2013年11月2日土曜日

高田磨崖仏の大黒天と天照大神の謎

南九州市の川辺に、高田磨崖仏という史跡がある。以前紹介した「高田石切場」の近くに屏風状になった岩壁があり、そこに数体の仏像が刻まれているのである。

これの多くは、1678年に西山寺是珊往持という人が刻んだもので、廃仏の際には藪に隠れてわからなくなっていたため現代まで残ったといういわくをもつ、小規模ながら雰囲気のある磨崖仏である。

先日、この高田磨崖仏を見に行って大変びっくりしてしまった。彫られているのは、観音、薬師、阿弥陀、毘沙門天…まではまあよいのだが、その他に大黒天もあるのである! 磨崖仏というのは、基本的には密教、修験道系の仏教が彫るものであるため、基本的にはそれらの宗教で中心的な役割を果たす仏や天(神さま)が表現される。具体的には、観音菩薩とか薬師如来とか、もちろん大日如来といったものが中心だ。

ところが、この高田磨崖仏には大黒天もいらっしゃるわけである。大黒天が彫られた磨崖仏というのも他にないわけではないが、実際に見たのはこれが初めてである。

大黒天、つまり大黒さまというのは、一般には仏教の神さまであるとは認識されていないが、天台宗(いうまでもなく密教です)においては尊ばれる存在である。というのも、比叡山は大黒天信仰の発祥の地であり、比叡山においては大黒天は僧侶の食事の守護神的なものであるからだ。これは、比叡山を開いた最澄自身が、そこで三面大黒天というのを感見した(※)からという。

と、教科書的な知識はあるのだが、実際に大黒天が仏教の信仰の中でどのように扱われ、跪拝されてきたのかというのは正直よく知らない。岩壁に尊像を刻むというのは大変な作業なわけで、そこに表現する内容は厳選されていたのだと思うが、その選択が、観音、薬師、阿弥陀、毘沙門天、そして大黒天である、というのが非常に意外であった。大黒さまへの信仰も、仏教の中でかなり重視されていたということなのだろうか。

また、この高田磨崖仏にはさらに変わった表現もある。それは1711年に頴娃脇七兵衛という人が追加して刻んだもので、なんと天照大神の像があるのである。こちらはやや技術が劣っていたためか損傷が激しいが、阿弥陀如来立像みたいな感じの神像である。

こちらは大黒天よりももっと謎が深く、江戸中期である1711年に天照大神の神像を刻むということの意味が私にはよく分からない。後期国学の流れで日本の神話などが改めて注目されるのは幕末のことであるし、そもそもこの頃は『古事記伝』の本居宣長すら生まれていない時代である。天照大神という存在が、アマテラス系の神話の残っていない鹿児島で、岩壁に刻むというような信仰を受けていたというのは、意外を通り越して奇妙な感じを受ける。

そういうわけだから、この天照大神をどういう目的で刻んだのかも謎であるし、どういう信仰に基づいていたのかも謎である。というより、磨崖仏ならぬ「磨崖神」というのは非常に数が少なく異例の存在であるから、謎だらけなのである。

江戸の後期には次第に仏教の力が衰え、(今でいう)神道の勢力が強力になっていき、明治維新に至って国家神道の成立を見るわけだが、その前段の江戸中期に、神道的なものが一体どう信仰されていたのかというのも意外によくわかっていない(私が不勉強なだけかもしれませんが)。江戸後期になって急に活気づくということもなかろうと思うので、中期にはその前段となる「何らかの動き」があったのだろうが、その一端がこの岩壁に刻まれた天照大神ではないかと思えるのである。

つまり、なぜ頴娃脇七兵衛はここにアマテラスの神像を刻んだのか、という問いは、突き詰めていくと江戸の国学の流れを全ておさらいしなければならないような内容を孕む、重要な問題に思えるのである。

この高田磨崖仏は、同じ川辺にある清水磨崖仏の存在に隠れてあまり着目されることがない。しかしその内容は極めて異色なものを持っているので、今後研究が進み、謎が解明されることを切に期待したい。

※ 「感見」とか「感得」というのは平明な現代語に置き換えづらいが、「幻を見た」ということに近い。

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