2018年9月29日土曜日

三島通庸の「黄金の神殿」—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その16)

これまで、かなり詳しく神代三陵確定に至る経緯を見てきた。

神代三陵の確定については、そもそも歴史書で触れられること自体が稀だが、触れられる場合でも「薩摩閥の政治力を背景になされた」と簡単に片付けられる。しかしことはそう単純な話でもない。神代三陵を確定した時期は、確かに教部省を薩摩派が握っていた時期ではあるが、それは平田派と津和野派の争いによる共倒れや、大教宣布運動の挫折によって棚ボタ的にもたらされたものであって、神祇行政においてはどちらかというと薩摩閥は脇役であった。

また、神代三陵について地元鹿児島の人間からその公認を欲した記録はなく、島津久光や当時の県令大山綱良も、神代三陵を特別扱いするように要望したことはないようだ。久光への慰撫として神代三陵への遙拝がなされたのだとしても、久光自身はそんなことは望んでいなかったようだし、「薩摩閥の政治力」といっても、それは鹿児島への利益誘導が強引になされたということではない。 神代三陵の確定によって利益を受ける人物は、鹿児島にはいなかったのだ。にも関わらず、一方的にそれが確定されたことは、それが「国家」のために行われた事業であることを示していた。

人は、神代三陵確定など、取るに足りない歴史の一齣だと思うかもしれない。私も、神代三陵の確定がその後の歴史を大きく変えたのだ、と言うつもりはない。それでも、神代三陵の確定はひとつの歴史の里程標として見ることはできると思う。それ自体は重大事件ではなくても、後から振り返ってみて、歴史の変曲点に当たるような存在のように思えるのである。

後日談的になるが、これから、神代三陵に関わった組織や人物がどうなったか、神話と国家の関係がどうなっていったかを述べていきたいと思う。

まずは教部省の動向である。明治5年に教部省が設置された際、重要な国民教化の原則が定められた。これを「三条の教則」または「三条の教憲」という。すなわち、
一、敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
一、天理人道ヲ明(あきらか)ニスヘキ事
一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
という三条の原則である。神祇省時代の大教宣布運動が瓦解した原因の一つに、「大教」そのものの内容が定まっておらず関係者の神学論争が続いたことが挙げられる。教部省ではこの二の轍を踏まぬよう、まず国民教化において教導すべき内容を定めることとし、この三条を教部省設置の立役者である江藤新平が起草したという。

この「三条の教則」は、これまで神道によって担われてきた国民教化運動を、神仏合同の運動に変えるための役割も担っていた。つまりこの「三条の教則」は、仏教側も受け入れられるギリギリの国民教化原則として構想されたものだ。これに則る限り、仏教側も自由に教説を展開して、国民教化を担うことができるようになった。

そして教部省ではこの三条教則に基づいた教導運動を展開するため、大教院・中教院・小教院という組織を全国展開した。国家レベルが大教院、県レベルが中教院、郷レベルが小教院に対応していた。鹿児島では、松原神社(南林寺跡に作られた神社)に中教院が置かれていた。そして大教院は、東京は芝の増上寺に置かれていた。

しかし増上寺では、本尊の阿弥陀仏は撤去され、造化三神(天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)と天照大神を祀り、山門の前には白木の大鳥居を立てて神社に擬されてしまっていた。神仏合同といっても、その内容はあくまでも神道が主で仏教は従であり、仏教勢力が国家に迎合して神道的な教説を受け入れた形であった。これがやがて大教院体制を行き詰まらせることになる。

ところでこの「三条の教則」を簡約すれば、(1)敬神愛国、(2)迷信の否定、(3)国家権力の承認、ということに過ぎないから、これのみで国民の教導を図るのは難しい。そこで、「三条の教則」の背景となる神道理論を明らかにし、民衆を教導する説教にまで落とし込んでいく必要があった。つまり「三条の教則」のコンメンタール(逐条解説書)が求められたのである。こういった解説書は百点を越えるほどたくさん出版されたが、そのなかで最も正統とされ、神道界はもちろん仏教界においても批判する意味でも読まれたのが、田中頼庸が明治6年に書いた『三条演義』であった。

頼庸は『三条演義』の中で、天神の神託によって天皇が国の統治を行っていることを述べ、「天地日月と共に一系の皇統を吾大君と仰ぎ奉るべきこと、天祖天神の定め給へる万古不易の国体なる事」と、祭政一致による統治を推し進めることが説教の要務であるとしている。ところで頼庸の『三条演義』が最も正統な「三条の教則」のコンメンタールとなりえたのは、彼が独学独歩の国学者だったからではないだろうか。頼庸は、いかなる学派にも属さず、師に遠慮する必要もなかったから、虚心坦懐に「三条の教則」を受け入れ、この新しい原則にいち早く順応できた。

そもそも薩摩派は、 平田派や津和野派と違って神道教義についてはあまり関心がなかったようだ。平田派や津和野派のような「神学論争」に与した形跡もなく、実を言えば、薩摩派がどのような神道理論を持っていたのかすら、今になってはよくわからない。ただ、薩摩派は天照大神よりも、造化三神、特に天御中主神を中心に置いていたということはいえる。大教院には造化三神と天照大神の四柱の神が祀られていたが、天照大神が造化三神の下位に当てられていたことを考えると、大教院の祭祀が薩摩派の強い影響の下にあったことは明らかだ。

しかし津和野派は教部省の主流から排除された後も、首魁福羽美静が大教院体制における運動の中心となってはいた。一方、薩摩派は、田中頼庸は例外としても、全体的には国民教化には熱心でなかったようだ。

薩摩派が熱心だったのは、国民教化のような個人の内面を変えることではなく、国家的祝祭行事の実施など、外形的な部分を変えていくということであった。信仰を強制するよりも行動を規制しようとしたと言ってもよい。「信仰の外堀を埋めていく」ことに取り組んだのが薩摩派であった。

例えば、明治6年1月には神武天皇即位日(紀元節)と天皇誕生日(天長節)を祝日とすることを定め、一方で人日(じんじつ)、上巳(じょうし)、端午、七夕、重陽(ちょうよう)の五節句を廃止した。追って明治7年10月には、紀元節と天長節に加え、元始祭(天孫降臨を祝う祭り)、新年宴会、孝明天皇祭、神武天皇祭、神嘗祭、新嘗祭等を祝祭日と定めた。民間の習俗と行事の体系を破壊して新たに国家的祝祭日をそれに替え、国民意識を強制的に「国家」に向くようにしたのである。

さらにこの時期、教部省で大きな力を振るった三島通庸は壮大なプランを構想していた。

全国から寄付を集めて皇城(皇居)のそばに人工の山を築き、その山頂に燦爛たる「黄金の神殿」を建てて中には伊勢神宮を遷座しようというのである。しかもその山裾に諸宗の本山を移転させ、仏教であれキリスト教であれ神道を「国教」として奉ずる誓いを立てさせようとした。

通庸の考えでは、国教たる神道と、仏教やキリスト教は矛盾するものではなかった。「黄金の神殿」の下に諸宗の本山を集めようとしたのは、神道があらゆる宗教の上に超然と立つという考えを象徴するアイデアだった。

さらに通庸は、神道を全世界にまで弘めようと、まずは米国、そして各国に神道の「華表」(宗教的な標柱)を建てて、「万国の異宗教をして悉く皇道の下に合同従属せしめ」ようとまでした。しかも外国船が東京湾の中に入る際には、羽田の手前あたりでまず「黄金の神殿」への遙拝を強制しようとしたである。この壮大なプランは西郷隆盛に建言され、西郷はこれに賛同したという。

神道が日本だけの一地方的宗教ではなく、世界に冠たるものであるという考えは三島通庸だけのものではない。すでに本居宣長が、「かくのごとく本朝は、天照大神の御本国、その皇統のしろしめす御国にして、万国の元本大宗なる御国」(『玉くしげ』)だと述べている。平田篤胤も日本を「万の国の本つ御柱たる御国」と位置づけ、世界中のあらゆる伝承や風俗は、始まりの国である日本から流れ出したものと考えて海外の文化習俗に強い関心を寄せた。

さらに津和野派の理論的指導者であった大国隆正は、海外事情や外来書物、洋学書を多く研究し、「天地創造」や「キリストの降誕」など新旧聖書に現れる出来事や人物すらも『古事記』『日本書紀』に描かれた神話の一変異であると断じた。彼に拠ればアダムやカインというのは「空中を駆けりて、海外諸国に往来せし神仙」(『馭戎問答』)であり、キリストは蛭子、キリスト教の造物主は「皇祖神霊の影法師」(「天主教に関する意見書」)なのだ。こうした考えから大国はキリスト教を神道の一派とみなして排斥すべき邪教ではないとし、開国を進める開明的立場に立ったのである。

三島通庸の「黄金の神殿」は、こうした国学者の思想の具体化であったと位置づけることも出来る。世界でたった一つの正しい神話を伝える日本神道の神殿であり、それはいかなる宗教を信仰しているかに関わらず、全ての人が讃仰すべき世界の中心なのである。

この「黄金の神殿」案は、おそらくは明治六年政変(いわゆる「征韓論争」)による西郷らの下野でうやむやになり、実行に移されることはなかったが、来るべき新しい神道の姿を予言していた。それは、世界中の全ての宗教を超越した「超宗教」としての神道、信仰に関係なく跪かなくてはならない至上の「超信仰」、万国に冠たる国体を信仰の中心とする「国家神道」を先駆けていたのだ。

この来るべき神道では、国民に煩瑣な教義を理解させる必要もなかった。ただ、拝跪を要求するだけでよかった。「万世一系の無窮なる皇統」「万古不易の国体」に少しでも疑義を差し挟むものがいれば、ただ一言「非国民」と罵ればよかったのである。それは、教化を必要としない宗教であった。

そもそも、大教院体制においても国民教化はすぐに頓挫しかけていた。「三条の教則」や大教院、中小教院は神仏合同を旗印にしていたが、教説は神道一色であり、離反は時間の問題であった。やがて浄土真宗本願寺派の僧侶島地黙雷(しまじ・もくらい)は、自身が洋行して西洋の事情を視察した経験から、信教自由が「万国公法」であると確信し政府の国民教化政策を強く批判。

一方、岩倉使節団の一員として条約改正交渉に当たってきた木戸孝允や大久保利通も、条約改正の前提条件として信教自由を求められており、もはやキリスト教の禁止や神道のみによる国民教化運動が時代に合わなくなってきたことは認識していた。国民教化運動は、中からも外からも限界を迎えていた。やがて島地黙雷の批判に応じて真宗各派は大教院を離脱し、大教院は明治8年5月に瓦解するのである。

そして、明治8年11月、ついに信教の自由が布達された。といっても、これが本当の意味での信教自由でなかったことは明らかであろう。この信教自由は、各宗派の存立が許されたというだけであり、それらが国家イデオロギーに従属する構造は強化されていったのだ。

ところで神代三陵確定の立役者たる田中頼庸は、信教自由の時代を伊勢神宮で迎えていた。彼はそのころ、伊勢神宮の大宮司となっていた。

(つづく)

【参考文献】
『三島通庸伝』1898年、平田元吉
『江戸の思想史—人物・方法・連環』2011年、田尻 祐一郎
日本政治思想史―十七~十九世紀』2010年、渡辺 浩
儀礼と権力 天皇の明治維新』2011年、ジョン・ブリーン
<出雲>という思想』2001年、原 武史
神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫