2012年2月28日火曜日

元・画商の下津さんとNPO法人エコ・リンク・アソシエーション

縁あって、加世田を拠点とするNPO法人エコ・リンク・アソシエーション下津代表理事にお会いした。

エコ・リンク・アソシエーションは、地域興し活動でもある野外アート展「万之瀬川アートプロジェクト」の実施を発端として生まれ、環境を軸とした農山漁村の活性化や青少年育成事業等に取り組んでいる団体である。

恒常的な活動の中心は、中高生の民泊(民家への宿泊)のコーディネートと南九州市森林馬事公苑の運営(指定管理者)のようだ。特に、南薩地域から始まった民泊は、鹿児島県全土に対象範囲を拡大するということで、鹿児島県全体を見据えた活動に育ちつつある。

アートプロジェクトを契機として始まった活動をNPO法人として形にし、それを徐々に発展させていったということで、大変興味深い話が聞けた。

下津さんは、以前は画廊(!)をやっておられたということで、芸術への造詣が深いのであろう。作られた資料の数々が、どれもセンスよくまとめられており、田舎のNPOが作った資料という感じが全くしない。また、アートプロジェクトの内容は未詳であるが、自然豊かな環境を生かしてアート展をしようという構想自体が素敵である。

手前勝手であるが、アートに深い関心を持つ一人として、このような活動には、ぜひ何らかの形で関与したいなあと思った次第である。

また、下津さん自身も非常に魅力的な方なので、今後、NPOの活動に協力する中で、いろいろと勉強させていただきたいと思う。とりあえず、民泊の受入をやってみることにして、説明会に出てみることにした。

2012年2月27日月曜日

台木の勢いに負けているポンカン

現在お借りしている果樹園は、ポンカンとタンカン合わせて数十本が植わっているが、そのうち10本くらいは、ちょっと樹勢が弱い(=つまり元気がない)。

樹勢が弱い樹のほとんどは、いわゆる「台勝り」の状態にある。

「台勝り」というのは、写真のように、根元が盛り上がっているのでわかるのだが、一言で言えば、台木の樹勢に接ぎ木(穂木)が負けているのである。

柑橘類は一般的に接ぎ木で生育されている。つまり、根の方は地上部の木とは全く違う木(の根)になっていて、いわば2種類の木のキメラなのである。

接ぎ木する最も大きな目的は、収獲までの時間短縮である。「桃栗三年柿八年」という言葉があるように、一般に果樹は発芽から収穫までの時間が非常に長いのであるが、接ぎ木することによって早いものでは接ぎ木の翌年には収穫できるようになる。

他にも、接ぎ木は病害虫に強くなったり、痩せた土壌でも良果を収穫できたりするというメリットもあるが、デメリットもある。それは、別の樹種を人工的に繋ぎ合わせているため、樹種間の相性や樹勢の違いによって、地上部(穂木)と地下部(台木)のバランスが崩れやすくなることである。

「台勝り」とは、台木の樹勢が穂木の樹勢を上回っていることで、必要以上に根からの養分が吸収されることになる(と思う)。果樹は、「根から得た養分」と「葉で行う光合成による養分」の2つのバランスで実るものであるため、このバランスが崩れるのはマズイ。

しかし、よく分からないのは、台勝りが起こる原因である。(穂木の)樹勢が弱っているから台勝りになっているのか、それとも台勝りになっているから樹勢が弱っているのか、因果関係はどちらなのだろう。台勝りとは、穂木と台木の相性で起こると言われるが、相性だけの問題だけではなく、そこの環境(光量、気温、降水量など)にもよるのではないだろうか。

因果関係の方向が分からないということは、実際的な面だけで言えば、「うちのポンカン、台勝りになっているんだけど、どうすればいいんだろう?」というのが分からない。というわけで、もしいい方法をご存じの方がいたら教えて頂けたら有り難い。

【参考】キトロロギストXの記録
カンキツ研究者のブログですが、非常にためになります。以下の記事に接ぎ木のことが詳しく掲載されていました。
カンキツは接ぎ木が基本です

2012年2月26日日曜日

加世田にあるおしゃれなイタリアン「伊太利亜」

南さつま市加世田にある人気のイタリアン、「伊太利亜」へ行った。

「伊太利亜」は、いつもたくさんのお客さんで賑わっている人気店である。高い天井の洋風の建物は、とてもおしゃれで居心地がよく(正直、イタリア風なのかはよくわからないが…)、薪ストーブもサマになっている。

料理は、絶品! というわけではないけれど、セットメニューについてくるビュッフェが種類も豊富で気前がいいし、普通のビュッフェにはないドリアや自家製パンもあって、これだけでも来店する価値があると思う。もちろん、イタリアンのメニューは充実していて、店内の黒板にあるオススメはどれも食指が動くものだ。

また、ケーキのメニューが豊富で、今回は頼んでいないので伝聞だが、デザートも充実しているという。価格は、このあたりの相場としては安くはないが、都市部の基準からすればかなりリーズナブルである。

要は、手頃な価格で楽しめる、居心地のよいおしゃれなイタリアンなのだ。そういうわけで、店は連日女性客で賑わっている。田舎にはめずらしいおしゃれな店、なのかもしれないが、クオリティは決して都会の流行の店に引けを取らない。仮に、この店が東京にあったとしても、繁盛することは間違いないだろう。

特に女性にはオススメの店である。

ちなみに、セットメニューのドリンクで「ウインナコーヒー」が選択できるのが個人的にはかなり嬉しかった。

2012年2月25日土曜日

ポンカンの剪定をしています

本当はもっと早くに終えなければならないのだが、ポンカンの剪定をしている。

「なぜ切るのか、そのまま素直に伸ばしてやればいいではないか」と思うのが人情であろうが、剪定は非常に重要な仕事である。ポンカンに限らず、一般的に果樹は剪定を必要とし、それは施肥とともに最も重要な作業である。

剪定の第一目的は、樹を管理できる形に維持することにある。せっかく実が成っても、収獲できない高所にあっては意味がない。脚立で届く範囲に樹形を留めることは、商品として作物を作る場合には必須である。また、摘果の際のみならず、防虫剤等の散布においても、枝葉が高所まであれば散布が大変だし、また大量の薬品を必要とする。最低限の薬剤使用に留めるためにも、樹形を必要十分なものとすることは重要である。

第二の目的は、混みすぎた枝葉を空き、樹全体に光が当たるようにすることである。自然の木では、剪定されることがないにもかかわらず、効率的に日光を吸収する樹形になっているはずだが、なぜ栽培樹ではこのような作業が必要なのだろう。その最大の理由は、我々が収獲したい果実が、自然には存在しないほど大きく甘いものだからではないだろうか。つまり、自然状態では、小粒の数多くの果実を作るのに効率的な枝葉の構造となっているために、1つひとつの枝葉が必要とする光量が小さい。一方、大きく甘い果実を成らせるには、葉に多くの日光を必要とするために、枝葉を適当に除いてやるという行為が必要になってくる。また、原産地と栽培地の環境の違いというのもこの作業を必要とする理由の1つだと思う(ちなみに、ポンカンの原産地はインドである)。

第三の目的は、収穫量や樹勢の調整である。詳細は説明しないが、枝には役割分担があるので、それぞれの役割の数量バランスを変えることによって、いろいろな調整ができるのである。

剪定が必要な理由は上記のとおりだが、当然ながら剪定はしすぎるとよくない。なぜなら、果実は「根から得た養分」と「葉で行う光合成による養分」の2つのバランスで実るものだからである。剪定では、葉の数は減らせるが、根の方は不変なので、そのバランスが崩れてしまうのだ。だから、必要最低限の剪定に留めなくてはらない。剪定しすぎると、養分が樹の成長により使われることになるので、収穫量が減って樹が余計に成長することになる(この性質を利用して、ちょっと弱った樹などはたくさん剪定を行う)。

その、「必要最低限の剪定」というのがなかなか難しい。私の場合は、つい、切りすぎてしまう。樹形を整えることに気を取られているのかもしれない。 何度も遠くから樹形を見て、不要な枝はどれか、見極める。かっこよく言えば、「樹と対話する」。そのうちに、切りすぎてしまうのだ。対話がちゃんとできていないのだろう。

プロに言わせれば、剪定の作業にそんな時間をかけては商売にならない、という。私は、栽培初年度なので、熟練者の6倍くらい時間をかけてしまった…。来年からは、もっと効率化し、早く剪定できるようにならなければならない。しかし、粗雑になってしまわないように、今のうちから自戒しておこう。仮にも、命あるものの一部を切り捨てるのだから。

2012年2月24日金曜日

パワースポット金峰神社の奇木

鹿児島県の金峰山(きんぽうざん)の頂上付近に、金峰神社がある。

そして、境内には、大変不思議な木がある。社務所近くにあるその木は、根元付近で幹がぐるりと一回転している。

根元付近だけが非常に太く、大きく旋回してからは、太いけれども大木という感じではない木が普通に育っている。

残念ながら樹種は不明。どうしてこのように旋回して育ったのだろう。この異形からは、途中の様相が全く想像できない。

金峰山は、いわゆるパワースポットというものなわけだが、このような奇木も、神秘的な力でこうなったのだ、と思いたくなってしまう。

なお、金峰神社の境内には、他にも変な形の大木がたくさんあるのだが、一番の奇木といえば、この木だと思う。

ちなみに、金峰山というのは日本全国にある修験道の霊山であるが、鹿児島の金峰山も面白い歴史があるようなので、いずれ調べてみたい。

2012年2月22日水曜日

残してきた謎~蒲生町めぐり(その9)

約1ヶ月弱に及んだ蒲生町への滞在も遂に終わりとなった。

いろいろ見て回ったことについて、つい冗漫な文章を書いてしまったが、書き漏らしたことも多い。記事にできなかった点について、備忘として書いておきたい。

まず、「武家門」である。蒲生町は、「日本一の巨樹 蒲生の大クスと武家門の町」ということで武家門の存在を誇りとしているのであるが、私に藩政時代の建築の知識がないことで、どうもこれがよくわからない。「随分立派な門だなあ」という小学生レベルの感想しか湧かないのである。

この町にある門が、特殊なものなのか、それともありふれたものなおかすらわからない。石高によって形式が決まっていたそうだが、門の形式についても全くわからない。そういうわけで、記事にすることが出来なかった。

武士は、なぜこんな立派な門を作らなければならなかったのだろう。権威だ、見栄だ、といえばそれまでであるが、本当にそうなのだろうか? こんな基本的な疑問をも解決できずに時が過ぎてしまった。

次に、蒲生八幡神社に所蔵されている、多数の銅鏡と王面(おうめん)である。蒲生八幡神社には、百枚以上の銅鏡が奉納されているが、なぜ、銅鏡が神社に奉納されたのだろう? 何かの祈願だったのだと思うが、銅鏡を奉納することはかつて一般的だったのだろうか? そういった知識がなく、多数の銅鏡がここに存在している理由も意味もよくわからなかった。

また、王面は、もっと謎である。王面とは、伎楽面に似た大ぶりの面だが、何に使われたのか、そして蒲生八幡神社にこれが残っていることの意味はなんなのか、よく分からなかった。王面は、蒲生八幡神社だけでなく、南九州の寺社には他にも残っているものがあるので、今後機会があれば改めて調べてみたいと思う。

次に、蒲生氏の本城であった「蒲生城」。これに関しては、思うところもあるが、中世城郭としてはよく遺跡が残っていることや整備がしっかりされていることで、実は中世城郭のマニアにはそれなりに知られているようだ。そのためネットにも多くの記事があり、敢えて専門外の私が記事を書くまでもないと思ったので遠慮した。

そして最後に「漆の庚申塔」。蒲生には県内最古という庚申塔が漆地区に残っているということで、是非一見したかったのだが、これについては機会を逸して見逃してしまった。いつか、また蒲生に来た際に見てみたいと思う。庚申塔は、路傍の石のようなつまらない石塔に思われるが、実は、いろいろな謎が詰まっていて面白い。

おそらく、蒲生町にこんな長期滞在をすることは今後ないと思うので、蒲生に残してきた謎は、ほったらかしになってしまうと思うが、いつかまた、ここに戻ってきたい。そのときは、また新たな切り口でこの町を見られたらいいと思う。

ブログでは伝わらないことは承知の上だが、約1ヶ月間お世話になった蒲生町の方々に感謝したい。快く挨拶を交わしてくれた小学生や中学生のみんなにも。また、しばしば目を楽しませてくれた多くの猫たちにも。

2012年2月21日火曜日

「伝統工芸最後の職人」の気持ち~蒲生町めぐり(その8)

和紙一年分の梶を乾燥させている様子
蒲生和紙の最後の職人である、小倉正裕氏の工房を訪ねた。

蒲生では、島津久光の殖産政策により貧窮衆中らに和紙づくりが導入され、かつてその和紙は「蒲生和紙」という特産品だった。

薩摩藩では、武士の割合が他藩に比べて非常に高かったために、無禄の武士が多かった。特に郷士(城下ではなく地方に在住した下級武士)ではそうである。無禄ということは、今で言えば「給料がない」ということだから、生活の糧をなんとかして得なくてはならない。

そのため、郷士は農業をしたり、特産品を生産したりといろいろな職業を副業としたわけだが、ここ蒲生では、豊かな水と自然を生かして和紙製作が武士の副業となったわけである。

なお、蒲生和紙の特徴は、原料である。和紙の原料は、一般的には楮(コウゾ)や三椏(ミツマタ)であるが、蒲生和紙は梶(カジ)によって作られるのである。このあたりでは、梶がよく取れるらしい。

さて、小倉氏の工房を訪れたのは、「伝統工芸の最後の職人」というのはどんな気持ちで作っているのだろう、という興味からだった。

小倉氏は、10年ほど前に最後の蒲生和紙職人だった野村正二氏よりその技を引き継ぎ、ここ蒲生町で和紙製作を始めた。詳細は伺わなかったが、小倉氏は野村氏の親戚筋にあたるそうだ。

その際、やはり「自分がやらなければ蒲生和紙の伝統が途切れてしまう」という使命感のようなものがあったという。事実、小倉氏が引き継がなければ、「蒲生和紙」は歴史の中だけの存在となっていただろう。

今では、小倉氏の下に弟子入りを希望する方も多くいるらしい。しかし、全て断っているそうだ。理由は、半端な気持ちでやって欲しくないということ。もし本当に蒲生和紙の職人になるのであれば、弟子入りではなく、自分のように一から工房を開くほどの覚悟が欲しいのだという。また、チームで生産するに足る売り上げがあるか、という現実的な問題もある。

そして小倉氏は、はにかむように「私の人間性もあるんですけどね」と付け加えた。多くは語らなかったが、最後の伝統工芸の職人を受け継ぐ、というほどだから、かなり変わった人ではあるのだと思う。奇特な人がいなければ、維持できないのが今の多くの伝統工芸の実情なのではないだろうか。

小倉氏に、和紙作りで大変なことは何か、と尋ねてみた。それは、「様々な工程を一人でこなさなければならないこと」だという。蒲生和紙は10段階ほどの工程により生産されるが、かつてはそれぞれの工程に職人がいて、分業体制が出来ていた。また、分業を前提とした生産方法であるために、例えば「○○して直ちに××する」というようなことが、一人では難しいことも多い。

最後の職人であるために、小倉氏はかつては分業されていた様々な工程を一人でこなさざるを得ないのである。今、各地で「伝統工芸○○の最後の職人」となってしまった人がいるのだと思うが、同じような苦労を皆しているのかもしれない。

私の居住する南さつま市にも、「薩摩型和舟」の吉行 昭(よけ あきら)氏や「加世田鍛冶」の阿久根 丈夫氏といった、80代となった伝統工芸最後の職人がいらっしゃるのである。この2つは、あと10年もすれば歴史の中だけの存在になってしまう可能性が大きいが、地元の人間としては、なんとか残って欲しいと思う。

しかし、小倉氏は言う。「でも、なくなったらなくなったで、もうしょうがないと思ってます」。伝統工芸を残さなければ、という使命感とこの言葉は、一見矛盾する。しかし、生命維持装置で延命された「伝統工芸」に意味はないということなのかもしれない。社会の中で生かされてこそ、職人の技は生きるのである。技は、過去を思い出してもらうために、存在しているのではない。

蒲生和紙は、現代的なアレンジがほどこされ、物産館でもおしゃれに売られており、現代の社会で生かされているように見える。小倉氏は、「なくなってしまったらしょうがない」というが、私は、そういう工夫を各地の人々がするならば、長く受け継がれてきた技の価値は、今の社会でも大きいのだと信じている。

【補足】
小倉氏を「蒲生和紙の最後の職人」と書いたが、蒲生には、もう一人和紙を作っている方がいる。1994年に蒲生に移り住み和紙ギャラリーをオープンさせた北海道出身の野田和信氏である。野田氏はデザイン和紙(タペストリーなど)や版画を作っており、梶を原料とした和紙製作を行っているらしいが、伝統的な蒲生和紙の製法で製作されているが未確認で、また野田氏は職人というよりはアーティストということのようなので、一応、小倉氏を「最後の職人」とさせていただいた。野田氏が蒲生和紙職人を自称されているとしたら、上記の記事は「最後の2人」に訂正させていただくとともに、野田氏にお詫びしたい。

2012年2月15日水曜日

男根信仰としての田の神~蒲生町めぐり(その7)

蒲生町市街地から国道463号線を北上すると、やがて急峻な岩壁にへばりつくような道となる。V字型に深く切り込まれた渓谷を臨みながら15分ほど進むと、漆(うるし)という地区へたどり着く。

ここへやってきたのは、県指定民俗文化財になっている「漆の田の神」の後ろ姿を確認するためだった。これは高さ108cmの大きな田の神(鹿児島では普通「タノカンサァ」という)で、両手にしゃもじを持って舞を踊っており、舞型の田の神としては県内最古といわれる。銘には「享保三」、すなわち1718年とあり、田の神像が作られるようになった18世紀の初期の作例として貴重である。

なぜ、この田の神の後ろ姿を見たかったのかというと、それが男根型であるか確かめたかったのである。

田の神というのは、豊穣の神・子孫繁栄の神であり、鹿児島では身近な存在であるが、その来歴は謎に包まれている。これは旧島津領内にしか見られないもので、どういうきっかけで作られるようになったのか、どうして剽軽な風貌をしているのか、また、どうして化粧させるのかなど分かっていないことが多い。

さて、田の神の起源についての有力な仮説として、田の神は元来、男根の石像だったのではないかというのがある。つまり、田の神は、元は巨大な石造りのペニスだったというのである。

私は「漆の田の神」の後ろ姿を確認して、この仮説が正しいことを確信した。この後ろ姿は、巨大な男根以外の何者でもない。

そもそも、男根と女陰は豊穣と子孫繁栄のシンボルとして長く民間信仰として拝まれてきた。風雪による自然の造形でできた陰陽石(男根・女陰型の石)はいまでも各地に残っているし、明治政府による「淫祠邪教の禁止」により各地の男根石が撤去される前には、ごく普通に見られるものだったのである。また、同種の崇拝形式は世界各地で見られる普遍的なものだ。

現代の私たちは、巨大な男根の石像というと、なんとなくイヤらしいものと思いがちだけれど、性的なものも自然の一部なのであって、元来忌避すべきものではなかったのであろう。

なお、田の神と同様に路傍によく見られる道祖神や地蔵菩薩も、男根像から変形していったものという説もある。さらに、これらはインドにおけるリンガ崇拝(シヴァ神の抽象化された男根を拝むもの)を起源に持つともいう。

豊穣と子孫繁栄の象徴としての男根は、田の神の性格と容易に結びつく。また、元来田植えや稲刈りなどが主に女性の仕事であったために、男根が崇拝されたとしてもおかしくはない(一般的には、男根像は女性が、女陰像は男性が信仰する)。田の神は一見剽軽なおじさんであるが、その造形感覚と扱い方(化粧をさせるなど)がどちらかというと女性的であることも、制作者が女性であったことを示唆する。

では、なぜ男根が剽軽なおじさんに変わってしまったのだろう? これは想像であるが、そのきっかけは、何かの事情で男根をそのまま表現することができなかった時の苦肉の策ではないだろうか。藩の役人(つまり武士)に男根を拝むことを禁止されたのかもしれないし、何らかの事情で遠慮したのかもしれない。

このような形にすれば、堂々と男根が拝めるのである。男根を剽軽なおじさんの後ろ姿として表現する、という革命は、瞬く間に藩内に広まった。おそらく、田の神を置いた田で豊作が続くなどの偶然(?)も重なったのであろう。

そして、いつしかそれが男根であることは忘れられ、田の神はそれ独自の文化を形成してきたのである。

さて、漆地区は、日本の原風景のような過疎の山村であるが、ここは幕末から昭和初期にかけて金山の開発で賑わい、かつて人口2千人以上あったという。今は農村であるが、当時は鉱石の精錬による鉱毒で作物は育たなかったと伝えられる。そんな栄枯盛衰をずっと見てきた田の神が、実は男根像だったかもしれないと地元の人に言ったら、どういう反応をされるだろうか。

【参考文献】
『石の宗教』五来 重、1988年

2012年2月14日火曜日

蒲生林業小史~蒲生町めぐり(その6)

私は今、「森の研修館かごしま」というところで林業就業支援講習を受けているのだが、この研修所は鹿児島県森林技術総合センター(旧・鹿児島県林業試験場)の敷地の一角にある。

蒲生町にこのような施設があるのは偶然ではなく、ここが林業の町でもあったことを示している。

蒲生林業の始まりは、約350年前の島津久通(ひさみち)の殖産政策に遡る。久通は宮之城領主であったが薩摩藩の家老となり、藩内の殖産興業に努めた。久通は鉱業(金山)や和紙製造とともに造林にも力を入れ、藩外から優良な杉の品種を導入し、植林を進めた。材木消費の中心地へと通じる錦江湾へ注ぐ別府川(前郷川と後郷川)がある蒲生は、材木の搬出に河川が必須であった当時の林業には好適だった。

蒲生の林業が盛んになったのは、この地の造林制度が特殊なものだったことも影響した。江戸時代の蒲生では、士農工商の身分にかかわらず、荒地を開墾して造林をしたものはその生育度合いに応じて収益を得られる制度になっており、造林者の権利が保護されていた。薩摩藩では、一般に有用木は土地の所有者によらず藩の財産であり、これを自由に伐採したり売ったりすることは出来なかったが、蒲生ではこの特殊な制度により、土地を持たない多くの人々が造林に参加できたのだった。

こうして、300年以上も市井の人々の手で直挿造林(つまりクローン)が繰り返される中で、「蒲生メアサ杉」という、材質がよく、心材が赤橙色を呈し光沢のある地方品種が生まれたのである。

明治後になっても、この制度は国や町村との分収林として存続した。これにより、蒲生林業の山は一カ所の造林面積が極めて小面積で、かつ個人共有が多いという独特の私有林形態を生み出しもした。大正4年の調査によると、全所有者の81%が0.5町(約0.5ha)以下の零細所有者で占められており、ほとんどが農閑期を利用した副業的林業だった。

つまり、蒲生林業は小規模零細経営の林業だったのである。小面積経営が続き、大規模な経営を行う指導者がいなかったことは、一方では他県の林業地に立ち後れる原因ともなった。

ちなみに、明治以後終戦まで蒲生林業の指導的役割を担ったのは「蒲生士族共有社」である。共有社は、明治維新前後に武器購入等のため士族たちが官有林の払下げを受けて立木を売却したことを発端とし、荒地の開墾に努めるとともに、明治20年に杉の挿木造林を始めて以来、終戦まで山林経営を行った。

共有社は、旧士族の相互扶助的な役割も果たしたが、耕作や林業経営による利益を教育や育英事業に用いるなど、その活動は目先の利益のみを考えたものではなかった。しかし一方では、旧士族のみでの共有地による事業を続けたことは、皮肉にも、いつまでも小面積経営の林業が続く一因にもなったと言われる。

なお、昭和3年に鹿児島県立林業研究場の設置が決まった際、町制が敷かれて間もない蒲生町は、伝統的な林業の地としてこの誘致に名乗りを上げ、土地と建物の無償提供を申し出た。県はこれを了承し、蒲生町の寄附により、昭和4年10月、ここに県立林業研究場が開場したのである。ちなみに、土地は当時空き地となっていた蒲生町旭尋常高等小学校跡地が用いられた。また、この際、蒲生士族共有社も多額の寄付を行っている。

研究場の開場式では、全町あげての歓待が行われ、娘手踊、棒踊、太鼓踊、安来節などが披露された。また、当日の蒲生町では全戸国旗を掲揚して祝意を表したという。蒲生町民がいかに林業研究場の設置を熱望したかが偲ばれる。ちなみに、これは県立の林業試験場としては全国で最も早い設置だったのである。

この林業研究場は、後に名称を林業試験場と改め発展を続け、現在では「鹿児島県森林技術総合センター」となっている。

さて、戦後に至り、杉を中心とした林地という蒲生林業の性格は変わらなかったが、造林方法が直挿から挿木へと変わったこと、オビスギのような成長の早い品種の導入が増えたこと、農家林的造林が減り公社等による組織的造林が増えたことなどの変化もあった。

今でも蒲生には過去に植林された良質の杉林が多く残っており、林業が盛んな町である。しかしながら、蒲生林業は農家の余剰労働力により盛んになったものであるだけに、人口減少や社会構造の変化を受けてこの地の林業の在りようは変わっていかざるを得ない。蒲生林業の今後に期待したい。

【参考】
杉は各地で地方品種が生まれており、その品種は極めて多いが、大別すれば2種類に分けられる。すなわち「メアサ杉」と「オビ杉」である。メアサ杉は美しい良材が取れるが成長が遅く、戦前によく植えられた。オビ杉は成長が早く、戦後の植林で主に植えられたもので、花粉症の原因となる大量の花粉を飛ばす。


【参考文献】
『鹿児島県林業史』1993年、鹿児島県林業史編さん協議会
『50年のあゆみ』1980年、鹿児島県林業試験場/林業試験場創立50周年記念事業協賛会

2012年2月8日水曜日

竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟と修験道〜蒲生町めぐり(その5)

蒲生氏の本城だった蒲生城(別名竜ヶ城)があった竜ヶ山、その城山の北東の岸壁に、「竜ヶ城磨崖一千梵字仏蹟」がある。これはあまり知られていないが、全国的にも貴重で、不思議な遺跡である。

竜ヶ山は標高160mあまりの小山ながら急峻な崖と巨石に囲まれ、蒲生城は中世、天然の要塞として難攻不落を誇ったという。磨崖一千梵字仏蹟も、近年ウッドデッキができてやや整備されたものの、足を踏み外せば命を落としそうな場所にある。

付近には特産の蒲生メアサ杉が林立し、幽邃な雰囲気の中に岩壁が広がる。約120メートルの岩壁には、1700字もの梵字と線刻の五輪塔や仏像などが刻まれており、1カ所に石刻された梵字の数としては日本最多という。その他、擬人化された不動明王の種字(不動明王を表す梵字)という特異な磨崖梵字もある。また、岩壁にも関わらず数カ所から湧水があり、特に中心付近の湧水の洞窟には梵字による阿弥陀三尊が描かれた石板も納められている。

この壮大な磨崖梵字は、いつ、誰が、何のために作ったのか全く分かっていない。

これを調査した黒田清光氏によれば、石造物鑑定家の藤田青花氏から「鎌倉時代中期またはそれ以前に作られたもの」という評価を得たという。少なくとも700年以上昔だ。ある時は讃仰され、ある時は忘れられつつも、こうして磨崖梵字は現代まで残った。

一般的に、磨崖仏などは密教や修験道の修行者が彫ることが多い。修験道では自然の巨石や岩壁に神を感じ、そこで超人的な力を得るため、敢えて危険を冒して仏や梵字を刻するのである。この梵字も、まさか足場を組んで彫られたものではなく、おそらく岩壁の上から綱でつり下げられた状態で、命を賭して刻されたものと見える。

なお、梵字とはサンスクリット語の文字(ブラーフミー文字)だが、日本ではこれに神秘的な力を感じたのか、真言や呪符にも使われた。乱暴に言えば、魔術・呪術の文字である。

ちなみに、磨崖には「高橋義盛」という名も見える。この高橋義盛が何者なのかわからないが、願主の一人だとしても、全てがこの一人の依頼によるものとも思えない。磨崖梵字は一様ではなく、明らかに品質の違いが認められる。最初に命がけの山伏(修験者)が精悍で秀麗な梵字を刻し、それにあやかって、高橋義盛が配下の山伏に命じて供養塔や願掛けを刻させたものかもしれない。

また、黒田清光氏は、これを元寇の調伏を願って刻されたものと推測しているが、そういうこともあるかもしれない。蒲生氏が山伏であったなら、こうして城下の岩壁を梵字で守護するということは自然である。

そういえば、蒲生町には「アッカサァー」と呼ばれる火の神が小路に祀られている。これは、正式名称を秋葉山大権現といい、修験道で信仰された神である。蒲生町のアッカサァーのご神体は、孔雀に乗り火焰を背負った写実的な烏天狗の石像であるが、秋葉山大権現の姿が烏天狗で表されることを、私はこれで初めて知った。

そもそも、南九州は急峻な山岳に恵まれ、かつて修験道の行者(山伏)がたくさんいたのである。「さつま山伏」は鹿児島文化の基層とさえ言われる。明治の廃仏毀釈の際には(一応仏教に分類されていた)修験道も禁止され、ほとんどの修験道の寺は廃仏の憂き目を見た。そして、人々の暮らしに密着しつつも、厳しい修行を行い、自然と一体化する修験道は、他の体系だった仏教宗派とは違い、一度その伝統が失われてしまうと、二度と元に戻ることはなかった。

私は、修験道こそは完全に日本化した仏教だと思う。そして、かつて修験道は、上は大名から下は庶民にいたるまで、身近な存在として文化を支えていた。だからこそ、人々の生活が変わってしまうことで廃れるのも早かった、と言えるかもしれない。壮大な磨崖梵字を臨み、山伏たちが活躍した時代を思うと、改めて失われた伝統が惜しまれた。

2012年2月7日火曜日

「蒲生どん墓」で初代蒲生氏が何者だったか考える~蒲生町めぐり(その4)

蒲生町のひっそりとした墓地の奥に、「蒲生どん墓」がある。

蒲生どん墓は、中世から約400年、この地を治めた蒲生氏の墓所の遺構。1867年の大水による土砂崩れで破壊されたものを、町の有志が昭和13年に復元したものである。

31基も林立する五輪塔は、鎌倉時代から室町中期に及ぶ蒲生氏の歴代当主とその一族の墓石であり、最大のものは高さ2メートルを超える。前列6基は歴代当主のもので、第8代の宗清(1333年)から第13代の忠清(1451年)まで約120年間、ほとんど形式を変えることなく五輪塔が建立されているところを見ると、蒲生氏はその激動の時代において、相当な安定政権を築いていたものと推察される。

この蒲生氏はどこから来たのだろうか? 戦国時代に島津家に滅ぼされてしまったので詳細な歴史を辿ることは不可能なのだが、その来歴は興味深い。

蒲生氏の初代は上総介舜清(かずさのすけちかきよ)といい、要約すれば「藤原氏の子孫で比叡山にいた藤原教清が、宇佐八幡の留守識(るすしき)となって豊前に下向。宇佐八幡の大宮司の娘を娶り舜清が生まれた。舜清は豊前の国から下向し、まずは垂水、次に蒲生に居住した。1123年この地に宇佐八幡神を勧請して蒲生八幡神社を創建した」と解説される。

このように解説されるとわかったような気にはなるが、実際はわからないことだらけである。特に分からないのは、「なぜ舜清は蒲生という辺鄙な田舎までわざわざ来なければならなかったのか?」ということだ。

司馬遼太郎氏は、「街道をゆく 肥薩の道」で蒲生氏に言及し、舜清は山伏であり、蒲生氏の支配は山伏政権だっただろうと推定している。私はこの推定には賛成であるが、でも、どうして舜清は蒲生まで来なくてはならなかったのか。

蒲生氏の古い記録はなく、その事情は推測するしかない。それは、歴史というより、「歴史ロマン」の領域であるが、蒲生氏の濫觴(らんしょう)について空想を広げてみたい。

さて、まずは宇佐八幡宮の話から始めたい。蒲生氏の起源は、まずは宇佐八幡宮にある。豊前の国、今の大分県にある宇佐八幡宮=現・宇佐神宮は全国約4万社の八幡神社の総本宮であるが、律令期(奈良時代)には単なる神社というより、九州最大の荘園領主として権勢を振るった。

荘園というのは、いわば独立小国家・独立経営体である。そこでは農業生産だけでなく防衛機構(僧兵)もあった。荘園制全盛の平安時代では、宇佐八幡は九州各地に別宮を作ったが、これは九州各地に子会社を作ったというイメージになる。その宮司を束ねる大宮司は、独立小国家の元首、あるいは大会社の社長である。その娘が産んだのが蒲生氏初代、舜清だった。

舜清の父は宇佐八幡の留守識(るすしき)だった藤原教清というが、こちらはどうも出自が怪しい。どうやら山伏だったこの父親、藤原氏の自称はよくある家系の誇張としても、宇佐八幡の留守識というのは事実かどうか。一般的には、留守識とは地方組織の駐在の長官である。宇佐八幡は修験道や密教(天台宗=比叡山)との繋がりが深いのは事実だが、この比叡山からきた山伏、本当に長官を務めるほどの人物だったのかどうか。

というのも、教清が本当に宇佐八幡を治める地方長官で、大宮司の娘を娶って舜清が生まれたのなら、舜清はいわゆるエリートである。彼がわざわざ蒲生まで下向してくる必要はなく、宇佐八幡の要職を務めながら安楽な一生を送れたはずだ(なお、宮司は世襲である)。

では、なぜ蒲生まで下向してきたか。それは、父・教清が一介の山伏だったからではないかと思う。素性の知れない山伏と大宮司の娘の子、というのが舜清の実情だったのではないか。大会社の社長の娘が平凡なサラリーマンと結婚して産んだ子、というイメージだ。本社で活躍してもらうほどではないが、捨てておくわけにもいかない。しょうがないから、子会社や地方支部で使う。舜清の下向(つまり田舎への赴任)はそういうことだったのではないか。事実、鹿児島には、宇佐八幡の荘園があった。

ただし舜清は、本社では使えない事情があるにしても、なかなか見込みのある男だったのだと思う。彼は宇佐八幡を勧請し蒲生八幡神社を創建するわけだが、神社の創建に必要な資本はおそらく本社の方から援助されているだろうし、下向にあたって一人で来たわけはなく、少なくとも数十人程度の部下は引き連れていたと思われる。

要は、「資本と部下を少々つけてやるから、地方に行って独力で頑張れ」ということだったのではないか。舜清はこのチャンスを生かし、新たな地方支社=蒲生八幡神社を作り、そこを拠点に植民活動をしたのだろう。現地の住民を服属させ、地方荘園領主になった。

それが、そろそろ平家が天下の春を謳歌しようという平安末期のことだった。蒲生氏の政権は、紆余曲折がありながらもそれから約400年間続くことになる。その濫觴(ことの起こり)が、宇佐八幡神社に現れて大宮司の娘と恋に落ちた、一人の怪しげな山伏だったとしたら、面白い。

【参考】
「蒲生どん墓」は、「かもう どん ばかぁ」と濁って読む。「どん」はもちろん「殿」で尊称。

2012年2月2日木曜日

謎の神「馬櫪神」と昔の蒲生~蒲生町めぐり(その3)

日本一の大クスがある蒲生八幡神社の境内の隅に、ひっそりと祀られているのが「馬櫪神(ばれきじん)」である。何気ないものだがいろいろ調べてみると興味深いものだったので紹介したい。

馬櫪神とは馬の守護神といわれるが、謎の神である。辞典等では「両足で猿とセキレイを踏まえ、両手に剣を持つ」との異形を解説されるが、そのような像はどこにも見当たらず、実のところ、誰も馬櫪神の神像を見たことがないのではと疑われる(出典はなんだろうか?)。

馬櫪神は中国の唐代に信仰された神で厩(うまや)の神(「馬櫪」とは「飼い葉桶」の意)と言われるが、実態はよく分からない。そして、日本にいつ頃移入されたのかも不明である。さらに、馬櫪神についての体系的な調査・研究は未だ誰も行っていない。一体、馬櫪神とはなんなのだろうか?

私は民間信仰について詳しくないが、このような状況なので、馬櫪神の来歴について自由に空想するのも許されるだろう。

さて、全国の馬櫪神の実態は不明であるが、どうやら街道沿い、そして宿場町において多く祀られているようだ。宿場の近くでは、多くの馬が養育されていたので、これは当然と言えば当然である。

馬櫪神の石碑の多くは比較的新しいもので、来歴を遡る記録もないため、古い時代の馬櫪神の信仰を辿ることはできないが、馬櫪神が唐代に流行した神ならば、日本への移入はかなり早くなくてはおかしい。唐代といえば日本は奈良時代であり、ちょうど駅伝制が整えられた時期にあたる。

駅伝制では、単に駅を設けたのではなく、リレー式に情報伝達が出来るよう駅馬が5~20頭常備されたのであり、この馬を扱う駅子たちの集団(駅戸)が付随していた。駅は馬の世話をする集団とセットだったのである。

馬が日本に導入されたのは古くとも弥生時代後期、豪族間に普及したのは5世紀中頃、一般化するのがようやく駅伝制が開始されてから、しかも駅伝制は唐の制度の模倣である。要は、馬は先進的な大陸文化だったのであり、導入の際に馬櫪神の信仰も合わせて大陸から持ち込まれたとするのが自然ではないだろうか。

さて、以前述べたように駅伝制ではここ蒲生にも駅が置かれたのであるが、蒲生にも駅子集団が居住していたということになる。馬櫪神とは彼らの信仰だったのではないか。もちろん、古代からの駅子集団が営々として続いたということは考えにくいが、千年を超える間、民俗信仰として細々と祀られてきたとしてもおかしくはない。

なお、蒲生にはかつて米丸村の青敷野というところに馬牧があり、明治3年に廃止されるまで約460年にわたって良馬を生産してきたとされる。例えば関ヶ原の敵陣突破で有名な島津義弘の愛馬「膝突栗毛」はどうやら蒲生の出らしい。古代、駅が置かれたころからの馬の養育文化が連綿と続いてきたとすれば、蒲生は馬の町でもあったのかもしれない。

同様に日本全国で、古代の駅伝制からの馬櫪神信仰が、馬の世話をする庶民の間に受け継がれてきたと考えたい。馬櫪神の古い記録が残っていないのも、身分の低い馬子の土俗的な信仰と化していたからであろう。

これは学術的な裏付けがある仮説ではないし、文献も広く繙いたわけではないので、ぜひどなたかに本格的な馬櫪神の研究をしてもらいたい。民俗学あるいは歴史学専攻の博士課程の方に勧める。唯一無二の研究となるはずなので、すぐさま馬櫪神の第一人者になれるからだ。唐代の信仰の移入ということだと、道教の思想にも取り組まねばならないので少々手応えはあるが、きっと面白い研究になると思う。


【参考】
蒲生町の「本社馬櫪神」の石碑(写真)は、明治維新後、馬牧が廃止になり馬櫪神の祠が荒れ果てていたことを見かねた地元有志が、代々牧司役を務めてきた蒲生士族の吉留氏を中心に、蒲生八幡神社の横にこれを遷社し建立したもの。石碑には「明治二十年九月二十三日遷社」とある。

ご神体は小さな石造りの厩であり、中には同様に石製の馬が数体納められ、石製の飼い葉桶もある。しかし(猿とセキレイを踏まえた)馬櫪神と見られるものは何もない。石造りの厩には「天明三癸卯年三月」の石刻があり、これは1783年にあたる。江戸四大飢饉の一つ「天明の大飢饉」が起こる直前に造られたものだ。

【参考】栃木県の「馬櫪神」「馬歴神」塔まとめ
あまり注目されることのない馬櫪神についてまとめてあり、貴重な調査である。

2012年2月1日水曜日

蒲生町の歴史と観光政策~蒲生町めぐり(その2)

鹿児島県姶良市の蒲生(かもう)町は、現在、ごく僅かな中心部以外は田んぼと山林ばかりの寂しい過疎地であるが、なかなかに面白い歴史を持った土地である。

奈良時代、7世紀後半ごろに全国に街道と駅(馬を常備し宿泊施設を設ける)が整備されたが、ここ蒲生にも駅が置かれた。蒲生は薩摩と大隅の中心に位置し、また錦江湾に注ぐ別府川も流れていることから交通の要衝だったと思われる。この時代の「駅」は、現代で言えば高速道路のインターチェンジが置かれたようなもので、古代は宿場として賑わっただろう。

平安時代後期、藤原氏の子孫と言われる上総介舜清(かずさのすけちかきよ)が豊前(大分)からやってきてここに拠点を築き、蒲生姓を名乗った。そして、蒲生氏は室町時代に島津氏の家臣となりながらも、有力な豪族として約400年にわたってこの地を治めることになる。なお、舜清は宇佐八幡を勧請し、ここに正八幡若宮(現・蒲生八幡神社)を創建してもいる。

戦国時代末期、薩摩でも戦乱が繰り返されたが、蒲生氏は近隣の反島津勢力と結んで島津氏と対決した。激戦であったが、当時日本唯一だった鉄砲を使用するなど島津氏の戦力が上で、あえなく敗戦。これから蒲生は島津氏の支配下に入り、島津氏の直轄領となる。

江戸時代、交通の要衝にある蒲生は地域防衛の拠点として多くの武士が住み、美しい武家屋敷が建ち並んだ。また、薩摩藩の家老だった島津久通は藩内の殖産興業に力を入れ、蒲生では和紙の生産(蒲生和紙)、造林(後の蒲生メアサスギ)などが開始された。和紙は清涼な水がなくては出来ないし、造林に関しては当時は運搬に河川が必須であった。これらは、水が豊かな蒲生の特色をよく生かした産業政策だったと言えよう。

明治維新後、蒲生は蒲生村、蒲生町と名を変え、2010年に加治木町、姶良町と合併し姶良市となり、行政区画としての蒲生はなくなった(地名としては残っている)。町には、かつての武家屋敷の名残を留める美しい路地が縦横に走るが、冒頭述べたように現在は過疎の町と化し、明治期には300戸近くあったという和紙生産(紙すき)も今では一戸を残すのみである。

しかし町の人達は今、豊かな歴史を生かし、ここを「日本一の巨樹 蒲生の大クスと武家門の町 蒲生郷」として売り出している(「郷」とは、江戸時代の行政区画の呼称)。蒲生は戦災を受けておらず、幸か不幸か高度経済成長期にも商工業が発達しなかったので、江戸時代の街並みがよく残っている。

江戸時代の町割りの小路には「蒲生郷まちかどミニミュージアム」というちょっとした解説を置き、趣のある観光交流センターには地域の特産を並べ、武家屋敷の通りには古民家を改装したカフェを設けている。また、「フォンタナの丘かもう」という宿泊や産直の拠点もある。小さな町にして、このように積極的に、地道に観光の振興に努めているのには頭が下がる。

未だ観光客で賑わっているわけではないし、上述の取組全てが成功しているかどうかはわからないけれども、来て損はない町だと思う。豊かな歴史的遺産をうまく活用しながら、これからも美しい町であり続けて欲しい。

日本一の巨樹と神社と水~蒲生町めぐり(その1)

先日のエントリに書いたように、鹿児島県林業労働力確保支援センターで研修を受けている。研修後、夕方に付近を散歩すると、なかなか面白い。

ここは、姶良市(あいらし)の蒲生町(かもうちょう)というところで、なんといっても蒲生八幡神社の境内にある「日本一の巨樹 蒲生の大クス」で有名である。

蒲生の大クスは、昭和63年の環境庁(当時)の調査により、幹の太さが24.22メートルということで日本一の巨樹として認定されている。その驚異的に太い幹の中には広さ約8畳、高さ約17メートルの巨大な空洞があり、まさに「となりのトトロ」でトトロの住んでいるクスノキと同様である。

クスノキは巨木になると根が大きく張る樹だが、この大クスではほとんど小山のような根が張っている。しかも、神社の社殿造営等のため2メートルほど根が埋められているということで、実際の根の広がりはもっと大きいらしい。

樹齢は約1500年といわれており、飛鳥時代にはすでに存在していたことになる。蒲生八幡神社が創建された1123年には、すでに樹齢600年以上だった。なお、八幡神社境内にはクスのみならず、イチョウ、カヤ、モミ、スギ、スダジイなど数多くの巨木がある。

まちに、このようなアイコンが存在していることは、少し羨ましい。蒲生町は今町おこしに力を入れているようだが、わかりやすく「大クスの町」として売り出せるからだ。もちろん、蒲生町は大クスだけの町ではないが、観光にせよまちづくりにせよ、中心を「大クス」に据えて取り組むことに誰も異論を唱えないだろうし、以前書いた「観光の目的地」として大クスは申し分ない。

ところで、大クスのある蒲生八幡神社は小高い丘の中腹にあり、あまり知られていないが、神社の裏をさらに登ると蒲生町の上水取水池がある。「池」と書いたけれども厳密には池ではなくて、丘の頂付近から出ている湧き水を人工的に溜めている施設である。

昔は動力付きのポンプがなかったので、上水道の取水は高いところでなくてはならなかった。要は、水圧をかけるために丘の上に取水池を造ったのである。これが大クスの裏山にあるということは偶然ではないだろう。

低いところに水が溜まるのは道理だが、丘の上のような高いところで水が豊かなのはそんなに多くない。このように水の豊かなところであればこそ、大クスは1500年間も枯れずに残ったのだろうし、また、神社が創建され、神域として、クスのみならず数多の巨木が残ることになった。

神社と水は非常に関係が深く、参拝の際に手水で浄めるのも、もともと神社に水が豊かだった証左だろう。いや、もしかしたら、水源を守る(独占する)ということこそ、神社の重要な機能だったのかもしれない。思えば、神社は、ジメジメとしたところに建っていることが多く、おそらく地下水脈の要所に当たっていると思われる。カラッとした神社、というのはなんとなくサマにならないと思わないだろうか。

…というのは勝手な空想であるが、ともかく、大クスを支えたのがこの丘の水だったことは間違いないと思う。大クスを育て、人々に上水を供給しているこの丘は、どんなガイドブックにも載っていないが、侮れない存在である。

【補遺】2/25追記
三国名勝図絵』の蒲生の項を確認してみたところ、大クスについての記載が一切なかった。蒲生八幡神社の図にも、クスらしきものは描かれていない。『三国名勝図絵』編纂当時ももちろん巨樹であったはずなのに、全く言及されていないとはどういうことだろう。不思議である。