2013年5月30日木曜日

もう一つの特攻基地

南薩で特攻基地、というと知覧が圧倒的に有名だが、実は加世田の万世(ばんせい)にも特攻基地(万世飛行場)があった。

この基地は旧日本陸軍最後の特攻基地であり終戦間近の数ヶ月だけしか使われなかったことや、極秘の飛行場だったためか、かつては「幻の基地」と呼ばれほとんど知られていなかったのだという。

しかし、使われたのが短期間とはいえ201人もの若い命がこの飛行場から特攻に飛び立っており、知覧の439人と比べ約半分の規模、またこれは全特攻戦死者1036人の約5分の1を占めてもいる。

現在飛行場跡地には「万世特攻平和祈念館」があり、慰霊と特攻の記録が展示されている。この施設ができたことで、「幻の基地」は幻でなくなったといえる。これはここから飛び立った数少ない生き残りである苗村七郎さんという方が、非常な熱意を以て遺品を収集し、また私財を旧加世田市に寄附したことを契機として建設されたものだ。なお苗村さんは生前は名誉館長も務めていた。

その内容は、知覧特攻平和会館に全く劣らない。規模的には半分程度だと思うが、遺影と遺書の展示は見ているとどんどん気分が沈んでくるものであるから、半分もあれば十分すぎるほどだと思う。しかし、入館者の数は半分どころではなく、知覧の10分の1もないであろう。先日私が訪問した時も、入館者は私一人であった。

知覧には武家屋敷もあり、複合的な観光地であるので単純に比べることはできないが、この入館者の少なさは残念だ。南さつま市の方でもこの施設を積極的に広報していこうという気はなぜかないようだが、いつも人でごった返している知覧よりも、静かに、じっくりと特攻兵士たちと向き合える施設だと思うので、もっと多くの人に見てもらいたいと思う。

ちなみに、この万世飛行場だが、戦況が悪化の一途を辿っていた昭和18年に突貫工事で作られた。資材不足のため舗装すらされていなかったという。が、用地は吹上浜に面した網場集落(83戸)というところを買収しており広大な敷地があった。戦後、飛行場は跡形もなく消えさり、今では営門の遺構が残っているだけに過ぎない。かつて「幻の基地」と言われた所以である。

しかし、基地の敷地だったところには今でも官有地がかなり残っており、この万世平和祈念館を始め県立薩南病院、物産センター「るぴなす」など公共の施設が多い。特に吹上浜海浜公園は基地跡のかなりの面積を占めているだけでなく、同公園には今でもさりげなく特攻の滑走路が残されている

死地へと飛び立つ兵士を送り出した滑走路が、今は子どもたちの歓声が響く公園で使われているわけだ。これには「滄海変じて桑田となる」という言葉を思い出さずにはいられない。隣国との関係が何かギクシャクしている昨今、今度は桑田がまた滄海と変じてしまわないように、気をつけていかなければならない。今度、滑走路跡を歩いてみたいと思う。

2013年5月22日水曜日

英国王室御用達のジャムを食す

近いうちに農産物の加工施設を作ることにしているので、いろいろな加工品を試し食いしている。

商品として「タンカンと金柑のジャム」というのを検討中なのだが、 これがカンキツのジャムとしてどの程度のものなのか検証するため、というより単に食べたかったのでFrank Cooper's "Oxford" Original Marmalade(オックスフォード・マーマレード)を取り寄せてみた。

これは日本ではあまりメジャーではないが、マーマレードの本場英国において、英国王室御用達の勅許を持っているという、なんとも格の高い商品である。

だが食べてみると、む…ニガ酸っぱい。日本の一般的マーマレードと違って色はほとんど黒く、オレンジピールも分厚い。なんだか無骨な感じがする。正直、「これが英国王室御用達…?」という感想を抱いた。

しかし何回か食べるうち、その魅力が分かってきた。ものすごく美味しいという気はしないのに、とても独特な味をしているので記憶に残り、食べ慣れてみると最初そう思ったほど無骨でもなく深みがある。これに慣れると、なんだか他のマーマレードでは物足りないと思うほどだ。これは、マーマレードではなく、オックスフォード・マーマレードという独自のジャンルを作っているのかもしれない。

これを食べてみて思ったのは、愛される商品というのは、完成度が高いだけではダメだということだ。卑近な例で恐縮だが、AKB48でもセンターになるのは美人ではなく個性のある顔の女の子だ。全員に愛されなくとも、それを気に入ってくれる人には熱狂的に愛される、というような個性は強い。

検討中の「タンカンと金柑のジャム」がそういう個性を持っているか、というと、それは心許ない。爽やかな酸味と甘味のバランスがよく、とても美味しいジャムだと思うが、やはり英国王室御用達と比べるとその格の違いは明らかだ。ジャム単体で食べるとうちのジャムの方が美味いくらいなのだが、食というのは複雑である。

2013年5月18日土曜日

ぼんぼん時計はどうしてぼんぼん鳴るのか?

うちには、そんなに立派なものではないけれど、ゼンマイ式のぼんぼん時計がある。最初は使っていなかったのだが、古民家の内装は今風の時計とはしっくりこないので、古くから置いてあったこのぼんぼん時計を使わせてもらっている。

この時計、(ぼんぼん時計だから当たり前だが)正時になると「ぼーんぼーん」と鐘が鳴る。その音は、なかなか味があってよい。さて、ところで、どうしてぼんぼん時計はぼんぼん鳴るのだろう?

「もちろん、時刻を告げるためだろう」と思うかもしれないが、ではどうしてわざわざ時刻を告げる必要があるのだろうか? 今の時計では時刻を音で知らせる(打刻する)ものは少数派なのに、昔はこのぼんぼん時計が時計の主流だった。なぜ時計はぼんぼん時計でなくてはならなかったのか?

素朴には、「昔は家に一つしか時計がなかったから、時計のない部屋にいても時刻がわかるように打刻したのではないか」と思われるが、これは実際には現実的ではない。ぼんぼん時計が普及した明治から昭和初期にかけては、家の中は薄暗かったので、屋内で何かの作業をするということ自体が少なく、作業の主体は外だった。家の中にいて時計を気にしなくてはならない状況というのは少なかっただろう。

そもそも、日本は古来より「不定時法」を使っており、正確な時間を気にして生活するということがなかった。不定時法とは、日の出と日の入りの時刻を基準に昼と夜をそれぞれ6等分して「巳の刻」とか「子の刻」といった約2時間1セットの目安を定める方法である。この不定時法は、当然ながら季節によって1セットの長さが変わり、あまり細かく時刻指定はできない代わり、日の出日没を基準にしているので農作業などの外労働の開始や終了とは親和性が高い。

不定時法による時計もないではなかったが、実用品というよりは大名などが持つ珍妙なコレクションとして作られたものが大半だった。17世紀中頃からはお寺の鐘による時報(時鐘)が普及したが、これもあまり厳密なものではなかった。日本では明治時代まで、時計よりも太陽に従った生活をしていたのである。

幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の多くが述べているのは、日本人がやたらとのんびりしていて時間に大変ルーズであるということだ。実はこれは近代化以前のヨーロッパでも同じで、職人は自分のペースで仕事をしていたということにかけては洋の東西を問わない。そもそも時間を基準にした労務管理というものは、大量の人員を投入して規律に従った生産を行う工場制手工業の登場によって生まれたものだ。時間に従って行動するという規範は、産業革命以前の世界には存在しなかったのである。

とはいえ、実は西欧と日本では、時計に対する感受性にはもともと少しだけ違いもあった。西欧では割と古くから1日を24等分する定時法が使われており、時計も普及していた。ぼんぼん時計の元祖と言えるStriking Clockは、教会や市庁舎に設置された鐘時計であるが、これは教会の典礼の時間を広く地域社会に知らせるために打刻したのである。決まった時間にお祈りをしなくてはならない、という習慣は、ヨーロッパの人々に「時計に従った生活」という近代社会の準備をさせたように見える。

しかし、西欧において定時法が採用されたより本質的な原因はもっと単純なことで、緯度の関係だ。ヨーロッパは高緯度の国が多く、夏は夜遅くまで太陽が沈まない。冬と夏では日の出日没の時間が数時間もずれてしまい、太陽に従っていては生活リズムがめちゃくちゃになる。そのため、太陽に頼らない客観的な時間を知る需要が高く、結果として時計が発達することになったのである。

逆に、中緯度にあった日本では、時計に従うよりも太陽に従う方が合理的だった。実際自分も農作業をしていると、作業の終了時刻は自然と日没が基準になる。農業だけでなく各種の職人などもそうだっただろう。今では、時間を守ることにかけては病的なまでの評判がある日本人だが、これは決して日本人の「国民性」などではなく、ごく近代に導入された習慣なのである。

ちなみに、田舎に来て驚いたことの一つに、立ち話などの長さがある。ふと近所の人と会って立ち話が始まると、平気で1時間くらいしゃべってしまう。立ち話くらいしか娯楽がない、ということもあるのかもしれないが、都会ではありえない光景だろう。田舎には、明治以前のノンビリとした時間感覚が残っているように思われる。

そのように、元々時間にルーズだった日本人が、どうしてやたら時間に厳しくなったのかはよくわからない。ただ、大急ぎで「近代国家」の国民をつくり上げなければならなかった明治時代以降、官民挙げて行われた様々な取組の結果であるとはいえる。

国として時間の基準を定めるため、1871(明治2)年に「午砲の制」が定められ、旧江戸城の本丸から毎正午に空砲を撃つようになったのがその嚆矢だ(追って各地方でも午砲は鳴らされた)。これは、「丑の刻」のような、ぼんやりとまとまった「時間帯」の感覚しかなかった日本人へ、「時刻」という瞬間の時間を認識させる初めての取組だったかもしれない。

ところで、最も早く西洋風の時間を必要としたのは鉄道業界だ。そもそも時間が定まっていなければ時刻表すらできないわけで、1873(明治6)年の「明治改暦」に先立って鉄道業界では既に定時法が採用されていた。この明治改暦というのは、太陰暦を太陽暦に、不定時法を定時法に一夜にして変えてしまうという随分乱暴な大改革だ。旧暦明治5年(1872年)12月3日を新暦明治6年(1873年)1月1日に変えたので、実は明治5年12月3日〜31日というのは存在しなくなったのである。

だがこの改革でも、時間は定時法で計ると決めていたのだが、時間の基準はやはり太陽に置かれていた。具体的に言えば東京で太陽が南中(最も高く上がる)する時刻が正午と定められ、その時に午砲が撃たれたのである。これを「東京標準時」という。このころから西洋の時計は輸入されていたが、現在のように時報もなく、周りにも時計がなかったので、一番始めのころはやはり各地で日時計を作り、南中時刻にあわせて正午を定めていたらしい。

これが、グリニッジ天文台を基準にした世界標準時から算出される日本標準時に改められたのは明治21年(1888年)1月1日のことで、この日が一応日本における近代時間制度の完成した瞬間ということになるだろう。

さて、当時の時計というものは、大変狂いやすいもので、1週間もすると10分程度はすぐにずれてしまった。そこで頻繁に時刻合わせをしなくてはならないのだが、時報もテレビもラジオもない状態でどうやって時刻合わせをしたかというと、この午砲を基準にしていたのだ。正午になると午砲が「どーん」と鳴り響くので、この時に時計の針を正午に合わせたというわけだ。

随分長かったが、これでようやく、ぼんぼん時計がどうしてぼんぼん鳴るのかという謎を推理する材料が揃ったと思われる。

結論を言えば、これは時刻合わせのためなのではないだろうか。ぼんぼん時計が正午を告げ、その後しばらくして午砲が撃たれると、特に意識をしていないくても時計が狂っているのがわかり、時刻合わせの必要に気づく。もしぼんぼん鳴らなければ、意識してその時に時計の文字盤を見ていないと、それに気づけないのである。

ぼんぼん時計は明治期には米国から輸入されていたが、米国での事情も似たようなものだったと思われる。教会の鐘などと時計のズレを認識させ、時計あわせを催すためにぼんぼんと鳴る機能が付いていたのではないだろうか。つまり、コミュニティで正確な時間を共有するために、ぼんぼん時計はぼんぼん鳴ったのである。

これは、実際に自分がぼんぼん時計を使ってみての感想でもある。日本では都市部を除いて今でも正午や5時などにサイレンが鳴るところが多いと思うが、ぼんぼん時計の打刻とサイレンの時間がずれているとどうも気持ち悪くて、つい時刻合わせをしてしまう。仮の話だが、もし家の中に2つのぼんぼん時計があって、それぞれの打刻の時間がずれていたら、さらに気持ち悪いと思う。ぼんぼん時計がぼんぼん鳴るお陰で、特に意識していなくても頻繁に時刻合わせを行い、正確な時を刻むことができるのである。

ちなみに、正午や5時に鳴るサイレンというのは、午砲の直系子孫であって、午砲が廃止されたことを受けて、東京では1929年に始まったものだ。全国的には遅れて昭和初期までに午砲からサイレンに切り替わっている。現在では時を告げる機能よりも、防災関係の放送設備の試験放送・点検の意味合いが強いが、これは明治以来の時間意識醸成の取組の化石と言える。

このように考えると、ぼんぼん時計が廃れた理由もわかるだろう。もちろん、都市部への人口集中による住宅の狭隘化という形態的理由もないではない。狭い住宅に、かさばるぼんぼん時計を掛けるのはいかにも邪魔だからだ。しかし最も大きな原因は、時計があまり狂わなくなり、頻繁に時計あわせをしなくてもよくなったからではなかろうか。ぼんぼん時計は昭和30年代までは使われたようだが、それ以降は激減してゆく。これは、ちょうど正確なクオーツ時計が普及した時代と重なるのである。

なお、ついでに言うと、ぼんぼん時計が1時間(または30分)毎に鳴るのは、1時間という時間の長さを教えるためではなかったかという気もするのである。2〜3時間を単位に生きていた日本人に、1時間という時間の長さを沁み込ませるために打刻したのではないか。そうでなければ、深夜にまでわざわざぼんぼんと鳴って安眠を妨げるのはいかにも無粋だ。

ともかく、大急ぎの近代化を図るために日本人はいろいろなことをやったが、そのうちの一つに時間感覚の改革があったのである。今では、おそらく世界で最も時間に正確な産業活動がなされていると思われる。だが、世界一時間に正確な日本の電車が、しょっちゅう「人身事故」でダイヤを乱すのは、皮肉というより悲劇である。近代化というものは人間にストレスを掛けずにはおれないが、こと時間感覚の面に関しては、日本人は近代化しすぎたのかも知れない。田舎に来て立ち話の長さに驚いたけれども、実は長い立ち話をだらだらとする方がワールドスタンダードで、知り合いとばったり出会っても挨拶もそこそこにすれ違う方こそ、行き先を間違えた日本の近代化の結果なのだろう。

【参考文献】
『遅刻の誕生ー近代日本における時間意識の形成』2001年、橋本毅彦+栗山茂久編著

2013年5月12日日曜日

「加世田のかぼちゃ」のマンネリズム

先日、「平成25年度 春かぼちゃ出荷協議会」及び「加世田のかぼちゃ出発式」に参加してきた。要は、特産の加世田のかぼちゃの出荷セレモニーである。

そこでは、東京等からの市場関係者が招かれ、「加世田のかぼちゃ」を巡る市況が説明されるとともに、JA南さつまからは「今年度もガンバロー」的な檄が飛んだわけである。

市場関係者からの説明を要約すると、
市場での加世田のかぼちゃの評価は高く、販路が確立していることにかけては他に類を見ない商材。ここ十年来、年々出荷量が減っていることに憂慮しており、足りないくらいなのでどんどん出荷してもらいたい。
というところだった。 それを受けて、JA南さつまの方では「みんなで頑張りましょう!」としていた。だが、市場関係者からの説明にはあまり具体性がなく、いつ、どのようなものがどれくらい足りない感じなのかが不明確で、本当に足りないのかどうか疑問に思った。「販路が確立」というのも基本的には素晴らしいことだが、(生産量が減っているので当然とはいえ)反面、新規顧客が開拓されないということでもある。

日頃お世話になっているJAさんに対して批判的になるのも本意ではないが、全体として感じたのは、覆うべくもないマンネリズムである(初めて参加したにも関わらずすいません)。生産量が減少しているというのも、作業が大変な割には単価が低迷しているということがあると思われるので、いくら安定的に捌けているとはいえ、将来に対する漠とした不安はぬぐえない。

JA南さつまにとって、かぼちゃは販売事業の売り上げの僅か1.7%を占めるに過ぎない零細事業部門であり、これにあまり力が入らないのは当然であるし、かぼちゃ販売が低迷したからといって地域農業に重大な問題が生じることはありえないが、せっかくのブランド野菜なのだからこのマンネリズムは少しもったいない。

鹿児島ブランド取得第1号ということで20年来の実績があり、JAや関係者にしてみれば「何を今さら…」と思うかもしれないが、知名度向上の余地はもう少しあると思う。カボチャのゆるキャラを作れとか、「ウチゴハン」に取り上げてもらおうとか言いたいわけではない。だが、例えば鹿児島に半在住の料理研究家である門倉多仁亜さんとコラボするとか、予算がなくてもできる工夫はあるのではなかろうか。そういう活動が無理でも、せめて経済連のHPに「加世田のかぼちゃ」のページくらいは作るべきだ。このご時世、ネットに書かかれていないことは、存在していないも同じと見なされるのだし。

2013年5月7日火曜日

ソラマメとイタリア

家庭菜園で作っているソラマメが収穫を迎え、連日こればかり食べている。旬だからとてもうまい。

やはり一番はそのままグリルすることなのだが、IHクッキングヒーターの場合は火力が足りないのかやや焼きが不十分のようだ。強い火力で一気に焼くのが美味しいと思う。

ところで、私にとってはソラマメというと鹿児島のイメージが濃い。事実、鹿児島はソラマメの生産量が日本一で、国内生産量の約30%を占める。特に晩冬から春先の出だしは市場に出回るソラマメのほとんどは鹿児島県産であり、また県内産地の中心が南薩であることから(そういうイメージは浸透していないが)南薩の特産品といえるだろう。

というわけで私にはソラマメ=鹿児島の田舎、という先入観があったのだが、 最近、ソラマメは北アフリカもしくは西アジア原産の、地中海沿岸が産地の野菜であることを知った。世界的な産地はアルジェリア、中国、モロッコ、スペイン、ペルー、ボリビア、イタリアと続く。中でもソラマメに対するイタリア人の思い入れはひとしおと思われるので、少し紹介したい。

ローマでは5月1日にペコリーノ・ロマーノという羊乳のチーズとともにソラマメを食べる習慣があるし(大変美味しそうである)、イタリアではソラマメの播種は伝統的に万霊節(11月2日)に行われるが、この日にはソラマメを模したお菓子である「Fave dei morti(死者のソラマメ)」をわざわざ作る。

「死者のソラマメ」という珍妙な名前を敢えてつけているのは、いわゆる「memento mori(死を思え)」を意識しているのかもしれない。 古代ローマ時代から、どうしてかソラマメは死者を追悼する食べ物でもあったらしく、日本でいうとお盆にあたる万霊節でソラマメ型の菓子がお供えされるのはその象徴だろう。

また、かつてシチリアで大飢饉があったとき、ソラマメだけは収穫できて人々が命を繋いだことから、シチリアではソラマメに大いに感謝してサン・ジュゼッペの日(聖ヨセフの日=3月19日、日本で言う父の日に当たる)の飾り付けには、ソラマメを模したパンも登場するとか。

おそらくソラマメが飢饉から人々をたびたび救ったということから、イタリアではソラマメは幸運のシンボルと見なされているらしく、ソラマメをモチーフにした飾り付けやアクセサリーなどもあると聞く。

さらに、眉唾ものではあるが、ローマ時代、人々はソラマメを主食にしていたともいう。人類史において、ソラマメ栽培の歴史は4000年以上もあるようで、主食だったというのは大げさにしても、栄養豊富なこの野菜は古来重要な食物だったことは間違いない。

ところで、私はソラマメのような痛みの早い食べ物が主食になるわけがないと思っていたのだが、確認してみると、イタリアなどでも短い旬の時期以外は乾燥ソラマメが食べられている。いわば、大豆のようにカラカラに乾燥させたソラマメを保存食としていたのであって、昔はこれが年中食べられていたのだろう。「Fave dei morti」も乾燥ソラマメに似せてあるように見える。

日本でこの乾燥ソラマメがほとんど消費されていない理由はよく分からないが、せっかくなので家庭菜園のソラマメも一部乾燥させて、乾燥ソラマメを作ってみたいと思う。だいたいのものは新鮮なうちに食べた方がうまいし、そもそもイタリアと日本で栽培されている空豆は品種が違うようなのでうまくできるか分からないが、今夏は地中海風ソラマメを食べてみよう。

【参考】
"Celebrating Fava Beans" イタリアにおけるソラマメの扱いがよく纏まっている。最後に出てくるソラマメのピューレが美味しそう。

2013年5月1日水曜日

大浦町には、世界最北限のマングローブ自生地があります

南さつま市大浦町には、なんとマングローブがある。大浦川の河口にあるメヒルギの群落である。

なおマングローブとは、汽水域に成立する森林の総称。様々な樹種で構成されるが、その中でもメヒルギは耐寒性が強く、最も北で自生する種類である。

このメヒルギは、自生の北限がこの大浦町と鹿児島市の喜入ということになっていて、特に喜入の方は国の天然記念物に指定されている。

ところで、この喜入と大浦のメヒルギは、世界的にもマングローブの自生の北限とされていて、さらに南限(つまり南半球で南極に近い方の極限)まで含めて、今発見されているものの中では赤道から最も遠いマングローブなのだ。

では、どうして世界的にも北限という特殊なマングローブが喜入と大浦にあるのだろうか? ここは、緯度に比してそんなに暖かいところなのだろうか?

実は、喜入のメヒルギは正確には自生ではなく、人為的な移植によるものと考えられている。薩摩藩の琉球出兵の折、喜入の領主肝付兼篤が琉球から持ち帰って植えたものとする言い伝えがあるのだという。事実、喜入のメヒルギの系統を分析すると、種子島や屋久島のものとは遠縁で、むしろ沖縄のものと近縁らしい。

では、大浦町のメヒルギはどうなのだろうか? ローカルな話で恐縮だが、蛭子島(という陸続きの小島が河口にあるのです)のメヒルギは、かつてメヒルギの生育環境が悪化し枯死が心配された時に、喜入から移植したもので、実は天然の群落ではない。

問題は、もっと上流側のメヒルギだ。これは大浦川の護岸工事の際に一度群落を取り除き、護岸工事を終えてから種子島から取り寄せたメヒルギとあわせて植え直したものらしいから(※)、そういう意味では人工的な群落だが、護岸工事の前は自生だったのではなかろうか?

古い資料を見てみても、護岸工事前のメヒルギが人工的に移植されたものという話は見当たらない。また、大浦川のメヒルギ群落は、メヒルギが貴重なものということが分かってから保護し増やしたもので、保護する前はわずか1株しかなかったという話もある。ここが逆に本物っぽいところで、もしかしたら、大浦川は正真正銘のメヒルギの自生北限なのかもしれない。

では、人為的な群落と思しき喜入のメヒルギが国の天然記念物に指定されていて、もしかしたら天然かもしれない大浦のメヒルギが「市」の天然記念物という落差があるのはどうしてだろうか。これは、天然記念物という制度ができた大正時代、植物に関しては中野治房という学者が全国を調査し天然記念物に指定すべきものを建白したのだが、彼が「大浦川河口のものはその数甚だ少なく到底喜入村のものに及ばず」と一蹴したことによる。

中野は喜入のメヒルギ群落が人為的なものであることは「掩うべからざる事実なるが如し」としながらも、その規模と保存のしやすさなどから喜入のメヒルギを天然記念物にふさわしいものとして推したのだった。しかしながら現代では、メヒルギは静岡県の伊豆にも植栽されており、天然でなければこちらが北限の群落になる。そういう意味では喜入のメヒルギの価値が揺らいでいる状況だ。

というわけで、大浦川のメヒルギが本当に天然のものなのか、ちゃんと調査してみるとよいと思う(私が知らないだけで既にやっているかもしれないが)。喜入のメヒルギ群落が人為的なものということで、自生の北限は種子島に変更すべき、という主張もあるらしいが、種子島に変更してしまう前に、大浦のメヒルギの価値を明確化してはどうだろうか。

※ ここら辺の経緯が茫洋としていて摑めない。不正確だったらすいません。

【参考】
薩摩半島(鹿児島県)で「自生最北限のマングローブ」の調査活動を実施」マングローブの保護をしている国際的なNPOが大浦にもきて調査していたようだ。写真があるのでわかりやすい。
→(2016.6.19追記)リンク切れ。だが同団体のWEBサイトに大浦川のマングローブの写真がたくさん掲載されている。「鹿児島・沖縄マングローブ探検|鹿児島

【参考文献】
史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第8号」1919年、内務省編(中野治房報告)
大浦町の植物」1973年、浜田 英昭
マングローブ林の林分解析」1979年、中須賀 常雄
種子島阿嶽川・大浦川のマングローブ林について」2013年、寺田仁志 他
"Status and distribution of mangrove forests of the world using earth observation satellite data” 2010年、C. Giri他