2014年1月28日火曜日

鹿児島の真宗が墓参りに熱心なわけ——鹿児島本願寺小史(4)

これまで見たように、西本願寺による鹿児島の布教活動には数々の困難が伴っており、およそ成功するような事業ではなかった。乱暴にまとめてしまうと、当時の鹿児島には、真宗の教えを受け入れる素地がなかったのである。

しかし実際には、西本願寺による布教活動は大成功することになる。明治期に建立された寺院のほとんどは真宗のものであったし、それは現代でもさほど変わらない。鹿児島県は真宗率の最も高い県の一つになったのである。それはなぜだろうか?

実は、当時彼らの布教活動を強力に後押しした明治政府の政策があった。それは、鹿児島での信教自由に先立つこと4年前、明治5年に出された「自葬禁止」の太政官布告であった。

それまでは、葬式といえば庶民は共同体で営むものであり、神官や僧侶は必ずしも同席していなかった。そこで政府は神官・僧侶が執り行わない葬儀を禁止し、彼らに葬式を管理させることにしたのである。死者を勝手に葬ることはできなくなったのだ。

どうして葬儀を神官・僧侶に管理させる必要があったのか、ということは少しく説明を要する。 明治4年は、全国的にも信教自由の前で、神道が国教化されていた時代である。明治政府は人心を神道により収攬することを企図し、神仏分離を始めとして様々な宗教政策を実施していたが、その要諦は、全ての宗教を国家の管理下に置き、宗教活動の中心を「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」に組み替え、もって愛国と服従を教え込むことにあったと言える。

真宗が「真俗二諦」を打ち出したのもそのためだ。「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」という、阿弥陀仏への信仰とは異なる考え方を教義上で正当化するため、真諦=真宗の元々の教え、俗諦=国家の教え、というように一応区分し、それが矛盾しないことを説明しなくてはならなかったのである。

ここで注意しなくてはならないのは、「祖霊祭祀」と「皇祖崇拝」は一見別のものに見えてその内容は密接に関連しているということである。明治政府が肇国の聖典とした記紀神話は、各氏族の天皇家との関係を示す寓話という側面があるが、これは言葉を換えて言えば「遙かな過去に遡れば、誰でも天皇家と親戚関係・主従関係になる」ということで ある。

であるから、明治政府は各自の祖先を敬うことがひいては皇祖=神を敬うことになると整理し、そのために神社整理の際は記紀に位置づけられない土着の神社を廃したり改名して、記紀神話に基づいた神社を創建したのである。こうして、「皇祖・敬神」という、庶民にとってはとても理解しがたい、抽象的な信仰が、それぞれの祖先を敬うという具体的なレベルの行動に落とし込まれたのであった。

というわけで、明治政府にとって祖霊祭祀というのは、ただ祖先を大事にしましょう、という倫理以上の重要性を持っていた。皇祖崇拝の根源を祖霊祭祀に置いていたので、これを徹底することは国家の祭祀に関わることだったのである。そして、祖霊祭祀の具体的活動はとりもなおさず「葬式」であるから、これを国家の管理の下に置こうとするのは当然だ。そこで「自葬禁止」の布告がなされることになったのだ。

また、民衆的レベルにおいては、葬式はあらゆる宗教活動の中で最も重要なものである。「自葬禁止」の布告には、未完成・未徹底だった国家宗教としての神道の完成のために、葬式を手中に収め、これを管理することにより民衆の教化の入り口にしようという目論見があったに違いない。

ところで、「自葬禁止」の布告には、国家神道の観点から見ると不徹底な部分が一つある。それは、葬式の執行者を神官(神道)だけでなく僧侶(仏教)も含めた ことだ。これは、当時仏教諸派も国家の管理下に置かれていたために、祖霊祭祀や皇祖崇拝を仏教側も民衆に教える(教えなくてはならない)ということから含まれているのである。

仏教側には、この自葬禁止という政策にはいろいろと思うところがあったらしい。しかし、国家神道を推し進めるためのこの政策が、西本願寺による鹿児島への布教活動にあたっては、皮肉にも強力な追い風になったのである。

なにしろ、当時の鹿児島は苛烈な廃仏毀釈後であるから寺院が全くない、つまり僧侶がいない。神官はいたが、当時の神官は公務員であるためその数が限られており、とても民衆の葬式をまかなう人数がいなかった。だが人は、そんなことはお構いなしに死んでいく。かといって勝手に葬れば取り締まられる。さて困った。 と、そういう状況でやってきたのが西本願寺の僧侶たちなのである。鹿児島の民衆にとって、ようやく葬儀を任すことができる人が現れたのであった。渡りに船とはこのことであろう。乗らないわけがないのである。

この状況は、西本願寺側もよくわかっていた。島地黙雷はこれをチャンスと見たし、西南戦争後の明治11年には、西本願寺の鹿児島出張所(現・西本願寺鹿児島別院)は県庁の指導に従い「葬儀を懇ろにせよ」という達書を県内で活動する僧侶たちに送っている。

こうして、鹿児島の民衆にとって、真宗は「葬式仏教」として入ってきたのである。西南戦争や隠れ念仏、そして言葉の問題など本願寺にとっては逆風だらけの中、布教事業が非常なる成功を収めたのは、ひとえに明治5年の「自葬禁止」の布告のおかげであるといっても過言ではない

「葬式仏教」などというと、形式化した現代の仏教を揶揄する言葉であるが、明治の頃の「葬式仏教」としての真宗をあながち批判することはできない。葬式は、言うまでもなく死者の魂を安らげ、残されたものの心を整理する重要なイベントである。現代においても、心のこもった葬儀というのは、一人の人間の死を悼むだけでなく、それぞれの来し方行く末を顧みる機会にもなり、これまで受けてきた有形無形の慈しみに感謝する場でもある。西本願寺の僧侶たちが葬式を「懇ろに」執り行ってくれたことは、当時の人々にとってどれだけ慰めになったことだろう。

さらに、当時の鹿児島の民衆というものは蒙昧で野蛮な状態に置かれていたのだ、ということをもう一度考えなくてはならない。一方で、鹿児島へ布教活動に来ていた僧侶たちは、当時の西本願寺の中でもエース級の人物たちで ある。そういう、教養も徳も高い僧侶が、「猿の如き」と言われていた野卑な民衆の葬儀を執り行ったのである。しかも、それは偶然ではない。「お念仏の下には、人々はみな平等である」という真宗の教えに基づいて、野卑な庶民にも高徳の僧侶が念仏をしたのであった。難しい話など聞く機会など全くなかったであろう鹿児島の庶民が、始めて触れた高邁な話は、おそらく真宗僧侶の説教(法話)だったのではないだろうか。

なお、鹿児島の民衆と真宗の出会いが「葬式仏教」だったことは、鹿児島の真宗文化に強力な影響をもたらした。

例えば、鹿児島では墓参りが盛んなことに他県の人が驚くことがある。また、盆正月などでなくても、いつもお墓に立派な仏花が飾られていることは、鹿児島の一種の風物詩であり、そのおかげで鹿児島県民の切り花消費量は日本一なのだ。ここでの問題は、真宗率の高い鹿児島で、どうしてこのように祖霊祭祀が盛んなのかということである。

なぜなら、真宗は元来、祖霊祭祀には熱心ではない。 親鸞の元々の教えには祖霊祭祀の要素が非常に希薄であって、祖先の霊を敬うことよりも、ひとえに阿弥陀仏におすがりすることを強調している。それに、念仏 を唱えて亡くなった人は貴賤の別なく阿弥陀の浄土へ往くことができるので、追善供養(死後に読経や布施などをして極楽へ往生できるように願うこと)をする必要もなかった。真宗の教義では、お盆にも祖霊が現世へと返ってくることはなく、死者は浄土にいて永遠の安楽を楽しむことができるとされている。

こういう教義であるから、祖先の墓に頻繁に墓参りをするとか、仏花を献げるとかいうことに、真宗では宗教的な意味づけがあまりなかったのである。事実、古くからの真宗地帯である北陸などでは、祖霊祭祀を行わず、ひとえに念仏に勤しむことを村の誉れとするようなケースもあったと聞く。今でも、北陸には墓がない地域がある。そんな真宗を多くが信仰する鹿児島で、どうして墓参りや献花が盛んなのか。その答えは、この明治期の真宗の受容の仕方にあったのではないか。

先述の通り、この頃の真宗は国家の指導の下、元々の教義にはかなり希薄であった「祖霊崇拝」を積極的に勧奨したし、しかのみならず、「真俗二諦」の旗印の下、皇祖崇拝と天皇への恭順も指導した。この頃の真宗には、元々の教義を枉げていた部分が確かにあった。そしてそれは、既に述べたように西本願寺自身が認めて反省していることである。鹿児島の民衆に篤く墓参りをするよう指導したのは、ほかでもない西本願寺ではなかったか。鹿児島でこれほど墓参りなどの祖霊祭祀が盛んであるのは、この頃の真宗の教化以外に説明がつかない。

ちなみに、墓参りが盛んな理由を「元々鹿児島の人は祖先を敬う気持ちが強いから」などと説明されることもあるがこれは大きな間違いである。「伊勢講」とか「庚申講」といった、近世以前の民衆の宗教活動の中心である各種の「」を見ても、祖霊祭祀の要素はほとんど見当たらないことからもそれは明らかであり、控えめに言っても、かつて鹿児島で祖霊祭祀が盛んだったという証拠はない。

ただ、元々の教義に希薄な要素を新たに導入するのは別に悪いことではない。仏教では、元来「方便」という考え方があり、これは「真理に近づくための方法は様々でよい」というような意味を含む。結果的に鹿児島の人たちを救うのに役立ったのであれば、葬式仏教で何の悪いことがあろうか。

それに、元来の教えに則ったものこそ正しく、後に付け加えられたものは間違いである、という立場に立つと、浄土真宗自体を否定することになる。歴史的人物としての釈尊は阿弥陀仏の教えを説いていないわけで、その立場だと信じられるものは初期仏典のごく一部に限られる。そういう態度を否定はしないが、宗教というのは、土着の信仰や習俗と習合して内容が豊かになっていくものだから、たとえ祖霊祭祀が国家に勧奨されて導入されたものだったとしても、ただちに価値が低いということにはならない。

だが一方で、このために鹿児島の真宗信仰に、本来の親鸞の教えとは少し違う部分がもたらされたことも事実である。他県に出てみると分かるが、鹿児島の真宗文化は他地域のそれと少し変わっている。そしてその差異の淵源が、明治時代にあることはほとんど知られていない。鹿児島の西本願寺も、それを広く説明したことはないようだ。明治維新から150年以上経っているので、そろそろ自らの姿を正しく見つめる機会を持つべきではないだろうか。

【補足】2/3アップデート
最後から2番目の段落を追加した。

【参考資料】
『本願寺鹿児島開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会 代表 槇藤 明哲

2014年1月22日水曜日

「隠れ念仏」の徒の失望——鹿児島本願寺派小史(3)

西南戦争は薩軍の敗北で終結した。

そして、西本願寺の鹿児島開教事業が本格的に始まることになる。だが、連枝(明如の実弟)日野澤依を宗主代理として派遣するなど、西本願寺は大変力を入れて開教事業に邁進したものの、ことはそう順調には進まなかった。「隠れ念仏」の盛んだった鹿児島だったから、真宗は歓迎されたのでは、と思っていたが調べてみるとそうでもないらしい

話が急に変わるようだが、カヤカベ教というのをご存じだろうか? カヤカベ教は、隠れ念仏から派生した秘密宗教の一派で、霧島あたりに信者が多かった。このカヤカベ教は、なんと明治9年の信教自由の布達後も約100年間にわたってその秘密を守り通し、独自の信仰を貫いたのである。どうして彼らがその信仰を秘密にしていたのかというと、隠れ念仏時代からの「決して外部のものに信仰を明かしてはいけない」という教義があったからだ。もちろん、これは念仏が厳しく禁じられた藩政時代の政策に対応するものだったが、この教義を昭和に至るまで守っていたのである。カヤカベ教は、浄土真宗の教えから生まれたものだったが、神道と集合した上、独自のタブーを設けるなど元の教えからは大分異なったものになっていた。

このように、隠れ念仏のような秘密の信仰というものは、(悪い言葉で言えば)カルト化しやすく、また主流派の教義から離れていきがちになる。宗教の教義は全てが絶対不変ではなく、時代によって考え方が移ろいゆくものである。宗派における人心の統一を図ることは現代でも難しい。ましてや、薩摩藩のように真宗が禁じられている中で、旅の真宗僧侶が断片的に伝えた教えを、住民が口伝えによって信仰する場合には、その内容が正しく継承されていかないのはやむを得ぬことである。

さらには、禁教下であるから、鹿児島に入ってきた念仏の教えは主流派のものでないことが多かったらしい。もし見つかれば厳しい罰を受けるわけで、危険を冒して主流派が組織的布教活動を行おうとしないのは当然だ。具体的には、鹿児島には西本願寺の中でも異端とされる「三業派(さんごうは)」という教えが多く入っていたと言われる。三業派の詳しい説明は省くが、おそらく西本願寺により異端認定された後で、居場所をなくした三業派の僧侶がフロンティアを求めて鹿児島に入ってきたのではと思う。

そういうわけだから、鹿児島に密やかに生きていた念仏の徒たちの信仰内容は、主流派の教えとは違ったものであることが多かったようである。明治に至って鹿児島入りした開教史(西本願寺から布教のために派遣されてきた僧侶)は、そうした「間違った信仰」を目の当たりにし、「そうではない、正しくはこうである」と住民たちを指導したことであろう。

藩の役人の目を避けながら命を賭けて「隠れ念仏」を行い守ってきた教えが、こうして開教史たちに否定され、「正しい」教えに始めて接した住民たちの思いは察するに余りある。にわかには、その教えを素直に受け入れることが出来なかっただろう。自分たちが命を賭けて守ってきた教えが間違っていたとなれば、これまでの苦労はなんだったのか、ということになる。

それに、「隠れ念仏」というのは、辛い現実生活から救ってくれる救世主として阿弥陀仏を拝み、(禁教とされていたわけだから当然だが)反国家的な力があるものと思われていた。それが今度は、「王法為本(真宗の教義は王法=政府の秩序や法令を根本とする)」とか、「真俗二諦」とかいって、国家への忠誠を求める政府的宗教として真宗が入ってきたのである。隠れ念仏の徒が、現実世界の秩序を超えさせてくれると期待した「ほんとうの念仏」は、その思いとは裏腹に現実世界の惨めな秩序を肯定するものだった。「こんなものは本当の念仏ではない!」と彼らが失望したのは当然である。

しかも、当時の西本願寺では、そうした「間違った念仏の教え」が住民を惑わせているとして、それまで鹿児島で秘密裏に活動していた念仏者を「曖昧僧(=僧であるかどうかよくわからない者)」と呼んで取り締まりをしているくらいなのである。こうした西本願寺の姿勢に、「隠れ念仏」の徒は反発したであろう。

昭和も終わり近くになって、西本願寺は命を賭けて念仏を守っていた人たちを否定していたことを反省するが、明治の当時は政府に対して「曖昧僧などが住民を惑わしているので、真俗二諦を掲げる正しい真宗の教えを広めることは大変有益である」というような趣旨を掲げて、「曖昧僧」の存在を布教活動の正当化のダシに使うくらいであった。

こういうわけで、本来ならば西本願寺にとって応援者となるべき隠れ念仏の徒は、むしろ布教にあたっての障害となっていたようである。もちろん、隠れ念仏の徒が全て西本願寺に反発したのではなく、中にはこれを歓迎した人たちもいたに違いない。しかし西本願寺自身が、地域に細々と息づいていた念仏者に(少なくとも最初は)冷淡だったことは間違いなく、隠れ念仏の徒が大きな応援団ではなかったことは確かである。

そういう事情を抜きにしても、布教の事業を進めるにあたっての困難は大きかった。最も大きかったのは言葉の問題で、鹿児島弁と(西本願寺があった)京都弁の差は絶望的なまでに大きかった。例えば、開教史の一人、鎌数謙譲は「言葉は、十中の八・九は通じない」と記し、さらに続けて
泊まった民家は汚くて臭く、蝿等も多く、ほとんど、健康を害しそうである。寝る時は、垢のついた布団一枚、下は茣蓙一枚である。人々の様子は、髪は束ね髪、着ているものも、粗くて粗悪、全員裸足にて手足は猿の如く、野卑醜悪にて全体に猿の如き様子である。食事は三度三度、唐芋、たまに、粟の飯がまじるくらいである。
と述懐している。当時の惨めな生活を活写する貴重な証言なのであるが、住民を猿扱いする様子には、アフリカやカリブ海の島々で「未開」な人間を教化しようとしたキリスト教宣教師たちの姿と重なるものがあるではないか。ちなみに、当時庶民には布団が普及しておらず、茣蓙や板間の上に直に寝て掛け布団はないのが普通だったらしい(※)から、鎌数が辟易した「垢のついた布団一枚」というのも、住民からのなけなしのもてなしだった可能性が大きい。

このように、西本願寺による鹿児島での布教活動は未開で野蛮な人々を王法(政府の秩序、法令)によって教化するという、まさしく明治政府が期待したものであったが、こうした姿勢で鹿児島へ入ってきた開教史たちを、民衆が歓迎したかどうかは疑問だ。

信教自由直後の明治9年10月12日、いづろ通りにあった民家で鹿児島での最初の説教が行われた際、本願寺側の記録では「群参する人々の波は絶えず、いづろ通りは全くの交通止め状態であったという」とされるけれども、これも真宗を待ち望んだ人々による歓迎というより、せいぜい物珍しさに集まった人々の群れに過ぎなかったのではないか。人々を現実の辛い生活から救うはずだった念仏が、国家の道具となっていた有様に失望した人が多かったのではないか

後世の我々が、西本願寺のこのような姿勢を批判するのはたやすいことである。神道が国家の根本に据えられ、仏教には大変辛い時代であった明治時代においては、仏教教団が生き延びるために国家に迎合したのも仕方のないことだっただろう。実際、西本願寺が明治政府の体制内部から信教自由等に尽力しなければ、太平洋戦争にまで至る「国家神道」はもっと醜悪なものになっていた可能性すらある。私は、個人的にはこの頃の真宗の驚異的な生命力は歴史的評価に値すると思っている。

また、こうした姿勢は後に西本願寺派自身によっても自己批判され、「真俗二諦」は誤った教義であったと修正されてもいる。だがそういったことは、当時の隠れ念仏の徒には関係のないことだ。彼らの失望は想像するに余りある。真宗禁教300年を経てようやく鹿児島へ入ってきた「ほんとうの念仏」は、少なくとも「隠れ念仏」の徒にとっては全く期待はずれのものだったのである。

※ 布団はなくとも藁を被っていたという話もある。藁を被る方が衛生的で暖かかったとも言われているが、実態はよくわからない。

【参考文献】
『本願寺鹿児島開教百年史』1987年、開教百年史編纂委員会(代表 槇藤 明哲)

2014年1月18日土曜日

西南戦争と真宗布教——鹿児島本願寺派小史(2)

前回の記事で書いたように、鹿児島で西南戦争前夜に真宗が広められたのには政治的目的があった。鹿児島での信教自由を後押しした田中直哉にも、彼自身が真宗門徒であったということ以上に、真宗を政治利用しようとする思惑があった。

この頃の鹿児島というものは、新政府の言うことは聞かず、地租改正もせず(つまり税金を新政府に納めていなかった)、新政府の政策には不満を抱き、西郷隆盛が率いる「私学校」が鬱勃とした士族を多数抱えていた。一方で一般の民衆は、長い奴隷的支配の気分から抜け出すことができず、権利や義務といった現代的社会生活の枠組みを知らずにいた。乱暴に言えば、鹿児島は「士族による軍事独裁政権」の時代で、民衆は藩政時代と少しも変わらない、蒙昧な状態に置かれていたのであった。


例えば、他県では多くが民会(今で言う県議会)を設置していたが、鹿児島においては、県はもちろん市町村のあらゆるレベルでも民主的な議会が存在していなかった。民権家であった田中直哉がこうした状況を憂慮したのは当然だ。彼は新聞記者として政治の自由化を求め、その廉で投獄されたこともあった人物だ。ちょうどこの頃中央から鹿児島に帰郷し、鹿児島の民主化を図ろうと県令大山綱良に民会設置の働きかけをしたが、民度の低い鹿児島では時期尚早であるとして受け入れられない。

そこで田中は真宗による民衆の教化を発案するのである。宗教によって「智識を啓き権利義務の在る所を知らしめ」ようとし、また布教活動を通じて「軍事独裁政権」の中心であった私学校の内実を探ろうと、信教自由へ向けた建白書を大山県令に提出するのである。田中のこうした提言が、新政府からの人心の乖離や私学校の暴発を心配する大久保、そして鹿児島での布教を進めたい真宗にとって不都合な筈もなく、西本願寺は田中からの要請を受けて鹿児島に僧侶を派遣するのである。

しかし、元来が政治的使命を帯びた布教活動であるから、私学校からは疑いの目を向けられた。そうでなくても、鹿児島には約300年の真宗迫害の歴史があり、士族は真宗僧侶を軽蔑していた。田中の提言とは別に、信教自由の布達を受けて鹿児島の真宗門徒が西本願寺へ僧侶の派遣を要請したこともあり、西本願寺は数名の僧侶たちを「開教史」に任命して鹿児島へ送っていたが、なかなか布教活動は進まない。というのも、士族たちの反発が根強く、各地で説教の許可がなかなか下りず、また邪険な扱いを受けていたのである。

そんな中、田中は同行の中原尚雄らと共に私学校党に逮捕されてしまう。西郷隆盛の暗殺を企てたとの容疑であった。拷問の末に彼らは「自白」させられてしまい、私学校に挙兵する口実を与え、ここに西南戦争が勃発するのである。信教自由の布達から約半年後の明治10年2月のことであった。

こうなると、田中が糸を引いて鹿児島へ送られてきたと見られていた真宗僧たちもスパイではないかと疑われたのは無理からぬことである。事実、田中は士族たちの暴発を食い止めようと、布教活動の中で私学校の内実を探ろうともしていたわけで、全くの言いがかりでもなかった。そういうわけで、真宗僧侶は西郷暗殺の一味と同一視され次々と捕縛されていった。その端緒となったのが、本願寺から派遣された大洲鉄然(おおず・てつねん)の逮捕である。

後に赤松連城、島地黙雷と共に「本願寺の三傑」の一人とされる大洲鉄然を派遣するあたり、西本願寺の鹿児島布教への本気度が感じられるのであるが、大洲がスパイと目されたのも理由のないことではなかった。この頃の西本願寺は長州閥との関係が深く、特に大洲は長州(周防)出身で木戸孝允と懇意にしていた。私学校の暴徒たちから、大洲は大久保や木戸の密命を受けて鹿児島にやってきたと見なされたのである。大洲が戊辰戦争の頃には僧兵を率いて活躍した武闘派だったという来歴も影響していたのかもしれない。

そういうわけであるから、政治的目的を帯びた鹿児島布教の活動は、西本願寺にとっては踏んだり蹴ったりな始まりであった。彼らは被害者であるだけでなく、行きがかり上ではあるにしろ、西南戦争勃発の間接的な原因を作ってしまった部分すらある。政治に利用されるだけでなく、政治を利用しようとした西本願寺のしたたかな姿勢は、ここでは裏目に出てしまったのだった。

だが、当時の西本願寺を政治とベッタリな阿諛追従の徒であると見るのは間違いだ。例えば大洲と同郷で西本願寺の改革を担った島地黙雷(しまじ・もくらい)は、神道国教化の宗教政策を厳しく批判し、政教分離をなさしめた立役者である。西本願寺は、政府に多額の献金をし、真俗二諦の名の下に民衆の教化に邁進したが、一方では政府の行き過ぎた神道優遇には釘を刺し、信教自由化を訴えたのであった。また、廃仏毀釈という愚行が全国に広がる前に食い止められたのも、西本願寺の政府への粘り強い働きかけがあったからこそとも言える。

そもそも廃仏毀釈は明治政府の政策ではなく、政府の神道国教化に迎合したいくつかの藩で起こった暴動のような現象であるが、これに最も抵抗したのが真宗の各寺であった。他の宗派が時の権力に迎合して大した抵抗もせずに廃寺を行い、次々と寺がなくなっていく中、強靱な信仰と団結によりただの一寺も潰さない覚悟で耐え抜いたのはただ真宗の僧侶たちのみであった。また、やむを得ず廃寺になった場合も、廃仏政策が終熄した後に速やかに再興する場合が多かった。真宗の徒は表向きには権力に従順にしつつも、実際には信仰を守り抜き、国家を出し抜いたのである。

数多くの宗派の中で、真宗のみがそうしたしなやかな対応ができたのは、長州閥との親しい関係や膨大な献金を可能とした資金力、そして天下に輝く法主の威光があった。明治政府は実質的にクーデターで成立した政権であったため、その存立基盤にあやふやなところがあった。王政復古を旗印にしてはいたが、その当時は天皇というものは一般には馴染みない存在で、偉いのか偉くないのかもよくわからないような状態だった。鎌倉幕府以来、約900年間、国のリーダーが「将軍」であったので、「天皇」は必ずしも人心を収攬する象徴となりえなかったのである。そんな中、天皇の行幸に当時「現人神」とされた本願寺の法主が恭しく同行する様子は、人々に天皇の権威をすり込ませるに十分だっただろう。

こうしたことから、明治初年の神仏分離、そして廃仏希釈、また明治4年に実施された寺領上知(寺の領地を国家に返上させる政策)など、仏教に不利な政策が矢継ぎ早に打ち出される中で、真宗はそれらからの被害をほとんど受けなかった唯一の宗派であった。そのため、明治中期以降、まずは復興に取り組まねばならなかった他宗派をよそに、真宗は鹿児島や北海道、そして続いては台湾、満州へと、積極的な布教活動を展開することができたのである。

鹿児島への布教も、決して政治的な打算のみでない、強靱な意志を持って進められた事業であった。大洲鉄然、そして開教史の僧侶が次々と捕縛されスパイの汚名を着せられようとも、西本願寺の姿勢はいささかも揺るがなかった。開教の拠点となるはずだった一宇が、設立から僅か1ヶ月で戦火により灰燼に帰しても、鹿児島へ真宗の灯を点さんとする熱意は変わらなかったのである。

【参考文献】
近代日本の戦争と宗教』2010年、小川原 正道
神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫

2014年1月16日木曜日

私のかぼちゃの応援者

撮影:高品様
ひょんなことから知遇を得て、東京の築地で料理教室をしている方に私のかぼちゃを知って頂いた。

南薩の田舎暮らし」で1個1200円で売っているかぼちゃのことである。

その方は野菜ソムリエの高品 和代さんといい、1回3人までという少数精鋭の料理教室「ベジフルクッキングサポート築地」を主宰されている。この方が大変に親切で、私のかぼちゃを気に入っていただいたということで感想を送ってくれたり、アドバイスをくれたりと目をかけてくださっている。

そういうことで「ブログで紹介してもよろしいですか」と伺ったところ、次のようなコメントもわざわざ送ってくれたのである(!)。世の中には親切な人がいるものだ。
かぼちゃが届いて最初、少し茹でて食べてみた時は「んー、こんなものかな」と普通に美味しかったのですが、生産者さんおすすめの食べ方で、少し長めに蒸したらびっくり! 甘さもぐんと増して、とろけるような食感。普段食べていたホクホクかぼちゃにありがちな重たさ(喉につまる感じ)も無く、大きめサイズなのにあっという間にペロリと食べてしまいました。その他、ブイヨンでじっくり煮てポタージュも作りましたが、まろやかにできて美味しかったです。私は野菜ソムリエとして料理教室を開いていますが、生徒さんからも「今まで食べてたかぼちゃと違う!」と言われました。またリピ買いしたいと思います。
ちなみに、ここで書いて頂いている「生産者さんおすすめの食べ方」というのは、「かぼちゃを切ってクッキングシートにくるみ、オーブンで40分ほど蒸し焼きにする」というものである。ちなみに、これにホイップした生クリームを添えると、それだけでスイーツ的なものになる。かぼちゃを蒸し焼きにしただけのものがスイーツになるわけがない、と感じるだろうが、なんだかんだでシンプルに料理するのが一番美味しいと思し、甘みも十分だ。

それから、スーパーで買うかぼちゃの99%はカットもののため、切ることに抵抗(苦手意識)がある、という指摘もいただいたが、私には全くそういう認識はなかったので勉強になった。確かに、よく熟したかぼちゃはとても堅く、これを包丁で真っ二つにするのは男性でも力のいる作業である。

その他、ナルホドと感じさせられる指摘をいくつか受けたので、できるところから徐々に改善していきたいと思っている。かぼちゃというのはネット通販で扱うには相当に不利な商材で、
  • かさばるので輸送費が高く付く。
  • 嗜好品ではないので、わざわざ取り寄せることがない。
  • 2kgの大玉が送られてきても1回では食べきらないし、冷蔵庫の場所をとる。
などネットには不向きな多い。だが、だからこそ敢えてネット通販で販売していくには特徴的な商品であるし、大手がやっていないニッチな商材でもある。肥えた舌を持つ高品さんから認められ少し自信もついたので暫くこの扱いづらい商材にこだわっていきたいと思う。

2014年1月14日火曜日

なぜ鹿児島では浄土真宗が多いのか——鹿児島本願寺派小史(1)

鹿児島には、浄土真宗の家がとても多いように思う。ちゃんとした統計がないので県内全域のことは分からないが、少なくとも私の行動範囲で考えると、8割以上が浄土真宗、それも西本願寺系であるように見える。

どうして、鹿児島には浄土真宗がこうも広まっているのだろうか? 真宗興隆の長い歴史を持つ北陸などと違い、鹿児島では戦国時代からの300年もの間真宗は禁教とされてきた。にも関わらず、どうして鹿児島では真宗が支配的な宗派となっているのだろうか?

私は漠然と、むしろ真宗が長い間禁じられていたからこそ、信教自由の時代になって爆発的に広まったのではと思っていた。禁じられているものは、禁じられているがゆえに一層有り難く、また力のあるものだと受け取られていただろうし、実際に鹿児島には「隠れ念仏」という史跡が多数残っており、これは役人の目を憚って念仏を行うための秘密の施設だったのである。こうして藩政時代にあっても秘密裏に真宗に帰依する人々が多かったから、その弾圧が解かれた時、真宗は一挙に広まったのではないのか。

しかし、鹿児島における真宗の歴史を調べてみると、ことはそう単純ではないことが分かってきた。むしろ非常に複雑な事情が絡んでいて、とても簡潔には説明することができないような、歴史の悪戯の結果ですらある。

というわけで、鹿児島における真宗開教の歴史を繙き、なぜ鹿児島には真宗、特に西本願寺派(※1)の家が多いのかという疑問を解いてみたい。

さて、鹿児島県民には周知のことだが、先述の通り鹿児島では藩政時代を通じて真宗(一向宗)は厳しく禁じられていた。なぜ一向宗が禁じられていたのかその理由は明らかになっていないが、主には念仏のネットワークで百姓が団結し一揆に発展するのを恐れたからということと、門徒が本願寺へ金品を上納するのを嫌ったからとされている。ともかく政治的な理由で真宗は禁じられていたのだった。

幕末になると復古神道の盛り上がりで真宗のみならず仏教全般に対する敵意が高まり、鹿児島では全国的に見ても苛烈な廃仏毀釈が行われた。驚くべきことに、千寺以上あった仏教寺院は全て廃寺とされ、僧侶も一人残らず還俗(げんぞく:僧侶でなくなること)させられたのである。明治2年のことであった。

ところが、明治9年に突如として鹿児島にも信教自由が布達されることになる。解禁の直接の原因となったのは宮崎県との合併だ。既に信教自由となっていた宮崎県と合併するにあたり、県内での整合性をとったためであった。というより、既に全国的にはキリスト教も含め信教自由の時代になっていた。だが鹿児島では長きにわたって禁教下にあったため、信教自由については慎重論も多かったのである。そんな状況の中で、自由化を後押ししたといわれるのが、鹿児島出身で真宗門徒であった田中直哉という人だ。

この人は新聞記者で「民権家」、今で言う民主的政治を求めるジャーナリストで、文筆を背景に時の県令(今で言う県知事)大山綱良や中央の当局者に「王政維新になって居るに本県のみが信教自由の恩恵に浴せぬと云うは、非文明である」と合併前に訴えていたのである。

とはいっても、もちろん個人の力だけで信教自由となったわけではない。中でも、大久保利通や西郷隆盛が宗教に関して進歩派で、信教自由を推し進める立場にあったことには注目しなくてはならない。いや、信教自由という一般論を超えて、彼らは真宗西本願寺派に対してとても親和的な態度を取っており、大久保に至っては明治9年の信教自由の布達の際、西本願寺派の法主明如(大谷光尊)に鹿児島での開教を要請しているほどである。

なぜ大久保は、鹿児島で真宗を広めるよう要請したのだろうか? 実はこの時代、真宗、特に西本願寺派は明治政府と深い関係にあり、大久保の要請は個人の信条などではなく、政治的な目的に基づくものであった。

それを理解するには、少し時間を遡り、明治維新の時からの東西の本願寺の動きを見てみる必要がある。幕末、東本願寺は徳川家と親密な関係にあったために佐幕的であり、西本願寺は逆に勤王・倒幕的であった。西本願寺は倒幕運動に協力し、僧兵の出兵、朝廷への献金を行ったのである。倒幕勢力にとって西本願寺は重要なパートナーとなり、特にその献金は彼らの重要な資金源となっていた。

やがて王政復古の大号令で勝敗が明らかとなり、かつて佐幕的であった東本願寺は、逆に新政府に対して積極的に献金を行うようになる。これは東本願寺にとって、反政府的であると見なされないための必死の生き残り策であったようだ。当初より新政府側についていた西本願寺はこの点を気にする必要はなかったが、おそらく東本願寺に対する優位性を確保したいという思惑と、新政府との関係をより強くするために、戊辰戦争においては東西本願寺の双方が僧兵の出兵や献金を盛んに行った。未だ基盤が弱かった新政府にとって、東西本願寺の持つ資金力、組織力、そして全国に広がるネットワークといったものは大きな助けになったことであろう。

こうして東西の本願寺が新政府との関係を強くしたいと願ったのは、新政府が仏教勢力にとって非常に不都合な原理を構築しつつあったからでもある。すなわち新政府は、遙かな過去に行われていたはずの、神の子孫である天皇による治世を再現しようとしていた。つまり王政復古こそが明治政府の依って立つレジティマシー(正統性)であったわけで、指導原理は当然ながら神道であり、仏教はよく言っても夾雑物扱いされざるを得ない。

実際に、明治に至ると神道は国教化され、本来分かちがたく混淆していた神道と仏教は分離させられた。これに伴って各地で廃仏の運動が起こったのである。明治5年には仏教に著しく不利な政策は改められたが、神道の国家的色彩はより強くなっていき、太平洋戦争まで突き進む近代日本の神権政治が加速していく。

仏教勢力がこうした状況に危機感を覚えたのは当然だ。特に西本願寺はこの状況に機敏に対応し、早くも明治元年には「真俗二諦(にたい)」を教義に規定している。これは、真の世界=仏の世界の真理である念仏による往生と、現実世界の真理=敬神と報国は車の両輪である、とする考え方である。本来、仏教的には天皇=神へ従うことを教義的に位置づけることはできないはずで、特に真宗においては阿弥陀仏への帰依が絶対唯一の信仰であるから「絶対的な神としての天皇」は相容れない存在だ。

しかし現実に、そうした方針の下で宗教界が大胆に再編されていく中、天皇の権威を認めなければ仏教の存在自体が危うくなる。そのため、西本願寺は真俗二諦を旗印に政権への協力姿勢を鮮明にし、積極的な献金、戦争協力、そして民衆の教化に邁進したのである。他の仏教教団も多かれ少なかれ政権の進める国家神道と妥協しなくてはならなかったが、とりわけ西本願寺が積極的に政権を支えたのは、機を見るに敏なリーダー法主広如の存在によるのであろう。

そういうわけであったから、西本願寺は政権に迎合し、その支配権の確立のため、民衆に「神を敬し、国を愛し、倫理を守り、法令に遵」うことを仏法の名の下に指導したのであった(※2)。当時の多くの人にとって、明治政府の急進的な政策はなじみのないものばかりで、特に敬神という信仰上の問題は容易に受け入れがたいものであったろうから、それに全国的ネットワークを持つ西本願寺が協力したことの意義は大きい。

事実、鹿児島は明治維新後も新政府の方針に従わない「独立国」の様相を呈し、政府の法令が及んでいなかった。特に明治6年に西郷が大久保と決裂して帰郷してからは新政府への失望と敵愾心が士族層に広がり、反政府的な雰囲気が横溢していたのである。鹿児島の反政府的な動きを憂慮した大久保が、西本願寺による民衆の馴化と慰撫を期待したのは当然であろう。鹿児島における信教自由の布達は、こうした状況の中で行われたものだった。西南戦争が起こる半年前のことである。

こうして、かつて反体制的なものとして禁じられた真宗が、今度は体制側となって鹿児島に入ってきたのである。禁じられたのも政治的理由なら、導入されたのも政治的理由だった。鹿児島にとっての真宗との出会いというのは、大変不幸なものだったのである。

※1 「西本願寺派」と書いたが現代の正式な用語は「本願寺派」である。ちなみに「東本願寺派」は「大谷派」。だが西と東の方が分かりやすいので便宜的にこう書くことにした。

※2 鹿児島に派遣された執事大洲鉄然の出張趣意書(明治9年12月)より(原文カナ、句点無し)。

【参考文献】
近代日本の戦争と宗教』2010年、小川原 正道

2014年1月10日金曜日

Google Formを使って気軽に記帳

今年(2014年)1月から、全ての白色申告の人にも簿記の記帳(日々の出納記録)が義務づけられているのはご存じだろうか?

新聞等で報道されているのかもしれないが、なにせ新聞をあまり真面目に読んでいないのでわからない。ただ、零細な事業(所得300万円以下)を営んでいる人以外には関係のない話なので、一般的に広まっていなくても何の問題もない。

だが、農家というのは大体が零細なものなので、けっこうこれは大きなニュースだと思う。これまでは零細農家には免除されていた記帳及びその保存が義務になるわけで、対応に苦慮しているところも多いのではなかろうか。

実は私もこれまで記帳を真面目にやっていなかった。やろうという気持ちはあったが、ずぼらな性格が災いしてちゃんとした帳簿の形になっていなかったのである。だが、税務署や会計士にチェックを受けるワケではないがこうして義務化されたことであるし、今年は帳簿をきちんとつけたいと思う。

とはいっても、わざわざPCに向かって日々の出納を打ち込むのも面倒であるし、どうしようかなあと思っていたところ、Googleフォームを使えば携帯から簡単に記帳ができることに気づいた。一応知らない人のために説明すると、Googleフォームというのは、Googleのサービスの一つで、アンケートの集計などをクラウド上にあるスプレッドシート(エクセルファイルと思っていただいてかまいません)で行えるものである。もちろん無料で、使い方は極めて簡単。画像のフォームを作るのにせいぜい15分もあれば十分だ。

で、このGoogleフォームで自分の簿記の項目(費目)を設定しておけばリスト形式で選べて記帳が簡易であるし、何より携帯端末から(※)送信できるので気軽にできる。一般的な簿記の形式で記帳するにはGoogle AppScriptというプログラム言語でカスタマイズする必要があるのだが、記帳の形式は特に定まっているわけではなく、日々の出納が明解にわかればそれでよいのだから、私の場合はこれで十分だ。

ただ、Googleの場合入力した情報がどこでどう使われるか分からない、というのが気になる人もいるだろう。それは懸案ではあるものの、白色申告の低所得者の出納記録をGoogleが分析するとも思えないので、私にとっては問題ない。

本来は、簿記には専門のアプリケーションを使った方がより効率的にできるのだろうが、割合に価格が高いために零細な商売には負担である。来年か再来年にはそういったアプリケーションを導入し、青色申告に移行していくことにして、とりあえず今年はこれで行ってみようと思う。なお、「自分もこのやり方でやってみたい」という人は、「Googleフォーム 家計簿」で検索すると(簿記とはちょっと違うが)家計簿フォームの作り方がいくつか出てくるので、それを応用すると作れるはずである。

※古いガラケーからはできないらしい。 確かめていないが。

2014年1月8日水曜日

無農薬・無化学肥料のポンカン栽培1年目は大失敗

一昨年、先輩農家Sさんから引き継いで管理し始めたポンカン園が、今年の収穫期を迎えた。

ちょうど1年前のブログ記事で、「次年度は有機栽培にトライしたい」としていた園であり、実際に昨年1年間有機的管理を行った。つまり、無農薬・無化学肥料でやってみたわけだ。

結果は、ある程度覚悟はしていたとはいえ、思った以上に惨憺たるものでガックリきているところである。なにしろ、果実の多くがサビダニの被害を受けてしまい収穫量が計画の1/5程度しかない上、年末からの落果がひどい。さらには、残りの見た目のよい果実も、さほど味が乗っていない。

よく有機農家の成功物語で「最初の頃は全部ダメになった」みたいな苦労自慢があるが、まさにそれを地で行ってしまった。農薬や化学肥料を使って農協の基準通り作るのであれば、自分の栽培技術が未熟であってもある程度のものは出来る。だが、有機栽培ではそうした基準を逸脱して作るわけだから、自分の技術の程度が露骨に出てしまう。この惨憺たる結果は、今の私の栽培技術の未熟さの現れだと謙虚に受け止めるしかない。

ではどうしてこのような結果になってしまったのか、ということだが、主因としては(1)夏の剪定が不十分だった、(2)施肥が過剰だった、ということの2点が考えられる。剪定が不十分でサビダニが発生し、施肥が過剰なために味が乗らなかったのだろう。

(1)については、剪定不足で風通しが悪いとサビダニが大量発生すると言われていたが、今回それを実感した次第である。このサビダニというものの被害を受けると、果実の見た目が悪いだけでなく中身の味まで悪くなってしまい、商品価値が0になる。特に去年は夏の天候がよすぎてサビダニの生育に好適となり、普通に農薬を掛けているところでもかなり発生している園が多かったようだ。

ところで近年ここらではサビダニの被害がひどくなってきているという。以前はさほどサビダニを気にする必要もなかったそうだが、この5年10年で随分被害が大きくなってきたと聞いた。調べてみると近年被害をもたらしているのはリュウキュウミカンサビダニというこれまでいなかった害虫であり、こいつらが強力らしい。日本では1991年になって沖縄で発見され(世界的には1978年にエジプトで見つかったのが最初)、鹿児島では1993年に見つかった害虫ということで、現在その拡散が懸念されている。

有機農業であってもサビダニに使える農薬はあるが、結局農薬というのは圃場生態系を不自然に攪乱するものなので、自分としては農薬は使わずにサビダニを抑制したいと思っている。周りの圃場に迷惑がかかってしまうとよくないが、近くで有機カンキツを作っている農家は農薬ゼロでこのサビダニを抑えているので、私にもできる筈である。

(2)については、化学肥料の場合はチッソ、リンサン、カリの含有量が表示されているので施肥計算ができるが、有機肥料の場合は大体の計算しかできないし、そもそも肥料成分の含有量が化学肥料に比べて少ないということで多めにやってしまったのが原因だ。

だが実際には、有機肥料だから多めにやらなくてはならない、ということは全くなさそうだ。というか、有機肥料というものは、肥料分を植物に供給するというよりも、土壌を豊かにするために与えるものだから、肥料成分の絶対量よりもそのバランスが重要であり、大量に与える必要はないのである。むしろ、肥料成分は若干足りないくらいの方が植物も強壮になるので、「足りなそうなら与える」くらいの心の余裕を持って施肥すべきだった。土壌改良は時間がかかるものなので、1度2度の施肥で目に見える成果を期待する方が間違いである。

というわけで、まだまだ有機農業はよく分からない部分もあるが、1年間取り組んでみてとても勉強になり、ポンカン栽培の要諦がだんだん見えてきた気もする。結果は惨憺たるものであったが、課題も明確になり、次年度へ繋がるものであった。

だが収穫量が劇的に少なかったことで、収入が打撃を受けただけでなく、昨年のお客さんで「来年も買うよ!」と言ってくれたところに応えられないのが辛いところである。正直、「南薩の田舎暮らし」で販売する量がないかもしれない(予約していた知り合いに売るだけで終わるかも…)。期待していた皆様、大変申し訳ありません。

2014年1月7日火曜日

たゆカフェの「ゆったり市場」に出店します

昨年10月、サンセットブリッジの麓、万之瀬川の河口を望む場所に「たゆカフェ」というカフェがオープンした。これは、加世田にあるNPO法人「加世田じゃがいもの会」がコミュニティー・スペース的なものを目指して設置したものという。

今度、このカフェの新しい取組として、有機農産物等を販売する「ゆったり市場」なるマルシェが始まることとなり、縁あって「南薩の田舎暮らし」も現在ちょびちょびと販売している「かぼちゃの生ジャム」を引っさげて出店させていただくことになった。

これを主宰しておられる方にとっても初めての経験ということで、どういう調子になるのか未知数だが、現在予定されている内容は以下の通り。
  • マルシェ:有機無農薬野菜・柑橘、ジャム、手づくりのパン、ハンドメイドアクセサリー
  • 小さなプレゼントあり☆さわって当てて! この野菜なーんだゲーム(対象:子供)
  • ふるまいぜんざい(なくなり次第終了)
  • お野菜の試食コーナー
  • たゆカフェランチ各500円
  • (通常のカフェメニューもあり 10:00〜17:00)
ところで、当日は第42回鹿児島県職域駅伝競走大会(加世田地区)があって、ちょうどサンセットブリッジが駅伝コースになっている。強風が吹き荒れるサンセットブリッジであるから、応援の前後には風を避けて是非「たゆカフェ」に寄っていただきたい。

【場所】南さつま市加世田高橋1934−108サンセットブリッジ下
  TEL: 0993-78-3239
 駐車場あり。

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2014年1月1日水曜日

3種のブルーベリーを植えました

昨年のことであるが、ブルーベリーの苗を50本ばかり定植した。

品種は、ブルーリッジ、ジョージアジェム、サミットという3種類。といっても私自身、これらの品種がどういう特性なのかは十分に理解しておらず、食べたこともない。

ともかくブルーベリーというのは品種の数が膨大であり、収穫時期、味、樹形、樹勢、そして栽培適地の違いによって、千差万別な、そしてある意味では大同小異の品種が生み出されている。正直、訳が分からないくらい品種が多い。その膨大な品種からどうしてこの3つを選定したのかというと、これらは暖地に適していることはもちろん、収穫時期が7月であるということが重要な点で、私の今の作付体系では割合に暇なはずの時期に収穫ができることを見込んだのである。

ところで以前もブルーベリーについては少し触れたが、この作物はジャム作りなどの農産加工と組み合わせることで生産性が高まる。私は比較的マイナーな果樹を中心に農業をやっていこうと思っているが、ブルーベリーというかなりメジャーな作物に取り組んだのは、もちろん「南薩の田舎暮らし」で加工所を開設したということがあるからだ。今時ブルーベリージャムなどというものはどこにでもあるが、だからこそ需要が安定しているとも言えるので、美味しいものができたら販売に期待が持てる。

だがそれと同じくらいに大きいのは、土壌から見てここにブルーベリーが最適ではないかと考えたためだ。ブルーベリーは酸性土壌を好み、根毛がないために水分不足に極端に弱い。ということは、日本の土壌はほとんど酸性土壌なわけだから問題は水で、常に湿り気があって、なおかつ他の園芸野菜等に適さない圃場があればブルーベリーを植える価値がある。今回植えた圃場は、狭く、行きづらいところにある上、日当たりも微妙というところがあるので野菜には使いづらいなあと思っていたところ、昨年の夏の日照りでもさほどカラカラになっていなかったので、ブルーベリーがイケるのではないかと踏んだのだ。

商業的にブルーベリーを作る場合は灌水施設を設けるのが無難、と言われているが、それはそれで投資が必要なので、天水に依存できるならそれに越したことはない。実際に灌水施設なしでブルーベリーを生産している人はたくさんいる。水が切れると割合すぐに枯れてしまう植物だから、来る夏に乾燥すれば怖じ気づいて灌水すると思われるが、そうなるかどうか、実験の1年である。