2016年11月29日火曜日

「本で町を豊かにする」

今、すっごく行ってみたい古本屋がある。

長野県上田市にある「NABO(ネイボ)」というブックカフェである。

ここは、古本業界の風雲児「バリューブックス」が経営する古本屋だ。Amazonで本を買う人なら、「Vaboo」という古本(やCDとか)の買取サービスを一度は見たことがあると思う。この「Vaboo」をやっているのが「バリューブックス」という会社である。

この会社、基本的にはAmazonで古本を売る、ということに特化した古本屋で、2007年の設立以来、急速に成長を遂げてきた。本の在庫は約180万冊もある(2016年11月現在)。これは、ちょっとやそっとの図書館では太刀打ちできないような量である。もちろん図書館とは違って重複資料がほとんどだろうから、単純には比べられないが、蔵書数だけでいったら、国内最大の公立図書館である東京都立図書館と同じ規模なのだ。

「バリューブックス」は、長野県上田市にある。でも実は、設立当初には確か東京が拠点だったはずである。 でも商売がどんどん拡大するにつれて、倉庫費用の安い長野に完全に移っていった。ドデカい倉庫が必要だからである。それに、インターネットを通じて商売をする以上、どこの街で商売をするかは関係がなく、東京に拠点がある意味もほとんどない。

古本屋は、基本的には儲からない商売である。恥ずかしながら、私も若い頃に古本屋(正確に言えばブックカフェ)を経営することを考えたことがある。でもどう考えても利益がでない。当時は古本業界のことをよく分かっていなかったから、今になって考えてみると随分間違った計算だったけれど、「死なない程度の暮らし」しかできないような商売だ、と思ってその考えは有耶無耶になってしまった。

ところが、「バリューブックス」はかなりの利益を現実に出している。社員15人、アルバイト300人、といった(古本屋としては度外れた)雇用を生んでいるし、何より、その大量の蔵書のほとんど(記憶では95%)が、1年以内に売れていくというのである。この蔵書の回転率は驚異的だ。私の知っているリアルの古本屋では、こんなどんどん変わっていく書棚は見たことがない。

……とまあ、この「バリューブックス」の風雲児っぷりは、インターネットでちょっと調べればどんどん出てくるはずなのでこのあたりで辞めることにしよう。とにかく、ここはインターネット(特にAmazon)専門の非リアル古書店として、大成功している会社なのである。

この波は、既存の古書店も避けることはできない。聞くところによると、鹿児島の古書店も9割(!)は、実店舗を廃業させ、インターネット専業の形態へと移行してしまったそうである。実際、リアルの古書店を開いているより、インターネットに出品する方がコンスタントに売れるのだから、そこに比重が移っていくのは無理からぬことである。正直言って、私も本の半分くらいはインターネットで買っているし(地元の本屋さんすいません)、ある面ではリアル書店(新刊・古書店共に)はインターネットに太刀打ちできない。

さらに正直言うと、このド田舎に移住してきたのも、「いざとなればインターネットで大抵のものは手に入るだろう」という気安さがあってこそであって、多分、Amaonがなかったら、私はまだ首都圏で働いていただろうと思う。

では、このまま古本業界はインターネットに飲み込まれていくのか、というと、どうだろう。そこがわからないところである。理屈で言えば、凡百のリアル古本屋が生き残っていく道はなさそうだ。最近では、ブックオフですらインターネット出品の比重を大きくしてきていて、もはやリアル店舗での古本販売は余技に近い雰囲気が感じられる。

ところが、例の「バリューブックス」、2014年に初のリアル古書店「NABO」をオープンさせた。全然儲からないはずの実店舗の古書店を。そしてこの店のテーマがいい。「本で町を豊かにする」だそうだ。そうそう、それだよ! と膝を打つテーマではないか。

「バリューブックス」は、「本を通して、人の生活を豊かにする」というコンセプトを掲げていて、これはこれで素晴らしい。が、悪く言えば当たり前のことである。それこそが読書の効用そのもの、と言えるのだから。

でも、「本で町を豊かにする」は、かなり野心的な言葉である。「本で社会を豊かにする」みたいなもっと広漠とした言い方なら、逆に穏当な言葉と思えるが、ここで話題になっているのは、まさにこの会社が所在する、「長野県上田市」を豊かにしようという宣言なのだから。

そしてこの言葉、ただ言ってるだけの空文ではなくて、実際に「NABO」は町を豊かにする取り組みをしているようである。例えば、180万冊の蔵書を活かして、「NABO」では3ヶ月に一度、棚の本の全取っ替えをするそうだ。それだけで、町の知性を刺激するクリエイティブな行為だと、私は思う。その他、「NABO」は実験の場と位置づけられて本に関するイベントなどを積極的に開催しているらしい。

では、どうして、ネット専業の風雲児たる「バリューブックス」は、わざわざリアル古書店をオープンさせたんだろうか? 一つは、(つまらない考えだけれど)税金対策で、どうせ利益が税金でもって行かれるなら、損失は織り込み済みで面白い店舗をつくってみようという、経営判断があると思う。行ってみないと本当のところは分からないが、たぶん、この店舗単体で利益を出すようなビジネスモデルにはなっていないと思う。

でももう一つには、やっぱり、実際に本を読む人と、直截のつながりを持ちたい、という、人として当たり前の考えがあるのではないだろうか。

インターネット専門の古書店の仕事は、データの入力と発送作業がメインになるが、ほとんどは機械的な作業の連続で、それあたかも工場のベルトコンベア式のそれと変わるところがないと想像される。ベルトコンベアが悪いとかいうつもりはないが、こういう仕事ばかりしていると、「なんのために仕事してるんだろ」的な気持ちになってくる。

純粋に利益のために仕事をするならそれでもいいかもしれないが、(そこで働いているに違いない)本好きな人たちは、それで満足できるような人たちではない、というのもまた事実である。

本は、人生にある種の「化学反応」を起こす力がある。人に本を紹介する、ということは、その「化学反応」の発端になるかもしれない、という行為だし、そうであればその結果を見届けたいと思う。小さな「化学反応」は、ほんの少しのエネルギーを放出して、それが次の「化学反応」を起こすかもしれない。いつしか、それは「連鎖反応」になって、本当に「町を豊かに」するかもしれないのである。

実際に、私はある一冊の本が奇縁になって、一人の女性と出会い、その人と結婚したという実績(!)がある。その一冊の本がなければ、私は全然違う人生を送っていただろう。本を読むと賢くなるとか、ものしりになれるとか、感受性が豊かになる、といった煽り文句(?)はほとんど嘘だと思うが、「本は人生を豊かにする」は本当のことだ。

でもこれは、インターネットの画面を見てみても、窺い知ることはできないことである。どうしても、本は物理的な場所に置かれ、そこに誰かが訪れなくては、物語は始まらない。効率的に最安値の古本を探すならインターネットで検索すればよいが、「化学反応」を起こすような本を手に取るためには、絶対に物理的な舞台が必要なのだ。

といっても、「NABO」が実際には何のためにつくられた店なのかは知らない。私の妄想なんか、ものの数に入らないくらい高度な戦略に基づいてつくられた店かもしれないし、逆にただの勢いでつくった店なのかもしれない。でも、実際に行って見てみたら、インターネット専門古書店の先にある何かが見えそうな気がして、興味が湧くのである。

既に案内しているとおり、私は今年の12月に「石蔵古本市」という古書販売のイベントを主催する。ここに出店していただく5軒の古本屋も、営業のメインはインターネットであると思われる。そのうち1店舗、加世田の「特価書店」は、かつてはリアル店舗で営業していたが、今やインターネット専業になった店だ。

新刊書店の撤退という波と相まって、街からはどんどん本が失われていっている。インターネットで買えるからいいじゃん、と思っていたらいけないような気がする。なぜかは知らないが南薩はもともと古本屋の不毛地帯で、以前から古本屋は少ないのだが、これではつまらないと思う。

私は単純に、本がある風景、本がある街、本がある人生が好きなのだ。たぶん「本」そのものよりも。 「本」もそれなりに読むが、愛書家かといわれたら違うと思うし、それに読む本の数も読書家と言えるほどのものではない。正直、「本好き」のカテゴリには入らないと思う。でも一冊の本をポケットに忍ばせる行為が、大好きなのだ。

「NABO」の試みになぞらえるわけではないが、ド田舎で古書市を開催してみようというのは、私なりにこれからの「本と街」の姿を見たいと思う、密かな企みである。どうせ市を開催するなら、人がたくさん来る街中でやる方がいいに決まっている。でも、これは、合理的に検討して、戦略的に決定した開催地ではない。ただ、自分の街で古書市をやりたいという、もっと人として原初的な欲望に基づいた企画なのである。

だからあんまり偉そうなことは言わないようにしよう。あるべき本と街の関係とか。これからの書店業界がどうあるべきかとか。そもそも部外者なんだし。いや、古書店関係者でもなんでもない、ただの百姓である私が、古本市を主催するということ自体がおこがましい。

ただ、私としては、ほんのいっときでも、我が南さつま市に、本が集う風景を、出現させたいだけなのかもしれない。そして、ぜひ、これを読んでいるあなたにも、その風景の一部になってもらいたい。

【情報】
「石蔵古本市—万世*丁子屋石蔵」
日時:12月9日(金)-12日(月)10:00-17:00(初日13:00〜、最終日〜15:00)
場所 :南さつま市加世田万世 丁子屋石蔵
参加古書店:あづさ書店 西駅店泡沫(うたかた)古書リゼット(レトロフト内)特価書店つばめ文庫
協力:南さつま市立図書館(12月11日(日)11:00より、会場にて除籍本の無料配布を開催) 
主催:南薩の田舎暮らし
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。

2016年11月24日木曜日

11月25日(金)カタルバーで、「田舎工学序説」再び

11月25日(金)、天文館のKENTA STOREで行われる「KATARU bar(カタルバー)」というイベントに出る。

実は私も行ったことがないが、カタルバーはこれまで6回開催されていて、要するに、ゲストを招いて、そのゲストを中心に集まったメンバーで一緒にゆるく語りましょう、というイベントみたいである。私は今回、そのゲストになったわけだ。

正直言うと、私はこういうのに積極的に出るタイプではない。どちらかというと事務方タイプというか、裏方で地味な作業をするのが好きである。まあ、人と会うのは嫌いではない。割と出会いを楽しむタイプだとは思う。でも実を言うと、初対面の人と内容のある話をするのが苦手で、無難な話題で終始してしまうところがある。要するに、こういう場にいても、つまらない人間かもしれない。

そんな私がなんでわざわざこのイベントに出ることになったか、というと、ぶっちゃけて言うと「営業」のためなんである。「営業」というには実際は緩すぎるかもしれないので、もう少し適切な言葉でいうと「プロモーション」である。

というのは、我が「南薩の田舎暮らし」、割と販売に苦しんでいるわけだ。

特に加工食品の中心商材である「南薩コンフィチュール」(ジャム)。自分で言うのも何だが割と評判はいい。地元ではかなり浸透してきたと思うし、物産館でも徐々に売れてきた。「とっても美味しかった!」というご感想をいただくことも多く、有り難いことである。

……が、これまで「売れる分だけ製造しよう」という安全策を取ってきたために、販路というものが未だにほとんど構築されていない。だから、評判がいい割には、売れ行きがよろしくない。当然である。売っている場所がほとんどないのだから!

インターネットでも販売しているが、送料の関係でこれはなかなか難しいので、やはりリアルの店舗で売られる必要がある。そのためには、まずは鹿児島市内では唯一、南薩の田舎暮らしの商品を置いていただいている「KENTA STORE」での販売が好成績にならなくてはいけない。闇雲に新規開拓をするより、今おつきあいある所でしっかり成功するのが大事だと思う(もちろん新規開拓も大事ですよ。卸先募集中!)。

というわけで、微力ながらKENTA STOREでの売上に貢献したいし、せめて顔見せすることで親近感を持ってもらおうという、そういう魂胆である。

でも実はこれも建前で、本当のことをいうと、自分へのプレッシャーというか、人前に出て「ちゃんとやんなきゃ」みたいな気持ちを再確認するという意味合いの方が本質かもしれない。なにしろ、普段は植物ばかり相手にしているので、なんだかちゃんとした社会生活が営めないほどにノンビリした感覚になりがちである(暇という意味では全然ないですよ)。いっちょここらで、「ビジネス」の荒波に揉まれておかないといけない。

当日は何を話すかというと、先日マルヤガーデンズで講演した「田舎工学序説」のスライドを再利用する。

再利用は手抜きかもしれないけれども、「行きたかったけど行けなかった」という声もチラホラとあったので、そういう人に向けて改めて話してみることにした。そもそも、カタルバーは何かを発表する場というよりは、雑談がメインと聞いている。酒の肴になればいいという程度に、自己紹介の代わりとしての「田舎工学序説」の説明をしたい。もちろん、(先日の講演でも言ったように)さらに突っ込んで「田舎工学」について聞きたい人が、疑問をぶつける場として捉えるのも結構である。

ということで、11月25日(金)にKENTA STOREにてお会いしましょう!

【情報】
KATARU bar #07
日時:11月25日(金) 19:00-22:00 ← ご都合のよい時間にくればOK

場所:KENTA STORE(天文館、こむらさきのちょっと先)
参加無料ですが、バーと言ってるくらいなので、たぶん飲み物をオーダーしていただくことになると思います(あやふやですいません)。 が、別にお酒を飲む必要はないです。というより私自身がノンアルコールです。あと、出来れば「南薩の田舎暮らし」の商品も買って下さいね!

2016年11月22日火曜日

「イベントを育てる」ということ

11月13日(日)、3回目となる「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を笠沙美術館で開催した。天気にも恵まれ、多くの方にお越しいただき、主催者としては大成功、と思っている。

ところで、薄々思っている方も多いと思うが、このイベント、第1回、第2回もあんまり内容が変わっておらず、今年はギター演奏が新しい取組だったものの、マルシェも昨年と全く同じメンツだし、それどころかチラシのデザインもほとんど同じである。

マンネリ、と言われたら返す言葉もないのだが、一応自分の中で思っていることがある。というか、迷っていることがある。それは、「イベントを育てていくとはどういうことか」ということである。

私も一昨年に初めてこの「珈琲を飲む会」を開催したときは、「来年はもっと盛り上げるぞ!」と意気込んだし、2回目をやった後も「どんどん発展していったら面白いなー」と思っていた。もちろん3回目が終わった直後の今でも、来年に向けたアイデアを既に考え始めている自分がいるし、来年はもっと盛り上がって欲しいと思っている。でも昨年のイベント後くらいから「お客さんをもっと増やして、マルシェの出店ももっと増やして〜」というような拡大路線はちょっと違うような気がしてきていた。

その気持ちが明確になったのが、(あんまり名前を出すと可哀想だけれど)今年の7月に行われた「ふるまい!宮崎」というイベントの評判を見てから。

このイベント、4500円払って九州各地の名物料理を食べ放題、というような趣旨で行われたが、7月の炎天下の中なのにテントが不十分、会場キャパを遙かに超えるお客さんでごった返して何を食べるにも長蛇の列、しかも飲み物持ち込み禁止となっていたことから熱中症で運ばれる人が続出…、という地獄のイベントだったようだ。

【参考】炎天下で行列、売り切れ続出……宮崎県の食フェスに批判殺到 実行委が謝罪

これ、主催者側の問題を挙げればキリがないが、私なりに考えると、結局「ふるまい」を標榜しながら己の利益しか考えなかった、という一点に集約されると思う。

でも自分だって、イベントをやるとなればやっぱり利益は出て欲しいと思うものだし、というか利益が出なかったら次が続かない。実際、過去2回やってみて、一人当たりコーヒー代込みで500円を徴収しないと赤字になることがわかったから、今回はちょっと値上げして参加費500円にしてみた(高いよ、という人が一人もいなかったので安心)。

そして、利益の源泉は、多くの人に来てもらうということに尽きるし(客単価を上げるという方法もあるが、これはイベントの性質上なかなか難しい)、多くの人に来てもらうことはイベントの趣旨に適う場合も多い。例えば、「珈琲を飲む会」は笠沙美術館からの素晴らしい眺めを知ってもらうということが目的の一つであるが、こういう目的だったらお客さんは多ければ多いほどいいわけだ。

でもだからと言って、見境なくお客さんを呼んでしまうと、誰にとってもよい結果にならない。

今回の体制での、会場キャパシティは1日で230人(うち子どもが1割程度)くらいだったろう。それ以上にお客さんが来てしまうと、コーヒー1杯お渡しするのにも随分お待たせする感じになってしまったのではないかと思う。今回の実際のお客さんの数は約180人だったので、そのキャパを考えるとまだまだ余裕があったが、もしネットでバズって(非常に拡散して)その倍の人が来てしまっていたらイベントが崩壊したはずである。

そもそもコーヒーは、ゆったりした気持ちで飲みたいものだ。出来るなら、座り心地のよいイスも欲しい。心地よい音楽、気の置けない仲間、暑くもなく寒くもない気候、そして見晴らしのよい景色! このイベントは、残念ながら「座り心地のよいイス」だけはないが、その他は大体揃えられる環境で、一緒にゆったりコーヒーを飲もうというものなのに、大勢の人でごった返してしまっては、その意味がなくなってしまう。

じゃあもっと体制を充実させればいいじゃん、と思うかもしれないが、コーヒーの供給能力を高めることは出来ても、会場の広さは同じなわけで、大勢のお客さんが来すぎるとゆっくりできないというのは変わらないと思う。だから「イベントがもっと盛り上がるといいなー」とは今でも思っているが、それは大勢の人が来るというよりは、質的なもの(というより「意味的なもの」)を高めるという方向性だ。

「イベントを育てる」というのは、最初に打ち立てる頃は、とにかく集客力を高めることに違いない。たくさんのお客さんに来てもらえるように、コンテンツを充実させて、広報を頑張る。これはこれでやりがいのあることだし、また難しいことである。「海の見える美術館で珈琲を飲む会」はまだこの段階だ。今年も、いろいろな要因はあったが、結局は自分たちの広報不足で、午前中はだいぶお客さんが少ない時間帯があった。

でもその段階を超えると、お客さんは多ければ多いほどいい、ということはなくなって、そのイベントが本領発揮するだけの人数が集まればいい、ということになってくる。そしてこの段階になると、そもそも「人数」そのものではなくて、「ちゃんと来るべき人が来たか」というようなことの方が重要になってくる(はずだ)。

広報は、闇雲に拡散させるよりも、「こんな人に来て欲しい」という人にこそ届くものにしなくてはならない。もっと大げさなことをいうと、「あなたの人生において、ここに来ることが必要である」というような人に届けたいと思うのである。

先日、マルヤガーデンズで「田舎工学序説」と銘打った講演会を行ったが、そこに非常に意外な人が来て下さっていて驚いた。その人とは、12年ぶりの再会だった。私の講演が、その人にとって必要なものだったとは全然思わないけれども、(ここには書けない事情から)その再会は必要なものだった。いや私にとっても、あの再会のために講演会があったのかもしれない、と思ってしまうような出来事だった。こういう「届き方」があるから、広報というのは侮れない。

そして、時にこういう再会があるものだから、一度打ち立てた「場」というのは、簡単に変えていかない方がいいのかもしれない。同じメンツが一年に一度再会して、同じイベントをする、というのも、一見マンネリに見えるが、そういうやり方でしか提供できない価値もある。でも一方で、メンバーが固定化することは閉鎖的なムードをも産む。やはり開かれた場でないと、内容的な充実は望めない部分があるのでそのあたりのバランスが難しい。基本的にはオープンにしつつ、変わらない何かを持ち続ける、というのが理想のあり方なんだろう。

というわけで、くだくだしく書いてきたけれども、「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を、もっとステキな場にしていきたいと思っている。今のところ、そのアイデアは全然ないが、来年やるときも、あんまりこれまでと変わらない感じで、でも何か新しいものをちょっとだけ付け加えて。広報は、(今回はちょっとやらなさすぎたので)2倍くらいに強化して、でもやたらめったら声を大きくするんじゃなく、届けるべき人に届くように。来てくれた人が、ゆっくり景色とコーヒーを楽しめるように。

このイベントは、究極的には「自分が楽しいからやりたい」というエゴでやっている。そういう自分勝手なエゴが中心にあることを自分でも忘れないようにして、自分なりのやり方で「イベントを育てて」いきたい。

2016年11月3日木曜日

「石蔵古本市」でぜひ「入り口の本」を。

新刊書店は大きければ大きいほどよいが、古本屋の場合はそうとは限らない。

最近では、本を買うだけならAmazonで事足りるようになったから、目的の本が決まっているなら、書店に足を運ぶ必要もない。書店に行くのは、本を買うということよりも、どんな本が並んでいるのかを見たり、店頭の本をペラペラめくったり、本の匂いを嗅いだりするためになってきた。要するに、特定の本を買うためではなくて、何かいい本ないかな、と思っていくのがリアルの書店である。

Amazonでもそういう機能は充実してきて、オススメ機能はそれなりにいい本を教えてくれるし、立ち読み機能も有り難い。でも、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」的なオススメのやり方では、自分の興味分野を深めていくことはできても、全く新しい分野への扉を開くということは難しい。

これまで読んだことのなかった分野の本を手に取ってみる、それには、古本屋に行くのが一番だ。

というのは、古本屋は、新刊書店のような本の並べ方をしていない。ブックオフのような店の棚は新刊書店と大同小異だけれども、普通の古本屋はあんなに律儀に分類していない。

味のある古本屋はまず棚の作り方がいい。目的の本を探すためではなく、本そのものが魅力的に見えるように並べてある。雑然とではなく、有機的に、本が配列されている。

ジャンル毎の分類というのはもちろんある。全くのカオスだったら、眺める方も疲れる。だが、歴史の本の隣に文学があったり、人類学の本の隣に素粒子の本があったりする。興味のある分野を眺めながら、同時にこれまで関心がなかった分野の本も目に入ってくる仕掛けになっているわけだ。

私は好奇心旺盛な方だと思うが、やっぱり新刊書店に行ったら、自分の関心ある分野の棚にしか行かない。だから、新たな分野への触手、というのはなかなか伸ばしにくい。でも、古本屋に行ったら、特にそれが小さい古本屋の場合は、端から端まで全ての棚に目を通すようにしている。だって、自分の関心ある本がどこに置かれているかわからないからだ。それで結果的に、これまで手に取る機会のなかった本にまで、触れる機会を持つ。こうして、新たな沃野へ踏み出したことが、これまで何度あっただろう。

東京の自由が丘に東京書房という小さな古本屋があって、東京に住んでいた頃、大学も近かったのでよく足を運んだ。ここがまさにそういうお店で、ほんの6畳もないような店なのに、行くたびに新たな発見があるようなところだった。今考えてみて、ここで出会った一番思い出の本というと、デズモンド・モリス著『人間動物園』だ。

この本をきっかけにして、私は人類進化と心理のあり方に興味を持ち、スティーブン・ピンカーE. O. ウィルソンジョン・メイナード=スミスジェフリー・ミラー日高敏隆、マーク・ハウザーといった社会生物学・進化心理学の諸作を読み漁ることになる。こうした読書体験があったのも、その入り口となる『人間動物園』があったからで、もしこの本と出会わなかったら、この分野に興味を持つことがあったかどうだか分からない。

こういう、「入り口の本」というのが読書人生にはとても重要で、時々「日本文学しか読みません」とか、「推理小説ばっかり読んでます」とかいう人がいるが、そういう人もその分野に強烈なこだわりがあるというよりも、単に他の分野への「入り口の本」に出会っていないだけだったりするのである。

でも「入り口の本」を買うのは、ちょっと勇気がいる。今まで手にとったことのなかった分野、著者、出版社。肌に合うか分からない。読み通せないかもしれない。頑張って読んでも、結局つまらないこともある。そんなリスクがあるものに、1000円も2000円も使いたくないのが人情だ。

だから、古本屋がなおさらいいわけだ。結果的につまらなくても、300円とか500円だったら許せる。気軽に、未知の分野に踏み出せるというものである。

つまり、私にとって古本屋は、ただ安く本が買える場所ではなくて、未知のものに出会うための場所なのである。

というわけで、だいぶ前置きが長くなったが、そういう私がこのたび古本市を企画した。リニューアルしてステキな空間に生まれ変わった丁子屋石蔵(登録有形文化財)をお借りして、鹿児島の古書店5軒に集まってもらい、12月に4日間だけ古本市を開催する。

出張販売だからなおさら棚数は限られる。隅から隅まで棚の本を眺めて欲しい。お気に入りの作家の本を探すのももちろん結構。でもその中で、あなたにとっての「入り口の本」との出会いがあれば、企画者冥利に尽きるというものである。

出版物販売額の実態2016』(日販)によれば、南さつま市の一人あたりの年間出版購入額は5,362円。全国平均は14,260円で、鹿児島県平均は11,136円だそうである(いずれも推計)。つまり南さつま市の人は、全国平均と比べたら1/3しか本を買っていないし、鹿児島県平均と比べてもたったの1/2程度(!)なのだ。

南さつまの将来を考えてみると、これはとても不安な傾向と言わざるをえない。本をことさら素晴らしいものという気はないが、本を通じてしか得られないものは多い。南さつまはタダでさえ僻地で遅れたところなのに、本すら読まないのでは時代に取り残されてしまうのではないか。

でも南さつまの人が、本に関心がないというわけではないと思う。書店の少なさ、図書館の貧弱さ、そうしたものが「入り口の本」との出会いを減らしているだけではないだろうか? 南さつまの人だって、本と出会いたがっているのではないだろうか?

私はそう思っている。だから、古本市の企画に意味があるんじゃないかと考えた。こんなの、本好きの酔狂な道楽なのかもしれない。でも、来てくれた人がたった一人でも、「入り口の本」と出会ったら、すごいことだと思う。その人の人生が変わってしまうかもしれないのだから。

「読書は私たちにまだ見ぬ友人を連れてくる」——バルザック

その友人は、「新しい自分」かもしれないのだ。

【情報】
「石蔵古本市—万世*丁子屋石蔵」
日時:12月9日(金)-12日(月)10:00-17:00(初日13:00〜、最終日〜15:00)
場所 :南さつま市加世田万世 丁子屋石蔵
参加古書店:あづさ書店 西駅店泡沫(うたかた)古書リゼット(レトロフト内)特価書店つばめ文庫
協力:南さつま市立図書館(12月11日(日)11:00より、会場にて除籍本の無料配布を開催) 
主催:南薩の田舎暮らし
Facebookイベントページでも順次案内を差し上げる予定です。