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2023年9月21日木曜日

指宿枕崎線の「悪あがき」

「JR指宿枕崎線を活かしたまちづくりプロジェクト」というものに参加することになった。

これは、「指宿枕崎線を活用してなんか面白いことをやろう」という企画である(南薩地域振興局からの委託事業で中原水産(株)が実施する)。

なお、「指宿枕崎線」は鹿児島中央駅から枕崎駅までの路線だが、これは特に「指宿〜枕崎間」を活かそうという話である。

それで、先日開催された第1回の会議に参加してきた。第1回は基調講演の後に顔合わせがある程度だったが、面白かったのは会議後の懇親会。ここでは書けない鹿児島の公共交通にまつわるタブー(?)が次々と俎上に載せられていて、「これを会議でやればよかったのに」と思った次第である。このプロジェクト、実は内心「アホか」と思っていたのだが、そうではなかったようだ(←関係者のみなさん、すみません)。

というのは、「JR指宿枕崎線を活かしたまちづくり」という概念が、まずちょっとおかしい。普通、鉄道はまちづくりそのもので、鉄道の駅を基点として街が形成されていくのが普通だ。「まちづくり」に鉄道を活かすならわかるが、「鉄道」をまちづくりに活かすとはどういうことなのだろう。これは要するに、「指宿枕崎線は街の役に立っていないから、街の方で指宿枕崎線を活かそう」という倒錯した考えなのである。

このような倒錯が生じているのは、指宿枕崎線(の指宿〜枕崎間)が非常に不幸な路線であるからだ。実は、これは需要に応じて開通した路線ではないのである。詳しいことは聞けなかったが、どうやら当時の政治家が「鉄道をひっぱてきた」という実績をつくりたいために無理に鉄道を枕崎まで延伸させたものらしい。

その時の大義名分は、「薩摩半島に環状線を!」ということだったとか。当時はまだ南薩線(伊集院〜枕崎)があったから、指宿〜枕崎が開通すれば、薩摩半島を鉄道で一周できるようになる、ということだったらしい。しかし指宿と枕崎は相互に交通する意味があまりない地域で、人口も少ない。沿線上はさらに少ない。環状線の意味は大都市の周りを回ることにあり、薩摩半島を一周する人は誰もいないのである。だから開通してたった5年で(!)、廃止の検討がスタートした。鉄道だけにすごいスピードだ(笑)

そのうち南薩線が廃止になって(昭和58年)、環状線でもなくなった。今年は指宿枕崎線全面開通60周年、という記念の年であるが、そのうちの55年が廃線の危機にあったという、ベテランの赤字路線が指宿〜枕崎区間なのである。

実際、先日(9月6日)、JR九州が線区別の利用状況を公表しており、指宿〜枕崎区間の平均通過人員(輸送密度=1kmあたりの1日の平均利用者数)は220人で、九州全体ではワースト3の少なさである。赤字額は3億3700万円/年で、九州全体でみれば中堅程度(!?)の赤字額だが、平均通過人員あたりの赤字額でいうと九州でワースト2である。

【参考】線区別ご利用状況(2022年度)
https://www.jrkyushu.co.jp/company/info/data/senkubetsu.html

公共の交通機関は赤字が常態化しているため、3億3700万円の赤字というのがピンと来ないかもしれないが、この状態が10年続けば合計33億7000万円。これだけのお金がJR九州から南薩に投下されることになる。有り難いといえば有り難いが、このお金をもっと有効な事業に振り分ければ、そっちの方が沿線住民にとっても嬉しいかもしれない。

というのは、このような赤字が続いているのは、当然利用が低迷しているからで、先ほども書いたように指宿と枕崎は相互に交通する意味があまりなく、わずかな高校生の通学需要があるに過ぎない。なんと通勤定期は1名しか購入していないそうである。指宿〜枕崎間は、生活路線としては不要というのが残念ながら明白である。

そういうわけで、私としては「地域住民の利用が増加することがありえない以上、廃止はやむを得ない」という立場である。むしろズルズル延命するよりも、JR九州にも地域にも余力があるうちに廃止した方がいいような気さえする。今なら、廃止にあたってJR九州からいろいろ引き出せるかもしれない。長い目で見れば何十億円ものお金が浮くわけだから、少しくらいサービスしてもらえそうである。

ということで、私はハナから指宿枕崎線(の指宿〜枕崎区間)には価値はない、と思いこんでいたのであるが、やはり詳しい人の話をじっくり聞いてみると、そうでもないことがわかってきた。

先述の通り、鉄道はまちづくりそのもので、その存在には地域住民の人生と財産が関わっている。例えば、東京である路線が廃止になったとすると、その沿線に住んでいた人の多くが通勤難民になり、また不動産価格がガタ落ちになって大混乱になるだろう。当然、鉄道が新しくできるとなればその逆のことが起こり、人々の生活や財産は一変する。よって鉄道は政治家の活動と密接に関わっており、「鉄道と政治」はこれまで華々しい(?)話題を提供してきた。

これは廃線の危機にあるような路線でも同じで、とっくに誰も使わなくなったような路線すらも「廃線絶対反対!」の運動が行われるのは、住民の自発的運動というよりは、路線存続を政治的手柄としたい政治家の策動の結果ということは珍しくないのである。 

ところが! 指宿〜枕崎区間の場合、こういうややこしい「政治」は一切無いらしい。指宿〜枕崎区間はあまりに寂れているため票田にならないからか、それとも廃線の危機が55年も続いたおかげ(?)だろうか。もちろん、住民からの関心も薄い。こういうことは、普通ならば弱みなのかもしれない。だが、廃線間近で「悪あがき」したい、というこのプロジェクトにとってはこの上ない強みだろう。

というのも、指宿〜枕崎区間で、どんな「悪あがき」のみっともない活動をしても、結果うまくいかなくて廃線になってしまっても、それほど大きな問題にならないからだ。それどころか、変な「政治」が登場しないことは、廃線すらもスマートに進められる可能性がある。経営が行き詰まってやむなく廃線にするのではなく、日本の廃線のモデルとなるような、「先進的な廃線」がここで実現できるかもしれない。こういう夢想ができるというだけでも、指宿〜枕崎区間は面白い路線ではないだろうか。

「JR指宿枕崎線を活かしたまちづくりプロジェクト」は、来年の1月までに4回会議をして、何をやるかをまとめるそうである。私が考えていることは主催者側とはちょっとズレているかもしれないが、俄然楽しみになってきたところである。

2023年4月7日金曜日

「政治」から遠ざかってしまった選挙

鹿児島県議会議員選挙である。

が、私の住む「南さつま選挙区」は前回に続き無投票である。投票に参加できないどころか、選挙そのものがないのは、民主制の前提を満たしていないと思う。

全国でも、今回の統一地方選挙では立候補者の4人に1人が無投票当選で、4割弱の選挙区で無投票だったそうである。もはや日本の半分近くの地域で、選挙という枠組みが機能していない。

この由々しい事態を受け、立候補者を増やすために「議員報酬を増やそう」「政治への関心を高めよう」といった動きが報道されている。

しかし鹿児島県議の議員報酬は決して安くなく、全国的に見たら平均程度の月額78万円だ。市町村議会議員の報酬はともかく、県議ともなれば地方の水準では十分な報酬になっている。

また政治への関心については、若い人を含め、少なくともここ30年では今が一番高いと思う。それは日々の暮らしが政治によって脅かされている実感があるからだ。少なくとも政治がどこか遠い世界の話だった時代とは違い、今では我々の懐にまで「政治」が手を伸ばしつつある。

であれば、県議選も多くの立候補者が犇めいていてもおかしくない。それなのに現実は、鹿児島の21選挙区中の7選挙区で立候補者が議員定数を越えなかったのだ。

なぜか。少なくともそれは「政治への関心の低さ」だけでは説明できないことは確かだ。無投票の選挙区に住む一人としてちょっと考えてみたい。

県議への立候補者が少ないのは、第1に、市町村合併の影響があるだろう。

県議というのは、市町村議員が目指す場合が多い。だが市町村合併によって自治体の数がかなり減って、当然に市町村議会の数が減ったため、市町村議員は激減した。

例えば南さつま市は1市4町が合併してできた市だが、旧町時代はそれぞれ20人くらい市議・町議がいたので、計100人程度議員がいたと思う。それが合併後には約20人になったわけだから、議員数は5分の1になったことになる。

このように、県議に立候補する可能性が高かった市町村議が減ったことが、県議の立候補者が少ないことの第一の理由であると私は思う。

第2に、市議から県議への鞍替えが減ったことが挙げられる。

平成の大合併の前は、鹿児島の場合は人口1万人程度の「町」が多かったように思う。このサイズだと、町議になるには200票くらい入ればいい。そしてこの時代は、集落の自治会長が町議に立候補するのが定番だった。200票というと、自分の所属する集落の人たちを中心に、知り合いが投票してくれれば当選できた数だ。

だからこの頃は、自治会長をやるような、人付き合いがマメで少し声が大きなオジサンが、町議に立候補するものだったのである。ついでに言えば、自治会長そのものが町議へのステップの一つと見なされていたので、町議を狙うような人が率先して自治会長を担ってくれていたという側面もあったと思う。

しかし市町村合併によって選挙区が広くなると、当選ラインは500~1000票程度へと上がった。都市部の人から考えると500票も十分少なく感じるだろうが、500票になると直接の知り合いだけでは集められない規模になる。どうしても不特定多数の人に訴えなくてはならない。そうなると、「人付き合いがマメで少し声が大きなオジサン」程度では市議にはなれない。そういうわけで、市町村議員になる人はかなり減った。

結果、市町村議も定数がギリギリ(無投票の時も散見される)であるから、市議から県議になろうとするインセンティブが今はない。市民としても、後援している人が市議から県議になろうとするのを応援しづらい。その人が鞍替えするせいで市議選が無投票になるかもしれないのだから。

第3に、今の若い人は従来の選挙のやり方に意義を感じてない、ということがある。だから若い人が立候補しない。従来型の選挙のやり方の定番は、「辻立ち」「選挙カー(街宣カー)」「電話作戦」「ガンバロー集会」といったもので、これらは今でも票集めの活動としてある程度有効だが、政治に関心を持つ若い人はこうした活動を行う気になれない。

「辻立ち」は選挙期間以外でも行われ、街頭で「みなさんおはようございます! いってらっしゃいませ」などと元気よく声をかける活動。これで道行く人からの支持が得られる可能性はわずかだが、後援会のメンバーにとっては「〇〇さんも頑張っているんだから、我々も応援しなくては」という気持ちになる重要な活動である。というか「辻立ち」を疎かにすると後援会から「最近〇〇さんは地域に目が向いていない」「天狗になっている」などと批判されることもしばしばだ。

「選挙カー」は選挙期間中のみ可能で、いわゆる「連呼行為」という名前などを繰り返すことのみが走行中に認められている。これは街の人にとっては迷惑以外の何物でもない。しかし特に田舎における選挙においては、「この辺りには選挙カーすら来ない」という声はよく聞かれる。田舎では、地域をせめて一回りするくらいのことはします、という意思表示として受け取られていると思う。ただし都会での意義はたぶんほぼない。

「電話作戦」は、選挙では戸別訪問が禁止されているため、電話で「〇〇さんへの投票をよろしくお願いします」と後援会メンバーが呼びかけるものである。しかし最近の若い人は電話という手段を好んでおらず、できれば出たくないものと考えている節がある。また「電話作戦」は政策を訴えるでもなく、ひたすらに人脈を頼りにするものであるから、人脈の形成途中である若い人にとっては不利である。

「ガンバロー集会」は、決起集会・個人演説会のことを、仮にこう呼んでみた。「ガンバロー!!」という掛け声が特徴的だからである。こうした集会は、今まで挙げたものの中では一番「政治」に近いかもしれない。集会の中では政策を訴えることも稀ではないからだ。しかし多くの「ガンバロー集会」は、「今回の選挙は厳しい戦いだ。一丸となって頑張ろう!」という掛け声のために行われる。候補者の側としては、そもそも集会に出ている時点で出席者を支持者だとみなしているから(だいたい正しい)、その場にいる人に政策を訴えることは必要ではないと思っている。「ガンバロー集会」の目的は、政策を訴えるためではなく、支持者を高揚させ、一体感を抱かせることだ。

これらの旧来型手法は全体として、後援会を中心とした支持者集団を強固にし、そこを起点として露出を増やす活動だと言える。その中では、政策を訴えるとか、現在の政治・行政を批判するといったことは、かえって支持を失う可能性がある行為として忌避される。

今回の鹿児島県議選で、原発の是非や馬毛島のような、政治的な問題について候補者がほぼ沈黙しているのもそのためだ。以前、元SPEEDのメンバーで自民党から参議院議員に立候補した今井絵理子さんが、選挙活動中に記者から「憲法や経済の話は?」と問われ、「今は選挙中なのでごめんなさい」と言ったのは象徴的だ。これは自民党の事情も大きいのだが、野党も含め、有権者の判断が分かれるような問題はできれば触れないでおこうとする傾向はある。

結局のところ、今の選挙は「政治」から遠ざかってしまっているのだ。選挙が政治的であることを避けようとしている、と言い換えてもいい。

私は先ほど「政治への関心については、若い人を含め、少なくともここ30年では今が一番高い」と書いた。政治的な関心が高い若い人を見ていると、一昔前の「人付き合いがマメで少し声が大きなオジサン」などよりずっと真面目に政治を考えている。しかしそういう人にとって、選挙は少々馬鹿馬鹿しく感じられる。政治的な主張をするでもなく、社会の向かうべき道を示すでもなく、支持者との一体感の中で露出競走をするのが今の選挙運動だと。

もちろん彼らとて、いかに選挙が気乗りしないものに感じられようとも、いざとなれば選挙に出るには違いない。そして現実には、多くの人に動いてもらわなければならない選挙運動には、主義主張以前の部分に「政治」があり、はたから見るほど無意味ではないのだ。

しかしいざ彼らが立候補しようと思っても、彼らの考える「政治的な選挙運動」には、まだ多くの人がついてきていないのも現実だ。

例えば、インターネットを使った政治的主張、候補者同士の政策討論会、「ガンバロー!」ではない個人演説会、既存の政党の枠組みとは違う政治活動のやり方、後援会中心ではない選挙運動、といったことが彼らのやりたいことだろうが、実際にそれをやっても、不特定多数の支持が集まるのかどうか、今のところちょっとわからない。やはり「どぶ板」が強い可能性は高い。

ところで、選挙が「政治」から遠ざかったといっても、それは何も今に始まったことではない。少なくとも戦後はそんな感じが続いてきた。

だが、この20年ほどで、政治家に求められる役割はかつてとは違ってきた。かつての市町村議員・県議の役割は、上(国や県)から流れてくる予算の配分を行うことだった。特に高度経済成長期以降は、予算が有り余っている時期があり、そのお金を地域にうまく配分するのが「政治家」の役割だった。

そのために必要な資質が、マメな人付き合いや、分断をつくらないための曖昧な態度であったと言えるかもしれない。そして政治家本人よりも「後援会」の方に活動の本体があり、「神輿は軽い方がいい」と俗にいうとおり、個人の政治的主張よりも、お金の分配を求める地域の総意を代弁することが「政治家」に期待されていた。

もちろん、例えばダム建設予定地となって反対運動が起こったような場所では、こういうわけにはいかず、利害関係の対立を解消する、本来の意味での政治が繰り広げられた。しかし日本の大部分の地方では、そのような先鋭的な政治的対立はおこらず、上から流れてくるお金を大過なく分配しているだけで、それなりに発展してきたのである。

だが周知のとおり、そういうフェーズは過去のものとなった。今の日本は、政治的な問題に向き合わずにはいられない。これからの政治家は、お金を分配するのではなく、負担を分配するという、ややこしい仕事をしなくてはならない。

だから、真面目に政治を考えている若者に選挙に出てもらう他ない。そのために私たちができることは何だろうか?

少なくとも今回の県議選では、少しでも「政治」を語っている候補者に一票を入れることだろう。「政治」から遠ざかった選挙に、もう一度「政治」を取り戻さなくてはならない。

どこかの新聞に書いてあった。今は政治への関心は高いが、不信もまた根深いと。政治への不信があるからこそ、選挙では政治が避けられる。だがいつまでも政治を避けて通っていては、日本社会が変わっていくことはできない。

選挙がもっとまじめに「政治」に向き合うものとなれば、きっと多くの若い人が立候補するのではないかと、私は期待している。

2023年1月25日水曜日

鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか

ボロクソに否定した会議のメンバーに。「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」という記事でお知らせしたように、私は鹿児島県文化協会の「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」に参加している。これまでに2回会合があった。

その会合では、鹿児島県文化協会を今後どうしていくか、どうあるべきかということを話し合うのだが、多くの委員から「そもそも鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という発言があった。

これはなかなか特徴的なことで、その構成員自らが「我々って本当に必要なの?」と疑義を突き付ける組織はそうそうない。

しかしこうした問いかけがあるたびに、「やっぱり必要だよね」という論調に返っていくのもこの会議の特徴かもしれない。その理由は「交流や連携のためには広域組織が必要だから」と集約できる。しかし本当にそうなんだろうか。私が文化協会のメンバーではないからか、どうもここが腑に落ちない。

以下、前回の記事と重なる点もあるが改めて考えてみたい。

まず、市町村の文化協会(以下これを「単位文化協会」と呼ぶことにする)は、そもそも何のためにあるのかというと、最大の存在理由は地域の「文化祭」の開催である。

例えば、南さつま市の加世田では「加世田地域文化祭」が文化の日付近に開催される。単位文化協会の構成メンバーは、短歌の会、演劇団体、コーラスグループ、お茶やお花のグループ、伝統芸能継承グループ、日本舞踊の会などなどであるが、こうしたグループは単独での発表会を行って多くの観客を集めるのは難しいため、合同発表会として「文化祭」を開催するのである。

しかしここでポイントなのは、この「文化祭」は必ずしも単位文化協会の構成メンバーのみが出演するのではない、ということだ。例えば「加世田地域文化祭」では、地域の高校の書道部や吹奏楽部も出演する。また本部は地域外にある文化団体でも、参加を希望すればそれが受け入れられることが普通だ。単位文化協会は「文化祭」の実行委員会である、と考えたらいいかもしれない。

こうした単位文化協会が集まってできているのが、鹿児島県文化協会である。ただしここでも一つ注意が必要である。鹿児島県の各市町村に単位文化協会があるが、鹿児島市には単位文化協会は存在しない、ということだ(ただし合併前の旧町域にはある。吉田と郡山)。

なぜ鹿児島市にはないのか。私にはよくわからない。だが鹿児島市の場合は、同種の団体が割合に多いので、わざわざ異分野の文化団体と合同発表会を行う必要があまりなかった、ということなのかもしれない。発表会をしたいなら、異分野ではなく同分野でまとまればよいからだ。

例えば各地にあるコーラスサークルや少年少女コーラスのグループは「鹿児島県合唱連盟」を構成していて、年に一度宝山ホールで合同の「合唱祭」がある。鹿児島市の場合はこういう「文化団体連盟」の行う発表会が、他の市町村で単位文化協会が行う「文化祭」の代わりになっているのだろう。

なお、鹿児島市にも年に一度の「鹿児島市民文化祭」があるが、これは単一のイベントではなくていろいろな団体がそれぞれに行う発表(日程・場所もバラバラ)を便宜的に「鹿児島市民文化祭」と呼んでいるだけである。

さて、鹿児島市以外の市町村の文化団体は「文化団体連盟」に加入していないかというとそうでもなく、宝山ホールでの「合唱祭」には南さつま市少年少女合唱団も出演している。つまり鹿児島市以外の市町村の文化団体は、「文化団体連盟」と「単位文化協会」に二重に加入しているということになる。もちろん、どちらにも加入している団体、どちらかにしか加入していいない団体、そしてどちらにも加入せずに活動している団体もある。

そしてこの「文化団体連盟」も、鹿児島県文化協会の構成メンバーなのだ。県文化協会は、単位文化協会と文化団体連盟による連携協力のための互助組織である、といえる。

さらには、これらとは別に、単一の文化団体も若干ではあるが県文化協会に加入している。例えば、劇団「夢飛行プロジェクト」、郷土芸能中之町鉦踊り保存会、田の神を守る会といったものだ。

ややこしくなったのでこの状況を図示すると次の通りである。ただしこの図では、文化団体連盟・単位文化協会に加入している団体のみを描いているが、実際には加入していない団体は多い。

これまでの話をまとめると次のようになる。

<鹿児島県文化協会のメンバー>

  • 鹿児島県文化協会は(1)単位文化協会と(2)文化団体連盟(3)単一文化団体の3種のメンバーで構成されている。
  • 「単位文化協会」は各市町村の文化団体で構成されるが、鹿児島市にはない(旧町域を除く)。
  • 鹿児島市以外の市町村の文化団体では、「文化団体連盟」と「単位文化協会」に二重に加入している場合がある。

そして、県文化協会の主要な事業は何かというと、「県民文化フェスタ」の主催と、会誌「文化かごしま」の発行の2つ。「県民文化フェスタ」は県内全域を対象とした文化祭(場所は持ち回り)であり、「文化かごしま」は情報共有のための機関紙である。

なお、念のためいうが県文化協会は公的機関ではなく、県からのわずかな補助は受けているものの、基本的には互助団体である。

こうした状況を踏まえて、「そもそも鹿児島県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という質問を再考してみると、その答えは明らかである。それは「県文化協会は、加盟団体、つまり単位文化協会と文化団体連盟のために存在しており、それらが必要と思えば必要なのだ」ということになる。

「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」のメンバーは、基本的に加盟団体の代表で構成されている(私のような例外もいる)。よってその代表たちが必要と思うなら必要なんだろう。

が! では彼らはなぜ「県文化協会は必要なのか、誰ため、何のためにあるのか」という疑問を抱いたのだろか。その点をちょっと考えてみたい。

前回も書いたように、県文化協会は様々な課題を抱えている。加盟団体の減少、それに伴う収支の悪化、役員の高齢化といったことだ。しかしこうした課題があったとしても、加盟団体が必要と思うならば、「県文化協会を存続させていくためにどうすればいいのか」という議論になるはずで、「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」という論調にはならないはずだ。

そのような発言が出るということは、結局は加盟団体自身が「県文化協会の存在意義がない」と感じていると思わざるをえない。それはおそらく、現在の県文化協会の実態が、会則に掲げられた「県民文化の振興に寄与することを目的とする」との理想と乖離しているためだ。

辛辣な言い方になるが、今の県文化協会は、高齢化した加盟団体の「生きがいづくり」のために存在しているようなところがあり、交流や連携というのもごく一部の関係者間にとどまる。これで県民文化の振興に寄与できているのか、そこが会議のメンバーが突き付けた本当の問いではないか。

とはいっても先述のように、組織の成り立ちから考えれば、県文化協会は広く社会にサービスを提供しなければならない団体ではなく、極端に言えばメンバーが満足すればそれでよい互助団体だ。

しかしこれまでは加盟団体も多く、活動がそれなりに盛り上がって社会になんらかの価値を提供できていた実感があったのだろう。それが、団体数の減少や高齢化によって活動が自己目的化し、何のためにやっているのかわからなくなってきた……といったところかと思う。いくら「県民文化の振興のため」といっても、自分たちの活動が実感として文化振興につながっていると思えなければ、「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」と思うようになってもしょうがない。

そしてその実感のなさの理由をさらに突き詰めていけば、単位文化協会はなんのためにあるのか、というところにまで行きつかざるを得ない。もちろん単位文化協会はたくさんあり、そのおかれた状況は様々だ。我が大浦町の文化協会が2021年、加盟団体数の減少から解散したように解散間際のところもあれば、市町村合併で大きくなり新たな活動を開始しているようなところもある。しかし総じていえば、やはり加盟団体数の減少、役員・メンバーの高齢化、収支の悪化、といったことが共通の課題となっており、活動が低調になっているのが現状だ。

では、単位文化協会の衰退によって県民文化は退潮にあるのだろうか? 

これは簡単に判断ができるようなことではないが、私の実感としては「県民文化」すなわち県民の文化的な活動は、郷土芸能を除いて決して退潮にはない。

というのは、今はインターネットを通じて文化的な活動をしている人がとてもたくさんいるからだ。YouTubeによってかつてないほど学びの敷居は低くなり、特に楽器の練習は容易となった(うまくなるかは別として)。文芸(短歌・俳句・詩・小説・エッセイ)は気軽に発表できるようになったし、発表というほどでなくても、絵・写真・書道などの作品をFacebookなどで見せている人は多い。手芸についても、アクセサリーや小物づくりなどは今多くの人がプロ並みのものを作り、Instagramを使って集客するマルシェなどで盛んに販売されている。そして生涯学習の面でも、多くの人が通信講座やインターネットを介した勉強で資格試験に果敢にトライし、キャリアアップにつなげている。

一方、単位文化協会を構成する団体は、かつての公民館講座を母体にしたものが多く、書道・華道・茶道・陶芸・踊り・伝統文芸など「旧来型の文化」に属するものがほとんどだ。こういう「旧来型の文化」が退潮にあるからといって、県民の文化活動自体が低調だとはとうてい言えない。

むしろ、県民の文化活動の中心とずれたところに単位文化協会があるから、自然と衰退していった、というのが本当のところではないだろうか。結論的にいうならば、単位文化協会はもはや県民文化を支える存在ではないのである。

そもそも、先ほど述べたように鹿児島市には単位文化協会は最初から存在しない。それでも、鹿児島市民が文化活動をするのに苦労しているという話は聞いたことがない。それだけでも、単位文化協会の存在価値に疑義を抱かせるのに十分だろう。もちろん地域の「文化祭」の実施は大切であるが、逆にいえば「文化祭」の実行委員会の機能さえあればよい。単位文化協会はなくてもいいのである。

だからこそ、その互助団体である県文化協会が「必要なのか、誰のため、何のためにあるのか」と疑問を突き付けられるのだろう。県民文化を支えているわけでもないのに、自分たちは何のためにやっているのか、と感じてしまうのではないのか。

今回の会議=「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」は、あくまでも県文化協会の今後を考えるもので、単位文化協会をどうする、ということを話し合うためのものではない。しかし県文化協会の在り方を考えていくと、単位文化協会の在り方にまで踏み込んでいかざるを得ないと私は思う。この意見に対して、おそらく会議のメンバーは「そんなことを議論すると収拾がつかなくなる」というだろう。しかし課題の根幹はそこにあるのではないか。

私は、単位文化協会などなくしてしまえ! と言いたいわけではない。彼らも互助団体なのだから、私のような外野がとやかくいう権利はない。だが彼ら自身から存在意義の根幹にかかわる疑問が提出されている以上、「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」はそれに真正面から向き合うべきだと思うのだ。

根幹に触れずに価値ある議論ができるのか、私には疑問である。

(つづく)

2022年10月17日月曜日

ボロクソに否定した会議のメンバーに。「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」

ひょんなことから、「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」という会議のメンバーになった。

この会議は、「鹿児島県文化協会(会長:原口泉さん)」が主催するもので、「鹿児島の文化振興ビジョンを作りあげること」と目標には掲げているが、実際には「今後の文化協会はどうしていくべきなのか」という危機感に基づいている。

みなさんは、文化協会というものをご存じだろうか。多くの自治体で地域の「文化フェスタ」とか「文化祭」を開催しているのが文化協会である、と思っていただいて間違いない。

例えば、南さつま市の場合は「南さつま市文化協会」があり、これは旧市・町の5地区の文化協会で構成される団体である。うち「加世田文化協会」は例年文化の日に文化祭を開催している。こういう団体が各市町村にあって、その連合会が「鹿児島県文化協会」である。

【参考】 鹿児島県文化協会
http://www.ka-bunkyo.com/index.php

では、各地の文化協会は誰が加入しているのかというと、いわゆる文化団体がこれに当たる。例えば、短歌の会、演劇団体、コーラスグループ、お茶やお花のグループ、伝統芸能継承グループ、エッセイクラブ、日本舞踊の会などなど、である。こういう会は、元は公民館講座だったり、自然発生的な活動であったりするが、とにかく小さな団体が多い。ということは、なかなか単独で発表の場を設けられないし、横の連携もやりづらい。

ということで、そうした小さな団体が寄り集まって「文化祭」をやったり、会報を出したりすることで活動をやりやすくしましょう…というのが地域の文化協会の設立趣旨である。これは自然に出来たのではなく、国が「これからは生涯学習の時代だ」と旗を振って、地方自治体に呼びかけた結果である。それが約50年前。

その頃は、日本は高度経済成長の時期で、サラリーマンと専業主婦が出来て、特に専業主婦が日中の余った時間を有効に活用するために「生涯学習」に勤しむようになった時代でもあった。しかしご存じのように、その後が続かなかった。バブル崩壊後、人々の生活には余裕がなくなり、例えば日本舞踊を習うような、そんな雰囲気は無くなったのである。また人々が学ぶ内容も、時代とともに移り変わっていった。

結果として、その時に出来た文化団体はそのまま高齢化していったところが多い。設立当時に20歳や30歳だった人が、今でも70歳や80歳になって続けているばかりで、若い人があまりいないという状況になっている。もちろん、それでも続けているところは立派で、多くの団体は解散してしまった。特に舞踊関係の壊滅ぶりは、滄海変じて桑田と為す観があるという。

そういう文化団体の連合会が「鹿児島県文化協会」だから、当然にここの将来は暗い。会員団体数の減少、役員や運営を担ってくれる人の高齢化など、単位団体が抱える問題と同じ課題が襲ってきている。

ちなみに、「鹿児島県文化協会」にはほとんど補助金も投入されておらず、会員団体が納入する会費が頼みである。となると、このままでは運営が立ちゆかなくなるのは必定なのだ。

…というようなことを考えていくと元気がでないので、もっと前向きに「鹿児島の文化振興ビジョンを作りあげること」を名目として、文化協会の運営に限らない夢のある話をしよう! ということで招集されたのが冒頭の「かごしま文化未来創造プロジェクト会議」なのである。

で、私に白羽の矢が立った理由は、このコアメンバーである南さつま市文化協会のK会長からの推輓による。先日、K会長が訪問されて、会議の意義を縷々説明してくださった。

それに対し、私は初対面であるにも拘わらず「こんな会議は時間の無駄」とボロクソに否定した(関係者のみなさんスミマセン)。

というのは、資料の最初に「新しい文化を創造します」と書いてあったからで、今の文化を守っていくことすら出来ていないのに、新しい文化なんか出来るわけがなく、「新しい文化を創造します」などと言っている人は文化のなんたるかを全く理解していないと思ったからである。

もちろん資料の最初からこの調子だから、全体的にツッコミどころが多く、当然に会議メンバーを断るつもりだったのだが、意外や意外、K会長が「そういう話をしてほしいんです!」というものだから、断ることができずに引き受けてしまった。

これから数回の会議を行い、1年ほどかけて議論をまとめるそうである。正直、場を乱すことくらいしかできそうにないが、せっかく参加させてもらうことになったので、真面目に考えていきたい。

(つづく)

↓「文化かごしま 124号」抜粋




2021年11月11日木曜日

南さつま市議選。政策を「選挙公報」から見る

南さつま市議会議員選挙が行われる。この過疎地大浦町でも、(意外にも)連日街宣車が走り回っている。

前回、前々回の市議選では、私は議会の一般質問の数から議員の働きぶりを見てみる、という記事を書いた。

【参考】
「立候補しなかった人」の責任 (2017年)
「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る (2013年)

しかし今回は有り難いことに約半数が新人の立候補である。これまでの議員の働きぶりを見るのにも意味はあるが、今回のように新人が多い場合には選挙への向き合い方としては偏っているので、今回は一般質問の数の分析は辞めることにする。

ところで、先日ある立候補者の方が、「市議選ももっと政策論をしなきゃならないのに、そういう話が全然無いのはよくないですよね〜」とぼやいていた。ところが、この人自身が街宣車での呼びかけばかりで、全然政策論を言わないので「そう思うならまず自分がしてくださいよ」と言ってしまった(笑)

でも、ここのような田舎町の市議選だと、実際ほとんど政策論など出てこない。まず市長の力が強大なので市議の力で実現できる政策があまりないということがあるし、選挙活動のメインが電話での投票依頼だから、ということもある。

そういうやり方がそれなりに働いていた時代はあったにしろ、「地方創生」が叫ばれている現在、市民→市議→市政というボトムアップ型のまちづくりが重要になってくると思う。となると、やはり市議の持っている政策的方向性はしっかり見た上で投票したい。

ところが先述のとおり選挙運動といえば「皆様お疲れさまです。○○をぜひよろしくお願いします。南さつま市のために頑張ります」みたいな街宣しかないので、どうも政策が分からない…と思っていたところ、「選挙公報があるじゃないか」ということに気づいた。

選挙公報には街宣車では言わない(正確には公選法の規定で「言えない」)いろんなことが書いてある。投票に当たってかなり参考になりそうだ。というわけで選挙公報から各候補の掲げる政策を全部抜き出そうとしたが、そうするとあまりに長くなるし、候補毎に記述のスタイルが違いすぎるので、思い切って次の方針でまとめてみることにした。

【方針1】選挙公報で最初に掲げている政策(以下「第一政策」という)を取り上げる
【方針2】スローガン的なもの(住みよい南さつま市へ! とか)や政治家としての理念は政策とみなさない
【方針3】図で表示されていてどれが第一政策なのか不明な場合、左上のものを便宜的にそれとみなす
【方針4】独断と偏見でコメントを付け加える

この方針の下でまとめたのが次の一覧である(届出順)。せっかくまとめたので、皆さんの投票行動に参考になれば幸いである。

坂本 あきひと

【第一政策】魅力ある街づくり
【コメント】そもそもこれが政策なのか迷った。ちなみに次は「スポーツを通した交流活動」だった。

山下 みたけ

【第一政策】ムダを徹底的に省き、行政改革を!
【コメント】これの具体策の一つとして「イベントなどの費用対効果の吟味を徹底」とある。砂の祭典について言っているのかもしれない。

松元 正明

【第一政策】(基本理念のみのため記載無し)
【コメント】基本理念の一番が「変えられないものは変えられないとして受け入れる心!」とあり、これが非常に独特。保守ということが言いたいのだろうか。しかし保守なら普通は「変えてはいけないものは変えない」となりそうなのにちょっと不思議だ。

きじま 修

【第一政策】交通弱者対策
【コメント】紙面では実際には理念の方がずっと大きく表示されていて、理念の1番は「変革する勇気」。松元氏と好対照。

清水 はるお

【第一政策】県内で一番高い介護保険料の引き下げを!
【コメント】これはずっと清水氏が主張してきたことである。ちなみに他の項目も非常に具体的な提案が多い(例:特老「和楽園」、坊津病院は公営で存続を)。個人的には「超大型洋上風力発電計画は中止」が好印象。

神浦 由美子

【第一政策】より子育てしやすいまちに!
【コメント】具体策の筆頭(と判断できる位置)に「男女共同参画の推進」とあるのがいい(全候補者中唯一)。なお政策ではないが、神浦氏は街宣車を使わずゴミ拾いしながら歩いて選挙活動をしているのがグッド。

竹内 ゆたか

【第一政策】高齢者や子供たちが住みやすい町にする
【コメント】具体策をみてみると、実際には高齢者向けが中心。ちなみに具体策の筆頭は「見守り活動」と「ゴミ収集支援」。

田中 ひろみ

【第一政策】安全で安心して暮らせます(仕事・防災・救急・福祉・教育)
【コメント】カッコ内筆頭に「仕事」とあるが、これは安全・安心とどう繋がっているのかよくわからない。ちなみにこの方は阿多自主防災組織会長・阿多消防協力会長らしく、防災には力を入れているようだ。

小園 ふじお

【第一政策】なにより、健全財政
【コメント】健全財政を強く訴えているのは小園氏のみ。そのうえ「なにより」とつけているのが特徴的。こういう方も議会には一人はいないといけないという感じがする。

おつじ さちお

【第一政策】子どもの見守り
【コメント】これに続いて「児童虐待、ネグレクト、いじめから子どもを守る環境を作っていきます」とあり、普通は「子育てしやすい環境づくり」とかなのに、厳しい境遇にある子どもを守ろうということを第一に掲げているのが目を引く。個人的な経験からきたものなのかもしれない。

すわ 昌一

【第一政策】(基本理念のみのため記載無し)
【コメント】「密を避けるためマイク要員をお願いしていません」等、コロナ禍対応の選挙活動をすると書いているのが特徴。

ひらがみ 純子

【第一政策】市民の感覚を忘れません
【コメント】これは「私の約束」とされておりこれが政策なのか微妙だが、2番目が「女性や弱者、少数派の意見を届けます」なので政策と判断した。「私の令和2年度の議員報酬は4,809,217円です。大切な市民の税金です。4年間の活動を審査してください」と書かれていたのがちゃんと「市民の感覚」を体現している。

神野 たかし

【第一政策】自然災害への防災予算を確保し、「事前防災対策」を
【コメント】2番目には「吹上浜沖洋上風力発電事業計画中止」が掲げられている。この方は当該事業への反対署名を集めた団体の事務局長を務めている。

石原 てつろう

【第一政策】第一次産業の育成を図ります
【コメント】ちなみにその具体策の一つは「特産物の販売促進に力を入れます」。全体的に非常にすっきりと重点政策がまとまっている見本のような選挙公報。

上野 あきら

【第一政策】農業を基本とした地域づくり
【コメント】候補者の本業は茶農家のようだ。「農業を基本とした地域づくり」が何を示しているのかいまいちわからないが、農家が中心になって地域おこしをしようということのように思われる。 

上村 研一

【第一政策】「コロナ災禍」分散型社会への転換時期
【コメント】全候補者中、おそらく最も文字数が多く、いろいろな分野のことが非常に短い言葉で書いてある。

大原 としひろ

【第一政策】子育て支援
【コメント】ただし政策列挙の前の文では「コロナ禍を乗り越えることが喫緊のテーマ」としており、何が第一政策なのか判断に迷った。

小薗 いくや

【第一政策】健康で安心できる暮らしの明日を考える
【コメント】「ふるさとの明日を考え、提案します」ということなので、政策というよりはこれからジックリ考えていきたいということなのかもしれない。

かとう あきら

【第一政策】より子育て世代にやさしい市へ
【コメント】全候補者中、唯一ちゃんとしたWEBサイトを開設していて、総花的であるが政策がしっかり掲載されている。職業が「冒険家」でぶっとんでいるのに内容は王道(笑)

くろせ 家盛

【第一政策】一次産業(農林水産業)の振興
【コメント】全候補者中、唯一の漁協関連の人。政策とは関係ないが、名前の「家盛」を何と読むのかわからない。名字じゃなくて名前の方をひらがなにすればよかったのにと思った。


以上、候補者20名の選挙公報を熟読した結果である。これまで選挙公報は「みんな似たようなことが書いてある」と思っていたが(いや、実際大同小異なのだが)、熟読してみると意外と個性が出ていて面白いと思った。みなさんにも選挙公報を熟読するのを勧めたいと思う。

なお、上記の一覧について、私が恣意的にまとめている部分があるんじゃないかと思った人もいるかもしれない。というわけで、検証のために選挙公報のコピーを掲載する(※順不同)。ただし公選法において、選挙公報をネットにアップすることの可否がよくわからなかった(そもそも想定されていないような感じ)。もしダメならご指摘いただければ幸いである。

 












2020年7月4日土曜日

2020年鹿児島県知事選、全候補者のマニフェストを読んでみた

7月12日は鹿児島県知事選である。

今回は候補者が7人もいる。戦後最多だそうだ。乱立を憂慮する声もあるが、今までが少なすぎだったのでいいことだと思う。

だが正直言って、私も知らない人ばかりで、選ぶのは結構難しい。なので、とりあえず全員の公約・マニフェストに目を通してみることにした。

※公約とマニフェストは厳密には違うが、実際上ほぼ同様なものとして扱われているので、以下の文章では「マニフェスト」に便宜的に統一する。ただし候補者自身が「公約」と表現しているものはそう呼ぶ。

まあ、マニフェストは候補者の人柄とか、能力とかはあまり反映していないかもしれない。言うだけなら何とでも言える、という面はある。私はリーダーは人間性が大事だと思っているが、マニフェストでは人間性はわからない。

でも、候補者の動画を見たり、評判を調べたり、知人に人柄を聞いてみるのを全員に対してやるのは大変だ。マニフェストなら、比較的短い時間で全員を比較可能である。

さらに当初は、せっかく読むなら誰かの役に立つようにマニフェストの特徴をまとめてみようと思っていた。例えば政策の重要視の度合いを「経済5点、医療・福祉3点、教育4点…」などと全員分まとめたら、自分の考えと近い候補者を見つけるのに便利だろう。

ところが実際にマニフェストを全部読んでみたところ、それはちょっと無理だった。7人のマニフェストが形式的にかけ離れすぎているし、具体性の程度が(一人のそれの中ですら)まちまちだ。

だから、横並びでマニフェストを比べることは到底不可能だった。

とはいっても、比べてみて感じることもある。いや、多々ある。みんな、ぜひ各候補者のマニフェストを実際見てみてほしい。まず、マニフェストがどのように掲載されているか、を各候補者のWEBサイトで見るだけでも、その姿勢を感じると思う。

だから、以下のことは、参考程度ですらなく、私のただのマニフェスト備忘録である。気になっている候補者のものだけでも、目を通すことをオススメする。(届け出順)

1.武田信弘

https://www.takedanobuhiro.com/post/%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%92%EF%BC%90%E5%B9%B4%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E9%81%B8%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88
「異形のマニフェスト」としか言えないような、変わったマニフェスト。

まず、本題のマニフェストに入る前に、入試不正への糾弾や国家財政の破綻、ハイパーインフレへの懸念、原発事故や大地震への懸念、桜島の噴火についての考察など、とりとめのない小論文のようなものがあり、それが全体の半分以上を占める! その後に「実際のマニフェストはここからです」という注釈が入ってマニフェストが始まる。こんなマニフェスト見たことない!(ちなみに分量も突出して多く、印刷してみたら31ページあった。)

たぶん、「人に自分の書いたものを見てもらう」という意識がなく、溢れる思いだけでつきすすんで書いたものだ(しかも、おそらく、かつて執筆したものの再編集部分をかなり含む)。

ところが、マニフェストに書いていること自体は県政の見える化など、共感できることも多い。施策に具体的なものが多いので(むしろ具体的過ぎるのが難点)、賛否両論あるところと思うが、その異形の形式とは裏腹に少なくとも内容は理解可能である。…と思って読んでいたら「ほとんど選挙で当選できる確率はないと思っていますが」などと平気で書いてくるので油断ができない(笑)

2.横山富美子

https://yokoyama-fumiko.net/manifest/
「この人はこういうことがしたいんだなー」というのが素直に伝わってくるマニフェスト。

サブタイトルが「原発ゼロ・九条実現への道を進めるために」なので、県政とは関係の薄い憲法9条を挙げるのはどうかな? と思ったものの、実際中身を読んでみると、要するに「憲法の理想を具現化しよう」というもので大変共感を持った。

主要政策は、医療、脱原発、県土における軍事基地問題(県内での米軍訓練や馬毛島)の3つで、さらに重要政策として子育てや農林漁業、雇用環境改善などが挙げられ、特に医療や福祉の充実、人権の重視などは強く謳われている。

ただし、経済振興についてはあまり触れられず、医療・福祉についても財源への配慮は感じられない。それは短所でもあるが、重視していることがダイレクトに伝わってくるという意味では、「結局何がしたいんだよ!」というような総花的公約よりもずっと理解可能だ。

全候補者の中で、最も素直で平明・率直、身の丈にあった自分の言葉で書かれた好感の持てる内容である。

3.青木隆子

https://aoki.ryuko.online/manifesto/
SDGs(持続可能な開発目標)の推進が謳われたマニフェスト。

「たいせつなのは「いのちと暮らし」、誰ひとり取り残さない鹿児島」をサブタイトルに掲げ(「誰ひとり取り残さない」はSDGsの誓い)、医療・福祉・教育・脱原発・人権重視など横山氏のマニフェストと内容はかなり近い。ほとんど経済振興について触れられていないのも一緒である。違いは、その基盤に「SDGsの推進」を置いていることで、例えばパートナーシップ制度(同性の事実婚制度)の導入などが特徴的である。

私自身、SDGsを県政の柱として位置づけて欲しいと思っているので、その点は賛同できる。ただ、医療・福祉以外についてはあまり具体性がなく、なんとなく薄い(ありがちな言葉を並べた)感じがするのが正直な感想。

4.三反園訓

https://mitazono.jp/manifest/
マニフェストというより、施政方針演説のようなマニフェスト。

特に重点的な項目は存在せず(コロナ対策を除く)、総花的な内容。1期目の評価・反省に基づいてマニフェストを作ってもらいたかった。1期目の反省が何もないので、「引き続き取り組みます」以上の内容は感じられない。

それを象徴するのがマニフェスト最後の項目。曰く「県公共施設等総合管理計画に基づき、公共施設等の管理を総合的かつ計画的に推進します」。県知事としての施政方針演説であれば違和感はないが、マニフェストと言われるとちょっと…。

なお原発問題については、次のように掲載されている。
「川内原発については、新たに設置した専門家の委員会により、特別点検の結果などの確認や安全向上対策、避難計画や原子力防災訓練の見直し、安定ヨウ素剤の配布など、諸問題について専門的見地から意見をいただきながら、防災対策の充実・強化に取り組んでおり、引き続き、県民の安全・安心の確保のため全力で取り組みます。」
当然であるが、現状維持の方針である。

5.伊藤祐一郎

https://www.ito-yuichiro.jp/manifest.html
細部まで考察された、総合的なマニフェスト。

前職なだけあって内容は総合的で、しかも細かい点にも配慮が行き届いている。一番よく考えて作られたマニフェストだと思った。また、マニフェストの最初の方で「重要政策への対応」として、自分の考えをはっきりさせていることも好感を持つ。

例えば、
【原発】福島原発事故後30年で原子力発電を終了させる(ただし川内原発1、2号機の延長問題には触れず)。
【馬毛島】米軍への協力は一定程度やむを得ないが、計画は白紙に戻す。
【大規模開発プロジェクト】基本的に整備を急ぐが、県民の意見をよく聞く。
といった調子である。

これらの微妙な言い方では不満な人も多いだろうが、原発や馬毛島については私の考えと近く、前職としては精一杯踏み込んだ内容だと思う。

また、具体的な項目が多く理解可能である。特にいいと思ったのは、「文化・芸術の振興のため、公共工事費の1%相当額を確保」という点。これは文化後進地域の鹿児島にとって是非必要なことだ。

ただ残念なのは、やはり政策のセンスが古いことである。鹿児島中央駅付近に「屋外大型ビジョン(街頭ビジョン)の設置を検討します」なんかは、正直うげーっと思ってしまう。

全体的に前職の経験が活かされ、ちゃんと考えて立案されたものだという印象を受けるが、逆に言えば多くが旧来の政治の延長線上にあるとも言える。とはいえマニフェストとしての完成度は、全候補者の中で一番だ。

6.塩田康一

https://shiotakoichi.com/policy
前九州産業局長だけあって、経済関係が充実したマニフェスト。

簡潔ながら総合的で、無難にまとめられているという印象。それでも、川内原発については「3号機の増設は凍結」「1、2号機の20年延長については(中略)県民投票を実施します」とはっきりしているのがよかった。また、新人にしては提言が具体的であり、要点がはっきりしている。

特に経済関係については、アジアとの関係を重視して鹿児島を国際都市にすることを目指し、農林水産業の振興や中小企業の育成・起業に力を入れるという内容で、全候補者の中で最も理解できる経済振興策だった。ただその中身は、既存の施策をうまく活用していくというものなので、あまり真新しい感じはしない。離島振興を特に重視しているのもこのマニフェストの特徴。なお随所に「稼ぐ力」を引き出す、といった表現があるが、これはよくわからなかった。

逆に、教育や文化についてはかなり弱い。特に教育は「ふるさとに誇りを持てる郷土教育の充実を図ります」という、本質でないところが一番に掲げられていて残念である。鹿児島は大学進学率が全国でも最下位に近いので、進学率の向上や初等中等教育の充実が全く視野に入っていないのは物足りない。

7.有川博幸

https://www.arikawahiroyuki.com/
スローガン的な公約。

マニフェストではなく「公約」とされている通り、あまり具体的ではなく、全体としてスローガンの集成のような体裁である。

例えば「(1)誇れる鹿児島づくり」という項目では、
・魅力ある農畜水産業の確立 [基幹産業の徹底振興]
・世界に向けた国際観光の促進 [観光産業の世界発信]
・地域・地方の自立と活性化 [地方創生ふるさとづくり]
・循環型社会の推進、実現 [鹿児島モデルの開発促進]
・グローバル社会に向けた青少年教育の促進 [IT社会に向けた能力育成]
が挙げられているが、どれも具体的に何をするというものではなく、「こういうことを頑張ります」という熱意の表明という感じである。

ほとんど全体がこういう調子で、具体的に書いている項目においても細かい説明はないのでなんとも判断しがたい。唯一はっきりとわかったのは「桜島〜鹿児島市間の鹿児島レインボーブリッジの実現」ということだが、正直、時代遅れの大規模開発プロジェクトだと思った。

全体として、よく言えば「夢のある内容」を並べている感じ。しかしいずれにしても、具体的内容に乏しくスローガン的なのが弱点。分量もA4で1枚分くらいしかなく全候補者の中で最も少ない。

*******

…冒頭に書いたとおり、これはあくまで私の備忘録なので、これを参考にして投票先を決める、というようなことはオススメしない。そうではなくて、これを読んで「へー、この人のマニフェストを読んでみようかな」と思ってもらうことがこの記事の目的といえば目的である。

これまで、鹿児島県知事選の投票率はかなり低迷している。せっかく戦後最多の候補者が出馬してくれた選挙である。投票率の方も、戦後最高となってほしいと願っている。


【参考】鹿児島県知事選マニフェストまとめ
https://note.com/taberukoto/n/n7998fbbd03c3
長島町の地域おこし協力隊をしていた方がまとめた記事。
※ただし、塩田康一候補についての記述は、同候補がちゃんとしたマニフェストをアップする前に書かれています。

2020年4月12日日曜日

鹿児島を理想郷にするために一番大事なこと

7月に鹿児島県知事選がある(はず、コロナウイルスの影響で延期されなければ…)。

それで、この機会に新知事(現職が再選されたとしても)にぜひ取り組んで欲しいことがあるので書いておきたい。

それは、男女共同参画社会の実現である。これこそが、鹿児島にとっての最重要課題だと言っても過言ではない。

ちょっと待ってよ! と多くの人は言うだろう。「それよりも、全国でも最低水準の県民所得を何とかしてよ」とか、「基幹産業である農林水産業の振興が急務!」とか「人口減少・少子高齢化社会の対応こそが喫緊の課題だろ」とか。

もちろんそうした問題は大事である。そして男女共同参画なんかは「そりゃ大事かもしれないけど、余裕がある時にやればいいんじゃない?」というような話かと思われている。

だが私はそれは全く間違いだといいたい。

というのは、鹿児島の発展を阻んでいる最大の要因は、女性に対する差別なんじゃないかと思うからだ。

その理由をちょっと説明させて欲しい。

鹿児島は「優秀な人材がどんどん流出していく」という問題を抱えている。最も出来がいい高校生は東京の大学に行き、大概は東京の企業に就職するからだ。ところがこれには明確な男女差があり、女子生徒はあまり県外に出ていかない。

それどころか、女子生徒は大学にすらあまり行かせてもらえない。鹿児島県の女子の大学進学率は35%未満で、毎年全国最低である。ちなみに男子の進学率も40%程度で全国的にドベに近く、鹿児島県は大学進学者自体が少ない(ちなみに全国平均は53%くらい)。それでも男子の進学率は、女子のそれよりも5〜10%高い。このジェンダーギャップが鹿児島は大きい。男尊女卑のイメージがある九州内各県で比べても大きい。

「データえっせい」より引用:2019年春の大学進学率
【参考】データえっせい ← ※このブログを書いている舞田さんは鹿児島県出身
都道府県別の大学進学率(2019年春)
都道府県別の大学進学率(2018年春)
都道府県別の大学進学率(2017年春)

もちろん、鹿児島の女子が男子(や他県の女子)に比べ頭が悪いということはないから、他県だったら大学まで行っているような女子が、鹿児島県の場合は行かせてもらえない、ということを意味する。「女の子が大学に行く必要はないだろう。行かせる金もないし」で、優秀な女子生徒が満足な教育も受けずに地元の零細企業で働いているのである。

これ自体が大変な問題である。大学進学率を引き上げるのはお金の問題もあるからさておいても、男女の進学率は等しくあらねばならないと私は思う。けれども、今はその問題はひとまず措く。

それで、こうした状況の結果、良し悪しはともかく、鹿児島は、一流の男性は東京に流出していってしまう一方、一流の女性はさほど流出していない、という現状がある。

実際、自分の高校の同級生など考えても(一応、鶴丸高校という鹿児島の進学校の卒業です)、出来のよかった男の友達などほとんど本社東京の企業に就職しているのに、女の友達についてはかなりの程度地元に残っている。

鹿児島の女性には、男性に比べ優秀な人が多いのだ。

管見の限りでも、鹿児島でのキラリと光るプロジェクトには、必ずと言っていいほど女性が裏方で大活躍している。仕事が早くて正確で、気のきく女性がとりまわしていることが実に多いのである。

ところが、やはりプロジェクトの代表は男性であり、ほとんど仕事の中核を担っているその女性が、全然大した給料をもらっていないことも、また呆れるほど多いのだ。

要するに、鹿児島の女性には優秀な人が多いのに、正当に評価されていない!

そして、より損失が大きいと思うのが人事面だ。そういう優秀な女性は縁の下の力持ちみたいな立場ばかりで、プロジェクトリーダーみたいに前面に立つことは少ない。当然、課長や部長になる女性は少ない。市役所なんかは女性職員の方が多いのに、幹部職員になると急に男性ばかりになる。本当は幹部職員になるべき優秀な女性が影に隠れ、さほどでもない男性が幹部になってしまっている。

鹿児島県の事業所の課長相当職の女性比率は、2016年でたったの14%しかない。

【参考】県の女性活躍の現状について|鹿児島県
http://www.pref.kagoshima.jp/ab15/kurashi-kankyo/danjokyoudou/joseikatuyaku/joseikatuyakunogenjo.html

でも、経済でも、行政でも、パフォーマンスを上げる最高の策はいつでも「優秀なリーダーを選ぶこと」なのだ。優秀な女性にリーダーをしてもらった方が、経済も発展し、行政もよりよくなるに決まっているのである。

しかし、現実に人事を担当している人は言うかもしれない。「そんなこと言っても、女性が幹部職員になりたがらないんだもん」と。確かにそれはそうだ。

鹿児島には「女性が表立って活動しづらい風土」がある。男が前面に立った方が、何かとスムーズにいく。そういう風土から幹部職員を避ける女性も多い。でも同時に、女性が家庭の仕事のほとんどをしているという現実もある。幹部職員になっても、毎日の食事を作り、風呂を沸かし、洗濯をし、日々のこまごまとしたことをこなしていかなければならない。仕事と家庭の両立が困難だから、幹部職員を辞退している女性もまた多いのである。

単純化して言えば、一流の女性の力が活かされず、二流の男性が動かしているのが、鹿児島の社会なのだ。

そして優秀な女性ですらそんなに割を食っているのだとすれば、普通の女性はもっと割を食っていると考えるのが自然である。私は、鹿児島の女性がひどく差別されて苦しんでいるとか言いたいわけではない。鹿児島の女性は男性をうまく立てながら、したたかに立ち回る術をわきまえている。鹿児島のオバチャンにはとても元気で人生を楽しんでいる方が多く、「男尊女卑だから女性は泣いてばかりいる」なんてことはないのである。

だが、差別とは構造的な問題である。確かに鹿児島の女性は見えない何かで縛られている。自分の能力を十全に発揮させてもらえない状態にあるのである。

そもそも社会はだいたい半分ずつの男女で構成されている。その半分を縛るということは、片方の足を縛って歩いているようなものだ。鹿児島県は、ただでさえ僻地にあり、人口減少・高齢化に苦しんでいる。にも関わらず片足を縛って歩き、他の地域と競争していかなくてはならない。こんなバカな話はない。まず、その縛っている見えない何かを解くべきだ。

女性の力をちゃんと発揮すること、これは、単なる人権問題ではなく、経済を成長させる原動力になり、産業の振興に繋がり、また人口減少問題にも有効な手段なのである。女性が家庭から出て働くことは、一見出生率の減少を招くようだが、女性が働きやすい社会とは、子どもを産み育てやすい社会でもあるからだ。

だから私は、男女共同参画社会の実現が、鹿児島にとっての最重要課題だと言いたいのである。それは人権問題であるに留まらず、経済政策として推進するに足るものである。「経済政策としての男女共同参画」を、鹿児島県は進めるすべきである。

ただしこの論理展開には一つ注意しなければならないことがある。仮に経済的に不利になる場合でも男女共同参画は進めなければならない、ということだ。それは経済よりもっと大事な、人権に属する事柄だからである。だから「経済的に大事だから男女共同参画を進めなければならない」のだと勘違いしてほしくない。 そうではなく「鹿児島県の場合、幸いにして男女共同参画に経済合理性があるから、強力に推し進められるはずだ」と言いたいのである。

じゃあ具体的に何を実施すべきか?

これまでの男女共同参画政策は、市町村に計画を策定させたり、講演会を開催したりといったあまり実効的でないものが多かった。でも鹿児島県の意識の遅れを考えると、強力なアファーマティブ・アクション(差別是正のための優遇措置)が必要である。例えば、商工会・商工会議所の補助金で、女性幹部職員の比率で露骨に補助率が変わるといったようなことだ。女性の経営者なら補助金取り放題で、無利子融資が受けられて、それどころか税金も割引にするっていうくらいやったらいい。私の言う「経済政策としての男女共同参画」はそういうものである。

またそれとは別に、女子学生への教育の提供も進めなくてはならない。優秀な女子学生が大学にすら行かせてもらえないというのは社会的損失だ。女子への給付型奨学金を創設すべきだ。また現状で「女子は短大で十分」といった意識があることも踏まえ、鹿児島県立短大の教育の充実(予算を増やす)、私立の女子学校(鹿児島女子短期大学、純心女子学園など)への大幅な支援も行うのが有効である。

そうして初めて、鹿児島はようやく平均並みの「男女平等」が実現できると思う。 そしてそうなった時、鹿児島の経済は全国ドベの状態から脱出できると確信する。

今般のコロナ禍においても、台湾の蔡英文総統、ニュージーランドのアーダーン首相、ドイツのメルケル首相など、世界の女性リーダーが非常に頼りになるのを見せつけられた。政治家などは人々の意識を先導しなくてはならないのに、日本の場合は普通の人より意識が遅れたオジサンが政治を率いているのが悲劇である。鹿児島の新知事には、21世紀に生きる人間として真っ当な人権意識があることを見せつけて欲しい。

私は、鹿児島という土地が大好きである。でも、一つだけいただけないのが女性差別が激しいことだ。女性差別さえなくなれば、鹿児島はほとんど理想郷みたいなところである。「鹿児島から第二の維新を!」というのがよく言われるが、私はそれを率いる第二の西郷さんは、女性であって欲しいと思っている。

「どーせ鹿児島は歴史的に男尊女卑なんだから」などというなかれ。明治期までの鹿児島はそうでもなかった、ということを昔ブログに書いたことがある(下のリンク)。未来は変えられる。新知事には男女共同参画社会を実現させることを強く期待したい。

(つづく(男女共同参画以外にも言いたいことがあるのでついでに書こうと思います))


【関連ブログ記事】
鹿児島は歴史的に男尊女卑なのか
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/09/blog-post.html

農村婦人、婦人部、農業女子
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2016/03/blog-post_17.html
 

2020年3月30日月曜日

稼いだお金を使える地域——大浦町の人口減少(その5)

(「共鳴する加速関係——大浦町の人口減少(その4)」からの続き)

「地方創生」に関していつも言われることがある。「稼げる地域」にならなきゃいけない、ということだ。

内閣府も「稼げるまちづくり」を標榜して政策パッケージをまとめているし、実際、限界集落から復活したような地域では、取り組みの根幹にちゃんとした「金儲け」の仕組みがある。

逆に、いくら地域住民がやる気でも「ボランティア活動でまちづくり」「生きがいづくり」「都会から来た人をおもてなし」みたいなことばかりをやっている地域は、(その活動自体は全然悪くはないのだが)結局は長続きしない。その活動が維持されるのに十分な利潤がないのだから。

だから誰しも「地方創生」のキーは「稼げる地域」になることだと考えている。

しかし大浦町の場合、干拓事業をはじめとした農業の近代化によって「稼げる地域」になったはずなのに衰退してしまった。

例えば 1960年、大浦町ではどんな農家でも、年間の農産物販売総額は100万円にも満たなかった。ところが干拓事業など基盤整備と機械化が進んだ結果、35年後の1995年には1000万円以上売り上げる農家が16戸が出現。そのうち8戸は2000万円以上も売り上げがあったのである(「農林業センサス」による)。

既に述べたように、規模を急拡大した農家には莫大な借金を抱えた人も多かったから、 売上の拡大はそのまま所得向上であったわけではなかった。でもその莫大な借金を返していけるだけの収入上昇があったのも間違いない。大浦は確かに「稼げる地域」になったのだ。

ではなぜ、木連口の商店街はシャッター通りになってしまったのか。

大浦の人々は、昔に比べてずっと豊かになった。にもかかわらず商店街からは活気が失われ、多くの店は消え失せてしまった。統計から見ると矛盾するようなことが、この50年で起きた。いや、これは大浦だけの話ではなく、日本の多くの農村的地域で共通して起こった奇妙な現象だ。

それは、お金の廻り方が変わってしまったからだ、と私は思う。

50年前の農業は、多くを人力に頼っていた。少ない売上は、ほとんど全部が人件費に回っていた。もちろん人件費といっても雀の涙のようなものだったし、家庭内での労働が多かったから給料として払われる分はさらに僅かだった。だが重要なことは、そのお金の使われ方が今とは違ったことだ。 人々がポケットの中に持っていた僅かなお金は、ほとんど町内の誰かに支払っていたのである。

だから、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続けた。

例えば単純化されたモデルとして、百姓のAさんと、漁師のBさんのみで構成された村の経済を考えてみよう。

まず1月に百姓Aさんが漁師Bさんに野菜を1000円で売る。そしてBさんはAさんに魚を1000円で売る、とする。ここでお金がどう動いたか見てみると、最初Bさんが持っていた1000円が、またBさんに戻ってきたということにすぎない。AさんもBさんも1円も儲けていない(手持ちのお金が増えていない)。しかし、お互いの手元には魚と野菜がある。

次に2月にも同じ取引が行われるとする。今度もお互いに野菜と魚を売り、手持ち資金は増減しない。同様にこれが12ヶ月間続いたとしよう。二人の経済はどうなっているか。Aさんの野菜の売り上げは1万2000円である。Bさんの魚の売上も1万2000円である。ただし、二人の手持ちのお金は1円も増えていない。もちろん魚や野菜が手に入ったので、それを自家消費するとすれば、数字に表れない利潤はある。

だがここで強調したいのは、この1万2000円ずつの売上に相当する取引が行われるのに、この経済にはたった1000円あればよかった、ということだ。1000円札が1枚あって、それが二人の間を行ったり来たりして、2万4000円分の取引が行われたのである。いやもっと言えば、それが1000円札である必要すらなく、仮に100円玉でも同じ取引が行われたということだ。かつての自給自足的な大浦町の経済も、おおよそこんなものだったと考えたらよい。

ポケットの中にあったお金が、町内の誰かの手に渡る。するとそのお金はまた町内の誰かの手に渡って、めぐりめぐって最初の人に戻ってくる。こうして、ほんの少しのお金はどんどん町内を回っていたのである。たった1000円しか存在していない現金が2万4000円の売上を生んだように、ポケットの中の僅かなお金はたくさんの売上に変貌するのである。

これが、昔の貧しい大浦町で、木連口の商店街が賑わっていたことの理由である。確かに人々は貧乏だった。だが昔の大浦町は良くも悪くも閉鎖的で、そのお金は地域内で循環していたから、人々が手元に持っている現金以上の価値が生みだされていたのである。

さて、今度は先ほどのモデルで、百姓Aさんが農業の機械化・大規模化などに取り組み、農産物を都会に売るようになったとする。Aさんは毎月3000円分の野菜を都会に売り(=年間3万6000円)、年間2万円の機械の費用を支払うものとする。今度はAさんは1万2000円分の魚を購入したとしても、手元に4000円手元に残る。確かにAさんは豊かになる。Bさんも漁業を同じように近代化させれば、二人とも豊かにはなる。自給自足的な経済よりも、都会にものを売った方が村は豊かになる。

見かけにはそうだ。しかしちょっと待って欲しい。野菜の売上3万6000円、機械の購入費用2万円は、どちらも村の外側で取引したお金である。先ほどのモデルでの野菜の売上1万2000円分は、村の中でお金が行ったり来たりして生みだされたものだったが、今度の3万6000円はいわば「外貨」である。もちろん「外貨」を稼ぐことはいいことだ。だがその稼いだお金のうち2万円は、逆に村の外側に出て行く。今度はAさんの取引の場は、村の外が中心になる。それは即ち、村の活気=村内の活動量が減少することをも意味する。

こうなると、村の中でお金が循環することはなく、村の外で稼いだお金を村の外で使う、ということになっていってしまう。Aさん個人の立場で考えれば村の外と取引する方が利潤は多いが、村のみんながそれをやれば村の経済は空洞化していく。

現代の農村は、全てがこの経済構造にあるといっても過言ではない。例えば私はかぼちゃをつくって農協に出している。そのかぼちゃは東京や大阪で売られる。もちろん柑橘類もそうだ。私はそうして稼いだお金をAmazonで使う(笑) 。だから大浦町の経済には、あまり貢献しない。

要するに、人は地元でお金を使わなくなった。だから大浦町の商店街は、町民が豊かになったのに衰退したのである。

そんなの当たり前じゃないか! と人は言うだろう。「地元経済の空洞化」なんて、それこそ何十年も前から言い続けられてきた。たったそれだけのことを、今までくだくだしく説明しすぎたかもしれない。でも私がこの言い古されたことに一つ付け加えたいのは、人々が地元のお店よりも遠くのディスカウントストアで買うようになったからそうなったのではなく、それは農業の機械化・近代化によって不可避的に起こった、ということだ。

農業機械メーカーは地域外にあるし、機械のお金を払うためには「外貨」を獲得する必要があるからだ。そして、機械化は大規模化をもたらし、大規模化は農業の人口減少をもたらした。それはさらに地域経済の空洞化を加速させた。

単純に言えば、農家は今まで「人」に払っていたお金を「機械」に払うようになった。費用という意味ではそれは同じだが、人に払ったお金は、地域の中を巡るお金になって、また誰かの収入となり、誰かの生活を支えていた。貧乏だった大浦町の木連口通りに、最盛期では11店もの理容・美容室があったのはそういうわけだ。稼いだ「外貨」は少なくても、その少ないお金が巡ることで雇用が生まれていた。人がたくさんいたから、人を相手にする商売も成り立った。

だが「機械」にお金を払うようになると、そういう循環がなくなった。農産物を都市部に売って稼いだお金で、都市部でできたものを買うのだ。それは、かつて1000円が1万2000円の価値を生みだしたように地域内を巡るお金ではなく、入って、そして出て行く、素通りする1000円なのだ。

これで、大浦が「稼げる地域」になったのにも関わらず、むしろ商店街が衰退していった理由がわかると思う。そして、おそらくそれが不可避的なものであったことも。

このように考えると、今の「地方創生」で盛んに言われている「稼げる地域」になれというスローガンは、不十分なものだとわかる。確かに稼げなくては地域が成り立って行かない。でも大浦のように、「稼げる地域」になっただけでは衰退を防げない。では何が必要か。これまでの議論で明らかだろう。

それは、「外貨」を稼ぐことより、「地域内でお金が循環する仕組み作り」である。

私たちはともすれば、「全国に売れる商品」の方が、地域内で消費されるありふれた商品よりもすごいものだと思いがちだ。しかし地域経済の全体像を考えた時、「全国に売れる商品」を持っている地域よりも、地産地消されるありふれた商品が豊富な地域の方がずっと豊かになる可能性があると言える。例えば(極端な例だが)ひたすらカカオ豆を生産するコートジボアールの村のような経済は、カカオ豆という「全世界に売れる商品」を持っているが豊かになれる可能性はほとんどない。一方で、鹿児島には「全世界に売れる商品」はほとんどないが、地産地消率の高さを考えると発展の可能性がずっと大きいのである。

では、「地域内でお金が循環する仕組み作り」とは具体的になんだろうか。遠くのディスカウントストアで買うのではなく、地域のスーパーや物産館でなるだけ買いましょう、という話なのだろうか。それも一手かもしれない。私はガソリンは(安い鹿児島市内ではなく)なるだけ地元で入れるようにしているし、少し割高でも地元スーパーを使う。でもそういうのは、心がけの話であって大勢に影響を与えない。なぜなら、ガソリンにしてもスーパーで売っているものにしても、ほとんどが他の地域から仕入れたものに過ぎないからである。

別の言葉でいえば、原価率が高い仕入れ商売は地域外との取引を仲介しているだけだから「地域内でお金が循環する」部分が小さいのである。しかし農村が文明的生活を送るために必要なものは、ほとんど全て地域外から購入しなくてはならない。ガソリン、PC、携帯電話、家電製品、車、生活に必要なあらゆるもの…。地域内でお金を循環させられないのは当然である。

だが文明的水準を保ちつつ地元で地産地消できるものもある。代表はサービス業だ。例えば美容室。大浦町には今でも美容室がいくつかあるが、こういうのはお金の循環に役立っている。他にも、マッサージ、ラーメン屋、飲み屋、福祉施設(デイサービス等)といったものは地域外のサービスでは代替できない。実際、人口減少した地域でもこういう職種は意外としぶとく残っている。

もちろん、 田舎であれば顧客の数は少ないからサービス業の経営は厳しい。しかし商売に必要な固定費は非常に低く抑えられるという利点もある。売り上げが少なくてもそれなりにやっていける環境がある。

それどころか、都会の商売は常に売り上げがないとすぐに経営が行き詰まるという欠点もある。売り上げも大きいがそれにかかる費用も大きいのである。田舎では固定費を抑えて、あんまり売り上げが無くても生きていける、というようなスタイルの商売が可能である。そういう面では、都会よりもかえって自由な発想でビジネスを組み立てられると思う。

だから「地域内でお金が循環する仕組み作り」は、地域の住民を相手にした、少ない売り上げでもやっていけるサービス業(のお店)をつくることだと思う。例えば、カフェ、飲食店、ヨガスタジオといったものが考えられる。

とはいえ、そうして出来たお店を地域住民が使わないことにはいくら固定費が安くても経営はやっていけない。地域のお店を積極的に使うという姿勢が必要なのはもちろんである。

「地方創生」のためには、もちろん「稼ぐ力」も大事だが、「稼いだお金をどう使うか」ももっと重要なことなのだ。せっかく稼いだ「外貨」をAmazonで使ってしまっていては、そのお金は地域経済を素通りする。だから「お金の使い方」を少し変えるだけで、もしかしたらその地域はもっと多くの人を養えるようになるかもしれないのである。

かつての大浦町は、貧しくてもたくさんの人が住み、活気に溢れたところだった。そして「理想の農村」になるよう努力した。広大な干拓地を造成し、農地の効率化を行い、積極的に機械化を推し進め、他の地域に先駆けて農業の近代化を達成した。しかしそれが不可避的に招いたのが、鹿児島県でも最も急速な人口減少であった。その背景には、人々のお金の使い方の変化がかなり大きく影響していたと私は思う。大浦町は「稼げる地域」にはなったが、お金を町内で使わない地域になっていたのである。

もう一度言うが、お金は地域内で循環する限り価値を生みだし続ける。大浦町が失敗したことが一つあるとすれば、それはお金が循環する経済を創り出せなかったことだ。

でもまだ遅くはないのである。町内でどうにかするのは無理だとしても、「南薩」くらいの単位であれば、そういう循環はまだまだ可能だ。

大浦町には干拓や基盤整備された効率的な田んぼがある。悪条件の山村に比べたら間違いなく「稼げる地域」だ。あとは「稼いだお金を使える地域」にもなれば、その時に本当の意味での「理想の農村」になれるのだと、私は思っている。

(おわり)

【参考文献】
「大浦町の農民分解と今日の農業問題」2002年、朝日 吉太郎  

2020年3月14日土曜日

突如として出現しただだっ広い公有地をどう使うか

国道226号の、大浦の入り口にある物産館「大浦ふるさとくじら館」の、その隣に、昨年、結構広い土地が出現した。

ここは以前田んぼだったところだが、湿田だったためか、それとも水がなかったためか、それはよくわからないけれども、とにかく耕作放棄地になっていた。

それが、土砂の搬入地となり、あれよあれよという間にかさ上げされ、サッカーフィールドくらいの広さのなだらかな台地になった。この土砂というのは、国道226号線を南下したところに昨年掘削した「笠沙トンネル」を掘った時に出たものだ。

要するに、「笠沙トンネル」を掘った土が大浦に運ばれて、その土で結構だだっ広い土地が出現したわけだ。

このことはちょっとした機会に耳に入ることがあったし、ここへ土砂が搬入してくる時も「笠沙トンネルの土砂を運んでいます」みたいな表示があったから、みんなわかっていたことだろう。

ただ、わからないのは、この新しくできた土地をどう使っていくのか、ということである。

「大浦ふるさとくじら館」には駐車スペースはたくさんあるが、そのほとんどが裏手の第2駐車場で正面側にはあんまり車は駐められない。混雑期にはすぐに駐車場に入りきらなくなってしまうので、駐車スペースの増設が求められていた。ということで、この新しいスペースの一部は「くじら館」の駐車場になる、という話がある。

しかしそれは道沿いのごく一部で済んでしまう。残り90%以上の広い土地は、どうやって使うのだろう?


私は常々、鹿児島の公共事業は、説明不足が致命的欠陥だと思っている。というか、正確に言えば「地域住民に事業内容を説明しないといけない」という考え自体がほとんどないように見える。

今思い出したが、以前もそういう記事を書いたことがある。

【参考記事】大浦川の改修工事にこと寄せて
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2015/01/blog-post_23.html

関東の方だと、公共事業だけでなく民間の大工事(巨大なビルの建設等)においても、工事現場の説明版に「このような工事をしていて、完成予想図はこれです」みたいなことが説明されるのが普通である。 ところが鹿児島の場合、法律によって表示しなくてはならない工事概要の他に、完成予想図などが掲示されることは極めて稀な気がする。

一昨年、加世田の本町公園(南さつま市観光協会の隣の公園)が大改修した時も、完成予想図一つ掲示されていなかったように思う。もしかしたら本町の住民には説明会があったのかもしれないが、仮にあったとしても、広くお知らせして要望や意見を聞くといったようなことはなかった。あくまでごく一部の関係者で情報共有しておしまいなのだ。

みんなが使う公園ですらこういう感じだから、今回のように土砂搬入がメインの工事で事業内容がほとんど説明されないのはまあ当然である。

私は、公共土木事業には反対ではない。ただ、事業内容がブラックボックスで決まり、住民との対話もなく、「由らしむべし、知らしむべからず」式に上から与えられるだけの公共土木事業はまっぴら御免なのだ。せっかく実施する土木事業だから、住民の夢や希望が詰まったものであってほしい。せっかくお金を使うのだから、より愛される施設になってほしい。そのためには、「開かれた公共土木事業」になる必要がある。

特に鹿児島の経済は公共土木事業に負っている部分が大きいのだから、日本の公共土木事業をリードする、というくらいの気概を持って欲しい。それは施行の内容はもちろん、周囲と調和したデザイン、環境保護やメンテナンス性など、色々な観点から見て先進的なものであるべきで、そして設計段階からの地域住民と対話し、多くの人のアイデアや希望を踏まえる、というプロセスも一流のものであって欲しいと思う。

……ちょっと話が広がりすぎたが、話を戻すと、昨年、大浦にだだっ広い公有地が突如として出現したわけだ。これをどう使うのか?

私はアイデアのない人間なので広い芝生の公園にするくらいしか思いつかないし、それすらも維持費を考えるとグッドアイデアとは言えない。でもだからといって、土砂搬入したところをなし崩し的に藪にしてしまうというのは、公共事業としてちょっと問題ありだ。市の方で何か考えがあるならそれを住民に示して意見を聞いて欲しいし、何も考えがないならなおさら意見を聞いて欲しい。その結果、どうしようもないよね、といって藪になるなら全然OKである。


もちろん、役所が住民と対話するにあたっては、住民の方にもそれなりの見識が求められる。そういう説明会をすると、文句を言いたがりの「話が通じない人」がしゃしゃり出る、という問題も確かにあって、役所が敬遠するのも無理はない面がある。

しかし大浦は小さなコミュニティーである。穏当な対話が成立すると信じる。この土地をどう使うか。または使わないか。そんな対話が始まることを期待している。

2020年3月7日土曜日

保護者の声で学校が動いた…! はずがそれを教育委員会が止めた話

新型コロナウイルス対応ということで小学校が休校になった。南さつま市の場合、とりあえず3月13日(金)まで休校ということである。うちの娘たちはどこにも行くことも出来ず、早くも家の中で煮詰まってきている。

全国的な状況はともかくとして、未だ発症がない鹿児島県で、しかも高速道路も鉄道も通っていない僻地南さつま市で休校措置が必要だったのか、よくわからない。いや、おそらく休校しなくてはならないほどの逼迫した状況ではなかったと思う。

それはともかく、今書きたいのは実は新型コロナウイルスのことではない。だいぶ話が飛ぶようだが小学校の運動会日程のことについてなのだ。

南さつま市では、小学校の運動会は9月最終週または10月最初の日曜日に開催するのが定例になっている(そうでない学校もありますが大体)。うちの娘たちが通う大浦小学校の運動会も昨年は9月29日にあった。

しかしこの時期はまだまだ暑い。当日も暑いがそれ以上に暑いのは練習期間! 昨年は全体練習の時など3人も気分が悪くなったほどだ。まだまだ殺人的な暑さが続く9月の炎天下に練習するのだから当然だ。

別にこんな暑い時にする必要はないんだから、もっと涼しい時期に運動会をしたらよい。1964年の東京オリンピックでも日本は真夏にスポーツするには適さないということで10月にずらしたんだし(なぜ2020年の五輪ではずらさなかったんでしょうか?)。それで10月10日が「体育の日」になったわけで。

ちょうど私はPTAで「保健体育部長」という役員をしていたので、「学校保健・安全・歯科保健講習会」という鹿児島県教育委員会がやっている会議でこれについて発言してみた。

すると県教育委員会はあまり問題視していなかったが、参加されていた先生方(主に養護教諭の方=保健室の先生が多かった)から会議後にすごく反応があり、「よく言ってくれた。盛夏の練習は教員にも負担が大きい。涼しい時期に変えるべきだと私も思っている。でも現場の声は上の方に届かない。上の方は、「運動会は夏でないといけない」と思い込んでいる」「うちの小学校でも、今年は9月に運動会があったので死人が出なくてよかったと思ったのが正直なところ」「教員が言っても変わらないので保護者の声が大事」などと5人くらいの先生から矢継ぎ早に賛同の声をいただいたのである。

こうした声にも後押しされて、運動会終了後にPTA役員会で問題提起したところ、校長先生とPTA会長にもよく理解していただき、保護者アンケートを取ることになった。その結果は、半分くらいが「できたら後ろ倒しした方がいい」というものだった。ちなみにこのアンケートでは数年前から話題に出ていた町民運動会との合同開催についても今後前向きに検討していくという機運が得られた(私が提起したわけではないけど)。

それで、いきなりは日程は変えられないが、2020年の運動会はとりあえず1週間後倒ししましょう、ということになった(小学校の行事だけではなく様々な地域行事(中学校や保育園の運動会、大浦まつりなど)との兼ね合いがあるため)。たった1週間のことであるが、保護者の声で学校が動いた…!

…はずだった。だが、それに待ったをかけたのが市の教育委員会!

「2020年は「かごしま国体」があって10月はものすごく忙しいから、運動会日程は市内小学校で統一したい」というのである。といっても、小学校の運動会に市教育委員会が関わるのは来賓関係のみだ。来賓の都合がつかないから日程はずらせないというのである。

これには私もガッカリした。まあたった1週間のことで、熱中症予防の観点からは実際あまりリスクは変わらないと思っていたから別にゴネはしなかったものの、そういう本質的でない理由で止められるとは心外だった。

ところがである!! 今度の新型コロナウイルス対応では、政府からの「要請」(と県からの指示もあったらしい)を受けて臨時休校を決定した。運動会を1週間ずらすよりも、ずっと大きな課題や調整事項があったにもかかわらず!

運動会日程については、小学校では日程をずらすにあたって地域の体育協会とも相談をし、PTAでもアンケートを取って、それなりに議論を積み上げてきた。しかしそういう下からの意志を無下にする一方で、上からの思いつきの「要請」にはすぐに随うのか。公務員組織だから上意下達は当たり前といえば当たり前だが、それにしてもどちらを向いて仕事をしているのかはっきりわかった気がして残念だった。

新型コロナウイルスも、熱中症もどちらもリスクである。実際、2018年には学校の活動中に愛知県で小学1年生が熱中症で死亡している。また運動会の練習中に熱中症で搬送される小学生はけっこう多い。そういうリスクと、それを心配する保護者のことはほとんど考えもしない市の教育委員会はなんなのか。

新型コロナウイルスでの休校措置の是非はとりあえずおく。ただ、市の教育委員会はもう少し保護者の声にも耳を傾けて欲しい。

2019年5月20日月曜日

「制度の趣旨を逸脱」をめぐる総務省と自治体の「ふるさと納税」合戦

「ふるさと納税」の新基準に合致しない、ということで、鹿児島県では鹿児島市と南さつま市の税制優遇が9月で切られる、との新聞報道があった(全国では43自治体)。

総務省によれば「不適切な寄附集めをしていた」というのだ。南さつま市が不適切とされたのは、返礼率(総務省の用語では「還元率」)は3割以下でないといけないのに、業者に「奨励費」の形でキックバックし、実質返礼率をそれより上乗せしていたから、とされた。

この報道を見て、「ルールを逸脱して寄附をたくさん集めた南さつま市、けしからん!」と思った人もいるかもしれない。

しかし、ちょっと待って欲しい。私も「ふるさと納税」の返礼品を提供している事業者の一員である。内部から見た姿と報道された姿では大きな違いがある。行政からは反論しづらいところだと思うので、微力であるがちょっと思うところを述べてみたいと思う。

そもそも「ふるさと納税」が始まった2008年、今から約10年前には、これは地味な制度だった。寄附額も低調で、さほど注目もされていなかった。だが自治体が返礼品を充実させることにより次第にマーケットが巨大化していく。

「ふるさと納税」は、あくまでも自治体への寄附により税額が控除される制度であって、返礼品はオマケである。

でも、実質的には税学控除分でオマケを購入できることと意味は同じだから、「ふるさと納税」はEC市場(ネットショッピング市場)では、自治体が運営するディスカウントストアというような意味合いになってしまった。

こうして自治体には「ふるさと納税」のディスカウント合戦が湧き起こった。ある自治体などは、「返礼率は100%でもいい! 全部寄付者に還元するんだ!」というような極端なディスカウントをやるところも出てきた。

「寄附額を全額返礼品にまわしたら、自治体の手元にはお金が残らないわけだから、事務の手間がかかる分、損では?」と思う人もいるだろう。しかし自治体が集めたいのはお金ではなかった。「ふるさと納税」をきっかけにしてその地域のことを知ってもらい、ファンになってもらい、そして商品の愛用者になってもらうことが真の目的だったのである。

例えば南さつま市の地元企業は、全国に販路を持っているところは僅かであり、地方的な、地味な商売をしているところが多い。ところが「ふるさと納税」の波に乗れば、別段「ふるさと」を意識していなくても、美味しい肉や魚を安くで手に入れたい人がどんどん注目してくれるわけで、事業者はお金を掛けずにインターネットで全国に広報できるわけだ。そして返礼品を受け取った人の何割かは、今度は「ふるさと納税」と関係なく、その商品を買ってくれるお客さんになってくれるのである。

実際、私もポンカンを「ふるさと納税」の返礼品として出品したが、返礼品を受け取った方が次に普通の注文をくれたということが何件かある。

「ふるさと納税」なんていう制度が長続きするものではない、ということは明らかだから、存続している何年かの間に、地元企業のいくつかが全国にファンをつくり、販路を開き、拡大していくチャンスにできるなら、自治体の手元にさほどお金が残らなくったって、長期的に見れば十分おつりがくるのである。

2015年、2016年にふるさと納税日本一になった都城市は、まさにそういう考えから高い返礼率を設定するとともに、「日本一の肉と焼酎」に特化してアピールを行い、全国的にほぼ無名だった都城を一躍全国が注目する地域へ変えた。例えば2018年度の都城市は95億円もの「ふるさと納税」を集めているが、都城市の返礼率は55%程度と言われているから、地元企業の商品が52億円分売れた、というのと同じことなのだ。地方都市にとって、これはたいした経済効果と言わなければならない。

そしてより重要なことは、仮に「ふるさと納税」の制度が明日終了したとしても、都城市のお肉や焼酎を味わってくれた大勢の人たちは消えてしまうことはない、ということだ。きっとその何割かは、ディスカウント期間が終わったとしてもその商品の愛用者になってくれる。

「ふるさと納税」は、政策立案者が考えてもみなかったこうした効果の方がずっと大きかった。何億円寄付を集めた、ということよりも、オマケだったはずの返礼品によってお金以上の「繋がり」を構築できるかの方が重要になってきた。

ところがこれは表面上、「加熱する返礼品競争」と捉えられた。ディスカウント合戦だとみなされたのである。もちろん、寄附を集めたいがためにそういうエグい競争をした自治体はあった。でも多くの真面目な自治体は、「ふるさと納税」のプラットフォームを使って地元企業をEC市場に参入させ、全国に売り込んでいくためにこの機会を利用したのである。

しかし2017年4月、総務省は「本来の趣旨を逸脱している」として返礼率を3割以下にするよう自治体に通知。これを受けて南さつま市は、2017年9月、正直に返礼率を3割に見直した。

一方で、この通知を無視した自治体も多かった。というのは、通知があっただけで違反の罰則がなく、法的な拘束力がなかったのである。そもそも返礼率3割がなぜ適正かという論理的な根拠もなかった。なぜ返礼率が高いというだけで問題なのか、「競争が過熱している」というが、競争することがなぜ悪いのか、そういう観点は総務省通知には全くなかった。

確かに、「ふるさと納税」は金持ち優遇政策の一つである。金持ちほど得をする制度は、公共の仕組みとしてはあまり褒められたものではない。だがそれをいうなら、太陽光発電の補助金や売電価格保証だってそうだし、エコカー減税だって住宅ローン減税だってそうだ。貧乏人には縁のない、金持ち優遇政策である。なぜ「ふるさと納税」だけが狙い撃ちされなければならないのか、そこは謎だった。

だから多くの自治体が総務省通知を無視して高い返礼率を維持した。そこで馬鹿正直に返礼率を3割に低下させた南さつま市は、大幅な寄附減額に見舞われた。文字通り、正直者が馬鹿を見たのである。

これを受けて、南さつま市では2018年9月、返礼率は3割に維持したままで、「サービス向上費」として業者に15%キックバックする制度を始めた。総務省通知では、あくまでも寄付者への返礼率だけが問題で、自治体が事業者に補助することは何も言っていなかったからである。このようにして南さつま市は、返礼率は3割のままで、実質は寄付者に45%還元する仕組みにした。またこれに合わせて、ふるさとの納税事業者(返礼品を提供する事業者)によって組合(ふるさと納税振興協議会)を作り、より積極的に広報やキャンペーンなどに取り組んでいけるようにした。

ところがこの組合が設立された数日後、総務省は通知が十分な効力を持たなかったのを見て、都城市を名指しで批判し、高額な返礼品を送る自治体を制度から除外する方針を打ち出した。

あわせて10月、返礼率の全国調査が行われた。南さつま市では、別に悪いことはしていないということで、実質45%還元していることを回答。しかし全国で3割を越えたと回答したのはたったの25自治体に留まった。しかし返礼品競争が過熱していたのは事実だ(だから総務省は調査を行った)。多くの自治体では、はっきり言えばチョロマカシによって3割以内だと回答したのである。ここで、堂々と真実を報告した南さつま市を私は誇りに思う。

一方総務省は、多くの自治体が返礼率をチョロマカし、制度の趣旨に逸脱する競争が行われていると見て、2019年6月をもって、ふるさと納税の対象自治体を指定する新制度に移行することとした。南さつま市は上述の通り馬鹿正直に真実を報告していたため、暫定的に2019年9月まではこの指定を受けたが、他の自治体に比べ1年短い指定であった。要するに、6月〜9月の3ヶ月は暫定的に指定してやるから、その3ヶ月の間に返礼率を見直しなさい、というのである。なお、南さつま市は2019年3月に制度を見直し、返礼率を既に3割に低下させているから、おそらく来る9月には再指定を受けることができると思う。

さて、これまでの経過を見てみて、「ふるさと納税」をめぐる総務省の対応は極めてマズかったと言わざるを得ない。

「ふるさと納税」の自治体間競争が過熱したのの、どこに問題があったのか、そこを深く考えず、競争を抑制しようとしたのがいけなかった。そもそも「ふるさと納税」に限らず、政府は自治体間に競争の原理を持ち込もうとしてきたのが最近の流れだった。にも関わらず、実際に自治体間の競争が起きると、「競争が過熱」「制度の趣旨を逸脱している」などといい始めたのである。

そして「制度の趣旨を逸脱している」というのは、そもそもの制度設計が悪いことを自ら露呈しているようなものである。趣旨を逸脱して使える制度、というものがそもそも悪い。総務省は、制度設計が甘かったことを棚に上げて、自分の思うとおり動かない自治体にやきもきしているように見えた。だが10年前、制度の趣旨の通りに運用されていた「ふるさと納税」は寄附額も小さく、地味な目立たない制度だった。それがここまで盛り上がったのは、まさに「制度の趣旨を逸脱」したからであって、逸脱がなければ「ふるさと納税」などほとんどの人が顧みない失敗政策だっただろう。

だいたい、元来は地方の活性化政策だったはずの「ふるさと納税」なのに、実際に自治体が活性化に役立て、総務省の思惑を越えて意義深く活用したら、「制度の趣旨を逸脱している」としてそれに掣肘を加えるというのは、誰のためにやっている政策なのかわからない。「よくぞ我々の思惑を越えて、地方の活性化に役立ててくれました」と褒めてもいいくらいではないのか。総務省は「制度の趣旨」を守らせること自体が目的化しているように見える。

先日、南さつま市役所からふるさと納税事業者向けにお知らせがあった。そこには「再指定に向けても堂々と取組んで参る所存であります、皆様のご協力どうぞよろしくお願い致します」とあった。「堂々と」とわざわざ書いたのが奮っている!

無様なチョロマカシをせず、堂々と「ふるさと納税」に取り組んだ南さつま市は立派だったし、これからも堂々と取り組んで欲しいと思う。

でもチョロマカシをした自治体よりももっと無様だったのは、総務省の方だと思えてならない。

2019年3月29日金曜日

鹿児島県議の働きを一般質問の回数から垣間見ようと思ったものの…

鹿児島県議選が始まった。

以前私は、南さつま市議会議員選挙にあたって、一般質問の質問回数によって議員の働きぶりを垣間見るという記事を書いたことがある。

【参考】「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2013/11/blog-post_15.html

一般質問とは、年に4回行われる定例会において市政に対して自由に質疑を行うものである。一般質問の回数は働きぶりの直接の指標ではないし、なにより市政への意見の方向性は見えないからこれだけで市議としての働きの評価は不可能だが、年に4回しかない機会であるので、市政への積極性を表しているとは考えられる。投票の参考となるのではと思って分析したのだった。

今回の県議会議員選挙でも、同じように現職の任期中の活動を垣間見る参考になるのではないかと思い、同様の表をまとめてみた。それが次の表である。

現職議員の一般質問の回数表
※質問回数が多い順に並べたが、同じ回数の議員の名前は順不同である。
※外字の関係で名前の漢字が正確な表記でない場合がある。
※2019年の第1回定例会についてはまだ議事録が公開されていないので対象にしていない。
※会派名は略称とした。

私もこの表をまとめて初めて知ったが、鹿児島県議会の場合は一般質問は連続ではやらないという不文律(?)があるのか、質問数が多い議員でも一回おきに質問しているようである(例外はあるが)。定例会毎の質問者は16人と決まっているようで、毎回同じ人が質問すると質問できない人が出てきてしまうのでそうしているのかもしれない。

質問回数はごく簡単な指標だが、この表を眺めるだけでもいろいろ分かる。無所属の議員3人は皆よく一般質問をしている。県民連合の議員は平均よりやや下(なお平均は4.7回)。公明党の議員は低調。そして最大派閥の自民党はよく質問する議員もいれば、ほとんどしない議員もいてバラツキが大きい。ただし市議会の場合と違って県議会の場合は会派(政党)の存在感が大きいので、もしかしたら会派毎に質問人数を調整しているのかもしれない。この表を素直に積極性を示すものと受け取ってよいかは一考を要する。

とはいっても、私はこの表を投票の参考にしてもらおうとここに掲載したわけではない。それよりもまず言いたいのは、この表を作成するのにけっこう手間がかかった、ということなのだ。

以前やった市議会の場合は、議会広報紙「南さつま市 市議会だより」に一般質問の内容まで含めて書かれていたので広報紙を見るだけでよかったが、鹿児島県議会の場合「県議会だより」はページ数も少なく非常にざっくりとしたことしか書かれておらず、一般質問を誰がしたのかの記載すらない。

【参考】広報紙|鹿児島県議会
https://www.pref.kagoshima.jp/aa02/gikai/koho/kouhoushi/index.html

そして鹿児島県議会のWEBサイトでは、直近の議会についてはその主な内容が掲載されているものの、平成28年第4回定例会(11月〜12月)より前は掲載されていない(2019年3月29日現在)。

【参考】これまでの定例会等|鹿児島県議会
http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/gikai/koremade/index.html

だからそれ以前の議会の内容を知りたかったら、いちいち「鹿児島県議会 会議録」で会議録を検索して確認しなければならないのである。私は先の表を作成するにあたり、このサイトにお世話になった。

【参考】鹿児島県議会 会議録
http://www.pref.kagoshima.dbsr.jp/index.php/

しかし議会の会議録を参照するというのはかなり面倒だ。普通の人はまず見ないだろう。目的の議案があってそれを確認するため、というならこういうサイトは便利であるが、議会でどのようなことが議論されているか知りたい、という場合にはほとんど使えない。

ともかく、私があの表を作るのに苦労したのはなぜかというと、鹿児島県議会のWEBサイトに情報があまりにも少なく、県議会の活動をほぼ広報していないからなのである。そもそも議員名一覧すらテキストデータで掲載されていない。画像化されているか、OCR(文字認識)が不十分なPDFデータなのだ。だから表を作るにあたって、まずは議員の名前を打ち込むところから手作業なのである。

支援する議員がいる場合は、議員が時々実施する「県政報告会」などで県議会の様子を知ることができるが、そういう会に出席するのはごく一部の人だから、県民の多くにとっては新聞報道や、広報紙と県議会WEBサイトくらいしか県議会情報はない。しかしそこを見てもほとんど個別の議論の内容が書かれていないとすれば、県民にとって県議会はブラックボックスなのだ

そもそも、県議会が県提出の議案を否決することはほぼめったにない。先ほどの会議録で調べたところ、原案が否決されたのは昭和60年以降でたった2回、平成14年と21年にあっただけで、それも議員定数の件である。つまり結果だけを見てみれば県議会は県政をほぼ追認しているだけなのだから、議論の内容をもっとよく見てみなくてはその働きぶりは判断できないのである。それなのにそういった情報は議事録しか出ていないのだから、県民から県議会が縁遠くなってもしかたないだろう。

ただでさえ投票率が低く、選挙だけでなく議会への関心が低い昨今である。若者が選挙に行かないとかいう前に、まず県議会の議論をもっとよく見えるようにし、今何が議論されているのか、それに対する議員個人の賛成・反対、主な議論の展開などをもっと表に出してもらいたいと思う。観光のPRにかける広報予算も大事だが、こういう地味なところにかける広報予算は将来的にはそれよりももっと大きな意義があると思う。

閑話休題。

先ほどの表に戻って、もうひとつ言いたいことがある。実は、この表が仮に議員の積極性を示すものだとしても、投票にあたっては(鹿児島市区を除いて)この表はほとんど役に立たないのである!

鹿児島県議会選挙区(県議会WEBサイトより)
というのは、例えば私の住む選挙区である「南さつま市区」の県議定員は1人。「A議員よりB議員の方がたくさん一般質問をしているからやる気があるなあ」と思ったとしても、B議員の選挙区が違えば投票できない。しかも今回の県議選の場合、1人の定員に対して1人しか立候補がなかったら無投票となった。選びようがないのである! 他にも無投票地区がいくつかある。わざわざ議員の働きぶりをレビューしてみたとしても、ほぼ無意味なのだ。

鹿児島県議会の選挙区は、21にも別れている。ほとんどが1人か2人の定員である。定員が少ないということは立候補者も少ないということだから、有権者にとっては選択肢の幅が狭まっているということだ。この小選挙区制度がいつから続いているのか分からないが、市町村の代表を県議会に送るという旧習に基づくものなのではないかと思う。

かつてはそれはそれで意味があった選挙区割りだろう。 しかし今となってはこのような小さい区割りに意味があるか。南さつま市在住で南九州市へ仕事に行き、遊びに行くには鹿児島市内まで足を伸ばす、なんて人は大勢いる。さらに仕事の営業では県内全域飛び回っているという人だって珍しくないだろう。車社会やインターネットの普及で、人々の行動範囲は50年前よりも数十倍に広がっている。小選挙区はもはや人々の生活実態から乖離していると思う。

また、県政の実質的区割りは「地域振興局」にある。「鹿児島」「南薩」「北薩」「姶良・伊佐」「大隅」「熊毛支庁」「大島支庁」の7つの地域振興局(とそれに準ずるもの)が県政の地区割りである。そしてこれらの地区割りは、それなりに地域の生活実態や地勢に沿ったものになっている。鹿児島県議会の選挙区割りも、「地域振興局」の管轄範囲と一致させた7つにするのが行政的にもスマートであり、有権者にも選択肢の幅を広げる意味でいいと思う。

前回2015年の県議選での投票率は、過去最低の48.87%。これは政治への無関心とかではなく、今の選挙制度が社会の実態にそぐわなくなっているのが真の原因だと思う。民主主義の意見表明の場として、選挙が正常に機能しなくなっている。選挙区割りを変更するだけでもかなり変わるのではないか。

まあ、「選挙区割りを変更するだけ」といっても区割りの変更は一大事である。まずは「議会の見える化」から取り組んではどうか。少なくとも、県議会を知りたいと思った時にそれに応えられるWEBサイト作りから始めたらどうだろう。

2019年3月12日火曜日

「笠沙恵比寿」をどうするか

今、南さつま市は「笠沙恵比寿」の活用に関して「サウンディング型市場調査」というものをやっている。

笠沙恵比寿というのは、南さつま市の笠沙町の、端っこにある野間池(のまいけ)という小さな港町にある宿泊施設である。

【参考】笠沙恵比寿
 http://www.kasasaebisu.com/

笠沙恵比寿を作ったのは当時(合併前)の笠沙町。私は直接にはその頃を知らないが、かなり力を入れて作られた施設だったようだ。

笠沙町は、昭和40年代には既に過疎問題が始まっていたという過疎地域であり、主要産業である漁業も後継者問題に悩まされ、町の将来への危機感があった。一方で、東シナ海の壮大な景観や豊かな漁業資源に恵まれているという強みもあった。そうしたことから、町は観光による地域振興を模索し、様々なことに取り組んできた。

例えば、海岸沿いを巡る道(当時の県道笠沙枕崎線)を国道226号に昇格させた(1993年頃)。この道は、昔は「この道をよくぞバスが通れたなあ」というような、離合の出来ない、崖をへばりついて進む狭い道だったが、国道昇格後は整備が進み、今ではすばらしいドライブコースになっている。226号線沿いの写真スポット「南さつま海道八景」は、間違いなく日本有数の景観群である。

【参考】これぞ絶景!南さつま海道八景|南さつま市観光協会
https://kanko-minamisatsuma.jp/feature/8038/

また、笠沙には明治以来、数多くの杜氏(とうじ:焼酎づくりの職人)を排出してきた黒瀬という集落がある。この技術の伝承を行い地域おこしにも役立てるため、焼酎造り展示館である「杜氏の里 笠沙」も設立(1992年)。ここのつくる「一っどん(いっどん)」という焼酎は抽選でしか手に入らないほどの人気商品になった。

【参考】杜氏の里 笠沙
http://www.toujinosato.co.jp/

さらに1998年には、杜氏の里 笠沙の近く、沖秋目島という無人島を望む最高の立地に、「笠沙美術館」を設立。景観自体が美術作品のような素晴らしい美術館であり、私自身、南薩で一番好きなのがこの美術館からの眺めで、好きが高じて「海の見える美術館で珈琲を飲む会」というイベントを毎年開催しているくらいである。

そして2000年、こうした取組の集大成として作られたのが「笠沙恵比寿」なのである。

笠沙恵比寿は単なる宿泊施設ではなく、「海」を総合的に楽しむ上質なレジャーを目指すものであった。ホテルやレストランだけでなく、海の博物館までも併設し、釣りやクルージングはもちろん、昔はホエールウォッチングまで楽しめた(記憶があやふやですが)。

設計したのは、今では鉄道車両デザインで著名な水戸岡鋭治氏。館内には水戸岡氏が描いた笠沙に生きる生き物たちの絵がたくさん掲げられ、博物館部分だけでなく施設全体にアート的な雰囲気が横溢する(ちなみに笠沙美術館も水戸岡氏のデザインである)。

笠沙恵比寿は、遠くから「ホンモノ」を求める客を呼び込もうという構想だった。

それはある程度成功したのだと思う。このあたりの相場からは高い宿泊費や食事でも、最初は客が入った。しかし第三セクターによる運営は、どうしても民間的な競争の中ではやっていくことができなかった。

次第に客足は遠のき、売上は右肩下がりになった。客室が10部屋しかないというのもホテルとしては大きな足かせで、上質を求める少数の客を相手にする戦略が裏目に出た。2015年からは指定管理者としてJTBが切り盛りしたものの、どうも挽回とまではいかなかった模様である。こうして、テコ入れを図る必要が生じた。

そういうわけで、この 「サウンディング型市場調査」が行われることになったようである。「サウンディング型市場調査」というのは私も初めて聞いた。要するに、「どうやったら活用できそうか、ゼロベースで意見や提案を下さい」というものらしい。ただし、意見を言えるのは実際にその施設を利用していく可能性がある法人・個人なので、例えば私なんかが意見を出すことはできない。

【参考】笠沙恵比寿の活用に関するサウンディング型市場調査の実施について|南さつま市
http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/jigyosha/shigoto-sangyo/shokogyo-kigyo/e021494.html

こういう調査を行うこと自体はよいと思う。何しろ、高級路線の施設というのが公共施設として異色であり、行政による運営に向いていないというのは明白である。笠沙恵比寿の当初のコンセプトを貫徹するならば、民間に売却するのが最も自然かもしれない。

しかし、何にせよいえることだが、「何を」やるかよりも、「どう」やるかの方がずっと重要である。「民間に意見を聞く」のはいいとして、この調査に関する説明会も何もないようだし(参加申し込みした事業者に対する説明会はあるが、「こういう調査をやっているのでぜひ参加して下さい」という説明会がない)、WEB以外のどこで広報しているのか不明である。まさかWEBのみということはないだろうが、積極的に広報している感じがなく、誰に提案してほしいのかという意志をあまり感じない。

先日、鹿児島市が「鹿児島市ブランドメッセージ&ロゴマーク」をみんなの投票で決めようというイベントをしたが、そこにモデル・YouTuberの“ねお”さんを呼んでいたのを見習うべきだ。これは、ただ投票をお願いするだけといえばだけなのであるが、人に意見を聞くためにはどれだけ工夫が必要かというのをまざまざと見せつけられた思いである。「意見を言わない人が悪い」などと言っている時代ではなく、人の意見を聞くためにコストをかけなければ、後で大変な目に合うのが現代である。

【参考】みんなで選ぼう!鹿児島市ブランドメッセージ&ロゴマーク|鹿児島市
https://www.city.kagoshima.lg.jp/kouhousenryaku/citypromo/logo/ivent.html

笠沙恵比寿の場合は、このブランドロゴの場合よりもずっと意見・提案の必要性が大きいわけだから、もっとずっとコストをかけてもいいのである。例えば、東京や大阪などに職員が出張していって、大手デベロッパーやコンサルに話を聞くということから始めてもよいと思う。まずは星野リゾートのようなやり手リゾート運営業者に意見を聞いてみたらどうか。

さらに、些末なことと人はいうかもしれないが、参加した事業者からのヒアリングが1事業者あたり30分〜1時間だそうである。せっかく提案に来てくれた業者に、話を30分にまとめろというのはさすがに短すぎないか。こういうことは言いたくないが、ちょっと「上から目線」を感じる調査なのである(私のこのブログ記事だって上から目線じゃねーか、と言われればその通りなんですが…)。

そしてもう一つ付け加えるべきなのは、民間業者からの意見・提案を聞くのと並行して、やはり地域住民の意見ももっと聞くべきだということだ。これには役所の方も「今までさんざん意見は聞いてきました」と反論するに違いない。それはそうである。しかも住民の方では笠沙恵比寿の高級路線を理解せず、「もっと手頃な価格にしてほしい」といったような意見もあったそうだし、住民の総意に基づいた運営にしたら、たぶん笠沙恵比寿はやっていけない。

しかし、である。公共施設である以上、住民の「こういう町になってほしい」「こうなったらいいな」という夢に基づいていなければならないと私は思う。そのためには、今までさんざん意見は聞いてきたとしても、やはり住民の意見を聞く必要がある。そして、「住民の意見」なるものは、実はもっとも聞き取りづらいもので、本当にホンネの意見を聞こうと思ったら、大げさに言えば「合宿」をしなければならない。少なくとも、WEB上のパブリックコメントなんかでは本当の住民の声は集めることができないと思う。

もちろん役所にしてみれば、生産的かどうかもわからない「住民の声」なるもののためにそんな時間は割けないと言うだろう。それでなくても人が減らされて忙しいのに。でも私は、そういう一見無駄な作業こそが真に生産的なものになると信じている。

笠沙恵比寿をスマートな施設にするだけなら、たぶん星野リゾートに売却するだけで十分だ。きっと今よりは繁盛して、雇用も生まれて、住民も満足するだろう。人が羨むステキな施設になるに違いない。でもたぶん、それでは「こうなったらいいな」という住民の夢を紡ぎ出すという作業は、どこにも介在する余地がない。

南さつま市は「夢を紡ぐまち」を掲げていて、「夢を紡ぐ」という市民歌もある。私は、このスローガンは割とよいと思っている。経営に行き詰まった施設をどう処分するか——というような話では夢がなさ過ぎる。行き詰まった時こそ、理想を語らねばならない。1990年代からの笠沙町の意欲的な観光振興施策の集大成としてできたのが笠沙恵比寿だ。ぜひ前向きに話が進んで欲しい。
 

2017年11月16日木曜日

「立候補しなかった人」の責任

南さつま市長・市議選である。

私は、前回4年前の市議選において、「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る という記事を書き、現職市議の働きぶりを一般質問の回数で表してみるということをした。

その記事でも書いたように、この回数だけでは働きぶりを判断することは出来ないが、少なくとも市政を糺していこうとする積極性くらいは表していると考えられるため、今回も同様の表を「市議会だより」からまとめて作ってみた。それが下の表である。
※今回の市議選に出ていない人も含めて現職議員全てを掲載。順番は質問回数+五十音による。
※年月は、「議会だより」の掲載号に対応。
※議長は室屋 正和氏

質問回数に応じてなんとなく色分けしてみたが、市議会の一般質問では「ほぼ毎回質問する議員」「ときどき質問する議員」「ほぼ質問しない議員」がいることがよくわかる。

ところで4年前の記事では、各議員の関心事項まで分析した。だがこの作業は大変時間がかかるもので(というのは、質問事項を「市議会だより」のPDFから簡単にコピーすることができないから)、ちょっと今その時間的余裕がないため、今回はその分析はしていない。

その代わり、今回の市議選に立候補している19人という集団についてちょっと述べてたいことがある。立候補者は次の通りである。

氏名 年齢 党派 新旧 主な肩書き
今村 建一郎 68 無所属 農業
有村 義次 66 無所属 農業
上村 研一 54 無所属 漁業
貴島 修 66 無所属 農業
大原 俊博 68 無所属 合資会社大原百貨店代表社員
清水 春男 62 共産 農業
竹内 豊 53 無所属 ゆたか代表
平神 純子 60 無所属 無職
古木 健一 75 無所属 無職
小園 藤生 59 無所属 有限会社コゾノ代表取締役
相星 輝彦 50 無所属 商業
坂本 明仁 55 無所属 消毒センター代表
松元 正明 60 無所属 農業
山下 美岳 67 無所属 商業
諏訪 昌一 63 社民 無職
林 耕二 74 無所属 商業
田元 和美 66 無所属 商業
石原 哲郎 64 無所属 農業
室屋 正和 68 自民 (株)日峰測地会長

さて、私が言いたいことは3つだ。

第1に、平均年齢が高すぎる。立候補者の平均年齢は63歳。任期最後の年には67歳になっていることになる。いくら高齢化した過疎の町といっても全人口の平均年齢はこれほど高くないから、市民の代表としては偏っていると言わざるを得ない。やはり、子育て世代(30〜40代)はもっと入ってなければならないし、20代の議員だって1人くらいはいるべきだと私は思う。

第2に、女性議員(立候補者)の数が少なすぎる。今回の選挙では平神 純子氏しか女性の立候補者はいない。市民の約半分は女性である。理想的には、議員だって半分が女性であるべきだ。なぜ女性が立候補しないのか、よく考えて対策していく必要がある。

第3に、そもそも立候補者が少なすぎる。南さつま市議会議員の議員定数は、今回削減されて20から18になった。それでも立候補者は19人。たった1人しか落選しない。議員の正統性は、選挙で選ばれたということにあるのに、ほとんど選択肢らしい選択肢がないことになる。それでも、少なくとも今回選挙が行われることになってよかった。立候補者があと1人少なければ、無投票になっていた。無投票では、市民の代表としての正統性がまったく担保されない。

もうお気づきの通り、この3つについては、ここに立候補している人には全く責任がない。「立候補しなかった人」に責任がある。若い人、女性がどんどん立候補しないから、こういう偏った議会が生まれる。結果として、議会を「わたしたちの代表」として感じられなくなっている。私たちは、どことなく不審感を持って議会をみていないか。

議会は、我々の利害を代弁し、市政を糺し、そしてみんなで「意志決定」をするためにあるところである。議会の決定が、南さつま市民の決定になる。だから私たちは、「私たちの代表」として信頼できる議会をつくっていかなくてはならない。そのためには、若い人や女性の議会への参画は必須だ。

ではなぜこうした人たちは立候補しないのだろうか? 立候補しさえすれば、確率的にはほとんど当選するとしても、やはり立候補しない理由はたくさんあると思う。田舎だから、票はかなりの程度固まっている(誰に投票するか決まっている)ということもある。それに、今の議会のシステムはほとんど自営業の人しか立候補ができない。でも自営業というのは大抵忙しいものであって、選挙の準備などやってられないということもある。さらに女性の場合、未だに「女のくせに出しゃばって」というような因習的な考えに阻まれることも大きいだろう。

こうしたことはすぐには変えられない。でもだからといって議員の平均年齢が60代の現状に甘んじていては、いつまでもまちを変えていくことはできない。「地方創生」は、結局は地方自治のリノベーションに行き着くのだから、若手・女性が強引に出て行かないと、衰退の道を歩み続けることになる。

とはいえ、まさに今選挙が行われているわけで、こんなことを今言ってもしょうがないことだ。今回の選挙については、現に立候補されている方をよく見て選ぶということ以外にはないのだし、これからの4年間については、選ばれた議員の方を我々の代表としてよりよい市政のために働いてもらうしかないのである。

でも、あと4年後にはまた市議会議員選挙がある。その時は、若手・女性が5人くらい立候補してしかるべきだと思うし、そう考えたら、もう今からそのムーブメントを起こしていかなければならないくらいだ。具体的に、それがどういう形をとったらいいのかは今イメージはないが、そういうムーブメントは、抽象的であっても大事な「まちづくり」だろう。

有り難いことに、私などにも「市議選に出てよ!」というような声がある。今のところ、まだ生活基盤が確立していないくらいで、自分のことや家族のことで精一杯だから、とてもじゃないが立候補などできない。それに、仮に立候補して当選したとしても、自分一人では議会で何もできないと思う。やっぱり、話が合う何人かの仲間がいて、「そうだそうだ!」とならない限り、集団の方向を変えていくことは無理である。これは誰にでも当てはまることだと思う。

だから私は、若手や女性がもうちょっと市政に関わっていく道筋を作っていきたいと思う。これは、「自分が関わっていきたい」というより、そういう人を増やしたいという話である。でも、今のところその道筋というのが一体どういうものなのかイメージがない。市政についてどんどん意見を言っていこうみたいな話ではないような気がする。そうではなくて、若手や女性の力でこの街を変えて行こうという気持ちを盛り上げたいということの方が近い。

そういう気持ちが街として盛り上がっていれば、市議選ももっと違ったものになるだろう。

2017年2月2日木曜日

【急告】大坂小跡を日本最大のファブラボにする大プロジェクトがカンパ中!

南さつま市金峰町の大坂(だいざか)で、電気水道ガスを契約しない(ある意味)最先端の暮らし、を送っている友人テンダーさんが、どえらいプロジェクトを立ち上げた。

廃校になった大坂小学校の校舎をまるまる借り切って、これを「ファブラボ」にしてしまおうという壮大な構想である。

「ファブラボ」というのは、ものすごく簡単に言うと「みんなが使える工作室」のことだ。大坂小学校を巨大な工作室に見立てて、ここをみんなでいろいろ作れる場所にしてしまおうというワケである。売り文句は「家も作れる日本最大のファブラボ」! 

ここだけの話、実は私も大浦町にファブラボを作ったら面白いんじゃないかと以前思ったことがある。というのは、ちょっとした工作をしてみるとすぐに分かるが、何か作ろうと思ったらまず重要なのは道具である。そして、その道具を揃えるのにはけっこうお金がかかる。毎度使う道具だったら買いそろえるのもやぶさかではないが、1年に1度くらいしか使わない径のスパナなんかを揃えておくのは(お金と)勇気がいる。でもそういうのを、何人かで共同購入すれば負担も少ないし、無駄も省ける。農業をやっているとちょっとした工作機械が必要になることが多いから、農家の多い大浦では「農家用の」ファブラボがあったら面白いんじゃないかと思ったのだ。

その考えは、結局実現しようという具体的な動きまでには至らなかったが、その考えを何倍も大きく深くした構想を、このたびテンダーさんがぶち上げてくれた。

具体的にどんな施設にしたいのか、というのはテンダーさん自身の書いている説明を読んで頂くとして、これは単なるDIYセンターじゃないというのは強調しておきたい。DIYというより、物事をイチから作り出すことを通じて、社会の仕組みまで見直してみよう、いっそのこと、新しい社会の仕組みまでここからつくってみよう! みたいなところまで到達するのが目標(なんじゃないかと私は思っている)だ。

私は、そこまで大それたことまでには考えが及ばないごく普通の人間だが、そんな私でも期待していることは、こういう施設があることで、自分の手で新たな価値を作り出す人たちが南さつまに集まってくるんじゃないか、ということ!

今の南さつま市民が「自分の手で新たな価値を作り出す人」じゃないかというとそんなことはない。農業をしていたら「日々之DIY」みたいなもので、コンクリも打てば溶接もする、水道工事もしちゃうという人は稀ではない。 でもそれに、もっと違う観点や技術や生き方を身につけている人が加わったら、もっと面白いものが生みだされるんではなかろうか。いや、絶対そうなるはずだ。そう考えただけでワクワクものである。

この舞台となる大坂、というところを知らない人のために付け加えておくと、霊峰・金峰山の裾野にあたる地区で、南さつま市の中では端っこの辺鄙な山の中だが、鹿児島市には一番近い地区である。ここに日本最大級のファブラボが実現したら、南さつま市のみならず鹿児島市の人たちにもかなり利用してもらえることは間違いない。

で、この壮大な構想に必要な資金であるが、現在テンダーさんが「クラウドファンディング」を展開しているところである。「クラウドファンディング」とは要するにインターネットを通じたカンパのこと。このカンパの〆切が2月27日目標金額は250万円! このどえらいプロジェクトにかかる金額としては破格に安いが、これでも南さつま市始まって以来の巨大クラウドファンディング案件であろう。

というわけで、私も早速このカンパに協力した(「パトロンになる」というらしい。)ところである。テンダーさんは私よりもずっと人脈も知名度もあるので、ここで私がお知らせしてもあまり意味はなさそうだが、今のペースではカンパが集まっても目標達成が難しそうという感じがするので、これをお読みのみなさん、ぜひ彼にご協力をよろしくお願いいたします! ちなみに私は2万円しました!

↓クラウドファンディングへのご協力はこちらから(3000円〜です)
鹿児島の廃校に、家も作れる日本最大のファブラボ「ダイナミックラボ」を作る!(Campfire)
※カンパのお礼としていろんなメニューが準備されているのでそれにも注目。

2016年6月27日月曜日

争点なき鹿児島県知事選の争点

鹿児島に、選挙の夏が来る。

参議院議員選挙と鹿児島県知事選。世の中の動きに疎い田舎暮らしをしている身としても、今が政治の分水嶺だと感じ始めているこの頃であり、選択肢は少ないにしても(!)真剣に考えるべき選挙が来たと思っている。

というわけで、まずは身近な鹿児島県知事選から。

現職の伊藤祐一郎と、政治記者出身の三反園 訓(みたぞの さとし)の一騎打ちである。

はじめに告白すれば、三反園さんという人を私は知らなかった。 テレビをほとんど見ないので、未だ三反園さんをテレビで見たこともない。しかし、今回の選挙では三反園さんが勝利すべきだと思っている。なぜかというと、既に鹿児島県民の心は、伊藤知事から離れてしまっていると思うからである。

前回(4年前)の選挙の時点でも、既に伊藤知事は鹿児島県民の心を摑んではいなかったと思う。だが、難しい判断を求められる川内原発再稼働のみに争点が先鋭化していたので、結局は多くの業界団体をまとめていた伊藤さんが当選した。しかし当選後も、県民の代表として信任されたという雰囲気は希薄であり、県民の多くが消去法的に伊藤知事を選んだ感があった。さらに、上海航路問題(※1)、ドルフィンポート再開発問題(※2)といった強引なやり方が目立つ問題が起こり、県民は任期途中にしてうんざりしてきていたと思う。

そして、何でもないことのように見えて、人びとに伊藤県政の時代錯誤を強く再確認させたのが、例の「女子にサイン、コサイン教えて何になる」という発言。伊藤知事の強力な地盤である土建業界すら、最近はドボジョ(土木女子)といって女性の活躍を期待しているのに、本来時代を先んじなければならない知事が、業界よりも遅れた感覚でいるという証左になった。

今回の選挙は良くも悪くも争点がない。両氏のマニフェストを見ても書いてあることは大して変わらない。鹿児島の進むべき道は明らかであり、あとはその手法やセンスの違いということなのかもしれない。でも、何をするかよりも、それをどのように実行するか、ということが非常に重要になってきている。

上意下達的にやるのか、下からの意見集約を行うのか。時間がかかってもオープンに進めるのか、閉鎖的だが早急に進めるのか。派閥を作るか、実力本位で人を選ぶか。同じ大規模イベントを実施するにしても、そういうやり方の違いで結果は大きく変わってくる時代である。今回の選挙は、どういう鹿児島を目指すのか、ということではなくて、どうやってそれを目指すのか、という姿勢を問うものだと思う。つまり「県政への姿勢」が争点だ。

三反園さんの実力は、私にとって未知数である。しかし、伊藤知事よりも新しいセンスを持っていることは確実だ。3期12年、鹿児島を率いてきた伊藤知事は、そろそろ後進に道を譲る時期である。鹿児島は、新しいリーダーを待っている。

(つづく)

※1 赤字路線の上海−鹿児島直通便を維持するため、県職員等を大量に上海に出張させようとした問題。当初予算は1億円だったが、県民からの批判を受けて予算を3000万円に縮小した。私としては、これはそれほど悪い話でもないと思ったが…。

※2 予定されている鹿児島国体に向けて、関係各所との調整なくドルフィンポート(という港湾の商業施設と公園)に巨額の予算をかけて新アリーナを建設しようとした問題。批判が殺到して凍結された。(参考→ のぐち英一郎の鹿児島ガイド #1 「ドルフィンポート体育館事件の解説」by ヨホホ研究所)

2015年10月12日月曜日

人口減少の中で「地域の活力」を維持するために(パブコメ募集中)

現在、南さつま市では、まち・ひと・しごと創生総合戦略「光りが織り成す協奏プラン」のパブコメを行っている。

これについては、策定にあたって市民からの意見募集を行っており、私も以前ブログに書いたとおりいろいろ考えて8件ほど意見を送った。

【参考】送った意見の元になったブログ記事
ざっと見たところ、私の送った意見はひとつも採用されていないようで正直ガッカリしているが、めげてもいられないので、パブコメにもまた違った角度から意見を提出してみようと思っている。

もう一度この「まち・ひと・しごと創生総合戦略」について説明すると、要するに「これから人口減少や高齢化が激しくなるわけだけど、どうする?」という方向性を定めるものである。

私は、人口減少や高齢化によって失われるものは「地域の活力」だと思う。よって、地域の活力を高める施策が必要だ。そして「地域の活力」というのは結局は一人ひとりの活動量に起因するのだから、人口減少の中で「地域の活力」を維持するには、一人ひとりの活動量を上げていなくてはならないということになる。

それをネガティブな面で言えば、自治会の奉仕活動を今よりもっと頑張らなくてはならないとか(草払いの一人当たり面積が増えるなど)、PTA活動の負担が増えるというようなことになる。でもそんなことを今まで以上に頑張ってまで、抽象的な「地域の活力」とやらを維持したいと思う人は少数派である。

だから一人ひとりの活動量を上げるには、みんなが自分の好きなことに取り組む必要がある。好きなことならたくさんやっても負担にならない。だから、人口減少の中で「地域の活力」を維持するためには、誰もが「好きなことに思いきり取り組める」ようになるような環境整備が必要だというのが私の考えだ。

一方で、高齢化によって現役世代の負担が増えることも間違いない。特に介護が必要な老齢の両親を抱えた人なんかは、「好きなことに思いきり取り組める」わけもなく、自分を犠牲にしている現状がある。施設に入れるにしても家計的に厳しかったり、希望の施設に入れなかったりして困っている人も多い。

それに、「好きなことに思いきり取り組む」にも先立つものがいる。 私自身が経済的には底辺の生活をしていて、ある程度のお金がないと趣味もへったくれもできない。それなのにただでさえ少ない収入が社会保障費に取られていくとすれば、どんどん社会は萎縮してしまうだろう。

だから煎じ詰めれば、人口減少や高齢化への対応策として最も必要なことは、若者(現役世代)の労働生産性を上げて所得を向上させること、に尽きるのではないか。所得が増えれば好きなこともできるし、所得が増えなくても自由に使える時間を増やせる。それにお金があれば高齢者の介護もそれほど負担なくできる。

そして、これは私の持論でかつ極論だが、日本の労働生産性の上昇を阻んでいるのは50代以上の人たちの存在である。
上の図でわかるように日本の人口ピラミッドには65歳くらいを中心にして団塊世代があり、この世代が日本の社会を長期低迷に陥れている主要な要因であると私は思う。もちろん、この世代の人一人ひとりに大きな問題があるというわけではない。そうではなくて問題はこの人口構成そのものである。

こういう図が出ると、メディアではすぐに「社会保障費の負担が〜」という即物的な話題になって、それはそれで大きな問題だがそれよりもっと大きな問題がある。それは心理的な問題で、「元気な高齢者」が多すぎる社会は、若い人の考えが通りづらい社会になってしまうということだ(50代はまだ「高齢者」ではないですが)。

こういう社会では、企業や団体での議論が時代遅れなものばかりとなり、若い人の真っ当な意見が通らなくなる。それにより、様々な活動が世界の潮流から乗り遅れて、ますます経済力・活力がなくなり時代遅れが横行する。いや、すでに日本社会はそういう悪循環に陥っていると思う。

一方、戦後すぐの1950年の人口ピラミッドを見てみるとどうか。この社会は随分と活気があったはずだ。事実若い人が中心になって、どんどん新しいことに取り組んでいた。無様な失敗も多かったが、今のように間違いを恐れて萎縮するようなこともなかった。もちろん戦争の傷跡の残る時代であり、ものも金もなく、人々の生活は苦しかった。この頃は「好きなことに思いきり取り組める」ような社会ではなかった。

だが若者の労働生産性を上げるためには、こういう社会を目指す必要がある。つまり、若者が中心になって物事を動かして行く社会に。引いては、今の時代にあった効率的な働き方、暮らし方へと変えていく必要がある。

話を戻して、南さつま市のまち・ひと・しごと創生総合戦略(案)を見てみると、このような視点はほとんどないと言わざるを得ない。この戦略の主要な目標値(2020年に向けたもの)は、
  • 新たな産業の事業化 5件
  • 延入込客数 200万人
  • 企業誘致や就業支援等による新たな雇用 100人
  • 市民の産業関連施策に関する満足度 10%増
  • 安心して暮らせるまちと感じる人の割合 10%増
  • 少子化関連施策に関する満足度 10%増
の6件なのである。私なら、基本目標に「生産年齢の平均所得を10%上昇」を掲げたいところだ(※)。その10%を何で稼ぐかは別に考えなくてはならないにしても、これくらい実現できなくては人口減少の中で「地域の活力」を維持していくことなんて出来るはずがない。

人口減少社会への対応策は、「一億総活躍」などというものではなく、平成版「所得倍増計画」でなくてはならないと思う。

【情報】
パブリックコメント まち・ひと・しごと創生人口ビジョン・総合戦略(案)について
→10月19日までなので期間がありませんが、ご関心があるところだけでも見て意見を出してみて下さい。最初に南さつま市の人口動態に関する説明、市民へのアンケート結果があって、36ページからが戦略の本体です。

パブリックコメント 「第2次南さつま市行政改革大綱(案)」に対する意見募集について
こっちはついでですが、行政改革大綱についても10月25日までパブコメしています。

※正確に言えば、労働生産性を上げることが必要であり、所得は上昇しなくてもいいと思う。というのは、労働時間を短くしてもよいのであって、究極的にいえば暮らしの「ゆとり」が増えればよいのである。でも行政が掲げる目標である以上、計測不能な「ゆとり」よりも「所得」くらい味気ない目標の方がいいと思う。

2015年8月11日火曜日

川内原発再稼働に想う

川内原発が再稼働した。大変難しい問題で、これについてはブログなどでは語らない方がいいような気がする。でも大きな問題でもあるので、県民の一人として洞ヶ峠を決め込むというわけにもいかないという気持ちである。

最初に言っておくと、これを表明するのはたいへん勇気がいるが、私は脱原発派ではない。

震災後にこちらへ移住してきているので、当然私を脱原発派だろうと思っている人が多いだろうし、職業も「百姓」を名乗っているくらいなので、地球環境に負荷を掛ける原発には反対だろうとみなさん想像されると思う。

だが原発推進派というわけでもない。福島であのような事故(そしてその後の情けない対応!)が起こってしまった以上、我々日本人には(少なくとも今は)原発のような難しいものをマネジメントしていく能力がないことが明らかになってしまったので、経産省の言うように原発が「重要なベース電力」を担っていくことなんかできないんじゃないか、とは思っている。20年くらいかけて現在ある原発は順次廃炉にしていくべきではないかと思う。

しかし、それと即時廃炉・脱原発、というのとはちょっと距離がある。

といっても、即時廃炉派の人の意見も分かる部分はある。「喉元過ぎれば熱さを忘れる日本人のことだから、今のタイミングで脱原発できなければ、ズルズルと元に戻っていくのではないか」という危惧が即時廃炉派の人にはあるのではないか。確かに日本人は物事をジワジワと地道に変えていくのが不得意である。変えるときは一気に変えるのが性に合っている気もする。

川内には直接の友人はいないので、川内の人が原発をどう思っているのかはよくわからない。でも伝え聞くところによれば反応は複雑だ。原発推進や反原発といったわかりやすい主義主張の対立というより、その中間の大きなグレーゾーンの中で人々は落ち着かない日々を過ごしているように感じる。

元々川内原発は(他の原発も似たようなものではないかと思うが)地元の熱烈な誘致によって出来たものである。これといった産業がなかった川内の活性化のために原発を呼び込んだのである。当然、その際には原発の危険性などは地元住民には十分に伝わっていなかったし、原発誘致をした当人ではない現在の川内の住民たちに責任はないが、設立の経緯からすると川内に原発が立地していることの責任は九電のみにあるわけではない。

そして、川内という地方都市は、原発があることを前提に発展してきた。もちろん事故は怖いわけで、ないならないに越したことはない。でも経済の基盤をいきなり失うのも怖い。今は暫定処置として稼働していない原発(が立地する自治体)にも交付金が出るようになっているが、そんな制度は長続きしないだろうし、何より原発が稼働しなければそこに働く多くの人が失業することにもなる。地元住民としては、脱原発するにしても次の経済基盤を作るのが先決、という気持ちではないだろうか。

政府及び九電は、法律によって必要な手続きではなかったにも関わらず、再稼働には事実上地元自治体の同意が必須だとして、議会へ意見を求めた。そして薩摩川内市の市議会、また鹿児島県議会でも再稼働に同意する議決が出ている。今回の再稼働は民意を無視しているという人もいるが、手続き的には民意に添っている。直接恩恵を受けるわけではない周辺自治体の人たち(私もその一人)の意をあまり汲んでいないという批判はあるにしても、まるきり政府や九電の独走というわけではない。

もちろん、薩摩川内市の市議会、そして県議会が市民や県民の真の代表たり得ているか、ということは一考を要する。ちょっと産業寄りすぎるきらいはある。でも私の実感として、市民や県民の複雑で割り切れない思いを議会はそれなりに共有していたように思う。

ただ、再稼働同意ということが最終的な民意か、というとそれは違う。割り切れないグレーゾーンの人たちが、暫定的に選んだのがそれであって、川内はこれからも原発の街でやっていく! という結論が出たわけではない。その意味では、まだまだ議論すべきことはたくさん残っていて、私としては、ようやくこれから落ちついて議論ができるようになったのではないかとも思っている。

ここですごく心配なことがある。原発再稼働そのものよりももっと心配だと言ってもいい。それは、脱原発派、原発推進派、そしてその間のグレーゾーンの人たちの間で、全く対話が成り立たないことである。

脱原発派の人たちは、原発推進派の人たちを政府の狗か経済至上主義者の愚昧な輩と思っているし、一方原発推進派の人たちは、脱原発派の人たちを現実を見ないお花畑だと思っている。互いに互いをバカにしていて、「バカだからあっちの派閥なんだろう」と互いに思う始末である。

こういう調子だから全然対話が成り立たない。お互いに見ているものが違いすぎて言葉が通じない。互いに軽蔑し切っているから、対話するための最低限の条件、いやたった一つの条件である「互いを尊重する」ということができない。今こそ対話が必要な時なのに、対話どころか挨拶すらできないような状況になっているのは残念だ。

そしてもっと気になるのはその間のグレーゾーンの人たち。脱原発派と原発推進派がいがみあっているものだから、どうしてもそこから距離を取ってしまう。普通の人の普通の意見が表明しづらくなって、元より割り切れない意見がさらに曖昧なものになる。この人たちはその考えの深さの度合いはともかくとして、対話や議論の先に現実的な解決策を見つけなければならないと感じている人たちだと思う。それが議論の輪の中に入ろうとしない、それが最も危険なことのように感じる。極端な意見だけが取り上げられて、それが対立を更に煽り、普通の人がどんどんそこから遠のいていく。

もちろん、過激な意見も時に必要である。水俣病の時には過激な意見がなければ住民は見殺しされていただろう。国家権力に逆らって正しいことを成し遂げるには時に住民をも置き去りにするような過激さが必要だ。しかし今の場合はちょっと違う(と私は思っている)。鹿児島県民は、落ちついてどうすべきか考える時ではないか。

こういう時には、モデレーターがいる。つまり調停者である(皮肉なことに、原子炉の減速材という意味もある)。異なる立場にある人の間を取り持って、少なくとも対話が成立するようにする人だ。いがみ合うのではなく、より大きな立場で(極端に言えば人類全体くらいの視野をもって)共通の土台に立って共に前進できるように取りはからう人だ。

今はアクティビスト(活動家)には事欠かないがモデレーターはどこにもいないようだ。このように対立が深い問題なので、これを調停してやろうと思うような人はいないのだろうし、双方が、そのような対話路線を取ることは愚かなことだと思っているのかもしれない。

私にもう少し力があれば、こういう時に、政府・九電や産業界と脱原発派の間で少しでもよいから対話できる機会を作ってみたいと夢想する。地元の、本当に地元の普通の人と、政府の下っ端の役人や九電の中間管理職と、脱原発でユルく活動している人に、同じ席に座ってもらって、「いやー、最近本当に暑いですねー」みたいな挨拶程度の、中身のない話をする場を設けてみたい。それで何かを変えるのじゃなくて、みんな同じ人間なんだということを確認したい。

どこかに絶対の真理があるのではなく、一寸先は闇の中を手探りしながら人間は先へ進んでいく。手探りするならその手は多い方がよい。脱原発派も原発推進派も、そしてその間の人も、未来へ向かって手探りするのに手を貸して下さい。