2013年12月30日月曜日

年末なので今年の反省をしてみました。

信じられないが、もう年末である。時の流れは早い。そして、こちらへ越してきてから丸2年が経過したということになる。

そういえば今年の正月に、昨年の反省と共に抱負を述べたのだが、自分自身への備忘のためにその結果を記しておこうと思う。まず、2012年の反省に対する今年の結果は次の通り。
  1. 農業倉庫建築、機械購入など農業基盤整備があまりできなかった。→未だに倉庫は出来ていないのだが、メドが立ったところ(来年3月には建つと思う)。機械については、先輩農家Kさんの力に負う部分が未だ大きいが、とりあえず間に合う程度には揃えられた。
  2. 山の整備と利用が進まなかった。→藪と化していたところを開墾して、アボカドとブラックベリー、そしてヘーゼルナッツを植えた(計17a)。だがまだまだ山は残っているので、来年も開墾を進めたい。
  3. 栽培した作物の管理もあまりよくなかった。→これが農家としては一番重要だが、今年も同様に管理がよくなかった。反省である。
  4. 農業に関して、いろいろな記録をちゃんとやっていなかった。→いずれブログにも書こうと思うが、農業記録をクラウド化したので、今後しばらくこれを試してみたい。 
総じていうと、昨年の反省点を全てクリアしたわけではないにしろ、それぞれ何かしら着手できたのはよかった。ただ、最も重要な「作物の管理」については、昨年よりも改善した点もあるにしろ、そう出来なかったところも多い。そもそも「どのような管理をしたいのか」という根幹の方針が未だフワフワとしている部分があって、迷いが出た面があったと思う。

次に今年の抱負として掲げた3点であるが、
(1)作付体系の検討→果樹と園芸作物という基本的枠組みで考えているが、珍奇な作物をいくつか導入して試行錯誤するという段階である。まだ効率的な作付体系の姿は見えない。
(2)農産加工所の開設→これは実現することができた。ブログでも少し触れてきたが、いずれもう少し突っ込んだ内容を発信していきたい。
(3)有機栽培への挑戦→挑戦だけはしてみた、というところ。正直、成功にはほど遠く、「やらないほうがよかった」というレベルである。しかし、有機栽培が一体何であるかということがボンヤリと見えてきた気もするので、(やめておけという人もいるが)来年も引き続き挑戦してみたい。

というわけで、今年の抱負として掲げた点については、結果はまだ出ていないといえる。農産加工所を開設できたのはよかったが、これも本格的な稼働はこれからであるし、今年の抱負は来年に持ち越しという感じだ。

さて、上記以外に今年の反省点として、情報発信不足ということがあったと思う。ブログ更新の頻度が低下しているということがその象徴だ。原因の一つは、次女こよみが昨年12月に誕生し、夜は寝かしつけや夜泣きのためにPC作業の時間が確保できなかったということがある。しかし最近はお利口さんになってきて夜も寝てくれるようになったので、それも理由にはならない。

情報発信が不足してきた最大の原因は、日々の作業の新規性が薄れ、新鮮な目で「田舎の暮らし」を見られなくなりつつあることだろう(私はそもそも田舎もんであるし)。一方で、興味分野の郷土史などに関してはやたらとマニアックな記事を書くようになってしまったが、これは理解が深くなってきたということだから(読者にとって面白いかは別として)いいことだ。ただ、マニアックな内容を書くにはリサーチが必要なため記事の数が減ってしまう面がある。

新規性が薄れるのはしょうがないことだから、その代わりに深い理解に基づいた記事を書きたいと思っているし、来年は今まで家内に任せていた「南薩の田舎暮らし」(ショップサイト)のブログについても私もちょくちょく書かせてもらうことにして、今までと別の面でも情報発信をしていきたい。来年もよろしくお願いいたします。

2013年12月21日土曜日

「はきもの奉納」と大木場山神祭りの謎

大浦町の大木場という集落にある大山祇神社で12月に行われる奇祭が「山神(ヤマンカン)祭り」である。先日これの案内をいただいたので見学に行った。

この祭りは、詳しくはこちらのサイト(→鹿児島祭りの森)に譲るが、簡単に言うと片足30kgもあるバカでかい草履を履いて鳥居から拝殿まで歩き、奉納するお祭りである。

その由来は、集落の言い伝えによると
大木場地区は、平家の落人の里といわれ、[…]伝説によると村人は、源氏の追っ手におびえながら暮らしていた。そこで村に通じる峠道に畳十畳ほどの大草履を置いたところ、追っ手は「この村には巨人がいる」と恐れ、退散したという。以来大草履は、村(地区)の守り神として、毎年旧暦11月の「1の申の日」に行われる山神祭りに、これを奉納している。
ということである。

もとより古い言い伝えであり、これが事実かどうか穿鑿することは無意味である。しかしながら、この祭りにはこの説明だけではどうにも奇妙なところが存在していて、いろいろな空想を掻き立てられる。最も謎なのは、「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということである。

実は、大草履や大草鞋(わらじ)を神社に奉納するということは、決して珍しいことではない。中でも有名なのものに、青森県の岩木山神社へ奉納される大草履がある。これは一足で1トン以上もある。最近になって始まったものだが、東京の浅草寺の仁王門には大草鞋が奉納されているし、福島県の羽黒山神社でも大草鞋が奉納されていて、こちらは草鞋の大きさ日本一を自称している。鹿児島でも、人の背丈よりも大きい弥五郎(※)の大草履が岩川八幡神社に奉納されていた。

なお、こうした巨大な草履・草鞋は山の神に奉納されることもあるが、その場合は1足を揃えず、片足のみが奉納されるのが一般的である。これは、山の神が片目片足と考えられたことを反映しているともいう。

さらに、大きくはない(普通の)草履や草鞋の奉納というのはもっとずっと多い。峠の神を「子(ね)の神」とか「子乃権現(ねのごんげん)」というのがあるが、これには旅の安全を願って草鞋が奉納される習慣があった。また、千葉県の新勝寺の仁王門には大草鞋と共に多くの人々が奉納した草鞋が沢山掲げられているが、これは病気平癒等も含め人生の安泰を願って奉納されたものという。

それから、これは他の地域には類例が少ないが、東京青梅の岩蔵集落というところでは、集落の境界に草鞋を掲げ、疫病や魔物の侵入を防ぐ「伏木(ふせぎ)のわらじ」という共同祭祀の行事がある。

こうした草履・草鞋の奉納、すなわち「はきもの奉納」について整理すると、
(1)巨大なはきものを掲げることにより、(仁王などの)巨人の護持を暗示して、悪鬼を祓う。
(2)峠や道祖神に奉納し、旅の安全を祈願する。また、健脚を願う(韋駄天に奉納される場合もある)。
(3)村の境界などに掲げ、悪鬼や疫病の侵入を防ぐ。
という3つのパターンがありそうである。しかしながら、この3つは時に混淆しているので、明確に分けられない場合も多い。元より、(1)と(3)は機能としては同じであるし、例えば、仁王門には大草鞋も普通の草鞋も両方奉納されるが、これは(1)(2)(3)が同時に願われていると見なせるだろう。

こうした「はきもの奉納」には、未だ纏まった体系的研究がないようだが、どうしてはきものを奉納するのか、ということは意外に大きな謎である。一つの考え方としては、はきもの作りは百姓の重要な副業であり、市で売って貴重な現金収入の元となったので、金銭的価値のあるものを奉納することに意味があったということだ。大木場集落でも、昔から農家の副業として草履作りが盛んで、「コバザイ(木場草履)」として有名だったらしい。

しかし、金銭的価値があるもの、というだけでは、悪鬼や疫病の侵入を防ぐという機能が生まれる理由がわからないし、農具には大体金銭的価値があるわけだから、はきものの奉納だけがこのように日本全国に多い理由として弱い。ともかく、「はきもの奉納」にはまだ解かれていない謎が潜んでいそうである。

話を戻して大木場山神祭りだが、これは類型としてはもちろん(1)に属す。 だが、この機会に他の巨大なはきもの奉納を調べてみて思ったが、この祭りの他には、ただの1つも「大草履・大草鞋を履いて歩く」という祭祀を行って奉納するところはないのである。

そもそも、巨大なはきものを奉納するのは、「こんな巨大なはきものを履く者がここにはいるのだからここから先へ行っては危険である」という意味合いがあり、大木場でもそういう意味だと伝承されているが、であれば巨大なはきものは巨人の神さま(山神)のもので、人間が履いてはならないような気がする。他の祭りでは、大切な神具として奉納がなされており、例えば最初に例示した青森の岩木山神社では、奉納草鞋を作る時は、仮小屋を建ててしめ縄を張り、水垢離(みずごり)を行い小屋に閉じ籠もって作るそうである。

大木場山神祭りでは、はきものは神さまのものというより、「村人を救ったアイテム」のような位置づけで特に神聖なものと見なされていないので、別段不自然ではないという見方もできるが、であれば山神に奉納する理由もわからないのである。そもそも、伝承には山神も巨人も(!)登場しないわけで、このような祭りが起こった理由があやふやだ。

そういう風に見ると、私としては、この祭りは日本各地に残る「巨人説話」の一変形だと考えたい。鹿児島には弥五郎どんという巨人説話があるし、関東にはダイダラボッチという巨人の伝説が残っている。そもそも、巨人の伝説があったからこそ、源氏の追っ手は「ここには巨人がいるのかもしれない」と恐れて退散したわけで、そういう伝説のない土地であったら、こういう脅しは効かないような気がする。

だから、素朴に考えたら、ここで奉納される大草履は伝説上の巨人に向けられたものではなかろうか。それが、あるいは最初からそうだったのかもしれないが山の神と同一視され、山神に奉納されるようになったのかもしれない。

しかしそう考えても、やはり「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということはよくわからない。この祭りは厳粛なものではなく、大草履を履いた二人の氏子がえっちらおっちら神社を歩くというユーモラスなもので、芸能的要素が強いが、そのあたりがこの謎を解くヒントなのではないかと思う。

ともかく、この大木場山神祭りは「はきもの奉納」の中でもとりわけ変わった内容を持つ奇祭であることは間違いない。今回、祭りにはどこかの大学の先生と学生が見学に来ていたが、その中の誰かがこの祭りの謎を解いてくれることを期待している。

弥五郎どん…鹿児島・宮崎に残る伝説の巨人。

【参考文献】
『ものと人間の文化史 はきもの』1973年、潮田 鉄雄
『妖怪談義』1977年、柳田 國男

2013年12月13日金曜日

ブラックベリーに取り組んでみます

ブラックベリーの苗を定植した。ブラックベリーというのは、あまり品種改良されていない、野生的な木イチゴである。

ブラックベリーというと、フルーツの名前よりも携帯電話の方が有名かも知れない。しゃれたお菓子に少しトッピングされることはあっても、ブラックベリーそのものの味を知っている人は少ないし、どんな風に栽培されているのかを知っている人はさらに少ない。

というか、私自身知らなかった。どうしてこれに興味を持ったのかというと、イギリスにいる叔父叔母からメールが来て、「ジャム作りをする予定があるなら、イギリスではナショナルトラストが家庭に植えられているグーズベリーやラズベリー、レッドカラントなんかをジャムにして売る事業がとても流行っているから、そっちでもこういう植物の栽培をやってみたらどう?」というような提案をしてくれたからだった。

だが、ここに挙げられているグーズベリーなどというものは、なんだか美味そうだが基本的には北国の植物で、残念なことに南薩の気候とは合致しない。そこで調べて見ると、ベリー類でもブラックベリーが南国の産で、栽培適地はほとんどミカン類と一緒であるという。ここ大浦町ではポンカン、タンカンといったカンキツの生産が盛んなので、これならイケるのでは? と期待したのである。

また、これを植えた場所は開墾地なのだが、土壌が最悪な場所である。釜土(粘土質)で石が多く、作土層が浅い。相当に強い作物でないと栽培の労力が無駄になりそうな、そういう場所である。当初は土壌改善を考えていたが、気長に土壌改善に取り組むような余裕もないし、石はいかんともしがたい。そこで、野生の面影を留めているブラックベリーを植えることにしたわけである。これは、土壌の適応性が大きく、ほとんど場所を選ばずに栽培できるという。

そのかわりデメリットもある。最大の問題は、ツル植物なので自立せず、棚とかフェンスとかを作って仕立ててやらないといけないことだ。台風に耐えるフェンスを自作するのは、多少骨が折れそうだ。強度を持たせるのはワイヤーで張れば簡単だが、今度は草払い等の管理作業の邪魔になる。基本的にはコンクリブロックの小さな基礎を入れて、ステンレスの番線で作ってみようと思っているが、強度と作業性を両立させるにはどうしたらいいものだろうか。そもそも、あまり栽培実績のない作物でもあり、これが正解というのもなさそうなので暫く思案してみよう。

2013年12月11日水曜日

南薩のポストカードはクレジット決済でも買えます

うちでは「南薩の田舎暮らし」というネットショップを「カラーミー」というサービスを利用して開設しているが、このたび「STORES(ストアーズ)」というサービスを利用して、同名のサイトを準備した。

というのも、このSTORESというサービス、無料でショップサイトが開設できるうえ、クレジット決済も月額基本料金なしで利用できる!(ただ、当然だが決済毎の手数料はかかる。)

ネットショップをやっていると実感するが、農産物のような低価格な商品を扱っていると決済というのがけっこうな問題である。振込であれ代引きであれ、決済には手数料がかかるが、1000円のものを買うのに200円も300円も決済手数料を取られるのはいかにもバカバカしい。配送料もかかっているわけなので、配送料と決済手数料という、商品そのものの値段ではないところでお客さんに負担を求めるのは心苦しいし、自分が買う側ならちょっとそういう店では買いたくないと思う。

そのうえ、最近「Nansatz Blue」というポストカードの販売を開始したが、これは450円なので、配送料も含めて600円程度の商品に決済手数料を200円も払うのは現実的ではない。このポストカードは、基本的には農産物を買うついでに買ってもらったらいいかなと思っているが、ついでがない人もいるはずだ。

だから、クレジット決済を導入したらいいわけだが、普通、これはこれで月額利用料がかかる。そこで、ネットショップを2店舗も構えるのは少し無駄な感じもするものの、クレジット決済機能を備えているSTORESでもショップをオープンさせたというわけである。

このSTORES、「最短2分でオンラインストアがつくれる」を売りにしているが、これは本当で、実際に2分くらいで、実に簡単に開設することができた。無料コースだと商品を5つまでしか登録できないといった制限はあるが、基本的な機能はすべて備わっている上にスッキリとしたデザインであり、ネットでちょっとしたものを売りたいという人にはうってつけのサービスだと思う。

現在、こちらの方の「南薩の田舎暮らし」では「Nansatz Blue」以外の商品は登録していないが(というのは、配送の設定の問題があるため)、ネットショップをいくつも持つのは当然好ましいことではないので、しばらくの間は並行して運営してみようと思う。もし、こっちの方がよさそうなら統合することも考えてみたい。

2013年12月7日土曜日

農業の研修旅行で感じたこと

大浦町の若手農家を対象とした、宮崎・都城方面への研修旅行に参加させてもらった。特に記録というものでもないが、感想を書いておきたい。

研修先は、(1)農事組合法人はなどう 農産物直売所「杜の穂倉」、(2)農業生産法人 株式会社宮崎アグリアート、(3)農事組合法人 きらり農場高木、と道中のいくつかの物産館である。

それぞれ刺激を受ける点が多々あったが、この3箇所を通じて印象深かったのは、今や完全に農業は大規模化の時代であるということである。

農水省は、ここ10年来、大規模農家、特にグループ経営の農業経営体を優遇する政策を続けており、日本農業の積年の懸案だった「生産性の低い零細農家の淘汰」を推し進めている。というより、農業の担い手の高齢化等によって、既に農地を集積せざるを得ない現状があったわけで、積極的に零細農家を淘汰しようということではなく、そうした課題を解決しようとする意欲があるグループを支援するような政策を打ってきた。

具体的には、農業の大規模化・集団化に関係する各種の補助金を優遇してきたのであるが、その成果がここ数年で顕在化しつつある。特にそれを体現しているのが(3)の「きらり農場高木」で、詳細は省くが、農水省の推し進めている政策のモデルのような経営を行っている。 集落の農地を集積し、小規模零細農を廃業させ、大型機械を導入して合理的な経営を行う。一般の人がイメージする「アメリカ型農業」と言ったらいいだろうか(※)。

こうした経営は、現在は補助金頼みの部分もあるが、零細農の寄せ集めよりも生産性が高いのは確実で、仮に農水省の優遇政策が終わったとしても、確実に生き残っていくだろう。(3)は日本の農業経営体の目指すべき一つの姿であるといえる。

しかし、である。意地悪なことを言うと、それは農水省が随分以前から推し進めてきたことであって、今ことさらに強調すべきことでもない。(3)は時流を捉えた素晴らしい経営を行っていると思うが、逆に言うと、これまでの農政から理論的に予見される存在であるという見方もできる。もちろん、だから悪いということではなくて、存在としては素晴らしい。でも、私は(3)にはあまり興味を持たなかった。

むしろ、こうして実際に大規模化・集団化をうまく成し遂げた経営を目の当たりにし、私が目指したいのは、これとはまた少し違ったところなのかなということを逆に認識させられた次第である。では私が目指したいところはどこにあるかというと、やはり零細農業である。

零細農業というと、生産性が低くそれこそ補助金頼みのイメージがあり、それは事実である。しかし、大規模化こそが唯一の正解であるとも思えない。むしろ、零細なままで、生産性を高める方法があれば、それを見つけてみたいのである。

そもそも、我が大浦町は(海岸沿いの干拓地は別にして)狭小な農地が散在しており、畦畔も急なところが多く、大規模化しても効率化には限界がある。今後、労働人口の減少によって自然に農地集積は進むと予測されるが、今それを急に進めようという気運もなく、準備には時間と労力がかかり、そのとりまとめは心労が多い仕事になるだろう。

それに、地域の事情もよくわかっていない私のようなヨソ者が、地域の農地を集積していくことを目標に営農計画を立てていくのは無謀というか愚かである。ということは、私は今後も狭小な農地を相手に農業をしていかざるを得ない気がするから、零細農業でどうやって利益率を高めるかということを考える必要があるわけだ。

さらに、これを言い出すと話が農業をはみ出るが、そもそも生産性を高めたいのは農業というより人生である。私は名刺の肩書きに「百姓」と書いているが、人生の生産性を高める手段は農業に限らないわけで、面白いことなら何でも取り組んでみたいし、「農業」だけの効率を追求したいわけでもない。職人的に農業一筋で生きていくのはそれはそれでカッコイイ生き方だと思うけれども、軽佻浮薄な自分にはできない。

大規模化自体が悪いということは全くなくて、むしろ日本の農業に最も必要なことであることは間違いない。私は、大規模化による「サラリーマン農家」の存在が日本の農業を変えると思っている。そして、仮に大浦町の若手農家で農地集積や大規模化に取り組むということになれば、自分に出来ることは積極的に協力はしたい。ただ、一方で「合理的なもののつまらなさ」を感じてしまう自分がいることも確かである。合理的に生きようとすれば、そもそも役所を辞めていないであろう。

偉そうなことを言って、数年後には大浦の農事組合法人に雇われる身になっているかもしれないが、ここは日本本土の果て、薩摩半島の"すんくじら"(隅っこ)なわけだから、日本全体の潮流とはまた違った、辺境の地ならではの取組ができたらいいなと思っている。

なお、(2)の株式会社アグリアートについては、大規模化だけでない、有機農業を始めとしていろいろ独自の取組をやっているし、友人がいるところなので、機会をみてもう一度訪問してみたい。今回、(2)は私のワガママで日程に入れていただいたのだが、ワガママを聞いてくれた皆さんと、事務局の市役所・南薩地域振興局に感謝である。

※ 実際の米国の農業は、もちろんそんなのばかりではない。

2013年12月3日火曜日

ヘーゼルナッツの木=ハシバミを植えてみました

今般開墾した土地に、仕事と趣味の間のようなプロジェクトとして、西洋ハシバミを13本植えた。西洋ハシバミという名前だとピンと来ないが、これはヘーゼルナッツを収穫する木である。

ヘーゼルナッツというと、ヘーゼルナッツ・ラテのように香り付けに使ったり、お菓子のトッピングになったりと、近年日本でもなじみが出てきた素材。ただ、ヘーゼルナッツがどんな形をしているのか、知っている人は少ないと思う。ヘーゼルナッツというのは、私もそのものを食べたことはないのだが、風味がよく栄養豊富なドングリなのだ。

この実をつけるハシバミという木は、約9000年くらい前のヨーロッパでは、圧倒的な優勢種として森を覆っていたという。日本が縄文時代の頃、ヨーロッパの森といえばハシバミの森だったのである。その後気候が寒冷化したため、カシワ類に取って代わられ、今では世界的生産地はトルコとなっている。

ゲルマン民族が入ってくる前にヨーロッパで栄えたケルト人たちは、このハシバミを随分身近に、そして重要なものと考えていたことは確実で、ケルトの伝説にはハシバミの話が残っているし、ハシバミの枝に神秘的な意味を付与し、水脈や鉱脈を探すのに使ったのだという(ダウジングのようなもの)。

また、減少したとはいえ近代以前のヨーロッパの森にはハシバミが多く、中世の農民の重要な食料だったようだ。ヨーロッパの古い話を読んでいると、ハシバミの実をどうしたとか、ハシバミの枝がどうだということが時々出てくるが、これがヘーゼルナッツのことであるとわかった時は随分意外に感じたものである。

例えば、シンデレラ(グリム童話版)では、シンデレラは、産みの母の墓前に挿したハシバミの枝がみるみる成長して、小鳥(妖精)が様々な願いを聞いてくれる舞台となる。どうやら、中世ヨーロッパの人々は、ケルト人から受け継いだのだろうが、ハシバミを不思議な力を持つ木と認識していたようだ。

ちなみに、日本にも種類は違うがハシバミ(榛)は自生しており、古くから食用とされたそうである。しかしそれよりも重要なのは、搾油し、今風に言えばヘーゼルナッツ・オイルを採ったことである。なんでも、灯明としての搾油が行われたのはハシバミを嚆矢とするらしく、7世紀くらいまでの朝廷ではハシバミ油が使われたらしい。堺の遠里小野(おりおの)は古代ハシバミ油製造の拠点だったそうである。

ハシバミはヨーロッパでも日本でも、古代社会において重要な役割を果たした植物といえる。だから栽培してみるというわけでもないが、まず日本にはヘーゼルナッツを生産している人がほとんどいないので、希少価値がある。輸入品に比べて品質はどうかというと心許ないが、面白い商材になりそうな予感がする。この西洋ハシバミ、結実するまで長い時間がかかる、というのが大きな欠点らしいが、何年後に収穫できるだろうか…。

2013年11月26日火曜日

大学の同窓会の活動として、小学校で「先生」をしてきました。

ボランティア活動で、小学校で出前授業をしてきた。

私は東京工業大学という「有名な無名大学」の数学科を卒業しているのであるが、この東工大の同窓会を蔵前工業会といって(東工大は、関東大震災の前には国技館の対岸あたり=蔵前にあった)、この蔵前工業会の行う社会貢献事業が「蔵前理科教室ふしぎ不思議」(通称「くらりか」)というケッタイな名前の出前教室である。

要は、大学の同窓会で理科教室の出前授業をやっていて、それに参画しているわけである。ちなみに蔵前工業会鹿児島県支部では、諸事情を踏まえて本部がやっている「くらりか」とは少し毛色の違う出前授業を行っている。まず、小規模特認校を対象として全学年一緒に授業を行うという点、そして、本家は「科学の原理」をテーマにした実験を行っているが、テーマはそれに限らないという点である。

昨年は単なる手伝いだったのだが、今年は何の因果か私自身が授業をすることになり、本日、鹿児島市立一倉小学校(喜入)で「ペンローズ・タイルできれいな模様をつくろう」という授業を行った。

ペンローズ・タイルについては興味があればWikipediaなどで調べてもらえばよいが、とても簡単に言うと、冒頭に掲げた画像のように、どこまでいっても繰り返しがない、でも規則的に並んだ美しい幾何学模様である。

小学生に(も大人にも)なじみがない材料で、しかも小学校1年生にも分かるように説明しなくてはならないということで、「これってきれいでしょ!? 面白いでしょ!?」以上のことを伝えられたか心許ない(というか多分伝えられていないと思う)。

だが、小学生のみんなが熱心に聞いてくれ、やや時間配分で失敗した点もあったが大過なく終われたことに今はホッとしている。年明けには、伊佐市立南永小学校というところでも授業をするので、今日よりも完成度が高い授業ができるようにしていきたい。

ところで、通常、大学の同窓会のボランティア活動などというものは、金も時間も有り余った退職組が活躍するもので、私のようなガキが出る幕はないのが普通である。しかしながら当同窓会はメンバーが少なく、実働部隊となれる人がほとんどいないこともあり、自分の生活すら成り立っていない私が、なぜかボランティア活動をしているというわけだ。そんな暇があるなら生業に励むべきという気もするが、こういう活動が、生業の面でも何か次の展開に結びついたらいいなと思っている(あんまり期待してないが)。

2013年11月15日金曜日

「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る

前回に引き続き「南さつま市長・市議選挙」の話である。

こちらに越してきてもうすぐ2年であるが、市長選はともかくとして、市議選については個人的に話をしたことがある人もおらず、評判らしきものも聞かないので、誰に投票すべきか悩んでしまう。前回偉そうに争点らしきものを提示した手前、適当に投票する(?)わけにもいかない。

しかし考えてみると、新人はともかく現職については4年間の働きぶりを見てみればある程度のことは分かるはずである。例えば、会議録を全て読めばどういう人なのかよく分かるとは思う。だが、当然ながらそういう時間的余裕も気力もないので、少し手軽ではあるが、「南さつま市 市議会だより」(年4回発行)をよすがにして現職市議の仕事の一端を垣間見ることにした。

まずは、一般質問の質問回数を見てみる。一般質問とは、年に4回行われる定例会において、市政に対して自由に質疑を行うものである。質問回数という非常に大雑把な指標ではあるが、年に4回しかない機会であるので、積極性を表しているとはいえそうだ。次表はこれをまとめて質問回数の多い順に並べたものである。


名前 質問
回数
2010年 2011年 2012年 2013年
2月 4月 8月 11月 2月 5月 8月 11月 2月 5月 8月 11月 2月 5月 8月 11月
諏訪 昌一 16
鳥居 亮幸 16
清水 春男 16
貴島 修 16
古木 健一 15  
室屋 正和 12        
上村 研一 10            
石原 哲郎 8                
山下 美岳 7                  
田元 和美 7                  
下野 認 7                  
今村 建一郎 7                  
相星 輝彦 6                    
上園 邦丸 6                    
南 敏子 5                      
下釡 清和 5                      
有村 義次 4                        
林 耕二 4                        
若松 正伸 3                          
柳元 拓夫 1                              
石井 博美 0                                
大原 俊博 0                                
※今回の市議選に出ていない人も含めて現職議員全てを掲載している。
※年月は、「議会だより」の掲載号に対応。
※大原氏は議長であるので、質問回数が0回なのは自然。

これを見ると、ほぼ毎回質問をする議員もいれば、ほとんど質問していない議員もいることが分かる(わかりやすいように色分けした)。しかし質問数が多ければ議員として有能であるというわけでもない。委員会(総務委員会とか文教厚生委員会とか4つある)の審議に力を入れている人もいるだろうし、そもそも重要なのは質問の内容である。

ではその内容であるが、4年分の質問内容を精査するとなると一仕事である。そこで、「市議会だより」には一般質問の項目にそれぞれタイトルがつけられているので(議員自身がつけているようだ)、このタイトルだけを見てみることにした。タイトルだけだと何が何だかわからない質問もあるが、それでも関心分野を大まかに掴むことはできる。

市議会議員の仕事は、基本的には行政側が提案する議題に対して賛成・反対の意見を表明するということだが、一般質問は自分の関心事について行政を問いただすことができるわけで、議員の関心分野がダイレクトに現れる。質問のタイトルを見ることにより、選挙公報等を見るよりも、議員候補者がどういう点に力を入れたいのか明白になるだろう。

というわけで、かなり冗長だが参考になる情報と思うので、4年分の一般質問のタイトルを全て書き出してみた。順番は先ほどのランキングと対応している。なお議員名(※敬称略)の後ろにあるコメントは、中心的と思われる関心分野を私なりに書き出したものである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
諏訪 昌一:インフラ(ごみ、上下水道、防災等)、医療
  • 市長所信表明に関して 他
  • 市の一体化、ごみ処理に関して 他
  • 汚水処理問題について 他
  • 合併後の一市としてのまとまりをどう醸成していくか
  • 汚水処理・雨水対策問題について
  • 本町の用水路の対策について 他
  • 災害対策について 他
  • 福島第一原発事故に関連して
  • 市防災計画に関連して 他
  • 税と社会保障の一体改革に関してどう考えるか
  • 中心市街地の汚水処理のあり方について
  • ごみ処理についてのその後の検討状況について 他
  • 国保の医療費の傾向と対応について 他
  • 生活保護の切下げについて 他
  • 防災対策関係 他
  • 保健・医療と健康について 他

鳥居 亮幸:医療、国保税、社会的弱者
  • 高齢者を差別する医療制度は廃止させよう
  • 介護保険の応益負担の軽減は 他
  • 障がい者の「応益負担」廃止に向けた対応は 他
  • くらしに応じた国保税軽減を行う考えは
  • 高齢者が安心して医療をうけられる対策は 他
  • 高齢者が住みなれた地域で暮らせる対策は
  • お金がなく医療受診できない事態なくす対策
  • 介護サービス取り上げ等不安をなくす対策は
  • 「非関税障壁」撤廃は産業暮らしを変える
  • 「一体改革」阻止・国保負担の軽減対策等
  • 後期高齢者医療制度廃止の公約を守らせよう
  • 国保税の大幅引上げに対応した軽減対策は
  • 子ども未来のため「原発ゼロ」への要請を
  • 後期高齢者医療制度の廃止を要請する考えは
  • くらしを破壊する消費税増税阻止の要請を
  • 長生き社会の基盤を崩さない対策

清水 春男:医療、福祉、暮らし
  • 福祉・暮らしを守り安全なまちづくりを
  • 福祉、暮らしを守る安全なまちづくりを 他
  • 市民が安心して暮らせる為の防災対策等
  • 子育てが、安心して出来る南さつま市を
  • 吹上浜砂の祭典の会期について 等
  • 市民が安心・安全に暮らせる南さつま市を 等
  • 地震から市民が安心・安全に暮らせるように 他
  • 地域に活力を・住民が楽しく暮らせる街づくりを
  • 『TPP、ゴミ処理、病院・特老の公立存続』等
  • 住民が安心して暮らせる南さつま市をつくる
  • 住民が安心して暮らしていける南さつま市を
  • 南さつま市の統一は旧町の活性化で決まる 等
  • 地域の変化に対応した住宅・公共交通政策等
  • 合併して8年目、均衡ある発展めざす市制を 等
  • 燃油高騰で農林水産業を支援する対策を
  • 国保税引下げ、はり・きゅう助成見直しを

貴島 修:農業、大浦町整備、観光
  • 市長のマニフェスト・パワーアップ宣言について
  • 新幹線効果の活用・民営化・救急車・生ゴミ対策
  • スポーツ観光・農業の継続的発展・学校再編
  • 鳥獣害対策・保健師の配置・公共下水道等
  • 避難所の強化・農業委員会選挙について
  • ヤンバルトサカヤスデ駆除、地域審議会対応 等
  • 砂の祭典・学校体育施設照明料金・3セク売却 等
  • 国道226号小湊バイパス・津貫みかん100周年等
  • 大浦中校庭整備・校庭松鳴・工事の評価点制度
  • 大浦町オフトーク・砂の祭典・スポーツ振興等
  • 消防・旧はまゆう建設予定地・亀ヶ丘整備・砂の祭典
  • 青年の登用・広域観光・第3セクター等の民営化
  • 公用車・遊休公有地の管理、大浦川、観光協会等
  • 市道三本松・小浜線、大浦町オフトーク等
  • 児童館・ヤスデ・下水道・農産物輸出入等
  • 鳥獣害対策・国道改築・スポーツ観光振興等

古木 健一:過疎対策、教育、行革
  • 国道270号・226号の整備について 他
  • いなほ館の健全化策について
  • 小中一貫校取組の方向について
  • 株式会社いなほ館の経営健全化について
  • 花渡川上流の整備について
  • 行政事務の確認と監査のあり方について
  • 地上デジタル放送の普及状況と対策
  • 「仰げば尊し」の斉唱について
  • 「行財政改革と集中改革プラン」について
  • 「中学校武道必修に関連して」
  • 「加世田地区9小学校の再編について」 他
  • 「投票所を現状の体制で行うことについて」
  • 空き公共施設等の状況と活用計画について
  • 万世特攻平和祈念館について
  • 加世田南部地域の開発をどのように考えるか

室屋 正和:いなほ館、行政チェック
  • いなほ館の運営、ボートに関する特定事業等
  • 行政改革・実施計画(集中改革プラン)、いなほ館の油再流出の対応等について
  • 元職員の不適切な会計処理、庁舎内の喫煙・自治会の再編について
  • 給食センター・子宮頸がんの公費助成・建設事業費の財源等について
  • 行政改革、実施計画(集中プラン)、いなほ館の経営、検討委員会等について
  • 海抜表示板等、第三セクターの決算、部長制の見直しについて
  • 観光振興・いなほ館の公募・予算議決等について
  • 一般会計予算・いなほ館・防災計画・人口減等について
  • 行政監査・リフォーム補助金・ボート基金・いなほ館・メガソーラー等について
  • 崖浸食・立会人の選任・第三セクター・教職員の不祥事・ボート基金等について
  • 条例・要綱、職員適正化計画、レクの森公園整備計画について
  • 防災無線・各実証事業・農地水対策について

上村 研一:時事ネタ、教育
  • 財政健全化・保育園、学校再編について 他
  • 合併後5年の節目にあたって、マニフェスト、市営住宅の水洗化について 他
  • 震災に伴う予算への影響について 他
  • 住みよい・暮らしよい地域づくり、学校再編
  • 学校再編時の制服購入補助・柔道必修化について
  • 漁業振興・イベントと地域活性化・本庁舎整備について
  • 「第三セクター」と「公の施設」、小児入院施設について
  • 投票区再編、消防広域化、閉校記念事業補助金について 他
  • アベノミクスについて 他
  • 農家の日照り対策・大当海岸公園の管理

石原 哲郎:畜産、施設整備
  • 口蹄疫への対応について 他
  • 第一次産業の育成について 他
  • 体育施設の整備について 他
  • 口蹄疫及び鳥インフルエンザについて 他
  • 東日本大震災を受けて本市の対応は
  • JAの合併について 等
  • 防災・農業振興・体育施設整備・駐車場整備
  • 自治会パートナー制度について 他

山下 美岳:砂の祭典、時事ネタ
  • マニフェストの具現化について
  • 口蹄疫対策は万全か 他
  • 吹上浜砂の祭典について 他
  • 吹上浜砂の祭典の成果と総括 他
  • 定住促進について
  • アベノミクスと緊急経済対策について 他
  • 観光振興について 他

田元 和美:木花館、行政チェック
  • 窓口対応・商業活性化・木花館の開店等
  • 防火水槽用地の取得・「木花館」開店 等
  • 市政1年目の評価・行政嘱託員の適正化 等
  • 吹上浜砂の祭典の成果について 等
  • 産業振興・公共下水道・職員の意識改革等産業振興について
  • 職員の人材育成・産業振興・自主防災組織 等
  • 防災対策・奉仕作業・通学路・人材育成 等

下野 認:砂の祭典、金峰町
  • 金峰レクの森構想等について
  • 市道月型篠田線拡幅工事等について
  • 旧金峰レクの森整備事業等の今後について
  • 市有地等の財産管理について 等
  • 砂の祭典会場の工事計画・集落再編について等
  • 砂の祭典会場等の整備について
  • 大坂小・白川小・大田小の今後の活用策について

今村 建一郎:農業、財政
  • 市長の所信表明等について
  • 財務(債務)状況について 他
  • 人口の動向・集落担当制について 他
  • 農業野現状と課題・観光事業・行政内部体制について
  • 当市の農業の現状と今後について
  • 農業関係・震災について 他
  • 財産・財務状況及び不法投棄の現状について

相星 輝彦:砂の祭典、防災
  • 新川集落災害防止策・砂の祭典について
  • ガンバリーナかせだについて
  • 食育の推進・吹上浜砂の祭典 他
  • 自治会に関する制度・職員数の適正化等
  • 市役所本庁、支所等の防災対策他
  • 防災教育、自主防災組織について 他

上園 邦丸:公共事業
  • 赤字の続く三セクをこのまま運営する考えか
  • 公共事業は地場産業、広域農道整備事業 他
  • 震災の影響と命の大切さについて
  • 人口を増やす対策・道路等の維持管理について
  • 住民負担の軽減策・ふるさと神話について
  • 加世田地域の学校再編計画 他

南 敏子
:教育、観光振興
  • 親子20分読書・トイレ改修・油流出田・木花館等
  • いなほ館油流出の水田活用策について、木花館前国道横断歩道設置 他
  • 観光の表示、市道の整備について
  • 通学路の安全確保・中学校武道必修化・空家条例の制定について
  • 環境衛生について

下釡 清和:生活環境改善
  • 市議等選挙・新型インフルエンザ・通学路用防犯灯、市道等の点検補修整備など
  • 高齢者・生活環境対策と風力発電の課題、松くい・ナラ枯れ対策、小湊生活環境整備
  • ハウス被害・クジラ処理・人口減対策・公共下水道(汚水処理)・道路の速度規制 等
  • 死亡欄・共同募金・らっきょう振興・松くい虫対策・浄化槽保守点検業等を増やす考え等
  • 災害と道路・職員の資格と人事等・浄化槽保守点・検業と清掃業者との関連・松くい虫対策等

有村 義次
:住民生活
  • ゴミの分別・処理等、空家対策、環境基本計画、景観計画、自治会活性化・再編
  • 財政健全化・空き家対策など
  • 防災対策(防災対策概要版・地域防災訓練・自主防災会について)
  • 環境問題・平和都市宣言・看板について 等

林 耕二:笠沙トンネル、笠沙町
  • 株式会社杜氏の里笠沙の経営について 他
  • どうなっている!! 笠沙道路・大笠小中学校再編に係る問題点と提言
  • 国道226号笠沙トンネルの進捗状況について、学校再編による教職員空き家住宅について 他
  • 笠沙トンネル平成28年開通予定について 他

若松 正伸:安全対策
  • 地域産業の振興、住民サービス
  • 地域の安全対策、自主防災組織は
  • 交通安全対策、不快害虫「ヤンバルトサカヤスデ」の駆除対策、今後の常備消防体制について

柳元 拓夫:…
  • 最低制限価格について 他

石井 博美:…
(質問なし)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

こうして見てみると、政治的な方向性はともかくとして、誰が何に積極的なのかはわかるし、タイトルの付け方を見ると、人柄までもおぼろに見えてくるような気がする。既にほとんどの人は誰に投票するか決めているとは思うが、ご参考になれば幸いである。

ところで、この「市議会だより」、作りはぶっきらぼうというか一見無味乾燥だが、じっくり見てみるとよくまとまっており、冗長すぎず淡泊すぎずちょうどいい資料である。最新号の編集後記に「今任期最後の議会だより編集が終わる 毎回皆さんから読まれる紙面づくりには程遠いものになってしまった」とあったが、そうでもないと思う。今後の編集にも期待しています。

2013年11月14日木曜日

南さつま市長・市議選挙、ですが…

2013年11月11日〜17日(投票日)で、南さつま市長選挙、及び市議会議員選挙が行われている。なので、選挙カーがそこら中を走り回っており、大変にやかましい。ドイツでは選挙カーや街頭演説が禁止され、「静かな選挙」が行われていると聞くが、日本もそうあって欲しい。

そもそも、選挙カーも政治的理念を述べるとか、何か意味のある主張をするのならばいいのだが、単に候補者の名前を連呼し、「ご支援をお願いいたします」とか言うだけだから、(私にとっては)ほとんど意味がない。

というか、選挙カーだけでなく、選挙においてほとんど政治的主張がなされないというのもまた違和感がある。正確を期すれば、選挙公報には少しはそういうことも書いてあるし、個人演説会などで確認はしていないので、全くないというわけではないのだろうが、少なくとも選挙の中心は政策論争ではない

では選挙(投票行動)の中心に何があるか、というと、「誰から投票をお願いされたか」ということだと思う。日頃お世話になっている人に協力をお願いされて、その候補者が特に悪そうな感じもなく、他の候補者がよく知らない人ばかりとなれば、その人に投票するのは自然だろう。もちろん、実際に誰に投票したかはお願いした方にはわからないから、しがらみ云々というより、誰からお願いされるかということが、候補者のスクリーニング(篩い分け)として機能していると考えた方がよい。それはそれで、悪いことではないのかもしれない。

しかし、市政というものを市民全員が考える数年に一度のチャンスでもあるし、静かに市政の在り方を見つめ直し、議論することがあってもいいのではないだろうか。

というわけで、自分なりに選挙の争点らしきものを考えてみた。

第1に、人口減及び高齢化への対応である。全国で問題になっていることであり、移住定住の促進といったパイの奪い合い的な対処ではなく、少ない生産人口で街の活力をどうやって維持・増加させるかという観点が必要と思う。産業政策、文化政策、観光政策などを複合的に組み合わせ、停滞した街の雰囲気を打破することが必要だ。もちろん、高齢者を福祉の受益者とだけ見るのではなく、高齢者の力をどう活かすかということも重要である。

人口減というのは、ある意味で子育ての終了にも似ている面がある。子どもが家を巣立っていけば、子ども部屋はいらなくなるし、広いリビングもいらなくなる。家の中は年老いた夫婦だけになり、家庭の活力はある面では失われる。しかし、いらなくなった子ども部屋は何か別のことにも使えるし、定年を迎えるとお金は減るが自由に使える時間は増える。不要な部屋や空いた時間をどう使うかということは、老夫婦の見識次第で素晴らしい可能性も持っている。人口減と高齢化も非常に大きな問題ではあるが、それと同じように、これまでと別の資産が増えるという側面もある。

例えば、人口減により、近年当市では小学校及び中学校の閉校が続いているが、閉校した学校の校舎は実は大きな資産である。大きすぎる公民館として使うのが無難なのだろうが、こういった遊んでいる資産をどう使うか、それが行政の腕の見せ所ではないだろうか。ぜひ前向きな活用を期待したいものである。

第2に、前項と関連するが財政の健全化。南さつま市は全国的に見ても異常に国民健康保険からの支出が大きい(一人当たり医療費が高い)という問題があり、国民健康保険及び介護保険は市の支出の約1/3を占めているので、この問題は大きく取り上げ、改善していく必要がある。今回の市議選でも、福祉の充実を訴えている候補者は多いが、「健康で長生きできる環境」を整えることを訴えている候補者がいないようなのは残念だ。医療費の抑制については、数値目標を定めて意欲的な取り組みをしていくべきである。

市の方もこれに関しては専門家に分析をお願いする予定にしているらしいが、私としてはかなり深刻な問題と思うので、政治的なレベルで取り上げていただきたいと思う。全国的な比較をしてみれば分かる通り、医療水準を低下させずに、医療費をどうやって下げるかということに関しては、南さつま市は日本で最も先端的な取り組みをすべき自治体である。

第3に、合併効果の顕在化。当市は2005年に5つの自治体が合併して誕生したが、既に合併より8年経っており、自治体の寄せ集めではない、南さつま市としての形を見せていく段階に来ている。市議選では、「支所はなくさせない」とか、「各地区の均衡ある発展を」とかいう主張を見るけれども、(私も支所がなくなったらイヤだが)実際には資源配分には冷徹な判断が必要である。もちろん、合併により住民サービスを向上させるべき部分もあってしかるべきだし、合併すなわち過疎地の切り捨てであってはならない。

これに関して隣の南九州市では面白い取り組みがある。南九州市でのお茶の銘柄茶を「知覧茶」に統一しようという動きである。南九州市は市町村として全国一の荒茶の生産量を誇るが、統一した茶のブランドを持っていなかった。これを、市町村合併及び(予定されている)JAの合併に合わせて知名度の高い「知覧茶」にしようという話である。面白いのは、生産量で言えば知覧より頴娃(えい)の方が大きいということで、量が多い方に合わせるという普通の考えでいけば「えい茶」になってもおかしくなかったし、間を取って「南九州茶」という新たなブランドを立ち上げる案もあっただろう。しかし、「知覧茶」の知名度による今後の発展を考えて、あえて生産量の小さな「知覧茶」に統一することにしたのである。

知覧の人には、これまでコツコツと積み上げてきたブランドを他の地区の人に乗っ取られたように思う人もいるかもしれないし、頴娃には「えい茶」がなくなって寂しく思う人もいるかもしれない。というか確実にいるだろう。でも、「知覧茶」に統一する方が未来があると賭けるわけだ。私は、こういうのが合併効果なのではないかと思う。小さな地域の何かが断絶しても、より大きな何かが発展していくような政策が南さつま市でも求められているのではないだろうか。少なくとも、合併を前向きに捉え、それを活用していこうとする考えはあるべきだ。

例えば、些末なことではあるが「加世田郷土資料館」、「笠沙恵比寿」、「輝津館(坊津)」、「歴史交流館金峰」と各地区にある博物館的施設をどう運営していくか。現在はこれらの学芸員間の組織的交流すらもないようだが(伝聞です)、南さつま市の豊かな歴史という資産をどう活用していくのか、各地区でのバラバラの展示から一つ上の段階に進むべき時期だと思う。

以上の3点は、真剣に検討して書いたものではないので、これ以上に重要なことがあるかもしれない。いや、市長選、市議選に出るような人には、もっと深く、広く検討し、我々が気づかない部分まで熟考していて欲しい。だからこそ、ワンフレーズ選挙ですらない、選挙協力だけが踊る選挙が残念だ。各候補者とも、実際には熱い思いを抱いた人なのだろうから、ぜひ中身の濃い選挙活動が展開されることを希望する。

2013年11月2日土曜日

高田磨崖仏の大黒天と天照大神の謎

南九州市の川辺に、高田磨崖仏という史跡がある。以前紹介した「高田石切場」の近くに屏風状になった岩壁があり、そこに数体の仏像が刻まれているのである。

これの多くは、1678年に西山寺是珊往持という人が刻んだもので、廃仏の際には藪に隠れてわからなくなっていたため現代まで残ったといういわくをもつ、小規模ながら雰囲気のある磨崖仏である。

先日、この高田磨崖仏を見に行って大変びっくりしてしまった。彫られているのは、観音、薬師、阿弥陀、毘沙門天…まではまあよいのだが、その他に大黒天もあるのである! 磨崖仏というのは、基本的には密教、修験道系の仏教が彫るものであるため、基本的にはそれらの宗教で中心的な役割を果たす仏や天(神さま)が表現される。具体的には、観音菩薩とか薬師如来とか、もちろん大日如来といったものが中心だ。

ところが、この高田磨崖仏には大黒天もいらっしゃるわけである。大黒天が彫られた磨崖仏というのも他にないわけではないが、実際に見たのはこれが初めてである。

大黒天、つまり大黒さまというのは、一般には仏教の神さまであるとは認識されていないが、天台宗(いうまでもなく密教です)においては尊ばれる存在である。というのも、比叡山は大黒天信仰の発祥の地であり、比叡山においては大黒天は僧侶の食事の守護神的なものであるからだ。これは、比叡山を開いた最澄自身が、そこで三面大黒天というのを感見した(※)からという。

と、教科書的な知識はあるのだが、実際に大黒天が仏教の信仰の中でどのように扱われ、跪拝されてきたのかというのは正直よく知らない。岩壁に尊像を刻むというのは大変な作業なわけで、そこに表現する内容は厳選されていたのだと思うが、その選択が、観音、薬師、阿弥陀、毘沙門天、そして大黒天である、というのが非常に意外であった。大黒さまへの信仰も、仏教の中でかなり重視されていたということなのだろうか。

また、この高田磨崖仏にはさらに変わった表現もある。それは1711年に頴娃脇七兵衛という人が追加して刻んだもので、なんと天照大神の像があるのである。こちらはやや技術が劣っていたためか損傷が激しいが、阿弥陀如来立像みたいな感じの神像である。

こちらは大黒天よりももっと謎が深く、江戸中期である1711年に天照大神の神像を刻むということの意味が私にはよく分からない。後期国学の流れで日本の神話などが改めて注目されるのは幕末のことであるし、そもそもこの頃は『古事記伝』の本居宣長すら生まれていない時代である。天照大神という存在が、アマテラス系の神話の残っていない鹿児島で、岩壁に刻むというような信仰を受けていたというのは、意外を通り越して奇妙な感じを受ける。

そういうわけだから、この天照大神をどういう目的で刻んだのかも謎であるし、どういう信仰に基づいていたのかも謎である。というより、磨崖仏ならぬ「磨崖神」というのは非常に数が少なく異例の存在であるから、謎だらけなのである。

江戸の後期には次第に仏教の力が衰え、(今でいう)神道の勢力が強力になっていき、明治維新に至って国家神道の成立を見るわけだが、その前段の江戸中期に、神道的なものが一体どう信仰されていたのかというのも意外によくわかっていない(私が不勉強なだけかもしれませんが)。江戸後期になって急に活気づくということもなかろうと思うので、中期にはその前段となる「何らかの動き」があったのだろうが、その一端がこの岩壁に刻まれた天照大神ではないかと思えるのである。

つまり、なぜ頴娃脇七兵衛はここにアマテラスの神像を刻んだのか、という問いは、突き詰めていくと江戸の国学の流れを全ておさらいしなければならないような内容を孕む、重要な問題に思えるのである。

この高田磨崖仏は、同じ川辺にある清水磨崖仏の存在に隠れてあまり着目されることがない。しかしその内容は極めて異色なものを持っているので、今後研究が進み、謎が解明されることを切に期待したい。

※ 「感見」とか「感得」というのは平明な現代語に置き換えづらいが、「幻を見た」ということに近い。

2013年11月1日金曜日

『南薩の昭和』に写真を提供しました

今般『写真アルバム 南薩の昭和』という本が刊行された。昭和の頃の南薩の写真を、地域の人達や行政からかき集めた、そんな本である。パラパラとめくってみると、なかなか興味深い写真が並んでいる。

実は、これに私も十枚程度の写真を提供したので、今日謹呈で贈られてきたところである。

この写真提供に関しては、少し心残りがある。

というのも、我が家に残っていた古い写真からいくつかをピックアップして出版者の方に提供したのだが、編集の最終段階になって、大浦地域の写真提供が他の地域に比べて極端に少ないということを伺った。既に写真提供の締め切りは過ぎていたが、改めて我が家の写真庫を見直したところ、未整理の写真や大浦小学校・中学校の古い卒業アルバムが出てきて、例えば亀ヶ丘の頂上に巨大なパラボラアンテナがあった様子など、大浦の昭和を垣間見ることができる写真が結構たくさん見つかったのである。

だが、締め切りが過ぎていたため、当然だがそれらの写真を提供することはできなかった。提供して掲載された写真もそれなりの写真だったと思うが、それらと同じくらい貴重な写真をこういう機会にアーカイブに残せなかったことが残念である。

それにしても、こういう、地域の写真アルバムの制作はこんなものなのかも知れないが、制作の仕方には驚かされた。写真提供ができるという連絡をしたら出版社(の下請け?)が写真をスキャンしに来て、それだけで終わりだったからだ。写真の謂われとか、背景情報などを取材するのかと思っていたのだが、話をしてもメモすら取らなかったので不審に思っていたところ、キャプションの執筆は各地域で適当な人に下請けさせていたようだ。

キャプションの執筆を担った人も、写真提供者からの話がないと書きにくかっただろう。というより、提供者からの話を元に書くのが当然の制作の仕方だと思うが、出版社はどう考えていたのだろう。

一応付言しておくと、私が提供した分の写真に関しては、そのキャプションは私が執筆や確認に関与しているので、他の写真も結局はそういう対応を取ったのかもしれない。しかし、であれば、最初に写真のスキャンをする時についでに取材していればより効率的であり、やはり出版社のやり方は謎である。せめて雑談のメモぐらい取ればキャプション執筆者の労苦は半減したはずだ。

というように、編集に関してはどうも怪しいところがあるものの、南薩の昭和を覗く貴重な写真がたくさん並んでいるアルバムに、僅かではあれ我が家から写真を提供できたことは喜ばしい。自分としても記念になったし、枯れ木も山の賑わい程度ではあっても社会貢献になったのではないだろうか。

2013年10月28日月曜日

お米の皆掛重量を巡る議論

皆掛(かいかけ)重量というのを聞いたことがあるだろうか? これは、中身の重さと袋の重さを合わせた重量のことであり、つまり
皆掛重量 = 正味重量 + 風袋重量
である。

お米(玄米)を紙の米袋で鹿児島のJAに出荷する場合、正味重量の規定は30kgなのだが、皆掛重量で30.5kgに詰めて出荷しなければならない。要は、中身は本来30kgでよいのだが、(中身の重さだけ量るのは不可能なので)袋の重さがある分、少し重めに詰める必要があるというわけである。

問題は、紙袋の重さが500gなのかというと、実はそうではないことである。袋の重さは、大体230g程度。ということは、中身は30kgちょうどではなく、余計に270gくらい入っていることになる。この余計に入った270gは、一体何なのだろうか? JAが農家から買い取るのはお米30kg分であるので、この270gには何も支払われない。たかが270gであるが、例えば米袋を400袋出荷するような農家であれば、このお金が支払われない分は全体で100kgを超える。玄米100kgというのは2万円くらいだと思うが、この2万円はJAへの見えない上納金なのだろうか?

この点を先輩農家Kさんがよく問題視しているので、他の地域ではどうだろうと思いインターネットで調べてみた。鹿児島は30.5kgだが、鳥取は30.6kgだし、この「余計に何グラム入れるか」というのは地域差がある。この地域差がどのような法則で生まれているのかを見つければ面白いかもしれないと思ったのである。

だが、調べ始めてすぐに分かったのは、この情報はほとんど公開されていないことだ。最初は全県のJA(経済連)の皆掛重量をまとめようと思ったがそれはインターネット経由では不可能だった。というわけで、検索にひっかかったところだけまとめてみた(順不同)。

30.5kg…新潟、富山、秋田、石川、福島、広島、山口
30.6kg…北海道、栃木、福岡、島根、千葉、鳥取

なんとなく、米どころは30.5kgで、そうでもないところは30.6kgなのかとも思うが、北海道が例外になっているし、正直30.3kg〜30.7kgくらいの開きがあるのではと期待していたのに、意外と全国で皆掛重量は同じくらいだった

が、一つ注目すべきポイントがある。それは、近年皆掛重量が重めに改訂されるケースが散見されることである。例えば、山口では2011年に皆掛重量が30.3kg(おそらく、その時点で全国最軽量だったと思う)から30.5kgに改訂されている。その理由は、「検査時等のサンプル抽出、含有水分の変化によっては出荷時に正味重量が30kg未満になる可能性があることから」とのことで、これは他の改訂した県(例えば千葉県)でも大体同じである。JAは農産物の卸業者であるから、組合員から買い取ったお米を業者へ売るわけだが、その時に正味30kgあるはずが30kgないということだと、業者からクレームが来るわけで、そのために皆掛重量が改訂されているのである。

問題は、改訂の理由に挙げられている「含有水分の変化」である。お米は乾燥機で14.5%とか15%くらいに乾燥させることをJAは求めているが(これも県ごとに違うかもしれない)、JAの倉庫で乾燥が進み上限水分量から下限水分量へ変化したとしてもその重量変化は150g程度なはずである。というか、本来、お米を適正に保管すれば水分量の変化はないはずで、保管をちゃんとしていない責任を棚に上げ、「含有水分の変化によっては出荷時に正味重量が30kg未満になる可能性がある」との理由で皆掛重量を200gも引き上げたのは、他県のことながらびっくりだ。

ただ、お米を含有水分量を変化させず、温度湿度一定で保管するためには結構な施設が必要である。JAの施設は結局は農家の負担(と国や自治体からの補助金)で出来るわけだから、高額なお米の保管庫を建設して農産物の買い取り金額が下がっては本末顚倒な気もする。お米の保管庫が貧弱なJAの場合、皆掛重量が重めに設定されるのは仕方ないのだろうか?

そのように考えると、お米の皆掛重量を何kgに設定するかに、正解があるわけではなさそうである。皆掛重量を30.5kgから30.6kgに改訂した千葉の場合、改訂に合わせて「千葉県産米の評価向上のため、ご理解とご協力をお願いいたします」と呼びかけている。おそらく、競合している産地のお米が30.6kg入りであったために、米の仲買業者から千葉産米は(100gの差とは言え)正味重量が少ない、と思われており、結果として改訂に至ったのではないかと思われる。近年皆掛重量が重めに改訂されることがあるのは、米余りで買い手市場になり、元売り(JA)の力が弱まっているということかもしれない。

だとすれば、私の考えでは皆掛重量の適正値は30.4kgである(※)が、他県のお米が30.5kgで売られている中、鹿児島JAだけが30.4kgで売り出せば、仲買人からの評価が僅かではあれ下がり鹿児島県産のお米の売れ行きが悪くなるのではないだろうか。では皆掛重量はどう決めるべきなのか?

ここまでくだくだしく書いておきながら結論が大変つまらないが、その答えは、JAの組合員がよく話し合い、議論し、納得した上で決めるべきものだ、と思う。他県と足並みを合わすのも一つの考えだし、支払われない分があるのはよくないということで皆掛重量を30.230kgにするのも一つの考えだ(最近の計量器は性能がいいので1g単位で計れる)。逆に、他県産と差別化を図るために30.7kgにするという考えもありうる。

ただ問題は、現在の全国のJAはほとんど、この「組合員がよく話し合い、議論し、納得した上で決める」ための組織として当然の仕組みが、全く備わっていないことである。JAは形式的には組合員(農家)が運営する組合員のための機関であるのだが、実質的にはそうなっていない。ではどうなっているかというと、「人民の人民による人民のための政治」が実際には人心と乖離したものになっているのと同じ状況である。

それを誰のせいとは明確にはいえない。利害が対立しがちな様々な農家が同じ組合に所属していること自体が組織として問題があるのかもしれないし、構成員の意見を集約して組織の運営に活かすということが苦手な日本人の性向に由来するのかもしれない。

ともかく、皆掛重量をいくらにするかは、米を出荷する農家が納得することが第一であると私は思うが、納得するための仕組みがないことが大問題である。農業問題においてはJA改革の必要性の議論が随分前から喧しい。いろいろな面で改革が必要なことは事実だろう。どういう改革をどういう順番でやればよいのか、それは私にはよく分からない。しかし少なくとも、「組合員がよく話し合い、議論し、納得した上で決める」という当然のことを、ちゃんとできるような組織になってもらいたいと思う。

※ 皆掛重量(30.4kg)≒正味重量(30kg)+風袋重量(230g)+サンプル検査した場合の予備(40g)+含有水分量が適正範囲内で変化した時に変動しうる重さ(150g)

2013年10月25日金曜日

とある米国人の実践する有機農業

この数日、病を得て暇だったので『Organic Farming: Everything You Need to Know』という本を読んだ。米国で有機農業を営んでいる方が書いた本である。

日本の有機農業に対して不審の目を向けるものではないが、どうしても変わり者のための農業という側面があるためか、ハウツー本などを見てもあまり論理的でないものが多い。少し乱暴だが「私はこんなに苦労しました」という苦労自慢、あるいは逆に「こうすれば万事解決する」という魔法の杖型の話が多いように感じ、あまり読む気がしない。

では、ある程度有機農業が市民権を得ている外国ではどうなのだろうと思い手に取ったのが本書である。著者はかつてジャーナリストをされていたようで、その文章は簡潔でわかりやすい。慣行農業への過剰な敵意もなく、有機農業を実践する一人の農家としての等身大の仕事ぶりが伝わってくる。

「知るべき全て」を銘打つ通り、例えば「どのくらいの面積でスタートするか」とか「トラクターの選び方」といった、日本の農業ハウツー本ではなかなか書いていない実践的な知識が満載で、新規就農を考えている人には非常に参考になると思う。


唯一、魔法の杖的なものがあるとすれば、ミミズをたくさん入れた腐葉土で作る不思議な液体(これを著者はworm tea「ミミズ茶」と呼ぶ)で土壌改良をする話くらいで、その他は農業の基本を着実に実践することを奨励しており、斬新な情報はないかわり危なげもない。

その内容を少し記すと、まず作物にとって最も重要なものは土であるとし、これを良好な状態に保つことが枢要であるとする。このために、化学肥料を避けるのはもちろんのこと、C/N比を計算して刈草堆肥を投入するなど物質の投入量を管理し、また、緑肥植物を活用して土壌の状態をよくする。ただこうしたことをしても、土壌の状態がよくなるには数年かかるという。

施肥に関しては、植物に与えるのではなく土自体に与えるという考え方で行うことを求め、そして適切な輪作や混作を行い土壌の生物相が偏らないようにするといった工夫も行う。こうしたことを実践するには大規模農場では難しいので、まずは小さい面積で始めることを推奨し、自然とトラクターなどの農業機械も小さいものを薦める。

そして作物の病虫害を避けるには、何よりも植物体自体を強壮にすることが必要として、そのための第一歩として苗作りを丁寧にすることを求める。よって有機農業ではビニールハウスは必須ということで、ビニールハウスの管理・活用方法を述べる。

また有機農業の経営で最重要なことは販路の確保であるとし、かなりの紙幅を費やしてどうやって独力で市場開拓するかを述べる。著者の実践するのは、日本風に言えば無人販売所(Farm stand)と直売市(Farmers market)、そして会員向け定期便の3つである。そしてそれぞれを独力でどうやって始めるかということになるのだが、基本的には仲間を募り、オペレーションを確立し、交通量の多い所に店を構え、新聞広告を打ち、看板を立て、それでも最初の1年は赤字だから耐え、経営を黒字化するように地道な努力をしなさい、という話である。

また会員向け定期便については、最近米国で勃興してきたCSA(community Supported Agriculture)についてやや詳しく説明する。これは、平たく言うと会費を払う会員に対して定期的に農産物を送るというものだが、日本のそれのように顧客が都市部にいるのではなくて会員は地域のサークルのようなもので地産地消を図るところに特色がある。

全体を通じて印象的なのは、常に消費者の目を意識した経営である。例えば著者は自身の農園でハーブを栽培し、また道路沿いには花を植えているという。ハーブなどは経営的には全く奮わないらしいが、「ここは素敵なハーブも栽培している農園」というイメージを形成することにより消費者からの支持を得ることができるらしい。花を植えるのは、訪問した方の目を楽しませるためで、また来たいと思わせるような農園を作ることが重要という。

米国の農業と日本の農業は全体としてみて大きな違いがあるが、著者の実践するような規模の農業、具体的に言うと軽トラックが活躍するような農業に関してはあまり変わるところはないということが分かった。農業技術の面でも、消費者との関係の面でも、結局のところ真摯に取り組んでいくという以外の王道があるはずもないのである。

TPPや農政改革などを巡る議論において、マクロ的に日米、あるいは他国との比較をやり、大きな違いがあるということを認識するのも必要だが、一方で共通することも多い。特に中小零細規模の農業というのは、どこの国でも似たようなものとも思えるので、同じ部分に注目するということも大事だと思う次第である。それにより、国や制度や気候が違っても普遍的な部分、というのが見えてくるのではないだろうか。

2013年10月8日火曜日

南薩のポストカード「Nansatz Blue」できました

以前お知らせした南薩のポストカード「Nansatz Blue」5枚セットが完成して、「南薩の田舎暮らし」で販売を開始した。

たくさんの素晴らしい写真の中から5枚を選ぶ作業はとても悩ましいもので、正直未だに「あっちの方を入れた方がよかったかなあ」と思う部分もある。特に気になっているのは、いろいろ考えて選んだにも関わらず、なぜか構図が似たようなものが並んでしまったことである。うーん。

とはいうものの、結果的にこれらの5枚は、観光客向けのよそ行きの顔ではない、南さつま市の素顔が切り取られたものになったように思う。これらは最近行政が力を入れている「南さつま海道八景」のメジャーな風景ではないし、迫力のある絶景というわけでもないけれど、地元の方に「自分たちの風景」だと受け取ってもらえるよう願っている。

それぞれの写真はぜひ現物を見てもらうこととして、この機会に、この5枚の写真の解説をしておきたい(順不同)。

○『空色の越路浜』
越路浜は、大浦町の遠浅の海岸である。日本三大砂丘の一つである吹上浜の南端に位置するが、越路浜自体は吹上浜の一部ではない(と思う)。この越路浜の特徴は、非常に遠浅であることで、勾配が15,000の1程度(つまり、15キロ進んで1メートル下がる傾き)しかない。この遠浅の勾配を利用して戦中より大規模な干拓事業が進められ、大浦町は鹿児島県において最大の干拓地を有している。(撮影:愛甲 智)

○『実る金峰町』
金峰町は早期水稲「金峰コシヒカリ」の一大産地であり、その出荷は日本一早い。霊峰金峰山からの石清水に育まれたお米は美味である。金峰町からは、一面に広がる稲穂の海の中に笠沙のランドマークである野間岳が望める。ちなみに、金峰町だけでなく、南薩西部(加世田、大浦町、笠沙町)は早期水稲の産地である。(撮影:愛甲 智)

○『黄昏の後浜』
笠沙の野間岬の根元は、野間池という(実際には池ではなく)湾になっているが、この反対側を後浜といい、ここに立神と呼ばれている大岩がある。この大岩は東シナ海に面して荒波を受け止める存在で、地元の人によれば写真のように鏡のような凪ぎになるのは一年に数回しかないという。(撮影:愛甲 智)

○『野間岳と蕎麦の花』
南薩は早期水稲の産地であるため、水稲後の水田の後作として蕎麦の栽培が盛んである。 長野とか新潟のように、一面の蕎麦の花、とはいかないが、最近では蕎麦の戸別所得保障の制度的後押しもあり産地が形成されつつある。金峰町の「きんぽう木花館」ではそば打ち体験も出来る。(撮影:向江 新一)

○『瑠璃色の坊浦』
坊津町に、網代(あじろ)浜という美しい浜がある。ここは、陸続きではあるが道がないので瀬渡し船を使って行く、プライベート・ビーチのようなところで、その海の青さは本土よりむしろ沖縄に近い。写真は、網代浜を往復する渡し船と付近にある小さな赤い灯台。(撮影:愛甲 智)

今回シリーズ名を「Nansatz Blue」としているが、もし資金が回収できれば、第2弾も作りたいし、例えば「Nansatz Green」とか他の色でもポストカードを作ってみたい。それに「南薩」を銘打っているので、南さつま市だけでなく、枕崎市や南九州市、 日置市へも対象を拡大してもいきたいと思う。また、今回の製作には友人・愛甲くんの絶大な協力をもらったが、地元の人が撮り溜めた素敵な写真を発掘してポスト カードを作ってみたい気持ちもあるし、単にポストカードを作って売るのではなくて、ソーシャル・メディアを使って参加型の取り組みもできたら面白い。だが増刷はしない予定なので、ご関心のある方はぜひ早めにお買い求めいただきたい。ちなみに地元では、「大浦ふるさと館」と「笠沙恵比寿」に置いている(1枚100円、5枚セット450円)。

2013年10月6日日曜日

ドイツの有機農業関係者5名に話を聞くシンポジウム

本日、「有機農業を通して世界の子どもたちに安全な食材を」と題されたシンポジウムに参加してきたので、その内容を紹介したい。

このシンポジウムは国際ロータリーの鹿児島・宮崎地区が主催するもので、同組織は鹿児島・宮崎から4名を来年ドイツへと派遣し有機農業の研修を行うプログラムも用意するなど、有機農業の振興に力をいれようとしているところである。実は、この派遣事業に私も応募したのだが、残念ながら選考で落ちてしまった。

で、このシンポジウムだが、簡単に言えば、ドイツから招聘した5名の有機農業の関係者に話を聞こうという会である。タイトルが「世界の子どもたちに安全な食材を」ということで、農薬と化学肥料の悪口ばかり言って終わる非生産的なものではないかと心配していたが、実際には穏当かつ有意義なものだった。以下、そのポイントを備忘のためまとめておきたい。 なお、農業に直接関係ない部分は割愛している。

(1)岩元 泉さん(鹿児島大学教授・NPO法人鹿児島県有機農業協会理事長)の話

  • ドイツの有機農業は日本の100倍の面積があり、全耕地面積の6%にものぼる。
  • これは政策的に有機農業が振興されてきた結果であると思う。
  • 日本では、1971年から有機農業が細々と取り組まれ、1999年の有機JAS法、2006年の有機農業推進法と徐々に歩みを進めてはいるが、まだ規模的に小さい。
  • 有機JAS法による「有機」の認証についても、実は国産のものより外国から輸入されたものの方が多く、国産の有機農産物をもっと増やしていくことが必要である。

(2)大和田 明江さん(NPO法人鹿児島県有機農業協会常務理事)の話

(NPO法人鹿児島県有機農業協会の活動の紹介なので割愛)

(3)カロリーン・ウルリッヒさん(有機農場経営者)の話

  • ヨーロッパでは、EUが有機農産物の統一規格を定めている他、民間の上位規格も存在する。
  • 私は200haの農地、12,000羽のニワトリ、250KW発電するバイオガスプラント、10,000㎡のハウスの有機農業の複合経営をしている。
  • ニワトリは、一人の女性が一日6時間働いて全部面倒を見ている。養鶏は機械化が進んでいるのであまり手はかからない。なお、ドイツでは全ての卵にスタンプが押されており、ウェブ上で生産者や農場を確認することができる。
  • バイオガスプラントは、(鶏糞由来のバイオガスを用いて?)電気と熱を生み出すもので、熱についてはハウスの加温に用いている。
  • ハウスでは、トマトとキュウリ、そしてリーフ類を栽培している。注目してもらいたいことは、そこで働いている38名全てが知的障害を持っている人達であることだ。
  • 私は、これらの事業によって、物質循環を農場内で閉じたものにするよう努めている。

(4)ユルゲン・ヘァレさん(養豚所経営・有機農業コンサルタント)の話

  • ミュンヘン市の有機農業推進について紹介する。
  • ミュンヘン市は、そのものが(市で)最大の有機農家であり、市自身が10個の農場を持ち、うち7つが有機農場である。
  • なぜミュンヘン市が有機農業をしているのかというと、水質管理と関係がある。ミュンヘン市ではSWMという公益企業が水道事業をしているが、この水源地の水質を保つためにミュンヘン市が土地を購入した。そして、"Organic Farmer"というキャンペーンをやって130人の農家に3500haの土地で有機農業を実践させた。また1800haの森も有機認証を受けている。
  • ドイツでは残留農薬とチッソ分の残留によって水質が低下したことが問題となったが、このために浄水設備を整える費用よりも、土地を購入して有機農業に補助金を出した方が安上がりだという判断があった。
  • またミュンヘン市では再生可能エネルギーに力を入れていて、既に37%の電力が再生可能エネルギーによって供給されている。2025年にはこれを100%にしようというのが目標である。

(5)パネルディスカッション(質疑応答)

■岩元さん:カロリンさんの農場は家族経営なのか? またドイツでは生産者は個人で販売するのが普通なのか、それともグループでやるのか?
■カロリンさん:私の農場はNPO法人で60名の人が働いている。販売ルートは多様であり、直販もあるし大手への卸もある。また直接お店に配送するというようなこともやる。
(※岩元さんの2つ目の質問はドイツの一般的事情を聞いたもののようだったが、噛み合っていなかったのかもしれない)

■司会:鹿児島の有機農産物をご覧になって、どうマーケティングしていけばいいと思ったか。
■シュテファーンさん(有機農業のマーケティングアドバイスをされている方):透明性を高めるというのが重要だと思う。生産者の顔がみえるような工夫が必要。ドイツでは有機農産物は普通の農産物に比べ価格は3割高いが、安心なものを求める消費者の志向に合致しているからよく売れる。

■大和田さん:日本の場合、環境を守りたいとか、安心なものを作りたいとかいう強い思いを持った生産者が、人生を掛けて有機農業に取り組む、というような感じで、失敗した場合のリスクも大きい。一方、ドイツの場合は政策的な後押しもあって、もう少し取り組みやすいように感じる。日本のように個人の頑張りだけで有機農業を広めようというのは難しいと思う。両国には政治的な違いもあると思うが、どうやって政治的な後押しを図っていったのか。
■シュテファーンさん:いろいろなレベルで支援がある。まず、国から有機農業への補助として1haあたり250ユーロの補助金があるし、ドイツ政府は消費者への啓発活動もやっていた。また、投資家を募って実施する有機農業のプロジェクトもあったし、(民間の)そうしたプロジェクトへの支援もやっていた。
(※大和田さんの質問は、有機農家がどのように政治家へアプローチをしていったのか、という質問だったように思ったが、少し噛み合っていなかったかもしれない)

■ユルゲンさん:日本に来てみて、日本人は食べ物に大変敬意を払っているように感じた。料理の作り方が細かくてとてもきれい。このようなものはドイツにはない。だが、食べる時だけでなく、それを生産する時へも敬意を払うようになれば有機農業を取り巻く厳しい状況も変わるのではないか。

■会場からの質問者:有機農業といえば昆虫と思っている。有機農業が盛んなオーストラリアではハエがたくさんいる。有機農業における昆虫の話を聞きたい。
■ユルゲンさん: 生物間のバランスを保つことが重要だと思っている。例えば畑のフチに鳥が巣を作れるような所を設けて、鳥に除虫してもらう工夫をしている。
■会場からの質問者:有機農業では害虫とか益虫とかいう概念はないと思っていた。そういう区分けは人間が勝手にしたものだから。
■ユルゲンさん:農業だから害になる虫がいるというのは当然である。
■シュテファーンさん:慣行農業だとポストハーベスト、つまり収穫後に貯蔵性を高めるために農薬を使うということもあるが、有機農業ではそれはしないので、益虫を倉庫の中に放すといった対策も行っている。
■カロリンさん:ハエの話があったが、自分の農場ではハエを駆除するためにクモを放している。
■ルートヴィヒさん(有機農業従事者):虫と有機農業という話でいうと、ミミズは土を耕してよい状態にしてくれるし、現在話題になっているようにミツバチが農薬の影響で世界的に減少しているが、もしミツバチがいなくなったら人間が手で受粉しなくてはならない(虫と協力しなくては農業はできない)。

■シュテファーンさん:有機農業は、よく考えてやらなくてはならないと思う。単純に薬を撒けばいいという農業ではないわけだから、いろいろ学んだ上で、様々なことを考慮に入れてやらないとうまくいかない。(了)

【補記】
シンポジウム終了後、ドイツからの有機農業関係者2人に話を伺いに行って、いくつか質問をしたが、その内容は以下の通り。
・病気をどうやって防止するのか?
→気温などを栽培植物に最も好適となるように管理すれば、自然と強壮となり、病気には罹りにくくなるものである。(カロリンさん)
・雑草の管理はどうするのか?
→もちろん野菜の種類によって違うが、中耕・培土とマルチング。特に生分解性マルチを使う。(以下シュテファーンさん)
・例えばベビーリーフの場合、マルチの穴の中は雑草を抑えられないと思うが。
→残念ながらそれはそう。手で取るしかない。
・土壌の微生物をよい状態に保つのに、何か特別な方法があるのか?
→混植が重要。また、5〜7年ごとにマメ科植物を植えることが土壌改善ができるし、やはり堆肥の施用は重要。
・どれくらい施用するのか。またその種類は何がよいと思うか。
→1haあたり20トンくらいだろう。種類は何でもいいと思う。刈草でもいいし、有機物をやること自体が大切だから。
・慣行農業から有機農業への転換の鍵は何か。
→実践している農家から話を聞くことが一番だと思う。

【コメント】
まず、ドイツからの招聘団のリーダーを努めていたカロリンさんの農業経営の規模が大きくまた先進的すぎ、このクラスの農家は日本でも数団体と思われるので、有機以前に農業の段階に差がありすぎた。しかし、それだけの規模で有機農業を経営していくにはたくさんの工夫があるに違いないので、詳しく話を聞ければ参考になる点が多いのかもしれない。

印象に残ったのは、ドイツの有機農業関係者がいい意味で普通の人達であることだ。日本の場合どうしても有機農家=変わり者という部分が否めないので、 このように普通の人達が普通に取り組んでいるというのは心強い。また、言っていることも大変真っ当であり、いろいろ細かい工夫はあるのだろうが、「こうすればうまくいく!」という魔法の杖があるのではなくて、適地適作を守るとか、堆肥を継続使用するとか、農業の基本を着実にこなしていくことが大事という考え方であった。

さらに、有機農産物のマーケティングに関しても、透明性を高めトレーサビリティをしっかりし、生産者の顔が見えるようにすることが重要といい、これらは有機農業ならずとも普通の農業でも求められることで、こうしたことは日本の農政においてもかねてより強調されてきたことである。

今回、ドイツに行って研修できないことは残念であるが、このシンポジウムでドイツの有機農業関係者の話を聞いてみて、海外で魔法の杖を探すのではなく、自身の営農を基本に沿って確立することが最も重要と感じた次第である。もちろん、細かい工夫も重要であるから、そういう勉強はしていく必要があるが、基本を当たり前にできるようになる、ということほど大事なことはないのだと思う。

2013年10月2日水曜日

高田石切場の壮大な石の壁

南九州市川辺の、高田という地区に「高田石切場」という産業遺産のようなものがある。

これは、江戸末期から昭和にかけて採石された場所の跡であるが、遺産というより既に遺跡の風格を持っている。私の拙い写真では全く表現出来ていないが、天を衝くほぼ垂直の石の壁が広がる様子は、あたかも神殿のような趣がある。

また、驚くべきことに、写真の場所ではないながら、近くでまだ採石が続いていて、一人だけ残った石工さんが仕事をしているとのことだ(少し古い情報なので、もしかしたら間違っているかもしれません)。

今でこそ、採石と石の加工は別の場所で行われ、採石場といえば単に石を切り出すだけの所であるが、昔は採石場で石工が鑿を振るい石造製品を作っていたわけで、ここから多くの石灯籠や墓碑、石碑、鳥居といったものが運ばれていったのだろう。川辺では、戦後になっても石工になろうとするものが多かったため、石工に弟子入りするのに町は1万円(!)を支払うよう命じたという話がある。

ちなみに、なぜ採石場で最終製品まで作ったのかというと、その理由は単純で、運搬する重さを少しでも減らそういうのが目的だ。当時は重機もなく、石切りと製品の運搬というのは相当な重労働だっただろう。この荘厳な石の壁も、なんと竹で足場を組んで、手作業で石を割って作られたものだそうだが、そういう方法で作り出されたとは俄には信じ難い。なお、この壁の上部には、27/3/7という文字が刻まれており、これはこの壁が切り出された年を表しているらしい。昭和27年3月7日ということなんだろうか…。

しかし、素人ながら、このように垂直に石を切り出すと、それから先の石切りが非常に不便になるように見えて仕方がない。上の方から階段状に切り出すのが合理的な気がするのだが、どの壁もそのようにはしていないわけで、具体的な工法を知りたいところである。

ついでに書くと、この壮大な石の壁は溶結凝灰岩でできている。溶結凝灰岩というのは、火砕流などによって高温の火山噴出物が堆積し、自重で圧縮されながら再度溶解し凝結したもので、要するに灰とか軽石のようなものが地上で高温高圧となって溶けて石になったものである。写真には、うっすらと層のようなものが見えるが、これは堆積した時に上からの圧力で層状になったもので、溶結凝灰岩の特徴がよく現れている(と思う。地学は体系的に学んだことがないので間違っているかもしれません)。

このように巨大な溶結凝灰岩の壁ができているということは、一度に20m以上もの火山噴出物が堆積したということだから、かつて桜島の噴火など比べものにならないほどの大噴火があったということになる。

実は、南薩は阿多カルデラという日本有数のどでかいカルデラを錦江湾側に持っていて、この阿多カルデラ成立の過程で数次にわたって起こった巨大噴火の影響で、ものすごい大きさの溶結凝灰岩の地層が多く見られる。約10万年前に起こった阿多火砕流の噴出物は約110km3というから、開聞岳(約8km3)14個分(!)くらいの灰や噴石が一度にばらまかれたことになる。 24万年前から10万年前までの間に、このクラスの噴火がなんと4回もあったそうである。

ちなみに、鹿児島北部はこれまた大きな姶良カルデラがあるし、島嶼部には鬼界カルデラがあって、鹿児島は有史以前は巨大火山のメッカの様相を呈していた。そのため県内では溶結凝灰岩が豊富に獲れ、やや脆いが加工しやすいこの石を利用して石造文化が発展したのではないかと思われる。8・6水害前にあった五石橋も全て溶結凝灰岩でできていた。

そして、鹿児島の石造遺物は、他の地域に比べ細かい細工が少なく、石そのものの質感が活かされているものが多いと言われるが、これは鹿児島人の気質というよりも、その素材が溶結凝灰岩であることが大きく影響しているのではなかろうか。なにしろ、この石は大理石や花崗岩のように硬く稠密ではないから、仮にミケランジェロであっても決してダヴィデを削り出すことはできないのだ。素材は、文化の基底に存在している裏の支配者である。

さらに蛇足だが、近くには「高田石切場の美味しい水」の水汲み場があって、ここの水は「命水」と名付けられていて大変美味である。最近、「水汲み場」のノボリが立ったので知名度が上がったのか、私が訪れた時もひっきりなしに大量のペットボトルに水を汲んでゆく人が立ち寄っていた。この水も、浸食されやすい溶結凝灰岩を通ってきているために、ミネラル分が多く含まれ、甘い味になっているのではないかという気がした。地質というのは普段の生活とは随分縁遠いようでいて、長い目で見てみると私たちの歴史や文化を動かす一つの力だと思う。

2013年9月23日月曜日

公民館に残る賞状で見る農村の昭和史

我が集落の自治会公民館には、古い賞状がいくつか掲示されている。これらは、積極的に掲示しているというよりは、かつて掲示していたものを敢えて外す必要もないからそのままになっている、というのが実態で、一見何の脈絡もない。でもその賞状たちを眺めていると、時代の移り変わりを如実に感じることができてとても興味深い。

そういうわけで、この賞状たちが語りかけるものを、少し長くなるがまとめてみたい。昭和6年から平成に至る数々の賞状があるが、全部を取り上げるとかなり冗長になるから、ポイントを絞って取り上げてみる。

まず、一番古い賞状は、昭和6年の「笠砂村 窪 施設消防組」への「感謝状」である。これは、天皇陛下が鹿児島に行幸したときに警備を担当したことに対する感謝を述べるもので、鹿児島県警の部長から贈られている。鹿児島では、青年団や消防団は、元は自警団であった場合が多いそうだが、ここでもそうだったのかもしれない。

次に、戦前の賞状では、昭和9年、10年、14年に「窪 報効農事小組合」宛てに表彰状がある。この「報効農事小組合」というのは、現在の公民館(自治会)の先祖にあたるもので、どうやら鹿児島独自のもののようだ。この大仰な名前の組織の具体的な姿は未詳だが、「農事」と名が付いているものの、農業の共同体なだけでなく、行政の下部組織としての位置づけもあった模様である。

当時は電話もコピー機もなく、簡単に連絡や意思疎通が図れなかったので、住民を指導したり、何かを提出させたりする場合には、役場だけでなくその末端組織としての自治会の役割が大きかった。役場の末端組織はこの報効農事小組合だけではなく、他にもいろいろあったようだが、基本的にはこれが報効農事小組合→常会→振興小組合→集落自治公民館と継承されていき、現在の自治会が形成されてきた模様である。

さて、この報効農事小組合が、何に対して表彰を受けているのかというと、実はそれがよく分からない。それぞれの主文を書き出してみると、
  • 報効農事小組合共進会に於いて[…]引続き5ヶ年間甲組一等賞を受けたるを(昭和9年)
  • 報効農事小組合共進会に於いて[…]その成績最も顕著なるに依り(昭和10年)
  • 堆肥増産一斉週間に当たり[…]その効績顕著なり仍て(昭和14年)
表彰する、となっている。3番目はともかく、上2つは「報効農事小組合共進会」が何を競う場なのか不明なため、一体どういう点が優れていたのか不明である。だが、3番目で堆肥増産が表彰されているところから見ると、営農活動が総合的に優秀であること、より実際的には、農産物の生産が計画通りであったことが評価されているのではないかと推測できる。

戦前の賞状にはもう一つあり、それは昭和13年の「窪 納税組合」宛てのものだ。これは、大正15年から10年間、国税の滞納がなかったことを表彰するもの。これも役場の末端としての組織の例であるが、この頃は税金の集金を納税組合が負っていた。集金の手間を約めるための手段でもあり、また脱税を防止する目的もあっただろう。何しろ、サラリーマンの世界ではないので、収入の実態は役所からは直接は見えない。百姓同士の相互監視といっては江戸時代じみているが、この頃は納税は自治会の重要な役割だったのである。

時代は戦後に移る。まずは昭和28〜29年の賞状がなぜかたくさん残っているのだが、この中には戦前と同じく振興小組合が農業共進会で1位を取ったり、村税の納入が表彰されたりというものがある。そして、戦前とは毛色の違う賞状として、貯蓄関係の表彰が増えてくる。

例えば、昭和28年には「窪 振興貯蓄組合」が「農業資金貯蓄の重要性をよく認識せられ全員力を合わせて貯蓄の増強に大きな成果を収め」たということで表彰され、また昭和29年には「窪 部落」が「貯蓄増強運動に協力せられ特に村づくり定期預金の消化において優秀な成績を収めた」ということで農協から賞されている。

この時期になぜ農協(というより農林中央金庫と言うべきか)が懸命に貯金集めをしたのか、そのあたりの事情はよくわからない。基本的には、高度経済成長期にあたり農林水産関係でも資金需要が大きかったことが理由なのだろう。投資の原資は貯蓄であるから、組合員の貯蓄を奨励し、農地や造林の整備を進めたのだと思う。一方で、このあたりから農協の金融機関としての性格が強くなっていくようにも感じる。

さらにこの時期の賞状の特徴的なこととして、何でもかんでも順位がついている、ということがある。例えば、村税の納入は「一等」で、「村づくり定期預金」は「第1位」である。こういうことで他の地域と競争させられていたというのは、今考えると珍妙である。ドンドン進めな時期であり、やたらと競争を煽り、遮二無二に「豊かさ」へ走らされていたのではないかという感じを受けた。

また、この時期に注目されるのは、「窪 婦人会」が「婦人学級に出席優秀」とのことで表彰を受けていることだ。婦人会が婦人学級に出席した、という当たり前のことであるが、どうしてその当たり前のことが表彰されているのか、ということが問題だ。

考えてみれば、ちょうど昭和30年代周辺というのは、農村婦人問題が勃興してくる時期である。農村婦人問題というのは、現代風に言うと「農村における女性の地位向上をどうやって成し遂げるか」という問題なのであるが、その本質は、新しい時代における理想の女性像の模索だったと見受けられる。

近代化以前の農村では、女性は農作業の重要な部分を担っており、例えば田植えが女性の仕事とされたごとく、ある面では男性より優れた仕事人として扱われていたのである。それが、戦争の影響もあるが近代化に伴って地位が低下し、さらに農業の機械化などにより女性が担う部分がサブ的なものとなったことで、女性は農村において確固たる地位を失っていったという歴史がある。また、男性のサラリーマン化によって「専業主婦」が登場してくる都市でも女性の地位は低下しており、女性の地位の面では農村と都市で問題が呼応している。

こうした流れに対応し、女性は農村社会において新たなる役割を模索する必要があった。その答えは未だに出ていないとも言えるが、その模索の取り組みとして「婦人学級」などが盛んに設けられ、とにかく今までやっていなかったことをやってみよう、農産物を商品化しよう、農産加工品を作ろう、といった取り組みがなされたのである。農村におけるフェミニズム運動の先駆者である丸岡秀子が『女の一生』(未読)といった数々の著作を世に問うていったのもこの時期だ。

さて、この後に賞状がよく残っているのが先ほどの賞状群から約10年後の昭和40年前後である(なぜ間が空いているのかわからない)。この時代になっても営農改善共進会の表彰は多い。だが、内容が個別化してきていて、「特産振興」「造林」そして「農協出資」がある。やはりここでも貯蓄(出資は貯蓄とは違うが、実質的には同じである)が組織的に奨励され、他の地域と競わされている状況は変わっていない。昭和43年には、「久保 婦人会」も「農協貯蓄増強運動にあたって[…]貯蓄増強に優秀な成績を収め」たということで表彰されている。農村では一家の収入は農業及び出稼ぎが中心で、女性には独自の収入源が乏しかったはずなのに、どうして婦人会までが貯蓄増強を担わされたのか、正直よくわからない。

またこの時期になると、それまで「窪 部落」「久保部落振興小組合」などとクボの漢字表記に揺れがあったのが、なぜか住民の姓にはない「久保」に統一されるとともに、様々な組織が統合された自治会としての「久保 公民館」に宛名が揃っている。「小組合」制度などは官製で作られたものにも関わらず、行政の方では積極的に解体しなかったようで現在も続いているところもあるが、自治会長と小組合長を別々に選ぶとなると人選も難しく手間もかかるため、「自治会長が小組合長を兼ねることにしましょう」というように実際的な面で組織の統合が進んだようである。

賞状の上では、最後まで別組織として残っていたのは「久保 納税貯蓄組合」で、昭和49年に「昭和45年度以降連続町税の納期限内完納という輝かしい実績」が表彰されている。都市部では既に源泉徴収が中心になっていた時期ではないかと思うが、農村ではまだ組合を作って納税していたというのが面白い。

昭和40年以降というのは、あまり面白い賞状は残っておらず、スポーツの順位のような普通のものが中心となる。唯一の例外は、平成元年に「林業関係競技会川辺地区大会」で「集落除間伐の部」で「久保 集落」が優秀賞を取っていることくらいだろうか。どういう競技会なのか気になるところである。

これで賞状の紹介は終わりだが、全体を通してとても驚くことがある。それは、昭和9年から昭和43年に至る賞状の多くが、「金一封を贈りその功績を表彰します」としていることである。村税の納税ですら「奨励金」が贈られている。さすがに婦人学級の参加にはないが、貯蓄の増強とか、今から考えると「なんでこんなことに…」と訝しむようなことでも金一封が贈られている。

とはいえ「お金では計れない価値がある」などと言い出すのはある程度豊かになった後の話で、経済成長期の価値観というのは、ちょっとしたことを賞するのでも金一封を必要とするようなものなのかもしれない。今、中国人がやたらと現金なのを「中国人はもともと商業民族」などと民族性を持ち出して説明されることがあるが、この賞状を前にすると、それは単に経済の発展段階の話なのだと思わざるを得ない。

また、貯蓄関係の賞状がたくさんあるのを見ると、「日本人はもともと貯蓄好き」だとする民族性の主張も大嘘だと思う。元々農村では現金で貯蓄するという習慣はなかったようだし、江戸にも「宵越しの金は持たぬ」とする考え方があった。近代化を推し進めるため組織的に貯蓄を進めさせたことで、急速に貯蓄習慣が形成されてきたということが実態だ。それは知識としては知っていたが、私はこの賞状を目にするまで、こんな貧しい農村でもここまで強く貯蓄が奨励されていたとは思いもしなかった。

最後に、賞状のデザインについて一言。賞状というと、2羽の鳳凰が向かい合っているものをイメージすると思うが、戦前には(公民館に残っているもののうちには)このデザインの賞状はなく、いろんなデザインがある。そして、昭和26年に鳳凰デザインが登場すると、一つの例外を除き全てが鳳凰デザインになってしまう。この鳳凰の賞状を誰がデザインしたのか知らないが、ともかく賞状界を席巻したことは間違いない。そして瞬く間に、他のデザインの賞状を駆逐し、独占状態を築いてしまった。もしデザイナーが意匠権などをちゃんとしていれば大金持ちになっていただろう。

さて、公民館に残っている賞状、という偶然残った史料を眺めてみるだけで、農村における一つの昭和史を覗く思いがした次第である。それは、普通に言われている昭和史とは少し違う、行政や農協と住民との関係の歴史だ。僅かに残された賞状だけでも、私自身多くの発見があったし、昭和の歴史観を少し修正しなくてはならない気分になってきた。もっと多くの賞状を見ることができれば、さらに面白い発見がありそうなので、機会があれば、公民館に残る古い資料を整理して歴史の遺物を探してみたい。

【参考文献】
鹿児島県における村落構造と自治公民館」1994年、神田 嘉延

2013年9月17日火曜日

ウッガンドンに「氏神」と刻まれているわけ

このあたりの集落には、「ウッガンドン」または「ウッガン様」と呼ばれる土地神のようなものがあって、細々とではあるが集落共同の祀りが行われている。

このウッガンドンの奇妙なところは、(全てではないが)正面や見やすいところに「氏神」と表示されていることだ。氏神信仰は別に珍しくもないが、祭祀の対象に「氏神」と表示するなどということは、このあたり以外では見たことがない。そして、どうしてそのようになっているのか、これまで誰も説明していないよう だから、その理由を考えてみたい。

まず、ウッガンドンは本当に氏神なのか、という基本的なことが茫洋 としていて、「招き入れた神」の意で「内神」なのかもしれないとの説がある。というより、ウッガンドン=氏神としていては意味が通じないものがあるから、 「内神」なのかどうかは別として、ウッガンドンは素直な意味では氏神ではないことは確実であるように思う。

例えば、我が窪 屋敷(「屋敷」は藩政時代の行政区画単位)には「デコンノウッガンドン」というのが祀られているが、これは「大根のウッガンドン」という意味だ。これが 「大根の氏神」では意味が通らない。大根の氏子といったものが想定されない以上、ウッガンドンは氏神ではない。ちなみに、昔はここらでは大根が食料として主食級に重要だったそうだが、隣の原(はる)集落で大根が豊作になったことがあり、それにあやかろうと大根の神さまを勧請(呼び寄せる)して作られたのがデコンノウッガンドンであるらしい。

とすると、氏神でないものを、氏神として堂々と表示していることになる。 いや、そもそも、本当は氏神ではないからこそ、これ見よがしに「これは氏神だ」と主張している気さえする。

そして、このウッガンドンというもの、一体いつからあるのだろう。大浦に今残るウッガンドンは、明治から昭和にかけてつくられた石造の社ばかりであるが、石造のものに変わる前は、窪屋敷の場合は小さな藁葺きの社があったそうである。集落のトシナモン(古老)に聞いてみると、少なくとも昭和の頃にできたものではなくて、それよりずっと前からあるもののようだ。

『大浦町郷土誌』によると、元々、ウッガンドンというのは、年貢負担の共同体たる門(かど)・方限の神だったそうである。藩政時代、鹿児島では百姓を門とか方限という単位にまとめ、これに年貢を納めさせた。納税を何戸かの連帯責任にすることによって、今風にいえば脱税を防止したのである。この制度は、全国的には「五人組」と呼ばれるものの薩摩藩版だ。

そして、この納税共同体のリーダーを務める家を乙名(おんな)と言い、所属する各戸を厳しく指導したという。何しろ、年貢がちゃんと納められなかったら乙名の責任になるわけだから必死である。そして、ウッガンドンの祭祀は、基本的にはこの乙名の家が担ったようだ。墓の相続でさえ面倒なものとして避けられる現在では想像が困難だが、古くより祭祀権というものはいろいろな権能の中でも最も重要なもので、これはある種の権力の源泉でもあった。ウッガンドンを祀るということは、その土地の重要事項を裁定する力を持っていたことの象徴だ。

そういうわけだから、世が明治に改まると、ウッガ ンドンの性格は変わらざるを得なかっただろう。鹿児島では明治10年まで門・方限制度は存続し、その後も形を変えて納税組合の制度は続いたが、乙名などの藩政時代以来のやり方は廃止された。そこで、ウッガンドンの存立基盤は一度揺らいだはずである。これまで大切に祀られてきた神が、直ちに等閑にされることはないとしても、それが依拠していた共同体が形式的には解体されてしまったわけだから、徐々に祭祀が先細っていくのが自然である。

しかし、ウッガンドンの祭祀は今でも続いている。解体したはずの門・方限が、結局は部落(鹿児島では「部落」という言葉には否定的意味はない)という形で自治体となり存立し続けたことが大きな原因であろうが、もう一つ考えられるのは、神社整理・神社合祀の政策による影響である。

鹿児島の神社整理についてはいずれちゃんと調べてまとめたいと思っているが、以前も書いたように、神社整理というのは「神社のヒエラルキー化・合理化・統廃合」を行った明治政府の政策である。これにより、多くの神社が廃止(合祀)されたが、一方では新たに作られた神社もある。その一つが、氏神を祀る神社である。

江戸幕府は、「寺請制度」 といって、全国民が必ずどこかの寺に所属していなければならないとする宗教政策を採っていたが、これの結果、共同体の祭祀は神道式ではなく「氏寺(うじで ら)」とか「氏仏(うじほとけ)」といって仏教式なものになっていることもあった。しかし、明治政府は神道を「国家の祭祀」とし国民をまとめる原理として採用したため、仏ではなく、天皇を頂点に戴く神々を全国民が讃仰する仕組みをつくらなくてはならなかった。

そのために、『古事記』や『日本書紀』と関係のない、つまり天皇と関係づけられない神社を廃止することもやったが、一方では氏神祭祀の強制ということもやったのである。氏神を祀ることは、皇祖を祀ることの基礎と見なされていたわけだ。それまで氏寺や氏仏しかなく氏神を祀っていなかった地域では、この時に急ごしらえの「氏神」が作られたこともあるという。

こういった全国的な流れを考慮すると、明治からウッガンドンが辿った道筋も少し見えてくる。神社整理の際には、記紀には関係がない、自然発生的信仰であった ウッガンドンは淫祠邪教のものとして廃されてもおかしくはなかった。しかし、氏神であればむしろ祀るべきものとされたため、鹿児島の民衆は、「ウッガンド ンは実際は氏神なんです」といってこれを救ったのではあるまいか。

だから、「氏神」であることを強く主張するために、敢えて「氏神」と刻んだのではと考えたい。氏神といっても、それは単に氏子の神というだけの意味で、氏(血族)の神でなければならないというわけではないし、ウッガンドンは氏神だ、という主張は別段こじづけではない。だから、民衆が嘘をついてウッガンドンを残したということでもないが、ともかくも「氏神」であると強く主張しなければならなかったプレッシャーがあったようには思われる。

そうして、ウッガンドンは、氏神信仰という「国家の祭祀」の一端として改めて地域社会に位置づけられることになったのだと思う。そして、太平洋戦争が終わり、氏神を祀らねばならないとする政策も終わりを告げた。ここに、ウッガンドンを存立させてきた制度的基盤は全て解体されたのである。

大浦町では見たことがないが、他の地区ではうち捨てられた氏神の社を見ることがある。人口減少で、もはや祭祀を行う人間がいなくなったという現実的理由で遺棄されたのだろう。ただ同時に、なんとしても祀らなければならないという理由が失われた信仰であることも、それは象徴的に示している。

今のところ、私の周りのウッガンドンたちには遺棄されるような徴候はない。 制度的な後ろ盾を失っても、地域の人間に親しまれてきたという文化的・慣習的な基盤は失われていないからだ。ウッガンドンがなんなのか、本当のところはよくわらないが、それは少なくとも藩政時代から私の先祖に祀られ、この土地の変遷を見守ってきたものだ。こういう昔風の信仰がいつまで続けられるか分からないし、そもそも、何がなんでもこうした祭祀を続けなければならないとも思わない。だが、こういう何気ない、弱々しいものでも残っていくような社会であってほしいと思うし、そういう努力を少しでもしていきたいと思う。

2013年9月6日金曜日

とも屋の「欧風銘菓 マドレーヌ」

南さつま市小湊(こみなと)に「とも屋」というお菓子屋さんがある。昔ながらのお菓子屋さんで、外観・内装などで目を引く店ではないが、そこのマドレーヌはパッケージデザインが秀逸である。他の商品はどうということもないのに、なぜかこのマドレーヌのデザインだけレトロかわいくて愛嬌がある。

トリコロール(赤・青・白)と「マドレ〜ヌ」の絶妙な書き文字。そして周りの唐草風模様。しかもこれらがシールなどではなく、アルミのマドレーヌ型に直接印刷されている。こういう風に焼き菓子の型が直接パッケージデザインとなっているのは最近珍しい(昔は結構あったようだ)。

そして、この丸形がいい。最近売っているマドレーヌはこういう丸形ではなくて、貝形をしているものが多い。もともとマドレーヌというのは貝形にアイデンティティがあって、本場フランスには丸形のマドレーヌはなく、丸形は日本独自のものという。だから、最近の貝形マドレーヌの方が「正しい」のであるが、日本では昔はマドレーヌといえば丸形だったわけで、何か「これぞ日本のマドレーヌ」と感じさせられる。

しかも、この日本風マドレーヌに「欧風銘菓」と銘打っているのがさらにいい。この「欧風」は、「日本人の憧れの中だけに存在していたヨオロッパ」なのだろう。そもそも、このマドレーヌ、シロップ(かリキュール)漬けのドライフルーツ(?)が入っていて、中はマドレーヌというよりパウンドケーキ風である。フランス菓子というよりも、田舎の茶飲み話に最適で、食べ応えのある落ちつく味である。

つまり、このマドレーヌは「欧風銘菓」を謳っているが、現実の欧州には存在していなかったもので、大げさに言えば、かつての日本人が「欧風」として思い描いたものなのだ。

そもそも、日本の海外文化の受容というものは、この約二千年間そういう調子だった。大陸の文化をそのまま受け入れるのではなく、断片的に入ってくるそれをなんとか繋ぎ合わせ、時に誤読し、時に深読みし、「理想化された海外」あるいは「きっとそうに違いない海外」をつくり上げてきた。

こうした営みを、稀代の編集者である松岡正剛氏は「日本という方法」という言葉で解説している。要は、コンテンツそのものよりもそのコンテンツをどう料理(編集)するかというところに日本らしさはあるんだよ、という話である。

日本らしければいい、というものでもないが、本場のものをそのままに受け入れずに、無意識的であれそれを我々の生活の間尺に合うようにアレンジするのは一つの創造的行為である。丸形マドレーヌが日本で生まれた理由も、単に貝の焼き型が手元になかったからという単純な理由によるのだろうが、そのお陰で日本でマドレーヌがこんなに普及したのではないだろうか。貝型にこだわっていたら、これほどは広まらなかったように思う。

こういう「かつての日本人が本場風として思い描いたもの」は、今ではもうめっきり少なくなって、本当に本場のもの(とされているもの)か、あるいは手軽な代用品ばかりになってしまったように感じる。とも屋のマドレーヌは、デザインの秀逸さもさることながら、なんだか手の届かないところに「本場」があった古き良き時代を伝えるものに思えるので、これからもずっとこの形で残っていって欲しい。
【情報】
とも屋菓子舗
〒897-1122 鹿児島県南さつま市加世田小湊7664
0993-53-9202

2013年9月3日火曜日

日本の農書の黎明と停滞

以前「西欧近代農学小史」というブログ記事を書いた時に、「俄然興味が出てくるのが江戸時代の日本の農書である。[…]何かいい参考資料を探したい」としていたのだが、実はこの分野には「これを知らなければモグリ」という決定的な研究書があった。それが、古島敏雄の『日本農学史 第1巻』である。

本書は、上代の農業から説き起こし、元禄期に農書が出現するに至るまでの歴史を扱う。あまり一般の方が興味を抱く内容ではないが、大変面白い本であり、また自身百姓としていろいろ考えさせられたことも多かった。そこで、例によって備忘も兼ねて、本書に即して農書の黎明を繙いてみたいと思う。

まず、農書云々以前の我が国の農業の特色として、主要作物である水稲に関しては、非常に早い時期に栽培技術が完成していたということがある。既に平安時代には苗作りから収穫に至るまで、基本的に現代と同じ耕作が行われていたらしい。集約的な管理という面で、日本は大陸や朝鮮半島の先を行っていたようであるが、どうして栽培技術が急速に完成されたのかというのは謎の一つである。

一方、もちろん大陸の方では、古代より『斉民要術』といった農書が著され、農業技術が早くから体系化されていた。これを我が国でも早くから輸入しており、ここに現れる植物が我が国のどの植物に当たるのかを明らかにして内容を理解できるよう、平安時代の辞書である『和名類聚抄』には植物の項も詳細に設けられている。

このように、我が国は進んだ農業技術を持ち、また大陸の農書を輸入しそれに目を通してもいたのだが、なぜか『斉民要術』の導入より約千年間、独自の農書を生むということがなかったのである。『日本農学史 第1巻』の前半は、この事実をどう捉えたらよいか、という問題提起であるといって差し支えないと思う。本書にはそれに対する明快な回答は準備されていないが、農書を成立させる様々な要件が整わなかったから、ということは言えるだろう。

我が国の最初の農書とされる、戦国末期〜江戸初期成立の『清良記 第7巻』の登場の背景を見て、その要件の一端を見てみよう。『清良記』は、封建領主の統治マニュアルとも呼べるもので、第7巻は農業経営の要諦を領主が老農に諮問するという形式を持って書かれている。どうしてこのような書が成立したのかというと、その背景には中世的な農業社会が解体して、近世のそれへと変遷していく社会の変化がある。

つまり、乱暴にまとめれば、荘園経営のような企業的な農業が終焉を迎え、封建領主による個々の百姓の管理という零細的な農業形態へと変遷していったことが挙げられよう。領主にとって租税の源泉たる農業の振興は重要な問題であり、「無知なる農民」「怠惰な農民」を厳しく指導し、農業の生産性を向上させる必要が大きかった。『清良記 第7巻』の要諦は、いかにして貢租を確たるものにするかという点にあり、純粋な農業技術書というより、農政の指導書と言うべきものである。

この『清良記 第7巻』によって千年の沈黙が打ち破られ、約40年後の元禄期に至って雨後の筍のように農書の出現が続く。その理由は定かではないが、基本的には社会の変化の早さに求められるのではないかと思う。そもそも農業技術というものは、親から子へ、子から孫へと世代間で伝えられるか、あるいはせいぜい近隣のやっている事を見たり聞いたりして学ぶもので、現代においてすら、書物から学ぶようなものではない。ましてや近代以前の社会ではそうである。

農業技術を書物を通して学ぶ必要があるとしたら、世代間や近隣から学ぶスピードよりももっと早い速度で社会が変化し、それに対応していかなければならない状況があったからだろう。農業技術を書物にまとめようとする動機には、口伝えによる技術の伝播ではもどかしいとする焦燥感があることは間違いない。

さて、『清良記』を含め、この時代に出現した凡百の農書はいずれも出版されたものではなく、地方的かつ散発的なもので、大きな影響力を持つことなく忘れられていったものなのであるが、元禄10年(1697年)に宮崎安貞により『農業全書』が我が国の農書としては初めて刊行されることになる。

これは、それまでの農書が多かれ少なかれ持っていた「領主から百姓への農業指導」という側面を廃し、「農民のための農書」即ち「耕作者のための農書」を自認して著されたものである。そして、体系的であると同時に体裁的にも完備し、出版以後、なんと明治期に至るまで絶大な影響力を持つことになる。一言で言えば、近代以前における我が国第一の農書であると言えよう。

その内容はと言えば、実はその頃(明代)大陸で著された徐光啓の『農政全書』に多くを負っており、少なくともその総論はほとんどこの翻訳といってもよい観がある。作物別の各論においても『農政全書』の影響は明らかで、気候風土も農業を成り立たせる基盤も違う明代の農書から多くを引き写してくるあたり、日本人の大陸信仰の悲しい現実を嘆かざるを得ないのであるが、もちろん独自の内容もある。

その最も著しいものは肥料論である。江戸時代の肥料といえば、人糞や厩肥を思い浮かべる人が多いと思うが、京阪を中心とした地域では、既に干鰯や油粕といった自給的でない金肥の使用が進んでおり、施肥が高度化していた。元来日本では精密な施肥というものが早くから意識されていて、元肥と追肥の使い分けといったものもおそらく世界で最も早く認識されていたように思われる。

そこに、元禄期に至って自給的でない購入資材による施肥が始まるのである。その遠因は城下町の成立と石高制(米本位制)にある。江戸幕府は一国一城制を定めて支配階級たる武士を城下町に居住させたが、それにより急速に都市が発達した。一方で、租税収入たる米は、もはや食料というよりもお金であり、一度大坂(大阪)に集められた米を売却して現金化し生活必需の品と交換する必要があった。このため商人が取引を仲立ちし、商人経済が活発化していくことになるのである。商業には極めて冷淡で、農本主義的な政策を実行した江戸幕府であったが、結果的には商人たちが活躍する時代が到来したのである。

財力を蓄えた商人たちは、食においても嗜好品を求めた。野菜や果物を食するのにも、各地のものを比較した上で最良のものを消費したのである。これにより、産地間の競争が促され、やがて競争に勝った産地がブランド化を成し遂げていく。例えば、「丹波の栗」のように地名を冠した食材が一般的になっていくのがこの頃である。農産物の商品化・ブランド化が進んだことで、ブランドカタログたる『本朝食鑑』が刊行されたことでも当時の事情が窺える。

こうして名産地が確立され、財力のある商人が高値で農産物を買うようになると、人糞、厩肥、刈草などといった身の回りにある自給的肥料だけでなく、干鰯、油粕といった高価な購入肥料を使うことができるようになる。もちろんそれには、各地を結ぶ海運の完備が前提となっている。全国各地から大坂に海運で米が集められることの当然の帰結として、京阪地域は海運が充実していた。そして商人経済の中心地である大坂へ農産物を卸せる立地的有利性もあって京阪地域の農業は自給的な段階を脱し、商業的なものへと進んでいった。高価な肥料を使うことから、おそらく当時としては世界最高水準の肥料論が確立されたのである。そして園芸作物の管理においてもその精密なことは著しいものがあり、ほとんど現在の水準と変わらない管理手法が採られている。

しかし『農業全書』の精華はそれ以上に発展させられることなく、多くが翻訳であることも認識されないまま、農書の王様の地位に鎮座し続けた。そしてついに西洋農学が輸入されるまで、我が国独自の科学的農学が生み出されることはなかったのである。その点について、古島敏雄は『学者の農書と百姓の農書』という悲痛な短編で述べている。

結局の所、我が国の農書には、現実を観察し、過去の権威に逆らってでもそれを理論化しようとする意志が欠けていたのである。 百姓と共にあったはずの二宮尊徳ですら、農業指導において「詩に曰く、易に曰く」と儒者らしく前置きを述べるように、世界の真理は古代の聖典が既に明らかにしており、それを理解することこそが「学者」であるとする世界観から脱することができなかった。むしろ儒学を知らない百姓こそが、精確な現実の観察に基づき、科学の萌芽とも呼べる農業実験を行い、新知識を体系化するということもないではなかったが、そういう場合においても、明の『農政全書』を始めとした権威的書物と異なった結論、あるいは書いていない事柄であるというだけで、間違っていると決めつけられ、ささやかなる新知識を発展させていく芽を摘まれてきたのであった。

農学の歴史というと、農学の徒にも、歴史学の徒にも興味を惹かれないようなニッチな分野であるが、そこにも日本の学界が抱える問題が先鋭的に現れているように思える。古代より先進的農業技術を持ちながら、また大陸の農書という先蹤もありながら、千年間の長きにわたり一冊の農書もものされず、やっと『農業全書』という体系的な農書ができたと思ってみれば多くが大陸の農書の翻訳であり、それが絶対の権威を確立してしまうというのはどうしてだろうか。『農業全書』で世界的レベルに達したはずの肥料論も、商人経済の停滞と共に以後発展することもなかったようだ。

そして、『学者の農書と百姓の農書』は戦後すぐに書かれたものだが、このような問題は現在でも全く色褪せていないように思われる。いやむしろ、絶対の権威を措定し、そこで思考停止するというパターンは、社会の停滞と共に強化されているのではないかとすら思える。最後に、同短編から古島の叫びを引用したい。
かつて見られた百姓の経験主義・実験的態度は、近代科学の同様な態度によって鼓舞されることなく消失し、改良を拒む伝統主義非能率を誇りとする勤労主義として、最も惨めな面のみを残して、近代科学研究者としての農学研究者を農業研究・現実研究から引き離していく契機となってしまった。
「百姓」を自認している私である。「絶対の権威」を気にすることなく、現実を直視していきたいと思う。

【参考文献】
『古島敏雄著作集 第5巻』1975年、古島敏雄

2013年9月1日日曜日

萬世酒造の「松鳴館」には万世の古い記憶が展示されています

吹上浜海浜公園の隣に、「松鳴館」と名付けられた萬世酒造の瀟洒な建物がある。ここには醸造の展示施設が併設されているのだが、実は絵画も展示されているらしいと聞いて見に行ってみた。

しかし、同社のWEBサイトにもほとんど情報がないこともあり、「どうせ焼酎ブームの頃に社長が趣味で買い集めた適当な絵が、脈絡なく飾ってあるんじゃないの? 瀟洒な建物は税金対策では?」などと不遜な考えで行ったのだが、これはとても真面目な展示である。

醸造の展示は今時珍しくもないが、感心したのは絵画だ。ここに展示されているのは、野崎耕二さんという方が万世の昔を描いた作品群。萬世酒造が吹上浜海浜公園の隣の旧自動車学校跡地に移転してきたのは2005年で、それまでは万世小学校の近くにあった。野崎さんは、この昔の萬世酒造の3軒となりの家に生まれたらしく、小さな頃は焼酎の量り売りを買いに行かされたという。

野崎さんは1937年生まれ。万世小学校、万世中学校を卒業し、薩南工業に進んだ。1957年に上京し、やがてイラストレータとして独立したが、1983年に筋ジストロフィーと診断されたことをきっかけに「一日一絵」を描き始め、30年近く続いている(現在も続いているのかは不明)。

この野崎さんは、現在は千葉に在住であるが、自分が小さい頃に過ごした万世を思い起こし、素朴なタッチで戦中戦後の日常生活を描いた作品を多く製作している。その作品群がこの萬世酒造に展示されているわけで、描かれているのは何気ない昔の風景に過ぎないが、逆に今では失われ忘れられたものであり、貴重な歴史の資料である。

また、絵に添えられた短文がいい味を出していて、素朴な絵をいっそう素朴な気持ちで見ることができる。万世出身のある年代以上の人がご覧になったら、きっと「ああ、こんな時代だったなあ」と懐かしがること必至である。今回はフラリと寄ったのでじっくりと見る時間がなかったが、いつか一枚一枚をちゃんと見てみたいと思う。

どうしてこういう展示施設を作ろうと思ったのかは分からないが、「万世(萬世)」の名を掲げる萬世酒造なだけに、地元の古い風景を大事にしようと思ったのだろうし、野崎さんの仕事をしっかりと残していこうという使命感のようなものを持ったのかもしれない。絵画の展示スペースは決して大きくないが、真摯さを感じる展示であった。

一方、瀟洒な建物の方は、なんだか大正ロマン風の贅沢な造りで、こちらは本当に税金対策で作られたものかもしれない。展示施設の案内の方に聞くと、「詳しい経緯は知らないが、萬世酒造は薩摩酒造の子会社なので、薩摩酒造の考えでこうした施設にしたのでは」とのことだった。言われてみると、枕崎の薩摩酒造のハデな建物(明治蔵)と相通じるものがあるような気もする。

ちなみに、この松鳴館でしか買えない焼酎があって、それは2006年秋季全国酒類コンクール本格焼酎部門総合1位を獲得した「萬世松鳴館」である。せっかくなので、私はアルコールは飲まないがこいつの原酒(アルコール度37度)を買って帰った。

ここはWEBにもパンフレット等にもその情報は少なく、なぜか萬世酒造自身があまり広報していないが、万世出身の方は何かの機会に寄ってみて損はないと思う。松籟(しょうらい)の響く地に、万世の古い記憶が静かに展示されている。

【情報】
薩摩萬世 松鳴館 
南さつま市加世田高橋1940-25

TEL: 0993(52)0648
見学/9時-16時(休館:第3日曜日、年末年始(12/30-1/2))
※見学は年中可能。ただし、焼酎製造の時期は9月中旬-12月初旬

2013年8月27日火曜日

南薩には、かぼちゃのシーズンが年に2回あります

ここのところずっと、何もかもが砂漠のように乾いていたが、昨日久しぶりの本格的な雨が降った。

この雨を期して先週秋かぼちゃの種を植えており、それがちょうど今日発芽していたので、これはまさにベストタイミングな恵みの雨だ。

例によって先輩農家Kさんの絶大なる協力を得て、今年も秋かぼちゃをやらせていただくことになり、惨憺たる有様だった昨年の秋かぼちゃのリベンジを果たそうと目論んでいるところだったので、幸先のよいスタートにひとまず安心である。

ところで、私も特に意識していなかったのだが、南薩ではかぼちゃを春と秋の2回作付するということが特徴の一つである。かぼちゃというのは、夏野菜ではあるけれどやや涼しい気候を好むので、時期を工夫すれば北海道と東北を除く日本の多くの地域で春秋2回の作付が可能であるように思うが、実際に2回作付しているところは少ないようだ(多分、鹿児島以外にはなさそうである)。

その理由はいろいろ考えられるが、第一には経営作物としてあまりうまみのないかぼちゃをわざわざ1年に2回も作る利点がないということがあるだろう。それに連作を嫌うかぼちゃを1年に2回も作っていたら、度重なる土壌消毒などで土がすぐにバカになってしまうという理由もあるかもしれない。

では、なぜ南薩では春秋2回作付するのだろう? 南九州では4月から5月にはかぼちゃが出来て初物として高値で取引されるので、春にかぼちゃが作られるのは合理的としても、どうして秋にも作付するのだろうか?

それは南薩の早期水稲と関係がある。ご存じの通り、南薩の西部は早期水稲の産地で、新米の季節は8月である。普通は、お米の収穫時期は10月だから、米の収穫後に2毛作で何か作ろうとしても時期的に選択肢は限られるが、早期水稲の場合、8月に田んぼと労働力が空くわけなのでその後いろいろ作ることが可能である。

そして8月というのは、かぼちゃを作付するには霜が降るまでに収穫まで漕ぎ付けるギリギリの時期で、南薩のかぼちゃの多くは、この収穫後の田んぼを利用して作られているのである。収穫後の田んぼというのは、何も作らなくてもどうせある程度の管理が必要になるわけで、であれば何か作付する方が得策である。そのため、南薩の早期水稲収穫後には、蕎麦やかぼちゃといった短期集中型の作物が植えられることになる。しかも水稲後の作付は、土壌消毒の必要がなく経済的かつ健康的である。

さらに、12月は北海道からのかぼちゃが切れる時期にあたるので、市場的な価値も高い。…ということになっていたが、今では輸入ものがあるのでスーパーには一年中かぼちゃがあるし、貯蔵施設の整備などで北海道のかぼちゃも随分遅くまであるため、鹿児島の秋かぼちゃの価値が揺らいでいる面がある。

その上、秋は台風シーズンに当たるため、秋かぼちゃは博打性が強い。昨年の秋かぼちゃが惨憺たる有様だったのは、播種時期の長雨ももろんだが、台風が(直撃でなかったとはいえ)4回も来た影響が大きい。天候のことは人の手ではいかんともしがたいわけで、秋かぼちゃの生産は不安定にならざるを得ない。

しかしながら、1年に2回かぼちゃのシーズンがあるということは他にはあまり見られない特色なので、今まで誰もこれをアピールしようとした人はいないみたいだが、何か活かす道があるのではないだろうか。少し考えてみても何も妙案は浮かばなかったが、いいアイデアがある人はぜひご高教願いたい。

2013年8月19日月曜日

オフ会、じゃなくて加工所OPEN記念「茶飲み話の会」を開催します

ちょくちょく、食品加工業に手を出したい、という記事を書いてきたのであるが、「南薩の田舎暮らし 加工所」を8月24日にオープンさせる運びとなった。

まあ、いわゆる農業の6次産業化というやつで、自分で作った農産物や、地域で生産されているものを使って、なんだか楽しい商品を生み出していきたいと思っている。

本来、「農家は、農業自体の生産性向上に心を砕くべき」というのが当然の話で、私のような農業初心者が加工にまで手を出すのは危険なのであるが、やはり加工までできると農業や販路の幅も広がるし、何より地域にある美味しいものを「商品」という形で可視化できるのは大きいのではないかと思っている。

手がけるのは、さしあたりジャム製造。これは保健所の許可が取りやすくて食品加工の初心者には最適な業種である。最初の商品は、以前ブログに書いたことがある「かぼちゃのコンフィチュール」で、つい先日、家内との試行錯誤と激論の末にようやくラベルのデザインが決まったところである。既に当地でかぼちゃの季節は終わっているので、冷蔵庫に保管している分しか原材料がなく、すぐに本格製造というわけにはいかないが、とりあえず第一号の商品は初志貫徹でこれに決めた。逆に言えば、すぐに第二号の商品が必要になるのだが、それについては検討中である。

要するにこれは、緻密に計画されたというよりも、走りながら考えればいいや、というやや先走りのオープンである。それでも、やはりセレモニー的なものがあった方がよかろうということで、8月24日(土)には「加工所OPEN記念 茶飲み話の会」を開催することにした。

文字通り「茶飲み話」をするということで、それ以上のものではないが、近所の方にも「あれは何を作るところなんだろう?」と不思議に思っている方もいるだろうし、お披露目というか、申し開き(?)の機会としてもいいのではないかと思う。

それに、嬉しいことに、地域の方にもこのブログを読んで下さっている方もたくさんいるようなので、私としてはオフ会(=オフラインの会合。ネットでしか知らない人と現実に会う機会、みたいな意味です)の意味も兼ねてお知らせしたい。ということで、別段食品加工に興味はなくてもかまわないので、「ブログ見てるよ!」という暖かい言葉を掛けてくださる場合は、ぜひ「茶飲み話の会」にお越し下さい。

【情報】南薩の田舎暮らし 加工所OPEN記念 「茶飲み話の会」
ネットショップ「南薩の田舎暮らし」の小さな食品加工所が出来ました!
最初に作るのは、特産のかぼちゃを使ったコンフィチュール(ジャム)です。

これから地域の食材を使った加工品を作っていく予定ですので、どうぞよろしくお願いします☆


加工所OPEN記念「茶飲み話の会」

 8月24日(土)
 16:00~19:00

冷たい飲み物や手作りのお菓子、お土産をご用意してお待ちしています。

少し風が出てくる夕暮れ時、加工所の前に出したテーブルを囲んで、お茶をしたりお話したりしましょう。文字通り「茶飲み話」なのでアルコールはありません!持ち込みは可です(笑)
「ちょっと5分だけ」の方も、「初めまして」の方も大歓迎!お気軽にお立ち寄り下さい(*^^*)

<場所>
南薩の田舎暮らし 加工所
南さつま市大浦町10951-1
当日連絡先:090-5767-9768(窪)
【行き方】
(1)南さつま市役所大浦支所前、県道272号線を南下
(2)西福寺のある三叉路を右折
(3)「原」のバス停を過ぎてから300mほど先に右手に「亀ケ丘登山口」という小さな看板がある交差点があるので、そこを左折 (←ここがわかりにくいです)
(4)道なりに行くと右手に真新しい小さな建物がありますのでそこが加工所です。
※google mapsでは正確な位置が表示されません。

2013年8月17日土曜日

加世田には鹿児島に2店舗しかないマックカフェの第1号店がなぜかあるんです

少し前の話だが、加世田マックカフェ(McCafe by Barista)が出来たというので行ってみた。

都会にいた頃はよくスターバックスやエクセルシオールカフェで勉強したり、読書したりしていたが、こちらに越してきてからはそういう場所も(お金も)ないので少し寂しく思っていた。

そんなわけで、都会にいる時はマックカフェなんて歯牙にも掛けなかったのに、むしろ物珍しいくらいの気持ちでマックカフェに行くことにしたのである。田舎に住んでいると都会に普通にあるものに憧れるようになるんだなあ、としみじみ感じるし、逆に考えれば、都会にいる人は田舎に普通にあるものに価値を見いだすんだろう。都市も田舎もお互いに無い物ねだりをしているわけで、人間というのは単純である。

さて、このマックカフェ、BGMが安っぽいことを除けばとても都会っぽい出来で、割といいシートが使われているし、電源用コンセントもある。それになにより無料のWi-fiが使える。これで加世田でもノマドぶって仕事できる(=特定のオフィスを持たずにカフェなどで仕事することやそういう人を、最近「ノマド」と言う)が、加世田でどういう使われ方をすることを想定して作ったのか分からない。加世田にはまさかノマドはいないと思うが…。

純粋に収益性だけで考えた場合、このおしゃれな(しかも24時間営業の!)マックカフェよりもごく普通のマックの店舗の方が田舎の場合はいいと思うし、だからこそ鹿児島県にはマックカフェは加世田と易居町の2店舗しかない。というか鹿児島県で最初のマックカフェがこの加世田店らしいのだが、どうしてここに最初に作ろうと思ったのかが謎だ。いわゆるリープフロッグ型発展(何もない途上国の方が既得権的なものが存在しないので、かえって最新の技術が先進国より早く導入される現象)みたいなものだろうか?

というわけで、ここにいるとなんだかとても場違いな場所にいるような気分になってしまう。でも同時に、少し東京時代を思い出してなつかしくもある。先日は近くにある古本屋「ほんダフル」に寄ったらソルジェニーツィンの『収容所群島(第1巻)』が100円で(!)投げ売りされていたので喜んで買い、そしてこのマックカフェに入ったのだが、古本屋で掘り出し物を見つけて、それをカフェで眺めるという極めて都会的な行為が加世田でもできるようになったわけだ。年に2度くらいは、そういう日があったらいいと思う。

2013年8月14日水曜日

農産物の世界の「言葉狩り」

各国の有機認証ロゴ
無農薬」という言葉は、今や使わない方がいい言葉、ということになっているのをご存じだろうか?

ついでに言うと、「減農薬」も使わない方がいいし、「無化学肥料栽培」なんてのもそうである。例えば、現在「南薩の田舎暮らし」で発売中の狩集農園の「お家で食べているお米」は「減農薬」又は「無農薬」に該当しているのだが、積極的にはそう書いていない。

どうしてダメか? というと、実は農林水産省に「特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」というのがあって、このガイドラインの中で「無農薬」などの言葉は使用が禁止されているのである。

ではこれまでの「無農薬」は、農水省のガイドラインに沿って正しく言い直すとどうなるのかというと、「特別栽培農産物(農薬:栽培期間中不使用)」というやたら長ったらしい表現になってしまうのである! ただし、正確にはこれは無農薬なだけでなくて、化学肥料も慣行よりも5割以上削減していた場合で、そうでないと「特別栽培農産物(この言い方自体がもの凄く野暮ったい感じの悪いネーミングだと思う)」に該当しないので、ガイドライン上はそもそも表現することができない。

どうしてそんなバカなガイドラインが出来たのかというと、一応の理屈はある。「減農薬」「無農薬」といった言葉が農家それぞれの考えで使われてきた結果(※)、一般と比べて大して使用農薬が少ないわけでもないのに「減農薬」と表示されたり、残留農薬の可能性がある(前作に農薬を使っていたなど。根菜類とかの場合)のに「無農薬」と表示されたりということがあり、消費者にとって実態がわかりにくい状態になっていたため、これをわかりやすく整理し、適正な表現に改めるため制定された、というのが建前である。

しかしまことしやかに言われているのは、一部の有機農家から『「無農薬」が「有機栽培」よりいいものだと勘違いする消費者が多いので、「無農薬」という言葉を使わせないで欲しい!』という強い要望が提出されていたため、という説だ。

「無農薬」と「有機栽培」の違いが分かっていない人は確かに多いし、「無農薬」の方が優れていると誤解している人も多いだろうが、だからといって「無農薬」という言葉を使わせないようにするというのは、ちょっと行き過ぎである。「無農薬」というある程度市民権を得た言葉の命脈を絶って、「特別栽培農産物」という役所的な言葉で代替しようとするのはそもそも無理がある。「特別栽培農産物」と表示されていても、どれくらい有り難いのかよくわからないから消費者が手を出さない。消費者が手を出さないから普及しない。結果的に、特別栽培(化学肥料5割減、農薬5割減のこと=ちょっと環境に優しい農業)を普及させようという意図とは逆に、消費者の嗜好は、慣行か有機か、に二極化しつつあるように見える。

そしてガイドラインの認知度がいまいちなためか、今でも「無農薬」と謳われた農作物はたくさん売られている。このガイドラインには法的拘束力もないので、別に違反しても罰則があるわけではない。それ以上に、あまり浸透していないので、「無農薬」という言葉は使わない方がいい、ということ自体が食品業界でもまだ明確には意識されていないように思われる。法的拘束力のないガイドラインなどで安易に言葉を捨て去るべきではないし、それでいいのだろう。

ついでに言うと、ガイドライン制定の経緯に影響しているかどうかはともかくとして、「無農薬」が「有機栽培」より優れている、という誤解は未だに根強いものがある。しかしその誤解を解く方法は、「有機栽培」の良さを地道に浸透させていくことこそ王道で、「無農薬」を亡き者にすることではないはずだ。

ちなみに「有機栽培」とか「オーガニック」という言葉も認証を受けなければ使えないことになっていて、仮に本当の有機栽培であっても認証を受けずに「オーガニック」などと表示して販売すると、農水省から改善の命令が下り、改善しない場合は販売を中止させられることになる。こちらはガイドラインではなく法律(農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律第19条の15)で定まっているので守らなくてはならない。

こうして「有機」の言葉が法律上強く守られている理由は私にはよくわからないのだが、どうやら国際的なものらしく、認証を受けずに「有機」を謳ってはいけないという条文は世界のスタンダードに合わせて制定されたようである(未詳)。

そこまでしても、「有機栽培」が「無農薬」に負けてしまうというのは不思議な気がするが、一つ思うのは法律に基づく「有機」の表示ロゴがかっこわるい、ということである。まるで「特別栽培農産物」という表現のように生硬な感じがする。そもそも、ロゴの少ないスペースにあまり浸透していないJAS(日本農林規格)という言葉を入れているあたり、バランス感覚が欠如しているのではなかろうか…。

「有機栽培」にプレミア感を持たせ、消費者・生産者ともに魅力を感じてもらいたいと思うのであれば、他の類似の言葉の使用を禁じるのではなく、まずは認証ロゴをかっこよく、またわかりやすくしなくてはならないだろう。諸外国のロゴを並べてみてもあまり魅力的なものはないが、少なくとも他国は「有機=organic又はbio」を全面に出している(EU除く)わけで、なぜ日本が「有機」の文字を出していないのか不可解である。これで消費者に通じると思ったのであろうか?

それに、無認証のものがあってこそ認証済みのものが有り難いわけで、「有機栽培」という言葉を無認証には使わせないという施策は有機栽培推進の上でも誤りだと思う。めいめいの農家が自分なりの「有機栽培」をやり、いろんな「有機栽培」があるからこそ、一定の基準をクリアした「認証有機栽培」が光ってくるのではなかろうか。

無認証のものを黙認すると、「本当には有機栽培とは言えないものが有機栽培として売られるかも知れない!」と危惧される方もいるかもしれない。でもそれなら認証されたものだけ買えばいいわけで、認証されていなくても性善説に立って買おうという人もいるのだから、無認証の有機農産物の販売を禁止する必要はない。

これは「無農薬」であれ「無化学肥料栽培」であれ同じで、こうした言葉を禁止する必要はなく、農家の言葉を信じられない方は「特別栽培農産物」を買えばいいだけの話である(特別栽培農産物は、認証を受ける必要はないが、適切なチェック体制を整え、また使用農薬や肥料などを表示することになっている)。

そもそも、言葉がその当たり前の意味で使われ、誰に保証されなくてもそれを素直に信じる、というのは社会を構成する最も重要な基盤であって、コミュニティに必要不可欠な信頼関係と連帯意識を作るものである。言語を使う上での最低限の条件であると言ってもいい。それを言っているヤツはウソつきかも知れない、という疑いを抱き始めると、究極的には信じられるものは何もなくなってしまう。

こういうことを言うと、「でも現実に悪いヤツはいる」という反論があるだろう。しかし悪いヤツを排除するために無闇に言葉狩りをしていると、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたように、我々はダブルスピーク(思っていることと違うことを言う話し方)をしなくてはならなくなる。「言葉狩り」というと大げさだが、「無農薬」とか「有機」とかを自由に使えない、という問題は、些末なことに見えて実は、我々の社会のほころびを暗に示しているのかもしれないと感じている。

※正確には、「無農薬」などの言い方も「特別栽培農産物に係る表示ガイドライン」になる前の旧ガイドラインで規定されていたもので自由に使われていたわけではない。