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2019年5月4日土曜日

神武天皇聖蹟を巡る鹿児島と宮崎の争い——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(追補)

2017年の8月から、2019年の1月まで約1年半かけて、このブログで「なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?」という連載記事を20回に渡って掲載した。

だが、執筆構想にありながら敢えて書いていなかったことがある。「皇紀2600年事業」のことについてだ。これはこれで1つの独立したテーマなので、機会を改めて別にまとめようと思っていたのだ。

しかし、改めて20回のブログ記事を見直してみて、神代三陵の扱いが最高潮となったこの事業のことに触れないのは、いかにも画竜点睛を欠くというか、収まりが悪い気がしてきた。そこで、この連載記事はあまり人気がなかったことは十分自覚しているが、追補として「皇紀2600年事業」について書いてみたい。

*****************
昭和15年(1940年)は、皇紀2600年に当たっていた。

皇紀、というのは、神武天皇の即位した年(西暦紀元前660年)を基準とする紀年法である。これは『日本書記』の記載に基づくものだったが、既に述べたようにこの年代はかつて国学者たちによってさえ疑問視されており、歴史的事実に基づいて定められたものではない。そういう疑問が国民にあったからなのかどうかはわからないが、皇紀は、明治政府が太陽暦を導入した明治5年(1872年)に導入されていたものの、日常の暦は元号のみで済ませ、皇紀は特別な場合にしか使われていなかった。それが昭和に入ると次第に多用されるようになっていく。日本を特別な国と見なす国家主義的な考えが瀰漫していくと同時にだ。

その極点とも言えるのが、「紀元二千六百年記念行事」であった。

紀元二千六百年記念行事は、式典や様々なイベントと記念事業で構成される国家的な祝祭行事である。これは長期化していた日中戦争による停滞感を一時でも吹き飛ばし、国威を発揚することによって戦争への国家総動員体制を構築する画期となった。この記念行事の幕開けとなったのが昭和15年2月11日の紀元節(神武天皇が即位したと言われる日を祝日として定めたもの)の祭典で、昭和天皇はその日次の詔書を渙発した。

「(前略)今や非常の世局に際し斯の紀元の佳節に当たる。爾(なんじ)臣民宜しく思を神武天皇の創業に騁(は)せ、皇国の宏遠にして皇謨の雄深なるを念ひ、和衷戮力益々国体の精華を発揮し、以て時艱の克服を致し、以て国威の昂揚に勗(つと)め、祖宗の神霊に対へんことを期すべし」(原文カタカナ、適宜句読点を補った)

つまり、日中戦争の遂行のため今は「非常の世局」になっているが、日本を建国した神武天皇に思いを馳せ、力を合わせて難局を乗り越えて祖宗の神霊によい報告が出来るように、というのである。明治維新にあたっても「王政復古の大号令」において「神武創業の始めに基づき」として神武天皇が理想として持ち出されたが、日中戦争においても神武天皇の武のイメージが喚起されたのであった。「紀元二千六百年記念行事」は、遂行中の戦争を神武天皇の勇ましい建国の事績——東征——になぞらえる役割も果たした。

記紀の神話では、日向にいた神武天皇は東によい土地を求め都を作ろうとし、筑紫、安芸、吉備の国などを通り河内へ辿り着いた。そして土地の神と戦になり一旦紀国へ退避。そして戦を交えつつ八咫烏(やたがらす)の案内で宇陀(うだ)(奈良)に赴き、八十梟帥(やそたける)や土蜘蛛などと呼ばれた土地の蛮族を破り進撃した。こうして6年間に及ぶ戦いを制し、神武天皇が「都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)にせむこと、亦可(よ)からずや」と述べて都を置いたのが橿原だった 。この肇国の戦いを「神武東征」という。日中戦争はこの古代の東征と重ね合わせられ、「聖戦」と位置づけられたのである。

紀元二千六百年の記念式典は11月10日に皇居外苑で開催され、参加者は重臣や海外からの賓客、各界の代表及び各府県・市町村からの代表5万5千人。さらにこれにあわせて、海軍の観艦式、陸軍の観兵式、美術展覧会、競技大会など各種の催しが前後して行われ、またこの年は全国の神社でも紀元節が大祭として挙行された。さらに実際には戦況の悪化により中止になったものの、計画段階では万博の開催及びオリンピックの招致までが行われていたのである。まさにこれは、国家神道始まって以来、最大の国家的祭典であった。

そして「紀元二千六百年記念行事」の一環として、全国を巻き込んだ国家神道的な記念事業(正確には「紀元二千六百年奉祝記念事業」という)もまた遂行された。

記念事業の中心は、(1)橿原神宮の拡張並びに神武天皇陵の参道整備、(2)宮崎神宮の拡張整備、(3)神武天皇聖蹟の調査保存と顕彰、(4)歴代天皇陵の参拝道路整備である。 橿原神宮は、神武天皇が大和で初めて宮を置いたとされる場所に明治23年(1890年)に創建された神社で、宮崎神宮は東征以前に神武天皇の宮があったとされる場所に古くからあった神社である。もちろん両方とも主祭神は神武天皇。そして「神武天皇聖蹟」とは、神武天皇の事績に関係がある地に顕彰碑を建設する事業である。この記念事業は、神武天皇を顕彰するとともに関係神社の整備拡張を行い、あわせて歴代天皇陵の整備を進めるものだったといえる。

この事業の一環で、昭和天皇は6月に関西に行幸し、伊勢神宮に参拝した後、神武天皇陵及び橿原神宮、仁孝天皇陵、孝明天皇陵、英照皇太后(明治天皇の嫡母)陵、明治天皇陵、昭憲皇太后陵に親拝、東京に還幸後、大正天皇陵にも親拝した。幕末明治の頃に重要視された歴代天皇陵は、大正時代にはどちらかというと考古学の対象となっていたが、戦争のさなかにあって再び政治的に注目されてきたのである。

記念事業は、(1)と(2)は神武天皇の顕彰において当然の事業であったし(4)も単純な整備であったからスムーズに遂行されたものの、問題を孕んでいたのは(3)の「神武天皇聖蹟」であった。この調査研究を担当したのは文部省であったが、全国に伝承がある神武天皇縁の地のうち、どこを聖蹟として決定するか難しい判断を迫られたのである。

特に話がもめたのが候補地「高千穂宮(たかちほのみや)」であった。高千穂宮はヒコホホデミから神武天皇までの3代の宮居であったとされ、この伝承地を巡って鹿児島県と宮崎県が激しく争ったのである。

そもそも、鹿児島には神武天皇ゆかりの地は多くない。鹿児島は神代三代の神話のフィールドではあったが、その次の神武天皇となるとさほど伝説はなかった。文部省が「神武天皇聖蹟」の予備的調査として昭和11年(1936年)に関係府県に資料提出を求めたときも、鹿児島県はその対象になっていなかった(宮崎、大分、福岡、広島、岡山、大阪、奈良、和歌山、三重に照会)。文部省は『日本書紀』や『古事記』に基づいて調査研究を行うとしていたが、記紀における神武天皇の事績は日向が出発点で薩摩・大隅は全く出てこないのだからこれは当然だった。

ところがこれに鹿児島県は反発。鹿児島県は昭和14年(1939年)に改めて自らにも照会するように文部省に求めたらしい。鹿児島は神代三代の神話の舞台であり、特に調査対象に挙がっていた「高千穂宮」の真の伝承地は霧島の高千穂峰付近(鹿児島神宮近く)であると主張した。文部省は元々「高千穂宮」を宮崎県北部にある高千穂町付近として考えていたのであるが、鹿児島県はこれに真っ向から反対したのだ。

しかしこれには宮崎県も譲れないわけがあった。宮崎県は神代三陵を鹿児島に政治力によって奪われたことを忘れていなかった。これまでも述べたように、神代三代の舞台は宮崎であるという主張があったにも関わらず、明治7年の神代三陵の治定において宮崎説は一顧だにされていない。しかも当時の宮崎県は県境の変転など相次いでいたためそれどころではなく反論もできなかった。その恨みが尾を引いていたのだ。

既に明治25年(1892年)、宮崎県は「古墳古物取締規則」を制定し、古墳の保護や開発の制限、発掘調査と出土品の届出などを定めている。宮崎県は、県内にある古代の遺物を積極的に保護することによって、自らが神話の源流であることの物証を保全しようとした。これは日本で最初の地方政府による古墳や埋蔵物に関する法令で、埋蔵物保存行政において画期的なものであった。

さらに大正元年(1912年)、宮崎中部の西都原古墳群の学術発掘調査が有吉忠一知事によって発案され実行された。真の神話の地が宮崎であったという主張を学術的な調査によって確固たるものにするのが目的だった。その有吉知事は「古墳保存ニ関スル訓令」において、「我が日向国は皇祖発祥の地にして霊蹤遺蹟到る処に存在するを以て、苟も原史時代に遡り建国創業の丕績(ひせき)を討(たず)ねて之を顕彰せんとせば其考証に資すべきもの」は宮崎県以外にないと宣言した。 政治力によって鹿児島が神代三陵を手に入れたのなら、宮崎県は学術研究の力でそれを取り戻そうというのである。有吉知事は大正4年(1915年)で退任したものの、宮崎県を建国の聖地として位置づける調査研究はその後も続いた。紀元二千六百年記念事業は、かつてのルサンチマンを晴らすための絶好の機会だった。

一方の鹿児島県は、そもそも明治7年の神代三陵の治定の段階においては主体的にそれを求めていたわけではなかったが、治定から約50年が経過し、鹿児島こそが建国の聖地であるということが既成事実化していた。今さら建国の聖地としての位置づけを奪われることはあってはならなかった。

鹿児島県は「紀元二千六百年記念行事」を行うための大規模な官民協働組織「紀元二千六百年鹿児島県奉祝会」を立ち上げ、鹿児島こそが建国の聖地であるという考証を「神代並神武天皇聖蹟顕彰資料」(第1輯〜第6輯)としてまとめ、昭和14年に矢継ぎ早に刊行した。その第6輯『肇國の聖地鹿兒島縣』では、神代三代及び神武天皇の活動舞台が鹿児島県であることについて「記紀以下の神典に照して甚だ顕著であつて、一点の疑義を挿(はさ)むべきでないと思ふ」と強く結論づけている。

そういう事情があったから、発案段階では宮崎県に内定していたはずの「高千穂宮」の議論はもめにもめたらしい。「神武天皇聖蹟」の調査は当然畿内が中心だったが、委員の調査出張が最後まで行われたのは鹿児島・宮崎だった。特に昭和15年4月以降、他の候補地全てが決定を見た後も最後まで「高千穂宮」を鹿児島と宮崎のどちらに指定するか、両方指定するかの結論は出ず、続けて3回も調査委員が鹿児島・宮崎に出張した。結局、どう指定しても禍根が残るということだったのか、委員会は「徴証が十分でない為、聖蹟の決定をなし難い」として決定自体を見送った。

結果、奈良県7ヶ所、大阪府4ヶ所、和歌山県4ヶ所、岡山、広島、福岡、大分各1ヶ所の計19ヶ所が「神武天皇聖蹟」として昭和15年8月までに順次指定され、追って立派な顕彰碑が建てられたのだった。鹿児島と宮崎は、こうして選考からあぶれたためいわば痛み分けではあったものの、元来記念事業に宮崎神宮の整備拡張が掲げられていた宮崎県は、鹿児島県が「建国の聖地」として決定されるのを阻止した形になり一矢報いる形となった。

そして文部省の決定を不服とした両県は、それぞれ独自に古代の顕彰事業を行うのである。

鹿児島県では、同奉祝会が昭和15年の11月、次の通り「神代聖蹟」として「高千穂宮」を含む10ヶ所、「神武天皇聖蹟」として5ヶ所の計15ヶ所を指定し、翌昭和16年までにそれぞれ顕彰のための石碑等を設置した(括弧内は当時の所在町村)。

【神代聖蹟】
  • 神代聖蹟笠狭之碕瓊瓊杵尊御上陸駐蹕之地(笠沙町) ※3ヶ所
  • 神代聖蹟竹島(笠沙町)
  • 神代聖蹟長屋(加世田町、万世町、笠沙町)
  • 神代聖蹟瓊瓊杵尊宮居址[前ノ笠沙宮](加世田町)
  • 神代聖蹟竹屋(加世田町)
  • 神代聖蹟瓊瓊杵尊宮居址[後ノ笠沙宮](万世町)
  • 神代聖蹟大山祇神遺址(阿多村)
  • 神代聖蹟瓊瓊杵尊宮居址[可愛宮](高城村)
  • 神代聖蹟高千穂美宮(隼人町)
  • 神代聖蹟西洲宮(高山町)
【神武天皇聖蹟】
  • 神武天皇御降誕伝説地水神棚(高山町)
  • 神武天皇御駐蹕伝説地若尊鼻(敷根村)
  • 神武天皇御駐蹕伝説地宮浦(福山町)
  • 神武天皇御駐蹕伝説地篠田(清水村)
  • 神武天皇御発航伝説地肝属川河口(東串良町、高山町)
この他「鹿児島県奉祝会」では、 神話ゆかりの地として霧島神宮や鹿児島神宮の顕彰や整備を行うとともに、神代三陵の顕彰を行い、また可愛三陵と高屋山上陵については参拝道路改良工事を行った(ただし道路改良工事については国からの委嘱に基づいたもの)。現在の両山稜の参拝階段などは、この時に整備されたものである。

一方、宮崎県も負けてはいなかった。宮崎でも鹿児島と同様に設立されていた「紀元二千六百年宮崎県奉祝会」が、神武天皇にゆかりある神社などを「紀元二千六百年記念祭顕彰聖蹟」として指定し石碑を建立(ただし指定場所の全体像は未詳)。また古代の宮崎についてさらに研究を深めていくため、「上代日向研究所」を設置した。

さらに「八紘一宇」の文字を掲げた巨大な塔「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」を宮崎市に建設。「八紘一宇」とは、この頃には「日本が世界を征服して一つにする」という理想として使われた言葉であり、この塔は建国の聖地としての宮崎の正統性を主張し、国家神道の一大モニュメントとして構想されたものであった。なおこの塔は下北方古墳群や生目古墳群、大淀古墳群など多数の古墳に囲まれた立地となっているが、それはおそらく偶然ではないのだろう。

このように鹿児島・宮崎の両県は、建国の聖地としての立場を奪い合い、ライバル意識がエスカレートして大仰な記念事業を実行したのである。それは結果的に戦争遂行に向けた国威発揚と国家神道意識の高揚をもたらし、国家総動員体制へ自主的に向かって行ったと見ることも出来る。紀元二千六百年式典が挙行される一ヶ月前の10月12日、大政翼賛会が発足し、日本は一国一党の挙国一致体制へ歩みを進めていた。「紀元二千六百年記念行事」の祝祭気分の裏で、後戻りできない領域へ進んでいたのである。

ただし勘違いしてはならないのは、「紀元二千六百年記念行事」は全国的に見れば、戦争中のガス抜きともいうべきお祭り騒ぎではあったものの、鹿児島や宮崎、そして事業の中心であった奈良のように神がかり的な神武天皇の顕彰に取り組んだ地方は他にないということだ。紀元千二百年奉祝会が組織されたのも、鹿児島、宮崎、奈良の三県のみであった。

国策を受けて多くの各府県でも記念事業が実行されたが、それは図書館や体育館の設置など戦中に予算が付きづらかった施設の建設を記念行事の大義名分を利用して実施した場合が多く、それすらもやらなかった県では「記念造林」や「開墾」でお茶を濁した。戦争の遂行のため予算も限られており、神武天皇の顕彰などに取り組んでいる余裕はなかったのだ。

多くの府県が冷ややかに紀元二千六百年記念事業を見つめる中、鹿児島と宮崎のこの事業に対するヒートアップぶりは奇異な感じがしないでもない。『日本書紀』にも『古事記』にも、はっきりと日向と神武天皇の結びつきが書いてある宮崎はまだしも、記紀の記述では神武天皇との関連が弱い鹿児島が、ここまで血道を上げたその遠因は、明治7年の神代三陵の治定にあったのだろう。

かつて押しつけられたはずの「建国の聖地」は、いつしか鹿児島のアイデンティティになっていたのかもしれない。

【参考文献】
『週報 第213号』1940年、内閣情報部
「制度としての古墳保存行政の成立」尾谷 雅比古(『桃山学院大学総合研究所紀要』第33巻第3号  2008年)
『神武天皇聖蹟調査報告』1942年、文部省
『陵墓と文化財の近代』2010年、高木 博志
『鹿児島県史 別巻』1943年、鹿児島県

2013年11月15日金曜日

「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る

前回に引き続き「南さつま市長・市議選挙」の話である。

こちらに越してきてもうすぐ2年であるが、市長選はともかくとして、市議選については個人的に話をしたことがある人もおらず、評判らしきものも聞かないので、誰に投票すべきか悩んでしまう。前回偉そうに争点らしきものを提示した手前、適当に投票する(?)わけにもいかない。

しかし考えてみると、新人はともかく現職については4年間の働きぶりを見てみればある程度のことは分かるはずである。例えば、会議録を全て読めばどういう人なのかよく分かるとは思う。だが、当然ながらそういう時間的余裕も気力もないので、少し手軽ではあるが、「南さつま市 市議会だより」(年4回発行)をよすがにして現職市議の仕事の一端を垣間見ることにした。

まずは、一般質問の質問回数を見てみる。一般質問とは、年に4回行われる定例会において、市政に対して自由に質疑を行うものである。質問回数という非常に大雑把な指標ではあるが、年に4回しかない機会であるので、積極性を表しているとはいえそうだ。次表はこれをまとめて質問回数の多い順に並べたものである。


名前 質問
回数
2010年 2011年 2012年 2013年
2月 4月 8月 11月 2月 5月 8月 11月 2月 5月 8月 11月 2月 5月 8月 11月
諏訪 昌一 16
鳥居 亮幸 16
清水 春男 16
貴島 修 16
古木 健一 15  
室屋 正和 12        
上村 研一 10            
石原 哲郎 8                
山下 美岳 7                  
田元 和美 7                  
下野 認 7                  
今村 建一郎 7                  
相星 輝彦 6                    
上園 邦丸 6                    
南 敏子 5                      
下釡 清和 5                      
有村 義次 4                        
林 耕二 4                        
若松 正伸 3                          
柳元 拓夫 1                              
石井 博美 0                                
大原 俊博 0                                
※今回の市議選に出ていない人も含めて現職議員全てを掲載している。
※年月は、「議会だより」の掲載号に対応。
※大原氏は議長であるので、質問回数が0回なのは自然。

これを見ると、ほぼ毎回質問をする議員もいれば、ほとんど質問していない議員もいることが分かる(わかりやすいように色分けした)。しかし質問数が多ければ議員として有能であるというわけでもない。委員会(総務委員会とか文教厚生委員会とか4つある)の審議に力を入れている人もいるだろうし、そもそも重要なのは質問の内容である。

ではその内容であるが、4年分の質問内容を精査するとなると一仕事である。そこで、「市議会だより」には一般質問の項目にそれぞれタイトルがつけられているので(議員自身がつけているようだ)、このタイトルだけを見てみることにした。タイトルだけだと何が何だかわからない質問もあるが、それでも関心分野を大まかに掴むことはできる。

市議会議員の仕事は、基本的には行政側が提案する議題に対して賛成・反対の意見を表明するということだが、一般質問は自分の関心事について行政を問いただすことができるわけで、議員の関心分野がダイレクトに現れる。質問のタイトルを見ることにより、選挙公報等を見るよりも、議員候補者がどういう点に力を入れたいのか明白になるだろう。

というわけで、かなり冗長だが参考になる情報と思うので、4年分の一般質問のタイトルを全て書き出してみた。順番は先ほどのランキングと対応している。なお議員名(※敬称略)の後ろにあるコメントは、中心的と思われる関心分野を私なりに書き出したものである。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
諏訪 昌一:インフラ(ごみ、上下水道、防災等)、医療
  • 市長所信表明に関して 他
  • 市の一体化、ごみ処理に関して 他
  • 汚水処理問題について 他
  • 合併後の一市としてのまとまりをどう醸成していくか
  • 汚水処理・雨水対策問題について
  • 本町の用水路の対策について 他
  • 災害対策について 他
  • 福島第一原発事故に関連して
  • 市防災計画に関連して 他
  • 税と社会保障の一体改革に関してどう考えるか
  • 中心市街地の汚水処理のあり方について
  • ごみ処理についてのその後の検討状況について 他
  • 国保の医療費の傾向と対応について 他
  • 生活保護の切下げについて 他
  • 防災対策関係 他
  • 保健・医療と健康について 他

鳥居 亮幸:医療、国保税、社会的弱者
  • 高齢者を差別する医療制度は廃止させよう
  • 介護保険の応益負担の軽減は 他
  • 障がい者の「応益負担」廃止に向けた対応は 他
  • くらしに応じた国保税軽減を行う考えは
  • 高齢者が安心して医療をうけられる対策は 他
  • 高齢者が住みなれた地域で暮らせる対策は
  • お金がなく医療受診できない事態なくす対策
  • 介護サービス取り上げ等不安をなくす対策は
  • 「非関税障壁」撤廃は産業暮らしを変える
  • 「一体改革」阻止・国保負担の軽減対策等
  • 後期高齢者医療制度廃止の公約を守らせよう
  • 国保税の大幅引上げに対応した軽減対策は
  • 子ども未来のため「原発ゼロ」への要請を
  • 後期高齢者医療制度の廃止を要請する考えは
  • くらしを破壊する消費税増税阻止の要請を
  • 長生き社会の基盤を崩さない対策

清水 春男:医療、福祉、暮らし
  • 福祉・暮らしを守り安全なまちづくりを
  • 福祉、暮らしを守る安全なまちづくりを 他
  • 市民が安心して暮らせる為の防災対策等
  • 子育てが、安心して出来る南さつま市を
  • 吹上浜砂の祭典の会期について 等
  • 市民が安心・安全に暮らせる南さつま市を 等
  • 地震から市民が安心・安全に暮らせるように 他
  • 地域に活力を・住民が楽しく暮らせる街づくりを
  • 『TPP、ゴミ処理、病院・特老の公立存続』等
  • 住民が安心して暮らせる南さつま市をつくる
  • 住民が安心して暮らしていける南さつま市を
  • 南さつま市の統一は旧町の活性化で決まる 等
  • 地域の変化に対応した住宅・公共交通政策等
  • 合併して8年目、均衡ある発展めざす市制を 等
  • 燃油高騰で農林水産業を支援する対策を
  • 国保税引下げ、はり・きゅう助成見直しを

貴島 修:農業、大浦町整備、観光
  • 市長のマニフェスト・パワーアップ宣言について
  • 新幹線効果の活用・民営化・救急車・生ゴミ対策
  • スポーツ観光・農業の継続的発展・学校再編
  • 鳥獣害対策・保健師の配置・公共下水道等
  • 避難所の強化・農業委員会選挙について
  • ヤンバルトサカヤスデ駆除、地域審議会対応 等
  • 砂の祭典・学校体育施設照明料金・3セク売却 等
  • 国道226号小湊バイパス・津貫みかん100周年等
  • 大浦中校庭整備・校庭松鳴・工事の評価点制度
  • 大浦町オフトーク・砂の祭典・スポーツ振興等
  • 消防・旧はまゆう建設予定地・亀ヶ丘整備・砂の祭典
  • 青年の登用・広域観光・第3セクター等の民営化
  • 公用車・遊休公有地の管理、大浦川、観光協会等
  • 市道三本松・小浜線、大浦町オフトーク等
  • 児童館・ヤスデ・下水道・農産物輸出入等
  • 鳥獣害対策・国道改築・スポーツ観光振興等

古木 健一:過疎対策、教育、行革
  • 国道270号・226号の整備について 他
  • いなほ館の健全化策について
  • 小中一貫校取組の方向について
  • 株式会社いなほ館の経営健全化について
  • 花渡川上流の整備について
  • 行政事務の確認と監査のあり方について
  • 地上デジタル放送の普及状況と対策
  • 「仰げば尊し」の斉唱について
  • 「行財政改革と集中改革プラン」について
  • 「中学校武道必修に関連して」
  • 「加世田地区9小学校の再編について」 他
  • 「投票所を現状の体制で行うことについて」
  • 空き公共施設等の状況と活用計画について
  • 万世特攻平和祈念館について
  • 加世田南部地域の開発をどのように考えるか

室屋 正和:いなほ館、行政チェック
  • いなほ館の運営、ボートに関する特定事業等
  • 行政改革・実施計画(集中改革プラン)、いなほ館の油再流出の対応等について
  • 元職員の不適切な会計処理、庁舎内の喫煙・自治会の再編について
  • 給食センター・子宮頸がんの公費助成・建設事業費の財源等について
  • 行政改革、実施計画(集中プラン)、いなほ館の経営、検討委員会等について
  • 海抜表示板等、第三セクターの決算、部長制の見直しについて
  • 観光振興・いなほ館の公募・予算議決等について
  • 一般会計予算・いなほ館・防災計画・人口減等について
  • 行政監査・リフォーム補助金・ボート基金・いなほ館・メガソーラー等について
  • 崖浸食・立会人の選任・第三セクター・教職員の不祥事・ボート基金等について
  • 条例・要綱、職員適正化計画、レクの森公園整備計画について
  • 防災無線・各実証事業・農地水対策について

上村 研一:時事ネタ、教育
  • 財政健全化・保育園、学校再編について 他
  • 合併後5年の節目にあたって、マニフェスト、市営住宅の水洗化について 他
  • 震災に伴う予算への影響について 他
  • 住みよい・暮らしよい地域づくり、学校再編
  • 学校再編時の制服購入補助・柔道必修化について
  • 漁業振興・イベントと地域活性化・本庁舎整備について
  • 「第三セクター」と「公の施設」、小児入院施設について
  • 投票区再編、消防広域化、閉校記念事業補助金について 他
  • アベノミクスについて 他
  • 農家の日照り対策・大当海岸公園の管理

石原 哲郎:畜産、施設整備
  • 口蹄疫への対応について 他
  • 第一次産業の育成について 他
  • 体育施設の整備について 他
  • 口蹄疫及び鳥インフルエンザについて 他
  • 東日本大震災を受けて本市の対応は
  • JAの合併について 等
  • 防災・農業振興・体育施設整備・駐車場整備
  • 自治会パートナー制度について 他

山下 美岳:砂の祭典、時事ネタ
  • マニフェストの具現化について
  • 口蹄疫対策は万全か 他
  • 吹上浜砂の祭典について 他
  • 吹上浜砂の祭典の成果と総括 他
  • 定住促進について
  • アベノミクスと緊急経済対策について 他
  • 観光振興について 他

田元 和美:木花館、行政チェック
  • 窓口対応・商業活性化・木花館の開店等
  • 防火水槽用地の取得・「木花館」開店 等
  • 市政1年目の評価・行政嘱託員の適正化 等
  • 吹上浜砂の祭典の成果について 等
  • 産業振興・公共下水道・職員の意識改革等産業振興について
  • 職員の人材育成・産業振興・自主防災組織 等
  • 防災対策・奉仕作業・通学路・人材育成 等

下野 認:砂の祭典、金峰町
  • 金峰レクの森構想等について
  • 市道月型篠田線拡幅工事等について
  • 旧金峰レクの森整備事業等の今後について
  • 市有地等の財産管理について 等
  • 砂の祭典会場の工事計画・集落再編について等
  • 砂の祭典会場等の整備について
  • 大坂小・白川小・大田小の今後の活用策について

今村 建一郎:農業、財政
  • 市長の所信表明等について
  • 財務(債務)状況について 他
  • 人口の動向・集落担当制について 他
  • 農業野現状と課題・観光事業・行政内部体制について
  • 当市の農業の現状と今後について
  • 農業関係・震災について 他
  • 財産・財務状況及び不法投棄の現状について

相星 輝彦:砂の祭典、防災
  • 新川集落災害防止策・砂の祭典について
  • ガンバリーナかせだについて
  • 食育の推進・吹上浜砂の祭典 他
  • 自治会に関する制度・職員数の適正化等
  • 市役所本庁、支所等の防災対策他
  • 防災教育、自主防災組織について 他

上園 邦丸:公共事業
  • 赤字の続く三セクをこのまま運営する考えか
  • 公共事業は地場産業、広域農道整備事業 他
  • 震災の影響と命の大切さについて
  • 人口を増やす対策・道路等の維持管理について
  • 住民負担の軽減策・ふるさと神話について
  • 加世田地域の学校再編計画 他

南 敏子
:教育、観光振興
  • 親子20分読書・トイレ改修・油流出田・木花館等
  • いなほ館油流出の水田活用策について、木花館前国道横断歩道設置 他
  • 観光の表示、市道の整備について
  • 通学路の安全確保・中学校武道必修化・空家条例の制定について
  • 環境衛生について

下釡 清和:生活環境改善
  • 市議等選挙・新型インフルエンザ・通学路用防犯灯、市道等の点検補修整備など
  • 高齢者・生活環境対策と風力発電の課題、松くい・ナラ枯れ対策、小湊生活環境整備
  • ハウス被害・クジラ処理・人口減対策・公共下水道(汚水処理)・道路の速度規制 等
  • 死亡欄・共同募金・らっきょう振興・松くい虫対策・浄化槽保守点検業等を増やす考え等
  • 災害と道路・職員の資格と人事等・浄化槽保守点・検業と清掃業者との関連・松くい虫対策等

有村 義次
:住民生活
  • ゴミの分別・処理等、空家対策、環境基本計画、景観計画、自治会活性化・再編
  • 財政健全化・空き家対策など
  • 防災対策(防災対策概要版・地域防災訓練・自主防災会について)
  • 環境問題・平和都市宣言・看板について 等

林 耕二:笠沙トンネル、笠沙町
  • 株式会社杜氏の里笠沙の経営について 他
  • どうなっている!! 笠沙道路・大笠小中学校再編に係る問題点と提言
  • 国道226号笠沙トンネルの進捗状況について、学校再編による教職員空き家住宅について 他
  • 笠沙トンネル平成28年開通予定について 他

若松 正伸:安全対策
  • 地域産業の振興、住民サービス
  • 地域の安全対策、自主防災組織は
  • 交通安全対策、不快害虫「ヤンバルトサカヤスデ」の駆除対策、今後の常備消防体制について

柳元 拓夫:…
  • 最低制限価格について 他

石井 博美:…
(質問なし)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

こうして見てみると、政治的な方向性はともかくとして、誰が何に積極的なのかはわかるし、タイトルの付け方を見ると、人柄までもおぼろに見えてくるような気がする。既にほとんどの人は誰に投票するか決めているとは思うが、ご参考になれば幸いである。

ところで、この「市議会だより」、作りはぶっきらぼうというか一見無味乾燥だが、じっくり見てみるとよくまとまっており、冗長すぎず淡泊すぎずちょうどいい資料である。最新号の編集後記に「今任期最後の議会だより編集が終わる 毎回皆さんから読まれる紙面づくりには程遠いものになってしまった」とあったが、そうでもないと思う。今後の編集にも期待しています。

2013年4月2日火曜日

二つのクタジマ神社と大宮姫伝説

南さつま市万世の当房(とうぼう)というところに小山があり、そこの急な石段を上ってみると久太嶋権現という神社があった。

ほんの標高数十メートルの小山だが、吹上浜に向かって(藪は多少あるが)眺望が開け、周りには高いものがないので大変眺めがよい。たった数十メートル視点が上がるだけで、全く違う景色が広がっているのが面白い。

この神社、何だろうと思って調べてみると、同じく久多島神社というのが日置市にもあり、その由来が興味深い。

この2つのクタジマ神社は、吹上浜の沖合10kmばかり沖にある無人島、久多島遙拝(ようはい:遠くから拝む)するために建てられたらしいが、ではなぜその島を遙拝したのだろうか?

実は、これは南薩に残る「大宮姫伝説」に関係している。大宮姫伝説とは、要約すると次のような伝説である。
  • 頴娃に鹿から産まれた美しく賢い女の子がいた。
  • その評判が京にも伝わって朝廷の采女となり、後に天智天皇の后になり大宮姫と名乗った。
  • ところで、姫はいつも足袋を履いていたが、それは姫の足が鹿のそれのように二つに割れていたからであった。
  • ある時、姫の寵愛を妬んだ女官たちによってその秘密が暴かれてしまい、姫は天智天皇の元を去り、鹿児島へと帰ってきた。
  • 天智天皇も姫を追って鹿児島へと下向し、やがて二人はこの地で亡くなった。

ちなみに、『日本書紀』などには天智天皇に大宮姫という后がいた記録はなく、また鹿児島へやってきたという記録もないので、これは正史からは認められないローカルな伝説である。ただ、このような伝説がなぜ産まれたのか? ということを繙くと、古代の地域史がいろいろわかってくる様な気もして面白い。

さて、二つのクタジマ神社はこの大宮姫が鹿児島へと帰ってくる場面に関係する。こういうエピソードである。

大宮姫が舟で開聞へ行く途中、姫は俄に産気づいて皇女を出産するが、残念ながら赤子は息絶えてしまう。姫は死んだ赤子を舟に乗せて海に流し、舟は吹上町の永吉に流れ着いた。村人は遺体を手厚く葬り舟を再び海に流したが、この舟が沈んだところの岩が盛り上がり島となった。この島を久多島といい、村人はこの島に皇女の霊を祀ったのだという。

氏子の高齢化などで現在は廃されたようだが、以前は数年に一度、この久多島まで行きお祭りをしていたそうである。久太嶋権現にはご神体らしき石仏(本尊というべきか)もあるが、真の意味でのご神体はこの久多島だ。

こうした伝説がどうして成立したのか不明だが、吹上浜の沖合にある小さな無人島を拝むにはそれ相応の理由があったに違いない。天智天皇を持ち出すくらいだから、相当古くからの信仰なのだろう。この久多島とは何なのか、どういう特別な場所なのか、機会があったら行って調べてみたいけれど、この無人島に行く機会は一生ないような気がする。

【参考】
大宮姫伝説について
大宮姫 指宿市山川町(さつまの国の言い伝え)
久多島神社の由来(さつまの国の言い伝え)
ウッガンサアへの感謝―薩摩半島加世田市当房の内神霜月祭り―(南さつま半島文化 鹿児島県薩摩半島民俗文化博物館)

2012年12月31日月曜日

サメと取違伝説——南薩と神話(5)

南薩の神話もついに最後のエピソードである。

山幸彦は海神の宮で、海神の娘トヨタマ(豊玉)姫と結ばれたのであるが、海幸への仕返しを果たした後にトヨタマ姫がやってきて、「子どもが産まれるのでやってきました」という。彼女は海辺に産屋を作り、鵜の羽で屋根を葺いていたところ急に産気づいた。そして言うには「異郷の人間は、産む時は本当の姿になります。私も本当の姿で産もうと思いますので、お願いですから覗かないように」として産屋に閉じこもった。

山幸彦はその言葉を訝しんで産屋を覗いてしまい、そこに大きなサメがのたうっているのを見て仰天。そのためトヨタマ姫は正体を見られたことを恥じ、産まれた子どもにウガヤフキアエズ(鵜の屋根を葺き終えないうちに、という意味)という不思議な名前を付け、子どもの養育を妹のタマヨリ(玉依)姫に任せて海神の宮に帰ってしまった。

このウガヤフキアエズは、長じて叔母に当たるタマヨリ姫を娶り、4人の子をもうけるが、そのうちの1人が後の神武天皇である。この神武の誕生で記紀神話の幕が閉じることになる。

ところで、タマヨリ姫の正体もまたサメであったとは記紀には書いていないが、姉妹である以上タマヨリ姫もサメと考えるのが自然だ。とすると、神武天皇は母(タマヨリ姫)と祖母(トヨタマ姫)がサメということになり、血統的には3/4がサメということになる。天皇家というのは、祭祀的には稲に関係する農耕的性格が強いが、その起源は多分に海洋的な性格を持っている。サメを祖神とする考え方は南洋に多いと聞くが、ここにも隼人が持ち込んだ海洋性が見えるようである。

さて、サメが正体のトヨタマ姫だが、これを祀っているのが、水車からくりで有名な知覧の豊玉姫神社だ。知覧はトヨタマ姫と縁が深く、その陵(墓)が残っていることを始めとしてその伝説が多く残っている。特に有名なのが「取違伝説」だ。

なんでも、海神からそれぞれ川辺と知覧を治めるように使わされたトヨタマ姫とタマヨリ姫であったが、頴娃から知覧に着いて一泊したところで、犀利なタマヨリ姫は土地の豊かな川辺の方が有利であることに気づき、トヨタマ姫がのんびりしている隙に川辺に行ってそこを治めたということである。本来行くべき所と逆に取り違えて行ったということで、その一泊した場所を取違(とりちがい)というようになり、今でもそこには取違さんという変わった苗字の人が住んでいる。ちなみに川辺側でタマヨリ姫を祀っているのは、かつて川辺の総鎮守であった飯倉神社である。

これは記紀神話にはないエピソードだし、ストーリー的にも記紀神話に接続する箇所もなく、かなりローカル色が濃い。もともとの取違伝説では、取り違える対象が天智天皇の第一皇女と第二皇女だったという話もあり、後世に改編されたものという可能性も大きいが、ともかくトヨタマ姫は知覧の地元の神だという意識があったことを示唆している。南薩における記紀神話は、天孫ニニギがコノハナサクヤ姫と出会ったのが笠沙、海幸と山幸がケンカしたのが笠沙〜枕崎の西南海岸というように巡って、トヨタマ姫の出産で知覧に至って終わるわけである。

このように、南薩は記紀神話の舞台として重要な地域であるにも関わらず、それがあまり認知されていない。その理由としては、このあたりには立派な古社・大社がないことが考えられる。仮に出雲大社のようなモニュメンタルな神社があれば、それが崇敬の対象としてわかりやすいし、なによりそこを中心に観光業が栄えて経済的にも潤う。結果的に神話伝説への関心も増し、対外的なアピールも盛んになる。

しかし、現実の加世田〜知覧の地域には、観光客が大勢訪れるような大規模な神社はなく、いくら神話の舞台とはいえ、そこに広がるのは縹渺とした風景だけだ。それが逆に本物っぽいという通もいるだろうが、一般的には面白味に欠ける。そう考えると、南薩の神話が注目を浴びることは今後もあまりなさそうだが、ここにはかつて阿多隼人たちが山海を舞台に活躍してつくり上げた日本の源流の一つがあると言えるだろう。

【参考文献】
『知覧町郷土誌』1982年、知覧町郷土誌編さん委員会
『古事記』1963年、倉野憲司 校注

2012年12月26日水曜日

隼人の南洋的神話=海幸・山幸——南薩と神話(4)

黒瀬海岸(撮影:向江新一さん)
南さつま市笠沙に「黒瀬海岸」という海岸があり、ここは一風変わった伝説を持つ。

なんでも、天孫ニニギは高千穂峰に降臨した後、舟で南下し、たどり着いたのがここ黒瀬海岸だということで、うら寂しい漁港に神代聖蹟「瓊瓊杵尊御上陸之地」という仰々しい石碑も建っている。またこの故事に因み、ここは別名「神渡海岸」ともいう。

正統派の記紀神話では舟で南下したというエピソードはないわけで、これはローカルな神話なのだが、だからこそ面白い。というのも、神さまが海の向こうからやってくる、という神話はポリネシアなど南洋の神話に多く、古代の隼人たちの海人的性格を示唆しているように思われるからだ(ちなみに遊牧民系だと、神さまは天から降りてくる場合が多い)。

ニニギの息子たちの海幸彦・山幸彦の神話は、そういう海人たる隼人が記紀へ持ち込んだ神話だろう。話の筋はこうである。山幸は海幸に「仕事道具を交換しよう」と持ちかけ釣針を借りるが、海に釣針を落としてしまう。その弁償に1000個の釣針を新たに作ったが海幸は「元の釣針を返せ」と納得しない。山幸が途方に暮れていると、塩椎神(シオツチのカミ)が来て「この”間なし勝間の小舟”に乗ってワタツミ(海神)の宮へ行きなさい」と言う。その通りにいくと海神の宮に着き、そこで出会った海神の娘、豊玉姫と結ばれ3年を過ごす。

そして山幸はふと海幸とのケンカを思い出し、海神に相談すると、海神はいろいろな魚を集めて釣針の行方を問う。そこで鯛の喉に例の釣針が引っかかっていることが判明。山幸は海神から「塩盈珠(しおみつたま)」「塩乾珠(しおふるたま)」という水を自在に操る宝物をもらい、釣針とともに帰還。この道具を使い海幸を懲らしめ、その結果海幸は山幸に服従を誓って物語が終わる。

この神話は南薩に残る神話でも最も中心的、かつローカル性が確実なものだろう。例えば、金峰町の双子池はコノハナサクヤ姫が海幸たち兄弟を産んだところというし、笠沙町の仁王崎は「二王の崎」の意であって、海幸山幸が兄弟ゲンカをしたところという。また枕崎は山幸が”間なし勝間の小舟”に乗って最初に付いた場所といい、枕崎の旧名「鹿篭(かご)」はこれに由来するという。ついでに、指宿には「指宿のたまて箱」の由来でもある竜宮伝説が伝えられているが、竜宮伝説=浦島太郎物語は海幸・山幸の神話の変形なのだろうと考える人もいる。もちろん海幸・山幸の神話は南薩だけに伝えられているものではなく、安曇氏の海神信仰も混淆しているようだが、物語の原型は隼人たちのものだっただろう。

ところで、海幸山幸の話は神話学的には「釣針喪失譚」と呼ばれ、南洋に多く分布しており、特にミクロネシアのパラオ島、インドネシアのケイ諸島、スラウェシ島にはこれと酷似した神話がある。どうも、隼人族はこうした南洋系の人々と近い関係にあったようだ。

ちなみに、前の記事で紹介した「天皇が短命なのは醜いイワナガ姫を拒否したため」という神話も、類似のそれがインドネシアからニューギニアの南洋に分布しており、中でもスラウェシ島のある部族が伝えている神話とは非常に共通点が多い。

このような事実から推測すると、隼人たちは黒潮に乗って南洋から来たか、あるいは南洋の人々と共通の祖先を持つ人々だったのだろう。事実、金峰町の高橋貝塚からは南洋でしか採れないゴホウラという貝の腕輪の半加工品が日本で唯一発見されているし、吹上浜の伝統的な漁具のカタギテゴという魚籠(びく)は日本では南九州にしか存在しないが、東南アジアには広く分布している。

ぼくの鹿児島案内。』の著者、岡本 仁さんは「鹿児島は東南アジアの最北端と言っているが、これは案外的外れではなく、鹿児島は文化的には東南アジアと共通項が多いのである。

それはさておき、神話に話を戻すと、この山幸彦が天皇家の祖先であり、海幸彦が隼人阿多の君の祖先ということになっている。つまり、阿多隼人は天孫から分かれた天皇家の親戚ということになっているのである。記紀神話は各氏族の天皇家との関係を示す寓話という側面があるので、天皇家と親戚ということ自体は特筆大書すべきものではないが、天孫から分かれた子孫という設定は格が高いので、隼人たちの朝廷における重要性を示しているとも考えられる。

ただし、正統派の記紀神話解釈では、この神話は、隼人の祖(海幸)が天皇家(山幸)に服属を誓うということで、隼人族が朝廷に服属すべき由来を説明したものとされている。南薩の神話の中心である海幸・山幸の神話が、朝廷への服属の神話にさせられているというのも、なんとも皮肉なものだ。そもそも、海に生きる海幸彦が、海神を味方につけた山幸彦にやっつけられるという話自体、皮肉な展開なのだけれど。

【参考文献】
『日本神話の源流』1975年、吉田敦彦
『海の古代史 ー東アジア地中海考ー』2002年、千田 稔 編著
『古事記』1963年、倉野憲司 校注

2012年12月11日火曜日

本当は南薩に縁がないかもしれない日本史上初の美人——南薩と神話(3)

コノハナサクヤの銅像
南さつま市金峰町の物産館は「きんぽう木花館」というが、これはニニギの妻となったコノハナサクヤ姫に因む。今回は、このコノハナサクヤに関する神話の話である。

ニニギが笠沙の御崎で出会った「麗しき美人(おとめ)」がカムアタツ姫、又の名をコノハナのサクヤ姫という。古事記ではこれ以前には女性の形容に「美しい」が使われていないということで、コノハナサクヤは神話上での我が国初の美人、ということになっている。ちなみにカムアタツ姫というのは「神阿多都(姫)」と書き、「阿多の姫」という意味である。

ニニギはコノハナサクヤに早速求婚し、父であるオオヤマツミ(大山祇神)によって承認される。だがこの岳父はコノハナだけではなく、その姉イワナガ(石長)姫も添えて二人をニニギの元に送った。しかしイワナガ姫は大変醜かったため、これを厭ったニニギはすぐにイワナガ姫を実家に送り返す。

これを恥じたオオヤマツミが嘆じて言うには、「岩のごとくいつまでも変わらないようにイワナガ姫を、 木花のごとく栄えるようにコノハナサクヤ姫を嫁がせたのに、イワナガ姫を送り返したからには、天孫の子どもたちは木花のようにもろくはかないだろう」と。これは天皇が短命な原因とされ、神話学的にはバナナ型神話の短命起源と分類される。

この神話の背景として、当時は姉妹が同じ男性に嫁ぐ一夫多妻制があった、というまことしやかな解説もあるが、疑問もある。というのも、姉妹が同時に嫁ぐ「姉妹型一夫多妻」というのは、通常は妻方居住、つまり男性が妻の実家に迎え入れられるという風習とセットであり、二人して夫の元に送られるというのは奇妙である。ニニギがたじろいでイワナガ姫を送り返したのも無理はない。

ともあれ、めでたく天孫ニニギは日本史上初の美女コノハナサクヤと結ばれた。そしてコノハナサクヤは一夜にして身籠もり、やがて臨月となる。だがいざ産もうという時に、さすがに一夜の契りでは妊娠しないだろうということでニニギはコノハナサクヤを疑い、「私の子どもではなくて国つ神(地元のやつ)の子どもに違いない」と言う。

ところで、この話の展開を考えると、どうもニニギはコノハナサクヤと一度しか寝ていないようで奇妙だ。別居でもしていたのだろうか。それとも、実際は妻方居住の習慣があったために、イワナガ姫を拒絶したニニギは二度とオオヤマツミの家に入れてもらえなかったのだろうか(※1)。それにしてもニニギというのは、譲られたはずの出雲ではなく日向に来たり、奥さんの姉を見た目重視で拒絶してお義父さんに怒られたり、出産の間際に「俺の子じゃないだろう」などと言ったり、なんだかおっちょこちょいな性格のようである。

ニニギに疑われたことを怒ったコノハナサクヤは、「もし貴方の子どもだったら無事に産まれるでしょう」と言って、大きな家を作り、その中に入って入り口を塞いで火を放った。そして燃えさかる火の中で3柱の神を無事出産して無実の罪を晴らしたのである。この神、美女にしては壮絶な性格だったようだ。ちなみにこういう証明方法を「うけい」という。そしてこの時産まれた3兄弟が、ホデリ、ホスセリ、ホオリであり、このうちホデリ=海幸彦とホオリ=山幸彦が次の神話の主人公になる。

さて、長々とコノハナサクヤの神話を辿ったが、実は通説ではカムアタツ姫とコノハナサクヤ姫は別人で、アタツ姫は阿多の土着の神であるが、コノハナサクヤは宮崎県にいた別の神なんじゃないかと言われている。つまり、カムアタツとコノハナサクヤの話が混じっているらしい。どこからどこまでが宮崎での話なのか、どこが阿多の話なのか今となってはわからない(※2)。

だが、3兄弟出産の伝説は阿多土着のもののようで、これに因む旧跡は南薩に多い。コノハナサクヤが出産したのが加世田の内山田にある竹屋ヶ尾で、ここには3兄弟の臍の緒を切った竹刀に由来する竹林(※3)、彦火火出見(ホオリ)尊誕生碑、竹屋(たかや)神社などがあり(※4)、竹屋ヶ尾自体が昭和15年には「神代聖跡」に指定されている。

だが、これらの旧跡は人気がないのか、あまり注目されることはないし、そもそもアピールもされていない。一方で、本当はあまりゆかりがないのかもしれないコノハナサクヤが「きんぽう木花館」の名前の元になったり、彫刻家の中村晋也氏(「若き薩摩の群像」の方)によりその銅像がつくられたりということで、やはり美人というのはキラーコンテンツなんだなあと思う。

※1 日本書記本文によると、ニニギがコノハナサクヤの方に「幸(め)す」=「行った」ということになっていて、つまり通い婚であったと受け取れる。こちらの方がそれっぽいストーリーである。

※2 宮崎県西都市には、コノハナサクヤを祭る都萬(つま)神社があり、西都原古墳群にはニニギとコノハナサクヤの墓と言われている古墳もある。ついでにオオヤマツミの墓とされる古墳もある。ただ、コノハナサクヤの神話のほとんどは実はカムアタツ姫の神話を元にしたもの、という可能性もあるので、本記事のタイトルに「本当は南薩に縁がないかもしれない」とつけたが、縁がある可能性もあるわけである。

※3 加世田と川辺の堺にある竹山。コノハナサクヤが捨てた竹刀が根付いたのが竹林のいわれというが、一度伐採されており、現在の竹叢は1984年に加世田市によって復活させられたもの。

※4 竹屋神社は今は加世田の宮原にあるが、1161年以前は竹屋ヶ尾にあったらしい。ちなみに、明治以前は鷹屋大明神といったようだ。また、南九州市にも同名で同様の由緒を持つ神社が存在する。

【参考文献】
『古事記』1963年、倉野憲司 校注
『日本書紀 上(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注 

2012年12月4日火曜日

朝日の直刺す国、夕日の日照る国——南薩と神話(2)

南薩は日向(ひむか)神話の舞台となったところだが、日向神話を語る前に、記紀神話(古事記と日本書紀で語られる日本神話)の全体像もわかっていた方がいいかもしれない。

ということで、記紀神話について簡単に紹介する。これは天地ができてから神武天皇が誕生するまでを描いているが、大きく分けると次のような3部構成になっている。

第1部は高天原が舞台。イザナギとイザナミ夫婦が国産みを行い国土が完成、ところが火の神を産む時にイザナミは焼かれて死んだため、イザナギは黄泉の国までイザナミを追いかける。しかしその変わり果てた姿を見て退散。その禊ぎによってアマテラスやスサノオが誕生する。次がアマテラスとスサノオの姉弟ゲンカの話で、ケンカの結果スサノオは高天原から追放、落ちていったところが出雲である。

第2部はその出雲が舞台。高天原は「天界」なのでやや抽象的な話が多いが、出雲神話は地上の話なので具体性とストーリー性が強く、例えばスサノオのヤマタノオロチ退治、因幡の白ウサギなど人気の(?)神話が収録されている。スサノオの娘の旦那であるオオクニヌシの指導の下で国土が発展したのを見て、アマテラス一族はその国を譲ってもらおうと何度か使者を送り交渉した結果、結局オオクニヌシが国を譲ることを決定。

第3部はがらっと場面転換して日向(ひむか)、つまり九州が舞台。出雲を譲ってもらったはずのアマテラスだったが、孫のニニギをなぜか日向に派遣。ニニギは山の神の娘であるコノハナサクヤ姫と結ばれ、海幸彦と山幸彦の兄弟が誕生。山幸は海幸から借りた釣り針をなくしてしまい、海神の宮まで探しに行く。山幸はそこで海神の娘である豊玉姫と結ばれウガヤフキアエズが誕生、さらにその子どもがイワレヒコ=神武天皇であり、ここに記紀神話が終結する。なお、さらに記紀の物語は続くが、一応これ以降は神話ではなく歴史、ということになっている。

では、これからその日向神話について順を追って見てみよう。なお、内容は基本的に『古事記』に沿うが、適宜『日本書紀』を参照する。

アマテラスにより、なぜか日向の地に派遣されたニニギの一行だったが、彼らが降りて来たのが「高千穂のクシフル岳」というところで、(書記によると)さらにそこから「吾田の長屋の笠狭の碕」へ到達したという。この「阿田」が阿多のことで、「長屋」は加世田と大浦の境界である長屋山あたりといい、「笠狭の碕」(古事記では「笠沙の御崎」)が笠沙の野間半島だというわけだ。

このように、南さつま市の笠沙は天孫ニニギが初めてその居を構えたという記念すべき土地なのである。確かに、雄渾で荒々しい絶景が広がる笠沙は、我が国の黎明を飾るにふさわしい。

しかし、実はこの笠沙という地名はごく最近つけられたもので、古くからの地名ではない。大正時代までは現在の笠沙町と大浦町を合わせた地域は「西加世田村」と呼ばれており、大正12年にこれが「笠砂村」と改称、昭和15年に「笠沙町」となった経緯がある。笠砂村と改称したのは、「加世田村」「東加世田村」もあって紛らわしいということと自治意識を高めるのが目的だったらしく、古事記に因んで「笠砂」と名付けたらしい。つまり、今の笠沙町一帯が元から笠沙と呼ばれていたのではないのである。

ではデタラメでつけた名前かというとそうでもなく、江戸末期(1843年)に編纂された『三国名勝図絵』では、野間半島は「笠砂御崎」と記載されており、野間岳は昔「笠砂嶽」と呼ばれていたとされている。さらに遡る1795年に編まれた『麑藩名勝考』でも加世田は「笠狭之崎」であり、加世田は笠狭に田をつけたものとし、要は加世田という地名は笠沙が訛ったものだと推測されている(※1)。ともかく、「笠沙の御崎」が南薩にあったという主張はかなり古いのである。

また、南薩のこのあたりは神代の伝説やそれを祭る神社が多いのは事実で、阿多として栄えた古代に加世田一帯が笠沙という地名であったとしてもおかしくはないようだ。ただ、直接の証拠はないのに、『三国名勝図絵』ではあまりに自信満々に「笠沙の御崎」が現在の笠沙と同地であるという主張をしていて、客観性が足りないようにも見える。当時から「笠沙の御崎」は宮崎にあるという主張もあったが、同書ではこれを「無稽の妄説なり、詳に辨ぜずして明なり」と一蹴し、薩摩ナショナリズムを全開にしている(※2)。

それはさておき神話の方に戻ると、笠沙に到着したニニギは「ここは朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照(ほで)る国」だから、ここはとてもよい所だ、と言った。このフレーズはとても素敵で、普通いい国というのは農業・経済が盛んで地力があるところだと思うのだが、景色がいいからよい所だ、というのはなんともロマンチックだ。もともとアマテラスは、オオクニヌシが治めていた「豊葦原の水穂の国」という豊穣な国を譲ってもらいたかったわけだが、ニニギは朝日と夕日が美しいと喜んでいるのだから結構呑気な神である。

また「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」というのは、笠沙の実態とも合致する。朝日の方は見たことはないが、東シナ海に沈む笠沙の夕日はとても美しい。まあこれは日本海側の多くの地域が該当するとは思うが。それから、「豊葦原の水穂の国」という美称と比べると、「褒めるのが風景しかなかったのかなあ」という気もしなくはないが(※3)、ロマンチックな言葉なので観光のPRにも使えると思う。

ちなみに、「笠沙の御崎」の位置については、北九州だという説もある。しかし、神話はそれ自体本当にあったことかどうかわからないわけで、どこかに確定できるものではないのは当然だし、いろいろ書いたが私としては別にどこでもいい。それより、「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」みたいな素敵な言葉が神話の中だけに埋もれているのがもったいないと感じる次第である。

※1 この推測は『三国名勝図絵』で再説されているが、両書には微妙な違いがある。『麑藩名勝考』では加世田=笠沙ということで、「笠沙の御崎」が野間半島だとは限定していおらず、また推測として書いているのに対し、『三国…』の方になると野間半島のことを「笠砂御崎」と断定している。

※2 『三国名勝図絵』では、4ページ半に渡って「笠沙の御崎」=笠沙説を展開しているのだが、特に論証があるでもなく、「〜に違いない」式の記載が続く。一方で宮崎説についてはその内容を紹介せずに「辨ぜずして明」というのだから強気なものである。

※3 当時の信仰はアマテラス=太陽神を中心にした太陽信仰が濃厚なので、朝日夕日云々というのは、ただ景色がいいということではなくて、太陽祭祀に関係があるらしい。天孫降臨の地が出雲でなくて日向なのも、「日に向かう」ということと関係があるのかもしれない。でも神話というのは深読みするとキリがないので、素人はあまり深く考えない方がいいと思う。

【参考文献】
『古事記』1963年、倉野憲司 校注
『日本書紀 上(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注
『三国名勝図絵(第二七巻)』(復刻版)1982年、五代秀尭、橋口兼柄 編(青潮社版)
『麑藩名勝考(第一巻)』1795年、白尾国柱著
『笠沙町郷土誌(中巻)』1986年、笠沙町郷土誌編さん委員会

【アップデート】2012.12.5
『加世田再選史』についての記載を載せていたが、改めて調べてみると『三国名勝図絵』の方が古い資料だし、そもそも『麑藩名勝考』の方がもっと古かったのでこっちを参照することにした。また参考文献に『笠沙町郷土誌』を追加。

2012年12月1日土曜日

阿多という地名——南薩と神話(1)

古事記編纂1300年の今年も残り僅かとなってきたので、この機会に神話における南薩について思うところを数回書いてみたい。

さて、南さつま市の金峰町に、阿多という地名がある。

実はこの阿多という地名は、神話的古代に遡る来歴を持つ。阿多は今では狭い地域となっているが、古代には万之瀬川流域を中心とした薩摩半島西南部は広く阿多と呼ばれた。今で言う、南さつま市全体と日置市吹上町を合わせたところを阿多と言ったらしい。

金峰町は以前から「神話のふるさと」を自称してきたが、事実この「阿多」は古事記・日本書紀の記紀神話において重要な位置を占めている。具体的には、天孫ニニギが降臨し山の神の娘であるコノハナサクヤ姫と結ばれるのが阿多の笠沙であり(※1)、その他にも阿多に関する多くの記載が記紀にはある。

どうも、大和政権というのは、天皇家一族と出雲の勢力、そして阿多を中心とする隼人勢力の連立政権だったようで(※2)、そのために阿多の神話が記紀に多く取り入れられているようである。ちなみに、そのころ「薩摩」という地名はメジャーではなく、記紀には薩摩隼人は登場しないが、「阿多隼人」と「大隅隼人」というのが対置されて登場する。

例えば、日本書紀には、阿多隼人と大隅隼人が天覧相撲をして大隅隼人が勝った、という記述がある(※3)。これは史書における相撲の最初の記述であり、相撲の起源の一つは南九州にあるのである。今でも鹿児島では神事としての相撲がとても盛んで、夏祭りでは綱引きと相撲がよく行われるし、金峰町の錫山相撲などは350年以上の歴史がある。

この阿多隼人と大隅隼人は、おそらくは天皇一族との連立政権を組むため(※4)、古代に畿内へ大量移住しており、今でも畿内には鹿児島に因む地名がある。例えば、奈良県五條市の阿陀(あだ)は阿多に起源を持つと言い、京都府京田辺市の大住(おおすみ)では大住隼人舞という芸能も行われている(近年復活させたもの)。

畿内隼人は律令制の中で「隼人司(はやとのつかさ)」という機関に所属せられ、歌舞などの芸能や竹製品の製造を担当した。また、天皇一族の護衛(近習隼人)や御陵の警護、そして(もがり)の儀礼にも参加させられたという。これらは隼人の持つ呪能を期待したものだったらしい。どうやら、古代において隼人というのは、神秘的な力を持つ民族と捉えられていたようだ。

このように大和朝廷において重要な働きをしたらしい隼人だが、大和朝廷が氏族支配の体制から律令制(法治国家)に移行するにつれ利害が対立し、702年、713年、720年に朝廷への反乱を起こす(隼人の乱)。ちなみに最後の反乱で朝廷から派遣された将軍が、歌人として著名な大伴旅人である。旅人によりこの反乱は鎮圧され、以後隼人は不遇の時代を迎えることとなる。2回目の反乱の後には、6年に1度の朝貢も求められている(六年一替の制)。これは江戸時代の参勤交代制度に似ているが、定期的な朝貢を求められたのは全国でも隼人しかいないのである。

この他にも、阿多隼人の記事は『古事記』や『日本書紀』に散見される。そして『続日本紀』(797年成立)くらいまではかなりの存在感がある阿多隼人だが、続く『万葉集』になると、阿多という地名は全く出てこないし、「隼人」という言葉も半ば思い出の中に表現されるだけである。 どうもこれは、阿多隼人の場合、中心勢力が畿内に移住してしまったために、地元の政治的重要性が低下していったということもあるようだ。

こうして、神話的古代に栄えた阿多は、阿多郡→阿多郷→阿多村とどんどんその領域を縮小していき、今では金峰町の一地名として残っているだけである。寂しいとも言えるが、古代から引き継がれた地名が交差点の名称として普通に使われているのは面白い。地元でも特段アピールされないけれど、阿多という地名は、鹿児島にとっての記紀神話への入り口なのである。

※1 「この「阿多」は鹿児島の阿多ではなくて、宮崎県の吾田(あがた)だ!」 とする主張もある。宮崎県は、神話の舞台が鹿児島ではなく宮崎にあったとする主張を頑張っていて、これはまた機会があったら書きたいが理由のないことではない。延岡市には笠沙の御崎もある。神話の本拠地の競争をするのではなく、姉妹都市になったら面白いと思う。

※2 「隼人は天皇家に服属させられた民族」というのが従来の常識だったが、最近こういう考え方になりつつある。

※3 『日本書紀』天武天皇11年の条。

※4 これは(※2)と関連するが、従来は天皇家への服属のため強制移住させられたと考えられていた。しかし江戸時代の外様大名のように敵対勢力は遠ざける方が合理的であることを考えると、この移住は自主的なものであったと考えた方がよい、ということになりつつある。

【参考文献】
『熊襲と隼人』1978年、井上辰雄
『隼人の古代史』2001年、中村明蔵