2016年12月29日木曜日

鹿児島でのポンカン栽培のはじまり

鹿児島の人は「ポンカン」というとなじみ深い果物だと思うが、全国的にみたらどうだろう。「知らないわけじゃないが、あまりイメージはない」くらいではないかと思う。

今は甘みの強い柑橘が品種改良によってたくさん生みだされているので、ポンカンの肩身が狭くなるのも当然であるが、実はこのポンカンという果実、かつては「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたくらい、美味しい柑橘として名を馳せたらしい。

ポンカンが日本に紹介されたのは明治29年(1896年)のことである。鹿児島出身の軍人で台湾の初代総督、樺山資紀(かばやま・すけのり)が赴任先の台湾から郷里鹿児島にポンカンの苗木を送ったのを嚆矢とする。ポンカンはインド原産とされるが、日本には台湾を通じてまず鹿児島に入ってきた。これには、台湾併合という国際関係と、初代台湾総督が鹿児島出身だったという偶然が絡んでいるわけだ。

しかしながら、樺山が送った苗木からポンカン栽培が広がったかというと、そうでもなさそうである。当時の鹿児島は「勧業知事」と後に讃えられる加納久宣(かのう・ひさよし)が知事を務めていた時代。現在の鹿児島の柑橘産業の原型をつくったのが加納その人であった。ところが加納の事績を調べてみても、樺山が送ったポンカンの苗木についての言及は全くなく、少なくともこの苗木が大々的に増殖されたり頒布されたりということはなかったようだ。

では、このころ鹿児島の柑橘産業はどういう状態にあったかというと、和歌山などの主要産地から大きく後れを取っていて、まだまだ自家消費的な段階に留まっていた。加納はこれを産業的なものにしていこうと、私財をなげうって苗木の頒布や模範果樹園の創設などに取り組んで栽培を拡大していこうとしていたが、加納が奨励していた品種は「薩摩ミカン」「クネンボ」「金柑」「夏ダイダイ」であり、後に「温州ミカン」がこれらに置き換わっていく。要するにこの段階ではポンカンは眼中になかった。他産地に追いつくことを主眼としていたこの時代、新品種で未知数な部分があったポンカンを組織的に推進していくのはリスクが大きいと判断されたのかもしれない。

しかしながら、「東洋のベストオレンジ」と呼ばれたほどの果物である。その評判はいつのまにか広がっていった。台湾を植民地にしていた時代であり、台湾との人の行き来がかなりあったことも影響しているのだろう、大正中期から昭和初期にかけて、鹿児島各地の多くの篤農家が直接台湾から苗木を取り寄せている。だが組織的に苗木を導入したわけではないため、この頃台湾からやってきた苗木は十分に吟味されずにいろいろなものが混ざっていた。

果樹の苗木には「系統」というものがあって、同じポンカンといっても樹ごとに様々な個性がある。新品種の導入にあたっては、収量が多く、病害虫に強く、美味しい実をつける樹を選んで、それを接ぎ木で増殖させることがポイントだ。この頃来た苗木は、おそらく農家がツテを頼って台湾から送ってもらったものであるから、系統も不明なものが多く玉石混淆の状態であった。

こういう状態が整理されたのが昭和9年(1934年)、鹿児島県農業試験場 垂水柑橘分場長の池田基と県議会副議長の奥亀一が、系統のはっきりした優良な苗木を導入してからのことで、これで栽培が徐々に広がっていくことになる。このころ、ポンカンは温州ミカンの4〜5倍の値段がしたというから、よほど珍重されたものだと思う。

ところが、それでも栽培は一気には広がっていかなかったようである。各地のポンカン栽培の歴史を概観してみると、導入が散発的であることが見て取れる。考えてみると、この頃は戦争が近づいていたこともあり美味しさよりも食糧増産が叫ばれる時代であったし、結果が不透明な新参者の果樹にあえて取り組んでみようという普通の農家は少なく、あくまでも篤農家の試みに留まっていたのだろう。

というわけで、鹿児島でポンカンが広く普及するのは戦後になってからである。

我が大浦町にポンカンが導入されたのも戦後のことで、太平洋戦争で台湾に派兵されていた人たちが、「台湾にすごく美味しいミカンがあった」といって引き上げてからポンカンの栽培に取り組んだと言う。隣の坊津町では、昭和4年に台湾から苗木を取り寄せて栽培が始まり、昭和10年には中野三太郎という篤農家が優良系統のポンカン苗木を取り寄せて品質向上にまで取り組んでいたというのに、坊津からの情報ではなく台湾での見聞がきっかけになっているあたり、意外な感じがするがリアリティがある話である。

当時、大浦で町長をしていたのが、実は私の祖父である窪 精造。祖父はポンカン栽培の振興を企図し、町民に苗木を頒布するため自分の田んぼをつぶしてたくさんのポンカン苗木を育成したたという話である。これが昭和30年代の後半だ。この頃の苗木は、少なくとも大浦では系統が不明で一括して「在来」と呼ばれている。

ちなみに昭和34年〜35年に鹿児島県も大々的なポンカン栽培振興を行ったが、この時に頒布した苗木はなぜか福岡などから導入していて、しかも系統が優良なものばかりでなかった。そのために産地間の収量や品質の差が甚だしかったという。坊津町の「中野」(この頃は、系統をその園主の名で呼んでいた)などは優良な系統で、後に皇室に献上されることになる「大里ポンカン」もこの「中野」から生まれている。どうしてそういう優良品種を選定しなかったのか謎である。

ともかく、鹿児島県のポンカン栽培のはじまりにおいては、昭和も中頃まで品種・系統がはっきりしない苗木が多くそのために混乱があったようだ。しかし品種・系統がはっきりしない苗木が多かったということは、多くの人がわざわざ台湾から苗木を取り寄せて自然発生的にポンカン栽培に取り組んだことの証左でもある。それくらい、ポンカンという果物には魅力があったのだ。

こうして、かつての篤農家が熱望したポンカンという果物は、鹿児島での栽培開始から100年以上経ち、もはや台湾からやってきた果物であるというイメージすらなくなるほど、鹿児島に根を下ろしている。その人気はかつてほどはないが、ポンカンには柑橘の品種改良がなされる以前の野性的な美味しさがあり、爽やかな香りは柑橘類の中でも独特である。決して時代遅れの果物ではないと思う。

で、ここからは宣伝であるが、私はこちらに移住してきてから、昭和30年代に植えられたであろう「在来」の野性味溢れる樹の園を引き継いで、ポンカン栽培をスタートした。2014年からは無農薬・無化学肥料の管理に切り替えて、最初はうまく出来なかったが、最近では虫害も病害もほとんど出ないようになり、今年は栽培開始以来の豊作が見込まれている。

これはいいことではあるものの、私のように個人販売しているものにとっては、通常よりもたくさんの収穫があるということは、通常より多くのお客さんを見つけなければならないということだから、これはこれで大変である。営業の苦手な私にとってはなおさらだ。

というわけで、インターネットショップ「南薩の田舎暮らし」では私がつくった「無農薬・無化学肥料のポンカン」を販売中なので、ぜひお買い求めいただけますようお願いします!

なお、業者の方への卸販売もいたしておりますので、ご要望があれば「南薩の田舎暮らし」問い合わせページにてご連絡ください。

↓ご購入はこちらから。
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のポンカン
9kg@3500円/4.5kg@1750円/3kg@1350円
送料別(400円〜)、クレジットカード利用可

【参考文献】
「鹿児島県主産地におけるポンカンの導入経路調査と優良系統の探索について」1985年、岩堀 修一・桑波田 竜沢・大畑 徳輔

2016年12月19日月曜日

「砂の祭典」を一緒にかき混ぜませんか?

以前書いたように、私は「吹上浜 砂の祭典」の実施推進本部というののメンバーになった。それで最初の会議で強く主張したことがいくつかあるが、そのうち一つが主催者側のメンバー公募である。

何しろ、ごく僅かの例外を除いて、「砂の祭典」に関わっている人たち(=各部会の部員)は、ほとんど当て職的にメンバーにさせられていて、「やりたくてやっている人」というのがものすごく少ない。こう言っては何だが、「毎年のことだからしょうがないよねー」というような気持ちでやむなく席に着いている人が多いような気がしている。

でも、そんなので面白いイベントができるわけがない。主催者側が楽しんでやっていないものを、お客さんが楽しむわけがないのである。

そしてもう一つ大事なことは、イベントでも何でも、やっている人が同じである以上、結果も同じにしかならないということである。今までの「砂の祭典」がまるでダメというつもりはないが、数々の課題を抱えているのも事実である。次回は第30回の記念大会ということで改革の道を踏み出すいい機会である。ここらで、新メンバーを入れることには意味があると思う。

そういうことで、メンバー公募をやるべきという主張をしたら、それがすんなりと通って、私も最近気づいたが「砂の祭典」のWEBサイトに下のように掲示されていた。

2017吹上浜砂の祭典を一緒に盛り上げよう! 

吹上浜砂の祭典実行委員会から南さつま市に関連する団体・会社若しくは南さつま市民の方へお知らせいたします。
吹上浜砂の祭典は2017年に30回の節目の年を迎えます。この機会に砂の祭典に携わってみたい方を募集いたします。業務内容については別添資料(6部会の業務内容)をご覧ください。申込期限については12月28日締め切りといたします。
詳しくは吹上浜砂の祭典実行委員会事務局へお尋ねください。積極的な参加をお待ちしております。

連絡先→吹上浜砂の祭典実行委員会
〒897-8501 鹿児島県南さつま市加世田川畑2648番地
(南さつま市役所観光交流課内)
 TEL:0993-53-2111←市役所の代表電話
 FAX:0993-53-5465
砂の祭典WEBサイトより引用

ちなみに、ここの別添資料(xls)に掲げられた部会は以下の通り。(1)総務部会、(2)広報部会、(3)イベント部会、(4)砂像部会、(5)施設部会、(6)物産部会。このうち、私自身は(2)広報部会に在席することになった。

それで、先日広報部会が開催されたので出席してきたが、「基本的に例年通りのことをやりましょう」という話だったので呆れてしまった。前年までの反省も、今回の目標も、何もない。驚くべきことに、予算書すら出てこない。広報に、一体いくらの予算をかけられるのかも分からない。そんな中で、どうやって広報の実施計画を立てればよいというのだろう。

例えば、広報の予算が200万円あって、それをどう使えば効果的に広報できるだろうか? と考えるのが企画ではないのか。逆に、誰に訴えたいのか、どれくらいの人に届けたいのか、そのためにはいくら予算が必要なのか? それを考えるのが企画ではないのか。どちらからでもいいが、目的と予算があって、目的を達成するために何をすべきなのか考えるのが我々の仕事なのではないかと思う。

それなのに、「前年通りやりましょう」以外のこともなく、いきなりチラシ配りに行く人員の話などするからおかしくなる。これまでの反省を踏まえ、課題を抽出し、目標を設定し、限られた予算をどう使うかと頭をひねる。そういう当たり前のことがこのイベントには全く欠けている。私は、イベントを盛り上げるアイデアは全然湧いてこないつまらない人間であるが、こういう当たり前のことを当たり前にするだけで、物事というのはどんどんよくなっていくという信念がある。

だから、会議の場でも一人でギャーギャーわめいてきたところである。正直、そのわめきがどれだけ受け止められていたかは自信がない。でも、必要以上の「熱量」をもって主張したつもりである。というのは、こういうマンネリズムに陥った場を変えるのは、グッドアイデアでもなければ、非の打ち所がない正論でもないからだ。 いくら「なるほどなー」という的確な意見を述べても納得されるのはその場限りで、いつのまにか「前年通りやりましょう」の波に押されてしまうものである。

つまるところ、こういう場を変えられるのは、一人の人間の「熱意」しかないのである。主張が完全には理解されなくても、「○○さんがあそこまで言ってるんだから、ちょっとはやんなきゃな」という気持ちにさせたら勝ちである。

そして、そんな人が二人三人といたら、場が変わっていかないわけがない。というわけで、このメンバー公募も既に期限が迫っている状態であるが、我こそはと思う人はぜひ砂の祭典事務局へと申し出てほしい。

私としては、むしろ「アンチ砂の祭典派」の人にこそ入ってもらったらいいのではないかと思う。思う存分、場をかき乱していただきたい。といっても、「砂の祭典大好き」な人だったらなおさら歓迎なのは言うまでもない。よろしくお願いいたします!

2016年12月15日木曜日

農業と「人文知」

先日、「石蔵古本市」というイベントを開催した。

これについての詳細はいずれ書くオフィシャルブログの記事に任せることにして、今日はちょっと言い訳を書いてみようと思う。

というのは、私の本業は言うまでもなく農業である。そして12月は、南薩の農家は忙しい。かぼちゃの収穫はしなくてはならないし、柑橘類の収穫準備もある、すぐそこまで来ている霜の季節に備える作業もしなくてはならない。読書のような「道楽」に興じている暇はないのだ。それも、役に立つ実用書ではなくて、思想や文学や歴史といった人文の本に!

が、農業にとって、こういう「人文知」がただの道楽かというと、実はそうでもない。それどころか、農業にとっては必要不可欠だとすら言えるのである。

それをわきまえていたのが、「少年よ、大志を抱け」で有名なウィリアム・S・クラークだ。

クラークは、明治9年の札幌農学校(北海道大学農学部の前身)の開校にあたりアメリカから招聘された。それまでは「開拓使仮学校」というのが東京に設けられ、開校準備にあたる教育を行っていたがどうもうまくいかない。実地の経験が不足して教育が学理に傾き、「農学校」であるにも関わらず専門的教育があまり行われていなかったのである。その反省に基づいて農学校の形を作っていくことが、教頭兼農場長に任命されたクラークの使命だった。

クラークの赴任期間は僅か8ヶ月という短いものだったが、その間に彼は同校の事実上の統率者としてアメリカ流の開拓者教育を行った。

ちなみに明治政府はこの頃、イギリスやドイツから次々と農学者を招聘するが、何百年も耕してきた土地の生産性をさらに上げるための農業と、森林を切り拓いて畑にしていく農業は自ずから異なるのは当然で、北海道開拓にはイギリスやドイツの進んだ農学は役に立たなかった。北海道に必要とそれたのは、まだまだ未開の沃野に溢れていたアメリカの、どんどん開拓していく農学だったのである。であるから、当時の日本は全体としてはヨーロッパ農学の輸入に努めながらも、北海道だけはアメリカ農学を基準として農業振興・開拓が進められていくことになる。これは後々まで続く北海道農業の特異性の基礎になった。

さて、そのクラークの教育を一言で言えば、「キリスト教に依拠する開拓者精神の鼓吹」ということになる。彼の教育は常に具体的・実践的であり、しかも教育の主眼は「心田(しんでん)」の耕耘にあった。同じ頃東京で、駒場農学校(東京大学農学部の前身)が現実の課題と遊離した象牙の塔的な農学を構築しつつあったのとは対蹠的に、札幌農学校では北海道の実地調査を行って開拓の課題を探り、それを教育に活かして行くという取り組みをしていた。要するに、クラークは学生たちに現実を変えていくための精神力とそれに見合う技能・知識をつけようとしていたのである。

といっても、クラークが「何が何でも根性で乗り切れ」的な根性論の開拓者精神を植え付けようとしていたと誤解してはならない。むしろ彼はそういう精神論はよくないと考えていたフシがある。例えば、クラークは学生の農業実習には労働時間に応じて賃金を与えた。農業実習といえば勉強であるから無給は当然と考えられていたが、これは学生たちに固着していた古い観念を大いに払拭したという。労働を精神の面からのみ見るのではなく、しっかり実利とセットで見せようとしたクラーク流のやり方だった。

クラークに期待されていたのは、こうした実用的な教育であったが、意外なことに彼は英文学史や心理学といった人文関係の諸科目に大きなウエイトを置いた。具体的・実践的な技能や知識の教授とあわせて、こうした人文教育はクラークの「全人教育」の要諦でもあった。

ところで、「農学栄えて、農業滅ぶ」という有名な言葉がある。これは、いろんな人がいろんな解説をしているが、要するに、「現実の農業が抱えている課題は切実なものなのに、農学者はそんなことをお構いなしに自分の研究に邁進するばかりだから、どんどん研究成果は出るかもしれないが実際には役に立たずに農業は衰退していく」というようなことを短い警句にまとめたものである。

【参考】やまひこブログ
↑「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉について徹底的な調査をしているブログ

例えば、現在の農業の抱えている課題というと高齢化とか人手不足であるが、農学はそれに対してどのようなアプローチをしているだろうか。この課題に対し、高齢者でも農作業が楽に出来るように、ということでパワースーツのようなものの開発が進められているようだが、モノを持ち上げるだけのことに何十万円もするパワースーツを買わなければならないとしたら、そんな農業はやっていけないのは自明である。必要なのはパワースーツの開発よりも、省力的に栽培できる作物なのかもしれないし、新規参入者を促す農業のやり方なのかもしれない。とにかく、普通の農家が現実的に導入できるものでないと役に立たないのである。

これが、実学としての農学がいつも対峙しなくてはならない視点であって、どんなに学理が進んでも、普通の農家に応用出来ない限り、どんな高度な技術も知識も役に立たない。ところが実際には、研究をしているうちに目的が(悪い意味で)「真理の探究」とか「限りない品質向上」とかになり、現実と遊離していくというのが、これまでの農学が辿ってきたお決まりのパターンなのである。それを戒めたのが「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉である。

クラークが人文教育を重視したのも、この言葉の戒めるものと同根であろう。農業に必要となる技術・知識、それはもちろん身につけなくてはならない。しかしそれを一歩下がった立場で冷静に見つめる目、それがなかったら、人間は技術や知識を絶対のものとして、それを使うことに疑問を持たなくなる。言い換えると、進むことしか知らない人間になってしまう。時には、立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすることが必要だ。そうでないと、普段の仕事では見落としがちな、別のやり方、別の目的、別の生き方を選択することができなくなる。

そもそも農業というのはサラリーマン仕事とは違って、生活と一体化しているところがある。農業をよくしていくというのは、農家の生活を良くしていくこととほとんど同義である。農業の生産性の向上というのは、ただ農作業のうまいやり方を開発することではなくて、農家の生き方そのものをよくしていくものでなければならない。そういう視点で農業を改善していこうと思ったら、農学だけをいくら学んでいてもダメで、農業そのもののあり方に疑問を突きつけ、人間の生き方を再考し、自分の在り方に再検討を加えていかなくてはならない。そのためには、思想や文学や歴史——「人文知」が必要なのである。

しかし、クラークの後継者たちはこれを十分に理解しなかった。クラークが充実させた人文系の学科は、彼の転籍後には徐々に縮小されていく。例えば、「心理学」と「倫理学」は廃されて「歴史哲学」となり、後にこれは「欧州史」となって、明治24年には遂に「農業史」となってしまった。人文系の学科は非実用的な「形而上学」と見なされ、そうしたものを難ずる世間の風潮に押されて消えていったのであった。

だがその後の歴史、太平洋戦争まで進んでいく我が国の突撃と玉砕の歴史を見れば、クラークが重視した非実用的な「形而上学」こそが必要なものだったことは明瞭である。時代が大正、昭和と進むと、「人文知」のような「平和的」な学問はどんどん立場が弱くなり、「歩兵術」のような「実用的」なカリキュラムに置き換わっていった。哲学や文学の学徒は「穀潰し」と難ぜられ、白い目で見られるようになった。そして誰も、立ち止まって物事の本質を考えるということをしない社会になっていた。その場しのぎで「実用的」なことをやるだけで、無駄なものは何一つ出さないように社会が切り詰められていった。

でも、立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすること、それができなくなったら、農学のみならず社会の発展は望めない。それが人間の営為そのものだからである。ひたすらに進んでいく農業、ひたすらに進んでいく社会、ひたすらに進んでいく国というのは、もはや衰退の一途を辿るしかない。

一日一日働くこと、それは素敵なことだ、と私は思う。私は仕事が好きである。しかしふとその手を休めて、本当にそれでよいのか自省する自分をいつも持っていたい。そのためには、「人文知」が必要なのだ。時には哲人皇帝マルクス=アウレリーウスの独白に耳を傾けたり、道元の禅へ思いを馳せたり、バルザックの描く人間模様に浸ってみたりしなくてはならない。そういう、普段の生活では絶対に味わえない人間性の高みへと出かけていって、自分の暮らしを俯瞰してみないことには、一体自分たちが今どこへ向かっているのかも分からなくなってしまうからだ。

だから私は、農業にも「人文知」は絶対不可欠だと思うのだ。クラークがそう確信していたように。そして道楽も、時々は必要である。立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすること、そのためのきっかけをくれるのが、道楽なのである。

【参考文献】
『日本農学史—近代農学形成期の研究—』1968年、斎藤之男 

2016年11月29日火曜日

「本で町を豊かにする」

今、すっごく行ってみたい古本屋がある。

長野県上田市にある「NABO(ネイボ)」というブックカフェである。

ここは、古本業界の風雲児「バリューブックス」が経営する古本屋だ。Amazonで本を買う人なら、「Vaboo」という古本(やCDとか)の買取サービスを一度は見たことがあると思う。この「Vaboo」をやっているのが「バリューブックス」という会社である。

この会社、基本的にはAmazonで古本を売る、ということに特化した古本屋で、2007年の設立以来、急速に成長を遂げてきた。本の在庫は約180万冊もある(2016年11月現在)。これは、ちょっとやそっとの図書館では太刀打ちできないような量である。もちろん図書館とは違って重複資料がほとんどだろうから、単純には比べられないが、蔵書数だけでいったら、国内最大の公立図書館である東京都立図書館と同じ規模なのだ。

「バリューブックス」は、長野県上田市にある。でも実は、設立当初には確か東京が拠点だったはずである。 でも商売がどんどん拡大するにつれて、倉庫費用の安い長野に完全に移っていった。ドデカい倉庫が必要だからである。それに、インターネットを通じて商売をする以上、どこの街で商売をするかは関係がなく、東京に拠点がある意味もほとんどない。

古本屋は、基本的には儲からない商売である。恥ずかしながら、私も若い頃に古本屋(正確に言えばブックカフェ)を経営することを考えたことがある。でもどう考えても利益がでない。当時は古本業界のことをよく分かっていなかったから、今になって考えてみると随分間違った計算だったけれど、「死なない程度の暮らし」しかできないような商売だ、と思ってその考えは有耶無耶になってしまった。

ところが、「バリューブックス」はかなりの利益を現実に出している。社員15人、アルバイト300人、といった(古本屋としては度外れた)雇用を生んでいるし、何より、その大量の蔵書のほとんど(記憶では95%)が、1年以内に売れていくというのである。この蔵書の回転率は驚異的だ。私の知っているリアルの古本屋では、こんなどんどん変わっていく書棚は見たことがない。

……とまあ、この「バリューブックス」の風雲児っぷりは、インターネットでちょっと調べればどんどん出てくるはずなのでこのあたりで辞めることにしよう。とにかく、ここはインターネット(特にAmazon)専門の非リアル古書店として、大成功している会社なのである。

この波は、既存の古書店も避けることはできない。聞くところによると、鹿児島の古書店も9割(!)は、実店舗を廃業させ、インターネット専業の形態へと移行してしまったそうである。実際、リアルの古書店を開いているより、インターネットに出品する方がコンスタントに売れるのだから、そこに比重が移っていくのは無理からぬことである。正直言って、私も本の半分くらいはインターネットで買っているし(地元の本屋さんすいません)、ある面ではリアル書店(新刊・古書店共に)はインターネットに太刀打ちできない。

さらに正直言うと、このド田舎に移住してきたのも、「いざとなればインターネットで大抵のものは手に入るだろう」という気安さがあってこそであって、多分、Amaonがなかったら、私はまだ首都圏で働いていただろうと思う。

では、このまま古本業界はインターネットに飲み込まれていくのか、というと、どうだろう。そこがわからないところである。理屈で言えば、凡百のリアル古本屋が生き残っていく道はなさそうだ。最近では、ブックオフですらインターネット出品の比重を大きくしてきていて、もはやリアル店舗での古本販売は余技に近い雰囲気が感じられる。

ところが、例の「バリューブックス」、2014年に初のリアル古書店「NABO」をオープンさせた。全然儲からないはずの実店舗の古書店を。そしてこの店のテーマがいい。「本で町を豊かにする」だそうだ。そうそう、それだよ! と膝を打つテーマではないか。

「バリューブックス」は、「本を通して、人の生活を豊かにする」というコンセプトを掲げていて、これはこれで素晴らしい。が、悪く言えば当たり前のことである。それこそが読書の効用そのもの、と言えるのだから。

でも、「本で町を豊かにする」は、かなり野心的な言葉である。「本で社会を豊かにする」みたいなもっと広漠とした言い方なら、逆に穏当な言葉と思えるが、ここで話題になっているのは、まさにこの会社が所在する、「長野県上田市」を豊かにしようという宣言なのだから。

そしてこの言葉、ただ言ってるだけの空文ではなくて、実際に「NABO」は町を豊かにする取り組みをしているようである。例えば、180万冊の蔵書を活かして、「NABO」では3ヶ月に一度、棚の本の全取っ替えをするそうだ。それだけで、町の知性を刺激するクリエイティブな行為だと、私は思う。その他、「NABO」は実験の場と位置づけられて本に関するイベントなどを積極的に開催しているらしい。

では、どうして、ネット専業の風雲児たる「バリューブックス」は、わざわざリアル古書店をオープンさせたんだろうか? 一つは、(つまらない考えだけれど)税金対策で、どうせ利益が税金でもって行かれるなら、損失は織り込み済みで面白い店舗をつくってみようという、経営判断があると思う。行ってみないと本当のところは分からないが、たぶん、この店舗単体で利益を出すようなビジネスモデルにはなっていないと思う。

でももう一つには、やっぱり、実際に本を読む人と、直截のつながりを持ちたい、という、人として当たり前の考えがあるのではないだろうか。

インターネット専門の古書店の仕事は、データの入力と発送作業がメインになるが、ほとんどは機械的な作業の連続で、それあたかも工場のベルトコンベア式のそれと変わるところがないと想像される。ベルトコンベアが悪いとかいうつもりはないが、こういう仕事ばかりしていると、「なんのために仕事してるんだろ」的な気持ちになってくる。

純粋に利益のために仕事をするならそれでもいいかもしれないが、(そこで働いているに違いない)本好きな人たちは、それで満足できるような人たちではない、というのもまた事実である。

本は、人生にある種の「化学反応」を起こす力がある。人に本を紹介する、ということは、その「化学反応」の発端になるかもしれない、という行為だし、そうであればその結果を見届けたいと思う。小さな「化学反応」は、ほんの少しのエネルギーを放出して、それが次の「化学反応」を起こすかもしれない。いつしか、それは「連鎖反応」になって、本当に「町を豊かに」するかもしれないのである。

実際に、私はある一冊の本が奇縁になって、一人の女性と出会い、その人と結婚したという実績(!)がある。その一冊の本がなければ、私は全然違う人生を送っていただろう。本を読むと賢くなるとか、ものしりになれるとか、感受性が豊かになる、といった煽り文句(?)はほとんど嘘だと思うが、「本は人生を豊かにする」は本当のことだ。

でもこれは、インターネットの画面を見てみても、窺い知ることはできないことである。どうしても、本は物理的な場所に置かれ、そこに誰かが訪れなくては、物語は始まらない。効率的に最安値の古本を探すならインターネットで検索すればよいが、「化学反応」を起こすような本を手に取るためには、絶対に物理的な舞台が必要なのだ。

といっても、「NABO」が実際には何のためにつくられた店なのかは知らない。私の妄想なんか、ものの数に入らないくらい高度な戦略に基づいてつくられた店かもしれないし、逆にただの勢いでつくった店なのかもしれない。でも、実際に行って見てみたら、インターネット専門古書店の先にある何かが見えそうな気がして、興味が湧くのである。

既に案内しているとおり、私は今年の12月に「石蔵古本市」という古書販売のイベントを主催する。ここに出店していただく5軒の古本屋も、営業のメインはインターネットであると思われる。そのうち1店舗、加世田の「特価書店」は、かつてはリアル店舗で営業していたが、今やインターネット専業になった店だ。

新刊書店の撤退という波と相まって、街からはどんどん本が失われていっている。インターネットで買えるからいいじゃん、と思っていたらいけないような気がする。なぜかは知らないが南薩はもともと古本屋の不毛地帯で、以前から古本屋は少ないのだが、これではつまらないと思う。

私は単純に、本がある風景、本がある街、本がある人生が好きなのだ。たぶん「本」そのものよりも。 「本」もそれなりに読むが、愛書家かといわれたら違うと思うし、それに読む本の数も読書家と言えるほどのものではない。正直、「本好き」のカテゴリには入らないと思う。でも一冊の本をポケットに忍ばせる行為が、大好きなのだ。

「NABO」の試みになぞらえるわけではないが、ド田舎で古書市を開催してみようというのは、私なりにこれからの「本と街」の姿を見たいと思う、密かな企みである。どうせ市を開催するなら、人がたくさん来る街中でやる方がいいに決まっている。でも、これは、合理的に検討して、戦略的に決定した開催地ではない。ただ、自分の街で古書市をやりたいという、もっと人として原初的な欲望に基づいた企画なのである。

だからあんまり偉そうなことは言わないようにしよう。あるべき本と街の関係とか。これからの書店業界がどうあるべきかとか。そもそも部外者なんだし。いや、古書店関係者でもなんでもない、ただの百姓である私が、古本市を主催するということ自体がおこがましい。

ただ、私としては、ほんのいっときでも、我が南さつま市に、本が集う風景を、出現させたいだけなのかもしれない。そして、ぜひ、これを読んでいるあなたにも、その風景の一部になってもらいたい。

【情報】
「石蔵古本市—万世*丁子屋石蔵」
日時:12月9日(金)-12日(月)10:00-17:00(初日13:00〜、最終日〜15:00)
場所 :南さつま市加世田万世 丁子屋石蔵
参加古書店:あづさ書店 西駅店泡沫(うたかた)古書リゼット(レトロフト内)特価書店つばめ文庫
協力:南さつま市立図書館(12月11日(日)11:00より、会場にて除籍本の無料配布を開催) 
主催:南薩の田舎暮らし
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。

2016年11月24日木曜日

11月25日(金)カタルバーで、「田舎工学序説」再び

11月25日(金)、天文館のKENTA STOREで行われる「KATARU bar(カタルバー)」というイベントに出る。

実は私も行ったことがないが、カタルバーはこれまで6回開催されていて、要するに、ゲストを招いて、そのゲストを中心に集まったメンバーで一緒にゆるく語りましょう、というイベントみたいである。私は今回、そのゲストになったわけだ。

正直言うと、私はこういうのに積極的に出るタイプではない。どちらかというと事務方タイプというか、裏方で地味な作業をするのが好きである。まあ、人と会うのは嫌いではない。割と出会いを楽しむタイプだとは思う。でも実を言うと、初対面の人と内容のある話をするのが苦手で、無難な話題で終始してしまうところがある。要するに、こういう場にいても、つまらない人間かもしれない。

そんな私がなんでわざわざこのイベントに出ることになったか、というと、ぶっちゃけて言うと「営業」のためなんである。「営業」というには実際は緩すぎるかもしれないので、もう少し適切な言葉でいうと「プロモーション」である。

というのは、我が「南薩の田舎暮らし」、割と販売に苦しんでいるわけだ。

特に加工食品の中心商材である「南薩コンフィチュール」(ジャム)。自分で言うのも何だが割と評判はいい。地元ではかなり浸透してきたと思うし、物産館でも徐々に売れてきた。「とっても美味しかった!」というご感想をいただくことも多く、有り難いことである。

……が、これまで「売れる分だけ製造しよう」という安全策を取ってきたために、販路というものが未だにほとんど構築されていない。だから、評判がいい割には、売れ行きがよろしくない。当然である。売っている場所がほとんどないのだから!

インターネットでも販売しているが、送料の関係でこれはなかなか難しいので、やはりリアルの店舗で売られる必要がある。そのためには、まずは鹿児島市内では唯一、南薩の田舎暮らしの商品を置いていただいている「KENTA STORE」での販売が好成績にならなくてはいけない。闇雲に新規開拓をするより、今おつきあいある所でしっかり成功するのが大事だと思う(もちろん新規開拓も大事ですよ。卸先募集中!)。

というわけで、微力ながらKENTA STOREでの売上に貢献したいし、せめて顔見せすることで親近感を持ってもらおうという、そういう魂胆である。

でも実はこれも建前で、本当のことをいうと、自分へのプレッシャーというか、人前に出て「ちゃんとやんなきゃ」みたいな気持ちを再確認するという意味合いの方が本質かもしれない。なにしろ、普段は植物ばかり相手にしているので、なんだかちゃんとした社会生活が営めないほどにノンビリした感覚になりがちである(暇という意味では全然ないですよ)。いっちょここらで、「ビジネス」の荒波に揉まれておかないといけない。

当日は何を話すかというと、先日マルヤガーデンズで講演した「田舎工学序説」のスライドを再利用する。

再利用は手抜きかもしれないけれども、「行きたかったけど行けなかった」という声もチラホラとあったので、そういう人に向けて改めて話してみることにした。そもそも、カタルバーは何かを発表する場というよりは、雑談がメインと聞いている。酒の肴になればいいという程度に、自己紹介の代わりとしての「田舎工学序説」の説明をしたい。もちろん、(先日の講演でも言ったように)さらに突っ込んで「田舎工学」について聞きたい人が、疑問をぶつける場として捉えるのも結構である。

ということで、11月25日(金)にKENTA STOREにてお会いしましょう!

【情報】
KATARU bar #07
日時:11月25日(金) 19:00-22:00 ← ご都合のよい時間にくればOK

場所:KENTA STORE(天文館、こむらさきのちょっと先)
参加無料ですが、バーと言ってるくらいなので、たぶん飲み物をオーダーしていただくことになると思います(あやふやですいません)。 が、別にお酒を飲む必要はないです。というより私自身がノンアルコールです。あと、出来れば「南薩の田舎暮らし」の商品も買って下さいね!

2016年11月22日火曜日

「イベントを育てる」ということ

11月13日(日)、3回目となる「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を笠沙美術館で開催した。天気にも恵まれ、多くの方にお越しいただき、主催者としては大成功、と思っている。

ところで、薄々思っている方も多いと思うが、このイベント、第1回、第2回もあんまり内容が変わっておらず、今年はギター演奏が新しい取組だったものの、マルシェも昨年と全く同じメンツだし、それどころかチラシのデザインもほとんど同じである。

マンネリ、と言われたら返す言葉もないのだが、一応自分の中で思っていることがある。というか、迷っていることがある。それは、「イベントを育てていくとはどういうことか」ということである。

私も一昨年に初めてこの「珈琲を飲む会」を開催したときは、「来年はもっと盛り上げるぞ!」と意気込んだし、2回目をやった後も「どんどん発展していったら面白いなー」と思っていた。もちろん3回目が終わった直後の今でも、来年に向けたアイデアを既に考え始めている自分がいるし、来年はもっと盛り上がって欲しいと思っている。でも昨年のイベント後くらいから「お客さんをもっと増やして、マルシェの出店ももっと増やして〜」というような拡大路線はちょっと違うような気がしてきていた。

その気持ちが明確になったのが、(あんまり名前を出すと可哀想だけれど)今年の7月に行われた「ふるまい!宮崎」というイベントの評判を見てから。

このイベント、4500円払って九州各地の名物料理を食べ放題、というような趣旨で行われたが、7月の炎天下の中なのにテントが不十分、会場キャパを遙かに超えるお客さんでごった返して何を食べるにも長蛇の列、しかも飲み物持ち込み禁止となっていたことから熱中症で運ばれる人が続出…、という地獄のイベントだったようだ。

【参考】炎天下で行列、売り切れ続出……宮崎県の食フェスに批判殺到 実行委が謝罪

これ、主催者側の問題を挙げればキリがないが、私なりに考えると、結局「ふるまい」を標榜しながら己の利益しか考えなかった、という一点に集約されると思う。

でも自分だって、イベントをやるとなればやっぱり利益は出て欲しいと思うものだし、というか利益が出なかったら次が続かない。実際、過去2回やってみて、一人当たりコーヒー代込みで500円を徴収しないと赤字になることがわかったから、今回はちょっと値上げして参加費500円にしてみた(高いよ、という人が一人もいなかったので安心)。

そして、利益の源泉は、多くの人に来てもらうということに尽きるし(客単価を上げるという方法もあるが、これはイベントの性質上なかなか難しい)、多くの人に来てもらうことはイベントの趣旨に適う場合も多い。例えば、「珈琲を飲む会」は笠沙美術館からの素晴らしい眺めを知ってもらうということが目的の一つであるが、こういう目的だったらお客さんは多ければ多いほどいいわけだ。

でもだからと言って、見境なくお客さんを呼んでしまうと、誰にとってもよい結果にならない。

今回の体制での、会場キャパシティは1日で230人(うち子どもが1割程度)くらいだったろう。それ以上にお客さんが来てしまうと、コーヒー1杯お渡しするのにも随分お待たせする感じになってしまったのではないかと思う。今回の実際のお客さんの数は約180人だったので、そのキャパを考えるとまだまだ余裕があったが、もしネットでバズって(非常に拡散して)その倍の人が来てしまっていたらイベントが崩壊したはずである。

そもそもコーヒーは、ゆったりした気持ちで飲みたいものだ。出来るなら、座り心地のよいイスも欲しい。心地よい音楽、気の置けない仲間、暑くもなく寒くもない気候、そして見晴らしのよい景色! このイベントは、残念ながら「座り心地のよいイス」だけはないが、その他は大体揃えられる環境で、一緒にゆったりコーヒーを飲もうというものなのに、大勢の人でごった返してしまっては、その意味がなくなってしまう。

じゃあもっと体制を充実させればいいじゃん、と思うかもしれないが、コーヒーの供給能力を高めることは出来ても、会場の広さは同じなわけで、大勢のお客さんが来すぎるとゆっくりできないというのは変わらないと思う。だから「イベントがもっと盛り上がるといいなー」とは今でも思っているが、それは大勢の人が来るというよりは、質的なもの(というより「意味的なもの」)を高めるという方向性だ。

「イベントを育てる」というのは、最初に打ち立てる頃は、とにかく集客力を高めることに違いない。たくさんのお客さんに来てもらえるように、コンテンツを充実させて、広報を頑張る。これはこれでやりがいのあることだし、また難しいことである。「海の見える美術館で珈琲を飲む会」はまだこの段階だ。今年も、いろいろな要因はあったが、結局は自分たちの広報不足で、午前中はだいぶお客さんが少ない時間帯があった。

でもその段階を超えると、お客さんは多ければ多いほどいい、ということはなくなって、そのイベントが本領発揮するだけの人数が集まればいい、ということになってくる。そしてこの段階になると、そもそも「人数」そのものではなくて、「ちゃんと来るべき人が来たか」というようなことの方が重要になってくる(はずだ)。

広報は、闇雲に拡散させるよりも、「こんな人に来て欲しい」という人にこそ届くものにしなくてはならない。もっと大げさなことをいうと、「あなたの人生において、ここに来ることが必要である」というような人に届けたいと思うのである。

先日、マルヤガーデンズで「田舎工学序説」と銘打った講演会を行ったが、そこに非常に意外な人が来て下さっていて驚いた。その人とは、12年ぶりの再会だった。私の講演が、その人にとって必要なものだったとは全然思わないけれども、(ここには書けない事情から)その再会は必要なものだった。いや私にとっても、あの再会のために講演会があったのかもしれない、と思ってしまうような出来事だった。こういう「届き方」があるから、広報というのは侮れない。

そして、時にこういう再会があるものだから、一度打ち立てた「場」というのは、簡単に変えていかない方がいいのかもしれない。同じメンツが一年に一度再会して、同じイベントをする、というのも、一見マンネリに見えるが、そういうやり方でしか提供できない価値もある。でも一方で、メンバーが固定化することは閉鎖的なムードをも産む。やはり開かれた場でないと、内容的な充実は望めない部分があるのでそのあたりのバランスが難しい。基本的にはオープンにしつつ、変わらない何かを持ち続ける、というのが理想のあり方なんだろう。

というわけで、くだくだしく書いてきたけれども、「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を、もっとステキな場にしていきたいと思っている。今のところ、そのアイデアは全然ないが、来年やるときも、あんまりこれまでと変わらない感じで、でも何か新しいものをちょっとだけ付け加えて。広報は、(今回はちょっとやらなさすぎたので)2倍くらいに強化して、でもやたらめったら声を大きくするんじゃなく、届けるべき人に届くように。来てくれた人が、ゆっくり景色とコーヒーを楽しめるように。

このイベントは、究極的には「自分が楽しいからやりたい」というエゴでやっている。そういう自分勝手なエゴが中心にあることを自分でも忘れないようにして、自分なりのやり方で「イベントを育てて」いきたい。

2016年11月3日木曜日

「石蔵古本市」でぜひ「入り口の本」を。

新刊書店は大きければ大きいほどよいが、古本屋の場合はそうとは限らない。

最近では、本を買うだけならAmazonで事足りるようになったから、目的の本が決まっているなら、書店に足を運ぶ必要もない。書店に行くのは、本を買うということよりも、どんな本が並んでいるのかを見たり、店頭の本をペラペラめくったり、本の匂いを嗅いだりするためになってきた。要するに、特定の本を買うためではなくて、何かいい本ないかな、と思っていくのがリアルの書店である。

Amazonでもそういう機能は充実してきて、オススメ機能はそれなりにいい本を教えてくれるし、立ち読み機能も有り難い。でも、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」的なオススメのやり方では、自分の興味分野を深めていくことはできても、全く新しい分野への扉を開くということは難しい。

これまで読んだことのなかった分野の本を手に取ってみる、それには、古本屋に行くのが一番だ。

というのは、古本屋は、新刊書店のような本の並べ方をしていない。ブックオフのような店の棚は新刊書店と大同小異だけれども、普通の古本屋はあんなに律儀に分類していない。

味のある古本屋はまず棚の作り方がいい。目的の本を探すためではなく、本そのものが魅力的に見えるように並べてある。雑然とではなく、有機的に、本が配列されている。

ジャンル毎の分類というのはもちろんある。全くのカオスだったら、眺める方も疲れる。だが、歴史の本の隣に文学があったり、人類学の本の隣に素粒子の本があったりする。興味のある分野を眺めながら、同時にこれまで関心がなかった分野の本も目に入ってくる仕掛けになっているわけだ。

私は好奇心旺盛な方だと思うが、やっぱり新刊書店に行ったら、自分の関心ある分野の棚にしか行かない。だから、新たな分野への触手、というのはなかなか伸ばしにくい。でも、古本屋に行ったら、特にそれが小さい古本屋の場合は、端から端まで全ての棚に目を通すようにしている。だって、自分の関心ある本がどこに置かれているかわからないからだ。それで結果的に、これまで手に取る機会のなかった本にまで、触れる機会を持つ。こうして、新たな沃野へ踏み出したことが、これまで何度あっただろう。

東京の自由が丘に東京書房という小さな古本屋があって、東京に住んでいた頃、大学も近かったのでよく足を運んだ。ここがまさにそういうお店で、ほんの6畳もないような店なのに、行くたびに新たな発見があるようなところだった。今考えてみて、ここで出会った一番思い出の本というと、デズモンド・モリス著『人間動物園』だ。

この本をきっかけにして、私は人類進化と心理のあり方に興味を持ち、スティーブン・ピンカーE. O. ウィルソンジョン・メイナード=スミスジェフリー・ミラー日高敏隆、マーク・ハウザーといった社会生物学・進化心理学の諸作を読み漁ることになる。こうした読書体験があったのも、その入り口となる『人間動物園』があったからで、もしこの本と出会わなかったら、この分野に興味を持つことがあったかどうだか分からない。

こういう、「入り口の本」というのが読書人生にはとても重要で、時々「日本文学しか読みません」とか、「推理小説ばっかり読んでます」とかいう人がいるが、そういう人もその分野に強烈なこだわりがあるというよりも、単に他の分野への「入り口の本」に出会っていないだけだったりするのである。

でも「入り口の本」を買うのは、ちょっと勇気がいる。今まで手にとったことのなかった分野、著者、出版社。肌に合うか分からない。読み通せないかもしれない。頑張って読んでも、結局つまらないこともある。そんなリスクがあるものに、1000円も2000円も使いたくないのが人情だ。

だから、古本屋がなおさらいいわけだ。結果的につまらなくても、300円とか500円だったら許せる。気軽に、未知の分野に踏み出せるというものである。

つまり、私にとって古本屋は、ただ安く本が買える場所ではなくて、未知のものに出会うための場所なのである。

というわけで、だいぶ前置きが長くなったが、そういう私がこのたび古本市を企画した。リニューアルしてステキな空間に生まれ変わった丁子屋石蔵(登録有形文化財)をお借りして、鹿児島の古書店5軒に集まってもらい、12月に4日間だけ古本市を開催する。

出張販売だからなおさら棚数は限られる。隅から隅まで棚の本を眺めて欲しい。お気に入りの作家の本を探すのももちろん結構。でもその中で、あなたにとっての「入り口の本」との出会いがあれば、企画者冥利に尽きるというものである。

出版物販売額の実態2016』(日販)によれば、南さつま市の一人あたりの年間出版購入額は5,362円。全国平均は14,260円で、鹿児島県平均は11,136円だそうである(いずれも推計)。つまり南さつま市の人は、全国平均と比べたら1/3しか本を買っていないし、鹿児島県平均と比べてもたったの1/2程度(!)なのだ。

南さつまの将来を考えてみると、これはとても不安な傾向と言わざるをえない。本をことさら素晴らしいものという気はないが、本を通じてしか得られないものは多い。南さつまはタダでさえ僻地で遅れたところなのに、本すら読まないのでは時代に取り残されてしまうのではないか。

でも南さつまの人が、本に関心がないというわけではないと思う。書店の少なさ、図書館の貧弱さ、そうしたものが「入り口の本」との出会いを減らしているだけではないだろうか? 南さつまの人だって、本と出会いたがっているのではないだろうか?

私はそう思っている。だから、古本市の企画に意味があるんじゃないかと考えた。こんなの、本好きの酔狂な道楽なのかもしれない。でも、来てくれた人がたった一人でも、「入り口の本」と出会ったら、すごいことだと思う。その人の人生が変わってしまうかもしれないのだから。

「読書は私たちにまだ見ぬ友人を連れてくる」——バルザック

その友人は、「新しい自分」かもしれないのだ。

【情報】
「石蔵古本市—万世*丁子屋石蔵」
日時:12月9日(金)-12日(月)10:00-17:00(初日13:00〜、最終日〜15:00)
場所 :南さつま市加世田万世 丁子屋石蔵
参加古書店:あづさ書店 西駅店泡沫(うたかた)古書リゼット(レトロフト内)特価書店つばめ文庫
協力:南さつま市立図書館(12月11日(日)11:00より、会場にて除籍本の無料配布を開催) 
主催:南薩の田舎暮らし
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。

2016年10月13日木曜日

「砂の祭典プラス」

2017吹上浜砂の祭典実施推進本部会議というののメンバーになった。

以前、「人間讃歌としての砂の祭典へ」という「砂の祭典」批判の記事を書いた。正直言うと、「砂の祭典」の時期は農繁期なので会議のメンバーになるのはあんまり前向きではなかったが、こういう発信をしている以上、公の席で意見をいう機会が与えられたら断るのはフェアではない。

というわけで、先日初回会議があったので出席してきた。

内容は、来年2017年の「砂の祭典」をどうしていきましょうか、というものだ。でも出席してみてわかったのは、これは「実施推進本部」という名前はついてはいるが、その実態は「連絡会議」のようなもので、青年会議所とか文化協会とか、それから役所の他部署といった関係機関に対する事前説明と調整を行う場だということだ。

だから企画立案機能なんかはほとんどなくて、それはこの会議に付属(?)している「デザイン会議」というのが担っているらしい。

どうやら、元々はこの実施推進本部で企画立案をしていこうということだったらしいが、各団体の代表者が席を連ねている関係上、「意見ありませんか?」…シーン…みたいなことが続いて、 検討機能が失われ、説明機能だけが残っていったみたいである。

要するに、この会議のメンバーにはアイデア面はあまり期待されていないようだ。が、黙って席に座っているのは無駄なので、自分なりに意見を言っていきたい。

さて、先日の会議ではまず、「このイベントの目的は何で、費用対効果は何で測定しているのか」と質問してみた。それに対し、「地域活性化を目的としていて、費用対効果は毎年計測しているわけではないが、3年ほど前に鹿児島経済研究所(鹿児島銀行の関係機関)に市内の経済効果を見積もってもらったところ3億円くらいあり、それが効果だと考えている」といった回答があった。

その後、来年の「砂の祭典」の検討状況の説明があり、来年は30回記念なので例年とは違ったことをやりましょうということで、大まかには「派手なことをやる」「市民の参加を促す」の2つの方向性が示された。「派手」については私はあまりアイデアがない人間なので措くとして、ここでは「市民の参加を促す」について考えてみたい。

会議では、祭典会場で「郷土芸能を披露」とか「旧市町村ごとの物産販売」とかのアイデアが示されていて、そういうのもいいと思うが、そもそもこのイベントに求める「効果」が地域経済への貢献なのだとしたら、直接的にそれを形にする方がよいように思われる。せっかく何万人もの人がこのイベントに訪れるのだから、砂の祭典だけを見て帰るのではなく、市内の他のところにも足を伸ばしてほしい。

そのためには、砂の祭典そのものの内容を充実させるのと同時に、砂の祭典とコラボした(というより同時期に他の場所でやる)イベントの実施や、市内の他の観光情報の発信が重要だと思う。そもそも、砂の祭典公式WEBサイトを見ても、これまで市内の観光情報一つ載っていなくて、イベントの説明に終始しているので、これをまず改めるべきだと思う。波及効果を望むのであれば、祭典の周辺の情報も発信していかなくてはならない。

それで参考になるのが、蒲生という街の「カモコレ」という取組だ。

「カモコレ」は、「蒲生ワクワクコレクション」の略称で、これは例年2月〜3月の約1ヶ月間、蒲生町内で行われるさまざまなイベントを寄せ集めたものである。「寄せ集め」というと言葉が悪いかもしれないが、これが偉いのは「ちゃんと寄せ集めている」ところで、「カモコレ」という冊子を作って全イベントの情報をまとめ、しかも申込事務局を一元化(lab蒲生郷というNPO法人が担当)しているのである。

イベントの企画というのは、ちょっと何かやっている人はすぐに思いつくものだが、結局苦労するのは人集めである。普通の人は知り合いに声を掛けるくらいしか手段がない。インターネットでお知らせすればいいじゃんと思うかもしれないが、インターネットの力は実際には(特に田舎では)ものすごく小さい。だから、「アイデアはいいけど、人が集まらないよね、きっと」ということでポシャる場合がとても多いと思う。

「カモコレ」の場合、共通の冊子やWEBサイトで事務局が広報してくれるわけだから、この一番苦労する人集めが自然にできる仕組みになっているのである。しかも、一度カモコレ(の中のどれかのイベント)に参加した人は、他のイベントも少なくとも冊子上は目にすることになり、「今度はこれにも参加しようかな」という人も出てくる。それぞれのイベントの集客力は僅かでも、それを寄せ集めることによって大きな広報力になるのである。

こうしたことから、最初は本当に寄せ集め的だったイベントが徐々に充実してきた。「こういう仕組みがあるなら私もイベントをやってみたい」という新規参入者が増えてきたからだ。共通の仕組みがあることでイベントの質も高まってきた。そして最近ではワークショップ・講座系の取組が周年で行われるようになり、「学びのカモコレ」と題した一種のカルチャーセンターみたいになってきている。

結局、「カモコレ」の本質的な価値は、町内各所で行われていた小さなイベントの情報をまとめ、実施時期を揃え、可視化することで集客力を高め、イベントをやるハードルを下げて町民の自主性と企画力を育てていったことである。こういう取組が、「砂の祭典」でもできないものか。

「砂の祭典」は実施期間が約1ヶ月ある。「カモコレ」とほぼ同じくらいの期間である。この間に、市内各所で行われるイベントの情報をまとめて「砂の祭典」のWEBサイトやチラシで合わせてお知らせするのはどうだろう。「砂の祭典」を見に来た人も、それだけを見て帰るより、ついでにどこか行ってみたいと思っているはずである。つまり「砂の祭典」に少し「プラス」してみたいはずだ。

何をプラスのメニューにできるのかは市民の方で考える。イベントといっても、最初から大それたことを考えるのではなく、お店の特売みたいなものでもいいと思う。今あるイベント(えびす百縁市みたいな)の時期をずらしてくるのでもいい。とにかく、せっかく遠方から砂像を見にお客さんが来てくれるのだから、南さつま市を巡ってもらう、その足がかりになればよい。

「砂の祭典」に「市民の参加を促す」のはいいとしても、よくないパターンとしては、別にやりたくもないことをやらされたり(郷土芸能を本当に会場で披露したいと思うんだろうか?)、買いたくもないチケットを買わされたり、小学校や中学校といった動かしやすいところが強制参加させられたりすることだ。こういうことをすると、動員をかけられた方は本当に疲れてしまう。主体性なく関わったイベントというのは本当に疲れるのである。

疲れたら、「地域活性化」とは逆である。「地域活性化」という目的そのものが曖昧だ、と私は思うが、少なくとも地域活性化を掲げるなら、市民の元気が出る「砂の祭典」にしないといけない。「砂の祭典」で疲れてしまって、本当にやりたかった他のことができなくなってしまったら本末顚倒である。

地域活性化とは、結局は市民の自主性が高まり、活動量が高まることだと私は思う。活性化した地域というのは、住民が、それぞれやりたいことに楽しく取り組んでいる地域だ。 これが「砂の祭典」の目指すところなのであれば、ことさらに「市民の参加を促す」よりも、「砂の祭典」をうまく活用してもらって、それぞれがやりたいことを実現できるプラットフォームになっていくべきだ。

来年の「砂の祭典」は第30回記念。これを期に、「砂の祭典」は「砂の祭典プラス」へ。「砂の祭典+スキューバダイビング」「砂の祭典+物産館めぐり」「砂の祭典+カフェでまったり」といった楽しみ方ができるように、もっと正確に言えば、そういう楽しみ方を可視化できるように、そしてそのマーケットに気軽に参入できるようになってもらいたい。

2016年10月10日月曜日

オリンピック、万博、高速鉄道

先日、菅官房長官から、2018年が明治維新から150年の節目に当たるということで政府として記念事業を実施するとの発表があった。

【参考】官房長官 明治維新から150年で事業検討…閣僚に要請(毎日新聞)

私も明治維新とは縁が深い鹿児島の住人であるし、記念事業の内容には、明治期に関する資料の収集・整理、デジタル化の推進なども計画されているそうで、喜ばしく思う部分もある。しかし、この建国記念行事は、戦中に行われた「紀元2600年記念行事」と重なるところがあって一抹の不安を覚える。

紀元2600年記念行事」とは、1940年に実施された国民的な祝賀行事で、この年が神武天皇の即位より2600年に当たる(とされた)ことから計画されたものだが、要するに国威発揚のために行われたものである。内容も、今から見ると歴史的・考古学的事実を無視した無意味な顕彰碑が多く建立されるなど真面目さに欠き、ただ「大和民族の優秀さ」だけを称揚する非常に無残なものだったと思う。

もちろん来るべき明治維新150年の記念事業は、この戦中の大規模祝賀行事とは社会情勢も目的も、規模も水準も異なるものであることは明白だが、「明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは極めて重要だ」(菅官房長官)というようなコメントからは、国威発揚という点では似たものを感じてしまう。

でもそれ以上に、今の日本の状況は、戦前・戦中と重なって見える。

紀元2600年記念事業では、東京オリンピック(夏季)、札幌オリンピック(冬期)、万博が招致され、なんと開催が決定していた。これらは、戦況の悪化により実際には開催されず返上されることになるが、日本は1940年の時点で、アジア初のオリンピックと万博の招致に成功していたのである。

さらには、記念事業の一環ではないが、この頃「弾丸列車」というものが計画されていた。これは朝鮮や満州などとの物流を改善するために東京−下関間に高速鉄道を敷設するというもので、太平洋戦争の戦線が拡大するにつれ順次計画が延伸され、朝鮮・満州のみならずシンガポールまで鉄道を繋げるという壮大な鉄道構想まで膨らんでいた。

こちらも戦況の悪化と敗戦によって事業は途中で頓挫し、そのものは実現することはなかったが、この高速鉄道計画は違った形になって戦後の「新幹線」へと繋がっていく。

翻って今の時代を見てみると、2020年には再びの東京オリンピックが開催予定であり、2025年には大阪万博を招致しようと活動が行われている。 さらには、3兆円もかけて東京−大阪間にリニア鉄道を敷設しようという大計画が進行中である。何か、戦中と似ていないか。

当時の社会の趨勢も、今と似ている。大正時代には急激な経済成長・グローバル化の時代があって、その後世界恐慌などで景気が減速、戦争とその遂行のために物資を統制してなおさら景気が悪くなって日本は長期不況に陥っていた。東京オリンピックや万博というものは、そういう停滞感を打破するためにも計画されたものだった。高度経済成長期からバブル景気を経て、その後の長期不況に陥っている現代日本が東京オリンピックや万博に頼るのも全く同じ心境であろう。

リニア鉄道と弾丸列車は同列には比較できないが(というのは弾丸列車は需要に基づいて計画されたもので、リニア鉄道はほぼ需要を無視した事業だから)、現代に高速鉄道計画がまた動き出しているのは歴史の妙と言わざるをえない。

ここまで読んで、読者の方は思うかもしれない。「オリンピックも万博も、新幹線だって戦後に実現したもので、ことさら戦中との類似性を取り上げるのはおかしい」と。確かに、東京オリンピックと新幹線開通は戦後復興の、万博も経済発展の象徴としての意味を持つ。オリンピックや万博、高速鉄道を、不況期の苦し紛れの公共事業としてだけ見るのは公平な見方とは言えない。

しかし戦後に行われた東京オリンピックや万博ですら、景気と無関係には考えられない。日本では、余剰労働力の吸収力がある産業がほぼ土木・建設業に限られることから、経済政策を考える上で、公共事業に大きなウエイトが置かれることはやむを得ないのである。

そのおかげで、日本の土建業の施工規模は巨大なものとなっており、少し古い統計だが「1994年の日本のコンクリート生産量は合計9160トンで、アメリカは7790トンだった。面積当たりで比較すると、日本のコンクリート使用量はアメリカの約30倍になる」というくらいの現状だ(参考文献 アレックス・カー『犬と鬼』)。

民主党政権下では「コンクリートから人へ」というかけ声の下、この傾向を是正する方針が示されたが、別段「人」への投資を増やすということもなく、単に「コンクリート」を削るだけのマイナスの政策であったためうまくいかず、東日本大震災によって土木業界の重要性が再確認されたこともあって、今になって大規模公共事業が再び安易に肯定される雰囲気になってきている。

しかしながら、大規模公共事業は社会に非常なる禍根を残すものでもある。というのは、大きな工事をする時にはたくさんの人間が必要になるが、工事が終わってしまえばその人間は不要になるからだ。戦後の東京オリンピックや万博の場合もそうだった。これらの開催のために、工事が急ピッチで進められ、たくさんの人間が東京や大阪に集められた。「国の威信」をかけた事業だからということで工期が最優先となり安全対策は軽視され、多くの人間が犠牲になった。しかし会場やインフラが完成してみると、それらの労働者は全く不要な人間になってしまったのである。

こうして出現・拡大したのが、東京の山谷、大阪のあいりん地区といったドヤ街、すなわちスラム街だったのである。都合よく集められ、そして捨てられた人々の行き着くところがこうした街だった。さらには、こうした街に蟠(わだかま)った余剰労働力が、次の大規模開発を支え、さらに人が集められるという循環が起きた。今、またこうした街に人々が都合よく集められようとしていないか。

私自身は、公共工事には否定的ではない。日本はなにしろ雨の多い土地柄であるので、舗装されていない道路はちょっとの坂でも梅雨時にはぬかるんで4DWの車でないと通れなくなる。一日に数台の車しか利用しないようなところでもアスファルトで舗装しているのは、一見無駄だがやっぱり必要なことだ。災害が起こった時も、ある程度の遊軍的な土木事業者がいないと復旧が遅れる。狭い国土にたくさんの土建業者が犇(ひし)めいているのは非効率的だとしても、「コンクリート」の使用量が非常識だとしても、やはり土建業は日本の生命線であることも確かなのではないか、と思う。

だが問題は、やり方である。日本が世界一「コンクリート」の使用量が多いのだとしたら、「コンクリート」を使う技術力でも世界一であってほしい。公共事業に頼らざるをえない社会なのだとしたら、世界の国が見習うべき公共事業をする国であってほしい。

公共事業を行う前の事前評価(環境アセスメントや費用対効果の検証)、住民説明や合意形成、環境と調和したデザインや効率的で美しい構造、設計や施工の進め方も公明正大かつスマートに、そして完成後の運用とメンテナンスのノウハウも。こうした公共事業の全てのフェーズにおいて、世界最高水準の仕事が遂行されて欲しいのである。

もちろん、田舎のデコボコ道を舗装するために、世界最高水準の技術を使うというのは、それ自体がある種の無駄である。年度末に予算が余ったときに片手間でやればいいような公共事業もあるだろう。しかし「美しいインフラを作る」、ということは国土保全の上でとても重要であるから、田舎のデコボコ道と忽(ゆるが)せにせず、住民説明や事前評価といったことはいちいちキッチリやって欲しいと思う。

そして、そうしたことをやれる土建業界であるためにとても重要なことがある。それは、コンスタントに仕事があるということだ。オリンピックや万博は、確かに土建業界を活性化する。でもそれはほんのいっときのことである。工事が終わったら、また多くの人間は不要になるのだ。質の高い仕事をするには、そういう業界の構造であってはいけない。細くてもいいから、確実に長期間仕事があるとわかっていれば、正社員を登用できるし、徐々に技術を高めていける。リニア鉄道の建設に3兆円ドカーンと使うより、その3兆円を長く確実性を持って費消していく方が、土建業界の成長に役立つのではないか。

日本の技術力と公共事業の規模を考えると、他の国が「公共事業によって何か作りたい」となったとき、真っ先に日本へと研修に来る、というような国になってもおかしくない。「コンクリート」を扱う技術力だけではない。それの基盤になる社会と人間を扱う技術でも世界最高水準を目指して欲しい。それが日本の土建業界の進むべき道だと私は思う。

軍事国家日本は、景気浮揚・国威発揚のためにオリンピックや万博を安易に利用した。でも今では、同じオリンピックや万博をするのでも、全く違うやり方が可能なはずである。イベントが終わったら大量の人間が不要になってしまうようなやり方をしなくても済むはずだ。建国の記念事業をするのでも、自画自賛と中身のない打ち上げ花火ばかりをするようなみっともない真似をしなくて済むはずなのだ。

そして我々は、無謀な戦いをした先祖よりも、賢くなっているはずである。

私は、そう信じたい。

2016年10月5日水曜日

「農業技術立国」へ

何を隠そう、私は以前文部科学省、その旧科学技術庁系で働いていたので、今年も日本人がノーベル賞を受賞できたことを大変嬉しく思っている。ノーベル賞の受賞者数を指標化することはよくないが、過去の日本の科学技術政策の成果の一つであるといえるだろう。

今「過去の」とつけたのは、日本の科学技術を取り巻く環境が急速に悪化しているからで、特に国立大学は運営費交付金が減らされ、その分競争的資金(申請型の資金)が増えたのはまだいいとしても、競争的資金がどんどん花形の大型プロジェクトに集中して地味な基礎研究がやりにくくなり、さらに資金の申請・消化・報告に厖大な事務作業が付帯して研究・教育に集中できなくなってきているのである。

諸外国が、高等教育や科学技術政策をどんどん充実させていく趨勢にある中、先進国ではほぼ日本だけがこういった分野を縮小させており、非常に憂慮すべき状況にある。

要するに、科学技術立国を謳ったのは過去のことで、今や日本の科学技術は立ち後れつつあるというのが実際ではないか。科学技術は軽視されつつある、と言わざるをえない。

今も、私の元同僚はこうした状況と戦っているだろうと思う。文科省は科学技術関連予算を減らしている張本人でもあるので世間の風当たりは厳しいが、もちろん本心では充実させたいと思っている。しかし日本の厳しい財政状況の中では予算を取るのが非常に難しく、あんまり老獪ではない文科省は割を食いやすい役所である。でも年金・福祉・医療だけを考えていては将来はない。ノーベル賞の連続受賞を口実に、是非財務省とやりあっていただきたいと思う。

ところで、軽視されているのは科学技術だけではないことを、身近なところでひしひしと感じている。話が急に現場のことになって申し訳ないが、それは、「農業技術」である(もちろん科学技術の一分野でもある)。

農業技術というのは、要するに植物を栽培したり動物を飼育したりする生産技術のことで、農業というのは、自然のエネルギーを技術によって生産物に変える産業なわけだから、農業においてその技術は最も重要な鍵である。

実は、農業は長い歴史があるにも関わらず分かっていないことが多い。どうしたらうまく収穫できるのか、未だに人間は試行錯誤の途上にある。少なく見積もっても9000年は歴史ある農業なのに、なぜこんなに基本的なことすら分かっていないのだろうと思うこともしばしばである。

「儲かる農業」という言葉は嫌いだが(というのは、暗に農業は儲からないということが含意されているから)、 儲かる農業をするためには、絶対に確立が必要なのが農業技術で、「篤農家」と呼ばれる人たちは要するにそういう技術の高い人たちなのである。

その農業技術が、今とても軽視されているのだ。

農業を巡るトレンドを見てみても、「質の高い日本の農産物をもっと輸出しよう」と農水省も言っているが、農産物を生みだす農業技術の方はほとんど閑却されているような気がする。本当に日本の農産物は質が高いのかどうかも疑問だが、それはさておいても、他国に高品質のものを輸出していこうとするなら、まずは高度な技術を確立するのが先なはずなのに、今の議論を見ていると、「日本の農業技術は高い」というのを前提として、マーケティングやらブランディングやらの方向からばかり攻めていこうとしているようだ。

でも日本の農業技術は他国と比べ優れているんだろうか? 確かにある種の果物は宝石みたいに美しいものが生産されているし、農業機械なども特に水田関係はかなり発達している。「和牛」は霜降り肉という新ジャンルを開拓したと言ってもいいかもしれない。優れた技術は確かにある。が、日本の農業全体を見てみるとどうだろう。未だに中心は昔ながらの努力と根性の零細農業で、技術の発達は遅々として進んでいないようにみえる。

農政では、「改良普及員」という制度が昔からあって、要するにこれは農業技術を普及・指導していくための人材であり、都道府県の職員として農家に技術指導をしていた。「普及員」という言葉は、「すでにある技術を普及していくだけ」というイメージがあってよくないと思うが、実際は各地でどうしたら生産性を上げられるのかという試験・研究をしてきた歴史があって、かつての農政の一つの要だったと思う。

これが、最近どんどん人員を削られてきている。政策的にも日陰の方に追いやられている。ひどく減少しているというわけではないものの、都道府県の出先機関の合理化・定員の削減などで地味に減ってきているのである。これは本当にゆゆしいことだ。普及員のポストが減らされるということは、地方国立大学の農学部の卒業生の、重要な就職先が減らされるということと同義だからである。

農学部を出てもその知識を活かせる職場が少ないのなら、農学部へ行く学生も減り、農学部の定員自体も削られていくだろう。需要がないのだから。そして農学部が縮小していけば、その地域の農学のレベルはどんどん下がっていかざるをえない。

農学なんかなくったって、農業は出来る、と思っているとしたら甘い。確かに篤農家は農学を知らなかった。農学を知らなくても、植物を観察し、管理と肥料を調節し、比較対照し、結果を吟味し、次第によりよい生産方法を探っていった。でもそれ自体がほとんど農学的な歩みでもあった。誰も彼もが、こういうことはできない。やはり広く利用出来る形で、よりよい生産技術が生みだされる体制を作る方が全体の底上げになる。

そして、篤農家であってもできないのが、農業の「基礎研究」だ。例えば、植物はどうやって水を吸い上げるのか。植物が水を吸い上げる圧力は、まだ完全には解明されていない。それがわかっても、農業に役立つとは限らない。それより、どれくらい水をやるのか適切かという研究課題の方が短期的には役に立つ。でも、将来的には、原理を解明する方がもっと役に立つ可能性がある。

他にも、害虫となる昆虫の生態学、植物の免疫機構、土壌微生物の生態系の解明、などなど、農業を理解する基礎となる、地味な学問はまだまだいっぱいある。こうした基礎研究を重ねていかなくては、本当の意味で革新的な技術は生まれてこないし、植物の生理を理解することそのものができない。

そもそも農業をする上では、栽培植物の特性を理解して環境を整える、というのが第一歩だ。しかし未だに「栽培植物の特性」自体に謎が多く、どうしたら最大の収量・品質を上げられるのか分かっている植物はないと思う。どうしたらうまく育つかわかっていないのに、どうやってうまく育てろというのだろう。だから、是非とも農業技術の基礎研究は必要なのである。


巷では「これからは農業の時代!」などと調子のよいことが言われている。であれば、その基盤となる技術こそ重視しなければならないのに、6次産業化とか「ものづくりよりことづくり」(ストーリーで売る)とか、悪い言葉でいえば「見方を変えれば大逆転」みたいなことばかり言われているのは軽佻浮薄だ。それよりも、質の高い農産物を生みだす技術、そのものに注目が集まって欲しい。

だが、技術の発展というのは、マーケティングとは違って一足飛びにはいかない。技術は地道な積み重ねでしか進んでいかないもので、成果の出ない時期の方が長いくらいである。そして怖ろしいことに、技術は発展しようとするエネルギーを失ったら、それは既に衰亡の途に入ってしまうものである。それは止まったら死んでしまう大きな魚のようなもので、技術は常に進んでいないと息の根が止まるのだ。

今ある農業技術で十分だ、と思った瞬間に、農業は終わるのだと私は思う。これは、かつて日本の農学の歴史で繰り返されてきた停滞のパターンでもある。こうなると、確立した理論に合わない現象は黙殺され、小さな発見の芽は簡単に摘み取られてしまう。そして農業の生産性は、いつのまにか落ちていく。なぜなら、理論の基盤になっていた自然環境や社会情勢は、どんどん変化していくからである。

このたびノーベル生理学・医学賞を受賞された大隈良典 東工大栄誉教授も、「役に立たない基礎研究が大事」とおっしゃっているようである。我々は、「技術」の上澄みを使って仕事や生活をしているが、その技術の下には、厖大な数の(直接は)役に立たない技術があり、さらにその下には原理を解明する、自然を理解するという、基礎的な学術の営みがある。

農業も同じである。我々が当たり前にやっている農業の背後には、それを成立させている様々な技術や学術があり、究極的にはその土台が上澄みのレベルを決めている。

「高品質な日本の農産物を世界に輸出しよう」というのであれば、世界一の農業技術立国を目指さなくてはならない。それにはマーケティングやブランディングも大事である。でもそれ以上に、技術は生命線だ。そのためにまず必要なものは人材であり、予算である。改良普及員を増員し、農学部を強化し、研究資金を潤沢に与えて欲しい。そういう地道な取組の先に、農業の新たな展望が開けるのだと思う。

2016年9月23日金曜日

Tech Garden Salon「田舎工学序説」をマルヤガーデンズで開催します

お知らせ。

11月19日(土)に、マルヤガーデンズで講演します。以前もちょっと紹介した「Tech Garden Salon」というイベントで。

演題は、「田舎工学序説」と名付けた。この「序説」というのは便利な言葉で、まだ定まっていない学問分野について述べる時に使う(ことが多い)。「序説」とついていれば割合なんでも盛り込めるというわけだ。

ちなみにこのチラシは、鹿児島を代表するイラストレーターである大寺聡さんに作ってもらったもの。鹿児島マラソンのデザインとかしている人である。

このチラシのウラ面から講演のテーマ説明を抜き出してみると、
みなさんは「田舎工学」と聞いたらどんな学問だと思うでしょうか? 実は、こんな学問はまだ存在していないのです。なぜならこれまで「田舎」は作っていくものではなく、既にあるものだったからです。しかし、近年非常に「田舎」への関心が高まっています。しかも、自分の故郷へ帰るのではなく、新天地を求める人が「田舎」へ向かってきています。自分なりの「田舎」を作っていくことを目指して。
では、どうしたら自分なりの「田舎」が作れるのでしょうか? それには、都市工学とも、従来の農村工学とも違う視点が必要になるでしょう。つまり、行政が中心になって行う上からのインフラ整備ではなく、個人の力で荒野を切り拓いていく草の根の動きが中心になってくるのではないでしょうか。自分自身が楽しく住める「田舎」を作るため、みなさんと一緒に「田舎工学」を考えてみたいと思います。
という内容を予定している。

こういう講演というのは、本来は実績を挙げた人や深く研究している人がやるべきであって、何の実績もない、ただ田舎暮らしをしているだけ(しかも苦労しながら)の私が話してどれだけの価値ある講演になるか実際自分でも疑問である。地域作りには各地で意欲的な取組があり、そういうところの優れたリーダーに来て話してもらった方がよほど面白いのは間違いない。

ただ、これまでそういう「優れたリーダー」の話を農業や地域づくりの研修などで聞いてきたが、結局は「ああ、こういうリーダーがいたからできたことなんだな」という感想を持ってしまうことが多かった。行動力とセンスがあり、人柄もよいリーダーがいれば、どんなプロジェクトでも成功するのは当たり前である。でも普通の田舎にはそういうリーダーはいない。そういう意味では、各地の意欲的な取組はいかにも参考になりそうでいて、実際には真似できないことは多い。

というわけで、普通の人が普通にやれる範囲のことで、田舎をどうやって面白くしていくか、という観点から話ができたら、私みたいな人間が講演する意味もあるかもしれない。そんな話がちゃんと出来るかはまだ不透明だが、だんだん内容が頭の中で固まってきたところである。

主催者の同窓会支部長には「ブログでお知らせしたら15人くらいは来ると思います」と言っておいた。そんなわけで、「南薩日乗」の読者の皆様、ご来場をお待ちしております。

2016年9月13日火曜日

「愛を願う! 高ボネ山りんどう歩こう会」が開催されます

10月30日(日)に、「愛を願う! 高ボネ山りんどう歩こう会」というイベントが南さつま市大浦町で開催される。

「高ボネ山(正式な表記は「高ボ子=たかぼね」らしい)」というのは、大浦の名勝「亀ヶ丘」の隣にある地味な山で、これまで特にどうということもない地域の裏山だった。

ところが、この頂上付近にある岩にハート型の形があることから、高ボネ山を有する有木集落の人たちがその岩を「愛願岩(あいがんいわ)」と名付け、最近新たな縁結びの「パワースポット」として売り出しているのである。

そのため有木集落の人たちは、これまで木々に覆われてしまっていた高ボネ山の登山道をちゃんと通れるよう雑木の伐採を行い、各所に案内版を設置した上、頂上には日本の国旗を立てた(たぶん目印なんだと思う)。さらに、昨年は今回の先蹤となるウォーキングイベントも行い、満を持して、今回「愛を願う! 高ボネ山りんどう歩こう会」を開催する運びとなったわけである。

ちなみに、なぜ「りんどう」かというと、高ボネ山への登山道までは林道を通っていくということと、その林道沿いには竜胆(リンドウ)が咲いているということで、まあ軽いダジャレである。ただハイキングをするだけでなくて、花を見られる時期にやるというのはいいことだ。

実を言うと、私はこの動きを横目で見ながら、最初のうちはちょっと賛同しかねるようなところがあった。というのは単純な話で、私は「パワースポット」というのが好きではないのだ。その場に行くだけで何らかの御利益がある場所、というのがなんだが都合がよすぎるし(巡礼みたいに信仰とセットになった場所だったらわかるのだが)、そもそも何の根拠もなく雰囲気だけで「パワースポット」として扱われている場所が多すぎる。

もちろん、古くからの神社仏閣であっても、それをパワースポットとして消費するのはよくないと思う。こういうところは、歴史や建築、庭園や仏像などの文化財を楽しむべきで、もちろんその神々しい雰囲気に浸るということもあってよいが、そこだけを強調するのは軽佻浮薄ではないか。

とはいっても江戸時代の伊勢参りだって、今のパワースポット詣でとさして変わらなかったのかもしれない。伊勢参りをしていた人々は、ほとんど伊勢神宮の歴史とか関心がなかったようだし、それどころか内宮(天照大神を祀る)に行かずに外宮(豊受大神を祀る)だけ参っていたみたいだから、目の前の御利益を期待して参拝するという意味では昔の人も現代人とあまり変わらない。

だから「パワースポット」にそんなに目くじらを立てる必要はないのかもしれないが、「パワースポットと言っておけば若い人が来るだろう」とか思っている観光地があるような気がして、そういう態度がやっぱり気にくわないし、神社仏閣にしても、本来の価値を発信せずに「パワースポットだから来てね」といわれると逆に行きたくなくなる。要するに、パワースポットと呼ばれる場所には何の恨みもないが、軽々しく「パワースポット」を連呼する広報の方に違和感があるのだ。

ということで、私の中に「パワースポット」に対する不審があって、「愛願岩」を縁結びのパワースポットとして売り出しているのが、なんだか微妙な気持ちだったのである。

しかし、実際に有木集落の人たちが登山道整備をしたり、案内版を立てたりするといった地道なことをやっているのを見ると、こういうことならいいじゃないか、と思うようになった。「パワースポットだから来てね」というだけではなくて、通れなかった所が通れるようになる、どこにあるか分からなかったものが、わかるようになる、というのは、間違いなく価値を創り出す行為だからだ。

つまり高ボネ山の売り出しは、「パワースポット」を奇縁にして地域の自然や風景を見直し、価値を生みだしていく行為になっている。だから好感を持つのである。しかも、そういう活動をする中で、実際に関係者に結婚するものも現れてきて、まさに話が「瓢箪から駒」になってきた。まんざら言ってるだけの「パワースポット」ではないのである。

ところで、このイベントのポスターは実は私がデザインしたものである。通常こういうウォーキングイベントの参加者は団塊世代より上の人たちが多いものだが、主催者からの希望として「縁結びを謳ってるから若い人に来てもらいたい」というのがあったので、タイトルには「ラノベPOP体」というのを使ってみた。全体の雰囲気がラノベっぽくはないからあまり効果はなさそうだが…。

というわけでご関心がありましたらご参加をお願いします!(申込方法はポスターをクリックして内容を確認してください。電話申込です)

2016年9月10日土曜日

草を刈る、という単純な観光政策

いつも気にはなっているが、特に夏には気になることがある。

景観のよいところにはびこる、雑木や雑草だ。

この写真は、南さつま市イチオシの観光ルート「南さつま海道八景」の最初の展望所「高崎山展望所」の眺めである。

ここは、(当たり前だが)昔から眺めのよいところで藩政時代には魚見櫓(うおみやぐら)という見張り番がおかれていたほど、高い位置から縹渺と広がる東シナ海を見下ろせる雄大な絶景の地である。

でも、展望所のすぐ前にある雑木と雑草のせいで、その絶景の価値はかなり殺がれてしまっていると言わざるをえない。そしてこういう残念な場所は、高崎山に限らない。

確かに「南さつま海道八景」は、南さつまの自画自賛ではなくて、本当に素晴らしい名勝の地揃いだ。まだ見たことがない人は、一度ドライブしてみたらいい。鹿児島に、こんな圧倒的な景観の続く場所があったのかと驚くはずだ。国道226号線の、高崎山から耳取峠までがそれに当たる。

海側に広がる絶景、また絶景——。ここは日本屈指の眺望を持つ道路だと誇ってよい。

おそらくこれが南さつま市最大の「観光資源」で、事実自転車レースの「ツール・ド・南さつま」やウォーキングイベントの「鑑真の道歩き」といった各種の催しが開催されるなど、行政もこの道の売り出しに頑張っている。

だが、そういうイベントには予算を掛ける一方で、肝心の眺望の維持にはさほど関心がないようである。除草作業をやっていないわけではない。時々は、草払いはされてもいる(雑木の除去はやっているのかいないのかよくわからないが……)。でも私の目から見たら十分ではない。特に夏季には、南薩の雑草の勢いは怖ろしいほどになる。草払いしても、2週間後にはまた伸びてくる。相当頻繁に除草作業をしなくてはならない。でもそれが、ここへ来てくれた人への一番大事な「おもてなし」なんじゃないかと思う。

観光政策というと、最近はいろいろな手法が開発されていて、アニメとの連携とか道の駅の活性化とか、一昔前の観光政策には全然出てこなかったような新しい発想による取組が実際に成功してきている。もちろん、そういうものにも積極的に取り組んでいい。しかし観光の要(かなめ)の価値、ここでは「風景の価値」をしっかりと守り、高める努力をするというのが最も重要な観光政策だと私は思う。別にこれといったことをしなくても、「南さつま海道八景」を訪れた人が、しっかりとその風景を堪能できるように草払いを頻繁化する、それだけで立派な観光政策だ。

もちろん、雑木の除去とか草払いといったものは、簡単そうに見えていろいろ難しいことがある。道沿いの土地が公有地とは限らない。私有地の方が多い。地権者にいちいち許可を得ないといけないし(その上不在地主も多い)、土地の管理は地権者が行うべきものだから、それを行政が代わって行うことの是非もある。

また、私は地元大浦の亀ヶ丘にある「星降る丘展望台」というところの雑木を大胆に伐採して眺望を改善してもらいたいと思っているが、これは坊野間県立自然公園の一部で保護区域なので、たとえ雑木でも伐採には県の許可がいる。でも、そういう許可を地道に取って徐々に伐採を進めることこそ、真面目な観光政策だろう。

このくらいのことは、別に私が声高に求めなくても市役所の担当者は分かっているだろう。でも観光交流課というのは、イベントに次ぐイベントに駆り出され、席の温まる暇もないほどである。こういう地味なことは、ついつい後回しになっていくのが世の常だ。だからこそ、市民の声として言い続けていきたい。つい先日も観光交流課に行って、直接要望してきたところである。

草を刈るなんて単純なことだが、大事なことはいつも単純だ。せっかく来てくれた人が、雑草に邪魔されずに素晴らしい風景を堪能できること。道にゴミが落ちていないこと。街が清潔であること! 結局、観光というのは美しいものに触れるためにやってくるのだから、街も自然も、美しくあらねばならない。そしてそれは観光客だけでなく、現に今ここに住んでいる私たちの生活の質をも向上させる。真の観光政策は、観光客のためだけでなく、住民の暮らしをもよくしていくものであると思う。

2016年8月27日土曜日

自転車を安全に楽しく、そしてかっこよく! 利用できる街へ

南さつま市が、旧加世田市から受け継いだ「自転車によるまちづくり」を再びてこ入れするということで、地域おこし協力隊を募集している、という記事を先日書いた。

【参考】南さつま市が「サイクルツーリズムの実現」で地域おこし協力隊を募集中

実は、その記事にコメントしてくれた方が実際に応募するということがあり、惜しくも採用にはならなかったものの、こうしてブログを通じてご縁を頂けたのはとても有り難いことである。

そういう縁もあり、サイクルツーリズムというのには未だにピンと来ていないのだが(というのは、私自身は自転車に乗って観光したことがないので)、「自転車によるまちづくり」について、しばらくいろいろ考えていた。

市役所の思惑としては、イベントなどにサイクリストたちにたくさん来てもらって、南さつま市を売り込みたい! ということにあるだろう。でも自分としては、「自転車によるまちづくり」を標榜するのであれば、まずは市内にいる自転車に頼らざるを得ない人たち、というのに注目する。つまり、中高生である。

それでいつも思っているのが、自転車通学の中学生のあのみっともないヘルメット! 旧日本軍の鉄兜か! と思うようなダサいデザインの! あれを普通の、かっこいいヘルメットに変えたらどうか、ということだ。

←南さつま市内の中学校では、こういうやつ(画像はこちらのサイトからお借りしました)を共通で使っているが、中学生自身からも大変評判が悪く、このヘルメットを被りたくないから自転車通学はしたくない、というレベルである。たぶん日本の多くの中学校で同じ現象が生じていると思う(都会ではどうなんでしょうか)。

こういう前時代的なヘルメットを使っているから、「ヘルメットはダサい→ヘルメットつけたくない→自転車も乗りたくない」となっているような気がする。中学を卒業するときに、「ようやくこのダサいヘルメットとお別れできる」とホッとした気になる子どもも多そうである。実際、高校に上がってこういうヘルメットをつけて自転車に乗っている子を見たことがない。高校になるとノーヘルが基本になっていないか。

しかし、実際には自転車に乗る上ではヘルメットは大事である。というか安全性が最優先である。こんな、つけたくもないヘルメットをつけさせて、逆教育(ヘルメットはできればつけたくないもの、ということを教えている)している場合ではない。このヘルメット、頭が蒸れるし重いし、機能性もよくない。こんな時代遅れのヘルメットを被らせるより、むしろ、中学校を卒業してもつけたくなるような格好いいヘルメットを支給するべきだ(もちろんデザインも選べるようにすべき)。

だいたい、思春期の若者に、こういうダサいものを強制的に身につけさせるというのは、大げさに言えば一種の虐待であると私は思う。(自分の娘には絶対つけさせたくない!)

というわけで、南さつま市が「自転車によるまちづくり」を掲げるのであれば、まず、自転車に頼らざるを得ない中学生が、気持ちよく自転車通学できるよう、学校指定のヘルメットを機能的でカッコイイものに変えるべきだ。そして、自転車に乗るときはヘルメットをつける方がクールである、ということを認知させるべきだ(中学校の先生自体が分かっていないような気がする)。

しかも実は、ダサい鉄兜のヘルメットと、今ドキの普通にクールなヘルメットは、(エントリーモデルなら)価格的にもほとんど変わらないし、やらない理由がない。これをやれば、「自転車によるまちづくり」が本当に実のあるものになるし、全国的にも注目されるのではなかろうか。ぜひ検討して欲しい。

それから、自分が自転車でどこかへ出かけて行く時のことを考えると、結局キモになるのは自転車の運搬である。今南さつま市がやろうとしている「サイクルツーリズム」だとこれがとても重要になるだろう。つまり、結局は車で観光地まで自転車を運んでこなくてはならず、車が拠点になる。でもそれでいいんだろうか。

私は、一度野間池まで自転車で行ってみたいなあと思っているが、行きはいいとしても帰りは疲れるからイヤである。だから自転車で行って、バスで帰って来られたら便利だ。でも、バスに自転車を乗せられるのかがよくわからない。

中学生や高校生なんかも、バスで南さつま中心部(加世田)に行くときに、自転車をバスに乗せられたら行動範囲が広がるので喜ぶと思う。

というわけで、南さつま市内を走るバス(路線バスとコミュニティバス(つわちゃんバス))は、全部自転車と一緒に乗っても構わないです! ということにしたらとてもいいと思う。全路線ほぼ利用者が低迷しているので、特に設備をいれなくてもできることだ。

ついでに言うと、路線バスもコミュニティバスも、詳細な時刻表が市のWEBサイトには掲載されているが、バス路線というのは地元住民以外にはかなりわかりにくいもので、観光にはほぼ使えないものである。こういう詳細な時刻表も、地元民でないと読み解けない。それにそもそも便数が少ないので、実際観光客が利用できるかというと怪しい。でも時々は使いたい人というのがいる。

例えば、昨年私が開催したイベント「海の見える美術館で珈琲を飲む会」に来てくれたあるお客さんは、鹿児島市内からバスで来たそうで、5時間もかかったそうである(加世田まではすぐ来られるが、そこから会場の美術館までが便数がない)。

田舎にいると「自家用車を持っている人以外は相手にしなくてよろしい」みたいな態度になりがちだが、観光をする上ではやっぱり公共の交通機関が基本だ。電車が通っていない南さつま市は、タダでさえそこに負い目があるわけだから、せめてバスくらいわかりやすく使えるようにして欲しい。

具体的には、(私も詳しくないので見当外れかもしれないが)ナビタイムのような時刻表検索サイトにコミュニティバスの時刻表をちゃんと提出し、スマホで検索できるようにするくらいのことはしたらいい。しかもそれが、先述のように自転車も積めるということだったら、これで喜ぶ人がいるんじゃないかと思う。「サイクルツーリズム」で南さつまに来るような人は、自転車で長距離を移動するのでバスなんか使わないと思うかもしれないが、自転車がパンクしたり、自分が負傷した時にはバスで帰りたくなるはずなので、やっぱり公共の交通機関を使えるという安心感は欲しいはずだ。

そもそも、公共政策である以上、たとえ観光であったとしても、ごく一部の「サイクリスト」を相手にすべきではなく、最も弱い立場にある人に裨益する形で政策を考えなければならないと私は思う。もちろん観光客向けの、打ち上げ花火的なイベントもあっていい。でも街はまずは住民のものである。住民が、自転車を安全に楽しく、そしてかっこよく! 利用できる街になることが、「自転車によるまちづくり」の目標ではないだろうか。そしてそれは結局、観光で南さつま市を訪れた「サイクリスト」の利益にもなるはずだ。

【情報】
秋に行われる南さつま市の自転車の一大イベント「ツール・ド・南さつま」が現在参加者を募集中。受付は8月31日まで。

2016年8月20日土曜日

マングローブふたたび

7月に行われた「大浦 ”ZIRA ZIRA" FES 2016」では、昨年に引き続きポスターとタオルのデザインを担当させてもらったのだが、実は、隠れた(?)オフィシャルグッズとしてサンダルがあり、そのデザインも担当した。

このサンダル、あんまり広くお知らせしなかったようで、購入したのはほぼ関係者のみだったみたいだ。別に広報に手を抜いたわけではなくて、元々関係者グッズの位置づけだったみたいである。

でも、これは原価が高いだけあって結構丈夫で、履き心地もよく、(デザインのことはともかくとして、)よいノベルティグッズになったように思う。

ところで、私がここにドギツいピンクのベースでデザインしたのは、大浦のマングローブ、メヒルギ群落である。メヒルギというのは、マングローブ(汽水域に成立する森林の総称)を構成する代表的な樹種だ。

大浦には、このメヒルギの群落が河口付近に何カ所かあり、これは世界的に見てマングロブ自生の北限なのかもしれない。鹿児島では、喜入(きいれ)というところにあるメヒルギ群落が国の天然記念物になっているが、喜入の群落はどうやら人工的なものであり、大浦の方は自生の可能性が非常に高い。サンダルには思い切って「the northernmost wild mangrove in the world=世界最北端の自生マングローブ」の文字を入れてみた。

【参考】大浦町には、世界最北限のマングローブ自生地があります

というわけで、大浦町はかつてこのメヒルギを町の宝(たぶん、今の言葉でいえば「地域資源」)として、いろいろな場面であしらっていた。例えば、随分古い話で申し訳ないが、1960年代くらいに大浦町には市民文芸誌があって、その題名が「めひるぎ」だった、といったようなものである。

もちろん、保護の活動もやられていて、枯れそうになったら心配して増殖したりといったことをしていた。護岸工事や干拓のためにメヒルギ群落が破壊されるということもあったようだが、そのたびに移植して保全するという活動もわき起こったそうだ。

だが、いつの頃からかメヒルギはさして注目を浴びなくなり、保護らしい活動もされなくなった。おそらく、喜入の方に特別天然記念物のメヒルギがあるため、それに比べると行政的に打ち出しづらいものであることや、メヒルギを見に来る観光客なども想定されなかったためではないかと思う。一応、「市」の天然記念物になっているので、完全に忘れられているというわけではないと思うものの、南さつま市内にこれに関心がある人はごく僅かだろう。

私が、サンダルにメヒルギをあしらったのは、もう一度、この忘れられている存在に注目してもいいんじゃないかと思ったからである。今、蛭子島(えびす島)というところにあるメヒルギの群落は、ゴミが散乱して雰囲気も悪く、外から来た人にはとてもじゃないが案内できない。ここがもう一度きれいになり、誇るべき風景が甦って欲しいと密かに希望する。

…と思っていたら、「鹿児島&沖縄マングローブ探検」というWEBサイトで、大浦のマングローブがしっかり紹介されているではないか。

【参考】 鹿児島&沖縄マングローブ探検|鹿児島

しかも、大浦川越路川榊川蛭子島と、ちゃんと4箇所のメヒルギが地図と写真つきで公開されている。地元なのに越路川のメヒルギは知らなかったので今後見に行ってみたい。

実はこのサイト、自力で見つけたのではなくて、私が大浦町のメヒルギについてブログで紹介しているのを読んで、運営組織(マングローバル)の代表の方が、わざわざ電話してきて教えてくれたのである。この組織は沖縄にあるが、ちゃんと大浦まで調査に来て写真や地図をまとめており、その熱意には頭が下がるばかりである。

でも、こうした地域にある珍奇なものは、まずは地域住民が大切にしないかぎりそれが活かされることはない。活きるといっても、もちろんそれで観光客がたくさん来るとか、関連グッズが売れるとか、そういうことは考えられない。でも、町の象徴、町の顔、というようなものは住民のアイデンティティの形成などに意外に大きな影響を及ぼしていて、最近の大浦町でいうとそういう存在に「くじら」があるが、こうしたものは心の奥底で人々を結わえ付けるような力を持っているから侮れない。

大浦には「くじら」だけでなく、「亀ヶ丘」「磯間岳」「干拓」など他にもいろいろな象徴があり、あえてそこに「メヒルギ」を追加しなければならない必然性はない。しかしその南国的なムードや、外から見た時の価値のわかりやすさなどから、私としては「メヒルギ」には可能性があるんじゃないかと思っている。

というわけで、「メヒルギ」が、古くて新しい、大浦の象徴的な植物として再び注目される日を期待して、このサンダルを履いているこの夏である。

2016年8月12日金曜日

最初のアボカドの実

これは、我が農園で初めて着果した「アボカド」の実である。

以前からの「南薩日乗」の読者はご存じのように、私は(一応)アボカド農家を目指していて、これまで約150本のアボカドを植えている。
【参考記事】
アボカドの栽培にチャレンジします(2013年)
アボカド栽培も3年目(2015年)
アボカドを植えました。が…(2015年)
それが、今年、ついに1個実をつけたのである。「フェルテ」という品種のアボカドだ。

これは2013年に約50本植えた最初のアボカドの1本なのだが、他の樹はどんな状況かというと、正直いうとあまりうまく生育していない。その半分が枯れかかっている感じである。

何がその要因かというと、特に、昨年の記録的長雨での被害が大きかった。アボカドはとにかく排水が悪いところが嫌いで、大雨の時に少しでも水が溜まるようなところはすぐに根腐れしてしまう。そして、一度根腐れすると回復が難しい。その上、昨年は台風が直撃してほとんど全てのアボカドが倒伏し、さらに今年始めには数十年ぶりの寒波で大雪が降ったため相当弱った。今後回復するのか、このまま枯れてしまうのか、観察を続けたいが感覚的にはおそらく枯れると思われる。残念!

そして、昨年から今年にかけて植えた約100本については、生育のバラツキがかなり大きい。そして、そのバラツキが何に起因するのか私はまだよく分析できないでいる。なんとなく、問題は根なんじゃないかと推測しているが、じゃあなんで根の生育に差があったのかというのがよくわからない。排水性はよいところだと思うし…。

というわけで、まだまだアボカド生育の技術は未熟ではあるが、後進の参考にならないとも限らないので、これまで得た教訓について備忘のため書いておくことにする。
  • 定植場所は排水性が最も重要。
  • 日当たりはちょっとくらい悪くても生育には影響しない。
  • 定植1年目に安定して生育させるのがもの凄く大事。支柱への結束をしっかりして、夏場には水やりをすること。
  • ある程度芽欠きをして単純な樹形に整えることは意味があるが、やりすぎると風に弱くなるので、ほどほどにする。放置でもかまわない。
  • 元肥は不要。ただし有機質に富む土壌を好むのは間違いない。
という感じ。

150本のアボカドというと、その苗木の代金が60万円以上。我ながら結構な投資を行ったと思う。うまくいくかどうかもわからないものに…。で、その60万円の投資の最初の成果が、この1個のアボカドというわけだ。 これから台風などで落果しなければ、10月か11月頃に収穫できるようになる。ぜひこの最初の1個を収穫したいと思う。どんな味がするのか楽しみだ。

【参考】
国内のアボカド栽培の第一人者といえるのが米本 仁巳さんという人で、この人の書いた『アボカド―露地でつくれる熱帯果樹の栽培と利用』という本が一番参考になった。でも本を読んだだけではできるようにならないのが農業である。ちなみに米本さんは近年鹿児島の開聞に移住してきて、アボカドの露地栽培の実証をやっているそうだ。

2016年8月6日土曜日

「無農薬・無化学肥料のお米」販売中

8月6日、「南薩の田舎暮らし」で販売している「無農薬・無化学肥料のお米」の稲刈りだった。

と、いっても、自分がやるわけではなくて刈り取り委託している(他にもたくさんのことにお世話になっている)狩集農園さんが稲刈りをしてくれた。

ちなみに、お米の収穫は秋じゃないの? と思うかもしれないが、こちら南薩では早期米といって夏に収穫するお米を作っているので、一番暑い時期に稲刈りなのだ。

で、今年は豊作かと踏んでいたのだが、実際は小米が多かったり、そもそも見た目ほど米が実っていなかったりということで、不作な感じである。いや、過去最高に不作だった昨年に続く不作みたいである…!

どのくらい不作かというと、5反(50a)作っているのに、モミ換算で60俵しか穫れなかった。この面積であれば普通だったら100俵くらい穫れる。つまり今年は普通の6割くらいの収穫しかなかった。

もちろん、私は無農薬・無化学肥料で作っているので「普通」ではない。「無化学肥料」だけでなくて、肥料自体をほとんどいれていないので、「普通」に穫れたらそっちの方がおかしい。でも経験上、お米の場合は無肥料にしても普通の8割くらいは穫れるように思う。

今年は、さほど天候も悪くなく、さして不作になる要素もなかったのに、なんだか不思議だ。むしろ豊作なくらいかと思っていた。こんなに不作というのはやっぱりジャンボタニシの被害が大きかったんだろうか。来年はまた工夫しないと。

というわけで、無農薬・無化学肥料なのにも関わらずお求めやすい価格で販売しておりますので、このお米を通じて、今年もまたよいご縁をいただけますことをお待ちしております!

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2016年8月4日木曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その3)

黒瀬杜氏がどうやって始まったのか、はっきりとは分からない。

ただし、黒瀬杜氏の系譜は3人の初代杜氏へと遡れる。黒瀬常一、黒瀬巳之助、片平一(はじめ)の3人である。この3人がどのように焼酎造りを学んだのかということは確たる記録がないものの、様々な証言を突き合わせてみると次のように推測できる。

まず、黒瀬から一番最初に酒造りの出稼ぎへ行ったのは、片平一らしい。おそらく、焼酎の自家製造が禁止された明治30年前後のことと思われる。片平は、阿多の人から杜氏はよい稼ぎになると聞いて酒造りを志したそうだ。彼は最初に宮崎の小林本庄に行って、清酒と米焼酎造りを学んだ。

その少し後、黒瀬常一は加世田の村原にあった「タハラデンゴロウ」の焼酎屋に行って下働きをした。さらに、3人(あるいは、黒瀬巳之助を除く2人)は、一緒に鹿児島の中馬殿(チュウマドン)の焼酎屋で下働きしたが、そこでは沖縄の焼酎造りの技術者も雇っていた。そのうち、加世田の下野焼酎屋というところがその技術者を引き抜いたので、彼らは一緒に中馬殿から暇をもらって加世田に行き、その技術者の下で5〜8年修行して杜氏になったという。3人が杜氏として独り立ちしたのは、明治35年〜38年くらいまでの間のようだ。

ここでのポイントは、中馬殿の焼酎屋にいたという「沖縄の焼酎造りの技術者」の存在だ。明治30年代から大正時代の始めまでは、焼酎業界の激動の時代である。需要に応えられるだけの焼酎産業がまだ成立しておらず、技術的にも確立していなかった。そんな時代、鹿児島には沖縄から泡盛造りの技術者が出稼ぎに来ていて、実際泡盛もたくさん売られていたらしい(当時の新聞に泡盛の広告が結構出てくるし、戦前は沖縄から本土へ泡盛が1万8000石ほど輸出されていた)。

前回述べたように、この時代の芋焼酎造りの技術的変革は主に2点あって、それは「二次仕込み法の確立」と「黒麹(くろこうじ)の使用」であるが、実はこれはどちらも沖縄の泡盛造りの影響を強く受けたものだ。

泡盛というのは、黒麹による米麹のみから出来る焼酎のことで、芋焼酎造りに使う黒麹が泡盛由来であることは明白である。また「黒麹による米麹」で作った泡盛の醪(もろみ)は、芋焼酎の二次仕込み法における一次醪に他ならないのである。つまり鹿児島の芋焼酎というのは、まずは泡盛風の醪(=焼酎の元)を作っておいて、そこにさらに蒸した芋を追加投入して作られる焼酎ということなのである。

黒瀬の3人の男は、おそらくは泡盛造りの技術者から焼酎造りを学んだのだろう。それが、鹿児島の焼酎産業の原型を作った。泡盛造りを応用した焼酎造りによって、芋焼酎の大量生産が可能になったのである。

ところで、ここで一つの疑問が湧く。どうして、泡盛造りが大量生産の技術になりえたのだろうか、ということだ。

実は、泡盛と芋焼酎は、その歴史的位置づけが全く異なる。鹿児島の芋焼酎は、かなり古くから庶民に愛されたお酒であり、自家製造も盛んだった。対して泡盛は、ずっと権力者によって管理されてきた。薩摩藩が琉球を征服した時、泡盛を貢納品として指定したことから、琉球は薩摩藩を通じて幕府に泡盛を毎年献上する必要があった。さらに、泡盛は中国への貢納品としても使われたという。

このように、泡盛は重要な貢納品であったため、琉球では泡盛造りは限られた人にしか許可されなかった。首里の王家のための泡盛造りを行う「焼酎職」が置かれ、その焼酎職となった40の家にしか泡盛造りは認められていなかったのである。焼酎職でないものが泡盛をつくれば、死罪または流罪となったという。泡盛は歴史的に、王家が独占していたものだ。これが自由化されるのは、鹿児島の焼酎と同じく明治の頃である。

つまり、泡盛は鹿児島の焼酎とは違って、自家製造・自家消費の地場産品ではなかった。最初から輸出(貢納)を念頭に置いた、組織的に製造される商品だったのである。しかも貢納品であったために、かなり厳しい品質管理がなされていたのではないかと想像される。おそらくそのために、泡盛造りには大量生産に適した技術が育っていた。大量に、品質が安定した商品を作る技術、それがまさに明治後期の鹿児島の芋焼酎造りに求められていたものだった。沖縄の泡盛と鹿児島の芋が出会って、現代の芋焼酎が生まれたのは歴史的必然とすらいえるかもしれない。

沖縄の、泡盛造りの技術者から焼酎造りの技を学んだ3人の男は、自分たちが杜氏として出稼ぎに出て行くときは、親類縁故の若者を同行させた。これは蔵子(くらこ)といって、要するに焼酎造りのスタッフである。蔵元へは、杜氏一人で出向くのではなくてチームとして働きに行ったわけだ。だが杜氏は、蔵子にはほとんど教えるということをしなかったらしい。それでも蔵子は数年共に働くうちに焼酎造りの技を盗んで、やがて杜氏として独り立ちしていった。

初代の3人の男は、2代目として12人の杜氏を育てた。次の3代目は34人になった。こうして黒瀬には、明治後期から大正にかけて杜氏の技術者集団が急速に形成されてきた。なにしろ、杜氏というのはいい仕事だった。確かに、出稼ぎのつらさはあった。何ヶ月も家族と離れて、夜も寝られない作業が続いた。杜氏は麹や酵母という生き物を相手にする。夜中でも、ちょっとでもおかしいと思えば麹の様子を見なければならない。辛い仕事でもあったが、杜氏は焼酎業界から強く求められていたので、社会的地位も高く、また高級取りでもあった。

当時の給料は、「学校の校長クラス」であったという。昭和37年に鹿児島県が行った調査によれば、杜氏70人の平均給与が他の業種と比較されているが、その時点でも杜氏の給与は他の業種全てを上回っている。明治大正の頃を思うと、黒瀬のような僻地の集落にいれば、儲からない百姓仕事か漁師仕事しかできなかっただろう。 それが杜氏になれば、焼酎造りにおいては絶対的な発言権を持ち、蔵元には家族同然に遇され3度の食事も必ず白米が出て、しかも相当な高給が貰えるとなれば、杜氏は集落の憧れの職業になるのは自然なことだった。

だからこそ、杜氏の技は親類縁故の者以外には決して漏らさなかったという。黒瀬杜氏の系譜において、第6代までの杜氏は、ほとんどが黒瀬、片平、宿里、神渡、久保の5つの姓で占められる。黒瀬が「杜氏の里」となり得たのは、その技術を内に守り続けた、一種の閉鎖性が作用していることも否定できない。別の言葉で言えば、「強烈な同族意識」である。

もともと、黒瀬集落というところは、「強烈な同族意識」のあったところらしい。耕地面積が人口に比べて少なく貧しかったため、「無常講(ムジョコ)」といって相互扶助のためにお金を出し合うのが盛んで、人びとは助け合って生きていた。また、財産の分割を避けるためともいわれる「いとこ婚」が多く、血の結びつきはさながら編み目のようであった。

黒瀬杜氏のことが解説されるとき、「耕地面積が少ない黒瀬集落では冬は出稼ぎに出ざるを得ず、そのために焼酎造りの出稼ぎが盛んになった」などとと言われるが、これは正確とは言えない。(その1)の記事に書いたように、そのような集落は鹿児島には他にもたくさんあったし、実は黒瀬の耕地面積は少なくない。むしろ笠沙において黒瀬は最大の集落であり、人口も一番多かった。ただ、人口が多かった分、冬場に出稼ぎに行かなければならない人間もまた多く、それが大きな杜氏集団が形成できた要因でもあろう。

そして、焼酎造りの技を頑なに外に出さなかった閉鎖性が加味された。技術というのは、その黎明においてはある程度の「密度」を必要とする。J.S.バッハが音楽一族であったバッハ一族の巨星として生まれたように、技術は小さな集団の中でとぐろを巻いているときに花開くことがある。あるいは、コンピュータの黎明においてたった数人の若者が世界を変えたように。芋焼酎造りの技術が確立する過程において、黒瀬集落に生まれた杜氏たちが同族の中で切磋琢磨したことは、おそらく意味があったのではないかと思われる。

しかし、杜氏という職業は、高度経済成長とともに魅力のないものになっていく。他の業種の給料も上がってきたこと。社内育成の杜氏も育ってきたこと。そして醸造学の進歩と機械化の進展。こうしたことで、杜氏の必要性がどんどん低くなっていった。特に自動製麹器の開発が大きかったようだ。これは、例の河内源一郎商店が開発したもので、手間がかかってしかも失敗が多かった製麹(麹造り)を自動化するものである。これにより、焼酎造りの失敗が随分なくなったという。経験と勘、だけに裏打ちされていた杜氏の技術は、醸造学の進展によって微生物の培養ということに還元され、それに基づいた自動化・機械化によって置き換わっていった。

もはや黒瀬杜氏たちは、我が子や親類縁者にも、杜氏を継いでもらいたいとは思わなくなった。今はそれよりも、ずっとよい職業があるはずだ、と。こうして、最盛期には350人以上いた黒瀬杜氏は、今となっては片手で収まってしまう。おそらく、あと10年で黒瀬杜氏は一人もいなくなり、歴史的存在となるであろう。

先だって行われたイベントにおいて、(黒瀬杜氏ではない)ある地元の杜氏は「黒瀬杜氏がなくなっちゃっていいのかなって思うんですよ」と言っていた。九州の焼酎産業の源流となった黒瀬杜氏、それが歴史の中の1ページに綴じられようとしている、今がその時である。

私は、黒瀬の人たちに意見を聞いてみたいと思う。「黒瀬杜氏」は社会的使命を終えたということで、もう終わりになった方がいいと思うか、それとも、例えば黒瀬に生まれた人でない杜氏にも称号を付与するなどして、別の形でも「黒瀬杜氏」という名前が消えない方がいいと思うか。やっぱり、黒瀬のことは黒瀬の人たちの意見が最優先されるべきだろう。

とはいえ、「黒瀬杜氏」というのは南さつまが誇りうる歴史なのでもあり、仮に「黒瀬杜氏」が一人もいなくなったとしても、黒瀬杜氏の系譜を受け継いでいる人や蔵が消えてなくなるわけではない。躍起になって名前だけ残すのはみっともないと思うが、そうした系譜・歴史が有耶無耶になってしまうのはいかにも惜しいことだ。

私は、今回黒瀬杜氏のことを調べてみて痛感した。我々はまだ、黒瀬杜氏が何者だったのか知らないのだと。笠沙には「焼酎づくり伝承館 杜氏の里笠沙」があって、黒瀬杜氏の資料が若干収蔵されている。しかしこれだけでは十分でない。なぜなら、黒瀬杜氏の技が、どこでどうやって花開いたのかがよくわからないからだ。黒瀬杜氏たちは九州一円に出稼ぎに行ったといわれているが、その行き先とその蔵元の製品を一つ一つ訪ねて、黒瀬杜氏がもたらしたものを検証したらいいと思う。

そういう真面目な検証の先に、九州の焼酎産業における黒瀬杜氏の意味が朧気ながらに見えてくるのだと思う。そういう検証を行える時期は、もうギリギリになっているかもしれない。そうだとしても、誰がそんな面倒な検証を行うのか? といわれると私も困る。自然なのは市役所が大学の先生に委託することかもしれないが、そんな地味な仕事は行政も大学の先生もやりたがらないだろう。やはり、「黒瀬杜氏」は歴史の霧に消えていくしかないのだろうか。

ところで最後に、黒瀬杜氏の先輩格である阿多杜氏について、私の仮説を紹介しておく。どうして阿多には、黒瀬より先に杜氏集団が形成されたのか、ということだ。阿多といえば、昔は「阿多んタンコ」が有名だった。タンコすなわち桶である。阿多は、タンコ職人がたくさんいた村だったのである。そして、焼酎造りにはバカでかい桶が必要になる。桶づくりや、桶の補修のために、焼酎屋にはタンコ職人がいつも出入りしていただろう。そういうタンコ職人の中で、「ちょっと手伝ってくれないか」と泡盛の技術者に誘われたものが、最初の阿多杜氏になったのではないかと思う。

これは、検証可能なのかすら分からない仮説である。阿多杜氏についてはわからないことが多いのだ。最後の阿多杜氏、と言われるのが、上堂園孝蔵さんという人だ。「阿多杜氏」は、黒瀬杜氏より一足先に歴史的存在となっていく。阿多杜氏が何者だったのか、よくわからないままに。

私としては、黒瀬杜氏も阿多杜氏も、その名前は消えゆくものだと思っている。黒瀬に生まれた杜氏が「黒瀬杜氏」だというのなら、消えてゆく方が潔い。だが、その歴史は誰かが受け継いでいって欲しい。坂を登り切れば素晴らしい海の景色が見える谷、黒瀬集落に、現代の焼酎産業の源流があったことは、どこかに「記憶」されていって欲しい。その歴史を受け継ぐ杜氏が、例えば「南薩杜氏」のような新しい存在として、また歴史を刻むことがあるのなら、それが一番いいような気がする。

南さつまには7つの焼酎蔵がある。偶然だとは思うが、県内の自治体の中で一番多いらしい。もちろん、黒瀬杜氏や阿多杜氏の系譜を継いだ焼酎蔵である。お隣の枕崎には薩摩酒造があって、こちらも黒瀬杜氏が腕を振るった蔵である。南薩にあるこうした焼酎蔵が、「黒瀬杜氏」や「阿多杜氏」の歴史をどのような形で受け継いで行くのか、興味を持って見ている。

【参考文献】
焼酎杜氏」1980年、志垣邦雄
焼酎の伝播の検証と、その後に於ける焼酎の技術的発展」2010年、小泉 武夫
『現代焼酎考』1985年、稲垣真美
この他「杜氏の里笠沙」の一連の展示を参照しています。
また、「リレーインタビュー」という一連の記事が、杜氏の仕事ぶりについて勉強になりました。

2016年7月31日日曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その2)

鹿児島で杜氏と言えば、黒瀬杜氏の他に「阿多(あた)杜氏」がある。

かつて黒瀬杜氏と阿多杜氏は、鹿児島の二大杜氏集団であった。阿多杜氏の規模(人数)は、黒瀬杜氏の3分の1程度だったようだが、それでも焼酎杜氏の代表的な勢力であった。杜氏集団は鹿児島には黒瀬と阿多の2つしかなく、あとの杜氏は「地杜氏(じとうじ)」と言って、蔵元の人間が焼酎造りの技術を習得して杜氏になる(平たく言えば社内育成)というものだった。

阿多は、黒瀬のある笠沙と同じ南さつま市、黒瀬から約30キロ離れた、金峰にある。こちらの方が黒瀬よりも先に杜氏集団が形成されてきたようで、阿多の人から「杜氏はよい仕事になる」と聞いた黒瀬の人たちが焼酎造りを学ぶようになった、という話もあるので、鹿児島の焼酎産業の源流の、そのまた源流は、実はこの阿多にあると言える。南さつまはまさに、焼酎の源流の地なのだ。

なお1924年(大正13年)には、阿多と黒瀬の人たちは共同して「加世田杜氏組合」を作っている。そして昭和5年にこの組合から「阿多杜氏組合」が独立、追って「黒瀬杜氏組合」も出来、やがて「阿多杜氏」「黒瀬杜氏」はそれぞれ独自の道を歩んでいく。後に2つに分かれたとはいえ、最初は共同して組合をつくっていることを見ても、この2つの杜氏集団はもとは同じ起源を持つのだろう。

では、阿多や黒瀬の人たちは、焼酎づくりの技を誰から教わったのだろうか? この問いを考えるために、今回は焼酎の製造技術について振り返ってみたい。

前回述べたように、明治後期は焼酎業界の激動の時期であった。国家の政策によって小規模な酒造所が廃業させられ、鹿児島でにわかに焼酎の大量生産をする必要が出てきた頃である。この時期、酒造所の平均造石数(※)は10石程度から150石ほどへと急増する。ここに阿多杜氏や黒瀬杜氏が勃興してくるということは、彼らが「焼酎の大量生産」の技術を習得していたということだろう。

さて、この「焼酎の大量生産」の技術とは、具体的にはどのようなものだったのだろうか。

ここに興味深い資料がある。村尾焼酎兄弟商會(現・村尾酒造)が残した、明治35年から大正にかけての焼酎の製造帳である。明治から大正の頃の焼酎造りがどんなものであったかが分かる、貴重な資料だ。

ちなみにこの頃は、鹿児島の焼酎も芋焼酎一辺倒というわけではなくて、米焼酎もあれば粟焼酎もあった。それでも一番普通に飲まれていたのは芋焼酎で、大体7割くらいが芋焼酎だったみたいである。

で、村尾焼酎兄弟商會の資料によると、米焼酎の仕込み法はこの時代を通じてほとんど全く変化がないのに対して、芋焼酎の方は毎年仕込み法が変わっていて、材料の分量から、仕込みのやり方まで製造方法が一定していない(なお、粟焼酎についてはどんどん廃れていった)。焼酎の大量生産、もっと正確に言うならば「芋焼酎の大量生産」のためには、実際にさまざまな試行錯誤があって、技術が変転していったのである。

その技術の変転の内容はどんなものだったかというと、主に2点が挙げられる。第1に「どんぶり仕込み」から「二次仕込み法」への変化。第2に黒麹(くろこうじ)の使用である。

「どんぶり仕込み」というのは、米麹(すなわち蒸し米に麹菌を混ぜ、麹菌を大量に繁殖させたもの)、サツマイモ、酵母、水を一度に甕や桶に投入して仕込むやり方だ。かつて鹿児島の焼酎は、全てこの作り方だったようである。しかし、この方法では腐敗などの失敗が多く、大量生産には向いていなかった。特に、芋焼酎においてである。

というのは、サツマイモはデンプンと共に糖分もかなり含まれる。醸造というのは大雑把に言えば、デンプンを麹で分解して糖にして、さらに糖を酵母で分解してアルコールにする技術と言えるが、デンプンと糖が両方存在していると、その2つのフェーズ(生化学的反応)が同時並行的に行われることになる。

例えば、米焼酎とか麦焼酎だったら、米・麦には糖分は含まれていないので、デンプン→糖→アルコール、という化学反応は直線的に進ませることができるが、芋焼酎はそれが無理なのである。そして、麹菌が十分に繁殖していない中で多くの糖分が存在することは、雑菌の繁殖を招き腐敗の原因にもなるわけで、サツマイモでの焼酎造りは大変難しい。サツマイモを栽培している国はたくさんあるのに、サツマイモでつくったお酒が定着したのが日本だけだということはこのあたりに理由があるだろう。

この難点をクリアするために開発されたのが「二次仕込み法」である。それは、まずサツマイモを除く「米麹、酵母、水」だけを仕込んで一次醪(もろみ)を作る。そして一次醪に蒸し芋と水を加えて二次醪を作り、これを蒸留して焼酎を得るのである。要するにこれは、一次醪でまずデンプンだけの世界で麹と酵母の生態系を確立して雑菌の繁殖を抑止し、そこにサツマイモの糖(とデンプン)を加えることで微生物の繁殖を安定的に行うやり方なのだ。

と言ってしまえば簡単なのであるが、この二次仕込み法に到達するまでに様々な仕込み法や分量の変転があり、この技術が確立するのがだいたい大正の初め頃である。この仕込み方法が開発されたことによって、芋焼酎の大量生産の道が開けたといえよう。

そして、二次仕込み法の開発とともに広まったのが、2点目の黒麹の使用である。芋焼酎は、かつては日本酒を造る時に使う麹と同じ「黄麹」を使って作られていた。しかし黄麹を使うと二次仕込み法によったとしても腐敗が起こりやすかった。黄麹は元来温度の低いところで本領を発揮するものであるから、冬でも暖かい鹿児島には向いていなかったのである。

しかし、鹿児島よりもさらに暖かい沖縄では立派に泡盛(米麹のみで作る焼酎)が出来ていることから、泡盛につかう麹、すなわち黒麹が注目され、明治20年代から徐々に使われ始め、これが大正2〜4年頃に県下に急速に普及していくのである。

この黒麹には、鹿児島の焼酎造りに極めて適した性質があった。まずは、クエン酸を大量に生成するという能力である。つまり黒麹菌によって米麹を作ると、強酸性となって酸っぱい米麹ができるのだ。このクエン酸により雑菌の繁殖が抑えられるため腐敗が防止される。

さらに、普通の麹菌の糖化酵素(デンプンを糖に変える酵素)は、酸性溶液中ではほとんど作用しないが、黒麹菌の糖化酵素はpH2.8の強酸性になっても作用する。このためクエン酸による強酸性という、普通には殺菌に使われるような環境の中でも糖化を進ませることができるのである。ちなみにクエン酸に揮発性はないので、蒸留して焼酎になる時にはこれは味にはほとんど影響しない。

この黒麹菌の使用を勧めたのは、明治43年(1910年)に税務監督局鑑定官として鹿児島に赴任してきた河内源一郎という技師である。河内は泡盛につかう黒麹菌を取り寄せ、鹿児島の焼酎造りに適した種麹菌を分離して「泡盛黒麹菌」と名付けてこれの普及に努めた。黒麹菌の使用は河内赴任の少し前から始まっていたようだが、河内の前には種麹ではなく友麹を使っていた(前に作った麹に継ぎ足してつくる)ので失敗も多かったという。焼酎造りに適した黒麹菌の分離とその種麹の確立によって、これを広めたのは「麹の父」とも呼ばれる河内の功績だ。

ただし黒麹には大きな欠点があった。それは、まさに黒いカビであるため、使っていると作業場や服やなんでもかんでもがススで真っ黒になってしまうということである。「肺の中まで黒くなる」と言われたくらいで、肺病の原因になるのではないかと恐れられた。そういう難点はあったが、黒瀬杜氏は早くから積極的に黒麹菌を使って勢力を拡大したと言われる。逆に阿多杜氏は、何でも黒くなるのを嫌ってか黄麹の使用にこだわり、それが結果的に黒瀬杜氏よりも小さな集団になってしまった一因だったという。

さて河内は、黒麹菌の研究を進めるうち、大正12年(1923年)に黒麹菌の中から黒くない麹菌を発見し、それを分離して「河内白麹菌」を開発した。黒麹菌の突然変異で生まれた新しい麹菌だった。この白麹菌は黒麹菌の便利な性質はそのままに、何でも真っ黒くしてしまわないというさらに便利なものだった。しかも白麹を使用した焼酎は品質(風味)もよかった。河内は昭和6年(1931年)の退官後、河内源一郎商店を設立して種麹菌の販売を事業化して大成功を収め、河内が発見した白麹菌はその後九州のほとんどの酒造所で使用されることになる。河内源一郎商店は、その後、焼酎の技術革新を彩っていく存在に成長していく。

(つづく)

※酒造業界では、製造量を石高で表す習慣がある。1石=10斗=100升≒180リットルである。

【参考文献】
本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察 (その1)」1989年、鮫島 吉廣
本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察 (その2)」1989年、鮫島 吉廣
焼酎の伝播の検証と、その後に於ける焼酎の技術的発展」2010年、小泉 武夫
『焼酎』1976年、福満 武雄
『南のくにの焼酎文化』2005年、豊田 謙二

2016年7月25日月曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その1)

酒造の責任者を表す「杜氏(とうじ)」という不思議な言葉の語源に、こういう説がある。

かつてお酒というものは、客人を招く際に前もって家庭で刀自(とじ:古い言葉で「奥さん」という意味)が作っておくもので購入するものではなかった。だから、その家庭のお酒の味の良し悪しが、奥さんの評価にも繋がったほどだという。そこから、酒造の任に当たる人を「とうじ」と呼ぶことになったんだとか(他の説もある)。

そういう説があるくらい、近代以前の世界においてお酒というものは家庭で醸(かも)すのが当たり前だった。清酒の方は江戸時代には産業化されて購入商品になっていくが、鹿児島の焼酎は明治に至るまであくまで家庭で作るものであり、産業的にはほぼ全く作っていなかったようである。

つまり、焼酎造りの技は、かつては鹿児島のどこにでもあったものだ。一方で、前回述べたように黒瀬杜氏こそが九州の焼酎産業の源流の一つでもある。一見これは矛盾する事実だ。焼酎造りの技が各家庭にあったのなら、黒瀬杜氏がいなくても九州の焼酎産業は成立しえたのではなかろうか。

またそもそも、なぜこの九州の端っこの黒瀬という小さな集落が焼酎産業の源流となり得たのか。耕地面積が少ない黒瀬の集落では冬期の出稼ぎが普通で、出稼ぎの仕事として焼酎造りが盛んになったというが、耕地面積が少ない貧乏集落というのは鹿児島にはたくさんあったはずだ。黒瀬集落には、焼酎造りの技が育つような特別な巡り合わせがあったのだろうか?

私には、それらの疑問を完全に解く力はないけれども、黒瀬杜氏の成り立ちを振り返って、黒瀬杜氏とは何だったのか、ということを少しでも明らかにしたいと思う。

さて、黒瀬杜氏が生まれた明治30年代、焼酎産業はかつてない激動の時代を迎えていた。それを表す統計資料がある。鹿児島の焼酎製造量と酒造所数を示すものだ。

明治31年(1898年)を境に製造量も酒造所数も激増している。これは一体どういうことなんだろうか?

まずはこの状況を理解することが黒瀬杜氏の誕生を解き明かす一歩になりそうだ。

明治31年から、いきなり鹿児島の人が焼酎をたくさん飲むようになったということは考えられないので、これには統計上のカラクリがある。製造量が激増している(ように見える)わけは、これまで当局が認知していなかった焼酎製造が把捉され、統計上に現れてくるようになった、という社会システム上の変化なのだ。実は明治32年が、焼酎の自家醸造が禁止された年なのである(明治31年から変化があったのは、制度変更を見越しての事前準備のためであろう)。 さらに時代を遡って、このあたりの事情を振り返ってみる。

先述の通り、かつて鹿児島では焼酎は各家庭で手作りする飲み物だった。江戸時代の制度では焼酎造りは鑑札制(許可制)になっていて、形式的には自由な醸造は禁止されていたが、実態としてはさほど取り締まりはなかったようである。それが名実共に自由化されたのが明治4年。廃藩置県とほぼ同時に酒造税の規則が布告されて、免許料を払いさえすれば誰でも醸造ができるようになったのである。

といっても、鹿児島では西南戦争の前で、この頃は明治政府の言うことはあまり聞いていなかったので、この規則変更は鹿児島の社会にあまり影響を与えていなかったと思われる。それどころか、鹿児島では西南戦争前には地租改正もまともに行っていなかった。明治政府にとって、地租(固定資産税)と酒税は国税の2大柱であるが、その徴税システムが確立するのが鹿児島では明治10年代の後半からであろう。

このグラフは、鹿児島県が徴収した国税額であり、酒税の割合は明治44年(1911年)にはほぼ半分にも上っている。この頃、日本は日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治37年)と厖大な戦費を用する対外事業のため増税に継ぐ増税を行っていて、その中心はまさに酒税にあったのである。これは鹿児島県だけでなく全国的な傾向であった。

こうした酒税徴収システムを構築するためには、自家醸造はいかにも都合が悪い。お酒(焼酎)を作っても家族や親戚で消費するから帳簿上に製造・消費の記録が残らず、酒税を徴収することができないのである。そのため明治政府は、明治4年に一度は自由化した醸造を、明治32年に禁止することにしたわけだ。徴税を確実にするため、というのが主な理由であった。

このため、醸造免許の仕組みも劇的に変わっていく。

これは鹿児島県内の醸造免許人員の明治24年から昭和2年までのグラフであるが、大正年間に大きなピークがある。明治24年には販売を目的として醸造免許を持っているのは県内にたったの100人程度しかいなかったが、明治34年には3600人に達している。

この劇的な増加のわけは、自家醸造が禁止されたために、多くの人が醸造免許を取得したことによる。つまりこの時代、実際に焼酎造りが大ブームになったというよりも、それまで自家醸造で家族や親戚のために焼酎造りを行っていた人が、自家醸造禁止を受けて販売目的という名目で醸造免許を取ったのであった。

しかしもちろん、その実態はほとんど自家消費であった。いくら販売目的としていても、おそらく帳簿も不完全で、徴税の面では甚だ不十分であったろう。これでは、自家醸造を禁止した意味がないのである。また、これまで家庭で製造・消費していたものがいきなり禁止されても、その需要が減るわけではなく、すぐに製造体制(産業)が育つわけでもない。焼酎を飲みたい人はいるのに、売っているところはないという状況だ。そのため税務監督局は集落での共同醸造を認めていた。実態的には自家製造・自家消費であるものを、集落での共同事業ということで許可したわけだ。これが醸造免許と酒造所の激増(最初に出したグラフ)の理由である。

そこで、明治42年(1909年)に鹿児島税務監督局に局長として赴任してきたのが、勝 正憲というやり手の男だった(勝は後に政治家に転身して逓信大臣まで務める)。勝はこの登録免許・酒造所が乱立する状況を打破するため、その整理を断行する。その主目的は徴税を確実にするためということもあったが、未熟な酒造所が乱立したことによる業界の混乱を収拾するという意味もあったようである。小規模酒造所が品質の悪い製品を売ったり、過当競争で価格が低下したりしており、勝の赴任前から酒造所の淘汰が兆していたのは確かだ。

勝は、将来の発展が望めない小規模な酒造所を中心に免許を取り消し、本当に販売目的でやっていけるところのみを残すことにした。鹿児島に3500以上もあった酒造所は、勝の改革によってほぼ10分の1の300程度まで整理されることになる。この勝がやった改革が、鹿児島の家庭での焼酎造りが終わり、「焼酎産業」が始まったきっかけである。

もちろんこの改革は鹿児島県民に大反発を招くことになった。鹿児島の焼酎造りはこの時点でもおよそ400年の歴史がある。これまで各家庭で醸していたものが急に禁止され、どこかから焼酎を買ってこなければならなくなったわけで、しかもそれが増税のためであったのだから、これはいわば国家による文化の破壊であった。この改革に反対するため、1912年には鹿児島で「酷吏排斥苛税反対大演説会」が行われ、その聴衆は5000人に及んだという。地元紙「鹿児島新聞」や「鹿児島実業新聞」もこの増税には反対し、新聞紙上でも当局糾弾の運動は繰り広げられたが、それも結局は挫折し、酒造所数の整理は断行されていった。

さて、勝の改革により、酒造所の数がこれまでの10分の1になったということは、需要の方が不変とすれば、1つの酒造所あたりの製造量は10倍にならなければならない。これは大変なことである。製造能力を10倍にするということは、ただ甕の数を増やすとか、雇用者の数を増やすということだけでなく、本質的な技術の転換を必要とする。

例えば、お米を炊く、というような単純なことを考えても、3合炊くのと5合炊くのでは火加減が違うし、1升を鍋で炊くとなるとかなりコツがいる。1斗(18リットル)炊くのは普通の人にはほぼ不可能で、大量の米を処理しようとすると炊くのではなく蒸さなければならない。米を蒸すには炊くのとは違った技術と設備がいるわけで、お米を炊くだけでも大規模化は一筋縄ではいかない。

ましてや、焼酎造りは微生物(麹・酵母)を扱う。焼酎を大規模に造ろうとすれば、家庭の味噌・醤油置き場のようなところで細々と作っていた時の技術とは、自ずから違う技術が必要となってくるのである。温度管理一つとっても、大量に作るのは、少量作るのに比べて格段に難しい。何しろ、大量のものというのは、温度をすぐに上げたり下げたりすることが難しいのである。

そして、この頃の焼酎造りというのは、今に比べて失敗が多く、腐ってしまうことが多かったようである。となると、大量に仕込むと腐敗した時の損失も大きいわけだ。家庭で少量ずつ作っていた頃は、焼酎造りに失敗しても「今回は残念だったね」で済むが、産業として作るようになると仕込みの失敗は経営破綻にも通じる。急激な規模の拡大を求められた酒造所は、こうしたリスクとも戦わなくてはならなかった。そのために、焼酎の大量生産のノウハウを持つ技術者の必要性が高まってくるのである。

そしてそのノウハウを確立しつつあったのが、ちょうどこの頃に杜氏集団として形をなしてきた、黒瀬杜氏だったのである。

(つづく)

【参考資料】
『南のくにの焼酎文化』2005年、豊田 謙二
※掲示したグラフは、全て本書より引用しました。
『焼酎』1976年、福満 武雄

2016年7月19日火曜日

納屋リノベーション、お披露目!

お知らせしていた「納屋リノベーション」が先日完了したので、その結果を報告して自慢したい!

元が牛の肥だめ部分の改修ということで、「このきったない納屋を子ども部屋にしようというのは忸怩たるものがある」と先日の記事にも書いていたのだが、やってみるとこれが想像以上のリノベーションで、見違えるどころではなく、別世界になってしまった。
というのは、リノベーションをお任せした工務店のcraftaさんが、工事が進むにつれてやる気が出てきたのか(!)、見積もりにない作業をどんどんやりだし、また別の現場で出た端材なども使って赤字覚悟で素晴らしい施工をしてくれたからである!

というわけでその素晴らしいリノベーションぶりを披瀝したい。

これが、部屋全体のイメージである。そんなに広くはなくて、大体10畳くらい(3m×6m)。下半分の石積みと上部の木組みがよく調和して素晴らしい空間になった。天井と床は白木の杉材で張ってくれて、それだけで雰囲気が軟らかい。照明はLEDだが白熱電球みたいに見えるものを使い、また天井向きの間接照明もある。

で、同じ場所の工事前の写真が(同じアングルというわけではないけど)これ。

手前にあった石積みを崩して、(この写真ではその石積みの裏に隠れて見えない)下の肥だめを埋め、床のコンクリを塗り直して、その上で内装工事をしてもらった。

元が汚い納屋なので、「居住するには問題ないレベル」くらいにはキレイになるかと思っていたが、むしろ「本宅よりステキな空間」にグレードアップしてしまった。

うちの本宅は築百年の古民家で、こちらもそれなりに居心地の良いいい家である。 だが、このリノベーション納屋は、伝統的な納屋建築と現代的なセンスが見事に融合した空間になっており、オシャレなカフェのための部屋みたいである。

この納屋は元々2階建てだったから、この梁もとても立派で、工務店さんも「今じゃこんな梁の家は作れないですよ」とのこと。湾曲した松が加重を支えるフォルムが何とも言えない。かなり低いので頭はぶつけそうであるが。

ちなみに、その上の黒い部材は、以前納屋の2階を撤去したときに屋根を載せるためにつくった木造トラスを、敢えて見せるようにして、しかもそのトラスに筋交い部材を追加して黒々と塗ってくれたもの。(さっきの写真とは反対側から撮った写真)

入り口部分はこんな感じ。壁の古材は、北米のスノーフェンスというもので、30年間風雪に耐えた木材のヴィンテージ品。これはかなり味がある木材で、わざわざ北米から運んでくるので高級品である。インターネットでは1本3000円くらいで販売されている。古びた納屋のリノベーションにぴったりということで入り口部分にあしらってくれたのである。本当にいい雰囲気だ。

その足下の、入り口の小さな土間部分には桜島の溶岩タイルが使われている。私の思っているリノベーションのテーマは、「木と石」なので、そのテーマにぴったりの素材。しかも桜島の溶岩タイルなので、鹿児島の人間としては最も親しみと崇敬を抱くものだと思う。

入り口から見る石積みと木口(こぐち)。新築の住宅には見られない荒々しい造形が心を躍らせる。そしてやっぱりポイントは石積み! こういう不整形な木材は、新築住宅でもあり得るのかもしれないが、新築の住宅では絶対にあり得ないのがこの石積みである。

この石を外から見たらこんな感じ。このあたりの古い納屋では、だいたいこの写真と同じ赤っぽい石が使われている。この石はかつて枕崎で採石されたもので、軟らかくて加工がしやすいことからこのあたりではよく使われたものである。ただし、現在では既に採石が終了しているらしく、今この石を使って建築しようと思っても簡単には使えない。再利用しようとしても、脆くて壊れやすいのでリユースも難しいと思う。

ところで、石積みと言えば、鹿児島で最近話題になったのが鹿児島港の石蔵倉庫の取り壊し。
【参考】地域のシンボル的な石蔵が取り壊されたことに対する反応を参考に、対話に必要な2つの軸を考える(OFFENSIVE-LIFE!!)
【参考】日本建築学会九州支部『建築九州賞 業績賞』(レトロフト blog)
鹿児島港には、古い石蔵群が残っていて、景観の面でも文化財の面でも大事なものなはずなのに、その一つが取り壊されてコンビニになっちゃった、という話である。

このケースで、一体どういうことで石蔵が取り壊しの憂き目に遭ったのかは知らない。でも多くの人が推察しているように、結局はオーナーがその価値をよく理解していなかったのだろうと思う。

でも、仮にオーナーがその価値を分かっていたとしても、実は古い建物を残していくのは大変である。というのは、建築基準法の問題があるからだ。

新たに建築物を作る時は持ちろん、既存の建築物を改修する時にも建築基準を満たす必要があるが、石積みや湾曲した梁などの昔の構造は、その基準に適合するかの判断が難しい。構造計算をしようにも、湾曲した梁なんかは構造計算ソフトで計算できない場合がありそうである(近似的には可能だろうから、結局は近似値でやると思う)。石積みもまた、構造計算ソフトに普通には入っていない素材だろう。

また大きな(軒が9メートル以上の)石造りの構造物の場合は特に満たすべき基準が厳しくなっていて(建築基準法第二十条第一項第三号)、全部の基準を法の通りに満たそうと思ったらかなりの耐震改修が必要になるので、「そんなに鉄骨の筋交いを入れないといけないなら、もう取り壊しちゃおうか」となりそうなくらいである。

また、この建築基準は文化財保護の面でもかつて問題になって、神社仏閣の改修の際に防火シャッターをつけなくてはならないとか(雰囲気が台無し!)、建築基準法では木造の高層建築が認められていないので五重塔のような高層木造建築の改修の時に鉄骨で補強しなくてはならないとか(何百年もしっかり建ってるのに!)、そういう話があったようだ(方々から批判があって最近はかなり改善されたのではないかと思うが、今の状況は知らない)。

要するに、建築基準法は居住の安全性・機能性だけを見ていて、文化財保護に関してはあまり熱心でないから、古い建築を残していくことの障壁になる場合があるのだ。だいたい、古い基準では耐震や機能性が十分でないということで基準が改まっていくわけだから、古い建築物はそれを満たしていないことが多い。だから建築基準を満たそうとすると、雰囲気をぶち壊しにする鉄骨筋交いを入れないといけないとか、内装を防火素材に変えないといけないとか、元の建築をかなり変えた形にしないといけない。そうなると、内装だけやりかえる、みたいな手軽な改修とはコストも全然変わってくるし元の雰囲気も犠牲になる。結局、大きなコストをかけてまで無様な改修をしたくない、ということで改修を諦めるケースもありそうである。

では、今回のうちの納屋リノベーションではそのあたりをどうクリアしたのかというと、なんと、うちの周りはド田舎で都市計画地域ではないため、建築許可を取る必要がない! なので構造計算も行っていない。改修に際しては筋交いを入れたり、壁を作ったりしているので、実際には耐震性も向上しているとは思うが、正直に言えば耐震基準も満たしていない、と思う(計算していないので本当のところはわからないが)。だから、リーズナブルに、元の構造と意匠を最大限に活かしたリノベーションができたのである。これが納屋リノベーションの秘訣といえば秘訣である。

さて、鹿児島港の石蔵は、今回は残念な結果になったとはいえ、貴重なものであることはある程度共通認識があるだろうから、全部が全部取り壊されてしまうということはなさそうである。しかし、このあたりの納屋はどうだろう。どんどん朽ち、取り壊されていっているのが現状だ。昔の納屋は今の農業をするには適していないし、肥だめがあって湿気もこもるから利用しづらい。それに、そういう納屋が貴重なものか、というと実は今はまだそうでもなくて、まだ結構残っている。

でもあと50年くらいしたら、さすがに多くの納屋は朽ちてきて、かつてこのような石積みの納屋がこの地方には存在した、ということが博物館の中でしかわからなくなるかもしれない。そうなったとき、初めて我々はこの石積みの納屋の価値を理解するんだろうか?

考古学の基本的な視点として、「ありふれたものはなかなか後世に残らない」というものがある。ありふれたものは誰も敢えて残そうとしないからだ。後の世に残るのは、良くも悪くも飛び抜けたものとか、異常なものである。だが、暮らしの有様を再現しようとしたとき、そういうものはあまり役に立たない。暮らしの再現には、その時代のありふれたものこそが重要である。ありふれたものこそ、暮らしに不可欠な、社会にとって大事なものなのである。

私がこの納屋をリノベーションしたのは、単純には将来の子ども部屋問題を解決するためである。でももうちょっと大げさに言えば、この石積み納屋のかっこよさをなくしてしまわないための抵抗でもある。我々の今の社会では、もう、作ろうと思っても、こんな石積み納屋は作ることはできない。かなりコストをかけたら似たようなものはできるかもしれない。でも木材や石の切り出しと加工、建築基準法の問題、工法の問題、いろいろあって、現実的には難しいだろう。

こうして、納屋が私の思っていた何倍もステキにリノベーションされて、ちょっとはその抵抗も実のあるものになったのではないかと思う。これに触発されて、これよりももっとステキな納屋リノベーションが続くことを期待している。

ただ、この納屋リノベーションには一つだけ問題がある。子ども部屋にするにはあまりにステキになりすぎて、子ども部屋にしてしまうのがもったいなくなってきた、ということだ。とはいっても、子どもたちにはもう約束しているし、将来の子ども部屋問題は現実的に存在するので、さしあたりは子ども部屋にするしかない。でもこの部屋を子ども部屋としてだけ使うのはあまりに惜しい。

せめて、子どもたちにめちゃくちゃ汚されてしまう前に、お披露目会を行って生まれ変わりを祝してやらねば、と思っている。