2014年8月29日金曜日

「柑」の誕生——柑橘の世界史(3)

既にたびたび書いてきたように、柑橘類というものは元々は甘くなかった。アッサム地方に発祥し、中国大陸へと渡ってきた柑橘類は、酸っぱいオレンジ(サワーオレンジ)たちであり、食用ではなく薬用または香り付けのためのものだった。

今あるような、甘いミカンやオレンジ(スウィートオレンジ)がいつどうやって誕生したのかはよくわかっていない。おそらく、酸っぱいミカン(ダイダイのようなもの)と文旦類の自然交雑か突然変異によって生まれたと考えられており、少なくともそれは紀元前450年より前のことだった。というのも、これも既に書いたが湖南省にある紀元前450年と推定されるお墓から、スウィートオレンジのものとみられる種が発見されているのである。

しかし、この甘くて美味しい新品種は、意外なことになかなか中国大陸に広まっていかなかった。その理由を理解するには、少しだけ柑橘類の性質について理解する必要がある。

柑橘類というのは遺伝的に非常に多様であって、形質が安定していない。例えば、ミカンを食べた時にその種を取っておいて、それを庭に植えたら同じようなミカンが穫れるかというと、普通は穫れない。元のミカンよりも酸っぱかったり、小さかったり、あるいは全然別のミカンになってしまうこともある。どうしてこうなるかというと、現在我々が利用している柑橘類は、様々な系統の柑橘を交雑し、交雑に交雑を重ねて作られたものだからである。

形質が安定していないことは、変化が大きいということだから、新品種を生みだす可能性もまた大きい。近年になって柑橘類は訳が分からなくなるほど新品種が開発・導入されているが、これは柑橘の巨大な多様性のお陰なのである。

それは古代中国においてもさほど変わらなかった。できたばかりのスウィートオレンジは遺伝的に安定せず、増やそうと思っても種からは増やせなかった。たくさんの種を取って、その中の一つから育てた木で甘い柑橘が穫れる、というような具合だっただろう。そのため、スウィートオレンジが長江流域に広がっていくには数世紀の時間を要した。

しかしその数世紀の間に、この新品種は膨大な数の交雑を経験したに違いない。そして生まれたたくさんのスウィートオレンジたちが、より美味しいものを求める人びとの手によって選抜されていった。それは意図せざる品種改良の数世紀だったのである。

ところで、そのような変異が大きい柑橘の木を元の形質を保ったまま増やしていくために、現代では「接ぎ木」という技術が使われる。接ぎ木というのは、別の植物の根っこ(台木)に、増やしたい植物の枝をくっつけて、一種のキメラ植物を作る技術である。植物には動物のような免疫機構がないので、別の植物にくっつけるという生体移植が容易に行えるのである。ちなみに、柑橘の台木にはカラタチ(枳)が使われることが多く、ほとんどの柑橘はカラタチの根を持っていることになる。

私たちが食べている普通の柑橘というのは、全てがこの接ぎ木によって増やされたものである。接ぎ木というのは一種のクローンだから、ある品種のミカンの木は全て、ある一本の木からコピーされたクローンというわけだ。

この「接ぎ木」、どうやら中国でもかなり古くから知られていたらしい。といってもいつから接ぎ木がなされていたのかは不明である。6世紀の記録に既に接ぎ木があるというから、少なくとも6世紀にはこの技術は一般化していたようだ。さらに推測すれば、中国古典において「橘」と「枳」が対応するものとして述べられていることを思い出すと、おそらくカラタチ台木を使った接ぎ木の技術は紀元前を遡るかもしれない。中国は、世界で最も古く接ぎ木の技術が発見された地域であろう。

この接ぎ木の技術が一般化することで、美味しい柑橘をならす木を効率的に増やすことができるようになった。それで、品種改良のスピードもアップし、生産量も拡大したに違いない。

さらにもう一つ、柑橘生産に役立つ栽培技術が紀元前後の中国で開発されている。それはいわゆるシトラス・アント(柑橘蟻)の利用である。私も小規模ながら柑橘を無農薬栽培しているが、柑橘の木というのは害虫にとても弱い。特に苗木の時は、農薬なしで育てるのは非常に難しいと思う。古代の柑橘はこれほど弱くなくても、農薬などない時代、やはり他の植物よりも育てるのが難しかったろう。

そのため、中国人はシトラス・アントという特殊な蟻を利用することを考えついた。これはツムギアリであると考えられているが、この蟻をあえて柑橘の木に棲みつかせることで、他の害虫を予防したのである。西暦304年に著された『南方草木状』には既にこの蟻が袋に詰められて柑橘栽培者へ向けて販売されていることが述べられており、これは世界で最も古い生物的防除の技術かもしれない。この技術は、それから1700年以上もの間、中国大陸において柑橘の害虫防除のために使われている。

こうした技術のお陰で、偶然によって生まれたスウィートオレンジは様々に品種改良され、また安定的に生産できるようになっていった。紀元後の数世紀で、中国大陸に世界最古の柑橘産業(citriculture)が成立するのである。そして、この新参者の甘いオレンジの一群を総称するものとして、中国人は「柑(かん)」——甘い木——という字を作り、与えたのであった。

【参考文献】
『Odessy of the Orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper
『ダニによるダニ退治: カナダからアメリカへ』2001年、森樊須

2014年8月28日木曜日

米作りにバーチャルでも参画してもらえる妙案はありませんか?

こちらに来てから3回目の米作りが終わって、なんだか、稲という植物がどういう風に生長していくかがなんとなく分かってきた。

作ったお米はどうしていたかというと、自家消費と余った分を農協に出荷する以外はごく限られた人にしか販売していなかった(そもそも売り先もない)。米作りはあくまで「田舎モノの嗜み」としてやっているだけで商売にするつもりはなかったし、水田を広げていくつもりは今でもない。

でも同じ手間をかけるなら、ただ嗜みとして作るだけでなく、もう少し楽しく作りたい気持ちがある。それに自家消費としての米作りは赤字で、どこかから買った方が安上がりだ。せっかく無農薬・無化学肥料で作っているのでJAに出荷するのももったいない。

そこで少し考えたのだが、来年は田んぼオーナー制みたいなのをやってみたいと思う。といっても、いわゆる田んぼオーナー制は、一区画のオーナーとなり、農作業に従事し、収穫は全てもらい受ける(オーナーだから当たり前)というものだが、この南薩の僻地に田植えや収穫に来ていただくのは大変だし、こちらの対応も難しいので、それはできない。

できそうなのは、日々の作業を事細かに記録して、ニューズレター風に報告することくらいだろう。でもそういうのが、実はこれまでの田んぼオーナー制では十分でなかった部分だと思う。「順調に育っています!」とか「稲穂が色づいてきました」とかいう情報発信はあっても、畦草払いをどれくらいしているのかとか、植え付け前の田起こしや代掻きの様子から情報発信するというのはなかなかないのではないか。

というか、こういう地味な作業を行う時にいちいち写真を撮って報告するというのはものすごく手間だから、やろうと思っても難しいのが実際だ。でもだからこそ、そういう情報をマメに提供するのは意味があるかもしれない。

だが、日々の具体的な作業がわかっても、別にお米の味が変わるわけではないので、ただ栽培記録が届くだけだとものたりない感じがする。それは定植前に予約受付を行うお米の予約販売にすぎないような気もする。オーナーではないにしても、どこかで「自分のためのお米」が育てられている感じがないと、栽培記録はただの水稲栽培のお勉強になってしまう。つまり、人と田んぼの接点が情報以外で何もないなら、それは単にものすごく詳細な栽培記録つきのお米を販売することと変わらない。

だからこそ田んぼオーナー制では、ただ田んぼを所有するだけでなく、田植えや収穫作業を手伝うというのが基本形になっているのだろう。でも私の場合は、そうした対応をするのは難しいし、そもそも田んぼを本格的にやっているわけでもないので仮に対応できたとしても違和感がある。

私が田んぼでやれたらいいなあと思うのは、「田舎から届くお米」みたいなものを田舎を持たない人に提供する活動である。それを単純化すると、個人向け契約栽培米ということになるが、契約栽培ということより、もう少しコミュニケーション(双方向性)が欲しい。うーん。

と、くだくだしく書いてきたが、要は私の米づくりに、バーチャルでいいから誰か参画してもらえたら楽しい(あと売り先もできる)ということなのである。それを実現する妙案が思い浮かばないので、もしグッドアイデアをお持ちの方はコッソリ教えていただければ幸いです。

2014年8月13日水曜日

大浦まつりが開催されます

2014年10月19日、大浦まつりが開催される。

大浦まつりは、各地区で行われていたお祭りを糾合して町内全体のお祭りとして始まったもので、今年で第6回目になる。一応、自称(?)「大浦地域最大のイベント」である。

内容は結構盛りだくさんで、ステージもあるし、屋台的なものもあるし、イベント的なものもある。会場は違うがスポーツ大会も行われ、体育館では展示もある。そしてなんと、今回は特別展示として、先日開催されて大きな話題を呼んだ「南薩鉄道100年企画展」の展示が大浦まつりに巡回することにもなった(はず)。

私も今年は実行委員の末席を汚していて、なんだかよくわからないまま実行委員会に出ているのだが、ちょっと驚いたことがある。それは、このお祭りの予算のほぼ1/3が市役所からの補助金で成り立っていることだ。ほか農協や商工会、観光協会の補助金と合わせて、こういう(半)公共機関からの補助金が予算の半分を占める。事務局を役場が担っているのは、まあ田舎ではよくあることと思うが、予算の半分が補助金というのは、継続性が心配である。

お祭りというのは蕩尽の機会であるからもとより赤字なのは当たり前だが、だからこそ、寄附によって地域の人達が支えなければ成立しない。だいたいこういう地域のお祭りでは、金参万円○○、金壱万円○○、と長々しい寄付者リストが掲示されているものだ。一方で、大浦のひどい過疎化を考えると、商工会の努力も厳しくなってくるだろうし、一戸あたりいくら…という形で集めている現在の寄附募集の方法だと限界があるのも明らかである(寄附の集め方は集落によって違うようだが)。
 
私は、南薩地域の大きな強みは都会に出て行った人の割合が非常に大きい、ということだと思うので、こういう時こそ、大浦をふるさととする多くの方々の助力が願えないかと思う。昨年も、関東・関西在住の町出身者から合わせて10万円の寄附があったそうである。少し他力本願な気もするが、ここの割合を増やしていくことはできないものか。

もちろん、ただ「お金を出してください」というのではつまらないから、例えば大浦まつりに合わせて同窓会を開催することに協力するとか(例えば、会場に近い遊浜館の協力を得て同窓会の会場を斡旋)して、同日の同窓会開催を応援してはどうか。日程的に近い大浦小学校の運動会で還暦同窓会が行われる手はずになっているということだから少し重複感はあるが、せっかく同窓会で集まるなら、町内のいろんな人が顔を出す機会に開催したいという需要はあるように思う。同日で同窓会が行われれば、「○○年卒一同」で寄附が期待できるだろう。

それはともかくとして、このたび大浦まつりへの支援・協力をお願いする「趣意書」が配布されたのでここにお知らせする次第である。でもこの趣意書は寄付依頼そのものではないので、寄附の振込先などは書いていない。万が一大浦まつりを支援したい! という方がいらっしゃれば、南さつま市役所大浦支所(0993-62-2111)へご連絡をよろしくお願いします。

2014年8月11日月曜日

中国古典に見る柑橘——柑橘の世界史(2)

屈原(横山大観作)
中国大陸では古くから柑橘が利用されていたようだが、どのように扱われていたのだろうか。中国古典における柑橘の記述を探ってそれを確認してみたい。

その嚆矢は『書経』である。『書経』は伝説的古代を語る中国で最初の歴史書であり、成立年代ははっきりしていないが、紀元前7世紀あたりから徐々にまとめられ、紀元前4世紀ほどには成立したと見られている。柑橘の記載があるのは、中国の初代王朝である「夏」の歴史を述べる部分で、「禹貢」という章である。

「禹(う)」は夏の聖王であり、黄河と長江に挟まれた広い領域の土木事業・治水事業を行い、後世の模範となる善政を敷いたとされている。「禹貢」は、禹が各地を平定し、それぞれの地域ごとに貢ぎ物(税金のように定例的に上納するもの)を定めるという構成の章である。

柑橘が述べられるのはこの章の「揚州」の項。揚州とは、長江流域の地域を指し、ここからの貢ぎ物として「金、銀、銅、瑤(よう)、象牙、孟宗竹、木材」などなどを禹は指定している。そしてその貢ぎ物に付随するものとして「橘と柚(ゆず)」を挙げている(※)。ここでいう「橘」は柑橘の総称であり、「柚」はユズのことと解されている。

「禹貢」全体を通じてみても、貢ぎ物は各地の特産品、それも特に貴重なものが指定されているから、古代中国において「橘と柚」はかなり貴重・珍重なものだったことがわかる。ではそれはどのように利用されていたのだろうか。今の我々と同じように、古代中国の人びともミカンを食べていたのだろうか?

実は、歴史の黎明の頃、まだ橘や柚は食べるものではなかったようだ。それを示唆するのが『楚辞』の記述である。『楚辞』は文字通り「楚の言葉」の意で、紀元前3世紀ごろにまとめられた楚の詩集。「楚」は長江流域にあった国家の名で、地図的には先ほどの「揚州」と重なる。

『楚辞』の主要作品の作者である屈原は「橘頌(きっしょう)」という詩を詠んでいて、「九章」という連作詩の一編をなしている。これはまず間違いなく柑橘をテーマにした最古の詩であろう。 「橘頌」はこういう風に始まる。
后皇の嘉樹、
橘徠(きた)り服す。
命を受けて遷らず、
南国に生ず。
深固にして徙(うつ)し難く、
更に志を壱にす。…

皇天后土の生んだよい樹、
橘はここに来て風土に適応し、
天の命を受けて他国に遷らず、
南国楚に生ずる。
根は深くて移植しがたく、
その上その志は一途で二心がない。…(星川 清孝訳)
こういう調子で、「橘頌」は橘の美点(見た目が美しいとか)を次々と挙げ、自分もそのように清廉潔白で志が高くありたいと理想的人格を投影している。

少し話が脱線するようだが、この機会に屈原について語っておこう。屈原は楚の王家に生まれ、博覧強記で政治能力が高く王の寵愛を受けながら、そのために妬まれ讒言を受けて左遷され、自分の諫言が受け入れられないことを嘆いて楚の将来を悲観し、ついには入水自殺した人物である。「九章」は、王から遠ざけられて悲憤慷慨し、また憂愁の情を抱きながら、それでも自分は清廉に生きていこうとする内容の連作詩であり、極めて叙情的であるとともに神話伝説などをも織り込み、天上世界にまで到達するというロマン的な筋書きを持っていて、ダンテの『神曲』を彷彿とさせる

この一遍として「橘頌」はある。ただ橘が美しいので自分もそうありたい、というだけのことではなく、讒言を受けても左遷されても結局楚を離れなかった屈原の、決して他国に移植することのできない橘のように自分も楚で生きていくのだ、という強い決意を表明したものなのであろう。

そして問題なのは、屈原が掲げる数々の橘の美点である。緑の葉に白い花がまじって可愛らしいとかいろいろ橘を褒めるのだが、一言も「美味しい」とは褒めないのである。橘が食べるものであったとしたら、これは甚だ不自然なことであり、おそらく屈原は橘を食べたことがなかった。柑橘をテーマにした世界初の詩を編むくらいであるから橘を愛でることにかけては激しかったはずの屈原すら美味しいとは褒めないわけで、ここに詠われている橘が食用でなかったことは確実である。

おそらく、古代中国において、橘は主に観賞用や香料、そしておそらくは薬として使われていた。このころの橘は、概して酸っぱいものであり、 食用に適したものではなかったようである。しかし不思議なのは、湖南省の、紀元前450年のものと推定されているお墓からスイートオレンジの種が見つかっていることである。つまり、古代中国においても既に甘い柑橘は存在していた。だがその栽培が難しかったのか、あるいは増やすのが難しかったのか、この甘い柑橘が広まっていくには暫く時間を要した。

また、「橘頌」でも「橘はここに来て風土に適応し」と述べられているように、古代中国においてはまだ橘は外来のものと認識されていたようだ。私は柑橘の伝来は稲作と同じくらい古いのではないかと想像するものだが、少なくとも屈原の愛した橘は、古代において「かつてはそこになかったもの」であった。その時代に品種改良された新しい「橘」だったのだろうか?

最後に『晏子春秋』の記載も紹介しよう。これは戦国時代の斉において宰相を務めた晏子の言行録であるが、そこに「南橘北枳」のエピソードが出てくる(内篇雑下第六第十章)。晏子の言として「橘は淮南で生ずれば橘となり、淮北で生ずれば枳になる」という。これは、淮南(淮河の南)と淮北で気候風土が異なることを述べる言葉なのだが、既にこの頃カラタチ(枳)が知られ、橘に対応するものであると考えられていたのが面白い。

そして、『晏子春秋』には、楚王が晏子を饗応するのに橘を勧める場面も出てくる。やはり食べられる橘の品種もあったことはあったらしい(楚王はことある毎に晏子に嫌がらせをするので、嫌がらせの一環だった可能性もあるがこの場面では違うと思う)。王様が勧めるくらいだから、相当に珍重なものだったのは確かだろう。

これらの中国古典から考えると、古くから長江流域(古くは揚州、後に楚国となった地域)には橘や柚が産したが、それらは当時としては外来のもので、また甘い品種は極めて限定的で多くの品種は食用ではなかったようである(というか、橘が甘いという記載は古典には見当たらない)。しかし、アッサムから長江へと渡ってきた柑橘は、中国大陸で徐々に美味しい果物へと変化していく。おそらく、屈原や晏子が生きた戦国時代が、柑橘が甘いものとなっていくターニングポイントだったのではないだろうか。

【参考資料】
『中国古典文学大系 書経・易経(抄)』1972年、赤塚 忠
『楚辞』1980年、星川 清孝
『Odessy of the Orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper

※ 原文「厥包橘柚、錫貢」。「錫貢」の意味は完全に確定していないが、「王命を受けてから持参する」の意とされている。貢ぎ物のように定期的に上納するのではなくて、特に指示があった時に納めるもののようである。

※冒頭画像はこちらのサイトからお借りしました。

2014年8月10日日曜日

インドからの東漸——柑橘の世界史(1)

アッサム州の位置
柑橘類というのは、大変にバラエティに富んでいる。ミカン、オレンジ、レモン、文旦、グレープフルーツ、スダチ、ダイダイ…。おそらく世界には数千種類の品種があると思われる。これらのほとんどは人為的な品種改良によって生みだされたものだが、その元となった野生種はどこから来たのだろうか。

オレンジやレモンのイメージがアメリカの柑橘産業と結びついていることもあって、柑橘の原産地は西欧のどこかだと思われがちだ。しかし柑橘の世界史はインドから始まる。インドと言っても、ヒマラヤの麓、ブータンの近くのアッサムあたりである。東へ少しいけばミャンマーがあり、北へ行けば中国に至る、そんな場所である。

このアッサムの山地に柑橘の原種はあった。といっても、柑橘類全ての母となる特定の植物がアッサムで見つかったわけではない。このあたりには驚くほど多様性に富んだ野生の柑橘が産していて、世界中のどんな柑橘でも、ここで似た野生種を探すことができる。そのため、おそらくこのあたりが柑橘のふるさとであったのだろうと推測されているのである。

であるから、インド文明は相当に古くから柑橘を知っていたはずである。しかしながら、古代インド人たちは、柑橘を積極的に利用しなかったようだ。紀元前800年ほどに成立したヴェーダ(バラモン教の聖典)の一種Vajasineyi Samhitaに柑橘の記載があるというが、多くの文献で出てくるわけでもないし、柑橘が宗教儀礼にも用いられた形跡がない。

さらに時代を下って仏典を見てみる。仏典では、様々な植物が言及されているが、ここでも柑橘の記載はほとんどない。唯一、ナガエミカン(wood apple)が知られているだけである(※1)。時代が更に下って仏教が東漸してゆくと、それに伴ってシトロンの一種である仏手柑が寺院に植えられるようになるようだが、これは古くからの風習が伝播していったというより、仏教が形骸化・形式化していく中で、仏手柑の象徴性が珍重されたものと思われる。

つまり、インドの人びとは古くから柑橘を知りながら、これをさほど重視しなかった。ではどのような果物を重んじたかというと、バナナやマンゴーといった甘味の強い熱帯性のものであった。そもそも、インド亜大陸の熱帯の気候と柑橘の相性はよくない。柑橘は、年間を通して適切な降雨が必要であり、雨季と乾季が明確に分かれているような気候の下では栽培が難しい。おそらく、古代インド人が柑橘を重んじなかったのは、インドの多くの地域で栽培が困難であり、またこれよりも美味しい熱帯の果物に恵まれていたからに違いない。

だが、アッサムで細々と利用されるに過ぎなかった柑橘も、ずっとそこへ留まっていなかった。稲作が東漸してやがて日本へも伝わったように、東南アジアへ、そして中国へとかなり早い段階から広まっていくのである。憶測に過ぎないが、おそらくこの伝播は稲作と同じくらい歴史が古い

柑橘をアッサムから東南アジアへ、そして中国へと伝えた人びとは、後に彝族(イ族)、と呼ばれる民族であると考えられている。現在では南東チベット、雲南省、四川省などに居住している中国の少数民族である。とはいえ、歴史以前のことであるため、彝族が柑橘栽培の伝道者だったのかどうかは正確には分からない。しかしアッサム地域が、山地に大きな川が流れる温暖湿潤な稲作地域であることを考えると、彝族のような稲作農耕民が稲作と共に柑橘の栽培も各地へ伝えていったことは確かなことと思う(※)。

今でこそ北海道でも稲作ができるようになったが、それはごく最近の現象であり、稲作は南方の農業であった。特に、亜熱帯の長粒種による稲作はそうである。柑橘も霜を嫌い、温暖湿潤な気候を好む植物であるから、栽培に好適な地域は稲作地域とほとんど重なっていたはずだ。逆に、乾燥地・寒冷地の農業の中心は麦作になるが、インドの南の方や中国大陸の北の方など、麦作地域には柑橘栽培は伝播していかなかった。

これは柑橘や稲作だけでなく農耕全てに通じる伝播の一般則だが、農耕というものは南北には伝わらず、気候が似た東西に伝わっていくものである。インドのアッサムに始まった柑橘はまずは東へ進み、東南アジアを通って中国の南部、雲南省や四川省へと広がっていくのである。

【参考文献】
『栽培植物と農耕の起源』1966年、中尾佐助
『Odessy of the orange in China: Natural HIstory of the Citrus Fruits in China』1989年、William C. Cooper
『仏典の中の樹木—その性質と意義(2)』1973年、満久崇麿
『ヒマラヤ地帯と柑橘の発現』1959年、田中長三郎
The Exotic History of Citrus』2012年、Patrick Hunt

※1 参考資料『仏典の中の樹木』では、ナガエミカンの他にベルノキ(アップル・マンゴー)もミカン科とされているが、これは近縁種だけれども正確にはミカン科でないから除外。
※2 稲作の起源は中国南部とされているが、イネ自体はインドが原産であると考えられている。イネも古くからインドに産しながら積極的利用がされず、東漸して中国に至って栽培が確立したのである。

2014年8月6日水曜日

柑橘の世界史序説

私は「一応」農業を営んでいるのだが、それ以外にもいろいろと(お金にはならない)アレコレをやっているので、時々「何を作っているの?」と農家なのかどうか訝しがられる時がある。

私がメインにしたいと思っているのは果樹、それも柑橘類で、今現在、ぽんかん、たんかん、しらぬい、ブラッドオレンジ(苗木)、ベルガモット(苗木)、ライム(苗木)、グレープフルーツ(苗木)などなどあわせて約60〜70aを栽培中である。

そんなわけで、柑橘類の来し方行く末にはひとかたならぬ興味がある。特に心が惹かれるのは歴史の方だ。 今では世界中で生産され、果物としてはおそらく世界最大の生産量を誇る柑橘類が、いかにして伝播し、品種改良され、消費され、人類の歴史と文化に影響を及ぼしてきたかということを、直接には農業と関係なくとも、深く知りたいと思う。柑橘類の濫觴からこうしたことを説き起こせば、きっと「柑橘の世界史」が出来るに違いない。

それに関して、今年に入って最近刊行された2冊の本を読んだ。まずはピエール・ラスロー著『柑橘の文化誌』。そしてトビー・ゾネマン著『Lemon: A Global History』。『柑橘の文化誌』の方は副題が「歴史と人とのかかわり」とあり、それなりに歴史の話も出てくるが、体系的な叙述というより著者の興味関心の赴くままに述べたという風で四方山話的である。『Lemon』はレモンを中心とする柑橘の歴史が端正にまとめられている良書だが、「世界史(Global History)」と銘打ちながら結局はヨーロッパとアメリカの話しか出てこないのが問題である。

だがそもそも柑橘の原産地はインドや中国なのだから、話は東洋から始まるはずである。2冊とも、話がヨーロッパとアメリカの近代史以外の部分が簡単に過ぎる。それに、これらの本を書いているのは柑橘の専門家というわけでもないし(ラスローさんは科学者で、ゾネマンさんはジャーナリスト)、柑橘類の栽培技術という点について等閑に付しているきらいがある。

そこで、浅学菲才の身ではあるが、東洋の話を織り込むことと、柑橘栽培の技術発達についても触れることにして、私なりの「柑橘の世界史」を書いてみたい。とはいっても、この2冊に書かれていることは大いに参考にさせてもらうし、特に16世紀以降についてはほとんど独自の知見を付け加えることはできないかもしれない。そして、このブログ上で簡潔にまとめるだけだから、柑橘の世界史の大まかなアウトラインをなぞるに過ぎない。それでも、こういうテーマで体系立った記述をすることは自分の勉強にもなるし、今後の柑橘産業を考える材料にもなるだろう。

これから徐々に書いていこうと思うので、気長におつきあい頂ければ幸いである。

【参考】これまでに書いた柑橘の歴史に関する記事
世界史から見るタンカンの来歴
なぜホテルの朝食にはオレンジジュースが出てくるのか?

2014年8月5日火曜日

狩集農園の「おうちで食べているお米」は手間かかってます

7月は、梅雨が明けてから雨が全く降らず憎らしいほどの晴天が続いていたのに、8月に入ってからは気の早い台風がきて、梅雨が舞い戻ったみたいな天気になった。

このあたりは早期水稲の産地なので、稲刈りは7月終わりから8月に行う。ちょうどこれから稲刈り、という時期にこの天候で、米農家は弱っているだろう。それに、大型で強い台風11号が不気味に北上してきつつある。稲穂が垂れた今、強い台風が来てしまうと稲が軒並み倒伏して、商品価値がガタ落ちするのは必定。天候の悪い中、急いで稲刈りをするわけにもいかず、出来ることは祈祷くらいしかない。

「南薩の田舎暮らし」で予約受付中の「狩集農園の「おうちで食べているお米」」も収穫前である。手間をかけて作られたお米だから、半ば他人事ながら心配しているところである。

なにしろ、狩集さんが作っている水田は、写真のように山間部にあって一枚あたりの面積が狭い。ということは、作業の効率も悪いし、何より畦(あぜ)が多い。畦が多いと畦の草払いをする時間と労力が大きい。南九州では、本州以北では考えられないほど雑草の勢いがもの凄いので、草払いはかなりコストを食う仕事である。単純に比べて、1枚の田んぼが1haもあるような平地と、こういう山間部での米作りでは、3倍くらい労力の差があると思う。

でも農協に出荷したら山間部だろうが平地と当然同じ条件で取引されるわけだから、これは勝ち目のない勝負である。というわけで、狩集さんは直販に力を入れていて、無農薬のお米を作っている。

無農薬、と一言でいうと、ただ薬を使わないだけ、という単純なことのようだが、意外に細かいところで手間がかかる。 例えば、苗を作る時には種子も消毒するし培土(苗箱に入れる土)も消毒する。これを消毒しないと、苗床に雑菌が入って苗が病気になってしまうことがあって省略することはできないらしい。

ではどうするかというと、まず種は薬剤を使わず温湯消毒を行う。これは、60℃くらいの大きなお風呂みたいなものに種を数分間漬ける方法である。簡単に言うと熱殺菌だ。だが漬けすぎると種自体がゆだってしまうので、タイミングを計るのが大事になるし、そもそも大きなお風呂みたいな設備を準備するのが大変だ。場所もとるしもちろんお金もかかる。薬剤で消毒するならタンクに薬剤を混ぜればすむが、大量の水の温度を一定の温度に保つにはそれなりの設備を要する。

次に培土の消毒だが、これも熱殺菌した土を使う。これは個人ではできないので、わざわざ熱殺菌した土を購入するわけだ。たかが箱苗の土ということで、1箱あたりの量は僅かだが、狩集さんの場合それを1000箱以上作るわけで、トン単位の土を購入している。さらに、箱苗に稲の種子(つまり籾です)を播く時には、有機栽培でも使える微生物農薬を用いている。無害な細菌を人為的に増殖させることで、雑菌の繁殖を抑えるのである。

早期水稲の場合、定植後の病気などはさほど心配しなくてもいいらしいが、問題なのは雑草の管理である。狩集さんは今年、ある機械によって除草を行うことで、直販分の水稲は完全に無農薬で作ったということだが、機械でやると言っても、除草剤を使うよりも手間も時間もかかる作業である。

こうして大変な手間を掛けて米作りをしているのは、広大な平地で効率的に作られている米と勝負しようと思ったら味で差別化する必要があるからだ。山間部の方の有利な点といえば清流しかないとも言えるわけで、これを活かして美味い米を作るために敢えて手間のかかる無農薬の米作りをしているのである。

水がきれいということは米作りにはすごく重要で、水の取り込み口付近の稲は常に元気がある、ということだけとってみても、きれいな水が豊富に供給されるということが健全な稲の育成に不可欠なのは明白だ。狩集農園の「おうちで食べているお米」は、磯間山麓の清流を使って作られた米である。

「南薩の田舎暮らし」ではこの新米5kgを2500円(+送料一律500円)で予約受付しているが、インターネットで調べるかぎり、無農薬のお米としてはかなり安い。ちなみに、狩集さんは郵便局の窓口を通じてもこのお米を販売していて、そちらでは送料込み2980円なので、1袋だけ買うなら郵便局の方がさらに少し安い。

この価格で販売しているのでうちの利益はほとんどない(どころか1袋だけの購入の場合にはちょっとだけ赤字になる)が、いつもお世話になっている狩集さんのブランド力を挙げていく勝手連的お手伝いをする意味もあって取り組んでいる。ともかく、美味しいのもお得なのも間違いないのでぜひよろしくお願いします。予約は8月10日まで。あと1週間ないのでお見逃しのなきよう(収穫時期の関係で延長する場合もあります)。

お申し込みはこちらから。

【参考】
しかも精米もすごく手間がかかっている。→ 狩集農園のこだわり精米機