私の住む南さつま市大浦町は、人口1600人の過疎の町である。
1600人というと、町というよりは村かもしれない。(合併後は、南さつま市の大字(おおあざ)として「大浦町」が設定されているのでそもそも自治体ではないが。)
大浦町の人口減少は甚だしく、平成17年(2005)に2678人だった人口が、15年後の令和2年(2020)には1674人にまで減ってしまった。その減少率は37%。そして令和5年(2023)3月末時点で人口がちょうど1600人になった。
当然に子どもの数は少なく、うちの集落では、我が子が最後の小学生になる見込みである。
このまま大浦町は消滅する運命なのだろうか?
遠くない将来、そうなるのかもしれない。しかし、ここに一つだけ明るいデータがある。
ここに掲載したのは、2020年の国勢調査データから作成した大浦町の人口ピラミッドだ。65~70歳くらいにピークがあり、かなり高齢化した様子がうかがえるが、実は子どもの数は、若い女性の数に比べてそんなに少なくはない。というより、結構多い。
実際、うちの子の同級生には、4人きょうだいが珍しくない。例えば、小5の娘の同級生はたった7人しかいないが、そのうち4人きょうだいなのが2人もいる(ちなみに3人きょうだいも2人)。「過疎の町」というイメージからは意外だろうが、大浦町はそれぞれの女性に注目すれば、たくさんの子どもが生まれる町なのである(ただその母数となる女性の数が少ないので、出生数は少ない)。
とはいっても印象だけで語るのは少し危ういので、ちょっとデータを出してみる。
これは、先ほどと同じく2020年の国勢調査から日本の人口ピラミッドを作成し、比較のために大浦町の人口ピラミッドと並べたものである。
左(日本全体)の横軸1目盛りは10万人、右(大浦町)の横軸1目盛りは1人である。
これを見てみると、日本全体では40歳以下の世代は減り続けているが、大浦町では10~14歳に小さいながらもピークがあり、単調な減少ではないことがわかる。
15~19歳でいきなりガクンと減るのはなぜかというと、大浦町には自宅から通える場所に大学や専門学校がなく、進学のためには必ず町外に出るからである。ついでに言うと就職もほとんどが町外になる。
さらに、数値でも比べてみよう。本当は大浦町の合計特殊出生率を算出できればよいが、合計特殊出生率の算出にはややこしい計算が必要なので、ざっくりとした数字を出してみたい。
具体的には、「20~49歳の女性の数」を、「0~14歳の子どもの数」で割ることとする。大浦町の場合は、「20~49歳の女性の数」が140人、そして「0~14歳の子どもの数」が123人なので、この値は0.88になる。子どもを産む年代の女性一人につき、0.88人の子どもが誕生している、ということだ。仮にこの値を「出生率もどき」と呼ぶことにする。
同様に日本全体で「出生率もどき」を求めてみると、0.70になる。ちなみに、これは合計特殊出生率1.33(2020年度)よりずいぶん低いように見えるが、合計特殊出生率とは、女性が15~49歳の間に産む子どもの合計数であるため、これから生まれる子どもを計算に入れなくてはならないからだ(なお「出生率もどき」に1.91を掛けると合計特殊出生率を近似的に計算できる)。
さて、「出生率もどき」で比べてみると、大浦町は日本の平均よりもずっと子どもが生まれている町だということになる。次に、どのくらいこの数値が高いのかを理解するため、都道府県別にこの数値を出し、ランキングにしてみた。
最高は沖縄県の0.93で、鹿児島県は2位の0.86。大浦町の0.88はこの間に位置し、全国的に見てかなり高い。最低は東京都の0.54。東京は大浦町よりもずっと子どもが生まれない街である。
ここまでデータがあれば、「大浦町は過疎で高齢化しているが、子だくさんの町でもある」ということは言い切ってよいだろう。
では、どうして大浦町は子だくさんの町なのだろうか。
ここからの考察はデータに基づいたものではないが、4点それらしき理由が挙げられる。
第1に、結婚の年齢が早いことである。これは大浦町だけでなく、鹿児島の田舎に共通して言える。私が22歳で大学を卒業した時、小中学校の同級生(男)はすでに2回結婚して2回離婚していた。しかもそれぞれのパートナーとの間に子どもがあった。田舎では人生がずいぶん早く進む。
それは、大学進学率が低いことが影響している。特に鹿児島は女性の大学進学率が全国最低レベルに低い。要は大学に行かないから結婚が早い。また、田舎の場合はアウトドアとパチンコ以外の娯楽はあまりなく、男女の営みくらいしかやることがないという事情もありそうである(極論)。
第2に、大学進学率が低いために子どもの教育費を心配しなくてもよく、多産になる傾向があるということである。例えば4人きょうだいで全員が大学進学するとすれば、国公立大学のみであったとしてもその学費は総額1000万円を軽く超える。こうなるとなかなか多産はできないというのが一般的だ。
大浦町でも、子どもが大学に行きたいといえば行かせるのが普通だし、行くとなれば絶対に自宅からは通えないので、都会に住んでいる人よりも学費・生活費は高くつく。それでも、「子どもを全員大学まで行かせられるかどうか心配だ」との声はあまり聞かない。これは「大学は全員行くものではない」という楽観(?)に支えられていると思う。
第3に、単純に家が広いということがある。といっても、大浦町はあまり経済的に豊かな地域ではなく、立派で大きな家はむしろ少ない。しかし土地は本当に安い。家を新築するときは、土地の値段はほとんど無視できる。だからすごく大きな家が多いわけではないが、都会に比べたら家はゆったりしている。つまり多産するのに住居が制約になりにくい。
第4に、これが一番大きいが、実家・義実家が近くにあり、子育ての手助けを得やすいということである。大浦町の住民は、ほとんどが元からの地元民である。だから実家・義実家が近い。しかも、これは南薩地区の特徴なのかもしれないが、両親同居の割合が低い。
というのは、このあたりでは伝統的に、子どもが結婚すると老夫婦は三畳一間ほどの「隠居小屋」を建てて敷地内別居していた。今では「隠居小屋」の風習は廃れたが親子別居の慣習は残り、核家族化したのである。
結果的に、大浦町では若い夫婦は実家の近くに別に住んでいるのが普通になった。これは二世帯同居よりも子作りの面では有利であるし、何やかやと実家・義実家の手伝いを得られるという、子育てには最高の環境である。習い事の送り迎えや、学校のない日の昼食(特に夏休み中)など、実家・義実家に頼れることはすごく助かる。逆に、例えば4人きょうだいでそれぞれに習い事があるような場合は、実家・義実家の送迎能力なしでは立ちゆかない。
以上4点が、私が考える大浦町が子だくさんな理由である。
それから、念のために付言するが、大浦町では女性への子どもを産むプレッシャーが大きいということは、(私の見るかぎりでは)ないと思う。大浦町はド田舎で遅れた地域であることは確かだ。だから「ここは男尊女卑で、女性の人権は無視されてて、子どもを産むのがプレッシャーだから多産なのだろう」と考える人もいるかもしれない。
しかし大浦町が九州の平均くらいに男尊女卑であることは否定しないが、ひどく男尊女卑であるとは思わない。むしろ男女が対等である場面も、都市部よりも多いくらいだ。それは大浦町が純農村地帯であり、高度経済成長期を含めずっと貧しかったからで、ここでは「サラリーマンの夫と専業主婦の妻」という図式がついに一般的にならなかった。共に働くことが当たり前で、妻が夫に経済的に従属していなかったから、ひどい男尊女卑にならなかったのだと思われる。
さて、上述の4つの理由を眺めてみると、第3の「家が広い」は別として、残りは全ていわゆる「遅れた社会」の特徴を形成しているものばかりだと気付く。結婚の早さ、大学進学率の低さ、人の移動の少なさ(実家と近い)といったものだ。そもそも「遅れた社会」は、大抵は高い出生率を伴っていた。だから「遅れた社会」の特徴を色濃く残した大浦町が、子だくさんなのは当たり前なのかもしれない。
ところで、今、岸田政権は「異次元の少子化対策」を行うこととしているらしい。それはいいことだが、大浦町の子だくさん事情を踏まえれば、この話題について財政支出だけが議論の焦点になっているのはちょっと不安だ。
もちろん、子育て支援には大規模な財政支出が必要だ。なぜなら、原子的個人に分断された「近代社会」においては、地域の相互互助や実家等からの手伝いなどは得られない以上、お金しか頼るものがないからである。
しかし、過疎地の大浦町が子だくさんの地域でもありえるのは、お金の問題ではないことは縷々説明したとおりである。それにお金が少子化を解決するなら、全国で一番平均所得が高い東京は一番子だくさんでなければならないが、現実には東京が一番出生率が低いのである。少子化対策には財政支出も必要であるが、社会の仕組みまで含めていろいろ変えて行かなくてはならない。
例えば、大浦町の事情から導き出されることだけでも、(1)学歴を諦めなくても早く結婚出来、(2)結婚・出産がキャリア形成に影響しないようにすることや、(3)高等教育の低額化や給付型奨学金の拡充、ついでに(4)子育て世代への住宅事情の改善などが考えられる。
逆説的だが、「遅れた社会」である大浦町から見ることで、かえって改善すべきことが明確になる気がするのだ。
それというのも、かつて日本中のどこにでもあった「遅れた社会」は、実は人間が生きていくのにちょうどよい間尺にデザインされたものだったからだ。もちろんその社会に生きていた全ての人が幸せだったとは思わない。自分の希望した生き方ができなかったり、差別があったり、貧困に苦しんだりした人は多かった。「遅れた社会」のままでよかった、とは思わない。だがその社会では、子どもを5人も6人も育てるような、今から考えると大変なことを、なんでもないことであるかのように普通にこなしていたのである。
一方、「進んだ社会」は、人間が生きていくためにデザインされたものではなかった。例えば「転勤族」というライフスタイルは、生活に相当犠牲が出るものだ。ギュウギュウに詰め込まれた満員電車に乗って通勤することだけでも、負担は大きい。どんな「お客様」にもマニュアル通りに笑顔で接客しなければならないことは、ほとんど非人間的だと私は思う。それが「働く」の当たり前だとしたら、それがおかしいのだ。生きるためではなくて、働くため、もっといえば「労働者を働かせる」ためにデザインされたのが、「進んだ社会」の一側面だったのではないか。
私は、高学歴化とか、女性の社会進出の進展、価値観の多様化、人の流動性の向上、ジェンダー平等といった「進んだ社会」のあり方は、基本的によいものだと思っている。そして、これは子どもを産んだり子育てしたりする上でもよいもののはずだ。出生率にはマイナスの影響を及ぼす「女性の社会進出の進展」だって、ある程度女性が働くのが当たり前になるとむしろ出生率がプラスに転じることは世界の国々が立証している。
それでも、日本以外の多くの先進国でも少子化が問題になっているのだから、「進んだ社会」は少子化を宿命づけられているのかもしれない。人を働かせることばかりに熱心で、人が生きることには冷淡なのが「進んだ社会」だとしたら、そうだろう。
だから少子化対策は、「進んだ社会」を「より進んだ社会」に変えていくことでなければならない。人々が、社会の駒としてではなく、自然体で、自分の幸福のために生きていくことができる社会にすることが、真の少子化対策になると私は信じる。
「異次元の少子化対策」が、まさか大浦町のような「遅れた社会」に逆戻りさせるということではないのを祈っている。
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