2017年10月27日金曜日

島津久光と明治政府の対立——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その6)

島津久光
明治天皇が神代三陵を遙拝してから5日後の明治5年(1872年)6月28日、既に天皇は出発の予定になっていたが、悪天候のため鹿児島に足止めされていた。

そうした機会を捉え、島津久光は衣冠束帯の姿を整えて天皇の行在所に赴き、徳大寺宮内卿を通じ天皇に「14箇条の建白書」を奉呈した。

その内容は、当時明治政府が進めつつあった各種の改革を強く非難するものであった。久光は、明治維新の立役者でありながら、いざその改革が進み出すと明治政府と対立した。明治維新は、彼の思惑とは違うものになってしまっていたからだ。

改革を否定する「14箇条の建白書」は、当然のことながら政府首脳からは全く相手にされなかった。久光はそれでもめげずに、2年後の明治7年にも建白書を出した。それは先のものと同様の傾向の内容を持つ、20箇条に増えた建白書である。そこで彼が非難した事項は例えば次のようなものだ。

(1)天皇の衣装を洋服に改めた
(2)西洋の暦(太陽暦)を導入した
(3)皇室までも全て洋風に倣うようになった
(4)各省が外国人を雇って彼らの指導を受けている
(10)学校の規則を洋風にしている
(13)軍隊を洋式にしている
(16)邪宗(キリスト教)の蔓延を防がない
(17)外国人との婚姻を許した
(20)散髪脱刀して洋風になり、国風の衣装風俗を軽んじている
※番号は20箇条の建白書における順序に対応しているが便宜的なもの。

ここでは洋風を断ずる事項のみ抜き出してみたが、これが建白書の約半分を占める。要するに、久光が嫌ったのは明治政府の「文明開化路線」であった。彼は元々かなり守旧的な傾向を持っていて、明治5年の「14箇条の建白書」でも身分の上下、男女の別が緩んでいることを批判している。すなわち、久光は明治維新後も封建時代の雰囲気のまま、「尊皇攘夷」を続けていたのである。彼は死ぬまで、髷を切らず帯刀を辞めなかった。

そもそも、久光は全く新しい政体を作るつもりはなかったようだ。彼は、薩摩藩を中心とした雄藩連合や公家が皇室をいただいた、いわば天皇中心の「連邦国家」を構想していたのかもしれない。それは各地に「藩」という半独立国が存在するという意味で、封建主義の枠内で構想された政体であっただろう。

しかし幕末には忠実な家臣だった大久保利通も、いざ明治維新が興ればその手を離れ、日本を近代国家に変えるための仕事に着手していた。岩倉具視、木戸孝允、そして大久保らは日本を西洋風の中央集権国家に作り直そうとした。

そういう明治政府と島津久光の対立は、少なくとも明治2年、版籍奉還のあたりから始まっている。

版籍奉還自体は、明治2年(1872年)の正月に提出された薩長土肥の四藩による建白に基づいている。この建白書は四藩が自主的に出したものというより、政府がモデルケースとして四藩に率先して版籍奉還を行うよう求めた結果であるが、久光も版籍奉還の構想までは新政府にそれなりに協力的であったのだろう。しかし建白書を出したその1ヶ月後から、政府と久光の間には早くも暗雲が立ちこめた。上京して政府に協力するようにという天皇からの要請(勅書)があったのに、久光は病気を理由にそれを断ったのだ。

同様にこの要請を断ったのが長州藩の毛利敬親。薩長二藩は、明治維新をリードしながら、共に明治政府と対立を深めていた。

久光が天皇からの要請を断った理由が病気のためだけではなかったことは、その後幾度となく同様の要請が行われたことで知れる。

たびたび要請を受けた久光らは上京を決心。3月に京都に入り、天皇に謁見した。そして久光と敬親は「自分たちを要職につけてくれ」という趣旨の連名の建白書を奉った。結果、久光は「参議」に任命され、左近衛権中将を兼ね(これは形式的な官名)、従三位に叙された。

しかしそのたった数日後、久光はせっかく任命された「参議」を辞職する。これも表向きは病気をその理由にしていたが、本当に病気のためであるはずはなかった。改革を進める政府に、守旧派の久光の意見が受け入れられる余地はない。新政府には、既に久光の居場所はどこにもなくなっていたのだ。そこで久光はさっさと鹿児島へ帰ってしまう。

その後、政府は久光の慰撫に随分気を遣っている。 例えば6月には、戊辰戦争での功績を理由に久光を「従二位」に叙し、永世禄として破格の10万石を与えた。が、久光はこれをすぐさま辞退。久光によれば「陛下の神威と列聖在天の霊」による戦勝なのだから、自分などが賞典を受けるに値しない、というのだ。だがこれも表向きの理由で、久光の本心としては、体制内に取り込まれたくないという気持ちだったのだろう。しかしこの辞退はすぐには受け入れられなかった。

そうした中、明治2年6月17日、版籍が奉還され、久光の子で当時藩主を務めていた島津忠義が藩知事に任命された。当時、久光は薩摩藩主ではなかったし、一度も藩主を務めたことはなかった。彼は藩主の後見役に過ぎなかったが、「国父」として実質的な権限は久光の下にあった。つまり久光は形式的には明治政府と無関係でありながら、一方では西郷や大久保、それから大勢の士族たちを通じ隠然とした影響力を有していた。政府としては、久光は独立不羈の不気味な存在だったに違いない。

明治2年の6月には、久光の兄で前藩主の島津斉彬への「従一位」の追贈が行われた。明治政府の中でも追慕するものが多かった斉彬であり、これ自体は不自然な賞典ではないが、もしかしたら久光への慰撫という側面があったのかもしれない。

しかしこれを受け、明治3年(1870年)正月、久光は改めて位階を辞退する上表を行った。その上表文に言うには、明治維新にあたっての自分の功績は全て兄斉彬から受け継いだ「余慶」であるから、既に斉彬へ位階が追贈された以上、自分へも位階が叙されることは「褒賞を重ねる恐れ」があるというのだ。

この再三の辞退に、政府はしょうがなく「従二位」の奉還を認めた。だが政府は、久光を体制内にとりこもうとする努力をやめなかった。

また同月には、大久保利通が西郷と久光を鹿児島から引き出すためにやってきた。そして2月24日、久光と大久保は面談の最中に激論となり、大久保には「言うべからずの沙汰」、つまり「もうこれ以上何も言うな」との指示が下った。約10年の間、固い信頼関係で結ばれ、数々の困難を乗り越えてきた二人は、日本が向かうべき方向について決して理解し合えない分かれ道に遭遇したのである。

それでもこの年の5月には、木戸孝允が毛利敬親を連れて鹿児島を訪れ、久光親子と会見して「ともに力を朝廷に尽くして欲しい」と頼んでいる。

12月には、この件に関して正式な勅旨を伝えに、岩倉具視が鹿児島を訪れた。その勅旨に曰く「上京し、朕の輔翼大政を賛成し、各藩の標準となり大に皇基を助け」て欲しいと。また天皇からの詔書には、「久光は朕の股肱羽翼なり」とまで書いている。久光が天皇にとっての「股肱羽翼」——つまり一番信頼できる部下——だというのだ。これはかなりの気の遣いようである。しかも岩倉は、大久保利通、山県有朋、河村純義なども引き連れていた。しかし久光は、勅使の岩倉に会うことすらしなかった。代理として息子の忠義に勅旨を受け取らせたのである。ここでも口実に使われたのは病気だった。

明治4年(1871年)に入っても、政府からの上京の要請はたびたび行われた。そこで、久光は仕方なく4月に息子の忠義を代理人として上京させ、病が癒えないため出仕できない旨を弁明させている。

そんな中で、明治4年の7月、廃藩置県が行われた。

廃藩置県こそは、明治維新の改革の中で最大のものであった。というのは、大久保利通や木戸孝允といった、中央政府で活躍していた英傑たちも、そもそもは藩の代表として維新に参与していた。彼らが重んじられたのは、その能力が評価されたのだとしても、元来は出身藩の権威・軍事力・経済力といったものがなくては、舞台にすら上がることができなかった。例えば大久保利通は、久光に取り立てられ中央政界に送り込まれるということがなかったら、おそらく歴史に名を残す仕事をしていないだろう。

だから、明治政府はその出発においては、雄藩連合の意味合いが強かった。藩を基盤にした政権だったし、人材も各藩から登用されていた。

ところが廃藩置県というのは、政権の足場ともいうべきその藩を自ら解体することを意味していた。一歩間違えれば政権が空中分解する可能性もある危険な施策であった。だがそれをしなくては、いつまでも明治政府は半独立の藩の連合体のままで、近代的な中央集権国家になることはできなかった。
 
各藩主にとっては、廃藩置県とは長く築き上げてきた領地と財産をたった一篇の勅令によって政府に取り上げられることである。そんなことが容易に認められるわけがなかったし、政府内においてもこれを主導した西郷隆盛は矛盾に苦しんだという。一度は殉死しようとまでした先君島津斉彬公の残した薩摩藩を自分の手で解体してしまってよいものかと。西郷はその矛盾を、明治天皇への忠誠によって乗り越える。今や新しい君主として西郷は天皇をいただいていた。斉彬への忠誠と天皇への忠誠は矛盾しなかった。より大きな立場で忠君愛国を貫くことで、西郷は廃藩置県を敢行したのである。

一方久光は、西郷や大久保には、決して廃藩だけはするなと申しつけておいたらしい。この指示は結局無視されたわけで、廃藩置県が行われるや久光は激怒し、憂さを晴らし不満を表明するため、一晩中花火を打ち上げたと伝えられる。廃藩置県に対する公然たる反対であった。

廃藩置県から2ヶ月後の明治4年9月10日、政府は久光の「積年の功績を褒し」て、別に家門を立てる勅書を出した。分家の命令である。島津本家を継いでいるのは息子の忠義で、久光は後見人にすぎなかったが、その久光を独立させたのである。勅書では、体裁上褒賞の形をとっているが、これまでいくら久光に上京を促しても、名義上は当主である息子の忠義を派遣したり、忠義に弁明させたりといったことが続いたので、久光その人を動かすために強制的に分家させたのだと思われる。

同じく9月には、廃藩置県に基づき県令として大山綱良が鹿児島に赴任した。こうして700年にわたる島津家の鹿児島支配はあっけなく終わった。

そして時を同じくして、政府はあらためて久光を「従二位」に叙した。「たびたびの固辞があってやむをえず受け入れたが、改めて宣下することにした」という。このあたりから、久光と明治政府の対立は意地の張り合いとでもいうべきものになってくる。

9月にはまたしても岩倉具視からの上京の依頼。「皇国の前途の興廃安危は則ち薩長土の三力」が頼みであり、再三久光に上京を要請したにもかかわらずそれが無視され続けて今日まで来たことは「実に茫然の仕合」だと。しかしこれに対しても、久光は即座に断っている。理由は「旧来の足痛」である。確かに病状も重かったらしい。

久光は、明治政府は早晩瓦解すると考えていたようだ。かつての忠君たちはもはや藩の力で中央政府に登用されたことも忘れ、基盤である地方の意見も聞かずに急進的な改革に溺れている、と久光は考えた。このような政体は、長続きするはずがないと。だから久光は、明治政府から距離をとろうとした。そして10月には、またしても病気を口実にして、「従二位」の位階を返上したい旨上表したのである。このあたりの明治政府と久光の応答はほとんど押し問答に近く、文面は極めて慇懃であって滑稽ですらある。

明けて明治5年(1872年)には、忠義から改めて「せめて従二位の拝授を遅らせて欲しい」との上請も行われた。病気が癒えるまで上京することができないという理由だった。

……これまで、明治2年から5年に至るまでの島津久光と明治政府の動向をかなり詳しく見てきた。

久光にとって、明治政府はかつての部下が自分への恩義も忘れて好き勝手な改革を弄んでいるように見えたから、当然気にくわなかっただろう。しかも急進的な改革は、実際に旧社会を良かった部分も含めて急速に破壊しつつあって、彼の不満もただの感情のもつれというわけでもなかった。

そもそも名目上の明治維新とは、いっこうに攘夷を出来ない幕府に代わって天皇が政権を担う、という意味で行われたものだ。しかし実際に新政府が出来るやいなや、「攘夷」の旗印はどこかに行ってしまった。明治政府は西洋の制度や文物を導入するのに忙しく、それを吟味しないままに、どんどん日本に持ち込んでいった。

幕末、久光を突き動かしていたのは、日本を清国のように西洋の属国・植民地にはさせない、という使命感だったように見える。にもかかわらず、新政府は海外のものに心酔し、あまつさえ天皇を洋装に整えた。これでは政治的には独立を保ったとしても、精神的には西洋の属国ではないか。このままでは「日本」はなくなる。そういう思いが久光の胸にあった。

これは久光だけがそう思ったのではない。当時日本を訪れた外国人さえもそう思ったのだ。日本には美しい衣服や住居、立ち居振る舞い方があり、日本人の身のたけにあった社会の仕組みがあるではないか。それをわざわざ破壊して、導入する必要もない西洋のやり方を猿まねして移植することは文化的損失であると。明治政府の「洋風礼讃」は、憧れの西洋からすら滑稽に思われた。

一方で、久光は強硬な攘夷論者というわけではなかった。久光は兄・斉彬から「彼の長を取り、我が短を補う」ことが海外との付き合いの基本であるとたたき込まれていた。攘夷が国是であった時ですらも、例えば紡績のように海外の優れた技術を採用することに久光は躊躇していない。久光は西洋を毛嫌いしたのではなかった。ただ、実際の社会への適合を考えず盲目的に西洋を礼讃して、守るべき伝統も顧みない新政府に愛想を尽かしたのである。

確かに、彼は封建主義体制から抜け出ることは出来なかった。「男女の別」や「君臣の別」を喧しく言う守旧的傾向はあった。それが久光の限界でもあった。時代から取り残された人物という評価もできよう。しかし久光は、新政府によって破壊されつつあった旧い日本を一人で体現していた。良い部分も、悪い部分も、全て含めてだ。彼とともに、古き良き日本が破壊されつつあった。

そしてまた、久光とはまた違った理由から、鹿児島の士族たちが反明治政府的になっていったのはよく知られている通りである。士族たちの不満は、ある意味では失業問題であった。明治維新を主導したはずの士族階級は、雇い主である藩がなくなったことで解雇され、無職になってしまった。結局明治10年には西南戦争が勃発してしまうように、明治維新を主導した薩摩藩は、明治の始めから急速に政府への反発を強めていった。

こういう情勢であったから、明治政府が島津久光の慰撫を重大な課題と認識したのも無理はない。どうにか久光には体制側についてもらって、鹿児島の士族の不満を抑えて欲しい、せめて公然と反旗を翻すことはやめてほしい、と思っていただろう。だが一方で、久光の意見については一切聞く耳を持たなかった。久光の意見を聞く気はなかったが、体制内には取り込みたいと思っていたわけで、明治政府の姿勢にはご都合主義的な部分があった。

よって、久光を慰撫する手段は、いきおい「象徴的」なものとならざるを得なかった。例えば、「従二位」の宣下といったものである。その究極が、明治5年の天皇の鹿児島行幸であった。この西国行幸は、もちろん久光の慰撫のためだけに計画されたものではなく、廃藩置県後の人心の収攬を目的にして各地を巡るものであったが、その大きな目的は鹿児島の久光をなだめるということにあった。この巡幸を強く主導したのは西郷隆盛であった。尊皇の志の篤い敬神家で知られた久光である。天皇がわざわざ出向いていけば、頑固な久光とても態度を和らげるに違いないと。

そんな中で傲然と行われたのが、守旧的意見を述べる「14箇条の建白書」の奉呈であった。その建白書の添え書きに言うには、「明治2年に上京して出仕した折には意見を申し上げる機会もなく、何らの御下問もいただけなかったので虚しく沈黙するしかなかった。このたび天顔を拝するにあたり”因循固陋”の意見ではあるが、この先このような機会もないと思われるので突然の奉呈を許して欲しい」。そして、「現在の政体では国運は日に日に衰弱し、万古不易の皇統も共和政治の悪弊に陥り、終には洋夷の属国となってしまう」と。

この文面を見れば分かる通り、久光としては、天皇は自分の意見を分かってくれるかもしれないと思っていた。明治政府とは対立していたにしても、久光は敬神家であることは間違いなく、天皇の権威は強く認めていた。ただ、その権威ある天皇をほしいままにして、傀儡化している明治政府を非難していたのである。

明治5年6月23日の、明治天皇による可愛・吾平・高屋の神代三陵の遙拝は、このような状況を背景にして理解する必要がある。久光の慰撫が、明治政府にとっての対鹿児島政策の最大の課題だった時期のことだ。この神代三陵の遙拝が、政治的な意味を帯びていないとしたら、そっちの方がおかしいだろう。

久光の国を、天皇が肇国の聖地と認めて恭しく遙拝すること。これが久光への慰撫でなくてなんだというのか。そしてこれは鹿児島の士族へ向けたメッセージでもあったはずだ。例えば現代においてすら、鹿児島出身の俳優やタレントであるというだけで鹿児島の人には身近に感じられ応援される場合が多い。天皇家のルーツが鹿児島にあると公式に表明することは、鹿児島の士族に天皇家を身近に感じて欲しいという意味合いがあっただろう。

こうしたことは史料上のどこにも書いていないことで、状況証拠に基づいた私の推測であるが、「久光と士族の慰撫」、それが、まだ公式には指定されてもいない神代三陵を天皇が遙拝したことの政治的意味であったと確信する。

だが、天皇が自主的にこのような政治的パフォーマンスをするわけがない。もちろん、この遙拝を演出した人物がいるのである。

鹿児島で神代三陵を遙拝するよう天皇に建白した人物、それが薩摩藩出身の国学者であった田中頼庸(よりつね)であった。

(つづく)

【参考文献】
『島津久光公実記 巻七』1910年、島津公爵家編輯所 編
西郷隆盛―西南戦争への道』1992年、猪飼 隆明
島津久光と明治維新—久光はなぜ、倒幕を決意したか』2002年、芳 即正

※2018年2月6日アップデート
久光の行動に関して、一面的すぎる記載があったので表現をやや改めた。それにより参考文献『島津久光と明治維新』を追加した。