2018年12月30日日曜日

挫折した歴史編纂——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その19)

久光が病床に伏していた明治20年11月、政府の調査団が島津家を訪れ、同家が保存していた大量の歴史資料の提出を求めた。

明治18年(1885年)から、政府は歴史編纂に用いる史料収集のため全国に人を出張させ、史料の探索と写本の作成を行っていた。調査団を率いたのは、かつて久光に見いだされ「皇朝世鑑」を編纂した重野安繹(やすつぐ)、そして鹿児島にやってきたのは、重野の片腕として修史事業を推進した久米邦武であった。

明治政府の修史事業は、明治2年の「修史の詔」(修史御沙汰書)に始まる。これは古代律令制国家によって編纂された「六国史」以降、国史が途絶していることを嘆き、国家として行うべき事業として国史編纂を復活させようとしたものである。これには、明治政府の正統性を歴史的に裏付けるという目論見もあっただろうし、古代の歴史編纂を引き継ぐという意味で復古政策の一環であるとも位置づけられる。

この修史事業は、まずは「史料編輯国史校正局」(1869年3月)、継いで「太政官正院歴史課」(1872年10月)、さらに「修史局」(明治8年(1875年))と担当部局が二転三転しながら推進された。修史局では、「六国史」以降の時代を編纂するにあたり、水戸藩の「大日本史」を正史に準ずるものとみなして、それに続く時期を歴史編纂の対象とした。

明治10年(1877年)、修史局はさらに改組され、折からの財政切り詰めの影響を受けて「修史館」と縮小された。縮小されたとはいえ50人ほどの官員を従えて修史館のトップに立ったのが重野安繹である。また、岩倉使節団の団員として欧米を巡覧し『欧米回覧実記』を刊行した佐賀藩出身の久米邦武もその編集能力を買われて修史館に迎えられ、やがて重野と久米、それから漢学者の星野恒(ひさし)の三人がこの事業を率いるようになっていく。

重野が久光の下で「皇朝世鑑」を編纂してから10年以上が経っていた。久光がたった一人で「六国史」を継ぐ『通俗国史』に取り組み始めたのとほぼ同時期に、重野は数多くの部下を従え、国家プロジェクトとして同趣旨の歴史編纂に携わっていたのである。

そして明治15年、重野安繹は日本の正史たるべき「大日本編年史」の執筆に着手する。当初重野らは、前述のとおり「大日本史」以降の歴史を対象としていたのであるが 、「大日本史」の記述に必ずしも信用できない点があることから、その対象を南北朝時代にまで遡らせ、全国から史料収集し考証を厳密に行った上で編纂に取り組もうとした。そのため、重野は調査団を組織し、全国に館員を派遣して調査を行った。この調査は、国家の権力を笠に着た半強制的なもので、短期間で厖大な史料を接収することとなった。

その一環として、島津家にも史料の提出依頼があったのである。しかし島津家ではこれに対して難色を示したらしい。久光も「大日本編年史」の事業については冷ややかに見ていた。そうでなければ、自ら『通俗国史』を編みはしなかっただろう。一部の文書の閲覧は叶ったようだが、調査中に久光が死去しそれどころでなくなったこともあり、結局島津家文書の調査は中断された。

島津家については国家の威光が通じなかったものの、修史館には全国から厖大な史料が集められ、歴史編纂の材料となった。こうして「大日本編年史」は、その手法に強引なところはあったとはいえ、古文書を中心とした一次史料に基づいた実証的な歴史記述という、近代史学の出発点となったのである。

ところでこうした事業が行われている間にも、担当部局の変転は続いた。修史館は明治19年(1886年)「内閣臨時修史局」と改められ、また明治21年(1888年)帝国大学に移管されて「臨時編年史編纂掛」、さらに明治24年(1891年)には「史誌編纂掛」と改称されている。これらの改組には、予算の縮減や人員の削減といった事情と共に、修史館の人材を帝国大学で活用し、国史科を設立するための準備といった側面もあったそうである。このような改組の結果、重野安繹らは帝国大学文科大学教授を兼任し歴史編纂にあたっていく。

ところがその編纂ははかばかしく進まなかった。全国から収集した史料を付き合わせてみると、これまでの歴史書の誤りが次々と見つかって来たからである。重野は修史に携わった当初は、漢文の大家として流麗な漢文で歴史書を編むことに意欲があったようだ。しかしやがて歴史の真実を明らかにすることに関心の重点が移っていく。「大日本編年史」の目的は、これまでの歴史書の誤謬を排し、正しい事実に基づく歴史書を編纂することに変化していった。

そうした重野の姿勢が世に知れ渡ったのが、いわゆる「抹殺論」として批判を受けた一件であった。重野は明治23年(1890年)5月の史学会において「児島高徳」と題してこの人物を考証の俎上に載せた。児島高徳(たかのり)とは『太平記』に出てくる南北朝時代の武将で、南朝後醍醐天皇のために奮戦した人物とされている。今でこそあまり注目されない人物であるが、戦前は忠臣の代表として道徳的模範、国民的英雄と目されていた。

特に、後醍醐天皇奪還に失敗し院庄(いんのしょう)の仮寓居に密かに赴いた高徳が、桜の木の表面を削って「天、勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」という漢詩をサラサラと書き付けたというエピソードはよく知られていた。これは、「天は越王勾践を見捨てず、范蠡のような忠臣が現れたように、必ずや帝を助ける忠臣が現れることでしょう」と天皇を勇気づけたもので、忠君を鼓舞する説話となっていた。

ところが重野は、これら『太平記』の高徳関係の記事9つを詳細に検討し、児島高徳に関する記録が『太平記』以外になく、他の資料で裏付けられないことから、それらを作者の創作と断じ、児島高徳自体が実在の人物ではないと結論づけた。これが「児島高徳抹殺論」(「抹殺論」)である。重野はこの他、楠木正成・正行(まさつら)親子が湊川合戦に赴くにあたって桜井駅で死を覚悟して別れを交わしたという、いわゆる「桜井の別れ」も史実かどうか疑わしいとするなど、さまざまな伝説を歴史的事実でないと発表したのである。

これに反応したのが国家主義者や新聞などのメディアであった。重野は国民道徳、忠君の精神を毀損すると見なされ、児島高徳を歴史から抹殺したことから新聞などで嘲笑的に「抹殺博士」と書き立てられた。重野は、歴史は道徳のために存在するのではなく、事理の究明こそ重要であると説き、むしろ勧善懲悪主義によって歴史を枉げることこそ非難すべきであるとしたが、世間ではそう考えなかった。国家主義者たちは重野を狙うようになり、重野は身に危険すら感じて沈黙せざるを得なかったのである。重野は政府から処分こそ受けなかったものの、これが近代史学にとっての初めての弾圧となった。

一方、久米邦武は、重野の実証主義的立場を過激に推し進めた。明治24年(1891年)には『太平記』全体を創作的物語と断じてその価値を否定する「太平記は史学に益なし」という論文を発表。これは現在の学問水準から見るとやや行き過ぎの主張であったが、道徳を説くことを目的に史実と創作が渾然一体となっていた歴史観念を破壊するための鉄槌であった。

さらに同年10月から12月にかけ、久米は「神道は祭天の古俗」とする論文を『史学会雑誌』に発表。これは専門誌であるため当初一般には注目を浴びなかったが、翌年(明治25年)1月ジャーナリスト田口卯吉により挑発的なコメントが付されて歴史雑誌『史海』に転載されたことで大問題に発展する。久米はこの論文で、神道は宗教ではなく東洋の古代社会に普遍的に見られた「天」を祀る信仰であるとし、神についても「我々に禍福を下し給ふならんと信じたる観念の中より、神といふ者を想像し出して崇拝をなし」たものだとした。さらに、伊勢神宮についても元は天を祀る神社であって大廟などと称するのはおかしい、三種の神器もおそらく祭典の神座を飾るものであろう、などとして神道を構成する様々な要素に忌憚ない批判を試みたのである。

これは今の我々からすれば特に驚くにあたらない主張なのであるが、日本の神話は世界で唯一正しく伝えられた真実の古史古伝であり、神道は世界に冠たる真実の教えであると考えていた神道家たちが久米の説に激昂したのは当然である。翌月2月には4人の神道家が久米の家に押しかけ、久米の説が「国体を毀損する」として5時間にわたって難詰。遂に久米は論文を撤回せざるを得なかった。さらに4人は宮内省や内務省、文部省に赴いて久米のような人物が教育に当たっているのは好ましくない」と久米を処分するよう運動した。

久米が論文を撤回しても騒ぎが収まらなかったこともあり、翌3月には久米は帝国大学を非職(身分を保ったままで職務がなくなる)処分となり、さらに『史学会雑誌』『史海』は国家の安寧秩序を乱すという理由で発禁処分となった。これがいわゆる「久米邦武筆禍事件」である。

一方重野は、久米邦武が神道家たちに命すら狙われる中、積極的に擁護しようともせずに沈黙を守っていた。きっと「抹殺論」で世論に刃向かうことに懲りていたのだろう。「抹殺論」の渦中にあった明治23年(1890年)11月、後に国家神道の聖典のような存在となった「教育勅語」の発布にあたり帝国大学で行われた式典においても、重野は「教育勅語」がいかに歴史に則ったものであるかという白々しい演説を行った。芽生え始めた近代史学の芽は摘まれてしまったのだ。

また、重野や久米の立場は政府首脳にも受け入れられなかった。「久米邦武筆禍事件」から1年後の明治26年(1893年)3月、こうして明治政府の修史事業は頓挫し、帝国大学の史料編纂掛は廃止、重野も解任された。彼らの仕事のうち歴史資料の収集のみが継続され、それは現在の東京大学史料編纂所に続いていくのである。

重野安繹の「抹殺論」、そして「久米邦武筆禍事件」に共通していたのは、彼らは国家の正統な歴史に異を唱えたわけではなかったということだ。なにしろ国家の正史はどこにもなかった。むしろ、彼らこそが「大日本編年史」によって国家の正統な歴史を紡ごうとしていた。しかし、彼らは「正統と思われているもの」という曖昧なものに挑戦したために挫かれたのである。誰も、国家の正統がどこにあるのか知らなかった。ただ、皇室や国家権力を脅かす可能性があるものが、なんとなくタブーとなっていった。しかもそれは、国家自身が望んだと言うよりも、過激な国家主義者、神道家たちの手によって自然発生的に作られていったのである。皮肉なことに、考証によって正統な歴史を編もうとした重野たちは、逆に歴史が不可侵なものとなっていく一因を作っていたとも言える。

国家の中心に、誰も手の届かない聖域が出来つつあった。神話と信仰と歴史、虚実が綯い交ぜになった何かだった。その何かは、何人も理性的に検討することができないのだ。どんな知識人、どんな碩学であれ、その領域には科学の力をもって近づくことはできなかった。それが何であるかは、明確には誰もわからなかった。ただ、至高の存在である曖昧な何かなのだ。それを人は、「国体」と呼んだ。

「国体を毀損する」と言われれば、誰でも萎縮せざるを得なかった。「国体を毀損する」ということが、一体どういうことなのか誰にも分からなかったとしてもだ。

教科書には、神話が事実として載せられた。最初の歴史教科書『官版史略』で既に天御中主神以来の神々は歴史として扱われている。神話は「国体観念」の淵源をなすものと権威付けられ、科学的な精神によって自由に検討できる対象ではなくなった。

後に、大正デモクラシーの自由主義的雰囲気の中、津田左右吉が科学的に記紀神話を検証し『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』等を発表して神話研究は画期的な進歩を遂げたが、それも一時のことだった。太平洋戦争に突入する昭和10年代になるとこれらは発禁処分とされ、津田は弾圧を受けるのである。

こうして神話は、疑うことを許されない歴史的事実となっていった。

重野安繹が児島高徳の史実性を否定したくらいで大問題になったくらいである。神話を疑うことは国体を毀損し、皇室に対し不敬であり、非国民的なのだ。国民学校の児童が、授業中に神代説話が本当の話ではないのではという発言をしたために教師から殴打や減点を受けたという話は多く伝わっている。神話が、理論的に事実と認められるものであれば、教師は理論的に反論し、優しく教えることができたはずである。しかしそうではなかった。教師は、神話を暴力によってしか守ることができなかった。神話が、実際には虚構であったからだ。「国体」も同じだった。世間に雷同しないものが非国民と罵られ、国体を蔑ろにすると難癖をつけられて暴力を振るわれた。

国体が、本当に確固たるものであれば、暴力ではなく理屈で説き伏せられたはずだ。しかし誰にも国体が何なのか分かっていなかったのである。国体は、何重にも張り巡らされた晦渋な理論と過激な国家主義者、そして強圧的な国家権力に守られてはいたが、その中心は空虚だった。子どもでも分かる、簡単な嘘がそこにあった。「天皇は神である」という嘘だ。それが嘘だからこそ、人々は暴力を使ってそれを守ったのである。

そして、国体を守る、そういう何重もの垣の一つが、歴代の山陵であった。不敬罪において、山陵に対する罪は皇族に対する罪と同様であると定められた。それが、万世一系の皇統を示す物的証拠であり、日本を歴代の天皇が治めてきたことの象徴でもあったからだ。

多くの山稜は、幕末以前にはただの山でしかなかった。そこで人々は耕作し、生産し、当たり前に生活していた。ところがそこが幕府や政府により山稜であると指定され、垣で囲われ兆域となり、不可侵なものとされていったのは、まさに国体を維持するために社会の様々な部分が不可侵な領域とさせられていったことの一例だった。

さらに神代三陵には別の意味があった。神話に描かれた神々が、現実にこの土地に生きていたという証しとしての意味だ。天から降ってきたニニギのミコトは可愛山陵に今でも眠っているのである。神の墓がそこに厳然として存在しているというのに、神がいないわけがなかった。

幕末明治の思想史を振り返っても、誰一人として神をこの世に現実化しようとした人はいなかったように思う。あの平田篤胤ですら、天皇を神そのものとは見なしていない。むしろ、篤胤は天皇ですら死後には大国主命の審判を受けると考えた。彼は神々の世界を現実のものと信じていたが、それにしても神々が物理的存在であると考えていたわけではない。しかし明治政府の無定見な宗教政策の結果や、過激な神道家たちの運動や、日本の好戦的な対外政策の行き着くところであったのか、やがて天皇自身が神とされ、「現人神」として崇拝されるようになるのである。誰も、天皇自身を神に演出するプランは持っていなかったにも関わらずだ。

「文明開化」にせよ、「富国強兵」にせよ、いや「復古」ですら、天皇を神にしつらえる必要はないスローガンだった。それなのに、いつの間にか天皇は神そのものとなり、日本は「神の国」となっていったのである。

(つづく)

【参考文献】
『重野安繹と久米邦武—「正史」を夢みた歴史家』2012年、松沢裕作
「ゆがめられた歴史」大久保 利謙(『嵐のなかの百年』 1962年、向坂 逸郎 編)
『続 発禁本』1991年、城 市郎
『日本書紀 上 日本古典文学大系67』1967年、坂元太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋 校注