2022年7月25日月曜日

洋上風力発電は、結局、全部カネの話。

先日の鹿児島県議会では、薩摩半島沖での洋上風力発電についての「国への情報提供」が見送られた。

ひとまずしばらくの間は、公式には話が進まないことになってホッとしているところである。

というのは、反対の署名運動が行われるなど地元での不評にもかかわらず、洋上風力発電はどんどん進んでいきそうな雰囲気になっているからだ。これまでの情報を整理して、その危惧をここに書いておきたい。

そもそも、薩摩半島沖での洋上風力発電事業については、2年前(2020年)の7月、東京のインフラックスという業者が計画を立ち上げたことで始まった。これについては私もブログ記事を書いて詳細に計画の杜撰さを糾弾した。

【参考】吹上浜沖に世界最大の洋上風力発電所を建設する事業が密かに進行中(今なら意見が言える)
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/07/blog-post.html

また、続く記事では、この計画が国の洋上風力発電プロセスに全く則っていないものであることを指摘し、その背景を推測した。

【参考】インフラックス社が実現可能性の低い巨大風力発電事業を計画する理由
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2020/08/blog-post.html

では、「国の洋上風力発電プロセス」とは一体何かというと、まずはある海域内において洋上風力発電事業を推進するという「促進区域」を国が定めることから始まるのである。その「促進区域」はどうして指定するのかというと、都道府県からの「国への情報提供」に基づく。これは「この海域が有望そうだから調査してください」という上申書である。

今回の県議会で見送られたのはこの「国への情報提供」である。なお、「促進区域」の指定自体は、必ずしも都道府県からの上申がなくてもできるらしいが、事実上、都道府県が前向きでない場所で国が先走っても無駄なのでこれが必須のプロセスとなっている。そしてもちろん都道府県は、地元の声を踏まえて上申するわけだが、その「地元の声」とやらはどうなっているか。

今、鹿児島県では薩摩半島沖での洋上風力発電事業に3事業者が名乗りを上げている。先述のインフラックス(いちき串木野市、日置市、南さつま市沖)の他に、三井不動産(阿久根市、薩摩川内市、いちき串木野市沖)、そして地元の南国殖産(阿久根市、薩摩川内市、いちき串木野市沖+甑島沖)である。

ということは、少なくともこの3事業者にとっては需要があり、特に地元の主要企業である南国殖産が手を上げていることは意味がある。これはこれで一つの「地元の声」である。

では県議会ではどうだったか。先日の「令和4年第1回定例会」の議事録を確認してみた。主な発言者と趣旨は以下の通りである。

宝来良治 議員(自民党) …洋上風力発電の可能性について問うもの。推進の立場。「県としても、積極的に地域課題として認識して、また地方創生の一翼として、大規模開発として、リーダーシップを取る覚悟が必要だと考えております」 
日高 滋 議員(自民党) …洋上風力発電の導入を期待するもの。推進の立場。「二〇二五年までの基盤形成に乗り遅れないためにも(中略)国への情報提供を行うべき」

具体的に洋上風力について質問したのはこの2名だけだが、2名ともが推進の立場なのが気になる。なおこれらの発言を受け、県では「国への情報提供」は見送ったものの、「かごしま未来創造ビジョン」に脱炭素社会の実現に向けた方策の一つとして「風力発電」を事例として追記したという。

ところで、この2議員はどうして洋上風力発電に前向きなのだろうか。その個別の事情は存じ上げないが、共に自民党であるし、基本的には「洋上風力発電の推進が国策になっているから」ということかと思われる。特に日高議員は質問においても国の政策について言及している。

政府・与党は洋上風力発電に前向きである。再生エネルギーの導入を促進し気候変動に対応する、といった大義名分は当然として、最近は政策的に再生エネルギーへの傾斜が明確になってきた。昨年改訂された「第6次エネルギー基本計画」においても、電力における再生可能エネルギーの割合を2030年に約40%へ引き上げ、2050年にはカーボンニュートラルを実現する、との野心的な目標が示されたところである。

自民党でも「再生可能エネルギー普及拡大議員連盟」が2016年に設立され、100名以上の国会議員が所属している。会長の柴山昌彦は「再生可能エネルギー最優先の推進役として活動する」と旗を振り、特に洋上風力はその軸であると位置づけている。「第6次エネルギー基本計画」が自民党からの提言を受けたものであることは言うまでもない。

これらの動きは、一見、脱炭素社会に向けての前向きなもののようにも見える。しかし私には、洋上風力発電事業が一種の「利権」となりつつあるのではないかと感じられる。

例えば、先の自民党「再エネ拡大議連」の事務局長(秋本真利衆院議員)は、「風力発電業者5社から企業・個人献金合わせて3年間で、計1800万円以上を自身が代表を務める千葉県第9選挙区支部で受けている」という(「週刊新潮」2022年6月16日号)。

もちろん、それが業者との癒着や不正を直接意味するものではないが、そこに何の利権も存在しないといえばウソになる。

そもそも、洋上風力発電事業はとんでもなく巨大なお金が動く事業である。民間の行う事業としてはかなり大きい。吹上浜沖に100基の風車を設置するとなれば、事業規模は1000億円を超えるのではないかと思われる。とすると、その0.1%を見返りとして業者が政治献金しても1億円にもなる。これは、これまでの公共事業と違って国が巨額の予算を組む必要がなく、民間事業者がお金を集めて行うものなので、与党としては、ただ許可を与えるだけで政治献金が見込めることになり、非常に割がいいものではないかと思われる。

つまり洋上風力の場合、国はお金を出す必要がなく、許可だけで政治献金が期待できる。公共事業に大きな予算を付けづらい今の財政事情を考えれば、これは旨味のある話なのだ。また地方議員にとっても、合意形成を図ることで政治献金に繋げていける。別にカネで全てが動くというつもりはないが、巨額のカネが動く事業である以上、当然の話としてこういう「取引」が行われることになる。

ではその巨額のカネはどこから出てくるか。

これは基本的には、民間企業が投資家から集めたお金、ということになるだろう。こういう、環境保全に役立つ事業の債券を「グリーンボンド」と言う。「グリーンボンド」で集めたお金で事業を行い、債権者に返済していくわけだ。風力発電の場合は、FIT(固定価格買取制度)によって電力を高価格で販売することで、利益を生みだす。その価格は、我々が支払う電気代に上乗せされた「再エネ賦課金」で支えられている。

ということは、図式的に言えば、我々→(再エネ賦課金)→電力会社→風力発電事業者→投資家・政治家、というようにお金が環流していくことになる。これは、お金の潤沢なところから足りないところに行き渡っていく、という理想的な姿とは真逆で、お金のないところからお金のある所にお金が吸い上げられていく仕組みになっている。

お金の話が出たついでにいえば、多くの人が洋上風力発電に反対している中で、明確に賛成の意志を表示しているのが漁協であるということも、やはりカネがらみである。

先日の南さつま市議会では、地元の2漁協から別々に「洋上風力発電事業の推進について」といった陳情が提出された。なぜ漁協が賛成するのかというと、漁協は海域に「漁業権」という直接の利権があるので、もし風力発電事業が行われるとなればその補償金が見込まれるからである。このあたりの漁協というのは高齢化や漁獲量の減少によって活動が低迷しているから、補償金をもらった方が得だ…という判断なのだろう。

なお、風力発電の基体が魚礁になって魚が増える、という説もある。しかし補償金がなかったら漁協は賛成派にはならなかっただろう。なんだかんだ言って、全部カネの話に繋がっていく。

風力発電の推進は、地球環境保全に役立つ、という主張は嘘ではないとは思う。でも、地球環境に役立つはずだった太陽光発電のせいで、各地で山崩れが起こっており、治山治水の逆になっているのは事実である。またそうした被害を受けたパネルは産業廃棄物となっている。どうしてそんな無理のある地形に太陽光パネルが設置されたのかというと、要するに補助金狙いの杜撰な計画が各地で推進されたから、としか言いようがない。

実際、奈良県の平群(へぐり)町では、メガソーラーの建設差し止めの事件が起こっている。この場合、「環境のことなどどうでもいいから、儲かればいい」という事業者だったようだから建設が差し止められたが、他の業者も良心的なところばかりではないことは想像に難くない。

【参考】奈良県が止めたメガソーラー計画の現場から見えてきたもの
https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakaatsuo/20210827-00255241 

結局、環境保全とか、気候変動などというものは、多くの事業者にとって大義名分以上の意味はないものだ。ただ利益が出れば、それでいいのだ。もちろん、それがわかっているから、国としては環境保全や気候変動に役立つ事業が儲かるよう、補助金をつけたり便宜を図ったりする。しかしそれが利権化することによって、さらに話はカネの話に傾斜していくのである。

結局、全部カネの話なのだ。

資本主義社会である以上、それは当たり前じゃないか! といわれれば、その通りである。しかし、吹上浜沖のような風光明媚なところに、わざわざ巨額のお金を投下して風力発電所を作るのは、単なる金の使い方としてもうまいやり方のようには思えない。それは我々の生活をよくするものではなく、単に「再エネ賦課金」を徴収するための集金装置に過ぎないからだ。

「再エネ賦課金」は、今3.45円/kWh。国全体では、2021年度で約2.5兆円にも上る。これは国が徴収しているのではなく、各電力会社が電気料金に上乗せして集めているので、この金額がどこか一箇所にあるのではないが、それでも毎年(!)これだけのお金が集められて、そして再エネ事業(太陽光発電や風力発電)に環流していっているということになる。

毎年2.5兆円あれば何が出来るか。例えば、国立大学の大学教育が無料に出来る。

再エネ推進が大事なことであるにしても、大学教育を無償化して人材育成を図る方が、長期的に見れば環境保全に役立つ。なぜなら、日本で公害問題が概ね解決されたのは、経済成長によって「環境も大事だよね」という意識が広まったことが一番のポイントだからだ。食うや食わずの生活をしていては、地球環境などという抽象的なものを守ろうという気にはならない。日々の生活に余裕があり、身の回りのことに不足しないようになってからこそ、地球環境の保全にも意識が向くのである。

その意味で、地球環境保全にとって最大の敵は貧困である。貧困を撲滅し、高度な教育を受けた人材を増やすことが地球環境保全に繋がるのは間違いない。

それなのに、風力発電を含む再生エネルギー事業は、貧しいものになけなしの金を出させ、投資家にお金を流す仕組みだから納得できないのだ。もし日本にとって必要なものであれば、国が税金を使って建設すべきだ。民間事業者に任せるのではなく。

税金も貧しいものから収奪する面があるが、貧乏人からも一律の割合で金をとる再エネ賦課金よりはいくらかマシである。

結局、全部カネの話なのだとしても、カネの使い方が杜撰だから情けないのだ。鹿児島県の塩田知事は、「稼ぐ力」をいつも強調している。だが、こういってはなんだが、県民所得が全国最低レベルの鹿児島県民に「稼ぐ力」があるはずがない。だったらせめて、おカネの使い方くらいは未来志向でありたいものである。

2022年7月22日金曜日

安倍元首相の国葬に反対。というか国葬そのものに反対。

安倍元首相の国葬を執り行うという。

首相の在位期間は大変長かったが、疑惑や不正も多く、賛否は割れている。自民党は「多くの国民が望んでいる」「反対しているのはノイジーマイノリティ」などというが、世論調査などでは五分五分のようだ。

私も国葬には反対である。

でもそれは、安倍元首相を評価していないからではない。いや、実のところ、私は安倍政権の政策はほとんど何一つ評価していないが、仮に彼が偉大な功績を残した、万人に愛される首相だったとしても、私は国葬に反対である。

というのは、私は国葬そのものに反対なのだ。

そもそも、憲法第20条(第2項、第3項)にはこうある。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

国葬は、明らかに「宗教的活動」であり、「宗教上の行為・儀式」である。私は「国葬」の開催は憲法第20条第3項に違反しており、実質上、多くの行政関係者がそれに参加することが強制されることを考えれば第2項にも違反する。

「いや、国葬が宗教的活動とは言い切れない」という人もいるかもしれない。例えば、祝詞を読んだりお経を上げたりすれば明らかに宗教的活動であるが、祝詞もお経もなく、お別れの言葉を読むだけのイベントなら宗教的活動ではないのかもしれない。

だが、死者を葬る儀式において、死者の魂を実在のものとして扱わないということはあり得ないと私は思う。死者の魂など存在しない、というのであれば、葬式自体をやる意味がないからだ。仮に特定の宗教に基づくものでなかったとしても、例えば、弔辞において「安倍さん、あなたのおかげで…」と呼びかけるようなやり方は、死者の魂に話しているとしか考えられないのである。死者の魂を扱う以上、そこに宗教的なものがないというのは難しい。

それでも、「最近は”無宗教の葬式”もあるからなあ」いう人もいるだろう。とはいえ、「無宗教の葬式」は自由な葬式であるために一概にはいえないが、完全に宗教的でない葬式は例外だと思う。というのは、それらの多くは、ただ僧侶を呼ばないというだけで、特定の宗教の儀式に則ってはいないとしても、やはり故人の冥福(魂の安らぎ)を祈るもののように思われるからである。ごく一部には、全くの無神論の葬式もあるのかもしれない。だがその場合は、個人の冥福など祈る必要もないので、葬式ではなく告別式と呼ぶであろう。

話がやや逸れたが、葬式である以上、宗教と関係がないというのは詭弁だ、と私は思うのである。では祝詞もお経もなく、お別れの言葉を読むだけのイベントでは憲法違反にならないか。私は、それは憲法違反ではないと思うが、それを「葬儀」「国葬」と呼ぶことには断固反対したい。それは「告別式」であり葬儀ではない。

葬儀は、宗教の核心である。おそらく宗教は、人を葬ることから生まれたのであろう。国家が葬儀を行うこと自体が、国家が宗教を手中に入れることに繋がると私は危惧する。

でも「政教分離を掲げる多くの国で国葬は行われているじゃないか」と言われればその通りである。しかしそれらの国では「国葬令」などの法律があり、法に則って行われている。日本では国葬に関する規定はなく、今回も国会の審議を経ずに「閣議決定」でなされるようだ。これでは「故人の魂」を政治的に利用していると言われてもしょうがない。民主的な手続きによって定めた法律によって定まった「国葬」であればまだ容認できるが、国家が恣意的に宗教イベントを開催できるということが空恐ろしいのだ。

日本では明治以来、政権と宗教の歪(いびつ)な関係が続いてきた。国家が宗教までも管理し、国民の「良心」を国家が改変してきたのが日本の近代史である。そのことの一端は拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』でも描いたつもりだ。日本の場合、国家と宗教の関係には非常に注意していなければならないと思う。

しかも今回、安倍元首相を銃撃した犯人は、統一教会と自民党への関係を恨んで犯行に及んだというのだからなおさらである。

多くの国家元首が弔問に訪れるという事情があるなら、告別のイベントを国費によって行うというのであればいいだろう。宗教は抜きで。でも宗教は抜きなのにそれを「国葬」と呼ぶのなら、明治時代の政策担当者が「神道は宗教ではなく国家の祭祀である(だから国民に神道の祭祀を強制しても、政教分離や信教の自由には抵触しない)」と整理したことと同じ過ちを犯すことになる。

国会審議を経て(つまり民主的手続きによって)国葬とするか、閣議決定で告別式にするか、どちらかにしていただきたい。反対派の私にとって、それがギリギリの妥協点である。


2022年7月10日日曜日

山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」を巡って

拙著『明治維新と神代三陵—廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』が発売されて約1ヶ月。

売れ行きを出版社に聞いてみたところ、「小社ではなかなかの実績」とのことだった。それなりに売れているようである。

そして、読んだ方からはポツポツとご感想も寄せられている。「知らないことばかりでビックリ」「これまで神代三陵がなぜか閑却されてきたことに気付かされた」など肯定的に評価していただいた。

そんな中で、意外と多いのが「表紙の絵がかっこいい」という感想。

実はこの表紙の絵、私から出版社に「表紙はこの絵にしてほしい」とお願いしたものだ。意外とすんなりその要望を聞いてくれて、バッチリ表紙にあしらってくれた。なので表紙の絵が好評なのは私としても喜ばしい。

この絵は、山内多門という人が描いた「中国西国巡幸鹿児島著御(之図)」という作品。明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に展示されているものだ。

聖徳記念絵画館には、この作品も含め、日本画40枚・洋画40枚の明治天皇・皇后の歴史にまつわる絵画が展示されている。これらは、明治天皇崩御をきっかけに、その顕彰のための壁画として(といっても壁に直接描くのでなく、和紙・キャンバス製で)製作されたもので、全ての絵画が奉納されたのは25年後の昭和11年。そしてその画題も、明治天皇の個人的な事績というよりは、国家の歴史と密接に関わったものが選ばれ、国使編纂事業(←これは拙著でも触れています)とも関連して制作された、まさに国家的大事業としての壁画制作であった。

大げさに言えば、これらの一連の壁画は「建国の神話」を表現したものであったといえる。

当然、この制作に関わった画家は、当時最高の技倆を持っていた人ばかりである。「中国西国巡幸鹿児島著御」を描いた山内多門もその一人だ。

山内多門(たもん)は、木村探元から続く南九州の狩野派の掉尾を飾る人物である。

山内多門は明治11年、宮崎県都城市に生まれ、少年の頃に郷里の狩野派絵師・中原南渓に入門。21歳までは小学校教師などをしていたが一念発起し周囲の反対を押し切り上京、川合玉堂に入門した。また玉堂の紹介で橋本雅邦(狩野派の絵師で川合玉堂の師でもある)に師事。そして発足間もない日本美術院に参加し、日本美術院の公募展に第2〜10回と連続で出品して華々しい成績を収めた。また帝展では2〜10回の審査委員をつとめるなど当時の日本画壇の中核的存在だった。

「中国西国巡幸鹿児島著御」は、そんな山内多門が絶頂期に制作した大作である。

島津氏の居城だった鶴丸城(今の黎明館があるところ)に天皇の一行が到着した、明治5年6月22日の様子を描いている。ちなみに明治天皇は、騎馬している人物の前から3番目である。

どうして明治天皇がわざわざ鹿児島まで来たのかというと、西国・九州の各地を回って人心を収攬するための一環だったが、特に鹿児島については当時政府と敵対していた島津久光の慰撫が念頭にあったとするのが通説である。

この鹿児島行幸の際、明治天皇は行在所(あんざいしょ)で神代三陵を遙拝(遠くから拝む)し、これが神代三陵の治定にあたって決定的な役割を果たすことになった。まさに、神代三陵の治定において象徴的な場面が描かれているのが、この作品なのだ。だからこそ私はこの絵を表紙にしたかったのである。

ところで、明治11年生まれの山内多門がどうやって明治5年の出来事を絵に描いたか?

この絵には、鶴丸城の城門である御楼門(ごろうもん)が描かれているが、実は御楼門は巡幸の一年後の明治6年に火災で焼失している。なので山内多門が絵画を制作していた時は影も形もなかったし、当然見た事もなかった。設計図なども残っているわけもない。そもそも、鶴丸城自体が、明治10年の西南戦争で焼失しているのである。

そこでこの絵の重要な参考資料となったのが、明治5年の西国・九州巡幸の際に撮影された写真である。この巡幸には、長崎出身の写真師・内田九一(くいち)が同行していた(なお内田九一は最初の明治天皇の肖像写真を撮影した人物)。彼は各地で名所旧跡の写真を撮っており、そのうちの55点が確認されている。

そして幸いなことに、そこに鹿児島の御楼門の写真も入っていた。

この写真をよく見れば、山内多門の絵に描かれた石垣にせり出す松が、事実に基づいているものであることがわかる。

もちろん、この写真がなかったら御楼門の構造も詳細な点は不明だっただろう。

内田九一の写真のおかげで山内多門は「中国西国巡幸鹿児島著御」を史実に基づいて完成させることができたのである。

余談だが、鶴丸城の前が「城下」のイメージとは違うだだっ広い平野になっているのも興味深い。さらに、城郭の中もほとんど森のようである。鶴丸城には元々天守閣がなかったが、私たちがイメージする城郭とはかなり隔たった姿だったわけである。

さらに余談になるが、令和2年(2020)、御楼門は明治維新150年事業の一環で官民協力のもとに復元された。

その復元にあたって重要な資料となったのが内田九一の写真であったことはいうまでもない。出土品や江戸時代の補修時の史料などは残っていたが、全体的なフォルムについてはこの写真がなければ正確に復元するのは到底不可能であった。

だから、貴重な記録写真をもたらしたという意味でも、西国・九州巡幸には大きな意味があったと言えるだろう。明治維新では廃仏毀釈という破壊運動が起こり、多くの貴重な文化遺産が失われるという負の側面があったが、写真によって当時の社会が記録され、それが後の文化財の再建に繋がるという面もあったわけだ。

ところで、この大作「中国西国巡幸鹿児島著御」を完成させた後、山内多門は病気がちとなり、2年後には54歳で死去してしまった。弟子には宮之原譲、山下巌、野添草郷らがいるが多門が早死にしたこともあって、その後は大きな流れとはなっていない。

ちなみに、明治5年に御楼門の写真を撮った内田九一も、その3年後には31歳という若さで肺結核により死亡している。もし巡幸のタイミングがずれていたら御楼門の写真は残らなかっただろうし、また内田九一も生きていなかったということだ。同じことは山内多門にも言える。文化財というものは、様々な偶然や幸運に恵まれて生まれ、残されたものだということをつくづく感じる。

さらに蛇足だが、山内多門「中国西国巡幸鹿児島著御」の模写が黎明館に所蔵されている。元々山内多門の絵は、鹿児島市が依頼して製作したものだが、これを神宮外苑に奉納するにあたり、その模写を制作していたもののようだ。模写したのは石原紫山。入来町出身の画家である。これは時々展示されるようなので、機会があれば是非見ていただきたい(私自身も未見)。

御楼門が描かれた絵画を表紙にあしらったにのはもう一つ理由がある。元々、この本が自分の中での「明治維新150年事業」だったからでもある。

鹿児島県では2010年代後半、明治維新150年(2018年)に向けて大河ドラマ「西郷(せご)どん」や御楼門再建といった記念事業に官民挙げて取り組んでいた。もちろん明治維新の主役である西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀といった人たちの顕彰はやるべきことだ。しかし明治維新には廃仏毀釈という負の面もある。私は、主流の人たちがやりづらい、負の面の明治維新150年事業を自分一人でやってみたかった。薩摩藩出身者たちが明治政府に残した、負の遺産を見直してみたかったのである。

その結果が、『明治維新と神代三陵』である。

明治維新には、その後の日本が破滅に進むことになった兆しが内包されていた。その一つが「神代三陵の治定」であると思う。これは一見、重箱の隅をつつくようなマニアックなテーマだが、これを通じて明治以降の150年を自分なりに見直すことができたと自負している。

というわけで、拙著のご高覧、よろしくお願いいたします。

【参考文献】
金子 隆一「内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置
※内田九一の写真は、同論文から転載しました。東京都写真美術館の収蔵品です。同作品は同美術館のデジタルアーカイブでは公開されていませんが、著作権は既に消滅しています。
都城市立図書館「山内多門 生誕130年展」パンフレット
みやこのじ南日本新聞社編『郷土人系』
※現在の御楼門の写真は県のWEBサイトより借用しました。

【2022.7.12追記】
御楼門復元にあたっては、別の「正面から撮った写真」があり、そちらの方も参考にしている…という情報をいただきました。ということで、内田九一の写真がなかったら御楼門も復元できなかったのでは、というのは私の早合点だったようです。こちらの写真も明治初期に撮影されたものらしいですが、誰の撮影なのかがわかりません。これも内田九一なのでしょうか…?