2019年12月6日金曜日

大浦干拓という大事業——大浦町の人口減少(その2)

(「大浦町とコルビュジェの理想の農村 」からのつづき)

大浦町は、干拓の町である。

国道226号線を加世田から走ってくると、越路浜を過ぎて田園の中を突っ切る真っ直ぐな道路になり、そこの何もない交差点を南に曲がるとこれまた1.6kmもの一直線の道になる。両側は真っ平らの田んぼ。これが大浦町に入る道である。

私にとって大浦町の第一印象は、この、どこまでもまっすぐな、滑走路のような道だった。

大浦にはかつて、勾配1000分の1とも1500分の1ともいう遠浅の干潟「大浦潟」が広がっていた。1メートル下がるのに、1.5kmも進まないといけないという低勾配である。大浦の山間部にはそれほど広い耕地はないから、ここを干拓して広い畑や田んぼに変えれば、非常に生産力をアップすることができる。

そんなことから、藩政時代から大浦潟は干拓事業の対象となり、小さな入り江を利用した10町歩(10ha)程度の干拓事業が散発的に行われていた。そして昭和15年、日中戦争による食糧難の中、遂にこの広大な湾内の潟を全て田んぼに変えてしまおうという大事業が立案される。

当時、国は食糧増産のため「農地開発営団」を設置して農地の開拓を進めようとしていた。大浦干拓の事業はこの機運に乗り、農林省に直談判して国の事業として認められる。そして昭和18年、農地開発営団の事業として大浦潟の干拓が起工された。

「国の事業」といっても、太平洋戦争がたけなわになった頃であり、国の予算も潤沢ではなかった。大規模な干拓事業にはたくさんのガソリンが必要になるので農林省としては難色を示し、計画が承認された直後に早くも頓挫しかけたほどだ。しかし当時の唐仁原町長は「私の処はガソリンは要りません。荷車で現場まで運びます」と主張し応諾させたのだった。

ところが戦時中は地元の若い人間は戦争に徴発されて不在が多かったため、結局、青壮年団、青年学校、婦人会、果ては小学生までが奉仕作業に動員されることとなった。

終戦後、農地開発営団は廃止されたが、大浦干拓は農林省直営事業に移管されて続けられた。とはいうものの終戦後のモノも金もない時代、かなりの苦労があった模様である。物資と燃料の不足に悩まされ、作りかけの潮留め(堤防)はたびたび台風で破壊された。モッコを担いで土を運んだ、というような話を私自身も聞いた事がある。集落ごとに「特別労務班」が編成されて仕事にあたったという。

こうして昭和22年、大浦干拓第一工区の潮留めが完成。これが冒頭に触れた滑走路のような直線道路があるところ、概ね国道226号線の南側の地区である(正確には現在「恋島コンクリート」があるところより南側の区域)。潮留めが完成してからは、砂浜だったところを畑にしていく困難が待っていた。最初のうちは作物がうまく育たず、干拓地ができてからも苦労は続いたのである。

さらに昭和25年からは、その北側にあたる大浦干拓第二工区が起工し、昭和34年に完成。こうして第一工区174.5ha、第二工区161.8ha、合計336haもの大干拓が完成したのである(その後干拓地内の田畑の造成工事が行われ、完工したのは昭和40年)。

鹿児島県内で干拓というと出水干拓が有名で、昭和22年から40年という大浦干拓とほぼ同時期に同じく農林省直轄事業として造成されているが、西工区(90ha)、東工区(230ha)合わせて約320haであり、大浦干拓の規模には僅かに及ばない。出水干拓は江戸時代から行われた干拓地の集成であるため全体では1500haにもなるが、一事業としては大浦干拓の336haは鹿児島県では最大の干拓事業だった。

この大干拓の完成によって、大浦は「乳と蜜の流れる地」になるはずだった。戦前戦後の厳しい時代、奉仕作業でモッコを担いで土を運んだ人達も、「子どもたちには美味しいお米をお腹いっぱい食べさせたい」という一念だったという。そういう作業の合間に歌われたのに「大浦干拓の唄」(関 信義作詞)がある。その4番の歌詞はこういうものだ。

広い砂浜 大浦潟の
 工事 竣功(おわり)の暁にゃ
黄金(こがね)花咲く 五穀が稔る
 大浦干拓 平和の源泉(もと)よ

戦前までの大浦は、「走り新茶」という特産品はあったものの耕地が狭いため農業の規模が小さく、また人口が多かったので貧困に苦しんでいた。人々は、大浦の将来の発展を干拓に託したのだった。

それは、成功したように見えた。広大な干拓地には、次々と地元の人間が入植した。それまでは3反(30a)あれば平均的な農家だったのに、干拓地ではその規模が10倍にもなった。大浦の山間部では田んぼ1枚は5aもないところが多かったが、干拓では田んぼ1枚が1ha(=100a)あった。

アメリカやヨーロッパのような、大規模農業が大浦で取り組まれた。こうした広い面積を相手にするには、どうしても機械化が必要である。牛で耕しているわけにはいかない。人々は耕耘機を使うようになった。今では1haもある田んぼを(トラクターではなく)耕耘機で耕すのは気が遠くなるが、当時としては画期的だった。

まさに今、農水省が進めている「大規模化・省力化」の農業が、50年も前にこの大浦町で先進的に行われるようになったのである。

近隣の町の農家は、広大な大浦干拓を羨ましく見ていた。山間の狭小な田んぼを牛で耕すのとは効率が全く違ったからだ。一直線の道と整然と区画された田んぼは、コルビュジェが考えていたような合理的な町と村、そして新しい時代の理想の農業を象徴していた。

だが大浦干拓が完成したその時、既に大浦の人口減少は始まっており、その後も歯止めはきかなかった。もちろんその後の人口減少には高度経済成長という背景もあった。農業よりも製造業が花形産業になっていったからだ。でもそれは県内の他の農村でも同じだった。

だから理想の農村となったはずの大浦町が、鹿児島県内1位の高齢化自治体になっていったのは奇異とせざるを得ない。

発展が約束された土地を、なぜ人々は離れていったのか。

(つづく)

【参考文献】
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

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