2018年8月20日月曜日

空前絶後の陵墓大量確定の中で—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その15)

田中頼庸が、神代山陵への遙拝を建白したのがいつのことだったのか、その建白書に日付が残っていないため正確には分からない。

だが建白書には教部省設置のことが書いてあるので、明治5年3月以降に書かれたものあることは確実である。また、このような政治的に機微な事案を鹿児島にいながらにして建白することは現実的でないから、それは薩摩派が教部省に乗り込んできた同年5月以降であろうと思われる。天皇が行幸へ出発するのが5月23日。おそらくは、天皇が既に出発した後に出されたものだろう。

頼庸の建白書の大略は、次の通りである。
  • 鹿児島県は神代三代の旧都であり、特に高千穂峰は天孫ニニギのミコトの降臨の地であるから、行幸の折にはまず霧島神宮に参拝してほしい。
  • また、ホホデミのミコトを祀った鹿児島神宮にも同様に参拝して欲しい。
  • 埃(可愛)山陵は高城郡宮内村の亀山にあり、これはニニギのミコトの陵である。
  • 高屋山上陵は溝辺郷神割岡にあり、これはホホデミのミコトの陵である。
  • 吾平山上陵は姶良郷上名村鵜戸陵というところで、これはウガヤフキアヘズのミコトの陵である。
  • このように神代山陵は全て薩摩・大隅に存在するが、いつかそのことは忘れられ、これらの山陵には祭使の派遣もなされていない。
  • しかし幸い近年は復古の盛時であるから、西巡にあたっては、霧島神宮、鹿児島神宮だけでなく神代山陵にも行幸されれば、「皇政維新の大本たる教化」に役立つ。

この建白書がどのように処理されたのかも詳細は不明だ。おそらく、三島通庸や黒田清綱を通じ、西郷隆盛へと伝えられただろう。久光の慰撫のためにこの行幸をデザインし、また随行の筆頭を務めた西郷である。西郷が関わっていないわけはない。しかしどのようなプロセスで建白の内容が吟味され、実行に移されたのかは謎だ。

実際の行幸では、天皇は霧島神宮や鹿児島神宮には参拝しなかったが、神代三陵については遙拝(遠くから拝む)した。建白書で最重要視されている霧島神宮を素通りしている一方、なぜ神代三陵には遙拝し御幣物を奉納したのか、そのあたりの事情はよくわからない。しかも建白書では高屋山上陵は「溝辺郷神割岡」にあるとしているのに、天皇が遙拝したのは「内之浦の北方村国見岳」の方だった。どうやらこの背後には、いろいろな政治的駆け引きがあった模様である。

それはそれとしても、頼庸の建白は、実際に天皇を動かしたのである。新政府に入って間もない頼庸の言い分が、完全ではないにしても大筋で認められ、歴史的な神代三陵遙拝を実現させた。頼庸は、天にも昇る気持ちだっただろう。

ちなみに天皇の西国行幸は、既に述べたように西郷隆盛が島津久光を慰撫することを最大の目的として立案したものというが、頼庸の建白には久光のことは一切触れられていない。

私は神代三陵の遙拝は久光や鹿児島の士族の慰撫という政治的意図があった、と推測するが、それは行幸のプランの中でそう位置づけられていたという意味である。その建白者である頼庸が、神代三陵に何を託していたかは別問題だ。

私は、頼庸は鹿児島を「聖地」にしたかったのだろうと思う。建白書の中でも鹿児島を「皇祖以来三世ノ旧都」であると位置づけている。「旧都」とはなかなか思い切った表現だ。日本神話で重要な聖地といえば、天照大神を祀る伊勢、国譲りの地である出雲、そして天孫降臨の日向の3つであろう。薩摩・大隅は、日向の一部としては考えられるが元来は聖地ではなかった。都など、おかれたこともなかった。

だが、久光とその腹心であった頼庸は、鹿児島を神道国家に作りかえた。仏教を破壊し尽くし、神道は、仏教の影響のなかったころの純粋な姿へと再創造された。その上で、民を神道によって教導し、鹿児島の宗教改革を成し遂げた。そしてその最後の仕上げが、鹿児島を神道の聖地、「肇国の聖地」とすることだったのだと思う。そのために、鹿児島を「旧都」と位置づけ、神話を甦らせようとした。神代三陵を公式に認めさせることで、鹿児島を単なる神道国家ではなく、「聖なる神道国家」へ完成させようとした。

そして頼庸は、「鹿児島の聖地化」を久光も望んでいると考えていたのだろう。廃仏毀釈の頃の久光には、どこか宗教的な情熱といったものが感じられるからだ。頼庸も、久光には取り立ててもらった大きな恩義がある。新政府と対立していった久光を、間近で見て来た頼庸である。鹿児島を離れ、新政府に出仕することを後ろめたく思う部分もあっただろう。久光へのプレゼントとして「鹿児島の聖地化」を求めたとすれば、私の考えすぎであろうか。

こうして、運命の明治5年6月23日を迎えた。

午前6時、行在所の庭にしつらえられた拝所で、明治天皇は神代三陵を遙拝し、御幣物を奉納したのである。明治天皇は、この行動がどんな意味をもっているのか理解していたのだろうか。背後にはきっといろいろな思惑があったのだ。久光や士族への慰撫というパフォーマンス、鹿児島を聖なる神道国家にしようという目論見、そして教部省に乗り込んできた薩摩派の最初の大仕事という、こけら落としの意味合いまで。

だが、この鹿児島行幸は、その目的を達しなかった。その原因は西郷隆盛だった。行幸の計画では熱心に久光慰撫の必要を説いて回った西郷は、なぜかこの行幸中、久光への挨拶に行っていない。久光とすれば、当然西郷は旧主の元へ馳せ参じると思っていたし、西郷ですら、元々はそのつもりだったようだ。それがなぜ久光の下へ出向かなかったか。これも資料が残っていないので歴史の謎である。少なくとも西郷は久光を避ける積極的な理由をこの時は持っていないので、深い事情があってのことではなく来客が多かったなどのささいな理由で挨拶に行けなかったのではないかと思われる。

しかし久光は激怒した。旧恩を顧みない行為だと。久光の慰撫を念頭に実施されたはずの天皇の西国行幸は、かえって久光の新政府への反感を高め、対決的姿勢を助長してしまった。神代三陵の遙拝についても、久光の反応は何ら伝えられていない。それどころか、久光が神代三陵を敬ったということも、特に記録はないのである。おそらく久光は、神代三陵にはさほど関心がなかったか、それが虚構であることを見抜いていた。天皇が恭しく神代三陵を遙拝しようとも、白々しい気持ちでいたかもしれない。

それは、かつて共に神道国家薩摩をつくり上げようとした、久光と頼庸のすれ違いでもあった。久光と頼庸は、神道を精神的支柱とした国づくりという理念は共有していたが、久光は頼庸と違って鹿児島を「聖地」にするつもりは毛頭なかったように見える。そういう、立派そうに見えるだけで中身のない称号を欲しがる久光ではなかった。

このように、久光に対しては空回りに終わった神代三陵の遙拝であったが、天皇が一度でも神代三陵を実在のものとして扱った以上、それが正式に公認されるのは時間の問題であっただろう。既に述べたように、明治天皇の鹿児島行幸から約2ヶ月後の8月29日、教部省は「神代三陵を始め御本陵 御分骨所 御火葬所等未詳の御箇所」を約60箇所も挙げ、早く確定しなくてはならないと宣言するのである。

さらに、教部省が確定を急いだのはそれだけではなかった。皇后や皇子・皇孫、つまり天皇その人のみならず、天皇の係累にまで陵墓を確定しなくてはならないとし、猛烈に確定作業を行うのである。こういった陵墓探しは、明治4年の神祇官時代に始まっていたが、府藩県に問合せをしてもはかばかしい回答もなく、うやむやになりかけていたところだった。それを、教部省が改めて各府県に催促したのが明治5年10月。行幸から約3ヶ月後であり、薩摩派が教部省を手中に収めた頃だ。薩摩派は、どうやら陵墓にはかなり関心があったらしい。

そこから、明治7年までは陵墓の調査の時期である。全国各地に教部省の職員が出張していって、それらしい土地の調査を精力的にやっている。例えば明治6年、樺山資雄
(すけお)は官命を受けて東京から近畿を中心に陵墓調査の行脚を行い、鹿児島でも神代三陵の調査を行った。樺山は言うまでもなく鹿児島出身である(ただし樺山氏の系譜の中でどのように位置づけられる人物なのか未詳)。樺山は白尾国柱から田中頼庸に至る神代三陵の調査・考察を総括し『神代三陵異考』をまとめた。

明治7年になると、陵墓の確定作業は俄然活発になる。

明治14年に成立した『陵墓録』という、陵墓のカタログ的な公式資料があるが、ここに掲載されているものを基準にすると、皇后の墓については維新前に確定していたものが1つしかなかったのに、いきなり明治7年に21もの墓が確定され、明治8年には14、明治9年には13の墓が確定された。また皇子の場合は7割近くに当たる88の墓が明治8年に確定、皇女の場合も7割以上の68の墓が明治8年に集中して確定されているのである。これらを合わせると、明治8年には169もの墓が確定された。

つまり明治7〜8年が、幕末の山陵復興運動も真っ青の、空前絶後の陵墓大量確定の時期であった。この時期に確定された個別の陵墓については詳らかでないが、本来考古学的な調査を要する事項について、口碑流伝や地名だけを頼りに短期間で大量の陵墓の確定を行ったのであるから、その内容はいきおい杜撰となり、信頼性の低いものとなったことは想像に難くない。神代三陵の確定も、この中の一例なのである。

もちろん縷々述べてきたように、神代三陵の場合、白尾国柱以来長い研究の歴史があり、一朝一夕に場所が定められたのではないし、他の皇子・皇孫などの場合とは研究の厚みという意味では比較にならない。だが教部省で神代三陵の考証を担当したのは、山之内時習、猿渡容盛、子安信成、中島秉彜の4人。「文久の修陵」にも参加した陵墓の専門家であった猿渡容盛も加わっているとは言え、文責を担ったのは田中頼庸の盟友・山之内時習であり、これは薩摩派の身内による脇の甘い考証であったと思う。

実際、この考証に基づいた確定を求める稟議書(教部省伺)においても、「数千歳ノ後ノ今日ニ至リ確定候儀極テ難事ニハ候ヘドモ(中略)此上間然有之間敷儀ト存候間今般巡視ノ者見込之通断然御決定可被為在」(数千年の後の今日に確定するのは極めて困難なことではありますが(中略)この上間然(=[考証の欠点について]あれこれと批判すること)するべきではないと思いますので、今般巡視した者の見込みの通り決定していただけますように)といういい方がされており、その調査・考証が万全のものでなかったことが山之内時習その人によっても示唆されている。皇子・皇孫などの場合も推して知るべしであろう。

なおこの考証において山之内は、高屋山上陵については、それまでの定説であり天皇が遙拝もしていた「国見岳」を斥け、頼庸の説に従って「溝辺郷神割岡」を当てている。後述するように頼庸は既にこの頃教部省にいないが、この考証は頼庸の考えを下敷きにしたものであることは明らかだ。頼庸の説は遂に、公認を勝ち取ったのである。

このようにして、明治7年7月10日、 神代三陵は全て鹿児島にあると公式に認められた。ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズという神々が、実在のものとされたその瞬間だった。

【参考文献】
『田中頼庸先生』二宮岳南(写本、刊行年不明、鹿児島県立図書館所蔵本)
「西郷隆盛と島津久光」1988年、芳 即正、『敬天愛人』第6号
「明治期における陵墓決定の経緯—皇子・皇孫等の場合—」1985年、外池 昇
「神代三陵御確定ノ儀伺」公文録・明治七年・第百八十四巻・明治七年七月・教部省伺(布達)国立公文書館蔵