2014年11月30日日曜日

農産物直売所の視察へ行って

先日、農産物直売所(物産館)の視察研修に行った。

地元の物産館「大浦ふるさとくじら館」を盛り上げるために、その出荷登録者会の研修として見聞を広めに行ったわけだ。

巡ったのは、鹿児島市吉野の「ごしょらん」、吉田の「輝楽里(きらり)よしだ館」、郡山の「八重の里」である。それぞれがどんなところだったかということはさておいて、これらを見た上で物産館の運営について思ったことを備忘のためにまとめておきたい。

その1:出荷者と店とのコミュニケーションは重要。物産館と普通の八百屋さんとの一番の違いは何かというと、仕入れるものを店側が選べない、ということである。物産館は委託販売なので、基本的に出荷者が持ってくるものがそのまま並んでいる。それだけでは足りなくて、店側が仕入れ品を置くこともあるが、それはあくまで例外的な対応である。

フリーマーケットなども含め少しでも小売の経験がある人は、何をどれくらい仕入れるかがいかに売り上げを左右するかを知っていると思う。だが物産館というのは、小売業では非常に大切な「仕入れ」の部分に自由がきかない。特に農産物の場合、収穫時は地域で大体一緒なのでモノがある時期は大量に存在し、ない時期は全然ない、ということが起こりうる。

ではそれをどうやって克服するかというと、出荷者と店とのコミュニケーションしかない。出荷時期をそれぞれの生産者でずらしてもらう、という対応が理想だがそうでないとしても、作付面積の把握をしてそれを一覧表にするだけで各生産者がいろいろと考えるだろうし、ただ「春のキャベツが毎年不足気味なんですよ〜」とか言ってもらうだけで生産者のモチベーションが変わってくると思う。

その2:店としての統一感は重要。物産館というのは多様性がある場所である。いろんな出荷者がめいめいに農産物を持ってくるわけだから、大根一つとってもいろんなものが存在しうる。それが八百屋さんと違うところであり、いいところでもある。だが一方で、それは陳列された商品に散漫さをももたらす。その「散漫さ」を排除してしまったら物産館のいいところが減ってしまうので、散漫なのは仕方がない。

でもやはり、店として統一感はあった方がいい。それは「うちはこんな店でありたい」という基本路線の表明だと思う。例えば、「かぼちゃ」とか「大根」とかのプレートの文字(フォント)一つとってもその表明の一部だ。POPなんかを生産者が自由に置いてよいというのはいいと思うが、ただでさえ物産館はバラバラの生産者が自由に商品を置いているわけだから、なんでもござれではなくて店としての雰囲気作りが重要だと思った。

その3:運営に十分なスペースを確保するのが必要。各地の物産館を見てみても、建物に不具合があることが多いように感じる。不必要に立派な吹き抜けとか、モニュメンタルな(記憶に残るような)正面の構えとか、そういうことに予算が使われていて、あまり運営のことを考えずに設計されたような建物が散見される。小売業のことをあまり知らない人が企画・設計しているのかもしれない。

特に、裏方となる管理スペースが狭すぎることが多い。私の感覚だと、売り場面積の1/3くらいの広さの管理スペース(事務所、倉庫、作業場など)は必須だと思うが、なかなかそういうスペースが準備されていない。このために、お客さんからすると少しみっともない部分までが表に出てきてしまっている状況があるのではないか。

我が「大浦ふるさとくじら館」も、店舗の動線が悪いとか、出荷者が農産物を持ち込んだりバーコードを張るスペースがないとか、いろいろ設計上の問題を抱えている。どこの物産館も似たようなものだ、と達観することなく、運営に必要なスペースを確保したり、設備の問題を解決したりする努力は続けて行かなければならないと感じた。

その4:「大浦ふるさとくじら館」にもいいところがある。これまでも「くじら館」について取り上げたことがあるが、あまりいいことを書いていなかった気がする。だが、他の物産館を見てみると「くじら館」の可能性も捨てたものではないと思う。一番可能性を感じるのは周辺に気持ちのよい芝生スペースがあることで、ここを利用して小規模なイベントをしたら随分面白いことができそうだ。普段の出荷者の枠を超えたフリーマーケットとかやってみたらどうか。

また、裏手に観光農園(あまり利用されていない)があるのも面白い。正直この立地で観光農園は厳しいし、土質があまりよくないと言われているが、しっかりとした管理者がいたら物産館と相乗効果を生む企画ができそうだ。

あと、そもそも「南さつま海道八景(景色がすばらしい国道226号線のエリア)」の入り口に立地しているというのも重要だ。今「くじら館」には観光案内所的な機能はほとんどないが、この立地を活かして観光と絡めた企画ができれば、(収益は別にして)観光客に喜ばれることになるだろう。例えば、「ふるさとくじら館」のFacebookページを立ち上げて観光客からの投稿写真を募り、写真をその場で投稿してくれた人にはオマケをあげるとかできたら面白い。そこまでしなくても、せめて観光パンフ類をきれいに陳列しておけばそれなりに利用されると思う。

ただ、ここで述べたこと全てについて言えることだが、積極的な企画を打っていくためにはそれなりのリーダーが必要である。今の「ふるさとくじら館」には店長が不在であり、何をするにしてもその点がネックになる。でも店長がいないから何もできない、と諦めていたら何も進まない。

私も、これまで物産館にはあまり農産物を出していなかったが、来年からは物産館用として少し野菜を作ってみたい。もちろん「南薩の田舎暮らし」の加工品ももう少し出荷を増やしていく(はず)。出荷者の立場から、何らかの貢献ができたらと思っている。

2014年11月26日水曜日

1杯20円でコーヒーが飲める"Ura Cafe"が大浦にオープンしています

ひっそりと、我が大浦町にカフェがオープンしているのをご存じだろうか。

それは、役場(南さつま市役所大浦支所)の1階トイレの隣にある、給湯室の一角にある。その名も"Ura Cafe"。「おおうら」にあるからウラカフェ。ロゴもなかなかおしゃれ。

一見、これは役場の福利厚生の一部で職員のためのコーヒーサーバーみたいに見えるのだが、実は誰でもたったの20円払えばコーヒーを飲むことができる歴(レッキ)としたカフェなのだ!

実は、ここの役場がネスカフェアンバサダーになっていてこの機械が置いてあるのである。ネスカフェアンバサダーというのは、簡単に言うとこの機械(バリスタという)をタダで設置させてもらい、職場などにコーヒーを提供する仕組みのことである。

で、全国には何千とこの機械が置いてある職場があるのだと思うが、ネスカフェでは「ネスカフェアンバサダー投稿コミュニティ」というのを運営していて、まあ要は「アンバサダーになるとこんなステキなコーヒーライフが待ってます!」というアピールをしている。そしてなんとその「担当者がえらんだナイス投稿」のトップに、このUra Cafeが絶賛掲載中である!(2014年11月26日現在:スクリーンショットはこちら

この、トイレの隣にひっそりと存在していて、大浦町民にもほとんど知られていないであろうUra Cafeが、ネスカフェのWEBサイトに堂々と表示されているのはなんだか不思議な気分である。こういうことがあるからインターネットの発信というのは面白い。

というわけで、南さつま市役所大浦支所に用事があった時は、このUra Cafeでコーヒーを飲むのがオススメである。何しろ、繰り返すがたったの一杯20円!近くにある自販機の設置者から苦情が来るレベルである。かくいう私も役場に行くときはなんだかバタバタしている時が多く、実はまだUra Cafeを利用したことがないのだが(…)役場に行く楽しみが増えた。

2014年11月25日火曜日

「海の見える美術館で珈琲を飲む会」みなさんありがとうございました!

11月23日、無事「海の見える美術館で珈琲を飲む会」を盛会の裡に終了することができました!

当日は、午後は少し雲も出てきて夕日が見られなかったのが憾みではあるものの、割合に天気にも恵まれた。正確にカウントしていないが、多分120人くらいの来館者があったと思う。子どもも入れると140人くらいになるだろうか。

この場を借りて、来館した方、開催に当たってご協力いただいた方、告知にご協力いただいた方など関わりがあった全ての方にお礼を申し上げます。ありがとうございました!

また、会を通じてご縁をいただいた方もたくさんいて本当に嬉しかった。Twitterだけでの知り合いに実際に会えたり(しかも2人も!)、地元にいながらお互いに知らなかった人と知り合えたりもした。特に、地元の全く知らない若い女性3人組が来てくれたのは心に残った。地元の暮らしを楽しくしたいという思いがあってやっていることなので、地元の人が喜んでくれるのはとてもありがたい。

もちろん、鹿児島市内からわざわざ来てくれたお客さんはもっとありがたい。初めて笠沙の景観に触れた人もけっこういたのではないかと思うが、いかがだっただろうか? これを機に、南薩の素晴らしい景色のファンになってくれたら望外の喜びである。

それから、当日はカンパ制ということでカンパボックスを設置させてもらったが(なにしろ参加費200円だけだと少し赤字になるので)、たくさんのカンパをいただき、写真展を担当してくれた海来館さんにも少しだが経費を渡すことができた(でも海来館さんはだいぶ赤字になってしまったのではないかと心配)。カンパをいただいた皆さん、本当にありがとうございました!

でも次回(次回もやりますよ!)もカンパ制というわけにもいかないので、カンパをいただかなくてもペイするように工夫がいると思う。イベント事というのは赤字だと続けることが難しい。タダみたいな費用で参加できるという基本は踏襲しつつ、どこか別の点で収益を生むような形を考えたい(コーヒーを1杯500円にするとかはあまりやりたくない。そもそもコーヒー屋ではないので)。やっぱり特産品の販売なんだろうか? 参加された方の意見を聞きたいものである。

ところで、少し反省点もある。それは、わざわざ来てくれたお客さんに、ちゃんと応対ができなかったことである。遠方から来て下さった方も多いので、反省と言うより後悔が近い。本当にもうしわけありませんでした…。

それというのも、自分がひたすらコーヒーを淹れ続けなければならない、という事態に陥ったためである。見込みでは来場者数は70人となっていて、来館者との会話を楽しむことができるはずだった。だがその約2倍の来館者があったので、私にとっては本当にコーヒーを淹れるだけの日になってしまった。嬉しい誤算ではあるのだが…。

そのために、ほとんど写真を撮ることもできなかった! 特に午前中は天候がよく、海もべた凪で絶好の写真日和でもあったのに、風景写真はおろか会場の様子の写真すら一枚もないという有様…。お客さんが途切れた16時頃にようやく写真を撮ったが時既に遅しという感じであった。

こういうイベントをするときは、主催者はやることがなくてヒマ、というくらいでなくてはならないと思う。次回やるときは何らかの手はずを整えて、お客さんとゆっくり話ができるようにするのでよろしくお願いします。

2014年11月18日火曜日

Citrus meets Sugar——柑橘の世界史(8)

エジプトのサトウキビ畑
イスラームが中東で産声を上げた頃、紀元7世紀のササン朝ペルシアに、柑橘類よりももっともっと重要な、世界史的に超弩級に重要な作物が西方から伝えられてきた。

それは、サトウキビである。

サトウキビの栽培には豊富な水を必要とする。だから、半乾燥地帯である中東ではその栽培適地は限られた。最初は水の豊富なイランの低地、そしてシリアの海岸地帯、次いでエジプトのデルタ地帯と、栽培適地を求めるようにサトウキビの栽培は伝播していった。10〜11世紀にはキプロス島、クレタ島、シチリア島へ伝播し、12世紀頃には北アフリカ、マグリブ、イベリア半島へと広がっていった。

しかも、サトウキビ栽培には集約的な労働を必要とする。水管理だけでなく、かなりの肥料も要するし、それになにより砂糖の精製は工業的といえるほどの資本や労力がいる。そういうわけで、サトウキビ栽培は農民が自然発生的に取り組んだと言うより、貿易で財をなした富裕者や私領地(ダイア)を経営する政府高官が、高収益を見越した「事業」として組織的に取り組み、広まっていったのである。

それによって、イスラーム世界は世界史上で初めて、砂糖が豊富に存在する社会となった。もちろん砂糖はかなり高価な品であった。スルタン(君主)はラマダーン(断食月)になると臣下に砂糖を下賜したそうだし、宮廷では砂糖で作られた菓子(干菓子のようなもの)が見せびらかしのために作られた。しかし、それはほんの少ししか自然界に存在しない、ダイヤモンドのような貴重品ではなくて、お金さえ出せばいくらでも手に入る貴重品だったともいえる。

一方、庶民がどれくらい砂糖を手にできたかは地域によっても時代によっても違うようだ。だが12世紀以降になると、地中海南岸では庶民にとってもちょっとした贅沢をすれば手に入るものになっていたように思われる。

この、豊富に存在する砂糖が柑橘の世界史を動かした。酸っぱいレモンと、甘い砂糖、この組み合わせが、最強のレシピになったのである。

サトウキビ以前の社会では、甘いことは掛け値なしに最高の価値があった。甘い食べ物はそれだけで贅沢品で、滅多に食べられるものではなかった。だがひとたびサトウキビによる砂糖が登場すると、甘くしたいなら、砂糖を振りかけさえすれば実現できるようになった。

もちろんサトウキビ以前にもそれなりに甘味料はあった。伝統的な甘味料といえばまず蜂蜜、それから果物の果汁からつくる糖蜜(ジュラーブ)など。でもこれらは良くも悪くも甘みだけでない味わいがあるし、大量に穫れるものではなく、いつでもあるものでもなかった。しかし砂糖ならば、甘みだけをいつでも自由に足すことができた。

そうして、甘みそのものというよりも、甘みを引き立たせる苦さや酸っぱさに注目が移っていったのではないかと思う。そこにあったのが、苦いシトロンであり、酸っぱいレモンだった。

こうしてアラブ人は、レモンでジャムを作ることを考え出した(※インドから伝来した可能性もある)。

ジャムの歴史を繙くと、紀元前には既にジャムらしきものがあったらしい。しかしそれは例外的な存在で、砂糖と共に果実を煮てドロドロにするという、今のようなジャム(ムラーバmurrabaと呼ばれる)が普及したのは、まさにこのイスラーム時代なのだ。

ただし当時のジャムは、今のジャムのような長期保存食品ではなかった。そもそも密閉できる容器も僅かだったから、脱気(容器内から酸素を抜くこと)もできなかったと思う。どうやら当時のジャムの「賞味期限」は2〜3週間であったようだ。レモンなどはただ置いていても1ヶ月くらいは持つわけだから、長期保存したくてジャムにしたのではなく、ジャムにするのが美味しい食べ方だったからそうしていたに違いない。

当時の農業生産と人びとの暮らしを伝える『コルドバ歳時記』(または『コルドバ暦』)という10世紀の本がある。これは一種の農書と占いと年中行事のマニュアルであり、要するに各月に何をなすべきかということが書かれた本であるが、その1月の項目にも、レモンのジャムを作ることと、シトロンのシロップを作ることが厳選されたリストに挙げられている。

それだけでなく、季節季節の果実のジャムやシロップを作ることがこの本では奨励されていて、このころのイベリア半島では砂糖を単なる珍奇な贅沢品として扱うのではなく、果実の味をどう砂糖でアレンジするかという段階に入っていたことが窺える。

ところで現代のジャムも、糖度が50%くらいはあって、水分と砂糖だけで成分の90%くらいになる。つまりその他の成分はほんの数%しかなく、酸っぱさ成分などはさらにその一部でしかない。ということは、どの果実のジャムを食べてもその内実はほとんど砂糖水を固めたものであり、成分的な違いは5%とかそれくらいしかない。しかしこれを逆に考えると、ジャムの味はその数%、いや小数点以下%が支配しているのであり、いかに元の素材の味が重要かが分かる。

そう考えると、レモンはジャムの素材としてはなかなかに優秀だ。強い酸味があってジャムにすると甘酸っぱく、(おそらく果皮も入れていたと思うので)ジャムを作るのに不可欠なペクチンも豊富である。また、柑橘の爽やかな芳香はジャムに最適だ。

思えば、柑橘の先進国であった中国では、早い段階でスイートオレンジが発現したこともあって甘みの強い柑橘を求める品種改良がなされたが、イスラーム世界では甘みを求めた品種改良が柑橘に施されることはなかったようだ。それは、おそらく柑橘が常に砂糖とセットで扱われ、柑橘自体に甘みを求める必要がなかったからに違いない。

甘いオレンジを生みだした中国と、酸っぱいレモンを育てたイスラーム世界が、ここで面白い対照を見せるのである。

※冒頭画像はこちらのブログからお借りしました。

【参考文献】
『イスラームの生活と技術』1999年、佐藤次高
『イスラムの蔭に(生活の世界歴史7)』1975年、前嶋信次
"Food and Foodways of Medieval Cairenes: Aspects of Life in an Islamic Metropolis of the Eastern Mediterranean" 2011, Paulina Lewicka

2014年11月15日土曜日

バターはなぜ不足するのか

11月23日に「海の見える美術館で珈琲を飲む会」というイベントを行う。その時に、「南薩の田舎暮らし」のスコーンとかクッキー、そしてジャム類も少し販売する。というわけで、これから製造に入ろうというところである。

が、なんとここへきてバター不足! 業務用バターすらお一人様一つずつという購入制限が設けられているではないか。これは個人でやってるケーキ屋さんとか大変な状況である。今回、しょうがないので一部はバターの代替品で済ますことになったが、なぜバターは不足するのかご存じだろうか。

これについては時々新聞などでも解説されるが改めて問題を考えてみたい。

まず、バターが不足する最大にしてほぼ唯一の原因は、バターの輸入が国家管理されていて、自由に貿易できないからである(報道では天候不順で生乳量が不足し…とか言われるがそれは些末な問題。それならチーズも不足するはず)。

バターの輸入を独占しているのは独立行政法人 農畜産業振興機構、という機関。

民間業者がバターを輸入するためには、高い関税(1キログラムあたり約30%+179円)を払った上で農畜産業振興機構にバターを輸入してもらい、それを改めて買い入れる(しかも1キロあたり800円あまりのマージンも取られる!)必要がある。つまり、1キロ500円のバターを輸入したら、何もしなくても原価が1600円以上に跳ね上がる。これでは民間業者がバターを輸入することはほとんど無謀である。

であるから、結果として輸入バターは、機構が独占的に輸入したものを民間業者が入札して市場へ仲介する、という形で流通している。これは、名目的には国内畜産業者の保護のために行われている政策である。

バターが自由に輸入できるようになってしまうとバターの価格が下がり、タダでさえ厳しい酪農業者の経営が厳しくなってしまうということで、ウルグアイ・ラウンド(国際貿易の協定)で合意した数量のみに限り輸入するためにこのようなシステムになっているのである。

しかしながら、酪農業者の主要製品は生乳であり、バターなどの加工乳製品は補完的なものであるから、バターに厚い輸入障壁を設ける意味がよく分からない。畜産の保護は重要だとしても、経営的に中心でないバターに煩瑣な輸入障壁を設けるより、生乳の生産への補助金を上乗せした方が適正な市場が形成され、消費者・生産者ともに利益になるのではないだろうか。

例えば、同じ乳製品でもチーズの場合は市場の様子が全く違う。こちらも高い関税はかかっているが、輸入は自由化しているから、いろいろなチーズが店頭に並んでいるし、国産のチーズも様々なものがある。北海道に行けばチーズ工場が見学でき、お土産にチーズがたくさん買われている。いくら天候不順で生乳が不足気味になっても、チーズが店頭から切れることはない。要するに、チーズには豊かな国内市場があり、酪農業者の創意工夫の余地がある。もちろんビジネスとしての非情な競争もあるが、それは公正な競争だ。

一方バターはどうか。無定見に国内業者が保護された結果、バターを楽しむという文化は全く育っていない。外国に行くとチーズと同様いろんなバターがあって楽しいが、日本にあるのはホンの限られたものだけだ。輸入品が貧弱(なにしろ国家が一律に輸入しているので)な上に高価であるため、本来は廉価なバターが高級品となり、その代替品としてファストスプレッドが非常に普及してしまった(店頭にあるマーガリンみたいな商品はほとんどファストスプレッドです)。

ファストスプレッドとはマーガリンの一種で、本来は液体である植物油脂に水素を添加して固体化しているものである。最近、これら人工的な油脂が有害なトランス脂肪酸を多く含んでいるということで敬遠されつつあるが(世界的にも規制される方向にある)、私はそれよりも、バターに比べ風味が格段に落ち、味がよくないというのが最大の問題だと思う。

このファストスプレッドが普及している原因は、結局はバターの輸入が国家管理されているからなのだから、この一事のみ考えてみても、この輸入規制は酪農家を利しているのか甚だ疑問である。このヘンテコな輸入規制がなく、チーズと同様にバターを楽しむ文化と豊かな市場が形成されていれば、多くの人はファストスプレッドの代わりにバターを食べていたに違いないのである。

さらにバターの輸入が国家管理されているせいで、需給予測が外れてよくバターは不足したり逆に余ったりする。今回のバター不足も、予測では不足はないはずだった(当たり前)。このことだけ見ても、計画経済というのはうまくいきっこないと思う。バターの需要量はほぼ予測できるから問題は供給量だけであり、供給量も急に増えたり減ったりするものではないので、需給予測は簡単に見える。しかし実際には市場は動的であって、必要十分な量を予測するのは、ただバター単体のみでも難しいのである。

かつての社会主義経済の行き詰まりの原因はそれこそ星の数ほどあるが、仮に労働者が勤勉で経営が果断であっても、計画的に決められた量の生産を行うというスタイルであるかぎり、経済がうまく回るわけはなかったのである。

このように、バター不足の原因は、酪農家への歪んだ保護にあるのである。この制度はおそらく酪農家にも裨益する部分が少なく、存在理由がよくわからない。巷では、農水省OBの天下り先である農畜産業振興機構の収入確保のため(輸入独占しているので莫大な利益がある)と言われているが、本当にそれだけのことなのかも不明である。

農業は、全体的に補助金産業にならざるをえない。それは、完全に補助金なしで農産物が生産されてしまうと、(特に主食となる穀物類は)低所得者にとって高価になりすぎる可能性があるからである。要するに、誰にでも手に入りやすい価格で食物が生産されるためには、農業に補助を行わなくてはならない。それを逆から言えば、農業への補助は国民全体(特に低所得者)へのフードスタンプ(食費補助)みたいなものだとも見なせる。

しかし、時として産業への国家の補助・介入は、その産業が立脚する市場自体を歪ませる。 殊に煩瑣な輸入障壁はそうである。その介入がなければ花開いていたかもしれない市場を萎縮させ、社会主義的なつまらないものにしてしまう。例えば、小麦粉もバターとはまた違った仕組みで国家が輸入をほぼ独占しているが、店頭に並ぶ小麦粉の多様性のなさは制度の失敗を示唆している。本来は、小麦粉もお米のように、さまざまな品種とグレードがあるものだ。

農業への補助制度がどうなっているか、一般の人からの関心は薄い。だがその補助が、私たちの食生活を根底で規定しているというのは気持ちが悪い。畜産農家の保護という名目のために、バターは不足し、ファストスプレッドが氾濫する現状は何かおかしいと思う。この制度の廃止を訴える国会議員がいたら、すぐに支持するのだが、誰かいないものだろうか。

【参考文献】
『日本は世界5位の農業大国 大嘘だらけの食糧自給率』2010年、浅川芳裕

2014年11月10日月曜日

「都会と田舎の接点」としての葬式

我が町大浦の市街地(といえるほどの市街地はないのだが)を通ると、よく葬式の案内が出ている。

大浦は時代に取り残された高齢者が住んでいるような町だから、それはそれは頻繁にお葬式がある。もちろん単純に数で比較したら都市部の方が圧倒的にお葬式は多いが、こちらでは人口密度あたりの葬式数がすごい。

というように書き出すと、暗い話題のようだけれど、最近、これはこれで価値があることのように思えてきた。

なにしろ、お葬式には遠方から人が集まる。都会へ出て行った人たちがほんの僅かな期間でも地元に帰ってくる。この地にほとんど足を踏み入れたことがない親類もやってくる。南さつま市全体で考えてみても、年間に遠方からやってくる葬式の参列者は、ひょっとしたら観光客数よりも多いのではないだろうか

ということは、葬式は都会と田舎の重要な接点でもあるような気がする。ここで私は、この都会からの参列者を観光客に見立てて地元の物産でも売りつけたらいいのでは、という提案をしたいわけではない。その人たちは、買い物や観光のために来ているのではないし、遠方から来る人は忙しい仕事の合間を縫って来るわけで、葬式を済ませたらすぐに帰らなくてはならない。

でも、せっかく遠い所からやってきて、葬式だけ済ませて帰って行くのも何か物寂しいものがある。私も経験があるが、お線香一本のためにここまで来たのかなあ、という気持ちを抱くときもあるだろう。もちろん、「お線香一本」の価値を軽んずるわけではない。でもせっかく交通費を出して来るのだから、何か前向きなこともあったらなおよい。

じゃあ葬式とどんなものが組み合わさっていたら、葬式という場が「都会と田舎の接点」としてもっと意義深いものになるだろうか。参列者の立場から言えば、「葬式のためとはいえ南薩に来てよかったなあ」と思えるのはどんなプラスアルファがある時だろうか。そこのところは私にも今アイデアがない。ものの売り買いでもなような気がするので、どちらかというと情報発信の一つの場みたいに捉えたらいいのかもしれない。

思えば、「南薩の田舎暮らし」で製作したポストカード「Nansatz Blue」も、一番コンスタントに捌けているのは、西福寺(近所のお寺です)に置かせてもらっている分である。

とすると、お寺が田舎の情報発信に取り組めばよいのだろうか。でもことはそう簡単ではない。何しろ、お寺はたくさんあるお葬式で忙しい。というか、葬式とか法事とかが不定期にあるので、なかなか落ちついて「これからのお寺は、どうしたら地域の発展に寄与できるか」とか考えるヒマもないと思う。今後、団塊の世代がドンドン鬼籍に入っていくのでお寺はさらに忙しくなる。多分、既に僧侶不足が顕在化しているのではないだろうか。

以前も書いたように、私はお寺は田舎の重要なインフラだと思っている。インフラということは、お寺はただ住職の経営物ということではなくて、地域社会(というのが大げさなら少なくとも檀家)が作っていくものだ。お寺のことをお寺任せにしていてはよくない。葬式の段取りを行うのは最近では葬儀社が普通なので、お寺がどうこうという問題でもないかもしれないが、葬式は宗教儀式である以上お寺(僧侶)を省くことはできない。

というわけで、私は別に信心深い方ではなく、むしろ不熱心なほうだが、「都会と田舎の接点」としての葬式(に伴う南薩への来訪)がより意義深くなるような工夫を考えてみたい。読者のみなさんもお葬式にはいろいろ思うことがあると思うので、グッドアイデアをお寄せいただければ幸甚である(でもお寺に直接言ったらなおよいと思う)。