2016年2月28日日曜日

田舎に移住して農業でもして暮らすか、講座(その3)

今回は移住や就農にあたっての心構え的なものについて。

インターネットで田舎への移住について書かれたものを見ると、田舎の社会に覚悟するように、といった警句がよく目につく。

私自身は、今住んでいる南さつま市では新参者であっても、同じ鹿児島県の吉田町(現・鹿児島市宮之浦町)というところで生まれ育っていて、そもそも田舎人なのであまり田舎の社会が都会と違って云々ということは思わない。それに、田舎といっても鹿児島のことしか知らないし、都会といっても東京・神奈川のことしか知らない。

なので、以下のことは、田舎と都会というような大きなテーマでなく、あくまで私の体験での話として受け取ってもらいたい。ただ、表現上便利なので「田舎」とか「都会」という言葉を使わせてもらうことにする。

(8)田舎でも都会でも人間は同じ

よく、田舎の社会は閉鎖的だとか、 因習的だとか、人間関係にがんじがらめにされているとか、地域の顔役がのさばっているとか、いろんな悪口を言われる。事実、そういう面もあるとは思う。さる移住者の人に聞いたら、「結局、本当の仲間としては扱ってくれないんですよね。いつまでもヨソ者で」というようなことを言っていた。

私の場合ここは父方の郷里でもあるので、幸いにしてそういうことはなかった(と思う)が、それ以前に田舎の人と都会の人はその気質が大きく違うかというと、そういうこともないと思った。

譬えるなら、田舎に新参者が越してくるというのは、学級に転校生を迎えるようなものだと思ったらよい。そこには、既にいくつかの仲良しグループがあり、グループ同士の微妙な関係があり、グループと距離を置く孤独な幾人かがいたりする。転校生は、そのグループのどれかと仲良くなるか、どれにも属さないで孤独派になるか、または孤独な幾人かをまとめて新たなグループを立ち上げたりすることになる。これは極端な戯画化だとしても、コミュニティというものはどこでもそういう側面がある。都会だろうが田舎だろうが、人間関係の根本にあるそういう力学は共通している。

しかし、都会だったら、引っ越しはそういうのとは全然違う。それこそ、大勢の他人が交わっては離れていくスクランブル交差点を掻き分けていくようなもので、そこにはほとんど人間関係の編み目はなく、コミュニティの圧倒的な空白が存在している。そこに新参者がいることに誰も気にしないし、誰なのか興味もない。だが、それは都会の人が開放的だとか、進歩的だとか、人間関係に冷淡であるとかそういうことではなくて、単に人口密度と人の入れ替わりが激しすぎてそうなっているだけで、都会の人であっても固定的な小グループでコミュニティを作っていれば田舎的な面が出てくるものだ。

要するに、田舎の人と都会の人という2種類の人たちがいるのではなく、同じ人間が田舎と都会という違った環境で生きているというだけのことで、一人ひとりを見てみれば大きな違いはないのではないか、というのが私の感覚である。

だから、移住してくるにしても、田舎だからどうこうと身構える必要はないと思う。とはいっても、先ほど述べたように、田舎に越してくるというのは転校生になるようなものなので、自分から積極的にドアを叩いていかないと周囲に馴染めないというのはあるかもしれない。既にできあがった人間関係の中に「ちょっとごめんください」と入っていくわけだから、そういうのが苦手な人にとってはそれだけでストレスだろう。

(9)就農も普通の転職と同じ

私自身、農業を始めようというとき、多くの人から、それこそ通りすがりのおじさんからも「農業なんてバカな真似はよせ」という声をもらった。 農家から「農業をやっていく覚悟があるのか」というようなことを言われたこともある。

インターネットの相談サイトなどで「農業をやってみたいんだけど」といった相談があるときも「都会のもやしっ子には無理」とか「農業をなめるな」といった妙に上から目線の回答がなされることが多い。しかし実際に農家になってみて、そういうアドバイス(?)にはちょっと違和感がある。

例えば、「お前はシステムエンジニアになる覚悟があるのか?」みたいに言われることはほとんどないと思うのだが、多くの職業にはそれになるのにさほどの覚悟は要しない。確かに長い修行が必要な職種(伝統工芸の職人や芸術家など)だとそういう風に言われることもわかるし、実際覚悟がいる転職(収入が激落ちするとか)というのもある。

しかし農業はそこまで長い修行はいらないし、収入は激落ちするがそれは多くの人が覚悟していることだろうし、厳しい仕事といっても連日深夜まで残業するような激務に比べれば随分気楽なものだし、今は都会でフリーター暮らしをする方がよほど覚悟が必要ではないだろうか。田舎には農業でそれなりに幸せに暮らしている人がたくさんいるわけで、本当に覚悟が必要な特殊な職業と比べたらかなり平凡な仕事である。農業を「限られた人しかできない、厳しい仕事」と思わせるのはよくない。

「農業は誰でもできる」は言い過ぎとしても、農業は世界最古のなりわいの一つであり、ことさら覚悟が必要なものではないと思う。もちろん独立就農は自営業の立ち上げだから、サラリーマンになるのとは違う。でも起業するよりはハードルは低い。あまり農業を特殊視せずに、普通の転職と同じように考えたらいい。

ただし、農業の場合は行政の補助がたくさんあるのが災いしてか、お客さん的にというか、「就農したいのでなんとかしてください」というような他力本願の人がいるというのは聞く(実際に会ったことはありません)。そういうのがよくないのは言うまでもない。あくまで普通の転職と同じように、自己責任で自律して行うべきである。

(10)農業の向き・不向き

向き・不向きの前に、どういう人が農業で成功するかというと、こんな人だ。

先延ばしせず冷徹果断に経営判断をすることができ、しっかりと計画を練って、そして段取りよく着実に実行する。新しい取組への挑戦や投資は恐れないが手堅い事業を守ることも疎かにしない。研究や勉強に余念がなく、かといって理念的なことに振り回されることなく常に現実に立脚する。地味な仕事も面倒くさがらずに一つ一つ粘り強くこなし、気持ちが途切れることがない。消費者の視点を忘れず優れた営業マンにもなり、販路拡大と有利販売のチャンスを逃さない。……そういう人である。

そんな人、別に農業じゃなくったって大抵の分野で成功するだろ! と思うだろうが、まさにその通りで、現代社会での仕事である以上、農業も他の職業と大きく違うことはなく、他の分野で成功するような人は農業でも成功できると思う。自分がそういうタイプでないという自覚があるなら、農業において大成功する確率は低いことは覚悟しておいた方がよい。ちなみに私も、残念ながらこういう成功向きのタイプではない。

ただし、農業では、他の職業だったら絶対生きていけないよなー、と思うような人が成功していることもあるのも確かである。農協にひたすら卸すというようなシンプルな農業をやる場合は、うまく生産するという一点だけをしっかりすれば他が(例えば人格面で)めちゃめちゃでもちゃんと儲けられるのが農業の特殊性かもしれない。

とはいえ、人生における仕事の意味を考えてみると、成功するかどうか、つまり大儲けや事業拡大できるかどうかということより、向き・不向きも大事である。「田舎に移住して農業でもするか」という人は、そもそも農業で大成功することを夢見ているわけではないと思うので、むしろ向き・不向きの方が重要だろう。

ということで、農業に向いているタイプを考えてみると、まず派手なことより地味な仕事を一人でコツコツこなす方が好きでないといけない。そして独立就農の場合はそこに上司も部下もいないので、サボろうと思えばどこまででもサボれる。だから自主独立の気風があり、自律して仕事を創り出すタイプでないといけない。誰かから言われないと仕事が進まない人には向いていないと思う。かといって、農業は地域でやっていくもので一人ではできないので、あんまり協調性がないのも考えものである。そもそも人付き合いがない人には優良な農地が回ってこない。

そして農業の場合、仕事のインプット(投資や作業量)とアウトプット(収穫量や収益)の対応が短期的にはめちゃくちゃなので、バクチ的なことへの耐性(または選好)が求められる。苦労して育てた作物が台風で潰滅することもあるし、何もしなくても天候に恵まれて豊作な時もある。でも相場が下がって豊作貧乏な場合もあるし、普通にやって平凡な出来でも相場がよくて意外と儲かる時もある。要するに農業は天候まかせ、相場まかせな部分が多かれ少なかれあるわけだから、そういう外部要因の気まぐれに付き合う度量の広さは必要だ。

ただ、一口に農業といっても、穀物、園芸、果樹、畜産、花卉(観賞用の花の栽培)、林産物(キノコ類やタケノコ)、種苗生産などいろいろな農業がある。穀物の場合は、ほぼ全ての作業が機械化可能で、極端に言えば畑の土を一度も踏まないで作付から収穫まで行うのが理想である。逆に園芸作物の場合、毎日畑に足を運び、こまごまとした管理を行わなくてはならない。そこに要求される能力・気質は真逆であると言ってもいい。さらに畜産や花卉なんかは穀物や園芸とはかなり違ったものであって、私もその世界はよくわかっていない。同じ農業の枠組みの中でもサラリーマン的な仕事の世界もあるし、職人的な仕事の世界もある。

つまり本当のことを言えば、農業への向き・不向きといったものは実は存在していなくて、自分に合った農業かそうでないかということしかない。要するに、農業の中でも自分に合ったものを選択していけばいいだけなのだ。でもそれが最初はよくわからないし、そもそもどんな農業が存在しているのかさえ業界の外からは分からない。やはり、どんな農業でもいいから(ただ、畜産だけは他の農業と必要な施設設備が違いすぎるから気をつけるべきだが)とりあえず取り組んでみて、徐々に自分に合った道を探すのがよいと思う。

(11)最後に

率直に言って、農業の経験が全くない人が、しかも全く新参者の土地で、農業でやっていくというのはとても難しいことである。地の利のないところで素人事業を始めるというのは、農業でなくても無謀なことだ。ただ、農業というのはほとんど地元勢によって担われているものであるから、そこに新陳代謝があまりなく、新しい風が入ることの意味もあるように思う。

この一連の記事はあまり夢のあることが書いていないので、これを読んで「よし、田舎に移住して農業をやってみよう!」と思う人は僅かだと思うが、そういう奇特な人にはぜひ田舎に新しい風を起こしてもらいたい。この記事が参考になれば幸いである。

2016年2月23日火曜日

「たんかんのオランジェット」と規格外品の有効利用の問題

今日、タンカンの発送作業を行った。

有り難いことに既にたくさんの注文をいただいており、出だしは順調。今年のタンカンは割と味はよいと思うので、ぜひご賞味ください。

【南薩の田舎暮らし】無農薬・無化学肥料のタンカン

ところで、この写真がうちのタンカンだが、タンカンをご注文くださった方は「届いたのはこんなにキレイなやつじゃないぞ!」と思うかもしれない(すいません…)。それもそのはずで、これは収穫した中でもとりわけ大きくて外観のキレイな最上級品だけを選りすぐったものなのである。

市場に出回っているものの中には、それこそ宝石のように美しいタンカンがあるので、この程度で最上級品なんて……と思うかもしれない。というか特に同業者の方はそう思うはずである。でも今の自分の栽培技術の中では、無農薬でこの水準ができたら最高だと思うものを選んだつもりだ。

で、どうして最上級品だけを選りすぐったのかというと、これはそのものを販売するためでなくて、実は「たんかんのオランジェット」という今一番売り出し中のお菓子を作るための材料なのだ。

たんかんのオランジェット
【参考】オランジェットって何? という方は「南薩の田舎暮らし」のこちら↓の記事をどうぞ。
2月5日のレトロフト金曜市で「たんかんのオランジェット」を販売します

先日、この商品を引っ提げて、商工会がやっている品評会(?)みたいな会に出たら、「規格外品のタンカンを使ってみてはどうか?」という意見が出た。でも皮まで丸ごと使うというこのお菓子の性質上、やはり皮もキレイなものでないと食感も見た目も悪いし、大きさが揃っていないと商品にならないので、やはり大玉で外観秀麗なものを使う以外ないと思う。

最近の農産加工の話題では、「今まで捨てていた規格外品を使って作った」的なものがよく流布されていて、農産加工といえば「青果で流通しにくいB級品の有効利用」という側面ばかりが強調されているように感じる。

しかし、実際に農産加工に取り組んでみればすぐに分かるように、規格外品のように大きさや品質が揃っていない素材を使って加工品を作るのは大変手間がかかる。例えば、ニンジンを作っていると一定割合で又根のニンジンができるものだが、又根のニンジンは洗浄にも皮むきにも手間が余計にかかるし、ニンジンスティックのようなものを作ろうとすれば歩留まりも悪い。加工品づくりの経費がほぼ人件費であるとすれば、そういう扱いにくい素材を無理して使うより、同じ大きさで規格化されたニンジンを使って効率よく製造する方がよほど利益が大きい。

それに、加工品は素材の味次第なところがあり、品質の揃っていない素材を使うのは味の面でも不安が残る。見た目が悪くても美味しい果物や野菜というのがあるのは事実だが、実は美味しい果物や野菜は外観もよいことが多い、というのも事実である。間違いなく美味しい立派な素材を使う方が、品質の高い加工品が楽に作れると思う。

そもそも、今は「農産加工品戦国時代」とでも呼びたくなるような時代である。各地で、オシャレ・今風の農産加工品が次々に開発されている。そんな時に「今まで捨てていたものを有効活用できないか」というような消極的な理由で農産加工をしては成功はおぼつかないような気がする。やはり、「とびきり美味しいものを食べて欲しい」という積極的な理由で開発に入るべきだと思う。

もちろん、それが結果的に規格外品の有効利用になったらなお素晴らしいことである。開発の段階で「廃棄をなくそう」ということを目的の一つにするのもよいことだ。しかし、栽培管理によって収穫物の規格をなるだけ揃える(=規格外品を減らす)という方が農家の本道なのに、規格外品で作った加工品が成功したとすると、むしろ積極的に規格外品を作って材料を確保しなければならないという矛盾が生じる。加工品を作るなら、加工品用の規格を作り、その規格に沿って栽培管理していくという方が結局は効率的であり、規格外品のような量的にも質的にも頼りない存在はアテにするのはリスクである。

規格外品の有効利用は個人の農家レベルで考えてもダメで、やはり経済連(県単位のJA)のような規模で考えなければならない問題だろう。

ちなみに、鹿児島大学の学生がエコスイーツというプロジェクトをやっていて、これは生ゴミからつくった堆肥を使って育てた野菜を使ったスイーツの製造・販売なのだが、これも最初は「捨てられている野菜を救う」ということを考えていたようだ。しかし調査してみると、規格外の野菜などはちゃんと物産館などで売られていて、本当に捨てられているのは思ったほど多くないということがわかった。

こうして、当初は規格外のカボチャの有効利用がメインだったものの、今はむしろスイーツづくりのためにサツマイモを育てるということがメインになっており、やはり「加工品用の規格に沿った栽培管理」の方に重点が移っている。サツマイモ栽培に取り組んだ理由もWEBサイトでの説明によれば「「より高品質な素材を供給したい」という思いを実現するため」とされていて、やはり規格外で品質の安定しない素材を相手にするよりも、高品質な素材を使った方が間違いない、ということを学んだ結果ではないかと思った。

というわけで、農産加工というと「規格外品の有効利用」ということをすぐ思い描きがちであるが、実際にはそういう虫のよい話はそうそうないのである。

話が随分逸れてしまったが、この、私なりに「どこへ出しても恥ずかしくない最高級のタンカン」をつかって作った「たんかんのオランジェット」とクッキーとコンフィチュールのセットが今ネットショップで限定販売中なので、こちらの方もよろしくお願いします!

↓お買い求めはこちらから
【南薩の田舎暮らし】オランジェット入り! 南薩の田舎暮らしのお菓子セット

2016年2月18日木曜日

田舎に移住して農業でもして暮らすか、講座(その2)

今回は新規就農について。

この講座は「なんとなく農業でもするか」というような人へ向けて書く、とはしたものの、さすがになんとなくで転職する人は少ないと思うので、「俺はこんな農業がしたい」という明確なビジョンはないとしても、それなりに農業への夢や愛着があることを前提として書くこととする。そうでないと、さすがに新規就農まではしないだろう。

ちなみに、例えば「私は日本一おいしいトマトを作るために就農したい!」というような人は、それはそれでやり方があると思うので、この記事は参考にはしないでほしい。これはあくまで、「田舎で暮らしたいけど、田舎にはちょうどよい転職先がないし、前から農業には興味があったし、農業で暮らしていけるなら農業っていう選択もありかな」と言うくらいに考えている人へのアドバイスである。

(4)農業の学び方

前回書いたように、農業は技術職であるため、まずはその技術を学ばなくてはならない。ではどうやって学ぶかということだが、あらゆる職業について言えるように、その技術のほとんどは書物のみでは学ぶことはできない。だから結局は、この問いは「どうやって学ぶか」ではなく、「誰から学ぶか」という問題に帰着する。

私の場合は、先輩農家Kさん兄弟からたくさんのことを教えてもらった。たぶん、Kさん兄弟がいなかったら就農していなかったと思う。農業を教えてくれる人がいなかったら農家には絶対になれない。実は正直言うと、こちらに来たときは林業を仕事にしようかと思っていた。林業なら、森林組合で働けばそこでいろいろ教えてもらえる。でも農業を教えてくれる人がいるなら、そっちの方がいいと思って農家になった。今でも山仕事を自分の生業の一つにしていけたらいいなと思っているが、職業として考えると、林業よりも農業の方がずっと自由度が高く、創意工夫の余地がある。

話が少し逸れたが、農業を学ぶためにはまず「先生」に出会わないといけない。 でも移住する前からそんな「先生」がどこにいるか分かるわけもないし、移住した後でもそんな人がなかなか見当たらないということだってある。

ということで、農業を学ぶのに一番無難な方法は、いろいろな団体がやっている農業の研修に参加することだ。例えば農業公社の研修なんかでもよい。農業公社というのは、農業にまつわるいろいろな事業を行うために自治体が設置している公共企業である。この農業公社が、1年とか2年、素人を研修生としてやとって農業のやり方を教えてくれる制度がある。でも農業公社の研修を受けた人というのを個人的には知らないし、あまり評判も聞かない。南さつま市の農業公社の研修プログラムを見てみても、研修を受けられる作物が1〜2種目しかなく、独り立ちするに十分な内容を教えてくれるのか未知数である。ただし、賃金が払われるということが農業公社のいいところである。一度話を聞きに行くのがよいと思う。

また、農業大学校が社会人向けに提供している各種の研修プログラムもある。これも期間は1年くらいのものがよい。1年かけて、様々な作物の育て方を学ぶような研修だ。鹿児島農大のやっているこの種の研修はけっこう実践的でいいらしい。農大では年中いろんな研修をやっているが、単発のものではなく、主に実技を訓練する長期間の研修を受けるのが効果的だ。講座方式の、座学ばかりの農業塾のようなものは、いくら受けてもあまり意味はないような気がする(でも別に実践を教えてくれる人がいるならこれはこれで参考になる)。

他にも、農家に研修生として受け入れてもらうという手もある。農水省がやっている「農の雇用事業」というのがあって、先進的な農業法人等に研修生として受け入れてもらって、その費用の一部が補助される仕組みが利用できる。積極的に受け入れをやっているところがあれば、これも使える制度だ。しかしこの場合も、結局「人の縁」の側面があるし、どんなことを学べるかは受け入れ先の農業経営次第なので、確実性を求めるなら公の機関が準備している研修に参加するのがいいだろう。

なお、農業に携わっていない人からすると、1年も研修を受けるのは随分と悠長な感じがすると思うが、農業は3年してやっと他の職業の1年間の経験ができると思った方がよい。作付は1年に1回しかできない作物も多いし、何しろ全ての季節を経験するにはどうしても1年間の研修が必要である。1年間研修するというのは一見長いように見えるが、これは普通の職業訓練でいうと4ヶ月くらいの内容に相当すると思う。

(5)畑の見つけ方

移住してどうやって畑を見つけるか、ということだが、農業公社や農法業人の研修を受けた場合は、かなりの程度研修先が土地の斡旋をしてくれると思う。農大の場合はそういうことをしてくれないが、いずれにしても1年間も研修を受けていたら、その間にそれなりの人の繋がりが出来ていると思うので、畑を貸してあげるよ、という人が現れるはずだ。

ただ、新規就農の場合は不利な条件の畑しか選べないということは覚悟するべきである。巷では耕作放棄地の増加などが報道されて、農地はいくらでも余っているというイメージがあるがそれは実態と全然違う。耕作放棄されているのは、山の中にあって、狭くて傾いていて不整形で、日当たりが悪かったり車が通る道が近くまでなかったり、石だらけの土地だったりする。そういう、耕作に適さない土地が放置されるのは当然なのだ。逆に、生産性の高い農地(人里に近く、広くて平坦で四角く、日当たりがよく、道が通っていて、土質がよい土地)は引っ張りだこである。

だから、新参者に貸せるのは、他の農家がやらないような条件の悪い土地になる。といっても、極端に条件の悪いところ(道がないところだけは辞めた方がよい)を避ければ、最初の一歩としての農業なら、そういうところでもそれなりに活用できると思う。高齢化で耕作を辞めていく零細農家が多いのも事実なので、焦らなければ全く見つからないということもないだろう。

ちなみに、農地というものはおいそれと買うものではないので、農業=農地を買わなくちゃ、と考えている人がいるとしたら修正して欲しい。農地は農地法という法律で保護されており、原則として耕作者以外に売ることができないので、まだ耕作していないうちに農地を手に入れることはできない。なので、最初の農地は誰かから借りるということで始めなくてはならない。

農地の賃借料の全国的な相場は知らないが、この付近では10aあたりで(条件の悪いところは)田んぼや畑で5,000円/年くらい、果樹の植わっている樹園地で7,000円/年くらい、耕作放棄地で2,000円/年くらいだろうか。でも人の縁があるならば、これは全てタダになる可能性があるので、相場というのはあってないようなものである。しかしこれらの金額を払ったとしても、農地を借りる費用というのは、面積が広くなければそれほど高くはない。

都合よく縁あったとして、最初にどれくらいの土地を借りたらよいのかということだが、1年間の研修を受けたとすれば30aくらい、近くに「先生」が見つかって、その人に教わりながら農業をやってみるとすれば10aくらいがよいのではないだろうか。10a=1000㎡なので、農業で生活を立てるには不可能な相当狭い土地だが、最初はどうせ生活は成り立たないので、しゃかりきになって広い農地を相手にするよりも、10aでいいからいろいろ試行錯誤したり、真面目に管理したりする方が、遠回りでも勉強になると思う。

(6)農業用倉庫の作り方

農業を経営していくには、絶対に必要な施設設備が3つある。第1に先述したとおり農地、第2に農機具、第3に農業用倉庫である。農地と農機具(トラクターなど)はイメージしやすいと思うが、農業に関係していない人が意外と忘れているのが農業用倉庫である。でも実は、この農業用倉庫こそ農業経営の要であると私は思う。

農業用倉庫というのは、農業機械を保管したり、収穫物を貯蔵したり、出荷調製作業(規格分け(選別)、箱詰め、配送作業など)をしたりするための場所である。農地が農業のフロント(店舗)とすれば、農業用倉庫がバックヤード(事務所や倉庫)にあたる。バックヤードのない店舗というのがありえないように、倉庫のない農業もありえない。

しかも、農地というのは交換したり、借り替えたりして動かして行くことができるし、農機具も逐次更新していくものだからこの2つは動産的に考えられるが、農業用倉庫は純然たる不動産だから一度設置したら簡単には変えられない。農業用倉庫をどこに設置するかで農業経営のかなりの部分が決まると思う。

例えば大浦町の場合で言うと、田んぼの広い干拓地に近いところに大きな農業用倉庫があれば大規模米農家になれる可能性があるが、私の住んでいる山手に倉庫を建ててしまったら大規模米農家になるのは難しい。干拓地までトラクターや田植機を2トントラックで運んでいく手間はかなりのものなので、物理的にそこまで耕作の手を広げることができないからだ。

というわけで、農業用倉庫は絶対に必要だがちゃんとした考えなく作ってはだめで、特に建設はできるだけ先延ばしするのがいいと思う。自分のやりたい農業の姿が見えてから、その農業をやるための適地に、必要十分な大きさで倉庫を作るのが理に適っている。

しかしながら、本格的に農業をするには農業用倉庫は絶対不可欠なのも事実である。だから、最初に耕作する農地は10aくらいに留めておいた方がよいとしたのである。これくらいならちゃんとした倉庫がなくてもガレージの隅でなんとかなるレベルである。技術を学ぶだけなら規模はさほど必要ない。まず農業の技術を学び、その中でやりたい農業の形を探して、それに適した場所に農業用倉庫を作ったらよい。ちなみに、空いている倉庫も多少はあるので、運がよければそういう倉庫を譲り受けることもできると思う。

農業用倉庫の予算だが、最初から大きくて立派なのを作ろうとしなければ、だいたい150万円〜300万円くらいだと思う。これが就農当初の最大の投資になるが、各地で倉庫建設には補助があるので、100万円くらいは補助で浮く。しかしもちろん補助には審査があるので、それまでにある程度の農業の形が見えていないと審査も通らないだろう。

(7)農業の始め方とその後

これ以降の話は、どのような農業が行われている地域に移住するか、誰を農業の「先生」にするかといったことで千差万別だと思うので、それぞれの農業 の「先生」に教えてもらいながらやるしかないが、農業に触れたことのない人にとって、その後のプロセスがどうなりうるのかが全く不明だと不安もあるだろう。

というわけで、あくまでも私の経験と鹿児島県の現状から考える農業の始め方とその後を書いてみたい。

全くゼロから就農する人の農業の始め方としてオススメなのは、移住した地の特産品を作ってみることである。特産品は、その地の気候に合っていて、栽培技術も確立しており、農業資材も手に入れやすく、販路がしっかりしていて、しかも周りの人がいろいろ教えてくれる。その上、地域の農業者が新参者を担い手として期待してくれる。

それなりに農業に夢や愛着を持って参入してくる人としては、みんなが作っているものを同じように作ることに物足りなさを覚えるかもしれない。もっと、珍奇な野菜とか、有機栽培とか、真新しい取り組みに魅力を感じるかもしれない。もちろんそういう新しい風はどんどん起こしたらいい。でも最初からそういう道なき道を選ぶのはリスクが高い。まずは、その地域で確立した道を進むのが楽でいい。

例えば、鹿児島の志布志市農業公社は、ピーマンの栽培で新規就農者を積極的に受け入れているが、別に「ピーマンが作りたい!」という強い気持ちがなくても、まずはピーマンという作物を入り口にしてそこから発展していけると思うので、そういう準備された道を行くのが一番確実だ。

私の場合も、周囲の勧めや支援もあって特産品の「加世田のかぼちゃ」やポンカン・タンカンを作っている。このうち、特にかぼちゃの栽培はとても勉強になる。というのは、特産品はかなり栽培技術が研究されているので、単なるハウツーではなく栽培理論まで深く学ぶことができるからだ。特産品を作るというのは一見横並びでつまらないことだが、実は他の作物にも応用できるような勉強ができる良策と思う。

特産品を担っているのはほぼ農協なので、このやり方だと農協に加入してやっていくことになるが、農協にはぜひ加入したらよい。農協は低収入農業の元凶に言われることもあるが、これも実態とはちょっと違う。日本全体(マクロ)の農業を視野にいれたら農協が悪い部分もあるが、個人(ミクロ)の農業経営だけを考えたら農協がないデメリットの方が大きい。少なくとも、「農協に頼っているから日本の農家はダメなんだ」というような、マクロとミクロを混淆した農業談義に与してはいけない。農協を利用するメリットがあるところは利用し、農協よりも有利なやり方があればそれを採用すればよいだけで、是々非々でやっていくのがよいと思う。

ともかく、特産品を入り口として、最初の農地10aを管理してみるのが農業経営の第一歩だ。そしてとりあえずの目標は、この10aから年間20万円の利益を上げる、というくらいではなかろうか(その10aがビニールハウスだったら50万円くらい?)。 反収20万円というのは決して簡単な目標ではないが、管理するのが10aだけだったら初心者でもそれほど困難ではない(年に2回作付するとして、1作あたり10万円の利益を上げるということ)。

10aで20万円が達成できたとすると、何年かかけて農地を10倍にすると200万円となって、ある程度の収入になる。が、話はそんなに簡単ではない。単純に規模拡大すると、特定の時期に作業が集中したり、天候不順などのリスクに弱くなったりするので、農業をある程度多様化していかなくてはならないからだ。だから徐々に規模拡大しながら、農閑期に組み合わせる作物などを順次導入して、一年を通して忙しすぎない状態を作っていくのが理想である。利益だけを考えたらひたすら特産品だけを規模拡大して作るのもアリかもしれないが、人間は機械ではないので特定の時期だけとはいえ休み無しで働き続けるのも無理である。

こうした事情を考慮して農業経営を拡大していくことを考えると、5年ごとに局面が変わっていく農業経営のモデルとして次のようなものが考えられる。
第1ステージ(〜5年):農業を開始し、少数の作物でまずは利益を出す農業を勉強する段階
第2ステージ(5〜10年):経営の規模を拡大し、様々な作物を導入して経営の基盤を確立する段階
第3ステージ(10〜15年):作付体系の中で、利益の薄いものや他の作物の経営を阻害しているものを思い切って辞めたり縮小し、作業効率を高め、生産性の高い農業経営を作る段階
第4ステージ(15年〜):効率のよい農業をしているため時間的・資金的に余裕があり、そのため珍奇な作物の導入や新しい取り組みにも積極的に取り組める段階
言うまでもなく、第4ステージが農業経営の一つの完成であり、この段階で最高の収益を上げることになる。

それで一つ注意しないといけないのは、家族で移住して就農する場合はライフステージとこの農業経営の発達ステージが対応している必要があるということである。日本の場合大学教育にやたらと金がかかるので、子どもが大学進学を控えるまでにこの第4ステージのところへ到達していないといけない。ここでは一つのモデルとして15年を目安としたが、これより早い場合もありうるし、自然災害などの影響でいつまでも到達しない場合もある。しかしどう短く見積もっても10年はかかると思うので、子どもが既に産まれている家庭の場合は、大学進学を10年以内に控えているのなら(つまり子どもが既に8歳くらいになっていたら)、新規就農は絶対に辞めた方がいいと思う。そうしないと子どもの可能性を狭めることになる。

(つづく)

2016年2月14日日曜日

田舎に移住して農業でもして暮らすか、講座(その1)

こちらに移住してきてから5年目である。

農業を始め、農産加工にも取り組んでみて農業がどんなものなのかはわかってきた。その他、イベントを開催してみたり、地域の行事にもいろいろな面で携わらせてもらった。そういえばこちらにきてから下の娘も産まれてもう3歳である。

私みたいに、何をするかはっきりとは決めずに田舎に移住するという人も少ないとは思うが、余裕のない都会暮らしをしている人は、「いっそ田舎に移住して農業でもして暮らしたい」というような漠然とした移住願望を持っている人もいると思う。

そこで、「田舎に移住してこれをやるぞ!」というような強い意志があるわけではなく、なんとなく「農業でもするか」と考えている人に対して参考になるようなことをつれづれなるままに書いていくことにする。

(1)田舎に移住して農業で生活が成り立つのか

私の場合、青年就農給付金というのを貰いながら生活していて、これは農水省がくれる年間150万円の補助金である(金額は私の場合)。たぶんこれがなかったら生活できていなかったと思う(補助金は今年の夏で終わる)。でも逆に言うと、これのお陰で日銭を稼ぐ心配をせずにノンビリやっている面もあるので、なかったらなかったで必死で頑張ってなんとかなっているかもしれない。

とはいっても、農業というのは技術職であって、基本的には自分の技術をお金に換える手段である。だから農業を始めたばかりの人は、当然技術がないわけだから収入も低い。少なくとも3年くらいの間は勉強をメインにすべきであり、しばらくは貯金を取り崩すような生活をしなくてはならないと思う。(なお、ここでいう「勉強」とはもちろん座学のことではなく、収入を度外視してやる「仕事」のこと。)

よって、生活の固定費用をできるだけ下げることを考えなくてはならず、例えば住居費(家賃)であればどんなに高くても3万円以内にした方がいい。3万以下というと、都会の水準だとどんなウサギ小屋だと思うかもしれないが、田舎の市営住宅なんかだとそれくらいで割と普通の部屋に住める。

その上で、農業で生活が成り立つのかということだが、実は私もまだ生活が成り立っていない。でも4年目くらいから、「ああ、これくらいのことをすれば農業で身が立てられるはずだ」という相場観が分かってきた。現在定植している果樹が収穫できるようになれば多分暮らしていけると思う。農業でちゃんと収入を得るのは大変だが、少なくともそういう見通しが立てられるくらいの大変さである。

(2)移住先の決め方

最近、移住を勧めるのが田舎の自治体の流行りで、移住への支援制度が充実してきている。私が越してきた時の南さつま市にはなかったが、移住する時に一時金をくれるとか、リフォームの補助を出すとか、そういう支援サービスがこの3、4年で随分増えてきた。それで、田舎に移住したいなあという人はそういう支援サービスを自治体ごとに比べているかもしれない。

でも私の考えでは、そういうサービスがうまく使えるかどうかは役所の担当者次第だし、そういうことよりも、人の縁を大事にして移住先を決める方がよほどよいと思う。役所の支援プログラムなんかより、結局は「近くの他人」の方がずっと頼りになる。新規就農への支援も自治体ごとに様々で、一部には非常に支援が手厚い自治体もあるが、自治体のやることであるから大体はドングリの背比べである。しかし人と人との繋がりはそういうわけにいかない。縁があるか、ないかは人生を左右する。

農業するのに有利な土地、厳しい土地というのも確かにある。山奥の、あまりにアクセスの悪いところ、狭小な畑のところは農業するには辛いところである。でもそれでも、そこに頼れる人がいるなら住めば都になるだろう。それどころかそういうところだからこそ面白いことができるかもしれない。人の縁を信じて移住するのがよいと思う。

ところで、どうせ田舎に移住するなら味のある古民家に住みたい、という人も多い。そういう場合、自治体にこだわらずまず入居可能な古民家を探して、そこを移住先に決めたい、という人もいるかもしれないが、それは現実的にはかなり難しい。古民家というのは住宅市場にほとんど出てこないからだ。インターネットに載っているような物件から探すということだと、氷山の一角のさらにひとかけらである。

ではどうすべきかというと、古民家の残っていそうな田舎だったらどこでもいいので、やはり人の縁を頼ってまず移住してしまうのがいいと思う。そして月並みな物件に入って1年くらい暮らしてみる。人間関係が普通に築けていけば、古民家を探していると言いふらしておけば1年もすると「あそこにいい家が残っているよ」という話がポツポツと出始めるだろう。ちゃんとした人だということが知られているなら、家賃なんかはほとんどタダみたいなもので貸してくれる可能性もある。

そんな悠長な引っ越しできるかいな! と思うのであれば、それはセコセコしすぎである。田舎では万事焦ってはだめだと思う。というより、セコセコしたいなら都会で暮らす方がよい。家を探すのでも、インターネットや不動産屋を使って積極的に探すというよりも、むしろ向こうから話がやってくるのを待つくらいの余裕がないといけない。

かといって、田舎で農業をしながら暮らすということが、都会の人が考えるようなのんびりとしたものかというとそうでもない。もちろん、残業といってもタカが知れているし(暗くなったら外作業はできない)、分刻みのスケジュールのようなものはない。残業続きで休みがないような職場に比べれば、ゆとりがあるのは確実である。

しかし農業はそれほど暇ではない。どうしてかというと「貧乏暇無し」という言葉があるように、いつもあれやこれやに追われながら様々な仕事をこなす必要があるからで、特に就農したての頃は休みらしい休みもなく働くことになる。ただ、独立就農の場合はそこに上司も部下もいないので、忙しいといっても都会の仕事でいう忙しさとは随分性質の違う忙しさで、休日を心待ちにするような忙しさではないと思う。

(3) 当面の資金はどれくらい必要か

先述のように、家にかかる費用は極力抑えるべきということで、引っ越しや転居の初期費用(ちょっとしたリフォームとか)は除いても、最低限の農業経営を開始するということを考えたら500万円くらいの元手がいるというのが私の考えである。内訳として、当面(2年くらい)の生活費として200万円、農業にかかる施設設備の準備や機械の購入に充てるお金として300万円くらいである。この500万円が、普通の会社でいうところの資本金のようなものだと思ったらよい。

私の場合、これよりもうちょっと多いくらいのお金を農業経営を立ち上げるために使った(もちろん生活費も含めて。ただし農産加工にかかったお金は除く)。どんな農業をするかによってこの金額は様々だが、軽トラックや倉庫といったものはどうしても必要なので、資本金が少なすぎるとそれだけで非常に苦労する。それに、農業法人などに就職するのでなければ、農業といっても独立自営業である。自営業を打ち立てるというのに、資本金もほとんどないというのでは就農そのものがホンキにされない可能性がある。

しかしそういう商売の面を除けば、田舎の生活というのは、都会の人が思っている以上にお金はいらないものである。野菜がタダでもらえるとか、そういうことではない。私の住んでいるような相当な僻地だと、お店そのものがないからお金を使う機会がない。これが一番大きい。少し都会に出るとあれやこれやですぐにお金が飛んでいくし、実際お金を使わないと生活の質がガタ落ちする。でも田舎では、お金を使うところも少ないし、お金を使わなくてもそれなりに楽しい生活ができる。

一方、全くのゼロから農業を始めて、どれくらいの所得が見込めるのかというと、だいたい1年目20万円、2年目50万円、3年目100万円というくらいの感覚で考えたらいいと思う。もっと早く一人前になるような農業のやり方もあると思うが、割とゆっくり成長していくことを考える方が失敗のリスクが少なく、これくらいと思っていた方がよい。そしてとりあえずの所得目標は250万円くらいではないだろうか。日本の平均年収から考えると随分低い目標だが、田舎でこれくらいの所得があれば夫婦と小さい子どもならとりあえずやっていける。

農業というのは、少額を稼ぐだけならさほど難しくはない。野菜を作って物産館に持っていくだけで、月に1・2万円だったらすぐに稼げる。だが、それを10万円・20万円にしていくのが難しい。 作業量を10倍にすればよいという問題ではなく、少額を稼ぐ農業とまとまったお金を稼ぐ農業は別のものだと思った方がよい。農業の経営を行うということは、結局はこの「まとまったお金を稼ぐ農業」の体系をどう作っていくかだと思う。

(つづく)

2016年2月11日木曜日

炭素と「白色腐朽菌」を畑に補給

先日、近くの山から腐葉土と落ち葉(が混ざったもの)を取ってきた。

これを何に使うのかというと、野菜作りに使う。私は物産館に出荷する野菜を無農薬・無化学肥料で作っているが、実は今のところ無肥料で作っていて、これは無肥料の畑に投入する資材なのである。

「無肥料」というと、畑になんにも入れないというイメージがあるかもしれない。でも何も土壌に投入しなければ、収穫物を持ち出す分、土の栄養分はどんどん失われていくので土地が痩せていく。なので肥料以外のもので物質の損耗分を補う必要があり、私の場合、それがこの腐葉土なのである(腐葉土は肥料成分がほとんどないので肥料に分類されません※)。

でも腐葉土は田舎ではタダで手に入るとは言え、山の中から人力で運んでくるのは重労働だ。しかも肥料なんかよりよほどたくさん入れないと効果がないので、「無肥料」なのに畑へ投入する資材の量は10倍くらいあるかもしれない(「無肥料」の畑の全てがこうなのではなくいろんな農法があります)。

無肥料までいかなくても、有機栽培でも何が大変かというと、栽培技術云々の前に投入資材の入手に手間がかかることが多い。農薬・化学肥料を使う普通の農業がやりやすいのは、その技術が確立しているからではなくて、単に肥料や農薬がJAの購買所に売っているから、という単純な理由であるような気がする。実際、私の畑は大した広さでないから山から取ってくるというような昔ながらのやり方で済んでいるが、仮に規模が今の5倍になったらとてもじゃないがこういうことはできないと思う。

ところで、この腐葉土や落ち葉を何のために入れるのかというと、基本的には炭素の供給である。

肥料の主要成分として窒素・リン酸・カリウムの3つは有名だが、炭素が栄養になるとは聞いたことがないだろうと思う。それもそのはずで、植物は炭素(C)を大気中の二酸化炭素(CO2)から取り込むことができるので、土中には必要としない。それどころか、炭素(正確にはセルロースなどの炭水化物)が土中に豊富にあると、この分解のために植物の栄養の窒素(N)が費消されてしまうので、投入資材の炭素と窒素の比率(C/N比)は低く抑えなくてはならないと言われている。

しかし、土づくりの主役である土壌微生物は、炭素を食べて暮らしている。我々が炭水化物を主食としているように、動物である土壌微生物も炭水化物が主な栄養源なのである。ということは、土壌微生物を豊かにしてよい土をつくるためには、土に炭素を豊富に供給しなくてはいけない。

しかしそこでジレンマが起きる。先述の通り、土中に炭素が豊富にあると植物の栄養である窒素が少なくなって、植物の生育が悪くなるのである。土作りのことを考えれば炭素は豊富な方がよいが、植物の生長を考えると炭素は少ない方がよい。

ではどうするか。一つのやり方として、炭水化物をなるだけスムーズに分解させ、土中の窒素の消費を低く抑えるということがある。実はそのための資材が腐葉土や落ち葉なのだ。

山の落ち葉を少し掻き分けてみると、写真のように白い糸のようなものが見える。これが炭素を速やかに分解する「白色腐朽菌」である。植物の木質(木や草の堅い部分など)というのは、リグニンやセルロースといった極めて分解が難しい炭水化物で出来ているが、白色腐朽菌はこれを分解できる数少ない菌なのである。肥料が何も補給されないだけでなく、落ち葉などの高炭素資材(窒素分が少なくて炭素が多い物質を農業ではこう呼びます)しか補給されないのに山の土が豊かなのは、この菌のお陰なのではないかと思う。

こういった炭水化物を強力に分解する菌が土中にたくさんいると、炭素を豊富に与えても速やかに分解して窒素の費消を抑えるので、先ほどのジレンマを解決することができるというわけだ。私がわざわざ山に腐葉土や落ち葉を取りに行ったのは、炭素の補給はもちろんだが、この白色腐朽菌の方も重要な目的だったのである。

でも実は、シイタケやナメコといったキノコ類も白色腐朽菌の仲間である。だから、シイタケやナメコの廃菌床なんかが手に入れば、わざわざ山に落ち葉取りに行く必要はない。

とはいっても、廃菌床はかなり腐った感じになっているし、ビニール等でパッキングされているし、それはそれで使う苦労もありそうである。やっぱり、肥料として売っているものを使うわけではない、というところがこういう農業の難しいところだ。

と、いろいろ書いてきたが、こういうやり方で持続可能な(収入がちゃんとあるという意味も含めて)栽培ができるのかどうか、というのも実はまだ実験中である。私が無肥料での野菜作りを始めたのも、「無肥料が体にいい・美味しい」とかいう話からではなくて、まずは極端なことをやっていろいろ勉強してみようという目的からである。

でもこれまでのところ、無肥料にすると確かに野菜が壮健になり、美味しくなるということが実際あるようだ。労力が普通より随分かかかるので、正直いつまで続けられるか分からないがこのまま試行錯誤を続けてみようと思う。

※正確には、腐葉土は「特殊肥料」というものに分類されており、腐葉土を施用するのもまかりならんというストイックな「無肥料栽培」も存在する。

2016年2月7日日曜日

寄り道と街の発展

イオンのショッピングモール
前回の記事で、「イケダパン跡地を有効利用したら?」ということを書いたら、思いの外賛同の声があったので、調子に乗ってまちづくりについてもうちょっと語ってみることにする。

さて、加世田には、南さつまの中心街として物足りないことが一つある。

それは、「歩いて楽しむ通り」がないことだ。都市には、いくら車がたくさん通行していてもそれで十分ではなく、「人通り」のある場所が必要だ。

歩道がいくらでもあるじゃん、と思うなかれ。言いたいのは、歩道があるとかないとかそういうことではなくて、なんとなく歩いても楽しく、いつも幾ばくかの人が歩いていて、できればステキな店へと通じているような、そんな通りがないということである。

…ところで、いきなり話が変わるようだが、東京から田舎に越してくるとみんな運動不足になる。東京では電車移動が中心で、駅から目的地まで歩くのは当然として、乗り換えでだって駅で結構な距離を歩かされるから日常生活で結構歩くのだ。通勤通学するだけで2キロや3キロ歩いている人はザラではないだろうか。

その上、街は歩いて回遊するように出来ているから、散歩すると楽しい。私も東京に暮らしていたとき随分散歩が好きだった。道すがらいろんなお店を見つけたり、史跡に出会ったりするのがとても楽しかった。今でも散歩は好きである。でも、やっぱり田舎だと車移動が中心になる。これはしょうがないことだとは思う。

でも街のどこかに「歩いて巡る場所」がなければ、その街は衰退していかざるをえないように感じている。歩くことと文化・経済の発展とは、意外に大きな関連があると思うからだ。

東京で街中を散歩すれば、楽しいがやっぱり疲れる。歩くのは結構な運動だ。そして疲れるから休みたくなる。だからカフェに入って休憩する。そこで見知らぬ人との出会いがあったり、立ち止まって物事を考えたりする。それが人生に新たな展開を生む。それが都市に生きることの醍醐味だと私は思う。歩く、買う、休む、そしてまた歩く、そのリズムが都会の通奏低音になっているような気がする。

車文化の田舎だとそういうことがない。目的地から目的地まで車で行けてしまう。ドアからドアまで歩かないから疲れない。疲れないから休まない。休まないから田舎にカフェは少なく、見知らぬ人々が交錯する場が少ないのかもしれない。

カフェがあるのかどうかと「文化・経済の発展」という大上段の話がどう繋がるのかピンと来ない人のために少し事例を出せば、フランスのサロン(これは正確にはカフェではなく会員制クラブみたいなものであるが)が科学・哲学・文学・音楽といったフランス近代文化を揺籃したことはよく知られているし、イギリスのコーヒーハウスはかつて経済人の交わりの中心的装置であって、世界の保険業界を牛耳るロイズ保険組合を生みだしたほどだ。ロイズは、カフェ店そのものが発展して保険組合にまでなっており、カフェ文化の申し子である。

カフェはただコーヒーや紅茶を飲んで一服入れる場所ではなく、文化や経済の発展に重要な役割を担っているのである。私も年に1回、笠沙美術館を借り切って「海の見える美術館で珈琲を飲む会」というカフェみたいな催しを開催しているが、これは私がコーヒーが大好きというだけでなく、コーヒーを共に楽しむことが誰か(もちろん私含む!)の人生に何か面白い展開をもたらすことを期待している部分もあるのだ。

話を戻すと、歩くことの効用はカフェの存在だけではない。

歩いてどこかへ行くことの最大の利点は、寄り道がしやすいということである(もちろんカフェも寄り道の一種だ)。車やバイクでも寄り道はできる。が、徒歩や自転車での寄り道とは比べるべくもない。寄り道もまた、文化や経済の発展に非常に重要な役割を担っている。特に、文化と寄り道の関係は切っても切れぬものである。

というより、文化そのものが寄り道や回り道みたいなものだ。例えば、茶席でお茶を喫する時、わざわざ茶碗を3度回して正面に向けて飲む。いやそれだけでなく、ただお茶を飲むだけのことに数え切れないくらいの作法と仕草が決められている。めんどくさい作法を決めずにただ飲む方がよほど無駄がないのに、 なぜ小うるさい作法や仕草によって遠回りするのか。

それは、ややこしくしたり、小難しくしたり、遠回りしたりすることこそが文化の本質で、目的に対して合理的なだけの直線的なやり方をするのはむしろ野蛮に近いからであろう。極端に言えば、目的地へ最短で到達するのは(文明的ではあっても)文化的ではなく、目的地へ着くまでに寄り道したり、敢えて遠回りしたりする方が遙かに文化的なのだ。

これは、学問なんかにも当てはまる。効率よく学ぶには公文式のようなやり方が合理的だが、興味関心の赴くままに寄り道しながら非効率的に学ぶ方が、結果的には深い洞察へと到達することが多い。人工知能が今よりずっと発展すれば、単なる学習ということでは人間はコンピュータに太刀打ちすることは出来なくなることは明白だが、それでも(たぶん)コンピュータに「寄り道」はできないということが、ギリギリのところで人間の優位性を確かにするような気がする。

目的地への最短経路を探すのはコンピュータでもできるが、寄り道するのは人間にしかできないのだ。それが、人間らしさの大事なところだと思う。

そういう、理念的な話だけでなく、寄り道には現実的な効用もある。それはスモールビジネスが発展するには、寄り道が必要だということだ。ショッピングセンターとドライブスルーにしか人が行かないような車移動の街では、どうしても新たな客商売の立ち上げというのは難しい。

そういう街では、大通りに面した広い駐車場の入りやすい店でないと成功はおぼつかないが、商売を始める時にいきなりそういう大型投資は難しい。やはり路地裏の5坪くらいの店から始めるのが、スモールビジネスのスタートとしては気が利いている。でも、車社会で寄り道のない街だと、そういう店は成り立っていかないのだ。だから、かなりの程度成功が確約された、無難なチェーン店ばかりの街になってしまう。

もちろんチェーン店が悪いというわけではない。でもそういう店ばかりで、地元の小さな手作りの店が参入していく余地のないような街は、結局街として消費者の地位に甘んじるしかない。都会でつくられたサービスを受け入れるだけの街に。逆に、新たな価値を生みだしていく街になるためには、そこから小さなビジネスが巣立っていく場所にならなければならないと私は思う。

そのために、街の中心部には「歩いて楽しむ通り」があるべきだ。

気軽に寄り道が出来るような「歩いて楽しむ通り」は、街の人々の小さな夢を育てていくゆりかごになる。裏通りのささやかな店が成り立っていく街であるためには、街の中心にそんな通りが絶対必要なのである。

そんな通りを南さつま市にもつくるとしたら、候補地は(前回書いたイケダパン跡地の他に)本町の商店街だろう(通称ゆめぴか通り)。

本町の商店街には既に歩きやすい歩道が設置されており、幸か不幸か空き店舗も多い。私は下水道の敷設には反対だが、この通りをより魅力的にするために再開発するというならば大賛成である。

そして私がこの通りに可能性を感じる最大のポイントは、通りが一直線ではなく微妙にカーブしていることで、実は「歩いて楽しむ通り」の(必須ではないが)かなり重要な要件は、カーブしていて見通しがよすぎないということなのだ。

ところで、歩くことをよく理解しているなと感じるのはイオンのショッピングモールだ。イオンのショッピングモールは、直線的でなくカーブを描いて専門店街が構成されており、非常に歩きやすい。実は徒歩移動は直線が苦手で、ずっと遠くまで見渡せる直線道路というものは歩いていると疲労感があり寄り道もしづらく、それどころが目的地すら「あんなに遠いなら今日はパス」となりがちである。

それが不思議なことに、微妙にカーブしていて目的地が見通せないと結構遠くまで苦もなく歩くことができ、さらに重要なことに、いろんなお店の店構えが自然と目に入ってきて寄り道(つまり衝動買い)を誘うということがある。

そして買い物は結構疲れるので、休憩しようとフードコードに入るとやっぱりここも微妙にカーブしてお店が配置されていて、非常に目移りしやすいようになっている。真四角のスペースに碁盤の目上にお店を配置するほうがよほど合理的であるが、実際にはやや不整形なスペースにやや不規則にお店がある方が人々は移動の苦を感じず、余計な購買を誘うようである。

衝動買い、無駄遣いはよくない、というのは一面のことに過ぎず、商売をやっている人からすればできるだけお客さんには衝動買いや無駄遣いをして欲しいわけだし、このイオンの戦略は(道義的に)悪いものではない。だいたい、必要なものを必要なだけ、最も合理的な方法で手に入れるというだけだったら、もうコンピュータが自動的に生活必需品を発注するような仕組みがそこまで来ているわけで、人間の購買はいらない。むしろ衝動買いや無駄遣いこそ人間らしい消費のあり方だとさえ言えるのである。

また、こういう人間心理を上手く衝いているのが「カルディコーヒーファーム」で、見通しが悪い店内に不整形な棚を配置し、ちょっとカオス気味に商品を陳列させて店内を探索する楽しみを与えているのが上手だと思う。商品はわかりやすく、探しやすくあるべき、というのがかつての小売りの常識だったと思うが、それの真逆を行っているわけだ。

「カルディ」は消費者が求めている商品を提供する店ではなく、消費者が今まで知らなかった(探していない)新しくて面白い商品をどんどん提案する店なのである。同様の手法をとった店として、「ヴィレッジ・ヴァンガード」や(ちょっと違うが)「ドン・キホーテ」を挙げることも出来るだろう。

他にも、東京にかつてあった「松丸本舗(丸善のインショップ)」なんかは、書店であるにもかかわらず、どこに何の本があるかがにわかには分からず、本同士の有機的な連環にそって本が配置されているという革命的な手法が面白かった。この本屋も、四角いスペースに四角い棚という普通の本屋ではなく、回廊的な不整形の棚の配置をしていた。そしてもちろん、この本屋も、「探していた本を見つける」ための場所ではなく(それならもはやAmazonで十分)、ここに来ていなかったら出会わなかったかもしれない一冊と出会うための場所として構想されたのである。

少し事例が煩瑣に過ぎたかもしれないが、クリック一つで欲しいものにアクセス出来る時代になっており、田舎においてもリアルの購買活動の比重は「予期せぬものとの出会い」に移って来つつあるのではないか。その際に求められるのは、碁盤の目上に整然と区画された合理的な空間設計ではなく、ゆるくカーブした道にやや不規則にものが配置されていくという(前時代的なものとされていた!)かつての商店街的な場所なのだ。カーブしているかしていないかなんて些末なことと感じるかもしれないが、土地の構造は人間の心理に意外なほど大きな影響を及ぼしている。

そういう意味で、本町の商店街にはリノベーションのチャンスがあると思っている。適度にカーブして見通しはよくないが閉鎖感はなく開放的な場所。商売のインフラとして、本町の商店街の地相には魅力がある。

地相と言えば、天文館が中央駅前の開発で随分さびれたと言われても、やはり歩いて楽しい街としては中央駅なんかより天文館の方が断然上で、そのことだけでも暫くは天文館は生まれ変わり続けるという確信が持てる。事実、最近天文館はかつてとは違った街としてまた盛り上がって来ているような気がする。

同じように、加世田の本町もこのあたりで生まれ変わってみてはどうだろうか。

※冒頭画像はイオン九州のサイトより拝借しました。