2016年7月31日日曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その2)

鹿児島で杜氏と言えば、黒瀬杜氏の他に「阿多(あた)杜氏」がある。

かつて黒瀬杜氏と阿多杜氏は、鹿児島の二大杜氏集団であった。阿多杜氏の規模(人数)は、黒瀬杜氏の3分の1程度だったようだが、それでも焼酎杜氏の代表的な勢力であった。杜氏集団は鹿児島には黒瀬と阿多の2つしかなく、あとの杜氏は「地杜氏(じとうじ)」と言って、蔵元の人間が焼酎造りの技術を習得して杜氏になる(平たく言えば社内育成)というものだった。

阿多は、黒瀬のある笠沙と同じ南さつま市、黒瀬から約30キロ離れた、金峰にある。こちらの方が黒瀬よりも先に杜氏集団が形成されてきたようで、阿多の人から「杜氏はよい仕事になる」と聞いた黒瀬の人たちが焼酎造りを学ぶようになった、という話もあるので、鹿児島の焼酎産業の源流の、そのまた源流は、実はこの阿多にあると言える。南さつまはまさに、焼酎の源流の地なのだ。

なお1924年(大正13年)には、阿多と黒瀬の人たちは共同して「加世田杜氏組合」を作っている。そして昭和5年にこの組合から「阿多杜氏組合」が独立、追って「黒瀬杜氏組合」も出来、やがて「阿多杜氏」「黒瀬杜氏」はそれぞれ独自の道を歩んでいく。後に2つに分かれたとはいえ、最初は共同して組合をつくっていることを見ても、この2つの杜氏集団はもとは同じ起源を持つのだろう。

では、阿多や黒瀬の人たちは、焼酎づくりの技を誰から教わったのだろうか? この問いを考えるために、今回は焼酎の製造技術について振り返ってみたい。

前回述べたように、明治後期は焼酎業界の激動の時期であった。国家の政策によって小規模な酒造所が廃業させられ、鹿児島でにわかに焼酎の大量生産をする必要が出てきた頃である。この時期、酒造所の平均造石数(※)は10石程度から150石ほどへと急増する。ここに阿多杜氏や黒瀬杜氏が勃興してくるということは、彼らが「焼酎の大量生産」の技術を習得していたということだろう。

さて、この「焼酎の大量生産」の技術とは、具体的にはどのようなものだったのだろうか。

ここに興味深い資料がある。村尾焼酎兄弟商會(現・村尾酒造)が残した、明治35年から大正にかけての焼酎の製造帳である。明治から大正の頃の焼酎造りがどんなものであったかが分かる、貴重な資料だ。

ちなみにこの頃は、鹿児島の焼酎も芋焼酎一辺倒というわけではなくて、米焼酎もあれば粟焼酎もあった。それでも一番普通に飲まれていたのは芋焼酎で、大体7割くらいが芋焼酎だったみたいである。

で、村尾焼酎兄弟商會の資料によると、米焼酎の仕込み法はこの時代を通じてほとんど全く変化がないのに対して、芋焼酎の方は毎年仕込み法が変わっていて、材料の分量から、仕込みのやり方まで製造方法が一定していない(なお、粟焼酎についてはどんどん廃れていった)。焼酎の大量生産、もっと正確に言うならば「芋焼酎の大量生産」のためには、実際にさまざまな試行錯誤があって、技術が変転していったのである。

その技術の変転の内容はどんなものだったかというと、主に2点が挙げられる。第1に「どんぶり仕込み」から「二次仕込み法」への変化。第2に黒麹(くろこうじ)の使用である。

「どんぶり仕込み」というのは、米麹(すなわち蒸し米に麹菌を混ぜ、麹菌を大量に繁殖させたもの)、サツマイモ、酵母、水を一度に甕や桶に投入して仕込むやり方だ。かつて鹿児島の焼酎は、全てこの作り方だったようである。しかし、この方法では腐敗などの失敗が多く、大量生産には向いていなかった。特に、芋焼酎においてである。

というのは、サツマイモはデンプンと共に糖分もかなり含まれる。醸造というのは大雑把に言えば、デンプンを麹で分解して糖にして、さらに糖を酵母で分解してアルコールにする技術と言えるが、デンプンと糖が両方存在していると、その2つのフェーズ(生化学的反応)が同時並行的に行われることになる。

例えば、米焼酎とか麦焼酎だったら、米・麦には糖分は含まれていないので、デンプン→糖→アルコール、という化学反応は直線的に進ませることができるが、芋焼酎はそれが無理なのである。そして、麹菌が十分に繁殖していない中で多くの糖分が存在することは、雑菌の繁殖を招き腐敗の原因にもなるわけで、サツマイモでの焼酎造りは大変難しい。サツマイモを栽培している国はたくさんあるのに、サツマイモでつくったお酒が定着したのが日本だけだということはこのあたりに理由があるだろう。

この難点をクリアするために開発されたのが「二次仕込み法」である。それは、まずサツマイモを除く「米麹、酵母、水」だけを仕込んで一次醪(もろみ)を作る。そして一次醪に蒸し芋と水を加えて二次醪を作り、これを蒸留して焼酎を得るのである。要するにこれは、一次醪でまずデンプンだけの世界で麹と酵母の生態系を確立して雑菌の繁殖を抑止し、そこにサツマイモの糖(とデンプン)を加えることで微生物の繁殖を安定的に行うやり方なのだ。

と言ってしまえば簡単なのであるが、この二次仕込み法に到達するまでに様々な仕込み法や分量の変転があり、この技術が確立するのがだいたい大正の初め頃である。この仕込み方法が開発されたことによって、芋焼酎の大量生産の道が開けたといえよう。

そして、二次仕込み法の開発とともに広まったのが、2点目の黒麹の使用である。芋焼酎は、かつては日本酒を造る時に使う麹と同じ「黄麹」を使って作られていた。しかし黄麹を使うと二次仕込み法によったとしても腐敗が起こりやすかった。黄麹は元来温度の低いところで本領を発揮するものであるから、冬でも暖かい鹿児島には向いていなかったのである。

しかし、鹿児島よりもさらに暖かい沖縄では立派に泡盛(米麹のみで作る焼酎)が出来ていることから、泡盛につかう麹、すなわち黒麹が注目され、明治20年代から徐々に使われ始め、これが大正2〜4年頃に県下に急速に普及していくのである。

この黒麹には、鹿児島の焼酎造りに極めて適した性質があった。まずは、クエン酸を大量に生成するという能力である。つまり黒麹菌によって米麹を作ると、強酸性となって酸っぱい米麹ができるのだ。このクエン酸により雑菌の繁殖が抑えられるため腐敗が防止される。

さらに、普通の麹菌の糖化酵素(デンプンを糖に変える酵素)は、酸性溶液中ではほとんど作用しないが、黒麹菌の糖化酵素はpH2.8の強酸性になっても作用する。このためクエン酸による強酸性という、普通には殺菌に使われるような環境の中でも糖化を進ませることができるのである。ちなみにクエン酸に揮発性はないので、蒸留して焼酎になる時にはこれは味にはほとんど影響しない。

この黒麹菌の使用を勧めたのは、明治43年(1910年)に税務監督局鑑定官として鹿児島に赴任してきた河内源一郎という技師である。河内は泡盛につかう黒麹菌を取り寄せ、鹿児島の焼酎造りに適した種麹菌を分離して「泡盛黒麹菌」と名付けてこれの普及に努めた。黒麹菌の使用は河内赴任の少し前から始まっていたようだが、河内の前には種麹ではなく友麹を使っていた(前に作った麹に継ぎ足してつくる)ので失敗も多かったという。焼酎造りに適した黒麹菌の分離とその種麹の確立によって、これを広めたのは「麹の父」とも呼ばれる河内の功績だ。

ただし黒麹には大きな欠点があった。それは、まさに黒いカビであるため、使っていると作業場や服やなんでもかんでもがススで真っ黒になってしまうということである。「肺の中まで黒くなる」と言われたくらいで、肺病の原因になるのではないかと恐れられた。そういう難点はあったが、黒瀬杜氏は早くから積極的に黒麹菌を使って勢力を拡大したと言われる。逆に阿多杜氏は、何でも黒くなるのを嫌ってか黄麹の使用にこだわり、それが結果的に黒瀬杜氏よりも小さな集団になってしまった一因だったという。

さて河内は、黒麹菌の研究を進めるうち、大正12年(1923年)に黒麹菌の中から黒くない麹菌を発見し、それを分離して「河内白麹菌」を開発した。黒麹菌の突然変異で生まれた新しい麹菌だった。この白麹菌は黒麹菌の便利な性質はそのままに、何でも真っ黒くしてしまわないというさらに便利なものだった。しかも白麹を使用した焼酎は品質(風味)もよかった。河内は昭和6年(1931年)の退官後、河内源一郎商店を設立して種麹菌の販売を事業化して大成功を収め、河内が発見した白麹菌はその後九州のほとんどの酒造所で使用されることになる。河内源一郎商店は、その後、焼酎の技術革新を彩っていく存在に成長していく。

(つづく)

※酒造業界では、製造量を石高で表す習慣がある。1石=10斗=100升≒180リットルである。

【参考文献】
本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察 (その1)」1989年、鮫島 吉廣
本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察 (その2)」1989年、鮫島 吉廣
焼酎の伝播の検証と、その後に於ける焼酎の技術的発展」2010年、小泉 武夫
『焼酎』1976年、福満 武雄
『南のくにの焼酎文化』2005年、豊田 謙二

2016年7月25日月曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その1)

酒造の責任者を表す「杜氏(とうじ)」という不思議な言葉の語源に、こういう説がある。

かつてお酒というものは、客人を招く際に前もって家庭で刀自(とじ:古い言葉で「奥さん」という意味)が作っておくもので購入するものではなかった。だから、その家庭のお酒の味の良し悪しが、奥さんの評価にも繋がったほどだという。そこから、酒造の任に当たる人を「とうじ」と呼ぶことになったんだとか(他の説もある)。

そういう説があるくらい、近代以前の世界においてお酒というものは家庭で醸(かも)すのが当たり前だった。清酒の方は江戸時代には産業化されて購入商品になっていくが、鹿児島の焼酎は明治に至るまであくまで家庭で作るものであり、産業的にはほぼ全く作っていなかったようである。

つまり、焼酎造りの技は、かつては鹿児島のどこにでもあったものだ。一方で、前回述べたように黒瀬杜氏こそが九州の焼酎産業の源流の一つでもある。一見これは矛盾する事実だ。焼酎造りの技が各家庭にあったのなら、黒瀬杜氏がいなくても九州の焼酎産業は成立しえたのではなかろうか。

またそもそも、なぜこの九州の端っこの黒瀬という小さな集落が焼酎産業の源流となり得たのか。耕地面積が少ない黒瀬の集落では冬期の出稼ぎが普通で、出稼ぎの仕事として焼酎造りが盛んになったというが、耕地面積が少ない貧乏集落というのは鹿児島にはたくさんあったはずだ。黒瀬集落には、焼酎造りの技が育つような特別な巡り合わせがあったのだろうか?

私には、それらの疑問を完全に解く力はないけれども、黒瀬杜氏の成り立ちを振り返って、黒瀬杜氏とは何だったのか、ということを少しでも明らかにしたいと思う。

さて、黒瀬杜氏が生まれた明治30年代、焼酎産業はかつてない激動の時代を迎えていた。それを表す統計資料がある。鹿児島の焼酎製造量と酒造所数を示すものだ。

明治31年(1898年)を境に製造量も酒造所数も激増している。これは一体どういうことなんだろうか?

まずはこの状況を理解することが黒瀬杜氏の誕生を解き明かす一歩になりそうだ。

明治31年から、いきなり鹿児島の人が焼酎をたくさん飲むようになったということは考えられないので、これには統計上のカラクリがある。製造量が激増している(ように見える)わけは、これまで当局が認知していなかった焼酎製造が把捉され、統計上に現れてくるようになった、という社会システム上の変化なのだ。実は明治32年が、焼酎の自家醸造が禁止された年なのである(明治31年から変化があったのは、制度変更を見越しての事前準備のためであろう)。 さらに時代を遡って、このあたりの事情を振り返ってみる。

先述の通り、かつて鹿児島では焼酎は各家庭で手作りする飲み物だった。江戸時代の制度では焼酎造りは鑑札制(許可制)になっていて、形式的には自由な醸造は禁止されていたが、実態としてはさほど取り締まりはなかったようである。それが名実共に自由化されたのが明治4年。廃藩置県とほぼ同時に酒造税の規則が布告されて、免許料を払いさえすれば誰でも醸造ができるようになったのである。

といっても、鹿児島では西南戦争の前で、この頃は明治政府の言うことはあまり聞いていなかったので、この規則変更は鹿児島の社会にあまり影響を与えていなかったと思われる。それどころか、鹿児島では西南戦争前には地租改正もまともに行っていなかった。明治政府にとって、地租(固定資産税)と酒税は国税の2大柱であるが、その徴税システムが確立するのが鹿児島では明治10年代の後半からであろう。

このグラフは、鹿児島県が徴収した国税額であり、酒税の割合は明治44年(1911年)にはほぼ半分にも上っている。この頃、日本は日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治37年)と厖大な戦費を用する対外事業のため増税に継ぐ増税を行っていて、その中心はまさに酒税にあったのである。これは鹿児島県だけでなく全国的な傾向であった。

こうした酒税徴収システムを構築するためには、自家醸造はいかにも都合が悪い。お酒(焼酎)を作っても家族や親戚で消費するから帳簿上に製造・消費の記録が残らず、酒税を徴収することができないのである。そのため明治政府は、明治4年に一度は自由化した醸造を、明治32年に禁止することにしたわけだ。徴税を確実にするため、というのが主な理由であった。

このため、醸造免許の仕組みも劇的に変わっていく。

これは鹿児島県内の醸造免許人員の明治24年から昭和2年までのグラフであるが、大正年間に大きなピークがある。明治24年には販売を目的として醸造免許を持っているのは県内にたったの100人程度しかいなかったが、明治34年には3600人に達している。

この劇的な増加のわけは、自家醸造が禁止されたために、多くの人が醸造免許を取得したことによる。つまりこの時代、実際に焼酎造りが大ブームになったというよりも、それまで自家醸造で家族や親戚のために焼酎造りを行っていた人が、自家醸造禁止を受けて販売目的という名目で醸造免許を取ったのであった。

しかしもちろん、その実態はほとんど自家消費であった。いくら販売目的としていても、おそらく帳簿も不完全で、徴税の面では甚だ不十分であったろう。これでは、自家醸造を禁止した意味がないのである。また、これまで家庭で製造・消費していたものがいきなり禁止されても、その需要が減るわけではなく、すぐに製造体制(産業)が育つわけでもない。焼酎を飲みたい人はいるのに、売っているところはないという状況だ。そのため税務監督局は集落での共同醸造を認めていた。実態的には自家製造・自家消費であるものを、集落での共同事業ということで許可したわけだ。これが醸造免許と酒造所の激増(最初に出したグラフ)の理由である。

そこで、明治42年(1909年)に鹿児島税務監督局に局長として赴任してきたのが、勝 正憲というやり手の男だった(勝は後に政治家に転身して逓信大臣まで務める)。勝はこの登録免許・酒造所が乱立する状況を打破するため、その整理を断行する。その主目的は徴税を確実にするためということもあったが、未熟な酒造所が乱立したことによる業界の混乱を収拾するという意味もあったようである。小規模酒造所が品質の悪い製品を売ったり、過当競争で価格が低下したりしており、勝の赴任前から酒造所の淘汰が兆していたのは確かだ。

勝は、将来の発展が望めない小規模な酒造所を中心に免許を取り消し、本当に販売目的でやっていけるところのみを残すことにした。鹿児島に3500以上もあった酒造所は、勝の改革によってほぼ10分の1の300程度まで整理されることになる。この勝がやった改革が、鹿児島の家庭での焼酎造りが終わり、「焼酎産業」が始まったきっかけである。

もちろんこの改革は鹿児島県民に大反発を招くことになった。鹿児島の焼酎造りはこの時点でもおよそ400年の歴史がある。これまで各家庭で醸していたものが急に禁止され、どこかから焼酎を買ってこなければならなくなったわけで、しかもそれが増税のためであったのだから、これはいわば国家による文化の破壊であった。この改革に反対するため、1912年には鹿児島で「酷吏排斥苛税反対大演説会」が行われ、その聴衆は5000人に及んだという。地元紙「鹿児島新聞」や「鹿児島実業新聞」もこの増税には反対し、新聞紙上でも当局糾弾の運動は繰り広げられたが、それも結局は挫折し、酒造所数の整理は断行されていった。

さて、勝の改革により、酒造所の数がこれまでの10分の1になったということは、需要の方が不変とすれば、1つの酒造所あたりの製造量は10倍にならなければならない。これは大変なことである。製造能力を10倍にするということは、ただ甕の数を増やすとか、雇用者の数を増やすということだけでなく、本質的な技術の転換を必要とする。

例えば、お米を炊く、というような単純なことを考えても、3合炊くのと5合炊くのでは火加減が違うし、1升を鍋で炊くとなるとかなりコツがいる。1斗(18リットル)炊くのは普通の人にはほぼ不可能で、大量の米を処理しようとすると炊くのではなく蒸さなければならない。米を蒸すには炊くのとは違った技術と設備がいるわけで、お米を炊くだけでも大規模化は一筋縄ではいかない。

ましてや、焼酎造りは微生物(麹・酵母)を扱う。焼酎を大規模に造ろうとすれば、家庭の味噌・醤油置き場のようなところで細々と作っていた時の技術とは、自ずから違う技術が必要となってくるのである。温度管理一つとっても、大量に作るのは、少量作るのに比べて格段に難しい。何しろ、大量のものというのは、温度をすぐに上げたり下げたりすることが難しいのである。

そして、この頃の焼酎造りというのは、今に比べて失敗が多く、腐ってしまうことが多かったようである。となると、大量に仕込むと腐敗した時の損失も大きいわけだ。家庭で少量ずつ作っていた頃は、焼酎造りに失敗しても「今回は残念だったね」で済むが、産業として作るようになると仕込みの失敗は経営破綻にも通じる。急激な規模の拡大を求められた酒造所は、こうしたリスクとも戦わなくてはならなかった。そのために、焼酎の大量生産のノウハウを持つ技術者の必要性が高まってくるのである。

そしてそのノウハウを確立しつつあったのが、ちょうどこの頃に杜氏集団として形をなしてきた、黒瀬杜氏だったのである。

(つづく)

【参考資料】
『南のくにの焼酎文化』2005年、豊田 謙二
※掲示したグラフは、全て本書より引用しました。
『焼酎』1976年、福満 武雄

2016年7月19日火曜日

納屋リノベーション、お披露目!

お知らせしていた「納屋リノベーション」が先日完了したので、その結果を報告して自慢したい!

元が牛の肥だめ部分の改修ということで、「このきったない納屋を子ども部屋にしようというのは忸怩たるものがある」と先日の記事にも書いていたのだが、やってみるとこれが想像以上のリノベーションで、見違えるどころではなく、別世界になってしまった。
というのは、リノベーションをお任せした工務店のcraftaさんが、工事が進むにつれてやる気が出てきたのか(!)、見積もりにない作業をどんどんやりだし、また別の現場で出た端材なども使って赤字覚悟で素晴らしい施工をしてくれたからである!

というわけでその素晴らしいリノベーションぶりを披瀝したい。

これが、部屋全体のイメージである。そんなに広くはなくて、大体10畳くらい(3m×6m)。下半分の石積みと上部の木組みがよく調和して素晴らしい空間になった。天井と床は白木の杉材で張ってくれて、それだけで雰囲気が軟らかい。照明はLEDだが白熱電球みたいに見えるものを使い、また天井向きの間接照明もある。

で、同じ場所の工事前の写真が(同じアングルというわけではないけど)これ。

手前にあった石積みを崩して、(この写真ではその石積みの裏に隠れて見えない)下の肥だめを埋め、床のコンクリを塗り直して、その上で内装工事をしてもらった。

元が汚い納屋なので、「居住するには問題ないレベル」くらいにはキレイになるかと思っていたが、むしろ「本宅よりステキな空間」にグレードアップしてしまった。

うちの本宅は築百年の古民家で、こちらもそれなりに居心地の良いいい家である。 だが、このリノベーション納屋は、伝統的な納屋建築と現代的なセンスが見事に融合した空間になっており、オシャレなカフェのための部屋みたいである。

この納屋は元々2階建てだったから、この梁もとても立派で、工務店さんも「今じゃこんな梁の家は作れないですよ」とのこと。湾曲した松が加重を支えるフォルムが何とも言えない。かなり低いので頭はぶつけそうであるが。

ちなみに、その上の黒い部材は、以前納屋の2階を撤去したときに屋根を載せるためにつくった木造トラスを、敢えて見せるようにして、しかもそのトラスに筋交い部材を追加して黒々と塗ってくれたもの。(さっきの写真とは反対側から撮った写真)

入り口部分はこんな感じ。壁の古材は、北米のスノーフェンスというもので、30年間風雪に耐えた木材のヴィンテージ品。これはかなり味がある木材で、わざわざ北米から運んでくるので高級品である。インターネットでは1本3000円くらいで販売されている。古びた納屋のリノベーションにぴったりということで入り口部分にあしらってくれたのである。本当にいい雰囲気だ。

その足下の、入り口の小さな土間部分には桜島の溶岩タイルが使われている。私の思っているリノベーションのテーマは、「木と石」なので、そのテーマにぴったりの素材。しかも桜島の溶岩タイルなので、鹿児島の人間としては最も親しみと崇敬を抱くものだと思う。

入り口から見る石積みと木口(こぐち)。新築の住宅には見られない荒々しい造形が心を躍らせる。そしてやっぱりポイントは石積み! こういう不整形な木材は、新築住宅でもあり得るのかもしれないが、新築の住宅では絶対にあり得ないのがこの石積みである。

この石を外から見たらこんな感じ。このあたりの古い納屋では、だいたいこの写真と同じ赤っぽい石が使われている。この石はかつて枕崎で採石されたもので、軟らかくて加工がしやすいことからこのあたりではよく使われたものである。ただし、現在では既に採石が終了しているらしく、今この石を使って建築しようと思っても簡単には使えない。再利用しようとしても、脆くて壊れやすいのでリユースも難しいと思う。

ところで、石積みと言えば、鹿児島で最近話題になったのが鹿児島港の石蔵倉庫の取り壊し。
【参考】地域のシンボル的な石蔵が取り壊されたことに対する反応を参考に、対話に必要な2つの軸を考える(OFFENSIVE-LIFE!!)
【参考】日本建築学会九州支部『建築九州賞 業績賞』(レトロフト blog)
鹿児島港には、古い石蔵群が残っていて、景観の面でも文化財の面でも大事なものなはずなのに、その一つが取り壊されてコンビニになっちゃった、という話である。

このケースで、一体どういうことで石蔵が取り壊しの憂き目に遭ったのかは知らない。でも多くの人が推察しているように、結局はオーナーがその価値をよく理解していなかったのだろうと思う。

でも、仮にオーナーがその価値を分かっていたとしても、実は古い建物を残していくのは大変である。というのは、建築基準法の問題があるからだ。

新たに建築物を作る時は持ちろん、既存の建築物を改修する時にも建築基準を満たす必要があるが、石積みや湾曲した梁などの昔の構造は、その基準に適合するかの判断が難しい。構造計算をしようにも、湾曲した梁なんかは構造計算ソフトで計算できない場合がありそうである(近似的には可能だろうから、結局は近似値でやると思う)。石積みもまた、構造計算ソフトに普通には入っていない素材だろう。

また大きな(軒が9メートル以上の)石造りの構造物の場合は特に満たすべき基準が厳しくなっていて(建築基準法第二十条第一項第三号)、全部の基準を法の通りに満たそうと思ったらかなりの耐震改修が必要になるので、「そんなに鉄骨の筋交いを入れないといけないなら、もう取り壊しちゃおうか」となりそうなくらいである。

また、この建築基準は文化財保護の面でもかつて問題になって、神社仏閣の改修の際に防火シャッターをつけなくてはならないとか(雰囲気が台無し!)、建築基準法では木造の高層建築が認められていないので五重塔のような高層木造建築の改修の時に鉄骨で補強しなくてはならないとか(何百年もしっかり建ってるのに!)、そういう話があったようだ(方々から批判があって最近はかなり改善されたのではないかと思うが、今の状況は知らない)。

要するに、建築基準法は居住の安全性・機能性だけを見ていて、文化財保護に関してはあまり熱心でないから、古い建築を残していくことの障壁になる場合があるのだ。だいたい、古い基準では耐震や機能性が十分でないということで基準が改まっていくわけだから、古い建築物はそれを満たしていないことが多い。だから建築基準を満たそうとすると、雰囲気をぶち壊しにする鉄骨筋交いを入れないといけないとか、内装を防火素材に変えないといけないとか、元の建築をかなり変えた形にしないといけない。そうなると、内装だけやりかえる、みたいな手軽な改修とはコストも全然変わってくるし元の雰囲気も犠牲になる。結局、大きなコストをかけてまで無様な改修をしたくない、ということで改修を諦めるケースもありそうである。

では、今回のうちの納屋リノベーションではそのあたりをどうクリアしたのかというと、なんと、うちの周りはド田舎で都市計画地域ではないため、建築許可を取る必要がない! なので構造計算も行っていない。改修に際しては筋交いを入れたり、壁を作ったりしているので、実際には耐震性も向上しているとは思うが、正直に言えば耐震基準も満たしていない、と思う(計算していないので本当のところはわからないが)。だから、リーズナブルに、元の構造と意匠を最大限に活かしたリノベーションができたのである。これが納屋リノベーションの秘訣といえば秘訣である。

さて、鹿児島港の石蔵は、今回は残念な結果になったとはいえ、貴重なものであることはある程度共通認識があるだろうから、全部が全部取り壊されてしまうということはなさそうである。しかし、このあたりの納屋はどうだろう。どんどん朽ち、取り壊されていっているのが現状だ。昔の納屋は今の農業をするには適していないし、肥だめがあって湿気もこもるから利用しづらい。それに、そういう納屋が貴重なものか、というと実は今はまだそうでもなくて、まだ結構残っている。

でもあと50年くらいしたら、さすがに多くの納屋は朽ちてきて、かつてこのような石積みの納屋がこの地方には存在した、ということが博物館の中でしかわからなくなるかもしれない。そうなったとき、初めて我々はこの石積みの納屋の価値を理解するんだろうか?

考古学の基本的な視点として、「ありふれたものはなかなか後世に残らない」というものがある。ありふれたものは誰も敢えて残そうとしないからだ。後の世に残るのは、良くも悪くも飛び抜けたものとか、異常なものである。だが、暮らしの有様を再現しようとしたとき、そういうものはあまり役に立たない。暮らしの再現には、その時代のありふれたものこそが重要である。ありふれたものこそ、暮らしに不可欠な、社会にとって大事なものなのである。

私がこの納屋をリノベーションしたのは、単純には将来の子ども部屋問題を解決するためである。でももうちょっと大げさに言えば、この石積み納屋のかっこよさをなくしてしまわないための抵抗でもある。我々の今の社会では、もう、作ろうと思っても、こんな石積み納屋は作ることはできない。かなりコストをかけたら似たようなものはできるかもしれない。でも木材や石の切り出しと加工、建築基準法の問題、工法の問題、いろいろあって、現実的には難しいだろう。

こうして、納屋が私の思っていた何倍もステキにリノベーションされて、ちょっとはその抵抗も実のあるものになったのではないかと思う。これに触発されて、これよりももっとステキな納屋リノベーションが続くことを期待している。

ただ、この納屋リノベーションには一つだけ問題がある。子ども部屋にするにはあまりにステキになりすぎて、子ども部屋にしてしまうのがもったいなくなってきた、ということだ。とはいっても、子どもたちにはもう約束しているし、将来の子ども部屋問題は現実的に存在するので、さしあたりは子ども部屋にするしかない。でもこの部屋を子ども部屋としてだけ使うのはあまりに惜しい。

せめて、子どもたちにめちゃくちゃ汚されてしまう前に、お披露目会を行って生まれ変わりを祝してやらねば、と思っている。




2016年7月13日水曜日

現代焼酎産業の源流、黒瀬杜氏

黒瀬海岸(神渡海岸)
南さつま市笠沙町、霊峰野間岳の山裾の、坂を登り切れば素晴らしい海の景色が見える谷に、「黒瀬(くろせ)」という集落がある。

山あいの、耕地面積が少なく、今では耕作放棄地と空き家が目立つ、一見どこにでもあるさびれた集落。でもこの黒瀬という集落こそが、鹿児島、というより九州の現代焼酎産業の源流の一つなのである。

時は明治30年代、後に「黒瀬杜氏(とうじ)」と呼ばれることになる、焼酎造りの技術集団がこの集落に育っていた。彼らは、鹿児島、そして九州一円、時に四国にまで赴き、杜氏として焼酎を造ったのだという。焼酎造りは季節労働である。彼らが各地の焼酎蔵に赴いたのは、出稼ぎの季節労働者としてだった。

杜氏といえば、焼酎づくりの製造責任者である。出稼ぎの風来坊に製造責任者をお任せする、というのが今から考えると奇妙かもしれないが、焼酎造りの各種機械化が行われる前は、この出稼ぎの技術者に焼酎造りを委ねるのが普通だった。鹿児島の焼酎は、この黒瀬集落から焼酎蔵に赴いた人たちが作ったものだったのだ。いや、鹿児島だけでなく、九州のかなりの焼酎蔵が黒瀬杜氏を招いていた。もし黒瀬杜氏がいなかったら、九州の焼酎製造業の様子はかなり違ったものになっていたかもしれない。

とはいっても、鹿児島の焼酎は約500年の歴史がある。たかが明治時代に勃興した杜氏集団が、「焼酎産業の源流の一つ」とは少し大げさ過ぎるのではないかと思うかもしれない。実は、私自身がつい最近までこのことには懐疑的だった。「たくさんある源流の一つ」なのではないか、よくあるご当地自慢のたぐいではないのか、と疑っていたのである。本当に、黒瀬杜氏は鹿児島の焼酎造りに中心的な役割を果たしていたのだろうか。

そんな疑問を抱いていたとき、一つの調査報告を見つけた。1983(昭和58)年に、鹿児島経済大学教授(当時)の豊田謙二らが行った焼酎業界の現況調査である。これは鹿児島県内62の酒造所を対象に杜氏の状況などを調査しており、それによると、杜氏を置いている酒造所(41軒)の約60%にあたる24軒の酒造所で黒瀬杜氏が働いていた。また別のヒアリング調査の結果も加味すると、この時点で鹿児島県内で働いていた黒瀬杜氏は35人と推測されるという。

杜氏がいなかった酒造所はほとんど規模の小さいところであるから、大規模な酒造所の半数以上では黒瀬杜氏が焼酎造りを担っていたわけだ。黒瀬杜氏は、その最盛期の1960年頃には約350人の杜氏・蔵人(くらこ:杜氏の部下)を擁したという。焼酎造りの機械化や理論的な解明(醸造学)が進むにつれて黒瀬杜氏の存在感は小さくなっていくが、最盛期の350人からかなり人数が減少した1983年時点でも60%の酒造所で黒瀬杜氏が活躍していたことを考えると、最も活躍が大きかった時代においては、鹿児島の県内のかなり多くの酒造所で黒瀬杜氏が焼酎造りを担っていたと推測できる。

確かに、黒瀬杜氏は鹿児島の焼酎造りを支えた存在だった。それは誇張でもご当地自慢でもなんでもない。事実、今でも黒瀬杜氏を売りにした焼酎蔵はこの地元以外にもたくさんあって、例えばそのものずばりの「黒瀬杜氏伝承蔵」を銘打っている阿久根の鹿児島酒造や「野海棠」の祁答院蒸留所などが挙げられる。

一方、地元笠沙には、この黒瀬杜氏という存在を文化遺産として継承・発信するために「杜氏の里 笠沙」という施設が作られ、展示だけでなく、まさに黒瀬杜氏が腕を振るった焼酎の製造・販売も行っている。ここで作られている、なかなか手に入らない銘酒「一どん(いっどん)」は鹿児島県内では有名な焼酎だ(抽選でしか手に入らない)。

だが、黒瀬杜氏とはどんな存在なのか、地元の人にもあまり知られていないのが実情かももしれない。私自身、ほとんどアルコールを飲まないこともあり、つい最近までよく知らなかった。せっかく地元に「焼酎産業の源流」があるのにも関わらず、それを地元の人自身があまり認識していなかったらちょっともったいない。

というわけで(なのかどうかホントのところは知らないが)、今般、南さつま市観光協会の女性グループ(mojoca)が主催して、「ゆかたまつり in南さつま with焼酎杜氏」または「浴衣フェス〜黒瀬杜氏 vs 南薩女子〜」というイベントが7月24日(日)に開催されることになった(なぜイベントタイトルが2種類あるのかは不明。ネット上は前者で、チラシでは後者でお知らせされている模様…)。

このイベントは、普段は焼酎とはちょっと縁が遠い女性が中心になって、浴衣でオシャレをしながら杜氏に焼酎の手ほどきを受けてしまおうという趣旨、なんだと思う。当日いらっしゃる杜氏2人は、実は黒瀬杜氏ではないが、地元本坊酒造と宇都酒造の若手の杜氏であり、若いプロの視点から南さつまの杜氏や焼酎を語っていただけるのではないかと楽しみだ。そして実は、「南薩の田舎暮らし」もちょっとだけこれに参画する予定である。

で、その申込〆切がなんと明日7月14日(木)らしい(申込フォームにはそう書いていないが、チラシにはそうある)。浴衣のレンタルなんかも用意されている模様。気になったら即申し込みありたい。

ところで、このイベントのことはさておき、黒瀬杜氏が現代の焼酎産業を彩ってきた歴史は、それ自体がとても興味深いものである。また、どうしてこんな薩摩半島のすみっこにある集落が源流になりえたのか、他の地域ではありえなかったのか、といった疑問は尽きない。私は焼酎を飲むということもほとんどないし、焼酎の歴史にも門外漢なのであるが、この身近な地元の近代史を自分なりに紐解いてみたい。

(つづく)

2016年7月5日火曜日

7月15日、「加世田かぼちゃ闇市」と「南薩日乗サロン」を開催

2016年7月15日(金)、鹿児島市名山町のレトロフトに出没して、「加世田かぼちゃ闇市」と「南薩日乗サロン」を開催します!

まずは「加世田かぼちゃ闇市」の方から。レトロフトでは毎週金曜日に半地下スペースで出張販売を行う「レトロフト金曜市」という催しが開催されている。これは、そこに出店させてもらって、私の農業経営における主要作物である「加世田のかぼちゃ」を販売しようという取組だ。ではなんで「闇市」なのかというと、「加世田のかぼちゃ」というブランド野菜は農協が商標を持っているので、本来は農協以外が「これは加世田かぼちゃですよ」といって販売してはいけない。農協に出荷するものと同じ基準を満たしていても、個人で販売する場合は、あくまでただの「かぼちゃ」として売らないといけない。

だが、「加世田のかぼちゃ」というブランド自体が県内でもあんまり認知されておらず、またほとんどが東京や大阪に出荷されてしまうことから、鹿児島市では売っているところを見たことがない。せっかく立派なブランド野菜があるのに、鹿児島市の人は見たことも聞いたことも、当然食べたこともない、というような存在になってしまっている。

もちろん、東京や大阪の人たちに高いお金を出して買ってもらったら、いわゆる外貨獲得になるのでいいことである。でも地元の人たちには手に入らない、というのは残念だ。というわけで、 敢えて商標の禁を犯して、私の育てたかぼちゃを「加世田のかぼちゃ」として、レトロフトで「闇販売」してみることにした。もちろん農協に「加世田のかぼちゃ」として出荷したものと同じものである。

鹿児島市で「加世田のかぼちゃ」が手に入る機会は本当に少ないと思うので、この機会にぜひお試しあれ! なお、当日は包丁を持っていって、量り売りする予定である(1個そのままも持っていきます)。そして、かぼちゃを使ったお菓子なども販売するし、もちろんいつも通り南薩コンフィチュール「うめ」も持っていく予定。

で、次の「南薩日乗サロン」がこの記事の本題。

以前、「マルヤガーデンズで講演をすることになったのですが…。 」という記事を書いた。 要するに、「秋に田舎暮らしについて講演することになったのだけど、何をしゃべったらいいのかいまいちピンと来ないんです」という話である。

で、この記事を読んだレトロフトのオーナーから連絡があり、「もしレトロフトがお役に立てるなら、予行練習として金曜市の時間帯かで、隣の空いたブースで『田舎暮らし座談会』とかされてもいいですよ。少人数での気楽な茶話会でも。」というお話があったのである。
こんな風に言われたら、やらないワケにはいかない。

最初は「懇話会」みたいなものを考えていたが、それだと参加者同士の話が中心みたいな雰囲気になるし、一応自分が中心で話すという趣旨は明確にしつつ、お茶やお菓子を食べながら気軽に話すという意味を込めて「サロン」としてみた(「サロン」は、元々は主人が取り仕切るサークルのことを言う)。内容は、基本的に「南薩の田舎暮らし」(というより私?)の活動紹介を行いつつ、田舎暮らしについての考えをボツボツとしゃべってみるというもの。でもそもそも、「何をしゃべったらいいのかいまいちピンと来ない」というところから始まっているので、話が支離滅裂になるかもしれない(でも一応、資料なんかも持っていこうと思っている)。

よって、あるテーマについて語る会、というよりも、一種の「オフ会」みたいなものとしてやってみることにした(このブログを見ている人くらいしか参加者が想定されないですしね)。だからタイトルが「南薩日乗サロン」なんである。

時間は、金曜市をやっている最中の14:00〜16:00くらい。この時間帯はお客さんが少なくなるので、ちょっとだけ販売を中座させてもらってサロンを行う。一応「サロン」と銘打っているので、飲み物とお菓子を準備する予定である(お菓子代を300円〜500円くらいとるかも)。

その準備の都合もあるので、参加したいという方はコメント欄にでも書き込むか(もちろん匿名で可)、後日Facebookでイベントページを作るのでそちらで「参加」のボタンを押すかでご連絡いただければ大変幸いである。Facebookイベントページをつくったので、「参加」のボタンを押していただければ幸いである。

秋の講演のテーマは「田舎工学」としているけれども、それだけにこだわらず、鹿児島に生きる皆さんが、生活する上でどういうことに関心を持っているかということを学ばせてもらい、本番の講演内容の検討に活かしたいと思うので、ぜひよろしくお願いいたします!

【情報】レトロフト金曜市
2016年7月15日(金)11:00〜19:00
鹿児島市名山町のレトロフトの半地下スペース
当日は、「南薩の田舎暮らし」の他に「笹野製茶」も出店します。

2016年7月4日月曜日

「人間らしい暮らし」こそ社会が発展する原動力

(前回からのつづき)

そして、次の大問題、経済成長と少子高齢化について。

この20年、日本は慢性的な不況に苦しんでいる。ほとんど、経済成長していない。「経済成長しなくても幸せに暮らすことは可能!」という人もいるが、それは今のところ皆が皆には当てはまらない。経済が停滞して一番割を食うのは弱い立場にいる人で、経済成長しなくても幸せに暮らせるのはある程度の強者である。弱者に手をさしのべる余裕は、経済成長の中でこそ生まれる。経済成長は、まず弱者にとって必要である。

そしてより重要なことは、世界全体が総じて経済成長している中で、日本だけが経済成長しなかったらどうなるのか、ということである。日本は相対的に貧しい国になっていき、結局は全体の福祉が損なわれることになる。現代文明が限界に近づいていることも明らかで、次の文明のあり方を模索することは我々に託された重要な宿題だが、グローバル経済の中で日本だけが今「脱経済成長」をすることは現実的ではない。

何より経済成長は、環境を改善し(環境汚染がひどいのは発展途上国)、福祉を向上させ、人々をより自由にする(ことが多い)。逆に不況は、環境を破壊し、福祉を悪化させ、人々をより不自由にする。もちろん、生産活動が盛んになることで環境が破壊される面もある。でも好況の中では環境負荷が小さい生産方法を探す余裕もあるが、不況の中では(例えば不法投棄のような)違法で環境を破壊する行為が、コストダウンの為に選択されることが多くなる。

前置きが長くなってしまったが、要するに経済成長は必要なものだし、大体において社会によい影響をもたらす。そんな経済成長に、この20年見放されている不幸な国が、日本である。

なぜ日本は経済成長しなくなったのだろうか。なぜこんなにも不況が続いているのだろうか?

簡単に言えば、それは需要不足である。つまりものが売れない。売れないから、企業はコストカットを行う。どんな業種でも一番のコストは人である。だから正社員を安い非正規労働者に置き換える、リストラをする。残業代を減らして、無闇な長時間労働をさせる。そうやって不況の中でもなんとか利益を出してきた。それどころか、不況の中で「過去最高益」を更新する企業がたくさん出てきた。でもそうしているうち、どんどん人は人間らしい暮らしをできなくなった。労働者は、職場を離れれば消費者になる。でも給料がそれなりに出れば買えたはずのものが、買えなくなった。だからもっと、ものが売れなくなった。それが現在の日本が陥っている不況の悪循環だと私は思う。

これへの処方箋は(理論的には)簡単だ。労働の改善再配分の強化である。つまり、給料を増やしたり長期間労働を是正したりして消費への意欲を増やし、お金がなくて困っている人にはお金を渡せばよい。これが最大の成長戦略、景気刺激策だと私は信じる。

景気刺激策のことが話題になると、よく「大企業か庶民か」というような二項対立が語られる。でも実は大企業こそ、庶民という巨大な消費者層に頼った存在だ。

どういうことか、例えば食品業界で考えてみたらよい。大企業がどんな商品を開発しているか。100円のチーズか、500円のちょっと高級なチーズか、3000円の高級チーズか。大企業ならどんな商品を開発するだろうか。もちろん100円のチーズだ。なぜなら、高級なものは利益は大きいが、ほんのちょっとしか売れないからだ。ほんのちょっとしか売れないものを開発しても、多くの社員を支える利益を出すことはできない。だから、大企業というものは、商品開発においては実は不自由なことが多い。常に、多数派に売れるもの、万人受けするものしか開発できないからだ。要するに、巨体を維持するためには、多数派の「庶民」に依存するしかないのだ。実は、「大企業」と「庶民」は、一蓮托生なのである。

よって、庶民が豊かになることは、大企業の利益にもなる(もちろん、中小企業の利益にもなる)。法人税の減税とか、労働規制の緩和といったようなことは、短期的には企業の利益にもなるが、それは本質的には成長のキーにはならない。企業が成長する唯一のキーは、需要が伸びること、それに尽きるのである。そのためには、庶民が豊かにならなくてはならないのである。

だから、まずは労働の改善が必要だ。無闇な残業をなくす、それだけでどれだけの需要が喚起できるか。早く帰れれば、友人と食事やお酒を楽しんだり、趣味にお金を費やす余裕もできる。無理なく安定的な働き方ができるようになれば、確実に消費は伸びると思う。一方現政権は、労働規制を緩和しようとしている。いわゆる残業代ゼロ法案である。これは、経済成長とは逆の道だ。

そもそも、日本の労働基準法は既に蔑ろにされている。労働基準法という最低限の基準すら守っていない企業は多い。これをしっかり守らせるべきだ。そのためにはどうするか。ここはちょっと難しい。労働基準を守らせるためには、結局は労働組合を強化しなくてはならないのだ。でも日本の労組というのは構造的に弱いものになっている。というのは、企業内に労組があるという事情がある。企業内に労組があるということは、企業と労組が共同体になっているということである。企業が倒れれば、労組も無くなる。これではストも団体交渉もできたもんではないのである。

ヨーロッパでは、産業別に労組がある。企業とは独立して横断的な労働組合が設立されているのである。だから強い交渉権があるのだ。このように、基本的に企業と独立した労組を日本でも育てていくことが必要だと思う。特に、企業内労組の弊害として、交渉力の小ささもあるが、そもそも労組が存在しない企業もあるということもある。だから弱い立場で働かざるを得ない人ほど労組に頼れなかったりする(そういう人が働く弱小企業には労組がないことがある)。労働法規には詳しくないので具体的な提言はできないが、企業に労働法規を遵守させるには労働者の声を強くする以外にはないのだから、労働組合を構造的に強いものにしていくことが求められるだろう。

連合(日本労働組合総連合会)を支持団体にしている民進党は、基本的には「労働者の党」になるべきだ。しかし連合そのものが、これまでの複雑な経緯や内部事情を抱えていて、正常に機能しているようには見えない。それどころか、連合の存在そのものが、新しい時代の労働組合の誕生を阻害している面すらあるのではないかと思う(私の想像です)。今の時代に労働者の権利をどうやれば守れるか、そこから出発して仕組みを作り直していくべきだ。

そして、再配分の強化もしなくてはならない。人間は、生まれながらにして平等ではない。どんな時代にどんな両親の下に産まれてくるか、それだけで一生のほとんどは決まる。こんな不公平なことはないのである。そして、何も策を講じなければ、その不公平はどんどん拡大する方向に進んでいく。豊かな人はより豊かに、貧しい人はより貧しく。教育すら、その拡大に荷担してきている。東大に進む若者の親は、多くが豊かな人である。かつて教育が果たしてきた階級上昇の機能は、もはや麻痺状態にある。

だから、再配分が必要だ。再配分によって、公平な社会を作っていかなくてはならない。しかし再配分は、弱者保護の意味合いだけではない。偏りすぎた富を分配することは、豊かな消費社会を作っていくことにもなるのである。1人が10億円持っていて、99人が100万円しか持っていない社会より、100人が1000万円ずつ持っている社会の方が、多様な消費が行われ、より多くの貨幣が流通する(売ったり買ったりでお金が動く頻度が高くなる)。つまり極端に富が偏った社会よりも、平等な社会の方が経済成長する可能性はずっと大きい
 
では、再配分が必要だとしても、その原資は何にすべきか。まず一つは、前回書いたように不公平の温床となっている年金の改革をする。でもやはり本丸は税制である。特に日本の法人税法(租税特別措置法)はめったやたらに複雑で、ある程度以上の大企業だと悪気がなくても節税がどんどん可能な悪法である。税制を簡素化して各種の優遇措置をなくし、帳簿上のやりくりで払うべき税金が免除されてしまうような事態をなくすことだ。(でも個人的には、法人税は最初から無税にして、自然人への課税を非常に累進的にするのがこれからの合理的な税制だと思う。)

また、これは社会保障関係費の改革そのものでもあるが、税と社会保障を一本化するべきだ。つまり、健康保険とか年金を「社会保障費」として個別に集めているのを辞めて、徴集を税に一本化するのである。もっと単純にいうと、社会保障費の徴集は厚労省の所管になっているが、これを国税庁に移管する。税も社会保障も再配分の一環なので、個別に集めるよりも一本化した方が合理的に制度が設計できる。この一本化の大きなメリットは累進性を高められることで、社会保障費は今さほど累進的でないので、これをかなり累進的にして再配分の要素を強めることが必要だと思う。

こうして、生活に困っている人の数を少なくする。世の中では生活保護の不正受給だなんだと、再配分への風当たりは強いが、私は逆に生活保護はもっと受けやすくするべきだと思う。それが公平な社会の実現でもあり、同時に経済成長にも繋がると思うからである。

さて、ここまで読めば、もう書かなくても分かっていると思うが、経済成長に必要な対策と、少子高齢化対策はかなりの程度が共通している。労働の改善(ワークライフバランスの改善)と再配分の強化、これは少子化対策そのものである。高齢化対策の方は必要なことがちょっと違うが、これは結局はお金のやりくりの話になるので、大問題なのは少子化の方である。

既に高度経済成長期から出生率は低下してきており、景気のよしあしだけが少子化の原因ではないし、景気が上向きになったからといってすぐに出生率が上昇するとも考えられない。人々の価値観やライフスタイル、そういうものの変化が少子化を招いている面もある。しかし経済的な理由で結婚や出産ができない、遅れる、と言う人も多い。少なくとも、経済的な面での安定がなくては、価値観やライフスタイルが仮に昔に戻ったとしても少子化は改善しないだろう。

結局、経済成長でも少子化でも、改善するには「人間らしい暮らし」ができるようになること、これだと思う。美味しいものを食べ、友人と遊び、趣味を楽しみ、家族で団らんする。これがあたりまえの「人間らしい暮らし」である。この20年の不況が破壊してきた当たり前の暮らしだ。これを取り戻さなくてはならない。要するに「人生を楽しむ」。それが消費に繋がり、人と人との出会いに繋がり、社会が発展していく原動力になる。「人生を楽しむ」というと随分お気楽な題目だけれども、これがなかったら「社会」そのものが存在している意味がない。

これまで、財政再建、経済成長、少子化という内政面について長々と述べてきた。一方で、外政面についてはいろいろと難しいこともある。しかし、国というのは内部から瓦解しない限り、国際的な紛争によってはなかなか崩れないものである。恐れるべきなのは、隣国の脅威とかテロではない。それよりも、「人生を楽しむ」ことができなくなりつつある社会の方だ。個人の楽しい人生が存在しなくなったら、その国は経済成長など絶対にできない。財政再建など夢のまた夢である。国家を強力にするには、まず個人の人生が充実していなくてはならないのである。国家か個人か、という二項対立は存在してはいけない。常に個人が優越するべきだ。個人の人生がなかったら、国家は存在しない。

かつて米国のジョン・F・ケネディ大統領はその就任演説で「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか」と述べた。それに対して私ならこう答える。「私が国のためにできる一番のことは、自分の人生を充実させることだ」と。

今回の選挙から投票権が18歳からに引き下げられる。若い人たちは賢いから言われなくても分かっていると思うが、「自分の人生の充実」が、国政を見る視点だ。「自分」を大切に思ってくれるのは誰なのか。それを見極めて投票所に足を運んで欲しい。

2016年7月1日金曜日

自民・公明か、それ以外か

(前回からのつづき)

一方、今回の鹿児島の参院選は、どちらに投票すべきかそれほど明らかではない。

というのは、現在の国政は徹底的に政党政治が(悪い意味で)貫かれていて、誰が当選するかというのはさして問題ではなく(もちろん党首が落選するとかは大きいことだが)、結局は議席数のみがものをいう世界である。要するに、「人」よりも「党」を選ぶのが国政選挙である。

今回、鹿児島で立候補している4人を見ると、自民党1人、幸福実現党1人、無所属2人であり、「党を選ぶ」という観点では、実質的には野村 哲郎(自)と下町 和三(民・共・社の推薦=野党統一候補)の2択だろう。

でも野党統一候補、といっても、実際の国政における位置づけが明らかでないのが問題である。当選後にどこかの党に所属するのか、それとも当選後も無所属という不利な立場で活動するのか…。位置づけの如何によっては、大した活動ができない可能性もある。野党統一候補というものを作ったまではよかったが、であれば野党としての共通の(アンチ自民だけでない)価値観をつくるべきだった。でも一方で「自民党以外」という選択肢を用意するだけでも精一杯だったのだろうとも思う。それが現在の野党の限界なのかもしれない。

というわけで、鹿児島だけに限ったことではないが、今回の選挙は「自民・公明か、それ以外か」を問う選挙である。そして私なら、「それ以外」を選ぶ。

最近の自公政権は、かつてのそれとは随分違ったものになってきている。最も強調しなければならないのは改憲の動きである。自民党の出している改憲案を見ると、あからさまに個人の自由や権利を制限し、公の秩序を優先する考えが見て取れる。かつての自民党だったら、こういう方向性を打ち出したかどうか…。もはや自民党は「保守派」ではない。

派閥政治華やかなりし頃の自民党は、内部で百家争鳴ある政党だったので、このような草案がまとまることはなかったと思う。それが最近、急に自民党が一枚岩化してきて、異論を言うのは古い自民党の生き残りのような人たちだけになってしまった。公明党も、長く政権のバランサーとして自民党の独走を抑制する役割を果たしてきたと思うが、最近は軽減税率の導入を強く主張するなど、目先の点数稼ぎに走っている感がある。

私は自民党政権時代に霞ヶ関で働いていたし、元々アンチ自民ではないが、最近の自公政権の動きは不気味すぎてついて行けないと感じる。自民党・公明党のためにも、このあたりで一度立ち止まって考えた方がよい。

かといって、野党に国政を任せられるだけの甲斐性があるのかというとこれも心許ない。人材は少ないし、政策面も薄弱である。とはいっても、今回は政権交代を問う選挙ではないので、とりあえず自公政権を掣肘する意味合いで野党には頑張って欲しい。

と同時に、いつまでも「アンチ自民」だけでは成り立たないということは、民主党政権の時にみんなが痛感していることだ。野党は今後、これまでの利害得失を乗り越えて共通の価値観を作り、それに賛同できないものは去って、新たな力をまとめていく必要があるだろう(今回の選挙の結果如何に関わらず)。

……というわけで、与党にも野党にも上から目線で論評してきたが、じゃあお前はどんな政策を望むのか、という人もいるだろう。

なので、今回の選挙とは直接関係しないこともあるが、この機会に国政に関して普段思っていることを書いてみたい。選挙でもないと、国政について語るということもないので。

……

まず現在の日本が直面している大問題は、内政面では財政再建経済成長、そして少子高齢化である。

現政権は、財政再建のために増税を予定している。野党はこれに反対しつつも、「財政再建のためにはしょうがないのかな」という感覚も持っているように思われる。しかし歴史的にも、増税のみによって財政再建を成し遂げた国はないと思う。ある程度の増税は必要だとしても、財政再建に必須なのは歳出の抑制である。要するに赤字経営のさなかでの大盤振る舞いを辞めなくてはならない。

そして、最も大きな歳出抑制が必要なのは社会保障関係費である。単純に言えば、例えば年金の減額をする必要がある。ただでさえ年金というのは世代間不公平の温床になっていて、だいたい1955年生まれより上の世代は得をして、その下からは損をする(支払い額より受給額が少なくなる)という構造になっている。まずこれを是正する必要がある。年金制度の実質的な破綻は明らかなので、早いうちに改革した方が傷も小さくなる(厚労省は「年金は破綻しない」と言っているが、要するに給付額をどんどん少なくしていけば破綻しないというだけの話で、それは実際には破綻だと思う)。

さらに医療・福祉(介護保険等)にもメスを入れる必要がある。国民皆保険などのこれまでの日本の医療制度は大変優れたものであったと思うが、もはやそれを維持する余裕はなくなってくるので、患者負担の割合を高めるといった改革(改悪?)を行わなくてはならないだろう。でも最初は一律に負担割合を増やすのではなく、例えば平均入院日数の縮減のような取組が先だ。入院は医療行為の他にホテル的な費用がかかるので医療費の増加への寄与が大きいし、入院日数の縮減は患者の利益にもなる。しかし入院日数を短く抑えようとすると、結局は病床数の削減をしなくてはならない。こうなってくると話が難しいが、難しい話を避けてやりやすい負担割合の増加をやるよりも、業界と向き合った改革が必要だと思う。それには、中医協(中央社会保険医療協議会)の改革というような、地味で難しい課題に取り組まないといけないかもしれない。

しかし、年金を減らして、医療・福祉を改悪するとすれば、このようなことを掲げる政党はとても議席を取れそうではない。これらは特に高齢者層にウケが悪い政策で、彼らの票は非常に大きいし、高齢者でなくても反対する人は多そうだ。だが(政治家は誰も言わないが)こういったことをしなければ財政再建ができないのは明白なのである。よって、「民主制度下においては、財政再建はできない」と言う人すらいる。財政再建を行うために必要な政策は、民主的に否決されるようなものばかりなのだ。極論を言えば、財政再建を行うには民主制度を捨てなくてはならない、ということになる。

もちろん、財政再建を行うために独裁制をとるのは本末顚倒なので、こうした(主に高齢者層への)不利益を緩和させ、なんとか民主的に年金・医療・福祉の低下を実現していかなくてはならない。その手法は私にも見当が付かないが、基本的には社会保障制度の簡素化と、公平さの実現であろう。

「公平さ」、これがこれからの日本社会を作っていく上でのキーワードだと私は思う。

目先の年金・医療・福祉よりも、子ども世代・孫世代まで含めた公平さを選択する人は、今はそんなに多くないかもしれない。でも少なからずそういう人はいる。そういう人に向けたメッセージを発する政党が、少しはあってもいいと思うのだ。

(つづく)

※冒頭画像はこちらからお借りしました。
By Emmanuel Huybrechts from Laval, Canada (Golden Lady Justice, Bruges, Belgium) [CC BY 2.0 (http://creativecommons.org/licenses/by/2.0)], via Wikimedia Commons