2018年10月3日水曜日

つくりかえられた伊勢神宮—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その17)

田中頼庸は、明治7年の春、教部省から伊勢神宮に大宮司として赴任した。

この頃、教部省は各地の古社・大社に直接人を送り込むようになっていた。それは、いっこうに成果の上がらない大教宣布運動を続けるより、直接神社に手を入れることで信仰のてこ入れを図ったという面もあるし、また、官吏としては頑迷固陋すぎ、扱いに困っていた国学者たちを体よく中枢から遠ざけるという意味合いもあった模様である。明治六年政変のために、教部省における薩摩派の政治力も弱体化していた。

しかし最大の目的は、神道そのものを国家の手によって作りかえるためであった。民衆との繋がりの中で育ってきた神祇信仰を破壊し、国家にとって都合のよい新しい宗教として神道を再創造しようとした。

その嚆矢となり、またその中心になったのが伊勢神宮であった。

伊勢神宮といえば、皇室と特別な関係を持つのみならず、三種の神器の一つ「八咫(やた)の鏡」を祀る「国家の宗廟」と思われているが、明治以前からそうであったわけではない。式年遷宮の際に勅使を派遣し幣帛を奉納するといったことはあったが、何しろ天皇は明治に至るまで歴史的に一度も伊勢神宮を参拝したことがなかったのである。

初めて天皇が伊勢に参拝したのは、明治2年4月のことだ。京都から東京へゆく途中、天皇は神宮に玉串をささげ維新政府の成立を報告、近代日本の発展を祈った。この参拝は岩倉具視や木戸孝允、そして津和野派の亀井茲監(これみ)と福羽美静がなさしめたものという。

言うまでもなく、伊勢神宮は天照大神を祀る。天皇は天照大神の子孫であり、それこそが日本を治める正統性の根源と考えられたのだから、伊勢神宮が国家にとって重要になってくるのは当然だった。しかも津和野派は天照大神を絶対視していた。だから彼らは伊勢神宮を国家の手中に収めようとしたのである。

しかし、国家のみが強制的に伊勢神宮の改変を行ったのではなかった。伊勢神宮(内宮)の世襲の下級神職に産まれ、権禰宜(ごんねぎ)だった浦田長民(ちょうみん)は、このような国家の趨勢を敏感に察知し、伊勢神宮を国家的存在とするよう内からも積極的に運動した。例えば、彼は維新直後に度会(わたらい)府御用掛に採用され、着任直後に伊勢神宮のある宇治山田から仏教を完全に排除する提案を行った。度会府(三重県の一部)は天皇が伊勢神宮に参拝するという情報に接すると、この提案に基づき参宮街道沿いの廃仏毀釈を行い、維新前までにあった258もの寺院のうち183が潰された。伊勢を純粋な神道の地へと自主的に「浄化」しようとしたのだ。

もちろん政府はさらに強力な改革を実施した。明治3年11月には世襲の祭主藤波教忠(のりただ)を免職し、公家の近衛忠房を新たに祭主に任命。さらに明治4年には神社は「国家の宗祠」であるから私有すべきでないという原理を打ち出し、神宮の世襲職をすべて廃止した。こうした処置は全国の神社に対して行われ、全国の神社と神職は国家機関となった。

伊勢神宮で廃止された世襲職に「御師(おんし)」とよばれる権禰宜身分の存在があった。「御師」には、天照大神を祀る内宮(ないくう)が荒木田家271家、豊受大神を祀る外宮(げくう)が度会家479家もあり、この御師が全国津々浦々にそれぞれ檀家を持ち、毎年神宮大麻(お札)や暦を配って初穂料を集めたり、伊勢講の受け入れを担当したりしており、「御師」の中には莫大な収入を得るものもあった。政府は「御師」が「国家の宗祠」である神社を用いて私腹を肥やしているとして問題視したのである。浦田長民自身も御師の出身であったが、御師廃止論の急先鋒に立った。

さらにこの頃には、伊勢神宮に祀られているご神体の鏡を東京に遷座すべきという議論が湧き起こってくる。浦田長民は津和野派と気脈が通じていたことで半年間政府に出仕しているが、その間に自身でも福羽らとともに神宮の鏡を東京に遷座する案を練っていた。ご神体を失った伊勢神宮に存在意義はないため、これは事実上の伊勢神宮廃止論でもあった。そういう議論が行われている中で、三島通庸は新たな国家の中心として「黄金の神殿」を作り、そこに伊勢神宮を遷座しようというアイデアを提出するのである。

田中頼庸も三島と同調し、伊勢神宮を東京に遷座するよう促す建白を認めて、高崎五六、三島通庸、山之内時習との連名で提出している。そんな伊勢神宮遷座派の先頭だった田中頼庸が、伊勢神宮の大宮司として赴任したのは皮肉なことであった。

浦田長民も、頼庸の1年前に伊勢神宮の少宮司として再び神宮に舞い戻っていた。二人は、中央にいるときは伊勢神宮の遷座論を展開していたが、いざ神宮に赴任すると伊勢神宮の聖地化を推し進め、共同して伊勢神宮を国家第一の宗廟と発展させていくのである。

そして伊勢の街自体が「神都」として作りかえられた。伊勢神宮の周辺は、全国から伊勢参りに来る人々のための娯楽や遊興に溢れた活気溢れる門前町が形成されていたが、猥雑な妓楼街は主要道路から遠ざけられて自然消滅させられ、代わりに聖地としての風格ある施設が次々建設された。

さらに、天皇との特別な関係の樹立のために、今に続く数々の儀礼が定められ(『神宮明治祭式』)、新しい神道理論も確立していった。この際に26の明治以前の儀礼が廃止され、新しい儀礼が21も取り入れられたという。例えば元始祭、祈念祭、新嘗祭、歳旦祭、天長節祭、紀元節祭など国家的色彩を持つ祭りが新たな年中祭祀として取り入れられている。こうした教義面の改革は主に浦田長民が担い、実務面を頼庸が担当した。伊勢神宮は、こうして明治以前のそれとは全く違う神社になっていった。頼庸は、鹿児島を聖地に変えることはできなかったが、代わりに伊勢を国家の聖地に変貌させることに成功した。

また、教部省が大教院体制で大教宣布運動を進めると、浦田長民はこれに呼応して神宮に教院や説教所などを附設し、神宮を国民教化運動の中心的存在にしようとした。まず地元の度会県の倭町に説教所を開設。そして順次各所に説教所を設けていった。その中心として、明治6年に説教所における教義学修行のための機関として「神宮教院」を開設した。

神宮教院は、伊勢神宮において国民教化運動を担った支部組織だった。しかしその広がりは全国規模のものになっていく。従来から各地に存在していた伊勢講(定期的に伊勢参りをするグループ)を母体にして、全国に「神風講社」という組織を作り神宮教院に附属せしめたからだ。

大教院でも、神宮教院の活動に期待していた。明治7年4月には、神宮教院の活動を受け持ち区域でもやれるようにして欲しいという神宮からの要望を認め、神宮教院の教化運動は区域外にも拡大し、神宮の神官が各地に巡教するようになった。また神宮教院に中教院が設立され、その活動は次第に公的なものとなっていった。

ところが明治8年に大教院が瓦解。追って教部省も解体。政府による大教宣布運動の頓挫を受け、神道関係者は大教院に代わって神道事務局を作って自ら大教宣布運動を続けることとなったから、自然と神宮教院がその中心となった。田中頼庸も神道事務局の副管長に就任。こうして神宮教院は規則を改め組織を再編成し、全国を13の教区に分かち、各県毎に教会を置き、大規模な布教体制を充実させた。さらに神宮教会は、青少年の教育のための「本教館」を設立(明治9年)、追ってこれは「神宮皇学館」に発展(明治15年)した。また旺盛な出版活動にも取り組み、神道理論や祭式、古伝に関する本を陸続と出版した。

神宮教院の活動は、頓挫した国家の運動を補填することで、一神社の行う範囲を超えて、準国家的な規模と内容を持つものとなっていった。

ところが、明治13年頃に、神宮教院が中心となっていた神道事務局で「祭神論争」が起こる。神道事務局では、大教院時代から引き続いて祭神を造化三神と天照大神の四柱の神としていたが、これに出雲大社大宮司の千家尊福(せんげ・たかとみ)が異論を唱え、大国主神も加えるべきと申し立てたのである。

天照大神と大国主神を巡る近世の神学に立ち入る余裕はないが、平田篤胤はこの世を支配しているのは天照大神だが、あの世(幽冥界)を支配しているのは大国主神だとする説を提示しており、死後の魂の行方に強い関心を持った平田派は大国主神を重視した。篤胤の説は、門人の矢野玄道(はるみち)や六人部是香(むとべ・よしか)に受けつがれてはいたが、津和野派の天照大神一神教的な政策、続く薩摩派の造化三神の重視政策に押され、それまで閑却されていたのである。

だが出雲大社では大国主神を祀っていることから、平田派とはまた違った面から大国主神を重視しており、千家は「大国主神が幽冥の主宰神であることは古典により明らかだ」として、以前からこれを四柱の神に祭神として付け加えるべきと主張していた。既に大教院時代、祭神に追加することは認めなかったものの、大教院は千家の主張に応じ「大国主神が幽冥の主宰神」であることは認めていた。薩摩派には確たる神道理論がなかったから、こういう論争には弱かった。

この論争が、神道事務局に持ち込まれたのである。論争は、田中頼庸を中心とする伊勢派と、千家尊福を中心とする出雲派によるものだったが、その論争は全国の神職を巻き込んだものとなっていく。

組織的には全国に影響力を及ぼしていた伊勢派だったが、彼らには決定的な弱点があった。彼らは篤胤の『古史伝』に相当するような、古典となる「教典」を持っていなかったのである。つまり伊勢派には、依って立つ確固たる神道理論がなかった。一方、出雲派には、かつて神学論争に破れ没落していた平田派の面々がどんどん合流していった。矢野玄道や角田忠行が千家に同調、全国に散らばる草莽の国学者たちも、篤胤の思想を武器に、出雲派として再び勢力を結集していった。伊勢派の源流は津和野派と薩摩派にあったが、薩摩派は言うに及ばず津和野派が依って立つ大国隆正の思想も、平田篤胤に比べれば古典と呼ぶには小粒すぎた。

窮地に陥った伊勢派は非常手段に出る。神道家による話し合いでは埒があかないから、いっそ勅裁を仰ごうというのである。より政治に近いという立場を利用し、論争ではなく権力によって出雲派を圧迫しようとしたのだ。明治14年2月、これに応じて太政大臣の三条実美(さねとみ)は宮中祭祀における祭神を決定した。その勅裁では、はっきりと大国主神が否定されているわけではなかったが、大国主神には言及がなかったために伊勢派の勝利となった。

しかしながら、こうした神道界の内紛は政府にとって好ましからざるものだった。神道は政権が依って立つ国体理論の一部であったから、そこに動揺があってはならなかった。しかも、信教自由になったことでただでさえその基盤が揺らいでいた。信教は自由だとしても、国家の基盤たる「天壌無窮なる万世一系の皇統」や「万古不易の国体」を正当化し、その祭祀を国民に強制する方途が必要とされていた。このため政府は、明治15年1月、「祭祀」と「信教」を区別することとし、神社は宗教ではなく、祭祀を主とした「国民道徳上の存在」であると整理した。

たとえ信仰しているのが仏教やキリスト教であっても、神社への祭祀は「国民道徳上」行わなければならない。それは信教の自由とは関係ない。なぜなら神社は宗教ではないのだから、という理屈だ。祭祀と信教を区別するのは明らかに詭弁であったが、これは国家の根幹たる神話を個人の信仰とは無関係に承認させるための譲歩でもあった。明治国家は、神道の国教化政策の失敗、そして国民教化運動の失敗に懲りて、神道を国家的宗教とすることは諦める替わり、神社祭祀のみを国民に強制したのである。こうして国家は、宗教的次元では責任逃れをしつつ、実際には宗教として神道を機能させることに成功した。

それは、かつて三島通庸が構想した、神道があらゆる宗教の上に超然と立つ体制だったのである。しかも、それは「黄金の神殿」を必要としない、安上がりな方法で達成されたのだ。

こうして、神社は宗教ではないということにされた。それまで神官は国民教化運動を担う教導職を兼任することになっていたのに、これが逆に禁止された。また神道による葬祭が推進されていたのに、神官は葬儀に関わってはならないとされた。神社は、宗教活動を一切禁止されてしまった。神社は、神道論を唱えることも、布教活動をすることもできなくなった。強力に推進されてきた政策が一気に逆転し、関係者ははしごを外された格好になった。

田中頼庸は、やむにやまれず宗教活動を禁じられた神宮を去る。

伊勢神宮でも、それまで大教宣布運動を続けていた「神宮教院」を附属することができなくなり、これを分離したからだ。しかし田中頼庸は、「神宮教院」を母体として新興宗教「神宮教」を立ち上げ、その初代管長に就任するのである。このようなことは他の大社の場合でも起こった。神社から、宗教部分を分離して別団体として宗教化したのである。明治15年5月、政府もこうした新しい団体を「教派神道」として認定した。

「神宮教院」はその全国組織を活用し、御師から取り上げた大麻の頒布も担っていたが、「神宮教」はこれも引き継いだ。「神宮教」は明治32年(1899年)に解散したものの、その内実は「財団法人神宮奉斎会」に改組されて大麻頒布も続けられた。この神宮奉斎会は戦後、日本各地の神社を包摂する宗教法人「神社本庁」の母体の一つとなる。

ところで、田中頼庸が「神宮教」の管長として神道界の絶頂にあった明治20年12月、彼のもとに訃報が届いた。島津久光が薨じたという知らせだった。

(つづく)

【参考文献】
『神都物語:伊勢神宮の近現代史』2015年、ジョン・ブリーン
<出雲>という思想』2001年、原 武史
日本政治思想史―十七~十九世紀』2010年、渡辺 浩
神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫
神道指令の超克』1972年、久保田 収