2014年9月26日金曜日

「ぬいぐるみツアー」、やってみたら意外と大変でした

知ってる人は知っている「ぬいぐるみツアー」こと「ぬいぐるみで行く 南薩 民泊ぷちツアー」。先ほど、お店のブログの方にレポートの最終回をアップして、全ての作業が終了し、ホッとしているところである。

この「ぬいぐるみツアー」、ぬいぐるみをいろんなところに連れて行って写真を撮るのがメインの作業だから、最初はさほど大変ではないと思っていた。人間の観光と違ってトイレは気になくていいし、予定のズレもさほど問題にならない、はずだった。ところがそういう見込みは大間違いで、実際はなかなかハードな仕事だった…。

というのも、人間と違って「そのあたりに並んでくださーい、記念写真を撮りますから」と言って並んでくれるわけではない。いちいち自分で並べて撮らないといけないし、1匹ずつ撮る場合はなおさら手間がかかる。特に位置の微調整は面倒だ。

さらには(これは事前にわかっていたことだが)ピントを合わすのが難しい! 人の記念写真の場合、カメラから人までの距離が5mくらいあって、1kmくらい先に風景があるという感じだと、人と背景の距離の差は200倍で随分あるようだが、これはカメラの方で十分対応できるらしい。これが、ぬいぐるみのようにカメラからの距離50cmくらいのものを風景と一緒に写そうとすると、風景かぬいぐるみのどちらかにしかピントが合わない!(あくまでも私の安物のカメラの場合ですが)

なので、望遠レンズを使って、カメラからぬいぐるみまでの距離を2mくらいまで延ばして撮ってみたが、それでもやはり風景とぬいぐるみの両方にばっちりピントが合うということはなかった…。F値やらシャッタースピードやらを調整すればピントが合ったのかもしれないが、結局そのあたりを追求する余裕もなかった。なにしろ、ぬいぐるみツアーの最中は、運転手 兼 添乗員 兼 カメラマン 兼 雑用係だったので…。

そしてそれ以上に苦労したのは、天候に恵まれなかったことである。人間のツアーだと日程が決まっているわけで天候が悪かったらしょうがないね、で済んだことだが、ぬいぐるみの場合そうはいかない。できれば天気のよいときの写真を撮ってあげたいという気持ちもあったし、そもそもぬいぐるみが雨で濡れてはいけないので雨天の撮影ができない。

そういうわけで、ツアー自体も苦労したし、こちらは想定内とはいえ終わってからの写真の整理もかなり手間がかかった(全部一緒ではなくぬいぐるみ別にアルバムを作ったので)。そして、お土産を贅沢につけすぎたことやプリンタインクを思った以上に消費したために正直言うとほぼ利益もなかった

でも元々利益を目的に企画したものではなかったし、前向きに考えると損もしなかったのでよしとしなくてはならない。 じゃあ目的はなんだったのか? 目的は、究極的には「南薩のファンを増やす」ことだ(ったはずです、たぶん…)。終了後のアンケートによれば、ぬいぐるみのご家族のみなさんにはかなりご満足いただき、南薩に自分でも行ってみたい、と思った人が多かったようなので、この点は素直によかったと思う。

この手間のかかる「ぬいぐるみツアー」をまたやるかどうかは未定である。でもあと2回(冬に1回、夏に1回)くらいはやってみて、さらに可能性があるのか試してみたいとは思っている。でもその際は、ちょっとでも利益が出るようにしないと後が続かないので、また内容をブラッシュアップさせていきたい。

最後に、参加された皆様、そしてご協力いただいた皆様(特に秋目で船に乗せてくれた上塘さん!)、ありがとうございました。大変でしたが結構楽しかったです。

2014年9月19日金曜日

シトロンとユダヤ人——柑橘の世界史(5)

エトログ・ボックス
旧約聖書に『レビ記』という、様々な律法について語る一篇がある。

『レビ記』の第23章では、他の様々な祭日とともに「仮庵の祭り」の説明がなされる。「仮庵(かりいお)の祭り」とは、ユダヤ教の重要な祭日で一種の収穫祭的な性格を持ち、ユダヤ人の祖先が奴隷状態にあったエジプトを脱出したことを記念して行われるものである。祭りはこのように始まる。
初めの日に、美しい木の実と、なつめやしの枝と、茂った木の枝と、谷のはこやなぎの枝を取って、七日の間あなたがたの神、主の前に楽しまなければならない。 —(レビ記第23章40節)
この簡単な一文が、意外なことに柑橘の世界史へ甚大な影響を及ぼした。古代ユダヤ人たちが、ここに記述された「美しい木の実」をシトロンであると解釈したからである。

彼らはこの「美しい木の実」をエトログetrog)と呼んだ。元々、それがシトロンを意味した言葉かどうか定かでない。しかし、いつしかこれはシトロンであるということになった。その理由はよく分からないし、いつからそうなったのかも不明である。ともかく、紀元前の世界において既にエトログはシトロンとみなされていた。

律法というものを厳格に考えるユダヤ人たちは、「仮庵の祭り」のその日のために、毎年欠かすことなくシトロンを用意した。その用意が一日でも遅れることはあってはならなかったので、毎年確実にこの実が手に入れられるよう気をもんだ。

後代のことであるが、彼らは前もって手に入れたシトロンを箱に入れて大事に保管し、祭りの最中もその箱に入れていた。その箱はエトログ・ボックスといって、入念な細工が施された高級な宝石箱のようなものだった。ユダヤ人たちは、祭りの際はシトロンをまるで宝石のように大切に扱ったのである。

特に東欧に移住したユダヤ人たちにとって、シトロンは実際に宝石並の高級品でもあったようだ。南方の植物であるシトロンは東欧では育てることができなかったためである。空輸のような流通がなかった前近代において、毎年決まった日までにシトロンを確実に手に入れることは、かなりの苦労が伴ったと思われる。

それは古代でも同じだった。ユダヤ人たちが住んでいた中東は半乾燥地帯であったので、シトロンは自然にまかせて収穫できるものではなかったからだ。ユダヤ人たちは「仮庵の祭り」のためのシトロンを自ら栽培しなくてはならなかった。もちろん全てのユダヤ人がシトロン栽培者だったわけではないが、広域の流通が簡単ではなかった古代においては、ユダヤ人のいる街には少なからずシトロンが育てられていただろう。

そしてさらには、シトロンの栽培は難しかった。野生に近く、食べられないこの柑橘は、元々はさぞ強壮で育てやすい樹ではなかったかと思われる。しかし、祭りに使えるシトロンが満たすべき条件は後にこまごまと追加されて、それが新たな律法となり、ユダヤ人たちは厳しい条件の中でシトロンを育てなくてはならなかった。

例えば、祭り用のシトロンは接ぎ木では作ってはいけないとされた。耐病害虫、耐寒性などが優れた接ぎ木ではなく、実生(種から育てる)であることは生育適地を限定し、生産コストを高めた。また、ほんのちょっとのキズでもついていてはならないため、樹になった実のほとんどが使い物にならないこともあった。

ユダヤ人たちはこうした非常に厳しい条件の中で、毎年必ず決まった量の、決まった規格のシトロンを収穫し、定められた日までに、全てのユダヤ人コミュニティへと配送するという、古代社会としてはべらぼうに高度な生産・流通の仕組みを構築したのである。

少し話は脱線するが、ユダヤ人が祭りのためにシトロン栽培者にならざるをえなかったように、祭儀は農業の発展に意外と深く関わっている。例えば、牛の家畜化の起源には諸説あるが、祭儀での犠牲のためという説がある。牛を犠牲に献げる祭儀があり、その祭儀の日が予め決まっている場合、どうしても野生の牛を前もって捕らえ、祭儀の日まで飼育しなくてはならない。その短期間の飼育が、家畜化の第一歩だというのである。

考えてみれば、荒っぽい性格の野生の牛を傷つけずに捕らえ、逃げないよう柵で囲った場所を作り、餌をやり、糞尿の処理をするという大仕事を、ただ美味しい肉が食べたいということのためにやるのは道理が立たない。それならば、ただ野生の牛を仕留めて食べればいいだけの話で飼育する必要がない。飼育するというのは、特定の日に屠る、というなんらかの制約があったためなのだ。

他にも、ニワトリの家畜化も同様な祭儀と関係しているとする説がある(※)。畜産というのは現代でも大きな労力と資本を要するわけで、ただの畜産よりも遙かに困難な野生動物の馴化という偉業をなしとげるインセンティブは、祭儀くらいしか考えられない。農業というのは、ただ植物や動物を育てることではなく、植物や動物を人間の都合のいいように作りかえていくというプロセスが必要である。生き物を作りかえていくという巨大なエネルギーは、美味しいものをお腹いっぱい食べたいという欲望ではなくて、神へ捧げなくてはならないという畏怖の気持ちであろう。

ユダヤ人たちも、神へ献げる特別なシトロンを栽培しなくてはならなかったお陰で、非常に高い柑橘生産の技術を獲得したのである。『レビ記』のそっけない一文が、ユダヤ人たちを優秀な柑橘生産者にしたわけだ。そしてその技術は、後にユダヤ人たちのディアスポラ(離散)によって地中海世界全体へと伝播していくことになる。

※ それどころか、小麦の栽培も神に捧げるビール造りを行うために開始されたとか、多くの植物・動物の馴化に祭儀が関わっているとする説がある。

【参考文献】
レビ記』1955年、日本聖書協会
"The Saga of the Citron" Toby Sonneman

2014年9月17日水曜日

「みんなの南薩案内。」で南薩の写真や地域情報を待っています。


以前ブログ記事で予告していた、「南薩の写真をシェアするサイト」を晴れて立ち上げた。名前は「みんなの南薩案内。」。

このタイトルは、随分前に紹介した岡本 仁さんの『ぼくの鹿児島案内。』にあやかっている。南薩の、普段何気なく見ている景色や場所が、視点を変えるとまた違った魅力が見つかる場になったらいいなあ、というわけで勝手にあやからせてもらった。

以前の記事中で書いた通り、これは南薩の素晴らしい風景写真をシェアするためのものでもあり、また、イベントやお祭りなどの地域情報をシェアするためのものでもある。

ところが少し問題があって、 実は利用しているサービスの「つなぐらふ」は、どうしたわけかURL(リンク)のシェア機能がない。写真の投稿時にはコメント欄があるのだが、ここにURLつきの文章を投稿しても、URLが勝手に削除されて投稿されてしまうのである。

「つなぐらふ」は、観光マップづくりを売りにしているわけだから、URLのシェア機能は大変重要だと思うのだが、どうしてこのような仕様になっているのか不可思議だ。今後、<a>タグを使ったURLは表示するような変更をする予定とのことであるが、普通の人はタグを使うことはできないので、プレーンテキストでよいのでURLをシェアする改良が待たれる。

そういうわけで、イベントやお祭りなどの地域情報のシェアをするには正直少し不便である。それに、全体的なユーザーインターフェイス(要は使い勝手)もベストではない。でもこういうのは、とりあえず作ってみて、いろいろな人の意見や知恵をもらってまた別の形で作ってもよいのだから、オープンしてみることにした。

南薩にお住まいの方、南薩に来られた方など、素晴らしい写真や情報をお持ちの方は是非投稿してくだされば幸いです。投稿してみての感想なども本ブログのコメント欄にてお伝えいただければ更にありがたいです。ここがささやかな南薩の情報サイトにもなったらいいなと思っていますのでよろしくお願いいたします。

2014年9月13日土曜日

連作を恐るるなかれ

先日、自然農法セミナー「連作のすすめ」という研修に参加した。なかなか面白い内容だったので備忘のためにまとめておこう。

講師は伝統農法文化研究所 代表の木嶋利男さん。元は栃木県の農業試験場にいらっしゃった方。木嶋さんの主張は次のようにまとめられる。
  • 植物は、連作した方が生産性があがる。
  • 連作すると連作障害が出ることも確かだが、1年(か2年)我慢すれば連絡障害は出なくなり、病害虫も発現しなくなる(発病衰退現象)。
  • とはいえ、それは経営的に厳しいので、2、3年はコンパニオンプランツなどを使って、土壌消毒せずに頑張ってみるとよい。
後段のことはともかく、連作した方が植物の生育がよいというのは私も薄々感じていたことである。

農業の基礎的教科書には「連作によって土壌の生物相が偏り、病害虫が出やすくなる」「連作を避けて、効率的な輪作を行うのがよい」なとど書いているのが普通である。

しかし、例えばジャガイモを育ててみると、収穫後、土がいかにも「ジャガイモっぽい土」に変わっていることに気づく。どこがどのようにジャガイモっぽいかはうまく説明できないが、「いかにもジャガイモが育ってそうな土」に変わっているのである。植物は動けないために、土壌自体を自らに好適なものに徐々に変化させていく力がある。

だから、そこにまたジャガイモを植えたらよさそうだ、というのは誰でも思うだろう。ただここからがポイントで、木嶋さんがいう「連作」は、「続けて同じ作物を作り続けること」ではない。「同じ時期(季節)に、同じ場所で、同じ作物をつくる」のが連作で、そうでなければ輪作になる。要は、続けてジャガイモを植え付けても連作にはならない(まあ、春作と秋作では品種も自ずから異なるが)。季節が違えば土壌の条件が異なるからだそうだ。

ジャガイモの連作というと、次の年の同じ時期にジャガイモを植えることなのである。そして、その間、後作に何をつくっても連作は連作になる。同じ作物をひたすら作り続けるのが連作ではないのである。つまり連作というのは、同じ条件の下に作物を作り続けていくことだ。そういう意味では、「連作のすすめ」といっても、普通非常に重要とされている作物のローテーションを否定しているわけではない

そのように連作を続けていても、当然ながら連作障害が出る。連作障害というのは、連作によって土壌の生物相が偏り、病害虫などが頻発する状態をいう。これはかなり昔から「いや地」などと呼ばれて忌まれていたから、化学肥料や農薬のせいではない。この連作障害があるから、普通は連作は避けるべきとされているのである。

私がつくっているかぼちゃも、同じ場所でつくっているとネコブセンチュウとかネグサレセンチュウとかいう害を及ぼす連中が増えて、うまく生育しないかぼちゃが多くなる。そのため、真面目にやる農家(?)は、土壌消毒をするのだが、木嶋さんによると土壌消毒こそがよくないという。

土壌消毒をすると直後はいいが、結局はまたセンチュウ類が増えてきて、また土壌消毒が必要になる。だが、連作障害を耐えて(というのは、収量が激減するのに経営的に耐えて、という意味)その次の年も何の対策もせずにまたかぼちゃを植えれば、次の年には連作障害は全く出なくなるという。一度土壌の生物相が偏って閾値を超えると、今度は土壌の多様性を回復させる方に力が働き、健全な土壌に戻るのだという。簡単に言うと、センチュウの天敵となる糸状菌(カビ)などが増えるからセンチュウ被害は出なくなる、ということだ。

だが、こうした天敵はセンチュウがある程度いないと増えないので、一度センチュウが出たらセンチュウを増やすくらいの気持ちでやらないといけないらしい。連作障害を恐れて土壌消毒したり、センチュウを減らす緑肥を植えたりするのは逆効果だ、と断言していた。正直いうと、私自身、今年は春かぼちゃの後作に、センチュウを減らす効果があるとされているクロラタリアという緑肥を育てていたので、ガッカリしたところである。

また、病気の対策も似たようなもので、普通、植物に病気が出たらそれ以上広がらないように罹患した植物を取り除き、圃場から持ち出すこととされているが、木嶋さんによるとそれも逆効果だそうだ。罹患したら、その植物を切り刻み、圃場に埋めるのがよいという。そうすると、病原菌が土壌で増えて、同時にそれに対抗するものも増えるから、次の年には病気がでなくなるということだ。

話が少し逸れるが、農業というのは勉強しているとこういうのがすごく多い。Aと言われているけど実はBだ、とか、Aがよいといわれているけど実はAはダメだ、とか、正反対のことがよく言われる。それだけ未熟な産業で、本当は何がいいのかよくわかっていないということなのだが、少なく見積もっても5000年くらい歴史があるのに、こんなにあやふやなことが多いことというのも他にないと思う。

ともかく、連作を続けると生産性が上がる現象は木嶋さんが言っているだけでなくていろいろな人が観察・研究しており、それ自体は信頼できそうである。問題は、一度は連作障害で壊滅的な被害を受けないと次のステージに進めない、というスパルタな展開である。これを軽減するため、木嶋さんはコンパニオン・プランツ(共栄作物)などの伝統的な知恵を使って乗り切るべしとしているが、これの効果は植物によって様々だし、決定的な組み合わせが全ての作物にあるわけではない。

たとえば、ウリ科にはネギの混植がよいとされているが、かぼちゃは葉っぱが大きすぎてネギの受ける光をかなり減らしてしまい、あまり効果がないという。とすると、連作方式でかぼちゃをつくる場合はどうしても潰滅に耐える必要があるということなのか…? そのあたりが「連作のすすめ」の弱点ではあるが、連作の重要性を認識させてもらったので、今後活かしていきたい。

2014年9月10日水曜日

西方へもたらされた唯一の柑橘——柑橘の世界史(4)

シトロン
シトロン
中国で楚の屈原が柑橘を誉め称える詩を作ってから暫く後、ギリシアではテオプラストスという哲学者が重要な本を執筆した。それは『植物誌』といって、西洋ではなんとルネサンスに至るまで1500年以上もの間、植物学の最重要文献であったという驚異的な本である。紀元前3世紀のことであった。

その『植物誌』に、柑橘の一種である「シトロン」が記載されている。

シトロンは日本では馴染みのない果物だが、レモンに似た柑橘で、大きさが文旦くらいで表面はゴツゴツしており、果肉・果汁が極端に少なく白い皮の部分がめちゃくちゃ厚い。シトロンの果肉はパサパサしていて食べられないが、白い皮の部分は現代ではマーマレードにしたり砂糖漬けにしたりもする。

漢名は枸櫞(くえん)といい、なじみ深い「クエン酸」は実はこの果実の名前から名付けられたものだ。

このシトロンは、古代ギリシアでは「メディアの林檎」とか「ペルシアの林檎」とか呼ばれていた。原産地は遠くインドであったが、テオプラストスはそれをまだ知らず、ペルシア(そこはかつてメディアという国があったところでもある)原産の果物だと思っていたようだ。テオプラストスによると、
この「林檎」は食べられないが、実も葉もとても香りがよい。そしてこの「林檎」を服に入れておけば、虫がつくのを防ぐこともできる。また毒薬を飲んだときにも有効だ。ワインにいれて飲めば胃を逆流させて、毒を吐き出させる。…
ということである。不思議なことだが、インドには様々な柑橘類が産していたにも関わらず、古代において西方の地中海世界に伝えられた柑橘は、ただ一つこのシトロンだけだった。どうしてこの食べられない果物だけが伝わっていったのかはよく分からない。香り付けによいということだったにしても、他にも香りのよい柑橘はあったはずで、なぜシトロンだけが特に選ばれたのかは謎である。

紀元前4000年に、既にメソポタミアではシトロンが伝えられていたというから、この果実の西方世界への伝播は非常に早かった。柑橘は年間を通じて適度な降雨を必要とするから、半乾燥地帯である中東に自然に(人の手を介さず)広まっていったということは考えられず、人為的に持ち込まれ、栽培されていたのは間違いない。もしかしたらシトロンは、その解毒作用を期待されて広まったのかもしれない。毒薬を飲むという状況が、そんなに頻繁にあったのかどうかは分からないが、 特別な薬としての需要はあっただろう。

中東では古くから栽培されていたこのシトロンが、中東からさほど離れていないギリシアへと伝わったのは割合に遅く、伝説ではアレクサンドロス大王の東征の際(紀元前4世紀)にもたらされたと言われている。

アレクサンドロス大王はその短い生涯でマケドニア(北方ギリシア)から東インドに至る空前の世界帝国をつくり上げ、それによってこの広大な地域の文化が相互に交流した。教科書などでは東方にギリシア風の文化が広がり、ヘレニズム(ギリシア風)文化が興ったと説明されがちだが、アレクサンドロスはむしろペルシアの進んだ文化を積極的に取り入れており、ついにはマケドニアの服装も捨て、ペルシア風の装束に身を包んだほどである。一方方向にギリシア文化が伝わったわけではなく、この時代は、最初の東西文化交流の時代であった。

すなわち、アレクサンドロスの時代、ギリシアのものが東方に伝播していっただけでなく、中東からインドにかけての様々な文物が、大量にギリシアに入ってきたのである。『アレクサンドロス大王東征記』などにはシトロンの記載はないが、ギリシアから東インドの政治的統合が、シトロン伝播の遠因となったというのはありそうなことだ。

蓋し、栽培植物の伝播というのは、意外と政治的なものに支配されている。一国の国土というものは、だいたい似たような気候風土で纏まっていることが多いし、隣国との境は険しい山脈や大河で隔てられていることも多いから、単純に政治的な国境が栽培植物の伝播を妨げているとはいえない。しかし、全く別の文明が支配する領域にはある種の栽培植物がなかなか広がっていかないことも事実である。植物の栽培というものは、種や苗の移動だけでなくて、それを育てて利用する技術と文化をもった人間が移動していかなくてはならないからだ。

逆に言えば、人間の移動によって、栽培植物はその生来適応した環境を超えて広範囲に伝播しうる。このシトロンこそは、人の移動によって最初にヨーロッパへともたらされた柑橘なのであるが、それは次回に詳しく述べることとしよう。

【参考文献】
"Enquiry into plants and minor works on odours and weather signs, with an English translation by Sir Arthur Hort, bart" 引用は拙訳によった。

※冒頭画像は、こちらのサイトからお借りしました。

2014年9月7日日曜日

書体としてのPOP文字について

先日、POP(店先に掲げる宣伝カード)の描き方の研修会に参加した。

研修会の内容のことはともかく、とても気になったのはPOP文字そのものである。

POP一筋31年というとんでもない講師の指導によれば、POP文字というのは、「①四角の中いっぱいに、②タテ線、ヨコ線はまっすぐに、③線で囲まれるところは強調(「ほ」の右下の丸の部分を大きく書く、など)、④書き始めから終わりまで同じペースで終わりはハネない、⑤できるだけ簡略してもよい」というように書くものらしい。

これを素直に守ると画像のような文字になるが、私からするとちょっと品がない字のように見えてしまう。この文字が書いてあるとすぐにPOPだと分かるとはいえ、どうしてこんな文字を書かなくてはならないのだろうか。ぱっと見では、普通に書いた方が断然にきれいな文字ではなかろうか。

POP文字の場合、普段の字のきれいきたないに関わらずほとんどの人が同じような文字を書けるようになる利点があるらしいので、そこは認めるにしても、あえて品のない文字の書き方を指導されているようで腑に落ちない。

ところで話が随分飛ぶようだが、文字の書体というものは幾度となく変転してきた。甲骨文、金文、篆書、隷書、草書、行書、楷書、明朝体、ゴシック体、などなど。こうした書体はどうして変転していったかいうと、主に筆記用具と書く目的が変化していったことによる。例えば篆書から隷書、草書へと変化していくのは、筆の普及が大きく関係している。

これは現代においても変わらない。石川九楊という書家が考察しているが、女の子が書く丸文字が生まれたわけも筆記具の変化によるらしい。元々漢字もひらがなも、縦方向に繋がっていく性質がある。ところが、大学ノートなどは横書きなので、筆記の際に縦に繋がろうとする力に抵抗しなくてはならない。そこで、一文字一文字を分断させて完結させ、まとまりよく見せようとすると自然に丸っこい文字になるという。さらには、ボールペンまたはシャープペンシルという細字に適した筆記具と、行内に文字を小さく書く必要があることからこの傾向が加速され、丸文字が生まれたらしい。

POP文字が生まれたのも同じ視点から考えられる。これは、太いペンを使って遠くからの視認性をよくし、横書きで収まりよく書こうとした結果として生まれた文字なのだろう。考えてみると同様の目的をもった映画の字幕文字と字形が非常に似ている

そういうわけで、あまり上品とは言えないPOP文字にも、ある程度の合理性はありそうである。ただ、写植の普及で字幕文字がかなり減ったところを見ると(※)、この文字が素晴らしいから使われているというよりも、手軽な次善の策として普及しているのかもしれない。

一方で、講師の先生によると、この文字をちゃんと使ってPOPを作るだけで売り上げが違ってくるというから、POP文字には視認性だけでなく、購買意欲に繋がる秘密もあるのかもしれない。なによりPOP一筋31年というキャリアを積んできた講師の存在自体がPOP文字の必要性を物語っている。

とはいうものの私自身の好みとして、習ったPOP文字はそのままでは使わないような気がする。ただ、買ってくれる人の立場に立って文字を書くというその精神は尊重しつつ、POPを書く必要がある時は自分なりに納得できる文字を使ってゆきたい。

※字幕文字には古くからの愛好者がいて、また長年いろいろな人が工夫してきたことから一種の文化がある。字幕を手書きすることはなくなったが、敢えて手書き風の字幕書体を使っている映画もある(ハリー・ポッターとか)。だからPOP文字もこの先何十年すると洗練された文化となっていくのかもしれない。字幕の手書き文字が減ったのはもちろん予算の都合も大きい。

【補足】2014年9月19日アップデート
一面的すぎる表現の部分があったので修正しました。