2018年6月25日月曜日

国学者の敗北——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その13)

神代三陵が全て鹿児島に治定された背景には、確かに明治政府における薩摩閥の政治力があった。田中頼庸の神代三陵遙拝の建白が受け入れられたのも、大雑把に言えば当時薩摩閥が当時強力な政治力を有していたからだ。

とはいっても、 あらゆる行政分野において薩摩閥の政治家・官僚が好き放題にできたわけでもない。特に神祇行政——つまり今で言う宗務行政の分野では、明治の最初期には薩摩藩の影響力は必ずしも大きくなかった。

ところが、頼庸が教部大録として教部省に出仕した明治5年5月には、頼庸とともに盟友の山之内時習や山下政愛など鹿児島出身者が同時に入省。また、省内ナンバー3にあたる教部少輔には鹿児島藩参政や東京府大参事などを歴任していた黒田清綱が就任。さらに以前から政府の仕事に携わっていた後醍院真柱も教部大録として入省し、突如として教部省に薩摩閥が形成されてくる。頼庸の神道国教化政策の一翼を担った三島通庸も追って省内ナンバー4にあたる教部大丞として入省。こうして黒田−三島−頼庸という薩摩閥ラインが確立し、教部省内で大きな影響力を行使していくことになるのである。

どうしてこの明治5年に、突然教部省内に薩摩閥が形成されてきたのか。それを考えるためには、また遠回りになるが明治の神祇行政史を振り返ってみる必要がある。

明治政府の神祇行政の出発点は、慶応3年の「王政復古の大号令」において「諸事、神武創業の始めに基づき」とされたことだ。このことで、明治政府は遙かな古代に行われていたはずの神権政治を当代に再現するよう動くことになる。

具体的には、古代律令制により実施されていた「神祇官」の復興が第一の仕事となった。「神祇官」とは国家の祭祀を司るもので、古代律令制においては諸国の神社を総括し、形式的には太政官よりも上位とされていた。この神祇官の復興運動を中心的に担ったのは、平田派国学者たちであった。彼らは全国に広がる大量の門人とそのネットワークを背景に岩倉具視を通じて政策実現を図り、慶応4年4月には「神祇官」が復興する。

しかしこの頃の神祇官は、太政官の下の一部局である。平田派の望みはあくまで古代神権政治の再現、即ち「祭政一致国家」の実現であり、そのためには古代律令制と同様、太政官よりも上位に神祇官を置くことが必要であった。祭教は政治と同列以上でなくてはならなかったのである。こうして平田派は種々の運動を行い、明治2年7月には官制の改革によって神祇官が太政官から特立し、名実共に神祇官が再興された。この際、神祇官は祭祀と共に諸陵(陵墓)と宣教に関する仕事も担うことになった。言うまでもなく、諸陵が職掌に加えられたのは幕末からの山陵復興運動の高まりを受けてのことである。

ところが、この明治2年の神祇官特立までが平田派の絶頂であった。いや、既にこの時点で、平田派は凋落の傾向を示していた。神祇官の体制には、平田派からは篤胤の養子で一門の総帥であった平田銕胤(かねたね)の息子延胤が申し訳程度に入っただけで、実質的には平田派は中心から遠ざけられた。それに代わって神祇行政を牛耳ったのが、津和野派と呼ばれるグループだ。

津和野派は、津和野藩(島根県の一部)の国学の一派である。津和野藩では、藩主亀井茲監(これみ)自身が国学を信奉し、国学者福羽美静(びせい)と共に国学を土台として尊皇運動を行っていた。津和野藩では、薩摩藩ほどは強権的なものではなかったが幕末に廃仏毀釈を行い、神葬祭の実施など神道国教化政策を行っている。そして明治になると維新の功臣とのつながりを利用して急速に新政府へと近づいた。

津和野派の思想的リーダーだったのが大国隆正(おおくに・たかまさ)だ。平田篤胤の弟子だった大国隆正は篤胤の考え方を軸にしつつも、その神道書理解に不備があることや『古史成文』等における神代史の改竄などを挙げ平田神学を批判し独自の神学を打ち立てていた。これに従ったのが亀井や福羽、そして岩倉具視の師匠格となった玉松操だったのである。

津和野派が平田派と決定的に違ったのは政治力であった。平田派には政治力を及ぼせる窓口がほとんど岩倉具視しかなく、全国に門人は多かったものの特定の藩や利害集団を擁しておらず権力の基盤がなかった。一方、津和野藩は長州藩の隣藩であったため長州出身の要人に様々な繋がりがあり、津和野派は藩主亀井茲監自身が後見していたから、権力闘争においては平田派の一枚も二枚も上をいった。

さらに、それでなくても平田派への風向きは悪くなっていた。というのは、平田派の構想は「復古」の一言に尽きていた。だから明治2年に神祇官が特立し、一応古代律令制の体裁が復活したとき、その目的が達成されたのである。そして彼らはそれ以上の構想を持っていなかった。だが明治政府が「復古」だけで前進できるはずもなく、律令制が明治の時代に合うわけもなかった。

しかも平田派は、一応平田銕胤が総帥を務めていたものの、その門人はあくまで篤胤の門人で「没後門人」と呼ばれ、銕胤の門人ではなかった。つまり銕胤は平田派を率いてはいたが思想的リーダーではない。そうした存在としては篤胤の高弟である矢野玄道(はるみち)がいたが、彼はあまりに学問的すぎ、政治的には無力すぎた。そういう事情から彼らは平田篤胤の構想を時代に合わせて修正していく力を持たなかった。平田派は東京遷都への強い反対や、政府の要人が洋装に変わる中で烏帽子・直垂を着用するなど滑稽なほどの守旧的傾向を示し、政府首脳からは時代錯誤でやっかいな連中と目されるようになって、次第に閑職へと追いやられていく。

一方、津和野派の思想的リーダー、大国隆正は高齢ではあったが存命中であった。彼らは時代に即応して考え方を修正し、発展させることができた。福羽も「神社に生物ばかり供えるのは不都合だ、西洋料理くらい供えねばならぬ」などと述べる開明的官僚であった。こうした姿勢は、平田派との大きな違いを生んだ。あくまで古代律令制にこだわり、「復古」以上の構想を発展させることができなかった平田派が疎んじられていくのは自然のなりゆきだっただろう。

大国隆正らは、平田派の「復古」とは違って新時代の神道を構想した。その刺激になったのはキリスト教への対抗だ。そもそも、明治政府が非常に気を使ったのがキリスト教の防禦である。今から考えると不思議な感じがするが、明治の政策立案者たちは開国によってキリスト教が一気に日本に広まり、キリスト教こそが天皇中心国家を危うくするのではないかと強い危機感を抱いた。よって慶応4年の段階では明治政府はキリスト教を禁教にした。

しかし西欧諸国はキリスト教解禁を強硬に求め、その要求は次第に拒絶できないものになっていく。そこで政府はキリスト教対策の方針を、「弾圧」から「教化」へ変えていった。キリスト教が蔓延しないように、日本国民をしっかり教育しようというのである。明治2年の官制改革で神祇官が特立したとき、職掌に「宣教」が加えられたのはこのためだった。

大国隆正らは、この「宣教」のためには従来の神道では十分でないと考えた。大国はこれまでの神道はあまりにも漠然としていてとてもキリスト教に対抗できないとし、”御一新”を機に神道も一新して新たな教義を立て、これを国民教化の法にすることを企てた。確かに神道は伝統的に教義が希薄であった。そこで彼は天照大神を主祭神に据えた一神教的なものとして神道を組み替えようとしたのだった。

明治3年正月には「大教宣布の詔」が発布。これは日本を祭政一致国家と宣言して神道を国教と定め、「惟神(かんながら)の大道」を天下に布教しようとしたものである。津和野派は、かつて津和野藩で行った神道国教化政策を日本全体へと拡大することに成功したのである。

そして津和野派は、その政治力によって他の神祇勢力の追い落としを図った。例えば、伝統的な神道家であった白川家・吉田家は全国の神社を統べる存在であったが、津和野派はこの両家を不要とみなした。というのは、津和野派の考える祭政一致体制は、天皇親祭にして天皇親政、即ち祭と政を天皇自らが手中に収めるという一極集中的体制であったからだ。天皇自らが祭りを行う以上、神社を統べる中間管理職的なものとしての白川家・吉田家などいらないのだ。津和野派は政権内から両家の排除を計画して、ある程度成功した。

しかしながら、肝心の大教宣布の運動ははかばかしい成果を上げなかった。

その要因はいくつか挙げられる。津和野派と平田派の争いなど国学者同士が内部で対立していたこと、「惟神の大道」といいながらその教義が確立しておらず、教義を確定させるための体制もなく紛糾が続いたこと、全国に宣教を行うため神祇官の外局として「宣教使」を置いたが宣教するに足る人材を揃えることができず名前倒れに終わったことなどが主因であろう。「大教宣布」などと立派なことをいいながら、中身がなかった。

さらに重要なことして、そもそも信仰という内面的なものを国家が強権によって一朝一夕に変えようとすること自体に無理があった。しかもその教義は急ごしらえで作ったものであり、日本に限っても一千年以上の間俊英たちが育ててきた仏教の教義体系と比べ、いかにも貧弱であり幼稚蕪雑なものであった。中身のない教えによって、人々の信仰を強制的に変えさせるのは不可能だったのだ。

大教宣布運動の行き詰まりによって、神祇官への風当たりは厳しくなっていった。予算面を見ても明治3年後半(明治3年10月〜4年9月)には急激に減少し、全ての所官の中で神祇官の予算が最少になってしまう。その上神祇官にはなんら行政執行権も持っていなかった。神祇官は「復古」を旗印に「大教宣布」や山陵や神社の造営など経費がかかる事業をやる割には、なんら事業の成果がないように見えた。当初華々しく復興した神祇官だったが、こうして徐々に無用視されるようになってくる。

威勢はいいが中身のない「復古」に予算や人員を割くよりも、「近代化」に注力する方がずっと実になると政府が考えたのは当然だろう。

こうした趨勢の中で平田派の官員は人員削減を理由に徐々に免官になり、明治4年3月には矢野ら平田派国学者の中心メンバーが「ご不審の筋これあり」として突如拘禁され、神祇官から排除された。福羽の讒言によるとも言われるが真相は定かではない。ただ、津和野派が平田派との権力闘争に完全に勝利したことは事実だった。しかし平田派の国学者たちが排除されたことで皮肉にも神祇官はさらに弱体化し、明治4年8月には神祇官は格下げされて「神祇省」となった。

この神祇省において福羽は神祇大輔に就任。神祇行政の事実上のトップとして君臨した。神祇省に格下げされたことは大勢の国学者を落胆させたが、福羽はむしろこれをよい機会だと思っていたらしい。津和野派の祭政一致構想は、天皇親祭にして天皇親政であったから、祭祀を司る神祇官なるものも本質的には不要であったのだ。福羽は神祇大輔として自らの理想の実現に邁進しようとした。

しかし、この神祇省の命脈も長くは続かなかった。結局、福羽は大教宣布運動を立て直すことができなかったのである。大教宣布運動の限界が、そのまま神祇省の限界となった。

そして大教宣布運動は、民衆に対して教化の実績を上げられなかっただけでなく、仏教界からの強い反発を招いた。彼らは当然、露骨な神道国教化政策に対して反対したし、国民教化やキリスト教防禦には仏教こそが有効な運動を展開できると主張した。

こうした主張の背景には、キリスト教の防禦を担うことで仏教の地位を向上させようとする目論見もあった。なにしろ仏教界は神仏分離政策やそれに続いた廃仏運動などによって痛手を受けていた。あからさまな神道優遇の雰囲気に歯止めを掛けるためにも、仏教としては積極的に国家に協力してその存在価値を示すことが必要であった。よって仏教もキリスト教を「法敵」として排撃し、自ら進んで神仏儒三教一致による国民教化運動へ乗り出そうとするのである。

一方政府としても、仏教界の懐柔は重要だった。財政的に厳しい新政府に対し、東西の本願寺が多額の献金をしていたという事情があったからだ。特に長州閥が西本願寺(浄土真宗本願寺派)との関係が深かったことは、長州閥の人脈を頼りにしていた津和野派にとっては手痛いところだっただろう。

そういうことから、政府としてはいつまでも成果の出ない大教宣布運動を続けるより、神仏合同でキリスト教防禦を行うべきという意見が明治4年秋頃から支配的になり、当時左院副議長だった江藤新平が中心となって新体制案が検討され、明治5年3月、神祇省を廃止して教部省が置かれた。この措置は神祇省の官員にすら知らされず秘密裏に進められ、唐突に行われたものだという。いかに国学者たちが時代に置いて行かれつつあったかが分かろうというものだ。

こうして、明治政府の神道国教化政策は終わりを告げた。福羽は教部省でも実質トップの教部大輔に横滑りしたが、もはや命運は尽きていた。そして教部省は肝心の「祭祀」を所掌しなくなった。国学者たちが夢見た「祭政一致国家」の構想は政府自身によって否定され、政教分離に向けた一歩を踏み出したのであった。

これは、平田派と津和野派の国学の否定でもあった。「復古」にしろ「大教宣布」にしろ、威勢のよい割に実質を伴わなかった種々の運動が、試行錯誤の末に瓦解した。

その背景には、国学者同士の激しい内紛もあった。どのような分野の行政史であれそうした面はあるが、ことにこの時代の神祇行政には権力闘争の側面が強かった。というのは、それが「正統」と「異端」を巡る争いだったからだ。平田派と津和野派は、その奉じる教えが相容れないからこそ別のグループになっていた。足して2で割る、といったような政治的妥協を行うことが原理的に出来なかった。神祇行政において対立は根本的に「神学論争」であり、いつまでも解消できないものだった。本来協力し合うべき国学者たちは互いに足を引っ張り合い、果てしない神学論争の果てに共倒れした。

後に日本を強力に支配することになる「国家神道」は、確かに国学の鬼っ子である。しかしそれは国学者たちの構想の先にあったものではなかった。国学者たちは、明治5年、確かに敗北し、政治の第一線からは退いたのである。

そしてその敗北者たちのうずくまっていた教部省に乗り込んできたのが、田中頼庸を含む薩摩閥の一群だった。

(つづく)

【参考文献】
明治維新と国学者』1993年、阪本是丸
神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫
<出雲>という思想』2001年、原 武史
 「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男

2018年6月1日金曜日

高屋山上陵の変転——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その12)

中央に取り立てられていった田中頼庸の動向を追う前に、彼が中央へ旅立つ直前に行った、神代三陵に関する仕事について触れておく必要がある。

頼庸は、鹿児島の神道国教化政策がクライマックスにさしかかっていた頃、神代三陵の調査を行い、明治4年には『高屋山陵考』を著して、ホホデミのミコトの陵墓の位置について考証した。言うまでもなく、この考証を行ったことが天皇への神代三陵遙拝の建白に繋がり、引いては後の明治7年の神代三陵の裁可へと結実していく。頼庸が鹿児島で行った神道国教化政策の仕上げにあたる部分が、この調査・考証であったといえる。

この調査がどような意図に行われたのか理解するため、それまでの神代三陵の考証の経緯を概観してみよう。

既に述べたように、神代三陵について初めてまとまった考察を行ったのは、薩摩藩の国学者の嚆矢白尾国柱であった。彼は寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を著し、神代三陵が全て薩摩に存在することを主張した。この主張は本居宣長の注目するところとなり、宣長はその著書『古事記伝(十七之巻)』において国柱の見解を引用、当時影響力があった松下見林の『前王廟陵記』の見解も合わせて考証し、結論として「かかれば神代の三ノ御陵は、大隅と薩摩とに在リて、日向ノ国にはあらず」とした。

ところが宣長にしても、神代三陵の細かい位置については国柱の説には全面的には賛成していない。例えば国柱は可愛山陵を「薩摩国高城郡の水引郷五臺村、中山の巓」にあるとしたが、これに対し宣長は「なほ疑ヒなきにあらず」としている。さらに、高屋山上陵についても、国柱の説「大隅国肝属郡、内浦郷北方村国見岳」に対し、『日本書紀』の方角の記述と合わないことを挙げて「彼地(ソノトコロ)、霧島山より西ノ方にあたれりや、なほ尋ぬべし」とさらなる検討を催している。疑義を差し挟まなかったのは、「大隅国肝属郡、姤良郷上名村鵜戸の窟」にあるとされた吾平山上陵だけである。

ちなみに松下見林の『前王廟陵記』では、可愛(エ)と頴娃(エ)という地名の類似から可愛山陵は薩摩国頴娃郡にあったとし、鹿児島の地理に若干混乱があるものの、高屋山上陵については阿多郡(現・加世田)と肝属郡に共に「鷹屋郷」があることを紹介して位置を推測している。ともかくこの頃の神代三陵の位置については、盤根錯節としていて諸説が入り乱れていた。これが明治に向かって徐々に整理されていく。

継いで神代三陵の考証を行ったのが後醍院真柱である。真柱は文政10年(1827年)に20代で『神代山陵志』を著した。本書中、先に成った可愛山陵の考証を人づてに平田篤胤へ送ったところ、篤胤は真柱の説を大いに評価した。その説とは、可愛山陵は白尾国柱が主張する「薩摩国高城郡の水引郷五臺村、中山の巓」ではなく、同じ水引郷の新田神宮がある「八幡山」であるとするものである。議論の細かい点は省くが、「八幡山」と「中山の巓(中の陵ともいう)」は同じ「亀山」という山塊の別の峰であり、真柱は白尾国柱の説に概ね賛同しつつ、その修正を図ったといえる。

篤胤はその著書『古史伝(第三十一巻)』において真柱の説を詳しく紹介し、国柱の説と比較考量した上で「三陵考(※白尾国柱著)には謂ゆる中の陵を御陵となしたるを三陵志(※後醍院真柱著)にはそを否(しからず)として直にその八幡山を御陵と定めたる是れも決めて然るべし」と述べて賛意を表した。真柱は、後日篤胤の門人となるが、この『神代三陵志』が業績として高く評価されていたため、信頼や待遇が殊の外厚かったという。

幕末以前の鹿児島の国学者を代表する二人である白尾国柱と後醍院真柱が共に神代三陵の考証を行い、またそれぞれ本居宣長と平田篤胤に認められたというのは決して偶然ではない。というのは、山陵の考証というものは、地方の国学者にとって中央の権威に認められるためのステップ的な役割を果たしていたからである。

明治に入ると、早くも明治元年(慶応4年)4月、神祇事務局は三雲藤一郎と三島通庸(みちつね)等に神代三陵の取り調べを命じ、二人は後醍院真柱を伴って巡察を行った。このことで真柱は、20代から執筆し準備してきた『神代山陵志』を改めて完成させ、明治2年10月には神祇官に提出している。

ところで先に述べたように、この段階では政府は神代三陵を治定しようとはしていなかったようである。しかし三雲と三島に調査を命じたのはどういう事情によるものだろうか。

実は、三雲藤一郎は鹿児島神宮の神職であり、三島通庸はいわゆる誠忠組の一員で西郷や大久保と近く、さらに鹿児島の廃仏毀釈運動を会計奉行として支え、島津忠義夫人の「神葬祭」を執り行った人物でもある。これは政府としての調査というよりも、薩摩閥内での調査と言った方がよさそうである。

このような経緯から、この段階で神代三陵の位置はほぼ次の通りに定説化した。
可愛山陵=新田神社のある八幡山——現・薩摩川内市
高屋山上陵=内之浦の北方村国見岳——現・肝付町
吾平山上陵=上名村鵜戸の窟——現・鹿屋市
可愛山陵については議論もあったが、高屋山上陵や吾平山上陵については白尾国柱と後醍院真柱の見解が一致し、江戸時代からの崇敬もあったため、誰もがこのまま治定されると思っていただろう。

そこに異論を唱えたのが田中頼庸だった。

頼庸は明治4年正月、官命を受けて山之内時習と共に神代三陵の実地調査を行った。この山之内時習は、神葬祭の推進など薩摩の神道国教化政策における頼庸のパートナーだった人物である。そして本稿冒頭に述べたように、頼庸は『高屋山陵考』を著して高屋山上陵の位置が「内之浦の国見岳」ではなく、「姶良郡溝辺村神割岡」であることを力説した。

その理由を簡単に述べれば、『古事記』によれば御陵は「高千穂の西」にあるとされているので方向が合うということと、神割岡の近くにはホホデミのミコトを祀る鷹屋(たかや)神社があり、鷹屋=高屋であると考えられるということの2点である。

しかし実は『高屋山陵考』が著される前に、神割岡では奇妙な調査が行われていた。後醍院真柱が『神代三陵志』を明治政府に提出した直後の明治3年正月、鹿児島藩庁は職員数名を派遣し、溝辺郷常備隊分隊長らと神割岡の発掘調査を行ったのである。そして、この時神割岡の頂上付近を発掘したところ古代の焼物等を発見したため、恐懼してそのまま発掘を中止したという。

この調査が奇妙なのは、まず「発掘調査」をしているにも関わらず、実際に遺物が出てくると「恐懼してそのまま発掘を中止」した点だ。これでは何のために発掘したのか分からない。普通の発掘であれば、遺物が出てきたらそこからが本番のはずである。そして2点目に、政府からの命を受けた真柱が僅か3ヶ月前に「高屋山上陵=内之浦の北方村国見岳」との説を神祇官へ報告しているのに、そことは違う場所を高屋山上陵と見据えて調査を行っている点だ。

これは私の推測だが、この調査は当時神社奉行として辣腕を奮っていた田中頼庸が行わせた可能性が高い。廃仏毀釈運動の実働隊となった常備隊が関係したことや、1年後に彼が『高屋山陵考』を著すことを考えても、この時期に神割岡の調査を必要とする人間は頼庸以外ほとんど考えられない。そして彼は高屋山上陵=神割岡説を補強するため発掘調査を行わせたものの、思惑とは違うものが出土したために急遽取りやめたのではないかと思う。

頼庸がその新説にこだわったのは、もちろん自説を確信していたということもあったろうが、山陵の考証が中央の国学者に認められるためのステップだったことを考えると、頼庸としても神代三陵の考証で名を上げようと意気込んでいたということがあるのだろう。事実『高屋山陵考』は彼の最初の学術的業績になった。今で言えば、頼庸にとって初めてのファースト・オーサー(第一著者)論文が『高屋山陵考』だったわけである。

高屋山上陵の位置については、もう一つ重要なエピソードがある。それは、まさに明治5年6月23日に天皇が神代三陵を遙拝した際に向かっていたのは、先ほど挙げた定説化していた場所であって、高屋山上陵については頼庸説の神割岡ではなく、国見岳の方だったということだ。つまり明治5年の段階で、「高屋山上陵=国見岳」は内定していたと考えられる。

にもかかわらず、明治7年の神代三陵治定の裁可では、高屋山上陵は神割岡へと変更し確定されたのである。

遙拝、つまり遠くから拝んだだけにしても、天皇が公式に国見岳を高屋山上陵として扱い、国見岳へ対し金幣を共進しているという既成事実があったのに、明治7年の裁可では頼庸説の神割岡が採択された。

このことが示唆するのは、田中頼庸が政府内でも大きな影響力を持つようになったということだ。そもそも、微臣に過ぎない頼庸の建白が容れられ、天皇が神代三陵を遙拝したということを考えてみても、頼庸にはその肩書き以上の存在感があったように思われるのである。

頼庸は栄転していった明治政府で、どんな仕事を手がけ、なぜ大きな存在となっていったのだろうか。それを考えるためには、明治の神祇行政史を振り返ってみる必要がある。

(つづく)

【参考文献】
『後醍院真柱の略歴』1928年、後醍院 良望 編
『古事記伝 第3巻(十七之巻〜二十四之巻)』1930年、本居宣長
『古史伝(第三十一巻)』 1887年、平田篤胤
『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料第五輯 神代三山陵に就いて』1940年、紀元二千六百年鹿児島縣奉祝會(池田俊彦 執筆の項)
 「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男