2021年11月30日火曜日

字堂覚卍は茶をもたらしたか——宝福寺の歴史と茶栽培(その2)

前回からの続き)

宝福寺ではいつ頃、どのようにして茶の栽培が始まったのだろうか。

それを示す直接的な史料は今のところ見出すことができないため、いくつかあり得そうな道筋を考察してみたい。まずは、宝福寺の開基である字堂覚卍(じどう・かくまん)について考えてみる。

字堂覚卍については、『三国名勝図会』(巻之十一)の樋脇の「永禎山玄豊寺」の項に詳細な伝記(以下「覚卍伝」という)が掲載されている。『川邊名勝誌』、『本朝高僧伝』、『延宝伝灯録』にも覚卍の伝記が掲載されているが、これらは全て「覚卍伝」に基づいているようだ。

以下、「覚卍伝」に従って字堂覚卍の生涯を簡単に紹介する(なお「覚卍伝」は、貞享三年(1686)に玄豊寺に建立された石碑に刻まれているもので、覚卍死後約250年を経たものであるから伝説的な要素を割り引いて考える必要がある)。

字堂覚卍は鹿児島に生まれ、幼い頃から大変な俊英だったらしく、京都の南禅寺(臨済宗)で椿庭海寿(ちんてい・かいじゅ)に二十余年学び、応永9年(1402)帰郷した。覚卍は「日置郡藤氏」の家系らしいがその父母の名は明らかでない。家格的な後ろ盾がないにもかかわらず臨済宗における最高の寺である南禅寺(五山十刹制度における「五山之上」。足利義満以前は「五山第一」)に入ったということは、覚卍その人の力量が抜きんでたものだったのだろう。

ところが、帰郷した覚卍はエリートコースを捨てる。臨済宗の教えは覚卍を満足させることはできなかった。覚卍は「破鞋(はあい)庵」—破れわらじ—という庵を結んで世捨て人同然の暮らしをした。その時の偈にはこうある。「人有り、若し意の何如んと問えば、推し出す秦時の轆轢鑽(たくらくさん)。」これは、「どうしてあなたほどの人がそんなところにいるんですか? と問う人がいたら、無用の長物が押し出されただけだよと答えよう」というような意味である(秦時の轆轢鑽=役に立たない品を意味する禅語)。「破鞋庵」の楣(まぐさ)(出入り口の上部に取り付けた横木)にも、「秦鑽」(「秦時の轆轢鑽」を約めた言葉)と書いていた。南禅寺で二十余年修行して禅を究めたはずの覚卍は、自分を役立たずだと言っていたのである。この偈を不審に思った竹居正猷(ちくご・しょうゆう)(妙円寺・福昌寺第二世)がその意を尋ねたところ、覚卍は「私は道を理解せず、禅を理解せず、いたずらに“馬の角と亀の毛”(=存在しないものの譬え)を論じるだけの人間になってしまった」と答えたという。この頃の覚卍は生きる道を見失い、自嘲気味になっていたようである。

その後、覚卍は樋脇に移り玄豊寺を開く。なぜ世捨て人となった覚卍が寺を開基したのかは詳らかでない。その後、覚卍の人生は再び動き出す。加賀(石川県)の瑞川寺(曹洞宗)に行き竹窓智厳(ちくそう・ちごん)に学んだのである。南禅寺で臨済禅を学び、かえって道を見失った覚卍は、今度は曹洞禅を学んだ。同じ禅宗でも臨済宗は体制派的であり、曹洞宗は在野的である。この転宗によって覚卍は何かを摑んだように見える。そして応永21年(1414)、竹窓智厳の法を嗣いで帰郷した。覚卍は58歳になっていた。

帰郷した覚卍は烏帽子岳に住んでまたしても世捨て人的な生活をし、毎夜漁り火が見えるのを嫌って、より山奥の川辺の熊ヶ嶽に移ってきた、熊ヶ嶽でも「寒暑を避けず、草を編み衣となし、飢えれば則ち菓蓏(から)(木の実と草の実)を食べる」という生活をしたが、通りがかった猟人藤田氏が覚卍の行いに感銘を受け、覚卍のために庵を建てたのが宝福寺の始まりとなった。『川邊名勝誌』では応永29年(1422)が開基の年ということになっている。

その後、覚卍の声望はつとに高まり、非常に多くの人が覚卍を慕ってやってきた。宝福寺には「琉球」「筑前」「豊後」と名付けられた谷(三渓)があって、そこにはそれぞれの出身者がまとまって住んでいたということである。福昌寺第三世住持の仲翁守邦(ちゅうおう・しゅほう)もその徳を聞いて話を聞きにやってきた。先ほどの竹居正猷もそうだが、仲翁守邦も当時の薩摩における曹洞宗の最高権威である。わざわざ覚卍の話を聞きに熊ヶ嶽までやってくるというのは、覚卍の声望が非常に高かったことを物語る。それに対し、覚卍は次の偈を以て応えた。

玉龍は奮迅として烟霞に出ず、下りて訪う南山の瞥(ママ)鼻蛇。
碧漢は霈然(はいぜん)として法雨を傾け、寒林枯木、盡(ことごと)く花開く

この偈は当時の覚卍の心境を伝える数少ないものであるから、少し意味を繙いてみたい。現代語に翻訳すれば次のようになる。「玉龍が勢いよく、もうもうとした霞の中から出てきて、天から下り“南山の鼈鼻蛇(べっびだ)”を訪ねてきました。天(碧漢)はざあざあと法の雨を降らし、冬枯れの寒林枯木が悉く花開いております。」

「玉龍」とは言うまでもなく玉龍山福昌寺の仲翁守邦のこと。「南山の鼈鼻蛇」とは、『碧巌録』第二十二則に出てくる言葉で、スッポンのように鼻がつぶれた毒蛇(コブラ?)のことらしい。「鼈鼻蛇」が何の比喩なのかはいろいろな考えがあるが、要するに自らの中にいる怪物、迷いに覆われた「真実の自己」、といったようなものであると考えられている。覚卍は自分を「南山の鼈鼻蛇」に譬えた。「この迷妄の怪物のところへ、よく訪ねてきてくださいました」というところか。かつて自分を「秦時の轆轢鑽」に譬えた覚卍は、今度は自分を「毒蛇」と言っているのである。そして次の行の「寒林枯木」も覚卍が自身を重ねた言葉かもしれない。「大自然の中で仏の慈悲に包まれ、“寒林枯木”にも花が咲きました」という。同じ無一物の世捨て人的な暮らしであっても、破鞋庵時代とはちょっと雰囲気が違う。かつての自嘲気味な態度は消えてなくなり、自分が「鼈鼻蛇」「寒林枯木」であることを楽しんでいる様子すら感じられる。

こうして覚卍は永享9年(1437)に81歳で死亡した。そこから逆算すると、覚卍の生没年は1358〜1437年ということになる。

なお、瑞川寺が開かれたのは応永20年(1413)であるが、覚卍が法を嗣いだ58歳の時は1414年頃だから、創建間もない瑞川寺に行って一年しか修行せず法を嗣いだということになる。南禅寺で二十数年修行したのに比べると随分短い修行期間のような気がする。

ちなみに、瑞川寺を開いたのは竹窓智厳の師匠にあたる了堂真覚(りょうどう・しんがく)であるが、『三国名勝図会』によれば、了堂真覚は市来氏に招かれ永和3年(1377)に市来の大里に萬年山金鐘寺(曹洞宗)を開基している。この金鐘寺は能登の総持寺の直末であったという。そして金鐘寺の二世となったのが竹窓智厳であり、加賀の瑞川寺はこの金鐘寺の末寺だったということである。なお宝福寺ははじめ瑞川寺の末寺であり、瑞川寺が破壊された後は金鐘寺の末寺となったという。

これらの事実関係は『三国名勝図会』以外の資料で跡づけることができないが、それを信頼するとすれば、覚卍は市来の金鐘寺で竹窓智厳や了堂真覚と出会い、臨済宗から曹洞宗に転宗して、瑞川寺の創建に伴って竹窓智厳と共に加賀へゆき、法を嗣いで帰郷したと考えるのが自然である。そうすれば瑞川寺での異常に短い修行期間も説明がつく。

また、了堂真覚と字堂覚卍という名前の類似を考えると、覚卍が禅への不信を乗り越え、再び禅の道に入ったきっかけはむしろ了堂真覚にあったように想像したくなる。「字堂」という法号は(ひょっとすると覚卍という諱も)了堂真覚によって与えられたものではないだろうか。覚卍は南禅寺時代と名前が変わっている可能性がある。

話がやや脇道に逸れたが、ともかく川辺の宝福寺を開基した字堂覚卍は、室町時代初期を生きた人物で、臨済宗から曹洞宗に転宗した僧侶、ということである。

覚卍が生きた時代、京都の寺院では闘茶といって茶の銘柄を当てる賭け事が流行していた。そしてこの頃、茶の栽培はほとんど寺院か寺院領の庄園で行われていたと考えられている。このことを踏まえると、覚卍は南禅寺時代に喫茶および茶栽培を知り、それを川辺の宝福寺にもたらしたと考えることはできないだろうか。

しかしそのようには考えられない理由がいくつかある。

第一に、その行状を見る限り、覚卍は賭け事の闘茶にうつつを抜かすような人物には思えないということである。南禅寺での修行を終えて破鞋庵を結んだ時も、川辺に来てからも、無一物を貫く清貧な暮らしをしており、むしろ闘茶のような遊興を嫌っていたと考えるのが自然だろう。

第二に、覚卍は徹底して「頭陀(ずだ)行(=托鉢行)」を実践しており、茶であれほかの農産物であれ、自ら生産などを行うことは考えられないということだ。「覚卍伝」によれば、八代当主島津久豊とその子忠国は覚卍に帰依し、宝福寺に「腴田(ひでん)(肥沃な田)を寄進したい」と申し出たものの、覚卍はこれを固辞し、「仏勅に遵い、頭陀を行う、以て其の身を終えん」と答えたそうである。そしてそれは覚卍のみならず、宝福寺の寺衆は皆それに倣っているということだ。中世においては、寺は寺地や庄園を持って生産活動を行い、一般よりも進んだ経済を営んでいたのであるが、宝福寺ではそのような生産活動は一切否定され、無一物を理想とする仏道修行が行われていた。それを考えると、嗜好品である茶の栽培を手がけるということは覚卍にはありえそうもないことだ。

そして第三に、もし覚卍が茶栽培をもたらしたとすれば、「覚卍伝」にそのことが書いていないのは不自然だということである。「覚卍伝」には多分に伝説的な事項を含めその生涯が述べられている。仮に覚卍が茶の栽培をもたらしていないとしても、そうした伝説を覚卍に付託してもおかしくないほどである。そう考えると、宝福寺での茶栽培は「覚卍伝」の撰述(=1686)の近過去に始まったことと認識されていて、とても覚卍まで遡らせることはできなかったのではないだろうか。

以上をまとめると、覚卍が宝福寺に茶栽培をもたらした可能性はほとんどないと結論づけることができる。

(つづく)

【参考文献】
伊吹敦『禅の歴史』
※冒頭の法統系図は『禅の歴史』所収の系図より抜粋し、覚卍関係を著者が追記して作成しました。

2021年11月26日金曜日

宝福寺での茶栽培の記録——宝福寺の歴史と茶栽培(その1)

南九州市川辺町清水には、かつて忠徳山宝福寺(曹洞宗)という寺があった。

宝福寺は「山ん寺」として知られた大きな寺院で、往時はお茶が栽培されていたという。その廃寺跡(今寺跡)には、その頃の名残と見られるチャノキが今でも自生しており、このチャノキは中国から渡ってきた原種の形質を保っていると言われている。しかしながら、宝福寺での茶の生産は記録が残っていないためよくわからないことが多い。そこで、既出の情報を整理し、宝福寺の歴史を振り返ってその茶生産がどのように始まったのかを推測してみたい。

まず、藩政時代(またはそれ以前)に宝福寺で茶栽培がされていたことを示す一次史料を見つけることはできなかった。編纂ものとしても、例えば江戸時代後期に編纂された『三国名勝図会』には宝福寺の項目があるが、茶が栽培されていたとは一言も書いていない。その記載の出典である『川邊名勝誌』も同様である。宝福寺跡にチャノキが自生している以上、かつての宝福寺で茶が栽培されていたことは確実と思われるが、名勝誌等になぜ記載がないのかは謎である。

次の二つの史料は、近現代の編纂ものだが宝福寺(または川辺)での茶の生産・流通について触れている。なお文章番号は便宜的につけた(以後同じ)。

【史料一】『川邊村郷土誌』
(一)「延享年間(二四〇四※)煎茶蒸茶各々少し宛(ずつ)江戸御用として買入度に付風味茶として差出べき様寶福寺に申付けらる」
(二)「寛政九年(二四五七)二月十五日茶園仕立方被仰渡候に付苗木二千三百八十株を新に植附其旨届出たり」
(三)「文久三年(二五二二)正月町名子源右衛門の子與八へ茶、卵一手買ひ纏め方差許され錢四十二貫文宛上納することを許可せらる」
(※原文ママ。皇紀による換算。以下同様。西暦換算では、延享年間=1744〜47年、寛政九年=1797年、文久三年=1863年。)
【史料二】『川辺町郷土誌』
(一)「熊ヶ岳の宝福寺では茶を毎年藩に上納して銭一貫文ずつを賜ったという」

これらの記載は、郷土誌編纂の際に何かの史料から抜き出したものと考えられるが、その原典を探し出すことが出来なかった。『旧記雑録』ではないかと考え、該当の年代を一ページずつめくりながら確認してみたがこれらの記事は存在していないようだ。原典史料をご存じの方は御高教いただけると有り難い。

原典史料が不明であるため、本来はこれらの記述はいくらか留保して考えなければならない。正確に原典を転記していないかもしれないし、原典史料の信頼性が低いかもしれない。しかし郷土誌編纂時には多くの人がチェックしたはずであり、ある程度確かなものとみなせると思う。

またこの他、【史料二】には、直接宝福寺に言及したものではないが次の記述がある。

【史料二】『川辺町郷土誌』
(二)「万治元年(一六五八)の検地では、田部田村に茶一斤二百三十匁が記録され、享保九年(一七二四)の内検では両添村に茶九十匁を生産したことになっている」
これらの記述から宝福寺での茶栽培について読み取れることを少し考えてみたい。

まず【史料一】(一)では、延享年間(1744〜47)に「煎茶蒸茶」を「江戸御用」として買い上げたいので「風味茶」を宝福寺に差し出すよう申しつけている。「江戸御用」が、江戸の藩邸における藩主の「御用茶」なのか、将軍に献上する「将軍家御用茶」なのか判然としないが、いずれにしても最高級品の茶が求められることは間違いない。当時の宝福寺では、薩摩藩内において最高級品の茶が生産されていたということになる。ちなみに、鹿児島県内で同じく茶が栽培されていた寺院として吉松の般若寺(真言宗)が知られている。『三国名勝図会』の「吉松」の項(巻之四十一)には次の記載がある。

【史料三】『三国名勝図会』(巻之四十一)
(一)[物産]「茶 當郷諸村の内に多く産す、名品種々あり、本藩の内、茶の名品は吉松、都城、阿久根を以て、上品とす、其の内にても吉松の産は、往古より特に久しく名品を出す、凡そ當郷の地は、茶性に相愜(かな)ひ、茶種を蒔ざれども、山林の間、天然に生じ易し、その名産ある推て知るべし」
(二)[般若寺]「茶園 當寺の境内に多し、名品にして、世に是を賞美す、名を朝日の森と呼へり」

『三国名勝図会』編纂の時点(天保期(1831〜45))では、既に宝福寺の茶は名品ではなくなっていたということなのか、または地域の特産品と呼べるものではなかったからなのか、宝福寺の茶についてはこの記事では触れていない。

なお【史料一】(一)の「煎茶」と「蒸茶」の違いはよくわからないが、少なくともこの頃の宝福寺のお茶は抹茶ではなかったようである(全国的な趨勢としても江戸時代には煎茶が一般的になっていた)。

次に【史料一】(二)を見ると、寛政九年(1797)に茶園の仕立て方について藩から申し渡しがあり、苗木2380株を新に植え付けた旨を届け出ている。これは宝福寺の茶栽培が実質的には藩の支配下にあることを示している。実際、それから数年後の文化期(1804〜18)には、薩摩藩は茶を藩の専売事業に位置づけ、この頃から藩の強力な奨励がなされている。しかしながらこれは逆にいえば自由な取引を禁じることでもあったので、あまりうまくいかなかったと言われている(以上『鹿児島県茶業史』による)。

また茶の苗木を2380株植え付けたということについては、当時は今のような密植が行われることはなかったと考えられるし、現代の茶園の標準的な植え付け本数が反当たり1500〜2000株であることを踏まえると、2反(20a)ほども増産したように見受けられる。機械化が進んだ現代ではこの程度の増産は容易だが、当時は全てが手作業であるためかなり力を入れた新植だったと思われる。

次に【史料一】(三)では、文久三年(1863)に町人と見られる与八が茶・卵の「一手買い」、つまり独占的な買い占めの権利を得て、その許可料が年銭42貫文だったとしている。これは宝福寺の茶とは書いていないので、ここで与八が「一手買い」を許された茶がどこで生産されたものだったのかは明確ではない。しかしながら、薩摩藩では茶を専売品にする以前から、茶には高額な税金がかけられていたので、民間の換金作物としてはあまり生産されていなかったと考えられる。また薩摩藩では、この記事の三年前である万延元年(1860)に茶の専売制度を解いて自由販売品にしている(『鹿児島県茶業史』)。そうした状況証拠からすれば、この記事は町人の与八が宝福寺の茶の卸売りの権利を得たというように読めると思う。

ところで【史料二】(一)では、年代不明ながら宝福寺では毎年藩に茶を上納し「銭一貫文」を賜ったというが、銭一貫文とは銭貨1000文のことで、現代の貨幣価値にするとだいたい1万円強になる。江戸時代のどのあたりを換算の基準にするかにより上下するるにしても、たいした金額ではない。文久三年(1863)に与八が茶の一手買いの権利を年額42貫文で手に入れたのを見ても、藩から下賜される金額としてはいかにも小さい。これは史料の誤記ではないかと考えられる。

最後に【史料二】(二)では、これらの資料中で最も古い年代である万治元年(1658)に、田部田村では茶が一斤230匁=約1.5kgが生産されていたと述べている。田部田村の検地結果であり宝福寺の茶生産ではないが、近世以前において茶の栽培が寺院を中心に行われていたことを考えると、宝福寺での茶栽培はこれに先駆けることは間違いないように思われる。

これまでの史料をまとめると次のように言うことができる。即ち「宝福寺の茶は少なくとも江戸時代の初期には栽培されており、江戸時代半ばには藩内における最高級品であった。しかしやがて『三国名勝図会』等でも特筆されるものではなくなっていき、十八世紀末には藩の強い統制を受けて増産するものの、やがて販売自由化された」ということになろう。そして明治初期の廃仏毀釈によって宝福寺が廃寺になることによって茶栽培も終了したのである。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島県茶業史』1986年、鹿児島県茶業振興連絡協議会編

 ※冒頭写真は宝福寺跡に今も自生するチャノキ

2021年11月11日木曜日

南さつま市議選。政策を「選挙公報」から見る

南さつま市議会議員選挙が行われる。この過疎地大浦町でも、(意外にも)連日街宣車が走り回っている。

前回、前々回の市議選では、私は議会の一般質問の数から議員の働きぶりを見てみる、という記事を書いた。

【参考】
「立候補しなかった人」の責任 (2017年)
「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る (2013年)

しかし今回は有り難いことに約半数が新人の立候補である。これまでの議員の働きぶりを見るのにも意味はあるが、今回のように新人が多い場合には選挙への向き合い方としては偏っているので、今回は一般質問の数の分析は辞めることにする。

ところで、先日ある立候補者の方が、「市議選ももっと政策論をしなきゃならないのに、そういう話が全然無いのはよくないですよね〜」とぼやいていた。ところが、この人自身が街宣車での呼びかけばかりで、全然政策論を言わないので「そう思うならまず自分がしてくださいよ」と言ってしまった(笑)

でも、ここのような田舎町の市議選だと、実際ほとんど政策論など出てこない。まず市長の力が強大なので市議の力で実現できる政策があまりないということがあるし、選挙活動のメインが電話での投票依頼だから、ということもある。

そういうやり方がそれなりに働いていた時代はあったにしろ、「地方創生」が叫ばれている現在、市民→市議→市政というボトムアップ型のまちづくりが重要になってくると思う。となると、やはり市議の持っている政策的方向性はしっかり見た上で投票したい。

ところが先述のとおり選挙運動といえば「皆様お疲れさまです。○○をぜひよろしくお願いします。南さつま市のために頑張ります」みたいな街宣しかないので、どうも政策が分からない…と思っていたところ、「選挙公報があるじゃないか」ということに気づいた。

選挙公報には街宣車では言わない(正確には公選法の規定で「言えない」)いろんなことが書いてある。投票に当たってかなり参考になりそうだ。というわけで選挙公報から各候補の掲げる政策を全部抜き出そうとしたが、そうするとあまりに長くなるし、候補毎に記述のスタイルが違いすぎるので、思い切って次の方針でまとめてみることにした。

【方針1】選挙公報で最初に掲げている政策(以下「第一政策」という)を取り上げる
【方針2】スローガン的なもの(住みよい南さつま市へ! とか)や政治家としての理念は政策とみなさない
【方針3】図で表示されていてどれが第一政策なのか不明な場合、左上のものを便宜的にそれとみなす
【方針4】独断と偏見でコメントを付け加える

この方針の下でまとめたのが次の一覧である(届出順)。せっかくまとめたので、皆さんの投票行動に参考になれば幸いである。

坂本 あきひと

【第一政策】魅力ある街づくり
【コメント】そもそもこれが政策なのか迷った。ちなみに次は「スポーツを通した交流活動」だった。

山下 みたけ

【第一政策】ムダを徹底的に省き、行政改革を!
【コメント】これの具体策の一つとして「イベントなどの費用対効果の吟味を徹底」とある。砂の祭典について言っているのかもしれない。

松元 正明

【第一政策】(基本理念のみのため記載無し)
【コメント】基本理念の一番が「変えられないものは変えられないとして受け入れる心!」とあり、これが非常に独特。保守ということが言いたいのだろうか。しかし保守なら普通は「変えてはいけないものは変えない」となりそうなのにちょっと不思議だ。

きじま 修

【第一政策】交通弱者対策
【コメント】紙面では実際には理念の方がずっと大きく表示されていて、理念の1番は「変革する勇気」。松元氏と好対照。

清水 はるお

【第一政策】県内で一番高い介護保険料の引き下げを!
【コメント】これはずっと清水氏が主張してきたことである。ちなみに他の項目も非常に具体的な提案が多い(例:特老「和楽園」、坊津病院は公営で存続を)。個人的には「超大型洋上風力発電計画は中止」が好印象。

神浦 由美子

【第一政策】より子育てしやすいまちに!
【コメント】具体策の筆頭(と判断できる位置)に「男女共同参画の推進」とあるのがいい(全候補者中唯一)。なお政策ではないが、神浦氏は街宣車を使わずゴミ拾いしながら歩いて選挙活動をしているのがグッド。

竹内 ゆたか

【第一政策】高齢者や子供たちが住みやすい町にする
【コメント】具体策をみてみると、実際には高齢者向けが中心。ちなみに具体策の筆頭は「見守り活動」と「ゴミ収集支援」。

田中 ひろみ

【第一政策】安全で安心して暮らせます(仕事・防災・救急・福祉・教育)
【コメント】カッコ内筆頭に「仕事」とあるが、これは安全・安心とどう繋がっているのかよくわからない。ちなみにこの方は阿多自主防災組織会長・阿多消防協力会長らしく、防災には力を入れているようだ。

小園 ふじお

【第一政策】なにより、健全財政
【コメント】健全財政を強く訴えているのは小園氏のみ。そのうえ「なにより」とつけているのが特徴的。こういう方も議会には一人はいないといけないという感じがする。

おつじ さちお

【第一政策】子どもの見守り
【コメント】これに続いて「児童虐待、ネグレクト、いじめから子どもを守る環境を作っていきます」とあり、普通は「子育てしやすい環境づくり」とかなのに、厳しい境遇にある子どもを守ろうということを第一に掲げているのが目を引く。個人的な経験からきたものなのかもしれない。

すわ 昌一

【第一政策】(基本理念のみのため記載無し)
【コメント】「密を避けるためマイク要員をお願いしていません」等、コロナ禍対応の選挙活動をすると書いているのが特徴。

ひらがみ 純子

【第一政策】市民の感覚を忘れません
【コメント】これは「私の約束」とされておりこれが政策なのか微妙だが、2番目が「女性や弱者、少数派の意見を届けます」なので政策と判断した。「私の令和2年度の議員報酬は4,809,217円です。大切な市民の税金です。4年間の活動を審査してください」と書かれていたのがちゃんと「市民の感覚」を体現している。

神野 たかし

【第一政策】自然災害への防災予算を確保し、「事前防災対策」を
【コメント】2番目には「吹上浜沖洋上風力発電事業計画中止」が掲げられている。この方は当該事業への反対署名を集めた団体の事務局長を務めている。

石原 てつろう

【第一政策】第一次産業の育成を図ります
【コメント】ちなみにその具体策の一つは「特産物の販売促進に力を入れます」。全体的に非常にすっきりと重点政策がまとまっている見本のような選挙公報。

上野 あきら

【第一政策】農業を基本とした地域づくり
【コメント】候補者の本業は茶農家のようだ。「農業を基本とした地域づくり」が何を示しているのかいまいちわからないが、農家が中心になって地域おこしをしようということのように思われる。 

上村 研一

【第一政策】「コロナ災禍」分散型社会への転換時期
【コメント】全候補者中、おそらく最も文字数が多く、いろいろな分野のことが非常に短い言葉で書いてある。

大原 としひろ

【第一政策】子育て支援
【コメント】ただし政策列挙の前の文では「コロナ禍を乗り越えることが喫緊のテーマ」としており、何が第一政策なのか判断に迷った。

小薗 いくや

【第一政策】健康で安心できる暮らしの明日を考える
【コメント】「ふるさとの明日を考え、提案します」ということなので、政策というよりはこれからジックリ考えていきたいということなのかもしれない。

かとう あきら

【第一政策】より子育て世代にやさしい市へ
【コメント】全候補者中、唯一ちゃんとしたWEBサイトを開設していて、総花的であるが政策がしっかり掲載されている。職業が「冒険家」でぶっとんでいるのに内容は王道(笑)

くろせ 家盛

【第一政策】一次産業(農林水産業)の振興
【コメント】全候補者中、唯一の漁協関連の人。政策とは関係ないが、名前の「家盛」を何と読むのかわからない。名字じゃなくて名前の方をひらがなにすればよかったのにと思った。


以上、候補者20名の選挙公報を熟読した結果である。これまで選挙公報は「みんな似たようなことが書いてある」と思っていたが(いや、実際大同小異なのだが)、熟読してみると意外と個性が出ていて面白いと思った。みなさんにも選挙公報を熟読するのを勧めたいと思う。

なお、上記の一覧について、私が恣意的にまとめている部分があるんじゃないかと思った人もいるかもしれない。というわけで、検証のために選挙公報のコピーを掲載する(※順不同)。ただし公選法において、選挙公報をネットにアップすることの可否がよくわからなかった(そもそも想定されていないような感じ)。もしダメならご指摘いただければ幸いである。