寿を庇っていたらしい島津義弘が前年1619年に死亡したことを受け、「家久(忠恒)にとっては亀寿を徹底的に排除できるチャンスが訪れたと言うことになる。そこで家久(忠恒)が最初に行ったことこそが上記に書いた「琉球など対外的に亀寿を死んだことにする」事ではなかったのではないだろうか」と推測されている。

それでは、なぜ家久はこと琉球に対して亀寿を死んだことにしたかったのだろうか。もし亀寿が秋目を私的な貿易港として保護していたなら、その理由は明白である。亀寿は、島津本家とは別に、琉球交易に対して何らかの権益を持っていたのである。

もし1620年の段階で、亀寿が無力な女城主として国分に寂しく暮らしていただけであれば、島津本家はわざわざ琉球に亀寿死亡の嘘情報を流すわけがない。この時期にも、亀寿は家久に対抗しうる力を持っていた。だからこそ家久はこのような奸計を以って亀寿を排除しようとしたのである。

事実、このころまだ亀寿は島津家の歴代家宝を所有している。依然として、正統な島津家の継承者(少なくても継承者の決定権者)は島津亀寿のままである。

だが、亀寿の命脈が風前の灯火であったのもまた事実だった。「隠さなければならない繁栄」でも既に述べた通り、家久は、慶長14年(1609)、琉球へ侵攻を行って琉球を属国にしていた。そして琉球を通じて明との貿易を行うという、藩営の密貿易体制を構築していたのである。仮に亀寿が海外貿易に何らかの権益を有していたにしても、このような国際関係の前では従前のように秋目を通じた海外交易はできないだろう。ひょっとすると、琉球侵攻という暴挙は、亀寿に対抗する意味合いも含まれていたのかもしれない。

しかも徳川幕府は元和2年(1616年)に明船以外の入港を長崎・平戸に限定するという鎖国体制の一歩を進めていた。もはや日本にとっての大航海時代は、終わりを迎えていた。

貿易を私的に保護することで家久に対抗するという、島津亀寿の戦いはこうして終わりを告げた。死んだことにされた年の二年後、元和8年(1622)、亀寿は家久の次男・虎寿丸を養子にし、私領1万石と島津家歴代宝物を相続することに決定した。後の島津光久である。ここで、亀寿は宝物を家久に渡すのではなく、その息子を自分の養子にして相続させたということは、重要な意味を持っているだろう。亀寿は、義久から引き継いだレガリアを、自分を通じて養子の光久へ受け渡した。彼女にとって、家久は遂に正統な島津家当主になることはなかった。

寛永7年(1630)、島津亀寿は国分で死去した。法名は「持明彭窓庵主興国寺殿」。ここから「持明様」=「ジメサア」と呼ばれるようになる。ちなみに家久は亀寿の墓を建立することもなかった(のちに光久が慌てて建立)。つくづく酷い夫である。

私は、島津家久と亀寿は、単に夫婦仲が悪いというだけでなく、貿易に関して何らかの権益を争った競争者であったと思う。家久には認められなかったルソン交易が、なぜか秋目出港の船に認められていたという事実がそれを示唆する。

だが、女性一人がたった一万石の私領で向こうを張るには、島津家久は強大で、冷酷すぎた。それでも、そのわずかな所領の中、秋目という僻遠の地に独自の貿易港を築いて、対外関係に不思議な存在感を示したことは、彼女の戦いが決して一方的な負け戦ではなかったことを示している。

秋目に残る「持明夫人公館跡」は、そういう島津亀寿の戦いの跡であると思う。ここで島津亀寿は遥かなルソンを臨み、その貿易を基盤として家久とは違う「正統」を保っていこうとした。本当の島津家を継承していくために。

(つづく)

【参考文献】
戦国島津女系図」の「島津亀寿のページ」
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/shi/shimadzu-kameju.htm

※本文中にあげた「しいまんづ雑記旧録」の本体WEBサイトで、亀寿の生涯についての情報はほとんどこのページを参照させてもらいました。

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)

(「隠さなければならない繁栄」からの続き)

前回、秋目は「貧乏で疲れた郷」を自称しながら、少なくとも享保年間以降のしばらくの間はかなり豊かだった、と述べた。

では、その前はどうだったのだろう。陸の孤島である秋目は、今と同じ、寂しい港町だったのだろうか。

そのことを考えるにあたって、面白い史跡が秋目に残っている。「持明夫人行館跡」である。場所は、今「がんじん荘」がある所の道向かい。昔は史跡の説明板があったが(看板の写真は過去のもの)、今は何もないので知らない人はわからない。冒頭の写真の場所である。

鹿児島の人は、持明夫人こと「ジメサア」のことを一度は聞いたことがあると思う。鹿児島市立美術館の敷地内にあるおしろいをした石像が「ジメサア」と呼ばれて女性の守り神みたいに扱われ、化粧の塗り直しをするのが報道される。

「ジメサア」とは「持明様」が訛った呼び方で(一部に「持明院様」とする説があるが「院」をつけるのは誤解だと思う)、持明様こと持明夫人は島津家久(忠恒)の室(正妻)、島津亀寿(かめじゅ:1571-1630)のことである。

秋目には、この持明夫人が逗留した屋敷(行館)があったというのである。なぜこんな辺鄙なところに持明夫人は来たのだろうか。どういう意味があったのだろう。

通説では、持明夫人がここに来たのは、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするためだったという。秋目には持明夫人がそこで納涼したという「持明夫人納涼石」なるものも残っている。確かに今の秋目の辺鄙な様子を考えると、ここは夫と離れて気晴らしするにはよいところだ。まるで別の国に逃げてきたような気分になるかもしれない。だが当時からそうだったのだろうか。ここはただの寂しい港町だったのか…?

そんな、当時の秋目を考える上で興味深い記事が『旧記雑録』という資料にある。

「慶長9年(1604)、秋目から呂宋(ルソン)へ小田平右衛門という人の船が出航し、慶長11年(1606)に片浦に帰航した」というのがそれだ。 

ルソンとは、言うまでもなくフィリピンにある最大の島である。秋目から、はるばるルソンまで貿易に行っていたというのだ。この記事だけを見れば、この頃の秋目は寂しい港町どころではなく、国際貿易港だった、ということになるだろう。

ただ、話はそれほど単純ではない。実は、ルソンへの渡航というのは特殊な意味合いがある。この記事をさらに理解するために、ちょっと長くなるが、当時の対外関係や国際貿易についておさらいしてみよう。

話は時代を200年ほど遡って、日明貿易から始めなくてはならない。足利義満は「日本国王」として日明間に国交を開き、公式には長く途絶えていた大陸との関係を再建した。日本は明の冊封体制に組み込まれ、定期的に朝貢を行うことになる。

朝貢は、もちろんいろいろな贈り物を献上する。だが明からはその返礼として日本にとってはそれ以上に価値ある品が下賜されるため、これは実質的に官営貿易と同じ意味があった。こうして日本は日明貿易の時代を迎えた。何しろ明と日本は互いに貿易の必要性が大きかったのである。

日明貿易の主役となったのは、大坂の堺の商人と結んだ細川氏と、筑前博多商人と結んだ大内氏であったが、やがて両者は対立するようになって、細川氏の貿易船は北九州を経由しないルートを取るようになった。それが、南九州をぐるっと経由して東シナ海を渡るルートであったため、島津氏はその警護を担当するようになり、また次第に貿易の仲介を行うようになった。

大内氏と細川氏の対立は明の寧波にまで持ち込まれ、1523年、「寧波の乱」という騒動を起こしてしまう。これによって明との関係が冷え込み、日明貿易は途絶する。そこで日明間の国交回復のためにキーマンになったのが島津氏である。というのは、島津氏は琉球と国交がある。そして琉球は明と国交がある(冊封体制に入っている)、ということは、島津氏→琉球→明という形で国書をやりとりすることができるのである。島津氏はこのハブ的な立場を利用して、貿易立国として発展していった。

そして、この時代、さらに大きな商機が訪れていた。南蛮との交易である。スペインのフラシスコ・ザビエルが鹿児島に来るのが1549年。16世紀には、たくさんの南蛮人、すなわちスペイン・ポルトガルの商人が日本に訪れ、物珍しいものをもたらした。彼らが携えていた最新の道具や科学技術はそれはそれで日本に大きな影響を与えていくが、貿易において重要なのは、東南アジアを拠点にした貿易体制が出来上がったことだった。

つまり、スペインやポルトガルは東南アジアをハブにして中国や日本と貿易を行ったのである。ということは日本から見ると、東南アジアを通じて中国の商品を手に入れられるということになる。日明貿易が再開されなくても、南蛮貿易が中国へのパイプになるのだ。しかもややこしい朝貢の手続きなどなしに。

こうして、日本は「朱印船貿易」の時代を迎える。幕府(や権力者)から与えられる貿易の許可状が「朱印状」(御朱印)である。「日明貿易」の場合は、実質的には大内氏や細川氏の私貿易の性格があったが、形の上ではあくまでも国家による通商であった。ところが「朱印船貿易」は、圧倒的に私貿易の性格が強い。国家は貿易の許可(朱印状)を与えるだけで、あとは商人や大名の自己責任に任されていた。

こうなると、貿易がもたらす莫大な利益のために大勝負を打つ者が出てくる。ちょうどスパイスを求めてアメリカ大陸を発見したコロンブス、地球を一周したマゼランのように。そんな冒険人的な商人の代表が、伝説的な堺の豪商、呂宋助左右衛門こと納屋(なや)助左右衛門である。

正確な事績は不明ながら、彼は安土桃山時代にルソンに渡海して貿易商となり、巨万の富を得、秀吉の保護を得て活躍したらしい。ともかくこの時代、一財産築くことを夢見て南の海に漕ぎ出していった者は多いのである。

そしてこのために、日本の造船技術は長足の進歩を遂げる。日本は四方を海に囲まれているにもかかわらず古来から造船技術が未熟で、操舵が不完全で難破も多く、しかも大船を作ることができなかった。それがこの時代、ヨーロッパ人たちの船やその航海技術を学ぶことで、乗員数200〜300人程度の大船を製造することが可能になったのである。

こうして、日本にとっての「大航海時代」が訪れた。 多くの日本人がアジア各地の交易都市へ赴き、アモイ(中国・福建省)、バンデン王国(インドネシア)、アユタヤ(タイ)、ホイアン(ベトナム)などには日本人街も生まれるのである。そんな中でも、ルソン島マニラ(スペイン領)の日本人街は最大規模のもので、16世紀から17世紀にかけては3000人もの日本人が居住していたという。

呂宋助左右衛門も、ルソンでの貿易で財をなしたというし、1604年に秋目から出航したのもルソン往きの船であった。この頃のルソンと交易するというのはどういうことだったのだろうか。

実は、ルソンには莫大な利益を生む商品があった。それが「ルソン壺」(「真壺」ともいう)である。 「ルソン壺」とは陶製の耳付きの壺で、「ルソン」と名がついているが実は南中国からルソンに輸出された実用品の廉価な壺だった。この別に高級品ではない地味な壺が侘び寂びを旨とした茶人たちに評価され、日本に持ってこられると茶器としてとんでもなく高価な宝物に化けたのである。

現地では極めて安く手に入り、超高価で売れる「ルソン壺」はまさに一攫千金の夢が詰まった壺だった。こういうものがルソン島にあるとなると、まさに「蟻が群がる」(ペドロ・バウティスタ第4号文書)ように日本人がルソン島に押し寄せたのも無理はない。

そして薩摩は、当然ながらこの南蛮貿易に地の利があった。中継点としての琉球との国交もあるし、何より日本国土の南端で南蛮世界には一番近いのである。さらに、薩摩人たちは「倭寇」として非合法の貿易で東シナ海を縦横に駆け回っているものも多くあった。薩摩人たちにとって、東南アジアはいつでも行ける土地と認識されていたに違いない。マニラの日本人街には、多くの薩摩人がいただろう。

ところが、ルソン壺交易はやがて大きな転換点を迎える。豊臣秀吉が、ルソン壺を独占する姿勢を見せたのである。先述の通り、ルソン壺は南中国からルソンに輸出された品だったのであるが、実はこの時代には既にその輸出は停止しており、南中国のどこからやってきたのか不明になっていた。現地の人はこれを生活雑器として使っていたが、日本人がルソン壺を高く買い上げるので手近にある品は根こそぎ日本人に売った。こうなると供給はもうないのだから、ルソン壺は消滅する運命にあった。

しかも茶人たちは、ルソン壺だったらなんでもよいというのではなく、その美意識から傑作と駄作を峻別していたから、ルソン壺の名品は超貴重品だった。こういうものを、権力者が独占しようとするのも無理はない。秀吉はルソン壺の輸入を統制下に置き、ルソン壺を買い占めたものは厳罰に処するという非常に強烈な意志を持って独占を図るのである。

そして、秀吉の没後を引き継いだ徳川家康もこの姿勢を踏襲。ルソン壺の交易は並みの大名には決して許されない、非常にデリケートな交易品となっていく。

具体的には、徳川幕府はルソンへの渡航の「朱印状」を大名には与えていない(唯一の例外は平戸藩の松浦鎮信)。カンボジアやアユタヤ(タイ)、安南(ベトナム)といった東南アジアの他の国には大名へも「朱印状」を与えているのに、ルソンだけは特別なのだ。ルソン渡航が許可されたのは、大名の配下にない独立の有力商人たちにだった。

もちろん島津氏にもルソン渡航の「朱印状」は発給されていない。当時の藩主、島津家久にとってルソンへの「朱印状」は喉から手が出るほど欲しいもので、家康に対してたびたび公布願いを出し、さらには神仏への祈願すら行っている。それでも遂に、島津家久にはルソン渡航が認められることはなかった。

さて、ここでようやく秋目の話に戻ってくる。家久がルソン渡航の「朱印状」をもらっていないというのに、なぜ秋目からルソン往きの船が出航できたのだろうか。

そもそも、薩摩藩が南蛮貿易の拠点港としたのは山川港である。持明夫人の父、島津義久(家久の伯父)が頴娃氏から領主権を剥奪して山川港を我がものとしたのが天正11年(1583)。藩営の貿易船であれば、秋目ではなく山川から出発するのが自然なのだ。

答えはただ一つ。秋目から出航したこの船は、藩営の貿易船ではなくて、私船だったのである。

改めて『旧記雑録』の該当箇所の原文を引用しよう(用字を現代のものに改めた)。

去々年秋目呂宋へ罷渡候小田平右衛門尉舟、頃片浦へ帰朝仕候、勿論、御朱印船ニて候間、此方よりハかもいなく候
(慶長11年(1606)6月5日付 島津家久宛、島津義弘書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、215号(鹿児島県資料)

義弘から家久への書状で、「一昨年、秋目から呂宋へ渡った小田平右衛門の舟が、この頃片浦に帰朝した。もちろん御朱印船なので、こちらからはどうすることもできない」という内容である(※「かもいなく」は「かいもなく」の誤り?)。

書状中に明確なように、藩とは全く別個に「朱印状」を得て、秋目から呂宋へ渡っていた商人がいるのである。しかも、その存在を苦々しく思いながらも、島津義弘も家久も、それをどうすることもできない。

なお、この船と同船かどうか不明だが、同様の事案が家久から義弘への書状でも触れられている。該当箇所を引用する。

次従秋目致出船候渡唐船帰朝候哉、直ニ被下御朱印たる舟之由候間、其段山駿州迄申置候
(慶長11年(1606)6月24日付 島津義弘宛、島津家久書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、232号(鹿児島県資料)

これは「次に、秋目から中国に渡った船については帰朝しました。朱印状を直接発給された船であるため、山口駿河守直友(幕臣)に申し伝えて置きました」という内容である。

ここで「朱印状を直接発給された(直に御朱印下されたる)」といっているのは、これが島津氏(=薩摩藩)を素通りして、江戸幕府から直接もらったものであるためで、だからこそ島津氏はこの船と無関係であるにもかかわらず、幕臣に報告する義務があるのである。

というわけで、この時期の秋目港は、どういうわけか島津氏の支配の及ばない場所で、しかもなぜか独自に江戸幕府から「朱印状」をもらう力がある商人がいる場所であった。さらには、島津氏の直轄港である山川港はどうしてもルソン交易に参画できないのに、秋目からはルソン往きの船が出ていた。秋目とは、一体全体、どういう港だったというのか。

そしてこの時期、秋目を私領地として領有していたのが、持明夫人こと島津亀寿だったのである。「持明夫人行館」が、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするための場所であったとはありそうもないことだ。ではここで何が行われていたのか?

(つづく)

【参考文献】
「初期徳川政権の貿易統制と島津氏の動向」2006年、上原兼善
「ルソン壺交易と日比通交」2016年、伊川健二
海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
火縄銃から黒船まで—江戸時代技術史』1970年、奥村正二
『大ザビエル展 図録』1999年
「歴史講座「戦国島津」第8回「16世紀前半の南九州海域と対外関係」」2020年、新名一仁(ビデオ及びレジュメ)

2021年1月7日木曜日

「柿本地蔵」と「柿本寺」の謎

加世田の郷土資料館に、「木造地蔵菩薩立像」(将軍地蔵像)が展示されている。

地元では、俗に「柿本地蔵」と呼ばれているものだ。江戸時代の作と見られ、なかなか繊細優美で、鹿児島に残る仏像の中では優品に属する。

この地蔵像は、どういうものだろうか。どういう故事来歴で郷土資料館に展示されているのだろう。なにしろ、鹿児島は幕末・明治初期に徹底的に廃仏毀釈を行っている。

だから、この像が廃仏の影響を全く受けていないのは、何か理由があるはずだ。疑問に思って、以前、加世田郷土資料館の方に聞いてみたことがある。そうしたら、「この像は、設立当初からの収蔵品で、受け入れ時の記録が残っていないので分からない」とのことだった。

そんなわけで、その理由については今も分からないままなのだが、この像が何者なのかを調べてみて面白かったので、ちょっとまとめてみよう。

まず、この地蔵像に関する地元の伝説をザックリとまとめると「これは井尻神力坊(いじり・じんりきぼう)が廻国の過程で手に入れて持ち帰ったもので、加世田の柿本寺に安置されていたものだ。だから柿本地蔵と呼ぶ」となる。

井尻神力坊とは、戦国時代の島津氏中興の祖・島津忠良(日新公(じっしんこう))の家臣である。彼は日新公の命を受けて、諸国を巡って法華経を奉納する修行を行った。所謂「六十六部聖(ろくじゅうろくぶひじり)」である。彼はスパイ的な仕事もしていたらしく、諸国の情報を日新公に伝えていたという。ところが廻国修行を終えて加世田に帰ってみれば、日新公は既に亡くなっていた。そこで木から身を投げて殉死したと伝えられる。ちなみに、元鹿児島件知事の伊藤祐一郎氏も井尻神力坊の末裔である。

さて、井尻神力坊が生きたのは戦国時代であるから、どう見ても江戸時代の作のこの「柿本地蔵」は、神力坊が持ち帰った地蔵そのものだとは思えない。

では、この像は一体何なのだろう。そして柿本地蔵とは何なのだろう。

それを考えるには、いくつかの史料を繙いてみなくてはならない。ちょっと地味な作業だがお付き合い願おう。

まずは『加世田再撰帳』という史料がある。これは19世紀半ば、つまり江戸時代の後期にまとめられたと考えられているもので、加世田郷の地理や産業、名物や名所旧跡を絵入りで紹介したものである。この史料に、「柿本寺」に関する事項が数ヶ所出てくる。

そして鹿児島の名勝旧跡について調べる時の基本資料、『三国名勝図会』である。これも同時期にまとめられたもので、薩隅日の三国(島津領地)の情報を絵入りでまとめ、考察を加えたものである。これには、加世田の「柿本寺」の項目はないが、鹿児島市内にある「柿本寺」の項目の中で加世田の方も触れられる。

以下、以上2つの史料の該当箇所を抜粋引用する。読むのが面倒という方は、史料の後に青字で付したポイントだけ読んで頂いたら大丈夫である。

【史料1】「加世田再撰帳 三ノ二」
一、地蔵堂 一宇    格護 日新寺
 従日新寺子方道程二町五十六間
 一、将軍地蔵    一体 長ヶ二尺四寸木立像蓮台金磨
 一、脇士 性善童子、性悪童子    二体 長ヶ各一尺三寸木立像蓮台彩色
 一、鰐口    一口 差渡六寸無銘
 右将軍地蔵ハ井尻神力坊日本国中廻国ノ節負下リタル地蔵ニテ安置ナリ然処 光久公 御代御城内ヱ召移レシニ変事有之彩色等御取繕ニテ亦々如本召返サレ安置スト云
【ポイント】日新寺(今の竹田神社)の管理下にある「地蔵堂」には、井尻神力坊が持ち帰った将軍地蔵が祀られている。島津光久の時代にこれを城内に移したことがあるが、変事があったので彩色などを繕って元の場所に安置しなおした。
【史料2】「加世田再撰帳 三ノ二」
一、石塔 一基(日新寺界内将軍地蔵堂左側)
  天正三年十二月二十七日
  権大僧都神力宗憲法印
 右井尻神力坊墓ニテ柿本地蔵堂左側ニアリ
 日新公ヨリ神力坊ヱ 御国家繁栄長久ノ為ニ一ヶ国ニ於テ六十六部ノ法華経ヲ御奉納ノ 御誓願ノ由ニテ回国被仰付二十二年ニ至テ四千三百五十六部ノ妙経ヲ奉納成就シ 日新公御逝去ノ後帰国ス天正三年十二月二十七日殉死スト云
【ポイント】「将軍地蔵堂」=「柿本地蔵堂」の左側に、井尻神力坊の墓塔がある。
【史料3】「加世田再撰帳 二」
(麓 柿本)
一、山王権現 一社 格護 今泉寺
 従地頭仮屋未申方道程四町十間
 祭神 大已貴命 大山咋命
  木立像 八体 大破
  猿木座像 二体 大破
 祭日 十一月初申
 右山王宮大永四甲申歳十二月十六日薩摩守忠興御建立其后 日新公 御再興ニテ候上代者柿本寺別当寺ニテ候ヘドモ廃壊ノ后今泉寺格護二相成候
【ポイント】加世田の山王権現は、昔は「柿本寺」が別当寺だったが、「柿本寺」が壊れた後は今泉寺の管理となった。
【史料4】「三国名勝図会 巻之四」(※[]内割注)
能満山、所願院、柿本寺[府城の西]
 西田村にあり、本府大乗院の末にて真言宗なり、本尊虚空蔵菩薩[日秀上人一刀三礼の木座像]、開山典雄法印[元和四年遷化]、当寺の伝へに曰、典雄法印は、加世田日吉山王宮の別当寺、柿本寺[加世田柿本寺は、村原村にあり、今廃して寺地存ず]の住持なりしに、 慈眼公御帰依あり、本府当村窪田に一宇を営て、典雄を移住せしめ給ひ、屢祈祷を命ぜらる、其後当寺を今の地に御建立ありて国家安鎮の為とし、典雄を開基とす、因て寺号は加世田柿本寺の名を用ひしとぞ(後略)
【ポイント】鹿児島の西田村の「柿本寺」は、加世田の村原村にあった「柿本寺」の住持であった典雄法印を島津家久(慈眼公)が鹿児島に連れてきて、同名の寺を建立したものである。
【史料5】「三国名勝図会 巻之二十九」
龍護山日新寺[地頭館より未方三町余]
 (中略)
○梅岳君御石塔
(中略)又井尻神力坊といへる修験(中略)其石塔は、日新寺境内、柿本地蔵堂の側にあり、神力が霊とて、今に奇異あり、諸人是を畏る。(後略)
【ポイント】井尻神力坊の墓塔は、日新寺境内の「柿本地蔵堂」の側にある。

史料中には、相互に用語が一致しなかったり、場所の説明が食い違っている部分があるが、細かいことは気にせずに、この史料に基づいて地蔵像と柿本寺のことをまとめると以下の通りである。

●地蔵像
○日新公の家臣、井尻神力坊は、将軍地蔵像を加世田に持ち帰った。【史料1】
○その将軍地蔵は、「将軍地蔵堂」=「柿本地蔵堂」に安置された。【史料1、2】
○神力坊は日新公に殉死して、その墓は「柿本地蔵堂」の側に建てられた。【史料2、5】
○島津光久の時代に、この地蔵像を城内(鹿児島)に移したことがあるが、変事が起こったので彩色し直して元に返した。【史料2】
○『再選帳』『三国名勝図会』編纂の時点(江戸時代後期)、地蔵像と地蔵堂は現存していた。【史料1、2、5】

●柿本寺
○加世田麓の柿本には、山王権現(日吉山王宮)があり、その別当寺(神社の管理をするお寺)が柿本寺であった。【史料3】
○この柿本寺の住持典雄法印は、島津家久に気に入られて鹿児島に移住させられ、典雄を開基として鹿児島にも柿本寺が建立された。【史料4】
○『再選帳』『三国名勝図会』編纂の時点(江戸時代後期)で、加世田の柿本寺は壊れてなくなっていた。【史料3、4】

さて、2つの史料から読み取った情報では「柿本地蔵堂」と「柿本寺」は全く別のものなのであるが、実は地元では「柿本地蔵堂」=「柿本寺」と考えられている。

竹田神社(元の日新寺)の北側に、「柿本地蔵堂跡」・「柿本寺跡」と見られる竹やぶがあって、そこには井尻神力坊の墓があった標柱も立っている(墓は竹田神社に改葬されている)。

少なくとも、ここが「柿本地蔵堂」であったことは、史料からも、遺物からも確かなことである。ではここは、以前は柿本寺でもあったのだろうか?

【史料4】(『三国名勝図会』)によれば、加世田の柿本寺は「村原村」にあったという。日新寺と村原は2kmくらい離れているので、この情報が正しいならここは柿本寺ではない。

だが『三国名勝図会』が編纂された段階で、柿本寺が廃寺になって100年以上経過している可能性があり、であればこれはさほど信憑性のある情報とも思えない。それに、『三国名勝図会』は「村原村には柿本寺の寺地が今でも存在している」と書いてあるが、それらしき土地もない。

それから、もうひとつ気になるのは、現存の「将軍地蔵」がどうも将軍地蔵っぽくないことである。将軍地蔵は、勝軍地蔵とも書き、甲冑に身を包んだお地蔵様である。愛宕(あたご)修験で重んじられ、軍神として信仰された。また江戸時代は火伏せ(火事除け)の神としても信仰された。

一方、現存の「将軍地蔵」は、どう見ても普通の地蔵である。普通の地蔵が「将軍地蔵」として祀られていることも少なくはないから、全くおかしいとは言い切れないものの、ちょっと違和感がある点である。

また、前述の通り将軍地蔵といえば愛宕修験なのであるが、竹田神社の南側は「愛宕上(かみ)」「愛宕下(しも)」という小字が残っている。とすれば、このあたりに愛宕修験の関係者が住んでいたのかもしれない。村原の方にはそういう形跡はないのである。

というわけで、以上の情報から推測される「柿本寺」と「柿本地蔵堂」について時系列で整理すると、以下のような感じになるだろう。

  • 戦国時代、井尻神力坊は廻国修行から将軍地蔵を持ち帰った。
  • 山王権現の別当寺の「柿本寺」は、元々あったか、将軍地蔵をきっかけに創建され、将軍地蔵は「柿本寺」に安置された。
  • 井尻神力坊は、死後「柿本寺」に埋葬され墓塔が建立された。
  • 戦国時代末期か江戸時代初期、島津家久は、「柿本寺」の住持典雄法印を気に入り、鹿児島に連れて行って西田に柿本寺を建てた(余談ながら今でも「柿本寺通り」の名前で残っている)。
  • これによって、加世田の「柿本寺」は廃寺となった。
  • 柿本寺跡には地蔵堂が建てられ、「柿本寺」の将軍地蔵が安置されて「柿本地蔵堂」と呼ばれた。
  • この地蔵堂の管理を行ったのは、今の「愛宕上、下」のあたりに住んでいた修験者だったかもしれない。
  • 島津光久(家久の息子)の時代、おそらくは鹿児島の柿本寺に安置する目的で、将軍地蔵を鹿児島に持ち去った。しかし何らかの問題が起こったので、彩色しなおしたという名目で別の仏像を加世田に送り元のように「柿本地蔵堂」に安置した。(=地蔵像はここで入れ替わった)
  • 明治初期、「柿本地蔵堂」は廃仏毀釈で取り壊された。この時、修験者たちが地蔵像を隠して破壊を免れたのだろう。

要するに、「柿本寺」が家久によって取りつぶしになった跡に建てられたのが「柿本地蔵堂」ではないかということだ。そして、今の将軍地蔵は、井尻神力坊が持ち帰ったものではなくて、光久の時代に交換されたものと考えられる。

先日、「薩摩旧跡巡礼」の川田さんと一緒に柿本寺跡に行ってみたら、古くて立派な五輪塔の残欠が埋まっているのを見つけた。ここは、少なくともお地蔵さんを安置するだけの「地蔵堂」ではなかったことは確実だと思う。ぜひ柿本寺跡を発掘して、実際にどんな場所であったのかを明らかにしてもらいたい。

ところで、「柿本地蔵」にはもう一つ謎がある。冒頭に述べたとおり、鹿児島は徹底的な廃仏毀釈を行っているので古い仏像があまり残っていない。そんな中で、「柿本地蔵」はつくりもよく、しっかりと保存されてきた優れた仏像である。それなのに、なぜか県指定文化財はおろか、市指定文化財にもなっていないのである。私にとってはそれが一番の謎だ。

そんなわけで、これを市指定文化財にして、故事来歴について研究してもらいたい、というのが私の願いである。

※冒頭の地蔵の写真は、2017年に行われた黎明館企画展「かごしまの仏たち〜守り伝える祈りの造形」の図録から引用しました。