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2022年1月1日土曜日

新年の忙しいアピール

謹んで新年のお慶びを申し上げます(…と書いたが、喪中なので書いてはいけないのかもしれない…?)。

この2年ほど、こちらのブログがすっかり疎かになってしまった。「書くことがなくなったんじゃないの?」と思っている人も多いと思うが、実はそんなことはなく、…いや、まあちょっとはそれもあるかもしれないが、主な原因は書く時間がないことである。

昨年は、クラウドファンディングで資金を募って「古民家ブックカフェ」を開店させたので、それにもかなり時間を使った。

※クラウドファンディングでご支援いただいた皆様で「まだ返礼品が届かないぞ!」と思っている方もいらっしゃると思いますが、こちらの事情で一斉に送付できておりませんのでもうしばらくお待ち下さい。すみません。

それから、今年度は小学校のPTA会長もやっているし、その前から農業委員会の仕事(正確には農業委員会の農地利用最適化推進委員)もやっていて、なんだか細々とした用事がいろいろと襲ってきている感じである。

ついでに、今は(昨年10月〜1月まで)南日本新聞の読者モニターも務めている。これは「南日本新聞を読んで」というコーナーに月1回投稿するもので、このブログを読んでなのか何なのか、新聞社の方から依頼してきたものである(ちゃんと原稿料も出る)。最初は「月一回の投稿だからそんなに大変じゃないでしょ」と思っていたが、やはりちゃんとしたものを書くには、新聞を毎日しっかり読まないといけないので思ったより負担だった。

ついでに書くと、新聞に毎月載れば何か反響があるだろうと思っていたが、意外と何も反響がないので拍子抜けしている(笑)まあそんなもんか。

それからもう一つ、昨年は「やうやう」という大隅(鹿屋)で創刊されたフリーペーパーで連載を持つことになり、2ヶ月に1回くらいのペースで原稿を書くようになった。連載のテーマは「バッハ以後のフーガ250年の歴史」。誰が読む連載なのか自分でもわからないマニアックなテーマである(ただし、今はまだマニアックな話題には到達していない(笑))。

【参考】バッハ以後のフーガ250年の歴史
https://fugue-after-bach.blogspot.com/
※フリーペーパーに掲載後しばらくしてから転載しています。

そして実は、最近私の時間を奪ってきたことがもう一つある。それは、本の出版である。まだ詳細は伝えることができないが、某中堅出版社から本を出版することになった。それでこの数ヶ月は原稿の整理やら校正やらで時間を取られていた。

内容は、このブログで「なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?」というタイトルで連載していたもの。もちろんブログに書いたままではなく、ブログを元にまとめ直したものである。最初は地元出版社に出版を打診したものの、「かなり専門的なので中央の出版社に持っていった方がいいんじゃないか」ということで持ち込みし(といっても電子メールで送っただけですけど)、驚くべきことに一社目で出版が決まった。

そんなわけで、今年は本を出す予定である。これは私も以前から目標にしていたことなので非常に嬉しい。ただ、そのためにもっと忙しくはなりそうである。

と、いうように、こんなブログでも、書いているといろいろ発展があるものだ。もうちょっと積極的に書いていった方がいいかもしれない。

というわけで今年もよろしくお願いいたします。

2019年6月3日月曜日

薩摩藩の謎な馬生産「牧」を考える企画展

現在「歴史交流館金峰」で開催中の企画展「伊作牧~金峰山に守られた牧場~」を見て来た。

伊作牧(いざくまき)とは、金峰町から吹上町にかけてあった馬の放牧地である。企画展を見ていろいろ学びもあったし、新たに疑問点も出てきたので備忘を兼ねてちょっと書いておきたい。

薩摩・大隅は古代から馬の産地として知られ、戦国時代には馬の生産が盛んになったが、江戸時代になって軍馬の需要がなくなっても依然として馬の生産を続けた。歴代藩主は馬の生産に関心を示し、特に島津重豪と斉彬は品種改良や組織的生産方法の向上を目指したらしい。

ここで一つの疑問は、軍馬の需要がないのになぜ薩摩では(大隅にも牧はあったが薩摩の方が中心)盛んに馬の生産を行ったのか、ということである。時代劇等では武士が馬に乗っているので、「馬に乗るために育ててたんでしょ?」と思うかもしれないがそうではない。

というのは、実は江戸時代、多くの武士は騎馬することができず、乗馬する場合も馬はほとんど従者によって引き連れられゆっくり歩くだけであって、疾駆することは武士の威厳を損なうとすら考えられたフシがある。そもそも日本古来の馬具—鐙(あぶみ)とか轡(くつわ)—は優美ではあったが非実用的・非効率的であり、自由自在に騎馬するには向いていない。さらに重要なことは、日本の馬は去勢されていなかったうえにろくに調教されていなかったから、牡馬(オス)は性質が獰猛で人の言うことを余り聞かなかったということである。もちろん軍馬が重要な役割を果たした戦国時代では、馬は縦横無尽に乗りこなされていたのだろうし、相応の調教法が存在したのであろう。しかし泰平の世の中では騎馬は本質的に不要であり、騎馬や調教の技術は失われてしまい、馬を引き連れることは上級の武士のファッションにすぎなくなっていた。

にもかかわらず、薩摩では馬の生産が続けられていた。何のために? それがわからないのである。上級武士の見せびらかしとして馬が存在していたにしても、藩営で20もの放牧地を設け組織的に馬を生産していたところを見ると、薩摩藩では馬にそれ以上の価値を見ていたことは確実だろう。

ところが、その生産方法というのは全くお粗末なものだったのである。薩摩の牧というのは、簡単に言えば馬の自然放牧地のことだ。牧を管理する役人はいるが、基本的に馬を世話することはせず、交配・ 繁殖・成長は全て自然に任される。牧とは、単に馬が逃げないように半孤立の地域を設けるという意味なだけで、そこで馬の人為的生産・調教が行われるわけではないのである。

ただし付け加えておかなければならないのは、かなり手間を掛けて馬を生産した東北地方などであっても、近代的な意味での育種は行われなかった。東北では曲り家(まがりや)といって、母屋と厩(うまや)が繋がった建物で丁寧に馬を育てたが、それにしても去勢は全く行われず、人工的育種(優れた血統同士を人為的に交配させること)が積極的に行われた形跡はないようだ。なお、西洋では古代から去勢や育種の原理は知られており、家畜の基本的な飼養法となっていたことが日本とは趣を異にしていた。

さて、薩摩藩の牧では、去勢も人工交配もされない馬の集団がのびのびと原野を駆け回っていたのだが、要するにこの馬は家畜ではなくて紛れもなく野生馬だったのである。

この野生馬をひっつかまえて家畜馬にする行事が「馬追い」である。これは、牧の一端から一列にならんだ武士たちがローラー作戦で馬を寄せていき、最終的にはオロ(苙)という直径10mくらいの円形の土手の中へ追い詰めるものだ。二才馬(にせうま)という若い目的の馬を定めたら、オロの中をぐるぐる疾駆する馬に、数人がかりで土手の上から飛びついて捕獲し、轡をつけて出荷(藩に献上)する、というのが作業の流れである。

ちょっと変わっているのは、この「馬追い」に参加する武士たちの格好である。ふんどしいっちょにワラの腰簑をつけ、上半身は裸で赤いタスキのようなものをつける、というなんとも防御力の低い格好なのだ。しかも草鞋すら履かず裸足だった模様である。山野を疾駆するのに裸足では随分辛かっただろうし、この格好で最終的には野生馬に突撃するのだから命知らずもいいところである。

これは、道具もなにもなく裸同然の徒手空拳で野生馬を捕まえる危険きわまりない仕事であり、また非効率的な仕事でもあった。ローラー作戦で馬を追い詰めるので「馬追い」には数百人の人手が必要な上、しかも実際に捕獲できるのは一回に数頭でしかなかった。牧には数百等の馬の群れが棲息していたにもかかわらずである。

どうしてこのような非効率的な捕獲方法をとっていたのかも謎である。展示では、見世物・遊興的な側面が大きかったのではないかとされていた。確かに、この危険で派手な仕事は見応えがあったらしく、見物人が大勢訪れ、たびたび禁じられたものの懲りずにテキ屋的なものが出店していたらしい。「馬追い」はエンターテインメントであった。

ところがエンタメとして考えられないのが、同じ南さつま市の笠沙の野間半島にあった「野間牧」だ。江戸時代には野間半島は本土と砂州で隔てた島であり、そのため馬が逃げる心配がなく、牧が設けられたのである。この野間牧でも「馬追い」が行われたが、この頃の野間半島には道らしい道はなく、片浦から船で行く必要があり、「馬追い」に見物人が大勢来ることは考えられない。こちらではエンタメではありえなかったと思う。それでも非効率的な馬の生産が行われ、危険な「馬追い」をやっていたのはなぜだったのか…?

それを解く鍵、かどうかはわからないが、引っかかるのは「馬追い」の時の半裸の格好だ。ちなみにこの時は髷も解いたらしい。馬をつまかえるにしてはみすぼらしすぎるこの格好に、「馬追い」の源流へのヒントがあるような気がする。効率的に馬を捕まえようとしたらありえない格好で行われるのは、馬を捕まえる以外の目的が元来あったような気がしてならない。

ともかく鹿児島ではこのように目的の不明な馬の生産が江戸時代を通して行われ、しかもわざわざ危険で非効率的な捕獲方法を採用していた。さらにそうして生産した馬は野生馬であり、去勢も施されず調教も不十分であったと推測されるため、有用であったか怪しいのである。何のためにこのようなことをやっていたのか本当によくわからない。

さらに展示を見て思ったことをいくつか。

牧には、牧神(まきがみ、マッガンサァと呼ばれる)が祀られるが、これは巨石であることが多い。伊作牧でもそうだし、吉野牧も巨石だ。牧神はなぜ巨石なのか。巨石でない祠式のものもあるから絶対ではないが、巨石と牧・馬との関係はいかに。

そして薩摩藩では、馬はどのくらいの価格で売買されたのか。藩営の牧では、馬追いで捕獲した馬は藩に献上(というより元々藩の所有物)されたが、捕獲したもののうちあまりよくない馬は百姓などに払い下げられたという。どのくらいの価格だったのかがわかれば、この粗放生産の理由がわかるかもしれない。また、薩摩藩の馬に関する法令も気になる所である。馬は藩の専売ではなかったとは思うが、法令上どのような規制がかかっていたか。

最後に、武士でなく百姓の世界での馬の生産・流通がどうであったのかということ。先述の通り牧の馬は百姓にも払い下げられたのであるが、百姓が運搬に使っていた馬も全てが牧出身であったとは考えられない。というのは、馬は去勢されていなかったから家畜馬も子どもを産んだに違いないからである。全国的にはそうした牛馬は馬喰(ばくろう)という人たちによって取引され、そうした人たちの宿場(馬喰宿)も設けられていた。そもそも野生馬を捕まえて調教するよりも、生まれた時から人の手で育てる方が調教は容易で有用な家畜にすることができるのは間違いない。家畜馬の子どもの方がずっと需要は大きかっただろう。百姓の場合見せびらかしで馬を使うのではなくて、現実的な運搬の必要性があるのだからなおさら気立ての良い馬が求められただろう。では鹿児島では馬喰はどう活動していたのか? それと牧の関係はどんなものだったのか? 気になることはいろいろである。

長くなったが、今回の展示は小規模なものながら薩摩藩の謎な馬生産を顧みる機会となり、私にとって大変ためになった。展示期間は残り僅かだが、ご関心の方はぜひ観覧をオススメする。またこの場を借りて、展示を担当した学芸員の方にも御礼申しあげます。

【情報】
企画展「伊作牧~金峰山に守られた牧場~」
開催期間:2019年3月16日(土)〜6月16日(日)9:00〜17:00
     ※休館日:月曜日(祝日と重なる日は翌日)
会 場:歴史交流館金峰
入館料:高校生以上300円、小・中学生150円、幼児無料(団体割引あり)
問い合わせ先:歴史交流館金峰 0993−58−4321

2018年5月8日火曜日

日新公没後450年と、草の根の「日新公いろは歌フォトブック」

2018年は、日新公没後450年である。

日新公とは、島津日新斎忠良(じっしんさい・ただよし)。島津中興の祖と言われる、加世田ゆかりの戦国時代の名君である。

日新公の生きた時代は戦乱の世であった。鹿児島でも、敵と味方が入り交じり、各勢力がモザイクのように絡み合っていた時である。日新公は伊作島津家に生まれたが、幼い頃、父・伊作善久(よしひさ)が弑逆(しぎゃく:臣下に殺されること)され、また祖父・久逸(ひさはや)も戦で討ち死にして厳しい境遇に置かれた。

しかしやがて相州島津家の島津運久(よきひさ)が日新公の母・常磐を妻として迎え入れる。こうして若い日新公は伊作島津家と相州島津家という2つの島津分家の双方の当主となり、田布施(金峰町)の亀ヶ城を居城とした。

この頃は島津家同士が争い合っていた。いわば親類同士での殺し合いである。日新公の相州島津家、薩州島津家、そして島津本家の三つ巴の争いであった。当初は薩州島津家の島津実久(さねひさ)が優勢であったが次第に日新公が勝利を重ね、遂に天文7年(1538年)、薩摩半島南部の実久の拠点だった加世田を夜襲により攻略。時を同じくして日新公の子・貴久も鹿児島方面で実久勢を斥け、日新公・貴久親子は相争っていた島津家を統一した。

こうして日新公が島津家を統一したことにより、島津家は強力な勢力として成長していく。子の貴久は日新公の死後薩摩国を平定。また孫にあたる「戦国薩摩四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)」の時代には、薩摩・大隅・日向の南九州3カ国を統一し、薩摩藩の基礎となった。

日新公は、このように優れた武将であったが、彼が尊崇を受けたのはそればかりが理由ではなかった。例えば領地では産業の振興に努め、仁政を施したので領民が喜んだというし、さらに日新公は文化を保護し、学問を振興した。彼自身も幼い頃、真言宗の海蔵院というお寺に預けられて厳しい教育を受けており、さらに長じてからも桂庵玄樹の学統を継ぐ学僧から禅や儒学を学んだ。

そうした学問が基盤となっていたのだろう。日新公は家督争いの最中にも、激戦地となった各地で敵味方問わず戦没者を供養する仏事を挙行し、六地蔵塔を建てた。血を分けた親類同士が殺し合うのだから勝利しても後味は悪く、寂寞とした思いがあったのではないかと思う。だから戦が終われば敵味方を区別せず供養を行った。加世田に残る六地蔵塔はその一つである。

また、日新公は加世田の攻略後しばらくして、幼少期から学んだ儒学や仏教の哲理をいろは47文字で始まる和歌集にまとめた。これは「いにしへの道を聞いても唱えても わが行いにせずばかいなし」から始まる心を鍛える教えであり、後に薩摩藩士の子弟教育の根幹として用いられた。

すなわち日新公は、相争っていた島津家を統一するとともに薩摩国平定の道筋をつけたという軍事的・政治的な業績と、教育・文化を保護し「日新公いろは歌」という薩摩藩士の道徳の基礎となる教えを編んだという2面において、後の薩摩藩の基礎をつくった人物なのである。

そんな日新公が亡くなってから、2018年で450年になる。

日新公が晩年隠居したのが加世田で、また死後には現在の竹田神社のところにあった日新寺(当時は保泉寺という)に葬られていることから、日新公と加世田との縁は深く、今年はいくつかの記念事業が計画されているようである。特に7月21日~23日は「日新公ウィーク」とされ、仙巌園では7月21日に「三州親善かるた取り大会」があるそうだ。この「かるた」はもちろん「日新公いろは歌」を使う。

そういった行政が計画しているものとは別に、市民からの自然発生的な取り組みもある。その一つが、冒頭写真に掲げた「日新公いろは歌フォトブック」。

南さつま市各所の風景写真とともに「日新公いろは歌」が解説つきで掲載されている。「いろは歌」の解説チラシは行政なども作っているが、こうして風景とともに眺めるとまた違った雰囲気になると思う。

実は私自身も、以前「日新公いろは歌」に興味をもってまとめたことがある。

【参考記事】郷中教育の聖典、日新公いろは歌

しかし内容について考えるだけで、こういう風に端正にまとめて若い人にも受け入れられる形にするということは思いもよらなかった。 行政が作っている解説チラシはあまり読む気がおきないものだが、これなら興味がない人でも手に取りやすいと思う。

また、内容には「いろは歌」だけでなく、日新公やゆかりの史跡について簡単にまとめてあり、観光の記念・おみやげにちょうどよい。こういう資料があると、あとで思い出そうという時に役立つ。

ちなみにこのフォトブック、「砂の祭典」で1冊500円で販売していたので私はそこで買ってきた。今後は物産館などでの販売を計画しているということである。

このフォトブックを作っているのは、「ミナミナマップ」という地域情報発信プロジェクト。今風に言えば「WEBメディア」。WEBでの発信だけでなく、本体活動である南さつま市のマップづくりや、お土産づくりといった様々な活動を展開中である。

最近、自分の研究(鹿児島にはなぜ神代三陵が全てあるのか等)に時間を取られて、このブログの更新があまり出来ていないので、南さつま市の情報を欲している方はこちらのブログやFacebook等のSNSをフォローすることをオススメしますよ。

【ミナミナマップ】
Blog:https://minaminamap.blogspot.jp/
Facebook:https://www.facebook.com/minaminamap.minamisatsuma/
Instagram:https://www.instagram.com/minamina_map/
WEB サイト:https://sites.google.com/view/minaminamap/
※この他紙のマップがありますがそれについては気が向いたら後日書きます。

2017年1月9日月曜日

六地蔵塔の思想

南さつま市の加世田に、「六地蔵塔」という史跡がある。

時は戦国、島津の中興の祖である島津忠良(日新斎)が、ここからほど近い別府城を攻略した際に亡くなった兵士を、敵味方なく供養するために1540年に建立したものだそうである。

六地蔵塔、というものを知らなかった私は、これを見てなんだか不思議な石塔だなあ、と思った。調べてみると、六地蔵塔は戦国時代を中心に江戸初期くらいまで九州で流行したものらしく、鹿児島にも他にいくつか残っている。

六地蔵塔で有名なのは日新斎の孫の島津義弘で、例えば宮崎の木崎原で伊東軍を大破した時も戦場に六地蔵塔を建てたというし、義弘は大きな合戦跡にはほとんど六地蔵塔を建立して敵味方なく供養したそうである。

この「敵味方なく」というところが重要で、島津氏では、日新斎が敵味方双方の戦没者供養(施餓鬼会)を行ったのをきっかけにして、それが伝統になった。味方の武将を弔うのは当然のこととしても、敵の武将まで供養碑に名を刻んで弔ったということで、戦没者慰霊の考え方が甚だ先進的で、赤十字精神の先蹤であるという人もいる。

現代でも、明治日本の官軍が作った靖国神社はあくまでも官軍の犠牲者を弔うものであり、例えば西南戦争で戦死した薩摩の人間たちは国賊と見なされて今でも祀られていない。その慰霊の精神において、この六地蔵塔は靖国神社よりも遙かに人間的である。

ところで、義弘が建立したと伝わる六地蔵塔の作例を見ても、こういう三重の塔形式になっておらず、やっぱりこの六地蔵塔は変わっている。 この加世田の六地蔵塔は、日新斎が建てたものそのままでなく、建立後約50年で再建されたものらしいから、オリジナルの造形とは違う可能性もあるが、他の地に類例がないか探してみたいものである。

さて、以下ちょっとマニアックな話になるが、この六地蔵塔というのは何なのか、なぜ戦没者供養のために建てられたのか、ということについて少し語ってみたい。

まず、「六地蔵」というものが何なのか、ご存じだろうか。

そもそも地蔵菩薩というものは、ごく簡単に言えば「地獄に落ちた人を救う存在」だ。本来は、地獄には人々を救う菩薩や仏(如来)がいるはずがない。ひとたび地獄に落ちれば、鬼の獄卒から終わりなき責め苦を受け続けなくてはならない。仏は、地獄の世界に生まれ落ちることはないので、そこに救いは存在しないのである。しかしそういう地獄の衆生(人々)を救いに、わざわざそこへ赴く存在が地蔵菩薩であると考えられた。

地蔵は、地獄だけでなく、六道——地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、の6つの世界——を毎日巡って、そこで苦しむ人々を救い続けるとされた。生きとし生けるものは全て、前世の行いによってこの六道を輪廻し続け、それぞれの世界で苦しみや悩みに苛まれる。仏教の目標の一つは、この輪廻から抜け出して(解脱して)永遠の平安の境地にいたることであるが、地蔵は人々を救うためにあえて解脱せず、六道の世界を巡りながら人々を救っているのだ、という。

こういう観念が発達してくると、六道に対応して六種類の地蔵がいると考えられるようになり、やがて「六地蔵」というセットが成立してきた。ちなみに「六地蔵」という言葉の初出は、1110年代に三善為康が撰した『拾遺往生伝』という本。平安時代の後期のことである。

この六地蔵、すなわち六種類の地蔵が具体的に何であるか、というと数々の異説が唱えられて混乱しており一定しないが、有名なものとしては、
(1)地持地蔵、(2)陀羅尼地蔵、(3)宝生地蔵、(4)鶏亀地蔵、(5)宝性地蔵、(6)法印地蔵
の六地蔵であるといい、また別の説としては、
(1)護讃地蔵、(2)辨尼地蔵、(3)破勝地蔵、(4)延命地蔵、(5)不休息地蔵、(6)讃龍地蔵
の六地蔵であるという。しかもややこしいことには、これらが六道のどの世界に対応しているのかは詳らかでないのである(※)。平安の人々は、六つの地蔵菩薩を六道それぞれの世界ごとに区別することには、あまり関心がなかった模様である。

こうして、六体の地蔵がまとめて建立されるようになって、各所に六地蔵が安置されるようになると、今度は「六地蔵巡り」という一種の巡礼がなされるようになった。 これは最初には、六カ所の六地蔵を巡ることだったようで、すなわち計36体の地蔵菩薩を拝むことだったらしい。この六地蔵巡りは、やがて簡略化されていって、六カ所にあるそれぞれ一体ずつの地蔵を巡っていくという風になっていく。例えば京都に残る「洛陽六地蔵巡り」というのがそれである。

どうして平安後期から戦国時代にかけて地蔵信仰が盛り上がったのかというと、一つは救い主のない末法の代であると認識されたからであるが、やはり大きな影響があったのは戦乱の時代であったからであろう。当然、戦争になれば人を騙したり殺したりする。そうなると、人間はどうしても地獄に落ちざるを得ない。地獄というものが、今よりもずっとリアリティを持って感じられていた時代であるから、特に武士階級には、死後の世界での責め苦というものが怖ろしく思われていた。

であるから、地獄に落ちた人をこそ救ってくれる、地蔵菩薩が信仰を集めるのである。そして、生きているうちに拝むならば六地蔵巡りもよいが、死後に弔うことを考えると六地蔵はまとまっていた方がよいということで、一度にお参りできるように六地蔵を彫り込んだ六地蔵塔というものが考案されたのだろう。島津日新斎忠良が加世田に六地蔵を建立したのも、戦乱で殺生の罪を重ね、地獄に落ちた敵味方の魂を救うためであった。

日新斎の敵味方なくの戦没者慰霊は、おそらく仏道の思想に基づくものであったが、この時代に六地蔵の建立が流行したのは、もしかしたら古くからある「怨霊鎮魂」の新しい形だったのかもしれない。

日本では昔から、非業の死を遂げたり、戦乱で死んだ場合など、異常な死に方をした人の魂は浮かばれないものとされ、怨霊となって現世に悪影響を及ぼすという考え方(御霊信仰)があった。例えば讒言にあって太宰府で死んだ菅原道真は怨霊になり都に天変地異を引き起こしたし、平将門の首塚の祟りは現代においてすら恐れられている。

そういう浮かばれない霊が現世に悪さをしないように篤く祀ることが「怨霊鎮魂」であり、それで菅原道真を祀る北野天満宮ができたり、神田明神で平将門を祀るようになったりした。

こういう神社が、例えば徳川家康を祀る日光東照宮と違うのは、これらが「敗者」を祀る神社であるということである。勝者を神格化するのは世界的に共通な現象であると思うが、敗者こそ神格化され、篤く祀らねばならないと考えたのが「怨霊鎮魂」という思想の独自性ではなかろうか。この思想が、六地蔵塔建立の背後にあるような気がする。

私は、現代にこそ「怨霊鎮魂」が必要だと、常々思っている。現代でも、声なきもの、弱いものは蹂躙され、死に、忘れられていく。見て見ぬふりをされ、なかったことにされていく。勝者が空前の繁栄を謳歌する一方で、敗者は社会の矛盾の全てを背負わされ、つじつま合わせのために消費される。現代は、ある意味では戦国時代と似たところがあるのかもしれない。日常生活においては武力こそ使われないが、資本主義のルールに基づいた、弱肉強食の世界——。

島津日新斎は、戦乱で死んだものたちを、敵味方なく供養した。では、現代の資本主義のルールでゲームに負けたものたちを、誰が供養してくれるのだろう? 供養しなければ、彼らは怨霊となって天変怪異を引き起こすのではないだろうか?

怨霊、などというと、人は非科学的と嗤うかもしれない。しかし敗者たちの魂を忘れなかった昔の人たちの方が、よほど人間的であった。死んだらそれでおしまい、とばかりに、都合の悪いことを押しつけられて死んでいった人たちが現代にどれだけいるのだろう。水俣病、ハンセン病、アスベスト中毒、薬害エイズ…、挙げていったらキリがない。被害者が全員死んだら問題も解決、みたいに待っている誰かがいやしないか?

私たちの社会は、勝者に憧れるばかりで敗者のことを無視しすぎた。今こそ、現代社会の敗者を弔う六地蔵塔を、この社会に建立すべきである。


※1この他、預天賀地地蔵、放光王地蔵、金剛幢地蔵、金剛悲地蔵、金剛宝地蔵、金剛願地蔵、という六地蔵も多い。

【参考文献】
『地蔵尊の研究』1969年、真鍋廣濟

2015年10月9日金曜日

状態のよい廃校校舎が、利用されるのを待っています

今年の4月に閉校した南さつま市の久木野小学校。廃校になったその校舎が、新たなアイデアで活用されるのを待っている!

南さつま市は現在、この廃校の校舎について「地域と共存しながら、活力ある地域振興に資するような事業者等を募集」している。4月に廃校になってからまだ半年ほど、このようなスピード感で事業者募集がなされていることに敬意を表したい。

というのも、廃校校舎の利用・活用についてはどうしても後手の対応になりがちである。その最大の原因は所管が教育委員会であることで、ただでさえ合併や閉校に伴う事務処理に追われる中、別に急ぐ必要もない廃校利用の検討なんかは自然と後回しにされるからだ。

その検討も、地域住民の意向を聞いたり、「とりあえず公民館(地域住民の活動拠点施設という意味で)にしておきましょうか」みたいな暫定的な処置をしているうちに建物のメンテナンスが必要になってきたりして、結局活用できずに取り壊すしかなくなる、なんてことも多い。また学校の校舎の場合、文教施設整備補助金という国のお金を使って建設することから、教育に関係する施設以外に勝手に転用できないという規制もあった(最近緩和されて、この転用は随分簡単になった)。

そういう全体的な傾向を考えると、この旧・久木野小学校の校舎はかなり状態がいい!

今年の3月まで使っていたから当然だが普通に使う分には改装はいらないし、何より平成15年に大規模改修が行われていてキレイかつ耐震面も万全。この素晴らしい施設を何と無償貸与してもらえるという募集である!(ただし土地の貸付は有償だそうです)

このような条件のよい案件なので、ぜひ多くの積極的な事業者にご検討いただきたいと、他人事ながら願っている次第である。というのも、このことは市役所のWEBサイトでひっそりと告知されているだけで、こういう案件を探している都市部の事業者のアンテナに引っかからないのではないかと心配だ。

ちなみにあんまり(というかほとんど)知られていないが、文科省はこういう廃校の活用募集の情報をまとめているので、めざとい事業者はこういうのを逐次チェックして優良物件を探しているのかもしれないが…。

ところで、南さつま市の久志中学校の校舎も同様の提案を募集していて、こちらはちょっと校舎の状態が良くない(でも景観はこっちの方が勝れているかも)。閉校になったのも5年前のことだし、どうせ募集をするならもっと早くにすればよかったのに…、というのが実感だ。だがこういう経験があって、久木野小学校の場合はスピーディに提案募集に踏み切ったと思うので市政は前進しているとも思う。

とはいっても、極端に言えば募集するだけなら誰でもできる。この情報を本当に求めている人・事業者のところに届けるところまで含めて一連の仕事だろう。都市部で説明会を開いたり、その筋の人(廃校の利活用を進めている団体とかがあります)と顔を繋いだりするなど、今後の積極的な広報と働きかけを期待したいところである。

というわけで、このブログをご覧のみなさんも、「あの人、この校舎を使いたいと思うのでは?」という心当たりがありましたらぜひ情報をシェアして下さい。募集に期限は切られておりませんが、逆に言うと早い者勝ちみたいなのでご検討はお早めに!

【情報】
旧久木野小学校校舎活用の募集について 
旧久志中学校校舎活用の募集について

~未来につなごう~「みんなの廃校」プロジェクト ←文部科学省がやってる廃校活用を進める取り組み

2014年9月17日水曜日

「みんなの南薩案内。」で南薩の写真や地域情報を待っています。


以前ブログ記事で予告していた、「南薩の写真をシェアするサイト」を晴れて立ち上げた。名前は「みんなの南薩案内。」。

このタイトルは、随分前に紹介した岡本 仁さんの『ぼくの鹿児島案内。』にあやかっている。南薩の、普段何気なく見ている景色や場所が、視点を変えるとまた違った魅力が見つかる場になったらいいなあ、というわけで勝手にあやからせてもらった。

以前の記事中で書いた通り、これは南薩の素晴らしい風景写真をシェアするためのものでもあり、また、イベントやお祭りなどの地域情報をシェアするためのものでもある。

ところが少し問題があって、 実は利用しているサービスの「つなぐらふ」は、どうしたわけかURL(リンク)のシェア機能がない。写真の投稿時にはコメント欄があるのだが、ここにURLつきの文章を投稿しても、URLが勝手に削除されて投稿されてしまうのである。

「つなぐらふ」は、観光マップづくりを売りにしているわけだから、URLのシェア機能は大変重要だと思うのだが、どうしてこのような仕様になっているのか不可思議だ。今後、<a>タグを使ったURLは表示するような変更をする予定とのことであるが、普通の人はタグを使うことはできないので、プレーンテキストでよいのでURLをシェアする改良が待たれる。

そういうわけで、イベントやお祭りなどの地域情報のシェアをするには正直少し不便である。それに、全体的なユーザーインターフェイス(要は使い勝手)もベストではない。でもこういうのは、とりあえず作ってみて、いろいろな人の意見や知恵をもらってまた別の形で作ってもよいのだから、オープンしてみることにした。

南薩にお住まいの方、南薩に来られた方など、素晴らしい写真や情報をお持ちの方は是非投稿してくだされば幸いです。投稿してみての感想なども本ブログのコメント欄にてお伝えいただければ更にありがたいです。ここがささやかな南薩の情報サイトにもなったらいいなと思っていますのでよろしくお願いいたします。

2014年8月13日水曜日

大浦まつりが開催されます

2014年10月19日、大浦まつりが開催される。

大浦まつりは、各地区で行われていたお祭りを糾合して町内全体のお祭りとして始まったもので、今年で第6回目になる。一応、自称(?)「大浦地域最大のイベント」である。

内容は結構盛りだくさんで、ステージもあるし、屋台的なものもあるし、イベント的なものもある。会場は違うがスポーツ大会も行われ、体育館では展示もある。そしてなんと、今回は特別展示として、先日開催されて大きな話題を呼んだ「南薩鉄道100年企画展」の展示が大浦まつりに巡回することにもなった(はず)。

私も今年は実行委員の末席を汚していて、なんだかよくわからないまま実行委員会に出ているのだが、ちょっと驚いたことがある。それは、このお祭りの予算のほぼ1/3が市役所からの補助金で成り立っていることだ。ほか農協や商工会、観光協会の補助金と合わせて、こういう(半)公共機関からの補助金が予算の半分を占める。事務局を役場が担っているのは、まあ田舎ではよくあることと思うが、予算の半分が補助金というのは、継続性が心配である。

お祭りというのは蕩尽の機会であるからもとより赤字なのは当たり前だが、だからこそ、寄附によって地域の人達が支えなければ成立しない。だいたいこういう地域のお祭りでは、金参万円○○、金壱万円○○、と長々しい寄付者リストが掲示されているものだ。一方で、大浦のひどい過疎化を考えると、商工会の努力も厳しくなってくるだろうし、一戸あたりいくら…という形で集めている現在の寄附募集の方法だと限界があるのも明らかである(寄附の集め方は集落によって違うようだが)。
 
私は、南薩地域の大きな強みは都会に出て行った人の割合が非常に大きい、ということだと思うので、こういう時こそ、大浦をふるさととする多くの方々の助力が願えないかと思う。昨年も、関東・関西在住の町出身者から合わせて10万円の寄附があったそうである。少し他力本願な気もするが、ここの割合を増やしていくことはできないものか。

もちろん、ただ「お金を出してください」というのではつまらないから、例えば大浦まつりに合わせて同窓会を開催することに協力するとか(例えば、会場に近い遊浜館の協力を得て同窓会の会場を斡旋)して、同日の同窓会開催を応援してはどうか。日程的に近い大浦小学校の運動会で還暦同窓会が行われる手はずになっているということだから少し重複感はあるが、せっかく同窓会で集まるなら、町内のいろんな人が顔を出す機会に開催したいという需要はあるように思う。同日で同窓会が行われれば、「○○年卒一同」で寄附が期待できるだろう。

それはともかくとして、このたび大浦まつりへの支援・協力をお願いする「趣意書」が配布されたのでここにお知らせする次第である。でもこの趣意書は寄付依頼そのものではないので、寄附の振込先などは書いていない。万が一大浦まつりを支援したい! という方がいらっしゃれば、南さつま市役所大浦支所(0993-62-2111)へご連絡をよろしくお願いします。

2014年5月15日木曜日

「大浦ふるさとくじら館」の指定管理者の公募にあたって期待すること

我が大浦町には、「大浦ふるさとくじら館」という物産館がある。

合併して南さつま市になる前の大浦町時代に町が建てて、設立当初から地域の農協が運営してきた。

もともとの名前は「大浦ふるさと館」だったが、敷地の隣に「くじらの眠る丘」という施設が出来たことで2014年4月(くらい)に「大浦ふるさとくじら館」に改名。お隣のくじらの建物のインパクトがすごいので、敢えて改名しなくても地元での呼称が「くじら館」になりつつあったが、実際はくじら(の骨?)を観光資源にしていきたい現市長の意向によるものらしい。

この改名でも何か場当たり的なものを感じるとおり、これまでこの施設は場当たり的なやり方に翻弄されてきたようだ。このあたり一帯は大浦町時代に観光の拠点として整備され、裏の小山やさらにその裏の磯まで遊歩道的なものやトイレ、展望台が作られているし、すぐ裏には市民農園もある。

ちなみに、裏の方は海を臨む眺望が素晴らしいことから某地元企業がホテルを建てる計画もあったそうだし、近くには民間企業がやっていた「ペガサス大浦」という遊興施設の廃墟もある(幾度となく名前と経営者が変わったそうだ…)。

素晴らしい眺望を持ちながら、この一帯が結局観光の拠点としてパッとしていない理由はなんだろうか。民間企業のやっていた施設のことは脇に措くとして、地方自治体がやった取り組みに関しては、せっかくの施設を活かしていく方策については後手に回っていたようなところがある。裏の方の遊歩道なんかは、かなり行きにくいし、その存在自体が知られていない。そこは草がボウボウになっているし、積極的にお知らせしたくないからなのかもしれない。

そしてこの一帯の大きな問題は、この物産館がある敷地の一部が県の所有であることで、具体的には駐車場とトイレが県の持ち物らしい。このせいで、不便な駐車場の改善がいつまでもなされないとか、トイレが物産館と独立していて物産館への動線が悪いとか、施設的な欠陥に手をつけられないでいる。

最近になって、「ふるさとくじら館」の運営にてこ入れしたい行政は、出荷者(農家等)の組織化をしようと動いているが、そもそもこの施設の最大の問題は「店長」のような立場の人がいなくて確固たる「経営」がないことである(!)。各地の物産館の成功例を見ても、その鍵は「行動力と企画力とセンスをもった強力なリーダーの存在」であることは明らかであるから、まず取り組まなければならないのは経営の強化で、出荷者の組織化はその次のステップになると思う。

この「ふるさとくじら館」は、これまでは地域の農協が特に公募等を経ずに指定管理者として指定され運営してきた。公募されていなかったのは、どうも町時代からの経緯によるものらしい。しかし、来期(2015年4月以降)の運営に関しては、公募を行う方向で準備されているという。農協の経営でいいこともあるのだろうが、いかんせん農協の事業規模からすると物産館の運営は小さな仕事になるので、惰性的になる面がある。指定管理者の公募は、経営を強化するいい機会だ。

近年、物産館というのは観光や地域興しの拠点として注目されている。実際、知らない土地に行けば物産館に行きたくなるものだ。コンビニやスーパーに並んでいるものはだいたい同じだから、何か地元っぽいものが買えるところといえば物産館だろう。であるから、物産館というのは、ただ新鮮な野菜が安く買えるところというだけでなくて、域外から来た人へとその土地ならではの価値を提供するべきである、と思う(新鮮野菜が安く買える(だけ)の物産館をけなしているのではありません)。

個人的な希望を述べれば、このあたりには観光案内所的なものがないが、南さつま海道八景の入り口であるこの物産館に観光案内所的な機能を持たすとかして、海道(国道226号線)のドライブをより堪能できる案内(風景だけでなく食事ができる場所の案内をするとか)をしたり、せめて笠沙恵比寿のチラシとか、周辺施設の紹介をすべきだと思う。

それはともかく、地元ならではの価値をどうにかこうにか提供して、この地域やこの物産館のファンになってもらわなくてはならない。そのためには、運営面を強化し、需要に応え日々改善していく努力と、大きな目標に向かって組織を動かしていく体制が必要だ。これは、単に我々出荷者(農家)の所得向上とかいうみみっちい目的のためではなくて、こんな辺鄙なところまで来てくれた人へのせめてものもてなしでもある。

こうしたことは日本全国の多くの物産館の課題であるから、農林水産省がそういう取り組みに補助金を用意している。例えば、『「農」のある暮らしづくり交付金』というのがあって、この交付金を使うと物産館の整備を補助率1/2以内で行える。しかしそうした補助事業の活用なども、「行動力と企画力とセンスをもった強力なリーダーの存在」が不可欠であるから、やはり必要なのは、一言でいうと能力のある経営者である。

この「ふるさとくじら館」の指定管理者の公募に期待するのは、そういう経営者が応募してくれることである。先日笠沙美術館の指定管理者公募の残念な記事を書いたが、この物産館の公募においては、運営者にとって有利な条件を整え、前向きな経営者が挑戦してくれることを期待したい。公募を行う際は、広くお知らせし「南さつま市の業者じゃないとだめ」みたいなケチを言わずに、本当に地元のためになる業者を選定してもらいたい。

2014年2月22日土曜日

鯖でダシを取る「加世田そば」もとい「長屋そば」(と佃煮)

加世田の竹田神社とナフコの間に、「加世田そば」の店がある。ここのお蕎麦がなかなかよい。

加世田そばは、今でこそこういう呼び名だが、元は「長屋(ながや)そば」という。加世田の長屋集落に伝わる蕎麦である。発端は10年くらい前に遡ると思うが、行政が主導した集落の地域興し活動で生まれた「長屋そば部会」が発展し、店を構え、雇用を生んでいるということで、こういう活動の数少ない成功事例でもある。

メニューは、かけそば(420円)、かけそば大盛り(525円)、うどん、ご飯というシンプルなラインナップ。厨房もかなり簡易な感じなので、これが精一杯なのかもしれない。

さて、その長屋そば、特徴はなんといってもダシである。魚介のうまみが豊かで、一見平凡なおそばのツユなのに、どこかいつものそばのツユと違う。

その秘密は、普通はそばやうどんのツユは鰹節と昆布でダシを取ると相場が決まっているが、このツユは鯖(サバ)でダシを取っているのである(※)。長屋では、昔、小湊(こみなと)から運ばれてくる鯖でダシを取ってそばのツユを作ったということで、今でも鰹節ではなく、生鯖節でダシを取っているのである。これは、鰹節のように乾燥した素材ではなく、削って使うのでもない、一般にはあまり使われていないダシの素だと思う。

この、「加世田そば」の店では、ダシを取った後の鯖節を佃煮にして、各テーブルに「ご自由にどうぞ」と置いてある。この鯖の佃煮が大変おいしくて、ダシの副産物とはいえ気前がよい。鹿児島では漬けものが食べ放題の店は多いが、こんなおいしい鯖の佃煮が食べ放題な店は、多分鹿児島でもここだけだろう。

ちなみに、麺の方はと言えば、こちらも伝統的な十割そばで、つなぎの小麦粉などは一切入っていない。そのためにブチブチ切れていて、ツルっと食べるわけにはいかず、味は素朴でおいしいが、私としては食感がイマイチである。それに、小さくちぎれたおそばをドンブリの底からかき集めるのも面倒だ。でも、こういう素朴なそばは、普通の蕎麦屋さんではまず味わうことができないから貴重ではあると思う。

長屋そばは、「加世田そば」の店に行かなくても、吹上浜海浜公園の売店でも食べられる。でもこちらでは、アピールがヘタなのか、そばではなくてみんなうどんを注文しているようだ。このうどんは、地場のものではなくて普通の冷凍うどんを使っている平凡な商品である(だから安いが)。

南さつま市民の間でも、「加世田そば」または「長屋そば」の知名度はまだまだ低いようであるが、一度は味わう価値があるそばだと思う。ちなみに鯖の佃煮はお店では販売もしているので、酒飲みのおつまみに最適だ。ヘタなB級グルメなんかよりずっと美味しいから是非試して欲しい。

※ 鯖以外のツユの材料としては、昆布出汁は入っているが、他に鰯のダシも入っているかもしれない。詳しい配合は不明。

2013年9月6日金曜日

とも屋の「欧風銘菓 マドレーヌ」

南さつま市小湊(こみなと)に「とも屋」というお菓子屋さんがある。昔ながらのお菓子屋さんで、外観・内装などで目を引く店ではないが、そこのマドレーヌはパッケージデザインが秀逸である。他の商品はどうということもないのに、なぜかこのマドレーヌのデザインだけレトロかわいくて愛嬌がある。

トリコロール(赤・青・白)と「マドレ〜ヌ」の絶妙な書き文字。そして周りの唐草風模様。しかもこれらがシールなどではなく、アルミのマドレーヌ型に直接印刷されている。こういう風に焼き菓子の型が直接パッケージデザインとなっているのは最近珍しい(昔は結構あったようだ)。

そして、この丸形がいい。最近売っているマドレーヌはこういう丸形ではなくて、貝形をしているものが多い。もともとマドレーヌというのは貝形にアイデンティティがあって、本場フランスには丸形のマドレーヌはなく、丸形は日本独自のものという。だから、最近の貝形マドレーヌの方が「正しい」のであるが、日本では昔はマドレーヌといえば丸形だったわけで、何か「これぞ日本のマドレーヌ」と感じさせられる。

しかも、この日本風マドレーヌに「欧風銘菓」と銘打っているのがさらにいい。この「欧風」は、「日本人の憧れの中だけに存在していたヨオロッパ」なのだろう。そもそも、このマドレーヌ、シロップ(かリキュール)漬けのドライフルーツ(?)が入っていて、中はマドレーヌというよりパウンドケーキ風である。フランス菓子というよりも、田舎の茶飲み話に最適で、食べ応えのある落ちつく味である。

つまり、このマドレーヌは「欧風銘菓」を謳っているが、現実の欧州には存在していなかったもので、大げさに言えば、かつての日本人が「欧風」として思い描いたものなのだ。

そもそも、日本の海外文化の受容というものは、この約二千年間そういう調子だった。大陸の文化をそのまま受け入れるのではなく、断片的に入ってくるそれをなんとか繋ぎ合わせ、時に誤読し、時に深読みし、「理想化された海外」あるいは「きっとそうに違いない海外」をつくり上げてきた。

こうした営みを、稀代の編集者である松岡正剛氏は「日本という方法」という言葉で解説している。要は、コンテンツそのものよりもそのコンテンツをどう料理(編集)するかというところに日本らしさはあるんだよ、という話である。

日本らしければいい、というものでもないが、本場のものをそのままに受け入れずに、無意識的であれそれを我々の生活の間尺に合うようにアレンジするのは一つの創造的行為である。丸形マドレーヌが日本で生まれた理由も、単に貝の焼き型が手元になかったからという単純な理由によるのだろうが、そのお陰で日本でマドレーヌがこんなに普及したのではないだろうか。貝型にこだわっていたら、これほどは広まらなかったように思う。

こういう「かつての日本人が本場風として思い描いたもの」は、今ではもうめっきり少なくなって、本当に本場のもの(とされているもの)か、あるいは手軽な代用品ばかりになってしまったように感じる。とも屋のマドレーヌは、デザインの秀逸さもさることながら、なんだか手の届かないところに「本場」があった古き良き時代を伝えるものに思えるので、これからもずっとこの形で残っていって欲しい。
【情報】
とも屋菓子舗
〒897-1122 鹿児島県南さつま市加世田小湊7664
0993-53-9202

2013年8月17日土曜日

加世田には鹿児島に2店舗しかないマックカフェの第1号店がなぜかあるんです

少し前の話だが、加世田マックカフェ(McCafe by Barista)が出来たというので行ってみた。

都会にいた頃はよくスターバックスやエクセルシオールカフェで勉強したり、読書したりしていたが、こちらに越してきてからはそういう場所も(お金も)ないので少し寂しく思っていた。

そんなわけで、都会にいる時はマックカフェなんて歯牙にも掛けなかったのに、むしろ物珍しいくらいの気持ちでマックカフェに行くことにしたのである。田舎に住んでいると都会に普通にあるものに憧れるようになるんだなあ、としみじみ感じるし、逆に考えれば、都会にいる人は田舎に普通にあるものに価値を見いだすんだろう。都市も田舎もお互いに無い物ねだりをしているわけで、人間というのは単純である。

さて、このマックカフェ、BGMが安っぽいことを除けばとても都会っぽい出来で、割といいシートが使われているし、電源用コンセントもある。それになにより無料のWi-fiが使える。これで加世田でもノマドぶって仕事できる(=特定のオフィスを持たずにカフェなどで仕事することやそういう人を、最近「ノマド」と言う)が、加世田でどういう使われ方をすることを想定して作ったのか分からない。加世田にはまさかノマドはいないと思うが…。

純粋に収益性だけで考えた場合、このおしゃれな(しかも24時間営業の!)マックカフェよりもごく普通のマックの店舗の方が田舎の場合はいいと思うし、だからこそ鹿児島県にはマックカフェは加世田と易居町の2店舗しかない。というか鹿児島県で最初のマックカフェがこの加世田店らしいのだが、どうしてここに最初に作ろうと思ったのかが謎だ。いわゆるリープフロッグ型発展(何もない途上国の方が既得権的なものが存在しないので、かえって最新の技術が先進国より早く導入される現象)みたいなものだろうか?

というわけで、ここにいるとなんだかとても場違いな場所にいるような気分になってしまう。でも同時に、少し東京時代を思い出してなつかしくもある。先日は近くにある古本屋「ほんダフル」に寄ったらソルジェニーツィンの『収容所群島(第1巻)』が100円で(!)投げ売りされていたので喜んで買い、そしてこのマックカフェに入ったのだが、古本屋で掘り出し物を見つけて、それをカフェで眺めるという極めて都会的な行為が加世田でもできるようになったわけだ。年に2度くらいは、そういう日があったらいいと思う。