2021年8月11日水曜日

小学校のPTA会長になりました

実は今年度、小学校のPTA会長になってしまった。

もちろん、人望があって選ばれた…とかではない。うちの娘たちが通う大浦小学校は全校の児童が約50人しかいない。保護者の数は30組くらいだったと思う。

PTA会長は6年生保護者から選ばれるとは決まっていない…のだが慣例的に6年生保護者が多い。うちの娘も、はや小学6年生。というわけで、いわば「順番」で回ってきたというのが実態である。

小さな小学校の場合、PTA役員をやらされる(確率が高い)というので敬遠する人がいると聞くが、小さな小学校のPTAの場合、PTAの役員も結構ラクである。メンバーには気心が知れた人が多いし、メンバーが少ないから連絡の手間もあんまりない(まあ最近はLINEとかでの連絡が多いが)。

ところが、PTA会長になるとやたらと会議があってこれが大変なのに、なってから気づいた。しかもその会議が、「こんな会議いるの??」というのが多い。

先日は、「第1回 南さつま市校外生活指導連絡会」という会議に出た。この会議は何かというと、校外生活指導……いわゆる「補導」の共通化を図るためのものである。

なぜ「補導」の共通化が必要かというと、例えばある地域では「午後7時以降は子どもだけで外出してはいけない」といった決まりがあるとする。7時半にコンビニの駐車場でたむろしている中学生に対して「こら、こんな時間にダメじゃないか」と「補導」した際、その子どもたちが隣の学区から遊びに来ている子どもたちで、「うちの地域だと8時まではOKとなってるんですけど?」と反論される場合がある。…だから共通化が必要、ということらしい。

特に夏は、夏祭りなどで遅い外出が多くなるので、それに先だって今の時期にこういう会議が行われるとのこと。

しかしながら地域の実態を考えると、こういう会議は不要である。なぜなら、大浦のような南薩の過疎地域には、「補導」の主な舞台であるゲームセンター、ボーリング場、カラオケボックスなどない。それどころかコンビニもなければ夏祭りもない(←コロナ禍だからないのではなくて元からない)。いわゆる「不良」がたむろするような場所がない…というか、不良少年少女がいない。というか子ども自体がいない。「補導」なんかいらないのだ。

南さつま市全体で言っても、「補導」が必要に思えるのは加世田中心部のみで、それにしても鹿児島市内の事情とはずいぶん違う。

そもそも、少年少女の「非行」を防がなければならないとして、もはやそれの主戦場はSNSなどバーチャルな世界に移行している。もちろん「補導」が必要な地域は未だにあるだろうが、特に田舎の場合はバーチャルの比重が大きいのだから、 こういう会議は全く不要だと思う。

じゃあ、なんでこんな会議が行われているのか? もちろん前時代からの名残ではあるのかもしれない。でもそれにしても、大浦なんか昭和40年代から過疎化しているところなので、「補導」が必要だった時代があるのか疑わしい。

実はこの会議にはもっと実務的な背景がある。それは、学校の先生にとって「補導」は職務ではない、ということだ。公立学校の教職員に超過勤務を命じることができる4原則というのがある。それは、

・実習
・学校行事
・職員会議
・非常災害などに必要な業務

である。「補導」はこのどれにも当たらない。だから学校長は先生に対して「夏祭りがあるから○月○日、××先生は補導をお願いします」とか命じることができない。もちろん、個々の先生が善意で補導活動を行うことはできるがそれは職務に位置づけられないボランティア活動である。

しかし現実に「補導」が必要な場所がある。夜遅くにゲームセンターで遊んでいる子どもは、家庭や友だち関係になんらかの問題を抱えていることが多く、ある意味では「補導」はそうした子どもに適切な支援を繋げていく機会となっている。

そこで鹿児島県では(というか多くの都道府県で同じだと思うが)、「補導活動」に対する予算を組んで、「補導」を行う先生に謝金を払う仕組みを作った。校長から命じられる通常の職務ではなく、県からの委託事業として「補導」を位置づけたのである。

ところが県が個々の先生と委託契約をするのは面倒だしあまり意味もない。そこで、各地に「校外指導連絡連絡会」みたいなのを作って、そこに補助金として予算を流すことにした。そして個々の先生には「連絡会」の方から謝金が支出されるのである。この会は、そのために存在しているといっても過言ではない団体なのである!

そして、各学校のPTA会長が、「こんな会議いるのかな〜?」と思いながらもその会議に出ている、ということになる。

この会だけではなく、そういうのが昔ながらの会議には多い。いや、最近出来た会議にもそういうのが多い。

現実的な課題解決に繋がるものだったら、大抵の保護者は喜んで参加する。しかし形式ばかりで、中身のない会議をやるからPTA活動が面倒なものに思うのである。

しかも現実の課題解決には繋がらない、というかむしろ現実を見てもいないのに、こういう会議はやたら大仰で立派な大義名分を掲げている。なんだかその態度にしらけてしまう。

そんなわけで、PTA会長になってみて一番思ったのは、「無駄な会議多すぎ、現実見てなさ過ぎ」ということなのだ。

「校外生活指導連絡会」みたいな会議には正直あんまり出たくないが、不登校や学級崩壊やDV被害や困窮家庭問題など、具体的な問題を解決していくための活動なら、PTA会長として微力ながら尽力していく所存です。

2021年2月26日金曜日

もうひとつの世界

娘から「お父さんは本なら何でも買ってくれるよね」と言われる。

自慢じゃないが(って本当に自慢じゃないが)、うちは貧乏である。世帯年収が150万円くらいしかない。田舎じゃなかったらとてもじゃないが生活できないレベルである。でも、子どもの本は割と気軽に買う。

勉強が出来るようになって欲しいとか、国語力がつくようにとか、物知りになって欲しいと思ってやっているわけではない。まあ、ちょっとは「文学に親しんで欲しい」という気持ちもあるが、ラノベみたいな本だって買ってあげるのにやぶさかではない。

なぜって、本は、我々が必要な「もうひとつの世界」をくれるものだからだ。

実は、娘には小さい頃、「もうひとつの世界」があった。所謂「イマジナリーフレンド(見えない友だち)」である。こちらに移住してきてから1年くらいの間、3歳だった娘は保育園でも特定の先生以外とは誰ともしゃべらず、もっぱら一人の世界に没入していた。ところが彼女の中ではそれは一人ではなく、見えない友だちがいたのである。

彼女は本当にその友だちが実在していると考えていて、一度親を連れ回して友だちの家に遊びに行こうとしたことがある(当然、家はみつからなかった)。

「今日は○○はこんなこと(←大抵は失敗)をした。○○はとてもナントカが好きなんだ。○○はいうことを聞かない」——娘からは、毎日、見えない友だちについての事細かな話を聞かされた。それは彼女にとって紛れもなく現実に見聞きした話だった。

もしかしたら、こういう話は少し異常に聞こえるかもしれない。でも実は、イマジナリーフレンドの存在は小さい子どもにはよくあることで、正常な発達過程に起こることである。ただ、その時には、彼女にとって移住後に激変した暮らしが、少しばかり受け入れがたいものだったのかもしれない、というのも事実である。

いや、仮に現実が受け入れがたいものでなくても、それどころか毎日が充実していたとしても、子どもでも、大人でも、我々は「もうひとつの世界」へ気軽に赴いて、少し羽を休めてみるということが、断然、必要だと私は思う。

もちろん「もうひとつの世界」は、人それぞれ違う。コスプレがそうだという人もいる。マンガを描いたり、ギターを弾いたり、温泉に入ることの場合もある。それは、ただ「趣味の時間も大事だ」ということではない。そうではなくて、この冴えない現実とは違った論理で作られた世界に身を置くことが、人間にはぜひとも必要なのである。

私にとって、それは本の世界だった。

どんなに忙しい時でも、寝る前のたった5分だけでも、私は本を開く。そうすると、嫌なことがあった日も、逆に浮かれて興奮していた日も、なにか憑き物が落ちたかのように心が静まり、安心して眠りに落ちることができるのである。

私の毎日はもちろん冴えないものだが(じゃなかったら年収150万円のわけがない)、かといって失敗の連続とか、ストレスが絶えないなんてこともなく、地味に穏やかに過ぎていくもので、それなりに満足している。ところがやっぱり、私から読書の時間を奪ったら、たぶん窒息してしまうだろう。この現実世界だけが、私の生きる世界なのであれば。

例えば、今読んでいる本はこんなところだ。

まずは最近出版されたジェームズ・フィッツロイ『ガメ・オベールの日本語練習帳』。これはTwitterでの友人が上梓した本。日本語が素晴らしく、しかも内容が深遠であり、もはや日本語の歴史にとって「事件」とも呼べるような本である。でも大切な本なので一度にあまりたくさん読まないようにしている。落ちついた時ではなく、ちょっとした空き時間に開く本である(そうしないとたくさん読んでしまうし)。

寝る前に読むのは、山本七平『現人神の創作者たち』。この本は江戸時代の儒者の正統に関する思想を読み解く本で、引用文の割合がものすごく大きい一方で解説は少ししかないので、けっこう難しい。この本は毎日3ページくらいずつ読んできた。もうすぐ読み終わる。

峰岸純夫編『家族と女性(中世を考える)』は、歴史上、女性の宗教活動はどのように行われてきたのだろうという興味から手にとったもの(本書のテーマは宗教ではないが)。論文集なのでこれもちょっとした空き時間に読んでいる。読書というよりは勉強的な本である。

それから、コーヒーを飲みながら読んでいるのは、『諸子百家』(筑摩 世界古典文学全集の一冊)。古典はコーヒーをお供に読むに限る。これも一度にたくさん読むことはなく、1節毎を味わいながら読む。「墨子」「荀子」「管子」と来て、つい昨日「韓非子」に入ったところである。

最後に、この頃は途中で止まってそのままになっているが、スタンダールの『パルムの僧院』(生島遼一訳)。これは面白くなくて止まっているのではなくて、あんまりにも面白いので、簡単に読み終わりたくなくて止めている(笑)この本は落ちついた時に開きたい。でもその「落ちついた時間」がなかなかないので読めずにいる、という面もある本である。

こういう紹介の仕方をすれば分かるとおり、本の中に「もうひとつの世界」があるのではない。私が言っている「もうひとつの世界」は、本の中に描かれるファンタジー的な世界ということではなくて、本を読むことそのもので展開されていく、現実の日常生活とは違うレイヤーに存在する世界のことである。リアルとは違う「別の人生」と言い換えても良い。

そして、こういう本たちは、私の日常生活の一切に、ほとんど何の関わりももたない。時には仕事上の必要から本を読むこともあるが、基本的に私は「役に立たない」本ばかりを読んでいる。どうやら私の「もうひとつの世界」には、役に立つものはあまり存在していないらしい。いや、たぶん、ほとんどの人の「もうひとつの世界」は、現実には無用なものばかりが楽しく溢れかえっているのが普通だ。

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このたびクラウドファンディングで、近所の空き家を「古民家ブックカフェ」にするための資金集めを始めた。

これは、田舎に徹底的に不足している「もうひとつの世界」の一部を具現化する試みでもある。田んぼと畑と山、学校と家、それからスーパーとガソリンスタンドだけがあるような田舎に育つのは、それはそれで悪くはないが、それだけだったらやっぱり窒息するんじゃなかろうか?

大げさな話かもしれないが、この「古民家ブックカフェ」が、誰かにとっての「もうひとつの世界」の入り口になれたら、と夢想する。森のような木々に囲まれ、古い記憶にあるおばあちゃんちのにおいがする、本がたくさん並べられた空間。冴えない日常から離れて、ほんの少しだけ身が軽くなるような、そんな場所ができたらいい。

「見えない友だち」と会えるような場所に。

 

 ↓クラウドファンディングへのご支援はこちらからお願いします。

2021年2月18日木曜日

日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできるように

「趣味はなんですか?」と聞かれたら、「調べもの」と答えている。

私の趣味は読書だと思われることもあるが、実はそんなにたくさん本を読むわけではない(年間にせいぜい40冊くらい)。そして、面白い本を読みたいという気持ちはほとんどなく、「あれってどうなってるんだろう?」と思って情報を求めて本を開くことがほとんどだ。

だから、自分で本も買うが(というより買える本は買って読む主義)、図書館も意外と使う。意外とどころか、何か本気で調べようと思ったら、すぐ買えるような本には載っていないことが大概だ。どうしても図書館の本に頼らなければならない。

資料のあたりがついていれば、国会図書館の遠隔複写サービスを使う。郷土資料だと、鹿児島県立図書館の遠隔複写も時々使う(でも、県図書の場合は料金を切手(か定額小為替)で送るという非効率的な支払い方法なのであまり使いたくない)。でも複写箇所がわからない場合が多数なので、やはりリアル図書館に行って調べないといけないことも多い。

だが、ここで問題がある。南さつま市の図書館が、貧弱すぎるのだ。もちろん、相互貸借(図書館が別の図書館から本を借りること)によって取り寄せることもできる。しかしその費用を負担しないといけない場合があるなど、気軽には使えない。やっぱり、手近に蔵書が豊富な図書館が必要だ。

そもそも都市と地方には、インターネットなどでは埋めようもない絶望的なまでの情報格差がある。それは、世界の多様性に関する認識の差を形成している。この情報格差を埋めるためにも、図書館の充実は大事である。図書館は、一人ひとりの多様な関心に応え、知らない世界への扉を開き、知りたいことを深めていく場所である。

ところで、もうこちらに移住してきてから約10年になるが、移住前に住んでいたのが神奈川県川崎市の高津区というところ。家から歩いて10分に高津図書館があって、時々足を運んだ。

実は、この高津図書館、住宅街の中にある図書館なのであるが、開架資料だけでいえば、鹿児島県立図書館並みの規模がある。もちろん高津図書館が特別なのではなくて、関東地方ではそのくらいが平凡な規模だ。そして蔵書数もさることながら、特に視聴覚資料(CDとか)は鹿児島の図書館とは全く比べることができないくらい充実している。図書館でCDが借りられるのでツタヤはいらないっていうくらいである。

こういう図書館に気軽にアクセスできるのは、それだけでアドバンテージだと私は思う。ただでさえ地方の子どもは不利な立場に置かれているのに、教育・文化の面で格差が再生産されるのはいただけない。

「どうせ鹿児島は文化のない野蛮な土地柄だから」と人はいうかもしれない。しかし、実はそうでもない。

試みに、高津区と南さつま市の図書館事情を比べてみるとそれが明白になる。公表された統計資料(平成30年度〜令和2年度のデータで構成)をもとにグラフを作ってみた。

 

川崎市高津区と南さつま市の図書館事情比較

蔵書数は、高津区の方が約29万冊で南さつま市より10万冊以上多い。なおグラフにはないが、図書館ごとで比べると、南さつま市で一番大きな加世田図書館の蔵書数が7万5000冊ほど。一方、高津図書館は約25万冊あるので、3倍以上の規模の開きがある。

もちろん、人口が全然違うのでこれは当然だ。高津区の人口は23万人以上あり、南さつま市と比べると20万人多い。ついでにいえば、南さつま市は高津区に比べ面積が17倍もあって、図書館が分立しているから、ただでさえ少ない蔵書がさらに分散している。

では、一人当たりの蔵書数で比べるとどうか。これが調べてみると面白いことで、実は南さつま市の一人当たりの蔵書数は3.80冊で、高津区の約3倍あるのである。

とすると、南さつま市は田舎で文化のない土地だから図書館が貧弱だ、とはいえない。それどころか、高津区に比べ一人当たり3倍も図書館にお金を使っているともいえる(本当は図書の予算決算で比べる必要があるが、その情報が手元にないのでだいたいの話) 。

要するに、南さつま市の図書館が貧弱なのは人口が少ないからであって、図書館にかける行政の熱意(予算)が少ないためではない、ということだ。

でも、図書館の価値は住民一人当たりの本の冊数で計れはしない。それどころか、人口100万人の都市でも、人口1000人の村でも、そこの図書館にあるべき本の冊数・多様性は同じだと私は思う。それは、図書館が住民の「知的な自由」を保障する場であるからで、田舎だからといって知的に不自由するのは仕方ないと諦めてはならない。

では、「知的な自由」を保障できる冊数はどれくらいかというと、日本語だとだいたい20万冊くらいだと思う。別に根拠はないが、いろんな図書館に行ってみての実感だ。これよりも少なくなると、世界の多様性を十分に蔵書で表現出来なくなり、知的世界へのアクセスに不自由をきたす。特に10万冊以下だとそれは非常に限られたものになる。

だから、「日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできること」が図書館行政の目標であるべきとだ、と私は思う。

でも南さつま市で20万冊の蔵書を揃えたら、一人当たり蔵書数はほぼ6冊。こんな予算はとても組めるものではない。

じゃあ、どうするか。答えは一つしかない。図書館を広域行政化するのである。

例えば南さつま市、南九州市、枕崎市が共同で図書館を運営すれば、蔵書数は30万冊を超えると思う。もちろん単純に蔵書数を足し挙げるだけでは、すぐに蔵書の多様性が増えるわけではないが、各市が独立するよりもずっと事態は改善される。さらに各館ごとに揃えていた資料が1つで済む場合も多いので、予算も節約することができる。

こういう広域行政化は、既にいろんな分野で行われている。例えば、ゴミ焼却場、屎尿処理場といったものである。市町村が組合を作って共同運営するのである。もちろん図書館でも、市町村連合によって他市町村の図書を相互に借りられる仕組みはすでに各地である(例:福岡都市圏(17市町で構成される連合))。

ただ、ただの市町村連合の場合は、選書などは各市町村でやるため、必ずしも規模の経済がきくわけではない。やはり市町村組合のようなもので共同運営することがよいと思う。

ちなみに、組合立図書館のススメは、1963年(昭和38年)に『中小都市における公共図書館の運営』というレポートで述べられ、ごく少数ではあるが設置されたことがある。ただその頃はどんどん経済成長していく局面だったので組合立にしなければならない予算面の事情がなくなっていったことと、図書館業界でも賛否が分かれたらしく普及しなかった。

だが今は、指定管理者制度の普及、図書館司書の非正規雇用化、予算の減少などで図書館業界が非常に苦しい局面になっているので、組合立図書館のメリットは大きくなっていると思う。

ところで、これから、南さつま市には南薩地区衛生管理組合のゴミ処理場が出来る(南薩地区新クリーンセンター(仮称))。この組合は、枕崎市、日置市の一部、南さつま市、南九州市で構成されるものである。今のゴミ焼却場は、大量のゴミを処分でき、むしろ燃やすゴミが少ないと非効率になるため広域連携が普通になってきた。こういう連携が広がることはいいことだ。

ゴミ処理に広域連携ができて、図書館にそれができないわけがない。南薩各市の行政のみなさんに、ぜひご検討いただきたい。

2021年2月16日火曜日

大浦小学校で学びませんか? 大浦町への移住のススメ

来年度から、大浦小学校の3・4年生が複式学級になる。

「複式学級」とは、2学年の合計が17名に満たない時に、学年を合併して設置されるものである。要するに、3・4年生が一つの教室で、一人の先生から学ぶ。片一方に問題を解かせている間にもう片方に教える、という感じの授業をやるということだ。

大浦小学校の来年度の3・4年生は合わせて15名。あと2人足りない。実はうちの次女が来年の3年生。このままだと、次女は複式学級で学ぶことになる。

といっても、複式学級は、悪いことばかりではない。

一番いいのは、子どもたち同士の教え合いがあることで、これは普通学級よりも優れた点であるとさえいえる。それに、鹿児島のような過疎地では既にかなり多くの複式学級が設けられているので、先生方の指導の経験も豊富である。複式学級は何が何でも避けるべきものではない。

とはいえ、できれば普通学級の方がいい。というのは、担任の先生の負担が大きいからである。2学年教えても給料が2倍になるわけでもない。子供にとっては悪いことばかりではないが、先生にとっては負担増でしかないのが「複式学級」である。だから出来れば避けたい。

それに、規定の人数に7人も8人も足りないのならすぐに諦めるが、足りないのは2人。2人の転入があれば普通学級になる。

そんなわけで、ダメもとは承知で「大浦小で学びませんか? 大浦町に移住しませんか?」とブログで訴えてみることにした。

【参考】大浦小学校
http://www.minamisatsuma.ed.jp/jr/oourasyo/02burogu.html

大浦小学校の児童数は大体50名強くらい(来年度の人数はまだわかりません)で、1学年は大体10人くらいである。教室も広々使えるし、校庭や体育館もゆとりがある。当然、ソーシャルディスタンスはバッチリである。

コロナ対策関係なく、施設を広々使えることは子どもたちの心にいい影響があると思う。また、校庭は全面芝生なのが先進的で、すごく気持ちがいい。

施設面は、広々使えるだけでなく内容も充実していて、昨年度には全教室にエアコンが配備された。トイレも改修されてとってもキレイである(当然洋式)。個人的には、もうちょっと図書室の蔵書が充実するといいなと思っているが、児童数との比率で考えると新刊本は多く、図書室も充実している方ではないかと思う。

そして、大浦小学校のよい所は、児童全員が名前で呼び合うところで、和気藹々(あいあい)とした雰囲気だ。どうして名前で呼び合うのかというと、大浦の地元民には限られた姓しかないので、例えば一学年10人しかいないのに徳留さんが2人いたりする。だから自然と名前で呼び合う文化が、何十年も前からできていた(多分創立時からだと思う)。 

もちろん、名前で呼び合うからといって仲良しばかりとは言い切れないが、大浦の子どもはのびのびしていて、あまりギスギスしていないことは事実だ。自然豊かで広々とした環境は子ども(だけでなく大人も)の精神を落ちつけると言われているがそれは本当だ。

では大浦小のよくない点は何かというと、私が思うに英語教育が本当にダメである。小学校の英語教育は始まったばかりなので、他の小学校と比べてどうなのか評価できないが、都市部の小学校と比べればかなり見劣りがするのは否定できない。

あと、少人数であるためのデメリットはもちろんある。例えばクラブ活動の種類が限られたり、チームスポーツがルール通りに出来なかったりすることである(1学年10人くらいだとサッカーの試合なんかはできない) 。でも少数の天才を除いて小学校の頃からスポーツ漬けになる必要はないので、それほど大きなデメリットではないと思う。

そしてこれは大人側の事情だが、保護者の人数が少ないのでPTAの役員がすぐに回ってくるのもよくない点である。しかし、大浦の場合はほとんど全て地の人で構成されているので、PTAとかにはみんな協力的で運営はスムーズである。ベルマークの集計みたいな徒労的作業もない。

どうせ田舎の遅れた学校でしょ? と思うかも知れないが、実はそれほど遅れた考えはなく(例えば運動中に水を飲むなとか、かけ算の順序がどうこうといった類)、何より先生たちの雰囲気がユルい。なお大浦小は、先生たちにとっては人気の場所であるらしく、楽しく授業ができる学校のようである(問題児・問題親が少ないのが理由らしい)。

総合的に言えば、大浦小学校はかなりよい学校だと私は思っている。まあ、いい学校だと思っていなかったら、ここで「大浦小で学びませんか?」なんていうわけがないのだが…(笑)

では、大浦に移住するとなれば、大浦がどんな町かということが気になるだろう。というわけで、私の目から見た大浦町のポイントをまとめてみる。

大浦町は、南さつま市の一部(大字)であり、今の人口は1800人くらい。このブログでもたびたび書いてきたように高齢化率の高さは県内でも有数だ。

でも、意外と若い人も元気なのが大浦のよいところで、田舎にありがちな長老主義(○○さんの言うことは絶対、みたいな)は大浦には希薄である。 

というのは、大浦は集落ごとの独立性が高く、よくも悪くも集落が全ての単位となっているので町全体を支配するような権力が生まれづらい土地である。逆に言えば「町一丸となって」みたいなのはあんまりないのが大浦だ。これは当然、現代的な態度に結実していて、割とみんな他人のことに無関心で、自分のことに没頭しているのが大浦町民だと私は思っている。住民同士の相互監視みたいな息が詰まる雰囲気は大浦にはない。こういうのは都会の人がイメージする田舎とは違うところだと思う。

だから、小学校の児童が少ないことは、子供同士の人間関係が濃密であることを意味し、かえって煩わしい部分があるように思うかも知れないが、大浦の場合は「みんな”仲間”でないとダメ」みたいな空気はあまり感じない。うちの子も、みんなで遊ぶより一人で本を読んでいる方が好きな所があるが、それで浮いちゃったりすることはない(ようだ)。大人数での集団生活になじめない子どもにはいい環境だ。

そして大浦のよいところは、町の中心にスーパーや農協、郵便局、銀行、役場の支所、ガソリンスタンドなどが揃っていて、町を出なくても生活ができるところである(そんなの当たり前じゃないか、と都会の人は思うだろうが、これが出来る町は優秀)。

さらに、加世田(とりあえず生活必需品は何でも揃う地方都市)まで車で30分、鹿児島市までも車で1時間半程度でいけるので、それほどの僻遠の地ではない。うちから最寄りのコンビニまでは車で25分、最寄りの(?)イオンまでは車で1時間20分。「遠いよ!」と思うか、「意外と近い」と思うかはあなた次第である(笑)

ところで私はこちらに移住してくる時、別に深くは考えていなかったが、いろんな地域を見ていると、立地面で「この町に移住してたら後悔したかも」と思うような場所もあることがわかった。例えば、最寄りのスーパーまで車で20分かかるとか、地方都市まで車で1時間近くかかるとなると、生活の質が違ってくると思う。大浦は、鹿児島の本土の端っこの方にあるのは事実だが、生活圏という意味ではそれほど端っこではないのがいいところなのだ。

ただ、大浦には仕事があるのかというと、残念ながら農業と福祉(老人ホーム)以外にはあまり仕事はない。でも加世田あたりに通勤すると考えれば、都会にあるようなオフィス仕事は少ないとしても、それなりに仕事はあると思う。そもそも田舎は慢性的な人手不足なので、職種を選ばなければ生きていくことは出来るだろう。

なお、大浦は僻地なのにもかかわらず光回線は通っているので、インターネットを使った仕事の人も大丈夫である。

しかし、大浦には致命的な短所がある。町内に不動産屋がないので、仮に移住したいと思っても物件を探すことがほとんど不可能なのである。空き家の数は膨大だが、地元の人でもどこの空き家が活用可能な物件なのかよくわからず、さらに家財道具が置きっぱなしになっているなどですぐには使えない空き家も多い。実際、大浦に移住する最大のハードルはここだと思う。

でも諦めるのはちょっと待って欲しい。大浦小学校は、2021年4月から「小規模校入学特別認可制度」の指定校(=特認校)となる。南さつま市の特認校制度は、簡単にいうと「加世田小学校の学区に住んでいる人は、希望すれば特認校に通学できる」というものだ。

【参考】特認校制度(南さつま市小規模校入学特別認可制度)
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/kyoiku-bunka-sports/gakko/tokunin/e020124.html

なので、加世田小学校区(加世田の中心部及び津貫地区)に住所があれば大浦小学校に通うことができる。

だから、本当に地域外から大浦に移住しようと思ったら、まずは加世田のアパートなどを借り、1年くらいかけて大浦に家探しをするのがいい(PTAの時とかに「家を探してるんです」と言えばどこかで話が繋がるのでは)。多分、家賃はタダみたいな家が見つかると思う。ただし加世田在住の間は、スクールバスはもちろん通学に使える路線バスもないので、送り迎えは親がする必要はある。

というわけで、万が一、この記事を読んで「移住して子どもを大浦小に通わせようかな?」と思った方がいたら、コメント欄で連絡くだされば、私の出来る範囲のお手伝いはします。もちろん子どもが小学3・4年生でなくても歓迎です。

※冒頭写真は、昨年の大浦小学校運動会の様子。

2021年1月18日月曜日

「農地利用最適化推進委員」になりました

今年から「農地利用最適化推進委員」になった(任期は3年)。

「農地利用最適化推進委員」(それにしてもけったいな名前…)とは何かというと、ものすごく簡単にいうと「議決権のない農業委員」である。

では「農業委員」とは何かというと、「農業委員会」の構成員である…というような話をしていくと大変にややこしい上に、あまり意味もない(笑)ので、その話はやめにして、ザックリ言うと「今年から農業委員会の仕事の一部をやることになった」ということである。

「農地」というのは、宅地のようには自由に取引できないようになっている。取引だけでなく農地を他の用途に使うこと(「農地転用」という)や、貸し借りについても規制されていて、農業委員会の議決を経るようになっている。

また、農業委員会には貸し借りの仲介、つまり不動産屋的な機能もある。最近では、荒れそうな農地を誰か適当な人に耕作してもらう、というような仲介が期待されている。

じゃあ、私はこれからそういう農地の不動産屋の仕事をするのかというと、実はそうではなくて、主な仕事はハンコをもらうことである。

どういうことかというと、うちの地域では(たぶん多くの地域で)土地は所有して耕作するよりも、借りて耕作するのが一般的なので、大量の農地の貸し借りが生じている。となると土地の一筆毎に「貸し借りの証文」を作ることになる(「利用権設定」という)。そして、その証文を作るところまでは事務局で作ることができるが、実際に地主にハンコをもらうという作業を誰がやるかという話になる。

というのは、農地を借りたい人(農家)は自分が申請してくるのだから簡単として、問題は地主の方である。大浦町のような高齢化・過疎が進んだところの場合、地主というのは大抵が高齢者であって、それどころか既に死んだ人であることも多いからである(←土地の相続登記がされていないということ)。

まあ実際には、権利関係がひどく錯綜していたり(登記上の名義人と現に所有している人が無関係であるとか)、そもそも誰の土地なのか分からなかったりする場合は、公式の「利用権設定」自体を諦めることが普通なので(こういう、農業委員会を通さないで土地を借りるのを「闇小作」という)、それほど大変なケースは少ないが、それでも地主さんの家を探し出して、ハンコをもらうのは結構大変である。

というわけで、私がやるのは、地主さんの家を探して農地の「貸し借りの証文」にハンコを押してもらにいく、という泥臭い仕事なのである。

実は、この仕事をやることになったのは、自発的な理由もある。ハンコをお願いしにいくのは当然やりたい仕事ではないが、農業委員会の仕事は勉強になるんじゃないかと思ったからだ。農地を巡る法律や規制、国の政策も学べるし、やはり農地の動きは地域の実態の一側面を写していると思う。この仕事を通して、そういうのを知ることができるのは楽しみである。

でも、そういう理由がなかったにしても、大浦町のように過疎が進んだところでは、何にせよなり手がいないので、順番にみんながやっていくような仕事なのである。そういう順番が、私にも回ってきたわけだ。

ところで、農業委員・農地利用最適化推進委員は、「特別職の地方公務員」である。例えば消防団員も「特別職の地方公務員」だし、嘱託員もそうだったと思う。要するに「役場の仕事を公的な身分をもって手伝う人」である。

それで、てっきり「雇用契約」みたいなのがあるのかと思っていたら、全くなくてちょっとビックリした。辞令一枚である。そういえば消防団員になった時もそういうのはなかった。これは「特別職の地方公務員」だからなのかと思っていたが、思い返してみると、自分がかつて国家公務員になった時も辞令一枚だったような気がする。雇用契約書の一枚もなかった。

日本の役所には、そもそも被用者と雇用者が対等な形で契約するという概念がなく、上意下達的に辞令一枚で「任用」する。要するに公務員の雇用は「○○市役所で働きなさい」といった命令の形式なのである。これは誰しも思うように時代錯誤だ。ちゃんと雇用の条件を明示して、双方が同意するという形で任用するべきだ。正式な公務員の場合は「地方公務員法」の規定でもしかしたらやりづらいのかもしれないが、「特別職の地方公務員」の場合は「地方公務員法」が適用されないので、やろうと思えば出来ることだと思う。

といわけで、私は「農地利用最適化推進委員」としてこれからハンコをもらう仕事をするが、自分がそういう仕事をするのを了承したという契約書にハンコを押すということはなかったのである。

こんなユルい体制でいいんだろうか(笑)

2021年1月10日日曜日

島津亀寿の戦い——秋目の謎(その4)

(「秋目からルソンへ」からの続き)

薩摩藩から独立した立場を築いていたらしき貿易港、秋目を私領地としていた持明夫人こと島津亀寿(かめじゅ)とは何者だったのだろうか(以後、表記を「亀寿」で統一する)。

島津亀寿は、元亀2年(1571)島津氏第16代当主・島津義久の三女として誕生した。亀寿が生まれた頃の島津家は、島津義久・義弘の兄弟が中心となって九州最強の勢力を誇っていた時代である。しかし亀寿が17歳の時には、島津はへ豊臣秀吉の九州征伐に敗北。島津家としては難しいかじ取りが求められるようになる。

亀寿は三女とは言っても正室の娘としては長女であり、義久には男子が誕生しなかったため、亀寿は島津本家を受け継ぐ存在となった。彼女の夫となるものは、島津家の当主となるべき人だったのである。

それであるだけに亀寿の生涯は不遇であったといえる。亀寿はいとこ(義弘の子)の島津久保(ひさやす)と結婚する。久保は次期島津家当主になるべく亀寿と結婚したが、これは政略結婚とはいえ、二人は仲むつまじい関係だったようだ。ところが秀吉の朝鮮の役のため久保は朝鮮に渡り客死。結婚生活は5年未満と見られる。

その後、亀寿は秀吉の命によって島津忠恒(ただつね)と強制的に再婚させられた。忠恒は久保の弟である。この婚姻は島津家当主にすら相談なく決められたものらしい。

亀寿は久保と夫婦の時も、忠恒と再婚してからも、秀吉への人質として京都に送られた。亀寿はこうして20代のほとんどを人質として過ごさなくてはならなかった。この人質に対する褒賞として、亀寿は1万石の領地が無公役(無税)で贈られるのである。史料上は不明確だが、この中に秋目も入っていたのだと思われる。

ところで、亀寿と忠恒との夫婦仲は非常に悪かった。島津氏の歴史で、最悪といってもいい。忠恒は亀寿に対してひとかけらの愛情もなかったようである。亀寿は醜女(しこめ)であったと伝えられるが、それが事実だとしても、世継ぎを産むのが女性の重要な役目であったこの時代において、忠恒は正室である亀寿と子作りをしようとしなかったらしいことは異常である。

関ヶ原の戦いが勃発すると亀寿は京都を脱出し鹿児島に帰還。それから10年間は、父義久の後見もあって、忠恒との対立は続きながらも亀寿は島津本家の家督相続決定権者として重きをなしたように見える。

彼女は島津家当主が引き継ぐべき歴代宝物を所有し、それを決して夫忠恒には渡さなかった。島津家にとってのレガリア(それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物)の家宝だったからだ。亀寿は、忠恒を正当な島津家当主とは認めたくなかったのだ。

しかし慶長16年(1611)、義久が死去すると、忠恒(家康から「家」の字(遍諱)を受けて「家久」に改名。以後「家久」と表記)は亀寿を鹿児島から追い出し、義弘の居城だった国分の国分城へ追いやった。そしてそれまで亀寿とは子どもをもうけていなかったのに、家久は当てつけのように8人の側室を置いて、33人もの子どもをもうけた。

さて、秋目からルソンへ貿易船が出航した時期は、亀寿が父義久の後見の下でそれなりに地位が安定していた10年間に含まれる。

こう考えてゆくと、秋目は、亀寿が家久に対抗していくために私的に保護した貿易港であったように思われてならない。秋目を拠点に貿易を行なっていた商人たちは、誰の後援もなく幕府から「朱印状」を取得するのは難しかっただろうからだ。亀寿は公式ルートとは別の筋で(おそらくは公家ルートで)幕府との交流や要人との連携があったのではないだろうか。

史料上で裏付けされない、こういう空想を人は妄想として退けるかもしれない。まあ「歴史ロマン」の類である。ところが、先日「しいまんづ雑記旧録」というブログを見ていたら、この空想を傍証してくれるような「『中山世譜』の島津亀寿」という記事を見つけた。

【参考】しいまんづ雑記旧録
http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/

この記事によれば、琉球の歴史書『中山世譜』に、まだ亀寿が亡くなっていない1620年、亀寿が亡くなったことになっていて、その葬いのために琉球王からの使者が鹿児島を訪れた、という記録があるのである。

どうして亀寿は死んだことにされたのだろうか。この記事に続く「『中山世譜』の島津亀寿 続」でそれが考察され、亀寿を庇っていたらしい島津義弘が前年1619年に死亡したことを受け、「家久(忠恒)にとっては亀寿を徹底的に排除できるチャンスが訪れたと言うことになる。そこで家久(忠恒)が最初に行ったことこそが上記に書いた「琉球など対外的に亀寿を死んだことにする」事ではなかったのではないだろうか」と推測されている。

それでは、なぜ家久はこと琉球に対して亀寿を死んだことにしたかったのだろうか。もし亀寿が秋目を私的な貿易港として保護していたなら、その理由は明白である。亀寿は、島津本家とは別に、琉球交易に対して何らかの権益を持っていたのである。

もし1620年の段階で、亀寿が無力な女城主として国分に寂しく暮らしていただけであれば、島津本家はわざわざ琉球に亀寿死亡の嘘情報を流すわけがない。この時期にも、亀寿は家久に対抗しうる力を持っていた。だからこそ家久はこのような奸計を以って亀寿を排除しようとしたのである。

事実、このころまだ亀寿は島津家の歴代家宝を所有している。依然として、正統な島津家の継承者(少なくても継承者の決定権者)は島津亀寿のままである。

だが、亀寿の命脈が風前の灯火であったのもまた事実だった。「隠さなければならない繁栄」でも既に述べた通り、家久は、慶長14年(1609)、琉球へ侵攻を行って琉球を属国にしていた。そして琉球を通じて明との貿易を行うという、藩営の密貿易体制を構築していたのである。仮に亀寿が海外貿易に何らかの権益を有していたにしても、このような国際関係の前では従前のように秋目を通じた海外交易はできないだろう。ひょっとすると、琉球侵攻という暴挙は、亀寿に対抗する意味合いも含まれていたのかもしれない。

しかも徳川幕府は元和2年(1616年)に明船以外の入港を長崎・平戸に限定するという鎖国体制の一歩を進めていた。もはや日本にとっての大航海時代は、終わりを迎えていた。

貿易を私的に保護することで家久に対抗するという、島津亀寿の戦いはこうして終わりを告げた。死んだことにされた年の二年後、元和8年(1622)、亀寿は家久の次男・虎寿丸を養子にし、私領1万石と島津家歴代宝物を相続することに決定した。後の島津光久である。ここで、亀寿は宝物を家久に渡すのではなく、その息子を自分の養子にして相続させたということは、重要な意味を持っているだろう。亀寿は、義久から引き継いだレガリアを、自分を通じて養子の光久へ受け渡した。彼女にとって、家久は遂に正統な島津家当主になることはなかった。

寛永7年(1630)、島津亀寿は国分で死去した。法名は「持明彭窓庵主興国寺殿」。ここから「持明様」=「ジメサア」と呼ばれるようになる。ちなみに家久は亀寿の墓を建立することもなかった(のちに光久が慌てて建立)。つくづく酷い夫である。

私は、島津家久と亀寿は、単に夫婦仲が悪いというだけでなく、貿易に関して何らかの権益を争った競争者であったと思う。家久には認められなかったルソン交易が、なぜか秋目出港の船に認められていたという事実がそれを示唆する。

だが、女性一人がたった一万石の私領で向こうに回すには、島津家久は強大で、冷酷すぎた。それでも、そのわずかな所領の中、秋目という僻遠の地に独自の貿易港を築いて、対外関係に不思議な存在感を示したことは、彼女の戦いが決して一方的な負け戦ではなかったことを示している。

秋目に残る「持明夫人公館跡」は、そういう島津亀寿の戦いの跡であると思う。ここで島津亀寿は遥かなルソンを臨み、その貿易を基盤として家久とは違う「正統」を保っていこうとした。本当の島津家を継承していくために。

(つづく)

【参考文献】
戦国島津女系図」の「島津亀寿のページ」
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/shi/shimadzu-kameju.htm

※本文中にあげた「しいまんづ雑記旧録」の本体WEBサイトで、亀寿の生涯についての情報はほとんどこのページを参照させてもらいました。

秋目からルソンへ——秋目の謎(その3)

(「隠さなければならない繁栄」からの続き)

前回、秋目は「貧乏で疲れた郷」を自称しながら、少なくとも享保年間以降のしばらくの間はかなり豊かだった、と述べた。

では、その前はどうだったのだろう。陸の孤島である秋目は、今と同じ、寂しい港町だったのだろうか。

そのことを考えるにあたって、面白い史跡が秋目に残っている。「持明夫人行館跡」である。場所は、今「がんじん荘」がある所の道向かい。昔は史跡の説明板があったが(看板の写真は過去のもの)、今は何もないので知らない人はわからない。冒頭の写真の場所である。

鹿児島の人は、持明夫人こと「ジメサア」のことを一度は聞いたことがあると思う。鹿児島市立美術館の敷地内にあるおしろいをした石像が「ジメサア」と呼ばれて女性の守り神みたいに扱われ、化粧の塗り直しをするのが報道される。

「ジメサア」とは「持明様」が訛った呼び方で(一部に「持明院様」とする説があるが「院」をつけるのは誤解だと思う)、持明様こと持明夫人は島津家久(忠恒)の室(正妻)、島津亀寿(かめじゅ:1571-1630)のことである。

秋目には、この持明夫人が逗留した屋敷(行館)があったというのである。なぜこんな辺鄙なところに持明夫人は来たのだろうか。どういう意味があったのだろう。

通説では、持明夫人がここに来たのは、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするためだったという。秋目には持明夫人がそこで納涼したという「持明夫人納涼石」なるものも残っている。確かに今の秋目の辺鄙な様子を考えると、ここは夫と離れて気晴らしするにはよいところだ。まるで別の国に逃げてきたような気分になるかもしれない。だが当時からそうだったのだろうか。ここはただの寂しい港町だったのか…?

そんな、当時の秋目を考える上で興味深い記事が『旧記雑録』という資料にある。

「慶長9年(1604)、秋目から呂宋(ルソン)へ小田平右衛門という人の船が出航し、慶長11年(1606)に片浦に帰航した」というのがそれだ。 

ルソンとは、言うまでもなくフィリピンにある最大の島である。秋目から、はるばるルソンまで貿易に行っていたというのだ。この記事だけを見れば、この頃の秋目は寂しい港町どころではなく、国際貿易港だった、ということになるだろう。

ただ、話はそれほど単純ではない。実は、ルソンへの渡航というのは特殊な意味合いがある。この記事をさらに理解するために、ちょっと長くなるが、当時の対外関係や国際貿易についておさらいしてみよう。

話は時代を200年ほど遡って、日明貿易から始めなくてはならない。足利義満は「日本国王」として日明間に国交を開き、公式には長く途絶えていた大陸との関係を再建した。日本は明の冊封体制に組み込まれ、定期的に朝貢を行うことになる。

朝貢は、もちろんいろいろな贈り物を献上する。だが明からはその返礼として日本にとってはそれ以上に価値ある品が下賜されるため、これは実質的に官営貿易と同じ意味があった。こうして日本は日明貿易の時代を迎えた。何しろ明と日本は互いに貿易の必要性が大きかったのである。

日明貿易の主役となったのは、大坂の堺の商人と結んだ細川氏と、筑前博多商人と結んだ大内氏であったが、やがて両者は対立するようになって、細川氏の貿易船は北九州を経由しないルートを取るようになった。それが、南九州をぐるっと経由して東シナ海を渡るルートであったため、島津氏はその警護を担当するようになり、また次第に貿易の仲介を行うようになった。

大内氏と細川氏の対立は明の寧波にまで持ち込まれ、1523年、「寧波の乱」という騒動を起こしてしまう。これによって明との関係が冷え込み、日明貿易は途絶する。そこで日明間の国交回復のためにキーマンになったのが島津氏である。というのは、島津氏は琉球と国交がある。そして琉球は明と国交がある(冊封体制に入っている)、ということは、島津氏→琉球→明という形で国書をやりとりすることができるのである。島津氏はこのハブ的な立場を利用して、貿易立国として発展していった。

そして、この時代、さらに大きな商機が訪れていた。南蛮との交易である。スペインのフラシスコ・ザビエルが鹿児島に来るのが1549年。16世紀には、たくさんの南蛮人、すなわちスペイン・ポルトガルの商人が日本に訪れ、物珍しいものをもたらした。彼らが携えていた最新の道具や科学技術はそれはそれで日本に大きな影響を与えていくが、貿易において重要なのは、東南アジアを拠点にした貿易体制が出来上がったことだった。

つまり、スペインやポルトガルは東南アジアをハブにして中国や日本と貿易を行ったのである。ということは日本から見ると、東南アジアを通じて中国の商品を手に入れられるということになる。日明貿易が再開されなくても、南蛮貿易が中国へのパイプになるのだ。しかもややこしい朝貢の手続きなどなしに。

こうして、日本は「朱印船貿易」の時代を迎える。幕府(や権力者)から与えられる貿易の許可状が「朱印状」(御朱印)である。「日明貿易」の場合は、実質的には大内氏や細川氏の私貿易の性格があったが、形の上ではあくまでも国家による通商であった。ところが「朱印船貿易」は、圧倒的に私貿易の性格が強い。国家は貿易の許可(朱印状)を与えるだけで、あとは商人や大名の自己責任に任されていた。

こうなると、貿易がもたらす莫大な利益のために大勝負を打つ者が出てくる。ちょうどスパイスを求めてアメリカ大陸を発見したコロンブス、地球を一周したマゼランのように。そんな冒険人的な商人の代表が、伝説的な堺の豪商、呂宋助左右衛門こと納屋(なや)助左右衛門である。

正確な事績は不明ながら、彼は安土桃山時代にルソンに渡海して貿易商となり、巨万の富を得、秀吉の保護を得て活躍したらしい。ともかくこの時代、一財産築くことを夢見て南の海に漕ぎ出していった者は多いのである。

そしてこのために、日本の造船技術は長足の進歩を遂げる。日本は四方を海に囲まれているにもかかわらず古来から造船技術が未熟で、操舵が不完全で難破も多く、しかも大船を作ることができなかった。それがこの時代、ヨーロッパ人たちの船やその航海技術を学ぶことで、乗員数200〜300人程度の大船を製造することが可能になったのである。

こうして、日本にとっての「大航海時代」が訪れた。 多くの日本人がアジア各地の交易都市へ赴き、アモイ(中国・福建省)、バンデン王国(インドネシア)、アユタヤ(タイ)、ホイアン(ベトナム)などには日本人街も生まれるのである。そんな中でも、ルソン島マニラ(スペイン領)の日本人街は最大規模のもので、16世紀から17世紀にかけては3000人もの日本人が居住していたという。

呂宋助左右衛門も、ルソンでの貿易で財をなしたというし、1604年に秋目から出航したのもルソン往きの船であった。この頃のルソンと交易するというのはどういうことだったのだろうか。

実は、ルソンには莫大な利益を生む商品があった。それが「ルソン壺」(「真壺」ともいう)である。 「ルソン壺」とは陶製の耳付きの壺で、「ルソン」と名がついているが実は南中国からルソンに輸出された実用品の廉価な壺だった。この別に高級品ではない地味な壺が侘び寂びを旨とした茶人たちに評価され、日本に持ってこられると茶器としてとんでもなく高価な宝物に化けたのである。

現地では極めて安く手に入り、超高価で売れる「ルソン壺」はまさに一攫千金の夢が詰まった壺だった。こういうものがルソン島にあるとなると、まさに「蟻が群がる」(ペドロ・バウティスタ第4号文書)ように日本人がルソン島に押し寄せたのも無理はない。

そして薩摩は、当然ながらこの南蛮貿易に地の利があった。中継点としての琉球との国交もあるし、何より日本国土の南端で南蛮世界には一番近いのである。さらに、薩摩人たちは「倭寇」として非合法の貿易で東シナ海を縦横に駆け回っているものも多くあった。薩摩人たちにとって、東南アジアはいつでも行ける土地と認識されていたに違いない。マニラの日本人街には、多くの薩摩人がいただろう。

ところが、ルソン壺交易はやがて大きな転換点を迎える。豊臣秀吉が、ルソン壺を独占する姿勢を見せたのである。先述の通り、ルソン壺は南中国からルソンに輸出された品だったのであるが、実はこの時代には既にその輸出は停止しており、南中国のどこからやってきたのか不明になっていた。現地の人はこれを生活雑器として使っていたが、日本人がルソン壺を高く買い上げるので手近にある品は根こそぎ日本人に売った。こうなると供給はもうないのだから、ルソン壺は消滅する運命にあった。

しかも茶人たちは、ルソン壺だったらなんでもよいというのではなく、その美意識から傑作と駄作を峻別していたから、ルソン壺の名品は超貴重品だった。こういうものを、権力者が独占しようとするのも無理はない。秀吉はルソン壺の輸入を統制下に置き、ルソン壺を買い占めたものは厳罰に処するという非常に強烈な意志を持って独占を図るのである。

そして、秀吉の没後を引き継いだ徳川家康もこの姿勢を踏襲。ルソン壺の交易は並みの大名には決して許されない、非常にデリケートな交易品となっていく。

具体的には、徳川幕府はルソンへの渡航の「朱印状」を大名には与えていない(唯一の例外は平戸藩の松浦鎮信)。カンボジアやアユタヤ(タイ)、安南(ベトナム)といった東南アジアの他の国には大名へも「朱印状」を与えているのに、ルソンだけは特別なのだ。ルソン渡航が許可されたのは、大名の配下にない独立の有力商人たちにだった。

もちろん島津氏にもルソン渡航の「朱印状」は発給されていない。当時の藩主、島津家久にとってルソンへの「朱印状」は喉から手が出るほど欲しいもので、家康に対してたびたび公布願いを出し、さらには神仏への祈願すら行っている。それでも遂に、島津家久にはルソン渡航が認められることはなかった。

さて、ここでようやく秋目の話に戻ってくる。家久がルソン渡航の「朱印状」をもらっていないというのに、なぜ秋目からルソン往きの船が出航できたのだろうか。

そもそも、薩摩藩が南蛮貿易の拠点港としたのは山川港である。持明夫人の父、島津義久(家久の伯父)が頴娃氏から領主権を剥奪して山川港を我がものとしたのが天正11年(1583)。藩営の貿易船であれば、秋目ではなく山川から出発するのが自然なのだ。

答えはただ一つ。秋目から出航したこの船は、藩営の貿易船ではなくて、私船だったのである。

改めて『旧記雑録』の該当箇所の原文を引用しよう(用字を現代のものに改めた)。

去々年秋目呂宋へ罷渡候小田平右衛門尉舟、頃片浦へ帰朝仕候、勿論、御朱印船ニて候間、此方よりハかもいなく候
(慶長11年(1606)6月5日付 島津家久宛、島津義弘書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、215号(鹿児島県資料)

義弘から家久への書状で、「一昨年、秋目から呂宋へ渡った小田平右衛門の舟が、この頃片浦に帰朝した。もちろん御朱印船なので、こちらからはどうすることもできない」という内容である(※「かもいなく」は「かいもなく」の誤り?)。

書状中に明確なように、藩とは全く別個に「朱印状」を得て、秋目から呂宋へ渡っていた商人がいるのである。しかも、その存在を苦々しく思いながらも、島津義弘も家久も、それをどうすることもできない。

なお、この船と同船かどうか不明だが、同様の事案が家久から義弘への書状でも触れられている。該当箇所を引用する。

次従秋目致出船候渡唐船帰朝候哉、直ニ被下御朱印たる舟之由候間、其段山駿州迄申置候
(慶長11年(1606)6月24日付 島津義弘宛、島津家久書状)
『旧記雑録後編』巻60、4、232号(鹿児島県資料)

これは「次に、秋目から中国に渡った船については帰朝しました。朱印状を直接発給された船であるため、山口駿河守直友(幕臣)に申し伝えて置きました」という内容である。

ここで「朱印状を直接発給された(直に御朱印下されたる)」といっているのは、これが島津氏(=薩摩藩)を素通りして、江戸幕府から直接もらったものであるためで、だからこそ島津氏はこの船と無関係であるにもかかわらず、幕臣に報告する義務があるのである。

というわけで、この時期の秋目港は、どういうわけか島津氏の支配の及ばない場所で、しかもなぜか独自に江戸幕府から「朱印状」をもらう力がある商人がいる場所であった。さらには、島津氏の直轄港である山川港はどうしてもルソン交易に参画できないのに、秋目からはルソン往きの船が出ていた。秋目とは、一体全体、どういう港だったというのか。

そしてこの時期、秋目を私領地として領有していたのが、持明夫人こと島津亀寿だったのである。「持明夫人行館」が、不仲だった夫家久と離れ、気晴らしをするための場所であったとはありそうもないことだ。ではここで何が行われていたのか?

(つづく)

【参考文献】
「初期徳川政権の貿易統制と島津氏の動向」2006年、上原兼善
「ルソン壺交易と日比通交」2016年、伊川健二
海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
火縄銃から黒船まで—江戸時代技術史』1970年、奥村正二
『大ザビエル展 図録』1999年
「歴史講座「戦国島津」第8回「16世紀前半の南九州海域と対外関係」」2020年、新名一仁(ビデオ及びレジュメ)