2018年12月30日日曜日

挫折した歴史編纂——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その19)

久光が病床に伏していた明治20年11月、政府の調査団が島津家を訪れ、同家が保存していた大量の歴史資料の提出を求めた。

明治18年(1885年)から、政府は歴史編纂に用いる史料収集のため全国に人を出張させ、史料の探索と写本の作成を行っていた。調査団を率いたのは、かつて久光に見いだされ「皇朝世鑑」を編纂した重野安繹(やすつぐ)、そして鹿児島にやってきたのは、重野の片腕として修史事業を推進した久米邦武であった。

明治政府の修史事業は、明治2年の「修史の詔」(修史御沙汰書)に始まる。これは古代律令制国家によって編纂された「六国史」以降、国史が途絶していることを嘆き、国家として行うべき事業として国史編纂を復活させようとしたものである。これには、明治政府の正統性を歴史的に裏付けるという目論見もあっただろうし、古代の歴史編纂を引き継ぐという意味で復古政策の一環であるとも位置づけられる。

この修史事業は、まずは「史料編輯国史校正局」(1869年3月)、継いで「太政官正院歴史課」(1872年10月)、さらに「修史局」(明治8年(1875年))と担当部局が二転三転しながら推進された。修史局では、「六国史」以降の時代を編纂するにあたり、水戸藩の「大日本史」を正史に準ずるものとみなして、それに続く時期を歴史編纂の対象とした。

明治10年(1877年)、修史局はさらに改組され、折からの財政切り詰めの影響を受けて「修史館」と縮小された。縮小されたとはいえ50人ほどの官員を従えて修史館のトップに立ったのが重野安繹である。また、岩倉使節団の団員として欧米を巡覧し『欧米回覧実記』を刊行した佐賀藩出身の久米邦武もその編集能力を買われて修史館に迎えられ、やがて重野と久米、それから漢学者の星野恒(ひさし)の三人がこの事業を率いるようになっていく。

重野が久光の下で「皇朝世鑑」を編纂してから10年以上が経っていた。久光がたった一人で「六国史」を継ぐ『通俗国史』に取り組み始めたのとほぼ同時期に、重野は数多くの部下を従え、国家プロジェクトとして同趣旨の歴史編纂に携わっていたのである。

そして明治15年、重野安繹は日本の正史たるべき「大日本編年史」の執筆に着手する。当初重野らは、前述のとおり「大日本史」以降の歴史を対象としていたのであるが 、「大日本史」の記述に必ずしも信用できない点があることから、その対象を南北朝時代にまで遡らせ、全国から史料収集し考証を厳密に行った上で編纂に取り組もうとした。そのため、重野は調査団を組織し、全国に館員を派遣して調査を行った。この調査は、国家の権力を笠に着た半強制的なもので、短期間で厖大な史料を接収することとなった。

その一環として、島津家にも史料の提出依頼があったのである。しかし島津家ではこれに対して難色を示したらしい。久光も「大日本編年史」の事業については冷ややかに見ていた。そうでなければ、自ら『通俗国史』を編みはしなかっただろう。一部の文書の閲覧は叶ったようだが、調査中に久光が死去しそれどころでなくなったこともあり、結局島津家文書の調査は中断された。

島津家については国家の威光が通じなかったものの、修史館には全国から厖大な史料が集められ、歴史編纂の材料となった。こうして「大日本編年史」は、その手法に強引なところはあったとはいえ、古文書を中心とした一次史料に基づいた実証的な歴史記述という、近代史学の出発点となったのである。

ところでこうした事業が行われている間にも、担当部局の変転は続いた。修史館は明治19年(1886年)「内閣臨時修史局」と改められ、また明治21年(1888年)帝国大学に移管されて「臨時編年史編纂掛」、さらに明治24年(1891年)には「史誌編纂掛」と改称されている。これらの改組には、予算の縮減や人員の削減といった事情と共に、修史館の人材を帝国大学で活用し、国史科を設立するための準備といった側面もあったそうである。このような改組の結果、重野安繹らは帝国大学文科大学教授を兼任し歴史編纂にあたっていく。

ところがその編纂ははかばかしく進まなかった。全国から収集した史料を付き合わせてみると、これまでの歴史書の誤りが次々と見つかって来たからである。重野は修史に携わった当初は、漢文の大家として流麗な漢文で歴史書を編むことに意欲があったようだ。しかしやがて歴史の真実を明らかにすることに関心の重点が移っていく。「大日本編年史」の目的は、これまでの歴史書の誤謬を排し、正しい事実に基づく歴史書を編纂することに変化していった。

そうした重野の姿勢が世に知れ渡ったのが、いわゆる「抹殺論」として批判を受けた一件であった。重野は明治23年(1890年)5月の史学会において「児島高徳」と題してこの人物を考証の俎上に載せた。児島高徳(たかのり)とは『太平記』に出てくる南北朝時代の武将で、南朝後醍醐天皇のために奮戦した人物とされている。今でこそあまり注目されない人物であるが、戦前は忠臣の代表として道徳的模範、国民的英雄と目されていた。

特に、後醍醐天皇奪還に失敗し院庄(いんのしょう)の仮寓居に密かに赴いた高徳が、桜の木の表面を削って「天、勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」という漢詩をサラサラと書き付けたというエピソードはよく知られていた。これは、「天は越王勾践を見捨てず、范蠡のような忠臣が現れたように、必ずや帝を助ける忠臣が現れることでしょう」と天皇を勇気づけたもので、忠君を鼓舞する説話となっていた。

ところが重野は、これら『太平記』の高徳関係の記事9つを詳細に検討し、児島高徳に関する記録が『太平記』以外になく、他の資料で裏付けられないことから、それらを作者の創作と断じ、児島高徳自体が実在の人物ではないと結論づけた。これが「児島高徳抹殺論」(「抹殺論」)である。重野はこの他、楠木正成・正行(まさつら)親子が湊川合戦に赴くにあたって桜井駅で死を覚悟して別れを交わしたという、いわゆる「桜井の別れ」も史実かどうか疑わしいとするなど、さまざまな伝説を歴史的事実でないと発表したのである。

これに反応したのが国家主義者や新聞などのメディアであった。重野は国民道徳、忠君の精神を毀損すると見なされ、児島高徳を歴史から抹殺したことから新聞などで嘲笑的に「抹殺博士」と書き立てられた。重野は、歴史は道徳のために存在するのではなく、事理の究明こそ重要であると説き、むしろ勧善懲悪主義によって歴史を枉げることこそ非難すべきであるとしたが、世間ではそう考えなかった。国家主義者たちは重野を狙うようになり、重野は身に危険すら感じて沈黙せざるを得なかったのである。重野は政府から処分こそ受けなかったものの、これが近代史学にとっての初めての弾圧となった。

一方、久米邦武は、重野の実証主義的立場を過激に推し進めた。明治24年(1891年)には『太平記』全体を創作的物語と断じてその価値を否定する「太平記は史学に益なし」という論文を発表。これは現在の学問水準から見るとやや行き過ぎの主張であったが、道徳を説くことを目的に史実と創作が渾然一体となっていた歴史観念を破壊するための鉄槌であった。

さらに同年10月から12月にかけ、久米は「神道は祭天の古俗」とする論文を『史学会雑誌』に発表。これは専門誌であるため当初一般には注目を浴びなかったが、翌年(明治25年)1月ジャーナリスト田口卯吉により挑発的なコメントが付されて歴史雑誌『史海』に転載されたことで大問題に発展する。久米はこの論文で、神道は宗教ではなく東洋の古代社会に普遍的に見られた「天」を祀る信仰であるとし、神についても「我々に禍福を下し給ふならんと信じたる観念の中より、神といふ者を想像し出して崇拝をなし」たものだとした。さらに、伊勢神宮についても元は天を祀る神社であって大廟などと称するのはおかしい、三種の神器もおそらく祭典の神座を飾るものであろう、などとして神道を構成する様々な要素に忌憚ない批判を試みたのである。

これは今の我々からすれば特に驚くにあたらない主張なのであるが、日本の神話は世界で唯一正しく伝えられた真実の古史古伝であり、神道は世界に冠たる真実の教えであると考えていた神道家たちが久米の説に激昂したのは当然である。翌月2月には4人の神道家が久米の家に押しかけ、久米の説が「国体を毀損する」として5時間にわたって難詰。遂に久米は論文を撤回せざるを得なかった。さらに4人は宮内省や内務省、文部省に赴いて久米のような人物が教育に当たっているのは好ましくない」と久米を処分するよう運動した。

久米が論文を撤回しても騒ぎが収まらなかったこともあり、翌3月には久米は帝国大学を非職(身分を保ったままで職務がなくなる)処分となり、さらに『史学会雑誌』『史海』は国家の安寧秩序を乱すという理由で発禁処分となった。これがいわゆる「久米邦武筆禍事件」である。

一方重野は、久米邦武が神道家たちに命すら狙われる中、積極的に擁護しようともせずに沈黙を守っていた。きっと「抹殺論」で世論に刃向かうことに懲りていたのだろう。「抹殺論」の渦中にあった明治23年(1890年)11月、後に国家神道の聖典のような存在となった「教育勅語」の発布にあたり帝国大学で行われた式典においても、重野は「教育勅語」がいかに歴史に則ったものであるかという白々しい演説を行った。芽生え始めた近代史学の芽は摘まれてしまったのだ。

また、重野や久米の立場は政府首脳にも受け入れられなかった。「久米邦武筆禍事件」から1年後の明治26年(1893年)3月、こうして明治政府の修史事業は頓挫し、帝国大学の史料編纂掛は廃止、重野も解任された。彼らの仕事のうち歴史資料の収集のみが継続され、それは現在の東京大学史料編纂所に続いていくのである。

重野安繹の「抹殺論」、そして「久米邦武筆禍事件」に共通していたのは、彼らは国家の正統な歴史に異を唱えたわけではなかったということだ。なにしろ国家の正史はどこにもなかった。むしろ、彼らこそが「大日本編年史」によって国家の正統な歴史を紡ごうとしていた。しかし、彼らは「正統と思われているもの」という曖昧なものに挑戦したために挫かれたのである。誰も、国家の正統がどこにあるのか知らなかった。ただ、皇室や国家権力を脅かす可能性があるものが、なんとなくタブーとなっていった。しかもそれは、国家自身が望んだと言うよりも、過激な国家主義者、神道家たちの手によって自然発生的に作られていったのである。皮肉なことに、考証によって正統な歴史を編もうとした重野たちは、逆に歴史が不可侵なものとなっていく一因を作っていたとも言える。

国家の中心に、誰も手の届かない聖域が出来つつあった。神話と信仰と歴史、虚実が綯い交ぜになった何かだった。その何かは、何人も理性的に検討することができないのだ。どんな知識人、どんな碩学であれ、その領域には科学の力をもって近づくことはできなかった。それが何であるかは、明確には誰もわからなかった。ただ、至高の存在である曖昧な何かなのだ。それを人は、「国体」と呼んだ。

「国体を毀損する」と言われれば、誰でも萎縮せざるを得なかった。「国体を毀損する」ということが、一体どういうことなのか誰にも分からなかったとしてもだ。

教科書には、神話が事実として載せられた。最初の歴史教科書『官版史略』で既に天御中主神以来の神々は歴史として扱われている。神話は「国体観念」の淵源をなすものと権威付けられ、科学的な精神によって自由に検討できる対象ではなくなった。

後に、大正デモクラシーの自由主義的雰囲気の中、津田左右吉が科学的に記紀神話を検証し『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』等を発表して神話研究は画期的な進歩を遂げたが、それも一時のことだった。太平洋戦争に突入する昭和10年代になるとこれらは発禁処分とされ、津田は弾圧を受けるのである。

こうして神話は、疑うことを許されない歴史的事実となっていった。

重野安繹が児島高徳の史実性を否定したくらいで大問題になったくらいである。神話を疑うことは国体を毀損し、皇室に対し不敬であり、非国民的なのだ。国民学校の児童が、授業中に神代説話が本当の話ではないのではという発言をしたために教師から殴打や減点を受けたという話は多く伝わっている。神話が、理論的に事実と認められるものであれば、教師は理論的に反論し、優しく教えることができたはずである。しかしそうではなかった。教師は、神話を暴力によってしか守ることができなかった。神話が、実際には虚構であったからだ。「国体」も同じだった。世間に雷同しないものが非国民と罵られ、国体を蔑ろにすると難癖をつけられて暴力を振るわれた。

国体が、本当に確固たるものであれば、暴力ではなく理屈で説き伏せられたはずだ。しかし誰にも国体が何なのか分かっていなかったのである。国体は、何重にも張り巡らされた晦渋な理論と過激な国家主義者、そして強圧的な国家権力に守られてはいたが、その中心は空虚だった。子どもでも分かる、簡単な嘘がそこにあった。「天皇は神である」という嘘だ。それが嘘だからこそ、人々は暴力を使ってそれを守ったのである。

そして、国体を守る、そういう何重もの垣の一つが、歴代の山陵であった。不敬罪において、山陵に対する罪は皇族に対する罪と同様であると定められた。それが、万世一系の皇統を示す物的証拠であり、日本を歴代の天皇が治めてきたことの象徴でもあったからだ。

多くの山稜は、幕末以前にはただの山でしかなかった。そこで人々は耕作し、生産し、当たり前に生活していた。ところがそこが幕府や政府により山稜であると指定され、垣で囲われ兆域となり、不可侵なものとされていったのは、まさに国体を維持するために社会の様々な部分が不可侵な領域とさせられていったことの一例だった。

さらに神代三陵には別の意味があった。神話に描かれた神々が、現実にこの土地に生きていたという証しとしての意味だ。天から降ってきたニニギのミコトは可愛山陵に今でも眠っているのである。神の墓がそこに厳然として存在しているというのに、神がいないわけがなかった。

幕末明治の思想史を振り返っても、誰一人として神をこの世に現実化しようとした人はいなかったように思う。あの平田篤胤ですら、天皇を神そのものとは見なしていない。むしろ、篤胤は天皇ですら死後には大国主命の審判を受けると考えた。彼は神々の世界を現実のものと信じていたが、それにしても神々が物理的存在であると考えていたわけではない。しかし明治政府の無定見な宗教政策の結果や、過激な神道家たちの運動や、日本の好戦的な対外政策の行き着くところであったのか、やがて天皇自身が神とされ、「現人神」として崇拝されるようになるのである。誰も、天皇自身を神に演出するプランは持っていなかったにも関わらずだ。

「文明開化」にせよ、「富国強兵」にせよ、いや「復古」ですら、天皇を神にしつらえる必要はないスローガンだった。それなのに、いつの間にか天皇は神そのものとなり、日本は「神の国」となっていったのである。

(つづく)

【参考文献】
『重野安繹と久米邦武—「正史」を夢みた歴史家』2012年、松沢裕作
「ゆがめられた歴史」大久保 利謙(『嵐のなかの百年』 1962年、向坂 逸郎 編)
『続 発禁本』1991年、城 市郎
『日本書紀 上 日本古典文学大系67』1967年、坂元太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋 校注

2018年11月28日水曜日

保守主義者「玩古道人」——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その18)

明治20年12月、島津久光が亡くなった。

政府はこれを受けて、久光を国葬を以て送った。葬儀を取り仕切ったのは式部次官だった高崎正風。そして斎主を務めたのが田中頼庸であった。この人選には久光との関係が考慮されただろう。

高崎正風は、明治政府に出仕して以降は疎遠になっていたが、幕末においては久光の腹心であった。かつて久光が抜擢した志士たちが久光をよそに維新政府で栄達していったのと違い、高崎正風は宮中の御歌掛などを務め、伝統主義者としての地味な仕事に甘んじていた。そして頼庸は久光の神道政策におけるかつての右腕だった。正風と頼庸は無二の親友でもある。しかも頼庸は当時神宮教管長として神道界の頂点に立っていた。この二人が久光を葬ったのは、至極自然なことだったと思われる。

自然でなかったのは、久光が政府を退いてから長く、何の官職にも就いていなかったのに国葬を行ったことだった。

この国葬には反対するものもいたらしい。政府の要人でもなんでもない久光を、国費を以て葬るのはいかがなものか、という批判があったのだろう。久光の前に国葬が行われたのは在職中に死亡した岩倉具視の一例があっただけで、国葬の例規も整っていなかった。政府はわざわざドイツの例を調べ、国家に対する功労に報いるため「臣民」を国葬に付することがドイツにもあるとの回答を得た。政府には、そうまでしても久光を国葬で送らなくてはならない恩義と後ろめたさがあったのだ。維新最大の功臣の一人であった久光を、敬遠し続けてきた後ろめたさだった。

政府は、久光の政治的意見には全く耳を傾けなかったが、それであるだけに形式的な面だけは最高の待遇を以てした。最晩年には従一位に列せられ、病床にあって大勲位菊花大綬章を受章。久光は人臣の極位にあって死んだ。享年71歳。久光の国葬は、その締めくくりであった。

ここで、明治5年、鹿児島へ巡幸した明治天皇に「14箇条の建白書」を奉じた後の久光の人生について、少し振り返ってみよう。

既に述べたように、久光の慰撫を図って行ったはずの天皇巡幸であったが、西郷が久光に挨拶しなかったことや、「14箇条の建白書」を黙殺する結果となったこともあり、久光と政府との対立は解けるどころがより深まっていた。こうして久光の処遇問題は政府の中で最重要課題となっていくのである。

そのため、政府は是が非でも久光を政府内に取り込む必要を感じ、明治6年5月には久光を「麝香之間祗候(じゃこうのましこう)」に任命。これは具体的な権限がない名誉職だったが、同年12月には「内閣顧問」に、さらに明治7年「左大臣」へ任命し久光を政府の首脳の一人に迎えた。

一方、久光が提出した建白書は人々の間で話題になっていた。久光は反政府の旗手とみなされ、久光の元には全国から反政府的な内容の建白書が届いた。その数は150件にも登る。新政府の粗忽で早急な西洋文明導入に、日本社会にはそれだけ反発があったということなのだ。新政府への異議申し立ては、決して久光の独りよがりではなかったし、時代遅れの見解ばかりでもなかった。久光は政府内にいて反政府的立場の代表であった。そんな久光が自らの立場を表明したのが、明治7年頃に朝廷に提出した「20箇条の建白書」である。そこではこのようなことが批判されている(わかりやすいように現代文に意訳した)。

一、天皇の衣装を洋服に改めた
一、西洋の暦(太陽暦)を導入した
一、玉座(天皇の御座所)をはじめ皇室までも全て洋風に倣うようになった
一、各省が外国人を雇って彼らの指導を受けている
一、侍読に人を得ていない
一、侍従に人に阿る輩が多い
一、兵卒(身分の低いもの)を主君のそばに近づけている
一、役人が傲慢でだらしのないものが多い
一、華族の遊蕩を禁止していない
一、学校の規則を洋風にしている
一、都下の規則があまりに苛酷である
一、軍隊を洋式にしている
一、予算を顧みず不要不急の土木事業をしている
一、無用の役人を増やしている
一、邪宗(キリスト教)の蔓延を防がない
一、外国人との婚姻を許した
一、神祇官を廃止して神仏混合の教部省とし、弾正台・刑部省を合併して司法省を置いた
一、民部省と大蔵省を合併した
一、散髪脱刀して洋風になり、国風の衣装風俗を軽んじている

ここでも天皇の洋装がやり玉の筆頭に挙げられ、暦・皇室・行政・軍隊・学校・人々の風俗が洋式になったことを批判している。さらにキリスト教への禁令が緩んでいることを指摘し、神仏合同の教部省を設置したことをも批判した。久光は、あくまで神道一辺倒で国民教化を図っていくことを企図していた模様である。

こうした守旧的な意見がある一方で、役人の綱紀が乱れていることや不要不急の土木事業をしていることも指摘し、開化路線に伴う脇の甘い行政を批判したことは、政府にとっても痛いところを突かれた感があったかもしれない。

ところが、やはり政府は久光の進言には耳を貸さなかった。右大臣岩倉具視よりも上位の左大臣にありながら、久光は政府の中で孤立し冷遇され、いくら反対意見を唱えてもそれが真正面から受け止められることはなかった。そのため久光はさっさと辞表を出し、明治9年4月、鹿児島に帰ってきた。

その後、明治10年に西南戦争が勃発し、そして政府により鎮圧。久光自身は西南戦争とは距離を置いたが、西南戦争で南九州の不平士族が一掃されてしまうと久光の反政府の旗手としての影響力も減衰。こうして久光は、若い頃から心に期するところがあった歴史を軸に、晩年は一人の学者として静かに過ごすのである。

そもそも久光の学問好きについては、兄斉彬も久光の博覧強記に一目置いていたくらいである。久光は若い頃から詩歌や歴史に親しみ、多くの古典や重要書籍を収集し、またそれらを自ら筆写までして、一字一句を苟もしない綿密で厳格な学風をつくり上げていた。

そんな久光は、既に元治元年(1864年)に重野安繹(やすつぐ)らに命じて後に「皇朝世鑑」と呼ばれることとなる歴史書の編纂を命じている。これは紀伝体で編纂された水戸藩の『大日本史』を編年体に再編集し、簡約したものであり、神武天皇から後小松天皇の明徳4年(1394年)までの日本の歴史書である。

重野らは翌慶応元年(1865年)に「皇朝世鑑」全41冊を完成させ久光に提出したが、久光は自らこれに厳正な校正を加えた。というのも、久光自身が『大日本史』本紀列伝(本紀第1巻〜列伝194巻までの58冊)を自ら書写し、さらには異本との校合を綿密に行っていたのである。重野たちは編纂期間の短さや資料の不足から、半ば機械的に『大日本史』を再編集したのであるが、これに久光は誤記や脱文の指摘はもちろんのこと、『大日本史』に欠落している年月の記載を補って厳密な編年主義を貫徹させるとともに、『大日本史』の記述そのものにも検討を加え、自ら考証を行って完全を期したのであった。

そして強調すべきことは、この歴史書が編纂されたのが元治から慶応という時期にあたっており、薩摩にとっては薩英戦争の直後で、さらには禁門の変や第一次長州征討といった維新の事件が急転直下の展開を見せる、久光にとっても激動の時期だったということだ。このような時期に歴史書の編纂という平和的で悠長な事業に自ら取り組んだということは、よほどの思い入れがなくてはならない。

さらに「皇朝世鑑」編纂の後、重野安繹と近かった儒者水本成美(樹堂)へその続編の編纂も命じた。しかし「皇朝世鑑」は『大日本史』の再編集であったため短期間で編纂が可能だったが、その続編となると史料の収集から始めなくてはならず、一朝一夕ではなしえない大事業である。結局、この大日本史続編の試みについては頓挫したらしい。また「皇朝世鑑」自体も、稿は成ったものの維新のゴタゴタなどで結局刊行されることはなかった。

久光は明治9年以降、いわばこの流産した歴史書を書き直すプロジェクトとも言うべき『通俗国史』の編纂に、たった一人で取り組むのである。

そもそも日本の正史というものは、『日本書紀』に始まり『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』という「六国史」が残っている。しかしこれは神武天皇から第58代光孝天皇(平安時代)を以て終わっていて、その後は正史が編まれることはなかった。水戸藩の『大日本史』は大藩の財政を傾けるほど考究を尽くし編纂された大著ではあるが、紀伝体(正史は編年体で編纂されるものだった)で記述され、第100代後小松天皇(室町時代)で終わっているのが憾みである。

そこで久光は、自ら「六国史」を継ぐ国史を編纂するという壮大な企図を抱き、第59代宇多天皇から第100代後小松天皇までの歴史(つまり『大日本史』の扱う範囲まで)を『通俗国史 正編』全22冊として執筆。追って第101代称光天皇から第107代後陽成天皇までの歴史を『通俗国史 続編』全11冊として執筆した。時に明治16年のことであった。平安から江戸初期に至る歴史書を、久光は完成させたのである。なお「通俗」の名を冠しているのは、それが漢文ではなく漢字仮名交じり文で書かれた平易なものであるためだ。

この執筆にあたり、久光は毎朝必ず机に向かい、草稿より浄書に至るまで誰の手も借りず全て自らの筆で取り組んだ。第108代後水尾天皇以降についても『通俗国史 続々編』として執筆に当たったが、病に倒れ遂に完成することはなかった。未完には終わったが、『通俗国史』こそは久光が余生をかけた執念の大作であり、久光の学問の到達点であったといえよう。

さてここに一つの不思議がある。実は「皇朝世鑑」の完成した慶応元年、編者の重野らはその前編として神代の歴史も編纂してはどうかと提案しているのに、それを久光は「神代の事は大日本史の通り委しく書かせざるをよしとする歟、前編編集先は無用歟」として却下しているのである。慶応元年といえば、鹿児島では廃仏毀釈前夜である。未だ廃仏の運動は形になっていないとはいえ、久光も神道に傾倒していた時期だ。神代を扱う前編の方が政治的に重要と思われるのに、同じく提案があった続編の方のみを許可し、先述の水本成美へと命を下すのである。久光はなぜ神代の歴史書の編纂を許可しなかったのか。

そして明治9年以降も、力を入れたのは近世史であって神代については黙して語っていない。廃仏毀釈を行い神道国家薩摩の実現へと邁進した久光と、歴史家として神代を語らなかった久光に、微妙な距離を感じるのは私だけだろうか。

さらに不思議なことは、『三国名勝図会』に対する校正である。薩摩・大隅・日向(の一部)の名所旧跡を総覧する『三国名勝図会』全60巻は天保14年(1843年)に編纂されたものであるが、これにも久光は校正を加え、完全を期したのであった。現在『三国名勝図会』は、廃仏毀釈で破壊された寺院の往時の様子を詳細に知ることができる重要な史料となっている。しかし藩内の名刹を悉く破壊し、歴代藩主の墓石から戒名を削り取って新たに神号を刻みつけ、鹿児島から仏教の痕跡を消し去ろうとした久光その人が、一方でかつての仏教隆盛の記録を残すことに一役買っているのは、奇妙なことと言わねばならない。

私の考えでは、久光は晩年に至って廃仏毀釈運動について反省し、その償いとして『三国名勝図会』の校正を手がけたのだと思う。

明治政府は「文明開化」の美名の下に、よく吟味することもなく西洋の風習や文物を導入し、旧来の文化を容易に捨て去っていった。差別の撤廃や科学技術の導入といった進歩もあったが、それは全体としては旧文明の破壊だった。 幕末に通訳として日本を訪れたヘンリー・ヒュースケンは既に「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか」と西洋文明を日本が受け入れることに疑問を呈している。久光がこだわったのもこの点であり、日本の文明の滅亡を阻止したいという思いであったろう。

しかし守旧的意見が明治政府に全く受け入れられず、あえなく帰郷した久光は、いきおい自らの行動をも自省せざるを得なかったと思われる。明治政府が日本の文明を破壊したのと同様、自らも維新の熱に浮かれた文明の破壊者の一人であったと久光は痛恨したのではなかろうか。廃仏毀釈によって、鹿児島の仏教文化や信仰は文字通り潰滅してしまったのだから。私にはそう思えてならないのである。

「復古」を旗印にしたはずの維新運動は、いつの間にか「復古」の名の下にあらゆる制度や文化を組み替えていった。「太政官」や「神祇官」の復興など当初は復古的な政策もあったが、それは徐々に修正され、やがて「万国公法」が基準となり、日本を西洋に並ぶ文明国にすることが目標になった。

西南戦争の際、薩軍に歌われた「出陣いろは歌」というのがある。そこでも
 大名つぶしたその時に
 昔にかえるというたのも
 うそと今こそ知られけり
と「復古」が「うそ」だったと非難されている。「復古」を貫徹させようとした国学者たちも、政府から疎まれ遠ざけられた。平田派の重鎮矢野玄道は「橿原の御代に返ると頼みしは あらぬ夢にて有りけるものを」と失望した。「橿原(かしはら)」とは、神武天皇が最初に都を置いたとされる場所である。「神武創業の始めに復る」などといっておきながら、日本の文化や習俗を尊重することもなかった明治政府の姿勢は失望されて当然だろう。

しかし久光はかつての狂信的な「復古主義者」としての相貌を改め、晩年は穏当な「保守主義者」となっていくように見受けられる。

晩年の久光は必ずしも明治政府とは対立的ではなかった。一定の距離は保ちつつも、政府の政策には協力的だったようだ。しかし一方で、自分は政府が破壊しつつあった旧文明を背負っているという自覚もあったのかもしれない。彼は「玩古道人」と号した。玩古——すなわち骨董品を楽しむ、という言葉に、新生日本が捨て去ろうとした旧文明をあくまでも愛し抜こうとする久光の気概を感じるのである。

事実久光は、歴史書の編纂や『三国名勝図会』の校正、島津家に残る史書の整理と保存といったことに取り組み、かつて廃仏毀釈を推進した市来四郎に命じて薩摩藩の幕末の事績を記録せしめた。こうして久光は死ぬまで薩摩藩の旧文明の保存に努めた。久光が残した史料群は「玉里島津家史料」として、日本の中世から近代にかけての歴史学には欠かすことの出来ない重要史料群となっている。

久光が余生をかけたのは、歴史と文化を残そうとするたった一人の戦いだったのだ。それは、廃仏毀釈の反省だけでなく、先祖伝来受け継いだ薩摩藩をなくしてしまったことへの償いだったのかもしれない。

一方で同時期、政府内においても歴史を巡る静かな戦いが始まっていた。中心人物は、「皇朝世鑑」を編纂した重野安繹である。

(つづく)

【参考文献】
島津久光と明治維新—久光はなぜ、倒幕を決意したか』2002年、芳 即正
『大久保利謙歴史著作集 7』(「六 島津家編修「皇朝世鑑」と明治初期の修史事業」)2007年、大久保利謙
『學者としての島津久光公』中村徳五郎(『南国史叢』第3輯、1936年、薩藩史研究会)
『逝きし世の面影』2005年、渡辺京二

2018年10月3日水曜日

つくりかえられた伊勢神宮—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その17)

田中頼庸は、明治7年の春、教部省から伊勢神宮に大宮司として赴任した。

この頃、教部省は各地の古社・大社に直接人を送り込むようになっていた。それは、いっこうに成果の上がらない大教宣布運動を続けるより、直接神社に手を入れることで信仰のてこ入れを図ったという面もあるし、また、官吏としては頑迷固陋すぎ、扱いに困っていた国学者たちを体よく中枢から遠ざけるという意味合いもあった模様である。明治六年政変のために、教部省における薩摩派の政治力も弱体化していた。

しかし最大の目的は、神道そのものを国家の手によって作りかえるためであった。民衆との繋がりの中で育ってきた神祇信仰を破壊し、国家にとって都合のよい新しい宗教として神道を再創造しようとした。

その嚆矢となり、またその中心になったのが伊勢神宮であった。

伊勢神宮といえば、皇室と特別な関係を持つのみならず、三種の神器の一つ「八咫(やた)の鏡」を祀る「国家の宗廟」と思われているが、明治以前からそうであったわけではない。式年遷宮の際に勅使を派遣し幣帛を奉納するといったことはあったが、何しろ天皇は明治に至るまで歴史的に一度も伊勢神宮を参拝したことがなかったのである。

初めて天皇が伊勢に参拝したのは、明治2年4月のことだ。京都から東京へゆく途中、天皇は神宮に玉串をささげ維新政府の成立を報告、近代日本の発展を祈った。この参拝は岩倉具視や木戸孝允、そして津和野派の亀井茲監(これみ)と福羽美静がなさしめたものという。

言うまでもなく、伊勢神宮は天照大神を祀る。天皇は天照大神の子孫であり、それこそが日本を治める正統性の根源と考えられたのだから、伊勢神宮が国家にとって重要になってくるのは当然だった。しかも津和野派は天照大神を絶対視していた。だから彼らは伊勢神宮を国家の手中に収めようとしたのである。

しかし、国家のみが強制的に伊勢神宮の改変を行ったのではなかった。伊勢神宮(内宮)の世襲の下級神職に産まれ、権禰宜(ごんねぎ)だった浦田長民(ちょうみん)は、このような国家の趨勢を敏感に察知し、伊勢神宮を国家的存在とするよう内からも積極的に運動した。例えば、彼は維新直後に度会(わたらい)府御用掛に採用され、着任直後に伊勢神宮のある宇治山田から仏教を完全に排除する提案を行った。度会府(三重県の一部)は天皇が伊勢神宮に参拝するという情報に接すると、この提案に基づき参宮街道沿いの廃仏毀釈を行い、維新前までにあった258もの寺院のうち183が潰された。伊勢を純粋な神道の地へと自主的に「浄化」しようとしたのだ。

もちろん政府はさらに強力な改革を実施した。明治3年11月には世襲の祭主藤波教忠(のりただ)を免職し、公家の近衛忠房を新たに祭主に任命。さらに明治4年には神社は「国家の宗祠」であるから私有すべきでないという原理を打ち出し、神宮の世襲職をすべて廃止した。こうした処置は全国の神社に対して行われ、全国の神社と神職は国家機関となった。

伊勢神宮で廃止された世襲職に「御師(おんし)」とよばれる権禰宜身分の存在があった。「御師」には、天照大神を祀る内宮(ないくう)が荒木田家271家、豊受大神を祀る外宮(げくう)が度会家479家もあり、この御師が全国津々浦々にそれぞれ檀家を持ち、毎年神宮大麻(お札)や暦を配って初穂料を集めたり、伊勢講の受け入れを担当したりしており、「御師」の中には莫大な収入を得るものもあった。政府は「御師」が「国家の宗祠」である神社を用いて私腹を肥やしているとして問題視したのである。浦田長民自身も御師の出身であったが、御師廃止論の急先鋒に立った。

さらにこの頃には、伊勢神宮に祀られているご神体の鏡を東京に遷座すべきという議論が湧き起こってくる。浦田長民は津和野派と気脈が通じていたことで半年間政府に出仕しているが、その間に自身でも福羽らとともに神宮の鏡を東京に遷座する案を練っていた。ご神体を失った伊勢神宮に存在意義はないため、これは事実上の伊勢神宮廃止論でもあった。そういう議論が行われている中で、三島通庸は新たな国家の中心として「黄金の神殿」を作り、そこに伊勢神宮を遷座しようというアイデアを提出するのである。

田中頼庸も三島と同調し、伊勢神宮を東京に遷座するよう促す建白を認めて、高崎五六、三島通庸、山之内時習との連名で提出している。そんな伊勢神宮遷座派の先頭だった田中頼庸が、伊勢神宮の大宮司として赴任したのは皮肉なことであった。

浦田長民も、頼庸の1年前に伊勢神宮の少宮司として再び神宮に舞い戻っていた。二人は、中央にいるときは伊勢神宮の遷座論を展開していたが、いざ神宮に赴任すると伊勢神宮の聖地化を推し進め、共同して伊勢神宮を国家第一の宗廟と発展させていくのである。

そして伊勢の街自体が「神都」として作りかえられた。伊勢神宮の周辺は、全国から伊勢参りに来る人々のための娯楽や遊興に溢れた活気溢れる門前町が形成されていたが、猥雑な妓楼街は主要道路から遠ざけられて自然消滅させられ、代わりに聖地としての風格ある施設が次々建設された。

さらに、天皇との特別な関係の樹立のために、今に続く数々の儀礼が定められ(『神宮明治祭式』)、新しい神道理論も確立していった。この際に26の明治以前の儀礼が廃止され、新しい儀礼が21も取り入れられたという。例えば元始祭、祈念祭、新嘗祭、歳旦祭、天長節祭、紀元節祭など国家的色彩を持つ祭りが新たな年中祭祀として取り入れられている。こうした教義面の改革は主に浦田長民が担い、実務面を頼庸が担当した。伊勢神宮は、こうして明治以前のそれとは全く違う神社になっていった。頼庸は、鹿児島を聖地に変えることはできなかったが、代わりに伊勢を国家の聖地に変貌させることに成功した。

また、教部省が大教院体制で大教宣布運動を進めると、浦田長民はこれに呼応して神宮に教院や説教所などを附設し、神宮を国民教化運動の中心的存在にしようとした。まず地元の度会県の倭町に説教所を開設。そして順次各所に説教所を設けていった。その中心として、明治6年に説教所における教義学修行のための機関として「神宮教院」を開設した。

神宮教院は、伊勢神宮において国民教化運動を担った支部組織だった。しかしその広がりは全国規模のものになっていく。従来から各地に存在していた伊勢講(定期的に伊勢参りをするグループ)を母体にして、全国に「神風講社」という組織を作り神宮教院に附属せしめたからだ。

大教院でも、神宮教院の活動に期待していた。明治7年4月には、神宮教院の活動を受け持ち区域外でもやれるようにして欲しいという神宮からの要望を認め、神宮教院の教化運動は区域外にも拡大し、神宮の神官が各地に巡教するようになった。また神宮教院に中教院が設立され、その活動は次第に公的なものとなっていった。

ところが明治8年に大教院が瓦解。追って教部省も解体。政府による大教宣布運動の頓挫を受け、神道関係者は大教院に代わって神道事務局を作って自ら大教宣布運動を続けることとなったから、自然と神宮教院がその中心となった。田中頼庸も神道事務局の副管長に就任。こうして神宮教院は規則を改め組織を再編成し、全国を13の教区に分かち、各県毎に教会を置き、大規模な布教体制を充実させた。さらに神宮教会は、青少年の教育のための「本教館」を設立(明治9年)、追ってこれは「神宮皇学館」に発展(明治15年)した。また旺盛な出版活動にも取り組み、神道理論や祭式、古伝に関する本を陸続と出版した。

神宮教院の活動は、頓挫した国家の運動を補填することで、一神社の行う範囲を超えて、準国家的な規模と内容を持つものとなっていった。

ところが、明治13年頃に、神宮教院が中心となっていた神道事務局で「祭神論争」が起こる。神道事務局では、大教院時代から引き続いて祭神を造化三神と天照大神の四柱の神としていたが、これに出雲大社大宮司の千家尊福(せんげ・たかとみ)が異論を唱え、大国主神も加えるべきと申し立てたのである。

天照大神と大国主神を巡る近世の神学に立ち入る余裕はないが、平田篤胤はこの世を支配しているのは天照大神だが、あの世(幽冥界)を支配しているのは大国主神だとする説を提示しており、死後の魂の行方に強い関心を持った平田派は大国主神を重視した。篤胤の説は、門人の矢野玄道(はるみち)や六人部是香(むとべ・よしか)に受けつがれてはいたが、津和野派の天照大神一神教的な政策、続く薩摩派の造化三神の重視政策に押され、それまで閑却されていたのである。

だが出雲大社では大国主神を祀っていることから、平田派とはまた違った面から大国主神を重視しており、千家は「大国主神が幽冥の主宰神であることは古典により明らかだ」として、以前からこれを四柱の神に祭神として付け加えるべきと主張していた。既に大教院時代、祭神に追加することは認めなかったものの、大教院は千家の主張に応じ「大国主神が幽冥の主宰神」であることは認めていた。薩摩派には確たる神道理論がなかったから、こういう論争には弱かった。

この論争が、神道事務局に持ち込まれたのである。論争は、田中頼庸を中心とする伊勢派と、千家尊福を中心とする出雲派によるものだったが、その論争は全国の神職を巻き込んだものとなっていく。

組織的には全国に影響力を及ぼしていた伊勢派だったが、彼らには決定的な弱点があった。彼らは篤胤の『古史伝』に相当するような、古典となる「教典」を持っていなかったのである。つまり伊勢派には、依って立つ確固たる神道理論がなかった。一方、出雲派には、かつて神学論争に破れ没落していた平田派の面々がどんどん合流していった。矢野玄道や角田忠行が千家に同調、全国に散らばる草莽の国学者たちも、篤胤の思想を武器に、出雲派として再び勢力を結集していった。伊勢派の源流は津和野派と薩摩派にあったが、薩摩派は言うに及ばず津和野派が依って立つ大国隆正の思想も、平田篤胤に比べれば古典と呼ぶには小粒すぎた。

窮地に陥った伊勢派は非常手段に出る。神道家による話し合いでは埒があかないから、いっそ勅裁を仰ごうというのである。より政治に近いという立場を利用し、論争ではなく権力によって出雲派を圧迫しようとしたのだ。明治14年2月、これに応じて太政大臣の三条実美(さねとみ)は宮中祭祀における祭神を決定した。その勅裁では、はっきりと大国主神が否定されているわけではなかったが、大国主神には言及がなかったために伊勢派の勝利となった。

しかしながら、こうした神道界の内紛は政府にとって好ましからざるものだった。神道は政権が依って立つ国体理論の一部であったから、そこに動揺があってはならなかった。しかも、信教自由になったことでただでさえその基盤が揺らいでいた。信教は自由だとしても、国家の基盤たる「天壌無窮なる万世一系の皇統」や「万古不易の国体」を正当化し、その祭祀を国民に強制する方途が必要とされていた。このため政府は、明治15年1月、「祭祀」と「信教」を区別することとし、神社は宗教ではなく、祭祀を主とした「国民道徳上の存在」であると整理した。

たとえ信仰しているのが仏教やキリスト教であっても、神社への祭祀は「国民道徳上」行わなければならない。それは信教の自由とは関係ない。なぜなら神社は宗教ではないのだから、という理屈だ。祭祀と信教を区別するのは明らかに詭弁であったが、これは国家の根幹たる神話を個人の信仰とは無関係に承認させるための譲歩でもあった。明治国家は、神道の国教化政策の失敗、そして国民教化運動の失敗に懲りて、神道を国家的宗教とすることは諦める替わり、神社祭祀のみを国民に強制したのである。こうして国家は、宗教的次元では責任逃れをしつつ、実際には宗教として神道を機能させることに成功した。

それは、かつて三島通庸が構想した、神道があらゆる宗教の上に超然と立つ体制だったのである。しかも、それは「黄金の神殿」を必要としない、安上がりな方法で達成されたのだ。

こうして、神社は宗教ではないということにされた。それまで神官は国民教化運動を担う教導職を兼任することになっていたのに、これが逆に禁止された。また神道による葬祭が推進されていたのに、神官は葬儀に関わってはならないとされた。神社は、宗教活動を一切禁止されてしまった。神社は、神道論を唱えることも、布教活動をすることもできなくなった。強力に推進されてきた政策が一気に逆転し、関係者ははしごを外された格好になった。

田中頼庸は、やむにやまれず宗教活動を禁じられた神宮を去る。

伊勢神宮でも、それまで大教宣布運動を続けていた「神宮教院」を附属することができなくなり、これを分離したからだ。しかし田中頼庸は、「神宮教院」を母体として新興宗教「神宮教」を立ち上げ、その初代管長に就任するのである。このようなことは他の大社の場合でも起こった。神社から、宗教部分を分離して別団体として宗教化したのである。明治15年5月、政府もこうした新しい団体を「教派神道」として認定した。

「神宮教院」はその全国組織を活用し、御師から取り上げた大麻の頒布も担っていたが、「神宮教」はこれも引き継いだ。「神宮教」は明治32年(1899年)に解散したものの、その内実は「財団法人神宮奉斎会」に改組されて大麻頒布も続けられた。この神宮奉斎会は戦後、日本各地の神社を包摂する宗教法人「神社本庁」の母体の一つとなる。

ところで、田中頼庸が「神宮教」の管長として神道界の絶頂にあった明治20年12月、彼のもとに訃報が届いた。島津久光が薨じたという知らせだった。

(つづく)

【参考文献】
『神都物語:伊勢神宮の近現代史』2015年、ジョン・ブリーン
<出雲>という思想』2001年、原 武史
日本政治思想史―十七~十九世紀』2010年、渡辺 浩
神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫
神道指令の超克』1972年、久保田 収


2018年9月29日土曜日

三島通庸の「黄金の神殿」—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その16)

これまで、かなり詳しく神代三陵確定に至る経緯を見てきた。

神代三陵の確定については、そもそも歴史書で触れられること自体が稀だが、触れられる場合でも「薩摩閥の政治力を背景になされた」と簡単に片付けられる。しかしことはそう単純な話でもない。神代三陵を確定した時期は、確かに教部省を薩摩派が握っていた時期ではあるが、それは平田派と津和野派の争いによる共倒れや、大教宣布運動の挫折によって棚ボタ的にもたらされたものであって、神祇行政においてはどちらかというと薩摩閥は脇役であった。

また、神代三陵について地元鹿児島の人間からその公認を欲した記録はなく、島津久光や当時の県令大山綱良も、神代三陵を特別扱いするように要望したことはないようだ。久光への慰撫として神代三陵への遙拝がなされたのだとしても、久光自身はそんなことは望んでいなかったようだし、「薩摩閥の政治力」といっても、それは鹿児島への利益誘導が強引になされたということではない。 神代三陵の確定によって利益を受ける人物は、鹿児島にはいなかったのだ。にも関わらず、一方的にそれが確定されたことは、それが「国家」のために行われた事業であることを示していた。

人は、神代三陵確定など、取るに足りない歴史の一齣だと思うかもしれない。私も、神代三陵の確定がその後の歴史を大きく変えたのだ、と言うつもりはない。それでも、神代三陵の確定はひとつの歴史の里程標として見ることはできると思う。それ自体は重大事件ではなくても、後から振り返ってみて、歴史の変曲点に当たるような存在のように思えるのである。

後日談的になるが、これから、神代三陵に関わった組織や人物がどうなったか、神話と国家の関係がどうなっていったかを述べていきたいと思う。

まずは教部省の動向である。明治5年に教部省が設置された際、重要な国民教化の原則が定められた。これを「三条の教則」または「三条の教憲」という。すなわち、
一、敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
一、天理人道ヲ明(あきらか)ニスヘキ事
一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
という三条の原則である。神祇省時代の大教宣布運動が瓦解した原因の一つに、「大教」そのものの内容が定まっておらず関係者の神学論争が続いたことが挙げられる。教部省ではこの二の轍を踏まぬよう、まず国民教化において教導すべき内容を定めることとし、この三条を教部省設置の立役者である江藤新平が起草したという。

この「三条の教則」は、これまで神道によって担われてきた国民教化運動を、神仏合同の運動に変えるための役割も担っていた。つまりこの「三条の教則」は、仏教側も受け入れられるギリギリの国民教化原則として構想されたものだ。これに則る限り、仏教側も自由に教説を展開して、国民教化を担うことができるようになった。

そして教部省ではこの三条教則に基づいた教導運動を展開するため、大教院・中教院・小教院という組織を全国展開した。国家レベルが大教院、県レベルが中教院、郷レベルが小教院に対応していた。鹿児島では、松原神社(南林寺跡に作られた神社)に中教院が置かれていた。そして大教院は、東京は芝の増上寺に置かれていた。

しかし増上寺では、本尊の阿弥陀仏は撤去され、造化三神(天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)と天照大神を祀り、山門の前には白木の大鳥居を立てて神社に擬されてしまっていた。神仏合同といっても、その内容はあくまでも神道が主で仏教は従であり、仏教勢力が国家に迎合して神道的な教説を受け入れた形であった。これがやがて大教院体制を行き詰まらせることになる。

ところでこの「三条の教則」を簡約すれば、(1)敬神愛国、(2)迷信の否定、(3)国家権力の承認、ということに過ぎないから、これのみで国民の教導を図るのは難しい。そこで、「三条の教則」の背景となる神道理論を明らかにし、民衆を教導する説教にまで落とし込んでいく必要があった。つまり「三条の教則」のコンメンタール(逐条解説書)が求められたのである。こういった解説書は百点を越えるほどたくさん出版されたが、そのなかで最も正統とされ、神道界はもちろん仏教界においても批判する意味でも読まれたのが、田中頼庸が明治6年に書いた『三条演義』であった。

頼庸は『三条演義』の中で、天神の神託によって天皇が国の統治を行っていることを述べ、「天地日月と共に一系の皇統を吾大君と仰ぎ奉るべきこと、天祖天神の定め給へる万古不易の国体なる事」と、祭政一致による統治を推し進めることが説教の要務であるとしている。ところで頼庸の『三条演義』が最も正統な「三条の教則」のコンメンタールとなりえたのは、彼が独学独歩の国学者だったからではないだろうか。頼庸は、いかなる学派にも属さず、師に遠慮する必要もなかったから、虚心坦懐に「三条の教則」を受け入れ、この新しい原則にいち早く順応できた。

そもそも薩摩派は、 平田派や津和野派と違って神道教義についてはあまり関心がなかったようだ。平田派や津和野派のような「神学論争」に与した形跡もなく、実を言えば、薩摩派がどのような神道理論を持っていたのかすら、今になってはよくわからない。ただ、薩摩派は天照大神よりも、造化三神、特に天御中主神を中心に置いていたということはいえる。大教院には造化三神と天照大神の四柱の神が祀られていたが、天照大神が造化三神の下位に当てられていたことを考えると、大教院の祭祀が薩摩派の強い影響の下にあったことは明らかだ。

しかし津和野派は教部省の主流から排除された後も、首魁福羽美静が大教院体制における運動の中心となってはいた。一方、薩摩派は、田中頼庸は例外としても、全体的には国民教化には熱心でなかったようだ。

薩摩派が熱心だったのは、国民教化のような個人の内面を変えることではなく、国家的祝祭行事の実施など、外形的な部分を変えていくということであった。信仰を強制するよりも行動を規制しようとしたと言ってもよい。「信仰の外堀を埋めていく」ことに取り組んだのが薩摩派であった。

例えば、明治6年1月には神武天皇即位日(紀元節)と天皇誕生日(天長節)を祝日とすることを定め、一方で人日(じんじつ)、上巳(じょうし)、端午、七夕、重陽(ちょうよう)の五節句を廃止した。追って明治7年10月には、紀元節と天長節に加え、元始祭(天孫降臨を祝う祭り)、新年宴会、孝明天皇祭、神武天皇祭、神嘗祭、新嘗祭等を祝祭日と定めた。民間の習俗と行事の体系を破壊して新たに国家的祝祭日をそれに替え、国民意識を強制的に「国家」に向くようにしたのである。

さらにこの時期、教部省で大きな力を振るった三島通庸は壮大なプランを構想していた。

全国から寄付を集めて皇城(皇居)のそばに人工の山を築き、その山頂に燦爛たる「黄金の神殿」を建てて中には伊勢神宮を遷座しようというのである。しかもその山裾に諸宗の本山を移転させ、仏教であれキリスト教であれ神道を「国教」として奉ずる誓いを立てさせようとした。

通庸の考えでは、国教たる神道と、仏教やキリスト教は矛盾するものではなかった。「黄金の神殿」の下に諸宗の本山を集めようとしたのは、神道があらゆる宗教の上に超然と立つという考えを象徴するアイデアだった。

さらに通庸は、神道を全世界にまで弘めようと、まずは米国、そして各国に神道の「華表」(宗教的な標柱)を建てて、「万国の異宗教をして悉く皇道の下に合同従属せしめ」ようとまでした。しかも外国船が東京湾の中に入る際には、羽田の手前あたりでまず「黄金の神殿」への遙拝を強制しようとしたである。この壮大なプランは西郷隆盛に建言され、西郷はこれに賛同したという。

神道が日本だけの一地方的宗教ではなく、世界に冠たるものであるという考えは三島通庸だけのものではない。すでに本居宣長が、「かくのごとく本朝は、天照大神の御本国、その皇統のしろしめす御国にして、万国の元本大宗なる御国」(『玉くしげ』)だと述べている。平田篤胤も日本を「万の国の本つ御柱たる御国」と位置づけ、世界中のあらゆる伝承や風俗は、始まりの国である日本から流れ出したものと考えて海外の文化習俗に強い関心を寄せた。

さらに津和野派の理論的指導者であった大国隆正は、海外事情や外来書物、洋学書を多く研究し、「天地創造」や「キリストの降誕」など新旧聖書に現れる出来事や人物すらも『古事記』『日本書紀』に描かれた神話の一変異であると断じた。彼に拠ればアダムやカインというのは「空中を駆けりて、海外諸国に往来せし神仙」(『馭戎問答』)であり、キリストは蛭子、キリスト教の造物主は「皇祖神霊の影法師」(「天主教に関する意見書」)なのだ。こうした考えから大国はキリスト教を神道の一派とみなして排斥すべき邪教ではないとし、開国を進める開明的立場に立ったのである。

三島通庸の「黄金の神殿」は、こうした国学者の思想の具体化であったと位置づけることも出来る。世界でたった一つの正しい神話を伝える日本神道の神殿であり、それはいかなる宗教を信仰しているかに関わらず、全ての人が讃仰すべき世界の中心なのである。

この「黄金の神殿」案は、おそらくは明治六年政変(いわゆる「征韓論争」)による西郷らの下野でうやむやになり、実行に移されることはなかったが、来るべき新しい神道の姿を予言していた。それは、世界中の全ての宗教を超越した「超宗教」としての神道、信仰に関係なく跪かなくてはならない至上の「超信仰」、万国に冠たる国体を信仰の中心とする「国家神道」を先駆けていたのだ。

この来るべき神道では、国民に煩瑣な教義を理解させる必要もなかった。ただ、拝跪を要求するだけでよかった。「万世一系の無窮なる皇統」「万古不易の国体」に少しでも疑義を差し挟むものがいれば、ただ一言「非国民」と罵ればよかったのである。それは、教化を必要としない宗教であった。

そもそも、大教院体制においても国民教化はすぐに頓挫しかけていた。「三条の教則」や大教院、中小教院は神仏合同を旗印にしていたが、教説は神道一色であり、離反は時間の問題であった。やがて浄土真宗本願寺派の僧侶島地黙雷(しまじ・もくらい)は、自身が洋行して西洋の事情を視察した経験から、信教自由が「万国公法」であると確信し政府の国民教化政策を強く批判。

一方、岩倉使節団の一員として条約改正交渉に当たってきた木戸孝允や大久保利通も、条約改正の前提条件として信教自由を求められており、もはやキリスト教の禁止や神道のみによる国民教化運動が時代に合わなくなってきたことは認識していた。国民教化運動は、中からも外からも限界を迎えていた。やがて島地黙雷の批判に応じて真宗各派は大教院を離脱し、大教院は明治8年5月に瓦解するのである。

そして、明治8年11月、ついに信教の自由が布達された。といっても、これが本当の意味での信教自由でなかったことは明らかであろう。この信教自由は、各宗派の存立が許されたというだけであり、それらが国家イデオロギーに従属する構造は強化されていったのだ。

ところで神代三陵確定の立役者たる田中頼庸は、信教自由の時代を伊勢神宮で迎えていた。彼はそのころ、伊勢神宮の大宮司となっていた。

(つづく)

【参考文献】
『三島通庸伝』1898年、平田元吉
『江戸の思想史—人物・方法・連環』2011年、田尻 祐一郎
日本政治思想史―十七~十九世紀』2010年、渡辺 浩
儀礼と権力 天皇の明治維新』2011年、ジョン・ブリーン
<出雲>という思想』2001年、原 武史
神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫

2018年8月20日月曜日

空前絶後の陵墓大量確定の中で—なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その15)

田中頼庸が、神代山陵への遙拝を建白したのがいつのことだったのか、その建白書に日付が残っていないため正確には分からない。

だが建白書には教部省設置のことが書いてあるので、明治5年3月以降に書かれたものあることは確実である。また、このような政治的に機微な事案を鹿児島にいながらにして建白することは現実的でないから、それは薩摩派が教部省に乗り込んできた同年5月以降であろうと思われる。天皇が行幸へ出発するのが5月23日。おそらくは、天皇が既に出発した後に出されたものだろう。

頼庸の建白書の大略は、次の通りである。
  • 鹿児島県は神代三代の旧都であり、特に高千穂峰は天孫ニニギのミコトの降臨の地であるから、行幸の折にはまず霧島神宮に参拝してほしい。
  • また、ホホデミのミコトを祀った鹿児島神宮にも同様に参拝して欲しい。
  • 埃(可愛)山陵は高城郡宮内村の亀山にあり、これはニニギのミコトの陵である。
  • 高屋山上陵は溝辺郷神割岡にあり、これはホホデミのミコトの陵である。
  • 吾平山上陵は姶良郷上名村鵜戸陵というところで、これはウガヤフキアヘズのミコトの陵である。
  • このように神代山陵は全て薩摩・大隅に存在するが、いつかそのことは忘れられ、これらの山陵には祭使の派遣もなされていない。
  • しかし幸い近年は復古の盛時であるから、西巡にあたっては、霧島神宮、鹿児島神宮だけでなく神代山陵にも行幸されれば、「皇政維新の大本たる教化」に役立つ。

この建白書がどのように処理されたのかも詳細は不明だ。おそらく、三島通庸や黒田清綱を通じ、西郷隆盛へと伝えられただろう。久光の慰撫のためにこの行幸をデザインし、また随行の筆頭を務めた西郷である。西郷が関わっていないわけはない。しかしどのようなプロセスで建白の内容が吟味され、実行に移されたのかは謎だ。

実際の行幸では、天皇は霧島神宮や鹿児島神宮には参拝しなかったが、神代三陵については遙拝(遠くから拝む)した。建白書で最重要視されている霧島神宮を素通りしている一方、なぜ神代三陵には遙拝し御幣物を奉納したのか、そのあたりの事情はよくわからない。しかも建白書では高屋山上陵は「溝辺郷神割岡」にあるとしているのに、天皇が遙拝したのは「内之浦の北方村国見岳」の方だった。どうやらこの背後には、いろいろな政治的駆け引きがあった模様である。

それはそれとしても、頼庸の建白は、実際に天皇を動かしたのである。新政府に入って間もない頼庸の言い分が、完全ではないにしても大筋で認められ、歴史的な神代三陵遙拝を実現させた。頼庸は、天にも昇る気持ちだっただろう。

ちなみに天皇の西国行幸は、既に述べたように西郷隆盛が島津久光を慰撫することを最大の目的として立案したものというが、頼庸の建白には久光のことは一切触れられていない。

私は神代三陵の遙拝は久光や鹿児島の士族の慰撫という政治的意図があった、と推測するが、それは行幸のプランの中でそう位置づけられていたという意味である。その建白者である頼庸が、神代三陵に何を託していたかは別問題だ。

私は、頼庸は鹿児島を「聖地」にしたかったのだろうと思う。建白書の中でも鹿児島を「皇祖以来三世ノ旧都」であると位置づけている。「旧都」とはなかなか思い切った表現だ。日本神話で重要な聖地といえば、天照大神を祀る伊勢、国譲りの地である出雲、そして天孫降臨の日向の3つであろう。薩摩・大隅は、日向の一部としては考えられるが元来は聖地ではなかった。都など、おかれたこともなかった。

だが、久光とその腹心であった頼庸は、鹿児島を神道国家に作りかえた。仏教を破壊し尽くし、神道は、仏教の影響のなかったころの純粋な姿へと再創造された。その上で、民を神道によって教導し、鹿児島の宗教改革を成し遂げた。そしてその最後の仕上げが、鹿児島を神道の聖地、「肇国の聖地」とすることだったのだと思う。そのために、鹿児島を「旧都」と位置づけ、神話を甦らせようとした。神代三陵を公式に認めさせることで、鹿児島を単なる神道国家ではなく、「聖なる神道国家」へ完成させようとした。

そして頼庸は、「鹿児島の聖地化」を久光も望んでいると考えていたのだろう。廃仏毀釈の頃の久光には、どこか宗教的な情熱といったものが感じられるからだ。頼庸も、久光には取り立ててもらった大きな恩義がある。新政府と対立していった久光を、間近で見て来た頼庸である。鹿児島を離れ、新政府に出仕することを後ろめたく思う部分もあっただろう。久光へのプレゼントとして「鹿児島の聖地化」を求めたとすれば、私の考えすぎであろうか。

こうして、運命の明治5年6月23日を迎えた。

午前6時、行在所の庭にしつらえられた拝所で、明治天皇は神代三陵を遙拝し、御幣物を奉納したのである。明治天皇は、この行動がどんな意味をもっているのか理解していたのだろうか。背後にはきっといろいろな思惑があったのだ。久光や士族への慰撫というパフォーマンス、鹿児島を聖なる神道国家にしようという目論見、そして教部省に乗り込んできた薩摩派の最初の大仕事という、こけら落としの意味合いまで。

だが、この鹿児島行幸は、その目的を達しなかった。その原因は西郷隆盛だった。行幸の計画では熱心に久光慰撫の必要を説いて回った西郷は、なぜかこの行幸中、久光への挨拶に行っていない。久光とすれば、当然西郷は旧主の元へ馳せ参じると思っていたし、西郷ですら、元々はそのつもりだったようだ。それがなぜ久光の下へ出向かなかったか。これも資料が残っていないので歴史の謎である。少なくとも西郷は久光を避ける積極的な理由をこの時は持っていないので、深い事情があってのことではなく来客が多かったなどのささいな理由で挨拶に行けなかったのではないかと思われる。

しかし久光は激怒した。旧恩を顧みない行為だと。久光の慰撫を念頭に実施されたはずの天皇の西国行幸は、かえって久光の新政府への反感を高め、対決的姿勢を助長してしまった。神代三陵の遙拝についても、久光の反応は何ら伝えられていない。それどころか、久光が神代三陵を敬ったということも、特に記録はないのである。おそらく久光は、神代三陵にはさほど関心がなかったか、それが虚構であることを見抜いていた。天皇が恭しく神代三陵を遙拝しようとも、白々しい気持ちでいたかもしれない。

それは、かつて共に神道国家薩摩をつくり上げようとした、久光と頼庸のすれ違いでもあった。久光と頼庸は、神道を精神的支柱とした国づくりという理念は共有していたが、久光は頼庸と違って鹿児島を「聖地」にするつもりは毛頭なかったように見える。そういう、立派そうに見えるだけで中身のない称号を欲しがる久光ではなかった。

このように、久光に対しては空回りに終わった神代三陵の遙拝であったが、天皇が一度でも神代三陵を実在のものとして扱った以上、それが正式に公認されるのは時間の問題であっただろう。既に述べたように、明治天皇の鹿児島行幸から約2ヶ月後の8月29日、教部省は「神代三陵を始め御本陵 御分骨所 御火葬所等未詳の御箇所」を約60箇所も挙げ、早く確定しなくてはならないと宣言するのである。

さらに、教部省が確定を急いだのはそれだけではなかった。皇后や皇子・皇孫、つまり天皇その人のみならず、天皇の係累にまで陵墓を確定しなくてはならないとし、猛烈に確定作業を行うのである。こういった陵墓探しは、明治4年の神祇官時代に始まっていたが、府藩県に問合せをしてもはかばかしい回答もなく、うやむやになりかけていたところだった。それを、教部省が改めて各府県に催促したのが明治5年10月。行幸から約3ヶ月後であり、薩摩派が教部省を手中に収めた頃だ。薩摩派は、どうやら陵墓にはかなり関心があったらしい。

そこから、明治7年までは陵墓の調査の時期である。全国各地に教部省の職員が出張していって、それらしい土地の調査を精力的にやっている。例えば明治6年、樺山資雄
(すけお)は官命を受けて東京から近畿を中心に陵墓調査の行脚を行い、鹿児島でも神代三陵の調査を行った。樺山は言うまでもなく鹿児島出身である(ただし樺山氏の系譜の中でどのように位置づけられる人物なのか未詳)。樺山は白尾国柱から田中頼庸に至る神代三陵の調査・考察を総括し『神代三陵異考』をまとめた。

明治7年になると、陵墓の確定作業は俄然活発になる。

明治14年に成立した『陵墓録』という、陵墓のカタログ的な公式資料があるが、ここに掲載されているものを基準にすると、皇后の墓については維新前に確定していたものが1つしかなかったのに、いきなり明治7年に21もの墓が確定され、明治8年には14、明治9年には13の墓が確定された。また皇子の場合は7割近くに当たる88の墓が明治8年に確定、皇女の場合も7割以上の68の墓が明治8年に集中して確定されているのである。これらを合わせると、明治8年には169もの墓が確定された。

つまり明治7〜8年が、幕末の山陵復興運動も真っ青の、空前絶後の陵墓大量確定の時期であった。この時期に確定された個別の陵墓については詳らかでないが、本来考古学的な調査を要する事項について、口碑流伝や地名だけを頼りに短期間で大量の陵墓の確定を行ったのであるから、その内容はいきおい杜撰となり、信頼性の低いものとなったことは想像に難くない。神代三陵の確定も、この中の一例なのである。

もちろん縷々述べてきたように、神代三陵の場合、白尾国柱以来長い研究の歴史があり、一朝一夕に場所が定められたのではないし、他の皇子・皇孫などの場合とは研究の厚みという意味では比較にならない。だが教部省で神代三陵の考証を担当したのは、山之内時習、猿渡容盛、子安信成、中島秉彜の4人。「文久の修陵」にも参加した陵墓の専門家であった猿渡容盛も加わっているとは言え、文責を担ったのは田中頼庸の盟友・山之内時習であり、これは薩摩派の身内による脇の甘い考証であったと思う。

実際、この考証に基づいた確定を求める稟議書(教部省伺)においても、「数千歳ノ後ノ今日ニ至リ確定候儀極テ難事ニハ候ヘドモ(中略)此上間然有之間敷儀ト存候間今般巡視ノ者見込之通断然御決定可被為在」(数千年の後の今日に確定するのは極めて困難なことではありますが(中略)この上間然(=[考証の欠点について]あれこれと批判すること)するべきではないと思いますので、今般巡視した者の見込みの通り決定していただけますように)といういい方がされており、その調査・考証が万全のものでなかったことが山之内時習その人によっても示唆されている。皇子・皇孫などの場合も推して知るべしであろう。

なおこの考証において山之内は、高屋山上陵については、それまでの定説であり天皇が遙拝もしていた「国見岳」を斥け、頼庸の説に従って「溝辺郷神割岡」を当てている。後述するように頼庸は既にこの頃教部省にいないが、この考証は頼庸の考えを下敷きにしたものであることは明らかだ。頼庸の説は遂に、公認を勝ち取ったのである。

このようにして、明治7年7月10日、 神代三陵は全て鹿児島にあると公式に認められた。ニニギ、ヒコホホデミ、ウガヤフキアエズという神々が、実在のものとされたその瞬間だった。

【参考文献】
『田中頼庸先生』二宮岳南(写本、刊行年不明、鹿児島県立図書館所蔵本)
「西郷隆盛と島津久光」1988年、芳 即正、『敬天愛人』第6号
「明治期における陵墓決定の経緯—皇子・皇孫等の場合—」1985年、外池 昇
「神代三陵御確定ノ儀伺」公文録・明治七年・第百八十四巻・明治七年七月・教部省伺(布達)国立公文書館蔵

2018年7月13日金曜日

神祇官復興、薩人尽力——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その14)

明治5年、神祇行政を牛耳っていた津和野派が突如として教部省から排除された背景には、確かに薩摩閥の策動があった。

当時は岩倉使節団が外遊中であり、維新政府の首脳陣が不在になっていた時期である。特に薩摩閥の政治力が発揮しやすい状況でもあったのだろう。

しかし教部省に乗り込んできた薩摩藩出身者の一群は、突然現れた神祇行政の簒奪者だった、というわけではない。それどころか、表立っての活動が目立たなかっただけで、当初から薩摩藩は神祇行政に重要な役回りを演じてきたのである。

神祇官復興についても、岩倉具視は盟友の千種有文への書簡(慶応3年3月)で「神道復古神祇官出来候由、扨々(さてさて)恐悦の事に候 全く吉田家仕合に候 実は悉(ことごと)く薩人尽力の由に候」と述べている。岩倉によれば、神祇官復興は全て薩摩人の尽力のおかげだというのである。

神祇官復興にあたり、薩摩人が具体的にどういった「尽力」をしたのかは、岩倉の手紙には詳らかではない。ただ、岩倉の念頭には、薩摩出身の井上石見があっただろう。

井上石見は、岩倉と薩摩藩を繋ぐ重要な役割を担っていた。この謎に満ちた、興味深い人物は、薩摩藩と明治政府の神祇政策を考える上での一つの結節点であると思われる。その人生を少し振り返ってみよう。

井上石見(長秋)は、薩摩は福ヶ迫(現・鹿児島市長田町)の諏訪神社の社司の家に生まれた。諏訪神社は、歴代島津家の崇敬も篤かった神社である。石見の運命が大きく動いたのが嘉永朋党事件の時。兄、井上出雲(正徳)にも捕縛の危険が及んだのである。嘉永朋党事件で処分を受けたのは基本的に武士だ。形式的には士籍だったとはいえ神職であった出雲が斉彬派に加わっていたのは、それだけで注目に値する。どうやらこの兄弟には尊皇運動に身を投じる気質があり、神職に収まりきらない部分があったらしい。

というのは、井上兄弟の祖父に井上祐珍という人物がおり、この人は薩摩における闇斎学の重鎮であった。祐珍は山崎闇斎の弟子浅見絅斎(けいさい)の流れを汲み、文化3年には薩摩藩主島津斉宣から「神道の要領を述べよ」という命を受け『神道管窺』という本を書いて上程している。前に述べたように、闇斎学は国学と通ずる儒学の一派で、神道的な儒学とでも言うべきものだ。井上兄弟は闇斎学の立場から、志士的活動に身を投じることになったようである。

嘉永朋党事件での弾圧は苛烈であった。捕縛された者たちが反駁の機会も与えられず切腹に処される中、井上出雲と石見の兄弟は、同様に危険を感じていた3人、即ち幽閉所から脱走した木村仲之丞(後の松山村根)、竹内伴右衛門(後の葛城彦一)、岩崎仙吉(後の相良藤次)らと福岡藩に亡命したのだった。

この亡命者の一団が、歴史に果たすことになる役割には非常に興味深いものがあるが、それは本稿との関連が薄いので割愛する。ともかく、文久の頃にようやく彼らは罪を許されて、薩摩藩の政治活動に外郭的立場から関与していくのである。例えば葛城彦一は、島津家から近衛忠房へ嫁いだ貞姫の付き人となって近衛家に仕え、相良藤次と共に薩摩藩と近衛家の連携を担った。そして井上石見は山階宮(やましなのみや)に仕え、藤井良節と名を変えた兄出雲も、薩摩藩の命によって近衛家の家中(家来)となった模様である。

彼らは薩摩藩と公家の連絡係、もっと言えば薩摩藩の公家工作人員だったのであるが、ちょうど彼らが京都で活動をしていたとき、逃亡生活を送っていた岩倉具視と出会う。

岩倉の逃亡生活については先にも少し触れたが、そのきっかけは和宮降嫁の実現を図ったことだった。これにより岩倉は佐幕的と見なされ、逆臣・姦物とされて朝廷を追放される。しかしそれだけでは反対派が収まらず、「天誅」さえ予告された。そして文久2年10月、ついに岩倉は洛中からも追放され、彼は追っ手の目を避けながら「岩倉村」という京都郊外の村に潜伏していたのであった。これが岩倉にとっての大きな挫折の時期だった。なお、この朝廷からの追放には、藤井良節も一枚噛んでいる。藤井は近衛忠煕など公家たちに岩倉を排斥するよう工作していたのである。

しかし岩倉具視は、こうして失脚させられ、表舞台から退場させられても新国家建設の夢を諦めなかった。幽閉にも等しい生活を送りながら、新しい国家の構想を練り続けるのである。そして地下活動に甘んじるしかない中でその構想によって不思議と人を魅了して、慶応元年頃から次第に岩倉の手となり足となるグループを形成していった。そのグループを、「柳の図子党」という。

そしてこの「柳の図子党」に、どういうわけか藤井良節と井上石見の兄弟が加わるようになったのである。藤井は、元々岩倉を排斥した一人であり、岩倉とは目指すものが違ったのではないかと思うが、そういう藤井をも味方につけたところは、岩倉の組織力、人間的な魅力を見る思いがする。

新国家構想、即ち「王政復古」を実現するにあたり、どうしても薩摩藩の手を借りたい岩倉は、藤井と井上の兄弟を片腕として使うようになる。そしてこの二人は岩倉の期待によく応えた。やがて政権奪取にあたって朝廷の裏工作が必要になってきた薩摩藩は、藤井・井上兄弟を通じて岩倉と手を結ぶのである。

こうした功績から、慶応3年に明治新政府の成立にあたって三職(総裁、議定、参与)が設けられると、井上石見は参与に就任した。参与は下級廷臣と各藩の代表等で構成されるもので、薩摩藩からは西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀等錚々たる9人が任命されている。その中で井上石見は、薩摩藩の中では何の役職も与えられておらず、それどころか実質的には武士としての地位すらなかったのであり、この人事は異例と呼べるものだった。この人事には岩倉の強い意向があったとしか思えず、井上に対する岩倉の信頼がいかに大きかったかを物語る。

また、慶応4年に官制の改革があり八局が置かれると、井上は大久保利通や平田銕胤らと共に内国事務局判事に任命された。明治政府出発の時点で、井上が最重要人物であったことは、人事を見るだけでも明らかなことである。

そして井上石見は、岩倉具視と薩摩藩との連絡役としての働きと同じくらい、国学を政策立案に具現化する上で大きな役割を果たしている。慶応3年3月、井上は岩倉に宛てた書簡で「神道復古と迄至り兼候得共 追々祭政一致之処に不参候而は無詮事と存候 神祇官を被置諸官上之儀に候得は此事よりして、朝政御改革も可被為在と乍不及奉存候(神道の復古とまではなりましたが、追々「祭政一致」までいかなければ無益なことと思います。神祇官を諸官の上に特立させれば、このことから朝政の改革が進むのではないかと思っております)」と言っている。平田派も津和野派も追い求めていた「祭政一致体制」や「神祇官特立」は、井上石見によっても岩倉に主張されているのである。

実は岩倉は、井上石見宛の書簡で、井上のことを「硯大人」と呼んでいる。「硯」は言うまでもなく「石見」の合字であり、「大人(うし)」とは国学者に対する尊称である。岩倉は、井上を尊敬すべき国学者として扱ったようだ。井上自身は、国学者に入門し体系的に勉強したことはなかったが、平田篤胤の直弟子である葛城彦一と行動を共にしたことや、「柳の図子党」に国学者が出入りしていたことなどで次第に国学的な思想に染まっていったのだと思われる。

国学思想を岩倉に鼓吹したのは、既に述べたように国学者の玉松操であったが、実際に国学に基づく政治体制を作っていこうと思えば、公家や諸藩に対して種々の調整が必要になる。しかし玉松にはそうした調整をする能力はなかった。というのは、玉松には藩という後ろ盾がほとんどなかったからである。玉松だけではない。平田派国学者は全国に門人のネットワークがあり、それは諜報や情報収集の点では力を発揮したものの、藩の後ろ盾を持っていなかったために政治的には無力に等しかった。

一方、井上石見は、外郭的立場だったとはいえ薩摩藩がバックについている。彼は大久保利通や小松帯刀を通じ、政策を現実化していく基盤があった。国学に親和的であった井上石見が薩摩藩と岩倉の間の連絡役を務めたことは、明治初年の神祇政策に大きな影響を与えたと思う。

さらに、薩摩藩と国学者たちの繋がりを考える上で、誠忠組の頭だった岩下方平(みちひら)の存在も欠かせない。岩下は平田篤胤の没後門人でもあり、薩摩藩家老として平田系国学者に様々な便宜を与えたようである。例えば岩下は京都留守居の職にあるとき、幕府から追われ逃亡生活を送っていた平田派国学者の角田忠行を保護し薩摩藩の客分として遇している。

また矢野玄道(はるみち)を吉田家に紹介して、当時吉田家が設立しつつあった学館の学頭へと斡旋したのも薩摩藩だった。矢野玄道は薩摩藩の後見を得て、幕末の京都政局へとデビューしていくのである。薩摩藩がこうした行動ができたのも、家老に国学の理解が深い岩下方平がいたからこそであっただろう。ちなみに、薩摩藩は幕末に吉田家と深い関係があったようである。当時、薩摩藩は廃仏毀釈運動を進めていた関係から、神道理論の面で吉田家を頼りにしていたらしい。

そもそも薩摩藩が明治初期の神祇政策をバックアップしていたのは、その廃仏毀釈運動を貫徹させるためでもあったのだろう。こうしたことから、薩摩藩は政治的に無力に近かった平田派国学者の後見役を買って出て、「平田派」が新政府内で一つの勢力となるための踏み台の役割を果たした。

要するに、薩摩藩は、平田派国学が政策として具現化するための産婆役だったのだ。

では、なぜ明治初年の神祇行政において薩摩藩の存在感はほとんどないのだろうか。

その理由として第1に、明治初年の薩摩藩は、神祇政策に深入りする余裕がなかったという単純な事情がある。もっと本質的な、国家の根幹に関わる部分の仕事がたくさんあり、大久保や西郷はもちろん岩下方平も神祇行政に与っている暇はなかったのである。

第2に、明治元年に井上石見が死んでしまったということもある。井上は蝦夷地(北海道)開拓にも熱心であったが、択捉島視察の途上で遭難して事故死したのであった。井上が国学勢力と薩摩藩とを結んでいたのは、かなり属人的な部分があったのではないかと思われ、その後平田派が薩摩藩の後見を十分に得られず津和野派との権力闘争に負けたのも、井上がいなかったことが遠因かもしれない。

そして第3に、薩摩藩内における国学者たちは、藩内の廃仏毀釈・神道国教化政策を進めるのに忙しく、明治政府にあまり出仕していなかったということがある。田中頼庸もその一人である。彼らがようやく中央に進出する気配となるのは、廃仏毀釈が完成し、また廃藩置県によって藩から解雇される明治4年以降になのだ。

こうして考えてみると、明治5年に田中頼庸たち薩摩藩の一群が、大挙して教部省に乗り込んできたのは、決して異とするに当たらない。明治政府の神祇行政には、当初から薩摩藩の意向が反映されていたし、一時は神祇行政の主役を勤めた平田派を後見していたのも薩摩藩だった。

また、平田派没落のタイミングで薩摩藩が津和野派を追い落として教部省の権力を奪取したのは、別段平田派の仇討ちという気はなかったのだろうが、津和野派への反発が含まれていたとしてもおかしくない。大教宣布運動の挫折など、津和野派の構想も限界を露呈していたわけであり、津和野派の退場もそれほど強引なものではなかったのだろう。

こうして教部省にやってきた薩摩藩出身者の一群を、 以後仮に「薩摩派」と呼ぶことにしよう(ただし、後醍院真柱については元々政府に出仕していたし、他の平田派国学者と行動を共にしているから薩摩派からは除くことにする)。

もちろん薩摩派の思想的リーダーが、田中頼庸である。

(つづく)

【参考文献】
島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
明治維新と国学者』1993年、阪本是丸
岩倉具視—維新前夜の群像〈7〉』1973年、大久保利謙
『薩藩勤王思想発達史』1924年、坂田長愛(講演記録)
『明治神道史の横顔—思想・制度・人物でたどる近代の神道』2016年、阪本健一

2018年6月25日月曜日

国学者の敗北——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その13)

神代三陵が全て鹿児島に治定された背景には、確かに明治政府における薩摩閥の政治力があった。田中頼庸の神代三陵遙拝の建白が受け入れられたのも、大雑把に言えば当時薩摩閥が当時強力な政治力を有していたからだ。

とはいっても、 あらゆる行政分野において薩摩閥の政治家・官僚が好き放題にできたわけでもない。特に神祇行政——つまり今で言う宗務行政の分野では、明治の最初期には薩摩藩の影響力は必ずしも大きくなかった。

ところが、頼庸が教部大録として教部省に出仕した明治5年5月には、頼庸とともに盟友の山之内時習や山下政愛など鹿児島出身者が同時に入省。また、省内ナンバー3にあたる教部少輔には鹿児島藩参政や東京府大参事などを歴任していた黒田清綱が就任。さらに以前から政府の仕事に携わっていた後醍院真柱も教部大録として入省し、突如として教部省に薩摩閥が形成されてくる。頼庸の神道国教化政策の一翼を担った三島通庸も追って省内ナンバー4にあたる教部大丞として入省。こうして黒田−三島−頼庸という薩摩閥ラインが確立し、教部省内で大きな影響力を行使していくことになるのである。

どうしてこの明治5年に、突然教部省内に薩摩閥が形成されてきたのか。それを考えるためには、また遠回りになるが明治の神祇行政史を振り返ってみる必要がある。

明治政府の神祇行政の出発点は、慶応3年の「王政復古の大号令」において「諸事、神武創業の始めに基づき」とされたことだ。このことで、明治政府は遙かな古代に行われていたはずの神権政治を当代に再現するよう動くことになる。

具体的には、古代律令制により実施されていた「神祇官」の復興が第一の仕事となった。「神祇官」とは国家の祭祀を司るもので、古代律令制においては諸国の神社を総括し、形式的には太政官よりも上位とされていた。この神祇官の復興運動を中心的に担ったのは、平田派国学者たちであった。彼らは全国に広がる大量の門人とそのネットワークを背景に岩倉具視を通じて政策実現を図り、慶応4年4月には「神祇官」が復興する。

しかしこの頃の神祇官は、太政官の下の一部局である。平田派の望みはあくまで古代神権政治の再現、即ち「祭政一致国家」の実現であり、そのためには古代律令制と同様、太政官よりも上位に神祇官を置くことが必要であった。祭教は政治と同列以上でなくてはならなかったのである。こうして平田派は種々の運動を行い、明治2年7月には官制の改革によって神祇官が太政官から特立し、名実共に神祇官が再興された。この際、神祇官は祭祀と共に諸陵(陵墓)と宣教に関する仕事も担うことになった。言うまでもなく、諸陵が職掌に加えられたのは幕末からの山陵復興運動の高まりを受けてのことである。

ところが、この明治2年の神祇官特立までが平田派の絶頂であった。いや、既にこの時点で、平田派は凋落の傾向を示していた。神祇官の体制には、平田派からは篤胤の養子で一門の総帥であった平田銕胤(かねたね)の息子延胤が申し訳程度に入っただけで、実質的には平田派は中心から遠ざけられた。それに代わって神祇行政を牛耳ったのが、津和野派と呼ばれるグループだ。

津和野派は、津和野藩(島根県の一部)の国学の一派である。津和野藩では、藩主亀井茲監(これみ)自身が国学を信奉し、国学者福羽美静(びせい)と共に国学を土台として尊皇運動を行っていた。津和野藩では、薩摩藩ほどは強権的なものではなかったが幕末に廃仏毀釈を行い、神葬祭の実施など神道国教化政策を行っている。そして明治になると維新の功臣とのつながりを利用して急速に新政府へと近づいた。

津和野派の思想的リーダーだったのが大国隆正(おおくに・たかまさ)だ。平田篤胤の弟子だった大国隆正は篤胤の考え方を軸にしつつも、その神道書理解に不備があることや『古史成文』等における神代史の改竄などを挙げ平田神学を批判し独自の神学を打ち立てていた。これに従ったのが亀井や福羽、そして岩倉具視の師匠格となった玉松操だったのである。

津和野派が平田派と決定的に違ったのは政治力であった。平田派には政治力を及ぼせる窓口がほとんど岩倉具視しかなく、全国に門人は多かったものの特定の藩や利害集団を擁しておらず権力の基盤がなかった。一方、津和野藩は長州藩の隣藩であったため長州出身の要人に様々な繋がりがあり、津和野派は藩主亀井茲監自身が後見していたから、権力闘争においては平田派の一枚も二枚も上をいった。

さらに、それでなくても平田派への風向きは悪くなっていた。というのは、平田派の構想は「復古」の一言に尽きていた。だから明治2年に神祇官が特立し、一応古代律令制の体裁が復活したとき、その目的が達成されたのである。そして彼らはそれ以上の構想を持っていなかった。だが明治政府が「復古」だけで前進できるはずもなく、律令制が明治の時代に合うわけもなかった。

しかも平田派は、一応平田銕胤が総帥を務めていたものの、その門人はあくまで篤胤の門人で「没後門人」と呼ばれ、銕胤の門人ではなかった。つまり銕胤は平田派を率いてはいたが思想的リーダーではない。そうした存在としては篤胤の高弟である矢野玄道(はるみち)がいたが、彼はあまりに学問的すぎ、政治的には無力すぎた。そういう事情から彼らは平田篤胤の構想を時代に合わせて修正していく力を持たなかった。平田派は東京遷都への強い反対や、政府の要人が洋装に変わる中で烏帽子・直垂を着用するなど滑稽なほどの守旧的傾向を示し、政府首脳からは時代錯誤でやっかいな連中と目されるようになって、次第に閑職へと追いやられていく。

一方、津和野派の思想的リーダー、大国隆正は高齢ではあったが存命中であった。彼らは時代に即応して考え方を修正し、発展させることができた。福羽も「神社に生物ばかり供えるのは不都合だ、西洋料理くらい供えねばならぬ」などと述べる開明的官僚であった。こうした姿勢は、平田派との大きな違いを生んだ。あくまで古代律令制にこだわり、「復古」以上の構想を発展させることができなかった平田派が疎んじられていくのは自然のなりゆきだっただろう。

大国隆正らは、平田派の「復古」とは違って新時代の神道を構想した。その刺激になったのはキリスト教への対抗だ。そもそも、明治政府が非常に気を使ったのがキリスト教の防禦である。今から考えると不思議な感じがするが、明治の政策立案者たちは開国によってキリスト教が一気に日本に広まり、キリスト教こそが天皇中心国家を危うくするのではないかと強い危機感を抱いた。よって慶応4年の段階では明治政府はキリスト教を禁教にした。

しかし西欧諸国はキリスト教解禁を強硬に求め、その要求は次第に拒絶できないものになっていく。そこで政府はキリスト教対策の方針を、「弾圧」から「教化」へ変えていった。キリスト教が蔓延しないように、日本国民をしっかり教育しようというのである。明治2年の官制改革で神祇官が特立したとき、職掌に「宣教」が加えられたのはこのためだった。

大国隆正らは、この「宣教」のためには従来の神道では十分でないと考えた。大国はこれまでの神道はあまりにも漠然としていてとてもキリスト教に対抗できないとし、”御一新”を機に神道も一新して新たな教義を立て、これを国民教化の法にすることを企てた。確かに神道は伝統的に教義が希薄であった。そこで彼は天照大神を主祭神に据えた一神教的なものとして神道を組み替えようとしたのだった。

明治3年正月には「大教宣布の詔」が発布。これは日本を祭政一致国家と宣言して神道を国教と定め、「惟神(かんながら)の大道」を天下に布教しようとしたものである。津和野派は、かつて津和野藩で行った神道国教化政策を日本全体へと拡大することに成功したのである。

そして津和野派は、その政治力によって他の神祇勢力の追い落としを図った。例えば、伝統的な神道家であった白川家・吉田家は全国の神社を統べる存在であったが、津和野派はこの両家を不要とみなした。というのは、津和野派の考える祭政一致体制は、天皇親祭にして天皇親政、即ち祭と政を天皇自らが手中に収めるという一極集中的体制であったからだ。天皇自らが祭りを行う以上、神社を統べる中間管理職的なものとしての白川家・吉田家などいらないのだ。津和野派は政権内から両家の排除を計画して、ある程度成功した。

しかしながら、肝心の大教宣布の運動ははかばかしい成果を上げなかった。

その要因はいくつか挙げられる。津和野派と平田派の争いなど国学者同士が内部で対立していたこと、「惟神の大道」といいながらその教義が確立しておらず、教義を確定させるための体制もなく紛糾が続いたこと、全国に宣教を行うため神祇官の外局として「宣教使」を置いたが宣教するに足る人材を揃えることができず名前倒れに終わったことなどが主因であろう。「大教宣布」などと立派なことをいいながら、中身がなかった。

さらに重要なことして、そもそも信仰という内面的なものを国家が強権によって一朝一夕に変えようとすること自体に無理があった。しかもその教義は急ごしらえで作ったものであり、日本に限っても一千年以上の間俊英たちが育ててきた仏教の教義体系と比べ、いかにも貧弱であり幼稚蕪雑なものであった。中身のない教えによって、人々の信仰を強制的に変えさせるのは不可能だったのだ。

大教宣布運動の行き詰まりによって、神祇官への風当たりは厳しくなっていった。予算面を見ても明治3年後半(明治3年10月〜4年9月)には急激に減少し、全ての所官の中で神祇官の予算が最少になってしまう。その上神祇官にはなんら行政執行権も持っていなかった。神祇官は「復古」を旗印に「大教宣布」や山陵や神社の造営など経費がかかる事業をやる割には、なんら事業の成果がないように見えた。当初華々しく復興した神祇官だったが、こうして徐々に無用視されるようになってくる。

威勢はいいが中身のない「復古」に予算や人員を割くよりも、「近代化」に注力する方がずっと実になると政府が考えたのは当然だろう。

こうした趨勢の中で平田派の官員は人員削減を理由に徐々に免官になり、明治4年3月には矢野ら平田派国学者の中心メンバーが「ご不審の筋これあり」として突如拘禁され、神祇官から排除された。福羽の讒言によるとも言われるが真相は定かではない。ただ、津和野派が平田派との権力闘争に完全に勝利したことは事実だった。しかし平田派の国学者たちが排除されたことで皮肉にも神祇官はさらに弱体化し、明治4年8月には神祇官は格下げされて「神祇省」となった。

この神祇省において福羽は神祇大輔に就任。神祇行政の事実上のトップとして君臨した。神祇省に格下げされたことは大勢の国学者を落胆させたが、福羽はむしろこれをよい機会だと思っていたらしい。津和野派の祭政一致構想は、天皇親祭にして天皇親政であったから、祭祀を司る神祇官なるものも本質的には不要であったのだ。福羽は神祇大輔として自らの理想の実現に邁進しようとした。

しかし、この神祇省の命脈も長くは続かなかった。結局、福羽は大教宣布運動を立て直すことができなかったのである。大教宣布運動の限界が、そのまま神祇省の限界となった。

そして大教宣布運動は、民衆に対して教化の実績を上げられなかっただけでなく、仏教界からの強い反発を招いた。彼らは当然、露骨な神道国教化政策に対して反対したし、国民教化やキリスト教防禦には仏教こそが有効な運動を展開できると主張した。

こうした主張の背景には、キリスト教の防禦を担うことで仏教の地位を向上させようとする目論見もあった。なにしろ仏教界は神仏分離政策やそれに続いた廃仏運動などによって痛手を受けていた。あからさまな神道優遇の雰囲気に歯止めを掛けるためにも、仏教としては積極的に国家に協力してその存在価値を示すことが必要であった。よって仏教もキリスト教を「法敵」として排撃し、自ら進んで神仏儒三教一致による国民教化運動へ乗り出そうとするのである。

一方政府としても、仏教界の懐柔は重要だった。財政的に厳しい新政府に対し、東西の本願寺が多額の献金をしていたという事情があったからだ。特に長州閥が西本願寺(浄土真宗本願寺派)との関係が深かったことは、長州閥の人脈を頼りにしていた津和野派にとっては手痛いところだっただろう。

そういうことから、政府としてはいつまでも成果の出ない大教宣布運動を続けるより、神仏合同でキリスト教防禦を行うべきという意見が明治4年秋頃から支配的になり、当時左院副議長だった江藤新平が中心となって新体制案が検討され、明治5年3月、神祇省を廃止して教部省が置かれた。この措置は神祇省の官員にすら知らされず秘密裏に進められ、唐突に行われたものだという。いかに国学者たちが時代に置いて行かれつつあったかが分かろうというものだ。

こうして、明治政府の神道国教化政策は終わりを告げた。福羽は教部省でも実質トップの教部大輔に横滑りしたが、もはや命運は尽きていた。そして教部省は肝心の「祭祀」を所掌しなくなった。国学者たちが夢見た「祭政一致国家」の構想は政府自身によって否定され、政教分離に向けた一歩を踏み出したのであった。

これは、平田派と津和野派の国学の否定でもあった。「復古」にしろ「大教宣布」にしろ、威勢のよい割に実質を伴わなかった種々の運動が、試行錯誤の末に瓦解した。

その背景には、国学者同士の激しい内紛もあった。どのような分野の行政史であれそうした面はあるが、ことにこの時代の神祇行政には権力闘争の側面が強かった。というのは、それが「正統」と「異端」を巡る争いだったからだ。平田派と津和野派は、その奉じる教えが相容れないからこそ別のグループになっていた。足して2で割る、といったような政治的妥協を行うことが原理的に出来なかった。神祇行政において対立は根本的に「神学論争」であり、いつまでも解消できないものだった。本来協力し合うべき国学者たちは互いに足を引っ張り合い、果てしない神学論争の果てに共倒れした。

後に日本を強力に支配することになる「国家神道」は、確かに国学の鬼っ子である。しかしそれは国学者たちの構想の先にあったものではなかった。国学者たちは、明治5年、確かに敗北し、政治の第一線からは退いたのである。

そしてその敗北者たちのうずくまっていた教部省に乗り込んできたのが、田中頼庸を含む薩摩閥の一群だった。

(つづく)

【参考文献】
明治維新と国学者』1993年、阪本是丸
神々の明治維新—神仏分離と廃仏毀釈』1979年、安丸良夫
<出雲>という思想』2001年、原 武史
 「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男

2018年6月1日金曜日

高屋山上陵の変転——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その12)

中央に取り立てられていった田中頼庸の動向を追う前に、彼が中央へ旅立つ直前に行った、神代三陵に関する仕事について触れておく必要がある。

頼庸は、鹿児島の神道国教化政策がクライマックスにさしかかっていた頃、神代三陵の調査を行い、明治4年には『高屋山陵考』を著して、ホホデミのミコトの陵墓の位置について考証した。言うまでもなく、この考証を行ったことが天皇への神代三陵遙拝の建白に繋がり、引いては後の明治7年の神代三陵の裁可へと結実していく。頼庸が鹿児島で行った神道国教化政策の仕上げにあたる部分が、この調査・考証であったといえる。

この調査がどような意図に行われたのか理解するため、それまでの神代三陵の考証の経緯を概観してみよう。

既に述べたように、神代三陵について初めてまとまった考察を行ったのは、薩摩藩の国学者の嚆矢白尾国柱であった。彼は寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を著し、神代三陵が全て薩摩に存在することを主張した。この主張は本居宣長の注目するところとなり、宣長はその著書『古事記伝(十七之巻)』において国柱の見解を引用、当時影響力があった松下見林の『前王廟陵記』の見解も合わせて考証し、結論として「かかれば神代の三ノ御陵は、大隅と薩摩とに在リて、日向ノ国にはあらず」とした。

ところが宣長にしても、神代三陵の細かい位置については国柱の説には全面的には賛成していない。例えば国柱は可愛山陵を「薩摩国高城郡の水引郷五臺村、中山の巓」にあるとしたが、これに対し宣長は「なほ疑ヒなきにあらず」としている。さらに、高屋山上陵についても、国柱の説「大隅国肝属郡、内浦郷北方村国見岳」に対し、『日本書紀』の方角の記述と合わないことを挙げて「彼地(ソノトコロ)、霧島山より西ノ方にあたれりや、なほ尋ぬべし」とさらなる検討を催している。疑義を差し挟まなかったのは、「大隅国肝属郡、姤良郷上名村鵜戸の窟」にあるとされた吾平山上陵だけである。

ちなみに松下見林の『前王廟陵記』では、可愛(エ)と頴娃(エ)という地名の類似から可愛山陵は薩摩国頴娃郡にあったとし、鹿児島の地理に若干混乱があるものの、高屋山上陵については阿多郡(現・加世田)と肝属郡に共に「鷹屋郷」があることを紹介して位置を推測している。ともかくこの頃の神代三陵の位置については、盤根錯節としていて諸説が入り乱れていた。これが明治に向かって徐々に整理されていく。

継いで神代三陵の考証を行ったのが後醍院真柱である。真柱は文政10年(1827年)に20代で『神代山陵志』を著した。本書中、先に成った可愛山陵の考証を人づてに平田篤胤へ送ったところ、篤胤は真柱の説を大いに評価した。その説とは、可愛山陵は白尾国柱が主張する「薩摩国高城郡の水引郷五臺村、中山の巓」ではなく、同じ水引郷の新田神宮がある「八幡山」であるとするものである。議論の細かい点は省くが、「八幡山」と「中山の巓(中の陵ともいう)」は同じ「亀山」という山塊の別の峰であり、真柱は白尾国柱の説に概ね賛同しつつ、その修正を図ったといえる。

篤胤はその著書『古史伝(第三十一巻)』において真柱の説を詳しく紹介し、国柱の説と比較考量した上で「三陵考(※白尾国柱著)には謂ゆる中の陵を御陵となしたるを三陵志(※後醍院真柱著)にはそを否(しからず)として直にその八幡山を御陵と定めたる是れも決めて然るべし」と述べて賛意を表した。真柱は、後日篤胤の門人となるが、この『神代三陵志』が業績として高く評価されていたため、信頼や待遇が殊の外厚かったという。

幕末以前の鹿児島の国学者を代表する二人である白尾国柱と後醍院真柱が共に神代三陵の考証を行い、またそれぞれ本居宣長と平田篤胤に認められたというのは決して偶然ではない。というのは、山陵の考証というものは、地方の国学者にとって中央の権威に認められるためのステップ的な役割を果たしていたからである。

明治に入ると、早くも明治元年(慶応4年)4月、神祇事務局は三雲藤一郎と三島通庸(みちつね)等に神代三陵の取り調べを命じ、二人は後醍院真柱を伴って巡察を行った。このことで真柱は、20代から執筆し準備してきた『神代山陵志』を改めて完成させ、明治2年10月には神祇官に提出している。

ところで先に述べたように、この段階では政府は神代三陵を治定しようとはしていなかったようである。しかし三雲と三島に調査を命じたのはどういう事情によるものだろうか。

実は、三雲藤一郎は鹿児島神宮の神職であり、三島通庸はいわゆる誠忠組の一員で西郷や大久保と近く、さらに鹿児島の廃仏毀釈運動を会計奉行として支え、島津忠義夫人の「神葬祭」を執り行った人物でもある。これは政府としての調査というよりも、薩摩閥内での調査と言った方がよさそうである。

このような経緯から、この段階で神代三陵の位置はほぼ次の通りに定説化した。
可愛山陵=新田神社のある八幡山——現・薩摩川内市
高屋山上陵=内之浦の北方村国見岳——現・肝付町
吾平山上陵=上名村鵜戸の窟——現・鹿屋市
可愛山陵については議論もあったが、高屋山上陵や吾平山上陵については白尾国柱と後醍院真柱の見解が一致し、江戸時代からの崇敬もあったため、誰もがこのまま治定されると思っていただろう。

そこに異論を唱えたのが田中頼庸だった。

頼庸は明治4年正月、官命を受けて山之内時習と共に神代三陵の実地調査を行った。この山之内時習は、神葬祭の推進など薩摩の神道国教化政策における頼庸のパートナーだった人物である。そして本稿冒頭に述べたように、頼庸は『高屋山陵考』を著して高屋山上陵の位置が「内之浦の国見岳」ではなく、「姶良郡溝辺村神割岡」であることを力説した。

その理由を簡単に述べれば、『古事記』によれば御陵は「高千穂の西」にあるとされているので方向が合うということと、神割岡の近くにはホホデミのミコトを祀る鷹屋(たかや)神社があり、鷹屋=高屋であると考えられるということの2点である。

しかし実は『高屋山陵考』が著される前に、神割岡では奇妙な調査が行われていた。後醍院真柱が『神代三陵志』を明治政府に提出した直後の明治3年正月、鹿児島藩庁は職員数名を派遣し、溝辺郷常備隊分隊長らと神割岡の発掘調査を行ったのである。そして、この時神割岡の頂上付近を発掘したところ古代の焼物等を発見したため、恐懼してそのまま発掘を中止したという。

この調査が奇妙なのは、まず「発掘調査」をしているにも関わらず、実際に遺物が出てくると「恐懼してそのまま発掘を中止」した点だ。これでは何のために発掘したのか分からない。普通の発掘であれば、遺物が出てきたらそこからが本番のはずである。そして2点目に、政府からの命を受けた真柱が僅か3ヶ月前に「高屋山上陵=内之浦の北方村国見岳」との説を神祇官へ報告しているのに、そことは違う場所を高屋山上陵と見据えて調査を行っている点だ。

これは私の推測だが、この調査は当時神社奉行として辣腕を奮っていた田中頼庸が行わせた可能性が高い。廃仏毀釈運動の実働隊となった常備隊が関係したことや、1年後に彼が『高屋山陵考』を著すことを考えても、この時期に神割岡の調査を必要とする人間は頼庸以外ほとんど考えられない。そして彼は高屋山上陵=神割岡説を補強するため発掘調査を行わせたものの、思惑とは違うものが出土したために急遽取りやめたのではないかと思う。

頼庸がその新説にこだわったのは、もちろん自説を確信していたということもあったろうが、山陵の考証が中央の国学者に認められるためのステップだったことを考えると、頼庸としても神代三陵の考証で名を上げようと意気込んでいたということがあるのだろう。事実『高屋山陵考』は彼の最初の学術的業績になった。今で言えば、頼庸にとって初めてのファースト・オーサー(第一著者)論文が『高屋山陵考』だったわけである。

高屋山上陵の位置については、もう一つ重要なエピソードがある。それは、まさに明治5年6月23日に天皇が神代三陵を遙拝した際に向かっていたのは、先ほど挙げた定説化していた場所であって、高屋山上陵については頼庸説の神割岡ではなく、国見岳の方だったということだ。つまり明治5年の段階で、「高屋山上陵=国見岳」は内定していたと考えられる。

にもかかわらず、明治7年の神代三陵治定の裁可では、高屋山上陵は神割岡へと変更し確定されたのである。

遙拝、つまり遠くから拝んだだけにしても、天皇が公式に国見岳を高屋山上陵として扱い、国見岳へ対し金幣を共進しているという既成事実があったのに、明治7年の裁可では頼庸説の神割岡が採択された。

このことが示唆するのは、田中頼庸が政府内でも大きな影響力を持つようになったということだ。そもそも、微臣に過ぎない頼庸の建白が容れられ、天皇が神代三陵を遙拝したということを考えてみても、頼庸にはその肩書き以上の存在感があったように思われるのである。

頼庸は栄転していった明治政府で、どんな仕事を手がけ、なぜ大きな存在となっていったのだろうか。それを考えるためには、明治の神祇行政史を振り返ってみる必要がある。

(つづく)

【参考文献】
『後醍院真柱の略歴』1928年、後醍院 良望 編
『古事記伝 第3巻(十七之巻〜二十四之巻)』1930年、本居宣長
『古史伝(第三十一巻)』 1887年、平田篤胤
『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料第五輯 神代三山陵に就いて』1940年、紀元二千六百年鹿児島縣奉祝會(池田俊彦 執筆の項)
 「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男

2018年5月17日木曜日

皇軍神社と新しい神道——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その11)

廃仏毀釈の嵐が最後に残った名刹をも吹き飛ばそうとしていた明治3年11月、鹿児島の城下に奇妙な神社が創建された。その名も「皇軍神社」、訓じて「すめらみくさのかみのやしろ」という。

皇軍神社は、御軍神社という神社を母体にして創られたもので、翌月には軍務局の隣に遷座された。祭神は、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、楠木正成、そして島津歴代の名将7人、すなわち忠久、忠良、貴久、義久、義弘、斉興、斉彬、の計10座であった。

まず、この祭神が奇妙だった。武甕槌神と経津主神という神話に登場する神と、楠木正成と、それから島津歴代の名将が祭神として同列に並んでいるのは、いかにも不思議なとりあわせだ。

皇軍神社が、軍務局の隣に遷されたのも特殊だった。この神社は、その設立から普通の神社とは全く異なっていた。

そもそも、「皇軍」神社という名前も破格なものだ。鹿児島に厳密な意味での「皇軍」はなかったのだから。この奇妙な神社は一体何だったのか。

皇軍神社のご神体は楠木正成の木像であったが、これは幕末の志士有馬新七が伊集院の石谷に建立した「楠公社」に祀ったものを遷したものである。皇軍神社の奇妙な祭神群の中核を為すものは、楠木正成だった。

ここで少し、楠木正成崇拝(楠公崇拝)について説明する必要があるだろう。

楠木正成は後醍醐天皇の命を受けて鎌倉幕府を倒し、「建武の新政」(後醍醐天皇の統治)を実現させた。幕末の「尊皇の競争」の中で、天皇への忠誠を貫いた楠木正成への崇拝は全国的に急激な盛り上がりを見せる。特に水戸学においては、楠公崇拝だけでなく天皇に忠勤を尽くしたものも神として祀ることまで主張された。さらに後には楠木正成の鎌倉倒幕は、徳川幕府の倒幕へと暗になぞらえられた。楠木正成は倒幕を現実化した忠臣として、反幕勢力にとっての理想像となっていった。

薩摩藩でも、既に元治元年(1864年)、島津久光が楠木正成が果てた地である湊川(兵庫県)に神社を建立するよう願い出ている。久光は尊皇の志を表そうとしたのだろう。この提案は裁可されたものの幕末のゴタゴタのためうやむやとなったが、同種の提案は慶応3年に尾張藩主徳川慶勝からもあり、これに刺激された薩摩藩は、明治元年に岩下方平らが東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)へ改めて神社建設を建白。一方水戸藩もこの建設の一任を願い出た。朝廷からも千両の寄附があり、薩摩と尾張、水戸が競うような形で楠公崇拝の神社が計画され、これは明治5年に「湊川神社」として実現した。

ある意味では、皇軍神社はこの湊川神社の先蹤となるものであった。殉国者を神として崇め、忠君愛国を宗教的な教えにまで昇華させようとしたのだ。その上、宗教と軍事を結びつけた。

軍務局の隣(一説には練兵所の中であったともいう)にあったことから、やがて私学校が創建されると皇軍神社はその守護神とされた。さらに皇軍神社は、県内各地にも分祀されたらしい。垂水に分祀された皇軍神社が早くも明治4年に建立されているところを見ると、県庁は皇軍神社を各地で崇拝させ、宗教的軍事思想を広めようという明確な意向があったのだろう。

思えば島津久光が維新後に鹿児島でやった主立ったことと言えば、廃仏毀釈と、藩政を軍事組織へと組み替えることの二つなのだ。軍功があったわけでもない久光の父斉興が皇軍神社に祀られたことを考えると、この神社の設立にも久光の強い意向があったのではなかろうか。皇軍神社は久光が行った宗教と軍事の二つの改革を象徴する神社だったように思われる。

そして皇軍神社は、宗教と軍事の露骨な結託という意味で、昭和になってからの靖国神社の存在の先駆となるものでもあった。既に鹿児島には、後の「国家神道」の萌芽があったのである。

この奇妙な神社が創建されたのは、一体いかなる神道理論に基づくものであったか。

というのは、薩摩藩を席巻した平田派の国学では、「復古神道」すなわち古えの神道の姿を取り戻すことが大原理だった。「王政復古の大号令」でも、「神武創業の始めに基づき」とされている。このような新参の神社を創建することは、「復古」の名に悖るのではないか。

事実、明治4年に神社の序列を定める社格制度が出来た時も、『延喜式』の神名帳に掲載された神社が正統とされている。しっかりと古代に倣っているのである。「復古」を旗印にする限り、新しい神社の創建など問題にならないはずだった。しかし実際には、「復古」の名の下に、神道は新しく作りかえられていくのである。

「王政復古の大号令」において「神武創業の始めに基づき」と謳われた背景には、岩倉具視のブレーンとなった平田系国学者の玉松操の存在があった。岩倉が新国家の構想を考えていた頃、彼は失脚し京を追われて京都郊外の村で逃亡生活を送っていた。岩倉が新国家樹立のコンセプトとして「復古」を思い描いたとき、新制度を具体化していく上で古代社会の知識を持ったものが必要になり、そこにちょうど現れたのが玉松だった。

玉松ら国学者は、岩倉に「建武の新政では十分ではない、神武創業にまで復るのだ」と教唆したと言われる。楠木正成が実現した「建武の新政」は、実際には短い間で瓦解したという事情もあったためであろう、明治維新の理想は神話的古代に置かれ、歴史的事実が全く明らかでない神武創業の始めにまで復ることが必要とされた。

しかし、この荒唐無稽な「復古」は、逆説的に明治政府を開明的にする余地を残していた。いや、おそらく岩倉は気づいていたのだろう。歴史的に明確な「建武の新政」を理想にしては、彼が構想していた新国家の青写真を現実化できないことに。私は「神武創業の始めに基づき」という旗印は、岩倉によって周到に用意されたものであったと思う。歴史的には霧の中にある「神武創業」を理想にしたことで、「復古」の名の下に維新政府は事実上フリーハンドで制度を設計することができた。「復古」は、歴史的なある時点に戻るという文字通りの意味ではなく、今をただ勇ましい神話的古代になぞらえることでしかなかった。

だから、「復古神道」が意味するところは、実際には古代の神道に戻るというものではなかった。「神武創業」まで復ることが定められたとき、神道は国家にとって必要な宗教として作りかえられていく宿命だったのかもしれない。そもそもこれを構想した平田篤胤自身、『古事記』や『日本書紀』に基づきながら、それらのどこにも書いていない古代の有様や魂の行方を考えていたのだ。

「皇軍神社」が拠っていたのは、新しい時代の「神道」だった。それは、古くからの神道とは全く違う、忠君愛国を教え込むための新しい教えだった。そして、楠木正成を忠臣として崇拝するのみならず、島津歴代の名将をも神としたことは、国家に対し功績を上げた人間は神となるという思想も表していた。戦死した人間が神として祀られる、靖国神社の仕組みを先取りしていた。

国家に尽くして死ねば神になるという観念は、古くからの日本人の死生観にないものだ。あったのは、現世に強い怨念を残して死んだものは篤く祀らなければならないという、御霊信仰の方だった。古代の人々は怨霊を恐れた。菅原道真を祀った北野天満宮はその代表的な例だ。国家に功績のある人間を祀るようになるのは、せいぜい織田信長以降である。

しかしこの殉国者を神として祀る思想は幕末から急速に広まっていくのである。元治元年(1864年)に鹿児島に創建された島津斉彬を祀る「照國神社」もその一つだ。各地で、このような神社が創建された。「皇軍神社」は、その極端な例だった。

一方で、このようにして祀られた神社は、当然『延喜式』に基づくものではなかったから、社格制度の枠組みには入らなかった。そこで天皇に忠勤を励んだ臣下などを祭神として祀る神社のために「別格官幣社」という制度が新たに設けられ、その第1号としてあの湊川神社が列格された。追って、靖国神社が別格官幣社の中でもさらに特殊な神社として特立していく。

「復古」で始まったはずの明治維新は、いつしか「復古」の名の下にあらゆるものをつくりかえる力を持った。田中頼庸たちが廃仏毀釈運動の中で鹿児島を塗りつぶそうとしていた「神道」は、「復古」というよりも、全体主義国家の「国教」として新たに創出されたものだった。あたかも、神武天皇陵が幕末になって新たに築造されたようにだ。

廃仏毀釈、というと、仏教への弾圧のイメージが強い。しかし仏教への圧力と同じくらい、実は神道へも強力な介入と弾圧があった。

元々、市来四郎らが実施した前期廃仏毀釈においても、寺院だけでなく神社も統合整理の対象となっていた。民衆が自然発生的に信仰してきた神社は、新しい国家にとって不要だった。元来の神道は、仏教と共に引き裂かれていった。

まず行われたのは神仏分離だった。廃仏毀釈以前、鹿児島に存在していた4470の神社のうち、ご神体が仏像でなかったのは、ただ一社しかなかった。一社の例外を除き全ての神社のご神体は仏像であったのだ。神道と仏教は分かちがたく共生しあっていた。しかしこれが「神仏混淆」と批判され、廃仏毀釈運動では、これら仏体のご神体を強制的に取り除き、新たに神鏡などをつくって祀らせた。さらに、民衆が自然発生的に祀っていたものなどは、「由緒が明らかでない」として近くの神社に合祀させた。八幡宮や諏訪社などは一郡の中に何十箇所もあったため、一村に一つあるいは二つと定めて他を強制的に合併させるなどした。寺社のリストラは、人々の信仰とは無関係に、神社を整理統合していった。

後期廃仏毀釈になると、より積極的に信仰が改変されていく。「復古神道」の実現を名目として、『古事記』『日本書紀』『延喜式』等に書かれていない神を異端扱いし、祭神のすげ替えまでが実施されるのである。

例えば、鹿児島の宇宿に今も残る「天之御中主神社」は、元は「妙見神社」であった。しかし「妙見さま」は『古事記』等には出てこない土着の信仰だ。復古神道では、そのような神は存在してはならなかった。「妙見さま」は北極星の信仰であったため、天の中心ということで『古事記』に登場する天之御中主と同一視することになり、祭神を「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」にすげ替えることによってこの神社は存続した。こうして「天之御中主神社」が生まれた。それまでの信仰は否定され、新しい神が鎮座した。明治5年頃のことである。

島津氏の尊崇も篤かった妙見神社でさえこれだから、民衆の信仰が「淫祠邪教」とされて蹂躙されるのは時間の問題だった。本来の神社への信仰は破壊され、首だけがすげ替えられた新しい神社が勃興した。 ただ「山の神」として崇められていた祠は「大山祇神社」、「祇園天王」は「八坂神社」となるなど、社名と祭神が暴力的に画一化されていった。

こうしたことは全国的に起こっている。ただし神社の改称を徹底的に行ったのは一部の地域に限られるようだ。あまり熱心に行わなかった地域では、政府の指導に表向きには従ったが、網羅的な改変まではやらなかった。もちろん鹿児島は、最も激しく、徹底的に行った地域の一つである。

神社の改変は、当然ながら信仰の改変をも伴った。元来の神道には教義らしい教義がない。神道は倫理的な教えではなかったし、自己を陶冶していく教えでもなかった。そこにあったのは、潔斎の勧めと死穢を避ける儀式、豊穣を祈り収穫に感謝する儀礼といった、自然のサイクルにまつわる信仰であった。しかしそういったものは、新しい神道には形式的にしか引き継がれなかった。

新しい神道は、民衆の信仰を「祖先崇拝」と「皇祖崇拝」に一元化し、忠君愛国のために身を捨てるように勧めるものであった。後には、天皇・国家のために殉死することが最高の幸せであるとまでされたのである。新しい神道は、「国民」を天皇中心国家の一兵卒として教化するためのものであった。

鹿児島の廃仏毀釈においては、後に「惟神の道(かんながらのみち)」、そして「国家神道」と言われるようになるこうした新しい神道はまだはっきりとその姿を現しているわけではなかったが、『神習草』の配布などを考えると、間違いなくその先鞭をつけていた。

このように、鹿児島の廃仏毀釈は寺院を徹底的に消し去ったのみならず、神社をも大規模に整理統合し、その信仰を強制的に改変してしまった。確かに仏教が蒙った被害も甚大であった。しかし仏教はそれを乗り越えて、再興することができた。しかし元来の神道が有していた信仰は、明確な教義に基づくものでなかったために、一度破壊されると元の姿が分からなくなった。民衆の自然発生的な信仰はどこにも記録されていなかったから、一度失われるともはや再興は不可能だった。

鹿児島の廃仏毀釈、そして政府の神仏分離政策は、表面的にはあからさまな神道優遇、仏教排斥の政策であったが、その内実を見てみると神道が蒙った被害は取り返しがつかないもので、その意味では仏教に対してよりも大きな打撃が加えられたのである。

鹿児島の後期廃仏毀釈を主導した田中頼庸が、こうした神道の改変にどの程度携わっていたのかは、史料が残っておらずわからない。しかし状況証拠を付き合わせてみれば、このような強力な宗教改革運動を成し遂げられるのは頼庸以外いない。

明治4年の廃藩置県を迎えても、田中頼庸は所属を藩庁に変えてしばらく同種の仕事をしていたらしい。というのは、鹿児島県令として赴任してきた大山綱良が彼の叔父であったため、その縁から藩庁に勤めていたようである。

ところが同年、中央政府に教部省が設置されたことに伴い、田中は職を辞して同省に教部大録として出仕した。今で言えば中堅官僚、課長クラスである。鹿児島で宗教改革に邁進した田中頼庸が、今度は中央政府に取り立てられたのである。栄転と言わなければならない。

彼の建白に基づいて明治天皇が鹿児島で神代三陵を遙拝するのが、約1年後のことであった。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島県史 第3巻』1941年、鹿児島県 編
『薩藩勤王思想発達史』1924年、坂田長愛(講演記録)
神道指令の超克』1972年、久保田 収
靖国神社』1984年、大江 志乃夫
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
『垂水市史 上巻』1974年、垂水市史編集委員会 編

2018年5月8日火曜日

日新公没後450年と、草の根の「日新公いろは歌フォトブック」

2018年は、日新公没後450年である。

日新公とは、島津日新斎忠良(じっしんさい・ただよし)。島津中興の祖と言われる、加世田ゆかりの戦国時代の名君である。

日新公の生きた時代は戦乱の世であった。鹿児島でも、敵と味方が入り交じり、各勢力がモザイクのように絡み合っていた時である。日新公は伊作島津家に生まれたが、幼い頃、父・伊作善久(よしひさ)が弑逆(しぎゃく:臣下に殺されること)され、また祖父・久逸(ひさはや)も戦で討ち死にして厳しい境遇に置かれた。

しかしやがて相州島津家の島津運久(よきひさ)が日新公の母・常磐を妻として迎え入れる。こうして若い日新公は伊作島津家と相州島津家という2つの島津分家の双方の当主となり、田布施(金峰町)の亀ヶ城を居城とした。

この頃は島津家同士が争い合っていた。いわば親類同士での殺し合いである。日新公の相州島津家、薩州島津家、そして島津本家の三つ巴の争いであった。当初は薩州島津家の島津実久(さねひさ)が優勢であったが次第に日新公が勝利を重ね、遂に天文7年(1538年)、薩摩半島南部の実久の拠点だった加世田を夜襲により攻略。時を同じくして日新公の子・貴久も鹿児島方面で実久勢を斥け、日新公・貴久親子は相争っていた島津家を統一した。

こうして日新公が島津家を統一したことにより、島津家は強力な勢力として成長していく。子の貴久は日新公の死後薩摩国を平定。また孫にあたる「戦国薩摩四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)」の時代には、薩摩・大隅・日向の南九州3カ国を統一し、薩摩藩の基礎となった。

日新公は、このように優れた武将であったが、彼が尊崇を受けたのはそればかりが理由ではなかった。例えば領地では産業の振興に努め、仁政を施したので領民が喜んだというし、さらに日新公は文化を保護し、学問を振興した。彼自身も幼い頃、真言宗の海蔵院というお寺に預けられて厳しい教育を受けており、さらに長じてからも桂庵玄樹の学統を継ぐ学僧から禅や儒学を学んだ。

そうした学問が基盤となっていたのだろう。日新公は家督争いの最中にも、激戦地となった各地で敵味方問わず戦没者を供養する仏事を挙行し、六地蔵塔を建てた。血を分けた親類同士が殺し合うのだから勝利しても後味は悪く、寂寞とした思いがあったのではないかと思う。だから戦が終われば敵味方を区別せず供養を行った。加世田に残る六地蔵塔はその一つである。

また、日新公は加世田の攻略後しばらくして、幼少期から学んだ儒学や仏教の哲理をいろは47文字で始まる和歌集にまとめた。これは「いにしへの道を聞いても唱えても わが行いにせずばかいなし」から始まる心を鍛える教えであり、後に薩摩藩士の子弟教育の根幹として用いられた。

すなわち日新公は、相争っていた島津家を統一するとともに薩摩国平定の道筋をつけたという軍事的・政治的な業績と、教育・文化を保護し「日新公いろは歌」という薩摩藩士の道徳の基礎となる教えを編んだという2面において、後の薩摩藩の基礎をつくった人物なのである。

そんな日新公が亡くなってから、2018年で450年になる。

日新公が晩年隠居したのが加世田で、また死後には現在の竹田神社のところにあった日新寺(当時は保泉寺という)に葬られていることから、日新公と加世田との縁は深く、今年はいくつかの記念事業が計画されているようである。特に7月21日~23日は「日新公ウィーク」とされ、仙巌園では7月21日に「三州親善かるた取り大会」があるそうだ。この「かるた」はもちろん「日新公いろは歌」を使う。

そういった行政が計画しているものとは別に、市民からの自然発生的な取り組みもある。その一つが、冒頭写真に掲げた「日新公いろは歌フォトブック」。

南さつま市各所の風景写真とともに「日新公いろは歌」が解説つきで掲載されている。「いろは歌」の解説チラシは行政なども作っているが、こうして風景とともに眺めるとまた違った雰囲気になると思う。

実は私自身も、以前「日新公いろは歌」に興味をもってまとめたことがある。

【参考記事】郷中教育の聖典、日新公いろは歌

しかし内容について考えるだけで、こういう風に端正にまとめて若い人にも受け入れられる形にするということは思いもよらなかった。 行政が作っている解説チラシはあまり読む気がおきないものだが、これなら興味がない人でも手に取りやすいと思う。

また、内容には「いろは歌」だけでなく、日新公やゆかりの史跡について簡単にまとめてあり、観光の記念・おみやげにちょうどよい。こういう資料があると、あとで思い出そうという時に役立つ。

ちなみにこのフォトブック、「砂の祭典」で1冊500円で販売していたので私はそこで買ってきた。今後は物産館などでの販売を計画しているということである。

このフォトブックを作っているのは、「ミナミナマップ」という地域情報発信プロジェクト。今風に言えば「WEBメディア」。WEBでの発信だけでなく、本体活動である南さつま市のマップづくりや、お土産づくりといった様々な活動を展開中である。

最近、自分の研究(鹿児島にはなぜ神代三陵が全てあるのか等)に時間を取られて、このブログの更新があまり出来ていないので、南さつま市の情報を欲している方はこちらのブログやFacebook等のSNSをフォローすることをオススメしますよ。

【ミナミナマップ】
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※この他紙のマップがありますがそれについては気が向いたら後日書きます。

2018年4月4日水曜日

神道国家薩摩——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その10)

島津忠義夫人照子(暐姫)の墓(川田達也氏撮影)
鹿児島の後期廃仏毀釈は、苛烈であった。

藩内にあった1066ヶ寺が全て廃され、2964人の僧侶は全員が還俗させられた。仏教的なるものは悉く毀(こぼ)たれ、鹿児島から一掃された。日本国中を見ても、これほど徹底的な仏教の破壊が行われたのは稀である。

この後期廃仏毀釈は、明治政府の「神仏分離令」(慶応4年3月)を発端として始まったが、当初は前期廃仏毀釈の延長線上の運動であったらしい。それが、藩内に一寺も残さない、怖ろしいまでに徹底的な運動となっていったきっかけは、田中頼庸の建言だったという。

後に鹿児島県令となった渡辺千秋が、田中頼庸の著書『鹿児島紀行』に寄せた序文でこう述べている。

「(頼庸は)平素敬神愛国の道を講じ、尊内卑外の説を持つ。深く仏教の蠧害(とがい)を嫉み、排斥余力を遺さず。此を以て自ら任じ、遂に慨然として廃仏の議を島津久光に進む。物論之を為すに洶洶(きょうきょう:どよめき騒ぐ)たり、蓋し仏教の浸淫積弊は払うべからず。而して久光は断じて其の議を納れ、廃仏令を封内に布く」(原文旧字・漢文)

これによると、頼庸は仏教を排斥する事業に携わったが、廃仏——すなわち仏教の全廃を島津久光に建言し、それが世論に動揺を与えたものの、久光は敢然それを受け入れ「廃仏令」を布いたという。

事実、明治元年、頼庸は「神社奉行」にも任命され、廃仏毀釈の主担当者となっていた。そしてこの建言は、市来四郎らのそれと比べれば分かるように、もはや財政上の理由などおくびにも出さず、はっきりと「仏教の蠧害」が問題であるとしている。仏教が国を蝕んでいる害毒であるというのである。頼庸の建言によって廃仏毀釈は「寺社のリストラ」を超え、宗教的な破壊行為へとエスカレートしていった。

これを受けて久光が布いた「廃仏令」とは、明治元年9月に桂久武の名で出されたもので、藩内の寺院を大規模に統合整理し、神社における仏教的要素を取り除いて神道一筋にするという命令である。これによって藩内の寺院は強制的に統廃合させられ、明治2年秋に藩内に残っていたのは、歴代藩主の菩提寺や祈願所といった島津氏ゆかりの名刹28ヶ寺のみになった。この時点で97%の寺院が廃寺処分になったことになる。

しかし、これすらも廃仏毀釈運動の一面に過ぎなかった。というのは、仏教を破壊するだけが頼庸らの目的ではなかったからだ。彼らの真の目的は、神道を国教化することにあった。廃仏毀釈は、生活のあらゆる面から仏教的色彩を取り除き、そこに神道という新しい信仰を植え付けるための宗教的空白を生みだすために行われたのである。

「神道国教化」の一つの転機となったのが、若くして亡くなった藩主島津忠義夫人の照子の葬儀を「神葬祭」によって行ったことであった。明治2年3月のことである。この「神葬祭」は、島津一族が神道へ公式に転宗したことを意味した。もはや仏教は、島津一族にとっても異教となった。

それまで、歴代藩主はもちろん、庶民に至るまで葬式といえば悉く仏式であった。歴代藩主の墓所も、寺院に存在していた。それが、寺院を保護する最後の箍(たが)でもあった。しかし島津一族が神道に転宗したことにより、もはや寺院を保護する理由はどこにも存在しなくなった。

城内の護摩所や看経所(かんきんじょ)は4月か5月には廃止された。仏教的な祈祷の否定である。さらに6月には代々の藩主霊祭を神式で行うこととした。こうしてまずは藩主自らが仏教を棄て神道に帰依し、それは追って民間へも強制された。

葬祭は全て神式によるものとされ、盂蘭盆会は仏教的だからと禁止された。

こうした神道国教化政策の行き着くところ、最後まで残された名刹28ヶ寺をも破壊せずにはおかなかった。

こうして島津家の菩提寺であった「福昌寺」までもが廃寺となり、代わりに歴代藩主の霊を祀る「鶴嶺(つるがね)神社」が「南泉院」跡に創建された。他、島津忠良(日新斎)の墓所「日新寺」は「竹田神社」となり、島津貴久の「南林寺」は「松原神社」、 島津義弘の「妙円寺」は「徳重神社」とするなど、歴代の藩主までも遡って神道に改宗させた。

この帰結として、例えば島津斉彬はその死後、戒名(順聖院殿英徳良雄大居士)から「順聖院(じゅんしょういん)さま」と呼ばれていたが、この仏教による戒名も廃され、斉彬は「明彦神勲照国命」となった。このように、歴代藩主の戒名が撤廃されて墓標から削り取られ、神名が新たにつけられてそこに刻まれた。仏教に帰依してきた歴史、仏教によって菩提を弔ってきた歴史すらも否定して、つくりかえてしまったのであった。

そして明治3年の末までに、鹿児島から寺院はおろか仏教的なるもの全てが消し去られた。

しかし、仏教を一掃したからといって、人々が神道に帰依するかというとそんなことはない。神道という新たな信仰を建設しないことには、神道国教化は成し遂げられないのである。実は、その領民教化の役割を担ったのが、頼庸が在籍した「国学局」だったのである。頼庸は、一方では「神社奉行」として廃仏毀釈を断行し、一方では「国学局」の都講として神道の理論を現実化することに務めた。

国学局の第一の仕事は、神道解説書である『敬神説略』の刊行であった(明治3年2月(一般への販売は10月))。著者は、後醍院真柱の門人で国学局学頭助の関盛長。本書は「神国の人の限りは神の御恵の中に胎れて(中略)よしなき外国の妖々しき蕃神等が世話になるべき事ならぬ」「今や皇政御復古、神武天皇御創業の始に復せらるとの勅命により、神仏混淆の御社をはじめ何事も清浄なる皇国風の神髄なる道に復させたまひ(中略)往年より無用の寺院は廃棄合院の命令を下し給ひて、御祖神をも殊更に神と崇め祭らせ給へば…」と述べ、廃仏毀釈を正当化し、それに替えて「神国」としての敬神観念を植え付けようとするものであった。

さらに翌月には、『敬神説略』のダイジェスト版とも言うべき『神習草』(白男川済之丞、白男川民次郎著)を刊行。本書ではまず神話の大略を述べた後、「貴賤上下となく何れも神代の神孫亦御代御代の天皇の御枝葉の裔孫」であるからひたすらに敬神に務めよと述べ、さらに神道の具体的実践の方法として、毎朝神拝をすることを勧めるとともに、伊勢神宮と祖先を拝する祝詞を掲載している。そして、藩ではこれを全戸に一部ずつ配布して、朝夕拝読させようとした。

実際に、藩庁が『神習草』を全戸配布したかはよく分からない。また全戸と言っても、おそらく百姓などは文盲も多かったため除外されており、城下の限られた範囲であると思われる。しかし、この神道実践の勧めとも言うべき小著を広く配布したのは事実であろう。さらに藩庁では、毎月3日を「国書講義の日」と定めて国学の講義を定期的に行うこととし、五等官以上の聴講を命じた。この講義が国学局によって行われたことは言うまでもない。

こうして、(1)島津一族の神道への転宗、(2)全寺院の廃仏、(3)葬儀の神道式への転換、(4)神道書の刊行と一般への配布、(5)神道儀礼の強い勧奨、といったことが明治2年から矢継ぎ早に実行された。後期廃仏毀釈は、鹿児島から仏教を一掃するだけでなく、神道を国教化するという構想が推し進められ、それは「宗教改革」と呼んでよいものであった。この宗教改革によって「神道国家薩摩」が一応の完成を見たのが、明治3年の末のことである。

この政策は島津久光の強力なリーダーシップによって実現されたものであることは疑いない。そして神道の祭式を新たに定めたり、廃仏の理論を提供する上で大きく働いたのが田中頼庸だった。かつて社会から距離を置き、勉学だけに生きた頼庸は、いつのまにか社会そのものを根底から変える仕事に手を染めていた。

(つづく)

【参考文献】
『鹿児島紀行』1888年、田中頼庸
神道指令の超克』1972年、久保田 収
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
鹿児島藩の廃仏毀釈』2011年、名越 護
『島津忠義公史料第7巻』1980年、鹿児島県維新史料編さん所編
『神習草』白男川済之丞、白男川民次郎

2018年3月25日日曜日

薩摩の国学と廃仏毀釈——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その9)

田中頼庸(よりつね)は、鹿児島で明治の改元(慶応4年、1868年10月)を迎えた。

そして翌明治2年、版籍奉還の後に藩校造士館「国学局」が設立され、頼庸はその都講として起用された。国学局は、学頭・学頭助・都講・授講以下の職員で構成されており、頼庸の待遇は今で言う教授クラスだったのではないかと思われる。貧窮の独学者にとって、大抜擢とも言える人事だった。

この国学局とは何だったのだろうか。そして頼庸はなぜ国学局の都講として抜擢されたのか。このあたりの事情についてはほとんど知られていない。そこで時間を遡って、鹿児島の国学を巡る事情について振り返ってみたい。

元来、薩摩は国学との関わりは薄い土地であった。

全国に数多くの門人をもった本居宣長の元へも、薩摩・大隅からはただの一人も入門していない(ただし薩摩藩領だった諸県郡高岡郷出身の者が3人だけ入門)。宣長の人気がなかったというよりも、国学は薩摩では禁止されていたらしい。平田篤胤と島津重豪には交流があったというが、篤胤に入門しようとした後醍院真柱(みはしら)が天保10年、眼病治療を口実に上京したことを考えても、薩摩では国学は異端とされおおっぴらには学べなかったようだ。

そんな中、薩摩に国学を導入したのは島津斉彬だった。斉彬は嘉永4年の襲封後、鹿児島に帰着するとすぐに八田知紀、関勇助、後醍院真柱らに社寺陵墓の取調べを申しつけた。嘉永朋党事件で弾圧された国学グループが、一躍藩主の直轄事業に起用されたのである。これは後の廃仏毀釈や神代三陵の画定に繋がる調査とみられる。

一般には、斉彬といえば蘭癖——西洋思想の信奉者だったと思われており、それは事実である。しかし斉彬は洋学と同じくらい、国学や勤皇思想を鼓吹した。斉彬は「天子より国家人民を預かり奉り候」といい、土地人民は元来は(幕府ではなく)朝廷より預かったものという認識を示した最初の薩摩藩主だった。

また斉彬は、藩校造士館で国学が講じられていないことを不満とし、後醍院真柱を造士館の訓導として起用し古学(古典、六国史、律令格式等)に力を入れさせた。さらにそれでは不十分と思ったのだろう、漢学を教える造士館と並んで国学館・洋学館を創設することを企図した。この計画は斉彬の突然の死によって実現はしなかったが、西洋の技術と日本の精神を両方重んずる斉彬の考え方をよく示していた。

こうなってくると、新時代の思潮として薩摩藩でも国学が人々の注目を集めるようになる。後に「誠忠組」を形成することになる若者たちにも、国学への意欲がわき上がったことだろう。事実「誠忠組」の中で、大久保利通の親友だった税所篤、組中で最も家格が高く頭の位置づけにあった岩下方平(みちひら)は平田篤胤の没後門人となっている。

また、「誠忠組」では篤胤の『古史伝』(37巻)を回し読みしていたが、これを聞いた島津久光は『古史伝』を所望。大久保らは『古史伝』を少しずつ久光に提出するとともに、天下の形勢や自分たちの意見の書状をそこに挟み込んで久光へ建言していたという。

久光が『古史伝』を大久保らに所望したことを考えると、久光は国学を体系的に学んだことはなかったようだ。しかし彼は幼い頃から闇斎学に親しんでいた。これは朱子学の一派で廃仏的な傾向を持つ儒学であり、創始者山崎闇斎は神道と儒教を融合させた垂加神道を提唱してもいる。この闇斎学は、薩摩に国学が興る前かなり広まっていた教えであり、薩摩の尊皇思想の源流の一つであった。もともと久光は学問的な性格で和漢の書籍に通じ、斉彬もその見聞の広さと記憶力には舌を巻いていたくらいである。歴史好きだった久光が古学を中心とする国学へ傾倒してゆくのは自然のなりゆきだったろう。

かくして、かつて異端として斥けられていた国学が藩主斉彬によって藩学へ採用され、久光がそれを加速させた。平田篤胤の門下には薩摩人が集い、特に文久2年からは激増している。本居宣長の門人には一人の薩摩人もいなかったのとは隔世の感がある。こうして薩摩の地には平田派の国学が盛行し、遂に廃仏毀釈へと突き進んでいった。国学者たちは、古来より続く神道こそが至純であり、仏教は外来の邪教であると考えたからであった。今や仏教こそが異端とされた。

鹿児島の廃仏毀釈は、大きく前後2期に分けられる。前期が明治維新前、後期が維新後である。

前期廃仏毀釈は、久光の側近だった市来四郎や黒田清綱、橋口兼三といった少壮のものたちが家老桂久武に建言することで始まった。彼らが言うには、この切迫した時勢にあって僧侶や寺院は無用なものであるから、僧侶は還俗させてもっと役に立つ仕事に就かせ、寺院の財産は没収するのがよいと。この建白はすぐに藩主島津忠義と久光に受け入れられ、慶応2年5月には寺院廃合取調掛の任命があった。任命されたのは、家老桂久武を初め、島津主殿(大目付兼寺社奉行)、橋口与一郎(記録奉行)、市来四郎(寺社方取次)他多数であり、既に60代だった後醍院真柱(学校助教授)もそのうちの一人として理論的支柱となった。

この前期廃仏毀釈は、桂久武を初め市来四郎など藩の財務担当者によってリードされたことに象徴され、また建白でもはっきりとそう述べている通り、思想的なものというよりは、財政上の施策という性格が強かった。市来四郎などが元々廃仏的な考えを持っていたのは事実としても、少なくとも名目上は財政的な問題への対処という形を取ったのである。というのは、この頃の薩摩藩はかなりの金欠に陥っていたのだ。

薩摩藩はかつて500両ともいう天文学的な借金を抱えていたが、調所広郷の改革によってこれが好転し、斉彬就任時には50万両を超える蓄財をなすに至っていた。斉彬は集成館事業などでこのうち7万5千両ほどを費消したと見られるものの、それでもまだ財政が逼迫しているとは言えなかった。

また、久光は文久2年に幕府へ「三事策」を突きつけた際、合わせて鋳銭の許可を得ている。これにより市来四郎が主任となり「琉球通宝」を鋳造し、またその裏で「天保通宝」を贋造した。文久2年から慶応元年まで合計290万両もの貨幣を造って3分の2もの巨利を得、藩財政を潤したという。

ところが幕末に向かうにつれて、藩財政は急速に悪化していった。薩英戦争や軍事増強、集成館事業の再建、留学生の派遣など、薩摩を急ごしらえの「近代国家」とするために度外れた経費が必要だったからだ。

生麦事件の賠償金(扶助料)2万5千ポンド(6万333両余)は幕府から借財してそのままになったが、戦争時にイギリス艦隊に焼かれた汽船3隻は合わせて30万両もした。薩摩藩は薩英戦争後にも13隻の汽船を購入しており、戦争前に購入していた4隻と合わせて計17隻もの蒸気船を購入している。これは幕府以外では諸藩において筆頭の購入数であり、この費用が巨額だったことは想像に難くない。

さらに斉彬死後に中断し、また薩英戦争で破壊された集成館事業も再建しなくてはならなかった。洋風の石造りによる機械工場が建設され、周辺には鋳物工場、木工工場等が次々に建てられた。蒸気機関や各種工作機械により大砲や弾丸の製造、艦船の修理などが行われた。さらにそうした機械類を使う技術者の育成や、洋式軍事技術の修練にも取り組み、慶応元年には総勢19名を海外渡航の幕禁を犯して海外留学させた。慶応3年には留学生の一人五代友厚が中心となり我が国最初の洋式紡績工場を鹿児島の磯に建設してもいる。

こうした意欲的な事業を支弁するための経費は厖大となり、遂に薩摩藩では慶応4年、オランダ貿易会社のボードインから洋銀76万ドルを借り入れた。薩英戦争時には幕府に用立ててもらうことも出来たが、慶応年間にはもはや幕府とは敵対的な関係になっており、とても幕府から借金することなど不可能なのだ。藩内から、どうにかお金をかき集めなくてはならないのである。財務担当だった桂久武や市来らが、無為徒食と見なした寺院に注目したのは必要に駆られてのことだったであろう。市来は廃仏毀釈が行われる以前に、鋳銭の材料を確保するため寺院の梵鐘を供出させることを構想していたほどだった。

こうして鹿児島の廃仏毀釈が始まった。

まず、藩内の寺院の調査が行われた。その結果、寺院数1066ヶ寺、寺院所領石高15118石、僧侶総数2964人、神社数4470社、堂宇総数4286宇であり、藩庫より寺社にあてがう玄米や寺社の山林等地所の免租といった負担を合算すれば10万余石、寺院を廃してその梵鐘仏具等を処分すれば銅10万余両を得ることとなる、というのである。

俗に「薩摩77万石」といっても実際には水田に適した土地は少なく、薩摩藩の正味生産高は35万石程度だったと見られているから、10万石以上の節約ができるとすれば財政を大幅に好転させることができる。

廃仏毀釈は、まずは大寺院の支坊末寺を廃することと、神社の別当寺院を廃することから始められたらしい。大寺院の支坊末寺というのは、例えば常駐の住職がなく石高もない寺院といったものも多く、そうしたところは廃寺への抵抗も少ないと見たのだろう。そして別当寺院というのは、神社を管理する寺院のことで、廃仏毀釈以前は神社といえばむしろこの別当寺院の方に神社の管理機能が備わっていることが多かった。神社は僧侶によって保たれていたのである。これを廃することは神社から仏教的要素を除去することを意味し、明治政府の神仏分離政策が行われる前に薩摩では神仏分離が実施されていることが注目される。

前期廃仏毀釈による廃寺は、慶応2年秋頃から始まり慶応3年をピークとしたようだ。しかしこの頃の廃仏運動は、さほど暴力的なものではなかったようである。名目上はあくまでも財政上の理由で寺院を取りつぶすという政策であり、反発を招いて労力や予算を使うとなれば本末顚倒と見なされかねなかったため、いわば遠慮がちに行われた。市来四郎が後年「職人等が怪我でもすると人気に響きますから、念入れて指揮致させました」と述べているように、「人気」を気にしながらやっていたようなのだ。

というのは、当然ながら寺院勢力を中心にして廃仏毀釈への反発がかなりあった。ある者は密かに仏像を持ち出して避難させ、ある者は復興を期して形式的にのみ廃寺を承知した。そしてこれらの反発によって、ついにこの事業は挫折する。

大乗院僧正、南泉院僧正、千眼寺僧を説諭して還俗させようとしている時、たまたま殿中の婦人がそこで祈祷に居合わせていたのだ。そしてこの婦人と侍臣、僧侶が謀って「讒誣内訴」したことで、「事激越に過ぎ、達名を矯むるの過失」により島津主殿(寺社奉行)他数名が更迭された。記録が曖昧だが、翌年休職しているところを見ると市来四郎もこのときに更迭されたようだ。

市来らの側から見れば彼らの訴えは「讒誣内訴」だったが、きっとこのことだけが彼らの更迭の理由ではなかっただろう。廃仏毀釈を進める上で各地で引き起こされたに違いない軋轢が更迭の真因だったように思われる。藩政権は「人気」を考えて、関係者を更迭せざるを得なかったのではないか。

こうして運動の中心人物が更迭されたこと、そして慶応4年の初めに戊辰戦争が勃発したことで藩内はそれどころではなくなり、この前期廃仏毀釈はひとまず休止された格好になった。この前期廃仏毀釈でもかなりの数の寺院が廃されたようであるが、そもそもこの時までは寺院の全廃ということまでは考えていなかった模様である。後年、後醍院真柱も「南林寺福昌寺の如き由緒あるは永存せしむべき方針」であったと述懐している。

この前期廃仏毀釈運動は、数多かった寺院・神社を集約させて整理し、その財産を没収することに主眼があった。いわば寺社のリストラであり、廃仏——すなわち仏教の一掃ということまでは考えていなかったと見られる。しかし維新後の後期廃仏毀釈では、これが狂信的なまでの廃仏運動になっていくのである。

(つづく)


 【参考資料】
島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
神道指令の超克』1972年、久保田 収
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男
薩摩 民衆支配の構造』2000年、中村明蔵
鹿児島藩の廃仏毀釈』2011年、名越 護
廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち[改訂版]』 2003年、佐伯恵達
「市来四郎君自叙伝」(『島津忠義公史料第7巻』所収)
「薩摩ニテ寺院ヲ廃シ神社ヲ合祭セシ事実」[史談会速記録第十三輯](市来四郎談話速記)(『島津忠義公史料第1巻』所収)

2018年3月15日木曜日

田中頼庸と幕末の国学——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その8)

田中頼庸(よりつね)は、独立独歩の人であった。

彼には、師らしい師がいない。というのは、彼の家庭はあまりにも貧しく、入門の費用が払えなかったのだ。

それどころか、本一冊買うこともままならなかった。貧窮の中にいた頼庸を支えたのは学問への情熱であったが、その学問は独学すらも許されなかった。頼庸は手に入る僅かな本を舐めるように読んで、少しずつその内に学問を育てていった。

ところで彼の叔父(母の弟にあたる)に、後に鹿児島県令となる大山綱良がいた。大山は藩内随一の剣客として有名で、この叔父・甥は「田中の文、大山の武」として文武の双璧と並び称されたという。

また、当時鹿児島城下の青年で秀才をもって聞こえたのが、重野安繹(やすつぐ)、今藤新左衛門(宏)、そして田中頼庸の3人だったと伝えられる。頼庸は、ままならぬ独学のみで、やがて人の注目するところとなっていた。

彼は年の近い叔父大山綱良をよく慕い、大山も頼庸を可愛がった。大山は薩摩藩の若手革新派グループである「誠忠組」の中心メンバーの一人であったし、他にも「誠忠組」には頼庸の親友だった高崎五六(高崎正風の従兄弟に当たる)もいた。ところが、頼庸が「誠忠組」に関わった形跡はない。頼庸はこういう徒党には全く与しなかったようだ。彼は、決して友人がいなかったわけではないが、一人学問をすることを好んだ。

それに、田中家は頼庸が遠島を許されてからも、没した父四郎左衛門の処分は解かれておらず、食録もなく、なんら職務に就くことができなかった。学問に打ち込み続けた20代の頼庸は、風雲急を告げる幕末にあって、その異才を発揮する場を持たなかった。

そんな頼庸の人生がにわかに動き出したのが、文久年中のことであった。

おそらくは文久2年のこと、島津久光が一千の兵を率いて京都へ入ったまさにその時のことではないかと思われるが、頼庸は藩命で京都へ上ったのである。何の実績もなかった頼庸が家臣団の一人として抜擢されたのは、秀才との評判はもちろんのこと、大山綱良や高崎正風の推輓があったからに違いない。

京都へ上っても食録は依然としてなく無給状態は続いた。しかし頼庸は、その貧窮の中でもひたすら学問のみに打ち込んだ。

当時の京都は、空前の「政治の季節」を迎えている。各藩から集められた「志士」たちが政論に花を咲かせ、裏に表に策動を繰り返していた時期だ。親友の高崎正風も久光の手足となって政治の表舞台で活躍している。だが彼は、そうした動きとは距離を取っていたように思われる。頼庸には、学問しかなかった。

元々頼庸が打ち込んでいたのは、漢学だった。その漢詩が巧みなことは藩内でも評判だったという。儒学はもちろんのこと、医学にしろ本草学(博物学)にしろ、日本の学問のほとんどは中国からの学問を移植したものであったし、勉学と言えば漢学の素養を身につけることとほぼ同義だったから、頼庸は当時の学問の王道を歩んでいたといえる。ところが頼庸は、京都で「国学」と出会う。

その頃の国学といえば、尊皇攘夷運動の高まりの中で急速に門人を増やし、いわゆる「草莽の国学者」と呼ばれるアクティビスト的な勢力が勃興してきていた。「嘉永朋党事件」で新たな時代の変革理論として予感された国学が、実際に革命の理論へ育っていたのだ。

ここで、これまで特に注釈することもなく使ってきた「国学」とは一体何かということについて、横道に逸れる部分もあるが少し説明しておきたい。

国学の淵源は、古文辞学にある。『万葉集』とか『源氏物語』といった日本の古典文学を読解する学問である。例えば『万葉集』について研究したのが、国学者の嚆矢と言うべき契沖(けいちゅう)である。『万葉集』は「万葉仮名」と呼ばれる特殊な漢字で書かれているが、訓じ方(読み方)が分からない部分が相当あった。真言宗の僧侶だった契沖は、徳川光圀からの依頼を受け、その訓じ方や語義を徹底的に研究した。江戸時代半ばのことである。

その契沖の研究を受け継いだのが、荷田春満(かだの・あずままろ)であり、賀茂真淵(まもの・まぶち)であった。彼らは歌学や古文辞学を研究するうちに、次第に古代人の心に興味が向いていった。古典文学を理解するためには、煎じ詰めれば古代人の心を理解しなくてはならないからだ。こうして、古典文学の研究は、古文辞の研究を越え、古代の日本人の心情や宗教観を理解しようという方向性へと進んでいった。

こうして徐々に出来上がってきた国学を大成したのが本居宣長(もとおり・のりなが)である。契沖が『万葉集』を甦らせたとすれば、宣長はたった一人で『古事記』を蘇生させた。 彼の研究方法は、『古事記』を体得するまで虚心に読むことであった。分析的理解を超え、直観によって古代人の心に肉薄しようとした。そして『古事記』の一文一語について徹底的に考証した研究が『古事記伝』(寛政10年(1798年))である。『古事記伝』は現代の古事記研究の基礎となった。

宣長は古典文学研究に没入することで、やがてそれに同化していった。漢学の影響を受けていない(と宣長は信じた)、原日本の思想を体得していった。それは、道理を論わず「もののあはれ」を重視する「やまとごころ」であり、天皇や八百万の神に身を委ねる宗教観であった。古典文学研究から始まった国学は、歴史研究や古代社会の研究までその範疇を広げ、宗教学や神話学といった方向へ進んでいく。

そして、宣長の古典文学研究の精華ではなく、むしろ研究が薄弱であったその宗教観の方を受け継いで発展させたのが、平田篤胤(あつたね)である。篤胤は『古事記』や『日本書紀』等の古典文学に基づき、神話時代の物語を『古史成文』として再編集し(文化8年(1811年))、追ってさらにそれの注釈書である『古史伝』をまとめた(未完)。これはもはや古文辞学の研究ではなく、篤胤の創作的な面があり、「きっとそうであったに違いない古代人の信仰」や「神道の原初の姿」が明らかにされたことになった。こうして篤胤は、神道を原初のままに取り戻すこと、即ち「復古神道」を起こすことを構想、その神道的世界観を『霊能真柱(たまのみはしら)』に表現した(文化9年(1812年))。この本は霊魂の行方や死後の世界(幽冥界)について書かれており、もはや日本神秘学と呼ぶべきものだった。
 
また篤胤は、宣長が明らかにした古代社会の有様を理想化し、復古神道による原理主義的考えによって「あるべき日本の姿」を提言する政治倫理学へと国学を推し進めた。

この篤胤の構想は、生前はあまり評価されなかったが、やがて尊皇攘夷思想とない交ぜになって、幕末において巨大な影響力を持つようになる。

西欧諸国が進んだ文明の力を背景に開国を迫ってきたとき、日本人は世界における日本の自画像・アイデンティティを確立せねばならなかった。世界の中で、「日本」とは何なのか? 「日本人」とは何なのか? そういう切実な問いに気前よい回答を与えるのが、国学であったと言える。日本は無窮なる皇統がしろしめす国「皇国」であると、日本人とはその皇統を戴く万国に冠たる民族であると。こうした夜郎自大な自画像は攘夷思想と親和し、一方で日本の正統な君主は皇室であるという思想が、尊皇・討幕の理論へと発展していった。もちろん尊皇攘夷思想は、国学だけでなく水戸学や儒学をも源流に持つ。しかし国学が特殊だったのは、尊皇攘夷思想に強烈な宗教性を持ち込んだところだ。

こうして国学は、古典文学の研究という実証主義的で地味な課題から出発したが、古代社会の研究、歴史学、宗教学、神話学と次第に領域を広げ、幕末を動かす巨大なイデオロギーとなっていった。国学は、神話を核として様々な学問が学際的に融合した新しい学問体系・価値体系を創り出そうとしていた。生粋の「日本」の独自思想としてだ。

田中頼庸が京都にいた頃は、こうした国学の運動が最高潮に盛り上がっていた時期だった。頼庸が国学の虜になったのは、宿命だったのだろう。漢学では、旧来の知識人の秩序の枠外に飛び出すことは不可能だったが、勃興しつつある国学でなら、独立独歩の頼庸が一廉(ひとかど)の人物になり得た。

そして慶応3年(1867年)、田中頼庸は鹿児島へ帰ってきた。持ち物は、行李が5つ。中には、ただ一枚の着替えすらなく全てが書物だったという。蛍雪の努力によって、頼庸は独学によって京都で国学を修めていた。

貧困の独学者に過ぎなかった頼庸は、今や藩内でも一二を争う国学者となっていた。

(つづく)

【参考文献】
『田中頼庸先生』二宮岳南(写本、刊行年不明、鹿児島県立図書館所蔵本)
『本居宣長(上、下)』1992年、小林秀雄

2018年3月1日木曜日

嘉永朋党事件と国学の弾圧——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その7)

明治天皇に神代三陵を遙拝するよう建白した人物、田中頼庸(よりつね)とは何者だったのだろうか? 彼は、一般の維新史ではほとんど知られていないから、その人生を少し詳しく辿ってみることにしよう。

田中頼庸は、天保7年(1836年)鹿児島に生まれた。父は田中四郎左衛門、母は樺山氏の出でもと子と言った。頼庸の初名は藤八、雲岫また梅の屋と号した。

彼は生来学問を好んだらしい。その頃の鹿児島は尚武の気風が強く、学問は無用なものとして好まれなかったため、親や親戚は学問を辞めて武芸に励むよう頼庸に迫ったが、彼は志を変えなかった。

そんな頼庸の人生が一変したのが、数え年14歳の時、嘉永2年であった。父が死に、食禄(藩からの給与)が取り上げられるという処分があったのだ。このため田中家は全く路頭に迷ってしまった。

頼庸の父四郎左衛門がどんな罪を犯したのか詳らかでない。しかし当時の薩摩藩の情勢を鑑みると、その背景に「嘉永朋党事件」——いわゆる「お由羅騒動」として知られる事件が思い起こされる。

嘉永朋党事件とは、島津家の世継ぎ争いによって藩内が大量に粛清された事件である。

その頃、島津家の世子(世継ぎ)斉彬は40歳を過ぎても父斉興から位を譲られないという異常な立場にあった。この頃の世継ぎというのは、普通は成人すればすぐに襲封を受けるものである。

斉彬は藩内外にその英明が聞こえていたものの、曾祖父重豪(しげひで)ゆずりの蘭癖もまた有名で、その積極的な開明政策によって藩財政が圧迫されることを懸念した斉興や重臣たちが彼の藩主就任を先延ばししていたと言われる。

そういう反斉彬派を象徴していたのが、斉興の側室、お由羅である。斉彬の一刻も早い藩主就任を臨むグループは、お由羅こそが斉彬を退けている首魁であると考えていた。この頃正室は既に没しており、斉興はその後正室を迎えていなかったためお由羅が正室のような立場にあった。斉彬派は、お由羅が自らの子久光(斉彬の異母弟)を藩主として擁立しようとしていると見たのだった。

実際にはこの争いは斉興と斉彬の親子の対立であったようだが、藩主である斉興を公然とは批判できないという事情があったことから、お由羅がその標的となった側面もあるらしい。しかし斉彬がお由羅をひどく憎んだことも事実である。

というのは、斉彬の子は多くが幼くして死んでいた。斉彬の人生は天才的な慧眼と活発な行動力に裏付けられほとんど影らしい影がないが、彼は子どもだけには恵まれなかった。嘉永元年までに二男二女の4人が1歳から4歳で早世し、嘉永2年には四男篤之助が2歳で死んだ。斉彬派はこれらの夭死がお由羅派の呪詛によるものと考えた。斉彬は腹心(山口不及)宛への手紙でお由羅について「この人さえおり申さず候えば万事よろしくと存じ申し候」との真情を吐露している。

こうして斉彬派はお由羅を実力で排除しようとまで考え、また一刻も早い斉彬の襲封を望んで策動していたとされる。こうした状況で、嘉永2年12月3日、斉彬派の首謀者とされた近藤隆左衛門、山田清安(きよやす)、高崎五郎右衛門の3人が「密会して徒党を組み、政治について誹謗した」との罪状で突然切腹を命じられ、斉彬派への弾圧・粛正の火ぶたが切って落とされた。

12月6日には他3人に遠島の処分、翌嘉永3年3月4日には赤山靱負ら4人に切腹の処分、4月28日には家老の島津壱岐にまで切腹の処分が下り、他数名が切腹。この他免職・謹慎の処分を受けたものは数多く、処分者は約50名にものぼった。特に首謀者3名への処分は苛烈を極め、例えば近藤隆左衛門の場合、切腹だけでは飽き足らなかったのか、嘉永3年3月には追罰として士籍を除かれ、死骸を掘り返して鋸引きにした上で改めて梟刑(はりつけ)に処された。さらにその子欽吉は父の罪を償うため遠島処分も受けている。

そして注目すべきことに、この弾圧を受けた人の中には、国学を奉じた人が幾人も含まれていた。その頃の薩摩藩には、国学を学んだものは数少なかったのにだ。例えば、首謀者の一人とされた山田清安は本居宣長の門人である伴信友に学んでおり、薩摩藩きっての勤皇家として知られていた。

その山田清安の門下だった八田知紀(とものり)も免職・謹慎の処分。またその八田知紀に学んでいた関勇助も同様の処分を受けた。さらに、首謀者の一人高崎五郎右衛門の子、後の高崎正風(まさかぜ)も八田に学んでいたが、父の罪を償うため、嘉永3年、15歳になってから奄美大島へと島流しに遭った。

さらには、平田篤胤門下の後醍院真柱(みはしら)と葛城彦一も弾圧の対象となった(葛城は脱藩して逃亡したので実際には処分を受けていない)。薩摩藩で平田篤胤存命中にその門下になったのは僅かしかいないのにも関わらず、嘉永朋党事件ではそのうちの2人が弾圧されたのである。

とはいえ、この頃の薩摩藩で、国学が一つの勢力となっていたわけではないし、藩の当局としても国学グループを弾圧しようという考えがあったのではないだろう。ただ、斉彬による藩政の刷新を待望する若手藩士たちには、国学が変革を予感させる新しい思想として捉えられていたのだろうと考えられる。実際に、国学とその応用とも言うべき尊皇思想は変革の理論を提供しつつあった。

そんな中、この事件によって国学グループが弾圧された形になったことは、むしろ薩摩藩において国学が一つの力として糾合されていく契機となったように思われる。それまで国学と言えば学問好きが個別的に学んでいた思想だったが、 この事件を契機として、国学が権力者に対抗しうる新思想として認識されていったのではないだろうか。

要するに、弾圧がかえって薩摩の国学を固めるというスプリングボードの役割を果たした。この事件での弾圧が、斉彬の代になって活躍する次世代の志士を大いに奮起させたようにだ。例えば西郷隆盛は赤山靱負の切腹を聞いて悲憤慷慨し、大久保利通は父次右衛門が処分を受け自らも謹慎となったため再起を誓った。久光が実権を握るようになった時に藩政の舞台に躍り出たいわゆる「誠忠組」は、西郷や大久保を中心として、この嘉永朋党事件によって弾圧を受けたものの衣鉢を継ぐものたちであった。弾圧から立ち上がった者たちは、新しい時代を作ろうとするより鞏固な信念を持つようになっていた。

話がやや横道に逸れたが、田中頼庸の父が死に、食録が召し上げられてしまったのがこの嘉永朋党事件の起こった嘉永2年のことだったのである。さらに翌年、頼庸が15歳になると父の罪を償うためとして彼は奄美大島に流された。父四郎左衛門は、これまでの研究では嘉永朋党事件の処分者と見なされていないが、処分の時期と内容を考えるとこの事件との関連が濃厚だと推測される。

そして、時を同じくして奄美大島へと流されたのが先述した高崎正風である。頼庸と正風は同い年で、しかも父の罪を償うための遠島処分という境遇も全く同じであった。大島での二人の交流は詳らかでないが、二人が生涯の親友となったのは必然だっただろう。

当然のことながら、田中頼庸は大島で厳しい生活を強いられた。島の子どもたちを集めて習字や読書を教えることでなんとか糊口をしのいだという。親や親戚から止められた学問が、彼を助けた。

後年許されて鹿児島に帰っても、食録が戻ることはなく、無給状態だったため生活は極めて厳しかった。彼は昼間は人の田畑を耕し、夜は陶器画を書いて金を稼いだ。士族というより、ほとんど小作人の生活に甘んじたのであった。しかしそんな中でも、頼庸は寸暇を惜しんで読書に耽った。ひとり古の聖賢に学ぶことで現実の憂さを忘れた。学問だけが彼を支えたといっていい。

貧窮の中で孤独に学び続けた頼庸は、こうして大人になっていった。


【参考文献】
島津斉彬公伝』1994年、池田俊彦
島津久光と明治維新—久光はなぜ、討幕を決意したか』2002年、芳 即正
『神代並神武天皇聖蹟顕彰資料第五輯 神代三山陵に就いて』1940年、紀元二千六百年鹿児島縣奉祝會(池田俊彦 執筆の項)
『薩摩の国学』1986年、渡辺正
「薩摩藩の神代三陵研究者と神代三陵の画定をめぐる歴史的背景について」1992年、小林敏男