2013年12月30日月曜日

年末なので今年の反省をしてみました。

信じられないが、もう年末である。時の流れは早い。そして、こちらへ越してきてから丸2年が経過したということになる。

そういえば今年の正月に、昨年の反省と共に抱負を述べたのだが、自分自身への備忘のためにその結果を記しておこうと思う。まず、2012年の反省に対する今年の結果は次の通り。
  1. 農業倉庫建築、機械購入など農業基盤整備があまりできなかった。→未だに倉庫は出来ていないのだが、メドが立ったところ(来年3月には建つと思う)。機械については、先輩農家Kさんの力に負う部分が未だ大きいが、とりあえず間に合う程度には揃えられた。
  2. 山の整備と利用が進まなかった。→藪と化していたところを開墾して、アボカドとブラックベリー、そしてヘーゼルナッツを植えた(計17a)。だがまだまだ山は残っているので、来年も開墾を進めたい。
  3. 栽培した作物の管理もあまりよくなかった。→これが農家としては一番重要だが、今年も同様に管理がよくなかった。反省である。
  4. 農業に関して、いろいろな記録をちゃんとやっていなかった。→いずれブログにも書こうと思うが、農業記録をクラウド化したので、今後しばらくこれを試してみたい。 
総じていうと、昨年の反省点を全てクリアしたわけではないにしろ、それぞれ何かしら着手できたのはよかった。ただ、最も重要な「作物の管理」については、昨年よりも改善した点もあるにしろ、そう出来なかったところも多い。そもそも「どのような管理をしたいのか」という根幹の方針が未だフワフワとしている部分があって、迷いが出た面があったと思う。

次に今年の抱負として掲げた3点であるが、
(1)作付体系の検討→果樹と園芸作物という基本的枠組みで考えているが、珍奇な作物をいくつか導入して試行錯誤するという段階である。まだ効率的な作付体系の姿は見えない。
(2)農産加工所の開設→これは実現することができた。ブログでも少し触れてきたが、いずれもう少し突っ込んだ内容を発信していきたい。
(3)有機栽培への挑戦→挑戦だけはしてみた、というところ。正直、成功にはほど遠く、「やらないほうがよかった」というレベルである。しかし、有機栽培が一体何であるかということがボンヤリと見えてきた気もするので、(やめておけという人もいるが)来年も引き続き挑戦してみたい。

というわけで、今年の抱負として掲げた点については、結果はまだ出ていないといえる。農産加工所を開設できたのはよかったが、これも本格的な稼働はこれからであるし、今年の抱負は来年に持ち越しという感じだ。

さて、上記以外に今年の反省点として、情報発信不足ということがあったと思う。ブログ更新の頻度が低下しているということがその象徴だ。原因の一つは、次女こよみが昨年12月に誕生し、夜は寝かしつけや夜泣きのためにPC作業の時間が確保できなかったということがある。しかし最近はお利口さんになってきて夜も寝てくれるようになったので、それも理由にはならない。

情報発信が不足してきた最大の原因は、日々の作業の新規性が薄れ、新鮮な目で「田舎の暮らし」を見られなくなりつつあることだろう(私はそもそも田舎もんであるし)。一方で、興味分野の郷土史などに関してはやたらとマニアックな記事を書くようになってしまったが、これは理解が深くなってきたということだから(読者にとって面白いかは別として)いいことだ。ただ、マニアックな内容を書くにはリサーチが必要なため記事の数が減ってしまう面がある。

新規性が薄れるのはしょうがないことだから、その代わりに深い理解に基づいた記事を書きたいと思っているし、来年は今まで家内に任せていた「南薩の田舎暮らし」(ショップサイト)のブログについても私もちょくちょく書かせてもらうことにして、今までと別の面でも情報発信をしていきたい。来年もよろしくお願いいたします。

2013年12月21日土曜日

「はきもの奉納」と大木場山神祭りの謎

大浦町の大木場という集落にある大山祇神社で12月に行われる奇祭が「山神(ヤマンカン)祭り」である。先日これの案内をいただいたので見学に行った。

この祭りは、詳しくはこちらのサイト(→鹿児島祭りの森)に譲るが、簡単に言うと片足30kgもあるバカでかい草履を履いて鳥居から拝殿まで歩き、奉納するお祭りである。

その由来は、集落の言い伝えによると
大木場地区は、平家の落人の里といわれ、[…]伝説によると村人は、源氏の追っ手におびえながら暮らしていた。そこで村に通じる峠道に畳十畳ほどの大草履を置いたところ、追っ手は「この村には巨人がいる」と恐れ、退散したという。以来大草履は、村(地区)の守り神として、毎年旧暦11月の「1の申の日」に行われる山神祭りに、これを奉納している。
ということである。

もとより古い言い伝えであり、これが事実かどうか穿鑿することは無意味である。しかしながら、この祭りにはこの説明だけではどうにも奇妙なところが存在していて、いろいろな空想を掻き立てられる。最も謎なのは、「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということである。

実は、大草履や大草鞋(わらじ)を神社に奉納するということは、決して珍しいことではない。中でも有名なのものに、青森県の岩木山神社へ奉納される大草履がある。これは一足で1トン以上もある。最近になって始まったものだが、東京の浅草寺の仁王門には大草鞋が奉納されているし、福島県の羽黒山神社でも大草鞋が奉納されていて、こちらは草鞋の大きさ日本一を自称している。鹿児島でも、人の背丈よりも大きい弥五郎(※)の大草履が岩川八幡神社に奉納されていた。

なお、こうした巨大な草履・草鞋は山の神に奉納されることもあるが、その場合は1足を揃えず、片足のみが奉納されるのが一般的である。これは、山の神が片目片足と考えられたことを反映しているともいう。

さらに、大きくはない(普通の)草履や草鞋の奉納というのはもっとずっと多い。峠の神を「子(ね)の神」とか「子乃権現(ねのごんげん)」というのがあるが、これには旅の安全を願って草鞋が奉納される習慣があった。また、千葉県の新勝寺の仁王門には大草鞋と共に多くの人々が奉納した草鞋が沢山掲げられているが、これは病気平癒等も含め人生の安泰を願って奉納されたものという。

それから、これは他の地域には類例が少ないが、東京青梅の岩蔵集落というところでは、集落の境界に草鞋を掲げ、疫病や魔物の侵入を防ぐ「伏木(ふせぎ)のわらじ」という共同祭祀の行事がある。

こうした草履・草鞋の奉納、すなわち「はきもの奉納」について整理すると、
(1)巨大なはきものを掲げることにより、(仁王などの)巨人の護持を暗示して、悪鬼を祓う。
(2)峠や道祖神に奉納し、旅の安全を祈願する。また、健脚を願う(韋駄天に奉納される場合もある)。
(3)村の境界などに掲げ、悪鬼や疫病の侵入を防ぐ。
という3つのパターンがありそうである。しかしながら、この3つは時に混淆しているので、明確に分けられない場合も多い。元より、(1)と(3)は機能としては同じであるし、例えば、仁王門には大草鞋も普通の草鞋も両方奉納されるが、これは(1)(2)(3)が同時に願われていると見なせるだろう。

こうした「はきもの奉納」には、未だ纏まった体系的研究がないようだが、どうしてはきものを奉納するのか、ということは意外に大きな謎である。一つの考え方としては、はきもの作りは百姓の重要な副業であり、市で売って貴重な現金収入の元となったので、金銭的価値のあるものを奉納することに意味があったということだ。大木場集落でも、昔から農家の副業として草履作りが盛んで、「コバザイ(木場草履)」として有名だったらしい。

しかし、金銭的価値があるもの、というだけでは、悪鬼や疫病の侵入を防ぐという機能が生まれる理由がわからないし、農具には大体金銭的価値があるわけだから、はきものの奉納だけがこのように日本全国に多い理由として弱い。ともかく、「はきもの奉納」にはまだ解かれていない謎が潜んでいそうである。

話を戻して大木場山神祭りだが、これは類型としてはもちろん(1)に属す。 だが、この機会に他の巨大なはきもの奉納を調べてみて思ったが、この祭りの他には、ただの1つも「大草履・大草鞋を履いて歩く」という祭祀を行って奉納するところはないのである。

そもそも、巨大なはきものを奉納するのは、「こんな巨大なはきものを履く者がここにはいるのだからここから先へ行っては危険である」という意味合いがあり、大木場でもそういう意味だと伝承されているが、であれば巨大なはきものは巨人の神さま(山神)のもので、人間が履いてはならないような気がする。他の祭りでは、大切な神具として奉納がなされており、例えば最初に例示した青森の岩木山神社では、奉納草鞋を作る時は、仮小屋を建ててしめ縄を張り、水垢離(みずごり)を行い小屋に閉じ籠もって作るそうである。

大木場山神祭りでは、はきものは神さまのものというより、「村人を救ったアイテム」のような位置づけで特に神聖なものと見なされていないので、別段不自然ではないという見方もできるが、であれば山神に奉納する理由もわからないのである。そもそも、伝承には山神も巨人も(!)登場しないわけで、このような祭りが起こった理由があやふやだ。

そういう風に見ると、私としては、この祭りは日本各地に残る「巨人説話」の一変形だと考えたい。鹿児島には弥五郎どんという巨人説話があるし、関東にはダイダラボッチという巨人の伝説が残っている。そもそも、巨人の伝説があったからこそ、源氏の追っ手は「ここには巨人がいるのかもしれない」と恐れて退散したわけで、そういう伝説のない土地であったら、こういう脅しは効かないような気がする。

だから、素朴に考えたら、ここで奉納される大草履は伝説上の巨人に向けられたものではなかろうか。それが、あるいは最初からそうだったのかもしれないが山の神と同一視され、山神に奉納されるようになったのかもしれない。

しかしそう考えても、やはり「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということはよくわからない。この祭りは厳粛なものではなく、大草履を履いた二人の氏子がえっちらおっちら神社を歩くというユーモラスなもので、芸能的要素が強いが、そのあたりがこの謎を解くヒントなのではないかと思う。

ともかく、この大木場山神祭りは「はきもの奉納」の中でもとりわけ変わった内容を持つ奇祭であることは間違いない。今回、祭りにはどこかの大学の先生と学生が見学に来ていたが、その中の誰かがこの祭りの謎を解いてくれることを期待している。

弥五郎どん…鹿児島・宮崎に残る伝説の巨人。

【参考文献】
『ものと人間の文化史 はきもの』1973年、潮田 鉄雄
『妖怪談義』1977年、柳田 國男

2013年12月13日金曜日

ブラックベリーに取り組んでみます

ブラックベリーの苗を定植した。ブラックベリーというのは、あまり品種改良されていない、野生的な木イチゴである。

ブラックベリーというと、フルーツの名前よりも携帯電話の方が有名かも知れない。しゃれたお菓子に少しトッピングされることはあっても、ブラックベリーそのものの味を知っている人は少ないし、どんな風に栽培されているのかを知っている人はさらに少ない。

というか、私自身知らなかった。どうしてこれに興味を持ったのかというと、イギリスにいる叔父叔母からメールが来て、「ジャム作りをする予定があるなら、イギリスではナショナルトラストが家庭に植えられているグーズベリーやラズベリー、レッドカラントなんかをジャムにして売る事業がとても流行っているから、そっちでもこういう植物の栽培をやってみたらどう?」というような提案をしてくれたからだった。

だが、ここに挙げられているグーズベリーなどというものは、なんだか美味そうだが基本的には北国の植物で、残念なことに南薩の気候とは合致しない。そこで調べて見ると、ベリー類でもブラックベリーが南国の産で、栽培適地はほとんどミカン類と一緒であるという。ここ大浦町ではポンカン、タンカンといったカンキツの生産が盛んなので、これならイケるのでは? と期待したのである。

また、これを植えた場所は開墾地なのだが、土壌が最悪な場所である。釜土(粘土質)で石が多く、作土層が浅い。相当に強い作物でないと栽培の労力が無駄になりそうな、そういう場所である。当初は土壌改善を考えていたが、気長に土壌改善に取り組むような余裕もないし、石はいかんともしがたい。そこで、野生の面影を留めているブラックベリーを植えることにしたわけである。これは、土壌の適応性が大きく、ほとんど場所を選ばずに栽培できるという。

そのかわりデメリットもある。最大の問題は、ツル植物なので自立せず、棚とかフェンスとかを作って仕立ててやらないといけないことだ。台風に耐えるフェンスを自作するのは、多少骨が折れそうだ。強度を持たせるのはワイヤーで張れば簡単だが、今度は草払い等の管理作業の邪魔になる。基本的にはコンクリブロックの小さな基礎を入れて、ステンレスの番線で作ってみようと思っているが、強度と作業性を両立させるにはどうしたらいいものだろうか。そもそも、あまり栽培実績のない作物でもあり、これが正解というのもなさそうなので暫く思案してみよう。

2013年12月11日水曜日

南薩のポストカードはクレジット決済でも買えます

うちでは「南薩の田舎暮らし」というネットショップを「カラーミー」というサービスを利用して開設しているが、このたび「STORES(ストアーズ)」というサービスを利用して、同名のサイトを準備した。

というのも、このSTORESというサービス、無料でショップサイトが開設できるうえ、クレジット決済も月額基本料金なしで利用できる!(ただ、当然だが決済毎の手数料はかかる。)

ネットショップをやっていると実感するが、農産物のような低価格な商品を扱っていると決済というのがけっこうな問題である。振込であれ代引きであれ、決済には手数料がかかるが、1000円のものを買うのに200円も300円も決済手数料を取られるのはいかにもバカバカしい。配送料もかかっているわけなので、配送料と決済手数料という、商品そのものの値段ではないところでお客さんに負担を求めるのは心苦しいし、自分が買う側ならちょっとそういう店では買いたくないと思う。

そのうえ、最近「Nansatz Blue」というポストカードの販売を開始したが、これは450円なので、配送料も含めて600円程度の商品に決済手数料を200円も払うのは現実的ではない。このポストカードは、基本的には農産物を買うついでに買ってもらったらいいかなと思っているが、ついでがない人もいるはずだ。

だから、クレジット決済を導入したらいいわけだが、普通、これはこれで月額利用料がかかる。そこで、ネットショップを2店舗も構えるのは少し無駄な感じもするものの、クレジット決済機能を備えているSTORESでもショップをオープンさせたというわけである。

このSTORES、「最短2分でオンラインストアがつくれる」を売りにしているが、これは本当で、実際に2分くらいで、実に簡単に開設することができた。無料コースだと商品を5つまでしか登録できないといった制限はあるが、基本的な機能はすべて備わっている上にスッキリとしたデザインであり、ネットでちょっとしたものを売りたいという人にはうってつけのサービスだと思う。

現在、こちらの方の「南薩の田舎暮らし」では「Nansatz Blue」以外の商品は登録していないが(というのは、配送の設定の問題があるため)、ネットショップをいくつも持つのは当然好ましいことではないので、しばらくの間は並行して運営してみようと思う。もし、こっちの方がよさそうなら統合することも考えてみたい。

2013年12月7日土曜日

農業の研修旅行で感じたこと

大浦町の若手農家を対象とした、宮崎・都城方面への研修旅行に参加させてもらった。特に記録というものでもないが、感想を書いておきたい。

研修先は、(1)農事組合法人はなどう 農産物直売所「杜の穂倉」、(2)農業生産法人 株式会社宮崎アグリアート、(3)農事組合法人 きらり農場高木、と道中のいくつかの物産館である。

それぞれ刺激を受ける点が多々あったが、この3箇所を通じて印象深かったのは、今や完全に農業は大規模化の時代であるということである。

農水省は、ここ10年来、大規模農家、特にグループ経営の農業経営体を優遇する政策を続けており、日本農業の積年の懸案だった「生産性の低い零細農家の淘汰」を推し進めている。というより、農業の担い手の高齢化等によって、既に農地を集積せざるを得ない現状があったわけで、積極的に零細農家を淘汰しようということではなく、そうした課題を解決しようとする意欲があるグループを支援するような政策を打ってきた。

具体的には、農業の大規模化・集団化に関係する各種の補助金を優遇してきたのであるが、その成果がここ数年で顕在化しつつある。特にそれを体現しているのが(3)の「きらり農場高木」で、詳細は省くが、農水省の推し進めている政策のモデルのような経営を行っている。 集落の農地を集積し、小規模零細農を廃業させ、大型機械を導入して合理的な経営を行う。一般の人がイメージする「アメリカ型農業」と言ったらいいだろうか(※)。

こうした経営は、現在は補助金頼みの部分もあるが、零細農の寄せ集めよりも生産性が高いのは確実で、仮に農水省の優遇政策が終わったとしても、確実に生き残っていくだろう。(3)は日本の農業経営体の目指すべき一つの姿であるといえる。

しかし、である。意地悪なことを言うと、それは農水省が随分以前から推し進めてきたことであって、今ことさらに強調すべきことでもない。(3)は時流を捉えた素晴らしい経営を行っていると思うが、逆に言うと、これまでの農政から理論的に予見される存在であるという見方もできる。もちろん、だから悪いということではなくて、存在としては素晴らしい。でも、私は(3)にはあまり興味を持たなかった。

むしろ、こうして実際に大規模化・集団化をうまく成し遂げた経営を目の当たりにし、私が目指したいのは、これとはまた少し違ったところなのかなということを逆に認識させられた次第である。では私が目指したいところはどこにあるかというと、やはり零細農業である。

零細農業というと、生産性が低くそれこそ補助金頼みのイメージがあり、それは事実である。しかし、大規模化こそが唯一の正解であるとも思えない。むしろ、零細なままで、生産性を高める方法があれば、それを見つけてみたいのである。

そもそも、我が大浦町は(海岸沿いの干拓地は別にして)狭小な農地が散在しており、畦畔も急なところが多く、大規模化しても効率化には限界がある。今後、労働人口の減少によって自然に農地集積は進むと予測されるが、今それを急に進めようという気運もなく、準備には時間と労力がかかり、そのとりまとめは心労が多い仕事になるだろう。

それに、地域の事情もよくわかっていない私のようなヨソ者が、地域の農地を集積していくことを目標に営農計画を立てていくのは無謀というか愚かである。ということは、私は今後も狭小な農地を相手に農業をしていかざるを得ない気がするから、零細農業でどうやって利益率を高めるかということを考える必要があるわけだ。

さらに、これを言い出すと話が農業をはみ出るが、そもそも生産性を高めたいのは農業というより人生である。私は名刺の肩書きに「百姓」と書いているが、人生の生産性を高める手段は農業に限らないわけで、面白いことなら何でも取り組んでみたいし、「農業」だけの効率を追求したいわけでもない。職人的に農業一筋で生きていくのはそれはそれでカッコイイ生き方だと思うけれども、軽佻浮薄な自分にはできない。

大規模化自体が悪いということは全くなくて、むしろ日本の農業に最も必要なことであることは間違いない。私は、大規模化による「サラリーマン農家」の存在が日本の農業を変えると思っている。そして、仮に大浦町の若手農家で農地集積や大規模化に取り組むということになれば、自分に出来ることは積極的に協力はしたい。ただ、一方で「合理的なもののつまらなさ」を感じてしまう自分がいることも確かである。合理的に生きようとすれば、そもそも役所を辞めていないであろう。

偉そうなことを言って、数年後には大浦の農事組合法人に雇われる身になっているかもしれないが、ここは日本本土の果て、薩摩半島の"すんくじら"(隅っこ)なわけだから、日本全体の潮流とはまた違った、辺境の地ならではの取組ができたらいいなと思っている。

なお、(2)の株式会社アグリアートについては、大規模化だけでない、有機農業を始めとしていろいろ独自の取組をやっているし、友人がいるところなので、機会をみてもう一度訪問してみたい。今回、(2)は私のワガママで日程に入れていただいたのだが、ワガママを聞いてくれた皆さんと、事務局の市役所・南薩地域振興局に感謝である。

※ 実際の米国の農業は、もちろんそんなのばかりではない。

2013年12月3日火曜日

ヘーゼルナッツの木=ハシバミを植えてみました

今般開墾した土地に、仕事と趣味の間のようなプロジェクトとして、西洋ハシバミを13本植えた。西洋ハシバミという名前だとピンと来ないが、これはヘーゼルナッツを収穫する木である。

ヘーゼルナッツというと、ヘーゼルナッツ・ラテのように香り付けに使ったり、お菓子のトッピングになったりと、近年日本でもなじみが出てきた素材。ただ、ヘーゼルナッツがどんな形をしているのか、知っている人は少ないと思う。ヘーゼルナッツというのは、私もそのものを食べたことはないのだが、風味がよく栄養豊富なドングリなのだ。

この実をつけるハシバミという木は、約9000年くらい前のヨーロッパでは、圧倒的な優勢種として森を覆っていたという。日本が縄文時代の頃、ヨーロッパの森といえばハシバミの森だったのである。その後気候が寒冷化したため、カシワ類に取って代わられ、今では世界的生産地はトルコとなっている。

ゲルマン民族が入ってくる前にヨーロッパで栄えたケルト人たちは、このハシバミを随分身近に、そして重要なものと考えていたことは確実で、ケルトの伝説にはハシバミの話が残っているし、ハシバミの枝に神秘的な意味を付与し、水脈や鉱脈を探すのに使ったのだという(ダウジングのようなもの)。

また、減少したとはいえ近代以前のヨーロッパの森にはハシバミが多く、中世の農民の重要な食料だったようだ。ヨーロッパの古い話を読んでいると、ハシバミの実をどうしたとか、ハシバミの枝がどうだということが時々出てくるが、これがヘーゼルナッツのことであるとわかった時は随分意外に感じたものである。

例えば、シンデレラ(グリム童話版)では、シンデレラは、産みの母の墓前に挿したハシバミの枝がみるみる成長して、小鳥(妖精)が様々な願いを聞いてくれる舞台となる。どうやら、中世ヨーロッパの人々は、ケルト人から受け継いだのだろうが、ハシバミを不思議な力を持つ木と認識していたようだ。

ちなみに、日本にも種類は違うがハシバミ(榛)は自生しており、古くから食用とされたそうである。しかしそれよりも重要なのは、搾油し、今風に言えばヘーゼルナッツ・オイルを採ったことである。なんでも、灯明としての搾油が行われたのはハシバミを嚆矢とするらしく、7世紀くらいまでの朝廷ではハシバミ油が使われたらしい。堺の遠里小野(おりおの)は古代ハシバミ油製造の拠点だったそうである。

ハシバミはヨーロッパでも日本でも、古代社会において重要な役割を果たした植物といえる。だから栽培してみるというわけでもないが、まず日本にはヘーゼルナッツを生産している人がほとんどいないので、希少価値がある。輸入品に比べて品質はどうかというと心許ないが、面白い商材になりそうな予感がする。この西洋ハシバミ、結実するまで長い時間がかかる、というのが大きな欠点らしいが、何年後に収穫できるだろうか…。