2014年12月13日土曜日

「地方創生」にほんとうに必要なこと

先日の記事で、「私は、地方経済を発展させるには国家レベルではどうしたらよいか、ということに関してはある明解な考えを持っている」と書いた。

今回は、それについて少し述べてみたい。

最近「地方創生」が話題になっていて、現在明らかになっている所でいうと「やる気のある地方自治体には交付金をプラスしましょう」という方向性かと思われる(たぶんバブル期の「ふるさと創生事業」で交付金をバラマキした反省だろう)。それは短期的にはさほどの意味はないと思う。しかし長期的には「奮わない自治体の交付金は減額すべし」ということになるかもしれず、それは手痛いことではあるが意味がある。

しかし全体として、巷間言われている議論を見ていると、「地方創生」に本当に必要なことが意識されていない政策であると疑っている。

なぜなら私は、「地方創生」つまり地方経済の発展に必要なことは、逆説的であるが、東京などの大都市の発展しかない、と思っているのである。


おそらく多くの人は、何をバカな! というだろう。それこそ「国土の均衡ある発展」とかいわれていたように、随分前から東京への一極集中をどうやって緩和するか、というのが日本の大きな政策課題だった。「地方創生」が話題になってきたのも、アベノミクスなどで大都市圏の景気が上向きになる中、地方経済が置き去りになっていることが改めて浮かび上がってきたからであろう。

ともかく、「日本の社会・経済はあまりに東京へ一極集中しすぎているので、いつまでも地方経済が浮揚しないのだ」というのがもう数十年来いわれてきたことなのである。

しかし、私は今、それは壮大な誤解であったと言いたい。

なぜか。それは、「地方経済」などというと地方に独立した経済圏が存在しているように思いがちであるが、実際には地方経済というのは大都市の経済に従属しており、ある意味ではその副産物に過ぎないからである。

もちろん「地方経済」と一言で言っても、福岡のような百万都市から、南さつま市のような僻地の小さな街までいろいろある。福岡を大都市の副産物というのも少し過激だろうから(福岡自体が大都市だろう)、もっと穏当に言えば、「農村的地域は大都市に従属した存在である」ということになるだろう。

これは個人的には、農村経済学の基本定理、としたいほど重要な事実である。

農村的地域、つまり田舎(鹿児島県もそれにあたる)で商売をやっている人は、このことは肌で分かっていると思う。文明的な商売を行うためのほとんどの物品や設備は、都会で製造されているからである。そして仕入れ品の価格は、田舎の経済状態(需給バランス)ではなく、それが消費されている都会のそれに応じて決まっているのである。

よって、農村的経済を発展させるには、大都市が豊かになり、その恩恵が受けられるようになることが第一なのだ。

これにはたくさんの反論があるだろう。物事を単純化しすぎだし、脇が甘い議論であることは承知の上だ。

だが考えてみて欲しい。今の田舎がどうして豊かになったのか。私は、「昔はこのあたりはとても貧しくて云々」という話をよく聞かされるのだが、なぜその悲惨な最底辺の生活からそれなりに豊かな生活を送れるようになったのか。

私は「経済発展の根本には「創意工夫」がある」と書いた。 では、昔の人は「創意工夫」がなかったから長い間最底辺の生活に甘んじなければならなかったのだろうか?

だが、伝えられているところによれば、昔の人の方が体は丈夫で、ものすごく勤勉で、しかもかなり前向きに仕事(農業)に取り組んでいたようなのである。今でこそ惰性的組織の代表のように言われる農協だけれども、50年前は農協というのも随分熱い職場で、これからの農業を変えるんだという気概に満ちていたらしい。そういう我々の先祖がどうして貧しかったのだろうか。

答えは簡単である。その頃の日本の都市は、多くの農村を支えられるほど豊かではなかった。都市自体が、貧しかった。もっと素っ気ない言い方をすれば、GDPが低かった。よって、農産物の価格は低かった。現代の社会において、日本の農家よりも遙かにたくさん生産する発展途上国の農家の所得が低いのは、単にその国の購買力(≒GPD)が低いからなのと同じことである。

日本の農業生産高は世界5位くらいの金額があるが、それは農業生産が盛んだ(生産量が多い)ということでなくて、日本が世界で3位の経済大国であるため、農産物が高く買われているからである。

つまり、日本の農村的地域がこの50年で格段に豊かになったのは、日本が技術立国として成長し、貨幣価値が高まり、世界の中での購買力が大きくなって、農林水産物が高い価格で購入されるようになったからなのだ。

もちろん、農林水産物をただ売るだけでなく、それで得た富を投資して地域経済の自給率を高め、生産物を多様化していったことは地方経済にとって重要であった。もしそういうことがなければ、今でもその地域はただ農産物を生産するだけの場所であり続けているだろう。

しかし本質的には、今でも農村的地域の経済は都市に多くを負っている。それは、巨大な購買力は都市にしか存在しないからであり、地域の主要生産物が工業製品へと遷移したとしても、重要な顧客はやはり大都市に違いないからである。地方的都市には、需要が絶対的に不足しているのだ。

商売がうまくいくコツの一つは、いかに優良な顧客を摑むか、である。日本の農村にとって、大都市という優良な顧客が存在したからこそ、農村は地方都市へと発展していったのである。

だから今、「地方が疲弊」しているとしたらそれに東京への一極集中はほとんど関係がない。その原因は単に、この20年続く不況のせいである。優良だったはずの顧客の購買力が落ちているからである。すなわち、大都市の経済が停滞しているからである。

そういう観点でいうと、今ものすごく不安な現象がある。最近、若者が大都会から田舎に移住することが多いということだ。それも夢破れて故郷に帰るわけではなく、才覚と意欲を兼ね備えた有能な若者が、フロンティアを目指して田舎に移り住むのである。というか、私もその中の一人かもしれない。

田舎に住む身としては、どんどん面白い人に移り住んできてもらって、地方を活性化してもらいたいと思う。しかし逆から見ると、今の時代、大都会(ほぼ東京だ)の魅力が、そういう目端の利く聡い若者にとって魅力がなくなっているということになる。これは大変ゆゆしき事態である。

最も創意工夫に溢れ、経済発展の原動力となるべき若者が田舎へ行ってしまい、 大都会には二流の人材しか残らなかったらどうなるのだろう。そんな極端なことは起こりえないだろうが、都会から田舎への人材の流出は一つの象徴でもある。東京はもはや有能な人に見捨てられる都市だということだからだ。

そうなると、若者の移住で短期的には田舎が活性化しても、それは早晩行き詰まることになる。なぜなら、巨大な需要を抱えた購買力ある大都市が存在しない限り、田舎の経済は決して発展しないからである。仮に東京が経済的に沈没すれば、田舎も道連れになることは確実だ。生産資材は手に入らず、高度な機器(PCとか)は高価になり、燃料光熱費は高騰する。そういう中で、田舎においてこれまで通りの生産を行うというのは難しいし、もっと言えば文明的生活を送るということ自体がかなり難しくなるだろう。

繰り返すが、地方経済を発展させるただ一つの方法は、大都市の生産性の向上、これに尽きる。地方がいくら生産性を向上させても、その生産物を買う顧客がいない限り、生産性の向上は無駄になる。悪くすれば、生産性が向上した分だけ人の首を切る羽目になる。経済成長のためには生産性の向上は必須であるが、それはマクロ(大局的)に見た話でしかない。

例えば、鹿児島県でトマトの画期的栽培方法が開発されて、今までの3倍収穫できて品質もよいトマトが生産できるようになったとする。すると、鹿児島県は熊本県との競争に勝って熊本のトマト産業を潰滅させることができるだろう。それにより、鹿児島県はこれまで熊本がまかなってきたトマト需要を奪うことができる。

だがそれが「地方創生」なんだろうか? 今までの3倍収穫できるトマトは、熊本県との競争に勝った後、きっと価格が1/3になるに違いない。経済学はそう予言する(価格は限界費用に等しくなるため)。それで勝ったのは誰なのだろう? トマトの価格が1/3になった消費者なんだろうか? 熊本でトマトを生産していた人は失業し、トマトの価格は1/3になってしまい、地方には誰も勝者がいないように見える。

限られたパイの奪い合いにしのぎを削ることは、消費者の利益にはなるが地方を発展させる原動力にはならない。いくら生産性を向上させても、それに応じて大きくなる需要がないかぎり、その努力は無駄になるからだ。だから、パイそのものを大きくしなくてはならない。そのためには、大都市が繁栄することしか道はないのである。地方のパイは、そもそも小さすぎる。

だから、私は、「地方創生」のために是非とも東京の活性化をしてもらいたいのである。 「東京への一極集中」というが、政策的な投資という観点でみたらそれほどでもない。地方への再配分政策が長く続けられてきたので、むしろ東京への投資はこれまで足りなかったくらいである。東京のインフラは世界の活気ある都市と比べて見劣りする。渋滞は日常茶飯事だし、下水道も時代遅れだ。今こそ東京を魅力ある都市に再生すべきである。オリンピックも控えている。東京が生まれ変わる絶好のタイミングではないか。

そして、「地方創生」に使われるような政策こそ、東京へ向けて使うべきだ。例えば、各種の特区制度は東京でこそ実行してほしい。

そして日本経済の最大の足かせになっている、旧態依然とした経営陣を入れ替える新陳代謝を促す施策が重要だ。私の僅かな経験でいうと、東証1部上場クラスの大企業でも、役員のレベルはあきれるほどである。一方で、50代以下の人にはまともな人が多く、30代以下でいうと人間的にも穏やかで気が利き、真面目で責任感のある人が多い。なにより、インターネットと英語圏への理解が桁違いである。

日本の将来を考えると暗鬱なことばかりであるが、若い人に有能な人が多いというのが唯一の希望である。早いところ上の世代に引退してもらい、若い人が主導権を取れるようになれば東京はもっともっと面白い都市になるはずだ。 そして都合のよいことに東京には大企業の本社がたくさんある。東京で何かちょっとした規制をすれば、ひょっとしてそういうことも可能なのではないか?

文化面でもそれを後押しできるかもしれない。早期退職することが、本当に有能な経営者の証しであるというトレンドができたら面白い。老いてなお現役はいいとしても、引退するまで経営に携わることがみっともないことだという風潮ができないものだろうか。そして人生の後半には、細川護煕のように田舎に隠遁して陶芸をしたり菜園をしたりするのが最高の贅沢だという風にならないだろうか。老人こそ田舎に敬して遠ざけ、都会では若者にチャンスを与えるべきだ。

今、田舎が、有能な若者にとって挑戦しがいのあるフロンティアなのは間違いない。しかし長期的には、大都市が栄えない限り田舎の発展もない。本当に有能な若者には大都会を手中に収める夢を描いて欲しいものである。東京を世界で最も魅力ある都市にすることが、地方の発展にも繋がるのである。

2 件のコメント:

  1. 書物周遊もいくつか読ませてもらいました。イスラムの歴史や農業にまで関心を深めていられることに驚きました。

    ジェイコブズについては、「経済が発展する原動力(その2)」に書かれているような異論はいろいろ可能かと思いますが、一番重要なことは、地域が経済的に発展する(=いきいきと生きることができる)ために考えるべきいちばん重要なことは、ここ(「地方創生」にほんとうに必要なこと)に書かれていることを意識した上で、地域でなにができるか考えることだと思います。それなしに、工場誘致に走っては、あるいは工場誘致がうたい文句では、やはり地域は衰退していかざるを得ないでしょう。

    その目のつけどころですが、これもジェイコブズどおりでなくてもよいと思っています。ジェイゴブズは「輸入置換」を強調していますが、これから都市に発展していけるところならそれでいいでしょうが、そうでないところでは輸入置換したくてもできないものが多いと思います。「置換」と同時に、やはり都市向けに売れる商品を作ることだと思います。

    ネットショップには、大きな可能性を見ながら、じっさいには苦戦されているようです。しかし、てまの問題なども、受注・発送業務を共同化できる程度にいくつかの農家と製品が生まれてくれば、すこし楽になるのではないでしょうか。そういう仲間を作る機会のひとつとして、ジェイン・ウォークは役立つかもしれません。

    「加世田のかぼちゃ」(2015年3月15日)の話なども、とても良い例のように思いました。きちんと宣伝する(わかってもらえるよう、コンテンツを作る)ことも、風狂さんのような方でないと気が付かないのでしょう。

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    1. 塩沢さま

      ブログをたくさんご高覧いただいたようでありがとうございました。素人の批判でお恥ずかしい限りですが、ジェイコブスには経済学者が見落としている人間活動の実態への眼差しがあり、基本的にその主張には賛同できます。

      自分自身、衰退しつつある地域に居住していて思うのは、地域おこしなどのかけ声はあるのですが、結局「自分たちがどう変わりたいのか」という意欲がないということです。ただ、今までと同じような経済が続いていけばよいという漠然とした気持ちだけがあるのです。しかし自分が変わろうとしない限り、発展というものはありえないと思います。大げさに言えば、人類の文明というものは進み続けなければ死んでしまう魚のようなもので、現状維持で十分と思った時に既に衰退の道に入ってしまうのでしょう。

      ただ、私自身の取り組みは苦労ばかりが多く結果は出ていないですが、多くの人に支えられ、今のところ楽しくやっています。人びとが楽しんで人生を送る、ということが、経済活動を発展させる真の原動力であると思っておりますので、そういう楽しく暮らせる地域を作ることが我々の使命だろうと考えています。

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