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2021年12月27日月曜日

パチンコ屋が潰れて、跡地にまたパチンコ屋ができる街

今年のうちに、今年一番のガッカリ、について書いておきたい。

以前、「イケダパン跡地の有効利用」という記事を書いたことがある。加世田の街の中心部に、イケダパン跡地が廃墟化した区画が残っているからそれを有効利用した方がいい、という内容だ。

【参考】
イケダパン跡地の有効利用
https://inakaseikatsu.blogspot.com/2016/01/blog-post_22.html

その跡地は、どういう経緯か知らないが「株式会社正一電気」というところが再開発することとなり、「いろはタウンかせだ」という複合施設が2018年に誕生した。 今ではヤマダ電機を中心にコメダ珈琲、シャトレーゼなどが入った、駐車場350台を擁する施設になっている。

これによってさらに加世田中心部は再開発的機運が高まってきたように見受けられた。

そんな中、「いろはタウン」に隣接するパチンコ屋「T-MAX」が廃業し取り壊された。 実はこの「T-MAX」は、元々はイケダパンが経営していたパチンコ屋を、市丸グループ(鹿児島の企業)が買収したものだ。1985年に買収したそうだから、建物がだいぶ老朽化して廃業したのだろう。この由来を考えれば、「T-MAX」の取り壊しはイケダパン跡地有効利用の一環であるように思われた。

「T-MAX」の取り壊しに続いて、新たに店舗が建設される工事が始まった。

私は、どんなお店ができるのだろうと楽しみにしていた。「けっこうお店は大きい。駐車場らしき建物も大きそうだ。いろはタウンと同じような複合施設だろうか…」と建設工事を見るたびに期待を膨らませたものである。

ところが!!

なんとオープンしたのは、またパチンコ屋「イエスランド」だったのである…!! パチンコ屋が潰れて、またパチンコ屋ができた。そんなことってアリかよ。

いや、何も私はパチンコをひどく毛嫌いしているわけではない。もちろんあまり誉められた娯楽ではないと思うし、私自身は全くやらないが、節度を持って楽しむならば無害な遊興なのかもしれない。

だが、加世田には既にパチンコ屋が林立しているのである。街の中心部にあり、もはやランドマーク的な存在感がある「モリナガ」、ニシムタの裏手にある「ダイナム」、本町の「京極」とモリナガの近くにある「ライト京極」といったパチンコ屋が犇めいているのだ。

その上、パチンコ 559台/スロット 232台で地域最大の規模の「イエスランド」が参戦したわけだ。連日駐車場もいっぱいで繁盛しているように見える。すっかり飽和しているのかと思っていた加世田のパチンコ界が、意外な需要を抱えていたことを気づかされると共に、いろんな意味でガッカリしたのが正直なところだ。

ちなみに「イエスランド」を含め、加世田にあるパチンコ・スロットの数を合計すると、

パチンコ  1646台/スロット 722台 合計2368台

にも上る(私調べ)。南さつま市の人口は32,946人(2021年11月末時点)。このうち、未成年がだいたい5000人くらいいるので、成人人口に対してほぼ10%の数のパチンコ・スロット台があるということになる。これはさすがに多すぎではないか。

もちろんこれは、パチンコ屋のせいではないのである。これだけのパチンコ屋に行く人がいる、という事実がパチンコ屋を呼び寄せているのだ。

私は、人生には無駄が必要である、と常々思っている。パチンコやスロットに費やす金は無駄だとは思うが、アウトドアやスポーツなどのもっと健全なレクリエーションだって無駄だし、極論を言えば読書だって無駄だと思う。しかしこのパチンコ・スロットの数を考えると、街ぐるみで随分な無駄遣いをしているということになりはしないか。

「お金は賢く使いましょう!」なんてつまらないが、それにしても、うーん、「もうちょっと前向きなことにお金を使った方がよくありませんか…」と思っちゃうのである。

日本は今、急速に貧しくなりつつある。この25年ほど、ほぼ全く経済成長していないのだから、世界の国々に置いて行かれるのは当然だ。とはいえ同時に、社会に全くお金がないというわけでもない。現に南さつま市も、高齢化と人口減少に喘ぐ典型的な崖っぷちの街ではあるが、まだまだ2368台のパチンコ・スロット台を支えていける経済的余力は持っていることになる。

問題は、その「余力」をどう使うか、ということだ。これは日本全体にも言える。貧しくなりつつある中だからこそ、未来を創ることにお金を使いたい。

いや、「未来を創る」なんて大げさでなくて、もっと正直に言えば、今でも十分多いパチンコ屋より、街にないものが欲しかった。発想がつまらねーと思うかもしれないが「スターバックス」 「無印良品」「ケンタッキーフライドチキン」「餃子の王将」…そういう店だった方がまだずっと嬉しかった。

都会にいる人は、こういうフランチャイズの店が地方都市を画一化して、さらに衰退を早めることになる、と思うだろう。それはおそらく正しい。でも、そういう店が進出してくる街の方が、パチンコ屋が潰れて、跡地にまたパチンコ屋ができる街よりは、まだ未来がある。

何にお金を使うのか、みんなの選択が街をつくる。

2021年8月11日水曜日

小学校のPTA会長になりました

実は今年度、小学校のPTA会長になってしまった。

もちろん、人望があって選ばれた…とかではない。うちの娘たちが通う大浦小学校は全校の児童が約50人しかいない。保護者の数は30組くらいだったと思う。

PTA会長は6年生保護者から選ばれるとは決まっていない…のだが慣例的に6年生保護者が多い。うちの娘も、はや小学6年生。というわけで、いわば「順番」で回ってきたというのが実態である。

小さな小学校の場合、PTA役員をやらされる(確率が高い)というので敬遠する人がいると聞くが、小さな小学校のPTAの場合、PTAの役員も結構ラクである。メンバーには気心が知れた人が多いし、メンバーが少ないから連絡の手間もあんまりない(まあ最近はLINEとかでの連絡が多いが)。

ところが、PTA会長になるとやたらと会議があってこれが大変なのに、なってから気づいた。しかもその会議が、「こんな会議いるの??」というのが多い。

先日は、「第1回 南さつま市校外生活指導連絡会」という会議に出た。この会議は何かというと、校外生活指導……いわゆる「補導」の共通化を図るためのものである。

なぜ「補導」の共通化が必要かというと、例えばある地域では「午後7時以降は子どもだけで外出してはいけない」といった決まりがあるとする。7時半にコンビニの駐車場でたむろしている中学生に対して「こら、こんな時間にダメじゃないか」と「補導」した際、その子どもたちが隣の学区から遊びに来ている子どもたちで、「うちの地域だと8時まではOKとなってるんですけど?」と反論される場合がある。…だから共通化が必要、ということらしい。

特に夏は、夏祭りなどで遅い外出が多くなるので、それに先だって今の時期にこういう会議が行われるとのこと。

しかしながら地域の実態を考えると、こういう会議は不要である。なぜなら、大浦のような南薩の過疎地域には、「補導」の主な舞台であるゲームセンター、ボーリング場、カラオケボックスなどない。それどころかコンビニもなければ夏祭りもない(←コロナ禍だからないのではなくて元からない)。いわゆる「不良」がたむろするような場所がない…というか、不良少年少女がいない。というか子ども自体がいない。「補導」なんかいらないのだ。

南さつま市全体で言っても、「補導」が必要に思えるのは加世田中心部のみで、それにしても鹿児島市内の事情とはずいぶん違う。

そもそも、少年少女の「非行」を防がなければならないとして、もはやそれの主戦場はSNSなどバーチャルな世界に移行している。もちろん「補導」が必要な地域は未だにあるだろうが、特に田舎の場合はバーチャルの比重が大きいのだから、 こういう会議は全く不要だと思う。

じゃあ、なんでこんな会議が行われているのか? もちろん前時代からの名残ではあるのかもしれない。でもそれにしても、大浦なんか昭和40年代から過疎化しているところなので、「補導」が必要だった時代があるのか疑わしい。

実はこの会議にはもっと実務的な背景がある。それは、学校の先生にとって「補導」は職務ではない、ということだ。公立学校の教職員に超過勤務を命じることができる4原則というのがある。それは、

・実習
・学校行事
・職員会議
・非常災害などに必要な業務

である。「補導」はこのどれにも当たらない。だから学校長は先生に対して「夏祭りがあるから○月○日、××先生は補導をお願いします」とか命じることができない。もちろん、個々の先生が善意で補導活動を行うことはできるがそれは職務に位置づけられないボランティア活動である。

しかし現実に「補導」が必要な場所がある。夜遅くにゲームセンターで遊んでいる子どもは、家庭や友だち関係になんらかの問題を抱えていることが多く、ある意味では「補導」はそうした子どもに適切な支援を繋げていく機会となっている。

そこで鹿児島県では(というか多くの都道府県で同じだと思うが)、「補導活動」に対する予算を組んで、「補導」を行う先生に謝金を払う仕組みを作った。校長から命じられる通常の職務ではなく、県からの委託事業として「補導」を位置づけたのである。

ところが県が個々の先生と委託契約をするのは面倒だしあまり意味もない。そこで、各地に「校外指導連絡連絡会」みたいなのを作って、そこに補助金として予算を流すことにした。そして個々の先生には「連絡会」の方から謝金が支出されるのである。この会は、そのために存在しているといっても過言ではない団体なのである!

そして、各学校のPTA会長が、「こんな会議いるのかな〜?」と思いながらもその会議に出ている、ということになる。

この会だけではなく、そういうのが昔ながらの会議には多い。いや、最近出来た会議にもそういうのが多い。

現実的な課題解決に繋がるものだったら、大抵の保護者は喜んで参加する。しかし形式ばかりで、中身のない会議をやるからPTA活動が面倒なものに思うのである。

しかも現実の課題解決には繋がらない、というかむしろ現実を見てもいないのに、こういう会議はやたら大仰で立派な大義名分を掲げている。なんだかその態度にしらけてしまう。

そんなわけで、PTA会長になってみて一番思ったのは、「無駄な会議多すぎ、現実見てなさ過ぎ」ということなのだ。

「校外生活指導連絡会」みたいな会議には正直あんまり出たくないが、不登校や学級崩壊やDV被害や困窮家庭問題など、具体的な問題を解決していくための活動なら、PTA会長として微力ながら尽力していく所存です。

2019年2月24日日曜日

海からやってきた2頭のクジラ

先日、笠沙の小浦に2頭のクジラが打ち上がった。

下の娘がクジラを見てみたいというので保育園から海岸まで直行。正確な場所は聞いていなかったが、行けば人だかりがあるだろうとタカをくくって進むと、果たして大勢の人が集まっているところがある。自宅から車で15分ばかりの岩場に巨大なクジラが横たわっていた。

クジラは大きい、と頭で分かってはいても、実際間近で見るのは初めてで、大きさに圧倒された。あまりにも大きいので、逆にリアリティが感じられないほどだ。20m弱のマッコウクジラで、重さは40トンくらいではないかという話だった。

クジラは、発見された時には既に死んでいたそうだ。こういう巨大なクジラは、浮力で体を支えなくては自らの重みに耐えられないため、陸に上がると体が押しつぶされ死んでしまうのだという。それとも元々病気で弱っていて打ち上げられたんだろうか。

娘たちは、意外とケロっとしているように見えたが、次の日、上の娘は過去最長の日記を書いていた。やはり、強烈な印象を与えたのかもしれない。そして、下の娘が夜の読み聞かせに読んでもらおうと本棚からとってきたのが『海に帰った4頭のクジラ』という絵本。私自身、この本を読みながら、なぜか感極まって泣きそうになってしまった。

『海に帰った4頭のクジラ』
『海に帰った4頭のクジラ』はニュージーランドのダニーデンという港町で実際にあった出来事を描いている。ある日11頭のヒレナガゴンドウという小型のクジラが海岸に打ち上げられ、それを町のみんなで力を合わせて救出するという話である。クジラを海に返していくシーンが特にいい。みんな、へとへとに疲れているなかで大喜びするという描写が、生き物への愛情に溢れていて感動する。

ちなみに、私の住む大浦町でも2002年に14頭のマッコウクジラが漂着し、真冬の大荒れの海でクジラの巨体と格闘し1頭を救出したという事件があった。うちに『海に帰った4頭のクジラ』という絵本があるのも、自分の町でこの事件があったからこそだ。

ちなみに助かったのは1頭だけで、残りの13頭は死亡、その処理にも非常なる苦労があった。後日、13頭の慰霊の意味もこめた「鯨との日々」というモニュメントが建てられ、またさらに数年後、そのうち1頭の骨格標本を展示する「くじらの眠る丘」も作られた。ことの顚末は当時鹿児島新報(今はないローカル新聞社)の記者をしていた方が詳細に書いている。

【参考】クジラ漂着騒動記
http://www5.synapse.ne.jp/kabahiko/newpage426.htm

詳細な記録としては、『鯨との日々 : くじら座礁の記録』という本が公的機関(南薩西部地域振興対策協議会=合併前の市町村連合会みたいなもの)によってまとめられた。またこの事件によって、地域には漂着クジラの処理のノウハウが蓄積し、今回打ち上げられたクジラについては翌日には沖合に仮繋留されたらしい。ものすごい対応の早さである。

だから14頭のクジラ漂着は忘れられたわけではないのだが、しかしこの事件ももう17年も前のことで、子どもたちは直接知らないし、記憶もやがては風化していく。何もかも覚えていられない以上、忘れても仕方ないものといえばそれまでかもしれない。

でも『海に帰った4頭のクジラ』を読んで改めて思った。物言わぬ生き物を助けるということには無上の価値があることで、その経験は次の世代に伝えていくべきなんだと。そのためには、絵本という形態が非常に理に適っているということも。

そんなことで、私が密かに思ったのは、大浦町の14頭のマッコウクジラ漂着の物語を絵本にしたらどうだろうということだ。 今ならまだ当時奮闘した人の話も聞ける。見守っていた人たちの話も聞ける。私自身は新参者の住民なので漂着事件を直接には経験していないが、そういう人たちの話を元にすれば少なくとも何があったかを伝える絵本が書けるんじゃないか。

ただ絵本である以上、絵を描く人を見つけないといけない。それを子どもたちに言ったら、「自分たちが描くから大丈夫だよ」と気軽に言う。

——そんなに簡単に描けるわけないだろ、難しいんだぞ、と言っておいた。

2017年12月16日土曜日

「恐竜 v.s. 西郷どん」

来年も、「砂の祭典」に関わることになった。

今年私は「砂の祭典」の実子推進本部員および広報部員として、このイベントに関わらせてもらった。

でもそれは、30回記念を迎えたこの1回限りのつもりだった。そもそも、「砂の祭典」のメイン期間であるゴールデン・ウィークは、栽培しているかぼちゃの開花時期のため受粉作業で忙しい。だからあまりお手伝いもできず、後ろめたい気持ちもあった。

でも、所属している観光協会の方から、「ぜひ!」という声があって、今度はイベント企画について中心的な役割を担う「企画・マーケティング会議」と広報部で活動させてもらうことになった。

で、この「企画・マーケティング会議」でいろいろ議論したことのうち、砂像テーマについてはちょっと誇れる結果になったのでお知らせしたい。

それが次回の「砂の祭典」の砂像テーマで、
「ジュラシック・ファンタジー 〜進化の足音どん・どん・どん〜」
である。

これがどうして誇れるのかというと、言うまでもなく来年は明治維新150年+「西郷どん」放映で、鹿児島県内各地は明治維新関連のイベントで目白押しである。そんなわけで、最初は(私自身も含め)「砂像テーマは明治維新かなあ」という流れがあった。

しかし、会議で議論していくうち、「そもそも子どもたちに明治維新って言っても楽しんでもらえない」「鹿児島市の子どもたちは明治維新ばっかりだから、たまには明治維新から離れたいはずだ」「このイベントのメインターゲットである子どもたちのことを考えたら、明治維新じゃなく、もっと子どもらしい楽しいテーマがいい!」ということになり、テーマが「恐竜」になったのである。

実は、この議論の中で私が提案したテーマは「恐竜 v.s. 西郷どん」だったのだが、それはあまりにもアヴァンギャルド過ぎたのか却下された(でも、意外なほど多くの支持を集めたんですよ!)。 なお、「進化の足音どん・どん・どん」の「どん」というのは、「西郷どん」の名残である(!)

「恐竜 v.s. 西郷どん」というパワー溢れるテーマが却下されたのは残念だが(笑)、県内が明治維新150年で一色になる中、子どもたちのことを考えた選択ができたのは誇れることだと思う。これで、次回の「砂の祭典」に向けて、いいスタートが切れたような気がする。

そんな「砂の祭典」だが、今年も運営メンバーの募集が開始された。

具体的には、(1)総務部会、(2)広報部会、(3)イベント部会、(4)砂像部会、(5)施設部会、(6)物産部会、の6つの部会への参加者の募集である。

私は、昨年に引き続き「広報部会」。「西郷どん」の勢いに負けない「砂の祭典」にするため、手伝って下さるみなさまをお待ちしております!(〆切2017年12月28日)

↓応募はこちらから(「砂の祭典」公式WEBサイト)
2018吹上浜砂の祭典を一緒に盛り上げよう!

2017年2月2日木曜日

【急告】大坂小跡を日本最大のファブラボにする大プロジェクトがカンパ中!

南さつま市金峰町の大坂(だいざか)で、電気水道ガスを契約しない(ある意味)最先端の暮らし、を送っている友人テンダーさんが、どえらいプロジェクトを立ち上げた。

廃校になった大坂小学校の校舎をまるまる借り切って、これを「ファブラボ」にしてしまおうという壮大な構想である。

「ファブラボ」というのは、ものすごく簡単に言うと「みんなが使える工作室」のことだ。大坂小学校を巨大な工作室に見立てて、ここをみんなでいろいろ作れる場所にしてしまおうというワケである。売り文句は「家も作れる日本最大のファブラボ」! 

ここだけの話、実は私も大浦町にファブラボを作ったら面白いんじゃないかと以前思ったことがある。というのは、ちょっとした工作をしてみるとすぐに分かるが、何か作ろうと思ったらまず重要なのは道具である。そして、その道具を揃えるのにはけっこうお金がかかる。毎度使う道具だったら買いそろえるのもやぶさかではないが、1年に1度くらいしか使わない径のスパナなんかを揃えておくのは(お金と)勇気がいる。でもそういうのを、何人かで共同購入すれば負担も少ないし、無駄も省ける。農業をやっているとちょっとした工作機械が必要になることが多いから、農家の多い大浦では「農家用の」ファブラボがあったら面白いんじゃないかと思ったのだ。

その考えは、結局実現しようという具体的な動きまでには至らなかったが、その考えを何倍も大きく深くした構想を、このたびテンダーさんがぶち上げてくれた。

具体的にどんな施設にしたいのか、というのはテンダーさん自身の書いている説明を読んで頂くとして、これは単なるDIYセンターじゃないというのは強調しておきたい。DIYというより、物事をイチから作り出すことを通じて、社会の仕組みまで見直してみよう、いっそのこと、新しい社会の仕組みまでここからつくってみよう! みたいなところまで到達するのが目標(なんじゃないかと私は思っている)だ。

私は、そこまで大それたことまでには考えが及ばないごく普通の人間だが、そんな私でも期待していることは、こういう施設があることで、自分の手で新たな価値を作り出す人たちが南さつまに集まってくるんじゃないか、ということ!

今の南さつま市民が「自分の手で新たな価値を作り出す人」じゃないかというとそんなことはない。農業をしていたら「日々之DIY」みたいなもので、コンクリも打てば溶接もする、水道工事もしちゃうという人は稀ではない。 でもそれに、もっと違う観点や技術や生き方を身につけている人が加わったら、もっと面白いものが生みだされるんではなかろうか。いや、絶対そうなるはずだ。そう考えただけでワクワクものである。

この舞台となる大坂、というところを知らない人のために付け加えておくと、霊峰・金峰山の裾野にあたる地区で、南さつま市の中では端っこの辺鄙な山の中だが、鹿児島市には一番近い地区である。ここに日本最大級のファブラボが実現したら、南さつま市のみならず鹿児島市の人たちにもかなり利用してもらえることは間違いない。

で、この壮大な構想に必要な資金であるが、現在テンダーさんが「クラウドファンディング」を展開しているところである。「クラウドファンディング」とは要するにインターネットを通じたカンパのこと。このカンパの〆切が2月27日目標金額は250万円! このどえらいプロジェクトにかかる金額としては破格に安いが、これでも南さつま市始まって以来の巨大クラウドファンディング案件であろう。

というわけで、私も早速このカンパに協力した(「パトロンになる」というらしい。)ところである。テンダーさんは私よりもずっと人脈も知名度もあるので、ここで私がお知らせしてもあまり意味はなさそうだが、今のペースではカンパが集まっても目標達成が難しそうという感じがするので、これをお読みのみなさん、ぜひ彼にご協力をよろしくお願いいたします! ちなみに私は2万円しました!

↓クラウドファンディングへのご協力はこちらから(3000円〜です)
鹿児島の廃校に、家も作れる日本最大のファブラボ「ダイナミックラボ」を作る!(Campfire)
※カンパのお礼としていろんなメニューが準備されているのでそれにも注目。

2016年12月19日月曜日

「砂の祭典」を一緒にかき混ぜませんか?

以前書いたように、私は「吹上浜 砂の祭典」の実施推進本部というののメンバーになった。それで最初の会議で強く主張したことがいくつかあるが、そのうち一つが主催者側のメンバー公募である。

何しろ、ごく僅かの例外を除いて、「砂の祭典」に関わっている人たち(=各部会の部員)は、ほとんど当て職的にメンバーにさせられていて、「やりたくてやっている人」というのがものすごく少ない。こう言っては何だが、「毎年のことだからしょうがないよねー」というような気持ちでやむなく席に着いている人が多いような気がしている。

でも、そんなので面白いイベントができるわけがない。主催者側が楽しんでやっていないものを、お客さんが楽しむわけがないのである。

そしてもう一つ大事なことは、イベントでも何でも、やっている人が同じである以上、結果も同じにしかならないということである。今までの「砂の祭典」がまるでダメというつもりはないが、数々の課題を抱えているのも事実である。次回は第30回の記念大会ということで改革の道を踏み出すいい機会である。ここらで、新メンバーを入れることには意味があると思う。

そういうことで、メンバー公募をやるべきという主張をしたら、それがすんなりと通って、私も最近気づいたが「砂の祭典」のWEBサイトに下のように掲示されていた。

2017吹上浜砂の祭典を一緒に盛り上げよう! 

吹上浜砂の祭典実行委員会から南さつま市に関連する団体・会社若しくは南さつま市民の方へお知らせいたします。
吹上浜砂の祭典は2017年に30回の節目の年を迎えます。この機会に砂の祭典に携わってみたい方を募集いたします。業務内容については別添資料(6部会の業務内容)をご覧ください。申込期限については12月28日締め切りといたします。
詳しくは吹上浜砂の祭典実行委員会事務局へお尋ねください。積極的な参加をお待ちしております。

連絡先→吹上浜砂の祭典実行委員会
〒897-8501 鹿児島県南さつま市加世田川畑2648番地
(南さつま市役所観光交流課内)
 TEL:0993-53-2111←市役所の代表電話
 FAX:0993-53-5465
砂の祭典WEBサイトより引用

ちなみに、ここの別添資料(xls)に掲げられた部会は以下の通り。(1)総務部会、(2)広報部会、(3)イベント部会、(4)砂像部会、(5)施設部会、(6)物産部会。このうち、私自身は(2)広報部会に在席することになった。

それで、先日広報部会が開催されたので出席してきたが、「基本的に例年通りのことをやりましょう」という話だったので呆れてしまった。前年までの反省も、今回の目標も、何もない。驚くべきことに、予算書すら出てこない。広報に、一体いくらの予算をかけられるのかも分からない。そんな中で、どうやって広報の実施計画を立てればよいというのだろう。

例えば、広報の予算が200万円あって、それをどう使えば効果的に広報できるだろうか? と考えるのが企画ではないのか。逆に、誰に訴えたいのか、どれくらいの人に届けたいのか、そのためにはいくら予算が必要なのか? それを考えるのが企画ではないのか。どちらからでもいいが、目的と予算があって、目的を達成するために何をすべきなのか考えるのが我々の仕事なのではないかと思う。

それなのに、「前年通りやりましょう」以外のこともなく、いきなりチラシ配りに行く人員の話などするからおかしくなる。これまでの反省を踏まえ、課題を抽出し、目標を設定し、限られた予算をどう使うかと頭をひねる。そういう当たり前のことがこのイベントには全く欠けている。私は、イベントを盛り上げるアイデアは全然湧いてこないつまらない人間であるが、こういう当たり前のことを当たり前にするだけで、物事というのはどんどんよくなっていくという信念がある。

だから、会議の場でも一人でギャーギャーわめいてきたところである。正直、そのわめきがどれだけ受け止められていたかは自信がない。でも、必要以上の「熱量」をもって主張したつもりである。というのは、こういうマンネリズムに陥った場を変えるのは、グッドアイデアでもなければ、非の打ち所がない正論でもないからだ。 いくら「なるほどなー」という的確な意見を述べても納得されるのはその場限りで、いつのまにか「前年通りやりましょう」の波に押されてしまうものである。

つまるところ、こういう場を変えられるのは、一人の人間の「熱意」しかないのである。主張が完全には理解されなくても、「○○さんがあそこまで言ってるんだから、ちょっとはやんなきゃな」という気持ちにさせたら勝ちである。

そして、そんな人が二人三人といたら、場が変わっていかないわけがない。というわけで、このメンバー公募も既に期限が迫っている状態であるが、我こそはと思う人はぜひ砂の祭典事務局へと申し出てほしい。

私としては、むしろ「アンチ砂の祭典派」の人にこそ入ってもらったらいいのではないかと思う。思う存分、場をかき乱していただきたい。といっても、「砂の祭典大好き」な人だったらなおさら歓迎なのは言うまでもない。よろしくお願いいたします!

2016年8月4日木曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その3)

黒瀬杜氏がどうやって始まったのか、はっきりとは分からない。

ただし、黒瀬杜氏の系譜は3人の初代杜氏へと遡れる。黒瀬常一、黒瀬巳之助、片平一(はじめ)の3人である。この3人がどのように焼酎造りを学んだのかということは確たる記録がないものの、様々な証言を突き合わせてみると次のように推測できる。

まず、黒瀬から一番最初に酒造りの出稼ぎへ行ったのは、片平一らしい。おそらく、焼酎の自家製造が禁止された明治30年前後のことと思われる。片平は、阿多の人から杜氏はよい稼ぎになると聞いて酒造りを志したそうだ。彼は最初に宮崎の小林本庄に行って、清酒と米焼酎造りを学んだ。

その少し後、黒瀬常一は加世田の村原にあった「タハラデンゴロウ」の焼酎屋に行って下働きをした。さらに、3人(あるいは、黒瀬巳之助を除く2人)は、一緒に鹿児島の中馬殿(チュウマドン)の焼酎屋で下働きしたが、そこでは沖縄の焼酎造りの技術者も雇っていた。そのうち、加世田の下野焼酎屋というところがその技術者を引き抜いたので、彼らは一緒に中馬殿から暇をもらって加世田に行き、その技術者の下で5〜8年修行して杜氏になったという。3人が杜氏として独り立ちしたのは、明治35年〜38年くらいまでの間のようだ。

ここでのポイントは、中馬殿の焼酎屋にいたという「沖縄の焼酎造りの技術者」の存在だ。明治30年代から大正時代の始めまでは、焼酎業界の激動の時代である。需要に応えられるだけの焼酎産業がまだ成立しておらず、技術的にも確立していなかった。そんな時代、鹿児島には沖縄から泡盛造りの技術者が出稼ぎに来ていて、実際泡盛もたくさん売られていたらしい(当時の新聞に泡盛の広告が結構出てくるし、戦前は沖縄から本土へ泡盛が1万8000石ほど輸出されていた)。

前回述べたように、この時代の芋焼酎造りの技術的変革は主に2点あって、それは「二次仕込み法の確立」と「黒麹(くろこうじ)の使用」であるが、実はこれはどちらも沖縄の泡盛造りの影響を強く受けたものだ。

泡盛というのは、黒麹による米麹のみから出来る焼酎のことで、芋焼酎造りに使う黒麹が泡盛由来であることは明白である。また「黒麹による米麹」で作った泡盛の醪(もろみ)は、芋焼酎の二次仕込み法における一次醪に他ならないのである。つまり鹿児島の芋焼酎というのは、まずは泡盛風の醪(=焼酎の元)を作っておいて、そこにさらに蒸した芋を追加投入して作られる焼酎ということなのである。

黒瀬の3人の男は、おそらくは泡盛造りの技術者から焼酎造りを学んだのだろう。それが、鹿児島の焼酎産業の原型を作った。泡盛造りを応用した焼酎造りによって、芋焼酎の大量生産が可能になったのである。

ところで、ここで一つの疑問が湧く。どうして、泡盛造りが大量生産の技術になりえたのだろうか、ということだ。

実は、泡盛と芋焼酎は、その歴史的位置づけが全く異なる。鹿児島の芋焼酎は、かなり古くから庶民に愛されたお酒であり、自家製造も盛んだった。対して泡盛は、ずっと権力者によって管理されてきた。薩摩藩が琉球を征服した時、泡盛を貢納品として指定したことから、琉球は薩摩藩を通じて幕府に泡盛を毎年献上する必要があった。さらに、泡盛は中国への貢納品としても使われたという。

このように、泡盛は重要な貢納品であったため、琉球では泡盛造りは限られた人にしか許可されなかった。首里の王家のための泡盛造りを行う「焼酎職」が置かれ、その焼酎職となった40の家にしか泡盛造りは認められていなかったのである。焼酎職でないものが泡盛をつくれば、死罪または流罪となったという。泡盛は歴史的に、王家が独占していたものだ。これが自由化されるのは、鹿児島の焼酎と同じく明治の頃である。

つまり、泡盛は鹿児島の焼酎とは違って、自家製造・自家消費の地場産品ではなかった。最初から輸出(貢納)を念頭に置いた、組織的に製造される商品だったのである。しかも貢納品であったために、かなり厳しい品質管理がなされていたのではないかと想像される。おそらくそのために、泡盛造りには大量生産に適した技術が育っていた。大量に、品質が安定した商品を作る技術、それがまさに明治後期の鹿児島の芋焼酎造りに求められていたものだった。沖縄の泡盛と鹿児島の芋が出会って、現代の芋焼酎が生まれたのは歴史的必然とすらいえるかもしれない。

沖縄の、泡盛造りの技術者から焼酎造りの技を学んだ3人の男は、自分たちが杜氏として出稼ぎに出て行くときは、親類縁故の若者を同行させた。これは蔵子(くらこ)といって、要するに焼酎造りのスタッフである。蔵元へは、杜氏一人で出向くのではなくてチームとして働きに行ったわけだ。だが杜氏は、蔵子にはほとんど教えるということをしなかったらしい。それでも蔵子は数年共に働くうちに焼酎造りの技を盗んで、やがて杜氏として独り立ちしていった。

初代の3人の男は、2代目として12人の杜氏を育てた。次の3代目は34人になった。こうして黒瀬には、明治後期から大正にかけて杜氏の技術者集団が急速に形成されてきた。なにしろ、杜氏というのはいい仕事だった。確かに、出稼ぎのつらさはあった。何ヶ月も家族と離れて、夜も寝られない作業が続いた。杜氏は麹や酵母という生き物を相手にする。夜中でも、ちょっとでもおかしいと思えば麹の様子を見なければならない。辛い仕事でもあったが、杜氏は焼酎業界から強く求められていたので、社会的地位も高く、また高級取りでもあった。

当時の給料は、「学校の校長クラス」であったという。昭和37年に鹿児島県が行った調査によれば、杜氏70人の平均給与が他の業種と比較されているが、その時点でも杜氏の給与は他の業種全てを上回っている。明治大正の頃を思うと、黒瀬のような僻地の集落にいれば、儲からない百姓仕事か漁師仕事しかできなかっただろう。 それが杜氏になれば、焼酎造りにおいては絶対的な発言権を持ち、蔵元には家族同然に遇され3度の食事も必ず白米が出て、しかも相当な高給が貰えるとなれば、杜氏は集落の憧れの職業になるのは自然なことだった。

だからこそ、杜氏の技は親類縁故の者以外には決して漏らさなかったという。黒瀬杜氏の系譜において、第6代までの杜氏は、ほとんどが黒瀬、片平、宿里、神渡、久保の5つの姓で占められる。黒瀬が「杜氏の里」となり得たのは、その技術を内に守り続けた、一種の閉鎖性が作用していることも否定できない。別の言葉で言えば、「強烈な同族意識」である。

もともと、黒瀬集落というところは、「強烈な同族意識」のあったところらしい。耕地面積が人口に比べて少なく貧しかったため、「無常講(ムジョコ)」といって相互扶助のためにお金を出し合うのが盛んで、人びとは助け合って生きていた。また、財産の分割を避けるためともいわれる「いとこ婚」が多く、血の結びつきはさながら編み目のようであった。

黒瀬杜氏のことが解説されるとき、「耕地面積が少ない黒瀬集落では冬は出稼ぎに出ざるを得ず、そのために焼酎造りの出稼ぎが盛んになった」などとと言われるが、これは正確とは言えない。(その1)の記事に書いたように、そのような集落は鹿児島には他にもたくさんあったし、実は黒瀬の耕地面積は少なくない。むしろ笠沙において黒瀬は最大の集落であり、人口も一番多かった。ただ、人口が多かった分、冬場に出稼ぎに行かなければならない人間もまた多く、それが大きな杜氏集団が形成できた要因でもあろう。

そして、焼酎造りの技を頑なに外に出さなかった閉鎖性が加味された。技術というのは、その黎明においてはある程度の「密度」を必要とする。J.S.バッハが音楽一族であったバッハ一族の巨星として生まれたように、技術は小さな集団の中でとぐろを巻いているときに花開くことがある。あるいは、コンピュータの黎明においてたった数人の若者が世界を変えたように。芋焼酎造りの技術が確立する過程において、黒瀬集落に生まれた杜氏たちが同族の中で切磋琢磨したことは、おそらく意味があったのではないかと思われる。

しかし、杜氏という職業は、高度経済成長とともに魅力のないものになっていく。他の業種の給料も上がってきたこと。社内育成の杜氏も育ってきたこと。そして醸造学の進歩と機械化の進展。こうしたことで、杜氏の必要性がどんどん低くなっていった。特に自動製麹器の開発が大きかったようだ。これは、例の河内源一郎商店が開発したもので、手間がかかってしかも失敗が多かった製麹(麹造り)を自動化するものである。これにより、焼酎造りの失敗が随分なくなったという。経験と勘、だけに裏打ちされていた杜氏の技術は、醸造学の進展によって微生物の培養ということに還元され、それに基づいた自動化・機械化によって置き換わっていった。

もはや黒瀬杜氏たちは、我が子や親類縁者にも、杜氏を継いでもらいたいとは思わなくなった。今はそれよりも、ずっとよい職業があるはずだ、と。こうして、最盛期には350人以上いた黒瀬杜氏は、今となっては片手で収まってしまう。おそらく、あと10年で黒瀬杜氏は一人もいなくなり、歴史的存在となるであろう。

先だって行われたイベントにおいて、(黒瀬杜氏ではない)ある地元の杜氏は「黒瀬杜氏がなくなっちゃっていいのかなって思うんですよ」と言っていた。九州の焼酎産業の源流となった黒瀬杜氏、それが歴史の中の1ページに綴じられようとしている、今がその時である。

私は、黒瀬の人たちに意見を聞いてみたいと思う。「黒瀬杜氏」は社会的使命を終えたということで、もう終わりになった方がいいと思うか、それとも、例えば黒瀬に生まれた人でない杜氏にも称号を付与するなどして、別の形でも「黒瀬杜氏」という名前が消えない方がいいと思うか。やっぱり、黒瀬のことは黒瀬の人たちの意見が最優先されるべきだろう。

とはいえ、「黒瀬杜氏」というのは南さつまが誇りうる歴史なのでもあり、仮に「黒瀬杜氏」が一人もいなくなったとしても、黒瀬杜氏の系譜を受け継いでいる人や蔵が消えてなくなるわけではない。躍起になって名前だけ残すのはみっともないと思うが、そうした系譜・歴史が有耶無耶になってしまうのはいかにも惜しいことだ。

私は、今回黒瀬杜氏のことを調べてみて痛感した。我々はまだ、黒瀬杜氏が何者だったのか知らないのだと。笠沙には「焼酎づくり伝承館 杜氏の里笠沙」があって、黒瀬杜氏の資料が若干収蔵されている。しかしこれだけでは十分でない。なぜなら、黒瀬杜氏の技が、どこでどうやって花開いたのかがよくわからないからだ。黒瀬杜氏たちは九州一円に出稼ぎに行ったといわれているが、その行き先とその蔵元の製品を一つ一つ訪ねて、黒瀬杜氏がもたらしたものを検証したらいいと思う。

そういう真面目な検証の先に、九州の焼酎産業における黒瀬杜氏の意味が朧気ながらに見えてくるのだと思う。そういう検証を行える時期は、もうギリギリになっているかもしれない。そうだとしても、誰がそんな面倒な検証を行うのか? といわれると私も困る。自然なのは市役所が大学の先生に委託することかもしれないが、そんな地味な仕事は行政も大学の先生もやりたがらないだろう。やはり、「黒瀬杜氏」は歴史の霧に消えていくしかないのだろうか。

ところで最後に、黒瀬杜氏の先輩格である阿多杜氏について、私の仮説を紹介しておく。どうして阿多には、黒瀬より先に杜氏集団が形成されたのか、ということだ。阿多といえば、昔は「阿多んタンコ」が有名だった。タンコすなわち桶である。阿多は、タンコ職人がたくさんいた村だったのである。そして、焼酎造りにはバカでかい桶が必要になる。桶づくりや、桶の補修のために、焼酎屋にはタンコ職人がいつも出入りしていただろう。そういうタンコ職人の中で、「ちょっと手伝ってくれないか」と泡盛の技術者に誘われたものが、最初の阿多杜氏になったのではないかと思う。

これは、検証可能なのかすら分からない仮説である。阿多杜氏についてはわからないことが多いのだ。最後の阿多杜氏、と言われるのが、上堂園孝蔵さんという人だ。「阿多杜氏」は、黒瀬杜氏より一足先に歴史的存在となっていく。阿多杜氏が何者だったのか、よくわからないままに。

私としては、黒瀬杜氏も阿多杜氏も、その名前は消えゆくものだと思っている。黒瀬に生まれた杜氏が「黒瀬杜氏」だというのなら、消えてゆく方が潔い。だが、その歴史は誰かが受け継いでいって欲しい。坂を登り切れば素晴らしい海の景色が見える谷、黒瀬集落に、現代の焼酎産業の源流があったことは、どこかに「記憶」されていって欲しい。その歴史を受け継ぐ杜氏が、例えば「南薩杜氏」のような新しい存在として、また歴史を刻むことがあるのなら、それが一番いいような気がする。

南さつまには7つの焼酎蔵がある。偶然だとは思うが、県内の自治体の中で一番多いらしい。もちろん、黒瀬杜氏や阿多杜氏の系譜を継いだ焼酎蔵である。お隣の枕崎には薩摩酒造があって、こちらも黒瀬杜氏が腕を振るった蔵である。南薩にあるこうした焼酎蔵が、「黒瀬杜氏」や「阿多杜氏」の歴史をどのような形で受け継いで行くのか、興味を持って見ている。

【参考文献】
焼酎杜氏」1980年、志垣邦雄
焼酎の伝播の検証と、その後に於ける焼酎の技術的発展」2010年、小泉 武夫
『現代焼酎考』1985年、稲垣真美
この他「杜氏の里笠沙」の一連の展示を参照しています。
また、「リレーインタビュー」という一連の記事が、杜氏の仕事ぶりについて勉強になりました。

2016年7月31日日曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その2)

鹿児島で杜氏と言えば、黒瀬杜氏の他に「阿多(あた)杜氏」がある。

かつて黒瀬杜氏と阿多杜氏は、鹿児島の二大杜氏集団であった。阿多杜氏の規模(人数)は、黒瀬杜氏の3分の1程度だったようだが、それでも焼酎杜氏の代表的な勢力であった。杜氏集団は鹿児島には黒瀬と阿多の2つしかなく、あとの杜氏は「地杜氏(じとうじ)」と言って、蔵元の人間が焼酎造りの技術を習得して杜氏になる(平たく言えば社内育成)というものだった。

阿多は、黒瀬のある笠沙と同じ南さつま市、黒瀬から約30キロ離れた、金峰にある。こちらの方が黒瀬よりも先に杜氏集団が形成されてきたようで、阿多の人から「杜氏はよい仕事になる」と聞いた黒瀬の人たちが焼酎造りを学ぶようになった、という話もあるので、鹿児島の焼酎産業の源流の、そのまた源流は、実はこの阿多にあると言える。南さつまはまさに、焼酎の源流の地なのだ。

なお1924年(大正13年)には、阿多と黒瀬の人たちは共同して「加世田杜氏組合」を作っている。そして昭和5年にこの組合から「阿多杜氏組合」が独立、追って「黒瀬杜氏組合」も出来、やがて「阿多杜氏」「黒瀬杜氏」はそれぞれ独自の道を歩んでいく。後に2つに分かれたとはいえ、最初は共同して組合をつくっていることを見ても、この2つの杜氏集団はもとは同じ起源を持つのだろう。

では、阿多や黒瀬の人たちは、焼酎づくりの技を誰から教わったのだろうか? この問いを考えるために、今回は焼酎の製造技術について振り返ってみたい。

前回述べたように、明治後期は焼酎業界の激動の時期であった。国家の政策によって小規模な酒造所が廃業させられ、鹿児島でにわかに焼酎の大量生産をする必要が出てきた頃である。この時期、酒造所の平均造石数(※)は10石程度から150石ほどへと急増する。ここに阿多杜氏や黒瀬杜氏が勃興してくるということは、彼らが「焼酎の大量生産」の技術を習得していたということだろう。

さて、この「焼酎の大量生産」の技術とは、具体的にはどのようなものだったのだろうか。

ここに興味深い資料がある。村尾焼酎兄弟商會(現・村尾酒造)が残した、明治35年から大正にかけての焼酎の製造帳である。明治から大正の頃の焼酎造りがどんなものであったかが分かる、貴重な資料だ。

ちなみにこの頃は、鹿児島の焼酎も芋焼酎一辺倒というわけではなくて、米焼酎もあれば粟焼酎もあった。それでも一番普通に飲まれていたのは芋焼酎で、大体7割くらいが芋焼酎だったみたいである。

で、村尾焼酎兄弟商會の資料によると、米焼酎の仕込み法はこの時代を通じてほとんど全く変化がないのに対して、芋焼酎の方は毎年仕込み法が変わっていて、材料の分量から、仕込みのやり方まで製造方法が一定していない(なお、粟焼酎についてはどんどん廃れていった)。焼酎の大量生産、もっと正確に言うならば「芋焼酎の大量生産」のためには、実際にさまざまな試行錯誤があって、技術が変転していったのである。

その技術の変転の内容はどんなものだったかというと、主に2点が挙げられる。第1に「どんぶり仕込み」から「二次仕込み法」への変化。第2に黒麹(くろこうじ)の使用である。

「どんぶり仕込み」というのは、米麹(すなわち蒸し米に麹菌を混ぜ、麹菌を大量に繁殖させたもの)、サツマイモ、酵母、水を一度に甕や桶に投入して仕込むやり方だ。かつて鹿児島の焼酎は、全てこの作り方だったようである。しかし、この方法では腐敗などの失敗が多く、大量生産には向いていなかった。特に、芋焼酎においてである。

というのは、サツマイモはデンプンと共に糖分もかなり含まれる。醸造というのは大雑把に言えば、デンプンを麹で分解して糖にして、さらに糖を酵母で分解してアルコールにする技術と言えるが、デンプンと糖が両方存在していると、その2つのフェーズ(生化学的反応)が同時並行的に行われることになる。

例えば、米焼酎とか麦焼酎だったら、米・麦には糖分は含まれていないので、デンプン→糖→アルコール、という化学反応は直線的に進ませることができるが、芋焼酎はそれが無理なのである。そして、麹菌が十分に繁殖していない中で多くの糖分が存在することは、雑菌の繁殖を招き腐敗の原因にもなるわけで、サツマイモでの焼酎造りは大変難しい。サツマイモを栽培している国はたくさんあるのに、サツマイモでつくったお酒が定着したのが日本だけだということはこのあたりに理由があるだろう。

この難点をクリアするために開発されたのが「二次仕込み法」である。それは、まずサツマイモを除く「米麹、酵母、水」だけを仕込んで一次醪(もろみ)を作る。そして一次醪に蒸し芋と水を加えて二次醪を作り、これを蒸留して焼酎を得るのである。要するにこれは、一次醪でまずデンプンだけの世界で麹と酵母の生態系を確立して雑菌の繁殖を抑止し、そこにサツマイモの糖(とデンプン)を加えることで微生物の繁殖を安定的に行うやり方なのだ。

と言ってしまえば簡単なのであるが、この二次仕込み法に到達するまでに様々な仕込み法や分量の変転があり、この技術が確立するのがだいたい大正の初め頃である。この仕込み方法が開発されたことによって、芋焼酎の大量生産の道が開けたといえよう。

そして、二次仕込み法の開発とともに広まったのが、2点目の黒麹の使用である。芋焼酎は、かつては日本酒を造る時に使う麹と同じ「黄麹」を使って作られていた。しかし黄麹を使うと二次仕込み法によったとしても腐敗が起こりやすかった。黄麹は元来温度の低いところで本領を発揮するものであるから、冬でも暖かい鹿児島には向いていなかったのである。

しかし、鹿児島よりもさらに暖かい沖縄では立派に泡盛(米麹のみで作る焼酎)が出来ていることから、泡盛につかう麹、すなわち黒麹が注目され、明治20年代から徐々に使われ始め、これが大正2〜4年頃に県下に急速に普及していくのである。

この黒麹には、鹿児島の焼酎造りに極めて適した性質があった。まずは、クエン酸を大量に生成するという能力である。つまり黒麹菌によって米麹を作ると、強酸性となって酸っぱい米麹ができるのだ。このクエン酸により雑菌の繁殖が抑えられるため腐敗が防止される。

さらに、普通の麹菌の糖化酵素(デンプンを糖に変える酵素)は、酸性溶液中ではほとんど作用しないが、黒麹菌の糖化酵素はpH2.8の強酸性になっても作用する。このためクエン酸による強酸性という、普通には殺菌に使われるような環境の中でも糖化を進ませることができるのである。ちなみにクエン酸に揮発性はないので、蒸留して焼酎になる時にはこれは味にはほとんど影響しない。

この黒麹菌の使用を勧めたのは、明治43年(1910年)に税務監督局鑑定官として鹿児島に赴任してきた河内源一郎という技師である。河内は泡盛につかう黒麹菌を取り寄せ、鹿児島の焼酎造りに適した種麹菌を分離して「泡盛黒麹菌」と名付けてこれの普及に努めた。黒麹菌の使用は河内赴任の少し前から始まっていたようだが、河内の前には種麹ではなく友麹を使っていた(前に作った麹に継ぎ足してつくる)ので失敗も多かったという。焼酎造りに適した黒麹菌の分離とその種麹の確立によって、これを広めたのは「麹の父」とも呼ばれる河内の功績だ。

ただし黒麹には大きな欠点があった。それは、まさに黒いカビであるため、使っていると作業場や服やなんでもかんでもがススで真っ黒になってしまうということである。「肺の中まで黒くなる」と言われたくらいで、肺病の原因になるのではないかと恐れられた。そういう難点はあったが、黒瀬杜氏は早くから積極的に黒麹菌を使って勢力を拡大したと言われる。逆に阿多杜氏は、何でも黒くなるのを嫌ってか黄麹の使用にこだわり、それが結果的に黒瀬杜氏よりも小さな集団になってしまった一因だったという。

さて河内は、黒麹菌の研究を進めるうち、大正12年(1923年)に黒麹菌の中から黒くない麹菌を発見し、それを分離して「河内白麹菌」を開発した。黒麹菌の突然変異で生まれた新しい麹菌だった。この白麹菌は黒麹菌の便利な性質はそのままに、何でも真っ黒くしてしまわないというさらに便利なものだった。しかも白麹を使用した焼酎は品質(風味)もよかった。河内は昭和6年(1931年)の退官後、河内源一郎商店を設立して種麹菌の販売を事業化して大成功を収め、河内が発見した白麹菌はその後九州のほとんどの酒造所で使用されることになる。河内源一郎商店は、その後、焼酎の技術革新を彩っていく存在に成長していく。

(つづく)

※酒造業界では、製造量を石高で表す習慣がある。1石=10斗=100升≒180リットルである。

【参考文献】
本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察 (その1)」1989年、鮫島 吉廣
本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察 (その2)」1989年、鮫島 吉廣
焼酎の伝播の検証と、その後に於ける焼酎の技術的発展」2010年、小泉 武夫
『焼酎』1976年、福満 武雄
『南のくにの焼酎文化』2005年、豊田 謙二

2016年7月25日月曜日

黒瀬杜氏とは何者だったのか(その1)

酒造の責任者を表す「杜氏(とうじ)」という不思議な言葉の語源に、こういう説がある。

かつてお酒というものは、客人を招く際に前もって家庭で刀自(とじ:古い言葉で「奥さん」という意味)が作っておくもので購入するものではなかった。だから、その家庭のお酒の味の良し悪しが、奥さんの評価にも繋がったほどだという。そこから、酒造の任に当たる人を「とうじ」と呼ぶことになったんだとか(他の説もある)。

そういう説があるくらい、近代以前の世界においてお酒というものは家庭で醸(かも)すのが当たり前だった。清酒の方は江戸時代には産業化されて購入商品になっていくが、鹿児島の焼酎は明治に至るまであくまで家庭で作るものであり、産業的にはほぼ全く作っていなかったようである。

つまり、焼酎造りの技は、かつては鹿児島のどこにでもあったものだ。一方で、前回述べたように黒瀬杜氏こそが九州の焼酎産業の源流の一つでもある。一見これは矛盾する事実だ。焼酎造りの技が各家庭にあったのなら、黒瀬杜氏がいなくても九州の焼酎産業は成立しえたのではなかろうか。

またそもそも、なぜこの九州の端っこの黒瀬という小さな集落が焼酎産業の源流となり得たのか。耕地面積が少ない黒瀬の集落では冬期の出稼ぎが普通で、出稼ぎの仕事として焼酎造りが盛んになったというが、耕地面積が少ない貧乏集落というのは鹿児島にはたくさんあったはずだ。黒瀬集落には、焼酎造りの技が育つような特別な巡り合わせがあったのだろうか?

私には、それらの疑問を完全に解く力はないけれども、黒瀬杜氏の成り立ちを振り返って、黒瀬杜氏とは何だったのか、ということを少しでも明らかにしたいと思う。

さて、黒瀬杜氏が生まれた明治30年代、焼酎産業はかつてない激動の時代を迎えていた。それを表す統計資料がある。鹿児島の焼酎製造量と酒造所数を示すものだ。

明治31年(1898年)を境に製造量も酒造所数も激増している。これは一体どういうことなんだろうか?

まずはこの状況を理解することが黒瀬杜氏の誕生を解き明かす一歩になりそうだ。

明治31年から、いきなり鹿児島の人が焼酎をたくさん飲むようになったということは考えられないので、これには統計上のカラクリがある。製造量が激増している(ように見える)わけは、これまで当局が認知していなかった焼酎製造が把捉され、統計上に現れてくるようになった、という社会システム上の変化なのだ。実は明治32年が、焼酎の自家醸造が禁止された年なのである(明治31年から変化があったのは、制度変更を見越しての事前準備のためであろう)。 さらに時代を遡って、このあたりの事情を振り返ってみる。

先述の通り、かつて鹿児島では焼酎は各家庭で手作りする飲み物だった。江戸時代の制度では焼酎造りは鑑札制(許可制)になっていて、形式的には自由な醸造は禁止されていたが、実態としてはさほど取り締まりはなかったようである。それが名実共に自由化されたのが明治4年。廃藩置県とほぼ同時に酒造税の規則が布告されて、免許料を払いさえすれば誰でも醸造ができるようになったのである。

といっても、鹿児島では西南戦争の前で、この頃は明治政府の言うことはあまり聞いていなかったので、この規則変更は鹿児島の社会にあまり影響を与えていなかったと思われる。それどころか、鹿児島では西南戦争前には地租改正もまともに行っていなかった。明治政府にとって、地租(固定資産税)と酒税は国税の2大柱であるが、その徴税システムが確立するのが鹿児島では明治10年代の後半からであろう。

このグラフは、鹿児島県が徴収した国税額であり、酒税の割合は明治44年(1911年)にはほぼ半分にも上っている。この頃、日本は日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治37年)と厖大な戦費を用する対外事業のため増税に継ぐ増税を行っていて、その中心はまさに酒税にあったのである。これは鹿児島県だけでなく全国的な傾向であった。

こうした酒税徴収システムを構築するためには、自家醸造はいかにも都合が悪い。お酒(焼酎)を作っても家族や親戚で消費するから帳簿上に製造・消費の記録が残らず、酒税を徴収することができないのである。そのため明治政府は、明治4年に一度は自由化した醸造を、明治32年に禁止することにしたわけだ。徴税を確実にするため、というのが主な理由であった。

このため、醸造免許の仕組みも劇的に変わっていく。

これは鹿児島県内の醸造免許人員の明治24年から昭和2年までのグラフであるが、大正年間に大きなピークがある。明治24年には販売を目的として醸造免許を持っているのは県内にたったの100人程度しかいなかったが、明治34年には3600人に達している。

この劇的な増加のわけは、自家醸造が禁止されたために、多くの人が醸造免許を取得したことによる。つまりこの時代、実際に焼酎造りが大ブームになったというよりも、それまで自家醸造で家族や親戚のために焼酎造りを行っていた人が、自家醸造禁止を受けて販売目的という名目で醸造免許を取ったのであった。

しかしもちろん、その実態はほとんど自家消費であった。いくら販売目的としていても、おそらく帳簿も不完全で、徴税の面では甚だ不十分であったろう。これでは、自家醸造を禁止した意味がないのである。また、これまで家庭で製造・消費していたものがいきなり禁止されても、その需要が減るわけではなく、すぐに製造体制(産業)が育つわけでもない。焼酎を飲みたい人はいるのに、売っているところはないという状況だ。そのため税務監督局は集落での共同醸造を認めていた。実態的には自家製造・自家消費であるものを、集落での共同事業ということで許可したわけだ。これが醸造免許と酒造所の激増(最初に出したグラフ)の理由である。

そこで、明治42年(1909年)に鹿児島税務監督局に局長として赴任してきたのが、勝 正憲というやり手の男だった(勝は後に政治家に転身して逓信大臣まで務める)。勝はこの登録免許・酒造所が乱立する状況を打破するため、その整理を断行する。その主目的は徴税を確実にするためということもあったが、未熟な酒造所が乱立したことによる業界の混乱を収拾するという意味もあったようである。小規模酒造所が品質の悪い製品を売ったり、過当競争で価格が低下したりしており、勝の赴任前から酒造所の淘汰が兆していたのは確かだ。

勝は、将来の発展が望めない小規模な酒造所を中心に免許を取り消し、本当に販売目的でやっていけるところのみを残すことにした。鹿児島に3500以上もあった酒造所は、勝の改革によってほぼ10分の1の300程度まで整理されることになる。この勝がやった改革が、鹿児島の家庭での焼酎造りが終わり、「焼酎産業」が始まったきっかけである。

もちろんこの改革は鹿児島県民に大反発を招くことになった。鹿児島の焼酎造りはこの時点でもおよそ400年の歴史がある。これまで各家庭で醸していたものが急に禁止され、どこかから焼酎を買ってこなければならなくなったわけで、しかもそれが増税のためであったのだから、これはいわば国家による文化の破壊であった。この改革に反対するため、1912年には鹿児島で「酷吏排斥苛税反対大演説会」が行われ、その聴衆は5000人に及んだという。地元紙「鹿児島新聞」や「鹿児島実業新聞」もこの増税には反対し、新聞紙上でも当局糾弾の運動は繰り広げられたが、それも結局は挫折し、酒造所数の整理は断行されていった。

さて、勝の改革により、酒造所の数がこれまでの10分の1になったということは、需要の方が不変とすれば、1つの酒造所あたりの製造量は10倍にならなければならない。これは大変なことである。製造能力を10倍にするということは、ただ甕の数を増やすとか、雇用者の数を増やすということだけでなく、本質的な技術の転換を必要とする。

例えば、お米を炊く、というような単純なことを考えても、3合炊くのと5合炊くのでは火加減が違うし、1升を鍋で炊くとなるとかなりコツがいる。1斗(18リットル)炊くのは普通の人にはほぼ不可能で、大量の米を処理しようとすると炊くのではなく蒸さなければならない。米を蒸すには炊くのとは違った技術と設備がいるわけで、お米を炊くだけでも大規模化は一筋縄ではいかない。

ましてや、焼酎造りは微生物(麹・酵母)を扱う。焼酎を大規模に造ろうとすれば、家庭の味噌・醤油置き場のようなところで細々と作っていた時の技術とは、自ずから違う技術が必要となってくるのである。温度管理一つとっても、大量に作るのは、少量作るのに比べて格段に難しい。何しろ、大量のものというのは、温度をすぐに上げたり下げたりすることが難しいのである。

そして、この頃の焼酎造りというのは、今に比べて失敗が多く、腐ってしまうことが多かったようである。となると、大量に仕込むと腐敗した時の損失も大きいわけだ。家庭で少量ずつ作っていた頃は、焼酎造りに失敗しても「今回は残念だったね」で済むが、産業として作るようになると仕込みの失敗は経営破綻にも通じる。急激な規模の拡大を求められた酒造所は、こうしたリスクとも戦わなくてはならなかった。そのために、焼酎の大量生産のノウハウを持つ技術者の必要性が高まってくるのである。

そしてそのノウハウを確立しつつあったのが、ちょうどこの頃に杜氏集団として形をなしてきた、黒瀬杜氏だったのである。

(つづく)

【参考資料】
『南のくにの焼酎文化』2005年、豊田 謙二
※掲示したグラフは、全て本書より引用しました。
『焼酎』1976年、福満 武雄

2016年6月16日木曜日

人間讃歌としての砂の祭典へ

今年の「吹上浜 砂の祭典」は、運営側にもほんのちょっとだけ関わらせてもらった。観光協会の関係で、家内が出店(でみせ)の裏方や店番などをしたのである。

それで、「砂の祭典」についていろいろ思うことがあった。

一応、「砂の祭典」を知らない人のために説明すると、これはゴールデンウィークに砂でつくったたくさんの像(砂の彫刻)を展示するイベントで、それに付随して飲食ブースや雑貨ブース、そしてステージイベント(音楽や子ども向けショー)といったものが行われる。夜には音楽に合わせて打ち上げられる花火もあって、今までこの花火を見たことがなかったのだが、今年初めて見てみたら意外と迫力があってすごかった。オススメである。

肝心の砂像はというと、地元の小中学生のものから招待作家のものまでいろいろあり、海外からの招待作家の作品はとても精巧で見応えがある。ちなみにうちの娘(3歳)の一番のお気に入りは地元中学生(だったと思う)が作った人魚だった。

イベント期間は本体が5日間。その後チケットの値段が下がって、ほぼ観覧のみの期間が約1ヶ月ある。以前はもっと短かったようだが、せっかく作った砂像をすぐ壊してしまうのももったいないということでイベント期間が長くなったのだと思われる。

「砂の祭典」が始まったのはもう30年くらい前で、その当時は本当に吹上浜の汀(みぎわ)でやっていたと思う。子どもの頃に、一度行った記憶がある。その後会場が2回変わって、現在は「砂丘の杜 きんぽう」という松林に囲まれた場所でやっている。

さて、このイベントを間近で見てみて感じたことを述べてみたい。運営に携わっている人はカチーンと来るかもしれないし、いわば外野からの感想なので当を得ていない部分もあるかもしれない。素人の雑感として受け取っていただければ幸いである。

まず第1に感じるのは、「ちゃんと費用に見合った成果が出ているのか」ということである。

「砂の祭典」は一応実行委員会方式をとっていて、民間の参画もあるが、基本的には南さつま市役所が音頭を取ってやっているイベントである。予算の面は明らかになっていない(と思う)ので何とも言えないものの、少なくとも役場職員のかなりの数がこのイベントに動員されており、担当職員はゴールデンウィークなしで動かなくてはならず、その人件費だけでも相当だろう。要するに相当な労力がかかったイベントである。

ではこのイベントの成果は何なのかというと、多分役所的には入場者数で図っていて、近年(ここ10年くらい)はとにかくたくさんの人に来てもらおうということでイベントが拡大されてきたような気がする。

おそらく役所としては、砂の祭典を見に南さつまに来てもらって、南さつまを知ってもらう機会を増やそう、メディアに露出する機会を増やそう、という思惑なのだろう。実際、今年は熊本地震への支援を打ち出してNHKの全国版ニュースにも取り上げてもらっており、それなりに意味があるのは間違いない。

しかし税金が投入されている以上、たくさんお客さんが入ったらから良かったね、だけではなくて、ちゃんと費用対効果を検証しないといけない。それは単純な客数ではなくて、お客さんに南さつまの魅力を訴えられたかどうか、近隣への波及効果といったものも考察するべきだ。要するに大事なのは「お客さんを呼んでどうするのか」という目的意識であり、このイベントはディズニーランドとは違うのだから、客数(チケット売上)そのものが目的ではないということである。

その観点からイベントの費用対効果を(数字で計るのではないにしても)出して、今の拡大路線で行くのがよいのかどうか再考したらよいと思う。

第2に、地元の人々の心が離れてはいないか、ということがある。

これは多くの人から聞いたわけではないし、みんなはっきりとはそう言わないが、どうも「砂の祭典に関わるのが最近めんどくさくなってきた」というような人がかなり増えてきている気がする(といっても昔のことも知らないが)。

砂の祭典はその黎明期から市民の参画が進められてきており、砂像の製作はもちろん、実行委員会のメンバーなどいろんな面で市民が関わっている。私自身は直接に関わったことがないが、想像するに、その負担も結構あるのだと思う。

その負担を補う面白さがあればよいが、どうもそれが怪しくなってきているようだ。イベントとしての盛り上がりに欠けるとかそういうことではなく、運営面における長老主義(若い人の意見が通りづらいなど)やマンネリズムといったものが原因で、運営側に携わっても一つのコマとして扱われるといった雰囲気があるのではないかと思う。

イベントというのは生まれたての手作りの時が一番面白いもので、逆にイベントが大きくなっていくにつれて機械的に進める面が大きくなり、運営面でのやりがいが小さくなっていく。大きく成長してしまうと運営の責任も大きくなって無難なやり方を選択することが多くなり、個人のステキな「思いつき」は顧みられなくなってしまう。これはある面ではしょうがないことだ。しかし誰しも、自分のやりたいことがイベントを通じて実現できるとか、一人の人間として尊重・承認されるというようなことがないとわざわざ面倒毎を引き受けたりはしないものだから、やっぱり市民の遊び心を刺激するようなところがないと、ボランティアの人集めをしようとしても難しくなっていくと思う。

そして人々の心が離れてしまうもう一つの原因は、砂の祭典がかなり商業主義的になってしまっていることかもしれない。会場には、小中学生たちや役場職員、地元企業が一生懸命作った砂像も多く、砂像だけを見たらまだまだ地元の手作りイベントの雰囲気は残っている。商業主義的といっても、このイベントで大きな収益が生みだされているということもなさそうで、むしろ赤字が心配なくらいだ。だが集客に力を入れた結果、地元の文化や自然と関係のないものまで盛り込みすぎて、「祭典」の性格が揺らいでいる。ただ人が集まればよいということなら、集客力のある芸能人を呼ぶのが一番手っ取り早いが、仮にそういうことをすれば心ある人が真っ先に離れていくわけで、そういう路線になっていかないかとちょっと心配だ。

長期的に見れば、集客のためにサイドイベントをたくさん盛り込むよりも、価値の中心である「砂像」の文化をゆっくりと育んで、それを愚直に発信していくのがよいと思う。

そして第3に、「吹上浜 砂の祭典」と銘打ちながら、吹上浜とあんまり関係なくなっているということがある。

砂の祭典は、もともと日本三大砂丘の一つである吹上浜という地域資源を活かして何かやろう、ということで始まったイベントだったはずだが、客数増加などの都合で会場が「砂丘の杜 きんぽう」に移ったために、「吹上浜」を銘打ちながら会場からは海岸を見ることができない。初めて来た人は、「あれ、浜はどこにあるんだろう?」と思うに違いない。

会場から海を臨めなくても構わないと思うが、吹上浜との何らかの連結がなくては本当の観光資源を素通りさせてしまうことになりかねない。日本全国的に見ても素晴らしい白砂青松の砂浜「京田海岸」など、近隣には吹上浜の観光スポットがいくつかあるので、そういうところを地道に整備して(現在は駐車場などがない)、砂の祭典に来た人たちに回遊してもらうような工夫をしたらよい。

また、砂や砂丘というものについては現在は素材としてしか扱っていないが、観光の王道は風景と歴史と文化を体感するということにあるので、吹上浜と付き合ってきた南薩の人々の歴史を紐解くような工夫があるとさらによいと思う。

幸いにして、会場の近くには「沙防の碑」がある。このあたりの人は古くから浜から飛んでくる砂に苦労しており、これはその飛砂防備のために広大な松林を植林した宮内善左衛門を顕彰した石碑なのである。また、万之瀬川が運んでくるこの大量の砂は河川氾濫の原因ともなっており、今でこそ「砂」が地域資源となり砂の祭典のような楽しげなイベントをしているが、歴史的には「砂」は迷惑な存在だった。ただ砂像を見るだけでなく、ちょっと足を伸ばして「沙防の碑」まで見てそういった歴史を学べれば、より深いレベルでイベントを楽しむことができ、南さつま市への観光を楽しめると思う。

第4に、これが最も強く感じることであるが、顔の見えないイベントになってしまっている、ということだ。

例えば、お隣の川辺(南九州市)で毎年やっている「Good Neighbors Jamboree」というイベント。主宰の坂口修一郎さんを中心にして、面白いことをやる人の輪ができていて、その人の輪によってイベントが構成されている感がある。もっと卑近な例では、大浦でやってる「大浦 "ZIRA ZIRA" FES」という焼肉フェスでも、実行委員会の人たちが楽しんでやっているから、それに惹きつけられて多くの仲間がやってくる。

一方砂の祭典はどうか。運営側に入ったらまた違う感想を持つだろうとは思うものの、参加者の立場で見てみると、誰が楽しんでやっているのかイマイチよく分からない。WEBサイトでは実行委員会の挨拶文が出ているが、実行委員長の名前も分からないし、どういう人の輪があるのか見えてこない。当然、人の輪がないということはあり得ないので、何かしらの人の輪があるはずだが、その顔が外から見えないのである。

お祭りごとというのは、どんな充実したコンテンツを揃えてもそれだけでは十分でない。むしろ先ほども書いたように、商業主義的にコンテンツを充実させればさせるほど、人の気持ちというのは離れていく部分すらある。コンテンツを「消費」するだけの場になるからだ。では何が必要かというと、それは「人」である。どんなコンテンツもすぐに飽きられる。でも「人」にはなかなか飽きがこない。結局、人間にとって最大の関心事は「人間」なのだ。

お祭りは、人と人とが普段とは違った空気で出会う場所であり、何よりもまず人間性の発露でなければならない。大げさに言えば、お祭りとは「人間讃歌」でなければならない。どんな集客力のあるコンテンツも、そこにいる人間が「人生を楽しんでいる」という場の空気にはかなわない。砂の祭典にそれがあるか、ということが、今後のこのイベントの命運を分けると、私はそう思う。

「顔の見えない」とか「人間讃歌」とか、随分と抽象的なことを書いてしまったが、まずはこのイベントに関わっている人の生き生きとした姿を、どんどん発信していくことから始めたらよい。海外からの招待作家がどんな気持ちで南さつまに来たのか。実行委員会の人たちが何に悩み、何を目指しているのか。ボランティアの人たちの働きぶり。そして実質的な主催者である、南さつま市役所の職員の皆さんの熱い想い! そういうものをSNSとかリーフレットとか、様々な形で伝えていくべきだ。そういう人間の生き様は、決して「消費」されえない「コンテンツ」である。祭典の本当の価値は、砂像とかステージイベントではなくて、そこに関わる人たちの熱意に他ならないのである。そして、それを見て砂の祭典にやってきた人は、絶対に「南さつま」のファンになってくれるだろう。

というわけで、ここまで随分批判的なことを書いたけれども、四半世紀に渡って砂にこだわってきたという歴史は誇れると思うし、せっかく10万人近くの人が訪れるイベントへと成長したのだから、これをもっとよいものにしていって欲しい。

来年は確か第30回目となる節目の年だ。砂像による人間讃歌、そんな「吹上浜 砂の祭典」になることを切に希望する。

2016年1月22日金曜日

イケダパン跡地の有効利用

先日の記事で、加世田の市役所周辺に下水道を敷設することへの反対意見を書いた。

そのついでといってはなんだが、47億円で下水道を作るくらいならぜひやってほしいことがあるので書いておきたい。それは、イケダパン跡地の有効利用である。

イケダパンは、加世田発祥のパン屋である。加世田出身の人には今でもイケダパンのパンに思い入れがある人がいると思う。イケダパンは加世田の中心部(地頭所)に大きな工場があって、ここでパンを製造し出荷していた。今は商売上の都合(主に流通の効率だと思う)で重富に移転して、広大な工場跡地は廃墟化している。広さは、多分約2ha=20,000㎡くらい。

加世田の市街地が抱えている課題の一つは、中心部にこの廃墟を抱えていることである。この廃墟が、加世田市街地の発展を阻害している要因の一つだと思う。昼も雰囲気は悪いが夜になると更に不気味であり、小さな子どもがいる親などは不安に思っている部分もあるだろう。もちろん、こうした広大なスペースが中心部の一等地に存在しているというだけで損失である。

ところで最近、加世田中心部に「すき屋」と「西松屋」ができて私はビックリした。都会の人は「すき屋」とか「西松屋」みたいな面白味のないチェーン店が出来るのは街の衰退を表しているようにも思うかもしれないが実態は逆で、このような採算をシビアに考える企業が衰退しつつある(とみんな思っていた)街に進出してきたということは、加世田市街地の可能性を考える上で重要なことだと思う。

つまり、こういう企業が進出してくることの是非はさておいて、加世田中心部にはまだまだ発展の可能性があるということだ。適切な事業用地さえあれば。

もともと、加世田市街地の中心部は今「ゆめぴか通り」と呼ばれている本町商店街の方にあった。南薩鉄道の駅の目の前だったからである。今でもここに鹿児島銀行があるし(※鹿児島銀行は鹿児島では街の一番中心部にあります)、かつては太平デパートという百貨店もあった(※南薩で鹿児島市の「山形屋」のような位置を占めていた百貨店)。

それが鉄道の廃止により人の流れが変わり、商業の重点が県道沿いへと移ってきた。太平デパートも移転して県道沿いに「ピコ」という店舗を構えた。駅の周りがさびれて、県道・国道やそのバイパス沿いに店舗が出来ていくというのはどこの地方都市でも起こっている遷移だろう。加世田の場合、南薩鉄道の廃止も随分前のことだし、その遷移は終了し、これから県道沿いの店舗もさびれていく運命なのだろうかと思っていたのだが、どうもそうではなかったらしい。それなりに購買力のある消費者を抱えた、まだまだ商売の可能性がある街なのかもしれない。これから笠沙、大浦、坊津あたりの若者世代がどんどん加世田へ移住していくからだ(これは僻地在住者としては少し悲しいですが)。

そこで、問題はイケダパン跡地へと戻ってくる。街の中心部にある広大な商業用地が、使われないまま塩漬けにされているというのはとてももったいない。ここの土地が使えるようになったら、新たな企業が進出したり、地元企業が店舗を構えたりするといったことが起こるのではないか? いや、きっとそうに違いないと思う。「すき屋」や「西松屋」が進出してきたくらいだから。

では、なぜイケダパンはここの土地を売らないんだろうか。固定資産税も払い続けなければならないというのに。

答えは多分簡単で、「ここを買いたいという企業がないから」だろう。なにしろかなり広大である。ここをまとめて買い上げて、再開発していこうという野心的なデベロッパーはそうはいないと思う。そこまでの収益性が見込めないからだ。工場を解体して更地にし、細切れにして販売することは出来るだろうが、工場を解体した段階で固定資産税が上がるので(たぶん)、よほど楽観的な土地売却の見込みがないかぎりイケダパンはそれはしないだろう。

だからここの土地を動かそうとしたら、買い手は市役所以外に考えられない

すなわち、市役所がイケダパンの跡地を買い取って、事業用地として分譲するのがもっとも合理的な廃墟の解消方法だと思う。イケダパンにすれば一種の不良資産であるので、激安でなければ手放したいはずである。加世田中心市街地の再開発事業は、地元業者の活躍の余地があり(何しろ事業の中心は廃屋の解体と基盤整備だろう)、下水道敷設よりも地元が受ける恩恵は大きい。

もちろん、ただ土地を分割して販売するだけでなく、いろいろなことが考えられる。例えば、現在の土地を2つに分割して半分を公園にし、市民の憩いの場にすることも一案である。

都市の中心には公共のスペースが必要で、ニューヨークにセントラル・パークがあるごとく、東京の中心に皇居があるごとく、見ず知らずの他人同士が同胞として集う、しかも消費行動から距離を置いた場所は都市にとって絶対不可欠だと私は思う。公園は子どもや老人のためだけのものではなく、共同体をつくっていくために必要な「場」なのである。

今の南さつま市にはそういう場所がない。敢えて言えば市役所の市民会館とか「ふれあい加世田」であるが、こうした場所は「用事がないと行かない(行けない)場所」である点で真の「公共のスペース」ではない。暇な時にふらっと散歩してベンチで読書し、見ず知らずの人と立ち話するような場所があるべきなのだ。

こうした土地は一見無駄であるが、人々の創造性を刺激したり、人と人の思わぬ結びつきをもたらしたり、様々な人が目に見える場所に出る機会を得る(※例えば、障害を持っている人を普段街中ではあまり見ないが、そういう人が共同体の一員として存在できる場所になると言う意味。最近の言葉でいうと「ソーシャル・インクルージョンの場としての公共空間」)といった面で、都市が真に都市的になるための重要な機能を担っているのである。

ついでに、そうした公園に「イケダパン発祥の地」の石碑をつくってあげればイケダパンも喜ぶと思うし、イケダパンの郷土愛に訴えるものがあるに違いない。

というわけで、47億円かけて市役所周辺に下水道をつくるよりは、イケダパン跡地を市役所が購入し、公園を造成したり事業用地を分譲したりするという再開発事業をする方が、南さつま市の発展に繋がると思うのですがみなさんはどう思いますか?

2016年1月18日月曜日

【急告】南さつま市役所周辺に下水道は必要か

南さつま市で、加世田の市役所周辺に公共下水道を設置しようという事業が去年からにわかに動き出した。

【参考】市報南さつま 2015年3月号「汚水対策、凍結から解凍へ」(4ページ目)

だが、この事業にはいろいろと問題があり、昨年末に住民説明会が行われてから「ちょっと待ったをかけた方がいいんじゃないか」という人たちで急遽「南さつま市公共下水道を考える会」というのができた。

それで、この会の主催で「公共下水道事業を取りやめた志布志市に学ぶ下水の話」という講演会が行われたのでそれに参加してきた。

志布志市も合併前に下水道を作ろうという話があって、当時の首長はそれを公約にも掲げていた。しかし、人口集積地でないと下水道事業は赤字になるということで、事業の推進の仕方に問題点を感じた市の職員の一人が反対。自治衛生連の会長もしていた市議の一人に働きかけてこの問題を市議会でも取り上げてもらい、施工一歩手前まできていた下水道事業を土壇場で中止させたのだという。当時、担当係長には随分恨まれたらしいが、今になって「あれは英断だったと感謝している」と言われているとのこと。

諫早干拓や八ッ場ダムに象徴されるように、その意義がなくなっても一度立案された計画は実行されるのが日本の行政の悪癖の一つであるが、このように施工一歩手前までいきながら事業中止の決断を下した市長は素晴らしい。こういう志布志の経験に学んで、南さつま市の下水道事業もちょっと立ち止まってみようじゃないかというのが会の趣旨である(私の理解)。

さて、南さつま市が推進しようとしている下水道事業は、市役所近辺の約77haの市街地に公共下水道を設置しようとするもので、下水処理施設は市役所の用地につくるそうである(対象地区は上の図の緑の部分。ちなみに赤い部分は、以前の計画では検討されていたが今回は見送る地域)。

もちろん私は大浦町に住んでいるので、この下水道の対象範囲外で無関係…といいたいところだが、実はそうではない。

というのは、下水道事業は47億円もの事業費が必要になるので、受益者(その地区に住んでいる人や事業者)だけでは負担しきれない。よって一般財源からの補填がなされるはずで、要するに、下水道を使えない多くの人にとってもお金という面で関係してくる話なのだ。

では受益者の数がどれくらいなのかというと、この地区の住民は約2000人だそうである。商業地なので従業員なども間接的な受益者だとしても、せいぜいその数は3000人だろう。そして、この地区に下水道を設置するには約47億円かかるので、この地区だけに一人当たり157万円もの税金が投入されるということになる。4人家族なら1世帯600万円以上である。これは住民サービスの観点からかなり不平等な政策ではなかろうか。

しかも、受益者である地区住民にしてもさほどのメリットがあるわけではない。その地区の人たちは既に浄化槽を設置しているわけだから、その浄化槽を廃棄して下水道に接続するという工事が必要になり、15〜40万円くらいのお金が一時的にかかる。

もちろん浄化槽の保守点検費が不要になるので長期的にはモトをとるかもしれないが、法律では下水道が整備されたら3年以内に(浄化槽をやめて)下水道に接続しないといけないとなってるものの、実際には接続はなかなか進まず下水道への加入率が8割を超えるには15年くらいかかるようだ。その間、低い加入率で経費のかかる下水道を運営しなくてはならないため、下水道事業は赤字になり、その費用はかさむことになる。

しかも、最大のポイントは下水道事業はある程度の人口密度がないと黒字にはならないということで、その境界は1haあたり40人くらいらしい。今回の対象地域の人口密度は25人/haということで長期的に赤字が予見され、モトが取れなくなる可能性が極めて高い。なにより、これから急激な人口減少が見込まれているわけで、人口密度が必要なインフラを整備するのは時代に逆行していると言わざるを得ない。

また、市は下水道事業の推進目的の一つとして「水質保全」を掲げるが、会の立役者(?)テンダーさんのWEBサイト(↓)で述べられているように、そもそもこの地区の排水が汚染度が特に高いという事実もなく、市は現在は水質調査すらしていない。

【参考】 47億円に匹敵?! DIYで下水の汚染度を要チェックだ!

さらに、今回対象地区となった地域がどうして選定されたかというと、住民の賛成が多かったからとのことであるが、その実態も不明であるし、巨額公共事業を行うのに、ちゃんとしたアセスメント(どの範囲で事業を行うのが合理的かの検証)なくして、住民のウケがいいからというだけで範囲が決まるのは解せない。

まとめると、現在計画中の下水道事業の問題点として、
  • たった2000人のために47億円もかけて、モトがとれるかも分からない下水道を整備する意味があるのか(浄化槽設置に補助金を出すほうが安上がり。ちなみに南さつま市の年間予算は400億円くらい)。
  • しかも対象地区の人口密度が25人/haであることを考えると、下水道事業は将来赤字を垂れ流し続ける可能性が高い(事実、人口10万人未満の自治体の9割で下水道事業は赤字だという)。
  • 市は事業目的の一つに水質保全を掲げるが、水質調査すら行われていない。
  • 対象範囲の決定にも不透明なところがある。
が挙げられる。

では、こういう問題がありながら、どうして市は下水道事業を進めようとするのか。私は下水道の説明会に参加していないので(対象地区外では説明会が行われていない)、なんともいえないがこういう事情があると思う。

まず一つには、下水道の整備には国庫補助があり、およそ半額は国が負担してくれるということがある。残り半分も全額起債によってまかなうことができ、要するに手持ち資金なしで巨額の公共事業を行うことができるのである。しかも起債の分は、地方交付税交付金の基礎財政需要額に算入されるので(要するに交付金の額が少し増える)、実質的な手出しは少なくて済む。多分事業費の1/4程度だと思う。

しかし建設費はお得だとしても、長期的には赤字に苦しむ可能性が高い。建設費に国庫補助はあるが、運営費には国庫補助はないからだ(というより、地方交付税交付金の基礎財政需要額の算出項目には、既に「下水道費」という項目があって、その分で運営しなさいといのが基本的な考え方)。

でも国のお金を使っての公共事業ならば、多少なりとも仕事が生まれるのだからいいんじゃないか、という考えもある。でも当然ながら南さつま市内には大規模な下水処理施設を建設したことのある業者はいないと思われるので、この大規模公共事業は市外の業者が落札する可能性が高い。

実際、旧笠沙町時代に野間池で下水処理施設を建設した際、20億円弱のお金がかかったらしいが、工事を請け負ったのは鹿児島市の業者で、15億円くらいのお金はその業者に落ちたようだから、市内に環流した分はほんの何分の一しかなかったことになる。南さつま市でも同様のことが起きれば、せっかくの47億円のほとんどは市外の人のフトコロに入ることになる。

ということで、下水道整備は公共事業としても筋が悪いように思われる。浄化槽方式なら市内の業者が潤うし、保守点検が生む雇用も大きい。

もう一つの推進理由はもう少し真面目なことで、インフラ整備を進めることで中心市街地を活性化したいということだろう。下水道を整備することは、現に浄化槽を設置している今の住民にはあまりメリットはないが、これから家や店舗をつくろうとする人には利点がある。

特にメリットを受けるのは店舗・事業所である。というのは、一般住宅に浄化槽設置をする場合は補助があるので下水道がなくても別に困らないが、商売で使う物件には浄化槽設置の補助がない。なので、特に小規模な店舗などにとって浄化槽を設置する負担は大きく、仮に下水道があれば初期投資がけっこう抑えられる。今回下水道事業の対象となっている地区にかなり商業用地が含まれていることを考えると、インフラ整備としては理解できる。

ただし、今後この地域に新しい店舗がたくさん出来ることは考えづらいし、商業振興を考えるなら下水道に47億円かけるよりも、直接的な商業支援を行った方がよほど効果的だろう。

以上のように、下水道に関してこれまで縷々述べてきたが、こうした問題の背景にあるもっと大きな問題は、巨額の公共事業を行うにあたり、まともな費用対効果の検証が全く行われていないように見えるという点である。

民間どころか国(政府)においてさえ、最近はフィージビリティ・スタディということが盛んに言われるようになった。これは、プロジェクトを実施する前にその実現可能性や採算性を調査することで、プロジェクトが巨大であればあるほどこの事前調査が重要になる。一時期やかましくいわれた「環境アセスメント」もその一つで、プロジェクトの実施によってどのような影響があり、そのコストをどう考えるか事前に事細かに検証する必要がある。巨大事業ほど実施後に「問題がおこったので中止しまーす」というわけにはいかなくなるので、これは役所の担当者・責任者の首を救うことにもなるのである。

下水道事業の目的が水質保全なら水質保全で、どの程度水質が汚染されていて、その汚染源は何で、下水道の整備でそれをどの程度改善するのか、それにどれくらいのお金をかけるのが至当なのかといった検証をちゃんと行わないといけないと思う。費用と効果が釣り合っているのかという検証無しに、事業の当否を議論するのは得策ではない。

本記事は、下水道事業反対の立場から記述してきたが、本当は推進派の市役所の意見もちゃんと聞き、その費用対効果の計算を踏まえて賛否を定めたいと思う。しかし50億円近くの事業をするというのに、その内実が全く不透明で、市役所のWEBサイトにも何も公表されていないので立場を定めようがない。

また、南さつまの下水道事業は、合併前から検討されながら凍結されていたものが、今回「公共下水道事業(汚水対策)検討委員会」で事業計画の見直しを提言されて再始動したらしいが、その「公共下水道事業(汚水対策)検討委員会」の議事録も資料もメンバーも公表されておらず、その提言書さえ公表されていない

こういう大規模事業は、実行の気運がある時に急にやってしまうということが行政には多い。長々検討していると「ああでもないこうでもない」という議論ばかりが続いて前に進まなくなり、利害関係者の調停が困難になって頓挫する。だから気運がある時に、住民を置き去りにしてでもともかく着手することが、優秀な行政官なんだという風潮すらあったように思う。

しかし時代は変わっている。そういう方法で建設した施設や大規模土木事業は長期的に見てお荷物になることが多かった。今から考えれば、「ああでもないこうでもない」と長々議論することの方に意味があったのではないか。

下水道事業を実施するにしても、1年でも2年でもフィージビリティ・スタディを行い、どの範囲でどのような下水道網を整備することが理に適っているのかを検証し、費用対効果を(お金に換算しにくい部分も含めて)厳正に行い、その結果が芳しくなければ潔く撤退するという判断の余地を残した事業にするべきである。

また、この地区のインフラを充実させるということであれば、市役所周辺地域を南薩地区の中心として重点投資することを地区外の住民にも広く理解を求めるべきであるし、下水道整備の事業のみならず、電柱の埋設(麓地区の歴史的景観の整備)や本町商店街の活性化といった他の政策課題とも有機的に連携させた形で整備を進めるべきで、こうしたことをするには数多くのステークホルダー(利害関係者)を巻き込んだ検討が必要である。

一度大規模な公共事業が動き出したら役所の担当者本人にも止められなくなる。こういうことに慎重すぎるということはない。一部の人の独断専横ではなく、多くの人の意見を糾合させてよりよい街をつくりあげていく南さつまであってほしい。

今度の3月の議会で、早くも下水道事業の予算が審議されるそうである。「南さつま市公共下水道を考える会」はそれに少なくとも意見は届けようと、「せめて水質調査はしてください」という署名を集めて陳情を出そうとしている。私も署名してきたところだ。

南さつま市役所周辺に下水道は必要か。市民一人ひとりが考える時である。

【参考】
私も署名していいよ! という方は、署名用紙をダウンロードしてプリントアウトし、自筆にて氏名住所を記入の上、「南さつま市公共下水道を考える会」の平神純子市議会議員(加世田地頭所町24番地12)へと郵送またはお渡し下さい。2月初旬までに集めないと議会に間に合わないそうです。
署名用紙(ダウンロード)

2014年7月27日日曜日

「ぬいぐるみで行く南薩 民泊ぷちツアー」参加者募集中です!

※モバイル環境では、上のチラシPDFが正しく表示されないかもしれません。

「南薩の田舎暮らし」の新企画、「ぬいぐるみで行く南薩 民泊ぷちツアー」の募集を開始した。

ある日、加工所でスコーンを作っていた家内が家に帰るなり、「すごくいいこと思いついちゃった!」と言うので何事かと思えば、このぬいぐるみ南薩ツアーの企画のことだった。家内は元々図書館司書として働いていたので、図書館業界のあれこれに関心がある。アメリカの図書館で始まり、近年日本でも広まってきた「ぬいぐるみの図書館おとまり会(Stuffed Animals Sleep Over)」を南薩版でやってみたらどうか、というアイデアが突然浮かんだらしい。

この「ぬいぐるみの図書館おとまり会」は、子どもたちから図書館がぬいぐるみを預かり、夜中にぬいぐるみたちが図書館を探検したり本を読んでいる写真を撮ってから返却するというもので、図書館や本への関心を呼び起こすため実施されている。

つまり、本来「図書館」には宿泊することができないが、ぬいぐるみならおとまりできるということで、「自分自身にはできないことがぬいぐるみにはできる」という面白さがある。少し意地悪な譬えでいうと、インターネット上のアバターにオシャレをさせるみたいなところも若干あるわけだが、「図書館おとまり会」の場合は実際にぬいぐるみが図書館に泊まる、というリアルな部分が違う。

翻って南薩のことを考えると、景色の素晴らしさとか、日本の端にある雰囲気とか、観光地としての価値は高いと自画自賛できても、アクセスの絶望的悪さがあり、指宿以外の地域に観光に来るのは正直敷居が高い。だったら、ぬいぐるみくらいなら来てくれるんじゃないか…?というわけで「ぬいぐるみ南薩ツアー」である。

自称行動派の自分からすると、自分が行くのじゃなくてぬいぐるみに行かせるなんて少し残念、と思うくらいの企画である。自分なら、近場でも実際の旅行の方がなんぼかいいと思う。だが、内向的な(?)家内に言わせれば、自分が行くんじゃなくてぬいぐるみに行ってもらうからなおさら面白い、のだそうだ。うーむ。

でも南薩ツアーなら、図書館と違ってやろうと思えば自分が観光に来られるわけだから、完全にぬいぐるみの世界だけで閉じはしない。それに実際の旅行となると、本当に来たい人しか来ないが、ぬいぐるみなら「実際に行くほどではないよな」という人も対象になる。このツアーをきっかけにして、「南薩」と誰かの縁を紡げたらいいなと思っている。

【お申し込みはこちらから】ぬいぐるみで行く 南薩 民泊ぷちツアー(申込期限8月23日(土))

2014年2月11日火曜日

南さつま市健康元気まちづくり百寿委員会が発足

南さつま市はやたらと一人あたりの医療費が高いという問題があり、健康で元気な生活を送れるまちづくりを進めるため、このたび百人以上の市民を巻き込んで「南さつま市健康元気まちづくり百寿委員会」なるものが設立された。

私自身はどちらかというと不健康な方だが、なぜかこの委員に選ばれ、先日この設立会に参加したところである。その内容は、「健康元気まちづくり戦略会議」という百寿委員会の上に置かれた会議の委員長である吉田紀子氏の講演と、4つのワーキンググループ(WG)に分かれての自己紹介、次回の日程調整などなど。私は、「地域づくり・人づくり等場の創造」をテーマにする「絆ムスビWG」に配属させられ、今後検討をしていくことになる。

さて、私はこの設立会に先立ち、厚生労働省が策定した「健康日本21」とその参考資料を読んだり、これを受けて鹿児島県が策定した「健康かごしま21」に目を通したりして、健康寿命の延伸のための諸方策の勉強をしていたのであるが、吉田委員長の講演を聞いて目が点になった。

あまり批判はしたくないが、その内容はほとんど「トンデモ」である。人類がみな潜在意識のレベルでは繋がっていてそれを「集合無意識(ユニティ)」というとか、「純な思い」は波動となって伝わって周りの人をも幸せにするとか、健康になるには霊性・魂の健康が大事であるとか、その他資料には「ブラーフマン」「神性エネルギー」「生命場」「宇宙との繋がり感を体感」などの文字が並んでいた。

また、経済成長ではなく精神的幸福が大事といい、その意味でブータンの提唱する国民総幸福量(GNH)を礼賛していたが、平均寿命が日本より20年も短いブータンをお手本にしようとするあたり、ちょっとその意図を理解しかねる。講演を聞きながら、私の出番はなさそうだと暗鬱な気持ちになったところである。

ただし、言っていることはめちゃくちゃ(失礼!)だが、意外にその志向はマトモである。地域作りの成功例として掲げていた奄美、葉っぱを商材としたことで有名な上勝町、アーティストの移住が有名な鹿屋の柳谷(やねだん)集落、農業振興の成功モデルとされる綾町などの紹介を聞いていると、吉田委員長の理想とするまちづくりの方向性が見えてくる。

それは、センスと行動力のあるリーダーの下で、地域資源を活用した住民参加型の産業を興す一方、観光客やアーティストといった外部人材の流入を活発化する、それによってさらに街を活性化して停滞した雰囲気を打破し、住民が生き甲斐をもって取り組める自主的な活動を始めやすくする。また、街・村の景観を重視し、テーマを持って街づくりを進めることの重要性を強調する。こうしたことは、全て首肯できることであり、大賛成だ。

こういう「トンデモ」系の話を聞くといつも感じるが、「健康な人は素晴らしい波動を発散して、周りの人間も幸せにする」ではなく、「健康で明るい人といると楽しくみんな元気になる」と言えば何の違和感もない。「波動」とか「神性エネルギー」とか疑似科学的な説明を持ち出すから胡散臭くなる。ヒューリスティック(経験主義的)なことを科学的に証明されたものだと強弁しようとするから「トンデモ」なのである。

ところで、本会議は「健康で元気な生活を送れるまちづくり」というボンヤリとした目標を掲げているが、喫緊の課題である医療費低減に向けた具体的努力も是非とも必要である。同じことじゃないかと思うかもしれないが、少し違う。

以前ブログでも紹介したとおり、南さつま市は一人あたり医療費が極端に高いが、南さつま市民が他の地域に比べて極端に不健康であるというデータはない(あったらすいません)。ではどうして医療費がこんなに高いのか。以前も書いた通り、医療費に関しては社会慣習と人々の考え方に起因する部分が大きいと考えられるので、南さつま市民を「不健康」と決めつけず、南さつま市の一人あたり医療費がなぜ高いのかをキッチリと分析・公表し、人々の考え方と医療との関わり方を変革していくことも必要だと思う。健康元気なまちづくりも結構なことだが、是非並行して取組を進めていただきたい。

2013年12月21日土曜日

「はきもの奉納」と大木場山神祭りの謎

大浦町の大木場という集落にある大山祇神社で12月に行われる奇祭が「山神(ヤマンカン)祭り」である。先日これの案内をいただいたので見学に行った。

この祭りは、詳しくはこちらのサイト(→鹿児島祭りの森)に譲るが、簡単に言うと片足30kgもあるバカでかい草履を履いて鳥居から拝殿まで歩き、奉納するお祭りである。

その由来は、集落の言い伝えによると
大木場地区は、平家の落人の里といわれ、[…]伝説によると村人は、源氏の追っ手におびえながら暮らしていた。そこで村に通じる峠道に畳十畳ほどの大草履を置いたところ、追っ手は「この村には巨人がいる」と恐れ、退散したという。以来大草履は、村(地区)の守り神として、毎年旧暦11月の「1の申の日」に行われる山神祭りに、これを奉納している。
ということである。

もとより古い言い伝えであり、これが事実かどうか穿鑿することは無意味である。しかしながら、この祭りにはこの説明だけではどうにも奇妙なところが存在していて、いろいろな空想を掻き立てられる。最も謎なのは、「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということである。

実は、大草履や大草鞋(わらじ)を神社に奉納するということは、決して珍しいことではない。中でも有名なのものに、青森県の岩木山神社へ奉納される大草履がある。これは一足で1トン以上もある。最近になって始まったものだが、東京の浅草寺の仁王門には大草鞋が奉納されているし、福島県の羽黒山神社でも大草鞋が奉納されていて、こちらは草鞋の大きさ日本一を自称している。鹿児島でも、人の背丈よりも大きい弥五郎(※)の大草履が岩川八幡神社に奉納されていた。

なお、こうした巨大な草履・草鞋は山の神に奉納されることもあるが、その場合は1足を揃えず、片足のみが奉納されるのが一般的である。これは、山の神が片目片足と考えられたことを反映しているともいう。

さらに、大きくはない(普通の)草履や草鞋の奉納というのはもっとずっと多い。峠の神を「子(ね)の神」とか「子乃権現(ねのごんげん)」というのがあるが、これには旅の安全を願って草鞋が奉納される習慣があった。また、千葉県の新勝寺の仁王門には大草鞋と共に多くの人々が奉納した草鞋が沢山掲げられているが、これは病気平癒等も含め人生の安泰を願って奉納されたものという。

それから、これは他の地域には類例が少ないが、東京青梅の岩蔵集落というところでは、集落の境界に草鞋を掲げ、疫病や魔物の侵入を防ぐ「伏木(ふせぎ)のわらじ」という共同祭祀の行事がある。

こうした草履・草鞋の奉納、すなわち「はきもの奉納」について整理すると、
(1)巨大なはきものを掲げることにより、(仁王などの)巨人の護持を暗示して、悪鬼を祓う。
(2)峠や道祖神に奉納し、旅の安全を祈願する。また、健脚を願う(韋駄天に奉納される場合もある)。
(3)村の境界などに掲げ、悪鬼や疫病の侵入を防ぐ。
という3つのパターンがありそうである。しかしながら、この3つは時に混淆しているので、明確に分けられない場合も多い。元より、(1)と(3)は機能としては同じであるし、例えば、仁王門には大草鞋も普通の草鞋も両方奉納されるが、これは(1)(2)(3)が同時に願われていると見なせるだろう。

こうした「はきもの奉納」には、未だ纏まった体系的研究がないようだが、どうしてはきものを奉納するのか、ということは意外に大きな謎である。一つの考え方としては、はきもの作りは百姓の重要な副業であり、市で売って貴重な現金収入の元となったので、金銭的価値のあるものを奉納することに意味があったということだ。大木場集落でも、昔から農家の副業として草履作りが盛んで、「コバザイ(木場草履)」として有名だったらしい。

しかし、金銭的価値があるもの、というだけでは、悪鬼や疫病の侵入を防ぐという機能が生まれる理由がわからないし、農具には大体金銭的価値があるわけだから、はきものの奉納だけがこのように日本全国に多い理由として弱い。ともかく、「はきもの奉納」にはまだ解かれていない謎が潜んでいそうである。

話を戻して大木場山神祭りだが、これは類型としてはもちろん(1)に属す。 だが、この機会に他の巨大なはきもの奉納を調べてみて思ったが、この祭りの他には、ただの1つも「大草履・大草鞋を履いて歩く」という祭祀を行って奉納するところはないのである。

そもそも、巨大なはきものを奉納するのは、「こんな巨大なはきものを履く者がここにはいるのだからここから先へ行っては危険である」という意味合いがあり、大木場でもそういう意味だと伝承されているが、であれば巨大なはきものは巨人の神さま(山神)のもので、人間が履いてはならないような気がする。他の祭りでは、大切な神具として奉納がなされており、例えば最初に例示した青森の岩木山神社では、奉納草鞋を作る時は、仮小屋を建ててしめ縄を張り、水垢離(みずごり)を行い小屋に閉じ籠もって作るそうである。

大木場山神祭りでは、はきものは神さまのものというより、「村人を救ったアイテム」のような位置づけで特に神聖なものと見なされていないので、別段不自然ではないという見方もできるが、であれば山神に奉納する理由もわからないのである。そもそも、伝承には山神も巨人も(!)登場しないわけで、このような祭りが起こった理由があやふやだ。

そういう風に見ると、私としては、この祭りは日本各地に残る「巨人説話」の一変形だと考えたい。鹿児島には弥五郎どんという巨人説話があるし、関東にはダイダラボッチという巨人の伝説が残っている。そもそも、巨人の伝説があったからこそ、源氏の追っ手は「ここには巨人がいるのかもしれない」と恐れて退散したわけで、そういう伝説のない土地であったら、こういう脅しは効かないような気がする。

だから、素朴に考えたら、ここで奉納される大草履は伝説上の巨人に向けられたものではなかろうか。それが、あるいは最初からそうだったのかもしれないが山の神と同一視され、山神に奉納されるようになったのかもしれない。

しかしそう考えても、やはり「なぜわざわざ大草履を履いて歩かなければならないのか」ということはよくわからない。この祭りは厳粛なものではなく、大草履を履いた二人の氏子がえっちらおっちら神社を歩くというユーモラスなもので、芸能的要素が強いが、そのあたりがこの謎を解くヒントなのではないかと思う。

ともかく、この大木場山神祭りは「はきもの奉納」の中でもとりわけ変わった内容を持つ奇祭であることは間違いない。今回、祭りにはどこかの大学の先生と学生が見学に来ていたが、その中の誰かがこの祭りの謎を解いてくれることを期待している。

弥五郎どん…鹿児島・宮崎に残る伝説の巨人。

【参考文献】
『ものと人間の文化史 はきもの』1973年、潮田 鉄雄
『妖怪談義』1977年、柳田 國男

2013年10月8日火曜日

南薩のポストカード「Nansatz Blue」できました

以前お知らせした南薩のポストカード「Nansatz Blue」5枚セットが完成して、「南薩の田舎暮らし」で販売を開始した。

たくさんの素晴らしい写真の中から5枚を選ぶ作業はとても悩ましいもので、正直未だに「あっちの方を入れた方がよかったかなあ」と思う部分もある。特に気になっているのは、いろいろ考えて選んだにも関わらず、なぜか構図が似たようなものが並んでしまったことである。うーん。

とはいうものの、結果的にこれらの5枚は、観光客向けのよそ行きの顔ではない、南さつま市の素顔が切り取られたものになったように思う。これらは最近行政が力を入れている「南さつま海道八景」のメジャーな風景ではないし、迫力のある絶景というわけでもないけれど、地元の方に「自分たちの風景」だと受け取ってもらえるよう願っている。

それぞれの写真はぜひ現物を見てもらうこととして、この機会に、この5枚の写真の解説をしておきたい(順不同)。

○『空色の越路浜』
越路浜は、大浦町の遠浅の海岸である。日本三大砂丘の一つである吹上浜の南端に位置するが、越路浜自体は吹上浜の一部ではない(と思う)。この越路浜の特徴は、非常に遠浅であることで、勾配が15,000の1程度(つまり、15キロ進んで1メートル下がる傾き)しかない。この遠浅の勾配を利用して戦中より大規模な干拓事業が進められ、大浦町は鹿児島県において最大の干拓地を有している。(撮影:愛甲 智)

○『実る金峰町』
金峰町は早期水稲「金峰コシヒカリ」の一大産地であり、その出荷は日本一早い。霊峰金峰山からの石清水に育まれたお米は美味である。金峰町からは、一面に広がる稲穂の海の中に笠沙のランドマークである野間岳が望める。ちなみに、金峰町だけでなく、南薩西部(加世田、大浦町、笠沙町)は早期水稲の産地である。(撮影:愛甲 智)

○『黄昏の後浜』
笠沙の野間岬の根元は、野間池という(実際には池ではなく)湾になっているが、この反対側を後浜といい、ここに立神と呼ばれている大岩がある。この大岩は東シナ海に面して荒波を受け止める存在で、地元の人によれば写真のように鏡のような凪ぎになるのは一年に数回しかないという。(撮影:愛甲 智)

○『野間岳と蕎麦の花』
南薩は早期水稲の産地であるため、水稲後の水田の後作として蕎麦の栽培が盛んである。 長野とか新潟のように、一面の蕎麦の花、とはいかないが、最近では蕎麦の戸別所得保障の制度的後押しもあり産地が形成されつつある。金峰町の「きんぽう木花館」ではそば打ち体験も出来る。(撮影:向江 新一)

○『瑠璃色の坊浦』
坊津町に、網代(あじろ)浜という美しい浜がある。ここは、陸続きではあるが道がないので瀬渡し船を使って行く、プライベート・ビーチのようなところで、その海の青さは本土よりむしろ沖縄に近い。写真は、網代浜を往復する渡し船と付近にある小さな赤い灯台。(撮影:愛甲 智)

今回シリーズ名を「Nansatz Blue」としているが、もし資金が回収できれば、第2弾も作りたいし、例えば「Nansatz Green」とか他の色でもポストカードを作ってみたい。それに「南薩」を銘打っているので、南さつま市だけでなく、枕崎市や南九州市、 日置市へも対象を拡大してもいきたいと思う。また、今回の製作には友人・愛甲くんの絶大な協力をもらったが、地元の人が撮り溜めた素敵な写真を発掘してポスト カードを作ってみたい気持ちもあるし、単にポストカードを作って売るのではなくて、ソーシャル・メディアを使って参加型の取り組みもできたら面白い。だが増刷はしない予定なので、ご関心のある方はぜひ早めにお買い求めいただきたい。ちなみに地元では、「大浦ふるさと館」と「笠沙恵比寿」に置いている(1枚100円、5枚セット450円)。

2013年7月8日月曜日

長屋山自然公園からの素晴らしい眺め

ほぼ毎日その山容を見ていながら、これまで一度も頂上に登ったことがなかった長屋山(ちょうやざん)に車で行ってみた。

頂上付近には「長屋山自然公園」が整備されており、駐車場、トイレ、展望所兼休憩所のようなところがある。

この展望所からの眺めは最高で、この写真の景色が目に入ってきたときは思わず笑ってしまったほどだ。あまり期待せずに行っただけに驚きは大きい。吹上浜が描く美しい弧が青い海を切り取り、その上には積乱雲の壁が乗っている、という夏らしい瞬間。カメラの望遠レンズを持っていくのを忘れたのが非常に惜しかった。

この長屋山自然公園だが、作られた時はもう少し施設が附設されていた形跡もあるが、今ではやや壊れかけた展望台があるだけ、という状態である。それでも、ここにバーベキューセットを持ち込んで、この素晴らしい景色を眺めながらワイワイガヤガヤしたらもの凄く楽しそうである。一応草払い等はしてあるので、公園としての体裁は失っていないし、トイレが半廃墟化しているのが唯一の欠点だが、まあこういう山頂に公衆トイレがあるということ自体が稀有なことだ(それにしてもどうやって水を引いているのだろう)。

公園からさらに少し登ったところが山頂で、ここには加世田ARSR(航空路監視レーダー)というバカでかい無線基地がある。ARSRというのは、いわばGPS登場以前のGPSであり、上空にある航空機の位置を計測する無線施設で、全国に16ヶ所ある。そのうちの一つがなぜかこの長屋山に設置されているというわけで、山頂の風景を損なっているとも言えるが、そのおかげで舗装道路があるし、公園も整備されている。

この監視レーダーの横にある小さい丘が本当の山頂で、ここからは大浦干拓を遙かに見下ろすことができ、展望所よりも視角は狭いがこちらも絶景である。特に干拓とその先にある洋上の小島群の対比は美しい。

長屋山は標高は500mちょっとと決して高くはないが、山裾が広大で堂々としており、周りも開けているので何か立派な感じのする山である。観光名所にするにはもう少し公園の整備が必要だと思うが、登って損はない山だと思った。

2013年6月19日水曜日

二人の「日羅」——南薩と日羅(2)

坊津の一乗院の創建を始め、金峰山の勧請、磯間嶽の開山など、ありそうもない日羅の事績が南薩に残っているのはどうしてなのだろうか? また、古墳時代という遙かな古代に日羅が本当にやってきたのだろうか?

さて、始めにこうしたことがこれまでの地域史でどのように考えられてきたのかを見てみよう。まず坊津の一乗院だが、一応「我が国最古の寺」というのを触れ込みにしているものの、史学的にはこれは否定されており、せいぜい平安時代、おそらく鎌倉時代の創建と考えられている。本当に古代寺院だったとすれば古い資料にその名前が残っているはずなのに、実際には一乗院(龍巌寺)の名称はどこにも見いだせないのが主な理由だ。よって、日羅が創建したというのは文字通りあり得ない話であると一蹴されている。

次に金峰山の勧請(正確には、蔵王権現という修験道の仏の勧請)だが、幕末に編纂された『三国名勝図絵』において、日羅が勧請したという説を紹介しつつ「時世等の違いがあるので、名前が同じ別の人ではないだろうか」とされている。これ以外の史料に、金峰山の日羅による勧請を考察している記事を見つけられないが、要はあまり信憑性もないので相手をする人がいないのであろう。

まとめると、南薩に日羅が訪れ寺院の創建などを行ったという伝説は、かなり疑わしいものであるために真面目に取り扱われてこなかった、というところだ。これは、いわゆる「弘法大師お手堀の井戸」の扱いに似ている。全国各地に「弘法大師空海が錫杖(または独鈷)で衝いた所から水が湧いた」という伝説を持つ井戸があるが、錫杖で衝いて水を出すということ自体が荒唐無稽であるし、それが事実かどうか考証されることなどほとんどないと言える。日羅伝説もそれと同様の、荒唐無稽の妄説なのであろうか?

ここで視野を広げて他県の地域史を見てみると、日羅の父が国造をしていた熊本葦北を始めとして九州各地に日羅伝説が残っていることに気づく。特に注目すべきなのは国東半島(大分県)だ。国東半島は我が国で最も数多くの、そして素晴らしい磨崖仏が残っているところであるが、この磨崖仏のいくらかが日羅の作と伝えられており、また大分県内の寺院には日羅が刻んだという仏像も多く残る。

また、日羅が創建したとされる古代寺院は坊津の一乗院の他にも九州には多数あり、肥後七ヶ寺を始めとして天台宗の寺院に多い。一乗院は真言宗だが、いずれにしろ日羅の創建として伝えられているのは密教の寺院である。

さらに全国に目を転じると、日羅は愛宕信仰における勝軍地蔵菩薩の化身とされてもいる。愛宕信仰は修験道の一派の信仰であるが、国東半島で磨崖仏を刻んだのもおそらく修験者であることを考えると、日羅伝説は修験道と縁が深い。そして元々修験道は密教の一派として発達したのであるから、密教寺院の創建も広い意味では修験道と関連する事績に含められるだろう。
 
振り返って南薩の日羅伝説を鑑みると、金峰山も磯間嶽も修験道の修行の山であった訳だし、坊津の一乗院も先述の通り密教寺院であったということで、全国的な日羅伝説の傾向と合致しているのである。

こうしたことを踏まえると、各地に残る日羅伝説は、古墳時代の百済の日羅とは無関係であることは歴然としている。ポイントを簡単に述べれば、

  • 日羅は数多くの密教寺院を創建しているが、密教はいわば平安時代のニューウェイブ仏教であり、もし古墳時代に百済の日羅が寺院を創建するとすれば南都六宗のようなもっと古風な宗派であるはずだ。
  • 日羅は自ら仏像や磨崖仏を刻んでいるが、飛鳥時代以前には仏像は工人(技術者)が造るもので、仮に百済の日羅が僧侶だったとしても自ら仏像を制作するのはおかしい。
  • そもそも磨崖仏や修験道は平安時代に生まれたものであるから、古墳時代の百済の日羅がこれらと縁があるわけがない。また日羅作と伝えられる磨崖仏も平安〜鎌倉の作と比定されているものが多い。
というところだろう。実は、こうしたことは既に大分県の史学界で考証がなされており、国東半島に磨崖仏を残した人物が「百済の日羅」とは無関係であることは定説というか常識である。だが、日羅伝説は各地の寺院が権威付けのために野放図に捏造したようなものでもなく、そこに一定のパターンというか、ある種の筋が通っている部分もある。日羅伝説を俯瞰してみると、修験道の行者(山伏)という「日羅」の人物像が浮かび上がってくるような気もするのだ。とすると、磨崖仏を刻んだ「日羅」と呼ばれる人物が別にいた、ということなのだろうか?

これに対しては各種の仮説が呈示されている。例えば、そういう特定の人物はいなかったが、各地の磨崖仏などが「日羅」という有名人に奇譚的に託されたのではないかと考える人もいるし、「日羅」という「百済の日羅」と同名の修験者が実際にいたが、時が経るにつれ「百済の日羅」と混淆していつしか同一人物になってしまったのではないか、という説もある。

こうした説のどれが正しいかは、もはや状況証拠的には決められない。真相は、闇に包まれている。しかし、日羅伝説が成立したと考えられる平安時代、磨崖仏なり仏像なりを400〜500年も前の古墳時代のものとして「捏造」するのはさすがに大それているし、何かのきっかけがなければ日本書記にしか記録が残っていない「日羅」が復活するとは考えにくい。

とすると、説として魅力的なのは、平安時代あたりに各地で磨崖仏を刻み、寺院を創建した「日羅」と名乗る人物が実在した、というものだ。つまり、約500年の時を経て、日羅は二人いたということになる。ここではその「日羅」のことをわかりやすく「修験の日羅」と呼ぶことにしよう。「修験の日羅」は、各地の山林を抖擻(とそう:歩きながら仏道の修行をすること)して、あるところでは磨崖仏を彫り、またあるところでは寺院を創建(といっても、多分祠堂を設けるとか、仏像を安置するといった程度のことと思う)したのだろう。その活動範囲は九州一円にも及び、各地に「日羅」の事績を残したと考えられる。

どうしてこの「修験の日羅」の記憶がなくなり、やがて「百済の日羅」に置き換わってしまったのかはよくわからない。想像するに、『日本書記』に日羅の記述を見つけた人が自らの権威を高めたかったのか、「うちは日羅創建の古寺である」と誇り、それが連鎖反応的に広まったのかもしれない。そうしたことが続くうち、「日羅」というのが一種の超越的な、古代のスーパーマンとしてアイコン化し、実際には「修験の日羅」にも関係がない所にまで日羅伝説が広まっていったということがあるのだろう。それが勝軍地蔵が日羅の化身と考えられるに至った理由であるように思われる。

そのように考えると、この南薩の地に「ありそうもない話」である日羅伝説が残っているのは、まるきり荒唐無稽なこととは思われない。つまり、「百済の日羅」とは無関係であっても、「修験の日羅」が実際にここへ来て、一乗院を創建したり、金峰山を勧請したり、磯間嶽を開山するといったことをやったという可能性はゼロではないのである。薩摩の地には古くから修験道が栄えていたというし、元より修験者=山伏は各地を巡りながら修行をするものであるから、この辺境の地まで赴いてもおかしくはない。

一方で、そうだとすると古墳時代に遡ると思われた磯間嶽や一乗院の歴史が、それよりは随分新しい平安時代以降のものとなってしまうので、古さを誇りたい人には残念かもしれない。しかし、私自身は「古ければ古いほど有り難い」とは思わないし、荒唐無稽な古さを主張するよりも、実際にあったかもしれない過去を想像する方が楽しい。我が家から毎日見ている磯間嶽に、平安時代に大分(か熊本)から「日羅」と名乗る修験者がやって来て、岩山をよじ登り祠堂を設け、そしてまた旅を続けたのだと考えてみたい。彼はその時にどんな大浦を見たのだろうか。土地の人々に何を教えたのだろうか。そういう風に考える方が、私は楽しいのである。

と、いろいろ書いてきたけれど、私はこちらに越して来てから実はまだ一度も磯間嶽に登ったことがないのである。早く磯間嶽に登って、日羅が見たかもしれない風景の1000年後の様子を見てみたいと思っているところである。

【参考文献】
「日羅の研究—「宇佐大神氏進出説」批判(3)—」(『大分縣地方史』第116号所収)1984年、松岡 実

2013年6月17日月曜日

磯間嶽は遙かな古代から信仰された山か?——南薩と日羅(1)

大浦町の南側は、磯間嶽という山が塞いでいる。磯間山とも言うし、もっと親しみを込めて「いそまどん」とも呼ばれる山である。

この山、標高は363mと低いながら巍巍とした威風ある山容を持ち、特に天を衝く山巓(さんてん)はあたかも鬼の頭のような異様な風体をなしている。

また、急峻な岩稜は短いながら本格的な登山が楽しめるといい、山と渓谷社が選ぶ九州百名山(旧版)の一つに選ばれたこともある。この特徴的な山影はほとんど大浦町の全体から望むことができるので、ある意味では大浦町の象徴ともいうべき非常にモニュメンタルな山である。
 
磯間嶽の山頂には、かつて磯間権現という社があったのだが、磯間嶽は日羅(にちら)という人が敏達天皇12年(583年)に開山したという伝説を持つ。この場合の「開山」とは登頂して祠堂を設けたことをいうのだろうが、磯間嶽が今から1400年以上前という遙かな古代、古墳時代から尊崇された山だとすると驚くべきことである。

しかし古墳時代というのはさすがに古すぎる。ほとんど歴史を無視したような古さである。本当に、そんな遠い昔に開山された山なのだろうか。また、磯間嶽を開山した日羅という人物は何者なのだろうか。そうしたことは、これまで真面目に考証を受けたことはないようなので、この機会に少しまとめてみたいと思う。

この日羅という人物、知名度は極めて低いが、古代史の中でも大変に興味深い存在である。彼は熊本(葦北)の国造の子であったが、百済の高官であった。百済では達率(だちそち)という位にあったといい、この達率は百済の官位第2位で定員が30名であったそうだから、今で言うと大臣級のエライ人である。

葦北に父を持つ日羅は、元々百済に生まれたのか、熊本から百済に渡って高官に上り詰めたのか、そのどちらなのかは分からないけれども、ともかく日本に深い縁を持っていた。そのため、朝鮮半島情勢を憂えていた敏達天皇はこの日羅を外交顧問として日本へ招聘した。百済の王は当初日羅の渡日を首肯しなかったが、日本からの使者の強い要請を受けて承認。その代わり、大臣級の渡航ということで当然の待遇だったのだとは思うが数々の部下も同時に来日させた。

この頃の日本は、朝鮮半島の権益を失いつつあったタイミングで、また新羅の領土拡張策などを警戒しており、朝鮮半島への強攻策を検討していた模様である。敏達天皇はこうしたことから日羅に朝鮮半島の諸国家への対抗策を諮問する。それに対し、彼は極めてまっとうだが、一方で百済に不利な建白を行ってしまう。そしてなんと、その廉(かど)で百済からついてきた部下に暗殺されてしまったのである。百済王は、百済の内情を知悉していた日羅を元々殺すつもりで日本に送ったのであろう。天皇はこの暗殺を遺憾とし、百済からついてきた部下たちを死刑にして日羅は丁重に葬ったという。敏達天皇の12年、西暦583年のことであった。

日羅は、(日本書紀には記載がないが)伝説によれば聖徳太子の師でもあったといい、百済から招聘されながら日本で部下に暗殺されるというドラマチックな生涯と、実は後世にも大きな影響を与えていることから、これまであまり注目されてこなかった人物ながら、古代史の重要人物といってもよかろうと思う。

そして、日羅は実は南薩にも深い縁を持つ。我が国最古の寺(かもしれない)、との触れ込みの坊津の一乗院は同じく583年に日羅が開基したといい、金峰山も日羅が大和の金峰山から勧請(かんじょう:今風に言えば、金峰山の”支店”を作るような感じである)したものという。遙かな昔、この辺鄙な南薩に日羅が本当に来たのだろうか?

ちなみに、鹿児島には南薩の他にも慈眼寺清泉寺も日羅が建立したものという伝説がある。慈眼寺は一乗院宝満寺とともに「薩摩三名刹」と謳われた寺であるが、薩摩三名刹のうち2つもが日羅建立の伝説を持つわけで、それだけでも鹿児島県の歴史に興味を抱く人はこの日羅に注目すべきである。一方で、日羅が百済から日本へ渡航して暗殺されるまでの短い期間(しかも古墳時代)に、この辺境の地に赴き、いくつもの寺院を作るというのはありそうもない話である。しかしその「ありそうもない話」が、鹿児島、そしてこの南薩に数多く残っているとすると、その理由を考究していくのも一興だ。

と言うわけで、その理由を自分なりに考えてみたのだが、長くなったので次回に書くことにしたい。

【参考文献】
『日本書紀 下(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2013年5月30日木曜日

もう一つの特攻基地

南薩で特攻基地、というと知覧が圧倒的に有名だが、実は加世田の万世(ばんせい)にも特攻基地(万世飛行場)があった。

この基地は旧日本陸軍最後の特攻基地であり終戦間近の数ヶ月だけしか使われなかったことや、極秘の飛行場だったためか、かつては「幻の基地」と呼ばれほとんど知られていなかったのだという。

しかし、使われたのが短期間とはいえ201人もの若い命がこの飛行場から特攻に飛び立っており、知覧の439人と比べ約半分の規模、またこれは全特攻戦死者1036人の約5分の1を占めてもいる。

現在飛行場跡地には「万世特攻平和祈念館」があり、慰霊と特攻の記録が展示されている。この施設ができたことで、「幻の基地」は幻でなくなったといえる。これはここから飛び立った数少ない生き残りである苗村七郎さんという方が、非常な熱意を以て遺品を収集し、また私財を旧加世田市に寄附したことを契機として建設されたものだ。なお苗村さんは生前は名誉館長も務めていた。

その内容は、知覧特攻平和会館に全く劣らない。規模的には半分程度だと思うが、遺影と遺書の展示は見ているとどんどん気分が沈んでくるものであるから、半分もあれば十分すぎるほどだと思う。しかし、入館者の数は半分どころではなく、知覧の10分の1もないであろう。先日私が訪問した時も、入館者は私一人であった。

知覧には武家屋敷もあり、複合的な観光地であるので単純に比べることはできないが、この入館者の少なさは残念だ。南さつま市の方でもこの施設を積極的に広報していこうという気はなぜかないようだが、いつも人でごった返している知覧よりも、静かに、じっくりと特攻兵士たちと向き合える施設だと思うので、もっと多くの人に見てもらいたいと思う。

ちなみに、この万世飛行場だが、戦況が悪化の一途を辿っていた昭和18年に突貫工事で作られた。資材不足のため舗装すらされていなかったという。が、用地は吹上浜に面した網場集落(83戸)というところを買収しており広大な敷地があった。戦後、飛行場は跡形もなく消えさり、今では営門の遺構が残っているだけに過ぎない。かつて「幻の基地」と言われた所以である。

しかし、基地の敷地だったところには今でも官有地がかなり残っており、この万世平和祈念館を始め県立薩南病院、物産センター「るぴなす」など公共の施設が多い。特に吹上浜海浜公園は基地跡のかなりの面積を占めているだけでなく、同公園には今でもさりげなく特攻の滑走路が残されている

死地へと飛び立つ兵士を送り出した滑走路が、今は子どもたちの歓声が響く公園で使われているわけだ。これには「滄海変じて桑田となる」という言葉を思い出さずにはいられない。隣国との関係が何かギクシャクしている昨今、今度は桑田がまた滄海と変じてしまわないように、気をつけていかなければならない。今度、滑走路跡を歩いてみたいと思う。