ラベル 私の地域 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 私の地域 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年4月4日火曜日

過疎で高齢化しているが、子だくさんの町=大浦町から少子化対策を考える

私の住む南さつま市大浦町は、人口1600人の過疎の町である。

1600人というと、町というよりは村かもしれない。(合併後は、南さつま市の大字(おおあざ)として「大浦町」が設定されているのでそもそも自治体ではないが。)

大浦町の人口減少は甚だしく、平成17年(2005)に2678人だった人口が、15年後の令和2年(2020)には1674人にまで減ってしまった。その減少率は37%。そして令和5年(2023)3月末時点で人口がちょうど1600人になった。

当然に子どもの数は少なく、うちの集落では、我が子が最後の小学生になる見込みである。

このまま大浦町は消滅する運命なのだろうか?

遠くない将来、そうなるのかもしれない。しかし、ここに一つだけ明るいデータがある。

ここに掲載したのは、2020年の国勢調査データから作成した大浦町の人口ピラミッドだ。65~70歳くらいにピークがあり、かなり高齢化した様子がうかがえるが、実は子どもの数は、若い女性の数に比べてそんなに少なくはない。というより、結構多い。

実際、うちの子の同級生には、4人きょうだいが珍しくない。例えば、小5の娘の同級生はたった7人しかいないが、そのうち4人きょうだいなのが2人もいる(ちなみに3人きょうだいも2人)。「過疎の町」というイメージからは意外だろうが、大浦町はそれぞれの女性に注目すれば、たくさんの子どもが生まれる町なのである(ただその母数となる女性の数が少ないので、出生数は少ない)。

とはいっても印象だけで語るのは少し危ういので、ちょっとデータを出してみる。

これは、先ほどと同じく2020年の国勢調査から日本の人口ピラミッドを作成し、比較のために大浦町の人口ピラミッドと並べたものである。

左(日本全体)の横軸1目盛りは10万人、右(大浦町)の横軸1目盛りは1人である。

これを見てみると、日本全体では40歳以下の世代は減り続けているが、大浦町では10~14歳に小さいながらもピークがあり、単調な減少ではないことがわかる。

15~19歳でいきなりガクンと減るのはなぜかというと、大浦町には自宅から通える場所に大学や専門学校がなく、進学のためには必ず町外に出るからである。ついでに言うと就職もほとんどが町外になる。

さらに、数値でも比べてみよう。本当は大浦町の合計特殊出生率を算出できればよいが、合計特殊出生率の算出にはややこしい計算が必要なので、ざっくりとした数字を出してみたい。

具体的には、「20~49歳の女性の数」を、「0~14歳の子どもの数」で割ることとする。大浦町の場合は、「20~49歳の女性の数」が140人、そして「0~14歳の子どもの数」が123人なので、この値は0.88になる。子どもを産む年代の女性一人につき、0.88人の子どもが誕生している、ということだ。仮にこの値を「出生率もどき」と呼ぶことにする。

同様に日本全体で「出生率もどき」を求めてみると、0.70になる。ちなみに、これは合計特殊出生率1.33(2020年度)よりずいぶん低いように見えるが、合計特殊出生率とは、女性が15~49歳の間に産む子どもの合計数であるため、これから生まれる子どもを計算に入れなくてはならないからだ(なお「出生率もどき」に1.91を掛けると合計特殊出生率を近似的に計算できる)。

さて、「出生率もどき」で比べてみると、大浦町は日本の平均よりもずっと子どもが生まれている町だということになる。次に、どのくらいこの数値が高いのかを理解するため、都道府県別にこの数値を出し、ランキングにしてみた。



最高は沖縄県の0.93で、鹿児島県は2位の0.86。大浦町の0.88はこの間に位置し、全国的に見てかなり高い。最低は東京都の0.54。東京は大浦町よりもずっと子どもが生まれない街である。

ここまでデータがあれば、「大浦町は過疎で高齢化しているが、子だくさんの町でもある」ということは言い切ってよいだろう。

では、どうして大浦町は子だくさんの町なのだろうか。 

ここからの考察はデータに基づいたものではないが、4点それらしき理由が挙げられる。

第1に、結婚の年齢が早いことである。これは大浦町だけでなく、鹿児島の田舎に共通して言える。私が22歳で大学を卒業した時、小中学校の同級生(男)はすでに2回結婚して2回離婚していた。しかもそれぞれのパートナーとの間に子どもがあった。田舎では人生がずいぶん早く進む。

それは、大学進学率が低いことが影響している。特に鹿児島は女性の大学進学率が全国最低レベルに低い。要は大学に行かないから結婚が早い。また、田舎の場合はアウトドアとパチンコ以外の娯楽はあまりなく、男女の営みくらいしかやることがないという事情もありそうである(極論)。

第2に、大学進学率が低いために子どもの教育費を心配しなくてもよく、多産になる傾向があるということである。例えば4人きょうだいで全員が大学進学するとすれば、国公立大学のみであったとしてもその学費は総額1000万円を軽く超える。こうなるとなかなか多産はできないというのが一般的だ。

大浦町でも、子どもが大学に行きたいといえば行かせるのが普通だし、行くとなれば絶対に自宅からは通えないので、都会に住んでいる人よりも学費・生活費は高くつく。それでも、「子どもを全員大学まで行かせられるかどうか心配だ」との声はあまり聞かない。これは「大学は全員行くものではない」という楽観(?)に支えられていると思う。 

第3に、単純に家が広いということがある。といっても、大浦町はあまり経済的に豊かな地域ではなく、立派で大きな家はむしろ少ない。しかし土地は本当に安い。家を新築するときは、土地の値段はほとんど無視できる。だからすごく大きな家が多いわけではないが、都会に比べたら家はゆったりしている。つまり多産するのに住居が制約になりにくい。

第4に、これが一番大きいが、実家・義実家が近くにあり、子育ての手助けを得やすいということである。大浦町の住民は、ほとんどが元からの地元民である。だから実家・義実家が近い。しかも、これは南薩地区の特徴なのかもしれないが、両親同居の割合が低い。

というのは、このあたりでは伝統的に、子どもが結婚すると老夫婦は三畳一間ほどの「隠居小屋」を建てて敷地内別居していた。今では「隠居小屋」の風習は廃れたが親子別居の慣習は残り、核家族化したのである。

結果的に、大浦町では若い夫婦は実家の近くに別に住んでいるのが普通になった。これは二世帯同居よりも子作りの面では有利であるし、何やかやと実家・義実家の手伝いを得られるという、子育てには最高の環境である。習い事の送り迎えや、学校のない日の昼食(特に夏休み中)など、実家・義実家に頼れることはすごく助かる。逆に、例えば4人きょうだいでそれぞれに習い事があるような場合は、実家・義実家の送迎能力なしでは立ちゆかない。

以上4点が、私が考える大浦町が子だくさんな理由である。

それから、念のために付言するが、大浦町では女性への子どもを産むプレッシャーが大きいということは、(私の見るかぎりでは)ないと思う。大浦町はド田舎で遅れた地域であることは確かだ。だから「ここは男尊女卑で、女性の人権は無視されてて、子どもを産むのがプレッシャーだから多産なのだろう」と考える人もいるかもしれない。

しかし大浦町が九州の平均くらいに男尊女卑であることは否定しないが、ひどく男尊女卑であるとは思わない。むしろ男女が対等である場面も、都市部よりも多いくらいだ。それは大浦町が純農村地帯であり、高度経済成長期を含めずっと貧しかったからで、ここでは「サラリーマンの夫と専業主婦の妻」という図式がついに一般的にならなかった。共に働くことが当たり前で、妻が夫に経済的に従属していなかったから、ひどい男尊女卑にならなかったのだと思われる。

さて、上述の4つの理由を眺めてみると、第3の「家が広い」は別として、残りは全ていわゆる「遅れた社会」の特徴を形成しているものばかりだと気付く。結婚の早さ、大学進学率の低さ、人の移動の少なさ(実家と近い)といったものだ。そもそも「遅れた社会」は、大抵は高い出生率を伴っていた。だから「遅れた社会」の特徴を色濃く残した大浦町が、子だくさんなのは当たり前なのかもしれない。

ところで、今、岸田政権は「異次元の少子化対策」を行うこととしているらしい。それはいいことだが、大浦町の子だくさん事情を踏まえれば、この話題について財政支出だけが議論の焦点になっているのはちょっと不安だ。

もちろん、子育て支援には大規模な財政支出が必要だ。なぜなら、原子的個人に分断された「近代社会」においては、地域の相互互助や実家等からの手伝いなどは得られない以上、お金しか頼るものがないからである。

しかし、過疎地の大浦町が子だくさんの地域でもありえるのは、お金の問題ではないことは縷々説明したとおりである。それにお金が少子化を解決するなら、全国で一番平均所得が高い東京は一番子だくさんでなければならないが、現実には東京が一番出生率が低いのである。少子化対策には財政支出も必要であるが、社会の仕組みまで含めていろいろ変えて行かなくてはならない。

例えば、大浦町の事情から導き出されることだけでも、(1)学歴を諦めなくても早く結婚出来、(2)結婚・出産がキャリア形成に影響しないようにすることや、(3)高等教育の低額化や給付型奨学金の拡充、ついでに(4)子育て世代への住宅事情の改善などが考えられる。

逆説的だが、「遅れた社会」である大浦町から見ることで、かえって改善すべきことが明確になる気がするのだ。

それというのも、かつて日本中のどこにでもあった「遅れた社会」は、実は人間が生きていくのにちょうどよい間尺にデザインされたものだったからだ。もちろんその社会に生きていた全ての人が幸せだったとは思わない。自分の希望した生き方ができなかったり、差別があったり、貧困に苦しんだりした人は多かった。「遅れた社会」のままでよかった、とは思わない。だがその社会では、子どもを5人も6人も育てるような、今から考えると大変なことを、なんでもないことであるかのように普通にこなしていたのである。

一方、「進んだ社会」は、人間が生きていくためにデザインされたものではなかった。例えば「転勤族」というライフスタイルは、生活に相当犠牲が出るものだ。ギュウギュウに詰め込まれた満員電車に乗って通勤することだけでも、負担は大きい。どんな「お客様」にもマニュアル通りに笑顔で接客しなければならないことは、ほとんど非人間的だと私は思う。それが「働く」の当たり前だとしたら、それがおかしいのだ。生きるためではなくて、働くため、もっといえば「労働者を働かせる」ためにデザインされたのが、「進んだ社会」の一側面だったのではないか。

私は、高学歴化とか、女性の社会進出の進展、価値観の多様化、人の流動性の向上、ジェンダー平等といった「進んだ社会」のあり方は、基本的によいものだと思っている。そして、これは子どもを産んだり子育てしたりする上でもよいもののはずだ。出生率にはマイナスの影響を及ぼす「女性の社会進出の進展」だって、ある程度女性が働くのが当たり前になるとむしろ出生率がプラスに転じることは世界の国々が立証している。

それでも、日本以外の多くの先進国でも少子化が問題になっているのだから、「進んだ社会」は少子化を宿命づけられているのかもしれない。人を働かせることばかりに熱心で、人が生きることには冷淡なのが「進んだ社会」だとしたら、そうだろう。

だから少子化対策は、「進んだ社会」を「より進んだ社会」に変えていくことでなければならない。人々が、社会の駒としてではなく、自然体で、自分の幸福のために生きていくことができる社会にすることが、真の少子化対策になると私は信じる。

「異次元の少子化対策」が、まさか大浦町のような「遅れた社会」に逆戻りさせるということではないのを祈っている。

2021年2月16日火曜日

大浦小学校で学びませんか? 大浦町への移住のススメ

来年度から、大浦小学校の3・4年生が複式学級になる。

「複式学級」とは、2学年の合計が17名に満たない時に、学年を合併して設置されるものである。要するに、3・4年生が一つの教室で、一人の先生から学ぶ。片一方に問題を解かせている間にもう片方に教える、という感じの授業をやるということだ。

大浦小学校の来年度の3・4年生は合わせて15名。あと2人足りない。実はうちの次女が来年の3年生。このままだと、次女は複式学級で学ぶことになる。

といっても、複式学級は、悪いことばかりではない。

一番いいのは、子どもたち同士の教え合いがあることで、これは普通学級よりも優れた点であるとさえいえる。それに、鹿児島のような過疎地では既にかなり多くの複式学級が設けられているので、先生方の指導の経験も豊富である。複式学級は何が何でも避けるべきものではない。

とはいえ、できれば普通学級の方がいい。というのは、担任の先生の負担が大きいからである。2学年教えても給料が2倍になるわけでもない。子供にとっては悪いことばかりではないが、先生にとっては負担増でしかないのが「複式学級」である。だから出来れば避けたい。

それに、規定の人数に7人も8人も足りないのならすぐに諦めるが、足りないのは2人。2人の転入があれば普通学級になる。

そんなわけで、ダメもとは承知で「大浦小で学びませんか? 大浦町に移住しませんか?」とブログで訴えてみることにした。

【参考】大浦小学校
http://www.minamisatsuma.ed.jp/jr/oourasyo/02burogu.html

大浦小学校の児童数は大体50名強くらい(来年度の人数はまだわかりません)で、1学年は大体10人くらいである。教室も広々使えるし、校庭や体育館もゆとりがある。当然、ソーシャルディスタンスはバッチリである。

コロナ対策関係なく、施設を広々使えることは子どもたちの心にいい影響があると思う。また、校庭は全面芝生なのが先進的で、すごく気持ちがいい。

施設面は、広々使えるだけでなく内容も充実していて、昨年度には全教室にエアコンが配備された。トイレも改修されてとってもキレイである(当然洋式)。個人的には、もうちょっと図書室の蔵書が充実するといいなと思っているが、児童数との比率で考えると新刊本は多く、図書室も充実している方ではないかと思う。

そして、大浦小学校のよい所は、児童全員が名前で呼び合うところで、和気藹々(あいあい)とした雰囲気だ。どうして名前で呼び合うのかというと、大浦の地元民には限られた姓しかないので、例えば一学年10人しかいないのに徳留さんが2人いたりする。だから自然と名前で呼び合う文化が、何十年も前からできていた(多分創立時からだと思う)。 

もちろん、名前で呼び合うからといって仲良しばかりとは言い切れないが、大浦の子どもはのびのびしていて、あまりギスギスしていないことは事実だ。自然豊かで広々とした環境は子ども(だけでなく大人も)の精神を落ちつけると言われているがそれは本当だ。

では大浦小のよくない点は何かというと、私が思うに英語教育が本当にダメである。小学校の英語教育は始まったばかりなので、他の小学校と比べてどうなのか評価できないが、都市部の小学校と比べればかなり見劣りがするのは否定できない。

あと、少人数であるためのデメリットはもちろんある。例えばクラブ活動の種類が限られたり、チームスポーツがルール通りに出来なかったりすることである(1学年10人くらいだとサッカーの試合なんかはできない) 。でも少数の天才を除いて小学校の頃からスポーツ漬けになる必要はないので、それほど大きなデメリットではないと思う。

そしてこれは大人側の事情だが、保護者の人数が少ないのでPTAの役員がすぐに回ってくるのもよくない点である。しかし、大浦の場合はほとんど全て地の人で構成されているので、PTAとかにはみんな協力的で運営はスムーズである。ベルマークの集計みたいな徒労的作業もない。

どうせ田舎の遅れた学校でしょ? と思うかも知れないが、実はそれほど遅れた考えはなく(例えば運動中に水を飲むなとか、かけ算の順序がどうこうといった類)、何より先生たちの雰囲気がユルい。なお大浦小は、先生たちにとっては人気の場所であるらしく、楽しく授業ができる学校のようである(問題児・問題親が少ないのが理由らしい)。

総合的に言えば、大浦小学校はかなりよい学校だと私は思っている。まあ、いい学校だと思っていなかったら、ここで「大浦小で学びませんか?」なんていうわけがないのだが…(笑)

では、大浦に移住するとなれば、大浦がどんな町かということが気になるだろう。というわけで、私の目から見た大浦町のポイントをまとめてみる。

大浦町は、南さつま市の一部(大字)であり、今の人口は1800人くらい。このブログでもたびたび書いてきたように高齢化率の高さは県内でも有数だ。

でも、意外と若い人も元気なのが大浦のよいところで、田舎にありがちな長老主義(○○さんの言うことは絶対、みたいな)は大浦には希薄である。 

というのは、大浦は集落ごとの独立性が高く、よくも悪くも集落が全ての単位となっているので町全体を支配するような権力が生まれづらい土地である。逆に言えば「町一丸となって」みたいなのはあんまりないのが大浦だ。これは当然、現代的な態度に結実していて、割とみんな他人のことに無関心で、自分のことに没頭しているのが大浦町民だと私は思っている。住民同士の相互監視みたいな息が詰まる雰囲気は大浦にはない。こういうのは都会の人がイメージする田舎とは違うところだと思う。

だから、小学校の児童が少ないことは、子供同士の人間関係が濃密であることを意味し、かえって煩わしい部分があるように思うかも知れないが、大浦の場合は「みんな”仲間”でないとダメ」みたいな空気はあまり感じない。うちの子も、みんなで遊ぶより一人で本を読んでいる方が好きな所があるが、それで浮いちゃったりすることはない(ようだ)。大人数での集団生活になじめない子どもにはいい環境だ。

そして大浦のよいところは、町の中心にスーパーや農協、郵便局、銀行、役場の支所、ガソリンスタンドなどが揃っていて、町を出なくても生活ができるところである(そんなの当たり前じゃないか、と都会の人は思うだろうが、これが出来る町は優秀)。

さらに、加世田(とりあえず生活必需品は何でも揃う地方都市)まで車で30分、鹿児島市までも車で1時間半程度でいけるので、それほどの僻遠の地ではない。うちから最寄りのコンビニまでは車で25分、最寄りの(?)イオンまでは車で1時間20分。「遠いよ!」と思うか、「意外と近い」と思うかはあなた次第である(笑)

ところで私はこちらに移住してくる時、別に深くは考えていなかったが、いろんな地域を見ていると、立地面で「この町に移住してたら後悔したかも」と思うような場所もあることがわかった。例えば、最寄りのスーパーまで車で20分かかるとか、地方都市まで車で1時間近くかかるとなると、生活の質が違ってくると思う。大浦は、鹿児島の本土の端っこの方にあるのは事実だが、生活圏という意味ではそれほど端っこではないのがいいところなのだ。

ただ、大浦には仕事があるのかというと、残念ながら農業と福祉(老人ホーム)以外にはあまり仕事はない。でも加世田あたりに通勤すると考えれば、都会にあるようなオフィス仕事は少ないとしても、それなりに仕事はあると思う。そもそも田舎は慢性的な人手不足なので、職種を選ばなければ生きていくことは出来るだろう。

なお、大浦は僻地なのにもかかわらず光回線は通っているので、インターネットを使った仕事の人も大丈夫である。

しかし、大浦には致命的な短所がある。町内に不動産屋がないので、仮に移住したいと思っても物件を探すことがほとんど不可能なのである。空き家の数は膨大だが、地元の人でもどこの空き家が活用可能な物件なのかよくわからず、さらに家財道具が置きっぱなしになっているなどですぐには使えない空き家も多い。実際、大浦に移住する最大のハードルはここだと思う。

でも諦めるのはちょっと待って欲しい。大浦小学校は、2021年4月から「小規模校入学特別認可制度」の指定校(=特認校)となる。南さつま市の特認校制度は、簡単にいうと「加世田小学校の学区に住んでいる人は、希望すれば特認校に通学できる」というものだ。

【参考】特認校制度(南さつま市小規模校入学特別認可制度)
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/shimin/kyoiku-bunka-sports/gakko/tokunin/e020124.html

なので、加世田小学校区(加世田の中心部及び津貫地区)に住所があれば大浦小学校に通うことができる。

だから、本当に地域外から大浦に移住しようと思ったら、まずは加世田のアパートなどを借り、1年くらいかけて大浦に家探しをするのがいい(PTAの時とかに「家を探してるんです」と言えばどこかで話が繋がるのでは)。多分、家賃はタダみたいな家が見つかると思う。ただし加世田在住の間は、スクールバスはもちろん通学に使える路線バスもないので、送り迎えは親がする必要はある。

というわけで、万が一、この記事を読んで「移住して子どもを大浦小に通わせようかな?」と思った方がいたら、コメント欄で連絡くだされば、私の出来る範囲のお手伝いはします。もちろん子どもが小学3・4年生でなくても歓迎です。

※冒頭写真は、昨年の大浦小学校運動会の様子。

2020年1月23日木曜日

共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)

(「いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか」からの続き)

大浦のメインストリートを、木連口(きれんくち)通りという。

南北に延びる、700mほどの通りである。今でも、役場、銀行、役場、郵便局、スーパー、農協、ガソリンスタンドなどが並びメインストリートとしての名目は保っているが、まあ有り体に言ってシャッター通りになってしまっている。

しかしこの通りが最も賑やかだった昭和20年代は、たくさんのお店や家がこの通りを埋め尽くしていた。年末の歳の市になると、すれ違うこともできないほどの人でごった返したという。大浦干拓が完成した昭和40年代にも多くの店が軒を連ねており、この700mに電器店だけで4店もあった。理容・美容室に至ってはなんと11店も(!)あったのである。美容室が犇めく東京・南青山でもそれほどの美容室の密度はないかもしれない。

かつての大浦の絶望的な貧しさを考えると、理容・美容室がとんでもない密度で存在していたことが不思議なくらいである。既に述べたように、昭和60年代になっても大浦町民の平均所得は全国平均の半分、鹿児島県の平均の70%しかなく、全国でも有数の貧乏地帯だったのだから。にも関わらず、木連口通りが活気に溢れていたことも同様に事実だった。

東南アジアや南米などを旅してきた人は、この貧しさと活気の両立を別段不思議とも思わないかもしれない。統計で見れば極貧の地域で最低の生活を余儀なくされているボロ屋街の人々が、実にアッケラカンとしてせせこましくなく、通りは活気があって人々は元気だということがたくさんあるのだから。いや、そういう地域の貧乏な人たちの方が、立派な企業に勤める高級住宅街の人達よりもずっと生き生きして人生を謳歌しているように見えることもしばしばだ。

だから過去の大浦が、全国有数の貧乏な町であったことと、木連口通りに活気があったことは矛盾しない。ポケットにはお金はなかったが、みんな若く無鉄砲で、将来の心配などせずその日暮らしをしていた。事業計画書などなしに新しい商売を筵(むしろ)一枚で始め、うまくいかなければさっさと辞めた。通りには入れ替わり立ち替わり新しい商売が生まれ、消えていった。大浦だけでなく、日本中がそういう時代だった。

——どうして、この活気が失われてしまったのだろう。

ここに掲載したのは、1955〜1995年の大浦町の人口・世帯数・高齢化率のグラフである。

1955年(昭和30年)には7500人以上いた人口が、30年後の1985年には約半数の3700人あまりに減ってしまった。この人口減少は、若者が町を去ったために起こったので、高齢化率は逆に10%未満から30%以上へと急上昇した。通りから活気が失われた直接の原因は、この高齢化である。

これは日本の農村に共通した傾向ではあった。産業の中心が農業を中心とした第一次産業から製造業など第二次産業へとシフトし、農村の若者たちは「金の卵」と言われて集団就職で上京していった。だが大浦のように変化が急激だったのも珍しい。だからこそ大浦町は鹿児島県で第1位の高齢化自治体になったのである。

なぜ大浦の人口減少はかくまでに急激だったか。

干拓事業やそれに続く基盤整備事業、そして農業の大規模化・機械化といった意欲的な動きがあったにも関わらず、同じ時期に人口が急減しているのは傍目には不可解だ。しかし実はこれらの動きは連動していたのである。

というのは、農業の大規模化・機械化が急速に進んだ原因は、人々の意欲だけではなかった。むしろ人口減少への対応という側面もかなり存在したのである。例えば、昔の田植えというのは、一族総出で行われなくてはならない一大行事だった。ところが若手がどんどん都会へ出て行ってしまうと、十分な人手が集まらなくなる。そうなると機械で田植えをしなければしょうがない。ある意味では、人々はやむにやまれず機械化に進んだのである。

そして、農地の規模拡大はより人口減少と関わっていた。既に述べたように、干拓以前の大浦の農家の平均的な規模は30aほどだったが干拓地では3haと10倍になり、その他の地域でも徐々に規模が拡大していった。ということは、農地の総面積はそれほど変わらない以上、農地の規模が10倍に増えることは、農家数は10分の1に減ることを意味する。

これは、零細農家が競争に負けて廃業していった、ということではない。後継者のいない農家が自主的に廃業していった結果であり、農業の近代化がそれについていけない零細農家を淘汰したわけではなかった。むしろ、この時期の大浦の農業に機械化・大規模化のトレンドがあったことは、そうした廃業農家の耕作地がスムーズに集積され、荒廃せずに済んだというプラスの面が大きかった。

しかし農業の大規模化・機械化が進めば進むほど、人口減少が加速していったこともまた疑い得ない。今まで5人必要だった作業が、機械の力を借りて2人でできるようになる。今まで10人の人手で耕した田んぼが、トラクターでは1人で耕せる。このように省力化が進んでいくと、同じ農業を続けて行こうにも、自然と人間があぶれて行ってしまう。

若者は、ぼーっとしているように見えても、こういう趨勢に極めて敏感である。「自分はいずれ、ここにいなくてもよい人間になる」、うすうすでもそう感じれば、自然と外に目が向くのが若者だ。逆に言えば、この時期に農業の大規模化や機械化のトレンドがなく、相変わらず人手に頼った農業をしていれば、ある程度の若者はイヤイヤながらでも大浦に踏みとどまったかも知れない。「自分がいなければこの家はやっていけない」と思えば責任感から人生を選択する人はけっこう多い。

しかし実際には、大浦の農業は急速に近代化しつつあり、人手に頼らなくてもすむ形へと変わっていった。人口減少の流れがある以上、そういう形に変えて行かざるを得なかったからだ。農業の大規模化・機械化は人口減少の原因ではなかったが、それを助長する要因ではあった。

農地の大規模化・機械化・人口減少は「共鳴」し合いながら加速していったのである。この共鳴する加速関係があったことが、大浦が鹿児島県で第1位の高齢化自治体になるほど急激な人口減少がおこった理由であった。

このように書くと、町の発展のために行われた干拓事業や基盤整備事業、そして個々の農家の大規模化の努力が裏目に出たかのように感じる人がいるかもしれない。仮にそうした動きがなく、人々が狭い耕地で人手に頼った昔ながらの農業をしていれば、急激な人口減少は避けられたのかもしれない。事実、大浦よりももっと僻地の山村で意外と人口が維持されたケースはあった。でもそれは長期的に見れば、静かに廃村へ歩んでいくことにほかならなかった。基盤整備をしない狭い田んぼばかりの土地は、いずれ耕作が不可能になることは明らかだからだ。牛や馬で耕す人は今や誰もいない。

だから大浦が早い時期に農業の近代化に取り組んだことは、急激な人口減少という痛みはあったものの、長期的に見れば町の発展に寄与したのである。今でも大浦は耕作率が高く、主要な水田にはほとんど耕作放棄地がない。それに町にとっては人口減少は痛みだったかもしれないが、出ていった若者を見てみれば、大浦で農業をするよりもずっと実入りのいい仕事に就いた人が多かった。やりたいことができずに農業をやらされるより、都会に出て行くことができたのはよい面もあった。

もちろん、本当なら生まれ故郷を離れたくなかった、という若者もたくさんいただろう。そうした若者に町内でよい就職口を準備できなかったのは残念なことだ。だが当時の人達に何ができただろう。農業の生産性を上げる、というのが純農村地帯であった大浦にとって唯一にして最大の経済政策だったことは間違いない。 結果的に激しい人口減少を招いたのはわずかばかりの皮肉だったとしても、大浦の農業を持続可能なものに変革した功績は計り知れない。

大浦は、時代に取り残された遅れた地域だったから人口減少したのではない。

逆だ。時代を先取りし、他の地域に先立って農業の大規模化・機械化が進んだために、人口減少や高齢化をも先取りしてしまったということなのだ。それが、同時期に過疎が進んだ他の農山村との際だった違いだったと私は思う。

でもそれにしても、いや、そうであればこそ、近代的な農村に生まれ変わった大浦のメインストリートが、やはりシャッター通りになっていったことの意味を問わなければならない。大浦が遅れた地域だったのであれば、木連口通りが衰退した理由は簡単だ。しかし大浦は農業の近代化によって「稼げる地域」になっていったはずなのだ。人口減少があるにしても、もはや昔のような極貧の地域ではなくなっていた。それなのに商店街が寂れていったのはどういうわけだったのか。

(つづく)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎 

2020年1月17日金曜日

いかにして大浦町が農業の機械化先進地となったか——大浦町の人口減少(その3)

大浦からよその地域の農業を見てみると、機械化の遅れに驚くことがある。

例えば、鹿児島市内の近郊でも、未だに結構お米の天日干しがされている。そして田んぼの形は山の地形に沿ってぐにゃりと曲がっていたりする。そういうところの農業は傍目にはのどかで美しいが、実際にやるのは大変で、ほとんどボランティア活動みたいな気持ちでないとできない。

一方、大浦ではお米の天日干しはほとんどない。収穫はほぼ100%コンバイン。コンバインでの稲刈りと乾燥機での乾燥は、バインダー収穫と天日干しに比べ数分の1の労力だ。一度コンバイン収穫に慣れてしまえば、天日干しにはもう戻れない。

私は大浦で就農した時、大浦は農業の機械化が進んでいるとは特に思っていなかった。しかし研修などで他の地域を訪れて農業の実態に触れてみると、「大浦って、小規模な農家も割と機械化が進んでいるよな」と思うようになった。

大浦では、干拓は別格としても、町内の主要な農地も整形された四角い田んぼが中心になっていて、大きな農業機械で合理的に耕作されている場所が多い。ちいさな耕耘機でえっちらおっちら田んぼを耕すようなやり方は、僻地の農山村だとそんなに珍しくないものだが、大浦ではそういうのは趣味的な農業を除いてほとんど存在しない。同程度の農山村と比べれば、大浦は明らかに農業の機械化先進地である。

——この機械化をもたらしたのは、大浦干拓の影響だろう。

広大な干拓地を耕作するためには機械化は必然だったが、それは干拓地以外の農業にも波及した。干拓で活躍する効率的な機械仕事を見せつけられ、山間部で農業をやっている人もこれからの農業は機械を使わなければできないことを痛感したのだ。

農家というのはだいたい保守的である。というより、耕作大系というのはいろいろな要素が絡み合っていて一部だけを変えることは難しいから、自然と前年踏襲的になるのである。だから、仮に便利な農業機械が開発されたとしても、それを積極的に導入する人は限られる。ところが、農家は隣の農家がやっていることはよく見ている。隣の農家が新しい機械によってうまい具合に作業を合理化したと見るや、それを導入するのにはあまり躊躇がない。右へ倣え主義というよりも、実証されたことはすぐ取り入れるのもまた農家である。

であるから、干拓地での機械導入は大浦全体の農家に高い機械化意欲をもたらした。第一線の大規模農家が巨大なトラクターを持っているのは当然としても、大浦の場合はそれに次ぐ規模の農家もけっこう大きなトラクターを導入していることが多い。これは、まず機械を高機能化させてから経営規模を拡大していく、というやり方が大浦でセオリー化したためではないかと思う。

そして機械化にはもう一つ大事な要素がある。圃場の基盤整備事業である。

「基盤整備事業」とは、ここでは「農地の区画整理」を指す。昔の田んぼは牛や馬で耕していたから、そこまでには牛馬が通るだけのあぜ道があればよく、また真四角である必要もなかった。ところがトラクターで耕耘するようになると、トラクターが田んぼまで行くための道が必要である。さらに、トラクターでは狭く不整形な田んぼは耕耘しづらいため、田んぼは広く真四角であることが望ましい。

だから、昔ながらの棚田のような田んぼを壊して、新たに真四角の規格化された広い田んぼに生まれ変わらせるのが基盤整備事業である。要するに農地の再造成だ。これをしないと機械化は思うように進められない。

ところが、この事業はなかなか進めるのが難しい。市街地の区画整理が遅々として進まないのと同じ理由である。新たに道を通すには、みんなが土地を供出しなければならないし、費用負担もある。広い農地を持つ人にとっては土地の生産性を向上させるが、狭い農地しかない人や機械化に関心がない人にとってはあまり旨味がない。しかも区画整理と一緒で、区域の全員が事業に賛成しないと実行出来ない。だから基盤整備事業は時代の要請であったにもかかわらず、多くの地域でそれほどスムーズには進まなかった。

だが大浦の場合、基盤整備事業が概ね順調に進んだ。それは、干拓地の大規模農業を目の当たりにし、機械化の意欲が高まっていたからだろう。機械化を進めるためには基盤整備事業が必要で、基盤整備が行われるとさらなる機械化が可能になる。機械化と基盤整備事業は、撚り合わされた糸のように進行していった。

その背景には、基盤整備事業に対する町役場の熱意があったのももちろんだ。近隣の自治体が観光施設とかレクリエーション施設といったハコモノを次々と建てていったときも、大浦町は地味な基盤整備事業に注力し続けた。

それから、基盤整備事業が積極的に実行されたことは、思わぬ(もしかしたら狙っていた面もあったのかもしれない)形で大浦干拓事業の帳尻を合わすことにもなった。 というのは、干拓地に入植した人たちには、干拓地の土地の購入や高額な機械の導入などによって、1000万円単位の借金を抱えた人も少なくなかったのである。最初、干拓地はただの砂浜だったから農地としては最も劣等であり、生産性も低かった。巨大な借金を返していく現金収入はすぐには得られなかった。

そこでそうした人達は、昼間は基盤整備事業の土方で働き、夕方から農業に従事するというダブルワークで借金を返済したのであった。こういう事情もあったからか、大浦では基盤整備事業は積極的に進められ、一時期は町の経済のかなりの部分が基盤整備事業という公共事業で支えられていたくらいである。

それはともかく、農家の機械化への意欲、役場の積極的な事業推進などによって、平成に入ってからの基盤整備事業は着々と進み、大浦の主要農地は全て事業を完了し、整形された広い四角い圃場が並ぶことになったのである。こういう地域は鹿児島では珍しいと思う。

その上、そうした大規模事業の対象は水田だけに留まらなかった。茶園や大規模養鶏団地の造成といったことが、県や国の補助を活用して矢継ぎ早に推進された。大浦は、干拓をきっかけとして構造改善事業(農業の基盤を造成していく事業)に非常に前向きな地域となり、こうした事業が華やかに行われていた時は連日のように県の役人が大浦を訪れ、遊浜館(大浦の旅館)が賑わっていたのである。

こうして、戦前から平成にかけて、大浦の農業はすっかり近代的な形へと生まれ変わった。干拓地だけでなく、大浦町の全域で圃場は効率的な形に整備され、人々は最新式の機械を導入していた。

このように書くと、かつての大浦町が意欲的で活気のある場所だったと思うかも知れない。だが、その動きの裏で、急激な人口減少とそれに伴う高齢化は非情にも続いていた。まるで大浦の農業を発展させようとする努力など存在していないかのように。

(つづく)

【参考文献】
「大浦干拓事業と笠沙町・大浦町の農業経済」2002年、西村 富明
「過疎化,高齢化の構図:再考〜笠沙町,大浦町の現状から」2002年、高嶺 欽一
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎

2019年12月6日金曜日

大浦干拓という大事業——大浦町の人口減少(その2)

(「大浦町とコルビュジェの理想の農村 」からのつづき)

大浦町は、干拓の町である。

国道226号線を加世田から走ってくると、越路浜を過ぎて田園の中を突っ切る真っ直ぐな道路になり、そこの何もない交差点を南に曲がるとこれまた1.6kmもの一直線の道になる。両側は真っ平らの田んぼ。これが大浦町に入る道である。

私にとって大浦町の第一印象は、この、どこまでもまっすぐな、滑走路のような道だった。

大浦にはかつて、勾配1000分の1とも1500分の1ともいう遠浅の干潟「大浦潟」が広がっていた。1メートル下がるのに、1.5kmも進まないといけないという低勾配である。大浦の山間部にはそれほど広い耕地はないから、ここを干拓して広い畑や田んぼに変えれば、非常に生産力をアップすることができる。

そんなことから、藩政時代から大浦潟は干拓事業の対象となり、小さな入り江を利用した10町歩(10ha)程度の干拓事業が散発的に行われていた。そして昭和15年、日中戦争による食糧難の中、遂にこの広大な湾内の潟を全て田んぼに変えてしまおうという大事業が立案される。

当時、国は食糧増産のため「農地開発営団」を設置して農地の開拓を進めようとしていた。大浦干拓の事業はこの機運に乗り、農林省に直談判して国の事業として認められる。そして昭和18年、農地開発営団の事業として大浦潟の干拓が起工された。

「国の事業」といっても、太平洋戦争がたけなわになった頃であり、国の予算も潤沢ではなかった。大規模な干拓事業にはたくさんのガソリンが必要になるので農林省としては難色を示し、計画が承認された直後に早くも頓挫しかけたほどだ。しかし当時の唐仁原町長は「私の処はガソリンは要りません。荷車で現場まで運びます」と主張し応諾させたのだった。

ところが戦時中は地元の若い人間は戦争に徴発されて不在が多かったため、結局、青壮年団、青年学校、婦人会、果ては小学生までが奉仕作業に動員されることとなった。

終戦後、農地開発営団は廃止されたが、大浦干拓は農林省直営事業に移管されて続けられた。とはいうものの終戦後のモノも金もない時代、かなりの苦労があった模様である。物資と燃料の不足に悩まされ、作りかけの潮留め(堤防)はたびたび台風で破壊された。モッコを担いで土を運んだ、というような話を私自身も聞いた事がある。集落ごとに「特別労務班」が編成されて仕事にあたったという。

こうして昭和22年、大浦干拓第一工区の潮留めが完成。これが冒頭に触れた滑走路のような直線道路があるところ、概ね国道226号線の南側の地区である(正確には現在「恋島コンクリート」があるところより南側の区域)。潮留めが完成してからは、砂浜だったところを畑にしていく困難が待っていた。最初のうちは作物がうまく育たず、干拓地ができてからも苦労は続いたのである。

さらに昭和25年からは、その北側にあたる大浦干拓第二工区が起工し、昭和34年に完成。こうして第一工区174.5ha、第二工区161.8ha、合計336haもの大干拓が完成したのである(その後干拓地内の田畑の造成工事が行われ、完工したのは昭和40年)。

鹿児島県内で干拓というと出水干拓が有名で、昭和22年から40年という大浦干拓とほぼ同時期に同じく農林省直轄事業として造成されているが、西工区(90ha)、東工区(230ha)合わせて約320haであり、大浦干拓の規模には僅かに及ばない。出水干拓は江戸時代から行われた干拓地の集成であるため全体では1500haにもなるが、一事業としては大浦干拓の336haは鹿児島県では最大の干拓事業だった。

この大干拓の完成によって、大浦は「乳と蜜の流れる地」になるはずだった。戦前戦後の厳しい時代、奉仕作業でモッコを担いで土を運んだ人達も、「子どもたちには美味しいお米をお腹いっぱい食べさせたい」という一念だったという。そういう作業の合間に歌われたのに「大浦干拓の唄」(関 信義作詞)がある。その4番の歌詞はこういうものだ。

広い砂浜 大浦潟の
 工事 竣功(おわり)の暁にゃ
黄金(こがね)花咲く 五穀が稔る
 大浦干拓 平和の源泉(もと)よ

戦前までの大浦は、「走り新茶」という特産品はあったものの耕地が狭いため農業の規模が小さく、また人口が多かったので貧困に苦しんでいた。人々は、大浦の将来の発展を干拓に託したのだった。

それは、成功したように見えた。広大な干拓地には、次々と地元の人間が入植した。それまでは3反(30a)あれば平均的な農家だったのに、干拓地ではその規模が10倍にもなった。大浦の山間部では田んぼ1枚は5aもないところが多かったが、干拓では田んぼ1枚が1ha(=100a)あった。

アメリカやヨーロッパのような、大規模農業が大浦で取り組まれた。こうした広い面積を相手にするには、どうしても機械化が必要である。牛で耕しているわけにはいかない。人々は耕耘機を使うようになった。今では1haもある田んぼを(トラクターではなく)耕耘機で耕すのは気が遠くなるが、当時としては画期的だった。

まさに今、農水省が進めている「大規模化・省力化」の農業が、50年も前にこの大浦町で先進的に行われるようになったのである。

近隣の町の農家は、広大な大浦干拓を羨ましく見ていた。山間の狭小な田んぼを牛で耕すのとは効率が全く違ったからだ。一直線の道と整然と区画された田んぼは、コルビュジェが考えていたような合理的な町と村、そして新しい時代の理想の農業を象徴していた。

だが大浦干拓が完成したその時、既に大浦の人口減少は始まっており、その後も歯止めはきかなかった。もちろんその後の人口減少には高度経済成長という背景もあった。農業よりも製造業が花形産業になっていったからだ。でもそれは県内の他の農村でも同じだった。

だから理想の農村となったはずの大浦町が、鹿児島県内1位の高齢化自治体になっていったのは奇異とせざるを得ない。

発展が約束された土地を、なぜ人々は離れていったのか。

(つづく)

【参考文献】
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2019年8月10日土曜日

大浦町とコルビュジェの理想の農村——大浦町の人口減少(その1)

ここに、農村の地域計画の理想図がある。巨匠ル・コルビュジェが構想したものだ。

この農村のどこが理想的なのかというと、図の左端「1 国道または県道」が農村の中心部から遠く隔たっている、ということだ。

コルビュジェは、建築家としてのキャリアをスタートさせた当初から交通の問題を重視していたらしい。効率的な経済活動のためにはスムーズな交通が必要なのに、街の中心部には人家が密集するため交通が麻痺しがちだという矛盾をどう解消するか、また自動車が増えてくるにつれ、人々が安全かつ気持ちよく散歩することはできなくなる、というような問題意識から、コルビュジェは道路を役割ごとに分ける構想を抱いた。

といっても話は簡単で、高速交通を担う幹線道路、生活道路、歩道などを別々の道として通し、特に街の中心部を幹線道路が突っ切らないようにする、という都市計画を提案したのである。

日本だけでなくヨーロッパでも、街や村は街道沿いに栄えるものである。街道は街の中心であり、購買や人々の交流が盛んに行われていた。しかし自動車時代になると、古くからの街道は国道や県道としてたくさんの自動車が行き交うようになった。こうなると、街は中心を突っ切る幹線道路によって分断され、最も中心となるべき場所の活気が失われてしまう。

…とコルビュジェは考えたが、日本の現状からするとその考えはそっくり鵜呑みにするわけにはいかない。地方都市に行くと、ショッピングセンターやレストランや文化ホールがあるのはやはり国道沿いであって、そこはやはり活気の中心だからだ。

しかし同時に、自動車移動が中心の地方都市においては、その最も活気があるはずの区画に、ほとんど人が歩いていないということは、コルビュジェの危惧が全くの杞憂ではなかったことを示しているのである。

ところで、初めてこのコルビュジェの理想図を見た時、驚いた。というのは、この理想図が、私の住む大浦町の様子とソックリだったからなのだ。

Googleマップで見てみてもわかりづらいから、ちょっと簡単な図を書いてみたが、大浦町の様子はこのようになっている。

北の方に国道226号線が通っていて、街の中心はそこから奥まったところにあるのがポイントだ。これがまさにコルビュジェの理想図の通りなのである。

さらにそれだけでなく、農協や農産物の集荷施設、郵便局や学校の位置関係なども、あの理想図にかなり似通っている。まあこれらの施設の配置はどこの街も似たようなものだから措くとしても、かなりの程度、大浦町がコルビュジェの理想図を現実化した街だということは言えるだろう。

コルビュジェは、あの理想図を実際の街を観察した結果として描いたのではなくて、理論的に導き出した。ところが大浦町は図らずしてその理想を現実化していた。大浦町は、コルビュジェの構想の妥当性を検証する材料のひとつだと言える。

では大浦町は理想の農村と言えるのか? 答えはノーだろう。ここは昭和30年代から既に過疎化が進行し、全国で最も早く高齢化が進んだ地域のひとつである。例えば昭和60年の国勢調査では、鹿児島県の高齢化率(老年人口比率)が14.2%で全国3位であったが、その中でも大浦町は28.8%と鹿児島県全体の2倍もの比率(!)であり、県内第1位の高齢化自治体だったのである。

この頃は少子化ということは関係なかった時代で、この高齢化率の高さは人口流出のもたらしたものだ。この背景には大浦町の貧しさがあった。当時(昭和62年)の町民所得は全国平均のほぼ50%に過ぎない年収100万円ほどで、全国有数の貧乏自治体だった。それであるからどんどん若者は都市部へ出て行き、昭和30年に約7500人いた人口が昭和60年には約半分の約3800人に減少した。貧乏で、人がどんどん去っていった地域、それが大浦町だった。それが理想の農村とは、とても呼べないだろう。

コルビュジェの理想を現実化していた街は、コルビュジェが考えていた通りには発展せず、むしろ衰退していった。だが正確を期するなら、ここでひとつ付け加えなければならないことがある。実は元来、大浦町の国道は現在のように街の中心部から離れて通っていなかった。昔は普通の街と同じように、幹線道路が街の中心部を通っていたのである。

後に国道となる幹線道路が遠ざかっていったのは、戦前戦後を通じて推し進められた干拓事業によってであった。図では斜線で示したのが干拓地で、当然ここは元々は海だった。元来の幹線道路は海沿いを走る道で、その道沿いに大浦町の中心部もあった。ところが干拓事業によって海岸線が遠ざかり、それに応じる形で幹線道路も海沿いを走るように路線変更された。こうしてコルビュジェの理想図の通りの街が出来上がったのである。大体昭和40年代の頃と思われる。

大浦町は、コルビュジェの理想の農村となったにも関わらず、その後もどんどん衰退していった。東京や大阪に住む人からしてみれば、こんな日本の端っこの交通の便の悪いところが衰退するのはごく自然なことと思うだろう。でも実際は、大浦町はさほど山深い村ではなく、むしろ地形的には開けた方だし、近場の地方都市(加世田)への距離もそれほど遠くない。むしろ利便性のよい農村なのである。

先日南大隅町(大隅半島の南の端っこ)に行ったのだが、ここは非常に山深く、地形も険しいところで、さらに市街地からの距離もかなり遠い。正直「よくこんなところに人が住んでいるなあ!」と思ったくらいだった。でも昭和60年の時点では、大浦町はここよりもさらに高齢化した地域だったのである。

コルビュジェの理想の農村を具現化した街であり、さらに利便性もよい開けた場所であったにもかかわらず、なぜ大浦町は全国に先駆けて高齢化していったのか。

少し考えてみたい。

(つづく)

【参考文献】
『人間の家』ル・コルビュジエ、F・ド・ピエールフウ共著、西澤 信彌 訳
https://shomotsushuyu.blogspot.com/2016/08/f.html
ル・コルビュジエとド・ピエールフウによる、住みよい家をつくるための都市計画提案の書
過疎化と高齢者の生活—老年人口比率33.1%の鹿児島県大浦町—」1990年、染谷俶子

2019年4月19日金曜日

『薩南文化』に当ブログの記事が掲載されました

南九州市が出している『薩南文化』という年刊の地域文化誌、この最新号の第11号(平成31年号)に私が寄稿した記事が掲載された。

それは、 「清水磨崖仏群と齋藤彦松」という記事。実は当ブログでかつて書いたものである(ただしほんのちょっとだけリライトした)。

【参考】清水磨崖仏群と齋藤彦松
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2017/07/blog-post.html

『薩南文化』は原稿募集型ではなくて依頼型の雑誌。つまり私が投稿したのではなくて、この記事を読まれた担当の方から、書いて欲しいという依頼があって書いたものだ。しかもなんと原稿料も出る。初めてものを書いて原稿料をもらったかもしれない。本当に有り難いことである。

詳しい内容は先ほどのリンク先を読んでいただければと思うが、簡単に言えば、それまでさほど価値があると思われていなかった清水磨崖物群の価値を見いだし、保存や研究に打ち込んだ齋藤彦松を紹介したものである。

どうして私が彼に興味を持ったのかというと、「清水磨崖仏群の価値を見いだしたのは、当時大学院生だった齋藤彦松氏である」というような簡単な紹介をどこかで読んだからだった。これを読んで、私は「どうして一介の大学院生がきっかけになったのだろう?」と疑問を抱いたのである。大学院生なんかたいして影響力がないのが普通だが、この大学院生は何者だったのか、と。

調べてみると、確かに清水磨崖物群を「発見」した齋藤彦松は、その時大学院生ではあったが、今の世の中でイメージされる大学院生とは随分違う。当時は昭和33年。大学院に進む人自体がほとんどいなかった時代だ。大学院生であっても、いっぱしの研究者として扱われていたのかもしれない。少なくとも、今の大学院生よりは権威があったろう。それに齋藤は既に40歳になっていた。そもそも大学に入ったのが36歳の時である(齋藤の若い頃には戦争があって学問どころではない時代だったから、当時はこういう人が結構いたのかも)。その頃の齋藤彦松は、一介の大学院生とはいえ、中堅の研究者の風貌をしていたのだろうと想像される。

しかし、そうは言っても、清水磨崖物群がある地元川辺町の人にとっては「もの好きなおじさん」くらいに見えたかもしれない。「○○大学教授」とかならともかく、いくら大学院生が「これは貴重なものだから保存した方がいいですよ!」と声高に叫んでも、右から左に聞き流されるのがオチではないか。

ところが実際には、齋藤が保存を進言してからたった1年後の昭和34年には、清水磨崖物群は県指定文化財になるのである。これは県が指定したわけだから川辺町の人たちがどう関わったのかはよく分からない(ちょうどその時の「川辺町報」が南九州市、鹿児島県図書館のどちらにも保存されていない)。よくはわからないのだが、少なくとも齋藤の主張を右から左に聞き流したということはないと断言できる。よそものの大学院生の言うことを「真に受けて」、保存に向けて動き出した、というのは明らかなのだ。

話を聞いてみると、川辺町の風土というか、街の雰囲気に「よそものを快く受け入れる。その代わり出て行った人には冷淡」というのがあるらしい。「出て行った人には冷淡」というのが面白いが、それはさておき川辺町には「よそものを快く受け入れる」というムードがあるのは今でも感じるところである。例えば、旧長谷小学校「かわなべ森の学校」(現「リバーバンク森の学校」)を使った「Good Neighbors Jamboree」もやっているのはよそものだが、こういう企画を受け入れる度量があるのが川辺である。

【参考】Good Neighbors Jamboree
https://goodneighborsjamboree.com/2019/

小さな町や村というのは、多かれ少なかれ「閉じた世界」を作っているものである。風景は何十年も変わらず、顔ぶれにもほとんど変化はない。「閉じた世界」になってしまうのはやむを得ない。しかしそんな場所でも、時にはそこにどこからか風来坊が現れることがある。その時に風来坊が言うことを、地元の人が「真に受ける」ことができるかどうかは、結構重要な気がする。

それは、その町や村が、ほんのちょっとでも外に向かって開いているかを示す、徴(しるし)であるのかもしれない。

2015年8月28日金曜日

大浦町の台風被害

台風15号、ものすごい台風だった。大浦町のランドマーク、丸山島公園のてっぺんにある展望台も全壊した。この展望台、予算の関係でもう再建されないのではないかと思う。

停電は、うちの場合は2日半続いた。全然停電しなかった地域もあるようだが大体は2日間くらい停電したようだ。2日もろうそく生活をしたのは初めてかもしれない。

このブログは大浦町出身者の方が多くご覧になっているようなので、ちょっと町内の被害状況を報告したいと思う(自分の被害については「南薩の田舎暮らし」の方で述べるつもりです)。テレビや新聞では大浦のような辺鄙なところの被害などは全く出ないと思うので。

※ただし、個人住宅の被害写真を載せると問題もありそうなので、それなりに公共性のある場所のみに限っています。

まず干拓から。

干拓の中心にある恋島コンクリートの工場、上の部分が傾いている。これを最初に見た時はかなり衝撃を受けたが、よく構造を見てみるとそこまで頑強なものではなかったようだ。でもコンクリートが一番必要な復興期に恋島コンクリートが稼働しないのはちょっと残念。

大浦干拓の防風林になってる松も、ところどころねじ切れたり折れたり。お米の収穫作業が終わっていたのがせめてもの救い。

 西福寺の瓦もちょっと崩れた。もちろん、個人住宅も瓦が飛んだ家は多数。

道路標識も倒れているのが何本か。(この写真の標識は看板がついているので折れやすそうだが、標識のみのものも折れていた。狭い街なのに標識が多すぎるからこの機会に減らしたらいいと思う)

この写真はわかりにくいが、これは石垣の上にあった竹林が根こそぎ倒れた様子。竹林が根っこごと倒れるなんて聞いたことがない。

次に、上山(かしたやま)に向かう。県道272号線で久志へ向かう峠の道。大浦では、今回の台風でここが一番大きな被害を受けていると思う。

県道沿いに植林された杉のかなり多くが風でなぎ倒されていた。

電柱も折れたり倒れたりしているものが多数。しかも電線にはかなりたくさんの木が掛かった状態。でも驚くべきことにこの状態で通電している。こんな状態でも電気を復旧してくれた九電には感謝!

山自体が崩れたような(山崩れがあったわけではない)、風が山を引き裂いていったような感じ。

今回の台風は、自然の木がたくさん倒れたりねじ切れたり折れたりしているということが印象的だ。自然の木は強いという印象があったが、これほどの強い風になると自然の木も抗うことが出来ないらしい。枕崎で最大瞬間風速45m/sとの報道があったが、ここはたぶん地形的な要因でそれより強い風が吹いたのではないか。60m/sくらいないとこんな被害にならないと思う。

かなりの大径木が根こそぎ倒伏している。切られているのは、道路を塞いでいたので切断して片付けたため。

大きな杉が、3本傾いていた。しかも電線に引っかかっている。この先にも集落はあるが、このあたりで先へ進むのが怖くなって引き返した。

山の木が倒れても経済的な被害としてはさほどではないが、これを片付けるという作業は大変になるので、たぶん放置されてこのまま山が荒れるのではないかと思う。

最後に、大木場のヤマンカン(山神)こと大山祇神社。

社殿(拝殿?)の裏手にある木々がバリバリ倒れてしまった。ここは元々鬱蒼とした森になっていたが、台風後は随分明るくなって雰囲気が変わった。ただ社殿への被害はないようである。

社殿の裏手へ近づいてみるとこんな感じ。かなり太い樟(くす)もあっけなく折れている。そんなに強い風が当たるところではないようなのに不思議だ。集落を守って身代わりに折れてしまったんじゃないかと思わされた。

ここにはかなり被害がひどいところだけ写真を載せたので、市街地の方がどうなっているか心配な人も多いと思う。だが意外と人家への被害は軽微で(瓦が飛ぶ程度は多いが)、けが人も僅かだそうである。

また、大浦町には、文字通り吹けば飛びそうな古くてぼろい家(失礼な表現とは思うが本当にそんな家がたくさんある)が多いのに、そうした古い家は意外と平気だった。これも不思議である。やはり昔の家は見た目よりずっと丈夫に作ってあるんだろうか。

不思議と言えば、大浦や笠沙、坊津(直接はまだ見ていません)はかなり大きな被害が出ているのに、加世田の市街地に行くと何事もなかったかのように被害がほとんど出ていないことである。この格差はなんなのか。

加世田には丈夫なしっかりした家が多いということもあるのかもしれないし、今回の台風は進路的に南に開けたところでの被害が大きいので加世田は被害が軽かったのかもしれない。でも同じような条件に思える金峰ではけっこう被害があるらしい(これも伝聞)。そういうことを考えると、麓(ふもと:鹿児島の言葉では、武士の集落があったところ、という意味です)は災害を受けにくいところが選ばれているのかもしれないと思った。

今回の台風は、野間池ではルース台風以来とか言われているようだし、大浦でもこんな大きな被害があるのは数十年ぶり、少なくとも20〜30年ぶりだそうだ。復興にはかなりのエネルギーが必要だろうし、丸山島公園の展望台みたいに、もう二度と再建されなさそうなものも多い。歴史的な出来事、というには大げさだが、その影響はしばらく残るだろう。

2013年9月23日月曜日

公民館に残る賞状で見る農村の昭和史

我が集落の自治会公民館には、古い賞状がいくつか掲示されている。これらは、積極的に掲示しているというよりは、かつて掲示していたものを敢えて外す必要もないからそのままになっている、というのが実態で、一見何の脈絡もない。でもその賞状たちを眺めていると、時代の移り変わりを如実に感じることができてとても興味深い。

そういうわけで、この賞状たちが語りかけるものを、少し長くなるがまとめてみたい。昭和6年から平成に至る数々の賞状があるが、全部を取り上げるとかなり冗長になるから、ポイントを絞って取り上げてみる。

まず、一番古い賞状は、昭和6年の「笠砂村 窪 施設消防組」への「感謝状」である。これは、天皇陛下が鹿児島に行幸したときに警備を担当したことに対する感謝を述べるもので、鹿児島県警の部長から贈られている。鹿児島では、青年団や消防団は、元は自警団であった場合が多いそうだが、ここでもそうだったのかもしれない。

次に、戦前の賞状では、昭和9年、10年、14年に「窪 報効農事小組合」宛てに表彰状がある。この「報効農事小組合」というのは、現在の公民館(自治会)の先祖にあたるもので、どうやら鹿児島独自のもののようだ。この大仰な名前の組織の具体的な姿は未詳だが、「農事」と名が付いているものの、農業の共同体なだけでなく、行政の下部組織としての位置づけもあった模様である。

当時は電話もコピー機もなく、簡単に連絡や意思疎通が図れなかったので、住民を指導したり、何かを提出させたりする場合には、役場だけでなくその末端組織としての自治会の役割が大きかった。役場の末端組織はこの報効農事小組合だけではなく、他にもいろいろあったようだが、基本的にはこれが報効農事小組合→常会→振興小組合→集落自治公民館と継承されていき、現在の自治会が形成されてきた模様である。

さて、この報効農事小組合が、何に対して表彰を受けているのかというと、実はそれがよく分からない。それぞれの主文を書き出してみると、
  • 報効農事小組合共進会に於いて[…]引続き5ヶ年間甲組一等賞を受けたるを(昭和9年)
  • 報効農事小組合共進会に於いて[…]その成績最も顕著なるに依り(昭和10年)
  • 堆肥増産一斉週間に当たり[…]その効績顕著なり仍て(昭和14年)
表彰する、となっている。3番目はともかく、上2つは「報効農事小組合共進会」が何を競う場なのか不明なため、一体どういう点が優れていたのか不明である。だが、3番目で堆肥増産が表彰されているところから見ると、営農活動が総合的に優秀であること、より実際的には、農産物の生産が計画通りであったことが評価されているのではないかと推測できる。

戦前の賞状にはもう一つあり、それは昭和13年の「窪 納税組合」宛てのものだ。これは、大正15年から10年間、国税の滞納がなかったことを表彰するもの。これも役場の末端としての組織の例であるが、この頃は税金の集金を納税組合が負っていた。集金の手間を約めるための手段でもあり、また脱税を防止する目的もあっただろう。何しろ、サラリーマンの世界ではないので、収入の実態は役所からは直接は見えない。百姓同士の相互監視といっては江戸時代じみているが、この頃は納税は自治会の重要な役割だったのである。

時代は戦後に移る。まずは昭和28〜29年の賞状がなぜかたくさん残っているのだが、この中には戦前と同じく振興小組合が農業共進会で1位を取ったり、村税の納入が表彰されたりというものがある。そして、戦前とは毛色の違う賞状として、貯蓄関係の表彰が増えてくる。

例えば、昭和28年には「窪 振興貯蓄組合」が「農業資金貯蓄の重要性をよく認識せられ全員力を合わせて貯蓄の増強に大きな成果を収め」たということで表彰され、また昭和29年には「窪 部落」が「貯蓄増強運動に協力せられ特に村づくり定期預金の消化において優秀な成績を収めた」ということで農協から賞されている。

この時期になぜ農協(というより農林中央金庫と言うべきか)が懸命に貯金集めをしたのか、そのあたりの事情はよくわからない。基本的には、高度経済成長期にあたり農林水産関係でも資金需要が大きかったことが理由なのだろう。投資の原資は貯蓄であるから、組合員の貯蓄を奨励し、農地や造林の整備を進めたのだと思う。一方で、このあたりから農協の金融機関としての性格が強くなっていくようにも感じる。

さらにこの時期の賞状の特徴的なこととして、何でもかんでも順位がついている、ということがある。例えば、村税の納入は「一等」で、「村づくり定期預金」は「第1位」である。こういうことで他の地域と競争させられていたというのは、今考えると珍妙である。ドンドン進めな時期であり、やたらと競争を煽り、遮二無二に「豊かさ」へ走らされていたのではないかという感じを受けた。

また、この時期に注目されるのは、「窪 婦人会」が「婦人学級に出席優秀」とのことで表彰を受けていることだ。婦人会が婦人学級に出席した、という当たり前のことであるが、どうしてその当たり前のことが表彰されているのか、ということが問題だ。

考えてみれば、ちょうど昭和30年代周辺というのは、農村婦人問題が勃興してくる時期である。農村婦人問題というのは、現代風に言うと「農村における女性の地位向上をどうやって成し遂げるか」という問題なのであるが、その本質は、新しい時代における理想の女性像の模索だったと見受けられる。

近代化以前の農村では、女性は農作業の重要な部分を担っており、例えば田植えが女性の仕事とされたごとく、ある面では男性より優れた仕事人として扱われていたのである。それが、戦争の影響もあるが近代化に伴って地位が低下し、さらに農業の機械化などにより女性が担う部分がサブ的なものとなったことで、女性は農村において確固たる地位を失っていったという歴史がある。また、男性のサラリーマン化によって「専業主婦」が登場してくる都市でも女性の地位は低下しており、女性の地位の面では農村と都市で問題が呼応している。

こうした流れに対応し、女性は農村社会において新たなる役割を模索する必要があった。その答えは未だに出ていないとも言えるが、その模索の取り組みとして「婦人学級」などが盛んに設けられ、とにかく今までやっていなかったことをやってみよう、農産物を商品化しよう、農産加工品を作ろう、といった取り組みがなされたのである。農村におけるフェミニズム運動の先駆者である丸岡秀子が『女の一生』(未読)といった数々の著作を世に問うていったのもこの時期だ。

さて、この後に賞状がよく残っているのが先ほどの賞状群から約10年後の昭和40年前後である(なぜ間が空いているのかわからない)。この時代になっても営農改善共進会の表彰は多い。だが、内容が個別化してきていて、「特産振興」「造林」そして「農協出資」がある。やはりここでも貯蓄(出資は貯蓄とは違うが、実質的には同じである)が組織的に奨励され、他の地域と競わされている状況は変わっていない。昭和43年には、「久保 婦人会」も「農協貯蓄増強運動にあたって[…]貯蓄増強に優秀な成績を収め」たということで表彰されている。農村では一家の収入は農業及び出稼ぎが中心で、女性には独自の収入源が乏しかったはずなのに、どうして婦人会までが貯蓄増強を担わされたのか、正直よくわからない。

またこの時期になると、それまで「窪 部落」「久保部落振興小組合」などとクボの漢字表記に揺れがあったのが、なぜか住民の姓にはない「久保」に統一されるとともに、様々な組織が統合された自治会としての「久保 公民館」に宛名が揃っている。「小組合」制度などは官製で作られたものにも関わらず、行政の方では積極的に解体しなかったようで現在も続いているところもあるが、自治会長と小組合長を別々に選ぶとなると人選も難しく手間もかかるため、「自治会長が小組合長を兼ねることにしましょう」というように実際的な面で組織の統合が進んだようである。

賞状の上では、最後まで別組織として残っていたのは「久保 納税貯蓄組合」で、昭和49年に「昭和45年度以降連続町税の納期限内完納という輝かしい実績」が表彰されている。都市部では既に源泉徴収が中心になっていた時期ではないかと思うが、農村ではまだ組合を作って納税していたというのが面白い。

昭和40年以降というのは、あまり面白い賞状は残っておらず、スポーツの順位のような普通のものが中心となる。唯一の例外は、平成元年に「林業関係競技会川辺地区大会」で「集落除間伐の部」で「久保 集落」が優秀賞を取っていることくらいだろうか。どういう競技会なのか気になるところである。

これで賞状の紹介は終わりだが、全体を通してとても驚くことがある。それは、昭和9年から昭和43年に至る賞状の多くが、「金一封を贈りその功績を表彰します」としていることである。村税の納税ですら「奨励金」が贈られている。さすがに婦人学級の参加にはないが、貯蓄の増強とか、今から考えると「なんでこんなことに…」と訝しむようなことでも金一封が贈られている。

とはいえ「お金では計れない価値がある」などと言い出すのはある程度豊かになった後の話で、経済成長期の価値観というのは、ちょっとしたことを賞するのでも金一封を必要とするようなものなのかもしれない。今、中国人がやたらと現金なのを「中国人はもともと商業民族」などと民族性を持ち出して説明されることがあるが、この賞状を前にすると、それは単に経済の発展段階の話なのだと思わざるを得ない。

また、貯蓄関係の賞状がたくさんあるのを見ると、「日本人はもともと貯蓄好き」だとする民族性の主張も大嘘だと思う。元々農村では現金で貯蓄するという習慣はなかったようだし、江戸にも「宵越しの金は持たぬ」とする考え方があった。近代化を推し進めるため組織的に貯蓄を進めさせたことで、急速に貯蓄習慣が形成されてきたということが実態だ。それは知識としては知っていたが、私はこの賞状を目にするまで、こんな貧しい農村でもここまで強く貯蓄が奨励されていたとは思いもしなかった。

最後に、賞状のデザインについて一言。賞状というと、2羽の鳳凰が向かい合っているものをイメージすると思うが、戦前には(公民館に残っているもののうちには)このデザインの賞状はなく、いろんなデザインがある。そして、昭和26年に鳳凰デザインが登場すると、一つの例外を除き全てが鳳凰デザインになってしまう。この鳳凰の賞状を誰がデザインしたのか知らないが、ともかく賞状界を席巻したことは間違いない。そして瞬く間に、他のデザインの賞状を駆逐し、独占状態を築いてしまった。もしデザイナーが意匠権などをちゃんとしていれば大金持ちになっていただろう。

さて、公民館に残っている賞状、という偶然残った史料を眺めてみるだけで、農村における一つの昭和史を覗く思いがした次第である。それは、普通に言われている昭和史とは少し違う、行政や農協と住民との関係の歴史だ。僅かに残された賞状だけでも、私自身多くの発見があったし、昭和の歴史観を少し修正しなくてはならない気分になってきた。もっと多くの賞状を見ることができれば、さらに面白い発見がありそうなので、機会があれば、公民館に残る古い資料を整理して歴史の遺物を探してみたい。

【参考文献】
鹿児島県における村落構造と自治公民館」1994年、神田 嘉延

2013年9月17日火曜日

ウッガンドンに「氏神」と刻まれているわけ

このあたりの集落には、「ウッガンドン」または「ウッガン様」と呼ばれる土地神のようなものがあって、細々とではあるが集落共同の祀りが行われている。

このウッガンドンの奇妙なところは、(全てではないが)正面や見やすいところに「氏神」と表示されていることだ。氏神信仰は別に珍しくもないが、祭祀の対象に「氏神」と表示するなどということは、このあたり以外では見たことがない。そして、どうしてそのようになっているのか、これまで誰も説明していないよう だから、その理由を考えてみたい。

まず、ウッガンドンは本当に氏神なのか、という基本的なことが茫洋 としていて、「招き入れた神」の意で「内神」なのかもしれないとの説がある。というより、ウッガンドン=氏神としていては意味が通じないものがあるから、 「内神」なのかどうかは別として、ウッガンドンは素直な意味では氏神ではないことは確実であるように思う。

例えば、我が窪 屋敷(「屋敷」は藩政時代の行政区画単位)には「デコンノウッガンドン」というのが祀られているが、これは「大根のウッガンドン」という意味だ。これが 「大根の氏神」では意味が通らない。大根の氏子といったものが想定されない以上、ウッガンドンは氏神ではない。ちなみに、昔はここらでは大根が食料として主食級に重要だったそうだが、隣の原(はる)集落で大根が豊作になったことがあり、それにあやかろうと大根の神さまを勧請(呼び寄せる)して作られたのがデコンノウッガンドンであるらしい。

とすると、氏神でないものを、氏神として堂々と表示していることになる。 いや、そもそも、本当は氏神ではないからこそ、これ見よがしに「これは氏神だ」と主張している気さえする。

そして、このウッガンドンというもの、一体いつからあるのだろう。大浦に今残るウッガンドンは、明治から昭和にかけてつくられた石造の社ばかりであるが、石造のものに変わる前は、窪屋敷の場合は小さな藁葺きの社があったそうである。集落のトシナモン(古老)に聞いてみると、少なくとも昭和の頃にできたものではなくて、それよりずっと前からあるもののようだ。

『大浦町郷土誌』によると、元々、ウッガンドンというのは、年貢負担の共同体たる門(かど)・方限の神だったそうである。藩政時代、鹿児島では百姓を門とか方限という単位にまとめ、これに年貢を納めさせた。納税を何戸かの連帯責任にすることによって、今風にいえば脱税を防止したのである。この制度は、全国的には「五人組」と呼ばれるものの薩摩藩版だ。

そして、この納税共同体のリーダーを務める家を乙名(おんな)と言い、所属する各戸を厳しく指導したという。何しろ、年貢がちゃんと納められなかったら乙名の責任になるわけだから必死である。そして、ウッガンドンの祭祀は、基本的にはこの乙名の家が担ったようだ。墓の相続でさえ面倒なものとして避けられる現在では想像が困難だが、古くより祭祀権というものはいろいろな権能の中でも最も重要なもので、これはある種の権力の源泉でもあった。ウッガンドンを祀るということは、その土地の重要事項を裁定する力を持っていたことの象徴だ。

そういうわけだから、世が明治に改まると、ウッガ ンドンの性格は変わらざるを得なかっただろう。鹿児島では明治10年まで門・方限制度は存続し、その後も形を変えて納税組合の制度は続いたが、乙名などの藩政時代以来のやり方は廃止された。そこで、ウッガンドンの存立基盤は一度揺らいだはずである。これまで大切に祀られてきた神が、直ちに等閑にされることはないとしても、それが依拠していた共同体が形式的には解体されてしまったわけだから、徐々に祭祀が先細っていくのが自然である。

しかし、ウッガンドンの祭祀は今でも続いている。解体したはずの門・方限が、結局は部落(鹿児島では「部落」という言葉には否定的意味はない)という形で自治体となり存立し続けたことが大きな原因であろうが、もう一つ考えられるのは、神社整理・神社合祀の政策による影響である。

鹿児島の神社整理についてはいずれちゃんと調べてまとめたいと思っているが、以前も書いたように、神社整理というのは「神社のヒエラルキー化・合理化・統廃合」を行った明治政府の政策である。これにより、多くの神社が廃止(合祀)されたが、一方では新たに作られた神社もある。その一つが、氏神を祀る神社である。

江戸幕府は、「寺請制度」 といって、全国民が必ずどこかの寺に所属していなければならないとする宗教政策を採っていたが、これの結果、共同体の祭祀は神道式ではなく「氏寺(うじで ら)」とか「氏仏(うじほとけ)」といって仏教式なものになっていることもあった。しかし、明治政府は神道を「国家の祭祀」とし国民をまとめる原理として採用したため、仏ではなく、天皇を頂点に戴く神々を全国民が讃仰する仕組みをつくらなくてはならなかった。

そのために、『古事記』や『日本書紀』と関係のない、つまり天皇と関係づけられない神社を廃止することもやったが、一方では氏神祭祀の強制ということもやったのである。氏神を祀ることは、皇祖を祀ることの基礎と見なされていたわけだ。それまで氏寺や氏仏しかなく氏神を祀っていなかった地域では、この時に急ごしらえの「氏神」が作られたこともあるという。

こういった全国的な流れを考慮すると、明治からウッガンドンが辿った道筋も少し見えてくる。神社整理の際には、記紀には関係がない、自然発生的信仰であった ウッガンドンは淫祠邪教のものとして廃されてもおかしくはなかった。しかし、氏神であればむしろ祀るべきものとされたため、鹿児島の民衆は、「ウッガンド ンは実際は氏神なんです」といってこれを救ったのではあるまいか。

だから、「氏神」であることを強く主張するために、敢えて「氏神」と刻んだのではと考えたい。氏神といっても、それは単に氏子の神というだけの意味で、氏(血族)の神でなければならないというわけではないし、ウッガンドンは氏神だ、という主張は別段こじづけではない。だから、民衆が嘘をついてウッガンドンを残したということでもないが、ともかくも「氏神」であると強く主張しなければならなかったプレッシャーがあったようには思われる。

そうして、ウッガンドンは、氏神信仰という「国家の祭祀」の一端として改めて地域社会に位置づけられることになったのだと思う。そして、太平洋戦争が終わり、氏神を祀らねばならないとする政策も終わりを告げた。ここに、ウッガンドンを存立させてきた制度的基盤は全て解体されたのである。

大浦町では見たことがないが、他の地区ではうち捨てられた氏神の社を見ることがある。人口減少で、もはや祭祀を行う人間がいなくなったという現実的理由で遺棄されたのだろう。ただ同時に、なんとしても祀らなければならないという理由が失われた信仰であることも、それは象徴的に示している。

今のところ、私の周りのウッガンドンたちには遺棄されるような徴候はない。 制度的な後ろ盾を失っても、地域の人間に親しまれてきたという文化的・慣習的な基盤は失われていないからだ。ウッガンドンがなんなのか、本当のところはよくわらないが、それは少なくとも藩政時代から私の先祖に祀られ、この土地の変遷を見守ってきたものだ。こういう昔風の信仰がいつまで続けられるか分からないし、そもそも、何がなんでもこうした祭祀を続けなければならないとも思わない。だが、こういう何気ない、弱々しいものでも残っていくような社会であってほしいと思うし、そういう努力を少しでもしていきたいと思う。

2013年6月19日水曜日

二人の「日羅」——南薩と日羅(2)

坊津の一乗院の創建を始め、金峰山の勧請、磯間嶽の開山など、ありそうもない日羅の事績が南薩に残っているのはどうしてなのだろうか? また、古墳時代という遙かな古代に日羅が本当にやってきたのだろうか?

さて、始めにこうしたことがこれまでの地域史でどのように考えられてきたのかを見てみよう。まず坊津の一乗院だが、一応「我が国最古の寺」というのを触れ込みにしているものの、史学的にはこれは否定されており、せいぜい平安時代、おそらく鎌倉時代の創建と考えられている。本当に古代寺院だったとすれば古い資料にその名前が残っているはずなのに、実際には一乗院(龍巌寺)の名称はどこにも見いだせないのが主な理由だ。よって、日羅が創建したというのは文字通りあり得ない話であると一蹴されている。

次に金峰山の勧請(正確には、蔵王権現という修験道の仏の勧請)だが、幕末に編纂された『三国名勝図絵』において、日羅が勧請したという説を紹介しつつ「時世等の違いがあるので、名前が同じ別の人ではないだろうか」とされている。これ以外の史料に、金峰山の日羅による勧請を考察している記事を見つけられないが、要はあまり信憑性もないので相手をする人がいないのであろう。

まとめると、南薩に日羅が訪れ寺院の創建などを行ったという伝説は、かなり疑わしいものであるために真面目に取り扱われてこなかった、というところだ。これは、いわゆる「弘法大師お手堀の井戸」の扱いに似ている。全国各地に「弘法大師空海が錫杖(または独鈷)で衝いた所から水が湧いた」という伝説を持つ井戸があるが、錫杖で衝いて水を出すということ自体が荒唐無稽であるし、それが事実かどうか考証されることなどほとんどないと言える。日羅伝説もそれと同様の、荒唐無稽の妄説なのであろうか?

ここで視野を広げて他県の地域史を見てみると、日羅の父が国造をしていた熊本葦北を始めとして九州各地に日羅伝説が残っていることに気づく。特に注目すべきなのは国東半島(大分県)だ。国東半島は我が国で最も数多くの、そして素晴らしい磨崖仏が残っているところであるが、この磨崖仏のいくらかが日羅の作と伝えられており、また大分県内の寺院には日羅が刻んだという仏像も多く残る。

また、日羅が創建したとされる古代寺院は坊津の一乗院の他にも九州には多数あり、肥後七ヶ寺を始めとして天台宗の寺院に多い。一乗院は真言宗だが、いずれにしろ日羅の創建として伝えられているのは密教の寺院である。

さらに全国に目を転じると、日羅は愛宕信仰における勝軍地蔵菩薩の化身とされてもいる。愛宕信仰は修験道の一派の信仰であるが、国東半島で磨崖仏を刻んだのもおそらく修験者であることを考えると、日羅伝説は修験道と縁が深い。そして元々修験道は密教の一派として発達したのであるから、密教寺院の創建も広い意味では修験道と関連する事績に含められるだろう。
 
振り返って南薩の日羅伝説を鑑みると、金峰山も磯間嶽も修験道の修行の山であった訳だし、坊津の一乗院も先述の通り密教寺院であったということで、全国的な日羅伝説の傾向と合致しているのである。

こうしたことを踏まえると、各地に残る日羅伝説は、古墳時代の百済の日羅とは無関係であることは歴然としている。ポイントを簡単に述べれば、

  • 日羅は数多くの密教寺院を創建しているが、密教はいわば平安時代のニューウェイブ仏教であり、もし古墳時代に百済の日羅が寺院を創建するとすれば南都六宗のようなもっと古風な宗派であるはずだ。
  • 日羅は自ら仏像や磨崖仏を刻んでいるが、飛鳥時代以前には仏像は工人(技術者)が造るもので、仮に百済の日羅が僧侶だったとしても自ら仏像を制作するのはおかしい。
  • そもそも磨崖仏や修験道は平安時代に生まれたものであるから、古墳時代の百済の日羅がこれらと縁があるわけがない。また日羅作と伝えられる磨崖仏も平安〜鎌倉の作と比定されているものが多い。
というところだろう。実は、こうしたことは既に大分県の史学界で考証がなされており、国東半島に磨崖仏を残した人物が「百済の日羅」とは無関係であることは定説というか常識である。だが、日羅伝説は各地の寺院が権威付けのために野放図に捏造したようなものでもなく、そこに一定のパターンというか、ある種の筋が通っている部分もある。日羅伝説を俯瞰してみると、修験道の行者(山伏)という「日羅」の人物像が浮かび上がってくるような気もするのだ。とすると、磨崖仏を刻んだ「日羅」と呼ばれる人物が別にいた、ということなのだろうか?

これに対しては各種の仮説が呈示されている。例えば、そういう特定の人物はいなかったが、各地の磨崖仏などが「日羅」という有名人に奇譚的に託されたのではないかと考える人もいるし、「日羅」という「百済の日羅」と同名の修験者が実際にいたが、時が経るにつれ「百済の日羅」と混淆していつしか同一人物になってしまったのではないか、という説もある。

こうした説のどれが正しいかは、もはや状況証拠的には決められない。真相は、闇に包まれている。しかし、日羅伝説が成立したと考えられる平安時代、磨崖仏なり仏像なりを400〜500年も前の古墳時代のものとして「捏造」するのはさすがに大それているし、何かのきっかけがなければ日本書記にしか記録が残っていない「日羅」が復活するとは考えにくい。

とすると、説として魅力的なのは、平安時代あたりに各地で磨崖仏を刻み、寺院を創建した「日羅」と名乗る人物が実在した、というものだ。つまり、約500年の時を経て、日羅は二人いたということになる。ここではその「日羅」のことをわかりやすく「修験の日羅」と呼ぶことにしよう。「修験の日羅」は、各地の山林を抖擻(とそう:歩きながら仏道の修行をすること)して、あるところでは磨崖仏を彫り、またあるところでは寺院を創建(といっても、多分祠堂を設けるとか、仏像を安置するといった程度のことと思う)したのだろう。その活動範囲は九州一円にも及び、各地に「日羅」の事績を残したと考えられる。

どうしてこの「修験の日羅」の記憶がなくなり、やがて「百済の日羅」に置き換わってしまったのかはよくわからない。想像するに、『日本書記』に日羅の記述を見つけた人が自らの権威を高めたかったのか、「うちは日羅創建の古寺である」と誇り、それが連鎖反応的に広まったのかもしれない。そうしたことが続くうち、「日羅」というのが一種の超越的な、古代のスーパーマンとしてアイコン化し、実際には「修験の日羅」にも関係がない所にまで日羅伝説が広まっていったということがあるのだろう。それが勝軍地蔵が日羅の化身と考えられるに至った理由であるように思われる。

そのように考えると、この南薩の地に「ありそうもない話」である日羅伝説が残っているのは、まるきり荒唐無稽なこととは思われない。つまり、「百済の日羅」とは無関係であっても、「修験の日羅」が実際にここへ来て、一乗院を創建したり、金峰山を勧請したり、磯間嶽を開山するといったことをやったという可能性はゼロではないのである。薩摩の地には古くから修験道が栄えていたというし、元より修験者=山伏は各地を巡りながら修行をするものであるから、この辺境の地まで赴いてもおかしくはない。

一方で、そうだとすると古墳時代に遡ると思われた磯間嶽や一乗院の歴史が、それよりは随分新しい平安時代以降のものとなってしまうので、古さを誇りたい人には残念かもしれない。しかし、私自身は「古ければ古いほど有り難い」とは思わないし、荒唐無稽な古さを主張するよりも、実際にあったかもしれない過去を想像する方が楽しい。我が家から毎日見ている磯間嶽に、平安時代に大分(か熊本)から「日羅」と名乗る修験者がやって来て、岩山をよじ登り祠堂を設け、そしてまた旅を続けたのだと考えてみたい。彼はその時にどんな大浦を見たのだろうか。土地の人々に何を教えたのだろうか。そういう風に考える方が、私は楽しいのである。

と、いろいろ書いてきたけれど、私はこちらに越して来てから実はまだ一度も磯間嶽に登ったことがないのである。早く磯間嶽に登って、日羅が見たかもしれない風景の1000年後の様子を見てみたいと思っているところである。

【参考文献】
「日羅の研究—「宇佐大神氏進出説」批判(3)—」(『大分縣地方史』第116号所収)1984年、松岡 実

2013年6月17日月曜日

磯間嶽は遙かな古代から信仰された山か?——南薩と日羅(1)

大浦町の南側は、磯間嶽という山が塞いでいる。磯間山とも言うし、もっと親しみを込めて「いそまどん」とも呼ばれる山である。

この山、標高は363mと低いながら巍巍とした威風ある山容を持ち、特に天を衝く山巓(さんてん)はあたかも鬼の頭のような異様な風体をなしている。

また、急峻な岩稜は短いながら本格的な登山が楽しめるといい、山と渓谷社が選ぶ九州百名山(旧版)の一つに選ばれたこともある。この特徴的な山影はほとんど大浦町の全体から望むことができるので、ある意味では大浦町の象徴ともいうべき非常にモニュメンタルな山である。
 
磯間嶽の山頂には、かつて磯間権現という社があったのだが、磯間嶽は日羅(にちら)という人が敏達天皇12年(583年)に開山したという伝説を持つ。この場合の「開山」とは登頂して祠堂を設けたことをいうのだろうが、磯間嶽が今から1400年以上前という遙かな古代、古墳時代から尊崇された山だとすると驚くべきことである。

しかし古墳時代というのはさすがに古すぎる。ほとんど歴史を無視したような古さである。本当に、そんな遠い昔に開山された山なのだろうか。また、磯間嶽を開山した日羅という人物は何者なのだろうか。そうしたことは、これまで真面目に考証を受けたことはないようなので、この機会に少しまとめてみたいと思う。

この日羅という人物、知名度は極めて低いが、古代史の中でも大変に興味深い存在である。彼は熊本(葦北)の国造の子であったが、百済の高官であった。百済では達率(だちそち)という位にあったといい、この達率は百済の官位第2位で定員が30名であったそうだから、今で言うと大臣級のエライ人である。

葦北に父を持つ日羅は、元々百済に生まれたのか、熊本から百済に渡って高官に上り詰めたのか、そのどちらなのかは分からないけれども、ともかく日本に深い縁を持っていた。そのため、朝鮮半島情勢を憂えていた敏達天皇はこの日羅を外交顧問として日本へ招聘した。百済の王は当初日羅の渡日を首肯しなかったが、日本からの使者の強い要請を受けて承認。その代わり、大臣級の渡航ということで当然の待遇だったのだとは思うが数々の部下も同時に来日させた。

この頃の日本は、朝鮮半島の権益を失いつつあったタイミングで、また新羅の領土拡張策などを警戒しており、朝鮮半島への強攻策を検討していた模様である。敏達天皇はこうしたことから日羅に朝鮮半島の諸国家への対抗策を諮問する。それに対し、彼は極めてまっとうだが、一方で百済に不利な建白を行ってしまう。そしてなんと、その廉(かど)で百済からついてきた部下に暗殺されてしまったのである。百済王は、百済の内情を知悉していた日羅を元々殺すつもりで日本に送ったのであろう。天皇はこの暗殺を遺憾とし、百済からついてきた部下たちを死刑にして日羅は丁重に葬ったという。敏達天皇の12年、西暦583年のことであった。

日羅は、(日本書紀には記載がないが)伝説によれば聖徳太子の師でもあったといい、百済から招聘されながら日本で部下に暗殺されるというドラマチックな生涯と、実は後世にも大きな影響を与えていることから、これまであまり注目されてこなかった人物ながら、古代史の重要人物といってもよかろうと思う。

そして、日羅は実は南薩にも深い縁を持つ。我が国最古の寺(かもしれない)、との触れ込みの坊津の一乗院は同じく583年に日羅が開基したといい、金峰山も日羅が大和の金峰山から勧請(かんじょう:今風に言えば、金峰山の”支店”を作るような感じである)したものという。遙かな昔、この辺鄙な南薩に日羅が本当に来たのだろうか?

ちなみに、鹿児島には南薩の他にも慈眼寺清泉寺も日羅が建立したものという伝説がある。慈眼寺は一乗院宝満寺とともに「薩摩三名刹」と謳われた寺であるが、薩摩三名刹のうち2つもが日羅建立の伝説を持つわけで、それだけでも鹿児島県の歴史に興味を抱く人はこの日羅に注目すべきである。一方で、日羅が百済から日本へ渡航して暗殺されるまでの短い期間(しかも古墳時代)に、この辺境の地に赴き、いくつもの寺院を作るというのはありそうもない話である。しかしその「ありそうもない話」が、鹿児島、そしてこの南薩に数多く残っているとすると、その理由を考究していくのも一興だ。

と言うわけで、その理由を自分なりに考えてみたのだが、長くなったので次回に書くことにしたい。

【参考文献】
『日本書紀 下(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2013年6月6日木曜日

限界集落の「滅びの美学」

今年初めに出された本を読んだ。

幸せに暮らす集落―鹿児島県土喰集落の人々と共に―』。著者はジェフリー・S・アイリッシュさん。米国生まれのエリート、にもかかわらず甑島で漁師をした後に南九州市の川辺に移住したという破天荒な方である。

ヘビー級に変わっている著者のことはさておき、少しだけ本の紹介をしよう。本書は、平均年齢80近く、高齢化率89%という限界集落である土喰(つちくれ)の日常をエッセイ風に描いている。だがそこには幸せな暮らしがあるという。

この本のことを知ったとき、「どうしてそんな集落で幸せに暮らせるのだろう?」と思った。増える廃屋、荒れる農地、都会から帰ってこない子どもたち、老いゆく自分自身。このまま朽ちていくことがわかりきった社会。将来への希望がないところに、どうして幸せな暮らしがあるのだろうか。

本書は、「それでも人間は幸せに暮らせるんだ!」と主張する本ではないし、そもそも何か教訓的なことを述べようという本でもない。ただ、何気ない集落の暮らしを描いているだけで、特にこれといった事件が起こるわけでもない。海外からの移住者ながら小組合長(自治会長)になった著者のささやかな経験が述べられているだけだ。

だが、その行間には人間社会への深い洞察がある。どうして土喰のおじいちゃんおばあちゃんたちは幸せなのか、ということは特に説明もされないが読んでいれば明らかなことで、良好な、しかし馴れ合いではない人間関係、デイサービス等には頼るが精神的に自立した生活、狭い畑を耕し収穫を喜ぶ心。そういったことが集落の人たちの幸せの基礎になっていることが見て取れる。

もちろん、そこに若い人たちが帰ってきて、新しい何かを作り、集落がさらに発展していけばもっと幸せなのだろうが、既に土喰の人たちはこうした「村おこし」を諦めており、静かに滅び行く集落でにこやかに暮らしている。

それに対する著者の考えが本書の最後にあるので引用しよう。
私自身は、土喰集落のような住み心地の良い場所がなくなっていくのは寂しい。半面、ひとりの人間が亡くなるのと一緒で、ひとつの集落がなくなることはとても自然なことでもあると、日々自分らしく過ごしている集落仲間を見て最近思うようになった。(強調引用者)

つまり、本書に描かれる土喰の有様は、一種の「滅びの美学」なのである。滅びを受け入れることで、あくせくせず、日々の暮らしを楽しむことができるのかもしれない。だが、私自身はまだあくせくして高望みをしたい気持ちがあるし、まだ、そんな風に社会を達観することはできない。

一方で、国土交通省が2011年に出した『国土の長期展望(中間とりまとめ)』によると、
  • 日本の人口は今後100年間で100年前(明治時代後半)の水準に戻っていく可能性。この変化は千年単位でみても類を見ない、極めて急激な減少。
  • 国土の大部分で人口が疎になる一方、東京圏等に集中が起きる。
という空恐ろしい、が極めてありそうな予測がなされており、もはや小集落の消滅は既定路線である。私たちの暮らす久保集落の将来はどうか、というと、高齢化と人口減少の実態を踏まえると久保集落どころか大浦町自体が消滅するおそれもある。いや、日本全体の過疎地がそのような危機に直面している。

しかし消滅の淵に立ったとき、誰でもが土喰集落のお年寄りのように幸せに暮らせるのかというと、心許ない。良好な社会というのはフラジャイルなもので、田舎ならどこでも仲の良い隣人関係があるのかというとそういうわけでもないし、表面的には和気藹々とした地域が、ふとしたきっかけで日頃の不満が噴出して大混乱する時もある。

気持ちよく暮らす、ということは人生でもものすごく大きなことなのであるが、これを達成するためには地域に暮らす人間全てが「気持ちのよい地域」を作っていく努力をしなくてはならない。村おこしも重要だが、既に滅びの道をドライブしている我々は、将来への希望のない場所でいかに楽しく生きるか、を考えなくてはならないのかもしれない。

そういう意味では、本書の読後感には少しだけ『夜と霧』に近いものがある。アウシュビッツの収容所、圧倒的な絶望の中でも失われない人間性という最後の砦——。ユダヤ人虐殺という極限状況とありふれた「限界集落」を比べるのは大げさかもしれない。だが、今後の日本ではナチスが殺した数よりも、もっと多くの人口が失われていくのである。その中において、どうやって毎日を楽しむかということに自分としても取り組んでいきたいと思う。

2013年1月23日水曜日

謎だらけの行事:鬼火焚き

1月20日、雨で延期になっていた「鬼火焚き」が行われた。

鬼火焚きは、全国的には「どんど焼き」などと呼ばれている小正月の行事の、九州西南部を中心にした呼び名。呼び方はともかく、日本全国の田舎の風物詩であろう。

この地域では80年前くらいまで鬼火焚きをしていたのだが、延焼してどこかの家が火事になったとかで長く中止されていたらしい。それを十数年前に復活させたものが現在の鬼火焚きで、特段伝統行事的な儀式もないし、由緒あるものではなさそうだが、豪壮に火が燃えるイベントというのは、ただそれだけで面白い。

そもそも鬼火焚き(あるいはどんど焼き)というものは、その由来があれこれと言われてはいるものの、基本的には起源も、日本全国に広まった理由も謎である。全国各地の土着の信仰と習合したために、その意味合いも各地で異なっていて、そこに一貫性のある信仰を見いだすのも難しい。鹿児島の鬼火焚きの場合は、歳神と共に来た悪鬼を祓うという意味があるというが、そんな意識は全くないような気がする。

一方で、 なぜかどんど焼きは一般に子どもの行事とされていて、全国的に子どもが主役である場合が多い。といっても、櫓(やぐら)を組んだり準備をしたりするのは当然に大人の仕事なのだが…。伝統の習俗というのは、内容的なところは移ろいやすいが、形式的なところは変わらないことが多いので、「子どもの行事」というのがその謎を解く鍵のような気もする。

ところで、同じ鬼火焚きでもその内容は地域によって様々である。南さつま市金峰町の白川という集落では、大きな櫓を作り、子どもたちがその中で一夜を明かしてから火をつけるらしい。こんな寒い時になぜ野営しなくてはならないのか、その理論的説明を是非聞いてみたいものだ。もちろん、実際にその鬼火焚きも見てみたい。

ちなみに、南薩の鬼火焚きは元は地味な行事だったのが、北薩からの影響で櫓が巨大化していった可能性があるそうだ。うちの集落の鬼火焚きも、復活の立役者は北薩の出身者である。鹿児島の中でもいろいろ変遷がある。古い記録を調べると面白いかもしれない。

ついでに書くと、私が竹林整備をして除伐した竹が、この鬼火焚きでほぼ全部燃やせたのは本当に有り難かった。正直、処分に困っていたので。

2012年9月26日水曜日

島津家と修験道——大浦の宇留島家

宇留島家の看経所
我が家から歩いて2分もしないところに、(今は空き屋だが)宇留島(うるしま)家という家があり、そこは久志地権現と言われ、看経所(かんきんじょ)が残っている。

この宇留島家というのは、この大浦の地で代々島津家に仕えた修験者(山伏)の家であった。鹿児島はかつて修験道が盛んであり、特に南薩は金峰山を中心に修験の文化が色濃かったと考えられる。

鹿児島で修験道が盛んだった理由の一つに、藩主である島津家が山伏を重く用いたことがある。戦国期の島津家では政策や軍事の戦略を立てるのにクジ(御鬮)を使っていたが、クジを引くのは偶然に任せるのではなく神慮を得るためであり、宗教的な力が必要だった。そこでクジを引いたのが、その作法を心得ていた山伏だった。

戦の進退をクジで決めるというと、現代的観点からは非合理的に見えるが、私はそうでもないと思う。最適な戦略・戦術は事後的にしかわからないし、戦において冷静な判断は元より難しい。ましてや撤退の決定は非常に困難だ。また異論の出やすい戦場において、神慮の判断ならば反対派も黙らざるを得ない。そう考えると、重要な判断をクジに任すというのは、一見迷信的に見えて実は理に適っているのかもしれない。

しかも、山伏を軍事に活用するというのには実利もあっただろう。というのも、修験者は山林を跋渉して各国を渡っていたので、他国の事情にも詳しく人脈もあり、いわば一種のスパイとして活躍していたらしい。戦国期の関所とは国境であって、普通の人は自由に往来できなかったが、山伏はこれを自由に通行できた。『勧進帳』で源義経が山伏に偽装するのも、山伏は関所を通行できるという特権があったからである。しかも山伏は山中の行者道によって人知れず他国に移動することが可能で、密書一つ届けるにしても圧倒的に有利だ。

島津家が山伏を家老や老中として迎えたのは、戦勝祈願の霊験を得るためということ以上に、そういう山伏の持つネットワークを活用するためだったのではないかという気がする。宇留島家も土着の人間ではなく、千葉から南薩まで下向してきたらしい。

宇留島家は特に島津忠良(日新斎)の頃に重く用いられたが、それもある戦を契機としてのように思われる。忠良が1538年に加世田の別府城を攻めた際、宇留島十代東福坊重綱は山中で「三洛の秘法」とよばれる祈祷を行い、また忠良自身も久志地権現に籠もって戦勝を祈願した。その甲斐あってか別府城は落城。この戦いで加世田は島津家の支配に入り、同時にここ大浦も島津家の領地に組み込まれたようだ。この祈願の功により、東福坊は久志地権現、磯間権現等の別当職に任じられるとともに神田八町と宝物を下賜されている。

戦国期が終わり江戸時代に入ると、戦がなくなり島津家と修験者との関わりは希薄になっていく。宇留島家も島津家のために祈祷することはなくなるが、戦国期に得た八町(8ha)という広大な水田を経済力の源泉として、大浦でも有数の郷士となった。そして宇留島家は山伏として修行を続け、田畑の除虫祈祷や伊勢講の指導などを行い、庶民のための山伏としての性格を強めていった。

今ではこの地域に修験道の残映は感じることができないが、戦国から江戸期にかけて、修験道文化が色濃かったことは間違いない。修験の山である磯間嶽に向かい、かつて山伏が百姓を指導していたのかと思うと興味深い。

そういえば先日地域の古老から面白い話を聞いた。電話もなかった数十年前、うちの集落では地域の人への伝達事項がある時、合図として区長さん(集落のとりまとめ役)が法螺貝を吹いて知らせたのだそうだ。 これは、山伏がこの地域をまとめていたことの名残なのかもしれない。というのも、東福坊が下賜された神田八町の一部は、うちの集落の水田のようなのである。

【参考文献】
『さつま山伏 —山と湖の民俗と歴史—』 1996年、森田清美
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2012年6月13日水曜日

「大浦ふるさと館」はスモモの穴場?

自家用のスモモが収穫時期だ。

スモモというと「酸桃」という字から連想されるように酸っぱいという印象を持つ人が多く、事実昔のスモモは酸っぱかったらしいが、近年の栽培種は爽やかな甘さで大変美味しい。

ただし、スモモは非常に傷みやすいため、商品として売る場合は完熟する前に収穫することが多い。そのため販売されているスモモはやや酸っぱいものが多いようだ。

ともかく、傷みやすいというのは市場流通の上では致命的で、運んでいるうちに商品価値が下がってしまうようなものは卸売りが手を出したがらないのは当然である。そのため、スモモというと誰でも知っている身近な果物だが、実は他の主要果実に比べ生産量が桁一つ少なく、約2万トン/年ほどしかない。あまり日本産がないキウイフルーツでも3万トン/年くらいあるわけで、実はとても貴重な果物なのだ(※1)。

実際、ネットショッピングだと1キロあたり2000円以上するような高級スモモばかりが見つかるが、普通のスモモを細心の注意を払って冷蔵輸送するのは割が合わないためだと思う。そういう事情から、安くて美味しいスモモは産地でないと手に入りにくい。

しかも、スモモは山梨・和歌山・長野・山形の4県で生産量の約8割を占めており、全国で栽培可能なのにも関わらずなぜか産地がかなり偏っている。そんな事情から、スモモは多くの人に身近に感じられながら、実際にはほとんど食べられない果物、という不思議な存在だ。

しかし、ここ大浦町では以前スモモ栽培を奨励して苗を配ったことがあるとかで(※2)、多くのスモモが栽培されているらしい。そのため、地元の物産館(大浦ふるさと館)ではシーズンになると1キロあたり250円というかなりの低価格でスモモが売り出されるという。地元の人はこの低価格を当然と思っているが、実はここはスモモの穴場なのではないだろうか。

私も、自家用やおすそわけで消費できない分を「大浦ふるさと館」で売っているが、なかなか市場流通しない樹上完熟・無農薬栽培のスモモを一袋(500g)150円で出している。樹上完熟させたスモモの美味しさは格別で、自分でいうのも何だが1キロあたり300円というのは相当にお買い得だと思う。本当に「大浦ふるさと館」がスモモの穴場として情報通に知られるようになったら面白いのだが。


(※1)ちなみに、以前ビワのことを「全国的には希少」と書いたが、ビワの生産量はさらに桁一つ少なく、5000トン/年くらいである。ビワは暖地でないと育たないのだが、スモモは日本では比較的どこでも栽培可能であることが、この差を生んでいると思う。しかしスモモと同様に傷みやすいビワの場合は、輸送に有利な大都市近郊が産地となっているのに、スモモの産地はそういうことはなく、どうして本文中の4県が産地になったのか不思議だ。

(※2)間違っているかもしれない。未詳。

2012年4月28日土曜日

南薩にツゲがたくさん植えられている理由

畑の隣に植えられているツゲの木
家の周りでは、よくツゲ(黄楊、柘植)の木を見る。庭木にも多いし、畑にも植えられている。このあたりでは、防風林として植えられるイヌマキに続いて多く植えられている木だと思う。

どうしてツゲの木が植えられているのか。それは、ツゲの木は換金性が高いからである。ツゲの材は稠密で堅く、弾力があって美しいことから、将棋の駒や印材、櫛の材料となってきた。特に櫛は、「薩摩つげ櫛」という江戸時代からの伝統的工芸品があり、ツゲ櫛の中でも最高級品なのである。これは、南薩の気候がツゲをより稠密に堅牢に育てるのに適していることによる。そのため、鹿児島のツゲの木は「薩摩つげ」のブランドで高値で取引され、14cm径で約4万円、15cm径で約5万円くらいの相場があるらしい。

換金性が高く相場が安定していて、また生育に15〜20年しかかからないことから、かつてツゲは一種の貯蓄として機能していたという。女の子が生まれると、庭にツゲの木を植えて、成人の頃に切って結婚資金の足しにしたという話がある。ツゲの木は病害虫がつきやすく、山の木のようにほったらかしで育つというわけではないが、庭木なら継続管理が容易だし、保険や貯蓄の金融システムがなかった時代には貴重な貯蓄法だったと思う。

もちろん今の時代にはそういう植えられ方はしないし、櫛や印材の利用も減ってきているけれど、薩摩つげは工芸材として優れているため、パイプオルガンや古楽器などの修復のための部品、またリュートの一部など楽器の材料としての利用も出てきているらしく、新しい活用法がこれから出てくるかもしれない。

ここ大浦町では農家の副業的な植えられ方が多いが、同じ南薩でも、指宿や頴娃ではツゲの産地として今も大規模に生産されている。私も、気の長い話ではあるが、できればツゲの木を山に100本ほど植えてみたいと思っている。

というのも、庭に植えられていたツゲを、窓辺の日当たりをよくするため切ってしまったからだ(換金はしていない)。樹齢は数十年を越えていたので、もしかすると貯蓄として植えていたものかもしれないと、後で思い至った。罪滅ぼしというわけではないが、庭にツゲの木があったという記録を遺したいのかもしれない。築百年近くの古民家だから、庭木を一本切るのも、よく考えなければならない。


【参考】森業・山業 優良ビジネス先進事例ナビ「薩摩つげをめぐるある事件 木材じゃなかった薩摩つげ!?

2012年4月10日火曜日

ひっそりと存在するタブノキの巨木

近所になんとなく気になる場所があった。県道のすぐそばだが、ちょっとした土手の上に何かがあるような気がしたので、ある日思い切って行ってみると、そこにはとても大きなタブノキ(椨)があった。

外からは、こんな大木が隠れていようとは思いも寄らない場所である。堂々とした巨木が突然姿を現し、すっかりびっくりしてしまった。

樹の下には石造りの社と、明和年間に建立された古い墓石群、それからさらに古そうな五輪塔があり、幽邃な雰囲気である。

私は巨木が好きでいろんな巨木を見てきたが、「ここに巨木があります!」というアピールが樹からも人間(の造作物)からもあるのが普通だ。こういう、自己主張せずひっそりと存在している巨木は、珍しい。

説明板なども何もなかったが、調べてみると、これは「原(はる)のタブノキ」といって「かごしまの名木2001」にも選ばれており、幹周8.9mはタブノキとしては日本で五指に入る。樹齢は300年という。十分に注目される価値のある樹である。

原集落の方に伺うと、「確かに立派な樹だけれど、あそこは怖いから私は行かない」とのことだった。確かに墓石はあるし、ただならぬ雰囲気もあるので、怖いから行かないという気も分かる。また、タブノキは古来神木として祀られることも多く、人を畏れさせる何かがあるのかもしれない。

それにしても、こんな立派な樹なのにもかかわらず、市や県が何の紹介もしていないのは少し残念だ。私も「なんとなく気になる」という不思議な感覚がなければ、ずっと知らずに過ごしていたかもしれない。地元の社ということで、おそらく私有地にあるためという事情もあるのだろうが、説明板の一つでも付けたらよいのにと思った。

ただ、県はこの樹に無関心というわけでもないらしく、足下には近年樹木医によって行われた治療記録の立て札がある。樹木医は秋元智雄氏。指宿で造園業を営みつつ、(女流ならぬ)男流のいけばな環境教育のインストラクターなどにも取り組んでおられる多才な方のようだ。機会があれば、この樹について語り合ってみたいものだと思った。

2012年1月14日土曜日

cafe & gallery poturiへ

家族で、南さつま市加世田市街地にあるcafe & gallery poturiへ行く。

poturiは、登録有形文化財になっている旧鰺坂医院という昭和初期の洋風建物を改装して営業している、おしゃれなカフェ。

店内にはこぢんまりとしたギャラリーが設けられ、定期的に雑貨やアート作品の展示・即売のイベントが催されている模様。来店した際は、「七然窯 馬場朋成展」が開催中だった。

七然窯については未詳だが、近くの吹上町で営まれている窯のようだ。素朴な味わいの焼き物で、一輪挿しやティーセット、またちょっと変わり種で蝋燭立てなど可愛らしい。

北欧の家具だとか、有名なデザイナーの作品だとかで空間を飾るのはいいし、それはそれで一つの価値があると思うけれども、地元の素敵なモノでおしゃれに演出ができるのであれば、おなじおしゃれでももっと意味があると思う。

注文し運ばれてきたケーキセットのケーキも手作りらしく暖かい味わい。コーヒーは鹿児島市中山町のnest coffeeの豆を使っているようだ。

古びた洋館という風情がある店内には、ギャラリーの他にもおしゃれな雑貨が置かれ、つい手に取りたくなる雰囲気。移住する前は「田舎にはおしゃれなカフェなんてないだろうなあ」などと尊大なことを考えていたが、美しく、居心地のよい空間を作ろうとしている方はどこにでもいるものなのだと思い直した。

■七然窯 馬場朋成展
2012年 1/7(土)〜1/29(日) 期間中:水曜日お休み

2012年1月11日水曜日

向江新一さんと笠沙町の名勝巡り

今日は、知人の紹介で南さつま市笠沙町に住む向江新一さんを訪ねた。

向江さんは、関西で左官のお仕事をされていたが、10年前に故郷である笠沙町に戻ってこられ、代行業を営む傍ら地域興しに奮闘されている熱い方。

名刺には「鹿県関西総連合笠沙会名誉会長」「笠沙育成会会長」「現代アート写真家」と並び、紹介してくれた方が「いろいろやっている面白い人」と評していた通り。

ホンの挨拶だけと思っていたのだが、「ちょっと案内してあげるから」と言われ車に載せてもらうと、なんとそこから3時間以上も笠沙町の名所を巡って頂いた。

海幸彦と山幸彦が喧嘩したという伝説を持つ仁王崎を出発し、大当石垣群の里、東シナ海を臨む高崎鼻笠沙恵比寿、九州最西南端の絶景野間岬、皇孫ニニギノミコトが宮居を置いたという伝説を持つ宮ノ山遺跡、沖秋目島を望む景勝の地後藤鼻を巡り、笠沙町を一周した格好。また、薩摩型和船の最後の職人である吉行 昭(よけあきら)さんの工房にも案内していただいた(2012年1月15日まで笠沙恵比寿で企画展「薩摩の船 船大工と伝統技術展」が開催中)。

そして、写真家ならではの視点で、名所旧跡ならずとも眺望のよい場所で停車してくれるという心遣いも。普通の観光旅行ならこれだけで数千円は取られるだろうというメニューで、すっかり恐縮してしまった。

ちなみに、昼食は漁港野間池にある「海鮮どころ野間池」で刺身定食をごちそうになった。網元が経営するというその店の刺身、その圧倒的な新鮮さには驚いた。

向江さんは笠沙町に戻られてからの10年間、人を繋ぎ、地域の資産の重要さを説き、地道に活動されてきたということ。そして、ようやく行政も動き始めたという。

「田舎の人は、いままでの方法を変えようとはしない。都会の考え方を受け入れてくれないんだ。どんどん衰退していく地域をなんとかするためには、新しい方法が必要だと思うんだけど」向江さんはそう語り、苦笑いした。

もちろん、簡単に昔のやり方、生き方を捨ててこなかったからこそ、この九州の端っこに伝統や名勝旧跡が残ってきたのだと思う。しかし、人口が減少し、経済活動が停滞している現代、昔の生き方を保存していく力はもはやこの地域にはないのかも知れない。

木に竹を接ぐような地域振興をしては意味がない。神話や伝統技能、郷土の歴史と文化を基盤とした地域興しをしていくことが必要だ。多くを語らなかったけれども、向江さんの理想もそのあたりにあるのではないかと感じた。

なお、冒頭の画像は向江さんの現代アート作品。「これ持ってって」と気軽に渡されたが、その真価は残念ながら私には分からない。惜しいことに、題名を伺うのを失念した。