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2024年4月2日火曜日

奄美に行ってきました(その1)

先日、テレビの企画で奄美大島に行かせてもらった。

NHKかごしまの「ローカルフレンズ」というコーナーのロケで、これまでに「ローカルフレンズ」として出演した人が奄美大島を観光する、という内容の企画である。私は2月に「ローカルフレンズ」に出演させてもらったので、その末席を汚したというわけである。

その企画のことはさておき、私は人生で初めて奄美に行ったので、その印象などを書き留めておきたい。

奄美空港に到着して、目的地の瀬戸内町までは車でおよそ2時間。その途中はずっと山か海しか見えないのだが、すぐに気づいたのは山に杉が全くないことだった。

では、奄美の森は手つかずの自然が残っているのかというと、実はそうではない。2021年、奄美大島や徳之島、沖縄本島など(の一部)が世界自然遺産に登録されたが、奄美大島の場合、登録地のほとんどが二次林(人の手が入った森林)なのである。

かつての奄美大島では林業は主要な産業の一つだった。奄美大島の林業を語る上では岩崎産業の存在が大きく、岩崎産業は奄美大島に1万2000ヘクタールもの大森林を所有していた。島の全体面積が約7万2000ヘクタールなので、実に島の20%もの大地主だったことになる。岩崎産業が奄美大島でどのような林業を行っていたのかは私は詳しくは知らないが、島の森林を見たところ、整然と植林されたような区画は皆無だったので、おそらく造林(植林)はほとんど行っていなかったものとみられる。

本土では盛んに杉が植林されていた時期(戦後)に、どうして奄美大島では全く植林されなかったのか。政策的な理由があったのかもしれないし、自然の回復力が高かったため、あえて植林しなくてもよいという考えだったのかもしれない。

なにしろ植林にはかなり手間がかかる。植林して数年間は下草払いをする必要があり、草払機が普及する前は造林鎌で行う重労働だった(草払機があっても重労働である)。ハブのいる奄美の森では危険も伴っただろう。要するに、植林はコスト的に見合わなかった、ということが理由ではないだろうか。

それは手抜きともいえなくもないが、植林がされなかったことで、結果的に、奄美の山ではスダジイを中心とする自然の植生が回復し、多くの野生動物が保全されることとなった。真面目に造林していなかったのがかえってよかったのだ。

ちなみに、世界自然遺産の登録にあたって最大の障壁になったのが、登録予定地の大部分が岩崎産業の社有地であったことだ。結論を言えば、岩崎産業は4000ヘクタールもの土地を国に売却することでこの問題は決着した。奄美の人たちの岩崎産業に対する思いは複雑なものがありそうである。

ところで、現在の奄美大島の林業はどうなっているのかというと、車中から森林の様子をずっと見ていたが、全く林業が行われている形跡がなかった。かつて島を支えた林業は壊滅した模様である。

というか、林業だけでなく、建設業と漁業以外には、島には産業らしい産業がほとんど見受けられない。サトウキビ以外の農業は見ることができず、水田は皆無といってよかった。畜産もわずかのようなので、仮に農業をやるとしても堆肥の調達に苦労しそうである。私は柑橘農家なので、奄美大島といえばタンカンというイメージがあったが、産業的に行われているタンカン園は一カ所も目に入らなかった。

要するに、島には仕事があんまりなさそうなのだ。

やはり島は貧しいのか。目的地の瀬戸内町古仁屋で、その続きを考えることにしよう。

(つづく)

2013年12月3日火曜日

ヘーゼルナッツの木=ハシバミを植えてみました

今般開墾した土地に、仕事と趣味の間のようなプロジェクトとして、西洋ハシバミを13本植えた。西洋ハシバミという名前だとピンと来ないが、これはヘーゼルナッツを収穫する木である。

ヘーゼルナッツというと、ヘーゼルナッツ・ラテのように香り付けに使ったり、お菓子のトッピングになったりと、近年日本でもなじみが出てきた素材。ただ、ヘーゼルナッツがどんな形をしているのか、知っている人は少ないと思う。ヘーゼルナッツというのは、私もそのものを食べたことはないのだが、風味がよく栄養豊富なドングリなのだ。

この実をつけるハシバミという木は、約9000年くらい前のヨーロッパでは、圧倒的な優勢種として森を覆っていたという。日本が縄文時代の頃、ヨーロッパの森といえばハシバミの森だったのである。その後気候が寒冷化したため、カシワ類に取って代わられ、今では世界的生産地はトルコとなっている。

ゲルマン民族が入ってくる前にヨーロッパで栄えたケルト人たちは、このハシバミを随分身近に、そして重要なものと考えていたことは確実で、ケルトの伝説にはハシバミの話が残っているし、ハシバミの枝に神秘的な意味を付与し、水脈や鉱脈を探すのに使ったのだという(ダウジングのようなもの)。

また、減少したとはいえ近代以前のヨーロッパの森にはハシバミが多く、中世の農民の重要な食料だったようだ。ヨーロッパの古い話を読んでいると、ハシバミの実をどうしたとか、ハシバミの枝がどうだということが時々出てくるが、これがヘーゼルナッツのことであるとわかった時は随分意外に感じたものである。

例えば、シンデレラ(グリム童話版)では、シンデレラは、産みの母の墓前に挿したハシバミの枝がみるみる成長して、小鳥(妖精)が様々な願いを聞いてくれる舞台となる。どうやら、中世ヨーロッパの人々は、ケルト人から受け継いだのだろうが、ハシバミを不思議な力を持つ木と認識していたようだ。

ちなみに、日本にも種類は違うがハシバミ(榛)は自生しており、古くから食用とされたそうである。しかしそれよりも重要なのは、搾油し、今風に言えばヘーゼルナッツ・オイルを採ったことである。なんでも、灯明としての搾油が行われたのはハシバミを嚆矢とするらしく、7世紀くらいまでの朝廷ではハシバミ油が使われたらしい。堺の遠里小野(おりおの)は古代ハシバミ油製造の拠点だったそうである。

ハシバミはヨーロッパでも日本でも、古代社会において重要な役割を果たした植物といえる。だから栽培してみるというわけでもないが、まず日本にはヘーゼルナッツを生産している人がほとんどいないので、希少価値がある。輸入品に比べて品質はどうかというと心許ないが、面白い商材になりそうな予感がする。この西洋ハシバミ、結実するまで長い時間がかかる、というのが大きな欠点らしいが、何年後に収穫できるだろうか…。

2013年10月2日水曜日

高田石切場の壮大な石の壁

南九州市川辺の、高田という地区に「高田石切場」という産業遺産のようなものがある。

これは、江戸末期から昭和にかけて採石された場所の跡であるが、遺産というより既に遺跡の風格を持っている。私の拙い写真では全く表現出来ていないが、天を衝くほぼ垂直の石の壁が広がる様子は、あたかも神殿のような趣がある。

また、驚くべきことに、写真の場所ではないながら、近くでまだ採石が続いていて、一人だけ残った石工さんが仕事をしているとのことだ(少し古い情報なので、もしかしたら間違っているかもしれません)。

今でこそ、採石と石の加工は別の場所で行われ、採石場といえば単に石を切り出すだけの所であるが、昔は採石場で石工が鑿を振るい石造製品を作っていたわけで、ここから多くの石灯籠や墓碑、石碑、鳥居といったものが運ばれていったのだろう。川辺では、戦後になっても石工になろうとするものが多かったため、石工に弟子入りするのに町は1万円(!)を支払うよう命じたという話がある。

ちなみに、なぜ採石場で最終製品まで作ったのかというと、その理由は単純で、運搬する重さを少しでも減らそういうのが目的だ。当時は重機もなく、石切りと製品の運搬というのは相当な重労働だっただろう。この荘厳な石の壁も、なんと竹で足場を組んで、手作業で石を割って作られたものだそうだが、そういう方法で作り出されたとは俄には信じ難い。なお、この壁の上部には、27/3/7という文字が刻まれており、これはこの壁が切り出された年を表しているらしい。昭和27年3月7日ということなんだろうか…。

しかし、素人ながら、このように垂直に石を切り出すと、それから先の石切りが非常に不便になるように見えて仕方がない。上の方から階段状に切り出すのが合理的な気がするのだが、どの壁もそのようにはしていないわけで、具体的な工法を知りたいところである。

ついでに書くと、この壮大な石の壁は溶結凝灰岩でできている。溶結凝灰岩というのは、火砕流などによって高温の火山噴出物が堆積し、自重で圧縮されながら再度溶解し凝結したもので、要するに灰とか軽石のようなものが地上で高温高圧となって溶けて石になったものである。写真には、うっすらと層のようなものが見えるが、これは堆積した時に上からの圧力で層状になったもので、溶結凝灰岩の特徴がよく現れている(と思う。地学は体系的に学んだことがないので間違っているかもしれません)。

このように巨大な溶結凝灰岩の壁ができているということは、一度に20m以上もの火山噴出物が堆積したということだから、かつて桜島の噴火など比べものにならないほどの大噴火があったということになる。

実は、南薩は阿多カルデラという日本有数のどでかいカルデラを錦江湾側に持っていて、この阿多カルデラ成立の過程で数次にわたって起こった巨大噴火の影響で、ものすごい大きさの溶結凝灰岩の地層が多く見られる。約10万年前に起こった阿多火砕流の噴出物は約110km3というから、開聞岳(約8km3)14個分(!)くらいの灰や噴石が一度にばらまかれたことになる。 24万年前から10万年前までの間に、このクラスの噴火がなんと4回もあったそうである。

ちなみに、鹿児島北部はこれまた大きな姶良カルデラがあるし、島嶼部には鬼界カルデラがあって、鹿児島は有史以前は巨大火山のメッカの様相を呈していた。そのため県内では溶結凝灰岩が豊富に獲れ、やや脆いが加工しやすいこの石を利用して石造文化が発展したのではないかと思われる。8・6水害前にあった五石橋も全て溶結凝灰岩でできていた。

そして、鹿児島の石造遺物は、他の地域に比べ細かい細工が少なく、石そのものの質感が活かされているものが多いと言われるが、これは鹿児島人の気質というよりも、その素材が溶結凝灰岩であることが大きく影響しているのではなかろうか。なにしろ、この石は大理石や花崗岩のように硬く稠密ではないから、仮にミケランジェロであっても決してダヴィデを削り出すことはできないのだ。素材は、文化の基底に存在している裏の支配者である。

さらに蛇足だが、近くには「高田石切場の美味しい水」の水汲み場があって、ここの水は「命水」と名付けられていて大変美味である。最近、「水汲み場」のノボリが立ったので知名度が上がったのか、私が訪れた時もひっきりなしに大量のペットボトルに水を汲んでゆく人が立ち寄っていた。この水も、浸食されやすい溶結凝灰岩を通ってきているために、ミネラル分が多く含まれ、甘い味になっているのではないかという気がした。地質というのは普段の生活とは随分縁遠いようでいて、長い目で見てみると私たちの歴史や文化を動かす一つの力だと思う。

2013年6月19日水曜日

二人の「日羅」——南薩と日羅(2)

坊津の一乗院の創建を始め、金峰山の勧請、磯間嶽の開山など、ありそうもない日羅の事績が南薩に残っているのはどうしてなのだろうか? また、古墳時代という遙かな古代に日羅が本当にやってきたのだろうか?

さて、始めにこうしたことがこれまでの地域史でどのように考えられてきたのかを見てみよう。まず坊津の一乗院だが、一応「我が国最古の寺」というのを触れ込みにしているものの、史学的にはこれは否定されており、せいぜい平安時代、おそらく鎌倉時代の創建と考えられている。本当に古代寺院だったとすれば古い資料にその名前が残っているはずなのに、実際には一乗院(龍巌寺)の名称はどこにも見いだせないのが主な理由だ。よって、日羅が創建したというのは文字通りあり得ない話であると一蹴されている。

次に金峰山の勧請(正確には、蔵王権現という修験道の仏の勧請)だが、幕末に編纂された『三国名勝図絵』において、日羅が勧請したという説を紹介しつつ「時世等の違いがあるので、名前が同じ別の人ではないだろうか」とされている。これ以外の史料に、金峰山の日羅による勧請を考察している記事を見つけられないが、要はあまり信憑性もないので相手をする人がいないのであろう。

まとめると、南薩に日羅が訪れ寺院の創建などを行ったという伝説は、かなり疑わしいものであるために真面目に取り扱われてこなかった、というところだ。これは、いわゆる「弘法大師お手堀の井戸」の扱いに似ている。全国各地に「弘法大師空海が錫杖(または独鈷)で衝いた所から水が湧いた」という伝説を持つ井戸があるが、錫杖で衝いて水を出すということ自体が荒唐無稽であるし、それが事実かどうか考証されることなどほとんどないと言える。日羅伝説もそれと同様の、荒唐無稽の妄説なのであろうか?

ここで視野を広げて他県の地域史を見てみると、日羅の父が国造をしていた熊本葦北を始めとして九州各地に日羅伝説が残っていることに気づく。特に注目すべきなのは国東半島(大分県)だ。国東半島は我が国で最も数多くの、そして素晴らしい磨崖仏が残っているところであるが、この磨崖仏のいくらかが日羅の作と伝えられており、また大分県内の寺院には日羅が刻んだという仏像も多く残る。

また、日羅が創建したとされる古代寺院は坊津の一乗院の他にも九州には多数あり、肥後七ヶ寺を始めとして天台宗の寺院に多い。一乗院は真言宗だが、いずれにしろ日羅の創建として伝えられているのは密教の寺院である。

さらに全国に目を転じると、日羅は愛宕信仰における勝軍地蔵菩薩の化身とされてもいる。愛宕信仰は修験道の一派の信仰であるが、国東半島で磨崖仏を刻んだのもおそらく修験者であることを考えると、日羅伝説は修験道と縁が深い。そして元々修験道は密教の一派として発達したのであるから、密教寺院の創建も広い意味では修験道と関連する事績に含められるだろう。
 
振り返って南薩の日羅伝説を鑑みると、金峰山も磯間嶽も修験道の修行の山であった訳だし、坊津の一乗院も先述の通り密教寺院であったということで、全国的な日羅伝説の傾向と合致しているのである。

こうしたことを踏まえると、各地に残る日羅伝説は、古墳時代の百済の日羅とは無関係であることは歴然としている。ポイントを簡単に述べれば、

  • 日羅は数多くの密教寺院を創建しているが、密教はいわば平安時代のニューウェイブ仏教であり、もし古墳時代に百済の日羅が寺院を創建するとすれば南都六宗のようなもっと古風な宗派であるはずだ。
  • 日羅は自ら仏像や磨崖仏を刻んでいるが、飛鳥時代以前には仏像は工人(技術者)が造るもので、仮に百済の日羅が僧侶だったとしても自ら仏像を制作するのはおかしい。
  • そもそも磨崖仏や修験道は平安時代に生まれたものであるから、古墳時代の百済の日羅がこれらと縁があるわけがない。また日羅作と伝えられる磨崖仏も平安〜鎌倉の作と比定されているものが多い。
というところだろう。実は、こうしたことは既に大分県の史学界で考証がなされており、国東半島に磨崖仏を残した人物が「百済の日羅」とは無関係であることは定説というか常識である。だが、日羅伝説は各地の寺院が権威付けのために野放図に捏造したようなものでもなく、そこに一定のパターンというか、ある種の筋が通っている部分もある。日羅伝説を俯瞰してみると、修験道の行者(山伏)という「日羅」の人物像が浮かび上がってくるような気もするのだ。とすると、磨崖仏を刻んだ「日羅」と呼ばれる人物が別にいた、ということなのだろうか?

これに対しては各種の仮説が呈示されている。例えば、そういう特定の人物はいなかったが、各地の磨崖仏などが「日羅」という有名人に奇譚的に託されたのではないかと考える人もいるし、「日羅」という「百済の日羅」と同名の修験者が実際にいたが、時が経るにつれ「百済の日羅」と混淆していつしか同一人物になってしまったのではないか、という説もある。

こうした説のどれが正しいかは、もはや状況証拠的には決められない。真相は、闇に包まれている。しかし、日羅伝説が成立したと考えられる平安時代、磨崖仏なり仏像なりを400〜500年も前の古墳時代のものとして「捏造」するのはさすがに大それているし、何かのきっかけがなければ日本書記にしか記録が残っていない「日羅」が復活するとは考えにくい。

とすると、説として魅力的なのは、平安時代あたりに各地で磨崖仏を刻み、寺院を創建した「日羅」と名乗る人物が実在した、というものだ。つまり、約500年の時を経て、日羅は二人いたということになる。ここではその「日羅」のことをわかりやすく「修験の日羅」と呼ぶことにしよう。「修験の日羅」は、各地の山林を抖擻(とそう:歩きながら仏道の修行をすること)して、あるところでは磨崖仏を彫り、またあるところでは寺院を創建(といっても、多分祠堂を設けるとか、仏像を安置するといった程度のことと思う)したのだろう。その活動範囲は九州一円にも及び、各地に「日羅」の事績を残したと考えられる。

どうしてこの「修験の日羅」の記憶がなくなり、やがて「百済の日羅」に置き換わってしまったのかはよくわからない。想像するに、『日本書記』に日羅の記述を見つけた人が自らの権威を高めたかったのか、「うちは日羅創建の古寺である」と誇り、それが連鎖反応的に広まったのかもしれない。そうしたことが続くうち、「日羅」というのが一種の超越的な、古代のスーパーマンとしてアイコン化し、実際には「修験の日羅」にも関係がない所にまで日羅伝説が広まっていったということがあるのだろう。それが勝軍地蔵が日羅の化身と考えられるに至った理由であるように思われる。

そのように考えると、この南薩の地に「ありそうもない話」である日羅伝説が残っているのは、まるきり荒唐無稽なこととは思われない。つまり、「百済の日羅」とは無関係であっても、「修験の日羅」が実際にここへ来て、一乗院を創建したり、金峰山を勧請したり、磯間嶽を開山するといったことをやったという可能性はゼロではないのである。薩摩の地には古くから修験道が栄えていたというし、元より修験者=山伏は各地を巡りながら修行をするものであるから、この辺境の地まで赴いてもおかしくはない。

一方で、そうだとすると古墳時代に遡ると思われた磯間嶽や一乗院の歴史が、それよりは随分新しい平安時代以降のものとなってしまうので、古さを誇りたい人には残念かもしれない。しかし、私自身は「古ければ古いほど有り難い」とは思わないし、荒唐無稽な古さを主張するよりも、実際にあったかもしれない過去を想像する方が楽しい。我が家から毎日見ている磯間嶽に、平安時代に大分(か熊本)から「日羅」と名乗る修験者がやって来て、岩山をよじ登り祠堂を設け、そしてまた旅を続けたのだと考えてみたい。彼はその時にどんな大浦を見たのだろうか。土地の人々に何を教えたのだろうか。そういう風に考える方が、私は楽しいのである。

と、いろいろ書いてきたけれど、私はこちらに越して来てから実はまだ一度も磯間嶽に登ったことがないのである。早く磯間嶽に登って、日羅が見たかもしれない風景の1000年後の様子を見てみたいと思っているところである。

【参考文献】
「日羅の研究—「宇佐大神氏進出説」批判(3)—」(『大分縣地方史』第116号所収)1984年、松岡 実

2013年6月17日月曜日

磯間嶽は遙かな古代から信仰された山か?——南薩と日羅(1)

大浦町の南側は、磯間嶽という山が塞いでいる。磯間山とも言うし、もっと親しみを込めて「いそまどん」とも呼ばれる山である。

この山、標高は363mと低いながら巍巍とした威風ある山容を持ち、特に天を衝く山巓(さんてん)はあたかも鬼の頭のような異様な風体をなしている。

また、急峻な岩稜は短いながら本格的な登山が楽しめるといい、山と渓谷社が選ぶ九州百名山(旧版)の一つに選ばれたこともある。この特徴的な山影はほとんど大浦町の全体から望むことができるので、ある意味では大浦町の象徴ともいうべき非常にモニュメンタルな山である。
 
磯間嶽の山頂には、かつて磯間権現という社があったのだが、磯間嶽は日羅(にちら)という人が敏達天皇12年(583年)に開山したという伝説を持つ。この場合の「開山」とは登頂して祠堂を設けたことをいうのだろうが、磯間嶽が今から1400年以上前という遙かな古代、古墳時代から尊崇された山だとすると驚くべきことである。

しかし古墳時代というのはさすがに古すぎる。ほとんど歴史を無視したような古さである。本当に、そんな遠い昔に開山された山なのだろうか。また、磯間嶽を開山した日羅という人物は何者なのだろうか。そうしたことは、これまで真面目に考証を受けたことはないようなので、この機会に少しまとめてみたいと思う。

この日羅という人物、知名度は極めて低いが、古代史の中でも大変に興味深い存在である。彼は熊本(葦北)の国造の子であったが、百済の高官であった。百済では達率(だちそち)という位にあったといい、この達率は百済の官位第2位で定員が30名であったそうだから、今で言うと大臣級のエライ人である。

葦北に父を持つ日羅は、元々百済に生まれたのか、熊本から百済に渡って高官に上り詰めたのか、そのどちらなのかは分からないけれども、ともかく日本に深い縁を持っていた。そのため、朝鮮半島情勢を憂えていた敏達天皇はこの日羅を外交顧問として日本へ招聘した。百済の王は当初日羅の渡日を首肯しなかったが、日本からの使者の強い要請を受けて承認。その代わり、大臣級の渡航ということで当然の待遇だったのだとは思うが数々の部下も同時に来日させた。

この頃の日本は、朝鮮半島の権益を失いつつあったタイミングで、また新羅の領土拡張策などを警戒しており、朝鮮半島への強攻策を検討していた模様である。敏達天皇はこうしたことから日羅に朝鮮半島の諸国家への対抗策を諮問する。それに対し、彼は極めてまっとうだが、一方で百済に不利な建白を行ってしまう。そしてなんと、その廉(かど)で百済からついてきた部下に暗殺されてしまったのである。百済王は、百済の内情を知悉していた日羅を元々殺すつもりで日本に送ったのであろう。天皇はこの暗殺を遺憾とし、百済からついてきた部下たちを死刑にして日羅は丁重に葬ったという。敏達天皇の12年、西暦583年のことであった。

日羅は、(日本書紀には記載がないが)伝説によれば聖徳太子の師でもあったといい、百済から招聘されながら日本で部下に暗殺されるというドラマチックな生涯と、実は後世にも大きな影響を与えていることから、これまであまり注目されてこなかった人物ながら、古代史の重要人物といってもよかろうと思う。

そして、日羅は実は南薩にも深い縁を持つ。我が国最古の寺(かもしれない)、との触れ込みの坊津の一乗院は同じく583年に日羅が開基したといい、金峰山も日羅が大和の金峰山から勧請(かんじょう:今風に言えば、金峰山の”支店”を作るような感じである)したものという。遙かな昔、この辺鄙な南薩に日羅が本当に来たのだろうか?

ちなみに、鹿児島には南薩の他にも慈眼寺清泉寺も日羅が建立したものという伝説がある。慈眼寺は一乗院宝満寺とともに「薩摩三名刹」と謳われた寺であるが、薩摩三名刹のうち2つもが日羅建立の伝説を持つわけで、それだけでも鹿児島県の歴史に興味を抱く人はこの日羅に注目すべきである。一方で、日羅が百済から日本へ渡航して暗殺されるまでの短い期間(しかも古墳時代)に、この辺境の地に赴き、いくつもの寺院を作るというのはありそうもない話である。しかしその「ありそうもない話」が、鹿児島、そしてこの南薩に数多く残っているとすると、その理由を考究していくのも一興だ。

と言うわけで、その理由を自分なりに考えてみたのだが、長くなったので次回に書くことにしたい。

【参考文献】
『日本書紀 下(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2013年1月25日金曜日

二つの意味でグルメな野鳥、ヒヨドリ

ポンカンの旬が到来した、のはよかったが、すごいスピードでヒヨドリ(鵯)に喰われ始めた。ヒヨドリとの収穫競争のスタートである。

本当に、やつらの食欲は半端ではない。すでに収穫量が30%以上減っていると思う。しかも、よく熟れた美味しい実から食べる。

ヒヨドリはグルメで、つついた実が美味しくないとほとんど食べずに残すが、美味しいと写真のように全部きれいに食べる。このように完食しているということは、このポンカンが美味しかったという証拠でもある。つまり、私のポンカン園は今ヒヨドリが大量に群がっているが、美味しい実がたくさんできたということでもあるわけだ。

ヒヨドリは主に日本にしかいない鳥だが、祖先はフルーツが多い熱帯の森にいたらしく、花の蜜や果物など甘いものが大好きである(昆虫などはあまり食べない。ちなみに葉物野菜も好き)。 ということで、果樹農家にとってはかなり重要な害鳥だ。先日、ポンカンはその本当の旬にはあまり出荷されないということを書いたが、その理由の一つには、1月下旬には大量のヒヨドリが飛来して、食害がひどいということもあるのだ。

というのも、ヒヨドリは留鳥(一年中いる鳥)だが、冬には北日本からたくさん渡ってくる。そのため、南薩のような暖地には、冬は非常にたくさんのヒヨドリが集まってしまう。ネットを掛けるといった対策をしている農家もいるが、露地ポンカンに限って言えば、なかなかそこまで手は掛けられないというのが実情だ。

ところで、このヒヨドリ、野鳥の中でも最も美味い部類らしく、狩猟をする人の間では好まれている鳥である。食べる方も、食べられる方もグルメというわけだ。特に、ミカン類を食べているヒヨドリは格別に美味いらしい。しかも、毛を毟るのが容易で、解体も簡単と聞く。害鳥対策も必要だが、こんなにたくさんいるので、ぜひ獲って食べてみたいものだ。狩猟免許が欲しくなってきた。

2012年10月12日金曜日

増えるイノシシ被害へどう対処するか

最近、若いイノシシが庭に来るようになって困っている。

そこら中に穴を掘るのはまだ許せるとして、裏庭にほぼ毎日糞をしていくのは本当に辞めて欲しい。我が家はすっかりお散歩コースになってしまったようだ。

近隣の農地においても被害は多発しており、電柵を設置している圃場が多い。しかし獣害対策は本質的には駆除が必要であり、個人による対処療法的な方法では限界が見えている。

野生動物と共存できないのか? という意見もあるだろうが、残念ながら現代の日本では駆除は必須だ。というのも、日本の森林の生態系の頂点であったニホンオオカミが絶滅してしまっているからだ。近年全国的にシカ害やイノシシ害が深刻化している一因は、オオカミ不在の影響がジワジワ効いてきたからということが大きい。

捕食動物は生態系のバランスの要石であって、これが不在になると草食動物が野放図に増殖し、森林の若木等も食い尽くしてしまって、農地のみならず自然の植生体系も攪乱される。オオカミを絶滅させてしまった以上、自然のバランスを保つためにはシカやイノシシは人間が責任を持って一定数駆除しなくてはならないのである。

その一方で、銃刀法改正によって猟銃保持は一層難しくなり(※)、猟銃を返納する人が多いと聞く。猟友会は高齢化し、若手のハンターが加入しないため今後の駆除体制が不透明になりつつある。人力での駆除には限界があるということで、日本にもオオカミを再導入してはどうかという議論もあるが、政治的に困難であり、これからも従来型の駆除に頼らざるをえないことを考えるとこの状況は危機的だ。

害獣の駆除問題は全国的に深刻化しているが、一方で新しい動きもある。ジビエを地域振興に役立てようという取り組みだ。フランス料理では、カモや野ウサギ、シカといった狩猟による野生動物の肉をジビエといい、食肉の中でもとりわけ貴重で上等な食材とされる。先日、増えるエゾシカに対処するため北海道が「エゾシカ対策条例(仮)」を検討中というニュースがあったが、その中でもシカ肉の消費拡大を盛り込む予定らしい。

私は、南さつま市も、僻地にあるという条件を活かして、シシ肉による地域振興に取り組んだらいいと思う。当地には、お隣の南九州市の川辺牛のようなブランド肉もないので、役所的にも推進しやすいだろう。役所が窓口になりイノシシを買い取り、食肉加工を民間に委託して商品開発を行ってはどうか。幸いなことに、当市には食肉加工企業であるスターゼンの工場もある。ここと協力できれば独自性が出せるし、猪鍋や焼き肉といった無骨な料理が中心のイノシシも、ハムやパストラミにすると新しい美味しさが発見できるかもしれない。

最初は官製の取り組みであっても、世間の耳目を集めて消費が拡大すればイノシシの価格が上昇し、狩猟の規模拡大が期待できる。単に駆除ではなく、その肉を食べるのであれば駆除に対する心理的抵抗感も少ない。当地大浦町は、かつて島津氏の鷹狩りの猟場であったとされ、狩集(かりあつまり)という地名・人名も残るなど歴史との関連で話題性も期待できる。獣害対策一つにしても、いろいろな手法やアイデアを組み合わせて、解決策を探っていく必要があると思う。


※ 銃刀法改正…猟銃の所持のために、医師の診断書、技能講習の受講、実弾の帳簿付けなどが義務化された。猟銃の所持がものすごく面倒くさくなった感じ。2009年施行。

2012年9月26日水曜日

島津家と修験道——大浦の宇留島家

宇留島家の看経所
我が家から歩いて2分もしないところに、(今は空き屋だが)宇留島(うるしま)家という家があり、そこは久志地権現と言われ、看経所(かんきんじょ)が残っている。

この宇留島家というのは、この大浦の地で代々島津家に仕えた修験者(山伏)の家であった。鹿児島はかつて修験道が盛んであり、特に南薩は金峰山を中心に修験の文化が色濃かったと考えられる。

鹿児島で修験道が盛んだった理由の一つに、藩主である島津家が山伏を重く用いたことがある。戦国期の島津家では政策や軍事の戦略を立てるのにクジ(御鬮)を使っていたが、クジを引くのは偶然に任せるのではなく神慮を得るためであり、宗教的な力が必要だった。そこでクジを引いたのが、その作法を心得ていた山伏だった。

戦の進退をクジで決めるというと、現代的観点からは非合理的に見えるが、私はそうでもないと思う。最適な戦略・戦術は事後的にしかわからないし、戦において冷静な判断は元より難しい。ましてや撤退の決定は非常に困難だ。また異論の出やすい戦場において、神慮の判断ならば反対派も黙らざるを得ない。そう考えると、重要な判断をクジに任すというのは、一見迷信的に見えて実は理に適っているのかもしれない。

しかも、山伏を軍事に活用するというのには実利もあっただろう。というのも、修験者は山林を跋渉して各国を渡っていたので、他国の事情にも詳しく人脈もあり、いわば一種のスパイとして活躍していたらしい。戦国期の関所とは国境であって、普通の人は自由に往来できなかったが、山伏はこれを自由に通行できた。『勧進帳』で源義経が山伏に偽装するのも、山伏は関所を通行できるという特権があったからである。しかも山伏は山中の行者道によって人知れず他国に移動することが可能で、密書一つ届けるにしても圧倒的に有利だ。

島津家が山伏を家老や老中として迎えたのは、戦勝祈願の霊験を得るためということ以上に、そういう山伏の持つネットワークを活用するためだったのではないかという気がする。宇留島家も土着の人間ではなく、千葉から南薩まで下向してきたらしい。

宇留島家は特に島津忠良(日新斎)の頃に重く用いられたが、それもある戦を契機としてのように思われる。忠良が1538年に加世田の別府城を攻めた際、宇留島十代東福坊重綱は山中で「三洛の秘法」とよばれる祈祷を行い、また忠良自身も久志地権現に籠もって戦勝を祈願した。その甲斐あってか別府城は落城。この戦いで加世田は島津家の支配に入り、同時にここ大浦も島津家の領地に組み込まれたようだ。この祈願の功により、東福坊は久志地権現、磯間権現等の別当職に任じられるとともに神田八町と宝物を下賜されている。

戦国期が終わり江戸時代に入ると、戦がなくなり島津家と修験者との関わりは希薄になっていく。宇留島家も島津家のために祈祷することはなくなるが、戦国期に得た八町(8ha)という広大な水田を経済力の源泉として、大浦でも有数の郷士となった。そして宇留島家は山伏として修行を続け、田畑の除虫祈祷や伊勢講の指導などを行い、庶民のための山伏としての性格を強めていった。

今ではこの地域に修験道の残映は感じることができないが、戦国から江戸期にかけて、修験道文化が色濃かったことは間違いない。修験の山である磯間嶽に向かい、かつて山伏が百姓を指導していたのかと思うと興味深い。

そういえば先日地域の古老から面白い話を聞いた。電話もなかった数十年前、うちの集落では地域の人への伝達事項がある時、合図として区長さん(集落のとりまとめ役)が法螺貝を吹いて知らせたのだそうだ。 これは、山伏がこの地域をまとめていたことの名残なのかもしれない。というのも、東福坊が下賜された神田八町の一部は、うちの集落の水田のようなのである。

【参考文献】
『さつま山伏 —山と湖の民俗と歴史—』 1996年、森田清美
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2012年9月3日月曜日

「日本版アグロフォレストリー」という考え方


アグロフォレストリー(Agroforestry)をご存じだろうか? 私は、鹿児島でこれを実行できたらいいなと思っている。

アグロフォレストリーとは、Agro=農とForestry=林業を組み合わせた言葉で、普通「農林複合経営」とか「混農林業」と訳される。これは環境にやさしい持続可能な農法であるとともに、森林の再生にも役立ち、かつ農家の収入の安定も図られるということで、近年、熱帯地域途上国の農業戦略として非常に注目を集めている。

具体的にどのようなものかというと、熱帯雨林を伐採(または焼畑)した跡地を利用するのだが、ここに例えばトウモロコシやコショウをまず植える。そして平行してバナナやカカオを植える。さらにマホガニーなど換金性の高い材となる樹も植える。ついでに、アサイーなどの果樹も植えておく。

するとどうなるか。1、2年目はトウモロコシが収穫できる。3年目くらいになるとコショウやバナナが収穫できる。6年くらい経つとカカオが収穫できる。カカオは高収益をもたらす樹木だが、定植からしばらく収入がないのがネックだ。このやり方だと、カカオによる収益がない間、収入を得ることができる上、日陰を好むカカオにマホガニーなどによって樹陰を提供することもできる。

アグロフォレストリーの面白いのはここからで、カカオの単一栽培が目的ではなく、アサイー(高木の果樹)が採れたり、他の果樹からの収入も細々と確保しながら農業を続け、30〜40年後にはマホガニーも伐採することができ一時的ではあるが高収入が得られる。結果として、多様な樹種が育つ森が再生することから、アグロフォレストリーは「森をつくる農業」とも言われる。

これを始めたのは、ブラジルのトメアスというところに入植した日本人、日系人である。彼らは最初、コショウの農園を経営していた。入植者の常として、必死に働いていたのだと思う。しかし、ある時コショウが病害虫の被害を受けて破産状態になってしまう。そのとき現住民の暮らしを見て思う。「なぜ、彼らは必死に働いているわけでもないのに飢えないのだろうか?」

現住民は、手近にあるいろいろな果樹を利用して、どんな気候や病害虫が発生してもなんらかの食料が確保できるように暮らしていたのであった。「これを自分たちもできないだろうか?」こうしてアグロフォレストリーが始まった、と言われる。

コショウの大規模栽培の方が収益は高いが、ひとたび病害虫が発生すれば大きな被害を受ける。つまり大規模栽培はハイリスク・ハイリターンなのだ。一方、様々な果樹を混植し、その樹陰で野菜を栽培することは効率は落ちるが、病害虫の被害を受けにくく、定常的な収益が期待できる。つまりローリスク・ローリターンだ。

しかし、単一作物大規模栽培と違って、流通が複雑になるという決定的弱点をアグロフォレストリーは持っている。いくら定常的に果樹が収穫できても、それが少量であれば、遠方まで売ることは難しく、現金収入に結びつかない。今、ブラジル政府は国を挙げてアグロフォレストリーを推進しているが、彼らがやっているのは他品種生産のジュース工場の建設だ。個別の農家の収穫は少なくても、それをジュースにしてパックすれば長く保管できるし遠方まで出荷できる。最近、東京などでは見慣れない熱帯果実のジュースを売るスタンドを見かけるが、これはアグロフォレストリーの成果でもあると思う。

アグロフォレストリーは新しい言葉だが、世界中で、特に東アジアでは古くから行われていた農法だ。日本でかつて行われていた焼畑農法も一種のアグロフォレストリーで、焼畑の後数年間はソバ、ヒエ、ダイコン、カブ、サトイモ、マメなどを育て、さらにコウゾやミツマタなどを植えて換金性の高い植物で10年くらい利用した後、スギの植林を行うというスギの造林法があった。特に土佐ではそういう造林が最近まで行われていたという。

また、単一作物の大規模栽培が世界中で進んだ結果、病害のグローバル化と深刻化の度合いは増している。植物検疫の制度は今のところなんとか機能しているが、人とモノの移動の活発化によってリスクは増大する一方だ。一方アグロフォレストリーは、作物の他品種少生産によって病害虫リスクも低減でき、ほとんど農薬を使わずにすむという。

こういうことから、アグロフォレストリーは途上国政策を行う者にとって非常に重要なツールになりつつあるが、私は、これは熱帯途上国だけに有効な手法ではないと思う。 熱帯雨林は実は土地が痩せていて、一度伐採すると森林の再生が難しいということからアグロフォレストリーの一つの存在意義がある。対して日本では耕作放棄地は勝手に森へと戻っていくので、わざわざ「森を作る農業」は必要ないのではないか、という人もいるだろう。

しかし、アグロフォレストリーは、元々森林の再生を目的として発想されたのではなくて、持続可能でローリスクな農業を目指してできたものだ。その理念や方法は日本でもあり得るのではないか。流通が複雑化するという欠点も、インターネットを通じた直販を利用すれば克服できるような気がする。

つまり私が実行してみたいのは、「日本版アグロフォレストリー」だ。日本人・日系人がブラジルで考案したアグロフォレストリーを、改めて日本でやってみたらどうか。実は、この入植者には鹿児島出身の人も多くいたのだ。熱帯雨林ではない、温帯気候の下でどんなアグロフォレストリーができるのかわからないが、賞揚されてやまない「里山」も一種のアグロフォレストリーであったわけで、きっと面白いことができると思っている。


【参考URL】
「アグロフォレストリー 森をつくる農業(1)(2)(3)」 3本立ての動画(youtube)。見るのに時間はかかるが、この動画を見るのが一番わかりやすい。冒頭の動画はこれ。 
「アグロフォレストリー」という発想。 竹の専門家でもある内村悦三氏が語ったアグロフォレストリー。
アマゾンの里山 トメアスでのアグロフォレストリーを取材した記事。
多様性保つ「森をつくる農業」アグロフォレストリーの先進地 毎日新聞の記事。
World Agroforestry Center ケニアのナイロビにあるアグロフォレストリー研究の総本山(英語)。南米で始まったアグロフォレストリーを、アフリカでも根付かせようと活動している。

2012年6月5日火曜日

蘖(ひこばえ)の森

放置山林となりはてた自家林を整理し、新たに利用しようとしているところだが、この山には、写真のように根元から分岐している雑木がたくさんある。

ここは、少なくとも30年くらい放置されているが、このような木は、かつてはここが里山として利用されていたしるしである。薪などを採るために伐採した木の根元から蘖(ひこばえ)が生え、それが大きく生長することによって、このように王冠状に広がった幹が形成される。

この写真の木は、それぞれの幹は直径20cmもないが、その根元は、直径が1mくらいある。伸びては切られを何度も繰り返しながら、100年以上人間に利用されてきたのかもしれない。この山は明治か大正のころに、私の曾祖父が果樹園として切り拓いたもののようだが、おそらくそれ以前も里山として長く利用されてきたのだろう。

ところで、里山というと、「日本人の原風景」「心のふるさと」などと言われるように、なぜかとてもいいものという暗黙の前提があるような気がするが、私は里山がそんないいものだったとは思わない。利用可能な資源が限られている環境において、小規模の山林を最大限に活用するための山林管理が里山を生んだのであり、多少厳しい言い方をすれば、閉鎖的で貧しい農山村の象徴であるといえなくもない。

しかし、小規模山林を持続的に利用していくという発想は、今になって、最先端の考え方のような気がする。エネルギー・食糧価格の高騰が予想される中、身近な山から継続的に資源を得ることは、今後合理的になっていくと思われるからだ。

里山に「心のふるさと」のような価値がないとは言わないが、私にとってはそれはセンチメンタル過ぎてピンとこないものだ。むしろ、細く長く自然を活用する技術としての価値の方に興味を持つ。しかし、その技術はもう失われたと言ってもよい。どのように木を切り、植え、育て、何を収穫したのか…。何となくは分かっても、細かい管理技術はぼんやりとした彼方にある。残っているのは、物言わぬ蘖の森だけである。

2012年5月18日金曜日

興味深いが無用で無敵の雑草、ダンチク

開墾中の荒蕪地は小川沿いにあるのだが、そこにたくさんのダンチク(暖竹)が生えていて、駆除に苦労している。

ダンチクは、一見竹のように見えるがイネ科の多年草。放っておくと株立ちで4mほどにも生長し、非常に邪魔なので昨年来駆除を続けているが、なかなか勢力が弱まらない。

写真は、ダンチクを根元まで全て切った上に根元を炭化するほど焼いたにも関わらず、平然と新芽を出してきた様子…。全然応えていないようだ。

このダンチクという植物、Wikipediaで見てみると、とても興味深いものだったのでちょっと紹介したい。
  • 花は毎年咲くが不妊性で、有性生殖せずに栄養生殖(地下茎が伸びる)のみで増える。
  • 遺伝的多様性が極端に低く、ほとんどの個体が同じ遺伝子を持つクローンである。 おそらく突然変異で出来た一個体がクローンで世界中に広まったのだろう。
  • 砂地から泥まであらゆる土壌に適応し、特にヒ素、カドミウム、鉛の豊富な土地でよく育つ。これらの有害金属を植物体内で濃縮するため、土壌の浄化に使える可能性がある。
  • 極めて生長が旺盛で、C3植物なのにC4植物と遜色ない光合成能力を持つ(※)。そのため、炭素固定やバイオマス、バイオ燃料として有望な植物として研究されている。
  • カリフォルニアでは河川の護岸植物として1820年代にダンチクが導入されたが、ダンチクは動物の餌にも巣にもならず、毒が含まれており昆虫も食べない上、生長が非常に早いこともあり、生態系の多様性を損なうという打撃を与えた。
  • ダンチクは火にも非常に強く、焼き払っても根から新芽が出てくる。いくらかの農薬も登録されているが 川岸にあるダンチクの駆除は困難である。
  • ダンチクは古くはエジプトでその葉が死体を包むのに使われた他、木管楽器のリード、笛やバグパイプの材料としても使われた。また、紙の原料にもなる。
…とまあこんな調子だが、要は、ダンチクは向かうところ敵なしの植物なのである。しかも病気にも罹らないらしい。そもそも、地下茎のみで増えるという極めて限定的な増殖方法であるにも関わらず、東アジアから中東という広い領域に分布しているということ自体が、ダンチクの無敵ぶりの証左である。

また、よく「自然のサイクルに無駄はない」ということが言われるのだが、ダンチクは昆虫・動物の食糧にならず、また巣にもならないということになると、生態系の中で果たしている役割が不明で、実は自然界でも無用な存在なのではないかと思う(菌界のことはよくわからないが…)。突然変異で生まれた最強のやっかいものがダンチクなのかもしれない。

なお、Wikipediaにはリードとか笛として使われたと書いているが、これは眉唾だ。ダンチクは確かに繊維質で難いが、意外に脆く、楽器として経年使用に耐える強度があるとは思えない。紙の原料となったのも、イタリアが全体主義体制になって紙の原料が輸入できなくなった時の苦肉の策だったらしい。要は、工芸材としてもダンチクは2級品、3級品だったはずだ。

もし、このダンチクがバイオ燃料として活躍する日がきたら、それはダンチクが世界に対して初めて役に立つ時なのかもしれない。

それはさておき、この強靱な植物の駆除はまだまだ先が見えない。 駆除が困難というこの川岸のダンチクは、ラウンドアップの原液を株に流し込んだら多少はダメージを受けてくれるのだろうか…?

(※)C3とかC4というのは、光合成の方式の違いである。C3植物は普通の植物で、C4植物はより乾燥や低二酸化炭素に耐えることができ、光合成の効率がいい植物。


【謝辞】
この植物がダンチクであることが数ヶ月わからなかったのだが、竹の権威である内村悦三先生にメールで問い合わせたところ、先生にご教授いただき判明した次第である。この場を借りて、内村先生には改めて御礼申し上げたい。

2012年5月2日水曜日

鹿児島はクズの生産量日本一ですが、南薩ではどうなんでしょう?

数十年ほったらかしになっていた自家林を、何かに生かしたいと考えているが、蔓植物の勢いが凄く、随所に絡まっているので木の伐倒が大変だ。

特にクズ(葛)は凄い。この写真のクズは樹齢20年以上(※)だと思うが、絡まるというより、飛翔するといった方がいいくらいで、自由闊達に樹冠へと伸びている。

西日本では、荒蕪地にはすぐにクズがはびこり、雑草としては最もやっかいな部類に属するが、これはかつて救荒植物(飢饉の際に食料となる植物)だった。クズのつるを切ってしばらくすると半透明のデンプン質がじわっと浮いてくるのがわかるが、クズの中(根)には大量の良質なデンプンが蓄えられているのである。クズから採れるデンプン(葛粉)は、各種デンプンの中でも最高級といわれており、葛粉の原料としてクズは今でも重要な植物である。特に鹿児島ではそうだといえよう。

というのも、あまり認識されることはないが、実は鹿児島は日本一のクズの産地なのである。葛粉というと奈良の吉野葛が有名だが、その原料はほとんどが鹿児島産のクズだ。吉野葛というのは、クズを吉野の水で晒して作られた葛粉のことをいうらしい。

なお、くず餅とか葛切りとか葛粉を使った食べ物は多いが、100%クズを原料とした純粋な葛粉が使われているものはほとんどない(サツマイモ由来のデンプンやコーンスターチを混ぜるのが普通)。かつて飢饉の際に食べられたというクズ(葛粉)は、今や立派な高級食材である。

クズは葛根湯など漢方に使われるだけあって健康食品で、消化がいいだけでなく、食感が繊細・滑らかで透明感があり、純粋な葛粉で作ったくず餅を食べたら二度と忘れられなくなるほど美味らしい。もちろん、そのような葛粉を作るためには非常な手間がかかる。

まず、そういった高級品となるクズは限られていて、30年以上のもので、よく光合成し、根に大量のデンプンを溜めていなくてはならない。30年もののクズの根ともなると、人間の太腿くらいの太さはあるわけで、それを掘り出すだけでも大変な労力だ。また、クズのアクを抜いてデンプン質だけを取り出す作業(水で晒し、沈殿させることを繰り返す)も単純なだけに効率化できないし、その上最上級の葛粉を作るためには2ヶ月〜1年も乾燥させなければならないらしい。葛粉が高級食材になるのも頷ける。

ところで、鹿児島は日本一のクズの産地ではあるが、実は生産は大隅地方に偏っていて、この南薩ではクズ掘りについての話は聞かない。大隅ではクズの掘り子の高齢化などの問題にも直面していると聞くが、「葛スイーツ」の開発など新しい展開も見られる。また近年の健康志向の高まりで、クズに対する再評価の気運もある。葛粉は高級食材であるだけに大きな需要増は見込めないが、今後も安定した取引が予測される。

となれば、この自家林にある葛もなんとか生かせないか、と考えるのが人情だろう。木の伐倒をする上では邪魔者だが、それ自体は高級食材(の原料)なのでただ切り払ってしまうのはもったいない。問題は、鹿児島では大隅地方が生産拠点のため、出荷するためにはフェリーに乗って大隅側まで出向かなければならないということである。それを考えるとおそらく利益が出ない気がして少し萎えるが、なんとか生かす道筋を考えてみたい。何しろ、私もくず餅など葛粉で作ったお菓子が大好きなのである。


※ クズはマメ科の多年草で、木ではないので「樹齢」という言い方は厳密に言えば間違いである。見た目は木のようで、実際やや木質化しているが、切ってみると木とは違うことが分かる。それにしても、50年も生きる草というのはそれだけで凄い。

【蛇足】
個人的には、クズは山伏が全国に広めたものという伝説も気になるところである。最初から全国に自生していたようにも思うが…。また、どうして鹿児島での生産が盛んになったのかいずれ調べてみたい。

2012年3月13日火曜日

雑木・雑草調べにいい図鑑はありませんか?

祖父の代には田んぼだったところが、すっかり荒蕪地になってしまったので、今開墾をしている。面積は1反5瀬(約1500㎡)ほどで、山間にあり農業機械が入れないという条件の悪いところなので、こうして荒れてしまったのは仕方ないことだと思うが、改めて活用方法を考えていきたい。

我が家はあまり農地を持っていない方だが、畑作であれば、このような開墾をしなくても周囲に借りられる土地がたくさんある。高齢化等で耕作を辞める方が多いので、もっとよい条件の、活用されていない土地が余っているのだ。

だから、開墾の目的は畑作ではない。ここが利用できるようになったら、木を植えたいと思う。借りた土地にも木を植えられないことはないが、やはり樹木は長期的に考えて自分の土地にある方がいい。

現代的な水稲栽培においては、農業機械が入れないことは致命的であるが、この土地は日当たり良好で日照時間も長く、さらに隣に小川があって水が豊かであり、果樹生育には適していると考えられるので、荒蕪地にしておくのはもったいない。

今のところ考えているのは、(シキミ)とアボカドである。樒は仏事に用いる木であるが、木全体に毒性があるため、猪や鹿の害を受けない。山間にある土地なので、山側には樒を植えて害獣よけにしたい。アボカドは、妻の思いつきであるが、国産のものがまだあまり流通していない状態ということなので、収益が期待できる。

そういうわけで、山のように繁茂した木や草をひたすら刈っているのだが、ひとつ気になることがある。それは、もしかしたら有用な木や草も除去しているのではないかということだ。そもそも、私は植物の知識が浅く、雑木や雑草と呼ばれる植物の名前すら分からないものが多いのである。どれが有用かなど分かりようもない。

本当は、せめてその植物の名前くらい分かってから切りたいと思う。それが、植物への最低限の礼儀だという気がする。我が家には植物図鑑一つないので、ぜひ有用な図鑑を購入したいのだが、図書館などで見ても、なかなか「これは使える!」という図鑑が見当たらない。雑木や雑草を調べるのにいい図鑑はないものだろうか。

2012年3月12日月曜日

生活に身近な山をどう生かすか

荒れ果てた山林
うちは、小さいながらも山林を所有している。祖父の時代、その山林にはポンカンや有用木が植えられていたらしいが、今では荒れ地と化し、蔓植物がはびこり、見るも無惨な様相になっている。当然、ポンカンなど全て枯れてしまっている。

今では林地の外からは全く分からないのだが、そこは段々畑状に整地され、崩れやすい要所には石垣が組んである。祖父か、曾祖父の頃に整備されたものだろう。大正か昭和初期の頃ということになる。人力でこのような整備をする労苦はいかばかりかと思うが、それがすっかりと荒れ果てている様子を見ると、ご先祖達はさぞ残念だろう。

この地方の実情はよく分からないが、基本的には薩摩藩では農民の土地私有が一切認められていなかった。土地は全て藩主(島津家)のものという原則があり、農民はその一時的な利用権を付与されていたに過ぎない。農地に至っては、土地に対する愛着を湧かせぬよう、一定期間ごとに場所替えが行われるという徹底ぶりであった。山林についても同様で、共力山(きょうりょくやま)という農民共有林はあったが、私有林は存在しなかったのである。

だから、明治維新後、自分の農地・山林を所有できるようになったということは、鹿児島の農民にとって非常に大きなことだっただろう。それまでの常識では考えられないほど、土地に愛着を持って管理したと思う。だから、狭い面積の山林を、段々畑にし、石垣を組むという労を執る気にもなったのだろう。造林は数十年単位の仕事であり、私有林でなくてはやる気の起こらない仕事である。自分の代ではものにならなくても、子孫のために汗を流すのだ。

さて、この荒れ放題になった山林をどうするか、が目下の課題である。私は、この山をどうにかするために、鹿児島へ帰郷したと言っても過言ではないのである。日本の山林が抱えている問題は数多いが、人工林(スギ林、ヒノキ林)に関してはほぼ答えが出ている。つまり、健全な林業を振興していくことが重要であるということだ。では、所謂「里山」と呼ばれる雑木林はどうだろうか?

管見の限りでは、日本の雑木林をどうしていくかという、明確な方向性はまだ誰も出せていない。具体的な利益はなくても「心のふるさと」として維持していくべきだ、という人もいれば、管理しても意味(収益)がないので、伐採して人工林にするのがよいという人もいる。どちらも頷けるけれども、私はまだどちらの立場にもなれない。

私は、雑木林のような生活に身近な山林をどうしていくか、ということをじっくり考えてみたい。今のところの考えは、こういった身近な山林は、物質循環の要として雑木林のまま生かすべきというものだ。しかしそのためには、それに見合った収益が上がらなくてはならない。具体的に言えば、山の幸(山菜とか)を売るなりして、山林から儲けがなくてはならない。とすれば、私がとりあえずやるべきなのは、そういった収益が上がるようなビジネスモデル=山林経営モデルを作るということになる。

周りの人からは、「山は、どうせ金と手がかかるばかりでなんにもならないから放っておけ」と忠告されるが、取り組み甲斐のある課題だと思っている。

2012年3月2日金曜日

籾播きの手伝い—無農薬育苗と物質循環

昨日と今日(3/1と3/2)、お世話になっている農家(2組)の籾播きのお手伝いに行った。手伝いといっても、むしろこちらが勉強させてもらうというものであって、研修みたいなものである。私は、今のところ水稲を商品作物として作っていくつもりはないが、やはり勉強しておくに越したことはない。

籾播き(モミマキ。種まき、播種などいろいろな名前で呼ばれる)は、田植えに使う稲の苗を準備する作業である。工程は以下の通り。

(1)種籾を予め水に浸し、発芽を促しておく。(なお、このあたりでは富山県から籾を仕入れている農家が多いらしい。温度差があるために発芽がいいということだ。)
(2)田植機にセットするケース「苗箱」(30 cm × 60 cm)に土を入れる(床土という)。
(3)床土を入れた苗箱に種籾を播き、さらにその上に土(覆土という)及び水をかける。
(4)それをビニールハウスにきっちりと並べ(これが力仕事…)、ラブシートと呼ばれる不織布+ビニールシートを掛ける。これは遮光及び保温のため。

上記の工程のうち、今回は2組とも(2)及び (3)の工程は機械化されている。ただし、それぞれの農家で機械化に対する考え方は違う。準備する苗箱の数の違いもあるが、一方は4人で、一方は9人での作業だった。それは、主に(2)及び(3)の機械化の度合いの違いで必要人員が違ったのであった。

大まかに違いを言えば、ベルトコンベアー式に流れる機械(これは基本的に2組同じ)の相手をする人員の差であって、例えば、土が均一にかかっているかチェック・仕上げをする係の有無であったり、土の補給方法を人力でやるか、機械でやるかの違いだったりする。

どちらの方法が効率的であるかということは、一概には言えない。人員を集められるかどうか、機械を揃えられるかどうかは、単純に投入資本によるのではなく、農家の置かれた状況にもよる。機械を購入したとして、一年に一度しか使わない機械の保管費用も農家によって違うだろう。それに、籾播きを近隣の方々に手伝ってもらいながら、いわばイベント的・年中行事的にやる、というのも、それはそれで別の意味があるような気がする。

しかし、今回2組の籾播きを体験して、明らかに違っていることがあった。それは、農薬の有無である。一方では、無農薬で苗箱を作っていた。一方では、農薬を入れていた。この違いは何に起因するのかというと、使っている土である。無農薬の方は、高温殺菌されて作られた土を使っていたのである(これは、自家製ではなくて他県の業者から仕入れたもの)。

農薬を使わないからいいとか、使うからダメということはない。何が正しい手法かということは、目的とする生産物がどのようなものかということで決まる。無農薬のお米を作ろうと思ったら当然無農薬で育苗しなくてはならないが、そうでない場合、基準を守って農薬を使うのは、(少なくとも農家個人のレベルでは)何ら悪いことではない。

私が感じたのは、無農薬栽培を実現するために、他県から土を仕入れなければならないのは大変だなあ、ということだった。無農薬栽培というと、「地域の環境を生かして…」とつい無意識に思ってしまうのであるが、実際には、無農薬栽培には非常に難しい部分もあるために地域の中だけで物質循環を完結させられないことも多いのである。

私も、もちろん、有機・無農薬栽培というものに関心がある。しかしそれ以上に、物質循環というものに強い関心がある。物質循環についてはまたいずれ書きたいが、無農薬栽培をするために他県から土を仕入れる、ということは、全ての農家ができることではないし、また、すべきでもない。やはり、全体としては、土は地域本来のものを営々と育てていくべきものであって、そのために山や川が物質循環を担っているのである。

私は、無農薬栽培のために高温殺菌された土を使うというのは大変すばらしい工夫だと思ったし、苗箱に使う土は全体からすればごく少量なので、物質循環云々の問題は惹起しないのであるが、改めて、無農薬栽培の難しさを思い知らされた次第である。

【補足】
写真は工程(4)の並べた苗箱の様子。苗箱を重ねた際に下側の模様が土に写っており、こうして並べるとなかなかにきれいである。