2014年10月23日木曜日

ORECのウイングモアー

先日、満を持して「ウイングモアー(畦草払い機)」の新品を購入した。

これは下で2枚の刃がぐるぐる回り草を刈っていくという、いわば農業用の芝刈り機なのだが、本当にとんでもなく便利で、 一度これを使い始めるともはやコレ無しの草払いには戻れない、という麻薬みたいな機械である。

何しろ、南九州は雑草の伸びが激烈である。おそらく、山陰山陽あたりと比べても相当差があるのではないかと思われるが、関東以北の人からすれば異次元の雑草の伸びだろう。日当たりのよいところであれば、「きれいにしていますね」と言われるくらいに雑草を抑制しようと思えば夏期は3週間に1回くらいの草払いが必要だ。別に他の人にどう思われようと知ったこっちゃない場所でも、1月半に1回は草を刈らなければ雑草が高くなって大変なことになる。

だから果樹栽培をやっていると、夏期は草払いばかりしなくてはならないのだが、クソ暑い中刈草払い機でブイーンブイーン雑草を刈るのは結構な重労働だ。ところが、この機械を使えば、その手間が1/3くらいになるのである! 「楽」とまではいかないが、少なくとも時間はかなり短縮する。要するに、労働生産性がかなりアップする!

ところで、この機械を作っている農機具メーカーのOREC(オーレック)社の方と知遇を得て、昨年研修旅行(?)に同席する機会を得たり、いろいろと目をかけていただいたりしている。そんな恩を蒙りながら、これまでOREC社の新品の機械を持っていなかったので疚しく思っていたところ、ようやく新品ウイングモアーを購入することが出来てちょっとホッとした気持ちもある。

その研修旅行の際に感じたのは、このORECという会社の人たちが和気藹々として楽しそうだということだ。メンバーは開発部中心だったかと思うので(営業とかのストレスがないから)雰囲気がよかったのかもしれないが、農機具メーカーであるということも大きいのかもしれないと思う。

なにしろ、農機具の開発というのは面白そうである。いや、別に自動車とか家電の開発がつまらないというつもりはないし、農機具の開発が楽だということもないと思う。でも自動車のエンジンの燃費を1%でも向上させるのは難題だし、それに仮に5%向上させてもユーザーが大喜びするわけではない。そもそも自動車は機械というより、この頃は精密機器・電子機器の部分が多く機械的な開発は中心でない。そして自動走行など新しい技術も出てきているが、基本的に車や白物家電は既にコモディティ化(どこにでもあるもの化)していて、要は形態が完成してしまっている。

一方、農機具の世界にはまだまだ開発の沃野が広がっている。今後の日本の農業は高齢の零細・兼業農家がバンバン引退するのが既定路線だが、ということは(新規零細農家がたくさん生まれるのでなければ)経営の大型化になって行かざるを得ない。そのためにはこれまであまり機械化されていなかったところまで機械化・合理化していく必要があるし、これまでの機械の効率ももっと上げていかなくてはならない。

しかもうまいことに、農業機械はまだまだ完成していないものが多い。極端に言えば、ギアボックスの位置一つとってみても、ちょっとずらすだけで生産性が上がる場合がある。いうなれば、まだ農業機械は高専ロボコンみたいな部分があって、アイデア次第で機能性が格段に上がる可能性を秘めている。しかも、機能性が上がることはそのまま農家の生産性のアップにつながるわけなので、ユーザーの幸せにも繋がるわけだ。

その上、農業機械はグローバル化しつつある。ヤンマーがマンチェスター・ユナイテッドのグローバルパートナーになったのが2013年(3年契約)。その思惑は詳しくは知らないが、要は世界的な知名度を上げて、販路を広げていこうということなのだろう。何しろ東アジアの稲作地帯には、まだまだ機械化されていない米作りの地域が多い。日本メーカーお得意の米作専用機械をドンドン売っていける可能性がある。もしかしたら、この畦草払い機もインドネシアとかフィリピンとかの高地稲作地帯(要は平野じゃなくて棚田のように高低差のある地形で米作りしているところ)で需要があるかもしれない。

そんなわけで、今、農業機械メーカーは躍進の時代だと、勝手に思っている。ロボコンに熱中するような学生さんには最適の職場ではないか。でも、自動車メーカーだって面白いでしょ、というかもしれない。それはそうだと思う。なにしろ革新的な自動車を開発できれば社会そのものを変えるようなイノベーションになる。一方農機具メーカーは、どんなにスゴい農機具を開発しても多分社会までは変わらない(少なくともすぐには)。でも一人の農家の経営が変わる。そういう、生産の現場とダイレクトに繋がる楽しさが農機具メーカーにはありそうな気がする。

2014年10月17日金曜日

アラブの農業革命——柑橘の世界史(7)

ヒシャーム宮殿のモザイク「生命の樹」
7世紀、中東と地中海世界は、突如としてアラブ人の時代に入った。イスラームの興隆が始まったのである。

アラビア半島の片隅で生まれたイスラームの共同体は、もの凄い勢いで周囲を飲み込んでいった。既にササン朝ペルシアやビザンツ帝国は老いた国となり往時の面影はなく、中東では、新たな秩序が求められていたといってもよいかもしれない。そこにうまい具合に現れたのが、イスラームという清冽で簡素な教えだった。

イスラーム勢力が、どのように地中海世界の覇者となっていったかを詳しく述べるのはやめにする。ひとたび広大な版図を支配したイスラーム帝国が分裂し、地方王朝が乱立していく経緯も、柑橘の世界史の観点からはさほど重要ではない。ここでは、西アジアから北アフリカ、スペインに至るまでの領域がイスラーム文明によって共通の基盤を与えられ、一つに繋がったということが重要である。8世紀から15世紀ごろまで、地中海の南側はイスラーム世界だった。

そしてこのイスラーム世界において、アラブ人たちが愛した果物がレモンである。 といっても、付け加えなければならないのは、アラブ人たちがその血として肉として愛した果樹というのは、なんといってもオリーブとナツメヤシだ。アラブ人たちは、オリーブとナツメヤシの育たない地域には、ついに国家を作ることがなかった。つまり、いわばこれらの果物が主食として愛された果物であるとするなら、レモンは嗜好品として愛された果物だった。

どうしてアラブ人たちはレモンを気に入ったのだろうか? その理由はよくわからない。というより、別にアラブ人たちはことさらにレモンだけに執心していたわけでもなさそうだ。なにしろアラブ人たちは果物に目がなくて、レモンだけでなくザクロ、ブドウ、バナナ、イチジク、メロン、サワーオレンジ、マルメロ、ナシ、リンゴなどたくさんの果物を楽しんでいた。とはいってもイスラーム世界において、レモンの栽培が広範囲に伝播し、その利用も様々に工夫されたこともまた事実である。なにしろ、レモンは『クルアーン(コーラン)』に出てくる「楽園」にある樹木と見なされることさえあった。

もちろん、栽培や利用の技術が発達・伝播したのもレモンだけではない。8世紀から11世紀は、イスラーム世界で農業技術が長足の進歩をなし、また様々な栽培植物が各地に伝播していった。この時代の農業生産性の向上を「アラブの農業革命」と呼ぶ人もいる。

例えばアラブ人たちが地中海世界に伝えた重要な作物だけを挙げても、稲、硬質小麦(強力粉を作るコムギ)、サトウキビ、棉、ソルガム、バナナ、ココナッツ、メロン、マンゴー、ほうれん草、タロイモ、アーティチョーク、ナスといったものがある。インドやアジアにあった作物を、貪欲に取り入れて各地に伝播していったことはイスラーム文明の大きな功績である。

これはもちろん、地中海南岸から中東、西アジアという広大な領域がイスラームという共通の文明に支配され、人や物の流通が盛んになったことによる。その上ムスリム(イスラームの信徒)には、一生に一度はメッカに巡礼することが推奨されており、まさにこのために人の行き来が盛んになった。以前も書いたように、作物の伝播にはただ種や苗が運ばれていくだけでなく、人の移動が不可欠である。巡礼をきっかけにした旅が新たな作物の伝播に寄与していたのではないかと思う。

また、農業技術や理論の面の進歩も著しかった。土壌論、土壌の改良、水利・水質論、肥料論、病害虫の防除といった現代の農学と同様の体系が構築された。栽培技術においては、特に商品作物となる園芸野菜と果樹について集約的な管理方法が開発された。こと果樹に関しては、植え付け、接ぎ木・挿し木、剪定、灌漑など現代の果樹管理と変わらない技術が既に用いられており、10世紀においておそらく世界最高峰の水準に達した。

イスラーム世界の中心である中東や北アフリカは半乾燥地域が多かったために、灌漑技術はことさら優れていた。古代イラン文化から引き継いだカナート(灌漑用のトンネル)やメソポタミアの水利技術を踏まえ、運河・隧道を開削し灌漑システムを作り、植物栽培における水管理を徹底した。これはまさに、年間を通して適切な降雨を必要とする柑橘類の栽培にはうってつけのものであった。

ところで、こうしためざましい成果を上げた園芸農業・果樹産業と違い、小麦や大麦など穀物の生産性はそれほどでもなかった。広大な農地に灌漑を行うことは無理であり、イスラーム世界の穀物栽培は天水(雨)に依存するものであった。地中海では冬にある程度の雨が降るが、穀物はその降雨に頼った栽培であったので、たまたま雨の少なかった年には収穫が激減する時があったようだ。であるからこそ余計に、都市近郊の集約的な園芸農業・果樹産業に力が入ったに違いない。博打的な穀物生産と、集約的で安定した園芸・果樹の2本立てがイスラーム世界の農業だった。

このイスラーム世界で、レモンを中心とした柑橘類はそれまでと違った歴史を歩むことになる。地中海世界では、それまで珍奇な香料や薬品でしかなかった柑橘が、食生活の中心に躍り出たのである。

【参考文献】
『イスラーム世界の興隆(世界の歴史6)』2008年、佐藤次高著
『イスラーム農書の世界』2007年、清水宏祐著
"Lemon: A Global History" 2012, Toby Sonneman

2014年10月12日日曜日

「海の見える美術館で珈琲を飲む会」チラシできました!

先日お知らせした「コーヒーを飲む会」の続報。

イベントのチラシを作成したのでここで発表します!
http://nansatz.html.xdomain.jp//archive/museum-cafe-kasasa.pdf
(内容は下の画像と同じもの)

決定事項としては、
  • イベント名称を「海の見える美術館で珈琲を飲む会」に決定(長いですが)。
  • 入館料を200円徴収することに(なにしろコーヒーが無料なので)。
  • 「ダイビングステーション 海来館」さんの協力を得た写真展「生命あふれる 南さつまの海!」を同時開催。
というところ。

ちなみに、本日(10月12日)MBCラジオでやっている「じゃっど! すっど! きばっど! 南さつま!」(”!”マークが多い…)という番組に出演させてもらい、元々の目的である大浦まつり(10月19日)の広報のついでに本イベントもお知らせしたのだが、なんと日程を「12月23日」と間違って告知してしまった模様…。正しくは11月23日(勤労感謝の日)です。

Facebookでも「海の見える美術館で珈琲を飲む会」イベントページを作成しているので、Facebookを利用される方は「参加」ボタンを押していただければ幸甚です。



2014年10月8日水曜日

人と人との新しいつながりを増やす、素朴なアイデア

以前、かなり否定的な紹介をした「百寿委員会」の続報である。

細かいことはともかく、今どんな検討をしているのかというと、WG毎にいくつかやることを決めて、それの具体的な計画を作っているところである。例えば、ラジオ体操をもっと広めようとか、人材バンクを作ろうとか(活躍の場を増やす)、マップづくりをしよう(交流のきっかけにする)といったことを検討している。

私の所属するWGは、健康づくりのための活動というよりは、その前段階となる、人と人とのつながりに関わる活動がメインターゲットである。

人と人とのつながりというと、交流の機会を設けることが必要となるが、既に自治会単位、校区単位で老人会的なサロンのようなものは行われているわけで、そういったものを活かしていこう、というのが基本的な方向性になる。

本委員会の性格を考えると、それは妥当な方向性だと思う。でも私は、自治会単位とか校区単位でない交流の方が自由で好きだし、それに趣味の集まりのような交流と同じくらい、経済活動の一環としての交流も重要だと思っている。つまり、ものを売ったり買ったりすることも交流の一種なのだから、「非営利的な交流」だけを考える必要もないと思う。

それで、私自身、今「笠沙美術館でコーヒーを飲む会」というイベントを計画していて我田引水ではあるのだが、「イベントの中身は問わないで、○○人以上の人が集まるようなイベントには一律5000円くらいの補助金を出すのはどうだろう?」と提案してみた。この提案は「それもいいかもね」程度で流れてしまったのだけど(そもそも役所の予算を審議する委員会ではないし)、改めて考えてみてグッドアイデアな気がするので備忘のために書き留めておく。

言い添えておくと、南さつま市には「市民活動応援事業」というものがあって、イベントの開催などに補助が出る。NPO等が使える30万円までの事業(補助率1/2)と、5人以上の団体が使える10万円(全額補助)の2種類のメニューがあり、それなりにいい事業だと思う。

でもこの「市民活動応援事業」は年度初めに申請しなくてはならないので、年度の途中で企画されたイベントには使えない。それに、小規模のイベントを行う場合にはちょっと敷居が高い。そこで、年度途中でもいつでも申請できる代わり補助金額は5000円で一律にしたメニューを作ってはどうかというわけだ。

「イベントの中身は問わないで」といっても、スーパーの特売がイベントに当たるかというとそれはないと思うし、営利的な交流がOKといってもやはり普段の販売と違う要素がないとだめだとは思う。でも逆に、普段の販売と違う要素さえあれば、お店で行うイベントだって対象にしてかまわない。経済活動が盛んになり、交流も盛んになれば一石二鳥だ。

ちなみに「コーヒーを飲む会」は今のところ収支はトントンか赤字の見込み(!)であるが、赤字ではイベントは続けられない。やはり僅かでも収益があってこそ継続性が見込めるわけで、そこに5000円でも補助があったらものすごく嬉しいというのが実感である。こういうことを言うと、随分小さな金額の話でしみったれてるなあと思うかもしれない。でもそういう草の根の小さな交流の機会がたくさん増えたら、新しい活動のきっかけも増えるし、新しい友人も増える。ひいては街の活性化に繋がる。5000円の補助を100件のイベントが受けてもたったの50万円。

街の予算を50万円使うだけで、人と人が出会う機会が100回も増えたら、ステキなことではないか? もちろん、こういう制度があったらそれを悪用(?)する人もいるだろう。不特定多数が来るのではない、内輪の集まり(何かの定例会とか)をそれらしく見せて申請したりする人もいるかもしれない。でもそういう事例がいくつか出てきたら、事後の監査をしっかりとして制度を改善していけばいいだけの話である。

「百寿委員会」ではこのアイデアはあえなくボツになったようだが、また機会あるときに役所の人に提案してみたい。

2014年10月2日木曜日

【告知】「笠沙美術館でコーヒーを飲む会(仮)」を開催します!

重要な告知(!)。

来る2014年11月23日(日)、勤労感謝の日に「笠沙美術館でコーヒーを飲む会(仮)」を開催します!

この笠沙美術館は沖秋目島(ビロウ島)を望む絶景の地にあり、そこにある景色自体が一つの芸術品のような美術館である。

コーヒー党の私としては、以前から、ここでコーヒーを飲めたら最高だなあ! と思っていた。先般この施設の指定管理者の公募があって、うまくいけばミュージアムカフェのようになる可能性もあったのだが、条件の折り合いがつかなかったのか応募者がなかったそうである。

というわけで、どうも待っていても笠沙美術館でコーヒーを飲みたいという夢が叶わなそうなので、だったら自分でコーヒーを淹れてしまおうということになった。さらに、せっかくならコーヒー党(?)のみなさんにも呼びかけて「コーヒーを飲む会」にしようというわけである。

さらに、その日は一日美術館全体を借り切って、様々な企画も合わせて開催する予定である。例えば、場所がせっかく美術館なので写真の展示も行う(その内容はまだ秘密。お楽しみに)。それから、ミニマルシェも設ける予定である。「南薩の田舎暮らし」はもちろん出店するし、その他出店者を検討中である(このブログ記事を読んで、是非出店したいという方がいらっしゃったらお気軽にご連絡ください。コメント欄にでも)。

もちろん、コーヒー豆もそれなりにいろいろ準備する予定。ただ、一日だけのイベントでも販売には保健所から営業許可を取得する必要があって、その認可費用がかかるので、今回は販売ではなくコーヒー自体は無料(!)にしてカンパ制にしようと思っている。なのでコーヒー豆の持ち込みも歓迎である。いやこの際、サイフォンだってなんだってマイコーヒー器具を持ってきていただいてかまわない(はず)。ちなみにこちらで準備するのはごく標準的なペーパードリップの器具のみである。

こういうイベントを開催するのは、もちろん自分がコーヒーを飲みたいということも第一だし、それと同じくらい、笠沙美術館に秘められたポテンシャルを発揮させたいという気持ちもある。南さつま市の持つ素晴らしい財産が、今はなんだか死蔵されているような感があってもったいない。そのポテンシャルを活かして、笠沙美術館を若い人たちが面白い企画を実現できる場にしていけないだろうか?

まあそれは大げさでも、この機会にたくさんの人にここに来ていただき、素晴らしい景色を見ながらコーヒーを飲んでいただけたら幸甚である。

詳細はまた後日お知らせします。

2014年10月1日水曜日

ユダヤ人のディアスポラとレモンの誕生——柑橘の世界史(6)

ササン朝ペルシアの最大版図(西暦621年)
時は紀元1世紀。草創期にあったローマ帝国での話である。

ユダヤ人はローマで他の人たちと様々な軋轢を抱えていた。その頃は皇帝崇拝が確立していく時期にあったが、自分たちの神以外の聖性を絶対に認めなかったユダヤ人たちは共同体から孤立しつつあり、反ユダヤ的な風説(例えばユダヤ人はロバを崇めているという嘘)が流布されていた。

また帝国には、借金を抱えて政治的不満を抱き、その不満をどこかにぶつけて憂さ晴らししたい人びとがたくさんいたようだ。「反ユダヤ」は、そういう輩にとって手っ取り早い「政治的主張」になっていたに違いない。

そういう状態の中、ある街でユダヤ人とギリシア人の偶発的衝突が起こった。ならず者のギリシア人がユダヤ人街で暴動を起こしたらしい。それに対してローマの軍隊は何もしなかったばかりかその機に乗じて自らもユダヤ人街で略奪行為を行った。これに刺激され他の都市でもユダヤ人居住区の焼き討ちが横行し、怒りに燃えたユダヤ人たちがエルサレムに集結してきた。そして自然発生的に戦闘へと突入し、西暦66年、「第1次ユダヤ戦争」が始まったのである。

だがユダヤ人たちはローマの軍隊に敗北し、この内戦は70年にエルサレムが陥落して終わった。そして壮麗なエルサレムの神殿は破壊され、街は廃墟になった。タキトゥスによればこの戦争で、(かなりの誇張があるにしても)119万7000人のユダヤ人が殺されたという。

この敗戦は、ユダヤ人たちの立場を一層弱いものにした。無益な反乱が起こったことで、反ユダヤ主義が正当化されたからだ。ユダヤ人への弾圧はローマ帝国によって組織的に行われるようになった。そんな中、エルサレム陥落から約50年後、ハドリアヌス帝はエルサレムの廃墟を取り壊し、新たなポリスを建てる計画を立案した。ハドリアヌス帝はユダヤ人に同情的だったと言われるが、かつての神殿の跡地にユピテル神を祀るローマの神殿が建てられることはユダヤ人には耐え難かった。これがきっかけとなって、再びユダヤ人たちが集結し、今度は偶発的ではなく計画的に、ローマ帝国対ユダヤ人の全面戦争が起こった。西暦132年のことであった(バル・コクバの乱/第2次ユダヤ戦争)。

この戦争でもユダヤ人は敗北した(135年)。そして古代ユダヤ国家の歴史はここに幕を閉じることになる。そしてエルサレムという本拠地を失ったユダヤ人の、長い長い流浪の旅(ディアスポラが始まった。最初は家を失ったユダヤ人の臨時的な移住から始まったのだろう。ユダヤ人はローマ帝国内にちりぢりになり、またローマ帝国に絶望した者たちは、帝国を離れて亡命していった。

有望な亡命先は、ローマと敵対関係にあったパルティアバビロニアだった。パルティアはユダヤ人に対して融和的で、かなりの自治を認めていたようだ。そのためバビロニアには大勢のユダヤ人が集まった。

3世紀になるとパルティアが滅びササン朝ペルシアが興る。ササン朝は古代イラン文化の集大成とも言うべき国家である。ササン朝は後にゾロアスター教を国教化して宗教的に寛容でなくなるが、少なくとも初期はパルティアと同様にユダヤ人に融和的だった。

パルティアからササン朝に至る間、バビロニアではアーモーラーイームと呼ばれるユダヤ人の律法伝達者が次々に現れ、口伝律法を整理し、次第に精緻で巨大な宗教規則の体系(タルムード)を築き上げた。バビロニア時代は、イスラエルを失ったユダヤ人の、新たなアイデンティティの確立の時期にあたっていたように思われる。

そうこうしている間も、ユダヤ人は毎年の「仮庵の祭り」のためのシトロンを栽培し続けていた。どんな場所に流浪しようとも、律法に定められた毎年のシトロンは欠かさなかったはずだ。それどころかまさにこの頃、祭儀用のシトロンが満たすべきこまごまとした定めが作られたのだと思う。ユダヤ人のディアスポラは次第にその範囲を広げ、スペイン、北アフリカ、小アジア(トルコ)、エーゲ海の島々、ギリシア、イタリアなどに移住していったが、これらは全て柑橘類の生育適地だった。もしかしたらユダヤ人の移住地の選択は、シトロンが栽培可能であることが制約条件になっていたのかもしれない。

ユダヤ人はこうして、その長い流浪の旅で、各地へ柑橘栽培の技術と文化を伝えていった

ところで、おそらくは西暦1世紀から2世紀にかけて、中東へ新しい柑橘が渡ってきた。ちょうどシルクロードや海上の交易が盛んになる時代で、多分交易によってそれは東方から運ばれてきた。その柑橘はオレンジである。といっても、この頃のオレンジは甘くなく、日本で言えばダイダイのような酸っぱいオレンジ(サワーオレンジ)だ。

ササン朝ペルシア時代には、当時の人がオレンジを食べていたという話がある。この食べても美味しくない柑橘の原産地は、おそらく柑橘の故郷である北インドで、そこから伝播していくのに随分時間がかかったが、確かにゆっくりと広まっていった。これは推測だが、オレンジは肉の味付けに使われていたのではないかと思う。ササン朝ペルシアが国教としたゾロアスター教は食に対するタブーがなく、現世の享楽を是としていたので豊かな食文化が花開いた。肉を美味しく食べるための工夫が酸っぱいオレンジでの味付けだったのではないだろうか。

そしてこの頃、サワーオレンジと、ユダヤ人たちが携えていたシトロン、この2つの柑橘が自然交雑し、(正確な場所はわからないながら)この中東で重要な新品種が生まれた。レモンの誕生である。3世紀後頃、ちょうどユダヤ人がバビロニアでタルムードの編纂に邁進している頃のことだった。後に世界中で栽培されることになるこの柑橘は、古代ペルシア文化とユダヤ人が交差したその時に生まれたものなのだ。柑橘の世界史における、新しい時代の始まりだった。

【参考文献】
『ユダヤ人の歴史(上巻)』1999年、ポール・ジョンソン、石田 友雄 (監修)
『ゾロアスター教』2008年、青木 健
The Origin of Cultivated Citrus as Inferred from Internal Transcribed Spacer and Chloroplast DNA Sequence and Amplified Fragment Length Polymorphism Fingerprints" JASHS July 2010 vol. 135 no. 4 341-350, Xiaomeng Li et al.

冒頭画像:"Sassanian Empire 621 A.D" by Keeby101 - I used Photoshop, cropped the image, drew the borders, coloered the map and labeled all of the cities.. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikimedia Commons.