2014年2月24日月曜日

笠沙美術館を運営して(ミュージアムカフェをやって)みませんか?

先日の南さつま市議会で、笠沙美術館に関する条例の改正があった。一見地味だがなかなか面白い内容である。

それは、笠沙美術館に指定管理者制度を導入するものだ(第15条)。つまり、この施設の維持管理を民間に委託できるようになった、ということである。

そして、その中のさらに地味な条項であるが、指定管理者が行う業務として、「市長が必要と認める業務」が規定されているのがポイントだ(第16条)。美術館自体の維持管理は、単に入場料を徴集したり、場所貸しをしたりといった仕事であり、民間の創意工夫を生かす余地はないが、この条項があるので、たとえばここをミュージアムカフェにするといったようなことが可能になる

この笠沙美術館は、以前も紹介したことがあるように「日本一眺めのいい美術館」を標榜してもおかしくないほどの絶景の地にある。この絶景を眺めながらコーヒーの一杯でも飲めたらどんなに幸せだろう、と夢想してきた私にとって、この条例改正は大変喜ばしいものだ。指定管理者は個人で請け負うことができないが、もしそうできれば、私が真っ先に手を挙げたいところである。

また、笠沙美術館は風景がいいだけではない。美術館の建物はクルーズトレイン「ななつ星」などのデザインで知られる水戸岡鋭治氏で南欧風のデザインが瀟洒である。こういう洒落た建物で飲むコーヒーは美味いに決まっているのである。

だが、経営的に見ると少し厳しい点もある。最も心配されるのがあまりにも辺鄙な土地にあるということだろう。しかし、山側の道路を挟んだ向かいには「杜氏の里笠沙」がある。「杜氏の里」は、南さつま市の三セクの中では唯一の黒字団体であり(2012年度)、それなりの客足がある。場所柄は辺鄙で寂しいところだが、決して無人の地ではない。市の方で近年力を入れている「南さつま海道八景」の見所の一つでもあり、ドライブ客が期待できる。

それに、指定管理者には管理料収入が市から支払われる(というか民間で経営が成り立つなら公共の施設にすべきでない)。基本的には、美術館の維持管理のみであれば赤字はないはずで、ほぼリスクなくこういう絶景の地にミュージアムカフェをオープンできるとすれば、事業者にとっては大チャンスである。

だが、市の方ではかなり弱気な姿勢を見せていて、先日の市議会では「応募がなかった場合は現状とならざるを得ないと考えるが…」と随分引き気味なことを述べている。「応募がなかったら」というような消極的なことではなく、創意工夫と経営能力がある事業者が応募してくるように、鹿児島市内はもちろん、北九州や大都市圏でも説明会をするべきだと思うし、そうして、市の方で応募者を厳正に審査するという強気な立場にならなければならないと思う。

一番いけないのは、形式的には公募の形をとりつつ、実際には南さつま市内の適当な事業者に声をかけるだけで広く呼びかけず、結局役所がやるのと変わらない仕事を民間が担うということだと思う。せっかく指定管理者を公募できる規則を作ったのだから、これを生かしてもらいたいというのが一市民としての期待である。そしてもう一つ高望みすれば、こここをミュージアムカフェにしてもらい、沖秋目島を眺めながらコーヒーが飲みたいのである。

【補足】
本件に関してご関心ある(南さつま市外の)事業者の方は、コメント欄にでもご連絡ください。市の方に取り次ぐことも可能だと思います。なお、条例上は「指定管理者に業務を行わせることができる」となっているだけで、応募者が想定されない場合は公募されないこともあります。なので、公募があったら検討しようということではなく、公募をするように市の方に働きかけていくくらいの積極性がないとダメかもしれません。

2014年2月22日土曜日

鯖でダシを取る「加世田そば」もとい「長屋そば」(と佃煮)

加世田の竹田神社とナフコの間に、「加世田そば」の店がある。ここのお蕎麦がなかなかよい。

加世田そばは、今でこそこういう呼び名だが、元は「長屋(ながや)そば」という。加世田の長屋集落に伝わる蕎麦である。発端は10年くらい前に遡ると思うが、行政が主導した集落の地域興し活動で生まれた「長屋そば部会」が発展し、店を構え、雇用を生んでいるということで、こういう活動の数少ない成功事例でもある。

メニューは、かけそば(420円)、かけそば大盛り(525円)、うどん、ご飯というシンプルなラインナップ。厨房もかなり簡易な感じなので、これが精一杯なのかもしれない。

さて、その長屋そば、特徴はなんといってもダシである。魚介のうまみが豊かで、一見平凡なおそばのツユなのに、どこかいつものそばのツユと違う。

その秘密は、普通はそばやうどんのツユは鰹節と昆布でダシを取ると相場が決まっているが、このツユは鯖(サバ)でダシを取っているのである(※)。長屋では、昔、小湊(こみなと)から運ばれてくる鯖でダシを取ってそばのツユを作ったということで、今でも鰹節ではなく、生鯖節でダシを取っているのである。これは、鰹節のように乾燥した素材ではなく、削って使うのでもない、一般にはあまり使われていないダシの素だと思う。

この、「加世田そば」の店では、ダシを取った後の鯖節を佃煮にして、各テーブルに「ご自由にどうぞ」と置いてある。この鯖の佃煮が大変おいしくて、ダシの副産物とはいえ気前がよい。鹿児島では漬けものが食べ放題の店は多いが、こんなおいしい鯖の佃煮が食べ放題な店は、多分鹿児島でもここだけだろう。

ちなみに、麺の方はと言えば、こちらも伝統的な十割そばで、つなぎの小麦粉などは一切入っていない。そのためにブチブチ切れていて、ツルっと食べるわけにはいかず、味は素朴でおいしいが、私としては食感がイマイチである。それに、小さくちぎれたおそばをドンブリの底からかき集めるのも面倒だ。でも、こういう素朴なそばは、普通の蕎麦屋さんではまず味わうことができないから貴重ではあると思う。

長屋そばは、「加世田そば」の店に行かなくても、吹上浜海浜公園の売店でも食べられる。でもこちらでは、アピールがヘタなのか、そばではなくてみんなうどんを注文しているようだ。このうどんは、地場のものではなくて普通の冷凍うどんを使っている平凡な商品である(だから安いが)。

南さつま市民の間でも、「加世田そば」または「長屋そば」の知名度はまだまだ低いようであるが、一度は味わう価値があるそばだと思う。ちなみに鯖の佃煮はお店では販売もしているので、酒飲みのおつまみに最適だ。ヘタなB級グルメなんかよりずっと美味しいから是非試して欲しい。

※ 鯖以外のツユの材料としては、昆布出汁は入っているが、他に鰯のダシも入っているかもしれない。詳しい配合は不明。

2014年2月18日火曜日

財務諸表から見るJA南さつま

確定申告の時期である。大変めんどくさい。というわけで、現実逃避して南さつま農協(JA南さつま)の財務諸表(2012年度決算書)を眺めていた。

思えば、一組合員としても出荷者としても、農協の経営状態をあまり気にしていなかった。一応、年に一度の総代会というものがあって、そこでは事業報告とか中期計画とかを組合員に説明するが、たぶん財務諸表をじっくり見て農協の経営状態を理解している人というのは僅かだと思う。この機会にこれをよくよく観察してみると面白いかもしれない。

ただ、これを真面目に分析すると長大で冗漫なものになるので、大まかな点だけ見てみようと思う。

まず、損益計算書の事業利益を見てみる。南さつま農協の経常利益は、約2億円である。具体的には、約34億円の事業利益があり、その事業を実施のため約33億円の事業管理費を使っている。その差額の約1億円とあわせて、約1億円の経常外利益(事業によるものではない利益)があるので経常利益が2億円である。下図はこれを簡単にまとめたものである。

JA南さつまの利益と費用
  利益 費用
事業 34.4億円 33億円
事業外 0.8億円 0.1億円
経常利益: 35.2億円(利益)—33.1億円(費用)=2.1億円

では、この表に掲げた約34億円の事業利益は、具体的にどのような事業で稼いだものなのだろうか?
それをわかりやすくしたものが左の棒グラフである(※)。青い部分が利益(粗利=収益から費用を引いたもの)で、オレンジ色の部分が費用である。

ただしここでいう「費用」は事業ごとの費用であって、上の表中での「費用」とは違う。上の表中の「費用」は、事業全体を実施するための人件費とか施設費であって、ここでいう「費用」は、販売品の原価のように事業ごとにかかっている「元手」のことである。なお、純粋に利益だけ見る時はオレンジ色の部分は不要であるが、今回は参考につけている。

この図を見ると、JA南さつまの利益の3本柱は「肥料や農薬の販売」「保険業」「銀行業」であることが分かる。この3つで大体25億円くらいの利益を稼いでいる。ちなみに、「肥料や農薬の販売」にかかっている費用が突出して大きいが、これは「仕入れて売る」という普通の商売をしているためで自然なことである。「保険業」や「銀行業」はほぼ窓口業務であるために(別に計上されている)人件費以外の費用がほとんどかかっていない。

さて、ここまで見てみると、特に経営上の問題もなく、健全経営をしているように見えるが、JAのメインの事業である農産物の販売についてはどうなのだろうか?  JA南さつまでは、約174億円の農産物の販売実績があるが、その内容はどうなっているのだろう?

左は、農産物販売実績の内訳を円グラフにしたものである。販売金額のほとんどはお茶と畜産で野菜とかお米は全体の15%ほどしかない。

私が取り組んでいるかぼちゃやカンキツなどはさらにその中のほんの僅かな部分を占めるに過ぎないから、経営的に見ると、JAとしてはあってもなくても変わらない事業だと思う。

さて、問題は、この174億円の売上が、財務諸表上でどう位置づけられているかである。ここが、今回農協の財務諸表を調べて大変に衝撃を受けたところなのだが、この円グラフのうち、財務諸表に掲載されているのは、紫の部分のたった7.5億円だけなのである。これは、棒グラフの方の「お茶等の買取販売」という項目にあたり、この7.5億円の販売から4.7億円の粗利が生まれている。

では、他の部分はどこに消えてしまったのか?

実は、私も始めて知ったのだが、ここに帳簿上のカラクリがある。農家にとってJAは卸先の一つ、つまり農産物をJAに売却し、JAがそれを市場で売る、のだと思っていた。だが形式的にはそうではなく、あくまで販売の主体は農家で、JAは販売を委託されているに過ぎない。だから農産物販売はJAにとっては受託事業であり、いくら農産物を販売しても売上としては計上されないのである。

だが、実際には農産物の代金はJAから農家に支払われているわけで、一度はJAの会計を通っているお金が財務諸表に載らないのは奇妙である。受託事業だからといって決算に含めなくてもよい道理があるとも思えない。というより、JA南さつまにとって最大の事業である農産物の販売が財務諸表に載っていないということだと、経営者(理事)が業績を評価することもできない。少なくとも民間企業において、メインの事業が財務諸表に掲載されていなければ、とてもまともな決算とはみなされないだろう。

この財務諸表もJA全中の監査と内部監査を受けてOKをもらっているわけだから、この財務諸表がダメとは直ちに言えないが、少なくとも業績がわかりにくい財務諸表であることは間違いない。

それに、私が一番問題だと思うのは、JAの担当の方が一生懸命農産物を販売しても、その業績は財務諸表上では全く評価されないということだ。農家としては農産物を1円でも高く売って欲しいが、JAの担当者が販売に力を入れても、JAの利益には1円も計上されないので、担当者やその上司のやる気も出ないだろうと思う。では、農産物販売の利益はどこに行っているのだろうか?

それは、形式的には、農家へ全て配分されているのである。これは、農家が販売をJAに委託しているわけだから当然だ。だが、この仕組みだとJAの販売担当者には少しでも高く売ろうとする理由がない。委託販売は、JAにとっては損もしないが得もしない事業だからだ。やはり、高く売ったらその分JAが儲かる(あるいは担当者が評価される)、という仕組みにしないかぎり、JA出荷の農産物の価格低迷が解消されることはないだろう。制度というのは、実際に手を動かす人、それを評価する人、それを利用する人に適切なインセンティブがないとうまく働かない。

そして、さらなる問題は、農産物販売の帳簿はどこで誰が管理しているのか? ということである。農家からの受託事業としてJAが農産物を販売しているなら、委託者である農家には事業実績(収支)を報告する義務がある。しかし、農産物販売174億円の、そのお金がどう配分されているのか、実は全く公開されていない。つまり、農家に支払った代金がいくらで、選果や集荷にかかった費用がいくらで、販売手数料がいくらなのかといった収支の全体が全く不明なのである。

これはJAの財務諸表の問題ではないのかもしれない。もしかしたら、農家自身の組合(園芸振興会とか、果樹部会とか、農家の組合組織がたくさんある)の問題なのかもしれない。だが、実態を数字で捉えることなしに、経営を改善していくことは絶対に不可能である。農産物販売の内実が明らかになっていないのは何か理由があるのかもしれないが、現実を直視することは必要不可欠のことなので、農産物販売の収支決算書を共有できるように図っていきたいと考えている。

※ わかりやすくするため事業名を一部改変している。財務諸表上では、上から購買事業、共済事業、信用事業、販売事業、利用事業、その他事業、加工事業、指導事業とされている。

2014年2月11日火曜日

南さつま市健康元気まちづくり百寿委員会が発足

南さつま市はやたらと一人あたりの医療費が高いという問題があり、健康で元気な生活を送れるまちづくりを進めるため、このたび百人以上の市民を巻き込んで「南さつま市健康元気まちづくり百寿委員会」なるものが設立された。

私自身はどちらかというと不健康な方だが、なぜかこの委員に選ばれ、先日この設立会に参加したところである。その内容は、「健康元気まちづくり戦略会議」という百寿委員会の上に置かれた会議の委員長である吉田紀子氏の講演と、4つのワーキンググループ(WG)に分かれての自己紹介、次回の日程調整などなど。私は、「地域づくり・人づくり等場の創造」をテーマにする「絆ムスビWG」に配属させられ、今後検討をしていくことになる。

さて、私はこの設立会に先立ち、厚生労働省が策定した「健康日本21」とその参考資料を読んだり、これを受けて鹿児島県が策定した「健康かごしま21」に目を通したりして、健康寿命の延伸のための諸方策の勉強をしていたのであるが、吉田委員長の講演を聞いて目が点になった。

あまり批判はしたくないが、その内容はほとんど「トンデモ」である。人類がみな潜在意識のレベルでは繋がっていてそれを「集合無意識(ユニティ)」というとか、「純な思い」は波動となって伝わって周りの人をも幸せにするとか、健康になるには霊性・魂の健康が大事であるとか、その他資料には「ブラーフマン」「神性エネルギー」「生命場」「宇宙との繋がり感を体感」などの文字が並んでいた。

また、経済成長ではなく精神的幸福が大事といい、その意味でブータンの提唱する国民総幸福量(GNH)を礼賛していたが、平均寿命が日本より20年も短いブータンをお手本にしようとするあたり、ちょっとその意図を理解しかねる。講演を聞きながら、私の出番はなさそうだと暗鬱な気持ちになったところである。

ただし、言っていることはめちゃくちゃ(失礼!)だが、意外にその志向はマトモである。地域作りの成功例として掲げていた奄美、葉っぱを商材としたことで有名な上勝町、アーティストの移住が有名な鹿屋の柳谷(やねだん)集落、農業振興の成功モデルとされる綾町などの紹介を聞いていると、吉田委員長の理想とするまちづくりの方向性が見えてくる。

それは、センスと行動力のあるリーダーの下で、地域資源を活用した住民参加型の産業を興す一方、観光客やアーティストといった外部人材の流入を活発化する、それによってさらに街を活性化して停滞した雰囲気を打破し、住民が生き甲斐をもって取り組める自主的な活動を始めやすくする。また、街・村の景観を重視し、テーマを持って街づくりを進めることの重要性を強調する。こうしたことは、全て首肯できることであり、大賛成だ。

こういう「トンデモ」系の話を聞くといつも感じるが、「健康な人は素晴らしい波動を発散して、周りの人間も幸せにする」ではなく、「健康で明るい人といると楽しくみんな元気になる」と言えば何の違和感もない。「波動」とか「神性エネルギー」とか疑似科学的な説明を持ち出すから胡散臭くなる。ヒューリスティック(経験主義的)なことを科学的に証明されたものだと強弁しようとするから「トンデモ」なのである。

ところで、本会議は「健康で元気な生活を送れるまちづくり」というボンヤリとした目標を掲げているが、喫緊の課題である医療費低減に向けた具体的努力も是非とも必要である。同じことじゃないかと思うかもしれないが、少し違う。

以前ブログでも紹介したとおり、南さつま市は一人あたり医療費が極端に高いが、南さつま市民が他の地域に比べて極端に不健康であるというデータはない(あったらすいません)。ではどうして医療費がこんなに高いのか。以前も書いた通り、医療費に関しては社会慣習と人々の考え方に起因する部分が大きいと考えられるので、南さつま市民を「不健康」と決めつけず、南さつま市の一人あたり医療費がなぜ高いのかをキッチリと分析・公表し、人々の考え方と医療との関わり方を変革していくことも必要だと思う。健康元気なまちづくりも結構なことだが、是非並行して取組を進めていただきたい。

2014年2月7日金曜日

廃校利用の「検討」はやめて、公募しませんか?

既に決まっていたことではあるが、旧笠沙高校の校舎解体工事が始まった。大変残念なことである。

笠沙高校の校舎利用については、以前も半分冗談・半分本気でブログ記事に書いたことがある。それと重なる部分もあるが、改めて解体工事を眺めていて、思うことを書き留めておこうと思う。

ともかく、こうして高校の校舎が壊されていくのは寂しいことで、ほとんど部外者である私ですらそうなのだから、地元の人や卒業生にとってはもっともっと寂しいことだろう。時代の流れといえばそれまでだが、やはり、校舎を別の形で有効利用できていたら…と思わざるを得ない。

市でも「笠沙高校跡地利用対策協議会」を立ち上げて、跡地利用を議論・検討していたが、今から思えばそれが間違いだったと思う。というのは、「○○に利用しては?」という意見が出ても、その運営をどうするのか、予算をどうするのか、そして何より運営主体をどうするのかという話が具体化しないかぎり、全ては机上の空論である。そして、そこまでを「対策協議会」が担うというのはちょっと現実的ではない。

やるべきだったのは、「旧笠沙高校の校舎を使いませんか?」と広く呼びかけて、その利用法を提案してもらい、行政や住民がそれを審査する、という公募ではなかったかと思える。この方法だと、例えば都市部で説明会を開催するといった、広く呼びかける手間はあるが、それさえやれば行政や住民は提案を審査する立場になるため、知恵を絞って苦労する必要もなく、運営や予算に悩む必要もない。

公募の結果、ロクなところが応募して来なかったら該当者ナシで全部を棄却してもよい。だが、民間が行う事業だから、完全に地元住民の意向に沿った利用にならないのは当然である。というより、現今の財政・経済事情の中で、「地元住民の平穏な生活」というある種の既得権を守っていく余裕はどこにもない。このまま過疎地として静かに滅んでいくという選択肢を取らないかぎり、「平穏な生活」を捨て、活性化のために都市からの有象無象を受け入れる覚悟がいると思う。

もちろん、南さつま市で実施したい事業に活用するならその方がよいが、そういう事業もなく、議論がまとまらないまま、校舎の老朽化が進んでどうしようもなくなったというのが実態だと思う。なにより、主管である教育部が、学校の統廃合などより喫緊の課題を抱えている中で、廃校利用という、ある意味では「やらなくても誰も困らない仕事」に手間を掛ける余裕がなかったということが一番の「敗因」ではないか。

これから、近くだと玉林小学校、赤生木小学校、笠沙小学校が廃校となり、その校舎が空くことになっていると思う(※)。この3校の校舎利用については、笠沙高校と同じ轍を踏んで欲しくないと強く思っている。行政や住民で積極的に「これに利用したい」というアイデアがなければ、ぜひ廃校利用の事業を公募をしていただきたい。海道八景沿いでもあるので、独創的な事業が提案されるかもしれない。校舎をほとんどタダで提供すれば、普通は赤字になる事業でも可能になる。廃校で誰かの夢が叶えられるかもしれないのだ。関係者の英断を期待したい。

※この3校のうち、どれかは公民館にする予定のように仄聞したが、廃校を公民館として利用するのはあまり上策とは言えないように思う。

【参考】
ちなみに文部科学省でも、〜未来につなごう〜「みんなの廃校」プロジェクトというのをやっているので、行政関係の方は是非見てもらいたいと思う。以前は廃校利用は様々な制約があったが、現在では随分簡単になってきている。

2014年2月6日木曜日

森田寿香と吉峯次右衛門の協力——鹿児島本願寺小史(5)

明治初期、鹿児島に真宗が急速に広まった大きな要因は、自葬禁止の布告だったのであるが、それは他の仏教諸派にとっても追い風だったはずである。

真宗以外は廃仏毀釈等の政策で痛手を蒙っていたにしても、人々に馴染みが深かった禅宗や真言宗は少数ながら鹿児島に僧侶を派遣していたようであるし、東本願寺(真宗大谷派)も数名の僧侶を派遣し、西南戦争のゴタゴタに巻き込まれながら布教活動を行っていた。

そんな中で、西本願寺(真宗本願寺派)が圧倒的な存在感を持つに至ったのはなぜだろうか? これまでも触れたように、それには明治政府高官との人脈が影響してもいるが、もっと重要なことにその資金力がある。

何しろ、布教活動には金が必要だった。交通費や宿泊費はもちろんだが、それ以上に重要だったのは政官界への対策費用である。西南戦争の敗北で大分痛めつけられていたとはいえ、当時、鹿児島の政官界は士族に牛耳られていた。士族には目の敵にされていた真宗であるから、なんとかこれを懐柔し、地方政府の公認を得なくては布教活動をスムーズに進めることができなかった。

そのために、西本願寺は鹿児島県に対する積極的な寄附を行うのである。例えば、明治10年12月には西南の役の罹災救済費として1万円を、明治11年には学校奨励費として2000円を本山が県に寄附している。その後も、
  • 明治13年、本山より産業奨励費として1万5000円。
  • 明治15年、大谷家より病院附属建物を寄附。
  • 明治16年、殖産奨励費として1万5000円(後の県立興業館の費用)。
  • 明治17年、鹿児島別院より興業館における勧業博覧会へ1000円。
  • 明治17年、鹿児島別院より宮崎監獄教誨所設置費へ600円。
といったように、猛烈な寄附が続いている。当時の1円は現在の価値にすると約2万円であるから、ここに挙げただけでも、現在の価値にして9億円ほどを寄附していたことになる。鹿児島での布教活動は、度外れて金のかかる事業だったのである。

この膨大な資金の源は、最初は京都の本山であったが、次第に本山は拠金をしなくなっていく。そもそも、布教活動の費用は獲得した信者からの寄附によって現地でまかなうのが基本であって、布教活動は金銭的に自立することが求められていた。むしろ本来は、逆に地方から本山へ年間3000円余りの冥加金(上納)を納めることになっていたくらいで、鹿児島の場合のように、本山が地方の布教事業のために大枚をはたくというのは異例なことであった。

しかし、西南戦争直後、鹿児島の市街地は焼け野が原になっていたから、仮に信者を獲得することができたとしても、信者からの寄附が望めないのは当然である。そこに生活していた人は何もかも失った状態から、まずは日々の暮らしを再建しなくてはならなかった。だから資金面において、西本願寺の開教史たちはすぐに苦境に陥ったのである。

であるから、自然のなりゆきで西南戦争の被害を受けていなかった南薩地域が資金源として重要になってくるのである。そして、西本願寺の布教活動を語るには、その活動を資金面で大きく支えた南薩の豪商カネシチ」と「丁子屋」の存在を欠かすことができない。そこで、この2つの商家と西本願寺の関わりを少し詳しく見ていくことにしたい。

この2つの商家が本拠地としていたのは、南薩の万世という街である。旧加世田市にあり、当時の地名では大崎と言う。ここは古くより商港を持ち、貿易によって栄えた南薩の商業の中心地だった。この街で江戸時代中頃から勃興したのがカネシチと丁子屋の二大廻船問屋である。その商売は重なるところもあったが、概ねカネシチは呉服など衣料品、丁子屋は食料品を中心とした商いをしていたようである。両商家は数代にわたる婚姻関係で結ばれた親戚でもあり、共同して莫大な富を築き上げた。特にカネシチの邸宅は宏壮であり、京都から呼び寄せた庭師による優美で広大な庭園があったという。

明治のこの頃、カネシチの当主を森田寿香といい、丁子屋の当主を吉峯次右衛門といった。森田寿香は、紳士録などの公的記録では森田七左衛門とされていることもある。カネシチでは、代々「七左衛門」の名を受け継いで行くのが習いだったからだ。

信教自由の布達があった明治9年の頃、森田寿香はいち早く真宗に帰依したようだ。早くも明治11年には、万世に説教所が開設されていることからもそれはわかる。これは今も街に残る顕証寺の濫觴となるもので、県内でも最も早くに開設した説教所の一つである。信徒総代は、森田寿香と吉峯次右衛門が共同で務めた。本堂と庫裡の建設に要した費用はほとんど全てこの2人でまかなったようである。どうやら、森田が最初に真宗に帰依し、弟分だった吉峯を引き入れる形で真宗の布教活動の支援が始まったらしい。

どうして森田寿香、おって吉峯次右衛門がいち早く真宗に帰依したのか、ということの真相は不明であるが、どうもこの両家には信教自由の前から真宗への信仰があったように思われる。というのも、鹿児島では真宗は禁教とされていたけれども、廻船問屋を営んでいる関係上、彼らは藩政時代より日本全国を廻っていたわけで、江戸や大坂(大阪)で真宗に触れていないわけがない。伝説では、丁子屋には、真宗への禁遏が激しくなったとき仏像を持って船に乗り、そのまま返ってこなかった祖先がいるそうである。

さて、森田寿香の名前が真宗布教活動の表舞台に出てくるのは、西本願寺鹿児島別院の本格的な本堂建築にあたって建築総裁に就任したとき、明治11年の秋が最初である。森田は総裁就任にあたって、さっそく500円を寄附してもいる。森田を建築総裁、つまり別院建築の責任者という重役に起用したのは、彼の指導力や経験を買ってのことであることはもちろん、豊富な財力も期待してのことであったろう。記録には残っていないが、おそらく、これに先立ってかなりの寄附をしていたに違いない。

別院建築は当初本堂3000円、書院3120円の予算であったが、建築のうちにいろいろと追加され、途中資金が足りなくなった。そこで、『鹿児島本願寺開教百年史』の記述によれば、「急遽、加世田まで岸大悟(※出納係)が出向いて、カネシチと丁子屋より1000円を用立てて」もらったそうである。この記述を読む限り、「カネシチと丁子屋にいけば、確実に金を貸してもらえる」という確信があったのだろう。金を貸すといっても、当然返すアテもなく、「お金を下さい」とは言いづらいから形式上貸借のカタチにしているだけで、その実態は寄附であった。

その後、明治12年に連枝(宗主明如の実弟)日野澤依が鹿児島巡教をした折にも、加世田に立ち寄った際はカネシチと丁子屋に泊まっており、両家は御召馬一匹を献上し、それに対して、日野は宗主の一行物、自身の額字を下付している。当時の馬といえば、今で言う5トントラックのような存在であるから、どのくらいの価値があるものかわかるだろう。

なお、明治15年に別院拡張の工事を計画した際も、金策にあたった伊勢田雲嶺は「早速加世田の森田寿香より800円を[…]借用」している。この「早速」という表現を見るにつけ、少しイジワルな言い方だが、別院が財政面で安易に森田を頼り、金を無心していた様子が窺える。

こうした調子で、西本願寺がことある事にカネシチ、丁子屋から寄附を受け、またそれを期待していたのは、公式記録を眺めるだけでありありと分かる。財政面でこのような影響力をもった存在は他にない。一体両家が累積でどれくらいの寄附をしていたのか今となってはわからないが、(顕証寺に宛てたものは別にして)おそらく2万円は下らないだろうというのが私の感覚である。現在の貨幣価値にして、4億円くらいだ。カネシチと丁子屋は、そういうお金を出すことができた豪商だったし、自分たちの生活を質素なものにしてでも、お寺の発展を願った敬虔な門徒だった。

この頃に両豪商からの支援を受けられたことは、西本願寺にとって随分大きなことだったと思う。おそらく、彼らからの支援なくしては、鹿児島の布教事業は20年は遅れたに違いない。現在鹿児島で真宗本願寺派が非常なる興隆を見せていることの理由の一つが、この両家の財政支援にあるといってもよいだろう。

しかし、西本願寺の活動における両家の存在感は次第に薄くなっていった。その理由としては、第1に、西南戦争からの復興が進んで鹿児島市街地の商業が盛んになり、南薩の重要性が相対的に減じてきたこと。第2に、明治30年に西本願寺の法主・大谷光瑞が鹿児島に下向し、島津氏との交誼を開いたことが挙げられる。これにより士族間にあった反真宗の敵愾心は随分柔らぎ、士族間へも真宗が浸透していった。

そして第3に、商業都市としての万世の凋落も挙げなくてはならない。海運の時代から鉄道を中心とする陸運の時代になり、商港を擁する意味が低下したことが大きい。さらに、時代は下るが支那事変が勃発すると、多くの物資が統制されて当たり前の商売は営めなくなっていった。特に呉服が中心的商材であったカネシチの場合はこれが致命的な打撃になった。呉服は切符制の配給品となって組合が扱う品となり、南薩の呉服を一手に引き受けていたというカネシチの販路が取り上げられたのであった。

一方で、「真俗二諦」を掲げて政府に迎合した真宗は、次第に戦争協力へとひた走っていく。軍人への布教はもちろん、他を圧する従軍布教僧を戦地に送り、国家への忠心は念仏と一体であるとし、多くの兵士が「南無阿弥陀仏」と唱えながら天皇に命を捧げたのであった。実は、カネシチの跡取りも満州で戦死している。そのために、この歴史ある大商家は遂に断絶することになった。今では、カネシチ(森田家)の邸宅があった場所は、電器店がある他は寂しい空き地と変じてしまっている。今も残る万世の丁子屋の、右隣の土地である。

そして今では、カネシチの森田寿香と丁子屋の吉峯次右衛門が、鹿児島の西本願寺の興隆にどれだけ大きな貢献をしたか知っている人はほとんどいない。京都の本山にある、親鸞聖人の墓がある大谷墓地、まさにその親鸞聖人の墓のほど近くに、鹿児島からはたったの3家のみが墓を持っていて、それが森田家、吉峯家、そしてこれまで説明していなかったが海江田家なのだという。それだけが唯一、明治の昔に真宗布教に邁進した人物の記憶を留める遺産である。

ちなみに、この3家は西本願寺鹿児島別院の初代勘定役(財務担当)であって、海江田家も「カネヒラ」という屋号で廻船問屋を営んでいた市来の豪商である。実に、鹿児島の真宗本願寺派というものは、藩政時代からの豪商を味方につけたことで大きくなった教団なのである。

しかし、今では西本願寺鹿児島別院自身が、そういった歴史には無頓着なようである。寄附というのは物質的な見返りを期待してやるものではないから、それもしょうがないことだろう。しかし、報恩(仏恩に報いよ)ということを重視する真宗であるから、たまには俗世の恩義も思い出したらよい。石碑を建てるとか、ことさらに顕彰する必要はないし、地元の人もそんなことは求めていない。

ただ、今南薩の経済は元気がない。特に万世などは、鉄道網から外れたことをきっかけに、かつての賑わいの片鱗すらも感じられない有様である。今では高齢化と人口減少に喘いでいる。こうした状況を打破するのは、人々の努力と創意工夫しかないが、それに別院も少しだけ力を貸してくれてもよいのではないだろうか。例えば、顕証寺を使って法話を行うでもよい。それに私は、お寺というのは田舎の重要なインフラだと思っている。なぜなら、帰省する人々の窓口にもなっているからだ。お寺を情報発信の場やイベント会場として使うこともできよう。

今こそ、真宗は真俗二諦を掲げるべき時である。真諦=念仏による往生と、俗諦=地域経済の発展は矛盾しないというべきだ。私も、形式上ではあるが、門徒の末席を汚すものである。お寺という財産を、未来のために活かす時が来ていると思っている。

【謝辞】
本稿を書くにあたって、丁子屋さん(吉峯家)に取材させていただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

【参考資料】
『本願寺開教五十年史』1925年、本願寺鹿児島別院 編
『鹿児島本願寺開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会(代表 槇藤 明香)
『市来町郷土誌』1982年、市来町郷土誌編纂委員会 編