2012年12月31日月曜日

サメと取違伝説——南薩と神話(5)

南薩の神話もついに最後のエピソードである。

山幸彦は海神の宮で、海神の娘トヨタマ(豊玉)姫と結ばれたのであるが、海幸への仕返しを果たした後にトヨタマ姫がやってきて、「子どもが産まれるのでやってきました」という。彼女は海辺に産屋を作り、鵜の羽で屋根を葺いていたところ急に産気づいた。そして言うには「異郷の人間は、産む時は本当の姿になります。私も本当の姿で産もうと思いますので、お願いですから覗かないように」として産屋に閉じこもった。

山幸彦はその言葉を訝しんで産屋を覗いてしまい、そこに大きなサメがのたうっているのを見て仰天。そのためトヨタマ姫は正体を見られたことを恥じ、産まれた子どもにウガヤフキアエズ(鵜の屋根を葺き終えないうちに、という意味)という不思議な名前を付け、子どもの養育を妹のタマヨリ(玉依)姫に任せて海神の宮に帰ってしまった。

このウガヤフキアエズは、長じて叔母に当たるタマヨリ姫を娶り、4人の子をもうけるが、そのうちの1人が後の神武天皇である。この神武の誕生で記紀神話の幕が閉じることになる。

ところで、タマヨリ姫の正体もまたサメであったとは記紀には書いていないが、姉妹である以上タマヨリ姫もサメと考えるのが自然だ。とすると、神武天皇は母(タマヨリ姫)と祖母(トヨタマ姫)がサメということになり、血統的には3/4がサメということになる。天皇家というのは、祭祀的には稲に関係する農耕的性格が強いが、その起源は多分に海洋的な性格を持っている。サメを祖神とする考え方は南洋に多いと聞くが、ここにも隼人が持ち込んだ海洋性が見えるようである。

さて、サメが正体のトヨタマ姫だが、これを祀っているのが、水車からくりで有名な知覧の豊玉姫神社だ。知覧はトヨタマ姫と縁が深く、その陵(墓)が残っていることを始めとしてその伝説が多く残っている。特に有名なのが「取違伝説」だ。

なんでも、海神からそれぞれ川辺と知覧を治めるように使わされたトヨタマ姫とタマヨリ姫であったが、頴娃から知覧に着いて一泊したところで、犀利なタマヨリ姫は土地の豊かな川辺の方が有利であることに気づき、トヨタマ姫がのんびりしている隙に川辺に行ってそこを治めたということである。本来行くべき所と逆に取り違えて行ったということで、その一泊した場所を取違(とりちがい)というようになり、今でもそこには取違さんという変わった苗字の人が住んでいる。ちなみに川辺側でタマヨリ姫を祀っているのは、かつて川辺の総鎮守であった飯倉神社である。

これは記紀神話にはないエピソードだし、ストーリー的にも記紀神話に接続する箇所もなく、かなりローカル色が濃い。もともとの取違伝説では、取り違える対象が天智天皇の第一皇女と第二皇女だったという話もあり、後世に改編されたものという可能性も大きいが、ともかくトヨタマ姫は知覧の地元の神だという意識があったことを示唆している。南薩における記紀神話は、天孫ニニギがコノハナサクヤ姫と出会ったのが笠沙、海幸と山幸がケンカしたのが笠沙〜枕崎の西南海岸というように巡って、トヨタマ姫の出産で知覧に至って終わるわけである。

このように、南薩は記紀神話の舞台として重要な地域であるにも関わらず、それがあまり認知されていない。その理由としては、このあたりには立派な古社・大社がないことが考えられる。仮に出雲大社のようなモニュメンタルな神社があれば、それが崇敬の対象としてわかりやすいし、なによりそこを中心に観光業が栄えて経済的にも潤う。結果的に神話伝説への関心も増し、対外的なアピールも盛んになる。

しかし、現実の加世田〜知覧の地域には、観光客が大勢訪れるような大規模な神社はなく、いくら神話の舞台とはいえ、そこに広がるのは縹渺とした風景だけだ。それが逆に本物っぽいという通もいるだろうが、一般的には面白味に欠ける。そう考えると、南薩の神話が注目を浴びることは今後もあまりなさそうだが、ここにはかつて阿多隼人たちが山海を舞台に活躍してつくり上げた日本の源流の一つがあると言えるだろう。

【参考文献】
『知覧町郷土誌』1982年、知覧町郷土誌編さん委員会
『古事記』1963年、倉野憲司 校注

2012年12月26日水曜日

隼人の南洋的神話=海幸・山幸——南薩と神話(4)

黒瀬海岸(撮影:向江新一さん)
南さつま市笠沙に「黒瀬海岸」という海岸があり、ここは一風変わった伝説を持つ。

なんでも、天孫ニニギは高千穂峰に降臨した後、舟で南下し、たどり着いたのがここ黒瀬海岸だということで、うら寂しい漁港に神代聖蹟「瓊瓊杵尊御上陸之地」という仰々しい石碑も建っている。またこの故事に因み、ここは別名「神渡海岸」ともいう。

正統派の記紀神話では舟で南下したというエピソードはないわけで、これはローカルな神話なのだが、だからこそ面白い。というのも、神さまが海の向こうからやってくる、という神話はポリネシアなど南洋の神話に多く、古代の隼人たちの海人的性格を示唆しているように思われるからだ(ちなみに遊牧民系だと、神さまは天から降りてくる場合が多い)。

ニニギの息子たちの海幸彦・山幸彦の神話は、そういう海人たる隼人が記紀へ持ち込んだ神話だろう。話の筋はこうである。山幸は海幸に「仕事道具を交換しよう」と持ちかけ釣針を借りるが、海に釣針を落としてしまう。その弁償に1000個の釣針を新たに作ったが海幸は「元の釣針を返せ」と納得しない。山幸が途方に暮れていると、塩椎神(シオツチのカミ)が来て「この”間なし勝間の小舟”に乗ってワタツミ(海神)の宮へ行きなさい」と言う。その通りにいくと海神の宮に着き、そこで出会った海神の娘、豊玉姫と結ばれ3年を過ごす。

そして山幸はふと海幸とのケンカを思い出し、海神に相談すると、海神はいろいろな魚を集めて釣針の行方を問う。そこで鯛の喉に例の釣針が引っかかっていることが判明。山幸は海神から「塩盈珠(しおみつたま)」「塩乾珠(しおふるたま)」という水を自在に操る宝物をもらい、釣針とともに帰還。この道具を使い海幸を懲らしめ、その結果海幸は山幸に服従を誓って物語が終わる。

この神話は南薩に残る神話でも最も中心的、かつローカル性が確実なものだろう。例えば、金峰町の双子池はコノハナサクヤ姫が海幸たち兄弟を産んだところというし、笠沙町の仁王崎は「二王の崎」の意であって、海幸山幸が兄弟ゲンカをしたところという。また枕崎は山幸が”間なし勝間の小舟”に乗って最初に付いた場所といい、枕崎の旧名「鹿篭(かご)」はこれに由来するという。ついでに、指宿には「指宿のたまて箱」の由来でもある竜宮伝説が伝えられているが、竜宮伝説=浦島太郎物語は海幸・山幸の神話の変形なのだろうと考える人もいる。もちろん海幸・山幸の神話は南薩だけに伝えられているものではなく、安曇氏の海神信仰も混淆しているようだが、物語の原型は隼人たちのものだっただろう。

ところで、海幸山幸の話は神話学的には「釣針喪失譚」と呼ばれ、南洋に多く分布しており、特にミクロネシアのパラオ島、インドネシアのケイ諸島、スラウェシ島にはこれと酷似した神話がある。どうも、隼人族はこうした南洋系の人々と近い関係にあったようだ。

ちなみに、前の記事で紹介した「天皇が短命なのは醜いイワナガ姫を拒否したため」という神話も、類似のそれがインドネシアからニューギニアの南洋に分布しており、中でもスラウェシ島のある部族が伝えている神話とは非常に共通点が多い。

このような事実から推測すると、隼人たちは黒潮に乗って南洋から来たか、あるいは南洋の人々と共通の祖先を持つ人々だったのだろう。事実、金峰町の高橋貝塚からは南洋でしか採れないゴホウラという貝の腕輪の半加工品が日本で唯一発見されているし、吹上浜の伝統的な漁具のカタギテゴという魚籠(びく)は日本では南九州にしか存在しないが、東南アジアには広く分布している。

ぼくの鹿児島案内。』の著者、岡本 仁さんは「鹿児島は東南アジアの最北端と言っているが、これは案外的外れではなく、鹿児島は文化的には東南アジアと共通項が多いのである。

それはさておき、神話に話を戻すと、この山幸彦が天皇家の祖先であり、海幸彦が隼人阿多の君の祖先ということになっている。つまり、阿多隼人は天孫から分かれた天皇家の親戚ということになっているのである。記紀神話は各氏族の天皇家との関係を示す寓話という側面があるので、天皇家と親戚ということ自体は特筆大書すべきものではないが、天孫から分かれた子孫という設定は格が高いので、隼人たちの朝廷における重要性を示しているとも考えられる。

ただし、正統派の記紀神話解釈では、この神話は、隼人の祖(海幸)が天皇家(山幸)に服属を誓うということで、隼人族が朝廷に服属すべき由来を説明したものとされている。南薩の神話の中心である海幸・山幸の神話が、朝廷への服属の神話にさせられているというのも、なんとも皮肉なものだ。そもそも、海に生きる海幸彦が、海神を味方につけた山幸彦にやっつけられるという話自体、皮肉な展開なのだけれど。

【参考文献】
『日本神話の源流』1975年、吉田敦彦
『海の古代史 ー東アジア地中海考ー』2002年、千田 稔 編著
『古事記』1963年、倉野憲司 校注

2012年12月24日月曜日

薄倖だった秋かぼちゃ

先々週、初の「加世田かぼちゃ」の収穫・出荷を行った。

その結果は、すでに予見されていた通り、あまり芳しいものではない。約2000粒の種を植えて、出荷できたのがコンテナ約70箱分。小さかったりキズがひどかったりで出荷できなかった規格外品が約20箱分。収量も少ないし、規格外品の割合が非常に高かったのが痛い。

原因としては、(1)定植が若干遅れたこと、(2)定植時に雨が異常に多かったこと、(3)台風が2回来たこと、(4)生長期に逆に日照りが続いたこと、などが挙げられる。天候に翻弄された部分以外の管理は、先輩農家Kさん兄弟の全面的な支援・指導を受けたおかげでそこまで悪くはなかったと思うが、まあはっきり言って結果が伴わなかった…。

「加世田かぼちゃ」として出荷できない小さなかぼちゃは、いつもの「大浦ふるさと館」で売ることにしたが、こちらの売れ行きも正直いまいちである。初夏から続くかぼちゃのシーズンの最後であり、新かぼちゃといっても一般消費者からすると新鮮さが感じられないのだろう。先日は冬至で、「冬至かぼちゃ」の需要があるかと期待したが、売れ行きにはあまり関係なかったようだ…。

とはいっても、一応完熟かぼちゃというだけあって、そこら辺のスーパーで売っている一般的なかぼちゃよりは少し美味しいのではないかと思うし、規格外品とは言え調理を考えると便利なサイズであり、さらにかなり安くお買い得でもある。私は800g〜1kgくらいのやつを150円で売っているが、スーパーのカットかぼちゃの半額程度ではないかと思う。

「大浦ふるさと館」ではポンカンの販売が始まってカンキツの季節も到来したので、お立寄りの際には隅に追いやられている薄倖なかぼちゃコーナーも見てみて欲しい。

2012年12月16日日曜日

嘘みたいな話ですが、SoftBankのアンテナが立ちました

ちょっと書くのが遅くなったが、11月に家の近所にSoftBankの中継基地(電波塔みたいなもの、以下「アンテナ」)ができて、我が家が圏外でなくなった。

以前書いたSoftBankへの悪口(?)が未だに結構アクセスがあるので、公平を期するため今回はSoftBankを褒めておきたい。 というのも、どう考えてもこの過疎地にアンテナを建ててペイできるとは思えないからだ。

事実アンテナが立つまで「もし自分がSoftBankの社長だったら絶対ここにはアンテナは立てないなあ」と思っていた。今後人口が増えることは見込めないから新規加入者の増加はないだろうし、現在の利用者も極めて少ないからサービス向上にもあまり繋がらない。

「極めて少ない」というか、もしかしたらこの付近でSoftBankのユーザーは我が家だけなのかもしれない。このアンテナが立つ前は、我が家を含めて行動範囲のほとんどが圏外だったので、こんなところでSoftBankを使うマヌケが私たち以外にいるとは思えなかった。

だから、ちょっと誇張して言えば、今回新しく立ったアンテナは、ほとんど我が家のために立ててくれたようなものである。有り難く使わせていただく。

ところで、現在SoftBankはLTE(高速データ通信)のエリアを拡大していることをテレビCMで訴えているが、我が家では当然LTEは使えない。というか、WEBサイトで確認してみるとLTEのサービスエリア(とその拡大予定地域)はとても地方まで広がっているとは言えない状況で、CMの中の主張とかなり相違がある。ただ、地方の中でも鹿児島(薩摩半島)はかなりマシな方で、加世田までは来ているので頑張って大浦まで拡大させてほしい。

ともかく、このアンテナ設置が(予想通り)大損だったということになると、SoftBankのサービスは今後の向上が見込めないので、周りに少しでもSoftBankユーザーが増えて欲しいと願っている。少なくとも今回、SoftBankは大損する可能性のあるところまでアンテナを立てる愚直な会社であることが判明したので、悪い会社ではないと思う。というか思いたい。

2012年12月14日金曜日

田舎における農産加工へのハードル

鹿児島県立農業大学校が主催する「農産加工基礎研修」という一泊二日の研修を受けた。

内容は、農産加工の入門編の位置づけで、業務用機器の取扱の説明と実習、農産物加工の基礎知識の講義である。雰囲気的には、農産加工グループなどで活動を始めようという女性を対象とした研修で、私以外の受講者は全員女性であった。ただ、最近ではビジネス的に農産加工に参入したいという男性の参加も少なくないのだという。

私は、加世田かぼちゃをつかったジャムを商品化したいと思っているので、農産加工の基礎的知識を学ぶためにこの研修に参加したのだが、実習ではジャム制作の理論的知識を教えてもらい大変参考になった。こういう研修に参加すると、「こうしなくてはいけない」という基礎の部分とともに、「これくらいで大丈夫」という妥協点というか、現実的な落としどころが分かるのもいいことだ。

南薩地域振興局の方からは、「新規就農者が農産物加工に取り組むのは危険。農業でちゃんと成り立ってから手を出すべき」というアドバイスを頂いたけれども、研修を受けてみた感触としては、小さく始めるなら必ずしも時機を待つ必要もない気がする。

ただ、問題は加工施設を一から建設しなければならないことで、ここはもう少し制度的にハードルを低めることが出来ないかと思う。例えば、大浦には「農村婦人の家」という古風な加工施設があるが、これは既存の加工グループ以外は商品販売の目的では使えない。商用利用では、事故(食中毒)等が生じた時の責任問題などがややこしいということかと思うが、一グループのみには特権的に商用目的で使わせているわけで、ここがネックになっているわけではないと思う。こうした施設を一定の基準を設けて商用目的にも使えるようにすれば、産業興しにもなると思うので市役所の方にはぜひご検討願いたい。

というのも、こうした施設が使えなければ、建屋から作らなくてはならないのが田舎のこわいところである。都会なら、適当な物件が見つかれば借りて内装をいじるだけで済むが、田舎には借りられる物件はほとんど皆無なので、ちょっとした加工所でも100万円単位のお金を使って建てなくてはならない。空き屋はたくさんあるのにバカバカしいことだ。

「産業興し」などというと抽象的だが、要は新しい事業に取り組むハードルを下げ、個人のアイデアが具現化しやすい環境をつくっていくことだと思う。それには予算も必要だが、既存の施設を商用利用できるように変えていくだけでも、随分変わってくるのではないだろうか。もちろん、商用利用を可能にするためには、そのための制度や規則、役所側の覚悟も必要になる。人口減で予算も厳しい世の中なので、県、市町村にはそういう手間のかかるややこしい仕事も面倒くさがらずにやってもらいたい。

2012年12月11日火曜日

本当は南薩に縁がないかもしれない日本史上初の美人——南薩と神話(3)

コノハナサクヤの銅像
南さつま市金峰町の物産館は「きんぽう木花館」というが、これはニニギの妻となったコノハナサクヤ姫に因む。今回は、このコノハナサクヤに関する神話の話である。

ニニギが笠沙の御崎で出会った「麗しき美人(おとめ)」がカムアタツ姫、又の名をコノハナのサクヤ姫という。古事記ではこれ以前には女性の形容に「美しい」が使われていないということで、コノハナサクヤは神話上での我が国初の美人、ということになっている。ちなみにカムアタツ姫というのは「神阿多都(姫)」と書き、「阿多の姫」という意味である。

ニニギはコノハナサクヤに早速求婚し、父であるオオヤマツミ(大山祇神)によって承認される。だがこの岳父はコノハナだけではなく、その姉イワナガ(石長)姫も添えて二人をニニギの元に送った。しかしイワナガ姫は大変醜かったため、これを厭ったニニギはすぐにイワナガ姫を実家に送り返す。

これを恥じたオオヤマツミが嘆じて言うには、「岩のごとくいつまでも変わらないようにイワナガ姫を、 木花のごとく栄えるようにコノハナサクヤ姫を嫁がせたのに、イワナガ姫を送り返したからには、天孫の子どもたちは木花のようにもろくはかないだろう」と。これは天皇が短命な原因とされ、神話学的にはバナナ型神話の短命起源と分類される。

この神話の背景として、当時は姉妹が同じ男性に嫁ぐ一夫多妻制があった、というまことしやかな解説もあるが、疑問もある。というのも、姉妹が同時に嫁ぐ「姉妹型一夫多妻」というのは、通常は妻方居住、つまり男性が妻の実家に迎え入れられるという風習とセットであり、二人して夫の元に送られるというのは奇妙である。ニニギがたじろいでイワナガ姫を送り返したのも無理はない。

ともあれ、めでたく天孫ニニギは日本史上初の美女コノハナサクヤと結ばれた。そしてコノハナサクヤは一夜にして身籠もり、やがて臨月となる。だがいざ産もうという時に、さすがに一夜の契りでは妊娠しないだろうということでニニギはコノハナサクヤを疑い、「私の子どもではなくて国つ神(地元のやつ)の子どもに違いない」と言う。

ところで、この話の展開を考えると、どうもニニギはコノハナサクヤと一度しか寝ていないようで奇妙だ。別居でもしていたのだろうか。それとも、実際は妻方居住の習慣があったために、イワナガ姫を拒絶したニニギは二度とオオヤマツミの家に入れてもらえなかったのだろうか(※1)。それにしてもニニギというのは、譲られたはずの出雲ではなく日向に来たり、奥さんの姉を見た目重視で拒絶してお義父さんに怒られたり、出産の間際に「俺の子じゃないだろう」などと言ったり、なんだかおっちょこちょいな性格のようである。

ニニギに疑われたことを怒ったコノハナサクヤは、「もし貴方の子どもだったら無事に産まれるでしょう」と言って、大きな家を作り、その中に入って入り口を塞いで火を放った。そして燃えさかる火の中で3柱の神を無事出産して無実の罪を晴らしたのである。この神、美女にしては壮絶な性格だったようだ。ちなみにこういう証明方法を「うけい」という。そしてこの時産まれた3兄弟が、ホデリ、ホスセリ、ホオリであり、このうちホデリ=海幸彦とホオリ=山幸彦が次の神話の主人公になる。

さて、長々とコノハナサクヤの神話を辿ったが、実は通説ではカムアタツ姫とコノハナサクヤ姫は別人で、アタツ姫は阿多の土着の神であるが、コノハナサクヤは宮崎県にいた別の神なんじゃないかと言われている。つまり、カムアタツとコノハナサクヤの話が混じっているらしい。どこからどこまでが宮崎での話なのか、どこが阿多の話なのか今となってはわからない(※2)。

だが、3兄弟出産の伝説は阿多土着のもののようで、これに因む旧跡は南薩に多い。コノハナサクヤが出産したのが加世田の内山田にある竹屋ヶ尾で、ここには3兄弟の臍の緒を切った竹刀に由来する竹林(※3)、彦火火出見(ホオリ)尊誕生碑、竹屋(たかや)神社などがあり(※4)、竹屋ヶ尾自体が昭和15年には「神代聖跡」に指定されている。

だが、これらの旧跡は人気がないのか、あまり注目されることはないし、そもそもアピールもされていない。一方で、本当はあまりゆかりがないのかもしれないコノハナサクヤが「きんぽう木花館」の名前の元になったり、彫刻家の中村晋也氏(「若き薩摩の群像」の方)によりその銅像がつくられたりということで、やはり美人というのはキラーコンテンツなんだなあと思う。

※1 日本書記本文によると、ニニギがコノハナサクヤの方に「幸(め)す」=「行った」ということになっていて、つまり通い婚であったと受け取れる。こちらの方がそれっぽいストーリーである。

※2 宮崎県西都市には、コノハナサクヤを祭る都萬(つま)神社があり、西都原古墳群にはニニギとコノハナサクヤの墓と言われている古墳もある。ついでにオオヤマツミの墓とされる古墳もある。ただ、コノハナサクヤの神話のほとんどは実はカムアタツ姫の神話を元にしたもの、という可能性もあるので、本記事のタイトルに「本当は南薩に縁がないかもしれない」とつけたが、縁がある可能性もあるわけである。

※3 加世田と川辺の堺にある竹山。コノハナサクヤが捨てた竹刀が根付いたのが竹林のいわれというが、一度伐採されており、現在の竹叢は1984年に加世田市によって復活させられたもの。

※4 竹屋神社は今は加世田の宮原にあるが、1161年以前は竹屋ヶ尾にあったらしい。ちなみに、明治以前は鷹屋大明神といったようだ。また、南九州市にも同名で同様の由緒を持つ神社が存在する。

【参考文献】
『古事記』1963年、倉野憲司 校注
『日本書紀 上(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注 

2012年12月4日火曜日

朝日の直刺す国、夕日の日照る国——南薩と神話(2)

南薩は日向(ひむか)神話の舞台となったところだが、日向神話を語る前に、記紀神話(古事記と日本書紀で語られる日本神話)の全体像もわかっていた方がいいかもしれない。

ということで、記紀神話について簡単に紹介する。これは天地ができてから神武天皇が誕生するまでを描いているが、大きく分けると次のような3部構成になっている。

第1部は高天原が舞台。イザナギとイザナミ夫婦が国産みを行い国土が完成、ところが火の神を産む時にイザナミは焼かれて死んだため、イザナギは黄泉の国までイザナミを追いかける。しかしその変わり果てた姿を見て退散。その禊ぎによってアマテラスやスサノオが誕生する。次がアマテラスとスサノオの姉弟ゲンカの話で、ケンカの結果スサノオは高天原から追放、落ちていったところが出雲である。

第2部はその出雲が舞台。高天原は「天界」なのでやや抽象的な話が多いが、出雲神話は地上の話なので具体性とストーリー性が強く、例えばスサノオのヤマタノオロチ退治、因幡の白ウサギなど人気の(?)神話が収録されている。スサノオの娘の旦那であるオオクニヌシの指導の下で国土が発展したのを見て、アマテラス一族はその国を譲ってもらおうと何度か使者を送り交渉した結果、結局オオクニヌシが国を譲ることを決定。

第3部はがらっと場面転換して日向(ひむか)、つまり九州が舞台。出雲を譲ってもらったはずのアマテラスだったが、孫のニニギをなぜか日向に派遣。ニニギは山の神の娘であるコノハナサクヤ姫と結ばれ、海幸彦と山幸彦の兄弟が誕生。山幸は海幸から借りた釣り針をなくしてしまい、海神の宮まで探しに行く。山幸はそこで海神の娘である豊玉姫と結ばれウガヤフキアエズが誕生、さらにその子どもがイワレヒコ=神武天皇であり、ここに記紀神話が終結する。なお、さらに記紀の物語は続くが、一応これ以降は神話ではなく歴史、ということになっている。

では、これからその日向神話について順を追って見てみよう。なお、内容は基本的に『古事記』に沿うが、適宜『日本書紀』を参照する。

アマテラスにより、なぜか日向の地に派遣されたニニギの一行だったが、彼らが降りて来たのが「高千穂のクシフル岳」というところで、(書記によると)さらにそこから「吾田の長屋の笠狭の碕」へ到達したという。この「阿田」が阿多のことで、「長屋」は加世田と大浦の境界である長屋山あたりといい、「笠狭の碕」(古事記では「笠沙の御崎」)が笠沙の野間半島だというわけだ。

このように、南さつま市の笠沙は天孫ニニギが初めてその居を構えたという記念すべき土地なのである。確かに、雄渾で荒々しい絶景が広がる笠沙は、我が国の黎明を飾るにふさわしい。

しかし、実はこの笠沙という地名はごく最近つけられたもので、古くからの地名ではない。大正時代までは現在の笠沙町と大浦町を合わせた地域は「西加世田村」と呼ばれており、大正12年にこれが「笠砂村」と改称、昭和15年に「笠沙町」となった経緯がある。笠砂村と改称したのは、「加世田村」「東加世田村」もあって紛らわしいということと自治意識を高めるのが目的だったらしく、古事記に因んで「笠砂」と名付けたらしい。つまり、今の笠沙町一帯が元から笠沙と呼ばれていたのではないのである。

ではデタラメでつけた名前かというとそうでもなく、江戸末期(1843年)に編纂された『三国名勝図絵』では、野間半島は「笠砂御崎」と記載されており、野間岳は昔「笠砂嶽」と呼ばれていたとされている。さらに遡る1795年に編まれた『麑藩名勝考』でも加世田は「笠狭之崎」であり、加世田は笠狭に田をつけたものとし、要は加世田という地名は笠沙が訛ったものだと推測されている(※1)。ともかく、「笠沙の御崎」が南薩にあったという主張はかなり古いのである。

また、南薩のこのあたりは神代の伝説やそれを祭る神社が多いのは事実で、阿多として栄えた古代に加世田一帯が笠沙という地名であったとしてもおかしくはないようだ。ただ、直接の証拠はないのに、『三国名勝図絵』ではあまりに自信満々に「笠沙の御崎」が現在の笠沙と同地であるという主張をしていて、客観性が足りないようにも見える。当時から「笠沙の御崎」は宮崎にあるという主張もあったが、同書ではこれを「無稽の妄説なり、詳に辨ぜずして明なり」と一蹴し、薩摩ナショナリズムを全開にしている(※2)。

それはさておき神話の方に戻ると、笠沙に到着したニニギは「ここは朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ほで)る国」だから、ここはとてもよい所だ、と言った。このフレーズはとても素敵で、普通いい国というのは農業・経済が盛んで地力があるところだと思うのだが、景色がいいからよい所だ、というのはなんともロマンチックだ。もともとアマテラスは、オオクニヌシが治めていた「豊葦原の水穂の国」という豊穣な国を譲ってもらいたかったわけだが、ニニギは朝日と夕日が美しいと喜んでいるのだから結構呑気な神である。

また「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」というのは、笠沙の実態とも合致する。朝日の方は見たことはないが、東シナ海に沈む笠沙の夕日はとても美しい。まあこれは日本海側の多くの地域が該当するとは思うが。それから、「豊葦原の水穂の国」という美称と比べると、「褒めるのが風景しかなかったのかなあ」という気もしなくはないが(※3)、ロマンチックな言葉なので観光のPRにも使えると思う。

ちなみに、「笠沙の御崎」の位置については、北九州だという説もある。しかし、神話はそれ自体本当にあったことかどうかわからないわけで、どこかに確定できるものではないのは当然だし、いろいろ書いたが私としては別にどこでもいい。それより、「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」みたいな素敵な言葉が神話の中だけに埋もれているのがもったいないと感じる次第である。

※1 この推測は『三国名勝図絵』で再説されているが、両書には微妙な違いがある。『麑藩名勝考』では加世田=笠沙ということで、「笠沙の御崎」が野間半島だとは限定していおらず、また推測として書いているのに対し、『三国…』の方になると野間半島のことを「笠砂御崎」と断定している。

※2 『三国名勝図絵』では、4ページ半に渡って「笠沙の御崎」=笠沙説を展開しているのだが、特に論証があるでもなく、「〜に違いない」式の記載が続く。一方で宮崎説についてはその内容を紹介せずに「辨ぜずして明」というのだから強気なものである。

※3 当時の信仰はアマテラス=太陽神を中心にした太陽信仰が濃厚なので、朝日夕日云々というのは、ただ景色がいいということではなくて、太陽祭祀に関係があるらしい。天孫降臨の地が出雲でなくて日向なのも、「日に向かう」ということと関係があるのかもしれない。でも神話というのは深読みするとキリがないので、素人はあまり深く考えない方がいいと思う。

【参考文献】
『古事記』1963年、倉野憲司 校注
『日本書紀 上(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注
『三国名勝図絵(第二七巻)』(復刻版)1982年、五代秀尭、橋口兼柄 編(青潮社版)
『麑藩名勝考(第一巻)』1795年、白尾国柱著
『笠沙町郷土誌(中巻)』1986年、笠沙町郷土誌編さん委員会

【アップデート】2012.12.5
『加世田再選史』についての記載を載せていたが、改めて調べてみると『三国名勝図絵』の方が古い資料だし、そもそも『麑藩名勝考』の方がもっと古かったのでこっちを参照することにした。また参考文献に『笠沙町郷土誌』を追加。

販売サイトを構築中…。

このところ、農産物販売のためのWEBサイトを作っているため、なんだか百姓ではなくて引きこもりみたいにPCに向かっている

本当は夏にオープンさせるつもりだったが、いざ実際にやってみると私のWEBサイト構築の知識が古く、基本をちゃんと学ばないといけないことに気づいて構築が延び延びになっていた。

例えば、HTMLについては多少知っているつもりだったが、現在のWEBサイト構築ではHTMLで作ったコンテンツをCSSという仕組みで画面上にレイアウトする。このCSSについては、私は全く触れたことがなかったので一からの勉強しなくてはならず、なんとなく後回しにしてきた。しかし要点がわかってみると、以前のHTML一本のレイアウトに比べて随分と合理的で、実は簡単な気がしてきた。

もちろん基本的には面倒な作業の連続なので、正直、多くの農家にとってはこういう面倒な作業をしてまでインターネットで個人販売をするのは難しい。直売所などのリアルな販売の方が発送や入金確認などの手間もないし、合理的だろう。

しかし、そうなるとどうしても既存の客への販売という面が強くなる。私が主力の一つにしたいと思っているカンキツ系は皮を剝くのが面倒なためか若年層への人気がなく、消費が高齢の固定客に偏りつつある。つまり、将来の展開を考えると既存の客への販売だけには頼れないわけで、インターネットなどを通じて新規顧客の開拓を頑張る必要があるだろう。

私としては、あまりカンキツ系を食べない(と思われる)若い女性の客層を開拓したいと思っており、家内の協力も得て女性に受け入れられるデザインのサイトを作りたい。もちろんWEBサイトなどは作ってもほとんど見向きもされないものなので、今年は作り損だと思うが、いつ作ってもそれは変わらないから早めに作るに越したことはない。

また、もう一つ考えているのは、例えば「○○農園.com」みたいに自分の作った農産物だけを販売するのではなくて、地域の美味しいものを販売するような広がりも作れたらと思っている。先述のように個々の農家がインターネットでの販売に取り組むのは難しいので、もしインターネットで売りたいという人が周りにいれば、そういう人も利用できるようなWEBサイトにできたらいいなと思う。

2012年12月1日土曜日

阿多という地名——南薩と神話(1)

古事記編纂1300年の今年も残り僅かとなってきたので、この機会に神話における南薩について思うところを数回書いてみたい。

さて、南さつま市の金峰町に、阿多という地名がある。

実はこの阿多という地名は、神話的古代に遡る来歴を持つ。阿多は今では狭い地域となっているが、古代には万之瀬川流域を中心とした薩摩半島西南部は広く阿多と呼ばれた。今で言う、南さつま市全体と日置市吹上町を合わせたところを阿多と言ったらしい。

金峰町は以前から「神話のふるさと」を自称してきたが、事実この「阿多」は古事記・日本書紀の記紀神話において重要な位置を占めている。具体的には、天孫ニニギが降臨し山の神の娘であるコノハナサクヤ姫と結ばれるのが阿多の笠沙であり(※1)、その他にも阿多に関する多くの記載が記紀にはある。

どうも、大和政権というのは、天皇家一族と出雲の勢力、そして阿多を中心とする隼人勢力の連立政権だったようで(※2)、そのために阿多の神話が記紀に多く取り入れられているようである。ちなみに、そのころ「薩摩」という地名はメジャーではなく、記紀には薩摩隼人は登場しないが、「阿多隼人」と「大隅隼人」というのが対置されて登場する。

例えば、日本書紀には、阿多隼人と大隅隼人が天覧相撲をして大隅隼人が勝った、という記述がある(※3)。これは史書における相撲の最初の記述であり、相撲の起源の一つは南九州にあるのである。今でも鹿児島では神事としての相撲がとても盛んで、夏祭りでは綱引きと相撲がよく行われるし、金峰町の錫山相撲などは350年以上の歴史がある。

この阿多隼人と大隅隼人は、おそらくは天皇一族との連立政権を組むため(※4)、古代に畿内へ大量移住しており、今でも畿内には鹿児島に因む地名がある。例えば、奈良県五條市の阿陀(あだ)は阿多に起源を持つと言い、京都府京田辺市の大住(おおすみ)では大住隼人舞という芸能も行われている(近年復活させたもの)。

畿内隼人は律令制の中で「隼人司(はやとのつかさ)」という機関に所属せられ、歌舞などの芸能や竹製品の製造を担当した。また、天皇一族の護衛(近習隼人)や御陵の警護、そして(もがり)の儀礼にも参加させられたという。これらは隼人の持つ呪能を期待したものだったらしい。どうやら、古代において隼人というのは、神秘的な力を持つ民族と捉えられていたようだ。

このように大和朝廷において重要な働きをしたらしい隼人だが、大和朝廷が氏族支配の体制から律令制(法治国家)に移行するにつれ利害が対立し、702年、713年、720年に朝廷への反乱を起こす(隼人の乱)。ちなみに最後の反乱で朝廷から派遣された将軍が、歌人として著名な大伴旅人である。旅人によりこの反乱は鎮圧され、以後隼人は不遇の時代を迎えることとなる。2回目の反乱の後には、6年に1度の朝貢も求められている(六年一替の制)。これは江戸時代の参勤交代制度に似ているが、定期的な朝貢を求められたのは全国でも隼人しかいないのである。

この他にも、阿多隼人の記事は『古事記』や『日本書紀』に散見される。そして『続日本紀』(797年成立)くらいまではかなりの存在感がある阿多隼人だが、続く『万葉集』になると、阿多という地名は全く出てこないし、「隼人」という言葉も半ば思い出の中に表現されるだけである。 どうもこれは、阿多隼人の場合、中心勢力が畿内に移住してしまったために、地元の政治的重要性が低下していったということもあるようだ。

こうして、神話的古代に栄えた阿多は、阿多郡→阿多郷→阿多村とどんどんその領域を縮小していき、今では金峰町の一地名として残っているだけである。寂しいとも言えるが、古代から引き継がれた地名が交差点の名称として普通に使われているのは面白い。地元でも特段アピールされないけれど、阿多という地名は、鹿児島にとっての記紀神話への入り口なのである。

※1 「この「阿多」は鹿児島の阿多ではなくて、宮崎県の吾田(あがた)だ!」 とする主張もある。宮崎県は、神話の舞台が鹿児島ではなく宮崎にあったとする主張を頑張っていて、これはまた機会があったら書きたいが理由のないことではない。延岡市には笠沙の御崎もある。神話の本拠地の競争をするのではなく、姉妹都市になったら面白いと思う。

※2 「隼人は天皇家に服属させられた民族」というのが従来の常識だったが、最近こういう考え方になりつつある。

※3 『日本書紀』天武天皇11年の条。

※4 これは(※2)と関連するが、従来は天皇家への服属のため強制移住させられたと考えられていた。しかし江戸時代の外様大名のように敵対勢力は遠ざける方が合理的であることを考えると、この移住は自主的なものであったと考えた方がよい、ということになりつつある。

【参考文献】
『熊襲と隼人』1978年、井上辰雄
『隼人の古代史』2001年、中村明蔵