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2024年6月20日木曜日

農地を利用されやすくする法改正で、逆に耕作放棄地を助長する「机上の空論」

ほとんど報道されないが、今、農業をする上での困った事態が起こっている。

簡単にいうと、ある種の農地が借りられなくなるのである。

これは今のところ誰も声を挙げていない大変な問題だと思うので解説したい。

さて、農家は自分の土地で作物を育てていると思っている人もいるかもしれない。「農家になるには農地を買わないと」と思っている新規就農者希望者も少なくない。だがそれは誤解で、多くの農家は農地を借りて農業をしている。少なくとも私の住む大浦町では農地を借りて農業をしている人の方が多数派だ。

それは、現代の農業は、もはや「先祖伝来の土地を守っていく」というようなものではないからだ。農業も、他の事業と同じだと思ったらよい。飲食店がテナントを借りるのが普通なのと理由は一緒なのだ。だから、農地の貸し借りがスムーズにできることは、現代の農業においてはきわめて重要である。

全国的にも、土地の貸し借りを通じて大規模農家へと農地を集積していくことが求められ、農水省は強力にそれを推進している。

その具体的な手段となっているのが、「地域計画」と呼ばれるものだ。

これは、その地域での農業の将来像と、農地一筆ごとの10年後の耕作者を示した地図(「目標地図」という)のセットで構成されるものである。その目的を一言でいえば、農地が利用されやすくなるようにすることだ(農用地の効率的かつ総合的な利用)と農水省は言っており、具体的にはバラバラにある農地を集積し、農業の効率を上げることである。

目標地図について。下のPDF資料より

この「地域計画」は、まさに「机上の空論」で、少なくとも大浦町の実態からして策定の意味は薄いと思う。というのは、効率的に利用できる集団化した農地は引く手あまたで、農業の大規模化に伴って自然と集約化していくが、狭い・不整形・孤立している・傾斜がきついなどの人気のない農地は、計画を作ったとしても耕作放棄地化していかざるをえないからである。「地域計画」のための農家同士の話し合いは決して無駄ではないと思うが、計画自体は作ろうが作られまいが、大浦町の農業の10年後の姿はほぼ変わらないと断言できる。

さて、2023年(令和5年)の「農業経営基盤強化促進法」という法律の改正で、この「地域計画」の策定が必要となったが、この法律では、「農用地の効率的かつ総合的な利用」のために、もう一つ重要な規定がある。それが「農地中間管理機構」に関する定めである。

【参考】農水省の資料(PDF)
農業経営基盤強化促進法等の一部を改正する法律について

「農地中間管理機構」は、一般的に「農地バンク」と呼ばれている。農水省の説明では、「農地バンクは、分散している農地をまとめて引き受けて、一団の形で受け手に再配分する機能を有する」ものだそうだ。これを聞くと、例えば田舎に活用していない農地を所有している人は「農地バンクに土地を引き受けてもらおう」と思うかもしれない。だが実は、「農地をまとめて引き受ける」という機能は実際にはなく、「農地バンク」の名称は有名無実である。

ではどういう仕組みかというと、こんな感じである。

「農地を借りたいAさんが、空いている農地を探して、その所有者Bさんに連絡し条件を伝え快諾してもらった。それを農業委員会に伝えると、農業委員会から農地バンクに連絡が行き、農地バンクを介してAさんはBさんの土地を借りる契約を行う。契約については農業委員会で審査・認定する」…とまあこんな風だ。

つまり「農地バンク」は、農地を借りたい人・借りたい人の斡旋をするのではなくて、あくまで話がまとまった後で契約を仲介する機能なのだ。

なお、農地バンクの仕組みができたのは比較的最近のことだが、それ以前から農地の貸し借りには農業委員会が仲介することになっていた。なお、わざわざ農業委員会が介在することは一見ややこしいが、例えば宅地の貸し借りにはもっとずっとややこしい手続きや不動産仲介業者が必要なことを考えると、比較的手間の少ない仕組みである。

ともかく「農地バンク」は、現場の人間にとっては必要ない仲介業者だという感じがする。「農地バンク」を通さないといけないおかげで、必要な書類も増え、手続きにかかる時間も倍くらいになった。国の統計だと、「農地バンク」の扱う農地がうなぎ登りになっていて、あたかも「農地バンク」の仕組みがうまくいっているように見えるが、これは既存の土地の貸し借りを「農地バンク」を通したものにわざわざ借り換えているからで、それ自体が一つの手間である。

このように、国は「農地バンク」が農地集積のツールだといわんばかりのことを言っているが、実際には単なる中間業者であって、それ自体に農地集積の機能があるわけではない。そもそも、「農地バンク」に農地集積の機能がないからこそ、「地域計画」を定めて、農地一筆ごとの10年後の耕作者まで決めようとしているわけである。

つまり、 「農業経営基盤強化促進法」の2つの柱である「地域計画」と「農地バンク」は、そのどちらもが地域の農業にとって有効なものではない、というのが農家である私の実感だ。私は農業委員の下働き的な役目である「農地利用最適化推進委員」という役をやっているが、農業委員や農地利用最適化推進委員の多くも、「また国がややこしい計画を作れと言ってきたなー。そんな形式ばっかりのことをやってる場合じゃないのに」と思っている。

しかしこれは、まだ冒頭に言った「大変な問題」ではない。実は、本当の問題はこれからである。

「農業経営基盤強化促進法」では、目立たないがもう一つ大きな改正点がある。それは、農地の貸し借りには必ず「農地バンク」を介さなければならなくなった、ということだ。

これは、「農地バンク」を通じて土地を集積していこうという政策の一環だろう。一見、それ自体には、面倒なだけで大きな問題はないように思える……が、実はそうではないのだ。

それは、「農地バンク」は都道府県単位で設置されており、県レベルの業務であることと関係がある。県は、市町村に比べて格段に融通が効かない。特に「農地バンク」は土地の名義にうるさいのだ。

田舎には、相続の登記がなされておらず、土地の名義が先代・先々代のままになっている土地が膨大に存在している。田舎では、相続登記に必要になるお金(司法書士への依頼料)に比べ、土地の評価額がものすごく低いため、「価値のない土地のために、司法書士にお金を払いたくない」ということで相続登記されていない土地が多いのである。

また、大浦町の場合は、「別にわざわざ登記なんてしなくてもいいよね」という風潮があったような気がする(例えば土地交換が登記なしで行われていたりする)。 

というわけで、大浦町には、土地の名義人がすでに死亡している農地がたくさんある。これまで、そうした農地を貸し借りするには、現にその土地を管理している人の同意を得さえすればよかった。それは大抵、その土地の固定資産税を払っている人と等しく、それほど難しい話ではなかったし、実際、管理人の同意がありさえすれば問題は起こらなかったのである。

ところが、「農地バンク」を介してそのような土地の貸し借りをする場合には、土地の相続権を持つ人の過半数の同意が必要だという。これはかなり難しい。まず現に土地を管理している人の協力を得て、相続人全員を探す必要があるからだ(実際に同意を得るのは過半数でいいが、全員を確定させないと、その過半数が何人になるのかがわからないため)。その上で、過半数に農地の貸し借りについて同意を得る必要がある。

ちなみに、農地の借地料は、このあたりでは10aあたり1万円以下が相場である。とすると、たったそれだけのために、このような面倒な仕事はしたくないのが人情だ。というわけで、行政からは、「相続登記がされていない土地は、事実上借りられなくなる」と説明されている。現在は、経過措置のためにまだ「農地バンク」を介さない農地の貸し借りが可能なのだが、この経過措置が令和7年(2025)3月で終了する。

つまり、2025年4月から、相続登記されていない農地が借りられなくなる。これが大問題なのである。

相続登記されていない土地が、ごく少数のことであれば、これはたいした問題ではない。しかし法務省によれば、日本の所有者不明土地(相続登記がなされていないことで、所有者がわからない土地)をあわせると九州全体の土地面積より広いという。このほとんどは山林であるとは思うが、農地についてもかなり多いことは想像に難くない。

このため、法務省は今年の5月から相続登記を義務化した。これで新たな所有者不明土地の発生は防げるのではないかと思われる。だが、これまでに発生した所有者不明土地に対しては、一応、登記を求めることにはなっているが、一朝一夕では解消しないのは明らかである。

では、現に今、相続登記されていない農地を借りて耕作している場合、2025年4月以降はどうしたらいいのか? 新たな契約が結べないだけで、今の貸借契約が否定されるわけではないので、しばらくは何も問題ない。ところがその契約期間(最長10年)が終えたら、その土地を借りることはできなくなる。正確に言えば、農業委員会を通した契約ができなくなる。ではどうするかというと、貸し手と借り手の相対契約によって借りるしかない。これを「闇小作」という。

かつて、農業委員会は「闇小作」を撲滅するように働いてきた。これはいろんな面でトラブルの元だったからだ。ところが、2025年4月以降は、現実的に「闇小作」でしか借りられない農地が存在するようになってしまう。農業委員会事務局も「大きな声ではいえないが、相続登記されていない農地については、もう「闇小作」でやってもらうしかないと思います」と匙を投げている。

皮肉なのは、この原因となった「農業経営基盤強化促進法」の「改正」が「農地が利用されやすくなるように」という目的で行われていることだ。それなのに、農地が利用されやすくなるどころか、逆に「闇小作」を推進することになるとは政策立案者もビックリではないだろうか。

では、「闇小作」で何が問題か。先ほど「トラブルの元」と書いたものの、実はそれよりもずっと重要なことがある。それは、農家の公的な経営面積は、あくまでも農業委員会を通して借りた農地の面積だということだ。「闇小作」では、いくらたくさん作っていても、経営面積として認められない。あくまで「闇」なのだ。

そして、この公的な経営面積に応じて、各種の補助金や優遇措置が受けられるのである。例えば、農家は免税軽油の購入が可能だが、これも経営面積に応じた割り当てを受ける。最近は肥料価格が高騰しているため、肥料への補助金があるが、これも経営面積に応じた上限がある。経営面積が補助金等の基盤となっているため、「闇小作」は農家としてはできるだけやりたくないのである。

こうなると、2025年4月以降、相続登記されていない農地は、できるだけ耕作しない方が得だ、ということになる。 

「農業経営基盤強化促進法」の「改正」の背景として、農水省は「農業者の減少や耕作放棄地の拡大がさらに加速化し、地域の農地が適切に利用されなくなる懸念」をあげている。にも関わらず、この「改正」によって、現に耕作している農地の放棄を助長していることを、農水省の担当者は理解しているのだろうか?

確言するが、彼らは絶対に理解していないと思う。それは、農水省が現場を見ずに机上の空論だけで農政をやっているからだ。これは、私だけでなく多くの農家が肌で感じていることだ。

相続登記されていない土地の貸し借りについては、せめて「相続登記の義務化」によって、大方の農地の相続がキチンとなされるまでは従前の通りとしてもらいたい。そうでなければ、法制間の整合性がとれないではないか。

どうせ「机上の空論」であるならば、せめて「机上の空論」としては辻褄を合わせていただきたいものだ。

2023年1月6日金曜日

耕作放棄地の増加は、それ自体は何の問題もない。真の問題は…

以前も書いたことがあるが、私は「農地利用最適化推進委員」というのをしている。農業委員会の下請けのような仕事である。

【参考記事】「農地利用最適化推進委員」になりました
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2021/01/blog-post_18.html

その仕事の中に、農地の利用調査がある。これはなかなか大変な調査で、年に一度、担当地区内の全農地を一筆ごとに実見し、農地が利用されているか、それとも耕作放棄地になっているかを調査するものである。もちろん、この調査は全国で行われている。一筆ごとに日本の全農地の現況を調査するなんて大変なことだ。

しかしながら、この調査には何の意味もないと思う。

政策の基礎として統計データが重要なのは言うをまたない。それは確かだ。だが、農地の現況、特に耕作放棄の状況という情報にどんな意味があるのか、ということである。

「耕作放棄地の増加は日本の農業の大問題じゃないか!」という人もいるかもしれない。そんな人にとって、耕作放棄の現況は確かに知りたい情報だろう。

ところが、田畑が耕作放棄地になること自体は、全然問題でもなんでもないのである。

というのは、農地が放棄されて荒れてしまうのには、相応の理由があるからだ。うちの地域だとその理由は、(1)山奥にある・孤立している・傾斜が激しい(2)狭小・不整形・道路に面していない(3)湿地・排水が悪い・石がごろごろしている(4)土地の名義人が地元にいない・持ち主がわからない、といったところだ。

このうち、(4)はともかくとして、(1)~(3)のような農地は、今の時代はもはや耕作しない方が合理的なのだ。これは私の意見ではなくて、当の農水省の方針である。農水省は、日本の農業を大規模化・機械化・効率化したものに変えようと何十年も取り組んできた。それは、(1)~(3)のような効率の悪い農地ではなく、アクセスがよく、広大で真四角の、土壌改良された農地で農業をやるように誘導することに他ならなかった。

なにしろ、(1)~(3)のような農地は、人手がかかる割には生産性は低く、補助金を投入してもまともな利潤が生まれない。結局そういう場所は専業農家にとって足手まといであり、高度成長期には「3ちゃん農業(じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんによって行われる農業)」で維持されたものの、平成に入るくらいで徐々に放棄された。(2)(3)のような場所は、基盤整備事業によって広く四角く排水がちゃんとした農地に造成できるためある程度生まれ変わったが、(1)の土地はほとんど放棄されたと考えていい。もちろんそれは耕作放棄地の増加をもたらしたが、日本の農業全体としてみれば、確かに生産効率は上昇したのである。

こうしたことは何も農業に限らず商売でも同じことだ。例えば駅前やバスターミナルの前は商店街の一等地であったが、車社会になるとそうした場所はシャッター街となり、バイパス沿いの駐車場の広い店が繁盛するようになった。あるいは住宅街の中の小さな精肉店や八百屋はいつの間にかなくなって、大きなディスカウントスーパーが幅を利かせるようになった。もちろん、駅前がシャッター街になったり、個人商店が消えてしまったのは寂しいことではある。だが商売の適地や効率的な規模が変わってしまったのだからしょうがない。商売をやめてしまった人たちも、やっていけないから辞めただけのことなのだ。

これと同じように、農地にも時代ごとに適地や適正規模がある。農地は何が何でも維持すべきものではなく、移ろってよいものである。だいたい、今の日本の基幹産業は農業ではない。

だが農水省は、耕作放棄地=遊休農地(利用されていない農地)・荒廃農地(荒れた農地)の調査をかなりのコストをかけて実施してきた。それは、耕作放棄地が増えるのは問題であるという意識の下、耕作放棄率を減らす政策を行ってきたからである。

その結果どうなったか。

実は、耕作放棄率が減るような、登記上の手続きが行われるようになった。

具体的には、我々が行う農地の利用調査で耕作放棄地だと明らかになった場所の地目(土地の種類)を、「農地(田・畑)」から「山林」などに変更するという手続きが取られるようになったのである。

土地というのは、地目によって利用形態が決まっている。「田」「畑」「宅地」「山林」などだ。耕作放棄地というのは、このうち「田」「畑」など農地であるにもかかわらず、農地として利用されていない土地のことである。ということは、その土地の地目を例えば「山林」に変えてしまえば、現状を一切変更することなく、耕作放棄地が一筆減る、というわけなのだ。そこはもう、登記上は「農地」ではないのだから。

この方法を使って、利用されていない農地を全部「山林」に変えてしまえば、耕作放棄地は全国から一つもなくなってしまう。もちろん農地の除外はそんなに簡単ではなく、また実際にはそこまでのことはできない。しかしながら、実際に現場ではそのようなことが行われている。とはいっても、ここで農地から除外される土地は、少なくとも(1)〜(3)のような場所なので耕作したい人もおらず、この操作によって実態として農地が減るわけではない。つまり現に農地として扱われていないところを実態にあわせて除外しているだけだから、むしろ望ましいとさえいえる。

問題は、だったら、農地の利用調査には何の意味があるのか? ということだ。

農地の実態を知るのには確かに役立つ。でも知ってどうするのか? 地目を変えるだけならば、5年おきくらいにすれば十分なことだ。毎年やる必要はない。耕作放棄地があることを認識しても、そこを農地から除外するくらいしか打つ手立てがないなら、現況を知ってもしょうがないのだ。

しかし、これから耕作放棄地はもっとずっと増えると予想される。それは、いよいよ農家の数が少なくなってくるからで、きっと今後は(1)〜(4)ではなく、優良な農地なのにもかかわらず利用されない、という真の耕作放棄地が増えてくる。その時にどうするか。今のところ全く打つ手はない。農水省も新規就農者を増やそうとはしているが、その対策は焼け石に水のような規模だ。

農水省は、農家が法人化して大規模化し、土地を集約して機械化・合理化を進めれば農地の利用が可能であるかのようなことを言っているが(「人・農地プラン」→「地域計画」をつくれとの指示)、ものには限度というものがある。アメリカのように広大な土地があるわけではないのだから、新規就農者の増加が絶対的に必要だ、と現場の人間として思う。

もし田畑が耕作放棄地になることが問題だとしたら、それが耕作者の減少・担い手の不足を表しているからであり、真の問題は結局「後継者問題」なのである。

しかし農地調査には熱心だが、そういう真の対策には及び腰なのが、今の農政である。調査をやるなとはいわないが、やるならしっかりとした対策とセットでやるべきだ。

これは何も、私が言っているだけではない。少なくとも南さつま市の農業委員や農地最適化推進委員は、全員思っていることだと思う。

2021年1月18日月曜日

「農地利用最適化推進委員」になりました

今年から「農地利用最適化推進委員」になった(任期は3年)。

「農地利用最適化推進委員」(それにしてもけったいな名前…)とは何かというと、ものすごく簡単にいうと「議決権のない農業委員」である。

では「農業委員」とは何かというと、「農業委員会」の構成員である…というような話をしていくと大変にややこしい上に、あまり意味もない(笑)ので、その話はやめにして、ザックリ言うと「今年から農業委員会の仕事の一部をやることになった」ということである。

「農地」というのは、宅地のようには自由に取引できないようになっている。取引だけでなく農地を他の用途に使うこと(「農地転用」という)や、貸し借りについても規制されていて、農業委員会の議決を経るようになっている。

また、農業委員会には貸し借りの仲介、つまり不動産屋的な機能もある。最近では、荒れそうな農地を誰か適当な人に耕作してもらう、というような仲介が期待されている。

じゃあ、私はこれからそういう農地の不動産屋の仕事をするのかというと、実はそうではなくて、主な仕事はハンコをもらうことである。

どういうことかというと、うちの地域では(たぶん多くの地域で)土地は所有して耕作するよりも、借りて耕作するのが一般的なので、大量の農地の貸し借りが生じている。となると土地の一筆毎に「貸し借りの証文」を作ることになる(「利用権設定」という)。そして、その証文を作るところまでは事務局で作ることができるが、実際に地主にハンコをもらうという作業を誰がやるかという話になる。

というのは、農地を借りたい人(農家)は自分が申請してくるのだから簡単として、問題は地主の方である。大浦町のような高齢化・過疎が進んだところの場合、地主というのは大抵が高齢者であって、それどころか既に死んだ人であることも多いからである(←土地の相続登記がされていないということ)。

まあ実際には、権利関係がひどく錯綜していたり(登記上の名義人と現に所有している人が無関係であるとか)、そもそも誰の土地なのか分からなかったりする場合は、公式の「利用権設定」自体を諦めることが普通なので(こういう、農業委員会を通さないで土地を借りるのを「闇小作」という)、それほど大変なケースは少ないが、それでも地主さんの家を探し出して、ハンコをもらうのは結構大変である。

というわけで、私がやるのは、地主さんの家を探して農地の「貸し借りの証文」にハンコを押してもらにいく、という泥臭い仕事なのである。

実は、この仕事をやることになったのは、自発的な理由もある。ハンコをお願いしにいくのは当然やりたい仕事ではないが、農業委員会の仕事は勉強になるんじゃないかと思ったからだ。農地を巡る法律や規制、国の政策も学べるし、やはり農地の動きは地域の実態の一側面を写していると思う。この仕事を通して、そういうのを知ることができるのは楽しみである。

でも、そういう理由がなかったにしても、大浦町のように過疎が進んだところでは、何にせよなり手がいないので、順番にみんながやっていくような仕事なのである。そういう順番が、私にも回ってきたわけだ。

ところで、農業委員・農地利用最適化推進委員は、「特別職の地方公務員」である。例えば消防団員も「特別職の地方公務員」だし、嘱託員もそうだったと思う。要するに「役場の仕事を公的な身分をもって手伝う人」である。

それで、てっきり「雇用契約」みたいなのがあるのかと思っていたら、全くなくてちょっとビックリした。辞令一枚である。そういえば消防団員になった時もそういうのはなかった。これは「特別職の地方公務員」だからなのかと思っていたが、思い返してみると、自分がかつて国家公務員になった時も辞令一枚だったような気がする。雇用契約書の一枚もなかった。

日本の役所には、そもそも被用者と雇用者が対等な形で契約するという概念がなく、上意下達的に辞令一枚で「任用」する。要するに公務員の雇用は「○○市役所で働きなさい」といった命令の形式なのである。これは誰しも思うように時代錯誤だ。ちゃんと雇用の条件を明示して、双方が同意するという形で任用するべきだ。正式な公務員の場合は「地方公務員法」の規定でもしかしたらやりづらいのかもしれないが、「特別職の地方公務員」の場合は「地方公務員法」が適用されないので、やろうと思えば出来ることだと思う。

といわけで、私は「農地利用最適化推進委員」としてこれからハンコをもらう仕事をするが、自分がそういう仕事をするのを了承したという契約書にハンコを押すということはなかったのである。

こんなユルい体制でいいんだろうか(笑)

2020年3月30日月曜日

稼いだお金を使える地域——大浦町の人口減少(その5)

(「共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)」からの続き)

「地方創生」に関していつも言われることがある。「稼げる地域」にならなきゃいけない、ということだ。

内閣府も「稼げるまちづくり」を標榜して政策パッケージをまとめているし、実際、限界集落から復活したような地域では、取り組みの根幹にちゃんとした「金儲け」の仕組みがある。

逆に、いくら地域住民がやる気でも「ボランティア活動でまちづくり」「生きがいづくり」「都会から来た人をおもてなし」みたいなことばかりをやっている地域は、(その活動自体は全然悪くはないのだが)結局は長続きしない。その活動が維持されるのに十分な利潤がないのだから。

だから誰しも「地方創生」のキーは「稼げる地域」になることだと考えている。

しかし大浦町の場合、干拓事業をはじめとした農業の近代化によって「稼げる地域」になったはずなのに衰退してしまった。

例えば 1960年、大浦町ではどんな農家でも、年間の農産物販売総額は100万円にも満たなかった。ところが干拓事業など基盤整備と機械化が進んだ結果、35年後の1995年には1000万円以上売り上げる農家が16戸が出現。そのうち8戸は2000万円以上も売り上げがあったのである(「農林業センサス」による)。

既に述べたように、規模を急拡大した農家には莫大な借金を抱えた人も多かったから、 売上の拡大はそのまま所得向上であったわけではなかった。でもその莫大な借金を返していけるだけの収入上昇があったのも間違いない。大浦は確かに「稼げる地域」になったのだ。

ではなぜ、木連口の商店街はシャッター通りになってしまったのか。

大浦の人々は、昔に比べてずっと豊かになった。にもかかわらず商店街からは活気が失われ、多くの店は消え失せてしまった。統計から見ると矛盾するようなことが、この50年で起きた。いや、これは大浦だけの話ではなく、日本の多くの農村的地域で共通して起こった奇妙な現象だ。

それは、お金の廻り方が変わってしまったからだ、と私は思う。

50年前の農業は、多くを人力に頼っていた。少ない売上は、ほとんど全部が人件費に回っていた。もちろん人件費といっても雀の涙のようなものだったし、家庭内での労働が多かったから給料として払われる分はさらに僅かだった。だが重要なことは、そのお金の使われ方が今とは違ったことだ。 人々がポケットの中に持っていた僅かなお金は、ほとんど町内の誰かに支払っていたのである。

だから、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続けた。

例えば単純化されたモデルとして、百姓のAさんと、漁師のBさんのみで構成された村の経済を考えてみよう。

まず1月に百姓Aさんが漁師Bさんに野菜を1000円で売る。そしてBさんはAさんに魚を1000円で売る、とする。ここでお金がどう動いたか見てみると、最初Bさんが持っていた1000円が、またBさんに戻ってきたということにすぎない。AさんもBさんも1円も儲けていない(手持ちのお金が増えていない)。しかし、お互いの手元には魚と野菜がある。

次に2月にも同じ取引が行われるとする。今度もお互いに野菜と魚を売り、手持ち資金は増減しない。同様にこれが12ヶ月間続いたとしよう。二人の経済はどうなっているか。Aさんの野菜の売り上げは1万2000円である。Bさんの魚の売上も1万2000円である。ただし、二人の手持ちのお金は1円も増えていない。もちろん魚や野菜が手に入ったので、それを自家消費するとすれば、数字に表れない利潤はある。

だがここで強調したいのは、この1万2000円ずつの売上に相当する取引が行われるのに、この経済にはたった1000円あればよかった、ということだ。1000円札が1枚あって、それが二人の間を行ったり来たりして、2万4000円分の取引が行われたのである。いやもっと言えば、それが1000円札である必要すらなく、仮に100円玉でも同じ取引が行われたということだ。かつての自給自足的な大浦町の経済も、おおよそこんなものだったと考えたらよい。

ポケットの中にあったお金が、町内の誰かの手に渡る。するとそのお金はまた町内の誰かの手に渡って、めぐりめぐって最初の人に戻ってくる。こうして、ほんの少しのお金はどんどん町内を回っていたのである。たった1000円しか存在していない現金が2万4000円の売上を生んだように、ポケットの中の僅かなお金はたくさんの売上に変貌するのである。

これが、昔の貧しい大浦町で、木連口の商店街が賑わっていたことの理由である。確かに人々は貧乏だった。だが昔の大浦町は良くも悪くも閉鎖的で、そのお金は地域内で循環していたから、人々が手元に持っている現金以上の価値が生みだされていたのである。

さて、今度は先ほどのモデルで、百姓Aさんが農業の機械化・大規模化などに取り組み、農産物を都会に売るようになったとする。Aさんは毎月3000円分の野菜を都会に売り(=年間3万6000円)、年間2万円の機械の費用を支払うものとする。今度はAさんは1万2000円分の魚を購入したとしても、手元に4000円手元に残る。確かにAさんは豊かになる。Bさんも漁業を同じように近代化させれば、二人とも豊かにはなる。自給自足的な経済よりも、都会にものを売った方が村は豊かになる。

見かけにはそうだ。しかしちょっと待って欲しい。野菜の売上3万6000円、機械の購入費用2万円は、どちらも村の外側で取引したお金である。先ほどのモデルでの野菜の売上1万2000円分は、村の中でお金が行ったり来たりして生みだされたものだったが、今度の3万6000円はいわば「外貨」である。もちろん「外貨」を稼ぐことはいいことだ。だがその稼いだお金のうち2万円は、逆に村の外側に出て行く。今度はAさんの取引の場は、村の外が中心になる。それは即ち、村の活気=村内の活動量が減少することをも意味する。

こうなると、村の中でお金が循環することはなく、村の外で稼いだお金を村の外で使う、ということになっていってしまう。Aさん個人の立場で考えれば村の外と取引する方が利潤は多いが、村のみんながそれをやれば村の経済は空洞化していく。

現代の農村は、全てがこの経済構造にあるといっても過言ではない。例えば私はかぼちゃをつくって農協に出している。そのかぼちゃは東京や大阪で売られる。もちろん柑橘類もそうだ。私はそうして稼いだお金をAmazonで使う(笑) 。だから大浦町の経済には、あまり貢献しない。

要するに、人は地元でお金を使わなくなった。だから大浦町の商店街は、町民が豊かになったのに衰退したのである。

そんなの当たり前じゃないか! と人は言うだろう。「地元経済の空洞化」なんて、それこそ何十年も前から言い続けられてきた。たったそれだけのことを、今までくだくだしく説明しすぎたかもしれない。でも私がこの言い古されたことに一つ付け加えたいのは、人々が地元のお店よりも遠くのディスカウントストアで買うようになったからそうなったのではなく、それは農業の機械化・近代化によって不可避的に起こった、ということだ。

農業機械メーカーは地域外にあるし、機械のお金を払うためには「外貨」を獲得する必要があるからだ。そして、機械化は大規模化をもたらし、大規模化は農業の人口減少をもたらした。それはさらに地域経済の空洞化を加速させた。

単純に言えば、農家は今まで「人」に払っていたお金を「機械」に払うようになった。費用という意味ではそれは同じだが、人に払ったお金は、地域の中を巡るお金になって、また誰かの収入となり、誰かの生活を支えていた。貧乏だった大浦町の木連口通りに、最盛期では11店もの理容・美容室があったのはそういうわけだ。稼いだ「外貨」は少なくても、その少ないお金が巡ることで雇用が生まれていた。人がたくさんいたから、人を相手にする商売も成り立った。

だが「機械」にお金を払うようになると、そういう循環がなくなった。農産物を都市部に売って稼いだお金で、都市部でできたものを買うのだ。それは、かつて1000円が1万2000円の価値を生みだしたように地域内を巡るお金ではなく、入って、そして出て行く、素通りする1000円なのだ。

これで、大浦が「稼げる地域」になったのにも関わらず、むしろ商店街が衰退していった理由がわかると思う。そして、おそらくそれが不可避的なものであったことも。

このように考えると、今の「地方創生」で盛んに言われている「稼げる地域」になれというスローガンは、不十分なものだとわかる。確かに稼げなくては地域が成り立って行かない。でも大浦のように、「稼げる地域」になっただけでは衰退を防げない。では何が必要か。これまでの議論で明らかだろう。

それは、「外貨」を稼ぐことより、「地域内でお金が循環する仕組み作り」である。

私たちはともすれば、「全国に売れる商品」の方が、地域内で消費されるありふれた商品よりもすごいものだと思いがちだ。しかし地域経済の全体像を考えた時、「全国に売れる商品」を持っている地域よりも、地産地消されるありふれた商品が豊富な地域の方がずっと豊かになる可能性があると言える。例えば(極端な例だが)ひたすらカカオ豆を生産するコートジボアールの村のような経済は、カカオ豆という「全世界に売れる商品」を持っているが豊かになれる可能性はほとんどない。一方で、鹿児島には「全世界に売れる商品」はほとんどないが、地産地消率の高さを考えると発展の可能性がずっと大きいのである。

では、「地域内でお金が循環する仕組み作り」とは具体的になんだろうか。遠くのディスカウントストアで買うのではなく、地域のスーパーや物産館でなるだけ買いましょう、という話なのだろうか。それも一手かもしれない。私はガソリンは(安い鹿児島市内ではなく)なるだけ地元で入れるようにしているし、少し割高でも地元スーパーを使う。でもそういうのは、心がけの話であって大勢に影響を与えない。なぜなら、ガソリンにしてもスーパーで売っているものにしても、ほとんどが他の地域から仕入れたものに過ぎないからである。

別の言葉でいえば、原価率が高い仕入れ商売は地域外との取引を仲介しているだけだから「地域内でお金が循環する」部分が小さいのである。しかし農村が文明的生活を送るために必要なものは、ほとんど全て地域外から購入しなくてはならない。ガソリン、PC、携帯電話、家電製品、車、生活に必要なあらゆるもの…。地域内でお金を循環させられないのは当然である。

だが文明的水準を保ちつつ地元で地産地消できるものもある。代表はサービス業だ。例えば美容室。大浦町には今でも美容室がいくつかあるが、こういうのはお金の循環に役立っている。他にも、マッサージ、ラーメン屋、飲み屋、福祉施設(デイサービス等)といったものは地域外のサービスでは代替できない。実際、人口減少した地域でもこういう職種は意外としぶとく残っている。

もちろん、 田舎であれば顧客の数は少ないからサービス業の経営は厳しい。しかし商売に必要な固定費は非常に低く抑えられるという利点もある。売り上げが少なくてもそれなりにやっていける環境がある。

それどころか、都会の商売は常に売り上げがないとすぐに経営が行き詰まるという欠点もある。売り上げも大きいがそれにかかる費用も大きいのである。田舎では固定費を抑えて、あんまり売り上げが無くても生きていける、というようなスタイルの商売が可能である。そういう面では、都会よりもかえって自由な発想でビジネスを組み立てられると思う。

だから「地域内でお金が循環する仕組み作り」は、地域の住民を相手にした、少ない売り上げでもやっていけるサービス業(のお店)をつくることだと思う。例えば、カフェ、飲食店、ヨガスタジオといったものが考えられる。

とはいえ、そうして出来たお店を地域住民が使わないことにはいくら固定費が安くても経営はやっていけない。地域のお店を積極的に使うという姿勢が必要なのはもちろんである。

「地方創生」のためには、もちろん「稼ぐ力」も大事だが、「稼いだお金をどう使うか」ももっと重要なことなのだ。せっかく稼いだ「外貨」をAmazonで使ってしまっていては、そのお金は地域経済を素通りする。だから「お金の使い方」を少し変えるだけで、もしかしたらその地域はもっと多くの人を養えるようになるかもしれないのである。

かつての大浦町は、貧しくてもたくさんの人が住み、活気に溢れたところだった。そして「理想の農村」になるよう努力した。広大な干拓地を造成し、農地の効率化を行い、積極的に機械化を推し進め、他の地域に先駆けて農業の近代化を達成した。しかしそれが不可避的に招いたのが、鹿児島県でも最も急速な人口減少であった。その背景には、人々のお金の使い方の変化がかなり大きく影響していたと私は思う。大浦町は「稼げる地域」にはなったが、お金を町内で使わない地域になっていたのである。

もう一度言うが、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続ける。大浦町が失敗したことが一つあるとすれば、それはお金が循環する経済を創り出せなかったことだ。

でもまだ遅くはないのである。町内でどうにかするのは無理だとしても、「南薩」くらいの単位であれば、そういう循環はまだまだ可能だ。

大浦町には干拓や基盤整備された効率的な田んぼがある。悪条件の山村に比べたら間違いなく「稼げる地域」だ。あとは「稼いだお金を使える地域」にもなれば、その時に本当の意味での「理想の農村」になれるのだと、私は思っている。

(おわり)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎  

2020年1月23日木曜日

共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)

(「いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか」からの続き)

大浦のメインストリートを、木連口(きれんくち)通りという。

南北に延びる、700mほどの通りである。今でも、役場、銀行、役場、郵便局、スーパー、農協、ガソリンスタンドなどが並びメインストリートとしての名目は保っているが、まあ有り体に言ってシャッター通りになってしまっている。

しかしこの通りが最も賑やかだった昭和20年代は、たくさんのお店や家がこの通りを埋め尽くしていた。年末の歳の市になると、すれ違うこともできないほどの人でごった返したという。大浦干拓が完成した昭和40年代にも多くの店が軒を連ねており、この700mに電器店だけで4店もあった。理容・美容室に至ってはなんと11店も(!)あったのである。美容室が犇めく東京・南青山でもそれほどの美容室の密度はないかもしれない。

かつての大浦の絶望的な貧しさを考えると、理容・美容室がとんでもない密度で存在していたことが不思議なくらいである。既に述べたように、昭和60年代になっても大浦町民の平均所得は全国平均の半分、鹿児島県の平均の70%しかなく、全国でも有数の貧乏地帯だったのだから。にも関わらず、木連口通りが活気に溢れていたことも同様に事実だった。

東南アジアや南米などを旅してきた人は、この貧しさと活気の両立を別段不思議とも思わないかもしれない。統計で見れば極貧の地域で最低の生活を余儀なくされているボロ屋街の人々が、実にアッケラカンとしてせせこましくなく、通りは活気があって人々は元気だということがたくさんあるのだから。いや、そういう地域の貧乏な人たちの方が、立派な企業に勤める高級住宅街の人達よりもずっと生き生きして人生を謳歌しているように見えることもしばしばだ。

だから過去の大浦が、全国有数の貧乏な町であったことと、木連口通りに活気があったことは矛盾しない。ポケットにはお金はなかったが、みんな若く無鉄砲で、将来の心配などせずその日暮らしをしていた。事業計画書などなしに新しい商売を筵(むしろ)一枚で始め、うまくいかなければさっさと辞めた。通りには入れ替わり立ち替わり新しい商売が生まれ、消えていった。大浦だけでなく、日本中がそういう時代だった。

——どうして、この活気が失われてしまったのだろう。

ここに掲載したのは、1955〜1995年の大浦町の人口・世帯数・高齢化率のグラフである。

1955年(昭和30年)には7500人以上いた人口が、30年後の1985年には約半数の3700人あまりに減ってしまった。この人口減少は、若者が町を去ったために起こったので、高齢化率は逆に10%未満から30%以上へと急上昇した。通りから活気が失われた直接の原因は、この高齢化である。

これは日本の農村に共通した傾向ではあった。産業の中心が農業を中心とした第一次産業から製造業など第二次産業へとシフトし、農村の若者たちは「金の卵」と言われて集団就職で上京していった。だが大浦のように変化が急激だったのも珍しい。だからこそ大浦町は鹿児島県で第1位の高齢化自治体になったのである。

なぜ大浦の人口減少はかくまでに急激だったか。

干拓事業やそれに続く基盤整備事業、そして農業の大規模化・機械化といった意欲的な動きがあったにも関わらず、同じ時期に人口が急減しているのは傍目には不可解だ。しかし実はこれらの動きは連動していたのである。

というのは、農業の大規模化・機械化が急速に進んだ原因は、人々の意欲だけではなかった。むしろ人口減少への対応という側面もかなり存在したのである。例えば、昔の田植えというのは、一族総出で行われなくてはならない一大行事だった。ところが若手がどんどん都会へ出て行ってしまうと、十分な人手が集まらなくなる。そうなると機械で田植えをしなければしょうがない。ある意味では、人々はやむにやまれず機械化に進んだのである。

そして、農地の規模拡大はより人口減少と関わっていた。既に述べたように、干拓以前の大浦の農家の平均的な規模は30aほどだったが干拓地では3haと10倍になり、その他の地域でも徐々に規模が拡大していった。ということは、農地の総面積はそれほど変わらない以上、農地の規模が10倍に増えることは、農家数は10分の1に減ることを意味する。

これは、零細農家が競争に負けて廃業していった、ということではない。後継者のいない農家が自主的に廃業していった結果であり、農業の近代化がそれについていけない零細農家を淘汰したわけではなかった。むしろ、この時期の大浦の農業に機械化・大規模化のトレンドがあったことは、そうした廃業農家の耕作地がスムーズに集積され、荒廃せずに済んだというプラスの面が大きかった。

しかし農業の大規模化・機械化が進めば進むほど、人口減少が加速していったこともまた疑い得ない。今まで5人必要だった作業が、機械の力を借りて2人でできるようになる。今まで10人の人手で耕した田んぼが、トラクターでは1人で耕せる。このように省力化が進んでいくと、同じ農業を続けて行こうにも、自然と人間があぶれて行ってしまう。

若者は、ぼーっとしているように見えても、こういう趨勢に極めて敏感である。「自分はいずれ、ここにいなくてもよい人間になる」、うすうすでもそう感じれば、自然と外に目が向くのが若者だ。逆に言えば、この時期に農業の大規模化や機械化のトレンドがなく、相変わらず人手に頼った農業をしていれば、ある程度の若者はイヤイヤながらでも大浦に踏みとどまったかも知れない。「自分がいなければこの家はやっていけない」と思えば責任感から人生を選択する人はけっこう多い。

しかし実際には、大浦の農業は急速に近代化しつつあり、人手に頼らなくてもすむ形へと変わっていった。人口減少の流れがある以上、そういう形に変えて行かざるを得なかったからだ。農業の大規模化・機械化は人口減少の原因ではなかったが、それを助長する要因ではあった。

農地の大規模化・機械化・人口減少は「共鳴」し合いながら加速していったのである。この共鳴する加速関係があったことが、大浦が鹿児島県で第1位の高齢化自治体になるほど急激な人口減少がおこった理由であった。

このように書くと、町の発展のために行われた干拓事業や基盤整備事業、そして個々の農家の大規模化の努力が裏目に出たかのように感じる人がいるかもしれない。仮にそうした動きがなく、人々が狭い耕地で人手に頼った昔ながらの農業をしていれば、急激な人口減少は避けられたのかもしれない。事実、大浦よりももっと僻地の山村で意外と人口が維持されたケースはあった。でもそれは長期的に見れば、静かに廃村へ歩んでいくことにほかならなかった。基盤整備をしない狭い田んぼばかりの土地は、いずれ耕作が不可能になることは明らかだからだ。牛や馬で耕す人は今や誰もいない。

だから大浦が早い時期に農業の近代化に取り組んだことは、急激な人口減少という痛みはあったものの、長期的に見れば町の発展に寄与したのである。今でも大浦は耕作率が高く、主要な水田にはほとんど耕作放棄地がない。それに町にとっては人口減少は痛みだったかもしれないが、出ていった若者を見てみれば、大浦で農業をするよりもずっと実入りのいい仕事に就いた人が多かった。やりたいことができずに農業をやらされるより、都会に出て行くことができたのはよい面もあった。

もちろん、本当なら生まれ故郷を離れたくなかった、という若者もたくさんいただろう。そうした若者に町内でよい就職口を準備できなかったのは残念なことだ。だが当時の人達に何ができただろう。農業の生産性を上げる、というのが純農村地帯であった大浦にとって唯一にして最大の経済政策だったことは間違いない。 結果的に激しい人口減少を招いたのはわずかばかりの皮肉だったとしても、大浦の農業を持続可能なものに変革した功績は計り知れない。

大浦は、時代に取り残された遅れた地域だったから人口減少したのではない。

逆だ。時代を先取りし、他の地域に先立って農業の大規模化・機械化が進んだために、人口減少や高齢化をも先取りしてしまったということなのだ。それが、同時期に過疎が進んだ他の農山村との際だった違いだったと私は思う。

でもそれにしても、いや、そうであればこそ、近代的な農村に生まれ変わった大浦のメインストリートが、やはりシャッター通りになっていったことの意味を問わなければならない。大浦が遅れた地域だったのであれば、木連口通りが衰退した理由は簡単だ。しかし大浦は農業の近代化によって「稼げる地域」になっていったはずなのだ。人口減少があるにしても、もはや昔のような極貧の地域ではなくなっていた。それなのに商店街が寂れていったのはどういうわけだったのか。

(つづく)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎 

2020年1月17日金曜日

いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか——大浦町の人口減少(その3)

大浦からよその地域の農業を見てみると、機械化の遅れに驚くことがある。

例えば、鹿児島市内の近郊でも、未だに結構お米の天日干しがされている。そして田んぼの形は山の地形に沿ってぐにゃりと曲がっていたりする。そういうところの農業は傍目にはのどかで美しいが、実際にやるのは大変で、ほとんどボランティア活動みたいな気持ちでないとできない。

一方、大浦ではお米の天日干しはほとんどない。収穫はほぼ100%コンバイン。コンバインでの稲刈りと乾燥機での乾燥は、バインダー収穫と天日干しに比べ数分の1の労力だ。一度コンバイン収穫に慣れてしまえば、天日干しにはもう戻れない。

私は大浦で就農した時、大浦は農業の機械化が進んでいるとは特に思っていなかった。しかし研修などで他の地域を訪れて農業の実態に触れてみると、「大浦って、小規模な農家も割と機械化が進んでいるよな」と思うようになった。

大浦では、干拓は別格としても、町内の主要な農地も整形された四角い田んぼが中心になっていて、大きな農業機械で合理的に耕作されている場所が多い。ちいさな耕耘機でえっちらおっちら田んぼを耕すようなやり方は、僻地の農山村だとそんなに珍しくないものだが、大浦ではそういうのは趣味的な農業を除いてほとんど存在しない。同程度の農山村と比べれば、大浦は明らかに農業の機械化先進地である。

——この機械化をもたらしたのは、大浦干拓の影響だろう。

広大な干拓地を耕作するためには機械化は必然だったが、それは干拓地以外の農業にも波及した。干拓で活躍する効率的な機械仕事を見せつけられ、山間部で農業をやっている人もこれからの農業は機械を使わなければできないことを痛感したのだ。

農家というのはだいたい保守的である。というより、耕作大系というのはいろいろな要素が絡み合っていて一部だけを変えることは難しいから、自然と前年踏襲的になるのである。だから、仮に便利な農業機械が開発されたとしても、それを積極的に導入する人は限られる。ところが、農家は隣の農家がやっていることはよく見ている。隣の農家が新しい機械によってうまい具合に作業を合理化したと見るや、それを導入するのにはあまり躊躇がない。右へ倣え主義というよりも、実証されたことはすぐ取り入れるのもまた農家である。

であるから、干拓地での機械導入は大浦全体の農家に高い機械化意欲をもたらした。第一線の大規模農家が巨大なトラクターを持っているのは当然としても、大浦の場合はそれに次ぐ規模の農家もけっこう大きなトラクターを導入していることが多い。これは、まず機械を高機能化させてから経営規模を拡大していく、というやり方が大浦でセオリー化したためではないかと思う。

そして機械化にはもう一つ大事な要素がある。圃場の基盤整備事業である。

「基盤整備事業」とは、ここでは「農地の区画整理」を指す。昔の田んぼは牛や馬で耕していたから、そこまでには牛馬が通るだけのあぜ道があればよく、また真四角である必要もなかった。ところがトラクターで耕耘するようになると、トラクターが田んぼまで行くための道が必要である。さらに、トラクターでは狭く不整形な田んぼは耕耘しづらいため、田んぼは広く真四角であることが望ましい。

だから、昔ながらの棚田のような田んぼを壊して、新たに真四角の規格化された広い田んぼに生まれ変わらせるのが基盤整備事業である。要するに農地の再造成だ。これをしないと機械化は思うように進められない。

ところが、この事業はなかなか進めるのが難しい。市街地の区画整理が遅々として進まないのと同じ理由である。新たに道を通すには、みんなが土地を供出しなければならないし、費用負担もある。広い農地を持つ人にとっては土地の生産性を向上させるが、狭い農地しかない人や機械化に関心がない人にとってはあまり旨味がない。しかも区画整理と一緒で、区域の全員が事業に賛成しないと実行出来ない。だから基盤整備事業は時代の要請であったにもかかわらず、多くの地域でそれほどスムーズには進まなかった。

だが大浦の場合、基盤整備事業が概ね順調に進んだ。それは、干拓地の大規模農業を目の当たりにし、機械化の意欲が高まっていたからだろう。機械化を進めるためには基盤整備事業が必要で、基盤整備が行われるとさらなる機械化が可能になる。機械化と基盤整備事業は、撚り合わされた糸のように進行していった。

その背景には、基盤整備事業に対する町役場の熱意があったのももちろんだ。近隣の自治体が観光施設とかレクリエーション施設といったハコモノを次々と建てていったときも、大浦町は地味な基盤整備事業に注力し続けた。

それから、基盤整備事業が積極的に実行されたことは、思わぬ(もしかしたら狙っていた面もあったのかもしれない)形で大浦干拓事業の帳尻を合わすことにもなった。 というのは、干拓地に入植した人たちには、干拓地の土地の購入や高額な機械の導入などによって、1000万円単位の借金を抱えた人も少なくなかったのである。最初、干拓地はただの砂浜だったから農地としては最も劣等であり、生産性も低かった。巨大な借金を返していく現金収入はすぐには得られなかった。

そこでそうした人達は、昼間は基盤整備事業の土方で働き、夕方から農業に従事するというダブルワークで借金を返済したのであった。こういう事情もあったからか、大浦では基盤整備事業は積極的に進められ、一時期は町の経済のかなりの部分が基盤整備事業という公共事業で支えられていたくらいである。

それはともかく、農家の機械化への意欲、役場の積極的な事業推進などによって、平成に入ってからの基盤整備事業は着々と進み、大浦の主要農地は全て事業を完了し、整形された広い四角い圃場が並ぶことになったのである。こういう地域は鹿児島では珍しいと思う。

その上、そうした大規模事業の対象は水田だけに留まらなかった。茶園や大規模養鶏団地の造成といったことが、県や国の補助を活用して矢継ぎ早に推進された。大浦は、干拓をきっかけとして構造改善事業(農業の基盤を造成していく事業)に非常に前向きな地域となり、こうした事業が華やかに行われていた時は連日のように県の役人が大浦を訪れ、遊浜館(大浦の旅館)が賑わっていたのである。

こうして、戦前から平成にかけて、大浦の農業はすっかり近代的な形へと生まれ変わった。干拓地だけでなく、大浦町の全域で圃場は効率的な形に整備され、人々は最新式の機械を導入していた。

このように書くと、かつての大浦町が意欲的で活気のある場所だったと思うかも知れない。だが、その動きの裏で、急激な人口減少とそれに伴う高齢化は非情にも続いていた。まるで大浦の農業を発展させようとする努力など存在していないかのように。

(つづく)

【参考文献】
「大浦干拓事業と笠沙町・大浦町の農業経済」2002年、西村 富明
「過疎化,高齢化の構図:再考〜笠沙町,大浦町の現状から」2002年、高嶺 欽一
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎

2019年12月6日金曜日

大浦干拓という大事業——大浦町の人口減少(その2)

(「大浦町とコルビュジェの理想の農村 」からのつづき)

大浦町は、干拓の町である。

国道226号線を加世田から走ってくると、越路浜を過ぎて田園の中を突っ切る真っ直ぐな道路になり、そこの何もない交差点を南に曲がるとこれまた1.6kmもの一直線の道になる。両側は真っ平らの田んぼ。これが大浦町に入る道である。

私にとって大浦町の第一印象は、この、どこまでもまっすぐな、滑走路のような道だった。

大浦にはかつて、勾配1000分の1とも1500分の1ともいう遠浅の干潟「大浦潟」が広がっていた。1メートル下がるのに、1.5kmも進まないといけないという低勾配である。大浦の山間部にはそれほど広い耕地はないから、ここを干拓して広い畑や田んぼに変えれば、非常に生産力をアップすることができる。

そんなことから、藩政時代から大浦潟は干拓事業の対象となり、小さな入り江を利用した10町歩(10ha)程度の干拓事業が散発的に行われていた。そして昭和15年、日中戦争による食糧難の中、遂にこの広大な湾内の潟を全て田んぼに変えてしまおうという大事業が立案される。

当時、国は食糧増産のため「農地開発営団」を設置して農地の開拓を進めようとしていた。大浦干拓の事業はこの機運に乗り、農林省に直談判して国の事業として認められる。そして昭和18年、農地開発営団の事業として大浦潟の干拓が起工された。

「国の事業」といっても、太平洋戦争がたけなわになった頃であり、国の予算も潤沢ではなかった。大規模な干拓事業にはたくさんのガソリンが必要になるので農林省としては難色を示し、計画が承認された直後に早くも頓挫しかけたほどだ。しかし当時の唐仁原町長は「私の処はガソリンは要りません。荷車で現場まで運びます」と主張し応諾させたのだった。

ところが戦時中は地元の若い人間は戦争に徴発されて不在が多かったため、結局、青壮年団、青年学校、婦人会、果ては小学生までが奉仕作業に動員されることとなった。

終戦後、農地開発営団は廃止されたが、大浦干拓は農林省直営事業に移管されて続けられた。とはいうものの終戦後のモノも金もない時代、かなりの苦労があった模様である。物資と燃料の不足に悩まされ、作りかけの潮留め(堤防)はたびたび台風で破壊された。モッコを担いで土を運んだ、というような話を私自身も聞いた事がある。集落ごとに「特別労務班」が編成されて仕事にあたったという。

こうして昭和22年、大浦干拓第一工区の潮留めが完成。これが冒頭に触れた滑走路のような直線道路があるところ、概ね国道226号線の南側の地区である(正確には現在「恋島コンクリート」があるところより南側の区域)。潮留めが完成してからは、砂浜だったところを畑にしていく困難が待っていた。最初のうちは作物がうまく育たず、干拓地ができてからも苦労は続いたのである。

さらに昭和25年からは、その北側にあたる大浦干拓第二工区が起工し、昭和34年に完成。こうして第一工区174.5ha、第二工区161.8ha、合計336haもの大干拓が完成したのである(その後干拓地内の田畑の造成工事が行われ、完工したのは昭和40年)。

鹿児島県内で干拓というと出水干拓が有名で、昭和22年から40年という大浦干拓とほぼ同時期に同じく農林省直轄事業として造成されているが、西工区(90ha)、東工区(230ha)合わせて約320haであり、大浦干拓の規模には僅かに及ばない。出水干拓は江戸時代から行われた干拓地の集成であるため全体では1500haにもなるが、一事業としては大浦干拓の336haは鹿児島県では最大の干拓事業だった。

この大干拓の完成によって、大浦は「乳と蜜の流れる地」になるはずだった。戦前戦後の厳しい時代、奉仕作業でモッコを担いで土を運んだ人達も、「子どもたちには美味しいお米をお腹いっぱい食べさせたい」という一念だったという。そういう作業の合間に歌われたのに「大浦干拓の唄」(関 信義作詞)がある。その4番の歌詞はこういうものだ。

広い砂浜 大浦潟の
 工事 竣功(おわり)の暁にゃ
黄金(こがね)花咲く 五穀が稔る
 大浦干拓 平和の源泉(もと)よ

戦前までの大浦は、「走り新茶」という特産品はあったものの耕地が狭いため農業の規模が小さく、また人口が多かったので貧困に苦しんでいた。人々は、大浦の将来の発展を干拓に託したのだった。

それは、成功したように見えた。広大な干拓地には、次々と地元の人間が入植した。それまでは3反(30a)あれば平均的な農家だったのに、干拓地ではその規模が10倍にもなった。大浦の山間部では田んぼ1枚は5aもないところが多かったが、干拓では田んぼ1枚が1ha(=100a)あった。

アメリカやヨーロッパのような、大規模農業が大浦で取り組まれた。こうした広い面積を相手にするには、どうしても機械化が必要である。牛で耕しているわけにはいかない。人々は耕耘機を使うようになった。今では1haもある田んぼを(トラクターではなく)耕耘機で耕すのは気が遠くなるが、当時としては画期的だった。

まさに今、農水省が進めている「大規模化・省力化」の農業が、50年も前にこの大浦町で先進的に行われるようになったのである。

近隣の町の農家は、広大な大浦干拓を羨ましく見ていた。山間の狭小な田んぼを牛で耕すのとは効率が全く違ったからだ。一直線の道と整然と区画された田んぼは、コルビュジェが考えていたような合理的な町と村、そして新しい時代の理想の農業を象徴していた。

だが大浦干拓が完成したその時、既に大浦の人口減少は始まっており、その後も歯止めはきかなかった。もちろんその後の人口減少には高度経済成長という背景もあった。農業よりも製造業が花形産業になっていったからだ。でもそれは県内の他の農村でも同じだった。

だから理想の農村となったはずの大浦町が、鹿児島県内1位の高齢化自治体になっていったのは奇異とせざるを得ない。

発展が約束された土地を、なぜ人々は離れていったのか。

(つづく)

【参考文献】
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2017年7月25日火曜日

美しく剪定されたイヌマキが一本残らず…

南薩の柑橘農家にとって、防風垣は単なる風除け以上のものである。

柑橘の篤農家は、圃場の外郭に沿って植えられ、美しく剪定されたイヌマキの防風垣を誇りとしていて、柑橘の樹そのものと同じくらい、イヌマキに愛情を注いでいる人も多い。

入念に管理されたイヌマキは、まるでフランス式庭園の一部であるかのように優雅であって、機能と美の両方を兼ね備えている。

そんなイヌマキが、今、危機に瀕している。

この夏、イヌマキを食害するキオビエダシャクという害虫が大発生しているのである。

笠沙町の赤生木(あこうぎ)というところ、私の柑橘園の近くに、まさにフランス式庭園的な立派な曲線美のイヌマキで囲われたポンカン園があって、どなたの園なのかは知らないが、いつもその管理の見事さに頭が下がる思いがしていた。

ところがこの夏、この立派なイヌマキたちが、文字通り1本残らず、突如としてキオビエダシャクに食い尽くされて、枯れてしまったのである。一体全体、何が起こったのか私にも分からない。枯れてしまうほど食害を受けているイヌマキはたくさんあるが、一つの圃場全体が一気に枯れてしまうなんて、ちょっと普通ではない。

園主の方の落胆を思うと、ゾッとするくらいである。このようなイヌマキの防風垣をつくり上げるには、どんなに早くても10年はかかるし、おそらくこの園は30年以上かけて立派に育て上げ、 管理に管理を重ねてきたはずだ。それが、一夜…というには大げさにしても、ほんの数日で全部枯れてしまったのだから。

農薬を散布しなかった園主が悪いと言われればそれまでかもしれないが、いろいろ事情があったのだろう。例えば入院とか、慶事弔事とか。まさか数日圃場を離れただけで、イヌマキが潰滅するとは思わない。

それくらい、今年のキオビエダシャクは強烈である。少なくとも私がこちらに引っ越してきてからはダントツにすごい年である。

元々、このキオビエダシャクという蛾、南西諸島以南に棲息していたものだそうだ。それが温暖化によるものと思われるが、どんどん生息域が北上し、いまでは南九州にまで定着してしまった。

南西諸島でも、キオビエダシャクが発生すると天敵らしい天敵もないため、島のイヌマキが絶滅するまで大発生したらしい。そして、島にイヌマキがなくなってしまうとキオビエダシャクもいなくなり、被害が忘れられた頃にまた人がイヌマキを植えだし…というサイクルがあったのではないかと推測されている。天敵がいないことを考えると、恐らくは南西諸島にとっても外来種であり、台湾や東南アジアが原産地であると思われる。

このように強烈な害虫であるが、今のところ防除の手立ては発生箇所に農薬を散布するという対処療法的な手段しかない。それに、いくらイヌマキの大害虫とはいっても、せいぜい庭木が枯れる程度のことと思われているのか、行政も学界も、本腰を入れて動く気配はない。せいぜい、防除のための薬剤購入に補助を出すくらいである。世間ではヒアリという強烈な毒を持つ外来のアリが話題になっているが、キオビエダシャクは具体的な被害が既にたくさん出ているにも関わらず、ほとんどマトモに取り上げられていないようだ。

こういう時こそ、応用昆虫学の出番だ、と私は思う。「応用昆虫学」というのは、要するに害虫について学ぶ学問である。最近は、「害中学」みたいなもっと直截的な名前でも呼ばれる。

この応用昆虫学の知見に基づいて、ただ農薬を散布してやっつけようというだけでなく、大規模に効果的に防除する方法を確立すべきだ。なにより、キオビエダシャクの原産国での生態や天敵を調べて、この昆虫をより理解するということから始めなくてはいけない。

であるにも関わらず、応用昆虫学みたいな地味な研究分野は、等閑に付されてきたきらいがある。地元の鹿児島大学ではどうだろう。研究室に人が集まらない、なんてことがあるのではないかと心配だ。こういう分野の就職先は、県の農業普及員とか、農大の先生とかがメインになるだろうが、どちらも定員を削られてきた職域ではないか。学生が敬遠しがちになるのも当然だ。

学問は、社会の役に立つためにあるのではないが、イザという時には社会を救う「蜘蛛の糸」になりうる。その糸が天上から降りてこなければ、南薩のイヌマキは絶滅してしまうかもしれないのである。

【参考】
南西諸島のキオビエダシャク」森林総合研究所九州支所 定期刊行物「九州の森と林業」第8号 平成元年、吉田 成章

2016年12月15日木曜日

農業と「人文知」

先日、「石蔵古本市」というイベントを開催した。

これについての詳細はいずれ書くオフィシャルブログの記事に任せることにして、今日はちょっと言い訳を書いてみようと思う。

というのは、私の本業は言うまでもなく農業である。そして12月は、南薩の農家は忙しい。かぼちゃの収穫はしなくてはならないし、柑橘類の収穫準備もある、すぐそこまで来ている霜の季節に備える作業もしなくてはならない。読書のような「道楽」に興じている暇はないのだ。それも、役に立つ実用書ではなくて、思想や文学や歴史といった人文の本に!

が、農業にとって、こういう「人文知」がただの道楽かというと、実はそうでもない。それどころか、農業にとっては必要不可欠だとすら言えるのである。

それをわきまえていたのが、「少年よ、大志を抱け」で有名なウィリアム・S・クラークだ。

クラークは、明治9年の札幌農学校(北海道大学農学部の前身)の開校にあたりアメリカから招聘された。それまでは「開拓使仮学校」というのが東京に設けられ、開校準備にあたる教育を行っていたがどうもうまくいかない。実地の経験が不足して教育が学理に傾き、「農学校」であるにも関わらず専門的教育があまり行われていなかったのである。その反省に基づいて農学校の形を作っていくことが、教頭兼農場長に任命されたクラークの使命だった。

クラークの赴任期間は僅か8ヶ月という短いものだったが、その間に彼は同校の事実上の統率者としてアメリカ流の開拓者教育を行った。

ちなみに明治政府はこの頃、イギリスやドイツから次々と農学者を招聘するが、何百年も耕してきた土地の生産性をさらに上げるための農業と、森林を切り拓いて畑にしていく農業は自ずから異なるのは当然で、北海道開拓にはイギリスやドイツの進んだ農学は役に立たなかった。北海道に必要とそれたのは、まだまだ未開の沃野に溢れていたアメリカの、どんどん開拓していく農学だったのである。であるから、当時の日本は全体としてはヨーロッパ農学の輸入に努めながらも、北海道だけはアメリカ農学を基準として農業振興・開拓が進められていくことになる。これは後々まで続く北海道農業の特異性の基礎になった。

さて、そのクラークの教育を一言で言えば、「キリスト教に依拠する開拓者精神の鼓吹」ということになる。彼の教育は常に具体的・実践的であり、しかも教育の主眼は「心田(しんでん)」の耕耘にあった。同じ頃東京で、駒場農学校(東京大学農学部の前身)が現実の課題と遊離した象牙の塔的な農学を構築しつつあったのとは対蹠的に、札幌農学校では北海道の実地調査を行って開拓の課題を探り、それを教育に活かして行くという取り組みをしていた。要するに、クラークは学生たちに現実を変えていくための精神力とそれに見合う技能・知識をつけようとしていたのである。

といっても、クラークが「何が何でも根性で乗り切れ」的な根性論の開拓者精神を植え付けようとしていたと誤解してはならない。むしろ彼はそういう精神論はよくないと考えていたフシがある。例えば、クラークは学生の農業実習には労働時間に応じて賃金を与えた。農業実習といえば勉強であるから無給は当然と考えられていたが、これは学生たちに固着していた古い観念を大いに払拭したという。労働を精神の面からのみ見るのではなく、しっかり実利とセットで見せようとしたクラーク流のやり方だった。

クラークに期待されていたのは、こうした実用的な教育であったが、意外なことに彼は英文学史や心理学といった人文関係の諸科目に大きなウエイトを置いた。具体的・実践的な技能や知識の教授とあわせて、こうした人文教育はクラークの「全人教育」の要諦でもあった。

ところで、「農学栄えて、農業滅ぶ」という有名な言葉がある。これは、いろんな人がいろんな解説をしているが、要するに、「現実の農業が抱えている課題は切実なものなのに、農学者はそんなことをお構いなしに自分の研究に邁進するばかりだから、どんどん研究成果は出るかもしれないが実際には役に立たずに農業は衰退していく」というようなことを短い警句にまとめたものである。

【参考】やまひこブログ
↑「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉について徹底的な調査をしているブログ

例えば、現在の農業の抱えている課題というと高齢化とか人手不足であるが、農学はそれに対してどのようなアプローチをしているだろうか。この課題に対し、高齢者でも農作業が楽に出来るように、ということでパワースーツのようなものの開発が進められているようだが、モノを持ち上げるだけのことに何十万円もするパワースーツを買わなければならないとしたら、そんな農業はやっていけないのは自明である。必要なのはパワースーツの開発よりも、省力的に栽培できる作物なのかもしれないし、新規参入者を促す農業のやり方なのかもしれない。とにかく、普通の農家が現実的に導入できるものでないと役に立たないのである。

これが、実学としての農学がいつも対峙しなくてはならない視点であって、どんなに学理が進んでも、普通の農家に応用出来ない限り、どんな高度な技術も知識も役に立たない。ところが実際には、研究をしているうちに目的が(悪い意味で)「真理の探究」とか「限りない品質向上」とかになり、現実と遊離していくというのが、これまでの農学が辿ってきたお決まりのパターンなのである。それを戒めたのが「農学栄えて、農業滅ぶ」という言葉である。

クラークが人文教育を重視したのも、この言葉の戒めるものと同根であろう。農業に必要となる技術・知識、それはもちろん身につけなくてはならない。しかしそれを一歩下がった立場で冷静に見つめる目、それがなかったら、人間は技術や知識を絶対のものとして、それを使うことに疑問を持たなくなる。言い換えると、進むことしか知らない人間になってしまう。時には、立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすることが必要だ。そうでないと、普段の仕事では見落としがちな、別のやり方、別の目的、別の生き方を選択することができなくなる。

そもそも農業というのはサラリーマン仕事とは違って、生活と一体化しているところがある。農業をよくしていくというのは、農家の生活を良くしていくこととほとんど同義である。農業の生産性の向上というのは、ただ農作業のうまいやり方を開発することではなくて、農家の生き方そのものをよくしていくものでなければならない。そういう視点で農業を改善していこうと思ったら、農学だけをいくら学んでいてもダメで、農業そのもののあり方に疑問を突きつけ、人間の生き方を再考し、自分の在り方に再検討を加えていかなくてはならない。そのためには、思想や文学や歴史——「人文知」が必要なのである。

しかし、クラークの後継者たちはこれを十分に理解しなかった。クラークが充実させた人文系の学科は、彼の転籍後には徐々に縮小されていく。例えば、「心理学」と「倫理学」は廃されて「歴史哲学」となり、後にこれは「欧州史」となって、明治24年には遂に「農業史」となってしまった。人文系の学科は非実用的な「形而上学」と見なされ、そうしたものを難ずる世間の風潮に押されて消えていったのであった。

だがその後の歴史、太平洋戦争まで進んでいく我が国の突撃と玉砕の歴史を見れば、クラークが重視した非実用的な「形而上学」こそが必要なものだったことは明瞭である。時代が大正、昭和と進むと、「人文知」のような「平和的」な学問はどんどん立場が弱くなり、「歩兵術」のような「実用的」なカリキュラムに置き換わっていった。哲学や文学の学徒は「穀潰し」と難ぜられ、白い目で見られるようになった。そして誰も、立ち止まって物事の本質を考えるということをしない社会になっていた。その場しのぎで「実用的」なことをやるだけで、無駄なものは何一つ出さないように社会が切り詰められていった。

でも、立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすること、それができなくなったら、農学のみならず社会の発展は望めない。それが人間の営為そのものだからである。ひたすらに進んでいく農業、ひたすらに進んでいく社会、ひたすらに進んでいく国というのは、もはや衰退の一途を辿るしかない。

一日一日働くこと、それは素敵なことだ、と私は思う。私は仕事が好きである。しかしふとその手を休めて、本当にそれでよいのか自省する自分をいつも持っていたい。そのためには、「人文知」が必要なのだ。時には哲人皇帝マルクス=アウレリーウスの独白に耳を傾けたり、道元の禅へ思いを馳せたり、バルザックの描く人間模様に浸ってみたりしなくてはならない。そういう、普段の生活では絶対に味わえない人間性の高みへと出かけていって、自分の暮らしを俯瞰してみないことには、一体自分たちが今どこへ向かっているのかも分からなくなってしまうからだ。

だから私は、農業にも「人文知」は絶対不可欠だと思うのだ。クラークがそう確信していたように。そして道楽も、時々は必要である。立ち止まったり、横道に逸れたり、後戻りしたりすること、そのためのきっかけをくれるのが、道楽なのである。

【参考文献】
『日本農学史—近代農学形成期の研究—』1968年、斎藤之男 

2016年10月5日水曜日

「農業技術立国」へ

何を隠そう、私は以前文部科学省、その旧科学技術庁系で働いていたので、今年も日本人がノーベル賞を受賞できたことを大変嬉しく思っている。ノーベル賞の受賞者数を指標化することはよくないが、過去の日本の科学技術政策の成果の一つであるといえるだろう。

今「過去の」とつけたのは、日本の科学技術を取り巻く環境が急速に悪化しているからで、特に国立大学は運営費交付金が減らされ、その分競争的資金(申請型の資金)が増えたのはまだいいとしても、競争的資金がどんどん花形の大型プロジェクトに集中して地味な基礎研究がやりにくくなり、さらに資金の申請・消化・報告に厖大な事務作業が付帯して研究・教育に集中できなくなってきているのである。

諸外国が、高等教育や科学技術政策をどんどん充実させていく趨勢にある中、先進国ではほぼ日本だけがこういった分野を縮小させており、非常に憂慮すべき状況にある。

要するに、科学技術立国を謳ったのは過去のことで、今や日本の科学技術は立ち後れつつあるというのが実際ではないか。科学技術は軽視されつつある、と言わざるをえない。

今も、私の元同僚はこうした状況と戦っているだろうと思う。文科省は科学技術関連予算を減らしている張本人でもあるので世間の風当たりは厳しいが、もちろん本心では充実させたいと思っている。しかし日本の厳しい財政状況の中では予算を取るのが非常に難しく、あんまり老獪ではない文科省は割を食いやすい役所である。でも年金・福祉・医療だけを考えていては将来はない。ノーベル賞の連続受賞を口実に、是非財務省とやりあっていただきたいと思う。

ところで、軽視されているのは科学技術だけではないことを、身近なところでひしひしと感じている。話が急に現場のことになって申し訳ないが、それは、「農業技術」である(もちろん科学技術の一分野でもある)。

農業技術というのは、要するに植物を栽培したり動物を飼育したりする生産技術のことで、農業というのは、自然のエネルギーを技術によって生産物に変える産業なわけだから、農業においてその技術は最も重要な鍵である。

実は、農業は長い歴史があるにも関わらず分かっていないことが多い。どうしたらうまく収穫できるのか、未だに人間は試行錯誤の途上にある。少なく見積もっても9000年は歴史ある農業なのに、なぜこんなに基本的なことすら分かっていないのだろうと思うこともしばしばである。

「儲かる農業」という言葉は嫌いだが(というのは、暗に農業は儲からないということが含意されているから)、 儲かる農業をするためには、絶対に確立が必要なのが農業技術で、「篤農家」と呼ばれる人たちは要するにそういう技術の高い人たちなのである。

その農業技術が、今とても軽視されているのだ。

農業を巡るトレンドを見てみても、「質の高い日本の農産物をもっと輸出しよう」と農水省も言っているが、農産物を生みだす農業技術の方はほとんど閑却されているような気がする。本当に日本の農産物は質が高いのかどうかも疑問だが、それはさておいても、他国に高品質のものを輸出していこうとするなら、まずは高度な技術を確立するのが先なはずなのに、今の議論を見ていると、「日本の農業技術は高い」というのを前提として、マーケティングやらブランディングやらの方向からばかり攻めていこうとしているようだ。

でも日本の農業技術は他国と比べ優れているんだろうか? 確かにある種の果物は宝石みたいに美しいものが生産されているし、農業機械なども特に水田関係はかなり発達している。「和牛」は霜降り肉という新ジャンルを開拓したと言ってもいいかもしれない。優れた技術は確かにある。が、日本の農業全体を見てみるとどうだろう。未だに中心は昔ながらの努力と根性の零細農業で、技術の発達は遅々として進んでいないようにみえる。

農政では、「改良普及員」という制度が昔からあって、要するにこれは農業技術を普及・指導していくための人材であり、都道府県の職員として農家に技術指導をしていた。「普及員」という言葉は、「すでにある技術を普及していくだけ」というイメージがあってよくないと思うが、実際は各地でどうしたら生産性を上げられるのかという試験・研究をしてきた歴史があって、かつての農政の一つの要だったと思う。

これが、最近どんどん人員を削られてきている。政策的にも日陰の方に追いやられている。ひどく減少しているというわけではないものの、都道府県の出先機関の合理化・定員の削減などで地味に減ってきているのである。これは本当にゆゆしいことだ。普及員のポストが減らされるということは、地方国立大学の農学部の卒業生の、重要な就職先が減らされるということと同義だからである。

農学部を出てもその知識を活かせる職場が少ないのなら、農学部へ行く学生も減り、農学部の定員自体も削られていくだろう。需要がないのだから。そして農学部が縮小していけば、その地域の農学のレベルはどんどん下がっていかざるをえない。

農学なんかなくったって、農業は出来る、と思っているとしたら甘い。確かに篤農家は農学を知らなかった。農学を知らなくても、植物を観察し、管理と肥料を調節し、比較対照し、結果を吟味し、次第によりよい生産方法を探っていった。でもそれ自体がほとんど農学的な歩みでもあった。誰も彼もが、こういうことはできない。やはり広く利用出来る形で、よりよい生産技術が生みだされる体制を作る方が全体の底上げになる。

そして、篤農家であってもできないのが、農業の「基礎研究」だ。例えば、植物はどうやって水を吸い上げるのか。植物が水を吸い上げる圧力は、まだ完全には解明されていない。それがわかっても、農業に役立つとは限らない。それより、どれくらい水をやるのか適切かという研究課題の方が短期的には役に立つ。でも、将来的には、原理を解明する方がもっと役に立つ可能性がある。

他にも、害虫となる昆虫の生態学、植物の免疫機構、土壌微生物の生態系の解明、などなど、農業を理解する基礎となる、地味な学問はまだまだいっぱいある。こうした基礎研究を重ねていかなくては、本当の意味で革新的な技術は生まれてこないし、植物の生理を理解することそのものができない。

そもそも農業をする上では、栽培植物の特性を理解して環境を整える、というのが第一歩だ。しかし未だに「栽培植物の特性」自体に謎が多く、どうしたら最大の収量・品質を上げられるのか分かっている植物はないと思う。どうしたらうまく育つかわかっていないのに、どうやってうまく育てろというのだろう。だから、是非とも農業技術の基礎研究は必要なのである。


巷では「これからは農業の時代!」などと調子のよいことが言われている。であれば、その基盤となる技術こそ重視しなければならないのに、6次産業化とか「ものづくりよりことづくり」(ストーリーで売る)とか、悪い言葉でいえば「見方を変えれば大逆転」みたいなことばかり言われているのは軽佻浮薄だ。それよりも、質の高い農産物を生みだす技術、そのものに注目が集まって欲しい。

だが、技術の発展というのは、マーケティングとは違って一足飛びにはいかない。技術は地道な積み重ねでしか進んでいかないもので、成果の出ない時期の方が長いくらいである。そして怖ろしいことに、技術は発展しようとするエネルギーを失ったら、それは既に衰亡の途に入ってしまうものである。それは止まったら死んでしまう大きな魚のようなもので、技術は常に進んでいないと息の根が止まるのだ。

今ある農業技術で十分だ、と思った瞬間に、農業は終わるのだと私は思う。これは、かつて日本の農学の歴史で繰り返されてきた停滞のパターンでもある。こうなると、確立した理論に合わない現象は黙殺され、小さな発見の芽は簡単に摘み取られてしまう。そして農業の生産性は、いつのまにか落ちていく。なぜなら、理論の基盤になっていた自然環境や社会情勢は、どんどん変化していくからである。

このたびノーベル生理学・医学賞を受賞された大隈良典 東工大栄誉教授も、「役に立たない基礎研究が大事」とおっしゃっているようである。我々は、「技術」の上澄みを使って仕事や生活をしているが、その技術の下には、厖大な数の(直接は)役に立たない技術があり、さらにその下には原理を解明する、自然を理解するという、基礎的な学術の営みがある。

農業も同じである。我々が当たり前にやっている農業の背後には、それを成立させている様々な技術や学術があり、究極的にはその土台が上澄みのレベルを決めている。

「高品質な日本の農産物を世界に輸出しよう」というのであれば、世界一の農業技術立国を目指さなくてはならない。それにはマーケティングやブランディングも大事である。でもそれ以上に、技術は生命線だ。そのためにまず必要なものは人材であり、予算である。改良普及員を増員し、農学部を強化し、研究資金を潤沢に与えて欲しい。そういう地道な取組の先に、農業の新たな展望が開けるのだと思う。

2016年8月12日金曜日

最初のアボカドの実

これは、我が農園で初めて着果した「アボカド」の実である。

以前からの「南薩日乗」の読者はご存じのように、私は(一応)アボカド農家を目指していて、これまで約150本のアボカドを植えている。
【参考記事】
アボカドの栽培にチャレンジします(2013年)
アボカド栽培も3年目(2015年)
アボカドを植えました。が…(2015年)
それが、今年、ついに1個実をつけたのである。「フェルテ」という品種のアボカドだ。

これは2013年に約50本植えた最初のアボカドの1本なのだが、他の樹はどんな状況かというと、正直いうとあまりうまく生育していない。その半分が枯れかかっている感じである。

何がその要因かというと、特に、昨年の記録的長雨での被害が大きかった。アボカドはとにかく排水が悪いところが嫌いで、大雨の時に少しでも水が溜まるようなところはすぐに根腐れしてしまう。そして、一度根腐れすると回復が難しい。その上、昨年は台風が直撃してほとんど全てのアボカドが倒伏し、さらに今年始めには数十年ぶりの寒波で大雪が降ったため相当弱った。今後回復するのか、このまま枯れてしまうのか、観察を続けたいが感覚的にはおそらく枯れると思われる。残念!

そして、昨年から今年にかけて植えた約100本については、生育のバラツキがかなり大きい。そして、そのバラツキが何に起因するのか私はまだよく分析できないでいる。なんとなく、問題は根なんじゃないかと推測しているが、じゃあなんで根の生育に差があったのかというのがよくわからない。排水性はよいところだと思うし…。

というわけで、まだまだアボカド生育の技術は未熟ではあるが、後進の参考にならないとも限らないので、これまで得た教訓について備忘のため書いておくことにする。
  • 定植場所は排水性が最も重要。
  • 日当たりはちょっとくらい悪くても生育には影響しない。
  • 定植1年目に安定して生育させるのがもの凄く大事。支柱への結束をしっかりして、夏場には水やりをすること。
  • ある程度芽欠きをして単純な樹形に整えることは意味があるが、やりすぎると風に弱くなるので、ほどほどにする。放置でもかまわない。
  • 元肥は不要。ただし有機質に富む土壌を好むのは間違いない。
という感じ。

150本のアボカドというと、その苗木の代金が60万円以上。我ながら結構な投資を行ったと思う。うまくいくかどうかもわからないものに…。で、その60万円の投資の最初の成果が、この1個のアボカドというわけだ。 これから台風などで落果しなければ、10月か11月頃に収穫できるようになる。ぜひこの最初の1個を収穫したいと思う。どんな味がするのか楽しみだ。

【参考】
国内のアボカド栽培の第一人者といえるのが米本 仁巳さんという人で、この人の書いた『アボカド―露地でつくれる熱帯果樹の栽培と利用』という本が一番参考になった。でも本を読んだだけではできるようにならないのが農業である。ちなみに米本さんは近年鹿児島の開聞に移住してきて、アボカドの露地栽培の実証をやっているそうだ。

2016年8月6日土曜日

「無農薬・無化学肥料のお米」販売中

8月6日、「南薩の田舎暮らし」で販売している「無農薬・無化学肥料のお米」の稲刈りだった。

と、いっても、自分がやるわけではなくて刈り取り委託している(他にもたくさんのことにお世話になっている)狩集農園さんが稲刈りをしてくれた。

ちなみに、お米の収穫は秋じゃないの? と思うかもしれないが、こちら南薩では早期米といって夏に収穫するお米を作っているので、一番暑い時期に稲刈りなのだ。

で、今年は豊作かと踏んでいたのだが、実際は小米が多かったり、そもそも見た目ほど米が実っていなかったりということで、不作な感じである。いや、過去最高に不作だった昨年に続く不作みたいである…!

どのくらい不作かというと、5反(50a)作っているのに、モミ換算で60俵しか穫れなかった。この面積であれば普通だったら100俵くらい穫れる。つまり今年は普通の6割くらいの収穫しかなかった。

もちろん、私は無農薬・無化学肥料で作っているので「普通」ではない。「無化学肥料」だけでなくて、肥料自体をほとんどいれていないので、「普通」に穫れたらそっちの方がおかしい。でも経験上、お米の場合は無肥料にしても普通の8割くらいは穫れるように思う。

今年は、さほど天候も悪くなく、さして不作になる要素もなかったのに、なんだか不思議だ。むしろ豊作なくらいかと思っていた。こんなに不作というのはやっぱりジャンボタニシの被害が大きかったんだろうか。来年はまた工夫しないと。

というわけで、無農薬・無化学肥料なのにも関わらずお求めやすい価格で販売しておりますので、このお米を通じて、今年もまたよいご縁をいただけますことをお待ちしております!

↓ご注文はこちらから
【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のお米(5kg/10kg)
(5kg:2300円、10kg:4500円、+送料)
※ご注文の受付期間は8月末までを予定しています。

2016年5月29日日曜日

納屋をリノベーションします

実は、明日からうちの納屋のリノベーション工事が始まる。

このあたりの古い家には必ず納屋が附属しているもので、うちも本宅よりも立派な2階建ての納屋があった。でもいつかの台風で2階部分が壊れて改築し今は1階部分しか残っていない。

昔も今も、農業には倉庫が重要であることは言うまでもないが、特に昔は牛に犂(すき)を引かせていたから家に牛がいて、牛を飼うためには納屋が絶対必要だった。写真で分かるように、建物の下半分が石詰みによって作られているのはこのためで、木造だと牛の糞尿によってすぐに材が腐ってしまう。だからこのあたりの古い納屋の下半分(の、特に牛のためのスペース)は石詰みによって作られている。

さらに、牛の糞尿は肥料にしたので、牛のいた区画の下は傾斜がついていて屎尿排水の口があり、下には大きな肥だめの空間がある。ついでに納屋の外には人間用の便所もあって、人間と牛の屎尿はそれぞれ下の肥だめに集められるようになっていた。

化学肥料が使えなかった昭和の半ばまで、これは農業をやっていくための大事な仕組みだったが、牛がいなくなり、化学肥料になって人糞も集めなくなると、この肥だめシステムは無用の長物と化してしまった。それどころか、肥だめには雨水が溜まって(沁み出してきて?)湿気の温床となり、地下の空間は危険な落とし穴にもなった。野良猫がこの肥だめの中に落ちてしまい、それを救出するのに3時間くらいかかった、なんてこともある。

というわけで、この無用の肥だめをなくしてしまうことにした。これから、また肥だめをつかって肥料を作るような時代が来ないとも限らないが、私の考えでは、昔の屎尿肥料の作り方にも非効率なところがあり(※)、仮にそういう時代が来るとしても昔ながらの肥だめシステムを使う必要はないだろうと思う。

具体的な工事としては、肥だめを壊し、埋め、上からコンクリートで塗り固めてしまうというもの。でも工事というものは、マイナス(迷惑施設)だったものがゼロになる、というだけではなかなかやる気が出てこないものである。というわけで、せっかく工事をやるなら、納屋のリノベーションを行って、ここをステキな部屋にしてしまおうというわけである。

そもそもうち(本宅)は築百年の古民家で、間取り的に現代の生活スタイルに合っていないところがあり、子どもたちがもうちょっと大きくなったら一部屋足りなくなる見込みだ。この機会に一部屋作っておけば将来の子ども部屋問題も解決するし、それまでの間は事務所か書斎として使うこともできる。

同世代が次々に新築の家を建てる中、このきったない納屋を子ども部屋にしようというのは忸怩たるものがあるが、加世田のステキな工務店crafta(クラフタ)さんのセンスで、新築するよりステキな空間に生まれ変わる予定である! 私としては密かに南薩の「納屋リノベーション」の先駆事例になったらいいなと期待しているところだ(同じような納屋がこのあたりにはたくさんあるので)。

ところで、こちらに移住してきてから、かなりのお金が工務店さんの方にいっている。本宅のリフォームはさておき、その他にも食品加工所(そういえばこれまでブログに書いていなかったのに気づいたのでいずれ書きます)、農業用倉庫、そして今回の納屋リノベーション。生活や仕事の基盤を作っていくというのは、なによりもまずその「場」を作る事が重要だ。「場」=不動産よりもコンテンツにお金を掛けるべきという考えもあるが、私の場合はまず「場」をしつらえるのを優先するので、これはこれでよかったと思う。

でも農業ではなかなか生活が成り立って行かない中で、どうして納屋リノベーションの予算が出たのかというと、これは当然貯蓄を切り崩して捻出している。そしてこれで都会時代の貯蓄が全て無くなった感じになり、また今年後半から新規就農の補助金も終わるので、これでいよいよ裸一貫でやっていかないといけない。正直、ちょっと不安はあるが、農業でなんとかやっていけないことはない、という見通し(だけ)はある。

お金のない中で、そんなやってもやらなくても困らない工事なんかやめておけ、という人もいるだろうが、私としてはこれも「南薩の田舎暮らし」の重要な基盤の一つだと思っている。生活や仕事の基盤はそろそろ出来てきたので、これからはそれを活かして行く段階になってくる。…と書いていたらだんだんやる気が出てきた。

というわけで「納屋リノベーション」がステキにできあがるか楽しみである。


※ というのは、糞尿を肥料に変えるには発酵させなくてはならず、それにはたくさんの空気(酸素)を必要とする。昔の肥だめは尿も一緒に集めていたためドロドロ状態になっていて、それを別の場所にわざわざワラなどと重ねて入れ発酵させていたようだ。今だったら、ブロアで空気をいれて発酵させるかもしれない。でももっと簡単かつ効率的なのは、糞は糞だけを集めて水気のない状態で発酵させることである。なぜ昔はこうしなかったのかよくわからない。

2016年3月26日土曜日

「薩摩文旦」サワーポメロの定植

以前、サワーポメロには将来性があるのではないかという記事を書いた。

その時は、自分では「これから増やしていこうという気もないが…」と書いていたものの、いろいろ考えてみて、理屈の上ではやっぱりサワーポメロは将来有望だと確信するに至ったので、今年約30本サワーポメロを植えてみた。

時々農作業を手伝ってくれる父も「今時サワーポメロが売れるはずがない」と言っているし、周りにもサワーポメロに力を入れている農家はいないので、ある意味リスクのある選択だが、理詰めで考えてこうだとなったら、それを実行に移してしまうのが私のサガである。

ところで、このサワーポメロというもの、調べてみると実体がはっきりしない。

「サワーポメロ」という柑橘には鹿児島県以外の人は馴染みがないと思うが、それもそのはずで実は「サワーポメロ」という柑橘は存在しない。これはブンタンの一品種「大橘(オオタチバナ)」というものの鹿児島県での通称・愛称であり、柑橘の分類としては単なるブンタンなのである。

昭和の終わり頃、鹿児島県が「大橘」を将来有望なブンタンであるとして生産奨励を行い増産を図ったことがある。この時、「ブンタン(大橘)」では社会へのアピールが足りないということだったのだと思うが、鹿児島県と鹿児島県経済連でこの品種の通称を公募したのである。それで、昭和60年に「サワーポメロ」という通称が定まり今に至っている。年寄りに聞くと「昔はサワーポメロなんかなかった」と言われるが、おそらく、この通称決定以前はこの果物は単に「ブンタン」と呼ばれていたのだろう。

しかし、この名称が定まった時には、時代は既に軽薄短小で食べやすい果物へとシフトしてきていた。ブンタンのように、大きくて皮が剝きにくく、包丁を使って処理しなければならない柑橘は人気が出なかった。結局、「大橘」は増産されたものの、期待されたほどの利益が生まれず、今では県内で40haくらいしか生産されていない。実はまだ生産奨励品目から外れていないらしいが、実際にこれを増やしていこうという農家は少数だと思われる。

さらに、このような経緯で「サワーポメロ」という名称が定まったためもあるのだと思うが、この果物は名称が混乱している。同様のブンタンが熊本県では「パール柑(カン)」という名称で販売されているが、この「パール柑」と「サワーポメロ」が同じものなのか、違うものなのかもあやふやである。

「パール柑」は、鹿児島の垂水の果樹試験場にあったブンタンを原木にして熊本県で育成されたものであるが、これが昭和20年代のことであったために、同じ果物が鹿児島と熊本で違う名称で呼ばれることになった、と言われている。

とまとめたら簡単なのだが、実はそうはいかない。

「パール柑」と「サワーポメロ」は別物だ、という説が存在するのである。曰く、「パール柑」は「サワーポメロ」ではなく、「土佐文旦」だというのである。実際、苗木屋のカタログを見ると「土佐文旦(パールカン)」と書いてある。そして、「土佐文旦(パールカン)がサワーポメロとして販売されていることがあるので注意」などと但し書きがあったりする。どちらが本当なのか。

しかし、今度は「土佐文旦」を調べてみると、これは「サワーポメロ」と同一品種だという情報もあるのだ! 「土佐文旦」は「土佐」とついているが、実はこれも鹿児島の加治木にあったブンタンから増殖させたもので、実際は鹿児島のブンタンであり、その原木がどうやら今で言うサワーポメロかその近縁種だったらしい。これを元に高知県で原木が確立したのが昭和4年の話である。

となると、結局「大橘」=「サワーポメロ」=「パール柑」=「土佐文旦」、ということになるが、苗木屋のカタログでも「サワーポメロ」と「土佐文旦」は別の苗木として販売されており、それどころか収穫時期や果重、果実の特性(ジューシーさなど)も違うと書いてある。うーん、真実はなんなのか。

実は、「大橘」は鹿児島在来のブンタンであり、来歴は不明ながら、いわば自然発生的な品種のようである。つまり誰かが品種改良して作ったものではなく、ブンタンを育てているうちに交配を繰り返していつからか生まれた品種ということになる。なので、現代でいう「品種」にぴったりこないところがあるのだろう。そのため、同じ「大橘」でも様々な変種や亜種が存在して、同一品種が違うものとして認識されたのかもしれない。

そもそも、鹿児島はブンタン類の本場である。中国からブンタンの原種が渡ってきたのが鹿児島の阿久根だという。大橘だけでなく、鹿児島ではかつてたくさんのブンタンが自然発生的に栽培されていたようだ。ブンタンの大きな果実はどことなく南国を彷彿とさせ、鹿児島の南国ムードを演出するのにも一役買っていた。「ボンタンアメ」(鹿児島では、ブンタンは「ボンタン」と発音されることが多い)とか「ざぼんラーメン」はいかにも鹿児島な感じがする(ざぼん=朱欒はブンタンのこと。ざぼんラーメンは鹿児島のラーメンの老舗で、別にラーメンにブンタンが入っているわけではない)。

今から考えると、大橘の「サワーポメロ」という通称があまりよくなかったかもしれない。「サワー」と言いながら酸っぱさが際立っているわけでもないし、どことなく外来の品種のような感じがして地に足がついていない名称である。むしろ鹿児島在来のブンタンであることを誇り、シンプルに「薩摩文旦」で良かったのではないか。そっちの方がずっとわかりやすくて認知が進んだような気がする。

「土佐文旦」で文旦の栽培振興を行った高知県は、今では鹿児島を遙かに凌ぐブンタンの産地となっている。「土佐文旦」から生まれた「水晶文旦」は、非常なる高級品を産み、一玉2000円もする極上品が販売されてもいる。ブンタン栽培の中心地はすっかり高知県になってしまった。


もちろん、鹿児島を改めてブンタンの産地にしていこうというのは、ちょっと無理があるだろう。だが、「大橘」は戦前のブンタン類の中では最高の品種とされていたそうである。高知みたいに上手く栽培・販売はできないにしても、在来の「大橘」はまだ活かす道があるのではないか。改めてその可能性を信じて、「薩摩文旦」を作ってみるのも一興だろう。

【参考】
広報いちき串木野 2015.2 VOL.112 「知っておきたいサワーポメロの話」(p.11)

2016年3月22日火曜日

縁あってアーモンド栽培がちょっとだけ拡大

アーモンド栽培の記事は、「南薩日乗」の中でも特に反応(アクセス数・コメント)がある。日本でアーモンド栽培に取り組んでいて、それをネットで発信しているところはごく限られているためだと思う。

【参考】アーモンドは無様に失敗中(2015年11月)
【参考】アーモンドはじめました(2014年5月)

そのお陰で、「アーモンド畑を見せて欲しい」という人も結構いる。正直、栽培がうまくいっていないので、実際に見たらガッカリすると思うが、うまくいっていないことも含めて参考になったらと思う。

先日は、突然連絡があって、「アーモンド栽培がうまくいかないのは台木のせいだと思う。自分は苗木屋だからアーモンドの穂木を送ってくれれば適した台木に接いでみる」という話がきた。ブログへのコメントならまだしも、わざわざ電話をくれるなんてただ事ではないし、そういう縁は大切にしたいので早速穂木(ほぎ=新芽がついた枝)を取って送った次第である。

それでさらに、穂木を送ってくれたお礼として、ダベイという品種のアーモンドと黄金桃という受粉用の桃の木の苗木も送って下さった! わざわざ山形から! こちらからお礼しないといけないくらいなのに恐縮である(もちろん、お礼の柑橘を送りましたが)。

というわけで、送られてきたアーモンドも定植したので、アーモンド栽培はちょっとだけ拡大である。この機会に、これまでの反省を込めてアーモンド栽培のポイントをまとめてみたい。(あくまで南薩の気候における栽培です)
  • 最重要なのは排水。日当たりも重要だが、それよりも排水がよいところを選ぶこと。大雨が降ったら水が溜まるようなところは絶対に避ける。
  • 風には弱いので、台風対策をしっかりすること。丈夫な支柱にくくりつけるべし。
  • 土壌は、よく団粒化して通気性がよいところが理想であり、弱アルカリくらいがよさそうである。(私の圃場は粘土質なのでよくない)
  • 梅雨時が試練。梅雨に入る前に下草をキレイに刈って、カタツムリ対策に万全を期すこと。
  • 雨量の少ない地域の方がうまく栽培できると思う(年間降雨量1000ミリ程度)。
まだよくわかっていないのは、肥料について。私の考えでは、果樹はあまり肥料をあげない方がよいと思うのだが、アーモンドの苗木の場合はどうあるべきかよくわからない。肥料を上げた方が初期生育は早いような気もするが…。肥料の実験以前に、それ以外の要素で生育が不調なので実験のしようがないところである。

ともかく、アーモンドの着目度は高く、これが繋いでくれた縁も既に多い。今のところ全然うまくいっていないが、これでは終われないので、まだまだ悪あがきを続けてみたい。それどころか、詳細はまた別に書くが、アーモンドだけでなく、これからナッツ系を充実させていって、ナッツ園を作っていきたいという計画もある(たぶん、そういうコンセプトでやっている農家は日本でも数少ないはず)。

というわけで、今後のアーモンド栽培にも乞うご期待!(今までが失敗続きなので、期待する要素があまりないですけど、潰滅しない程度を期待してください!)

2016年3月17日木曜日

農村婦人、婦人部、農業女子

最近、「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログ記事が物議を醸している。

私としては、なぜこのブログ記事が賛否両論を巻き起こすのか分からない。日本の子育て支援が薄弱なのは明白で、「そうだそうだ!」となりそうなのに。

この頃は、「保活」なる言葉もあるそうだ。「保育園に入れるようにするための準備活動」のことらしい。希望する人誰でもが簡単に保育園を利用できるようにすべきであり、保育園に入れるために知恵を働かせないといけないというのは異常である。

そんな中、政府は移民労働者の活用も検討しているそうだ。そんなことよりも、働きたいと思っている人が誰でも働けるように、保育園の整備を進めて利用制限の緩和を行い、保育士の待遇改善に努めるという当然のことをやるべきだ。

…という話を枕に持ってきたのは、このところ「農村における女性」ということについて考えているからである。

「女性が活躍できる社会」は実はずっと言われてきたことで、今になって出てきた話題ではない。かつて農村においても「農村婦人」はもっと活躍すべきだという趨勢になったことがある。各地で「農村婦人の家」のような施設(集会所や食品加工所)が出来たり、婦人学級(成人女性の勉強会)の活動が奨励されたり、「今後の農業の発展には女性の力が不可欠だ!」と叫ばれたりもした。

例えば、女性は農産物の加工に取り組め、といったようなことは少なくとも昭和20年代から言われてきた。今の農産加工とはちょっと意味合いが違う部分もあるが、それでも言われていることの変わらなさには驚くものがある。

ところで先日、先進的な取組をしている有名な農事組合法人のリーダーの講話を聞く機会があった。ここは、素晴らしい集落営農の取組と、企業とのコラボによる食品加工、そして自前の物産館の経営などによって農業関係者が全国各地から研修に訪れるところである。

そのリーダーが強調するには、企業とコラボしたり、物産館でイベントをしたり、要するに社会に関わって行く活動をするには、女性の力をいかに活用するかが大事だということである。そのためこの農事組合法人では、婦人部(という名前ではなくもうちょっと今っぽい名前にしていたが、要は婦人部)を設け、その活動を重視しているんだそうだ。

これは(少なくとも鹿児島の)農村で何か事を起こす時には鉄則で、男衆は飲み会の席では「こうしたらよいああしたらよい」と調子のいいことをいうが、実際に何かやることになったら意外と戦力にならず、女性の方がテキパキと事をこなすことが多い。難しいことでなくても、お客さんに対してお茶とお茶請けを出すような地味だが大切な仕事をこなすのが女性で、まさに縁の下の力持ちという感じがする。

うちの集落でもそうで、例えば集落の新年会、鬼火焚き(どんど焼き)、敬老会といったような行事で食事やお酒を準備するのは婦人会であり、自治会組織の一部である婦人会がこうしたイベントでの骨の折れるほとんどの仕事を担っているように感じられる。

しかしながら、先進的な農事組合法人でも「婦人部」があるということには、相当衝撃を受けた。例えば、名のある企業が女性の社員だけまとめて「婦人部」という部署を作っているとしたら、どんな旧態依然とした組織かと愕然とするであろう。それと同じような衝撃を受けたのである。

組織は、あくまでも適材適所で人事をなすべきであって、性別で部署を決めつけるようなことがあってはならないと思うし、それは既に常識だ。女性は婦人部に属してサポート役に回りなさいというような話をしたら、相当な時代錯誤だと思われるだろう。

これは企業だけの話ではない。例えばイベントの実行委員会のような有志組織を作る場合にも、男性と女性で別の組織になっていたとしたら強い違和感があるだろう。少なくとも名目上は、男女を対等なものとして扱う文化がかなり根付いてきた。

それなのに、全国的に見ても先進的な農事組合法人でも、全く自然に「婦人部」が成立していることを見て、農村組織の意識の遅れに暗澹たる気持ちになったところである。

もちろん、この農事組合法人で女性がサポート役として虐げられているかというとそういうことはない。むしろ組織の重要なメンバーとして様々なことに取り組んでいるようで、収益も上げており、この活動にやりがいを見いだしているようだった。それはよいことだと思う。別に女性が搾取されているとは思わない。私が問題とするのは、女性を「婦人部」に所属させて当然とする意識の方である。

集落の場合は、婦人会的なものがあるのはしょうがないことだ。集落全員が参加する活動であれば、属性で分けて組織を作るのが合理的だ。婦人会、青年団、老人会、などなど。本人のやる気とか、適材適所ということを考えると組織が破綻する。なぜなら、集落自治の活動を積極的にやりたいという人は少数派なので、属性によって強制的に人を集めるのでなければ現実的に人が集まってこないからである。

だが企業の場合は違う。基本的には人はそこに所属して何事かをするという意志を持っているわけだから、それを無視して「女性は婦人部へ」というのはおかしいのである。この農事組合法人の場合は集落営農を営んでいるので、半ば自治会的な側面があるのだろう。そう考えると「婦人部」の存在も理解はできる。しかしそうであっても、話を聞くかぎり「婦人部」の必然性は感じられなかった。

組合のリーダーが言うように「婦人部」は活動の要であり、もし「婦人部」的なものがなかったら組織がうまく回らないということがあるのかもしれない。特に九州の女性は、公的な面で表立って動くというのを避けたり、役職を持たないようにする傾向があるから、あえて「婦人部」を設けて、その枠内で活動してもらう方が、当の女性にとってもやりやすいのかもしれない。つまり実際「婦人部」があったほうが効率的なのかもしれない。「婦人部」だからといって軽視されていることはなく、むしろそれが組織の心臓部になっているのなら、これは一種の「女性の活躍」なのも間違いない。

しかし、「婦人部」という言葉からは、どうも「農村組織にとって都合のよい女性の働き」を称揚しているような響きを感じる。

かつての「農村婦人」の運動もそうだった。「今後の農業の発展には女性の力が不可欠だ!」といくら叫んでも、その実は「農業の発展のために女性にはこんなことが期待されている」というだけで、女性を都合の良い駒みたいに扱うことが多かった。正直いうと私自身にもこの発想があるので他人事のように批判してはいけないが、当時(昭和30〜40年代)の資料を読むと、「農家の嫁が果たすべきつとめ」みたいなトーンで物事が書いてあるので、さすがにそれは押しつけすぎなんじゃないかと思う(でも今でもこういうことを考えている人は多い)。

最近の「農業女子」はこれとは違って、「これまで男性の領域と思われていたことも女性がやっていいんだ」という雰囲気があるのでとてもいいことだ。「農業女子」のムーブメントがこれまでの「農村婦人」と大きく違うのはそこで、「農村における女性の仕事はこうあるべき」という押しつけがましいところがなく、「やりたいことがたまたま農業でした」という本人の自発性を基本にしていることである。

「今後の農業の発展には女性の力が不可欠だ!」というなら、女性に期待されるいろいろなことを列挙するのではなく、そもそも女性が働きたいような職場を作っていくことが必要である。そして女性に期待するのではなく、むしろ女性の期待に応えるものでなくてはならない。農業という職場(?)はあまり女性向きでないところがある。畑にトイレはないし、日に焼けるし、オシャレな服を着る機会もない。そういうことを気にしない人だけが「農業女子」になればいいんだ、というのは傲岸というものだ。こういう残念な点を補う魅力を作ったり、できるだけ改善していく努力は必要だ。

そして私は、かつて「農村婦人」に向けられていた押しつけがましい眼差しが、今でも女性に注がれているのではないかと危惧している。いくら「女性の活躍」といっても、あくまで男性にとって都合の良い「女性の活躍」だけが期待されているのではないかと。女性は「婦人部」に所属してやりがいのある仕事をやってください、というような、何かちぐはぐなメッセージがあるような気がする。

私も今後の農業の発展には女性の力が不可欠だと思っているし、日本社会そのものの発展にも女性の力が不可欠だと思っている。それはいうまでもないことである。ある産業や社会が男性の力だけで成り立っていくとしたらそっちの方がおかしい。そのために、少なくとも「婦人部」的なものをなくすべきだ。短期的には「婦人部」があったほうが効率的だとしても、人々の自由意志は効率よりも重要である。

働きたい人が働けるように、子どもを産みたい人が産めるように、そしてそうしたくない人は、無理にそうしなくてもいいように、そういう自由意志を尊重する社会が当たり前になって欲しい。都合のよい「女性の活躍」ではなく、女性がやりたいことを思い切りできる社会になって欲しい。

農村にとって都合の良い役目を果たす女性=「農村婦人」という概念が時代遅れになったことは前進である。時代は変わる。農村すら変わってきたのである。

2016年2月28日日曜日

田舎に移住して農業でもして暮らすか、講座(その3)

今回は移住や就農にあたっての心構え的なものについて。

インターネットで田舎への移住について書かれたものを見ると、田舎の社会に覚悟するように、といった警句がよく目につく。

私自身は、今住んでいる南さつま市では新参者であっても、同じ鹿児島県の吉田町(現・鹿児島市宮之浦町)というところで生まれ育っていて、そもそも田舎人なのであまり田舎の社会が都会と違って云々ということは思わない。それに、田舎といっても鹿児島のことしか知らないし、都会といっても東京・神奈川のことしか知らない。

なので、以下のことは、田舎と都会というような大きなテーマでなく、あくまで私の体験での話として受け取ってもらいたい。ただ、表現上便利なので「田舎」とか「都会」という言葉を使わせてもらうことにする。

(8)田舎でも都会でも人間は同じ

よく、田舎の社会は閉鎖的だとか、 因習的だとか、人間関係にがんじがらめにされているとか、地域の顔役がのさばっているとか、いろんな悪口を言われる。事実、そういう面もあるとは思う。さる移住者の人に聞いたら、「結局、本当の仲間としては扱ってくれないんですよね。いつまでもヨソ者で」というようなことを言っていた。

私の場合ここは父方の郷里でもあるので、幸いにしてそういうことはなかった(と思う)が、それ以前に田舎の人と都会の人はその気質が大きく違うかというと、そういうこともないと思った。

譬えるなら、田舎に新参者が越してくるというのは、学級に転校生を迎えるようなものだと思ったらよい。そこには、既にいくつかの仲良しグループがあり、グループ同士の微妙な関係があり、グループと距離を置く孤独な幾人かがいたりする。転校生は、そのグループのどれかと仲良くなるか、どれにも属さないで孤独派になるか、または孤独な幾人かをまとめて新たなグループを立ち上げたりすることになる。これは極端な戯画化だとしても、コミュニティというものはどこでもそういう側面がある。都会だろうが田舎だろうが、人間関係の根本にあるそういう力学は共通している。

しかし、都会だったら、引っ越しはそういうのとは全然違う。それこそ、大勢の他人が交わっては離れていくスクランブル交差点を掻き分けていくようなもので、そこにはほとんど人間関係の編み目はなく、コミュニティの圧倒的な空白が存在している。そこに新参者がいることに誰も気にしないし、誰なのか興味もない。だが、それは都会の人が開放的だとか、進歩的だとか、人間関係に冷淡であるとかそういうことではなくて、単に人口密度と人の入れ替わりが激しすぎてそうなっているだけで、都会の人であっても固定的な小グループでコミュニティを作っていれば田舎的な面が出てくるものだ。

要するに、田舎の人と都会の人という2種類の人たちがいるのではなく、同じ人間が田舎と都会という違った環境で生きているというだけのことで、一人ひとりを見てみれば大きな違いはないのではないか、というのが私の感覚である。

だから、移住してくるにしても、田舎だからどうこうと身構える必要はないと思う。とはいっても、先ほど述べたように、田舎に越してくるというのは転校生になるようなものなので、自分から積極的にドアを叩いていかないと周囲に馴染めないというのはあるかもしれない。既にできあがった人間関係の中に「ちょっとごめんください」と入っていくわけだから、そういうのが苦手な人にとってはそれだけでストレスだろう。

(9)就農も普通の転職と同じ

私自身、農業を始めようというとき、多くの人から、それこそ通りすがりのおじさんからも「農業なんてバカな真似はよせ」という声をもらった。 農家から「農業をやっていく覚悟があるのか」というようなことを言われたこともある。

インターネットの相談サイトなどで「農業をやってみたいんだけど」といった相談があるときも「都会のもやしっ子には無理」とか「農業をなめるな」といった妙に上から目線の回答がなされることが多い。しかし実際に農家になってみて、そういうアドバイス(?)にはちょっと違和感がある。

例えば、「お前はシステムエンジニアになる覚悟があるのか?」みたいに言われることはほとんどないと思うのだが、多くの職業にはそれになるのにさほどの覚悟は要しない。確かに長い修行が必要な職種(伝統工芸の職人や芸術家など)だとそういう風に言われることもわかるし、実際覚悟がいる転職(収入が激落ちするとか)というのもある。

しかし農業はそこまで長い修行はいらないし、収入は激落ちするがそれは多くの人が覚悟していることだろうし、厳しい仕事といっても連日深夜まで残業するような激務に比べれば随分気楽なものだし、今は都会でフリーター暮らしをする方がよほど覚悟が必要ではないだろうか。田舎には農業でそれなりに幸せに暮らしている人がたくさんいるわけで、本当に覚悟が必要な特殊な職業と比べたらかなり平凡な仕事である。農業を「限られた人しかできない、厳しい仕事」と思わせるのはよくない。

「農業は誰でもできる」は言い過ぎとしても、農業は世界最古のなりわいの一つであり、ことさら覚悟が必要なものではないと思う。もちろん独立就農は自営業の立ち上げだから、サラリーマンになるのとは違う。でも起業するよりはハードルは低い。あまり農業を特殊視せずに、普通の転職と同じように考えたらいい。

ただし、農業の場合は行政の補助がたくさんあるのが災いしてか、お客さん的にというか、「就農したいのでなんとかしてください」というような他力本願の人がいるというのは聞く(実際に会ったことはありません)。そういうのがよくないのは言うまでもない。あくまで普通の転職と同じように、自己責任で自律して行うべきである。

(10)農業の向き・不向き

向き・不向きの前に、どういう人が農業で成功するかというと、こんな人だ。

先延ばしせず冷徹果断に経営判断をすることができ、しっかりと計画を練って、そして段取りよく着実に実行する。新しい取組への挑戦や投資は恐れないが手堅い事業を守ることも疎かにしない。研究や勉強に余念がなく、かといって理念的なことに振り回されることなく常に現実に立脚する。地味な仕事も面倒くさがらずに一つ一つ粘り強くこなし、気持ちが途切れることがない。消費者の視点を忘れず優れた営業マンにもなり、販路拡大と有利販売のチャンスを逃さない。……そういう人である。

そんな人、別に農業じゃなくったって大抵の分野で成功するだろ! と思うだろうが、まさにその通りで、現代社会での仕事である以上、農業も他の職業と大きく違うことはなく、他の分野で成功するような人は農業でも成功できると思う。自分がそういうタイプでないという自覚があるなら、農業において大成功する確率は低いことは覚悟しておいた方がよい。ちなみに私も、残念ながらこういう成功向きのタイプではない。

ただし、農業では、他の職業だったら絶対生きていけないよなー、と思うような人が成功していることもあるのも確かである。農協にひたすら卸すというようなシンプルな農業をやる場合は、うまく生産するという一点だけをしっかりすれば他が(例えば人格面で)めちゃめちゃでもちゃんと儲けられるのが農業の特殊性かもしれない。

とはいえ、人生における仕事の意味を考えてみると、成功するかどうか、つまり大儲けや事業拡大できるかどうかということより、向き・不向きも大事である。「田舎に移住して農業でもするか」という人は、そもそも農業で大成功することを夢見ているわけではないと思うので、むしろ向き・不向きの方が重要だろう。

ということで、農業に向いているタイプを考えてみると、まず派手なことより地味な仕事を一人でコツコツこなす方が好きでないといけない。そして独立就農の場合はそこに上司も部下もいないので、サボろうと思えばどこまででもサボれる。だから自主独立の気風があり、自律して仕事を創り出すタイプでないといけない。誰かから言われないと仕事が進まない人には向いていないと思う。かといって、農業は地域でやっていくもので一人ではできないので、あんまり協調性がないのも考えものである。そもそも人付き合いがない人には優良な農地が回ってこない。

そして農業の場合、仕事のインプット(投資や作業量)とアウトプット(収穫量や収益)の対応が短期的にはめちゃくちゃなので、バクチ的なことへの耐性(または選好)が求められる。苦労して育てた作物が台風で潰滅することもあるし、何もしなくても天候に恵まれて豊作な時もある。でも相場が下がって豊作貧乏な場合もあるし、普通にやって平凡な出来でも相場がよくて意外と儲かる時もある。要するに農業は天候まかせ、相場まかせな部分が多かれ少なかれあるわけだから、そういう外部要因の気まぐれに付き合う度量の広さは必要だ。

ただ、一口に農業といっても、穀物、園芸、果樹、畜産、花卉(観賞用の花の栽培)、林産物(キノコ類やタケノコ)、種苗生産などいろいろな農業がある。穀物の場合は、ほぼ全ての作業が機械化可能で、極端に言えば畑の土を一度も踏まないで作付から収穫まで行うのが理想である。逆に園芸作物の場合、毎日畑に足を運び、こまごまとした管理を行わなくてはならない。そこに要求される能力・気質は真逆であると言ってもいい。さらに畜産や花卉なんかは穀物や園芸とはかなり違ったものであって、私もその世界はよくわかっていない。同じ農業の枠組みの中でもサラリーマン的な仕事の世界もあるし、職人的な仕事の世界もある。

つまり本当のことを言えば、農業への向き・不向きといったものは実は存在していなくて、自分に合った農業かそうでないかということしかない。要するに、農業の中でも自分に合ったものを選択していけばいいだけなのだ。でもそれが最初はよくわからないし、そもそもどんな農業が存在しているのかさえ業界の外からは分からない。やはり、どんな農業でもいいから(ただ、畜産だけは他の農業と必要な施設設備が違いすぎるから気をつけるべきだが)とりあえず取り組んでみて、徐々に自分に合った道を探すのがよいと思う。

(11)最後に

率直に言って、農業の経験が全くない人が、しかも全く新参者の土地で、農業でやっていくというのはとても難しいことである。地の利のないところで素人事業を始めるというのは、農業でなくても無謀なことだ。ただ、農業というのはほとんど地元勢によって担われているものであるから、そこに新陳代謝があまりなく、新しい風が入ることの意味もあるように思う。

この一連の記事はあまり夢のあることが書いていないので、これを読んで「よし、田舎に移住して農業をやってみよう!」と思う人は僅かだと思うが、そういう奇特な人にはぜひ田舎に新しい風を起こしてもらいたい。この記事が参考になれば幸いである。

2016年2月18日木曜日

田舎に移住して農業でもして暮らすか、講座(その2)

今回は新規就農について。

この講座は「なんとなく農業でもするか」というような人へ向けて書く、とはしたものの、さすがになんとなくで転職する人は少ないと思うので、「俺はこんな農業がしたい」という明確なビジョンはないとしても、それなりに農業への夢や愛着があることを前提として書くこととする。そうでないと、さすがに新規就農まではしないだろう。

ちなみに、例えば「私は日本一おいしいトマトを作るために就農したい!」というような人は、それはそれでやり方があると思うので、この記事は参考にはしないでほしい。これはあくまで、「田舎で暮らしたいけど、田舎にはちょうどよい転職先がないし、前から農業には興味があったし、農業で暮らしていけるなら農業っていう選択もありかな」と言うくらいに考えている人へのアドバイスである。

(4)農業の学び方

前回書いたように、農業は技術職であるため、まずはその技術を学ばなくてはならない。ではどうやって学ぶかということだが、あらゆる職業について言えるように、その技術のほとんどは書物のみでは学ぶことはできない。だから結局は、この問いは「どうやって学ぶか」ではなく、「誰から学ぶか」という問題に帰着する。

私の場合は、先輩農家Kさん兄弟からたくさんのことを教えてもらった。たぶん、Kさん兄弟がいなかったら就農していなかったと思う。農業を教えてくれる人がいなかったら農家には絶対になれない。実は正直言うと、こちらに来たときは林業を仕事にしようかと思っていた。林業なら、森林組合で働けばそこでいろいろ教えてもらえる。でも農業を教えてくれる人がいるなら、そっちの方がいいと思って農家になった。今でも山仕事を自分の生業の一つにしていけたらいいなと思っているが、職業として考えると、林業よりも農業の方がずっと自由度が高く、創意工夫の余地がある。

話が少し逸れたが、農業を学ぶためにはまず「先生」に出会わないといけない。 でも移住する前からそんな「先生」がどこにいるか分かるわけもないし、移住した後でもそんな人がなかなか見当たらないということだってある。

ということで、農業を学ぶのに一番無難な方法は、いろいろな団体がやっている農業の研修に参加することだ。例えば農業公社の研修なんかでもよい。農業公社というのは、農業にまつわるいろいろな事業を行うために自治体が設置している公共企業である。この農業公社が、1年とか2年、素人を研修生としてやとって農業のやり方を教えてくれる制度がある。でも農業公社の研修を受けた人というのを個人的には知らないし、あまり評判も聞かない。南さつま市の農業公社の研修プログラムを見てみても、研修を受けられる作物が1〜2種目しかなく、独り立ちするに十分な内容を教えてくれるのか未知数である。ただし、賃金が払われるということが農業公社のいいところである。一度話を聞きに行くのがよいと思う。

また、農業大学校が社会人向けに提供している各種の研修プログラムもある。これも期間は1年くらいのものがよい。1年かけて、様々な作物の育て方を学ぶような研修だ。鹿児島農大のやっているこの種の研修はけっこう実践的でいいらしい。農大では年中いろんな研修をやっているが、単発のものではなく、主に実技を訓練する長期間の研修を受けるのが効果的だ。講座方式の、座学ばかりの農業塾のようなものは、いくら受けてもあまり意味はないような気がする(でも別に実践を教えてくれる人がいるならこれはこれで参考になる)。

他にも、農家に研修生として受け入れてもらうという手もある。農水省がやっている「農の雇用事業」というのがあって、先進的な農業法人等に研修生として受け入れてもらって、その費用の一部が補助される仕組みが利用できる。積極的に受け入れをやっているところがあれば、これも使える制度だ。しかしこの場合も、結局「人の縁」の側面があるし、どんなことを学べるかは受け入れ先の農業経営次第なので、確実性を求めるなら公の機関が準備している研修に参加するのがいいだろう。

なお、農業に携わっていない人からすると、1年も研修を受けるのは随分と悠長な感じがすると思うが、農業は3年してやっと他の職業の1年間の経験ができると思った方がよい。作付は1年に1回しかできない作物も多いし、何しろ全ての季節を経験するにはどうしても1年間の研修が必要である。1年間研修するというのは一見長いように見えるが、これは普通の職業訓練でいうと4ヶ月くらいの内容に相当すると思う。

(5)畑の見つけ方

移住してどうやって畑を見つけるか、ということだが、農業公社や農法業人の研修を受けた場合は、かなりの程度研修先が土地の斡旋をしてくれると思う。農大の場合はそういうことをしてくれないが、いずれにしても1年間も研修を受けていたら、その間にそれなりの人の繋がりが出来ていると思うので、畑を貸してあげるよ、という人が現れるはずだ。

ただ、新規就農の場合は不利な条件の畑しか選べないということは覚悟するべきである。巷では耕作放棄地の増加などが報道されて、農地はいくらでも余っているというイメージがあるがそれは実態と全然違う。耕作放棄されているのは、山の中にあって、狭くて傾いていて不整形で、日当たりが悪かったり車が通る道が近くまでなかったり、石だらけの土地だったりする。そういう、耕作に適さない土地が放置されるのは当然なのだ。逆に、生産性の高い農地(人里に近く、広くて平坦で四角く、日当たりがよく、道が通っていて、土質がよい土地)は引っ張りだこである。

だから、新参者に貸せるのは、他の農家がやらないような条件の悪い土地になる。といっても、極端に条件の悪いところ(道がないところだけは辞めた方がよい)を避ければ、最初の一歩としての農業なら、そういうところでもそれなりに活用できると思う。高齢化で耕作を辞めていく零細農家が多いのも事実なので、焦らなければ全く見つからないということもないだろう。

ちなみに、農地というものはおいそれと買うものではないので、農業=農地を買わなくちゃ、と考えている人がいるとしたら修正して欲しい。農地は農地法という法律で保護されており、原則として耕作者以外に売ることができないので、まだ耕作していないうちに農地を手に入れることはできない。なので、最初の農地は誰かから借りるということで始めなくてはならない。

農地の賃借料の全国的な相場は知らないが、この付近では10aあたりで(条件の悪いところは)田んぼや畑で5,000円/年くらい、果樹の植わっている樹園地で7,000円/年くらい、耕作放棄地で2,000円/年くらいだろうか。でも人の縁があるならば、これは全てタダになる可能性があるので、相場というのはあってないようなものである。しかしこれらの金額を払ったとしても、農地を借りる費用というのは、面積が広くなければそれほど高くはない。

都合よく縁あったとして、最初にどれくらいの土地を借りたらよいのかということだが、1年間の研修を受けたとすれば30aくらい、近くに「先生」が見つかって、その人に教わりながら農業をやってみるとすれば10aくらいがよいのではないだろうか。10a=1000㎡なので、農業で生活を立てるには不可能な相当狭い土地だが、最初はどうせ生活は成り立たないので、しゃかりきになって広い農地を相手にするよりも、10aでいいからいろいろ試行錯誤したり、真面目に管理したりする方が、遠回りでも勉強になると思う。

(6)農業用倉庫の作り方

農業を経営していくには、絶対に必要な施設設備が3つある。第1に先述したとおり農地、第2に農機具、第3に農業用倉庫である。農地と農機具(トラクターなど)はイメージしやすいと思うが、農業に関係していない人が意外と忘れているのが農業用倉庫である。でも実は、この農業用倉庫こそ農業経営の要であると私は思う。

農業用倉庫というのは、農業機械を保管したり、収穫物を貯蔵したり、出荷調製作業(規格分け(選別)、箱詰め、配送作業など)をしたりするための場所である。農地が農業のフロント(店舗)とすれば、農業用倉庫がバックヤード(事務所や倉庫)にあたる。バックヤードのない店舗というのがありえないように、倉庫のない農業もありえない。

しかも、農地というのは交換したり、借り替えたりして動かして行くことができるし、農機具も逐次更新していくものだからこの2つは動産的に考えられるが、農業用倉庫は純然たる不動産だから一度設置したら簡単には変えられない。農業用倉庫をどこに設置するかで農業経営のかなりの部分が決まると思う。

例えば大浦町の場合で言うと、田んぼの広い干拓地に近いところに大きな農業用倉庫があれば大規模米農家になれる可能性があるが、私の住んでいる山手に倉庫を建ててしまったら大規模米農家になるのは難しい。干拓地までトラクターや田植機を2トントラックで運んでいく手間はかなりのものなので、物理的にそこまで耕作の手を広げることができないからだ。

というわけで、農業用倉庫は絶対に必要だがちゃんとした考えなく作ってはだめで、特に建設はできるだけ先延ばしするのがいいと思う。自分のやりたい農業の姿が見えてから、その農業をやるための適地に、必要十分な大きさで倉庫を作るのが理に適っている。

しかしながら、本格的に農業をするには農業用倉庫は絶対不可欠なのも事実である。だから、最初に耕作する農地は10aくらいに留めておいた方がよいとしたのである。これくらいならちゃんとした倉庫がなくてもガレージの隅でなんとかなるレベルである。技術を学ぶだけなら規模はさほど必要ない。まず農業の技術を学び、その中でやりたい農業の形を探して、それに適した場所に農業用倉庫を作ったらよい。ちなみに、空いている倉庫も多少はあるので、運がよければそういう倉庫を譲り受けることもできると思う。

農業用倉庫の予算だが、最初から大きくて立派なのを作ろうとしなければ、だいたい150万円〜300万円くらいだと思う。これが就農当初の最大の投資になるが、各地で倉庫建設には補助があるので、100万円くらいは補助で浮く。しかしもちろん補助には審査があるので、それまでにある程度の農業の形が見えていないと審査も通らないだろう。

(7)農業の始め方とその後

これ以降の話は、どのような農業が行われている地域に移住するか、誰を農業の「先生」にするかといったことで千差万別だと思うので、それぞれの農業 の「先生」に教えてもらいながらやるしかないが、農業に触れたことのない人にとって、その後のプロセスがどうなりうるのかが全く不明だと不安もあるだろう。

というわけで、あくまでも私の経験と鹿児島県の現状から考える農業の始め方とその後を書いてみたい。

全くゼロから就農する人の農業の始め方としてオススメなのは、移住した地の特産品を作ってみることである。特産品は、その地の気候に合っていて、栽培技術も確立しており、農業資材も手に入れやすく、販路がしっかりしていて、しかも周りの人がいろいろ教えてくれる。その上、地域の農業者が新参者を担い手として期待してくれる。

それなりに農業に夢や愛着を持って参入してくる人としては、みんなが作っているものを同じように作ることに物足りなさを覚えるかもしれない。もっと、珍奇な野菜とか、有機栽培とか、真新しい取り組みに魅力を感じるかもしれない。もちろんそういう新しい風はどんどん起こしたらいい。でも最初からそういう道なき道を選ぶのはリスクが高い。まずは、その地域で確立した道を進むのが楽でいい。

例えば、鹿児島の志布志市農業公社は、ピーマンの栽培で新規就農者を積極的に受け入れているが、別に「ピーマンが作りたい!」という強い気持ちがなくても、まずはピーマンという作物を入り口にしてそこから発展していけると思うので、そういう準備された道を行くのが一番確実だ。

私の場合も、周囲の勧めや支援もあって特産品の「加世田のかぼちゃ」やポンカン・タンカンを作っている。このうち、特にかぼちゃの栽培はとても勉強になる。というのは、特産品はかなり栽培技術が研究されているので、単なるハウツーではなく栽培理論まで深く学ぶことができるからだ。特産品を作るというのは一見横並びでつまらないことだが、実は他の作物にも応用できるような勉強ができる良策と思う。

特産品を担っているのはほぼ農協なので、このやり方だと農協に加入してやっていくことになるが、農協にはぜひ加入したらよい。農協は低収入農業の元凶に言われることもあるが、これも実態とはちょっと違う。日本全体(マクロ)の農業を視野にいれたら農協が悪い部分もあるが、個人(ミクロ)の農業経営だけを考えたら農協がないデメリットの方が大きい。少なくとも、「農協に頼っているから日本の農家はダメなんだ」というような、マクロとミクロを混淆した農業談義に与してはいけない。農協を利用するメリットがあるところは利用し、農協よりも有利なやり方があればそれを採用すればよいだけで、是々非々でやっていくのがよいと思う。

ともかく、特産品を入り口として、最初の農地10aを管理してみるのが農業経営の第一歩だ。そしてとりあえずの目標は、この10aから年間20万円の利益を上げる、というくらいではなかろうか(その10aがビニールハウスだったら50万円くらい?)。 反収20万円というのは決して簡単な目標ではないが、管理するのが10aだけだったら初心者でもそれほど困難ではない(年に2回作付するとして、1作あたり10万円の利益を上げるということ)。

10aで20万円が達成できたとすると、何年かかけて農地を10倍にすると200万円となって、ある程度の収入になる。が、話はそんなに簡単ではない。単純に規模拡大すると、特定の時期に作業が集中したり、天候不順などのリスクに弱くなったりするので、農業をある程度多様化していかなくてはならないからだ。だから徐々に規模拡大しながら、農閑期に組み合わせる作物などを順次導入して、一年を通して忙しすぎない状態を作っていくのが理想である。利益だけを考えたらひたすら特産品だけを規模拡大して作るのもアリかもしれないが、人間は機械ではないので特定の時期だけとはいえ休み無しで働き続けるのも無理である。

こうした事情を考慮して農業経営を拡大していくことを考えると、5年ごとに局面が変わっていく農業経営のモデルとして次のようなものが考えられる。
第1ステージ(〜5年):農業を開始し、少数の作物でまずは利益を出す農業を勉強する段階
第2ステージ(5〜10年):経営の規模を拡大し、様々な作物を導入して経営の基盤を確立する段階
第3ステージ(10〜15年):作付体系の中で、利益の薄いものや他の作物の経営を阻害しているものを思い切って辞めたり縮小し、作業効率を高め、生産性の高い農業経営を作る段階
第4ステージ(15年〜):効率のよい農業をしているため時間的・資金的に余裕があり、そのため珍奇な作物の導入や新しいことにも積極的に取り組める段階
言うまでもなく、第4ステージが農業経営の一つの完成であり、この段階で最高の収益を上げることになる。

それで一つ注意しないといけないのは、家族で移住して就農する場合はライフステージとこの農業経営の発達ステージが対応している必要があるということである。日本の場合大学教育にやたらと金がかかるので、子どもが大学進学を控えるまでにこの第4ステージのところへ到達していないといけない。ここでは一つのモデルとして15年を目安としたが、これより早い場合もありうるし、自然災害などの影響でいつまでも到達しない場合もある。しかしどう短く見積もっても10年はかかると思うので、子どもが既に産まれている家庭の場合は、大学進学を10年以内に控えているのなら(つまり子どもが既に8歳くらいになっていたら)、新規就農は絶対に辞めた方がいいと思う。そうしないと子どもの可能性を狭めることになる。

(つづく)

2016年2月14日日曜日

田舎に移住して農業でもして暮らすか、講座(その1)

こちらに移住してきてから5年目である。

農業を始め、農産加工にも取り組んでみて農業がどんなものなのかはわかってきた。その他、イベントを開催してみたり、地域の行事にもいろいろな面で携わらせてもらった。そういえばこちらにきてから下の娘も産まれてもう3歳である。

私みたいに、何をするかはっきりとは決めずに田舎に移住するという人も少ないとは思うが、余裕のない都会暮らしをしている人は、「いっそ田舎に移住して農業でもして暮らしたい」というような漠然とした移住願望を持っている人もいると思う。

そこで、「田舎に移住してこれをやるぞ!」というような強い意志があるわけではなく、なんとなく「農業でもするか」と考えている人に対して参考になるようなことをつれづれなるままに書いていくことにする。

(1)田舎に移住して農業で生活が成り立つのか

私の場合、青年就農給付金というのを貰いながら生活していて、これは農水省がくれる年間150万円の補助金である(金額は私の場合)。たぶんこれがなかったら生活できていなかったと思う(補助金は今年の夏で終わる)。でも逆に言うと、これのお陰で日銭を稼ぐ心配をせずにノンビリやっている面もあるので、なかったらなかったで必死で頑張ってなんとかなっているかもしれない。

とはいっても、農業というのは技術職であって、基本的には自分の技術をお金に換える手段である。だから農業を始めたばかりの人は、当然技術がないわけだから収入も低い。少なくとも3年くらいの間は勉強をメインにすべきであり、しばらくは貯金を取り崩すような生活をしなくてはならないと思う。(なお、ここでいう「勉強」とはもちろん座学のことではなく、収入を度外視してやる「仕事」のこと。)

よって、生活の固定費用をできるだけ下げることを考えなくてはならず、例えば住居費(家賃)であればどんなに高くても3万円以内にした方がいい。3万以下というと、都会の水準だとどんなウサギ小屋だと思うかもしれないが、田舎の市営住宅なんかだとそれくらいで割と普通の部屋に住める。

その上で、農業で生活が成り立つのかということだが、実は私もまだ生活が成り立っていない。でも4年目くらいから、「ああ、これくらいのことをすれば農業で身が立てられるはずだ」という相場観が分かってきた。現在定植している果樹が収穫できるようになれば多分暮らしていけると思う。農業でちゃんと収入を得るのは大変だが、少なくともそういう見通しが立てられるくらいの大変さである。

(2)移住先の決め方

最近、移住を勧めるのが田舎の自治体の流行りで、移住への支援制度が充実してきている。私が越してきた時の南さつま市にはなかったが、移住する時に一時金をくれるとか、リフォームの補助を出すとか、そういう支援サービスがこの3、4年で随分増えてきた。それで、田舎に移住したいなあという人はそういう支援サービスを自治体ごとに比べているかもしれない。

でも私の考えでは、そういうサービスがうまく使えるかどうかは役所の担当者次第だし、そういうことよりも、人の縁を大事にして移住先を決める方がよほどよいと思う。役所の支援プログラムなんかより、結局は「近くの他人」の方がずっと頼りになる。新規就農への支援も自治体ごとに様々で、一部には非常に支援が手厚い自治体もあるが、自治体のやることであるから大体はドングリの背比べである。しかし人と人との繋がりはそういうわけにいかない。縁があるか、ないかは人生を左右する。

農業するのに有利な土地、厳しい土地というのも確かにある。山奥の、あまりにアクセスの悪いところ、狭小な畑のところは農業するには辛いところである。でもそれでも、そこに頼れる人がいるなら住めば都になるだろう。それどころかそういうところだからこそ面白いことができるかもしれない。人の縁を信じて移住するのがよいと思う。

ところで、どうせ田舎に移住するなら味のある古民家に住みたい、という人も多い。そういう場合、自治体にこだわらずまず入居可能な古民家を探して、そこを移住先に決めたい、という人もいるかもしれないが、それは現実的にはかなり難しい。古民家というのは住宅市場にほとんど出てこないからだ。インターネットに載っているような物件から探すということだと、氷山の一角のさらにひとかけらである。

ではどうすべきかというと、古民家の残っていそうな田舎だったらどこでもいいので、やはり人の縁を頼ってまず移住してしまうのがいいと思う。そして月並みな物件に入って1年くらい暮らしてみる。人間関係が普通に築けていけば、古民家を探していると言いふらしておけば1年もすると「あそこにいい家が残っているよ」という話がポツポツと出始めるだろう。ちゃんとした人だということが知られているなら、家賃なんかはほとんどタダみたいなもので貸してくれる可能性もある。

そんな悠長な引っ越しできるかいな! と思うのであれば、それはセコセコしすぎである。田舎では万事焦ってはだめだと思う。というより、セコセコしたいなら都会で暮らす方がよい。家を探すのでも、インターネットや不動産屋を使って積極的に探すというよりも、むしろ向こうから話がやってくるのを待つくらいの余裕がないといけない。

かといって、田舎で農業をしながら暮らすということが、都会の人が考えるようなのんびりとしたものかというとそうでもない。もちろん、残業といってもタカが知れているし(暗くなったら外作業はできない)、分刻みのスケジュールのようなものはない。残業続きで休みがないような職場に比べれば、ゆとりがあるのは確実である。

しかし農業はそれほど暇ではない。どうしてかというと「貧乏暇無し」という言葉があるように、いつもあれやこれやに追われながら様々な仕事をこなす必要があるからで、特に就農したての頃は休みらしい休みもなく働くことになる。ただ、独立就農の場合はそこに上司も部下もいないので、忙しいといっても都会の仕事でいう忙しさとは随分性質の違う忙しさで、休日を心待ちにするような忙しさではないと思う。

(3) 当面の資金はどれくらい必要か

先述のように、家にかかる費用は極力抑えるべきということで、引っ越しや転居の初期費用(ちょっとしたリフォームとか)は除いても、最低限の農業経営を開始するということを考えたら500万円くらいの元手がいるというのが私の考えである。内訳として、当面(2年くらい)の生活費として200万円、農業にかかる施設設備の準備や機械の購入に充てるお金として300万円くらいである。この500万円が、普通の会社でいうところの資本金のようなものだと思ったらよい。

私の場合、これよりもうちょっと多いくらいのお金を農業経営を立ち上げるために使った(もちろん生活費も含めて。ただし農産加工にかかったお金は除く)。どんな農業をするかによってこの金額は様々だが、軽トラックや倉庫といったものはどうしても必要なので、資本金が少なすぎるとそれだけで非常に苦労する。それに、農業法人などに就職するのでなければ、農業といっても独立自営業である。自営業を打ち立てるというのに、資本金もほとんどないというのでは就農そのものがホンキにされない可能性がある。

しかしそういう商売の面を除けば、田舎の生活というのは、都会の人が思っている以上にお金はいらないものである。野菜がタダでもらえるとか、そういうことではない。私の住んでいるような相当な僻地だと、お店そのものがないからお金を使う機会がない。これが一番大きい。少し都会に出るとあれやこれやですぐにお金が飛んでいくし、実際お金を使わないと生活の質がガタ落ちする。でも田舎では、お金を使うところも少ないし、お金を使わなくてもそれなりに楽しい生活ができる。

一方、全くのゼロから農業を始めて、どれくらいの所得が見込めるのかというと、だいたい1年目20万円、2年目50万円、3年目100万円というくらいの感覚で考えたらいいと思う。もっと早く一人前になるような農業のやり方もあると思うが、割とゆっくり成長していくことを考える方が失敗のリスクが少なく、これくらいと思っていた方がよい。そしてとりあえずの所得目標は250万円くらいではないだろうか。日本の平均年収から考えると随分低い目標だが、田舎でこれくらいの所得があれば夫婦と小さい子どもならとりあえずやっていける。

農業というのは、少額を稼ぐだけならさほど難しくはない。野菜を作って物産館に持っていくだけで、月に1・2万円だったらすぐに稼げる。だが、それを10万円・20万円にしていくのが難しい。 作業量を10倍にすればよいという問題ではなく、少額を稼ぐ農業とまとまったお金を稼ぐ農業は別のものだと思った方がよい。農業の経営を行うということは、結局はこの「まとまったお金を稼ぐ農業」の体系をどう作っていくかだと思う。

(つづく)

2016年2月11日木曜日

炭素と「白色腐朽菌」を畑に補給

先日、近くの山から腐葉土と落ち葉(が混ざったもの)を取ってきた。

これを何に使うのかというと、野菜作りに使う。私は物産館に出荷する野菜を無農薬・無化学肥料で作っているが、実は今のところ無肥料で作っていて、これは無肥料の畑に投入する資材なのである。

「無肥料」というと、畑になんにも入れないというイメージがあるかもしれない。でも何も土壌に投入しなければ、収穫物を持ち出す分、土の栄養分はどんどん失われていくので土地が痩せていく。なので肥料以外のもので物質の損耗分を補う必要があり、私の場合、それがこの腐葉土なのである(腐葉土は肥料成分がほとんどないので肥料に分類されません※)。

でも腐葉土は田舎ではタダで手に入るとは言え、山の中から人力で運んでくるのは重労働だ。しかも肥料なんかよりよほどたくさん入れないと効果がないので、「無肥料」なのに畑へ投入する資材の量は10倍くらいあるかもしれない(「無肥料」の畑の全てがこうなのではなくいろんな農法があります)。

無肥料までいかなくても、有機栽培でも何が大変かというと、栽培技術云々の前に投入資材の入手に手間がかかることが多い。農薬・化学肥料を使う普通の農業がやりやすいのは、その技術が確立しているからではなくて、単に肥料や農薬がJAの購買所に売っているから、という単純な理由であるような気がする。実際、私の畑は大した広さでないから山から取ってくるというような昔ながらのやり方で済んでいるが、仮に規模が今の5倍になったらとてもじゃないがこういうことはできないと思う。

ところで、この腐葉土や落ち葉を何のために入れるのかというと、基本的には炭素の供給である。

肥料の主要成分として窒素・リン酸・カリウムの3つは有名だが、炭素が栄養になるとは聞いたことがないだろうと思う。それもそのはずで、植物は炭素(C)を大気中の二酸化炭素(CO2)から取り込むことができるので、土中には必要としない。それどころか、炭素(正確にはセルロースなどの炭水化物)が土中に豊富にあると、この分解のために植物の栄養の窒素(N)が費消されてしまうので、投入資材の炭素と窒素の比率(C/N比)は低く抑えなくてはならないと言われている。

しかし、土づくりの主役である土壌微生物は、炭素を食べて暮らしている。我々が炭水化物を主食としているように、動物である土壌微生物も炭水化物が主な栄養源なのである。ということは、土壌微生物を豊かにしてよい土をつくるためには、土に炭素を豊富に供給しなくてはいけない。

しかしそこでジレンマが起きる。先述の通り、土中に炭素が豊富にあると植物の栄養である窒素が少なくなって、植物の生育が悪くなるのである。土作りのことを考えれば炭素は豊富な方がよいが、植物の生長を考えると炭素は少ない方がよい。

ではどうするか。一つのやり方として、炭水化物をなるだけスムーズに分解させ、土中の窒素の消費を低く抑えるということがある。実はそのための資材が腐葉土や落ち葉なのだ。

山の落ち葉を少し掻き分けてみると、写真のように白い糸のようなものが見える。これが炭素を速やかに分解する「白色腐朽菌」である。植物の木質(木や草の堅い部分など)というのは、リグニンやセルロースといった極めて分解が難しい炭水化物で出来ているが、白色腐朽菌はこれを分解できる数少ない菌なのである。肥料が何も補給されないだけでなく、落ち葉などの高炭素資材(窒素分が少なくて炭素が多い物質を農業ではこう呼びます)しか補給されないのに山の土が豊かなのは、この菌のお陰なのではないかと思う。

こういった炭水化物を強力に分解する菌が土中にたくさんいると、炭素を豊富に与えても速やかに分解して窒素の費消を抑えるので、先ほどのジレンマを解決することができるというわけだ。私がわざわざ山に腐葉土や落ち葉を取りに行ったのは、炭素の補給はもちろんだが、この白色腐朽菌の方も重要な目的だったのである。

でも実は、シイタケやナメコといったキノコ類も白色腐朽菌の仲間である。だから、シイタケやナメコの廃菌床なんかが手に入れば、わざわざ山に落ち葉取りに行く必要はない。

とはいっても、廃菌床はかなり腐った感じになっているし、ビニール等でパッキングされているし、それはそれで使う苦労もありそうである。やっぱり、肥料として売っているものを使うわけではない、というところがこういう農業の難しいところだ。

と、いろいろ書いてきたが、こういうやり方で持続可能な(収入がちゃんとあるという意味も含めて)栽培ができるのかどうか、というのも実はまだ実験中である。私が無肥料での野菜作りを始めたのも、「無肥料が体にいい・美味しい」とかいう話からではなくて、まずは極端なことをやっていろいろ勉強してみようという目的からである。

でもこれまでのところ、無肥料にすると確かに野菜が壮健になり、美味しくなるということが実際あるようだ。労力が普通より随分かかかるので、正直いつまで続けられるか分からないがこのまま試行錯誤を続けてみようと思う。

※正確には、腐葉土は「特殊肥料」というものに分類されており、腐葉土を施用するのもまかりならんというストイックな「無肥料栽培」も存在する。