2021年2月26日金曜日

もうひとつの世界

娘から「お父さんは本なら何でも買ってくれるよね」と言われる。

自慢じゃないが(って本当に自慢じゃないが)、うちは貧乏である。世帯年収が150万円くらいしかない。田舎じゃなかったらとてもじゃないが生活できないレベルである。でも、子どもの本は割と気軽に買う。

勉強が出来るようになって欲しいとか、国語力がつくようにとか、物知りになって欲しいと思ってやっているわけではない。まあ、ちょっとは「文学に親しんで欲しい」という気持ちもあるが、ラノベみたいな本だって買ってあげるのにやぶさかではない。

なぜって、本は、我々が必要な「もうひとつの世界」をくれるものだからだ。

実は、娘には小さい頃、「もうひとつの世界」があった。所謂「イマジナリーフレンド(見えない友だち)」である。こちらに移住してきてから1年くらいの間、3歳だった娘は保育園でも特定の先生以外とは誰ともしゃべらず、もっぱら一人の世界に没入していた。ところが彼女の中ではそれは一人ではなく、見えない友だちがいたのである。

彼女は本当にその友だちが実在していると考えていて、一度親を連れ回して友だちの家に遊びに行こうとしたことがある(当然、家はみつからなかった)。

「今日は○○はこんなこと(←大抵は失敗)をした。○○はとてもナントカが好きなんだ。○○はいうことを聞かない」——娘からは、毎日、見えない友だちについての事細かな話を聞かされた。それは彼女にとって紛れもなく現実に見聞きした話だった。

もしかしたら、こういう話は少し異常に聞こえるかもしれない。でも実は、イマジナリーフレンドの存在は小さい子どもにはよくあることで、正常な発達過程に起こることである。ただ、その時には、彼女にとって移住後に激変した暮らしが、少しばかり受け入れがたいものだったのかもしれない、というのも事実である。

いや、仮に現実が受け入れがたいものでなくても、それどころか毎日が充実していたとしても、子どもでも、大人でも、我々は「もうひとつの世界」へ気軽に赴いて、少し羽を休めてみるということが、断然、必要だと私は思う。

もちろん「もうひとつの世界」は、人それぞれ違う。コスプレがそうだという人もいる。マンガを描いたり、ギターを弾いたり、温泉に入ることの場合もある。それは、ただ「趣味の時間も大事だ」ということではない。そうではなくて、この冴えない現実とは違った論理で作られた世界に身を置くことが、人間にはぜひとも必要なのである。

私にとって、それは本の世界だった。

どんなに忙しい時でも、寝る前のたった5分だけでも、私は本を開く。そうすると、嫌なことがあった日も、逆に浮かれて興奮していた日も、なにか憑き物が落ちたかのように心が静まり、安心して眠りに落ちることができるのである。

私の毎日はもちろん冴えないものだが(じゃなかったら年収150万円のわけがない)、かといって失敗の連続とか、ストレスが絶えないなんてこともなく、地味に穏やかに過ぎていくもので、それなりに満足している。ところがやっぱり、私から読書の時間を奪ったら、たぶん窒息してしまうだろう。この現実世界だけが、私の生きる世界なのであれば。

例えば、今読んでいる本はこんなところだ。

まずは最近出版されたジェームズ・フィッツロイ『ガメ・オベールの日本語練習帳』。これはTwitterでの友人が上梓した本。日本語が素晴らしく、しかも内容が深遠であり、もはや日本語の歴史にとって「事件」とも呼べるような本である。でも大切な本なので一度にあまりたくさん読まないようにしている。落ちついた時ではなく、ちょっとした空き時間に開く本である(そうしないとたくさん読んでしまうし)。

寝る前に読むのは、山本七平『現人神の創作者たち』。この本は江戸時代の儒者の正統に関する思想を読み解く本で、引用文の割合がものすごく大きい一方で解説は少ししかないので、けっこう難しい。この本は毎日3ページくらいずつ読んできた。もうすぐ読み終わる。

峰岸純夫編『家族と女性(中世を考える)』は、歴史上、女性の宗教活動はどのように行われてきたのだろうという興味から手にとったもの(本書のテーマは宗教ではないが)。論文集なのでこれもちょっとした空き時間に読んでいる。読書というよりは勉強的な本である。

それから、コーヒーを飲みながら読んでいるのは、『諸子百家』(筑摩 世界古典文学全集の一冊)。古典はコーヒーをお供に読むに限る。これも一度にたくさん読むことはなく、1節毎を味わいながら読む。「墨子」「荀子」「管子」と来て、つい昨日「韓非子」に入ったところである。

最後に、この頃は途中で止まってそのままになっているが、スタンダールの『パルムの僧院』(生島遼一訳)。これは面白くなくて止まっているのではなくて、あんまりにも面白いので、簡単に読み終わりたくなくて止めている(笑)この本は落ちついた時に開きたい。でもその「落ちついた時間」がなかなかないので読めずにいる、という面もある本である。

こういう紹介の仕方をすれば分かるとおり、本の中に「もうひとつの世界」があるのではない。私が言っている「もうひとつの世界」は、本の中に描かれるファンタジー的な世界ということではなくて、本を読むことそのもので展開されていく、現実の日常生活とは違うレイヤーに存在する世界のことである。リアルとは違う「別の人生」と言い換えても良い。

そして、こういう本たちは、私の日常生活の一切に、ほとんど何の関わりももたない。時には仕事上の必要から本を読むこともあるが、基本的に私は「役に立たない」本ばかりを読んでいる。どうやら私の「もうひとつの世界」には、役に立つものはあまり存在していないらしい。いや、たぶん、ほとんどの人の「もうひとつの世界」は、現実には無用なものばかりが楽しく溢れかえっているのが普通だ。

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このたびクラウドファンディングで、近所の空き家を「古民家ブックカフェ」にするための資金集めを始めた。

これは、田舎に徹底的に不足している「もうひとつの世界」の一部を具現化する試みでもある。田んぼと畑と山、学校と家、それからスーパーとガソリンスタンドだけがあるような田舎に育つのは、それはそれで悪くはないが、それだけだったらやっぱり窒息するんじゃなかろうか?

大げさな話かもしれないが、この「古民家ブックカフェ」が、誰かにとっての「もうひとつの世界」の入り口になれたら、と夢想する。森のような木々に囲まれ、古い記憶にあるおばあちゃんちのにおいがする、本がたくさん並べられた空間。冴えない日常から離れて、ほんの少しだけ身が軽くなるような、そんな場所ができたらいい。

「見えない友だち」と会えるような場所に。

 

 ↓クラウドファンディングへのご支援はこちらからお願いします。

2021年2月18日木曜日

日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできるように

「趣味はなんですか?」と聞かれたら、「調べもの」と答えている。

私の趣味は読書だと思われることもあるが、実はそんなにたくさん本を読むわけではない(年間にせいぜい40冊くらい)。そして、面白い本を読みたいという気持ちはほとんどなく、「あれってどうなってるんだろう?」と思って情報を求めて本を開くことがほとんどだ。

だから、自分で本も買うが(というより買える本は買って読む主義)、図書館も意外と使う。意外とどころか、何か本気で調べようと思ったら、すぐ買えるような本には載っていないことが大概だ。どうしても図書館の本に頼らなければならない。

資料のあたりがついていれば、国会図書館の遠隔複写サービスを使う。郷土資料だと、鹿児島県立図書館の遠隔複写も時々使う(でも、県図書の場合は料金を切手(か定額小為替)で送るという非効率的な支払い方法なのであまり使いたくない)。でも複写箇所がわからない場合が多数なので、やはりリアル図書館に行って調べないといけないことも多い。

だが、ここで問題がある。南さつま市の図書館が、貧弱すぎるのだ。もちろん、相互貸借(図書館が別の図書館から本を借りること)によって取り寄せることもできる。しかしその費用を負担しないといけない場合があるなど、気軽には使えない。やっぱり、手近に蔵書が豊富な図書館が必要だ。

そもそも都市と地方には、インターネットなどでは埋めようもない絶望的なまでの情報格差がある。それは、世界の多様性に関する認識の差を形成している。この情報格差を埋めるためにも、図書館の充実は大事である。図書館は、一人ひとりの多様な関心に応え、知らない世界への扉を開き、知りたいことを深めていく場所である。

ところで、もうこちらに移住してきてから約10年になるが、移住前に住んでいたのが神奈川県川崎市の高津区というところ。家から歩いて10分に高津図書館があって、時々足を運んだ。

実は、この高津図書館、住宅街の中にある図書館なのであるが、開架資料だけでいえば、鹿児島県立図書館並みの規模がある。もちろん高津図書館が特別なのではなくて、関東地方ではそのくらいが平凡な規模だ。そして蔵書数もさることながら、特に視聴覚資料(CDとか)は鹿児島の図書館とは全く比べることができないくらい充実している。図書館でCDが借りられるのでツタヤはいらないっていうくらいである。

こういう図書館に気軽にアクセスできるのは、それだけでアドバンテージだと私は思う。ただでさえ地方の子どもは不利な立場に置かれているのに、教育・文化の面で格差が再生産されるのはいただけない。

「どうせ鹿児島は文化のない野蛮な土地柄だから」と人はいうかもしれない。しかし、実はそうでもない。

試みに、高津区と南さつま市の図書館事情を比べてみるとそれが明白になる。公表された統計資料(平成30年度〜令和2年度のデータで構成)をもとにグラフを作ってみた。

 

川崎市高津区と南さつま市の図書館事情比較

蔵書数は、高津区の方が約29万冊で南さつま市より10万冊以上多い。なおグラフにはないが、図書館ごとで比べると、南さつま市で一番大きな加世田図書館の蔵書数が7万5000冊ほど。一方、高津図書館は約25万冊あるので、3倍以上の規模の開きがある。

もちろん、人口が全然違うのでこれは当然だ。高津区の人口は23万人以上あり、南さつま市と比べると20万人多い。ついでにいえば、南さつま市は高津区に比べ面積が17倍もあって、図書館が分立しているから、ただでさえ少ない蔵書がさらに分散している。

では、一人当たりの蔵書数で比べるとどうか。これが調べてみると面白いことで、実は南さつま市の一人当たりの蔵書数は3.80冊で、高津区の約3倍あるのである。

とすると、南さつま市は田舎で文化のない土地だから図書館が貧弱だ、とはいえない。それどころか、高津区に比べ一人当たり3倍も図書館にお金を使っているともいえる(本当は図書の予算決算で比べる必要があるが、その情報が手元にないのでだいたいの話) 。

要するに、南さつま市の図書館が貧弱なのは人口が少ないからであって、図書館にかける行政の熱意(予算)が少ないためではない、ということだ。

でも、図書館の価値は住民一人当たりの本の冊数で計れはしない。それどころか、人口100万人の都市でも、人口1000人の村でも、そこの図書館にあるべき本の冊数・多様性は同じだと私は思う。それは、図書館が住民の「知的な自由」を保障する場であるからで、田舎だからといって知的に不自由するのは仕方ないと諦めてはならない。

では、「知的な自由」を保障できる冊数はどれくらいかというと、日本語だとだいたい20万冊くらいだと思う。別に根拠はないが、いろんな図書館に行ってみての実感だ。これよりも少なくなると、世界の多様性を十分に蔵書で表現出来なくなり、知的世界へのアクセスに不自由をきたす。特に10万冊以下だとそれは非常に限られたものになる。

だから、「日本のどこにいる人でも、蔵書数20万冊の図書館にアクセスできること」が図書館行政の目標であるべきとだ、と私は思う。

でも南さつま市で20万冊の蔵書を揃えたら、一人当たり蔵書数はほぼ6冊。こんな予算はとても組めるものではない。

じゃあ、どうするか。答えは一つしかない。図書館を広域行政化するのである。

例えば南さつま市、南九州市、枕崎市が共同で図書館を運営すれば、蔵書数は30万冊を超えると思う。もちろん単純に蔵書数を足し挙げるだけでは、すぐに蔵書の多様性が増えるわけではないが、各市が独立するよりもずっと事態は改善される。さらに各館ごとに揃えていた資料が1つで済む場合も多いので、予算も節約することができる。

こういう広域行政化は、既にいろんな分野で行われている。例えば、ゴミ焼却場、屎尿処理場といったものである。市町村が組合を作って共同運営するのである。もちろん図書館でも、市町村連合によって他市町村の図書を相互に借りられる仕組みはすでに各地である(例:福岡都市圏(17市町で構成される連合))。

ただ、ただの市町村連合の場合は、選書などは各市町村でやるため、必ずしも規模の経済がきくわけではない。やはり市町村組合のようなもので共同運営することがよいと思う。

ちなみに、組合立図書館のススメは、1963年(昭和38年)に『中小都市における公共図書館の運営』というレポートで述べられ、ごく少数ではあるが設置されたことがある。ただその頃はどんどん経済成長していく局面だったので組合立にしなければならない予算面の事情がなくなっていったことと、図書館業界でも賛否が分かれたらしく普及しなかった。

だが今は、指定管理者制度の普及、図書館司書の非正規雇用化、予算の減少などで図書館業界が非常に苦しい局面になっているので、組合立図書館のメリットは大きくなっていると思う。

ところで、これから、南さつま市には南薩地区衛生管理組合のゴミ処理場が出来る(南薩地区新クリーンセンター(仮称))。この組合は、枕崎市、日置市の一部、南さつま市、南九州市で構成されるものである。今のゴミ焼却場は、大量のゴミを処分でき、むしろ燃やすゴミが少ないと非効率になるため広域連携が普通になってきた。こういう連携が広がることはいいことだ。

ゴミ処理に広域連携ができて、図書館にそれができないわけがない。南薩各市の行政のみなさんに、ぜひご検討いただきたい。

2021年2月16日火曜日

大浦小学校で学びませんか? 大浦町への移住のススメ

来年度から、大浦小学校の3・4年生が複式学級になる。

「複式学級」とは、2学年の合計が17名に満たない時に、学年を合併して設置されるものである。要するに、3・4年生が一つの教室で、一人の先生から学ぶ。片一方に問題を解かせている間にもう片方に教える、という感じの授業をやるということだ。

大浦小学校の来年度の3・4年生は合わせて15名。あと2人足りない。実はうちの次女が来年の3年生。このままだと、次女は複式学級で学ぶことになる。

といっても、複式学級は、悪いことばかりではない。

一番いいのは、子どもたち同士の教え合いがあることで、これは普通学級よりも優れた点であるとさえいえる。それに、鹿児島のような過疎地では既にかなり多くの複式学級が設けられているので、先生方の指導の経験も豊富である。複式学級は何が何でも避けるべきものではない。

とはいえ、できれば普通学級の方がいい。というのは、担任の先生の負担が大きいからである。2学年教えても給料が2倍になるわけでもない。子供にとっては悪いことばかりではないが、先生にとっては負担増でしかないのが「複式学級」である。だから出来れば避けたい。

それに、規定の人数に7人も8人も足りないのならすぐに諦めるが、足りないのは2人。2人の転入があれば普通学級になる。

そんなわけで、ダメもとは承知で「大浦小で学びませんか? 大浦町に移住しませんか?」とブログで訴えてみることにした。

【参考】大浦小学校
http://www.minamisatsuma.ed.jp/jr/oourasyo/02burogu.html

大浦小学校の児童数は大体50名強くらい(来年度の人数はまだわかりません)で、1学年は大体10人くらいである。教室も広々使えるし、校庭や体育館もゆとりがある。当然、ソーシャルディスタンスはバッチリである。

コロナ対策関係なく、施設を広々使えることは子どもたちの心にいい影響があると思う。また、校庭は全面芝生なのが先進的で、すごく気持ちがいい。

施設面は、広々使えるだけでなく内容も充実していて、昨年度には全教室にエアコンが配備された。トイレも改修されてとってもキレイである(当然洋式)。個人的には、もうちょっと図書室の蔵書が充実するといいなと思っているが、児童数との比率で考えると新刊本は多く、図書室も充実している方ではないかと思う。

そして、大浦小学校のよい所は、児童全員が名前で呼び合うところで、和気藹々(あいあい)とした雰囲気だ。どうして名前で呼び合うのかというと、大浦の地元民には限られた姓しかないので、例えば一学年10人しかいないのに徳留さんが2人いたりする。だから自然と名前で呼び合う文化が、何十年も前からできていた(多分創立時からだと思う)。 

もちろん、名前で呼び合うからといって仲良しばかりとは言い切れないが、大浦の子どもはのびのびしていて、あまりギスギスしていないことは事実だ。自然豊かで広々とした環境は子ども(だけでなく大人も)の精神を落ちつけると言われているがそれは本当だ。

では大浦小のよくない点は何かというと、私が思うに英語教育が本当にダメである。小学校の英語教育は始まったばかりなので、他の小学校と比べてどうなのか評価できないが、都市部の小学校と比べればかなり見劣りがするのは否定できない。

あと、少人数であるためのデメリットはもちろんある。例えばクラブ活動の種類が限られたり、チームスポーツがルール通りに出来なかったりすることである(1学年10人くらいだとサッカーの試合なんかはできない) 。でも少数の天才を除いて小学校の頃からスポーツ漬けになる必要はないので、それほど大きなデメリットではないと思う。

そしてこれは大人側の事情だが、保護者の人数が少ないのでPTAの役員がすぐに回ってくるのもよくない点である。しかし、大浦の場合はほとんど全て地の人で構成されているので、PTAとかにはみんな協力的で運営はスムーズである。ベルマークの集計みたいな徒労的作業もない。

どうせ田舎の遅れた学校でしょ? と思うかも知れないが、実はそれほど遅れた考えはなく(例えば運動中に水を飲むなとか、かけ算の順序がどうこうといった類)、何より先生たちの雰囲気がユルい。なお大浦小は、先生たちにとっては人気の場所であるらしく、楽しく授業ができる学校のようである(問題児・問題親が少ないのが理由らしい)。

総合的に言えば、大浦小学校はかなりよい学校だと私は思っている。まあ、いい学校だと思っていなかったら、ここで「大浦小で学びませんか?」なんていうわけがないのだが…(笑)

では、大浦に移住するとなれば、大浦がどんな町かということが気になるだろう。というわけで、私の目から見た大浦町のポイントをまとめてみる。

大浦町は、南さつま市の一部(大字)であり、今の人口は1800人くらい。このブログでもたびたび書いてきたように高齢化率の高さは県内でも有数だ。

でも、意外と若い人も元気なのが大浦のよいところで、田舎にありがちな長老主義(○○さんの言うことは絶対、みたいな)は大浦には希薄である。 

というのは、大浦は集落ごとの独立性が高く、よくも悪くも集落が全ての単位となっているので町全体を支配するような権力が生まれづらい土地である。逆に言えば「町一丸となって」みたいなのはあんまりないのが大浦だ。これは当然、現代的な態度に結実していて、割とみんな他人のことに無関心で、自分のことに没頭しているのが大浦町民だと私は思っている。住民同士の相互監視みたいな息が詰まる雰囲気は大浦にはない。こういうのは都会の人がイメージする田舎とは違うところだと思う。

だから、小学校の児童が少ないことは、子供同士の人間関係が濃密であることを意味し、かえって煩わしい部分があるように思うかも知れないが、大浦の場合は「みんな”仲間”でないとダメ」みたいな空気はあまり感じない。うちの子も、みんなで遊ぶより一人で本を読んでいる方が好きな所があるが、それで浮いちゃったりすることはない(ようだ)。大人数での集団生活になじめない子どもにはいい環境だ。

そして大浦のよいところは、町の中心にスーパーや農協、郵便局、銀行、役場の支所、ガソリンスタンドなどが揃っていて、町を出なくても生活ができるところである(そんなの当たり前じゃないか、と都会の人は思うだろうが、これが出来る町は優秀)。

さらに、加世田(とりあえず生活必需品は何でも揃う地方都市)まで車で30分、鹿児島市までも車で1時間半程度でいけるので、それほどの僻遠の地ではない。うちから最寄りのコンビニまでは車で25分、最寄りの(?)イオンまでは車で1時間20分。「遠いよ!」と思うか、「意外と近い」と思うかはあなた次第である(笑)

ところで私はこちらに移住してくる時、別に深くは考えていなかったが、いろんな地域を見ていると、立地面で「この町に移住してたら後悔したかも」と思うような場所もあることがわかった。例えば、最寄りのスーパーまで車で20分かかるとか、地方都市まで車で1時間近くかかるとなると、生活の質が違ってくると思う。大浦は、鹿児島の本土の端っこの方にあるのは事実だが、生活圏という意味ではそれほど端っこではないのがいいところなのだ。

ただ、大浦には仕事があるのかというと、残念ながら農業と福祉(老人ホーム)以外にはあまり仕事はない。でも加世田あたりに通勤すると考えれば、都会にあるようなオフィス仕事は少ないとしても、それなりに仕事はあると思う。そもそも田舎は慢性的な人手不足なので、職種を選ばなければ生きていくことは出来るだろう。

なお、大浦は僻地なのにもかかわらず光回線は通っているので、インターネットを使った仕事の人も大丈夫である。

しかし、大浦には致命的な短所がある。町内に不動産屋がないので、仮に移住したいと思っても物件を探すことがほとんど不可能なのである。空き家の数は膨大だが、地元の人でもどこの空き家が活用可能な物件なのかよくわからず、さらに家財道具が置きっぱなしになっているなどですぐには使えない空き家も多い。実際、大浦に移住する最大のハードルはここだと思う。

でも諦めるのはちょっと待って欲しい。大浦小学校は、2021年4月から「小規模校入学特別認可制度」の指定校(=特認校)となる。南さつま市の特認校制度は、簡単にいうと「加世田小学校の学区に住んでいる人は、希望すれば特認校に通学できる」というものだ。

【参考】特認校制度(南さつま市小規模校入学特別認可制度)
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/kyoiku-bunka-sports/gakko/tokunin/e020124.html

なので、加世田小学校区(加世田の中心部及び津貫地区)に住所があれば大浦小学校に通うことができる。

だから、本当に地域外から大浦に移住しようと思ったら、まずは加世田のアパートなどを借り、1年くらいかけて大浦に家探しをするのがいい(PTAの時とかに「家を探してるんです」と言えばどこかで話が繋がるのでは)。多分、家賃はタダみたいな家が見つかると思う。ただし加世田在住の間は、スクールバスはもちろん通学に使える路線バスもないので、送り迎えは親がする必要はある。

というわけで、万が一、この記事を読んで「移住して子どもを大浦小に通わせようかな?」と思った方がいたら、コメント欄で連絡くだされば、私の出来る範囲のお手伝いはします。もちろん子どもが小学3・4年生でなくても歓迎です。

※冒頭写真は、昨年の大浦小学校運動会の様子。