2020年10月27日火曜日

洋上風力発電についての、録音・撮影禁止の「勉強会」に参加しました

10月25日、「まちづくり県民大学「どうなの洋上風力発電」」という勉強会に参加してきた。

主催は「まちづくり県民会議」で、同会議メンバーで鹿児島市議の野口英一郎さんが中心になって企画したもの。野口さんは、今問題になっている吹上浜沖の洋上風力発電について、実際のところどうなのか知りたいということで勉強会を開催したそうだ。

勉強会には、まさに吹上浜沖洋上風力発電所を計画しているインフラックス社の面々も東京からわざわざ参加してくださり、我々の質問に答えていただいた。もちろん私も質問した人の一人である(その内容は後述)。 

ところで会議の内容以前に驚いたのは、インフラックス社側の人数だ。なんと、総勢10人近くで臨んできたのである。ちなみにこの勉強会の定員が30人。たった30人の勉強会の相手をするのに、こんなにやってくるなんて体制が万全すぎる。役職まではわからなかったが部長クラスくらいまで含んでいたと思う。市議が主催するとはいえ正式な「説明会」ではない「勉強会」なので、てっきり担当者2人くらいで説明するのかと思っていた。

もしかしたら、地元説明会では常にこうした体制を取っているのかもしれない。しかし私の感覚としては、未だ環境アセスも初期段階、事業実施の目途も何もない段階の、非公式の「勉強会」でこの規模で臨むのは、異例とはいえないまでも少数な方だと思う。

ではなぜインフラックス社は万全の体制で勉強会に臨んだのか。それは、環境アセスの「配慮書」への意見が多かったか、あるいはその中に痛いところを突かれた意見があったかで、これからの地元対応の困難が予想されたからだろう。インフラックス社にそうした緊張感をもたらしただけでも、先日の「配慮書」の縦覧に多くの人が意見を出したのは意味があったと思う。

一方、インフラックス社の要望によって、「勉強会は一切録音・撮影禁止」とされたのは残念だった。なぜ「録音・撮影禁止」なのかについての合理的な説明はなく、「SNSにアップされたら困るから」と言っていたが、なぜSNSにアップされたら困るのかよくわからない。また、その理由であればSNSへのアップの禁止だけなら分かるが、録音・撮影自体を禁止するのも謎だ。疚しいことがあると自分で言っているような感じである。

さらに、事前にはこの勉強会を某新聞社が取材する予定であったが、やはりインフラックス社の意見およびそれを受けた主催者の調整により、取材自体が辞退されることとなったらしい。どうも、マスコミが入ることを嫌って様々な条件を出されたため、「雰囲気を壊すみたいなので今回はいいです」となった模様である。

では、インフラックス社は万全の体制を整え、録音禁止・撮影禁止の下、マスコミにも遠慮してもらって何を語ったのか?

実は、これが、全体が一般論的であってたいした説明はなかったのである。

勉強会の段取りとしては、最初にインフラックス社からの説明があって、その後質疑応答となっていたが、その説明部分では、(事業の説明はなく)制度の説明のみであった。

制度の説明とは、具体的には洋上風力発電を行う上で大きく関係してくる2つの法律、すなわち「再エネ海域利用法」と「環境影響評価法」の説明である。しかし当然ながら、これは法律の話だからインフラックス社の面々がぞろぞろ来て説明するようなことでもない一般論の最たるものである。

その後の質疑応答は、時間が限られているということで、主催者側の調整により「最初に全員分の質問を聴取して、後でまとめて答える」という形式だった。確かに「一問一答形式」よりは時間の節約になってよい面があったとは思うものの、個人的には一つの質問を巡ってもうちょっとやりとりをしたかったなーというのが率直な感想である。

そんなわけで、「録音禁止」であったことと、「一問一答形式」でなかったので、質問への答えが正確に理解できているかわからないが、私が行った4つの質問とその答えについて、以下に簡単にまとめておく。

Q1. 御社が吹上浜沖に洋上風力発電所をつくりたいと思っていても、実際には「再エネ海域利用法」に基づいてその海域が「促進区域」に指定されなければ建設することはできない。吹上浜沖が「促進区域」に指定される目論見があるのか? なければ、どうやって指定されるように図っていくのか?

A1. おっしゃる通り、自治体、そして国が「有望地域」として選定し、それが「促進区域」として指定されない限り前へ進めない事業である。我々がこうして環境アセスを行っているのは、地元の住民との合意形成を図って住民の声をまとめ、指定につなげる意味でやっている。

【補足】「目論見があるのかどうか」に対しての直接の答えはなかった(多分、ある程度はあるからやっているんだと思うが)。しかし「住民の声をまとめて指定につなげる」というのはちょっと腑に落ちない。環境アセスをやると99%は反対意見しか出ないと思うが、それでどうやって「指定につなげる」ような住民の声をまとめるのだろう…? 住民の声をまとめたら「建設反対」の結論以外ありえないように思うが…。

Q2. 川内原発一基分もの電力を送電するとなると、地元の3市のどこかに送電網を建設することになると思うが、具体的にはどのように考えているのか?

A2. どこに接続するかは現在九電と協議中である。南さつま市またはいちき串木野市に(※日置市は単に言い漏らしただけかもしれない)変電所を作って、電線は地中に埋設して九電の送電網へと接続する計画である。

【補足】私の素人考えでは、もし吹上浜沖に洋上風力発電所が建設された場合、その送電線は伊佐市にある「南九州変電所」に接続する以外ないと思っている。とするとそれまでの間に送電鉄塔がずらっと建つのかと思っていたが、そうではなくて地中埋設方式らしい。

Q3. 当該事業は、インフラックス社の直轄ではなく、「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」という子会社を作って実施する理由は何か。

A3. こういった大規模事業をする際にはよくあることで、例えば建設会社などの関係企業とチームを組んでやっていくための別会社である。今はインフラックス社の100%子会社だが、今後パートナーを入れてやっていく予定である。

【補足】私は、事業を売却するために子会社を作ってやっているのではないか、と以前の記事で「邪推」した。まさかそう答えることはないだろうとは思っていたが、一応聞いてみたのがこの質問である。なお、大規模建設事業では複数の企業が「ジョイントベンチャー(共同事業体)」という法人格のない組合のようなものを作って請け負うのは確かによくあることである。しかし風力発電のような長期にわたる大規模事業を、このような形態で(特に「合同会社」で)実施することがよくあることなのかは不明である。

Q4. 仮にこの事業が実現した場合、地域に住む我々は、吹上浜沖の風車に出資することはできるのか?

A4. それは出資の募り方次第になるが、グリーンボンドのようなものを発行してそれに応じるという形で、個人というよりは、例えば漁協などが出資のための組合を作って投資するというケースが他の地域でもやられている。

【補足】「グリーンボンド」とは、大雑把に言えば「環境にいい事業に充当するための債券(の金融商品)」を指す。私は、吹上浜沖洋上風力発電の場合、それ単発で投資を募るのではなく、他の洋上風力発電事業などと一緒くたにして資金調達がなされると予想している。つまり投資家は「日本の洋上風力発電」に投資するということで、特に「吹上浜洋上風力に投資する」というような意識はないような形であろう。先方の回答は、この予想を裏付けた形だ。であれば、少なくとも、地域の人がこれに投資してそのリターンを得るというような資金の循環はできないだろう。

私の質問は以上である(本当はもうちょっと聞きたいことがあったが、時間もなかったので割愛した)。他の方々から行われた様々な質疑応答については、正確にメモを取っていないのでその内容を紹介することは差し控えたい。ただ、インフラックス社の答えは、ほとんどが一般論的であって(ただし、質問の方も一般論的なものが多かったので、そこはしょうがないかもしれない)、具体的なことについては「今後、皆様のご意見を踏まえて検討していきたい」というような調子だった。

だが、最後に鹿児島に赴任している社員からの挨拶があって、その方は結構自分の言葉で思いを語っていた。「せっかく作るのであれば、地域の発展に役立ちたいというのが私たちの思い」「皆さんのご意見をよく聞いて、意見を交わしてお互いの理解を深めていきたい」というようなことで、こうして書くとありがちな言葉を並べているだけだが、言葉遣いや雰囲気を含め、「この人は本気でこう思っているのかもなあ」と思わせる感じで好感を持った。そういう話を最初からしてくれたらよかったのに(笑)

しかし、だからこそ思うのである。

「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」のWEBサイトの、必要最低限のことすら何も説明していない冷淡さは一体何なのだろうか? 「配慮書」をすぐに閲覧不可にしてしまうのはなぜなのだろうか? なぜ勉強会を録音・撮影禁止にするのだろうか?

【参考】吹上浜沖洋上風力発電合同会社
http://influx-fukiagehamaoki.com/index.html

「地域の発展に役立ちたい」というなら、そういう秘密主義を辞めて胸襟を開いて地域に入ってきて欲しいし、そして対話していきたいというのなら、もっと情報をオープンにし、勉強会の模様をYoutubeにアップするくらいのことはして欲しいものだ。せめて、吹上浜沖洋上風力発電合同会社のWEBサイトには現地赴任の社員の挨拶でも掲載したらどうか。

そういったことが全くないまま、「地域の発展」「対話したい」などというから、却って白々しい感じがするのである。言っていることとやっていることが全く逆なのだ。

正直言えば、私は今回の勉強会におけるインフラックス社の説明や応答については、それほどおかしいと思った部分はない(全くないわけではない)。しかし、それであっても録音・撮影禁止を求めた彼らの姿勢には、重大な疑義を抱いている。私はこの事業で最初から問題にしているのは内容というより「進め方」なのだ(もちろん内容も問題大ありだが)。

ちなみに、先方(インフラックス社)は私のことを認識していて「できれば会いたい」みたいに言っていたと主催者から伺った。こんな好き勝手なブログ記事を書いているからだろう(笑)早々に撤収してしまったようなので会うことが出来なかったが、こっちは名前を明かして質問もしていたので声を掛けて欲しかった。オープンな場で対話するのは大歓迎である。

インフラックス社の皆さんも、もしかしたらこの記事をご覧になるかもしれない。もし間違っていることや補足・反論があったら遠慮なくコメント欄で指摘して欲しい。御社が「対話したい」というなら、ぜひそうしていただきたいのである。

2020年8月9日日曜日

インフラックス社が実現可能性の低い巨大風力発電事業を計画する理由

先日、「吹上浜沖に世界最大の洋上風力発電所を建設する事業が密かに進行中(今なら意見が言える)」という記事を書いた。

その後、いろいろ知恵を下さる方がいて、私もこの事業についての理解が深まり、この密かに進んでいるかに見える巨大事業計画の本当の意味がわかってきた。

まず、この途方もない巨大事業に不安になっている地元の人たちを少し安心させることを書くと、この事業は9割方ポシャるし、仮に実現した場合でも、事業計画通りの規模で建設されることはまずない

なぜ9割方ポシャるのか、というと、この事業は国が定める洋上風力発電の建設プロセスに全く則っていないからである。

再エネ海域利用法

洋上風力発電は、いうまでもなく海上に建設される。しかし海は、誰のものでもない。海洋の土地は私有できないことになっており、市町村の境も明確ではなく、基本的には国の管轄ということになっている。警察権も、県警の担当ではなく、鹿児島県の場合は「第十管区海上保安本部」(海上保安庁)が受け持つ。

そういう、誰のものでもない海に、風車を建てるわけだから、これは公共的なものに限られる。「私は吹上浜に風力発電の風車を作りたい」と考えても、県に書類一枚出して許可される…というような単純な話でない。

元々、日本では発電のための海上利用の権利・方法が明確に規定されておらず、そのせいで洋上風力発電の普及が進まなかった。ヨーロッパでは洋上風力の利用はかなり進んでいて、再エネの主軸の一つとなっているのに、日本では後れを取っていたのである。

そこで昨年(2019年)4月に出来たのが、「再エネ海域利用法」だ。

これによって、日本でも法の規定に則って洋上風力発電を建設することができるようになった。そのプロセスは大雑把には次の通りである。


まず、経産大臣および国交大臣が、「促進区域」を指定する。要するに、「この海域は洋上風力発電に適している」という地域が国によって指定される。もちろん一方的に指定されるのではなく、漁業権や航路・港湾の利用に差し障りがない地域が検討されるし、県知事や市町村長を交えた協議会が設立されて話し合って決める。

次に、「促進区域」における洋上風力発電事業の事業者が公募される。つまり、洋上風力発電事業は国が主体となって行う半公共事業(国がお金を出すわけではないから公共事業そのものではない)である。事業者は、具体的な建設・売電計画(公募占用計画)を立案し公募に応じる。また、売電価格についても、屋根についている太陽光パネルとは違って最初から決まっているのではなく、事業者が「この価格で売電できます」という価格を提示し、それが評価される。もちろん売電価格は安い方がよい。

そして公募に応じた事業者の中で最も優れた計画のものが選ばれ、経産大臣によって売電のFIT(固定価格買取)が認定される。こうしたプロセスを経て、ようやく洋上に風車を建てることができるのである。

※正確には、この方法の他に、港湾法に基づいて港湾管理者が風力発電事業者を公募するやり方があるが長くなるので割愛する。

それなのに、吹上浜沖の巨大風力発電計画は、こうしたプロセスを全く無視しているのである!

まず、吹上浜沖は「促進区域」にすら指定されていない。現在「促進区域」になっているのは長崎県の五島沖のみで、他に「促進地域」の指定に向けて検討されているのが10区域ほどである。だから、いくら吹上浜沖に風力発電所を作ろうとしても、「促進区域」にもなっていないわけで、当然国による公募もなく、事業の実現は不可能である。

「でも、実際、環境影響評価の「配慮書」への意見照会があったじゃないですか! 事業は進んでいるんですよ!」と思う人もいるかもしれない。でも、環境影響評価(環境アセス)というのは、「仮にこういう事業を行うとしたら、どのような影響があるか?」を事前評価するものであって、事業の許可関係・実現性とは全く関係がない。完全に仮定の事業でも環境アセスのプロセスは行える。例えば、私が「吹上浜にディズニーランドを作ります!」という内容で環境アセスをやることも可能だ(実際にディズニーランドが誘致できるかどうかとは関係なく、という意味)。

だから、環境影響評価の「配慮書」があったことで、あたかも事業が動き出したかのような錯覚(私も最初そう思った)を与えたが、実はまだ事業は完全に「仮定」の段階である。

私は何人かとこの事業を話したが「もう決まっちゃったんでしょ? 反対しても無駄かもね?」というような人も少数ながらいた。しかし以上の話で明確になった通り、この事業は、まだまだそんな確定的なものではないどころか、今の段階では実現不可能なものだと断言したい。

仮定の巨大事業計画をぶち上げる理由

では、事業者はどうして、そんな実現不可能なものを、さも計画が決定しているものかのようにぶち上げたのだろうか? どうしてそんな無駄なことをするのだろうか?

私もそこのところがよくわからなかったのである。法の規定を考えると、こんな計画は立てるだけお金の無駄だ。環境アセスの「配慮書」を作製するだけで、1千万円くらいかかるだろうが、どうして実現不可能な事業の環境アセスに金をかけるのか?

そんな折、某風力発電会社の方と知人を通じて知り合うことができたので、その疑問をぶつけてみた。

するとその方は、「多分、事業を売却することを念頭に置いて、この地域にツバをつけているんだと思います」と回答してくれた。

「なるほど!」と思った。

私自身、この計画を初めて見た時に感じたのは、「計画地域が考え得る最大の広さで、風車の大きさも最大、本数もめいっぱいすぎる。あり得る最大の計画を提示していて、”切りしろ”が大きすぎる!」ということだった。

私は、「きっと、地元のご意見を受けて規模を半分に縮小しました。だからこの計画で納得して下さい」というように、規模の縮小を交渉のカードに使うために、最大の計画をぶち上げているのだと思っていた。

しかし「売却を念頭に置く」ということだと、この大きすぎる計画の意味合いがもっと明確になってくる。ちょっとややこしい話になるが順を追って説明したい。

さて、前の記事にも書いたように、この事業を計画しているのは「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」、実態は「INFLUX(インフラックス)」という会社である。

【参考】吹上浜沖洋上風力発電合同会社
http://influx-fukiagehamaoki.com/index.html

【参考】INFLUX INC
http://influx-inc.com/wind/
 
このインフラックスという会社は、日本各地で洋上風力発電事業計画を立ち上げていて、WEBサイトをみる限り、吹上浜沖の他に、唐津、平戸沖、鰺ヶ沢(青森県)、石狩・厚田(北海道)の計画があるようだ。特に石狩・厚田の計画は、吹上浜沖をさらに上回る規模の計画である。

そして驚くべきことに、これらの地域は全て、「促進区域」にすら指定されていないのである。実現可能性を無視して巨大計画を次々と立案するインフラックスという会社は、一体何を考えているのだろうか?

実は、これらは実現可能性が低いからこそ、巨大な計画が立案されていると考えられる。というのは、今後「促進区域」はどんどん指定されていくわけだから、これらの地域が指定されるという可能性もあるわけだ。その時に、どんな範囲で指定されるか分からないから、事業計画では考え得る最大の区域を想定して環境アセスを進めていると思われるのである。こうしておけば、どのように「促進区域」が指定されたとしても、それが事業計画区域内に収まるであろう。めいっぱい大きな投網を投げておけば、魚はどこかに入る、というわけだ。

また、日本各地で巨大計画を立ち上げているのも、計画に必要な書類は似たようなものだから、下手な鉄砲数打ちゃ当たる方式でやっていると考えられる。どこが「促進区域」に指定されるかわからないからこそ、いろんなところで立案しているのだろう。宝くじと一緒で、たくさん買えば、当たる確率も大きくなるのである。

そして日本各地で計画を立ち上げているもう一つの理由は、反対運動が弱いところを見極めているという側面もあるかもしれない。住民の反対運動は、どこの地域でも同様に起こるわけではない。特に、反対運動のリーダーがどんな人かによってかなり変わってくる。たくさん立ち上げた計画の中で、特に反対運動が弱いようなところは、今は「促進区域」になっていなくても将来有望である。国交省や経産省も、住民の反対運動が弱い地域を「促進地域」に指定したいに違いないからである。

そして、瓢箪から駒で、インフラックス社が事業計画を立ち上げている海域の一つが「促進区域」に指定されたとしよう。その後はどういうことが起こるのだろうか?

インフラックス社は、他の事業者に比べて有利な立場で公募に臨むことができる。環境アセスのプロセスのいくらかを既にクリアしているからである。環境アセスは、結構時間がかかる。各段階で縦覧をする必要があるし、なにより調査自体に時間がかかる。そういうのを、抜け駆けしてやっているからかなり時間が短縮できる。

しかも洋上発電は、投資マネーの奪い合いみたいな状況になってきている。洋上発電は、太陽光パネルに比べ、一般論として事業規模がかなり大きい。1000億円単位の事業だって珍しくない。そういう規模のお金を集めるには、速さも大事である。なぜなら、一度どこかに投資されたお金は、それよりよい条件のところにしか動かないからである。後発者は、「よりよい条件」を準備しないといけないから先発者の方が有利だ。

だから、インフラックス社が抜け駆けして各地で環境アセスを進めていることは意味がある。もしそのうち一つの地域でも運良く「促進地域」に指定されれば、他の地域の計画がポシャったとしてお釣りが来るのかもしれない。まさに「時は金なり」である。

そしてインフラックス社としては、その有利な立場(事業計画)自体を、国が公募する洋上発電事業へ応募しようとしている会社に売ることも出来る。実現可能性がなかった、仮定の事業の環境アセスが、時間短縮ツールとして有用なものとなるのである。ありえないほどの巨大計画で環境アセスを進めているのは、事業売却を考えた時に、売却先の会社による事業計画がどのような規模でもそれを包含するように、ということなのであろう。言うまでもなく、環境アセスの手続きとしては、計画を縮小するのは全くたやすいのである。巨大計画の環境アセスは、小さな計画の環境アセスにも使えるわけだ。

なお、環境アセスは、「配慮書」から次の「方法書」の段階の間は、継承できるという規定になっているが、それ以後のことは法には規定がないので不明である。だが、少なくとも「配慮書」提出後の段階で、事業継承(売却)することは可能だし、なんなら「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」のような、会社ごと売却すればいかようにもできる。そのためにわざわざ子会社を作って事業を計画しているのかもしれない。

ちなみに、事業を売却することのメリットは、すぐに儲けを手にすることができる、ということである。おそらくは、事業を売却せずに自ら発電事業を手がけた方が、利益は大きいと期待できる。しかしそのためには、20〜30年間事業を運営し続けなくてはならない。もしかすると、台風で風車が壊れるなどして、結局赤字ということだってありえる。だから、事業売却によってその時にキャッシュが手に入るということに意味がある。

これまで、「インフラックス社は、事業売却を念頭に置いて、日本各地で巨大計画を立案している」という想定の下で書いてきた。でも、もちろん、邪推と言われれば邪推である。インフラックス社に問い合わせたら「そんなことはありません。計画通り実施することを考えております」と回答するであろう。

しかし、 間違いなく言えることは、インフラックス社は「再エネ海域利用法」に定められたプロセスを無視して事業を立案し、地元はそのせいで混乱しているということである。

これは、洋上風力発電の健全な発展を阻害することであり、その意味では、国交省や経産省といった洋上風力発電の推進行政に対する挑戦と言える。

いいかげんな再エネ事業者は、再エネ推進に有害

そもそも、九州では太陽光発電がかなり普及したこともあって、電源が不安定な状況にある。太陽光発電は天気次第でかなり発電量が上下するからだ。脱原発を考えても、安定的な再エネ電源の需要は大きく、発電量が安定しているという洋上風力は有望である。今回の吹上浜の風力発電計画のように、海岸から5kmというような近さだととても「洋上」とは言えないが、もっとずっと沖合の人の活動が少ないところで、しかも風の安定している場所ならば、洋上風力発電は悪くないと思う。

ところが、インフラックス社のような会社が、沿岸の人々に甚大な影響を与える巨大洋上風力発電事業を、何の説明もなく、法も無視し、あたかもカネのためだけのように見える形で立案するとなると、洋上風力発電自体が、なんだか怪しいものだと思えてくるのである。

いや、既に、「洋上風力発電は15兆円産業になる」とか言われ、バスに乗り遅れるな式でたくさんの有象無象な計画が立案され、バブル的な様相を呈しているのを見ると、「洋上風力発電も結局はマネーゲームの一つなのか」と思わざるを得ない。

しかし、地域に入って地道に合意形成に取り組んでいこうとする真面目な再エネ会社もあるし、再エネの普及を進めて、脱原発やゼロカーボンに向かって進んでいきたいという人々の声もあるのである。インフラックス社のようなやり方が横行することで、一番割を食うのは、そういう真面目な人々なのである

私はこの記事の冒頭に「この事業は9割方ポシャるし、仮に実現した場合でも、事業計画通りの規模で建設されることはまずない」と書いた。でもそれは、だからといってこの事業計画を無視しておればよい、ということではないのである。

逆だ。インフラックス社のやり方は、再エネの推進を希望する人々こそ反対しなくてはならないと私は思う。彼らが進めてきた再エネ推進の気運は、洋上風力が胡散臭くみえることによって、しぼんでしまうかもしれないからだ。

それに、こういう仮定の計画を平然とぶち上げて、住民の間に混乱をもたらすことを屁とも思っていない会社には、断固として反対の意志を表示しなくてはならない。しかも日本全国でこのような混乱が生まれていることを考えると、単に吹上浜の計画がポシャるだけでは十分ではなく、この会社は社会的制裁を受けるべきだと思う。

「法を無視して巨大計画を立ち上げ、住民に不安を与え、健全な洋上風力発電の発展を阻害した」ということで、県知事(か経産大臣)から「遺憾の意」を表明するくらいのことがあってもいいのではないだろうか。ぜひそういう形での制裁をやっていただきたい。

また、吹上浜沖(沿岸の近く)が、万が一にも「促進区域」に指定されないよう、沿岸の自治体では共同して「景観保全条例」などを作ったらよい。「吹上浜の景観は我々にとって大事なものだから、このまま未来に引き継いでいきましょうね」というような内容だ。自治体の権限は法的には遠い沿岸には及ばないかもしれないが、住民の意思が条例というはっきりとした形で表明されていれば、仮に国がここを「促進区域」に指定しようとしても撥ね付けることが出来るだろう。

ともかく、吹上浜沖の巨大風力発電事業の計画は、私が最初に思っていたよりも、もっといいかげんで、斟酌の余地のない、ひどいものだ。そしてそのような計画が日本中で立案されていることに悄然たる思いがする。

私は、再エネの推進に賛成である。だからこそ、適正なプロセスによって住民との合意形成を行い、環境と調和した形で再エネを導入していくことが必要だと思っている。そういう気が全くないような事業者は、正直、再エネに関わってほしくないのである。

再エネは、みんなを黙らせる「錦の御旗」ではないのだ。

2020年7月24日金曜日

吹上浜沖に世界最大の洋上風力発電所を建設する事業が密かに進行中(今なら意見が言える)

「吹上浜沖洋上風力発電事業 計画段階環境配慮書」より引用
とんでもない巨大プロジェクトが南薩で進行中である。

吹上浜沖洋上風力発電事業」という。

吹上浜の沖合に、洋上風力発電の風車を102基も設置するというのだ。この風車がバカでかくて、なんと1基の高さが250mもある。この巨人のような風車が洋上にずらっとならび、その合計出力は約97万kWに上る。

これがどれだけ巨大な出力かというと、例えば川内原発の出力は1、2号機がそれぞれ89万kWだから、原発1機分よりも大きい。そして九州電力の九州全体のベース電力がだいたい1000万kwだから、その約1割分にもあたる。

これは、もちろん、風力発電所としてはダントツで日本最大である。それどころか、洋上風力発電所としては、現在世界一のイギリスの「ウォルニー・エクステンション」(65万9000kW)を抜いて、世界最大になるという規模である。

【参考】マンハッタンの2倍、世界最大の洋上風力発電所が稼働|BUSINESS INSIDER
https://www.businessinsider.jp/post-175246

設置面積も度外れている。いちき串木野市、日置市、南さつま市の3市にかかる吹上浜全体の洋上に風車が設置される計画で、その面積は約22,000ha=220k㎡に上る。日置市の面積が約250k㎡なので、ほぼ日置市くらいの面積(!)に風車が並ぶのである。

私は、再生可能エネルギーの導入を進めていくのは賛成である。しかし、いかんせん規模がでかすぎる! こういう巨大プロジェクトは、慎重になりすぎるということはないのである。

「配慮書」はお手盛り

私がこのプロジェクトに気づいたのは、ちょうど今、このプロジェクトの「計画段階環境影響配慮書」(以下「配慮書」)というものがひっそりと公開されていたからだ(2020年6月23日〜7月31日)。
 ↓
(仮称)吹上浜沖洋上風力発電事業に係る「計画段階環境影響配慮書」の縦覧について
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/oshirase/e022596.html

この「配慮書」とは、要するに環境評価の事前段階で「配慮しなくてはならないのはこういうのが考えられますよ」というのをまとめたもので、内容的にはほとんどが文献による事前調査である。例えば、自然保護区を調べたり、生息している生物を調べたりといったものである。そして文献調査の結果に基づき、今のところの環境評価をまとめている。(本格的な評価は次のステップで行う。)

全部で300ページくらいあるので全部を熟読したわけではないが、この「配慮書」自体はなかなか面白く、いちき串木野市、日置市、南さつま市の3市の情報が(環境に直接関わらない情報も含め)網羅的に掲載されて、しかも地図上にビジュアルに表現されているから、交通網の整備やまちづくりなんかを考える際にはちょうどよい参考資料になっていると思った。

ところが、肝心の評価となると、当たり前だが「お手盛り」と言わざるを得ない。いろいろ問題があると思うが、私が一番おかしいと思った「景観」について見てみよう。

「重大な影響を回避している」わけない

吹上浜は日本三大砂丘の一つとされ、白砂青松の砂浜と縹渺とした東シナ海の眺めは最高である。特に南さつま市では、海岸沿いの景観のよいところを「南さつま海道八景」に定めて観光の目玉として整備してきた。洋上にこのような巨大風車が並ぶとなれば、景観面への悪影響が当然心配されるところである。

ところが、この「配慮書」における「総合的な評価」では「景観」はこのように述べられている(強調引用者)。
①主要な眺望点および主要な景観資源への影響
 主要な眺望点および主要な景観資源への影響については、いずれも直接的な改変は生じないことから、眺望点および景観資源に係る重大な影響を回避していると評価する。

②主要な眺望景観への影響
 高崎山展望所では垂直見込角が4.9度、谷山展望所では同3.8度となっており、圧迫感は受けないものの、比較的細部まで良く見えるようになり、眺望景観への影響が予測される。
 事業実施想定区域は海岸から約5km程度の離隔を取っていることから、多くの主要な眺望点からの垂直見込角は3度程度以下となっている。したがって、風力発電機の機種、塗色統を工夫することにより景観への影響を低減するとともに、風力発電機の配置について、主要な眺望点からの眺望において山の稜線を乱さないように配置する計画である。以上のことより、重大な環境影響を回避又は低減することが可能と評価する。(後略)
これについては誰もが「は?」と思うに違いない。「直接的な改変は生じない」というが、海に巨大な風車がずらずらならんでいたら、眺望が大きく変わってしまうことは明らかだ。少なくとも「南さつま海道八景」の意味合いは全然変わってくる。それなのに、「直接的な改変は生じ」ないから「重大な影響を回避している」という評価はお手盛り以外のなにものでもない。要するに「眺望点に風車を建てるわけじゃないから直接的な改変はない」と言いたいらしいが、どう屁理屈を捏ねてみても、景観が改変されることは否定しようのない事実である。

また、②の方で、「山の稜線を乱さないように配置する」というのは、洋上風力発電なのになぜ山?と思ったが、おそらくはこれは山に設置する風力発電所の「配慮書」をコピペして作った資料だからで、馬脚を現したというか、語るに落ちたというか、まるで検討していないのが丸わかりなのである。

この巨大事業の実施主体は「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」という会社。だが実際の実施主体は「INFLUX INC」というところで、各地で多数の風力発電所の建設を手がけている。本当にコピペであるかどうかはわからないにしても、そうであってもおかしくないほど多数の風力発電案件を同時並行的に進めている風雲児的な会社である。

【参考】吹上浜沖洋上風力発電合同会社
http://influx-fukiagehamaoki.com/index.html

【参考】INFLUX INC
http://influx-inc.com/wind/

景観への影響評価は真面目にする気がない

ちなみに、ちょっと補足すると、この評価では「垂直見込角が3度程度以下」だから工夫すれば気にならないだろう、とされているのだか、この「垂直見込角」についても説明が必要だろう。

見込角とは、その対象物がどのくらいの大きさで見えるかを角度で表したものだ(この場合は風車の高さを問題にしているので「垂直」とついている)。では「垂直見込角」が3度というと、風車は海岸からどのくらいの大きさに見えるのだろうか? 5km離れているのだから、ごく小さく見るのか?

実は、満月の見込角は0.5度である。ということは、風車が3度で見えるとは、満月の6倍の大きさ(正確には高さ)で見えるということになる。かなり大きい! 影響の予測では、多くの眺望点で「3度以下だから 気にならない」と言いたいらしいが、例えば白シャツに黒いシミがあったら、譬えそれが大きなものでなくても気になるように、気になるかどうかは大きさだけでなく、それが置かれた景観の心理的な価値を考慮する必要がある。

それから、シミが一つだったらまだしも、連続的にそれが並んでいるとまた違った見え方になってくる。景観への影響評価は、全く真面目にする気がないらしい。

だいたい、「3度程度以下」を基準にしているが、これは公に認められた基準でもなんでもない。環境省の「風力発電施設の審査に関する技術的ガイドライン」では、「垂直見込角が0.5°を超えると景観的に気になり出す可能性がある」とされている(p.25)。単純に見た目の大きさで風景への影響を評価するというのも一面的であるが、見た目の大きさの評価ですら「お手盛り」と言わざるを得ない。

【参考】「風力発電施設の審査に関する技術的ガイドライン」について|環境省
https://www.env.go.jp/press/press.php?serial=13643

「配慮書」より引用
そもそも、鹿児島県が定めた「鹿児島県風力発電施設の建設等に関する景観形成ガイドライン」では、風車の建設では「主要な眺望景観を阻害しないこと」「地域固有の景観を阻害しないこと」が定められている。吹上浜の洋上に巨大風車を並べることは、まさにこの条件に抵触するといえる。

というのは、吹上浜の海岸線のほぼ全体が「吹上浜県立自然公園」に指定されており、「配慮書」で問題があるかもとされている高崎山展望所・谷山展望所がある沿岸地域も、「坊野間県立自然公園」である。自然公園からの景観は、「主要な眺望景観」「地域固有の景観」に当たると考えられる。

計画地域には久多島もある

さらに、「配慮書」では全く触れられていないが、この地域にはもう一つ考慮すべき事項がある。それは「久多島」である。久多島とは、吹上浜の洋上12kmほどのところに浮かぶ無人島であって、鳥の繁殖地となっている。鳥の糞で白く見えることから「トイノクソ島(鳥の糞島)」とも呼ばれている。

この久多島は、古くから、信仰の対象となってきた。日置市の永吉川河口に久多島神社があり、この島を遙拝(遠くから拝む)し、またかつては久多島まで行って神事をしていたようである。南さつま市の万世にも久太嶋権現という同様の神社があり、小山の上から久多島を遙拝してきた。

もし風力発電施設ができると、久多島は巨大風車に取り囲まれる格好になる。ちなみに久多島は29mの高さである。この9倍もの高さの風車に取り囲まれるというのは、久多島信仰に大きな影響を与えると言わざるを得ない。これに関しては、氏子の意見をしっかり聴取してもらいたいと思う。

【参考】 二つのクタジマ神社と大宮姫伝説|南薩日乗
http://inakaseikatsu.blogspot.com/2013/04/blog-post.html

ちなみに、久多島は鹿児島のダイバーであれば知らぬものはいないという超一級のボートスポットでもあるそうである。風力発電所ができたら、ダイビングができるかどうかもわからない。

この他、長くなるので詳細は割愛するが、漁業や環境への影響も甚大なものがあるだろう。工事中は豊かな海の環境がかなり攪乱されるのは間違いない。さらに、操業開始後は、渡り鳥への影響(バードストライク)も考えられるし、海中の騒音も問題だ。吹上浜海岸はウミガメの産卵地であり、クジラ類も多く回遊している。ウミガメやクジラへの影響は未知数である。「配慮書」では「これから調査する」とされているが、ウミガメやクジラの回遊を解明できたらそれだけで博士論文になるくらいだから、簡単に調査できるわけもない。

ともかく海岸から近すぎる

だいたい、洋上風力発電所は、沿岸の生態系や人間の活動から遠いところに設置できるのがメリットなのに、今回の計画は洋上5kmということで、あまりに沿岸に近すぎる。最初に例を出した現在世界一のイギリスの「ウォルニー・エクステンション」でも、陸地から20kmくらい離れている。一体、陸地のこんな近くに世界最大の風力発電所を作るとは、どういう考えなんだろうか。

そして、この風力発電所の建設には、別の面からもいろいろ疑問がある。まず、共同体の共有財産である海洋を、一民間業者が占有するということの是非である。「再エネ海域利用法」というのがあって、洋上発電などでは最大30年間の占用許可を得ることができる。しかし日置市の面積と匹敵する広大な海域、しかも吹上浜に近い人間の生活に深く関わっている場所を占有するとなれば、よほどの公共性が必要である。この事業はそんなに公共性が高いものなのか。

【参考】洋上風力発電関連制度|資源エネルギー庁
https://www.enecho.meti.go.jp/category/saving_and_new/saiene/yojo_furyoku/index.html

確かに、この風力発電所があれば川内原発は不要になるのかもしれない。でも、この風力発電所を作るから川内原発は廃炉にしますという話があるわけでもない(そもそも事業者が別だから繋がりはない)。これから、石炭やLNGの火力発電を減らして、再エネ(再生可能エネルギー)の割合を増やしていく方向性はあるだろう。特に九州では電力の不安定な太陽光発電が他の地域に比べて多く普及しているので、安定的なベース電力として使える再エネは求められている。

しかしこのような巨大発電プラントによってそれをまかなうというのは、どうも時代が違うというような気がして仕方がない。これは原発に替わる巨大な事業であって、原発と同様に、人々の暮らしを蹂躙するものであるという予感がするのだ。

カネの問題

そして、気になるのは、この巨大事業にかかるカネの問題である。

既に、我々は「再エネ賦課金」という電気料金の上乗せ分を払っている。2020年7月現在、九州電力では2.98円/kWhである。もしこの風力発電所が出来ると、九電のベース電力の1割が固定価格買取制度(FIT)で購入されたものになるので、どうやっても電気料金は上がらざるを得ない。この巨大な風車たちを建設するには莫大なお金がかかるが、結局それは我々の電気料金に転化されることになるのである。

得をするのは誰かというと、この風力発電所を運営する会社であり、もっと言えば、このプロジェクトに投資した投資家なのだ。

実施主体の「吹上浜沖洋上風力発電合同会社」にしろ、その母体の「INFLUX INC」にしろ、この巨大事業をまかなうだけの手持ち資金があるわけではない。当然、投資を募って事業を行う。風力発電は、当然リスクはあるにしても、固定価格買取制度に支えられた手堅い投資案件だから、マネーの行き場がなくなっている現在、魅力的な投資先と言える。それどころか、今は「洋上発電バブル」とでもいうような状況があるのだという。電力需要が間に合っている九電管内でこれほどまでに巨大なプロジェクトが計画されているのは、再エネ電力の需要云々ではなく、投資を集めるのが真の目的なのではないかと邪推してしまう。

そして、その投資の配当を支えるのは、我々の電気料金なのだ。

元々、固定価格買取制度というものは、貧乏人から金持ちへの配分政策であって、金持ち優遇政策の一環である。マイホーム減税やエコカー減税なんかもそういう金持ち優遇政策なのだから、だから悪い! というわけではないが(いや、心情的には反対の政策だが)、ことにこの巨大風力発電プロジェクトの場合、地域に住む我々は、景観を破壊され、割高な電気料金を甘受せねばならないのに、投資家は一度も風車を見ることすらもなく、毎月の配当を受けるだけだと考えると、ちょっと不平等すぎると思う。

「配慮書」が我々が意見を言える最後のチャンス

こういう、いろいろ問題をかかえた事業なのであるが、「配慮書」に話を戻すと、この公開方法自体にもかなり問題がある。

これは「環境影響評価法」に基づいて公開されたものであるが、実は「公開」といっても随分手が込んでいる。というのは、これが公開されているWEBサイトでは、ダウンロードすることもできず、印刷はおろかコピーすらできないように工夫されているのだ。おそらく縦覧期間が終了したらすぐに見られなくなるだろう。

(※ダウンロードは可能だと教えてもらいました → http://influx-fukiagehamaoki.com/pdf/data/f01.pdf [数字の部分:f01 ~ f08]※印刷するには、こちら→ https://www.ilovepdf.com/ja/unlock_pdf を使ってロック解除してください。以上テンダーさん @tender4472 からの情報)

このような工夫が施されていること自体、何か疚しいことがあるのではないかと感じさせるのに十分だ。(ただし、環境省は、こうした限定公開を認めているようなので、環境省の問題も大きい。)

環境アセスメントの手続きでは、各手順で意見を聞くことになっているのに、縦覧期間終了後に非公開にしたら、意見がどのように反映されたかも確認できないというのに、つくづくおかしな公開方法だと思う(そもそも、これは「公開」とは言えないだろう)。

環境影響評価情報支援ネットワークより引用

そして、今回の「配慮書」公開で留意しなければならないのは、環境影響評価法によれば、環境アセスメントの手続きにおいて、一般からの意見が自由に言えるのは、「配慮書」に対してのみだということだ。これから、「方法書」「準備書」「評価書」そして最後に「報告書」が作られるが、これらに対しては専門家が意見を述べることになっているものの、一般の意見を受け付けるものではない。つまり、この巨大すぎ、問題が満載の事業に対して市民が自由に意見を述べられるのは、今回の「配慮書」が最初にして最後のチャンスなのである(※これは言い過ぎでした。一番下の【2020.8.1追記】参照)。

それなのに、この事業は報道等でもほとんど扱われておらず、いちき串木野市、日置市、南さつま市の行政も積極的に情報を広めていない。社会問題について深い関心を有する私の友人たちも誰一人としてこれを知らなかった。どうも、何か「ひっそりと進められている感じ」「公明正大ではない感じ」、つまり「隠密感」が漂っているのである。

こういう巨大プロジェクトは、動き出したら止めるのがとても難しい。なぜなら、推進側はプロジェクトから巨大な利益を得ることができるが、 反対側は、現状維持だけが報酬だからである。また、ひとたびプロジェクトが動き出すと、補償を受けられる人と受けられない人が存在するようになり、そうでなくても人の考えはそれぞれだから、賛成派と反対派で地域が分断されてしまう。これが、私が一番心配することである。

それを防ぐ唯一の方法は、事業の全てのプロセスを透明化し、早い段階から多くの人の意見を聞き、最初から利害調整が難しいところは避けて、穏当な計画を具現化していくことである。今のやり方は、Point of No Return(後戻り出来ない点)まで来た後で、文句を言う人には「あの時、ちゃんと意見をいう機会があったじゃないですか〜!」と言って却下するつもりだと思わせる。

最後になるが、私は洋上風力発電自体には反対ではない。今回の事業も、もっとずっと洋上の沖合に、規模を数分の1に縮小して建設するなら、悪いものではないのかもしれないと思っている。今回のプロジェクトの最大の問題は、巨大であるにもかかわらずその進め方がいかにも不信感を抱かせるものだということだ。

「配慮書」への意見は、7月31日8月7日まで受け付けられている。あと1週間。意見の提出方法は、郵送、または市役所で書面提出。ネットで受け付けていないだけでも、「なるだけ意見を出してもらいたくない」という姿勢が伝わって来るではないか。

地域住民のみなさん、そしてこの地域の自然や景観が好きな人は、ぜひ意見を出して欲しい。こういう時の意見は、「数は力」である。


↓↓「配慮書」への意見はこちら
 (仮称)吹上浜沖洋上風力発電事業に係る「計画段階環境影響配慮書」の縦覧について
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/oshirase/e022596.html


【2020.7.29追記】
テンダーさんもご自身のブログでこの問題を取り上げてくれた。この記事とはまた違った観点でこの事業の問題点を指摘しています。

鹿児島の洋上に世界最大の風車群建設計画が持ち上がるが、その環境配慮書がてんでダメ、という話。
https://yohoho.jp/24633


【2020.8.1追記】
上では「意見を言う最後のチャンス」と書いたが、「それは言い過ぎでは?」との意見があった。環境影響評価法を改めて読んでみると、確かに環境アセスメントの後段階で説明会があり、意見を書面で提出する機会がある。「配慮書」だけは「一般の…意見を求めるように努めなければならない」とあるので、私は「一般の」を強調して理解したが、これは文飾上のもので、今後の各機会において誰でも意見は言える模様。
 

2020年7月4日土曜日

2020年鹿児島県知事選、全候補者のマニフェストを読んでみた

7月12日は鹿児島県知事選である。

今回は候補者が7人もいる。戦後最多だそうだ。乱立を憂慮する声もあるが、今までが少なすぎだったのでいいことだと思う。

だが正直言って、私も知らない人ばかりで、選ぶのは結構難しい。なので、とりあえず全員の公約・マニフェストに目を通してみることにした。

※公約とマニフェストは厳密には違うが、実際上ほぼ同様なものとして扱われているので、以下の文章では「マニフェスト」に便宜的に統一する。ただし候補者自身が「公約」と表現しているものはそう呼ぶ。

まあ、マニフェストは候補者の人柄とか、能力とかはあまり反映していないかもしれない。言うだけなら何とでも言える、という面はある。私はリーダーは人間性が大事だと思っているが、マニフェストでは人間性はわからない。

でも、候補者の動画を見たり、評判を調べたり、知人に人柄を聞いてみるのを全員に対してやるのは大変だ。マニフェストなら、比較的短い時間で全員を比較可能である。

さらに当初は、せっかく読むなら誰かの役に立つようにマニフェストの特徴をまとめてみようと思っていた。例えば政策の重要視の度合いを「経済5点、医療・福祉3点、教育4点…」などと全員分まとめたら、自分の考えと近い候補者を見つけるのに便利だろう。

ところが実際にマニフェストを全部読んでみたところ、それはちょっと無理だった。7人のマニフェストが形式的にかけ離れすぎているし、具体性の程度が(一人のそれの中ですら)まちまちだ。

だから、横並びでマニフェストを比べることは到底不可能だった。

とはいっても、比べてみて感じることもある。いや、多々ある。みんな、ぜひ各候補者のマニフェストを実際見てみてほしい。まず、マニフェストがどのように掲載されているか、を各候補者のWEBサイトで見るだけでも、その姿勢を感じると思う。

だから、以下のことは、参考程度ですらなく、私のただのマニフェスト備忘録である。気になっている候補者のものだけでも、目を通すことをオススメする。(届け出順)

1.武田信弘

https://www.takedanobuhiro.com/post/%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%92%EF%BC%90%E5%B9%B4%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E9%81%B8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88
「異形のマニフェスト」としか言えないような、変わったマニフェスト。

まず、本題のマニフェストに入る前に、入試不正への糾弾や国家財政の破綻、ハイパーインフレへの懸念、原発事故や大地震への懸念、桜島の噴火についての考察など、とりとめのない小論文のようなものがあり、それが全体の半分以上を占める! その後に「実際のマニフェストはここからです」という注釈が入ってマニフェストが始まる。こんなマニフェスト見たことない!(ちなみに分量も突出して多く、印刷してみたら31ページあった。)

たぶん、「人に自分の書いたものを見てもらう」という意識がなく、溢れる思いだけでつきすすんで書いたものだ(しかも、おそらく、かつて執筆したものの再編集部分をかなり含む)。

ところが、マニフェストに書いていること自体は県政の見える化など、共感できることも多い。施策に具体的なものが多いので(むしろ具体的過ぎるのが難点)、賛否両論あるところと思うが、その異形の形式とは裏腹に少なくとも内容は理解可能である。…と思って読んでいたら「ほとんど選挙で当選できる確率はないと思っていますが」などと平気で書いてくるので油断ができない(笑)

2.横山富美子

https://yokoyama-fumiko.net/manifest/
「この人はこういうことがしたいんだなー」というのが素直に伝わってくるマニフェスト。

サブタイトルが「原発ゼロ・九条実現への道を進めるために」なので、県政とは関係の薄い憲法9条を挙げるのはどうかな? と思ったものの、実際中身を読んでみると、要するに「憲法の理想を具現化しよう」というもので大変共感を持った。

主要政策は、医療、脱原発、県土における軍事基地問題(県内での米軍訓練や馬毛島)の3つで、さらに重要政策として子育てや農林漁業、雇用環境改善などが挙げられ、特に医療や福祉の充実、人権の重視などは強く謳われている。

ただし、経済振興についてはあまり触れられず、医療・福祉についても財源への配慮は感じられない。それは短所でもあるが、重視していることがダイレクトに伝わってくるという意味では、「結局何がしたいんだよ!」というような総花的公約よりもずっと理解可能だ。

全候補者の中で、最も素直で平明・率直、身の丈にあった自分の言葉で書かれた好感の持てる内容である。

3.青木隆子

https://aoki.ryuko.online/manifesto/
SDGs(持続可能な開発目標)の推進が謳われたマニフェスト。

「たいせつなのは「いのちと暮らし」、誰ひとり取り残さない鹿児島」をサブタイトルに掲げ(「誰ひとり取り残さない」はSDGsの誓い)、医療・福祉・教育・脱原発・人権重視など横山氏のマニフェストと内容はかなり近い。ほとんど経済振興について触れられていないのも一緒である。違いは、その基盤に「SDGsの推進」を置いていることで、例えばパートナーシップ制度(同性の事実婚制度)の導入などが特徴的である。

私自身、SDGsを県政の柱として位置づけて欲しいと思っているので、その点は賛同できる。ただ、医療・福祉以外についてはあまり具体性がなく、なんとなく薄い(ありがちな言葉を並べた)感じがするのが正直な感想。

4.三反園訓

https://mitazono.jp/manifest/
マニフェストというより、施政方針演説のようなマニフェスト。

特に重点的な項目は存在せず(コロナ対策を除く)、総花的な内容。1期目の評価・反省に基づいてマニフェストを作ってもらいたかった。1期目の反省が何もないので、「引き続き取り組みます」以上の内容は感じられない。

それを象徴するのがマニフェスト最後の項目。曰く「県公共施設等総合管理計画に基づき、公共施設等の管理を総合的かつ計画的に推進します」。県知事としての施政方針演説であれば違和感はないが、マニフェストと言われるとちょっと…。

なお原発問題については、次のように掲載されている。
「川内原発については、新たに設置した専門家の委員会により、特別点検の結果などの確認や安全向上対策、避難計画や原子力防災訓練の見直し、安定ヨウ素剤の配布など、諸問題について専門的見地から意見をいただきながら、防災対策の充実・強化に取り組んでおり、引き続き、県民の安全・安心の確保のため全力で取り組みます。」
当然であるが、現状維持の方針である。

5.伊藤祐一郎

https://www.ito-yuichiro.jp/manifest.html
細部まで考察された、総合的なマニフェスト。

前職なだけあって内容は総合的で、しかも細かい点にも配慮が行き届いている。一番よく考えて作られたマニフェストだと思った。また、マニフェストの最初の方で「重要政策への対応」として、自分の考えをはっきりさせていることも好感を持つ。

例えば、
【原発】福島原発事故後30年で原子力発電を終了させる(ただし川内原発1、2号機の延長問題には触れず)。
【馬毛島】米軍への協力は一定程度やむを得ないが、計画は白紙に戻す。
【大規模開発プロジェクト】基本的に整備を急ぐが、県民の意見をよく聞く。
といった調子である。

これらの微妙な言い方では不満な人も多いだろうが、原発や馬毛島については私の考えと近く、前職としては精一杯踏み込んだ内容だと思う。

また、具体的な項目が多く理解可能である。特にいいと思ったのは、「文化・芸術の振興のため、公共工事費の1%相当額を確保」という点。これは文化後進地域の鹿児島にとって是非必要なことだ。

ただ残念なのは、やはり政策のセンスが古いことである。鹿児島中央駅付近に「屋外大型ビジョン(街頭ビジョン)の設置を検討します」なんかは、正直うげーっと思ってしまう。

全体的に前職の経験が活かされ、ちゃんと考えて立案されたものだという印象を受けるが、逆に言えば多くが旧来の政治の延長線上にあるとも言える。とはいえマニフェストとしての完成度は、全候補者の中で一番だ。

6.塩田康一

https://shiotakoichi.com/policy
前九州産業局長だけあって、経済関係が充実したマニフェスト。

簡潔ながら総合的で、無難にまとめられているという印象。それでも、川内原発については「3号機の増設は凍結」「1、2号機の20年延長については(中略)県民投票を実施します」とはっきりしているのがよかった。また、新人にしては提言が具体的であり、要点がはっきりしている。

特に経済関係については、アジアとの関係を重視して鹿児島を国際都市にすることを目指し、農林水産業の振興や中小企業の育成・起業に力を入れるという内容で、全候補者の中で最も理解できる経済振興策だった。ただその中身は、既存の施策をうまく活用していくというものなので、あまり真新しい感じはしない。離島振興を特に重視しているのもこのマニフェストの特徴。なお随所に「稼ぐ力」を引き出す、といった表現があるが、これはよくわからなかった。

逆に、教育や文化についてはかなり弱い。特に教育は「ふるさとに誇りを持てる郷土教育の充実を図ります」という、本質でないところが一番に掲げられていて残念である。鹿児島は大学進学率が全国でも最下位に近いので、進学率の向上や初等中等教育の充実が全く視野に入っていないのは物足りない。

7.有川博幸

https://www.arikawahiroyuki.com/
スローガン的な公約。

マニフェストではなく「公約」とされている通り、あまり具体的ではなく、全体としてスローガンの集成のような体裁である。

例えば「(1)誇れる鹿児島づくり」という項目では、
・魅力ある農畜水産業の確立 [基幹産業の徹底振興]
・世界に向けた国際観光の促進 [観光産業の世界発信]
・地域・地方の自立と活性化 [地方創生ふるさとづくり]
・循環型社会の推進、実現 [鹿児島モデルの開発促進]
・グローバル社会に向けた青少年教育の促進 [IT社会に向けた能力育成]
が挙げられているが、どれも具体的に何をするというものではなく、「こういうことを頑張ります」という熱意の表明という感じである。

ほとんど全体がこういう調子で、具体的に書いている項目においても細かい説明はないのでなんとも判断しがたい。唯一はっきりとわかったのは「桜島〜鹿児島市間の鹿児島レインボーブリッジの実現」ということだが、正直、時代遅れの大規模開発プロジェクトだと思った。

全体として、よく言えば「夢のある内容」を並べている感じ。しかしいずれにしても、具体的内容に乏しくスローガン的なのが弱点。分量もA4で1枚分くらいしかなく全候補者の中で最も少ない。

*******

…冒頭に書いたとおり、これはあくまで私の備忘録なので、これを参考にして投票先を決める、というようなことはオススメしない。そうではなくて、これを読んで「へー、この人のマニフェストを読んでみようかな」と思ってもらうことがこの記事の目的といえば目的である。

これまで、鹿児島県知事選の投票率はかなり低迷している。せっかく戦後最多の候補者が出馬してくれた選挙である。投票率の方も、戦後最高となってほしいと願っている。


【参考】鹿児島県知事選マニフェストまとめ
https://note.com/taberukoto/n/n7998fbbd03c3
長島町の地域おこし協力隊をしていた方がまとめた記事。
※ただし、塩田康一候補についての記述は、同候補がちゃんとしたマニフェストをアップする前に書かれています。

2020年6月17日水曜日

「鹿児島磨崖仏巡礼」もやっています

6月13日(土)、鹿児島市のレトロフトで「鹿児島磨崖仏巡礼vol.1」というイベントを開催した。畏友の川田達也さんとのコラボイベントである。

【参考】薩摩旧跡巡礼 ← 川田さんがやっているブログ
http://nicool0813.blog.fc2.com/

「鹿児島磨崖仏巡礼」というのは、私から川田さんに提案したプロジェクトで(そういえばこのブログではお知らせしていなかった)、鹿児島の磨崖仏を全部網羅したハンドブックを作ることを目標にしつつ、鹿児島の磨崖仏について二人で楽しむというもの。

具体的に何をしているのか? というと、実は磨崖仏を巡っているのは川田さんだけで、私は川田さんから送られてくる写真や情報を元に、与太話をするだけ(笑)

その与太話については、こちらのブログで公開している。

【参考】鹿児島の磨崖仏ノート
http://nansatz.wp.xdomain.jp/

そういうわけで、コラボプロジェクトといっても、二人が共同で何かをするという要素があまりないのが「鹿児島摩崖仏巡礼」。でも時には二人揃って何かやった方がよいし、どうせならもっと多くの人に楽しんでもらおうということで、半年に一度程度「中間報告会」を開いて、磨崖仏の面白さを訴えることにした。

それが、今回第1回目となった冒頭のイベントである(ちなみに全4回の予定)。

その内容は、最初の30分程度、磨崖仏の概論的なものを私が話して、次に今回オススメの磨崖仏3つを二人で解説した後、川田さんがいろいろな磨崖仏を写真で紹介する、というものだった。

また、今回はコロナのため人が集まりすぎるとよくないということで事前申込制とし、定員を25人にした(でも会場キャパの都合から次回以降も申込制にするかも)。当日急に来られなかった人もいたが、ほぼ満席となり、磨崖仏への関心の高さが窺えた。

が、ここで反省しておくと、どうもイベントの前半は、盛り上がりに欠けた(客席の反応が薄かった)ような気がする。ちょっと前置きが長かったのかもしれないし、説明が小難しすぎたのかもしれない。あるいは説明がちょっと大雑把すぎたという可能性も…。うーん、よくわからない。

途中休憩の時に、川田さんと「客席との距離を感じますね…」と焦って相談し、「磨崖仏の解説を理解してほしいのではなく、磨崖仏を楽しんでもらいたい、という方向性をもっと強く出そう」とちょっと方向転換して後半に臨んだところ、前半よりはよくなった(と思う)。

結果的には、参加されたほとんどの方が「鹿児島の磨崖仏って面白そうだな!」と思ってくれたのではないかと思う(完全に推測の自己評価です)。

ちなみに当日強調したのは、鹿児島の磨崖仏は音楽で譬えれば「インディーズバンド」みたいなものだということ。

全米大ヒット、とか、オリコン1位とか、あるいは国民的歌姫、そういう存在は、確かに多くの人に響くものだろうし、みんなが「すごい!」と認める。でも鹿児島の磨崖仏には、そういうすごいものはあまりない。そういう誰もが認めるすごい磨崖仏を見たかったら、臼杵磨崖仏、中国の龍門石窟、インドのアジャンター石窟なんかに行ったらいい。そっちの方が鹿児島の磨崖仏より遙かにすごい。

じゃあ、鹿児島の磨崖仏を見るのは、そういうすごい磨崖仏は遠くてなかなか見ることができないから、とりあえず地元の小さなもので我慢しておく、というような、手近な代替品なんだろうか?

もちろんそういう側面はある。私もアジャンター石窟とか行ってみたい。でも鹿児島の磨崖仏は、小規模なだけに個性がすごい。まるでキラリと光るインディーズバンドみたいなのだ。確かに大資本の力はないし、技術も高くはない。でも作った人の思想やデザイン力や、何だか分からない情念がダイレクトに表現されているのが鹿児島の小規模な磨崖仏なのである。

それは、決して万人受けするものではないかもしれない。でも友達から「○○ってバンドが面白いんだよね!」って勧められたら、5人に1人くらいはファンになっちゃうような、クラスの中だけで小さな流行が起こるような、そういう認められ方はする存在だと思う。

私はこのプロジェクトについては、社会に対して何を訴えるとかそういう大それた気持ちは全くないが、無名のインディーズバンドを友達に勧める程度の役割は果たしたいと思っている。

第2回の中間報告会は、たぶん2020年12月。よかったらお越し下さい。

2020年5月8日金曜日

隠さなければならない繁栄——秋目の謎(その2)

坂本家正面玄関
(「豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1)」からの続き)

秋目は、かつては貿易で栄えた港町だった、と地元の人は誇る。

いくら史料の中で「秋目は貧乏で疲れた郷だ」と言われていても、秋目に残る遺物を見れば、それを額面通り受け取っていけないことが分かる。かつての貿易の跡がそこかしこに残っているからだ。

例えば、秋目には漢方医をしていた坂本家の屋敷がある。

この屋敷は、秋目の集落を見下ろす位置にあり、本宅、土蔵、そして庭園の跡が残る。本宅の怖ろしく立派な正面玄関だけでもかつての威風を窺うのに十分だが、大きな土蔵と巨大で手の込んだ石灯籠(中国製のように見える)が残る庭園跡は、有り余っていた富を感じさせる。

坂本家の石灯籠
藩政時代は、坊津の諸港(坊、泊、久志、秋目)のそれぞれに漢方医がいたらしいが、今しっかり残っているのはこの坂本家だけだ。この屋敷は既に無人となり、本宅も土蔵も荒れ、庭園は藪になってしまった。非常に貴重な文化財なので、なんとか保存してもらいたいものである。

それはさておき、このような立派な邸宅がある以上、秋目が貧乏な土地だったとは言えないのは明らかだ。確かに秋目には石高の大きな武士はいなかった。というよりも、水田が耕作可能な土地がほとんどなかったので、秋目全体の石高がとても少なかった。「石高制」の下では、少なくとも帳面上、秋目は石高の低い、貧乏な土地にならざるをえなかった。

だがそれを補って余りあったのが、貿易の利益であった。

薩摩藩は、鎖国体制下にあっても琉球を通じて中国と貿易を行っていた。その拠点が、山川港であり坊津港であった(「坊津」は、史料上では坊津諸港(坊、泊、久志、秋目)の総称として使われていることが多い)。

坊津諸港
この貿易は、鎖国体制を敷いて諸藩の外国貿易を制限していた幕府に対してはもちろん秘密であったし、貿易の相手である中国に対してすら秘密であった。というのは、薩摩国と中国(明→清)の間には正式な国交などあるわけがなかったからである。国交のない国とどうやって貿易をしたか。そこには大がかりなマヤカシがあった。

琉球は、元々は独立国であり、中国の冊封国であった。冊封国というのは、中国王朝を宗主国として奉ずる臣下の国ということである。例えば冊封国は、中国の暦(元号)を使う。また臣下として、定期的に中国に産物を進貢しなくてはならない。しかしこの進貢に対する返礼として、中国は貢納品以上の価値があるものを下賜してくれる。すると、この進貢は実質的には中国との官営貿易であるということになる。薩摩藩が目をつけたのはここである。

薩摩藩は琉球侵攻(1609年)によって琉球国を実質的には属国(植民地)としつつ、中国に対しては琉球を独立国にしつらえて中国の冊封体制に留まらせた。こうすることで琉球の進貢貿易を裏であやつって秘密裡に中国の産物を手に入れ、それを闇ルートで売りさばいて莫大な利益を得たのである。

この貿易は、秘密であっただけに史料上は明らかでないことが多いが、流通には藩営のものと私的な(民間の貿易商人による)ものがあったらしい。琉球〜中国間の貿易(進貢貿易)は国家間のものであったし、薩摩藩が厳密に管理していたはずだが、それ以外にも唐船(中国船)との私的な交易が散発的に行われたようだし、琉球〜薩摩、薩摩〜全国の流通は必ずしも藩営に限らなかった模様である。今であっても、公営の営利事業はほとんど決まって非効率で鈍重であり、思ったように利益が得られない。多分藩政時代でも似たようなものだったのだろう。その空隙を縫って貿易商品はいつの間にか民間に流出し(「抜け荷」)、全国に流通していった。

もちろん、藩としては貿易の利益を独占したかったので、民間の密貿易は好ましくなかっただろう。それに、琉球に薩摩からの民間の商船が自由に行き交っていれば、薩摩が琉球を植民地化したことが中国にばれてしまう危険がある。実際、明代には琉球と薩摩の関係は明に強く疑われていた。そのため、琉球に就航する薩摩船については、「あれはトカラの船で、薩摩の船ではありません」という苦しい言い訳をしていたのである。 もちろんトカラも薩摩の領土だったのであるが、トカラ(七島、宝島などと呼んでいた薩南諸島)も独立国であると薩摩藩は説明していたのだった。

しかしこのような無茶な言い訳がいつまでも通用するわけもない。トカラには独立国としての体裁がなく、虚構の国だったのだから当然だ。また琉球には薩摩藩から在番奉行などの役人も赴任しており、中国には薩摩藩の虚偽の説明は看破されていた。そこで薩摩藩は、琉球から薩摩藩の存在を完全に隠蔽する方策へと段階的に移っていった。

その隠蔽体制が完成するのが、享保3年(1718)頃である。そして翌年享保4年、密貿易の一大拠点だった坊津に「享保の唐物崩れ」と呼ばれる大事件が起こった。これは密貿易の大規模摘発事件である。これまでは民間の密貿易は黙認の状態にあったと見られる。しかしこの大規模摘発によって坊津で行われていた民間の密貿易は潰滅させられ、伝説では坊津は一夜にして寒村と化し、残ったのは婦女ばかりだったという。

この大規模摘発は、直接には幕府の密貿易対策に応える形で行われた。時の幕府では新井白石が「海舶互市新例」(正徳5年(1715))を定めて貿易制限を打ち出し、密貿易を徹底的に摘発する姿勢を見せていた。こうなると薩摩藩としても民間の密貿易を野放しにすることはできない。しかも先述の通り薩摩藩は中国に対しても琉球から薩摩船の存在を消し去らねばならないという事情があり、結果的に坊津の密貿易を潰滅させるという決断に至ったものと思われる。こうして、薩摩藩の海外貿易は、山川港における藩直轄の官営密貿易に一本化されることとなった。

なお「享保の唐物崩れ」は史料上には直接の証拠がないが、「坊村ノ内本坊下浜商漁姓氏録」という史料を見ると、享保を境として坊には海商の名が見えなくなるので、少なくとも坊の浦の民間貿易が大きな規制を受けたのは事実と考えられる。

ところが、である。

不思議なことに、秋目の墓地に残された墓石をつぶさに見てみると、古い墓石はあまりなく、享保あたりから急に高級で手の込んだ墓石が建立されているのである。明らかに、秋目は享保の頃から活況を迎えている。これはどういうことか。

答えは一つしかない。坊の港の密貿易が潰滅させられて、密貿易は「秋目」に移ったのである。

密貿易の一番の中心だったと思われる坊の浦には、坊津街道(薩摩街道)も通っており、表立って違法な貿易を行うにはあまりにも目立ちすぎた。一方秋目は、文字通り「陸の孤島」である。秋目からは隣の「久志」にすら明治時代まで道は通っていなかった。同じ「久志秋目郷」なのにもかかわらず。孤立した立地は、幕府の目、藩の目を避けるにはぴったりなのだ。

この、秋目に移ってからの密貿易は、それまでの密貿易とは性格が違った。それまでの密貿易は、確かに幕府には秘密だった。一方薩摩藩はこれを厳しく取り締まっていたわけではなかったので、藩に対してはあまり気を遣う必要はなかったと思われる。だが「享保の唐物崩れ」以降の民間の密貿易は、幕府と薩摩藩の両方に対して秘密にしなくてはならなかった。この二重の秘密貿易をここでは仮に「闇貿易」と呼ぼう。

この「闇貿易」こそが、おそらく秋目が「貧乏で疲れた郷」を装っていた理由なのである。石高の低い秋目にたくさんの富があれば、貿易で儲かっていることがバレてしまうからだ。そのため秋目の人たちは表立って富を誇示することはなく、少なくとも帳面上は貧乏であるように見せかけ続けた。

だが、今も残る豪華な墓石から判断すれば、享保以降の100年程度の間、秋目は空前の繁栄を享受した。ひょっとすると、瞬間的にはかつての坊の浦以上の繁栄だったのかもしれない。しかし坊の一乗院が度外れた貴重品を集積したようには、秋目には富の痕跡がない。墓石から判断する限り非常に裕福だったにもかかわらず、それを窺えるものは秋目にはそれほど多く残っていない。それが、闇貿易による隠さなければならない繁栄だったからだろう。それでも坂本家が坊津諸港の中で唯一残った漢方医屋敷だというのは偶然ではなく、秋目が「享保の唐物崩れ」以降にも貿易で賑わっていたことの傍証のように思える。

そもそも漢方医の存在自体が、貿易の存在を前提とする。漢方薬の原料は日本では採れないからだ。おそらく、秋目は闇貿易によって漢方薬を安く大量に入手し、それを富山の薬売りたち(「薩摩組」という富山の薬商が藩許を得て出入りしていた)へ売りさばいていたに違いない。

享保以降の闇貿易のことは、私の推測であって、これまでの研究では言われていないことである。秋目の墓石をもっと詳細に調査すれば、ちゃんと裏付けが取れるかも知れない。秋目の墓地は度重なる墓地整備(特に国道226号の拡幅工事の際の整理と鑑真記念館の建設)によって本来の墓域の数分の一に縮小されているので、 実は享保以前の墓石もたくさんあったのにそれが失われたという可能性もある。公的機関による詳細な調査が望まれる。

とはいえ、少なくとも秋目が貿易によって享保以降に活況を迎えたことは揺るがしがたい事実である。にもかかわらず、「秋目は貧乏で疲れた郷」だと自称していたというのは、その貿易が公にできないものだったから、以外には考えづらいのである。

(つづく)

【参考】正法寺|薩摩旧跡巡礼
http://nicool0813.blog.fc2.com/blog-entry-340.html
秋目の豪華な墓塔についてレポートしています。

【参考文献】
『海洋国家薩摩』2011年、徳永和喜
「坊津一乗院の成立について」2005年、栗林文夫
『鹿児島県の歴史』1973年、原口虎雄

2020年4月19日日曜日

(新)鹿児島県知事へお願いする5つのこと

前回からの続き)

私は鹿児島にとって最も大事なのは「男女共同参画」だと思っているが、それ以外の点でもこういう鹿児島県になったらいいなと思うことがあるから、新知事(候補)へ向けてこの機会に簡単に書いてみる。

鹿児島にもっと文化を!

文化はお金持ちの暇つぶしのためにあるのではなくて、人間的な生活に欠かせないものである(日本国憲法第25条「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」)。しかも、文化は「あたりまえ」の生活を違う角度から見る機会を提供する。だから文化は直接何かに役には立たなくても、経済やコミュニティや生活の向上に寄与する。しかも文化的なものが少ない地域はとびきり優秀な人達にとって魅力のないものに映る。だから文化後進地域である鹿児島は、もうちょっと真剣に文化的環境の充実に取り組まないといけない。

必要なこととしては、第1に図書館の充実。過疎地では、市町村にとって一定規模の蔵書を持つことは過大な負担だ(住民一人当たり蔵書数が大きいから)。だから人口減少時代のこれからは広域的な図書館政策が必要だと思う。鹿児島は東京から20年は遅れたところで、情報格差ももの凄いのだから(インターネットなんかではとても埋め合わせできないくらいの差がある)、図書館は地域の知の拠点であると位置づけて充実してほしい。蔵書数も増やして欲しいが、指定管理者制・司書の非正規化が進んだことの反省など制度面の見直しも必要である。

第2に、文化的活動への支援の拡充。例えば私がアーティストだったとして、鹿児島と東京のどちらが生きていけそうかと言えば、圧倒的に東京なのだ。発表の場も、理解してくれる人も、東京の方がずっと多いからである。だから、鹿児島で活動するアーティストや、文化活動に携わる多くの人には、もっと下駄を履かせてあげないと大変すぎると思う。例えば鹿児島の「アーティストバンク」に登録の人には、年間20万円の活動助成費を無条件で渡すくらいしたらどうだろうか(参考→ http://www.houzanhall.com/zaidan/project.html)。

また、鹿児島の文運を高めるため、出版助成もぜひやってほしい。今は印税で儲ける時代ではなく、もはや著者が出版社に金を出すような有様である。内容を問わず、1冊の出版あたり100万円くらいを助成するくらいやった方がいいと思う。この他、講演会への助成、文化活動の情報発信(鹿児島市には「かごしま情報センター」があるが全県的にもこういうのが必要)などを進めて欲しい。「発信する人を応援する鹿児島」をつくるのが鹿児島の文化環境の改善に役立つと思う。それから、黎明館の強化も必要だと思う。文化を高めることは、長い目で見れば質の高い観光にも寄与する。今の鹿児島の文化関連予算は僅かなので、それを2倍にしても金額的には小さいが、大きな効果が期待できる。

開かれた公共土木事業へ

鹿児島は公共土木事業に依存した経済実態がある。それの是非はさておき、いつも気になっているのは、鹿児島の公共土木事業が、なんだか密室的・ブラックボックス的であることだ。鹿児島にとって公共土木事業が大事なのであれば、それを全国的に見て一流のものにするべきだと私は思う。

だから鹿児島県庁は、日本の公共土木事業をリードする、というくらいの気概を持って欲しい。それは施行の内容はもちろん、周囲と調和したデザイン、環境保護やメンテナンス性など、色々な観点から見て先進的なものであるべきで、そして設計段階からの地域住民と対話し、多くの人のアイデアや希望を踏まえる、というプロセスも一流のものであって欲しい。ぜひ県民にとって「開かれた公共土木事業」になることを切望する。

鹿児島をSDGs先進県に!

「SDGs = Sustainable Development Goals」とは、国連で定めた「持続可能な開発目標」のことだ。だいぶ浸透してきたので今さらここで解説する必要もないだろうが、よりよい世界の実現に向け、2030年までに先進国・発展途上国の全ての国が達成すべき17のゴールと169のターゲットで構成される。SDGsは、発展が遅れた地域向けや国家的な目標も含むから、鹿児島の現状からするとピンとこない項目もあるが、その多くは鹿児島にとって非常に大事なことばかりである。


前回書いた男女共同参画の話も、「5 ジェンダー平等を実現しよう」に包摂されるものだ。この17の目標のいくつかについては、これ以外にも「鹿児島ではこうしたらいいのになあ」と思うこともあるが、あんまり細かい話になるので割愛する。この17の目標は理想の世界の実現に向けて非常に練られたものなので、大概の政党のマニフェストなんかよりずっと共感できる。にも関わらず、鹿児島県庁では今のところSDGsがほぼ黙殺されているような気がする。WEBサイトにも、通り一辺倒の説明が載っているだけだ。

【参考】SDGs(持続可能な開発目標)|鹿児島県
https://www.pref.kagoshima.jp/ac01/kensei/keikaku/chihousousei/sdgs/index.html

鹿児島市では、「かごしま環境科学未来館」でSDGsについてかなり取り上げられているみたいだが、鹿児島県としての動きは聞かない。SDGsは環境保護だけでなく、人権・教育・経済成長・エネルギー問題など幅広い問題を取り扱っているので、県政の柱として活かしてほしい。今現在、これを県政の柱とまで掲げている都道府県はないようなので、鹿児島県にはSGDsに先進的に取り組み、全国をリードして欲しいと思っている。


農業技術の向上

鹿児島の基幹産業は農業である。農業生産額は全国3位だ。私自身も百姓なので、農業振興は最も身近な話題である。これまでの鹿児島県政でも、6次産業化の推進や食のブランド化、海外への農産物の輸出などいろいろ取り組まれてきた。

が、その基盤となる農業技術についてはぐらついているように感じる。例えば「普及指導員」の数がどんどん減らされているのだ。 「普及指導員」というと一般の方にはあまり馴染みがないかもしれないが、県の技術職員で農業技術の研究や農家への指導をする人である。農業は、自然のエネルギーを技術によって生産物へ変える産業である。だから、技術こそが生命線であり、その基盤を担ってきたのが「普及指導員」だったと思う。

それが、県庁の定員削減によってジワジワ減ってきている。同じく農業技術の要であった県立農業試験場(現・農業開発総合センター)は、農業大学校と共に(土地建物には)500億円以上ものお金をかけて移転・再編されたにもかかわらず、なんだか中身の方がスカスカになってきているような気がする。普及指導員の減少がものを言っているのではないか。

鹿児島はせっかくの農業県なのだから、「農業技術についてわからないことがあったら鹿児島に聞け」というくらいになって欲しい。普及指導員の定員を減らしている場合ではなく、むしろ増やすべきだ。農業技術を高めることが、農産物の品質向上や農家の所得向上をもたらすはずである。県は、食のブランディングとかマーケティングのようなことだけでなく、農業技術の向上という、行政しか取り組めないことにもっと注力すべきだと思う。

原発をどうするかは、ちゃんと議論して決めよう

原発の寿命は40年が目途というが、川内原発は2023年に建設から40年経過することになる。次の県知事の任期中には川内原発をどうするかの決断をしなくてはならない。しかし、脱原発するのか、それとも原発を使い続けるのかという知事自身の方針よりも大事なのが、県民の意志であると私は考える。

2015年に川内原発を再稼働させたときに、ちょっとだけ県民の問題意識が高まったものの、今はまた昔のように「何となく現状維持」になっていると思う。県は、薩摩川内市民には防災関係の説明会などしているが、それ以外には特に県民と議論しようという雰囲気もなく、むしろ触らぬ神に祟りなし的に、原発問題はそっとしておこうとしているようにも思われる。

だが2023年以降の川内原発をどうするのか、それを九電との密談で決めるのではなく、県民の意志を反映し、議論を積み重ね、公明正大に決断してほしい。今の鹿児島県に最も足りないのは、こういう住民参画型の合意形成のプロセスである。「原発について議論しましょう!」と言える県知事であって欲しい。


細かいことでは他にもいろいろ言いたいことはあるが、今思いついたのが上の5項目だからこのあたりで辞めることにする。この夏の県知事選、過去2回よりは政策的な議論が行われるのではないかと期待している。そして何より大事なのが「投票率」。みなさん選挙に行きましょうね!

2020年4月12日日曜日

鹿児島を理想郷にするために一番大事なこと

7月に鹿児島県知事選がある(はず、コロナウイルスの影響で延期されなければ…)。

それで、この機会に新知事(現職が再選されたとしても)にぜひ取り組んで欲しいことがあるので書いておきたい。

それは、男女共同参画社会の実現である。これこそが、鹿児島にとっての最重要課題だと言っても過言ではない。

ちょっと待ってよ! と多くの人は言うだろう。「それよりも、全国でも最低水準の県民所得を何とかしてよ」とか、「基幹産業である農林水産業の振興が急務!」とか「人口減少・少子高齢化社会の対応こそが喫緊の課題だろ」とか。

もちろんそうした問題は大事である。そして男女共同参画なんかは「そりゃ大事かもしれないけど、余裕がある時にやればいいんじゃない?」というような話かと思われている。

だが私はそれは全く間違いだといいたい。

というのは、鹿児島の発展を阻んでいる最大の要因は、女性に対する差別なんじゃないかと思うからだ。

その理由をちょっと説明させて欲しい。

鹿児島は「優秀な人材がどんどん流出していく」という問題を抱えている。最も出来がいい高校生は東京の大学に行き、大概は東京の企業に就職するからだ。ところがこれには明確な男女差があり、女子生徒はあまり県外に出ていかない。

それどころか、女子生徒は大学にすらあまり行かせてもらえない。鹿児島県の女子の大学進学率は35%未満で、毎年全国最低である。ちなみに男子の進学率も40%程度で全国的にドベに近く、鹿児島県は大学進学者自体が少ない(ちなみに全国平均は53%くらい)。それでも男子の進学率は、女子のそれよりも5〜10%高い。このジェンダーギャップが鹿児島は大きい。男尊女卑のイメージがある九州内各県で比べても大きい。

「データえっせい」より引用:2019年春の大学進学率
【参考】データえっせい ← ※このブログを書いている舞田さんは鹿児島県出身
都道府県別の大学進学率(2019年春)
都道府県別の大学進学率(2018年春)
都道府県別の大学進学率(2017年春)

もちろん、鹿児島の女子が男子(や他県の女子)に比べ頭が悪いということはないから、他県だったら大学まで行っているような女子が、鹿児島県の場合は行かせてもらえない、ということを意味する。「女の子が大学に行く必要はないだろう。行かせる金もないし」で、優秀な女子生徒が満足な教育も受けずに地元の零細企業で働いているのである。

これ自体が大変な問題である。大学進学率を引き上げるのはお金の問題もあるからさておいても、男女の進学率は等しくあらねばならないと私は思う。けれども、今はその問題はひとまず措く。

それで、こうした状況の結果、良し悪しはともかく、鹿児島は、一流の男性は東京に流出していってしまう一方、一流の女性はさほど流出していない、という現状がある。

実際、自分の高校の同級生など考えても(一応、鶴丸高校という鹿児島の進学校の卒業です)、出来のよかった男の友達などほとんど本社東京の企業に就職しているのに、女の友達についてはかなりの程度地元に残っている。

鹿児島の女性には、男性に比べ優秀な人が多いのだ。

管見の限りでも、鹿児島でのキラリと光るプロジェクトには、必ずと言っていいほど女性が裏方で大活躍している。仕事が早くて正確で、気のきく女性がとりまわしていることが実に多いのである。

ところが、やはりプロジェクトの代表は男性であり、ほとんど仕事の中核を担っているその女性が、全然大した給料をもらっていないことも、また呆れるほど多いのだ。

要するに、鹿児島の女性には優秀な人が多いのに、正当に評価されていない!

そして、より損失が大きいと思うのが人事面だ。そういう優秀な女性は縁の下の力持ちみたいな立場ばかりで、プロジェクトリーダーみたいに前面に立つことは少ない。当然、課長や部長になる女性は少ない。市役所なんかは女性職員の方が多いのに、幹部職員になると急に男性ばかりになる。本当は幹部職員になるべき優秀な女性が影に隠れ、さほどでもない男性が幹部になってしまっている。

鹿児島県の事業所の課長相当職の女性比率は、2016年でたったの14%しかない。

【参考】県の女性活躍の現状について|鹿児島県
http://www.pref.kagoshima.jp/ab15/kurashi-kankyo/danjokyoudou/joseikatuyaku/joseikatuyakunogenjo.html

でも、経済でも、行政でも、パフォーマンスを上げる最高の策はいつでも「優秀なリーダーを選ぶこと」なのだ。優秀な女性にリーダーをしてもらった方が、経済も発展し、行政もよりよくなるに決まっているのである。

しかし、現実に人事を担当している人は言うかもしれない。「そんなこと言っても、女性が幹部職員になりたがらないんだもん」と。確かにそれはそうだ。

鹿児島には「女性が表立って活動しづらい風土」がある。男が前面に立った方が、何かとスムーズにいく。そういう風土から幹部職員を避ける女性も多い。でも同時に、女性が家庭の仕事のほとんどをしているという現実もある。幹部職員になっても、毎日の食事を作り、風呂を沸かし、洗濯をし、日々のこまごまとしたことをこなしていかなければならない。仕事と家庭の両立が困難だから、幹部職員を辞退している女性もまた多いのである。

単純化して言えば、一流の女性の力が活かされず、二流の男性が動かしているのが、鹿児島の社会なのだ。

そして優秀な女性ですらそんなに割を食っているのだとすれば、普通の女性はもっと割を食っていると考えるのが自然である。私は、鹿児島の女性がひどく差別されて苦しんでいるとか言いたいわけではない。鹿児島の女性は男性をうまく立てながら、したたかに立ち回る術をわきまえている。鹿児島のオバチャンにはとても元気で人生を楽しんでいる方が多く、「男尊女卑だから女性は泣いてばかりいる」なんてことはないのである。

だが、差別とは構造的な問題である。確かに鹿児島の女性は見えない何かで縛られている。自分の能力を十全に発揮させてもらえない状態にあるのである。

そもそも社会はだいたい半分ずつの男女で構成されている。その半分を縛るということは、片方の足を縛って歩いているようなものだ。鹿児島県は、ただでさえ僻地にあり、人口減少・高齢化に苦しんでいる。にも関わらず片足を縛って歩き、他の地域と競争していかなくてはならない。こんなバカな話はない。まず、その縛っている見えない何かを解くべきだ。

女性の力をちゃんと発揮すること、これは、単なる人権問題ではなく、経済を成長させる原動力になり、産業の振興に繋がり、また人口減少問題にも有効な手段なのである。女性が家庭から出て働くことは、一見出生率の減少を招くようだが、女性が働きやすい社会とは、子どもを産み育てやすい社会でもあるからだ。

だから私は、男女共同参画社会の実現が、鹿児島にとっての最重要課題だと言いたいのである。それは人権問題であるに留まらず、経済政策として推進するに足るものである。「経済政策としての男女共同参画」を、鹿児島県は進めるすべきである。

ただしこの論理展開には一つ注意しなければならないことがある。仮に経済的に不利になる場合でも男女共同参画は進めなければならない、ということだ。それは経済よりもっと大事な、人権に属する事柄だからである。だから「経済的に大事だから男女共同参画を進めなければならない」のだと勘違いしてほしくない。 そうではなく「鹿児島県の場合、幸いにして男女共同参画に経済合理性があるから、強力に推し進められるはずだ」と言いたいのである。

じゃあ具体的に何を実施すべきか?

これまでの男女共同参画政策は、市町村に計画を策定させたり、講演会を開催したりといったあまり実効的でないものが多かった。でも鹿児島県の意識の遅れを考えると、強力なアファーマティブ・アクション(差別是正のための優遇措置)が必要である。例えば、商工会・商工会議所の補助金で、女性幹部職員の比率で露骨に補助率が変わるといったようなことだ。女性の経営者なら補助金取り放題で、無利子融資が受けられて、それどころか税金も割引にするっていうくらいやったらいい。私の言う「経済政策としての男女共同参画」はそういうものである。

またそれとは別に、女子学生への教育の提供も進めなくてはならない。優秀な女子学生が大学にすら行かせてもらえないというのは社会的損失だ。女子への給付型奨学金を創設すべきだ。また現状で「女子は短大で十分」といった意識があることも踏まえ、鹿児島県立短大の教育の充実(予算を増やす)、私立の女子学校(鹿児島女子短期大学、純心女子学園など)への大幅な支援も行うのが有効である。

そうして初めて、鹿児島はようやく平均並みの「男女平等」が実現できると思う。 そしてそうなった時、鹿児島の経済は全国ドベの状態から脱出できると確信する。

今般のコロナ禍においても、台湾の蔡英文総統、ニュージーランドのアーダーン首相、ドイツのメルケル首相など、世界の女性リーダーが非常に頼りになるのを見せつけられた。政治家などは人々の意識を先導しなくてはならないのに、日本の場合は普通の人より意識が遅れたオジサンが政治を率いているのが悲劇である。鹿児島の新知事には、21世紀に生きる人間として真っ当な人権意識があることを見せつけて欲しい。

私は、鹿児島という土地が大好きである。でも、一つだけいただけないのが女性差別が激しいことだ。女性差別さえなくなれば、鹿児島はほとんど理想郷みたいなところである。「鹿児島から第二の維新を!」というのがよく言われるが、私はそれを率いる第二の西郷さんは、女性であって欲しいと思っている。

「どーせ鹿児島は歴史的に男尊女卑なんだから」などというなかれ。明治期までの鹿児島はそうでもなかった、ということを昔ブログに書いたことがある(下のリンク)。未来は変えられる。新知事には男女共同参画社会を実現させることを強く期待したい。

(つづく(男女共同参画以外にも言いたいことがあるのでついでに書こうと思います))


【関連ブログ記事】
鹿児島は歴史的に男尊女卑なのか
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/09/blog-post.html

農村婦人、婦人部、農業女子
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2016/03/blog-post_17.html
 

2020年4月7日火曜日

豪華すぎる墓石——秋目の謎(その1)

私の住む大浦町の西側には、亀ヶ丘という丘があって、ここから眺める東シナ海の様子は、ちょっと他ではないくらいの壮大な絶景だ。

そんな亀ヶ丘の、大浦町と反対側、東シナ海側にあるのが「秋目(あきめ)」という土地である。

ここは、天平勝宝5年(753年)に鑑真が艱難辛苦の末にやってきたところで知られる小さな港町。町を見下ろす斜面の上には、「鑑真記念館」という展示館がある。

【参考】鑑真記念館(南さつま市観光協会)
https://kanko-minamisatsuma.jp/spot/7564/

秋目は本当に猫の額のようにこぢんまりした土地で、浦を正面に見る集落の他はほとんど平地もなく急峻な山に囲まれている。明治時代までは、道らしい道も通っていなかったから、どこかへ出かけるときは船で出て行ったようなところだ。

集落は、まだかろうじて人が住んでいるが、空き家ばかりだ。既に人の住む力よりも、自然の力の方がずっと強い。亜熱帯の植物がそこかしこに繁茂し、徐々に集落に迫ってきている。このままでは自然が集落を圧倒してしまい、近い将来、ボロブドゥールやアンコールワットのように密林に覆われてしまうのではないかと思われる。

鹿児島には、こういう寂れた港町がたくさんある。お隣の久志や坊津だってそうだ。かつて栄えた港町がいかに凋落したか、そういう昔話も掃いて捨てるほどある。だが秋目は、他の港町とは違う謎がある。

これから、その謎について少し語ってみたい。

鑑真記念館のすぐ下に秋目の墓地があって、そこに藩政時代の墓石がいくつか並んでいる。謎の入り口は、この墓塔群が豪華すぎることである。

ここに並ぶ最大級の墓石は、ほとんどが山川石でできている。山川石とは、その名の通り山川(現指宿市山川地区)で採れる石材で、ノコギリで切れるほど柔らかく加工に適すと同時に風化には強いという性質の石である。これは歴代の島津家当主夫妻の墓石に用いられた高級石材で、並みの人は使うことができなかった。

また最大級の墓石でなくても、秋目の墓地には山川石製の墓石が多い。この大きな墓塔群の裏手には昔の子どもの墓塔(小さな石に地蔵菩薩が刻まれる形式が多い)が整理(廃棄?)されて大量に積まれているが、それもほとんど全て山川石でできている。山川周辺は例外として、他の地域ではこのようにふんだんに山川石の墓石が使われることはない。

秋目は、子どもの墓塔までも山川石で作ることができるほど、豊かな地域であったということだ(もちろん、かつては子どもの墓塔を建てること自体も贅沢だっただろう)。

しかしここで不思議なことがある。『坊津町郷土誌』などを読んでも、秋目が豊かであったとは一言も書いていないのである。いや、それどころか、秋目はとても貧乏だった、と述べられているのだ。

江戸時代、薩摩藩では「外城制(とじょうせい)」というのがあった。薩摩藩は異常に武士の比率が高かったから、武士を城下町にまとめて住まわせることができなかったし、また防衛上・行政管理上の理由から、藩内を100あまりの「外城」という地域に分けて、武士をそこに分散して住まわせたのである。武士が住む集落を「麓(ふもと)」という。

江戸時代の当初、秋目は最小の外城として設置される。ところがあまりに小さすぎたのか、追って久志と合併して久志秋目郷(「外城」は「郷」に改称された)となった。代わって最小になったのが山崎郷(現さつま町山崎)らしい。しかし山崎郷がどんどん開墾して石高を大きくしていったのと対照的に、久志秋目は山に囲まれて開墾の余地はなかったから、明治時代までに久志秋目郷の石高は山崎郷を下回っていた。当然のことながら秋目には石高の大きな武士(郷士)は存在せず、武士といえども貧乏暮らしに耐えなければならなかった。

事実、秋目は藩からの要請に対して、「秋目は貧乏で疲れた郷で、船大工などをしながらやっとのことで武士としての務めを果たしているような状態ですから、○○は免除してもらえるようお願いします」といったような公文書をたびたび出しているようである。

では、秋目はごく上級の武士のみが立派な墓塔を建てていただけで、ほとんどの武士は貧乏だったということなのだろうか。

ところがまた不思議なことがある。実は秋目は藩政時代、ものすごく人口が多かったのである。明治時代の統計になるが、明治17年、秋目には1328人(うち士族402人)の人が住んでいた。一方、当時の加世田の人口は3488人だったという。面積で言うと、加世田は秋目のゆうに10倍以上はあるだろう。にも関わらず、加世田の人口の4割に当たる人がこの狭い秋目に住んでいたというのだ。とんでもない人口密度である。秋目が本当に「貧乏で疲れた郷」であれば、このような人口は維持しきれなかったはずである。

このように、秋目は、墓地の様子や人口から考えると非常に豊かな地域だったと思われる。しかし、史料上では貧乏な地域として登場する。

秋目は本当は、豊かだったのか、貧乏だったのか、どちらだったのだろうか?

(つづく)

【参考資料】
『坊津町郷土誌』1969年、坊津町郷土誌編纂委員会
麓 街歩きマップ 2019』 2019年、鹿児島大学工学部 建築学科 鰺坂研究室

2020年3月30日月曜日

稼いだお金を使える地域——大浦町の人口減少(その5)

(「共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)」からの続き)

「地方創生」に関していつも言われることがある。「稼げる地域」にならなきゃいけない、ということだ。

内閣府も「稼げるまちづくり」を標榜して政策パッケージをまとめているし、実際、限界集落から復活したような地域では、取り組みの根幹にちゃんとした「金儲け」の仕組みがある。

逆に、いくら地域住民がやる気でも「ボランティア活動でまちづくり」「生きがいづくり」「都会から来た人をおもてなし」みたいなことばかりをやっている地域は、(その活動自体は全然悪くはないのだが)結局は長続きしない。その活動が維持されるのに十分な利潤がないのだから。

だから誰しも「地方創生」のキーは「稼げる地域」になることだと考えている。

しかし大浦町の場合、干拓事業をはじめとした農業の近代化によって「稼げる地域」になったはずなのに衰退してしまった。

例えば 1960年、大浦町ではどんな農家でも、年間の農産物販売総額は100万円にも満たなかった。ところが干拓事業など基盤整備と機械化が進んだ結果、35年後の1995年には1000万円以上売り上げる農家が16戸が出現。そのうち8戸は2000万円以上も売り上げがあったのである(「農林業センサス」による)。

既に述べたように、規模を急拡大した農家には莫大な借金を抱えた人も多かったから、 売上の拡大はそのまま所得向上であったわけではなかった。でもその莫大な借金を返していけるだけの収入上昇があったのも間違いない。大浦は確かに「稼げる地域」になったのだ。

ではなぜ、木連口の商店街はシャッター通りになってしまったのか。

大浦の人々は、昔に比べてずっと豊かになった。にもかかわらず商店街からは活気が失われ、多くの店は消え失せてしまった。統計から見ると矛盾するようなことが、この50年で起きた。いや、これは大浦だけの話ではなく、日本の多くの農村的地域で共通して起こった奇妙な現象だ。

それは、お金の廻り方が変わってしまったからだ、と私は思う。

50年前の農業は、多くを人力に頼っていた。少ない売上は、ほとんど全部が人件費に回っていた。もちろん人件費といっても雀の涙のようなものだったし、家庭内での労働が多かったから給料として払われる分はさらに僅かだった。だが重要なことは、そのお金の使われ方が今とは違ったことだ。 人々がポケットの中に持っていた僅かなお金は、ほとんど町内の誰かに支払っていたのである。

だから、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続けた。

例えば単純化されたモデルとして、百姓のAさんと、漁師のBさんのみで構成された村の経済を考えてみよう。

まず1月に百姓Aさんが漁師Bさんに野菜を1000円で売る。そしてBさんはAさんに魚を1000円で売る、とする。ここでお金がどう動いたか見てみると、最初Bさんが持っていた1000円が、またBさんに戻ってきたということにすぎない。AさんもBさんも1円も儲けていない(手持ちのお金が増えていない)。しかし、お互いの手元には魚と野菜がある。

次に2月にも同じ取引が行われるとする。今度もお互いに野菜と魚を売り、手持ち資金は増減しない。同様にこれが12ヶ月間続いたとしよう。二人の経済はどうなっているか。Aさんの野菜の売り上げは1万2000円である。Bさんの魚の売上も1万2000円である。ただし、二人の手持ちのお金は1円も増えていない。もちろん魚や野菜が手に入ったので、それを自家消費するとすれば、数字に表れない利潤はある。

だがここで強調したいのは、この1万2000円ずつの売上に相当する取引が行われるのに、この経済にはたった1000円あればよかった、ということだ。1000円札が1枚あって、それが二人の間を行ったり来たりして、2万4000円分の取引が行われたのである。いやもっと言えば、それが1000円札である必要すらなく、仮に100円玉でも同じ取引が行われたということだ。かつての自給自足的な大浦町の経済も、おおよそこんなものだったと考えたらよい。

ポケットの中にあったお金が、町内の誰かの手に渡る。するとそのお金はまた町内の誰かの手に渡って、めぐりめぐって最初の人に戻ってくる。こうして、ほんの少しのお金はどんどん町内を回っていたのである。たった1000円しか存在していない現金が2万4000円の売上を生んだように、ポケットの中の僅かなお金はたくさんの売上に変貌するのである。

これが、昔の貧しい大浦町で、木連口の商店街が賑わっていたことの理由である。確かに人々は貧乏だった。だが昔の大浦町は良くも悪くも閉鎖的で、そのお金は地域内で循環していたから、人々が手元に持っている現金以上の価値が生みだされていたのである。

さて、今度は先ほどのモデルで、百姓Aさんが農業の機械化・大規模化などに取り組み、農産物を都会に売るようになったとする。Aさんは毎月3000円分の野菜を都会に売り(=年間3万6000円)、年間2万円の機械の費用を支払うものとする。今度はAさんは1万2000円分の魚を購入したとしても、手元に4000円手元に残る。確かにAさんは豊かになる。Bさんも漁業を同じように近代化させれば、二人とも豊かにはなる。自給自足的な経済よりも、都会にものを売った方が村は豊かになる。

見かけにはそうだ。しかしちょっと待って欲しい。野菜の売上3万6000円、機械の購入費用2万円は、どちらも村の外側で取引したお金である。先ほどのモデルでの野菜の売上1万2000円分は、村の中でお金が行ったり来たりして生みだされたものだったが、今度の3万6000円はいわば「外貨」である。もちろん「外貨」を稼ぐことはいいことだ。だがその稼いだお金のうち2万円は、逆に村の外側に出て行く。今度はAさんの取引の場は、村の外が中心になる。それは即ち、村の活気=村内の活動量が減少することをも意味する。

こうなると、村の中でお金が循環することはなく、村の外で稼いだお金を村の外で使う、ということになっていってしまう。Aさん個人の立場で考えれば村の外と取引する方が利潤は多いが、村のみんながそれをやれば村の経済は空洞化していく。

現代の農村は、全てがこの経済構造にあるといっても過言ではない。例えば私はかぼちゃをつくって農協に出している。そのかぼちゃは東京や大阪で売られる。もちろん柑橘類もそうだ。私はそうして稼いだお金をAmazonで使う(笑) 。だから大浦町の経済には、あまり貢献しない。

要するに、人は地元でお金を使わなくなった。だから大浦町の商店街は、町民が豊かになったのに衰退したのである。

そんなの当たり前じゃないか! と人は言うだろう。「地元経済の空洞化」なんて、それこそ何十年も前から言い続けられてきた。たったそれだけのことを、今までくだくだしく説明しすぎたかもしれない。でも私がこの言い古されたことに一つ付け加えたいのは、人々が地元のお店よりも遠くのディスカウントストアで買うようになったからそうなったのではなく、それは農業の機械化・近代化によって不可避的に起こった、ということだ。

農業機械メーカーは地域外にあるし、機械のお金を払うためには「外貨」を獲得する必要があるからだ。そして、機械化は大規模化をもたらし、大規模化は農業の人口減少をもたらした。それはさらに地域経済の空洞化を加速させた。

単純に言えば、農家は今まで「人」に払っていたお金を「機械」に払うようになった。費用という意味ではそれは同じだが、人に払ったお金は、地域の中を巡るお金になって、また誰かの収入となり、誰かの生活を支えていた。貧乏だった大浦町の木連口通りに、最盛期では11店もの理容・美容室があったのはそういうわけだ。稼いだ「外貨」は少なくても、その少ないお金が巡ることで雇用が生まれていた。人がたくさんいたから、人を相手にする商売も成り立った。

だが「機械」にお金を払うようになると、そういう循環がなくなった。農産物を都市部に売って稼いだお金で、都市部でできたものを買うのだ。それは、かつて1000円が1万2000円の価値を生みだしたように地域内を巡るお金ではなく、入って、そして出て行く、素通りする1000円なのだ。

これで、大浦が「稼げる地域」になったのにも関わらず、むしろ商店街が衰退していった理由がわかると思う。そして、おそらくそれが不可避的なものであったことも。

このように考えると、今の「地方創生」で盛んに言われている「稼げる地域」になれというスローガンは、不十分なものだとわかる。確かに稼げなくては地域が成り立って行かない。でも大浦のように、「稼げる地域」になっただけでは衰退を防げない。では何が必要か。これまでの議論で明らかだろう。

それは、「外貨」を稼ぐことより、「地域内でお金が循環する仕組み作り」である。

私たちはともすれば、「全国に売れる商品」の方が、地域内で消費されるありふれた商品よりもすごいものだと思いがちだ。しかし地域経済の全体像を考えた時、「全国に売れる商品」を持っている地域よりも、地産地消されるありふれた商品が豊富な地域の方がずっと豊かになる可能性があると言える。例えば(極端な例だが)ひたすらカカオ豆を生産するコートジボアールの村のような経済は、カカオ豆という「全世界に売れる商品」を持っているが豊かになれる可能性はほとんどない。一方で、鹿児島には「全世界に売れる商品」はほとんどないが、地産地消率の高さを考えると発展の可能性がずっと大きいのである。

では、「地域内でお金が循環する仕組み作り」とは具体的になんだろうか。遠くのディスカウントストアで買うのではなく、地域のスーパーや物産館でなるだけ買いましょう、という話なのだろうか。それも一手かもしれない。私はガソリンは(安い鹿児島市内ではなく)なるだけ地元で入れるようにしているし、少し割高でも地元スーパーを使う。でもそういうのは、心がけの話であって大勢に影響を与えない。なぜなら、ガソリンにしてもスーパーで売っているものにしても、ほとんどが他の地域から仕入れたものに過ぎないからである。

別の言葉でいえば、原価率が高い仕入れ商売は地域外との取引を仲介しているだけだから「地域内でお金が循環する」部分が小さいのである。しかし農村が文明的生活を送るために必要なものは、ほとんど全て地域外から購入しなくてはならない。ガソリン、PC、携帯電話、家電製品、車、生活に必要なあらゆるもの…。地域内でお金を循環させられないのは当然である。

だが文明的水準を保ちつつ地元で地産地消できるものもある。代表はサービス業だ。例えば美容室。大浦町には今でも美容室がいくつかあるが、こういうのはお金の循環に役立っている。他にも、マッサージ、ラーメン屋、飲み屋、福祉施設(デイサービス等)といったものは地域外のサービスでは代替できない。実際、人口減少した地域でもこういう職種は意外としぶとく残っている。

もちろん、 田舎であれば顧客の数は少ないからサービス業の経営は厳しい。しかし商売に必要な固定費は非常に低く抑えられるという利点もある。売り上げが少なくてもそれなりにやっていける環境がある。

それどころか、都会の商売は常に売り上げがないとすぐに経営が行き詰まるという欠点もある。売り上げも大きいがそれにかかる費用も大きいのである。田舎では固定費を抑えて、あんまり売り上げが無くても生きていける、というようなスタイルの商売が可能である。そういう面では、都会よりもかえって自由な発想でビジネスを組み立てられると思う。

だから「地域内でお金が循環する仕組み作り」は、地域の住民を相手にした、少ない売り上げでもやっていけるサービス業(のお店)をつくることだと思う。例えば、カフェ、飲食店、ヨガスタジオといったものが考えられる。

とはいえ、そうして出来たお店を地域住民が使わないことにはいくら固定費が安くても経営はやっていけない。地域のお店を積極的に使うという姿勢が必要なのはもちろんである。

「地方創生」のためには、もちろん「稼ぐ力」も大事だが、「稼いだお金をどう使うか」ももっと重要なことなのだ。せっかく稼いだ「外貨」をAmazonで使ってしまっていては、そのお金は地域経済を素通りする。だから「お金の使い方」を少し変えるだけで、もしかしたらその地域はもっと多くの人を養えるようになるかもしれないのである。

かつての大浦町は、貧しくてもたくさんの人が住み、活気に溢れたところだった。そして「理想の農村」になるよう努力した。広大な干拓地を造成し、農地の効率化を行い、積極的に機械化を推し進め、他の地域に先駆けて農業の近代化を達成した。しかしそれが不可避的に招いたのが、鹿児島県でも最も急速な人口減少であった。その背景には、人々のお金の使い方の変化がかなり大きく影響していたと私は思う。大浦町は「稼げる地域」にはなったが、お金を町内で使わない地域になっていたのである。

もう一度言うが、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続ける。大浦町が失敗したことが一つあるとすれば、それはお金が循環する経済を創り出せなかったことだ。

でもまだ遅くはないのである。町内でどうにかするのは無理だとしても、「南薩」くらいの単位であれば、そういう循環はまだまだ可能だ。

大浦町には干拓や基盤整備された効率的な田んぼがある。悪条件の山村に比べたら間違いなく「稼げる地域」だ。あとは「稼いだお金を使える地域」にもなれば、その時に本当の意味での「理想の農村」になれるのだと、私は思っている。

(おわり)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎  

2020年3月14日土曜日

突如として出現しただだっ広い公有地をどう使うか

国道226号の、大浦の入り口にある物産館「大浦ふるさとくじら館」の、その隣に、昨年、結構広い土地が出現した。

ここは以前田んぼだったところだが、湿田だったためか、それとも水がなかったためか、それはよくわからないけれども、とにかく耕作放棄地になっていた。

それが、土砂の搬入地となり、あれよあれよという間にかさ上げされ、サッカーフィールドくらいの広さのなだらかな台地になった。この土砂というのは、国道226号線を南下したところに昨年掘削した「笠沙トンネル」を掘った時に出たものだ。

要するに、「笠沙トンネル」を掘った土が大浦に運ばれて、その土で結構だだっ広い土地が出現したわけだ。

このことはちょっとした機会に耳に入ることがあったし、ここへ土砂が搬入してくる時も「笠沙トンネルの土砂を運んでいます」みたいな表示があったから、みんなわかっていたことだろう。

ただ、わからないのは、この新しくできた土地をどう使っていくのか、ということである。

「大浦ふるさとくじら館」には駐車スペースはたくさんあるが、そのほとんどが裏手の第2駐車場で正面側にはあんまり車は駐められない。混雑期にはすぐに駐車場に入りきらなくなってしまうので、駐車スペースの増設が求められていた。ということで、この新しいスペースの一部は「くじら館」の駐車場になる、という話がある。

しかしそれは道沿いのごく一部で済んでしまう。残り90%以上の広い土地は、どうやって使うのだろう?


私は常々、鹿児島の公共事業は、説明不足が致命的欠陥だと思っている。というか、正確に言えば「地域住民に事業内容を説明しないといけない」という考え自体がほとんどないように見える。

今思い出したが、以前もそういう記事を書いたことがある。

【参考記事】大浦川の改修工事にこと寄せて
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/01/blog-post_23.html

関東の方だと、公共事業だけでなく民間の大工事(巨大なビルの建設等)においても、工事現場の説明版に「このような工事をしていて、完成予想図はこれです」みたいなことが説明されるのが普通である。 ところが鹿児島の場合、法律によって表示しなくてはならない工事概要の他に、完成予想図などが掲示されることは極めて稀な気がする。

一昨年、加世田の本町公園(南さつま市観光協会の隣の公園)が大改修した時も、完成予想図一つ掲示されていなかったように思う。もしかしたら本町の住民には説明会があったのかもしれないが、仮にあったとしても、広くお知らせして要望や意見を聞くといったようなことはなかった。あくまでごく一部の関係者で情報共有しておしまいなのだ。

みんなが使う公園ですらこういう感じだから、今回のように土砂搬入がメインの工事で事業内容がほとんど説明されないのはまあ当然である。

私は、公共土木事業には反対ではない。ただ、事業内容がブラックボックスで決まり、住民との対話もなく、「由らしむべし、知らしむべからず」式に上から与えられるだけの公共土木事業はまっぴら御免なのだ。せっかく実施する土木事業だから、住民の夢や希望が詰まったものであってほしい。せっかくお金を使うのだから、より愛される施設になってほしい。そのためには、「開かれた公共土木事業」になる必要がある。

特に鹿児島の経済は公共土木事業に負っている部分が大きいのだから、日本の公共土木事業をリードする、というくらいの気概を持って欲しい。それは施行の内容はもちろん、周囲と調和したデザイン、環境保護やメンテナンス性など、色々な観点から見て先進的なものであるべきで、そして設計段階からの地域住民と対話し、多くの人のアイデアや希望を踏まえる、というプロセスも一流のものであって欲しいと思う。

……ちょっと話が広がりすぎたが、話を戻すと、昨年、大浦にだだっ広い公有地が突如として出現したわけだ。これをどう使うのか?

私はアイデアのない人間なので広い芝生の公園にするくらいしか思いつかないし、それすらも維持費を考えるとグッドアイデアとは言えない。でもだからといって、土砂搬入したところをなし崩し的に藪にしてしまうというのは、公共事業としてちょっと問題ありだ。市の方で何か考えがあるならそれを住民に示して意見を聞いて欲しいし、何も考えがないならなおさら意見を聞いて欲しい。その結果、どうしようもないよね、といって藪になるなら全然OKである。


もちろん、役所が住民と対話するにあたっては、住民の方にもそれなりの見識が求められる。そういう説明会をすると、文句を言いたがりの「話が通じない人」がしゃしゃり出る、という問題も確かにあって、役所が敬遠するのも無理はない面がある。

しかし大浦は小さなコミュニティーである。穏当な対話が成立すると信じる。この土地をどう使うか。または使わないか。そんな対話が始まることを期待している。

2020年3月7日土曜日

保護者の声で学校が動いた…! はずがそれを教育委員会が止めた話

新型コロナウイルス対応ということで小学校が休校になった。南さつま市の場合、とりあえず3月13日(金)まで休校ということである。うちの娘たちはどこにも行くことも出来ず、早くも家の中で煮詰まってきている。

全国的な状況はともかくとして、未だ発症がない鹿児島県で、しかも高速道路も鉄道も通っていない僻地南さつま市で休校措置が必要だったのか、よくわからない。いや、おそらく休校しなくてはならないほどの逼迫した状況ではなかったと思う。

それはともかく、今書きたいのは実は新型コロナウイルスのことではない。だいぶ話が飛ぶようだが小学校の運動会日程のことについてなのだ。

南さつま市では、小学校の運動会は9月最終週または10月最初の日曜日に開催するのが定例になっている(そうでない学校もありますが大体)。うちの娘たちが通う大浦小学校の運動会も昨年は9月29日にあった。

しかしこの時期はまだまだ暑い。当日も暑いがそれ以上に暑いのは練習期間! 昨年は全体練習の時など3人も気分が悪くなったほどだ。まだまだ殺人的な暑さが続く9月の炎天下に練習するのだから当然だ。

別にこんな暑い時にする必要はないんだから、もっと涼しい時期に運動会をしたらよい。1964年の東京オリンピックでも日本は真夏にスポーツするには適さないということで10月にずらしたんだし(なぜ2020年の五輪ではずらさなかったんでしょうか?)。それで10月10日が「体育の日」になったわけで。

ちょうど私はPTAで「保健体育部長」という役員をしていたので、「学校保健・安全・歯科保健講習会」という鹿児島県教育委員会がやっている会議でこれについて発言してみた。

すると県教育委員会はあまり問題視していなかったが、参加されていた先生方(主に養護教諭の方=保健室の先生が多かった)から会議後にすごく反応があり、「よく言ってくれた。盛夏の練習は教員にも負担が大きい。涼しい時期に変えるべきだと私も思っている。でも現場の声は上の方に届かない。上の方は、「運動会は夏でないといけない」と思い込んでいる」「うちの小学校でも、今年は9月に運動会があったので死人が出なくてよかったと思ったのが正直なところ」「教員が言っても変わらないので保護者の声が大事」などと5人くらいの先生から矢継ぎ早に賛同の声をいただいたのである。

こうした声にも後押しされて、運動会終了後にPTA役員会で問題提起したところ、校長先生とPTA会長にもよく理解していただき、保護者アンケートを取ることになった。その結果は、半分くらいが「できたら後ろ倒しした方がいい」というものだった。ちなみにこのアンケートでは数年前から話題に出ていた町民運動会との合同開催についても今後前向きに検討していくという機運が得られた(私が提起したわけではないけど)。

それで、いきなりは日程は変えられないが、2020年の運動会はとりあえず1週間後倒ししましょう、ということになった(小学校の行事だけではなく様々な地域行事(中学校や保育園の運動会、大浦まつりなど)との兼ね合いがあるため)。たった1週間のことであるが、保護者の声で学校が動いた…!

…はずだった。だが、それに待ったをかけたのが市の教育委員会!

「2020年は「かごしま国体」があって10月はものすごく忙しいから、運動会日程は市内小学校で統一したい」というのである。といっても、小学校の運動会に市教育委員会が関わるのは来賓関係のみだ。来賓の都合がつかないから日程はずらせないというのである。

これには私もガッカリした。まあたった1週間のことで、熱中症予防の観点からは実際あまりリスクは変わらないと思っていたから別にゴネはしなかったものの、そういう本質的でない理由で止められるとは心外だった。

ところがである!! 今度の新型コロナウイルス対応では、政府からの「要請」(と県からの指示もあったらしい)を受けて臨時休校を決定した。運動会を1週間ずらすよりも、ずっと大きな課題や調整事項があったにもかかわらず!

運動会日程については、小学校では日程をずらすにあたって地域の体育協会とも相談をし、PTAでもアンケートを取って、それなりに議論を積み上げてきた。しかしそういう下からの意志を無下にする一方で、上からの思いつきの「要請」にはすぐに随うのか。公務員組織だから上意下達は当たり前といえば当たり前だが、それにしてもどちらを向いて仕事をしているのかはっきりわかった気がして残念だった。

新型コロナウイルスも、熱中症もどちらもリスクである。実際、2018年には学校の活動中に愛知県で小学1年生が熱中症で死亡している。また運動会の練習中に熱中症で搬送される小学生はけっこう多い。そういうリスクと、それを心配する保護者のことはほとんど考えもしない市の教育委員会はなんなのか。

新型コロナウイルスでの休校措置の是非はとりあえずおく。ただ、市の教育委員会はもう少し保護者の声にも耳を傾けて欲しい。

2020年1月23日木曜日

共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)

(「いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか」からの続き)

大浦のメインストリートを、木連口(きれんくち)通りという。

南北に延びる、700mほどの通りである。今でも、役場、銀行、役場、郵便局、スーパー、農協、ガソリンスタンドなどが並びメインストリートとしての名目は保っているが、まあ有り体に言ってシャッター通りになってしまっている。

しかしこの通りが最も賑やかだった昭和20年代は、たくさんのお店や家がこの通りを埋め尽くしていた。年末の歳の市になると、すれ違うこともできないほどの人でごった返したという。大浦干拓が完成した昭和40年代にも多くの店が軒を連ねており、この700mに電器店だけで4店もあった。理容・美容室に至ってはなんと11店も(!)あったのである。美容室が犇めく東京・南青山でもそれほどの美容室の密度はないかもしれない。

かつての大浦の絶望的な貧しさを考えると、理容・美容室がとんでもない密度で存在していたことが不思議なくらいである。既に述べたように、昭和60年代になっても大浦町民の平均所得は全国平均の半分、鹿児島県の平均の70%しかなく、全国でも有数の貧乏地帯だったのだから。にも関わらず、木連口通りが活気に溢れていたことも同様に事実だった。

東南アジアや南米などを旅してきた人は、この貧しさと活気の両立を別段不思議とも思わないかもしれない。統計で見れば極貧の地域で最低の生活を余儀なくされているボロ屋街の人々が、実にアッケラカンとしてせせこましくなく、通りは活気があって人々は元気だということがたくさんあるのだから。いや、そういう地域の貧乏な人たちの方が、立派な企業に勤める高級住宅街の人達よりもずっと生き生きして人生を謳歌しているように見えることもしばしばだ。

だから過去の大浦が、全国有数の貧乏な町であったことと、木連口通りに活気があったことは矛盾しない。ポケットにはお金はなかったが、みんな若く無鉄砲で、将来の心配などせずその日暮らしをしていた。事業計画書などなしに新しい商売を筵(むしろ)一枚で始め、うまくいかなければさっさと辞めた。通りには入れ替わり立ち替わり新しい商売が生まれ、消えていった。大浦だけでなく、日本中がそういう時代だった。

——どうして、この活気が失われてしまったのだろう。

ここに掲載したのは、1955〜1995年の大浦町の人口・世帯数・高齢化率のグラフである。

1955年(昭和30年)には7500人以上いた人口が、30年後の1985年には約半数の3700人あまりに減ってしまった。この人口減少は、若者が町を去ったために起こったので、高齢化率は逆に10%未満から30%以上へと急上昇した。通りから活気が失われた直接の原因は、この高齢化である。

これは日本の農村に共通した傾向ではあった。産業の中心が農業を中心とした第一次産業から製造業など第二次産業へとシフトし、農村の若者たちは「金の卵」と言われて集団就職で上京していった。だが大浦のように変化が急激だったのも珍しい。だからこそ大浦町は鹿児島県で第1位の高齢化自治体になったのである。

なぜ大浦の人口減少はかくまでに急激だったか。

干拓事業やそれに続く基盤整備事業、そして農業の大規模化・機械化といった意欲的な動きがあったにも関わらず、同じ時期に人口が急減しているのは傍目には不可解だ。しかし実はこれらの動きは連動していたのである。

というのは、農業の大規模化・機械化が急速に進んだ原因は、人々の意欲だけではなかった。むしろ人口減少への対応という側面もかなり存在したのである。例えば、昔の田植えというのは、一族総出で行われなくてはならない一大行事だった。ところが若手がどんどん都会へ出て行ってしまうと、十分な人手が集まらなくなる。そうなると機械で田植えをしなければしょうがない。ある意味では、人々はやむにやまれず機械化に進んだのである。

そして、農地の規模拡大はより人口減少と関わっていた。既に述べたように、干拓以前の大浦の農家の平均的な規模は30aほどだったが干拓地では3haと10倍になり、その他の地域でも徐々に規模が拡大していった。ということは、農地の総面積はそれほど変わらない以上、農地の規模が10倍に増えることは、農家数は10分の1に減ることを意味する。

これは、零細農家が競争に負けて廃業していった、ということではない。後継者のいない農家が自主的に廃業していった結果であり、農業の近代化がそれについていけない零細農家を淘汰したわけではなかった。むしろ、この時期の大浦の農業に機械化・大規模化のトレンドがあったことは、そうした廃業農家の耕作地がスムーズに集積され、荒廃せずに済んだというプラスの面が大きかった。

しかし農業の大規模化・機械化が進めば進むほど、人口減少が加速していったこともまた疑い得ない。今まで5人必要だった作業が、機械の力を借りて2人でできるようになる。今まで10人の人手で耕した田んぼが、トラクターでは1人で耕せる。このように省力化が進んでいくと、同じ農業を続けて行こうにも、自然と人間があぶれて行ってしまう。

若者は、ぼーっとしているように見えても、こういう趨勢に極めて敏感である。「自分はいずれ、ここにいなくてもよい人間になる」、うすうすでもそう感じれば、自然と外に目が向くのが若者だ。逆に言えば、この時期に農業の大規模化や機械化のトレンドがなく、相変わらず人手に頼った農業をしていれば、ある程度の若者はイヤイヤながらでも大浦に踏みとどまったかも知れない。「自分がいなければこの家はやっていけない」と思えば責任感から人生を選択する人はけっこう多い。

しかし実際には、大浦の農業は急速に近代化しつつあり、人手に頼らなくてもすむ形へと変わっていった。人口減少の流れがある以上、そういう形に変えて行かざるを得なかったからだ。農業の大規模化・機械化は人口減少の原因ではなかったが、それを助長する要因ではあった。

農地の大規模化・機械化・人口減少は「共鳴」し合いながら加速していったのである。この共鳴する加速関係があったことが、大浦が鹿児島県で第1位の高齢化自治体になるほど急激な人口減少がおこった理由であった。

このように書くと、町の発展のために行われた干拓事業や基盤整備事業、そして個々の農家の大規模化の努力が裏目に出たかのように感じる人がいるかもしれない。仮にそうした動きがなく、人々が狭い耕地で人手に頼った昔ながらの農業をしていれば、急激な人口減少は避けられたのかもしれない。事実、大浦よりももっと僻地の山村で意外と人口が維持されたケースはあった。でもそれは長期的に見れば、静かに廃村へ歩んでいくことにほかならなかった。基盤整備をしない狭い田んぼばかりの土地は、いずれ耕作が不可能になることは明らかだからだ。牛や馬で耕す人は今や誰もいない。

だから大浦が早い時期に農業の近代化に取り組んだことは、急激な人口減少という痛みはあったものの、長期的に見れば町の発展に寄与したのである。今でも大浦は耕作率が高く、主要な水田にはほとんど耕作放棄地がない。それに町にとっては人口減少は痛みだったかもしれないが、出ていった若者を見てみれば、大浦で農業をするよりもずっと実入りのいい仕事に就いた人が多かった。やりたいことができずに農業をやらされるより、都会に出て行くことができたのはよい面もあった。

もちろん、本当なら生まれ故郷を離れたくなかった、という若者もたくさんいただろう。そうした若者に町内でよい就職口を準備できなかったのは残念なことだ。だが当時の人達に何ができただろう。農業の生産性を上げる、というのが純農村地帯であった大浦にとって唯一にして最大の経済政策だったことは間違いない。 結果的に激しい人口減少を招いたのはわずかばかりの皮肉だったとしても、大浦の農業を持続可能なものに変革した功績は計り知れない。

大浦は、時代に取り残された遅れた地域だったから人口減少したのではない。

逆だ。時代を先取りし、他の地域に先立って農業の大規模化・機械化が進んだために、人口減少や高齢化をも先取りしてしまったということなのだ。それが、同時期に過疎が進んだ他の農山村との際だった違いだったと私は思う。

でもそれにしても、いや、そうであればこそ、近代的な農村に生まれ変わった大浦のメインストリートが、やはりシャッター通りになっていったことの意味を問わなければならない。大浦が遅れた地域だったのであれば、木連口通りが衰退した理由は簡単だ。しかし大浦は農業の近代化によって「稼げる地域」になっていったはずなのだ。人口減少があるにしても、もはや昔のような極貧の地域ではなくなっていた。それなのに商店街が寂れていったのはどういうわけだったのか。

(つづく)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎 

2020年1月17日金曜日

いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか——大浦町の人口減少(その3)

大浦からよその地域の農業を見てみると、機械化の遅れに驚くことがある。

例えば、鹿児島市内の近郊でも、未だに結構お米の天日干しがされている。そして田んぼの形は山の地形に沿ってぐにゃりと曲がっていたりする。そういうところの農業は傍目にはのどかで美しいが、実際にやるのは大変で、ほとんどボランティア活動みたいな気持ちでないとできない。

一方、大浦ではお米の天日干しはほとんどない。収穫はほぼ100%コンバイン。コンバインでの稲刈りと乾燥機での乾燥は、バインダー収穫と天日干しに比べ数分の1の労力だ。一度コンバイン収穫に慣れてしまえば、天日干しにはもう戻れない。

私は大浦で就農した時、大浦は農業の機械化が進んでいるとは特に思っていなかった。しかし研修などで他の地域を訪れて農業の実態に触れてみると、「大浦って、小規模な農家も割と機械化が進んでいるよな」と思うようになった。

大浦では、干拓は別格としても、町内の主要な農地も整形された四角い田んぼが中心になっていて、大きな農業機械で合理的に耕作されている場所が多い。ちいさな耕耘機でえっちらおっちら田んぼを耕すようなやり方は、僻地の農山村だとそんなに珍しくないものだが、大浦ではそういうのは趣味的な農業を除いてほとんど存在しない。同程度の農山村と比べれば、大浦は明らかに農業の機械化先進地である。

——この機械化をもたらしたのは、大浦干拓の影響だろう。

広大な干拓地を耕作するためには機械化は必然だったが、それは干拓地以外の農業にも波及した。干拓で活躍する効率的な機械仕事を見せつけられ、山間部で農業をやっている人もこれからの農業は機械を使わなければできないことを痛感したのだ。

農家というのはだいたい保守的である。というより、耕作大系というのはいろいろな要素が絡み合っていて一部だけを変えることは難しいから、自然と前年踏襲的になるのである。だから、仮に便利な農業機械が開発されたとしても、それを積極的に導入する人は限られる。ところが、農家は隣の農家がやっていることはよく見ている。隣の農家が新しい機械によってうまい具合に作業を合理化したと見るや、それを導入するのにはあまり躊躇がない。右へ倣え主義というよりも、実証されたことはすぐ取り入れるのもまた農家である。

であるから、干拓地での機械導入は大浦全体の農家に高い機械化意欲をもたらした。第一線の大規模農家が巨大なトラクターを持っているのは当然としても、大浦の場合はそれに次ぐ規模の農家もけっこう大きなトラクターを導入していることが多い。これは、まず機械を高機能化させてから経営規模を拡大していく、というやり方が大浦でセオリー化したためではないかと思う。

そして機械化にはもう一つ大事な要素がある。圃場の基盤整備事業である。

「基盤整備事業」とは、ここでは「農地の区画整理」を指す。昔の田んぼは牛や馬で耕していたから、そこまでには牛馬が通るだけのあぜ道があればよく、また真四角である必要もなかった。ところがトラクターで耕耘するようになると、トラクターが田んぼまで行くための道が必要である。さらに、トラクターでは狭く不整形な田んぼは耕耘しづらいため、田んぼは広く真四角であることが望ましい。

だから、昔ながらの棚田のような田んぼを壊して、新たに真四角の規格化された広い田んぼに生まれ変わらせるのが基盤整備事業である。要するに農地の再造成だ。これをしないと機械化は思うように進められない。

ところが、この事業はなかなか進めるのが難しい。市街地の区画整理が遅々として進まないのと同じ理由である。新たに道を通すには、みんなが土地を供出しなければならないし、費用負担もある。広い農地を持つ人にとっては土地の生産性を向上させるが、狭い農地しかない人や機械化に関心がない人にとってはあまり旨味がない。しかも区画整理と一緒で、区域の全員が事業に賛成しないと実行出来ない。だから基盤整備事業は時代の要請であったにもかかわらず、多くの地域でそれほどスムーズには進まなかった。

だが大浦の場合、基盤整備事業が概ね順調に進んだ。それは、干拓地の大規模農業を目の当たりにし、機械化の意欲が高まっていたからだろう。機械化を進めるためには基盤整備事業が必要で、基盤整備が行われるとさらなる機械化が可能になる。機械化と基盤整備事業は、撚り合わされた糸のように進行していった。

その背景には、基盤整備事業に対する町役場の熱意があったのももちろんだ。近隣の自治体が観光施設とかレクリエーション施設といったハコモノを次々と建てていったときも、大浦町は地味な基盤整備事業に注力し続けた。

それから、基盤整備事業が積極的に実行されたことは、思わぬ(もしかしたら狙っていた面もあったのかもしれない)形で大浦干拓事業の帳尻を合わすことにもなった。 というのは、干拓地に入植した人たちには、干拓地の土地の購入や高額な機械の導入などによって、1000万円単位の借金を抱えた人も少なくなかったのである。最初、干拓地はただの砂浜だったから農地としては最も劣等であり、生産性も低かった。巨大な借金を返していく現金収入はすぐには得られなかった。

そこでそうした人達は、昼間は基盤整備事業の土方で働き、夕方から農業に従事するというダブルワークで借金を返済したのであった。こういう事情もあったからか、大浦では基盤整備事業は積極的に進められ、一時期は町の経済のかなりの部分が基盤整備事業という公共事業で支えられていたくらいである。

それはともかく、農家の機械化への意欲、役場の積極的な事業推進などによって、平成に入ってからの基盤整備事業は着々と進み、大浦の主要農地は全て事業を完了し、整形された広い四角い圃場が並ぶことになったのである。こういう地域は鹿児島では珍しいと思う。

その上、そうした大規模事業の対象は水田だけに留まらなかった。茶園や大規模養鶏団地の造成といったことが、県や国の補助を活用して矢継ぎ早に推進された。大浦は、干拓をきっかけとして構造改善事業(農業の基盤を造成していく事業)に非常に前向きな地域となり、こうした事業が華やかに行われていた時は連日のように県の役人が大浦を訪れ、遊浜館(大浦の旅館)が賑わっていたのである。

こうして、戦前から平成にかけて、大浦の農業はすっかり近代的な形へと生まれ変わった。干拓地だけでなく、大浦町の全域で圃場は効率的な形に整備され、人々は最新式の機械を導入していた。

このように書くと、かつての大浦町が意欲的で活気のある場所だったと思うかも知れない。だが、その動きの裏で、急激な人口減少とそれに伴う高齢化は非情にも続いていた。まるで大浦の農業を発展させようとする努力など存在していないかのように。

(つづく)

【参考文献】
「大浦干拓事業と笠沙町・大浦町の農業経済」2002年、西村 富明
「過疎化,高齢化の構図:再考〜笠沙町,大浦町の現状から」2002年、高嶺 欽一
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎

2020年1月3日金曜日

新年の抱負

みなさん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

昨年は(昨年も!)、あまりこのブログ記事を書けなかった。その原因はハッキリしていて、他のところで記事を書いているからだ。

私は現在このブログの他に、「南薩の田舎暮らし ブログ」と「石蔵ブックカフェ ブログ」を業務的に書いていて、趣味の読書メモブログ「書径周游」も書いている。それぞれ昨年書いた記事数は、

南薩の田舎暮らし ブログ 31記事
石蔵ブックカフェ ブログ 29記事
書径周游 54記事

ということで、「南薩日乗」以外で114記事書いているわけだ。「南薩日乗」では20記事書いているから、昨年書いたブログ記事数は計134。約3日に1日は何かしらのブログを更新していることになる。改めて集計してみると結構な数だ。

なので、このブログだけを見れば、更新頻度が落ちて情報発信力が落ちているのだが、実際にはブログ記事ばっかり書きすぎなのかもしれない。でも他のブログは半ば義務的に書いている部分がある。趣味の読書メモブログは義務でもなんでもないが、でも読書メモなので本を読んだら義務的に書いている(読んでも書いていない本も多少あるが)。だからフリーハンドで書きたいことを書いているのはこのブログだけである。

私としては、今年はこのブログの更新をもうちょっと積極的にやっていこうと思っている。でも「南薩の田舎暮らし」とか「石蔵ブックカフェ」のブログは必要な広報としてやっているので、他のブログの更新頻度を落とすのも難しい。そうなるとブログをもっと書きまくるしかないんだろうか。

確かに私は文章を書くのが好きである。元々「石蔵ブックカフェ ブログ」なんかは、写真中心で文章はいらないよね、といって始めたはずがいつの間にかテキスト中心のブログになってしまった。中学生の頃に、原稿用紙3枚か4枚書けばいいというような作文で10枚以上も書いていたのだから、もうこれは宿痾みたいなものである。

でもそろそろ、量より質のことを考えてもいい頃合いかもしれない、とも思う。何よりこの、社会の教科書みたいな悪文をどうにかしないと。先日数年前に自分が書いた文章を見直してみたら、まだその頃の方が文学的で、表現に工夫があった。最近は歳のせいか(!?)どうも文章が無味乾燥すぎて自分でも読むに耐えない時がある。もう少し表現に気を遣わないといけない。もちろん内容の方も、より多様化できるとなおよい。

そんなわけで、年頭に少し抱負じみたものを書いておこう。今年はこのブログ「南薩日乗」をもう少し更新し、しかも文章表現をもっと生き生きしたものにしよう。

でも、そのためには時間が必要である。もっと早く書く術を身につけたとしても、やはり記事の執筆には時間がかかる。今これを書いているのも結局深夜になってしまった。それはあまりよくないことである。書いても書かなくてもいいブログ記事の執筆のために生活が振り回されたら本末顚倒だ。だからその前提として、まずは仕事(農業)が順調でないといけない。そして家庭生活も充実していなくてはいけない。そして当たり前のことだが、自分や家族が健康でないといけない。

こうして話は、随分と平凡なところに落ちついてきた。今年一年、公私ともに充実し、家族みんなが健康でありますように!