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2022年12月31日土曜日

チラシくらい自由における場所が街には必要だ

今年もいろいろイベントを開催した。

10月に「儒学・国学・廃仏毀釈」というトークイベントを天文館図書館で、12月には「鹿児島磨崖仏巡礼 vol.5」を名山町のレトロフトで開催した。このほか「books & cafe そらまど」では不定期に「そらまどアカデミア」という講演会を始め、今年は3回開催した。

ありがたいことに、こうしたイベントではだいたい定員いっぱいのお申し込みがあるので、もしかしたら私は「人集めの上手い人、情報発信が得意な人」と思われているかもしれない。

だが私が一番苦手なのが、まさに集客であり情報発信なのだ。このブログや「南薩の田舎暮らし」のブログを見ている人は、その地味な内容を知っているだろうから、納得してくれるに違いない。

しかしそもそも、こうしたブログは集客にはあまり役立たない。というのは、私のブログ記事は閲覧数が平均して100くらいしかないからだ。Facebookは以前はより広くリーチしている実感があったが、最近は直接の知り合い以外には広がりを感じない。

一方、Twitterはより拡散の可能性があるものの、こちらは地縁よりも興味で繋がっていることが多いのでリアルのイベントでの集客力はあまりないように思う。そしてInstagramでの情報発信は写真の魅力に左右されすぎるので私には難しい。要するに、SNSでの情報発信はあんまり頼りにならない。

「そんなのお前のフォロワー数が少ないからだろ」と言われればそれまでだ。しっかりとコンセプトに沿ってアカウントを運営し、良質なフォロワーを多く獲得してきた人にとってSNSは絶大な力を発揮する。しかしそんなことは、普通の人がそうできることではない。いや、得意な人でもかなりの労力を要する。それにポッと出の若者には、これまでの積み上げが必要な手法は使えない。

そもそも、イベントというのは単発的なものである。「この人が鹿児島に来る機会があるから講演してもらおう」みたいなことで企画されるのがイベントの常だ。そうなった時に、内容よりもSNSの発信力、特にこれまでの積み上げが集客にものをいう現状はハードルが高いなと思う。

もちろん、インターネットもSNSもなかった時代に比べれば、情報発信や集客は格段にやりやすくなった。でも私が言いたいのは、ちょっと前のSNSに比べて情報の拡散が難しくなってきている実感がある、ということだ。

その理由はともかく、そうだとするならリアルの情報発信が大事だ、ということになる。伝統的な手段、つまりポスター、チラシ、知り合いに声をかける……といったことに取り組まなければならない。

ところがここで一つ問題がある。それなりに人通りがあり、ポスターやチラシをある程度自由に設置できる場所が、鹿児島には少ないのだ。

その数少ない場所のひとつが、マルヤガーデンズのD & Department 店頭にあるチラシ置き場である(冒頭写真)。ここには私自身大変お世話になっている。なにしろ、奥まった場所でなくて、店の顔となるフロント部分にチラシ置き場を設置してくれている。「消費者」に少しでもモノを売りつけようと迫り出してくる店が多い中で、こういういい場所を無料のチラシ置き場にしているのは店の見識の高さを感じる。

しかしこの前、あるチラシをここに置いてもらいに行ったら、「今後は内容を精査して、お店のコンセプトに合致するチラシだけに限定するかもしれません」とのことだった。どうやらここにチラシを置きたい人が多く、チラシがあふれかかっているために制限をかける必要に迫られているらしい。

そりゃそうだ、と思う。こんなにいい場所に無審査で(といってもお店の人が内容を確認してはいると思う)チラシを置かせてもらえるのは他にない。

ところで数年前、「マークメイザン」という施設が名山町にオープンした。ここは「クリエイティブ産業の成長のため、多角的に経済成長の手助けとなるネットワークを提供し、クリエイターのためのハブ施設」になることを目指しているそうだ。そんなわけで、ここにチラシを置いてもらえないか、オープン直後に話に行ったことがある。

すると、「置くことは可能だが、審査し決裁が必要」とのことだった。これはオープン直後のことなので今は変わっているかもしれないが、「そんなのクリエイティブでもなんでもない」とあきれてそれ以来足を運んでいない。創造性の最大の敵は、そういう官僚的なしくみなのである。

しかしこれはマークメイザンだけでなく、公共の場所では普通のことである。それどころか公共の施設にチラシを置かせてもらうには、たいてい行政関係の後援を要する。そしてそういう後援は、主催団体がしっかりした組織(組織規則がありメンバーが何人以上など)であることが最低条件になっている。こうなると、私のように個人で(あるいはせいぜい友人と)やるイベントには行政の後援を得ることは不可能なので、結局知り合いのつてを頼ってお店などに置いてもらうことになる。

つまり、最も力のない(お金もない)個人が行政の支援から外れてしまうという、お決まりのあの現象がこんなところでも起きてしまうのである。日本の行政は、ある程度組織化され形式的に整った団体には比較的緩い条件で支援が可能であるが、個人の場合はどんなにその内容が世間的に評価されるものでも相手にしない。内容よりも形式を重視するという官僚制が、ここでも幅を利かせているのだ。

……少し話が発散したが、私が言いたいのは、情報発信したい人がそれをやりやすいように、せめてチラシくらい自由における場所が街には必要だ、ということだ。

かつて、街にはビラやチラシが勝手に貼られていた時代がある。電話ボックスにいろんな小さなチラシが貼られていたなんて、今の若い人には想像がつかないだろう。しかしそうしたものは次第に「浄化」された。もちろんそれはよいことの方が多かった。しかしそれと並行して、私の感覚ではビラやチラシを置いたり貼ったりしてよいところも少なくなった気がする。昔は、街にもっと掲示板のような場所があったような。

今はそういう場所はインターネットが代替しているのだから、問題はないといえばない。だが先述のとおり、最近のインターネットは使いこなすのがかえって難しくなってきている。ポスターやチラシなど、リアルの力が大事になってきているのに、それが街から締め出されている現状があるのはいただけない。

本当は、D & Departmentのチラシ置き場のような場所を行政が作ればいい。きっと若い人の挑戦を後押しできる場所になると思う。費用も労力もさほどかからない。人が集まる公共施設の畳一畳分くらいを提供すればいいだけなのだから。

でも行政がすると、すぐに後援が、審査が、と官僚的な運営になってしまう。そうなると結局、ポッと出の若者には使えない。これはむしろ民間企業や通り会(商店街振興組合)がやる方がうまくいくかもしれない。

チラシ置き場の話くらいで大げさだなあ、と読者のみなさんは思うだろう。しかしそんな簡単なことすら、実行しているのは鹿児島ではD & Departmentだけなのだ。もちろんもっと小規模な店ではやっているところは多い。しかし繁華街にある大きな店ではここだけだと思う。それは先ほど書いたように、人通りのある場所に無料でチラシを置くスペースを作るのは、この厳しい経済状況の中では高い見識のいることだからである。

講演会、展示会、即売会、演奏会……そういう小さなイベントが、個人を飛躍させる出会いやきっかけになることは多い。その小さな挑戦を応援するために、多くの人が目にする場所にチラシを置けるようにするくらいの街でありたいものである。

2017年4月4日火曜日

枕崎「かつ市」の中原さん

隣町の枕崎市、そのシャッター街になりかけた目抜き通りの一角に、小さなかつお節屋が昨年ひっそりとオープンした。

このお店、「かつ市」という。

手がけたのは、地元企業の「中原水産」、その若社長の中原晋司さんである。

中原水産といえば、国道270号線を南下して枕崎へ入る、その出会い頭に当たる「平田潟」というところに、大きな工場があった。随分大きな商売をしていたそうである。しかしいつしか経営が悪化。この家業の危機をなんとかするため、地元に帰ってきたのが中原さんであった。

中原さんは、東京では外資系コンサルのマッキンゼーに勤め、華々しいビジネスの世界で生きてきた人である。「かつ市」は一見地味なかつお節屋であるが、最近は香港や台湾の人まで訪れる隠れた本格スポットになっているし、街としてもかつお節の輸出やフランスでのかつお節工場の設立など先鋭的なビジネス展開に目を引かれる。こういう僻地の零細企業としてはウルトラC級の実績が出てきているのも、中原さんの手腕に寄るところが大きいと想像される。

しかし、中原さんは、そういう華々しい世界でだけ活躍する派手な人ではない。(同じ大学卒ではないのだが)大学の同窓会繋がりで知遇を得て、直接お話しを聞く機会をいただいたのだが、そういう話は氷山の一角でしかない。

中原さんが帰郷して初めにやったことは、大リストラだそうだ。

赤字とはいえ主力だった製造部門を、断腸の思いで廃止した。大きな工場はガランドウになった。相当な決断である。そして販売のみに注力することにして、中原水産のビジネスを製造業から商社的なものに変えた。それで平田潟にあった広大な敷地が不要になって、事務・店舗機能のみの小さな社屋に変えることになった。そして出来たのが、「かつ市」である。

そう聞いて、驚いた。一見華々しく見える海外との取引や、「出汁の王国・鹿児島」といったプロジェクトの裏に、そんな苦しい内実があったのかと。そして、その苦しさを一歩一歩乗り越えながら、地味な仕事をクリアしていこうとする姿勢に頭が下がった。

枕崎は、言わずとしれた「かつお節の街」である。が、その展望は必ずしも明るくない。

何しろ、かつお節を削って出汁を取る、ということを普通の人はしなくなった。恥ずかしながら私もその「普通の人」の一人である。味噌汁をつくる時は必ず昆布で出汁を取るが、かつお節までは削らない。そもそもかつお節削り器が家にない。

だから、(削らない1本のままの)かつお節を売る、というのはもうビジネスとして厳しくなった。削ったかつお節であっても、出汁を取る人がどんどん少なくなってきているわけで、削って売ったらいいという問題でもない。

そこに対して、中原さんは「出汁の美味しさを改めてわかってもらう」というこれまた地味な活動をしている。お店に来て下さったお客さんにはもちろん取りたての出汁を味わってもらうし、出張では「出汁ライブ」という出汁をとるパフォーマンスをしている。「出汁男」という、ちょっと滑稽な自称を使って。

先日「かつ市」に行ったら、わざわざ私一人のために出汁を取ってくれた。想像とは違って、決して面倒な作業ではない。意外なほど時間もかからない。それで、料理の格がグンと上がる出汁が取れる。これを体験した人は、少なくとも「出汁を取る」という一手間をかける抵抗感がなくなる。

中原さんが「出汁男」になってやるのは、こういう具合に一人ひとりの考え方を変えていこう、という地味な活動なのである。

——「愚公移山」という言葉がある。

昔の中国で、愚公という老人が、生活の邪魔になっていた山をなくしてしまおうと、家族と共に少しずつ山を切り崩しモッコで土を運びだすという気の遠くなる仕事に乗りだした。人は、そんな無理なことを年老いてからするなんてバカなことだと嘲笑したが、愚公は「子々孫々の代までかかっても、少しずつ山を切り崩していけば山は増えることはないのだからいつか山はなくなる」と一切意に介さない。この様子を見ていた山の神はこの旨を天帝に報告し、天帝は愚行に感心して、邪魔になっていた山を別の場所に移してやったということである。

こうした故事から、「愚公移山」といえば壮大な計画でもコツコツと一歩ずつやっていけばいつかは事を為す、という意味の四字熟語となった。

中原さんの仕事を見ていると、この「愚公移山」という言葉を思い出さずにはいられない。枕崎の置かれた状況は決して楽観的なものではないが、こういう人がいる限り、なんとか進んでいくに違いないと思わされる。

鳴り物入りで騒がれる「まちおこし」の活動を見ていると、どうも「ここをこうすれば一発逆転」みたいな発想があるところが多い気がする。埋もれた地域資源を活用しよう、ということ自体はいいことだとしても、その価値はちょっとやそっと広告するだけでは認識されないし、原石を磨いて商品にしてパッケージに入れて流通に載せて、という一つひとつの作業を積み重ねて行く以外に売り込む方法はない。小さな工夫で大きな成果をあげたい、と思うのは人情だが、そういう気持ちだけでは成果は上げられない。結局、何かを変えるには、少しずつ山を切り崩していくような地味な仕事を誰かがしなくてはならない。

そういう仕事をやる人が一人でもいるかどうか、そういうことに、街の命運はかかっていると思う。

中原晋司さんは、まさにそんな人の一人である。

2016年9月13日火曜日

「愛を願う! 高ボネ山りんどう歩こう会」が開催されます

10月30日(日)に、「愛を願う! 高ボネ山りんどう歩こう会」というイベントが南さつま市大浦町で開催される。

「高ボネ山(正式な表記は「高ボ子=たかぼね」らしい)」というのは、大浦の名勝「亀ヶ丘」の隣にある地味な山で、これまで特にどうということもない地域の裏山だった。

ところが、この頂上付近にある岩にハート型の形があることから、高ボネ山を有する有木集落の人たちがその岩を「愛願岩(あいがんいわ)」と名付け、最近新たな縁結びの「パワースポット」として売り出しているのである。

そのため有木集落の人たちは、これまで木々に覆われてしまっていた高ボネ山の登山道をちゃんと通れるよう雑木の伐採を行い、各所に案内版を設置した上、頂上には日本の国旗を立てた(たぶん目印なんだと思う)。さらに、昨年は今回の先蹤となるウォーキングイベントも行い、満を持して、今回「愛を願う! 高ボネ山りんどう歩こう会」を開催する運びとなったわけである。

ちなみに、なぜ「りんどう」かというと、高ボネ山への登山道までは林道を通っていくということと、その林道沿いには竜胆(リンドウ)が咲いているということで、まあ軽いダジャレである。ただハイキングをするだけでなくて、花を見られる時期にやるというのはいいことだ。

実を言うと、私はこの動きを横目で見ながら、最初のうちはちょっと賛同しかねるようなところがあった。というのは単純な話で、私は「パワースポット」というのが好きではないのだ。その場に行くだけで何らかの御利益がある場所、というのがなんだが都合がよすぎるし(巡礼みたいに信仰とセットになった場所だったらわかるのだが)、そもそも何の根拠もなく雰囲気だけで「パワースポット」として扱われている場所が多すぎる。

もちろん、古くからの神社仏閣であっても、それをパワースポットとして消費するのはよくないと思う。こういうところは、歴史や建築、庭園や仏像などの文化財を楽しむべきで、もちろんその神々しい雰囲気に浸るということもあってよいが、そこだけを強調するのは軽佻浮薄ではないか。

とはいっても江戸時代の伊勢参りだって、今のパワースポット詣でとさして変わらなかったのかもしれない。伊勢参りをしていた人々は、ほとんど伊勢神宮の歴史とか関心がなかったようだし、それどころか内宮(天照大神を祀る)に行かずに外宮(豊受大神を祀る)だけ参っていたみたいだから、目の前の御利益を期待して参拝するという意味では昔の人も現代人とあまり変わらない。

だから「パワースポット」にそんなに目くじらを立てる必要はないのかもしれないが、「パワースポットと言っておけば若い人が来るだろう」とか思っている観光地があるような気がして、そういう態度がやっぱり気にくわないし、神社仏閣にしても、本来の価値を発信せずに「パワースポットだから来てね」といわれると逆に行きたくなくなる。要するに、パワースポットと呼ばれる場所には何の恨みもないが、軽々しく「パワースポット」を連呼する広報の方に違和感があるのだ。

ということで、私の中に「パワースポット」に対する不審があって、「愛願岩」を縁結びのパワースポットとして売り出しているのが、なんだか微妙な気持ちだったのである。

しかし、実際に有木集落の人たちが登山道整備をしたり、案内版を立てたりするといった地道なことをやっているのを見ると、こういうことならいいじゃないか、と思うようになった。「パワースポットだから来てね」というだけではなくて、通れなかった所が通れるようになる、どこにあるか分からなかったものが、わかるようになる、というのは、間違いなく価値を創り出す行為だからだ。

つまり高ボネ山の売り出しは、「パワースポット」を奇縁にして地域の自然や風景を見直し、価値を生みだしていく行為になっている。だから好感を持つのである。しかも、そういう活動をする中で、実際に関係者に結婚するものも現れてきて、まさに話が「瓢箪から駒」になってきた。まんざら言ってるだけの「パワースポット」ではないのである。

ところで、このイベントのポスターは実は私がデザインしたものである。通常こういうウォーキングイベントの参加者は団塊世代より上の人たちが多いものだが、主催者からの希望として「縁結びを謳ってるから若い人に来てもらいたい」というのがあったので、タイトルには「ラノベPOP体」というのを使ってみた。全体の雰囲気がラノベっぽくはないからあまり効果はなさそうだが…。

というわけでご関心がありましたらご参加をお願いします!(申込方法はポスターをクリックして内容を確認してください。電話申込です)

2016年6月23日木曜日

南さつま市が「サイクルツーリズムの実現」で地域おこし協力隊を募集中

今、南さつま市が「地域おこし協力隊」の募集をしている(受付期間:2016年6月23日〜7月15日。例によって短い)。

今回の募集は、「サイクルツーリズムの実現」がテーマである。

南さつま市は、合併前の旧加世田市から引き継いだ「自転車によるまちづくり」を旗印の一つに掲げていて、これまでも自転車関係の様々なイベントを行ってきた。

特に、過酷だが景観の素晴らしい自転車大会「ツール・ド・南さつま」は、特に広報らしい広報をしていないにも関わらず(と思うのですが、実際はどこかで宣伝されてるんでしょうか?)、かなり人気の自転車レースとして成長してきており、自転車関連の取り組みの成功例と呼べるだろう。

だが、こういってはなんだが、これらが「まちづくり」になっているかというと覚束ない。これまでのイベントはどちらかというと単発的・お祭り的であり、仮に観光政策だけを見たとしても「まちづくり」というような恒常的な形をなしていないように思う。

また、「自転車によるまちづくり」もスローガン的(とりあえず言っているだけ的)であり、市政の他の部分との関連も薄く(例えば、健康のために自転車に乗りましょう、とか言うわけでもなく)、対外的にも強く打ち出してはいなかったと思う。

それが、どうしてこのタイミングで改めて自転車に注目してきたのか、ちょっとよくわからないが、 要項に「国内・海外からのサイクリストの受入業務」とあるのを見ると、自転車の国際的イベントの誘致の話があり、それに対応するために英語と自転車が出来る人を配置したくて、それならば地域おこし協力隊で、という話なのかもしれない。

でもそうでなくても、これまでの南さつま市の自転車まちづくり政策は中途半端なところがあって、旧南薩鉄道の廃線跡を自転車ロード(りんりんロード)として整備したまではよかったが、せっかく整備したその道があまり有効に活用されていないとか、同じく南薩鉄道の廃線跡が自転車専用道になっている日置市とはほとんど連携していないとか、「どうせやるならもっとやったらいいのになあ」というころがいろいろあった。今回の募集が、そうしたところにも手を入れるような意気込みでされているならとてもいいことだ。実際に要項にも、「広域サイクル・ルートの開発に向けた企画・調整」とあるので期待が持てる(南九州市の方とも連携したらよいと思う。お茶畑を自転車で走ったら気持ちよさそう)。

私自身は自転車はあまり乗らないし自転車競技にも詳しくないので、南さつま市の「自転車によるまちづくり」がどこを向かって進めばいいのかよくわからない。でも「ツール・ド・南さつま」に参加された方の話を伺うと、南さつまの海沿いの道はとにかくすごいコースであるということだけは一致しているので、これを活かして行くというのは将来性があるのだと思う。新しい風を期待しています。

2016年6月16日木曜日

人間讃歌としての砂の祭典へ

今年の「吹上浜 砂の祭典」は、運営側にもほんのちょっとだけ関わらせてもらった。観光協会の関係で、家内が出店(でみせ)の裏方や店番などをしたのである。

それで、「砂の祭典」についていろいろ思うことがあった。

一応、「砂の祭典」を知らない人のために説明すると、これはゴールデンウィークに砂でつくったたくさんの像(砂の彫刻)を展示するイベントで、それに付随して飲食ブースや雑貨ブース、そしてステージイベント(音楽や子ども向けショー)といったものが行われる。夜には音楽に合わせて打ち上げられる花火もあって、今までこの花火を見たことがなかったのだが、今年初めて見てみたら意外と迫力があってすごかった。オススメである。

肝心の砂像はというと、地元の小中学生のものから招待作家のものまでいろいろあり、海外からの招待作家の作品はとても精巧で見応えがある。ちなみにうちの娘(3歳)の一番のお気に入りは地元中学生(だったと思う)が作った人魚だった。

イベント期間は本体が5日間。その後チケットの値段が下がって、ほぼ観覧のみの期間が約1ヶ月ある。以前はもっと短かったようだが、せっかく作った砂像をすぐ壊してしまうのももったいないということでイベント期間が長くなったのだと思われる。

「砂の祭典」が始まったのはもう30年くらい前で、その当時は本当に吹上浜の汀(みぎわ)でやっていたと思う。子どもの頃に、一度行った記憶がある。その後会場が2回変わって、現在は「砂丘の杜 きんぽう」という松林に囲まれた場所でやっている。

さて、このイベントを間近で見てみて感じたことを述べてみたい。運営に携わっている人はカチーンと来るかもしれないし、いわば外野からの感想なので当を得ていない部分もあるかもしれない。素人の雑感として受け取っていただければ幸いである。

まず第1に感じるのは、「ちゃんと費用に見合った成果が出ているのか」ということである。

「砂の祭典」は一応実行委員会方式をとっていて、民間の参画もあるが、基本的には南さつま市役所が音頭を取ってやっているイベントである。予算の面は明らかになっていない(と思う)ので何とも言えないものの、少なくとも役場職員のかなりの数がこのイベントに動員されており、担当職員はゴールデンウィークなしで動かなくてはならず、その人件費だけでも相当だろう。要するに相当な労力がかかったイベントである。

ではこのイベントの成果は何なのかというと、多分役所的には入場者数で図っていて、近年(ここ10年くらい)はとにかくたくさんの人に来てもらおうということでイベントが拡大されてきたような気がする。

おそらく役所としては、砂の祭典を見に南さつまに来てもらって、南さつまを知ってもらう機会を増やそう、メディアに露出する機会を増やそう、という思惑なのだろう。実際、今年は熊本地震への支援を打ち出してNHKの全国版ニュースにも取り上げてもらっており、それなりに意味があるのは間違いない。

しかし税金が投入されている以上、たくさんお客さんが入ったらから良かったね、だけではなくて、ちゃんと費用対効果を検証しないといけない。それは単純な客数ではなくて、お客さんに南さつまの魅力を訴えられたかどうか、近隣への波及効果といったものも考察するべきだ。要するに大事なのは「お客さんを呼んでどうするのか」という目的意識であり、このイベントはディズニーランドとは違うのだから、客数(チケット売上)そのものが目的ではないということである。

その観点からイベントの費用対効果を(数字で計るのではないにしても)出して、今の拡大路線で行くのがよいのかどうか再考したらよいと思う。

第2に、地元の人々の心が離れてはいないか、ということがある。

これは多くの人から聞いたわけではないし、みんなはっきりとはそう言わないが、どうも「砂の祭典に関わるのが最近めんどくさくなってきた」というような人がかなり増えてきている気がする(といっても昔のことも知らないが)。

砂の祭典はその黎明期から市民の参画が進められてきており、砂像の製作はもちろん、実行委員会のメンバーなどいろんな面で市民が関わっている。私自身は直接に関わったことがないが、想像するに、その負担も結構あるのだと思う。

その負担を補う面白さがあればよいが、どうもそれが怪しくなってきているようだ。イベントとしての盛り上がりに欠けるとかそういうことではなく、運営面における長老主義(若い人の意見が通りづらいなど)やマンネリズムといったものが原因で、運営側に携わっても一つのコマとして扱われるといった雰囲気があるのではないかと思う。

イベントというのは生まれたての手作りの時が一番面白いもので、逆にイベントが大きくなっていくにつれて機械的に進める面が大きくなり、運営面でのやりがいが小さくなっていく。大きく成長してしまうと運営の責任も大きくなって無難なやり方を選択することが多くなり、個人のステキな「思いつき」は顧みられなくなってしまう。これはある面ではしょうがないことだ。しかし誰しも、自分のやりたいことがイベントを通じて実現できるとか、一人の人間として尊重・承認されるというようなことがないとわざわざ面倒毎を引き受けたりはしないものだから、やっぱり市民の遊び心を刺激するようなところがないと、ボランティアの人集めをしようとしても難しくなっていくと思う。

そして人々の心が離れてしまうもう一つの原因は、砂の祭典がかなり商業主義的になってしまっていることかもしれない。会場には、小中学生たちや役場職員、地元企業が一生懸命作った砂像も多く、砂像だけを見たらまだまだ地元の手作りイベントの雰囲気は残っている。商業主義的といっても、このイベントで大きな収益が生みだされているということもなさそうで、むしろ赤字が心配なくらいだ。だが集客に力を入れた結果、地元の文化や自然と関係のないものまで盛り込みすぎて、「祭典」の性格が揺らいでいる。ただ人が集まればよいということなら、集客力のある芸能人を呼ぶのが一番手っ取り早いが、仮にそういうことをすれば心ある人が真っ先に離れていくわけで、そういう路線になっていかないかとちょっと心配だ。

長期的に見れば、集客のためにサイドイベントをたくさん盛り込むよりも、価値の中心である「砂像」の文化をゆっくりと育んで、それを愚直に発信していくのがよいと思う。

そして第3に、「吹上浜 砂の祭典」と銘打ちながら、吹上浜とあんまり関係なくなっているということがある。

砂の祭典は、もともと日本三大砂丘の一つである吹上浜という地域資源を活かして何かやろう、ということで始まったイベントだったはずだが、客数増加などの都合で会場が「砂丘の杜 きんぽう」に移ったために、「吹上浜」を銘打ちながら会場からは海岸を見ることができない。初めて来た人は、「あれ、浜はどこにあるんだろう?」と思うに違いない。

会場から海を臨めなくても構わないと思うが、吹上浜との何らかの連結がなくては本当の観光資源を素通りさせてしまうことになりかねない。日本全国的に見ても素晴らしい白砂青松の砂浜「京田海岸」など、近隣には吹上浜の観光スポットがいくつかあるので、そういうところを地道に整備して(現在は駐車場などがない)、砂の祭典に来た人たちに回遊してもらうような工夫をしたらよい。

また、砂や砂丘というものについては現在は素材としてしか扱っていないが、観光の王道は風景と歴史と文化を体感するということにあるので、吹上浜と付き合ってきた南薩の人々の歴史を紐解くような工夫があるとさらによいと思う。

幸いにして、会場の近くには「沙防の碑」がある。このあたりの人は古くから浜から飛んでくる砂に苦労しており、これはその飛砂防備のために広大な松林を植林した宮内善左衛門を顕彰した石碑なのである。また、万之瀬川が運んでくるこの大量の砂は河川氾濫の原因ともなっており、今でこそ「砂」が地域資源となり砂の祭典のような楽しげなイベントをしているが、歴史的には「砂」は迷惑な存在だった。ただ砂像を見るだけでなく、ちょっと足を伸ばして「沙防の碑」まで見てそういった歴史を学べれば、より深いレベルでイベントを楽しむことができ、南さつま市への観光を楽しめると思う。

第4に、これが最も強く感じることであるが、顔の見えないイベントになってしまっている、ということだ。

例えば、お隣の川辺(南九州市)で毎年やっている「Good Neighbors Jamboree」というイベント。主宰の坂口修一郎さんを中心にして、面白いことをやる人の輪ができていて、その人の輪によってイベントが構成されている感がある。もっと卑近な例では、大浦でやってる「大浦 "ZIRA ZIRA" FES」という焼肉フェスでも、実行委員会の人たちが楽しんでやっているから、それに惹きつけられて多くの仲間がやってくる。

一方砂の祭典はどうか。運営側に入ったらまた違う感想を持つだろうとは思うものの、参加者の立場で見てみると、誰が楽しんでやっているのかイマイチよく分からない。WEBサイトでは実行委員会の挨拶文が出ているが、実行委員長の名前も分からないし、どういう人の輪があるのか見えてこない。当然、人の輪がないということはあり得ないので、何かしらの人の輪があるはずだが、その顔が外から見えないのである。

お祭りごとというのは、どんな充実したコンテンツを揃えてもそれだけでは十分でない。むしろ先ほども書いたように、商業主義的にコンテンツを充実させればさせるほど、人の気持ちというのは離れていく部分すらある。コンテンツを「消費」するだけの場になるからだ。では何が必要かというと、それは「人」である。どんなコンテンツもすぐに飽きられる。でも「人」にはなかなか飽きがこない。結局、人間にとって最大の関心事は「人間」なのだ。

お祭りは、人と人とが普段とは違った空気で出会う場所であり、何よりもまず人間性の発露でなければならない。大げさに言えば、お祭りとは「人間讃歌」でなければならない。どんな集客力のあるコンテンツも、そこにいる人間が「人生を楽しんでいる」という場の空気にはかなわない。砂の祭典にそれがあるか、ということが、今後のこのイベントの命運を分けると、私はそう思う。

「顔の見えない」とか「人間讃歌」とか、随分と抽象的なことを書いてしまったが、まずはこのイベントに関わっている人の生き生きとした姿を、どんどん発信していくことから始めたらよい。海外からの招待作家がどんな気持ちで南さつまに来たのか。実行委員会の人たちが何に悩み、何を目指しているのか。ボランティアの人たちの働きぶり。そして実質的な主催者である、南さつま市役所の職員の皆さんの熱い想い! そういうものをSNSとかリーフレットとか、様々な形で伝えていくべきだ。そういう人間の生き様は、決して「消費」されえない「コンテンツ」である。祭典の本当の価値は、砂像とかステージイベントではなくて、そこに関わる人たちの熱意に他ならないのである。そして、それを見て砂の祭典にやってきた人は、絶対に「南さつま」のファンになってくれるだろう。

というわけで、ここまで随分批判的なことを書いたけれども、四半世紀に渡って砂にこだわってきたという歴史は誇れると思うし、せっかく10万人近くの人が訪れるイベントへと成長したのだから、これをもっとよいものにしていって欲しい。

来年は確か第30回目となる節目の年だ。砂像による人間讃歌、そんな「吹上浜 砂の祭典」になることを切に希望する。

2016年3月11日金曜日

街路樹を育てるという経済政策

先日、南さつま市の下水道問題に関して記事を書いた。

その後下水道問題は、友人のテンダーさんが随分頑張って市議会に意見を届けたが、残念ながらのれんに腕押しというやつで、ほぼ黙殺されてしまった格好である。

【参考】陳情したけど、ガッカリです。南さつま市の公共下水道問題その3(テンダーさんのサイト)

建設自体は既定路線とは思っていたが、1000人近くの署名が集まっていることを真摯に議論しないとは…。それで、論調としては「加世田中心部は税収の中心だからそこに投資するのは当然」というような話になっている模様。かくいう私も、下水道問題にかこつけて書いた2つの記事で述べたように、加世田中心部への重点投資・再開発には賛成である。問題は、それが下水道でいいの? ということだ。

【参考】イケダパン跡地の有効利用
【参考】寄り道と街の発展

でも、上の2つの記事でも、イケダパン跡地を再開発したらどうか、ということ以外には、具体的な再開発の手法についてはほとんど述べていなかった。本町商店街をもっと活性化したら、と言うのは簡単だが、下水道より魅力的な投資が思いつかなかったら絵に描いた餅である。

というわけで、上の2つの記事はネットでもリアルでもとても反響があったので、それに気をよくして、私なりに中心市街地の活性化策を考えてみたいと思う。

さびれた商店街の活性化と聞いてすぐに思いつくのは、イベントとかB級グルメとかコミュニティづくりといった、メディアを賑わすいろいろな事例だろうが、都市計画的に考えると(つまり個別の商店の売り上げを伸ばすということより、賑わいのある地域を作るということを目的に据えるなら)その手法はほとんど一つしかない。それは、集客力のある施設の誘致・創出である。商売というのは、結局人の流れにどう乗るかというところがあるので、集客力がある施設ができさえすれば、そこからどうとでも発展していける。

例えば、加世田本町に市役所の市民課を移転させたらどうだろうか。あるいは、図書館を本町に移転させたらどうだろう? それだけで、人の流れはガラッと変わる。今の南さつま市役所本庁は街の中で孤立していて、人の流れを生みだす力を全く持っていないので、もう少し街の中に入っていって、ヨーロッパにある広場+市庁舎みたいな空間を作っていったら面白いと思う。

しかしながら、集客力のある施設をつくるというのはあまりにも当たり前の活性化策で、面白くもなんともないので、違う観点から提案したいことがある。

それは、街路樹の充実である。

街路樹なんか、ただの飾りじゃないか、というのが大方の反応だろう。もちろん、街路樹を見に街に来る人はいない。街路樹は、集客力のある施設では、全然ない。

それどころか最近は、街路樹なんか邪魔だ、とさえ言われている。 秋に落葉の時を迎えると、バッサリ丸坊主に剪定されてしまう街路樹をたくさん見かける。冒頭写真はちょっと極端な例だが、これくらい無残に剪定された街路樹を見ることは少なくない。どうも、地域住民などから「落ち葉が道路に散乱して汚れる。排水溝が詰まる」といった苦情があるため、このような非情な剪定が行われるそうである。

一見もっともらしい意見だが、美しい樹木をみっともない姿にする方が、ずっと非合理であると私は考える。秋にカサカサと落ち葉を踏みしめる感覚を味わえない方が、よほど損失だ。もちろん、実際には誰かが落ち葉の掃除をする必要はある。しかし多くの地域ではそれくらいのことはやっていけるコミュニティがあると思うし、そうでないにしても、剪定にもお金がかかっているわけで、同じお金をかけるなら、シルバー人材センターに定期的に落ち葉掃除をお願いする方がずっと気が利いている。

でも、街路樹管理者はそう考えていないようだ。やっぱり、街路樹はどんどん剪定されていく。おそらく、あまりに立派になりすぎると電線に邪魔になるという事情もあるのだろう。こうして無残な剪定をされた街路樹は、年々貧相な姿になっていく。本来切るべきでないところを、無配慮に切りまくられるのだから樹勢もどんどん落ちる。樹は年を経るごとに立派になっていくはずなのに、そうならない。樹形が乱れていき、変な形になっていく。それでも管理者は、かえって邪魔にならなくていい、と思っているのかもしれない。

いつからこうなったのだろう。

かつて日本人は、世界でも特異なほど樹を愛する人たちだった。

日本では早くも室町時代から花木の品種改良が始まっており、美しい桜や椿、梅を生みだした。花の品種改良というだけなら、ヨーロッパのチューリップなど様々な事例が歴史に散乱しているが、高木性の花木の大規模な品種改良を行ったのは日本人だけだそうである。

また、植木屋や庭師といった専門業者が出現したのも日本が世界に先駆けており、日本人の樹木の剪定技術は、芸術すら超え、精神修養的な水準にまで到達した。盆栽はその極地である。美しく立派な樹を愛でるということにかけては、日本人は他の人々を圧するところがあったのだ。

さらに、日本語では神を数える助数詞が「柱」であるが、これは太古の昔、樹そのものが神と見なされたことの名残と考える人もいる。神社には必ず「参道」があり、参道には立派な神木が連なっていることが普通であるが、私の考えでは、拝殿や本殿よりも参道の方こそ神社の本体で、聖なる樹の連なる道を歩むという行為が、神社の聖性の本質であると思う。

また、幕末に江戸を訪れた外国人たちは、江戸の街がたくさんの樹に覆われ、あまりに田園的であることに驚き、同時にその美しさに魅了もされた。ヨーロッパの街というのは、森を切り拓いて文明を打ち立てた記念碑的なところがあるが、江戸の街は自然と融和して周りの田園との境がなかったのである。この外国人たちは江戸の街で夥しい数の園芸植物が売られているのを見つけ、買い漁って本国に送った。巣鴨や染井(駒込)は、当時世界最大の花卉・植木栽培センターだったそうである。

このように我々の先祖は、樹木を愛で、それを緻密に管理し、街並みに活かし、また信仰もしてきた。そうした樹との付き合い方は、今の世の中ではほとんど失われてしまったように見える。無残に剪定された街路樹は、その象徴かもしれない。

しかし今でも、我々は立派な樹の下に憩うことを忘れてはいない。縄文杉の前に立てば、それは未だに我々の神であると多くの人は感じるだろう。そんな大げさなものでなくても、立派な樹があるというだけで、そこは何か特別な場所になる。大学のキャンパスには大概立派な並木道があるものだが、大学で学んだことの内容は忘れても、並木道の木陰を歩いた感覚はずっと後まで残るものである。

これは、商店街でも当てはまる。六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、丸の内再開発といった近年の東京の大規模再開発事業を見ても、感じの良い街路樹を配置していない事業は皆無である。もちろん、これらの再開発事業において、街路樹が本当に活かされているかというと程度の問題はある。飾り程度の部分もあるだろう。しかし、どんなスタイリッシュなデザインのピカピカのオフィスや、名のあるデザイナーの洒落たテナントがあろうとも、そこに樹の一本もなければなんとなくサマにならないのはなぜか、というのはもっと深く考えてよい問題だ。

東京ですら、街路樹が本当の意味で立派な景観をつくっている商店街というものは少ない。有名なところとしては、原宿の表参道のケヤキ並木くらいだろう。これは文字通り明治神宮の参道であるので、商店街の街路樹というには不適切かもしれないが、この原宿という街に海外のハイブランドが軒を連ねている一因は、このケヤキ並木にあるのではないだろうか。逆に言うと、原宿からケヤキ並木がなくなってしまったら、ただのゴミゴミした街になってしまうかもしれない。表参道の品格を支えているのは、何よりもあの立派なケヤキ並木なのだというのが私の仮説である。

というわけで、加世田の本町商店街を原宿にするのは不可能でも、街路樹を立派にしていったらどうか、というのが私の提案なのだ。

幸いに、既に本町商店街には電柱がなく、街路樹が自由に伸びるスペースがある。今はプラタナスが植わっていたと思うが(間違っていたらすいません)、わざわざ植え替えなくてもこの管理方法を変えて、立派にしていくというだけでも随分変わると思う。プラタナスも古木になるとかなり大きく立派になる樹である。

そんなことで街が活性化するわけないじゃないか、と思うかもしれない。実際、鹿児島市内の大門口通り(金生通りの先)にはとても立派な街路樹があるのに、人通りはまばらである。確かに、立派な樹があるところに人通りがあるのなら、山の中が人だらけになるはずである。いうまでもなく街路樹はそれだけでは人の流れを変えないし、樹はまちづくりの主役ではない。主役はあくまで人間である。だが、先ほど述べたように、どんなに立派な施設があってもそこに樹の一本もなければそこは完全ではないのである。樹は主役を引き立てる重要な脇役なのだ。

もっと正確に言えば、街路樹は、場の雰囲気を左右する存在だ。それあたかも、「あの人がいるとなんだか場がなごむよね」というあの手の人間のようなものだ。それだけで何かを生むわけではないが、それがあることで「場」の未来が明るくなるのである。立派な街路樹を持つ街は、それだけで品格があり、そして品格ある店を呼び寄せる。街路樹だけでは経済政策にならないとしても、街路樹は街の可能性を広げるものだと思う。実際、私は大門口通りにだって面白い未来があるんじゃないかと思っている。なんなら賭をしてみてもいい。

合併前の加世田市は「いろは歌といぬまきの街」を標榜していた。街路樹のイヌマキも、もう少し立派に育てていくべきである。キオビエダシャク(イヌマキにつく害虫)の問題があるにせよ、貧相な街路樹は、それだけで見識の低さを露呈させているようなものだ。

街ぐるみで街路樹を立派にしてみたら、どんなことが起こるんだろうか。ものすごく面白い街になるような気がしてならない。

かつて鹿児島で実際それをしてみた企業がある。鹿児島では知らない人のいない老舗企業、岩崎産業である。岩崎産業は、そもそも戦前に鉄道レールの枕木で財をなした会社で、奄美に広大な広葉樹の森を作るなど林業が根幹の会社だった。その岩崎産業が、戦後、鹿児島の街にヤシなどの熱帯植物を植えまくったのである。

これは、鹿児島を一大観光地にするべく、熱帯っぽいイメージを作るためだったらしい。鹿児島のヤシやフェニックス(太くて大きなシダ植物)が全て岩崎産業の植林なわけではないが、国道沿いに大きなヤシを植えたのは岩崎産業が始めたことだ。今でもいわさきグループのロゴマークはヤシをあしらったものである。

たくさんのヤシが道沿いに植えられた鹿児島が、良いか悪いかはひとまず措く。しかしヤシを植えるという岩崎産業の戦略は、確かに街の風景を変え、鹿児島のイメージを従来とは異なったものへと変えたのだと思う。

もちろん、加世田が無理に街路樹でイメチェンする必要はない。でも立派な木々の木漏れ日の下で買い物できるような商店街は、日本にいくつもないだろう。もし素晴らしい街路樹の通りができたら、それだけで確固とした価値がある。

立派な街路樹を作るにはそれなりに時間がかかる。人口減少や景気の低迷で待ったなしの地方経済にとって、街路樹を整えるというようなことは、随分と悠長な、ノンビリしすぎた活性化策に見えるかもしれない。

でも待ったなしの時だからこそ、あえて百年の計を練らなければならない。激動する政治経済の荒波を、小手先の操舵で上手く乗り切ることよりも、何があっても失われない価値を作っていく方が結局は近道のように思う。

街路樹を育てるという経済政策。いかがだろうか。

2016年2月7日日曜日

寄り道と街の発展

イオンのショッピングモール
前回の記事で、「イケダパン跡地を有効利用したら?」ということを書いたら、思いの外賛同の声があったので、調子に乗ってまちづくりについてもうちょっと語ってみることにする。

さて、加世田には、南さつまの中心街として物足りないことが一つある。

それは、「歩いて楽しむ通り」がないことだ。都市には、いくら車がたくさん通行していてもそれで十分ではなく、「人通り」のある場所が必要だ。

歩道がいくらでもあるじゃん、と思うなかれ。言いたいのは、歩道があるとかないとかそういうことではなくて、なんとなく歩いても楽しく、いつも幾ばくかの人が歩いていて、できればステキな店へと通じているような、そんな通りがないということである。

…ところで、いきなり話が変わるようだが、東京から田舎に越してくるとみんな運動不足になる。東京では電車移動が中心で、駅から目的地まで歩くのは当然として、乗り換えでだって駅で結構な距離を歩かされるから日常生活で結構歩くのだ。通勤通学するだけで2キロや3キロ歩いている人はザラではないだろうか。

その上、街は歩いて回遊するように出来ているから、散歩すると楽しい。私も東京に暮らしていたとき随分散歩が好きだった。道すがらいろんなお店を見つけたり、史跡に出会ったりするのがとても楽しかった。今でも散歩は好きである。でも、やっぱり田舎だと車移動が中心になる。これはしょうがないことだとは思う。

でも街のどこかに「歩いて巡る場所」がなければ、その街は衰退していかざるをえないように感じている。歩くことと文化・経済の発展とは、意外に大きな関連があると思うからだ。

東京で街中を散歩すれば、楽しいがやっぱり疲れる。歩くのは結構な運動だ。そして疲れるから休みたくなる。だからカフェに入って休憩する。そこで見知らぬ人との出会いがあったり、立ち止まって物事を考えたりする。それが人生に新たな展開を生む。それが都市に生きることの醍醐味だと私は思う。歩く、買う、休む、そしてまた歩く、そのリズムが都会の通奏低音になっているような気がする。

車文化の田舎だとそういうことがない。目的地から目的地まで車で行けてしまう。ドアからドアまで歩かないから疲れない。疲れないから休まない。休まないから田舎にカフェは少なく、見知らぬ人々が交錯する場が少ないのかもしれない。

カフェがあるのかどうかと「文化・経済の発展」という大上段の話がどう繋がるのかピンと来ない人のために少し事例を出せば、フランスのサロン(これは正確にはカフェではなく会員制クラブみたいなものであるが)が科学・哲学・文学・音楽といったフランス近代文化を揺籃したことはよく知られているし、イギリスのコーヒーハウスはかつて経済人の交わりの中心的装置であって、世界の保険業界を牛耳るロイズ保険組合を生みだしたほどだ。ロイズは、カフェ店そのものが発展して保険組合にまでなっており、カフェ文化の申し子である。

カフェはただコーヒーや紅茶を飲んで一服入れる場所ではなく、文化や経済の発展に重要な役割を担っているのである。私も年に1回、笠沙美術館を借り切って「海の見える美術館で珈琲を飲む会」というカフェみたいな催しを開催しているが、これは私がコーヒーが大好きというだけでなく、コーヒーを共に楽しむことが誰か(もちろん私含む!)の人生に何か面白い展開をもたらすことを期待している部分もあるのだ。

話を戻すと、歩くことの効用はカフェの存在だけではない。

歩いてどこかへ行くことの最大の利点は、寄り道がしやすいということである(もちろんカフェも寄り道の一種だ)。車やバイクでも寄り道はできる。が、徒歩や自転車での寄り道とは比べるべくもない。寄り道もまた、文化や経済の発展に非常に重要な役割を担っている。特に、文化と寄り道の関係は切っても切れぬものである。

というより、文化そのものが寄り道や回り道みたいなものだ。例えば、茶席でお茶を喫する時、わざわざ茶碗を3度回して正面に向けて飲む。いやそれだけでなく、ただお茶を飲むだけのことに数え切れないくらいの作法と仕草が決められている。めんどくさい作法を決めずにただ飲む方がよほど無駄がないのに、 なぜ小うるさい作法や仕草によって遠回りするのか。

それは、ややこしくしたり、小難しくしたり、遠回りしたりすることこそが文化の本質で、目的に対して合理的なだけの直線的なやり方をするのはむしろ野蛮に近いからであろう。極端に言えば、目的地へ最短で到達するのは(文明的ではあっても)文化的ではなく、目的地へ着くまでに寄り道したり、敢えて遠回りしたりする方が遙かに文化的なのだ。

これは、学問なんかにも当てはまる。効率よく学ぶには公文式のようなやり方が合理的だが、興味関心の赴くままに寄り道しながら非効率的に学ぶ方が、結果的には深い洞察へと到達することが多い。人工知能が今よりずっと発展すれば、単なる学習ということでは人間はコンピュータに太刀打ちすることは出来なくなることは明白だが、それでも(たぶん)コンピュータに「寄り道」はできないということが、ギリギリのところで人間の優位性を確かにするような気がする。

目的地への最短経路を探すのはコンピュータでもできるが、寄り道するのは人間にしかできないのだ。それが、人間らしさの大事なところだと思う。

そういう、理念的な話だけでなく、寄り道には現実的な効用もある。それはスモールビジネスが発展するには、寄り道が必要だということだ。ショッピングセンターとドライブスルーにしか人が行かないような車移動の街では、どうしても新たな客商売の立ち上げというのは難しい。

そういう街では、大通りに面した広い駐車場の入りやすい店でないと成功はおぼつかないが、商売を始める時にいきなりそういう大型投資は難しい。やはり路地裏の5坪くらいの店から始めるのが、スモールビジネスのスタートとしては気が利いている。でも、車社会で寄り道のない街だと、そういう店は成り立っていかないのだ。だから、かなりの程度成功が確約された、無難なチェーン店ばかりの街になってしまう。

もちろんチェーン店が悪いというわけではない。でもそういう店ばかりで、地元の小さな手作りの店が参入していく余地のないような街は、結局街として消費者の地位に甘んじるしかない。都会でつくられたサービスを受け入れるだけの街に。逆に、新たな価値を生みだしていく街になるためには、そこから小さなビジネスが巣立っていく場所にならなければならないと私は思う。

そのために、街の中心部には「歩いて楽しむ通り」があるべきだ。

気軽に寄り道が出来るような「歩いて楽しむ通り」は、街の人々の小さな夢を育てていくゆりかごになる。裏通りのささやかな店が成り立っていく街であるためには、街の中心にそんな通りが絶対必要なのである。

そんな通りを南さつま市にもつくるとしたら、候補地は(前回書いたイケダパン跡地の他に)本町の商店街だろう(通称ゆめぴか通り)。

本町の商店街には既に歩きやすい歩道が設置されており、幸か不幸か空き店舗も多い。私は下水道の敷設には反対だが、この通りをより魅力的にするために再開発するというならば大賛成である。

そして私がこの通りに可能性を感じる最大のポイントは、通りが一直線ではなく微妙にカーブしていることで、実は「歩いて楽しむ通り」の(必須ではないが)かなり重要な要件は、カーブしていて見通しがよすぎないということなのだ。

ところで、歩くことをよく理解しているなと感じるのはイオンのショッピングモールだ。イオンのショッピングモールは、直線的でなくカーブを描いて専門店街が構成されており、非常に歩きやすい。実は徒歩移動は直線が苦手で、ずっと遠くまで見渡せる直線道路というものは歩いていると疲労感があり寄り道もしづらく、それどころが目的地すら「あんなに遠いなら今日はパス」となりがちである。

それが不思議なことに、微妙にカーブしていて目的地が見通せないと結構遠くまで苦もなく歩くことができ、さらに重要なことに、いろんなお店の店構えが自然と目に入ってきて寄り道(つまり衝動買い)を誘うということがある。

そして買い物は結構疲れるので、休憩しようとフードコードに入るとやっぱりここも微妙にカーブしてお店が配置されていて、非常に目移りしやすいようになっている。真四角のスペースに碁盤の目上にお店を配置するほうがよほど合理的であるが、実際にはやや不整形なスペースにやや不規則にお店がある方が人々は移動の苦を感じず、余計な購買を誘うようである。

衝動買い、無駄遣いはよくない、というのは一面のことに過ぎず、商売をやっている人からすればできるだけお客さんには衝動買いや無駄遣いをして欲しいわけだし、このイオンの戦略は(道義的に)悪いものではない。だいたい、必要なものを必要なだけ、最も合理的な方法で手に入れるというだけだったら、もうコンピュータが自動的に生活必需品を発注するような仕組みがそこまで来ているわけで、人間の購買はいらない。むしろ衝動買いや無駄遣いこそ人間らしい消費のあり方だとさえ言えるのである。

また、こういう人間心理を上手く衝いているのが「カルディコーヒーファーム」で、見通しが悪い店内に不整形な棚を配置し、ちょっとカオス気味に商品を陳列させて店内を探索する楽しみを与えているのが上手だと思う。商品はわかりやすく、探しやすくあるべき、というのがかつての小売りの常識だったと思うが、それの真逆を行っているわけだ。

「カルディ」は消費者が求めている商品を提供する店ではなく、消費者が今まで知らなかった(探していない)新しくて面白い商品をどんどん提案する店なのである。同様の手法をとった店として、「ヴィレッジ・ヴァンガード」や(ちょっと違うが)「ドン・キホーテ」を挙げることも出来るだろう。

他にも、東京にかつてあった「松丸本舗(丸善のインショップ)」なんかは、書店であるにもかかわらず、どこに何の本があるかがにわかには分からず、本同士の有機的な連環にそって本が配置されているという革命的な手法が面白かった。この本屋も、四角いスペースに四角い棚という普通の本屋ではなく、回廊的な不整形の棚の配置をしていた。そしてもちろん、この本屋も、「探していた本を見つける」ための場所ではなく(それならもはやAmazonで十分)、ここに来ていなかったら出会わなかったかもしれない一冊と出会うための場所として構想されたのである。

少し事例が煩瑣に過ぎたかもしれないが、クリック一つで欲しいものにアクセス出来る時代になっており、田舎においてもリアルの購買活動の比重は「予期せぬものとの出会い」に移って来つつあるのではないか。その際に求められるのは、碁盤の目上に整然と区画された合理的な空間設計ではなく、ゆるくカーブした道にやや不規則にものが配置されていくという(前時代的なものとされていた!)かつての商店街的な場所なのだ。カーブしているかしていないかなんて些末なことと感じるかもしれないが、土地の構造は人間の心理に意外なほど大きな影響を及ぼしている。

そういう意味で、本町の商店街にはリノベーションのチャンスがあると思っている。適度にカーブして見通しはよくないが閉鎖感はなく開放的な場所。商売のインフラとして、本町の商店街の地相には魅力がある。

地相と言えば、天文館が中央駅前の開発で随分さびれたと言われても、やはり歩いて楽しい街としては中央駅なんかより天文館の方が断然上で、そのことだけでも暫くは天文館は生まれ変わり続けるという確信が持てる。事実、最近天文館はかつてとは違った街としてまた盛り上がって来ているような気がする。

同じように、加世田の本町もこのあたりで生まれ変わってみてはどうだろうか。

※冒頭画像はイオン九州のサイトより拝借しました。

2016年1月13日水曜日

「風景」について

こちらへ越してきてから、風景のことをよく考えるようになった。

南さつま市に地域資源と呼ばれるものはたくさんあるが、その中でも一番すごいのは間違いなく景観である。国道226号線沿いの「南さつま海道八景」、金峰の「京田海岸」、そして大浦の「亀ヶ丘」。こういう場所の景観は、鹿児島の本土では有数だし、全国的に見ても誇れるものだと思う。

だから、地域の発展のことを考えると、この風景という地域資源を活かそう! という話になっていく。私自身、この風景をもっと活かせないかと南薩のポストカードを作ったくらいである。

【参考】 南薩の風景ポストカード5種セット「Nansatz Blue」


実際、素晴らしい風景には大きな価値がある。国内旅行の主要目的は、風景と食事と温泉ではないかと思われるが、その中でも風景の存在は大きい。素晴らしい風景には、ただそれだけで人をそこへ連れてくるという力がある。

しかし、風景の価値というものをジックリと考えてみると、なかなか一筋縄ではいかない。

例えば、我が大浦町の越路浜という海岸で、バブル期に地元企業がリゾートホテルを建てる計画が持ち上がったことがある。結局その計画は実現しなかったが、もしステキなリゾートホテルが建っていたらどうなっただろう。

そうなっていたら、素晴らしい景観に惹かれて、今頃多くの観光客が大浦町を賑わせていたかもしれない。そしてその観光客のために飲食店や土産物屋がたくさんできて、その経済効果は年間10億円くらいになっていたかもしれない。

仮にそうなっていたとしたら、越路浜の風景の経済的価値は、10億円相当だと言えるんだろうか。 もしそうなっていたら、今の縹渺とした静かな海岸ではなくて、人や建物に溢れた全く違う海岸になっているかもしれないのに。

これは全く仮定の話だが、実際に似たようなことが起こっている地域もある。人があまり来なかったからこそ残っていた素晴らしい風景が、多くの人が来るようになるとどんどん変わって行く。自動販売機が置かれ、看板が乱立し、ゴミが捨てられる。風景を活かそうとして、逆に殺してしまうことになる。

風景を活かそうとしていろいろ活動することが、皮肉なことにその風景自体を変えていってしまうのだ。

だからといって、風景を手つかずのまま、人跡未踏のまま残しておくとしたら、その風景がいかに絶景であったとしても、その価値を活かすどころか、その価値そのものを考えることすらできない。誰も行けないアフリカの奥地の奥地に、どんなに素晴らしい風景が待っていたとしても、誰にも行けないなら風景としての価値はない。やはり、人が行けて、そこで五感で眺望を体験する、ということがなくては風景としての価値は考えようがない。

つまり「景観」は、人間社会となんらかの接点がなくては、そこからその価値を取り出すことはできないのである。しかし人間社会が関わる以上、絶対に手つかずにはならない。その風景は人間が手を加えたものにならざるをえない。

もちろん、これは程度問題である。しっかりと風景を守り、マネジメントすれば、最小限の人工物でほとんど自然そのままの景観を維持することはできる。風景との関わり方には、そういう節度が求められるのだ。

ではそういった風景への節度を保ちつつ、観光客を呼び寄せて、何億だかの経済効果がもたらされたら、その何億だかが風景の価値ということになるんだろうか。もしかしたら、風景の経済的価値、ということに限ったらそうなのかもしれない。でも、風景は人の心の中にあるものだから、経済的価値だけではその価値を考えることはできない。もっと多面的に考える必要がある。

南さつまにとっての素晴らしい風景の価値、いや、人間にとっての風景の価値、それをもうちょっとちゃんと考えてみたい。

(いつかにつづく)

2015年11月22日日曜日

「場の活性化」の秘訣

前回の記事で、私は「地域活性化をするよりも、自分がやりたいことをやった方が結果的に地域活性化になる」ということを述べた。

でもこれにはいろいろ反論があるだろう。自分のやりたいことといっても、読書や映画鑑賞のようなものもあるし、極端に言えばぐうたら寝ていたいというのだってあるわけだ。そういうことをやっても、地域活性化に繋がるのか? と。私はそういうものであっても、それをのびのびとできるなら結果的には地域活性化になると信じるが、ちょっと迂遠な感じがするのは否めない。さびれた商店街を何とかしたい、というようなことを考えている人たちにとって、「自分がやりたいことをやりましょう」というのはあまりに悠長なアドバイスだ。また、「私のやりたいことは、まさに地域活性化なんだよ!」というアツい人もいると思う。こういう場合どうしたらよいのか。

時々、地域活性化講座みたいなものがあって、こういう熱心な人たちにいろいろアドバイスしているが、どうも私から見ると正鵠を射ていないものが多い。地域資源を発掘して、それを売り込んでいくためのマーケティングをして戦略を作るとか、そういう軽薄なアドバイスは特に最悪である。

断言するが、地域活性化に「マーケティング」も「戦略」もいらない。

鹿児島市役所のそばに「レトロフト チトセ」という古いビルがある。ここは古本屋やカフェ、気軽なレストランなどがあって私のお気に入りの場所である。遠目に見ると灰色の古いビルだが、中は随分と活気があり、いつも様々な新しい企みがなされていて楽しい。

でもこのビルは、数年前まで文字通り古い雑居ビルで、特にどうということもない場所だったようだ。今のように活気ある場所になったいきさつは詳しくは知らないが、最初から、こういう戦略や青写真があってレトロフトは今のような場所になったんだろうか。どうもそうではないように見える。

これは「戦略」に基づいて場の活性化がなされたというより、リフォームを行ったことを契機として、面白いことを考える人たちがどんどん集まってきて新しい企画が実現し、それに惹かれてやってきた人たちがまた新しい風を入れるという具合に、「人とアイデアの好循環」が生まれた結果ではないか。私が最初にここを訪れたのは2013年で、それからの動きを横目に見ているとそのように感じる。

もちろん、オーナー夫妻の感性も活性化にはすごく重要だったろう。でもそれだけでは、この数年で急にビルに活気が出てきたことの説明が難しい。 やはり運営上の変化があったと考えるべきで、それはリフォームによる外面的な変化もあるが、むしろ人とアイデアを受け入れる「開かれた態度」になったことではなかっただろうか。

場の活性化に成功している他の例を見ても、このことは共通している。その「場」には「人とアイデア」を受け入れる「余白」と「開かれた態度」がまず準備される。すると面白い人が集まってきてやいのやいの騒ぎ出す。楽しい企画が実現し、それに惹かれてまた人が集まってくる。これが活性化のいつものパターンである。そこに場をまとめるためのリーダーシップやセンスは必ずしもいらない。ただし、そういうものがあれば、その活動が長続きし、また高水準の成果を生みやすいということは言える。

そして、こういう活性化が起こるためには、「戦略」はほとんど役立たない。「戦略」に沿って物事を進めるよりも、思いもよらないアイデアをドンドン受け入れていくことこそ必要で、そういう態度であり続けようとするなら、結局「戦略」は無意味になっていく。というより、最初に思い描いていた「戦略」から離れていくことが活性化の証左ともいうべきで、それは人生のドラマのように、私たちを予定調和よりももっと面白い展開へと連れて行ってくれる。

ローカルな事例で申し訳ないが、大浦にある「有木青年隊」もこういう活動の成功例である。有木青年隊は、集落の普通の青年団のように「何歳から何歳までが自動的に所属する」という団体ではなく、やりたい若者が(もちろん女性でも)誰でも入れる。そこに集落の限定もなく、今では集落外に住んでいるメンバーの方が多いくらいじゃないかと思う。

有木青年隊の沿革もよく知らないが、十五夜祭りを盛り上げる活動の一つとして緩く始まり、飲ん方(ノンカタ=宴会)をしているうちに「こうしてみよう、ああしてみよう」と盛り上がり、十五夜祭りから飛び出して、「大浦 “ZIRA ZIRA“ FES」という一大イベントを実行するようにもなった。今では大浦町の顔の一つだ。

この活動も最初から青写真があったというより、若者に自由にやらせようという集落の「開かれた態度」があり、そこにうまく若者たちが集結し「人とアイデアの好循環」が起こった結果に見える。ついでにいうと、「はっちゃける」ことを肯定して、若者のエネルギーの発散を「黙認」ではなく「承認」された行動にしたことも大きい。

一方で、有木青年隊は「何歳から何歳までが自動的に所属する」という団体ではないから、やりたい人がいなければ消滅してしまう。人によっては、そんなんじゃ継続性がない! と不満に思う人もいるだろう。やっぱり婦人会とか青年団とかカッチリした枠組みで継続性がある活動をするほうが確実だ、という意見である。でもつまらない活動が長続きするより、いっときでも面白いことが起こる方がずっといい

行政による地域活性化の支援などでも「継続性」が条件になっていることが多いが、私からすると継続性などと言ってる時点でつまらないことをしている自覚があるというもので、面白かったら自然に続くし、逆にやってみて面白くなかったらさっさと辞めた方がいい。最初から継続することを条件にするのは愚策である。

ともかく、地域活性化——よりも、私は「場の活性化」と言うべきだと思っているが——をしたいなら、そのための「戦略」を練って何をすべきか考えるよりも、若者のエネルギーを形にできるような「余白」と「開かれた態度」を持つべきである。レトロフトの素晴らしいところは、リフォームの際にこのことを十分にわきまえていたことで(想像です)、たった4㎡のテナントを作って、気軽に小さなビジネスを始められる場を設けたり、人の行き来が活発になるように動線を綿密に計算している点である。

若者は、常に自分の魂が承認される場所を求めている。行き場のないエネルギーを抱えている。そのエネルギーが肯定され、思い描いたことを実現できるフィールドを欲しがっている。場の活性化をしたいなら、まず彼・彼女が存在できる「余白」を設けよう。そして若者がそこに入りやすいように、「開かれた態度」を身につけよう。そうすれば、人は自然と集まってくる。なぜなら、そういう場所は常に不足しているからだ。そんな場ができれば、自然と「人とアイデアの好循環」が起こり、もうそうなったら仕掛け人その人でさえコントロールできないようなステキな物語がたくさん生まれてくるのである。

こういう活性化なら、私は大歓迎である。

2015年11月18日水曜日

「地域活性化」はやるべきではありません

先日、「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」を開催しました。来ていただいた方、本当にありがとうございました!

当日の模様については「南薩の田舎暮らし ブログ」の方に書きましたのでよかったらご覧ください。

【南薩の田舎暮らし ブログ】「海の見える美術館で珈琲を飲む会 vol.2」ありがとうございました!

ところで、こういうイベントをしていると、「地域活性化してくれてありがとう!」とか言われることがある。また、新聞記者さんにも「南薩の田舎暮らしは、地域活性化団体とかじゃないんですか?(そうでないと記事に紹介しにくいなあ、みたいなニュアンスで)」と聞かれたりする。

でも、実を言うと私は「地域活性化」には取り組んでいないし、「南薩の田舎暮らし」も商業活動をするときのただの屋号である。ただ、「珈琲を飲む会」とか、先日やった「公民館 de 夜カフェ」なんかは、収益を目的としておらず(というかカンパがなかったら赤字)、気持ちの上では地域貢献活動としてやっているのは確かである。

でも地域貢献は目的の中心ではない。目的の中心は、「自分が楽しいからやりたい」という私のエゴである。美味しいコーヒーを、眺めのよいところで飲んだら美味しい、それを他の人とも共有したい! そういう私のエゴでやっているのが「珈琲を飲む会」である。いわば自分による自分のためのイベントである。地域活性化とか、そういう「高尚な目的」は全然ない。

そもそも、私は「地域活性化」や「地域おこし」はやらない方がいいと思っている。

そういうことに興味があったり、いろいろな取組をしている人と知り合ったりする機会が多いのだが、その現状を見聞きしても、「地域活性化」の内容には問題があることが多い。

そういう取組の最大の問題は、「地域活性化」が一体何を目的としているのか曖昧なことである。「地域」というボンヤリとしたものを相手にしているから、それがどういう状態になったらそれが「活性化」だと言えるのか、あまり考えていない。なので、「とりあえず人の集まるイベントを開いてみよう!」というだけの活動になることが多い。

そうは言っても例えば「地域のお年寄りが喜んでくれたんだからいいじゃないか」みたいに反論する人がいるだろう。でも、最初から「地域のお年寄りを喜ばす」ことが目的なら、その目的に沿って活動を設計すべきであり、「地域活性化」みたいな抽象的な題目ではなく、お年寄りは何を喜ぶのか、という具体的なところから出発するべきである。だが、現実には「結果的に」喜んでくれた、というのが成果として捉えられており、そこに手段と目的と成果の齟齬がある。

これは観光振興なんかでも同じである。「地域活性化」の一つとして、観光振興が注目を集めているが、誰のための観光振興なのか、が曖昧であることが多い。というかほとんどそうである。観光で潤うのは、第1に交通(バス会社とか)と宿泊業、第2に飲食業、第3に物産販売業であるが、こうしたメインのステークホルダーが不在のまま、勝手連的な活動として観光振興が取り組まれることが多い。

我が南さつま市の観光協会の場合どうなのかは知らないが、交通と宿泊業の人はあまり中心的な役割を果たしていないように見える。観光振興というのは、結局はこうした業種の利益を伸ばしていくということが目的なので、まずはこうした業種の企業からプロジェクト毎に協賛金の形でお金を集めて、その範囲でちゃんと利益に繋がる活動をしていくのがよい方法であると思う。

だが、これまで観光地でなかったところは、「観光客が増えるとなんか嬉しいよね!」というようなふわっとした目的の下、観光業には直接関係のない人たちが、良くも悪くも利益を度外視してボランティアで活動しがちである。それは一種のロータリークラブのようなものだから、社会貢献活動をやるフレームワークとしては機能するし、別に悪いことはない。でも長い目で見れば、観光は社会貢献活動ではなく商業活動として成立しなければ意味がない。

だから結局は「○○旅館の売り上げを増やす」というような具体的な成果を見据えていなければ、そういう活動はやりたがり屋の人たちの生きがいづくりの場になってしまう。具体的な成果が想定されていないなら、何かをやったことそれ自体が成果になるからだ。でもそれでは、その活動によって誰が喜ぶのだろうか? この活動を横目に見ている地域の宿泊施設は、実は収益の柱がスポーツ合宿で、観光客なんか全然期待していないのかもしれないのだ。せっかくの「観光振興」なのに、それで喜ぶ業界関係者があまりいなかったら、何のためにやっているのかよくわからない。

つまり何かの活動をする時は、「それによって誰が喜ぶのか」が明確でないといけないと私は思う。 別に、「自分が楽しいから」でも全然問題ない。私は実際、「珈琲を飲む会」は自分が楽しいからしている。また、目的が誰か特定の人を喜ばすことだったらそれももちろんいい。でもよくないのは、「地域の人を喜ばす」とか、「観光客を喜ばす」とか、そういう誰かもわからない人を喜ばそうとすることである。それが「地域活性化」という題目のよくないことだ。

こうなると、「地域活性化」は中身のない「大義」になる。そして「大義」は腐敗の温床であり、その活動に協力的でない人を非難するようになる。「こっちは地域活性化のために頑張ってるのに、あの人は全然協力しない」とか。 でもそれは本当にみんなが参加するべき活動なんだろうか? 実際はやりたい人だけがやればいい活動なのではないだろうか?

というより、「地域活性化」のために「みんなが参加するべき活動」なんてものがあるとすれば、それはもはや「地域活性化」でもなんでもない。参加したくもないものに参加させられるとすれば、地域の活力はなおさら失われるはずだからだ。ただでさえ自分の時間がないなかで、抽象的な「地域活性化」とやらにボランティアで参加しろといわれるなら、そんな地域には住んでいたくない。

だから「やりたい人がやればよい」という活動でない限り、「地域活性化」にはならないと私は思う。一方で、活動の中で、地域のみんなが顔を揃えて話し合いをするとか、そういうことは必要だろうし、自治会などの組織で取り組む場合は、なるだけ多くの人を巻き込む工夫も必須である。正直、全員参加が望ましい活動はある。でも「これに参加することは義務だ」となれば、人心が離れていくのも現実である。この種の活動は、このあたりのバランスがすごく難しい。

結局、「地域活性化」なるものが中身のない理念だからこういう難しい事態が生じるのだろう。だから私は「地域活性化」なんてやめた方がいいと思うのだ。それよりも、個人が、自分がやりたい活動を思い切りやる方が本当の地域活性化になるはずだ。自分の趣味にひたすら没頭するのでもいいし、「地域に花を植えたい」というような活動でもやりたい人でやったらいい。それで喜ぶのが、あくまで「自分」あるいは「自分の知っている人」であるならその活動は健全なものだ。

そして、本当の地域活性化とは、そうした「自分がやりたいこと」をやりやすいように、さまざまなことの心理的・社会的・経済的ハードルを下げることであると思う。私が笠沙美術館を借り切ってイベントをしたことで、「自分も笠沙美術館を借り切ってイベントしてみたい」と思う人が出てきたら、イベントの副次的効果として本当に嬉しい。美術館を借り切ることの心理的ハードルが下がったということだからだ。

「地域活性化」に取り組む人の悪い癖は、「みんな地域資源に気づいていない。地域の魅力を分かっていない。やる気がない」といったように、地域が衰退していくことを不特定多数の人の責任に転嫁しがちなことである。でも地域が衰退していくことは人口動態や経済構造で決まることで、「地域の魅力に無頓着な人」の責任は全くない。

というより、私は「地域の魅力」なんか住民に理解されていなくても、住民一人ひとりがめいめいにやりたいことをしている地域の方がよっぽどいいと思う。むしろ、「地域の魅力」などというものは分かっていない方がいいくらいで、「うちの地域はなんもなくてすいません」というくらいの気持ちでいる方が可愛げがある。

「地域活性化」などという「高尚な目的」よりも、個人の生活の幸せを追求する方が、ずっと大事なことである。

2015年3月27日金曜日

「椿油」で生きがいづくり

以前ちょっと愚痴を書いた「百寿委員会」について。

百寿委員会は通り一辺倒の役所の審議会とは全然違って、委員の発奮を期待するプロジェクトなので、もう活動は具体的レベルに入って来つつある。

私は、「椿油」のグループに配属されて、椿油を活用した生きがいづくりなどの支援に取り組んでいくことに(行きがかり上)なった。

ちなみに、これは希望を出して配属してもらったもので、勝手に割り振られたわけではない。私自身としても、食用油の世界にはいろいろと思うことがあり、この活動を進める中で油の勉強になるのではないかと思って期待しているところである。

その「椿油」だが、現在南さつまではいくつかのグループが細々と作っているらしい。その中で今回の核となるのは金峰の田布施地区のお年寄りがやっている活動で、百寿委員会の役割としては、これをモデルケースにして南さつま市内の他の地区にも広げたり、あるいはこの活動に田布施地区以外からも参加してもらったりして、参画する人を増やしていくことにあるのだと思う。

というのも、椿油作りの一端を覗かせてもらったが、栽培されているものでなくて道ばたに落ちている種を拾ってくるわけなので、その品質がバラバラであり、それを一粒一粒検品して選別しなくては良質な油がとれないのである。この、小さい種をよく見て選別する作業は、目と手先を使うためお年寄りのボケ防止にもなるし、何人かで世間話をしながらそういう作業をするのはけっこう楽しい。さらには、椿油が売れて手間賃が出れば、同じ生きがいづくりでも、グラウンドゴルフのようなものとはまた違ったやりがいがあると思う。

そういうわけで、この椿油作りを市内にもっと広めたらいいんじゃない? という話になった(と理解しています)。

それで椿油の試食会に先日参加して、初めて椿油の料理を味わってみた。

椿油というのは、化粧品(鬢付け油)としても高価だが、食用油としては極端に高価である。例えば、鹿児島の鹿北製油の椿油は、インターネットではたった25gが1200円くらいで販売されている。 こんなに高価では、普通の料理にはとても使えない。だがその品質の高さから、高級料亭などでは使われることもあるらしい。

そういう高価な食用椿油を、試食会ということでドボドボ使って天ぷらまで食べさせてもらった!(ちなみに料理も自分たちでしました) それで、今まで漠然としたイメージしかなかった椿油のことがだいぶわかってきたような気がする。

椿油の食味を一言でいうと、「全くクセのない油」である。極めてサラっとしている。天ぷらもカラッとしていて油ぎっておらず、全く胃もたれしない。1日経ってもべちゃっとならず、(カラッとはしていなかったが)品質の低下が小さかった。

カルパッチョに使うのもオススメで、口の中が油でヌルヌルする感じがなく魚との相性がよい。意外なところでは卵焼きもよかった。うまく食味の説明ができないが、しっとりふんわりしていて美味しい卵焼きができていた。

しかも驚いたのは食後に食器を洗った時で、油がついたお皿もヌルヌルすることなくサラッと油が落ちるではないか。成分的なことはよく分からないが、ともかく油ぎった感じが全くない高品質油であることは了解できた。

だが逆に言うと、クセがなさすぎて、言われないと「椿油を使っているね」と分からないのが欠点である。要するにオリーブオイルなどと違って「味」がない。味がないものはなかなか普及するのが難しそうである。

椿油の生産・販売を企業的な活動としてやっていくとしたらかなり難しいが、生産するお年寄り(だけとは限らないが)の非営利的な生きがいづくりとして取り組むなら将来性がある。高品質さとかではなく、「南さつまのお年寄りが、一粒一粒選んだ椿の種で絞った椿油」というプロセス自体を主役にして、まずは情報発信から始めて活動の裾野を広げていったら面白いのではないかと考えている。

2014年12月13日土曜日

「地方創生」にほんとうに必要なこと

先日の記事で、「私は、地方経済を発展させるには国家レベルではどうしたらよいか、ということに関してはある明解な考えを持っている」と書いた。

今回は、それについて少し述べてみたい。

最近「地方創生」が話題になっていて、現在明らかになっている所でいうと「やる気のある地方自治体には交付金をプラスしましょう」という方向性かと思われる(たぶんバブル期の「ふるさと創生事業」で交付金をバラマキした反省だろう)。それは短期的にはさほどの意味はないと思う。しかし長期的には「奮わない自治体の交付金は減額すべし」ということになるかもしれず、それは手痛いことではあるが意味がある。

しかし全体として、巷間言われている議論を見ていると、「地方創生」に本当に必要なことが意識されていない政策であると疑っている。

なぜなら私は、「地方創生」つまり地方経済の発展に必要なことは、逆説的であるが、東京などの大都市の発展しかない、と思っているのである。


おそらく多くの人は、何をバカな! というだろう。それこそ「国土の均衡ある発展」とかいわれていたように、随分前から東京への一極集中をどうやって緩和するか、というのが日本の大きな政策課題だった。「地方創生」が話題になってきたのも、アベノミクスなどで大都市圏の景気が上向きになる中、地方経済が置き去りになっていることが改めて浮かび上がってきたからであろう。

ともかく、「日本の社会・経済はあまりに東京へ一極集中しすぎているので、いつまでも地方経済が浮揚しないのだ」というのがもう数十年来いわれてきたことなのである。

しかし、私は今、それは壮大な誤解であったと言いたい。

なぜか。それは、「地方経済」などというと地方に独立した経済圏が存在しているように思いがちであるが、実際には地方経済というのは大都市の経済に従属しており、ある意味ではその副産物に過ぎないからである。

もちろん「地方経済」と一言で言っても、福岡のような百万都市から、南さつま市のような僻地の小さな街までいろいろある。福岡を大都市の副産物というのも少し過激だろうから(福岡自体が大都市だろう)、もっと穏当に言えば、「農村的地域は大都市に従属した存在である」ということになるだろう。

これは個人的には、農村経済学の基本定理、としたいほど重要な事実である。

農村的地域、つまり田舎(鹿児島県もそれにあたる)で商売をやっている人は、このことは肌で分かっていると思う。文明的な商売を行うためのほとんどの物品や設備は、都会で製造されているからである。そして仕入れ品の価格は、田舎の経済状態(需給バランス)ではなく、それが消費されている都会のそれに応じて決まっているのである。

よって、農村的経済を発展させるには、大都市が豊かになり、その恩恵が受けられるようになることが第一なのだ。

これにはたくさんの反論があるだろう。物事を単純化しすぎだし、脇が甘い議論であることは承知の上だ。

だが考えてみて欲しい。今の田舎がどうして豊かになったのか。私は、「昔はこのあたりはとても貧しくて云々」という話をよく聞かされるのだが、なぜその悲惨な最底辺の生活からそれなりに豊かな生活を送れるようになったのか。

私は「経済発展の根本には「創意工夫」がある」と書いた。 では、昔の人は「創意工夫」がなかったから長い間最底辺の生活に甘んじなければならなかったのだろうか?

だが、伝えられているところによれば、昔の人の方が体は丈夫で、ものすごく勤勉で、しかもかなり前向きに仕事(農業)に取り組んでいたようなのである。今でこそ惰性的組織の代表のように言われる農協だけれども、50年前は農協というのも随分熱い職場で、これからの農業を変えるんだという気概に満ちていたらしい。そういう我々の先祖がどうして貧しかったのだろうか。

答えは簡単である。その頃の日本の都市は、多くの農村を支えられるほど豊かではなかった。都市自体が、貧しかった。もっと素っ気ない言い方をすれば、GDPが低かった。よって、農産物の価格は低かった。現代の社会において、日本の農家よりも遙かにたくさん生産する発展途上国の農家の所得が低いのは、単にその国の購買力(≒GPD)が低いからなのと同じことである。

日本の農業生産高は世界5位くらいの金額があるが、それは農業生産が盛んだ(生産量が多い)ということでなくて、日本が世界で3位の経済大国であるため、農産物が高く買われているからである。

つまり、日本の農村的地域がこの50年で格段に豊かになったのは、日本が技術立国として成長し、貨幣価値が高まり、世界の中での購買力が大きくなって、農林水産物が高い価格で購入されるようになったからなのだ。

もちろん、農林水産物をただ売るだけでなく、それで得た富を投資して地域経済の自給率を高め、生産物を多様化していったことは地方経済にとって重要であった。もしそういうことがなければ、今でもその地域はただ農産物を生産するだけの場所であり続けているだろう。

しかし本質的には、今でも農村的地域の経済は都市に多くを負っている。それは、巨大な購買力は都市にしか存在しないからであり、地域の主要生産物が工業製品へと遷移したとしても、重要な顧客はやはり大都市に違いないからである。地方的都市には、需要が絶対的に不足しているのだ。

商売がうまくいくコツの一つは、いかに優良な顧客を摑むか、である。日本の農村にとって、大都市という優良な顧客が存在したからこそ、農村は地方都市へと発展していったのである。

だから今、「地方が疲弊」しているとしたらそれに東京への一極集中はほとんど関係がない。その原因は単に、この20年続く不況のせいである。優良だったはずの顧客の購買力が落ちているからである。すなわち、大都市の経済が停滞しているからである。

そういう観点でいうと、今ものすごく不安な現象がある。最近、若者が大都会から田舎に移住することが多いということだ。それも夢破れて故郷に帰るわけではなく、才覚と意欲を兼ね備えた有能な若者が、フロンティアを目指して田舎に移り住むのである。というか、私もその中の一人かもしれない。

田舎に住む身としては、どんどん面白い人に移り住んできてもらって、地方を活性化してもらいたいと思う。しかし逆から見ると、今の時代、大都会(ほぼ東京だ)の魅力が、そういう目端の利く聡い若者にとって魅力がなくなっているということになる。これは大変ゆゆしき事態である。

最も創意工夫に溢れ、経済発展の原動力となるべき若者が田舎へ行ってしまい、 大都会には二流の人材しか残らなかったらどうなるのだろう。そんな極端なことは起こりえないだろうが、都会から田舎への人材の流出は一つの象徴でもある。東京はもはや有能な人に見捨てられる都市だということだからだ。

そうなると、若者の移住で短期的には田舎が活性化しても、それは早晩行き詰まることになる。なぜなら、巨大な需要を抱えた購買力ある大都市が存在しない限り、田舎の経済は決して発展しないからである。仮に東京が経済的に沈没すれば、田舎も道連れになることは確実だ。生産資材は手に入らず、高度な機器(PCとか)は高価になり、燃料光熱費は高騰する。そういう中で、田舎においてこれまで通りの生産を行うというのは難しいし、もっと言えば文明的生活を送るということ自体がかなり難しくなるだろう。

繰り返すが、地方経済を発展させるただ一つの方法は、大都市の生産性の向上、これに尽きる。地方がいくら生産性を向上させても、その生産物を買う顧客がいない限り、生産性の向上は無駄になる。悪くすれば、生産性が向上した分だけ人の首を切る羽目になる。経済成長のためには生産性の向上は必須であるが、それはマクロ(大局的)に見た話でしかない。

例えば、鹿児島県でトマトの画期的栽培方法が開発されて、今までの3倍収穫できて品質もよいトマトが生産できるようになったとする。すると、鹿児島県は熊本県との競争に勝って熊本のトマト産業を潰滅させることができるだろう。それにより、鹿児島県はこれまで熊本がまかなってきたトマト需要を奪うことができる。

だがそれが「地方創生」なんだろうか? 今までの3倍収穫できるトマトは、熊本県との競争に勝った後、きっと価格が1/3になるに違いない。経済学はそう予言する(価格は限界費用に等しくなるため)。それで勝ったのは誰なのだろう? トマトの価格が1/3になった消費者なんだろうか? 熊本でトマトを生産していた人は失業し、トマトの価格は1/3になってしまい、地方には誰も勝者がいないように見える。

限られたパイの奪い合いにしのぎを削ることは、消費者の利益にはなるが地方を発展させる原動力にはならない。いくら生産性を向上させても、それに応じて大きくなる需要がないかぎり、その努力は無駄になるからだ。だから、パイそのものを大きくしなくてはならない。そのためには、大都市が繁栄することしか道はないのである。地方のパイは、そもそも小さすぎる。

だから、私は、「地方創生」のために是非とも東京の活性化をしてもらいたいのである。 「東京への一極集中」というが、政策的な投資という観点でみたらそれほどでもない。地方への再配分政策が長く続けられてきたので、むしろ東京への投資はこれまで足りなかったくらいである。東京のインフラは世界の活気ある都市と比べて見劣りする。渋滞は日常茶飯事だし、下水道も時代遅れだ。今こそ東京を魅力ある都市に再生すべきである。オリンピックも控えている。東京が生まれ変わる絶好のタイミングではないか。

そして、「地方創生」に使われるような政策こそ、東京へ向けて使うべきだ。例えば、各種の特区制度は東京でこそ実行してほしい。

そして日本経済の最大の足かせになっている、旧態依然とした経営陣を入れ替える新陳代謝を促す施策が重要だ。私の僅かな経験でいうと、東証1部上場クラスの大企業でも、役員のレベルはあきれるほどである。一方で、50代以下の人にはまともな人が多く、30代以下でいうと人間的にも穏やかで気が利き、真面目で責任感のある人が多い。なにより、インターネットと英語圏への理解が桁違いである。

日本の将来を考えると暗鬱なことばかりであるが、若い人に有能な人が多いというのが唯一の希望である。早いところ上の世代に引退してもらい、若い人が主導権を取れるようになれば東京はもっともっと面白い都市になるはずだ。 そして都合のよいことに東京には大企業の本社がたくさんある。東京で何かちょっとした規制をすれば、ひょっとしてそういうことも可能なのではないか?

文化面でもそれを後押しできるかもしれない。早期退職することが、本当に有能な経営者の証しであるというトレンドができたら面白い。老いてなお現役はいいとしても、引退するまで経営に携わることがみっともないことだという風潮ができないものだろうか。そして人生の後半には、細川護煕のように田舎に隠遁して陶芸をしたり菜園をしたりするのが最高の贅沢だという風にならないだろうか。老人こそ田舎に敬して遠ざけ、都会では若者にチャンスを与えるべきだ。

今、田舎が、有能な若者にとって挑戦しがいのあるフロンティアなのは間違いない。しかし長期的には、大都市が栄えない限り田舎の発展もない。本当に有能な若者には大都会を手中に収める夢を描いて欲しいものである。東京を世界で最も魅力ある都市にすることが、地方の発展にも繋がるのである。

2014年12月11日木曜日

経済が発展する原動力(その2)

(前回から引き続き『発展する地域 衰退する地域』について)

地域の経済発展の大きな原動力が「輸入置換」にある、というのは認めるにしても、多くの地方都市で行われている「工場誘致」もその原動力にならないのだろうか。

日本では(というより世界の多くの都市で)企業の工場を誘致することは重要な経済政策とされている。農村的な地域に工場が一つできるというのは地域経済にとっては随分大きなことで、数百人(または数千人)の雇用が生まれ、それによって人口が増える。また、工場が払う税金(地方法人税や固定資産税)は地方の財政を豊かにする。

特に工場が払う税金は地方政府にとって大きな魅力である。農村的な地域においては住民の住民税というのは微々たるものなので、独自財源の殆どが工場からの納税、というような地域もけっこう多いのではないかと思う。

だから、地方政府(県、市町村)は工場誘致に力を入れることが多い。広い道路に面した安い土地を用意して工業団地を作り、豊富な水や電気、そして教育された労働者(工業高校がありますとか)を売りにして企業を呼び込もうとするのである。そういう努力は、経済発展の原動力にはならないのだろうか?

だが著者は、工場誘致(著者の用語では「移植工場」という)には否定的である。いっときはよいかもしれないが、長い目で見ると経済発展には寄与しないという。

その理由は主に2つある。第1に他地域の資本によって運営される工場は、材料調達などを他地域に負っていることが多いため(要するに地域内に下請けを出さない)、地域内の生産物の多様化に寄与しないということ。第2に、好条件に惹かれて移入してきた工場は、よりよい条件のところが見つかればさっさと出て行ってしまうということ、の2つである。

重要なのはもちろん第1の方で、経済が発展するには地域内で多様な生産活動が行われなくてはならないのに、工場はそれにさほど寄与しない。例えばもしその工場が、系列内で完結した部品調達の仕組みを持っているとすれば、地域の人びとが行うのは組み立て作業に過ぎず、要するにその地域は単純労働者のベッドタウンになってしまう。

とすれば、地域内の人びとがインプロヴィゼーション(あり合わせのもので行う創意工夫)を行う余地はないわけだ。だから経済発展に寄与しないというのである。

しかしこれは、あまりに単純すぎるストーリーではなかろうか。仮にその地域が単純労働者のベッドタウンになるにしても、ある程度の人口が維持されるならそこにはそれなりにビジネスチャンスが生まれるであろう。焼き鳥屋ができたり、クリーニング店ができたりする。そういうものは、小さいながら「輸入置換」の一環であるし、地域住民の才覚を発揮する場にもなるのである。

だから、第1の理由は私にとってはあまり説得力がない。しかしながら、工場誘致は次善の策であるということもまた事実である。工場誘致のアピールポイントである、安い土地、豊富な水や電気、それに教育された労働者、そういうものが本当に地域にあるのなら、他の地域の誰かにそれを使ってもらうのではなく、他ならぬ自分たち自身で使う方がよいのである。

著者が何度も強調して述べているのは、経済発展のためには、「他地域のためだけでなく、自分たち自身のために豊かに多様に生産」することが必要だ、ということである。地域が発展していくということは、地域の人びとが自分たち自身のために生産し、消費し、投資していくという循環的プロセスがなくてはならない。どこかの活気ある都市に供給するだけの経済には限界がある。要するに、持てる力は自分たちのために使うべきなのである。

ついでに、第2の点にも反論したいことがある。著者は、好条件に惹かれてやってきた工場はすぐに移転してしまうというが、それは地域発祥の企業でも同じことではないだろうか。

いきなり話が地元の具体例になるが、加世田にかつてイケダパンというパン屋の工場があった。鹿児島の人はよく知っている企業だと思う。イケダパンは、加世田時代には随分郷土愛があって、地元の祭りやスポーツ大会に出場するなど、地域の活動にかなり貢献していたようである。しかし商売が大きくなるにつれ、僻地にあるデメリットが大きくなり、重富の方へ移転していった。こちらには高速道路も鉄道もあり、空港も近い。高速道路も鉄道なく空港からも遠い加世田は、大きな商売をするには適していないから、出て行ったのは当然だ。

商売が適地を求めて移動していくのは自然の摂理であって、地域の人のために生産する企業だったら移動していかない、というのは幻想に過ぎないと思う。

ただ、他所から好条件を求めてやってきた工場は、地元発祥の企業に比べて移動していきやすい、ということは言えるだろう。著者がこのことを問題にするのは、冒頭に述べたように工場誘致は農村経済にとって大きな影響があるため、それがどこかへ移っていってしまったあとの経済的空白もまた大きいからである。

そして一度都市的になった地域は、かりに都市的生産が衰退しても、元の農村的地域に戻ることはない。なぜなら、農村とはただ人家がまばらで自然が豊かな場所だということではなく、農村の文化がある場所だからである。一度失われた文化を再興するのは非常に困難なことで、百年単位の時間がかかる大仕事なのだ。そして衰退した都市的地域は、最悪の場合スラム化する。

であるから、工場誘致はリスキーだというわけである。

にしても、ケインズがいうように「長期的にみたら我々は全て死んでいる」のであり、衰退した後のことまで考えて経済発展を躊躇するのは深謀遠慮が過ぎる。せいぜい、工場による景気は一時的なものだから、経済が盛んなうちに地域の自生的な産業を育成しましょう、という教訓として受け取るのがよいと思う。

というわけで、著者は工場誘致に対して否定的で、地域の経済発展の原動力になりえないという立場を取るが、私はそれには懐疑的である。

ただ、工場誘致が次善の策であることも事実だし、それ以上に重要なことは、決して、望み通りのおあつらえ向きな工場が、都合よく来てくれるわけがないという非情なる現実である。いつまでも工場が移入してこないことを不満に思うくらいなら、持てる力を自分たちで使うべきだ。

日本各地に、入居者待ちの「工業団地」がある。定員一杯というのは稀だろう。広い区画が丸々空いていることも多い。そういう土地をいつまでも遊ばせておくより、それを地域の人びとで使うべきだ。資本がない、人材がいない、販路がない、ノウハウがない。商売を始めない理由なら山ほどある。しかし地域を発展させる根源的な力は、地域の人びとの中にしかない。工場誘致はそれが表出するきっかけを作るだけなのだ。

2014年12月9日火曜日

経済が発展する原動力(その1)

「地方創生」が話題になっている。

地方経済の発展というのは、もう何十年も前から「喫緊の課題」とされていて、それこそ「国土の均衡ある発展」(by田中角栄)とか、これまでも様々な面で唱導されてきた、ある意味で使い古された政策課題である。しかし落日の途(みち)にある日本にとっては、改めて重要な課題であることも間違いない。

私は、地方経済を発展させるには国家レベルではどうしたらよいか、ということに関してはある明解な考えを持っているが、それについては後日述べるとして、地方のレベルでどうしたらよいかについて最近読んだ本を紹介しつつ考えてみたいと思う。

それは、『発展する地域 衰退する地域』(ジェイン・ジェイコブス著)という本である。本書は、経済発展と衰退のダイナミズムを都市を単位として物語るもので、その内容については読書メモ(別ブログ)の方にも書いておいた(本稿と重なる部分もある。読書メモは自分のために書いているので)。

さて、いきなり本題に入るが、経済が発展する原動力はなんだろうか? もう少しイメージが湧くように述べれば、田んぼと僅かな人家しかなかったような村に、工場が建ち、商店が並び、鉄道が通るようになる、その根底にはどのような力が働いているのだろうか?

その原動力を、著者は「輸入置換」という現象に見る。輸入置換とは、これまで他の都市から輸入されていた財を、自ら生産するようになること、つまり「輸入品を地場品で置換すること」である。

先ほど例で言えば、その村は文明的な生活を送るために必要な財を、都市部からの購入に頼っているのは確実だ。そのうちのただ一つ——例えば玄関マットやヤカンのような単純な品——だけでも、村で作るようになれば、それまでその購入に充てていた費用を節約して、他のモノの購入に振り向けることができるし、なにより玄関マットやヤカン製造のための雇用も生まれるというわけである。こうした自給できる物品が次々に増えていけば、そこは次第に都市的な地域へと変貌していくであろう。

しかし、「輸入置換」を成長の原動力と見るこの考えを、額面通りに受け取るわけにはいかない。なぜなら、マクロ経済学の基本的な考えの一つに「比較優位」というものがあって、要するに、相対的に容易に生産できるものに労働力を集中した方が経済は効率的になるからである。

先ほどの村に立ち返ると、玄関マットやヤカンといった、これまで全くノウハウも設備もないものの製造に手を出すより、村の特産品(例えばお米)の生産と販売に精を出す方が全体として儲かるというわけである。玄関マットやヤカンは都市から購入するにしても安価でよいものが手に入るのに、わざわざ村で自給しようとすれば逆に高くついてしまうことは容易に想像できる。

この考えは実際に農村の地域振興においてもよく見られる。特産品の生産に力を入れることで、集荷場や販売の体系が確立しその生産・販売活動も効率的になり、村の経済も全体として効率的になるのである。

しかし、この点に関して著者は強く異議申し立てするのである。もし、この特産品に注力する経済が効率的であるとすれば、第三世界の農村地域にあるモノカルチャー経済が最も効率的だということになる。ひたすらカカオ豆の生産だけをするような、コートジボアールの村が世界で一番効率的な経済体であるということになってしまわないか。

そういう経済がよしんば「効率的」だとしても、発展の展望はほとんどないのは明らかだ。要するにそういう経済は、短期的・近視眼的に「効率的」であるに過ぎない。

著者は力強く、「住民のそれぞれの技術、関心、創造力に応えるような様々の適切な場がないような経済は、効率的でない」と断定する。確かにそうだと思う。特産品の生産がいくら儲かる仕事だったとしても、ひたすら同じことを繰り返すだけの経済には、個人の才覚を活かす場がなく、そこには発展の余地がない。発展の余地を残すためには、生産物を多様化することが是非とも必要だ。

だから、発展を目指すためには、少々無様で非効率的であっても、玄関マットやヤカンを生産するという段階に入らなくてはならないのである。しかしそれは簡単ではない。先進都市には普通にあるような環境(下請け工場など)は村にはないし、設備や材料も手に入らないことがある。だから、あり合わせのもので工夫して製造していく必要がある。そういう即興的な工夫を、著者は「インプロヴィゼーション」と呼ぶ。

玄関マットやヤカンを物財の乏しい村で生産するとなれば、都市で作られるようなおしゃれで機能的な商品ではなく、村に豊富にあるような材料を使うなどして、普通のそれとは違う特徴を持った商品になるに違いない。あり合わせのものでなんとかする工夫が新しい商品を生む。つまり、不利な中で生産することそのものが、事業家の創造力を惹起する

主流派経済学においても、経済成長の原動力は広い意味での「技術革新」にあるとされている。 「広い意味での」というのは、これまで縦に置いていたものを横に置く、というような工夫も含めて「技術革新」としているからである。経済学では経済の生産性のうち、資本と労働の生産性に帰すことが出来ない部分をひっくるめて「全要素生産性(TFP)」と呼んでいて、経済成長のためには(資本と労働の生産性はほとんど前提条件的で、かつ相補的な動きをするため)この全要素生産性を高めることが要諦なのだ。

換言すれば、経済成長というのは、大小様々な「技術革新」の積み重ねによって達成できるのである。しかし問題が一つある。どうやったら技術革新が次々生まれるように出来るのか、その処方箋の全体像は解明されていないのだ。

その処方箋の一つは教育だと考えられている。高度な教育を受けた人材が多い経済は、そうでないところに比べ技術革新が起きやすいであろう。規制緩和も処方箋の一つである。

著者のいう「輸入置換」も、そういう処方箋の一つに位置づけられるのかもしれない。不利な中で財を自給することそのものが、「インプロヴィゼーション」すなわち創意工夫を呼び起こすからである。

もちろん、このことも額面通りには受け取れない。地方的都市で自給する商品は、都市で生産されているそれに比べ、性能が劣ったり、価格が高かったり、見た目がよくなかったりする。生産過程でいくらインプロヴィゼーションがあったとしても、結果として都市の作る製品に比べ、競争力が劣っていることがままある。ということで、いくら頑張って作っても、売れなかったら事業は続かない。流通が不完全だった50年前だったらどうかわからないが、クリック一つで大概のものが買える現代においては、ここが大問題である。

この点に関して、著者は何も述べていない。試行錯誤がなければ成功はないのだから、ともかく試行錯誤が大事なのだ、ということなのかもしれない。しかし生産物を多様化するという目的を考えてみると、経済の自給率を高めるという「輸入置換」だけが発展の原動力でもなかろうと思う。

むしろ、最近の流行りで言えば、最初から販売ターゲットを都市にして、「都市住民に受ける商品」を開発する方が得になるのではなかろうか? ある種の農村にとっては、都市から安価で購入できるものを苦労して自給するより、都市に作れない、農村的な(しかもセンスがいい)ものを作る方が儲かるのは明らかだ。

これについても著者は何も述べていない。しかし、著者の論じる「地域」というのは、日本で言うと「鹿児島県」くらいのスコープを持つものである。確かに南さつま市くらいの狭い地域を考えると経済の自給率を高めるよりも、都会で売れる商品を作る方が経済発展に重要だ。だが鹿児島県全体で見た時、都会で売れるものだけを作っていては経済は発展しないだろう。

なぜなら、そういうやり方だけで発展が維持できるほど、鹿児島県は小さくないからである。そしてもっと重要なことに、巨大な需要を持った活気ある都市はほんの僅かしかないが、そこにものを売りたいという供給地域はものすごく多い。活気ある都市(たぶん日本では東京だろう)は、たくさんある供給地域からそれぞれ最良の商品だけを選ぶわけで、経済発展のフィールドがそれしかないとすれば、とんでもない競争になってしまい、そこに勝ち残るのはどの地域にとっても困難なことである。

だから、鹿児島県くらいのレベルで考えると、「輸入置換」は必要なのだ。つまり、(再三の説明にはなるが)経済が自給できるものを増やし、生産品を多様化させ、それによって人びとの創意工夫を呼び起こすことが重要なのである。そしてこの中で最も重要なことは、経済発展の根本には、「創意工夫」があるということである。ある意味ではその前段部分は「創意工夫」のためのお膳立てをしているに過ぎない。

翻って我々が考えなくてはならないのは、地方自治体や経済団体はその発展のために、どのような施策を行っているのだろうかということだ。人びとから創意工夫を引き出す取組をどれくらい行っているだろうか?

いや、地方に生きる我々一人ひとりが、「創造的な環境」を創り出す努力をしているだろうか? ということも考えなくてはならないのかもしれない。

(つづく)

2014年10月12日日曜日

「海の見える美術館で珈琲を飲む会」チラシできました!

先日お知らせした「コーヒーを飲む会」の続報。

イベントのチラシを作成したのでここで発表します!
http://nansatz.html.xdomain.jp//archive/museum-cafe-kasasa.pdf
(内容は下の画像と同じもの)

決定事項としては、
  • イベント名称を「海の見える美術館で珈琲を飲む会」に決定(長いですが)。
  • 入館料を200円徴収することに(なにしろコーヒーが無料なので)。
  • 「ダイビングステーション 海来館」さんの協力を得た写真展「生命あふれる 南さつまの海!」を同時開催。
というところ。

ちなみに、本日(10月12日)MBCラジオでやっている「じゃっど! すっど! きばっど! 南さつま!」(”!”マークが多い…)という番組に出演させてもらい、元々の目的である大浦まつり(10月19日)の広報のついでに本イベントもお知らせしたのだが、なんと日程を「12月23日」と間違って告知してしまった模様…。正しくは11月23日(勤労感謝の日)です。

Facebookでも「海の見える美術館で珈琲を飲む会」イベントページを作成しているので、Facebookを利用される方は「参加」ボタンを押していただければ幸甚です。



2014年10月8日水曜日

人と人との新しいつながりを増やす、素朴なアイデア

以前、かなり否定的な紹介をした「百寿委員会」の続報である。

細かいことはともかく、今どんな検討をしているのかというと、WG毎にいくつかやることを決めて、それの具体的な計画を作っているところである。例えば、ラジオ体操をもっと広めようとか、人材バンクを作ろうとか(活躍の場を増やす)、マップづくりをしよう(交流のきっかけにする)といったことを検討している。

私の所属するWGは、健康づくりのための活動というよりは、その前段階となる、人と人とのつながりに関わる活動がメインターゲットである。

人と人とのつながりというと、交流の機会を設けることが必要となるが、既に自治会単位、校区単位で老人会的なサロンのようなものは行われているわけで、そういったものを活かしていこう、というのが基本的な方向性になる。

本委員会の性格を考えると、それは妥当な方向性だと思う。でも私は、自治会単位とか校区単位でない交流の方が自由で好きだし、それに趣味の集まりのような交流と同じくらい、経済活動の一環としての交流も重要だと思っている。つまり、ものを売ったり買ったりすることも交流の一種なのだから、「非営利的な交流」だけを考える必要もないと思う。

それで、私自身、今「笠沙美術館でコーヒーを飲む会」というイベントを計画していて我田引水ではあるのだが、「イベントの中身は問わないで、○○人以上の人が集まるようなイベントには一律5000円くらいの補助金を出すのはどうだろう?」と提案してみた。この提案は「それもいいかもね」程度で流れてしまったのだけど(そもそも役所の予算を審議する委員会ではないし)、改めて考えてみてグッドアイデアな気がするので備忘のために書き留めておく。

言い添えておくと、南さつま市には「市民活動応援事業」というものがあって、イベントの開催などに補助が出る。NPO等が使える30万円までの事業(補助率1/2)と、5人以上の団体が使える10万円(全額補助)の2種類のメニューがあり、それなりにいい事業だと思う。

でもこの「市民活動応援事業」は年度初めに申請しなくてはならないので、年度の途中で企画されたイベントには使えない。それに、小規模のイベントを行う場合にはちょっと敷居が高い。そこで、年度途中でもいつでも申請できる代わり補助金額は5000円で一律にしたメニューを作ってはどうかというわけだ。

「イベントの中身は問わないで」といっても、スーパーの特売がイベントに当たるかというとそれはないと思うし、営利的な交流がOKといってもやはり普段の販売と違う要素がないとだめだとは思う。でも逆に、普段の販売と違う要素さえあれば、お店で行うイベントだって対象にしてかまわない。経済活動が盛んになり、交流も盛んになれば一石二鳥だ。

ちなみに「コーヒーを飲む会」は今のところ収支はトントンか赤字の見込み(!)であるが、赤字ではイベントは続けられない。やはり僅かでも収益があってこそ継続性が見込めるわけで、そこに5000円でも補助があったらものすごく嬉しいというのが実感である。こういうことを言うと、随分小さな金額の話でしみったれてるなあと思うかもしれない。でもそういう草の根の小さな交流の機会がたくさん増えたら、新しい活動のきっかけも増えるし、新しい友人も増える。ひいては街の活性化に繋がる。5000円の補助を100件のイベントが受けてもたったの50万円。

街の予算を50万円使うだけで、人と人が出会う機会が100回も増えたら、ステキなことではないか? もちろん、こういう制度があったらそれを悪用(?)する人もいるだろう。不特定多数が来るのではない、内輪の集まり(何かの定例会とか)をそれらしく見せて申請したりする人もいるかもしれない。でもそういう事例がいくつか出てきたら、事後の監査をしっかりとして制度を改善していけばいいだけの話である。

「百寿委員会」ではこのアイデアはあえなくボツになったようだが、また機会あるときに役所の人に提案してみたい。

2014年9月26日金曜日

「ぬいぐるみツアー」、やってみたら意外と大変でした

知ってる人は知っている「ぬいぐるみツアー」こと「ぬいぐるみで行く 南薩 民泊ぷちツアー」。先ほど、お店のブログの方にレポートの最終回をアップして、全ての作業が終了し、ホッとしているところである。

この「ぬいぐるみツアー」、ぬいぐるみをいろんなところに連れて行って写真を撮るのがメインの作業だから、最初はさほど大変ではないと思っていた。人間の観光と違ってトイレは気になくていいし、予定のズレもさほど問題にならない、はずだった。ところがそういう見込みは大間違いで、実際はなかなかハードな仕事だった…。

というのも、人間と違って「そのあたりに並んでくださーい、記念写真を撮りますから」と言って並んでくれるわけではない。いちいち自分で並べて撮らないといけないし、1匹ずつ撮る場合はなおさら手間がかかる。特に位置の微調整は面倒だ。

さらには(これは事前にわかっていたことだが)ピントを合わすのが難しい! 人の記念写真の場合、カメラから人までの距離が5mくらいあって、1kmくらい先に風景があるという感じだと、人と背景の距離の差は200倍で随分あるようだが、これはカメラの方で十分対応できるらしい。これが、ぬいぐるみのようにカメラからの距離50cmくらいのものを風景と一緒に写そうとすると、風景かぬいぐるみのどちらかにしかピントが合わない!(あくまでも私の安物のカメラの場合ですが)

なので、望遠レンズを使って、カメラからぬいぐるみまでの距離を2mくらいまで延ばして撮ってみたが、それでもやはり風景とぬいぐるみの両方にばっちりピントが合うということはなかった…。F値やらシャッタースピードやらを調整すればピントが合ったのかもしれないが、結局そのあたりを追求する余裕もなかった。なにしろ、ぬいぐるみツアーの最中は、運転手 兼 添乗員 兼 カメラマン 兼 雑用係だったので…。

そしてそれ以上に苦労したのは、天候に恵まれなかったことである。人間のツアーだと日程が決まっているわけで天候が悪かったらしょうがないね、で済んだことだが、ぬいぐるみの場合そうはいかない。できれば天気のよいときの写真を撮ってあげたいという気持ちもあったし、そもそもぬいぐるみが雨で濡れてはいけないので雨天の撮影ができない。

そういうわけで、ツアー自体も苦労したし、こちらは想定内とはいえ終わってからの写真の整理もかなり手間がかかった(全部一緒ではなくぬいぐるみ別にアルバムを作ったので)。そして、お土産を贅沢につけすぎたことやプリンタインクを思った以上に消費したために正直言うとほぼ利益もなかった

でも元々利益を目的に企画したものではなかったし、前向きに考えると損もしなかったのでよしとしなくてはならない。 じゃあ目的はなんだったのか? 目的は、究極的には「南薩のファンを増やす」ことだ(ったはずです、たぶん…)。終了後のアンケートによれば、ぬいぐるみのご家族のみなさんにはかなりご満足いただき、南薩に自分でも行ってみたい、と思った人が多かったようなので、この点は素直によかったと思う。

この手間のかかる「ぬいぐるみツアー」をまたやるかどうかは未定である。でもあと2回(冬に1回、夏に1回)くらいはやってみて、さらに可能性があるのか試してみたいとは思っている。でもその際は、ちょっとでも利益が出るようにしないと後が続かないので、また内容をブラッシュアップさせていきたい。

最後に、参加された皆様、そしてご協力いただいた皆様(特に秋目で船に乗せてくれた上塘さん!)、ありがとうございました。大変でしたが結構楽しかったです。

2014年9月17日水曜日

「みんなの南薩案内。」で南薩の写真や地域情報を待っています。


以前ブログ記事で予告していた、「南薩の写真をシェアするサイト」を晴れて立ち上げた。名前は「みんなの南薩案内。」。

このタイトルは、随分前に紹介した岡本 仁さんの『ぼくの鹿児島案内。』にあやかっている。南薩の、普段何気なく見ている景色や場所が、視点を変えるとまた違った魅力が見つかる場になったらいいなあ、というわけで勝手にあやからせてもらった。

以前の記事中で書いた通り、これは南薩の素晴らしい風景写真をシェアするためのものでもあり、また、イベントやお祭りなどの地域情報をシェアするためのものでもある。

ところが少し問題があって、 実は利用しているサービスの「つなぐらふ」は、どうしたわけかURL(リンク)のシェア機能がない。写真の投稿時にはコメント欄があるのだが、ここにURLつきの文章を投稿しても、URLが勝手に削除されて投稿されてしまうのである。

「つなぐらふ」は、観光マップづくりを売りにしているわけだから、URLのシェア機能は大変重要だと思うのだが、どうしてこのような仕様になっているのか不可思議だ。今後、<a>タグを使ったURLは表示するような変更をする予定とのことであるが、普通の人はタグを使うことはできないので、プレーンテキストでよいのでURLをシェアする改良が待たれる。

そういうわけで、イベントやお祭りなどの地域情報のシェアをするには正直少し不便である。それに、全体的なユーザーインターフェイス(要は使い勝手)もベストではない。でもこういうのは、とりあえず作ってみて、いろいろな人の意見や知恵をもらってまた別の形で作ってもよいのだから、オープンしてみることにした。

南薩にお住まいの方、南薩に来られた方など、素晴らしい写真や情報をお持ちの方は是非投稿してくだされば幸いです。投稿してみての感想なども本ブログのコメント欄にてお伝えいただければ更にありがたいです。ここがささやかな南薩の情報サイトにもなったらいいなと思っていますのでよろしくお願いいたします。

2014年7月26日土曜日

もうすぐ新しいプロジェクト(WEBサイト)をローンチします

ここのところブログの更新がやや滞っていたが、その原因の一つは新しいプロジェクトの始動のために少し準備作業をしていたということがある。

そのプロジェクトは簡単に言うと、「南薩の写真をシェアするサイトを作る」ということである。 といっても、サイト自体は「つなぐらふ」というアルバム作成サービスを利用するので手間はかからない。時間がかかるのは、コンセプトとかデザインの検討である。

このプロジェクトのそもそもの出発点は、「南さつま海道八景」を始めとして、南薩の絶景ポイントで観光客がたくさん写真を撮っていくのに、それがほとんど表に出てこないのは残念だ、という思いから始まっている。私的に撮った写真が表に出てこないのは当然だが、せっかくいい写真を撮っているのにそれが個人のアルバムの中に埋もれるのはもったいない。だったら、そういう写真をシェアできるサイトがあったらいいのではないか?

また、地元にも写真を趣味としている方がたくさんいて、Facebookなどでは素晴らしい景観の写真がシェアされているのだが、これも結局はFacebook友達の中だけで見られるものだから、まだ南薩の風景を知らない人には届かない。

この南薩地域の魅力はまずは風景にあると思うので、それを多くの人に分かってもらうことは、 その他の魅力を知ってもらう入り口にもなるし、南薩の写真共有サイトは一種の観光ガイドとしても機能できる。

でもそういう風に考えると、観光協会がやっている「いろは南さつま」のようなWEBサイトとあまり変わらないものになってくる。それに、「こんなすごい写真が撮れました!」という写真自慢のためのサイトになってしまったら、何か内向きな感じがしてしまう。もちろん盛り上がりにも欠けるだろう。

そういうわけで、当初のコンセプトは活かしつつ、もっと地元の人にも意味のある情報が載っていて、オープンな感じのするサイトにしたいと数週間悩んでいた。家内といろいろディスカッションする中で、この数日でなんとなく目指す姿が見えてきたので、近日中にローンチ(立ち上げ)したい。

ちなみに、先走って目指す姿を少しだけ明かすと、写真好きなおじさんよりも地元の若い女性に活用してもらいたいと思っている。自分は完全に「おじさん」に属するので、私のセンスでそういうことが可能かどうか分からないが、ともかく「目指す」ところはそこなのである。

2014年6月20日金曜日

「共生・協働のむらづくり」に取り組むなら

我が久保集落が、「共生・協働のむらづくり活性化事業」なるものに取り組むこととなった。これは鹿児島県の補助事業で、要は地域の活性化を図るものだ。

私も最初は事情をよくわかっておらず、「むらおこしに取り組めということなんだろう」と思っていたのだが、県のWEBサイトで事業目的など読んでみるとどうも少し違う。

そもそも「むらおこし」ではなくて「むらづくり」なのがポイントだ。「むら(集落・共同体)」は既に存在しているわけだが、それをさらに「むらづくり」するとはどういうことか?

実はこの事業は、ただのむらづくりではなくて、「共生・協働のむら」というものをつくろうとするものらしい(つまり、「共生・協働の/むらづくり」ではなくて「共生・協働のむら/づくり」と読むのが正解だ)。で、「共生・協働のむら」とは何か? というと、私なりの理解では、行政だけに頼らずに、そのむらに関わるいろいろな組織や個人が役割分担をして集落機能を維持していく共同体、のことである。

「いや、それこそ集落そのものであって、むしろ「共生・協働のむら」でない集落って一体?」という声が聞こえてきそうだが、私も正直、この「共生・協働のむら」の概念がよく分からない。だが、県の意図としては、「今後、全てを行政のみで提供していくのは限界になるので、官民協働で地域に必要なサービスを提供していく”新しい仕組み”が必要です」ということがあるらしく、”新しい仕組み”がなんであるかはひとまず措くとして、それは一般論としては理解できる。つまりは、低下した自治意識・機能をもう一度強化しましょう、ということのようだ。

そういう目的の事業であるから、「集落の抱える課題を行政まかせにするのではなくて集落民自身(やその協力者)によって解決しよう!」というのが具体的な実施内容になる。これまでの活動事例集を見てみると、活動はだいたい次のようにまとめられる。
  • 文化・伝統の継承
    • 伝統行事・文化の継承と活性化
    • 史跡や文化遺産の再認識やパンフレット・看板の作成
  • 農業の振興
    • 直売所の設置や売り上げの向上
    • 農産加工品の開発と販売、新たな特産品の栽培
    • 集落営農(営農組織の立ち上げ、拠点となる機械置き場や堆肥置き場づくり、耕作放棄地の解消)
  • 地域内・地域外交流
    • 地域の異世代交流(餅つき大会、伝統行事など)
    • 花を植える、文化財を清掃するなどの美化活動
    • 都市住民との交流(農家民宿、ほたる観察会、農業体験、田んぼのオーナー制)
こうした活動は、直接には「自治意識の向上」を目的としてはいないが、集落の人々が共に取り組むことによって、結果的に自治会活動が盛り上がったり、地域の連帯感が強まったりという効果があり、それで「共生・協働のむら」づくりに寄与するということのようだ。

これらは、参加してそれなりに楽しめるものが多いし、必要性の高いものだったりするので、よい取り組みだとは思う。だが、本事業の目的が自治意識とその体制を変えていこうとするものならば、それと合わせて、別の方向性もあってよいのではないか。

例えば、過疎地の農村では、「自治意識の低下」がないとはいはないが、少なくとも都市部よりは昔からの自治組織が残っていることが多い。自治公民館を中心として、青年団とか、婦人会、子供会、老人クラブというのも一種の自治組織と見なせるだろう。

こうした組織の活動は、ややもすれば惰性的になり、慣習的な運営となりがちである。特に、集落の人口減と高齢化によって従前の活動を続けていくことが困難になっているにも関わらず、なかなか体制を変えていくことができない場合が多いのではないかと思われる。

久保集落の場合は、こうした自治組織はかなり整理されてきているようだが、もう少し改善する余地があるかもしれない。「低下した自治意識・機能をもう一度強化しましょう」というお題目とは逆行するが、自治会活動への負担を減らすということだって考えられるのである。

とはいっても、今まであったものを急になくすというのは難しいことで、やはりスクラップ&ビルドで、新しいもので置き換えていく必要がある。例えば、何らかの収益事業を行ってその収益で穴埋めをする、といった工夫がいるので、それはそれで骨の折れることだ。そういう骨の折れることを、この「共生・協働のむらづくり活性化事業」でできたらいい。例えば「イワダレソウ」という草払いの労力が減る被覆植物を公民館の法面に植える案が出ているが、そういうやり方もよいと思う。

これから、「何に取り組むか検討していきましょう」という議論をやっていくが、せっかくの機会なので、むらおこし的なものだけでなくて、集落活動の見直しやその前段階として「見える化」のようなこともできたら面白いかもしれない。